FILE 149

【 操評判記総覧 (太夫の部) 】

(2022.05.27)
提供者:ね太郎
 
PDF
 操評判記総覧のうちの 太夫の部 を掲載した。
 本書は祐田善雄「浄るりの系譜」(文学37(1)pp.25-36, 1969.1)に参考文献としてあげられている。
 倉田喜弘「浄瑠璃史上の野沢喜八郎」(文学52(1)pp. 66-76,1984.1)のp73に以下の記述がある
 「孔版で『操評刊記総覧』を作成したのは、昭和三十三年であった。」

操評判記総覧
昭和三十三年六月
大阪中央放送局音楽課作成
 
一、この索引はNHKの義太夫放送の資料として作成したものである。
一、使用した評判記は、主として祐田善雄氏所蔵の筆写本によった。
  しかし、読み違い等によって生じた誤謬が少なからず見られるから、取扱いには注意が必要である。
 【このファイルでは、浄瑠璃評判記集成、日本庶民文化史料集成の翻刻により補訂し、末尾にmを付した。】
一、検索項目欄は太夫・三味線弾・人形遣の三部に区分した。【本ファイルは太夫の部のみ】
  そして、姓は( )内に収め、名を五十音順に整理した。
一、内容記事は次のように区分した。
  第一段 評判記の番号(発行年月の西暦年を下三桁で表す事を原則としたが、二冊以上発行されている年は月を明記して区分した)
  第二段 その人物の属している座名
  第三段 格付 【通用の文字で翻字したので、詳細は原本を参照してください】
  第四段 見立などによる評言
  第五段 細評のまとめ並に人名の相違
  なお「近世邦楽年表」によったものは(邦)、「浄瑠璃大系図」は(系)と略記し、別に( )内に注記をした。
一、「評判難有矣」に記された東次座、新太夫座は、便宜上、前者を肥前座、後者を外記座と改めて記入した。
一、使用した評判記の種類、並にその内容は次頁の通りである。
番号書名刊行年月太夫三味線人形見立細評
727今昔操年代記1727年(享保12)孟春1919   
746猿口轡1746年(延享3)3月7939933
747・2浪花其末葉1747年(延享4)2月4624913扇子、筆
747・3操曲浪花芦1747年(延享4)3月86251348 
747・0波のうねり鼎噂1747年(延享4)末カ(?)61301417 ×
756竹豊故事1756年(宝暦6)9月85251446古今之序×
757操西東見台1757年(宝暦7)仲夏432518 名所
758女大名東西評林1758年(宝暦8)2月54211221能外題
759倒冠雑誌1759年(宝暦9)7月66  ×
761竹の春1761年(宝暦11)初秋1035845 箱、桶、橋、名物、町×
762新評判蛙声【歌】1762年(宝暦12)正月945836 食物×
763評判花相撲1763年(宝暦13)初秋985741 草花×
764評判角芽芦1764年(宝暦14)3月1126745 玉、竹×
765評判登利合1765年(明和2)3月1056342 ×
766評判三国志1766年(明和3)梅見月966333 古銭×
777難有矣1777年(安永6)3月1818  百人一首
781・3評判鶯宿梅1781年(安永10)弥生     
781・9闇の礫1781年(天明元)9月99392535採外題
782江戸版浄瑠璃秘伝抄 【抜書】1782年(天明2)正月22  ×
806音曲高名集1806年(文化3)79521314×
 
 
  一段二段三段四段五段
浅太夫(北本)764北本上上士しきりになりわたるあられの玉 
浅太夫(竹本)761土佐上上世間の人が取々ほめる永久橋 
浅太夫(豊竹)765 上上目出度おんせい住吉米 
  781・3外記  
浅太夫(豊竹)781・9   
阿曽太夫(豊竹)1754年(宝暦四)十二月江戸へ下ル [邦]
  761江戸上上士和らかくしなよくきこゆる柳橋 
阿波太夫(竹本)766江戸段々出世有べし宣和けんほう 
家太夫(竹本)1754年(宝暦四)十月出座(邦、系)
  756竹本 対楊 
  761京都上上士何でも面白く相王寺の納豆 
  762   
  763上上士そまつに人の思はぬ蓮の花 
  764うまい事に仕上る薬子の玉m 
  766上上士きどりの名人至大通宝 
  1767年(明和四)以降二世竹本錦太夫ニナル(系)
家太夫(竹本)761外記上上手づよい道具多い弁慶橋 
  762江戸上〃すききらいの有ってうまい鮫汁 
  763上上よらずさわらず野菊の花m 
  764土佐上ト思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
  766江戸段々出世有べし宣和けんほう 
  782  天明元年十二月二十日より葺屋町操座芝居を普請して、土佐少掾橘正勝座元家太夫の庵看板を出す。同二年二月上旬初日
伊織太夫(豊竹)727   道頓堀の料理屋、よしのや喜右ヱ門、声よく、ふし事、道行のツレよし。山本京四郎と同じ
伊加太夫(豊竹)746辰松評判ハ海共川共付ぬ沖のちどり 
伊久太夫(竹本)762江戸上上そへに鰺を付て舌を団扇なわひm 
  763とゞこほりなくとをるかいどうの花 
  764土佐年明て若やぐあら玉 
  765江戸うきやかなる声は小諸米 
  777外記上上士道念坊は此人にきつとうつりにけりなm竹伊勢寿楽門人
生駒太夫(竹本)1763年(宝暦十三)四月出座[邦]
  763 上上仙人もつうを得たりや冬瓜の花 
  764京都やわらぎて心よいぶよ玉 
  765四条南 歌舞伎出勤[扇谷生駒太夫]
  766江戸上上よく見おぼへてゐる洪武通宝 
伊佐太夫(豊竹)761肥前上上巧者な語りぶしはしほらしい親仁橋 
  762江戸上上十ほっそりとさよりの姿は柳の糸むすび 
  763上上口中さく〳〵とした梨子の花 
  764肥前やさしく聞へる女中の文玉 
伊関太夫(竹本)763江戸世にはびこりて目出度稲の花 
  764土佐思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
伊勢太夫(豊竹)1749年(延享二)十一月初出座[邦]
  747・2豊竹上上士やがて難波の指折に一ツか二ツ三ツ扇子[豊竹伊世太夫] 声よく、ふし等も利口に取廻りよし。あちこち出勤の後、豊竹座へ
  747・3 上上士此人の声を富の札といふ、心は二より一がよいといふ鮓屋清左ヱ門という。三升大五郎と同じ
  747・0 上上吉声はあすか川、とはせが世になった。節は四匁二分、なぜもちっとたらぬm[豊竹伊世太夫m]
  (コノ間 豊竹新太夫参照)
  758 上品ノ上声花にはあらねど桜に劣らぬ秋の紅葉狩十四年前丑の冬より東の座出勤、五年間大役を勤め、巳年(1749)冬より江戸の豊竹座へ。病気のため帰阪し新太夫と改名。戌(1754)の冬より帰り新参、去る冬より旧名に立帰る((邦)ニハ1757年十二月改名)
  761江戸上上吉貴せんともにひいきのつのる永代橋[竹本伊勢太夫] 座元
  762突当てた鯨も御名の御馬なりm[竹本伊勢太夫] 座元
  763末の賑かなもの孔雀の尾花[竹本伊勢太夫] 座元
  764しあふせを悦ばすくい玉[竹本伊勢太夫] 座元
  765上上吉一しきりきつい当りを取った古河米[竹本伊勢太夫] m
  1761年(宝暦十一)、豊竹肥前掾ハ豊竹伊勢太夫ヘ肥前ノ名目ヲ譲リ、自ラハ隠居シテ宮内ト改メシガ、伊勢太夫病身ニ付、名目ヲ辞シテ大阪ヘ登ル(鴬宿梅)
伊勢太夫(竹本)777肥前上上士山岡のどすは山おろしはげしいかたり口m左内町の清左ヱ門で、三代目伊勢太夫。ひねくる様で聞にくいm
伊勢太夫(豊竹)766豊竹   
  781・3外記上上士代物は小さけれどめき〳〵としあげたおまん鮓 
磯太夫(竹本)1763年(宝暦十三)四月初出座 [邦]
  763 上上ぢんしやうなけしき茄子の花m 
  竹本彌太夫ニナル [邦]
磯太夫(豊竹)781・9 上上十御出世を今や〳〵と松浦簦南の「天神記」好評、のち退座。此頃はいなり出勤で「橋供養」結構な声
伊太夫(竹本)746辰松上上吉いつでもあたりハてひどいてつぽう鳥浄瑠璃のこなし、操の工合、程拍子に拍子声あって達者なり。しかし声糸にうつらざる所有って嫌味あり。その上野卑なり。従って位有る事おもはしからず。東の座「伊藤伝記」より出勤。肥前掾新芝居興行の時江戸に下り「小栗」三段目大当り。「三庄太夫」四ノ切、「山姥」出語り、「山崎与次兵へ」中ノ巻好評。
  806   歴々なれども末世に遺りたる戯題しれずm
伊太夫(竹本)765江戸上ト声かゝる様にとひいきを松代米 
市之亟 765江戸不出座本 
伊豆太夫(竹本)746上上士お年だけでおもしろふくぜるほじろmぬし忠とて名高し、西風の人。先年辰松へ下り、「刈萱」にて阿波太夫節大当り「愛護若」「河内通」「後三年」「十三鐘」等、古風にて堅し。去々年、辰松座で「五雁金」
  747・2陸竹音曲の行儀くづれぬ中啓扇子[陸竹伊豆太夫] ぬしや彦兵ヱという。中音にて声柄よく、ふし細かにして道行景事によいが、声に揚が不足。古風で律気な浄瑠璃、達者で、ウレイ修羅にも実を入れて突込んで語る
  747・3上上士此人の浄るり、上手の将碁といふ、心は、つめがよいといふ[陸竹伊豆太夫]ふし付よく語り口おとなし、中村富十郎と同じ
  747・0上上吉声はきやらのすりこ木、とはへらねばよいが、節は文弥女郎、なぜ余りにくひ物でもなしm[陸竹伊豆太夫]
伊豆太夫(豊竹)1754年(宝暦四)十二月出座(邦・系)
  756豊竹 功術 
  757上上吉聞くからどうでも甘味の有る松の色は変らぬ住吉「前九年」の評あり
  758 中品ノ上開語の分ちよい故か 木戸まで声がよう融五年前の戌の冬初出勤
  761外記上上士いつでも聞事かわらぬ色の常盤橋 
  764 上上吉けしきをよく見せる露の玉[北本伊豆太夫]
  766豊竹   
井筒太夫(豊竹)746若松上上人のまねをよくなさるゝあふむ語り出した所は火縄くさい。器用はだ故物真似を能くするが、非力故たよはく立消えがする。「夏祭」住吉の段好評なれど、語り違いを叩かれる
  761外記上上士いつでも見物の声でくずれる橋 
和泉太夫(豊竹)1718年(享保三)竹本沢太夫トシテ出座、1921年(同六)竹本和泉太夫、1725年(同十)豊竹和泉太夫[邦]
  727豊竹  紙屋利右ヱ門と云ふ。西の座から東へ移り豊竹沢太夫となり、更に和泉太夫、器用なれどメリハリ少し
  759   ふし事の名人、節事を聞く人は淋しき腹へ弁当を得たるが如し
  806   前名沢太夫、越前弟子にて竹本座を勤め、両座の四ノ切語り名人、「葛の葉」、「赤松」祈り、「御所桜」四、「磯馴松」四、「時頼記」四、「大佛殿」四、「長柄人柱」四をよく語る
  1732年(享保十七)冬退座、翌年竹本和泉太夫、1738年(元文三)歿[邦]
伊津美太夫(竹本)762江戸舟路を追風てまづろは早く車切 
出雲太夫(豊竹)761肥前上上吉聞て丈ぶに思はるゝ石橋 
  762江戸上上吉身所多い平目諸見物をつみ入れ 
  763まへ〳〵大きにはやりしもの菊の花m 
  764肥前いつ聞ても心のゆらく玉 
  766m江戸しっかりと口中か嘉泰通宝 
今太夫(竹本)727辰松  江戸の人、素人にしては器用
今太夫(竹本)761土佐 豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  764北本上〃名所の川に六つの玉北本今太夫
伊與太夫(豊竹)781・3肥前  
伊豫太夫(竹本)766 上上聞てめでたい富寿神ほう 
植太夫(豊竹)766豊竹   
氏太夫(豊竹)777 上上吉イヨうぢ山と人はいふなり天満屋清五という。近年の掘出し物にて、声柄は器用にて評判よけれど、声が低く小札場へ通らぬ。「忠臣蔵」九段目、「刈萱」山の段大当り
  781・3肥前真上上吉声のしこみもよく當り違はぬ両替町のごく印初下りの「厂金」紺屋の談は大出来。「女護島」二段目は大入り。当春「むかし唄」七ツ目評あり
  781・9 上上吉  
采女太夫(豊竹)747・2 上上士よい〳〵と声諸共うき立るかざしの扇子声柄よく賤しからず。河内太夫の風義を移して一風面白く、殊の外はねたる事もなし
  747・3 上上士此人をかん竹のつへといふ、心は、第一ふしがこまかい前名彦太夫。景事、道行は美しいが、修羅、せりふ、段切のみ込みうすし。芳沢崎之助と同じ
  747・0 上上吉声ははりしの殺生、とは、そろ〳〵引ます。節は江戸のひたい、なぜ、すみ〳〵にねんがいる 
梅太夫(豊竹)764肥前思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
  765江戸のびやかに見渡す様也房州米 
枝太夫(豊竹)781・3外記  
越後太夫(竹本)761土佐上上若々と光りをます金杉橋 
越前少掾 (藤原重泰)(豊竹)豊竹上野少掾1731年(享保十六)九月再受領[邦]
  747・0  声はこけらくず、とははて内匠にやった/節はゑつ王かうせん、なぜ雪の段切であったmいん居してまだ珠数持たぬ伊勢参り
  756m   大坂南船場の出、十八歳の比より竹本采女と号して芝居を勤、程なく豊竹若太夫と変名、暫時ハ竹本氏と一所に務められしか共、別に芝居を興行して段〃と立身有、豊竹上野掾より再転し越前少掾藤原の重泰と受領m
  763 惣巻軸 無類世界のまれ者うどんげの花座本
  765   1764年(明和元)九月十三日、八十四才で歿、法名、一音院直覚隆信日重居士
  806   前名、竹本采女、豊竹若太夫。1699年(元禄十二)三月十一日始て櫓を揚ぐ。1745年(延享二)五月、一世一代の後隠居。1764年(宝暦十四)九月十三日、八十四才で歿。評判よきもの「子日遊」、「三代記」、「二腹帯」、「大佛殿」。「長柄人柱」、「那須与市」、「後藤」、「刈萱」、「和田合戦」、「粂仙人」の三ノ切。「二ツ巴」中、「野中隠井」長吉殺、「時頼記」
絵馬太夫m(扇谷)765四条南 歌舞伎出勤 
近江太夫(竹本)761土佐上上上手に成べき風の筋違橋 
岡太夫(竹本)757京都借大上上吉評ばんハ日まさり高ふなる都の不二としてはやすひへいざん「夏祭」の評あり
  761肥前上上吉当世の気に叶ふ江戸橋[豊竹岡太夫]
  762江戸本汁のはた白はきれいに立つ切目m 
  763聞人かんにたへ心を百合の花 
  764京都きれいなと諸人の言ふはこはく玉 
  765 聞てやさしく思ひあかし米m 
  766堀江市の側大入にてはんじやうさせる大泉ごじうm 
  806   三ケ津にて評判よし。評判よきもの「蘭奢待」四ノ切、「袖かゞみ」宗玄庵室、「由良港」鷄、「絹川堤」埴生村
奥太夫(竹本)746七太夫上上声がなふても御巧者と聞てハきくいたゞき非力なり。「夏祭」の評あり。近年、古播广の直門弟になる
男德斎(竹本)(竹本咲太夫カラカ)
  781・9 上上吉ちやり場は急度当ります矢口渡チヤリの大将。ふし付けはいつもひどい。故政太夫の俤が残る。「お染」座摩(安永九.九、竹本)「時代織」四ノ切(同十、二、竹本)の評あり
音太夫(竹本)1759年(宝暦九)九月初出座[邦]
  761 上上なんてもつかへぬもの錸箱[or銭箱]m 
  762 上上士たへず声の有もの田にし是は木のめあへ 
  763京都上上吉出世のはやい事日まはりの花 
  764土佐上上吉上手のひゞきに聞へるこたま 
  765 上上吉小取まはしによく響く種子嶋米 
  766京都つゞいての大ばね天禧通宝m 
  777肥前上上吉門田の稲葉おとなしい芸風m大津屋和介とて去秋より休座。古風に正しく、声は古今未曾有、素直な風義で座敷浄るりに向くが、舞台では場へおちかねる。文弥を語ると好評
  781・3   肥前座の「むかし唄」に役割はあれど二月十二日歿、本空院称音日澄信士。淺草光龍寺に墓。いやしからぬ語り風。宝暦十四年正月「名香兜」三ノ切、同年七月「鷓山」好評
  781・9 上上吉  
折太夫(竹本)1753年(宝暦三)十月初出座[邦]
  756竹本 対揚 
  762江戸上上士きうな間にいなたはちょっとさしみ 
  763上上士誰もうれしがる金銀花 
  764土佐上上十当るとざゞめく鬮の玉 
  765江戸ひいきの連中より花を新庄米 
  777肥前上上士場の見物は別して此人を松帆のうらの俗称長兵ヱとてチヤリ場よし
  781・3上上いつでもよくちやりで売れます田原町の弘慶子時々歌舞伎座へ出勤
加賀太夫(豊竹)1760年(宝暦十)十二月初出座[邦]
  761 上上とくと聞てうれしかる文箱 
  762 なんても間に合蜆かたからぞっとつかみ立汁m 
  763 上上士しほらしいはたが見ても卯の花 
  764肥前上上吉きれいにすき通る目鏡の玉 
  765m豊竹   
梶太夫(竹本)781・9 上上吉いつぞやから御姿を見せぬ隠井戸北新地「紙治」(安永七、四)限りで退座、それより稲荷へ出勤、近頃は顔を見ぬ
和太夫(竹本)762江戸上〃すききらいの有ってうまい鮫汁 
  764土佐上上思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
和太夫(豊竹)781・3外記  
上総太夫(豊竹)(竹本紋太夫カラ)
  747・2豊竹上上吉お名を聞ても好もしい箱入の銀扇子此の度紋太夫から改名して豊竹座へ出勤、しっかりとして人々の受けよく、実を入れて語る。
  747・3 上上吉此人の声をよくな馬かたといふ、心は、第一二がはるはさてm京より下り、竹本座出勤の時は紋太夫、声花やか。三重郎に見立てるは、せりふ、声色さっぱりとしてよし
  747・0 上上吉声はさかつきから茶碗とはめき〳〵とあがった、節はよい衆くち、なぜすこし水くさい 
  1749年(寛延二)冬歿[邦]
勝太夫(豊竹)764肥前m思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
要太夫(竹本)746若松上上吉めづらしさに見物がむれ入ル鳥てんま佐世太夫、当年要太夫となる。上下ともに不自由な声なれども、よくくろめいて語る。「夏祭」道具屋の段好評
  806   歴々なれども末世に残りたる戯題しれずm
要太夫(豊竹)781・9   
鐘太夫(豊竹)1747年(延享四)三月出座[邦]
  747・2   
  747・3 上上士此人を年の明た女郎といふ、心は、はて町へ引釣鐘町出身の故、鐘太夫といふ。硯屋商売。村山平九郎と同じ
  747・0 上上士声は箱根うぐいす、とはかはいらしいがなまる、節は在所出のまゝたき、なぜこはしやはらし 
  756豊竹 至要表珍 
  757上上吉何時迄もとめ置いて芝居の中にしたひさらしな「一谷」序切大出来。「前九年」の評あり
  758 上品ノ上上よし〳〵との評判は四方に聞ゆる三井寺の鐘十二年前の卯年、「万戸将軍」から出座、微力なれど、声柄きれいで、難癖なし、「清和源氏」二ノ詰、「信長記」好評
  761 ナ上上吉うまみ有て誰にもまけぬ鰹箱 
  762 ナ上上吉入相のかねにどっといふ蛸のさくら煮 
  763 大上上吉お名にかなふた丈夫なしゆろの花m 
  764 大上上吉金鉄のごとくばくやが玉m 
  765 いつくでも知る其名は広嶋米 
  766 巻軸 大上上吉座本のたからとあをぐ仏法そうほうm 
  806   大音にて後に大立者と成る。評判よきもの「一谷」序切、「信仰記」二ノ切、「廿四孝」狐火、「忠臣講釈」七、「出世太平記」九、「近江源氏」八
兼太夫(豊竹)761外記豊竹本と一所にならぶ扇橋 
兼太夫(竹本)762京都   
狩野太夫(竹本)761外記豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  766堀江市の側上上もん句よくかなりわける明道げんほうm 
歌門(豊竹)781・3   1763年(宝暦十三)春、十六才の時、肥前座初御目見得、源平花合戦を岡村弥吉で勤む
  (豊竹新太夫ニツヅク)
河内太夫(豊竹)(豊竹品太夫ヨリ)
  806   前名品太夫。和泉に劣らぬ名人にて四ノ切語。「那須与市」四切、「後藤」四切、「和田合戦」四切、「刈萱狐川」四切、「釜ケ渕」四切、「田村丸」四切、「五厂金」紺屋
  1741年(寛保元)七月、豊竹駿河太夫ニナリ、翌年退座、間もなく歿[邦]
河内太夫(竹本)746若松上上つねり〳〵と入レ言のおどけハ口がねばいもち鳥前名和歌太夫。吹矢町河岸の「刈萱」三ノ中好評、その後休座。此度河内太夫として出座、「夏祭」道行。やがて駿河太夫になろう
  (竹本駿河太夫ニツヅクカ)
勘太夫(竹本)727   嶋の内疊屋町の商人。歌舞伎にも出勤。辰松座に下り立者。修羅詰節事世話事大てい難ずる事なし。市村竹之丞と対比
菊太夫(豊竹)765江戸上上〆くゝりよく帯のごとし常陸米 
喜久太夫(豊竹)781・3外記  
妃志太夫(豊竹)765 上上鳴戸の難所をこした阿波米 
  766 上上しづかな事によい太平通宝[竹本紀志太夫]
喜志太夫(豊竹)781・3肥前  
木曽太夫(竹本)761土佐豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  762江戸舟路を追風てまつろは早く車切[豊竹木曽太夫]
喜太夫(竹本)727   木津難波の生れ。五段目の役付
喜太夫(竹本)1761年(宝暦十一)十一月初出座[邦]
  762 上上年越のに物にさるぼう一所にこほうて有るm 
  763 上上上品にしてまゆつくり花 
絹太夫(竹本)763京都上上色に取合のよきおどり花 
  764土佐出世にはぢき出すそろばんの玉 
  765京都段々と諸方の取さたが吉田米m 
  766次第に評判よろし景祐げんほうm 
絹太夫(豊竹)746辰松当地の声頭なれどまだ口ばしきいろないんこ 
絹太夫(豊竹)781・3外記上上  
君太夫(竹本)761京都上上次第に能なって北野のあわ餅[竹本喜美太夫]
  762  [竹本喜美太夫]
  764上上たしなみにして置薬玉 
  765わさ〳〵と茂ります笹山米 
  766上上士此度の役義おてがら大義通宝 
喜美太夫(豊竹)746上上士うゑへくるりと能かへる山がら肥前の「鎌倉大景図」大当り。その後「五ツ鴈」、翌年辰松で再び「大景図」。初日より数日間声が出かねるのがキズ
喜美太夫(扇谷)765四条南 歌舞伎出勤 
喜美太夫(竹本)766江戸段々出世有べし宣和けんほう 
喜世太夫(竹本)727   はりまや四郎兵ヱという。声よく修羅つめの類厳しく段切よし。道頓堀で櫓を上げるがはか〴〵しからず、半ば仕舞ひ、その後曾根崎で座元をするが、これも立消え、それより豊竹座に年を重ね、午の年休み、その暮より勤める。文句消える様なるは玉に疵。音羽次郎三郎に同じ
喜代太夫(竹本)746上上上るりのつまり〳〵がちと長〳〵敷尾の山鳥親の名を継ぐ。若手の稽古屋にて名取り。声美うて能くこなす
喜代太夫(竹本)761京都上上吉初舞台の評判で本[or花]の宇治茶m 
  762   
  764北本上上吉びっくりする程光る小金の玉[北本喜代太夫]
  765江戸手つよく出来ておほふ笠間米 
  806   歴々なれども末世に残りたる戯題しれずm
喜代太夫(豊竹)1760年(宝暦十)十二月初出座[邦]
  761 上上ひいきに思ふはうそでない本箱 
  762 上上かきあつむれば貝の柱よい酢のもの[大坂]m
  763 丈夫ても見ばへのなきびわの花 
  764 上上いきおひはにらむやうな目玉 
  765 すき間をよく通す伊予米 
喜代太夫(豊竹)766江戸上上あたらしい御名に開元通宝 
喜代太夫(豊竹)781・3肥前  
桐太夫(豊竹)746辰松上上駒太をよこにくわへ給ふいすかの鳥去年辰松へ下る。駒太夫うつしとて受けよし。下声にてしっぽりめいて語る。此度「石橋山」二ノ中、三ノ口
桐太夫(陸竹)747・2陸竹上上お声のはっきりは勇ましいぢん扇子当地始めて。此太夫門弟。「女舞」二ツ目はっきりしてよし
  747・3上上士此人の声水晶の玉といふ、心は、少てもうつくしい箒商売。坂東豊三郎に似て素直
  747・0声は金どうろうの紐、とはもとはうきからでた。節は画龍竹、なぜ座敷での内匠 
  756竹本 寛闊m[竹本桐太夫]
  757京都上上吉つつこんでの語り打もとよりおこへはどこ迄も聞へるだい仏[竹本桐太夫] 「夏祭」の評あり
吟太夫(豊竹)746辰松一ツたいお生れ付てたよハくひわ〳〵鳥非力
銀太夫(竹本)765江戸上上声かゝる様にとひいきを松代米 
久我太夫(豊竹)746上上士ちいさけれど面白て尻がむご〳〵するせきれい肥前掾、未だ新太夫たりし時、吹矢町河岸で興行の時出勤、「猿丸太夫」初ノ切、その後、外記座で「秀里」二ノ口、「行平」三ノ中、好評。後休座にて稽古屋。小音にて声とゞかず。
國太夫(竹本)1718年(享保3)十一月初出座[邦]
  727江戸出羽  天神橋筋濃人橋辺の昆布屋弥兵ヱ、淨るり小兵なれど、ふし地事よし。修羅つめは少し不足。市川団十郎と比ぶ
熊太夫(竹本)746若松上上吉嬉しがつて見物がときつくるにハ鳥陸奥茂太夫門弟。当年大和太夫門弟として出座。此度「夏祭」六ツ目好評。声はないが、味よく取廻し語る
組太夫(竹本)1753年(宝暦三)五月初出座[邦]
  756竹本 寛闊m 
  758 中品ノ上上間合の仕こなしは実入りのよい秋の田村六年前の酉の夏より出勤
  766堀江市の側上上いろ〳〵と味ひ有り鐃益神ほう 
組太夫(竹本)781・9 上上吉ずか〳〵と上りめの見ゆる手習鑑世話の気があるが、何を語っても受けよし、ふしをげんしでのびぬよう。「時代織」六ツ目(安永十、二、竹本)、「おふさ」意見の場、「紅葉狩」の評あり。「お染」、「鬼一」二ノ切、「天神記」三ノ口、「近江源氏」七ツ目好評
  806   ウツボと云う。大阪にて評判よく新古ともに語る、とくに「野崎」、「鬼一」二ノ切、「嫗山姥」二ノ切、「寿門松」新町
粂太夫(豊竹)746七太夫上上吉見へぬほとゝぎす 
久米太夫(豊竹)1759年(宝暦九)三月初出座[邦]
  761 上上いつ聞ても気の薬箱 
  762 上上甲に相応な蟹の穴ほり出して旨い焼塩m 
  763 上上十名所に名を得しはぎの花 
  764 上上士かくをはづさぬ鉄砲の玉m 
  766豊竹   
倉太夫(豊竹)727   堀江に住み豊竹上野の門弟。江戸辰松八郎兵ヱ座に勤める。折々とんきよなる声を出す。市川団藏と対比。
倉太夫(竹本)762江戸舟路を追風てまづろは早く車切 
  766 上上ちかごろおち付よし至正通宝 
倉太夫(豊竹)781・3外記上上江戸着より御当地の気を呑込だ新橋のしがらき 
源太夫(豊竹)781・9 上上吉黒人より素人受の現在鱗稲荷興行以来後見になる。「鉢の木」、「恋女房」の評あり。少しあまへるような浄るり。
上野少掾(豊竹)(豊竹三和太夫カラ)
  747・2 大上上吉御名は四方に輝く檜扇子内匠理太夫の子、勝次郎。始め諸国へ出て、後豊竹座へ出勤、三輪太夫、程なく出羽芝居へ出座、江戸へ下り好評。再び帰阪して、竹本座で内匠太夫と改め、後豊竹へ。声量は不足するが、節事はんなりとしてよし。
  747・3 巻軸大上上吉 初名三和太夫とて豊竹座出勤、内匠太夫と改名して竹本座へ。瀬川菊之丞に同じ。小兵なれど取廻りりゝしく、濡事やつし、つめ所作事の名人。段切を大事にする。非力なれど素直にして位あり。
  747・0  声はびろうどのふとん、とはむっくりとするがちとよはい。節は鏡のいえ、なぜ受領のうつは物 
  (竹本大和掾ニツヅク)
越太夫(竹本)806   大和屋利助と云。評判よきもの「鳴戸」巡礼場
此太夫(竹本)1733年(享保十八)豊竹伊太夫初出座、1737年(元文二)十月竹本美濃太夫、翌年一月、竹本此太夫ニナル(邦)
  747・2 惣巻軸大上上吉御功者に見物も耳を揃へた金扇子合羽の商売。伊太夫と名乗り方々へ出勤の後竹本座へ出て此太夫と改名。調子低く(壱越か半越)大入りの時は聞へぬ事あり。しかし大びらに語るは功者。此度の「菅原」三段目大出来。
  747・3 大上上吉此人のこへを玉子酒といふ、心は下ほど味[むまみ]が有るm合羽屋伊兵ヱ。初め美濃太夫。声があって、下がつよい。ギン美しく、ウレイよし。市山助五郎と見立てる。すべて功者なれど仕過る事多し。ふし付け細く、新ぶし多くて面白いが、真似の出来ぬは難渋。
  747・0 巻軸大上上吉声は床のびやうぶ、とはひくふてもたてもの、節はなすび香物、なぜもどってからうまい。 
  (豊竹筑前少掾ニツヅク)
  1748年(寛延元)十月陸奥此太夫、翌年九月豊竹筑前少掾ニナル[邦]m
此太夫(豊竹)806   天満屋清五郎と云う。「伊達鏡」七ツ目、「比翼塚」大鳥村よし
此太夫(豊竹)(豊竹時太夫カラ)
  758 上品ノ上時めまし評判はいと繰返す三輪の山十年前の巳年冬替り、「物ぐさ太郎」の時、八重太夫で初出座。達者な声立で、間合よし。今度の「信長記」大評判。
  761 上上吉どこやらにうまみをもつ椀箱 
  762 上上吉よい塩をもったハマグリそのまゝてよい煮汁 
  763 功者にふしをまはす小車花 
  764 諸人の悦ぶ宝寿の玉 
  765m江戸一統にもてはやす仙台本国米m 
  766まれものと人のよころぶ五銖錢 
  781・9 大上上吉先師の恩を立通す義臣兜詞のつめ合うまい。世話事の第一人者。「合邦」、「蝶八」、「天王寺村」、「吃又」等大出来。「墨染桜」(安永九、九、北堀江)、此度の「白石」六ツ目の評あり。最近は声が低くなる。
  806   岩田町錢屋佐吉と云う。前名時太夫、八重太夫。筑前掾弟子で、後に堀江市ノ川で浄瑠璃興行。筑前の三ノ切残らず語る。殊に「質店」、「新口村」、「合邦」、「帯屋」、「壬生村」、「出口」、「三国無双」三ノ切
  1796年「寛永八」七十一才で歿[邦]
此面太夫(豊竹)781・3肥前上上  
駒太夫(豊竹)1735年(享保二十)八月初出座[邦]
  747・2豊竹上上吉評判に乗てくる見物を招き扇子素人から直ちに豊竹座出勤。「真鳥」三ノ口が目見得?。大和太夫の真似にて面白かった。近年は声も落ち、厭味が付く。「釜ケ渕」上の巻は大当り。
  747・3上上吉此人を昔の紅[もみ]といふ、心は裏は能うて今は覚めたり声の裏を遣うのが名人。山下金作と同じく、今は少しめいる。
  747・0上上吉声は同家の隠居、とは裏が利く□しもた、節は破れた紙衣、なぜ初手の浮気は何処へやら 
  756 幽玄至妙潤色無比歌仙第四喜撰法師の歌の意に同じ、詞幽か成様なれど始め終り正しく喩へば雲隠れせし秋の月の暁の風に晴るが如し
  757豊竹大上上吉御功者は肩を比ぶる人も無き磨き立た男山音曲の道に於ては、一と云うて二三のない太夫。「前九年」、「足利染」の評あり
  758右座上品ノ大上上今の世の名人音せつなら程拍子なり冴へ切った望月享保二十年豊竹座初床の「刈萱」三ノ口は瓢箪から駒が出たとの噂。故大和太夫に生写し。「釜ケ渕」上の巻は大評判なるに、其後しめり気。延享五年「東鑑」三ノ詰大出来。江戸へ助に行き、翌年の江戸土産「物ぐさ太郎」二ノ切大出来。声柄立派に聞へて而も勿体有り。其の上女の言葉柔かにして色気深し。砂の物の立花を見る様、心は苔曝の鋭き中に草花をあしらふた様にしほらしい所有り。
  761 木上上吉東の芝居で名人と扇ぎ立る扇箱m 
  762 色も有みるくいは心のきいた酢味噌m 
  763 香イは上なし俗にはうすし蘭の花m 
  764肥前人の及びのないもの龍の玉 
  765 巻軸木上上吉此道の賢人といふなり小松米 
  766江戸極上上吉一座のかしらに立る常平ごしゆ 
      (1)1742年(寛保二)肥前座へ初下り。正月二日より「鈴鹿合戦」、三月三日より「石橋山鎧襲」四ノ切大当り、九月迠にて、その後帰阪。
      (2)1749年(寛延二)肥前座へ下る。「忠臣蔵」江戸初演、七段目おかる、九段目大当り、二の替り「御巻狩」三ノ切大出来。冬に帰阪。
      (3)1764年(宝暦十四)下り、「番場忠太」三ノ切大出来、五月節句より「信長記」、冬に帰阪。
      (4)1766年(明和三年)下り、「和泉式部軒端梅」三ノ切大出来、二ノ替り「忠臣蔵」九段目大当り、九月帰阪。
  806   此人高調子上手なり。評判よきもの「刈萱」二ノ切、「和田合戦」二ノ切、「釜ケ渕」硯海、「東鑑」三ノ切、「もの草」二ノ切、「一谷」二ノ切、「信仰記」四ノ切・三ノ口、「岸姫松」四ノ切、「番場忠太」三ノ切、「壇浦」琴責
  1777年(安永六)歿[邦]
駒太夫(豊竹)781・3外記ほうび上上吉誰もうまいと云ふ名物の駒が出た瓢たんやのそば1767年(明和四)春、肥前座へ初下り、「頼政追善芝」四段目以来十六年ぶり。「阿古屋」(三味線名八)好評、「忠七」おかる大当り。
  781・9 上上吉語り出しは花やかな江戸紫江戸表下り以来受けよし、結構な声で父親によく似ている。何を語っても同じ様に聞える。南の「由兵ヱ」茶屋場の評あり。
  806   八幡すしと云う、親の語りものなり。
是太夫(竹本)781・9 上上吉小つぶでもからいは三荘太夫北の「かしく」上の巻好評、器用で、上手めき過る、人真似がうまい。
佐賀太夫(竹本)764土佐上ト思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
  765江戸声かゝる様にとひいきを松代米 
崎太夫(竹本)766 段々出世有べし宣和けんほう 
咲太夫(豊竹)765江戸のびやかに見渡す様也房川米 
咲太夫(竹本)1762年(宝暦十二)七月竹本岬太夫カラ改名[邦]
  763 上上聞てしほらしいわふよふの花 
  764京都上上ひようしによくのる舟玉 
  765 いろ〳〵心の多何や加賀米 
  766 上上士時に取りての作有治平げんほう 
  781・9 上上吉どこやらが大将の茡文談声物はよし。婆の声が可愛らし過る。「塩飽」三ノ口(安永五、九、竹本)、「布引」三ノ中(同七、四、北新地)、「安土」二ノ切(同九、一、竹本)、「時代織」二ツ目(同十、二、竹本)の評あり
  806   男徳斉と云う。大阪にて評判よくチヤリ語りの上手、「妹背」序の切、「伊賀越」六ノ口よしm
  1781年(天明元)竹本男徳斉ニナル[邦]
左膳m 764 上吉よわミを助けるつへ竹 
佐太夫(竹本)761土佐豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  762江戸舟路を追風てまづろは早く車切 
  763世にはびこりて目出度稲の花 
  764土佐思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
薩广太夫(豊竹)761土佐上上士うまみはかまぼこ同ぜんのさめが橋 
薩摩掾外記 766外記不出座本 
佐渡太夫(豊竹)764 上上ふくんでうまみ有る黄煎の玉 
  765 少しつつ舌打する様に織部米 
  766江戸上上士はやい御出世隆平ゑいほう 
佐渡太夫(竹本)777肥前上上士いつでも評判はよしのゝ里にしたゝるい、こじつけな語り様で、ウレイに癖あり、此度の「千軒長者」序切好評
佐内(竹本)727   筑後の甥との事。竹本座から豊竹座へ、そして江戸へ下る。勝山又五郎と対比
左馬太夫(陸竹)747・3 上上未だ評判知れず 
  747・0 上上声は加茂のさむらい、とはうらがばゝい、節はごまのはい、なぜこまかにせらるm 
佐世太夫(竹本)763上上波打ぎわの鵜殿[or鶏頭]花m 
  764ちら〳〵とかずを見せる水玉[竹本佐代太夫]
  765上上見所聞所多近江米 
沢太夫(竹本)746七太夫うまミなふてかしまし程わめくよし切若松座で「夏祭」序切、七ツ目団七を勤める
沢太夫(竹本)756竹本 対揚 
  761土佐上上士一流の思ひ入また外にあらめ橋 
沢太夫(竹本)781・9   
佐和太夫(陸竹)747・2 上上士声がらはきやしやできれいな京扇子声、節ともによいが浄るりが小さい。陸奥太夫門弟から播广少掾門弟になる。「女舞」六ツ目大当り。当地では未だ馴染みなし(尾張在か)
  747・3 上上吉此人の上るりを珊瑚珠といふ、心は、大きけれは大銀に成。佐兵ヱと云う。もとは旅芝居の三味線弾。陸竹芝居のつき出しより好評。音声よく、取廻り発明にて、ふし付面白し、おとし一流かはり、思入れにあてん事を第一とす(見物受けよし)、嵐新平に同じ、声は非力
  747・0 声はつよ気の相場、とはどうぞあげてほしい、節はちりめんのかゝへ帯、なぜしめる程しりがゑい 
鹿太夫(北本)764 人によりて賞翫するのびるの玉 
志賀太夫(竹本)1761年(宝暦十一)十一月初出座[邦]
  762 上上士数寄屋の栄螺匂ひを聞て客はつぼ入 
  763 上上吉あけをうばふ紫のかほよ花 
  764外記上上吉終にわ名を得しへんくわが玉 
  765江戸 聞人かんにたへあとも岩付米 
式太夫(竹本)1722年(享保七)一月初出座[邦]
  727   陸奥茂太夫門弟。音曲丁寧なる故当り目なし。声よく浄るりのわけさっぱりと聞える。市のや重郎兵ヱと同じ。詰、段切に心をくばれ
  1740年(元文五)退座上洛[邦]
式太夫(豊竹)1754年(宝暦四)十二月初出座[邦]
  765豊竹 丁寧 
重太夫(竹本)746七太夫上上功者にすねこびたかうりんの鳥去丑の初冬より外記座へ出座、声はないが、子供の糸鬢の如くませた芸。故河内太夫の語り口をよくうつし、「十五段」三ノ中、「夏祭」好評
繁太夫(豊竹)781・9   
七太夫(竹本)1733年(享保十八)十一月初出座[邦]
  746七太夫座本去年今年打続大入に小判のさゞ浪〳〵寄る孔雈(外記座々本としての評)
  746上上吉当〳〵と言だすハどうまんのわかれの鳥播广少掾門弟。広太夫として「応神天皇八白幡」の時西の座へ出る。辰松初下りの「武烈」三ノ切は不評。その后、「ひらかな」、「御所桜」三ノ切、「三荘太夫」大当り。当春「夏祭」初三八を勤む。地合にうま味を付けようと語る故、もたれがきて序破急なく、長場はだれて退屈。正:音を第一、ふしでうはつかず、しめやかにしっぽりと語る。反:浄るり小さく調子低し、地虫の鳴く様で舞台がしめって気がつまる
七太夫(竹本)766 上上よい〳〵とほめます承和昌ほう 
七太夫(豊竹)781・3肥前上上いつでもしっかりときゝちからのある相撲とりがうやく聞ぢからのある語り口、声が不足
志津太夫(豊竹)764肥前思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
  765江戸のびやかに見渡す様也房州米 
品太夫(豊竹)1725年(享保十)五月初出座[邦]
  727   上野弟子、去年迠他国巡業。享保十年六月頃「身替弓張月」と少しの間助け、同年十月晦日より上野芝居出勤。声よく花やか、乙大にして聞きよし。間拍子操に応じてうつる故、見物受けよし。沢村音右ヱ門と同じm
  1733年(享保十八)十月、豊竹河内太夫ニナル[邦]
品太夫(豊竹)746若松上上いつでも子共がよろこぶあめの鳥奥州生れ。ナマリ多し。先年始めて辰松座へ下る。「小栗」三ノ口好評。声は美しいが、年寄に若い女房を持たせた様な芸。「夏祭」評あり。
信濃太夫(竹本)1747年(延享四)八月初出座[邦]
  747・0 上上十声は嵯峨の名物、とは名ほどあり大竹、節は三里にやいと、精出したら達者になろ 
信濃太夫(北本)764北本上上吉見物にわれ先にと生玉 
  766豊竹   
島太夫(豊竹)727   堺ゑびす島出身。豊竹座出勤。巳の年(1725年)の暮江戸に下り、国太夫と一緒に勤めて好評。午、未の年も江戸。音声匂ありて遠音をさし、修羅詰の類さびしく、文句のあやぎれよく聞える。丹前歌事の類は少し申分あり。松本幸四郎と比ぶ。
嶋太夫(竹本)1739年(元文四)四月竹本志广太夫トシテ出座[邦]
  747・2 上上吉御出世は次第〳〵に末広扇子幾竹屋平右ヱ門。声大場にして、ウレヒせりふ共にはっきりとして嫌味なし。修羅もよし。節落しの引捨て、或は地のとまりにも長う引かるゝは申分あり。「菅原」四ノ詰大出来。
  (竹本志广太夫ニツヅク)
志广太夫(竹本)(竹本嶋太夫カラ)
  747・3 上上吉此人の上るりを鞍馬のふごおろしといふ、心は、うへより下へ取るm八百屋平右ヱ門。修羅、詰、荒事は大丈夫にて、中山新九郎に同じ。浄るりの一体を崩さず、語りかしぐ事すさまじく、声は誰にも劣らぬ。
  747・0 上上吉声はみなみの御堂様とは高いてんじようじや、節は毛とろめんのおび、なぜつよふても中から下。 
  (豊竹若太夫ニツヅク)
  1748年(寛延元)十月豊竹島太夫、1750年(寛延三)八月、二世豊竹若太夫ニナル[邦]
嶋太夫(竹本)(豊竹若太夫カラ)
  766 極上上吉ぢやうぶには上なし大閴ろくしゆ 
  781・9 誰がどふいふても此道の一谷一世一代も終り引退さる。初床は竹本座「盛衰記」三ノ中大出来。「菅原」四ノ切大当り、「忠臣蔵」で東へ、この時「橋供養」四ノ切大もらい、「かしく」新屋敷好評、「和田合戦」で若太夫と改め、「信仰記」三段目の後、暫く退座。再び嶋太夫として竹本座へ、「廿四孝」三段目大出来、「忠臣講釈」、「鳴戸」好評。声がうますぎるが、ウレヒよし、鼻声。
  806   スワウ丁平右ヱ門と云う。越前掾孫にて大立もの、美音なり。評判よきもの、「菅原」四、「橋供養」四、「八重霞」新やしき、「物ぐさ」四、「一谷」組打・四ノ切、「信仰記」三、「祇園女御」三、「廿四孝」三、「講釈」八、「出世」七
  1784年(天明四)九月十日歿[邦]
嶋太夫(豊竹)746辰松店下上るりのけハ能ぬけましたつばくら「石橋山」評あり。木挽町の太子伝、国性爺三ノ中好評
嶋太夫(陸竹)747・3陸竹上上此人をなら嶋といふ、心は同じ嶋でもうすふてよはひ地美しく、修羅は強いが修行不足。泉平三郎と同じ花車方で、せりふ口跡よし
  747・0上上声は当代のぬり笠、とはちと花者めいた、節は半額あたま、なぜ越前の流義m 
嶋太夫(竹本)777肥前巻軸上上吉角力ならだてかいつみ川贔屓はわきて流るゝm去春和佐太夫から改名。浄るりの性根正しく、きれい。
  781・3上上吉誠に上るりの根づよき語うちはうごかぬ大ぶつもち[豊竹島太夫] 初名 和佐太夫。肥前座初下りは「三勝」書置の役、その後休座多し。改名披露の外記座万才の台は大出来。当春、「むかし唄」十段目の評あり。
寿楽(竹伊勢)777肥前上上吉ふりゆくものはとおしまるゝ名人古風な播磨ぶし、加太夫節からとってきた浄るり故当風に向かぬ。現在は隠居
信太夫(竹本)765京都上上うつくしうてわらぬ伊万里米 
信太夫(豊竹)781・9   
新太夫(豊竹)727   去年より出勤、元来は商人
  (後の豊竹肥前掾カ)
新太夫(豊竹)(豊竹伊勢太夫カラ)
  756豊竹 功労天晴 
  757上上吉秋を待つばかり心変らぬ江戸にないほどの高尾山「橋供養」二段目大出来。「前九年」の評あり。
  (豊竹伊勢太夫ヘツヅク)
新太夫(豊竹)761肥前上上改名で聞人までも新橋歌門太夫事新太夫とある
  762江戸うまさふなあゆみな肥合身は生乾 
  763 やわらかにふっくりと綿の花m 
  764肥前よく人の知ったお杉お玉 
  765江戸師匠の風によく新田米 
  781・3   歌門より新太夫になり、暫く外記座元致せし所病死
新太夫(豊竹)777外記上上十新太夫〳〵と其名はまだき立にけりmはたこ代地松屋十兵ヱ。七ツから浄るりを語り、古新太夫門人として七太夫を名乗る。去々年より座元株で、当年十九才
  781・3外記上上吉ます〳〵繁昌のさかり根づよき染井の植木みせ御蔵前代地松平十兵ヱ、古新太夫弟子七太夫、安永四年より座元になる。
須广太夫(豊竹)761肥前上上吉皆々かんしんする声のさかり[orさはり]は今戸橋m 
  762江戸上上士町中へ興[or輿]をかつほのあちやらつけm 
  763上上吉ひいきにひかりをます仙翁花 
  764肥前とんだ事だと言い立る人玉 
  765江戸年々に評判茂る森山米 
住太夫(竹本)1757年(宝暦七)七月初出座[邦]
  757京都 いつ聞ても見物の面白がる地主の桜やわら饅頭の蒸し立て浄るりとの評判
  761上上声うつくう角のない丸山のかき餅 
  762   
  763上上吉次第にはづみのくる手まりの花 
  764外記上上吉調法は白がねの小玉 
  765京都上上吉偖も類なししつかりと能キ岡崎米m 
  766 上上吉何れの座でも当を取至和げんぼう 
  777外記上上吉秋の田のかりそめならぬ上るりの巻頭石町三丁目のしん道丸や文藏。初春の「おさな陣取」三ノ切不評。浄るりは少し上品でないが、「千本桜」三ノ切は好評m
  781・3極上上吉巻頭にすへてきっときゝます団十郎もぐさ明和元年外記座へ下り(姫松三ノ口、千本二の口)以来江戸在住。数年前の「おさな陣取」三ノ切は不評。「矢口」三ノ切、去年「ひらかな」三ノ切、此春の「忠臣蔵」四ツ目好評
  781・9 上上吉  
  806   国根とも住吉屋文蔵とも云う。二代目政太夫の弟子にて三ノ切語り。取分け江戸にて好評。能く語りしもの「伊賀越」八、「五大力」三・四「かゞみ山」七、「花上野」志渡寺「本町育」いとや「孝行酒屋」
  1810年(文化七)三月十九日歿[邦]
駿河太夫(竹本)(竹本河内太夫カラカ)
  762江戸上上下へむく物もうほ油けがうす醤油m 
諏訪太夫(豊竹)1756年(宝暦六)十一月初出座[邦]
  757豊竹上上士此の道を御磨き故曇り気のない鏡山道行駒太どのワキ。御かたり又五段目御役場。何れも御達者な御声m
  758 中品ノ上出世に従うて名もはなも高くなるらん鞍馬天狗三年前の子の冬初出座。声柄丈夫
  1759年(宝暦九年)十一月江戸ヨリ帰阪、翌年十二月退座[邦]
関太夫(竹本)777外記上上士師匠の風に当世にあふ坂の関太去春始めて下る。筆太夫によく似た声
袖太夫(竹本)766京都上上あまりやはらぎすぎた元和通宝 
  777外記上上士難波へのあしからぬおしたてとはしいへきの藤七m
其太夫(豊竹)765 上上折節にはかさるゝ姫路米 
  766 上上いきほひにひげも有紹煕げんほう[竹本其太夫]
杣太夫(竹本)1740年(元文五)四月、豊竹杣太夫初出座、1744年(延享元)十一月、竹本ニナル[邦]
  746辰松上上吉しゆら事のてひしさとや出のわし熊鷹当地始めて、此度の「佛御前」三ノ切大当り、大阪にて「武烈」、「田村」三ノ口、「久米仙人」五段目好評
染太夫(豊竹)727   豊竹座から江戸に下り辰松八郎兵ヱ座を勤める。その後下総の銚子で芝居興行の後、江戸出羽芝居へ出座。大阪を離れている故、音曲我がまゝ、坂田半五郎と対比。
染太夫(竹本)1754年(宝暦四)十月初出座[邦]
  756竹本 寛闊m 
  757上上吉何時の間に此の様な名人になり給ふとあきれる富士の山今を日の出の勢。「凱陣紅葉」は大出来。「姫小松」の評あり
  758 上品ノ上程拍子の思ひ入浅くは見えぬ玉の井五年前の冬初出座。西の座にて近年の掘出し物。声柄よく浄るりの間合ひよし。「薩摩歌」、「春日野小町」大出来
  761 上上吉引〆めてよく取むすぶ帯箱 
  762 上品ン下たわらきには極札を付やきm 
  763 あたりつつけし百日紅の花 
  764外記世界に光を顕す夜光の玉 
  765 此節付を人々すいて聞く久留米 
  766 ちいさふても無るいの布泉錢 
  781・9 大上上吉見れば見るほど手ごもった極彩色声小さくウレヒもきゝにくいが、物によって感涙を流す。詞は播广の流義で男女を分けず。ふし付けは少し細かいが、無理なくさら〳〵語る。何を語っても申分のない立者。初床の「小野道風」三ノ中、道行好評。「時代織」八ツ目の評あり。
  806   中興の上手にて新物面白く節を語る。評判よきもの「日高川」四、「菊水」序、「安達」序、「極彩色」大川町、「廿四孝」二、「講釈」四、「出世大功記」四ッ目・同玉椿、「妹背」万才・三、「しわく七嶋」三ノ切、「伊賀越」五ノ中・六ノ切、「教興寺」、「八百屋」m
  1785年(天明五)四月十一日歿[邦]
染太夫(竹本)806   京屋幸七と云う。前名梶太夫。評判よきもの「鰻谷」
  1806年(文化三)十一月三十日歿[邦]
大太夫(北本)764北本上上一風かわったあんばい味噌の玉 
高太夫(豊竹)781・3肥前  
多賀太夫(扇谷)765四条南 歌舞伎出勤 
瀧太夫(豊竹)761肥前豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  762江戸上〃すききらいの有ってうまい鮫汁 
  763上上よらずさわらず野菊の花m 
内匠太夫(豊竹)777外記上上吉名は高砂の松贔屓は誰にもゑびす屋の久四郎。去年初下り。「おきな陣取」、「千本」四ノ中好評
  781・3肥前上上吉きれいでうまいぞ瀬戸もの町の白玉もち安永五年外記座へ下る。「双蝶々」米屋、「妹背」三ノ詰大当り。当春「むかし唄」六ツ目の評あり。古大和掾を知らぬ者精出して、聞給え。当世を少し混ぜてほしい。
内匠太夫(竹本)806   疊屋久四郎と云。評判よきもの「鎌倉山」七ツ目、「博多織」中ノ巻
武太夫(豊竹)781・9   
頼母(竹本)806   筑後掾芝居を勤め、名人にて「国性爺」九仙山度々語る
玉太夫(竹本)763江戸世にはびこりて目出度稲の花 
多美太夫(豊竹)781・3肥前上上  
丹後掾(若松)746江戸座本金持にハ金が金もふける大入宝袋も若松に鶴 
  762切上上吉名物の鰤りやりはいつもかはらけやき 
  763巻軸切上上吉小金にたとへしもの山吹の花 
  764上上吉古きを尊ぶ生身玉 
  765万年も替らす聞たし亀田米 
千賀太夫(竹本)757竹本上上吉誰も手を措く程の柔らかさは又とないならうちわ言葉がせわしい。「姫小松」の評あり
  758 上品ノ上上華やかにして而もすぐなる桜川十一年前の辰(寛延元)の冬替り二度目の「大内鑑」より竹本座へ出座。声の美しさ、素直さは師匠大和掾以上。子年(宝暦六)に江戸へ。丑年に帰阪。当年は京都出勤。
  761京都ナ上上吉一躰の風思ひ入深事の焼塩 
  762   
  806   前名内匠太夫。大和掾弟子にて事知り芸ごと語り。「愛護若」くら打は此人の節残れり。
筑後掾(竹本)806   前名竹本儀太夫。浄瑠理の元祖にして貞享二乙丑二月朔日大阪道頓堀に始て操座の櫓を揚る。戯題愛染川。生涯浄瑠理数多し。中にも末世までも評判したるもの。佐々木大鑑三ノ切、自然居士三ノ切、蝉丸三ノ切、曽根崎心中、重井筒、反魂香相山、大経師、剱本地もくさや、嫗山姥三ノ切、天神記三ノ切、相模入道三ノ切、娥哥かるた。後に受領して竹本筑後掾藤原博教と云。正徳四甲午年九月十日卒 行年六拾四才。法號 釈道喜ト云
筑前少掾(豊竹)(竹本此太夫カラ)
  756   歌仙第二在原業平の唄の意に同じ、其情餘りて調子ひくし譬へは盛り過たる花の色は少しといへども而も薫香有がごとし
  757豊竹切大上上吉そもみのゝ始めより名は万天に隠れなき須广の浦初床は竹本座にて「太政入道」、それより東西と変れども当地御贔気に休む暇なし、よって太夫分巻頭。「前九年」の評あり。
  758極上品上上修行の功積り〳〵て誉れは四方に高砂元文二年「太政入道」の時、伊太夫と称し竹本座初床。「行平」此兵ヱの場でいよ〳〵名高し。此太夫と変名。播广少掾歿後、三ノ詰を受取り、「菅原」、「千本桜」、「忠臣蔵」九ツ目は古今奇妙の語り方。豊竹座へ行かれてからは評判は滅入る。但し「和田合戦」、「頼政」、「刈萱」、「一谷」、「義仲」、「前九年」三ノ切は大出来。年経し詰り手なれば、次第に調子も低うなって聞苦しき様なれど、当世の人気を能く察し、工夫を凝らす。尊い聖人の説法を聴聞する様、心は、聞た所は尤もしう感じ入る様な所も有れども、声花に面白い事は近比になかった。
  761豊竹無類極上上吉袋入の道具めったに見せぬ刀箱 
  806   (前名)合羽伊太夫、美濃太夫、此太夫トモ云。此人播磨の跡を勤、名人なり、調子ひくきはしめ、生涯評判よろしき戯題:富士見西行三ノ切、夏まつり八ツ目、楠三ノ切、菅原三ノ切、千本桜三ノ切、忠臣蔵九ツ目、橋供養三ノ切、八重桜若林屋、物草三ノ切、玉藻前三ノ切、一ノ谷三ノ切、勲功記三ノ切
  1768年(明和五)十一月五日 六十九才で歿[邦]
千代太夫(竹本)746上上ねいろやさしくて間延する常世の長鳴鳥当時お休m
千代太夫(豊竹)781・3外記  
津太夫(豊竹)761外記豊竹本と一所にならぶ扇橋 
綱太夫(竹本)1761年(宝暦十一)一月初出座[邦]
  761 上上うい〳〵しうてはお気がはり箱 
  762 上上一寸した者も馬刀はひんと酢みそm 
  763江戸上上士初めて見て悦び給ふかほちやの花 
  764京都上上士さびてしほらしいはすゝ玉 
  765 上上士細過てめったに塩か唐津米m 
  766 上上士こまかにいたさるゝ宣徳通宝 
  806   シンラウシとも云う。三ケ津にて評判よし。生涯の内名高きもの、「妹背」二ノ切・ふか七「秋津嶋」、「近江源氏」九、「小いな半兵衞」大津、「女護島」二ノ切m
  1776年(安永五)十月十三日歿[邦]
綱太夫(竹本)806   猪の熊甚兵ヱと云う。前名浜太夫。「阿漕」評判よし
恒太夫(豊竹)1757年(宝暦七)十二月初出座[邦]
  758 中品ノ上馴染みはなけれどきよう肌なと誰も夕顔丑の冬替り初床
  1759年(宝暦九)三月肥前座ヘ下ル[邦]
常太夫(陸竹)747・2陸竹  
  747・3上上此の人を宮の前のほそづけといふ、心はほそふてもはぎれが仕る座敷浄るりにして、床にては通りがたし。ふし事景事面白し。嵐寛三と同じく、ちょっこりとして利口。上へは行にくし。
  747・0 上上声ははうづきミやげ、とはちょっこりやすい、節はよごれじゅばん、なぜどこやらうぢつくm 
常太夫(竹本)761京都上上かるふてきれいなしみつところてん 
  762   
  763上上くせのないもの山茶花 
  764外記誰も面白しと引長縄の玉 
妻太夫(竹本)763江戸世にはびこりて目出度稲の花 
  764土佐 思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
  765江戸のびやかに見渡す様也房州米 
鶴太夫(豊竹)781・3肥前  
出水太夫(豊竹)781・3肥前上上吉お江戸初下りにてよいといふ祇園細工の山ぼこm興孝寺で初下り披露。素人にて染太夫門弟。当春「むかし唄」十ノ切評あり。
出水太夫(竹本)781・9   
出羽太夫(竹本)761土佐上上評判にかずを重る呉服橋 
東治(豊竹)781・3肥前上上吉ます〳〵繁昌のさかり根づよき染井の植木みせ肥前掾歿後、豊竹文字太夫芝居後見の所、藤井小八縁類を以て、この東治を聟養子とし、肥前の跡を襲がせる。当春類焼有れど、正月二十七日より初日
時太夫(竹本)746七太夫上上芸ぶり小りこふにくゞるかいつむり以前は梅太夫とて結城座の座本。その後肥前座で春太夫から時太夫。此度「夏祭」三ノ口、六ノ切を勤む。
時太夫(豊竹)1749年(寛延二)十一月、豊竹八重太夫初出座、 1751年(宝暦元)十二月改名[邦]
  756豊竹 適時強健 
  757上上吉はたのよい手ざわりにれん中のまき絵道具箱入の通天器用肌な音曲。筑前少掾門弟。「前九年」の評あり。
  (豊竹此太夫ニツヅク)
時太夫(豊竹)781・9 上上吉一いきとはねいりました入相花王京都へ行く。「月見松」序切(安永四、九、堀江)好評
時太夫(豊竹)806   カサゴと云う。「妹背門松」油屋名人なり
時太夫(豊竹)806m   源七と云う。前名入太夫。評判よきもの「太功記」七ツ目、「狭間合戦」五ツ目
土佐太夫(竹本)756竹本 功述珍重 
  757京都上上吉〆り能キ御名人おくふかいところのミへろぎおんばやし浄るりが落付きしめりがよい。房太夫と云う時分から段々達者。三段目語りにしても憎うない
  761巻軸上上吉むっくりとうまい塩瀬が饅頭 
  762京都   
  763巻軸上上吉座中しんとする茶の花 
  764外記上上吉世に沢山に有まじ獅子の玉 
  765京都巻軸上上吉所替らす勤通した長門米 
  766上上吉惣座中のなりをしづむる半両銭 
  1766年(明和三)十二月、竹本房太夫ニナル[邦]
土佐太夫(竹本)806   久兵ヱと云う。至って名高し、併し是ぞと云う事なし。少しの内三代目政太夫となる。
土佐太夫(豊竹)762江戸上上十うすみそてこちは大根のかはむき 
歳太夫(竹本)746若松上るりの一体かんきんする様なしきの鳥[竹本年太夫]m
歳太夫(竹本)761土佐豊竹本と一所にならぶ扇橋 
十七太夫(豊竹)1753年(宝暦三)十月初出座[邦]
  756豊竹 丈夫 
  757上上吉とかく若とてうぶなこが児手柏の一声に信田の森「前九年」の評あり
  758 中品ノ上上語り方の勇さきほひ口には姥捨山六年前の酉の冬、十七才にて初床、大音にて丈夫
  761 上上士大に上ったと聞人手打て鼓箱 
  762江戸上上吉かるい所はあんこう諸人の好く目利やくm 
  763 ふもとの盛にぎやかなももの花 
  764 上上吉やわらかそふに見へて堅い水生の玉 
  765 上上吉塩も名物気を見る赤穂米 
戸根太夫(豊竹)766豊竹   
富太夫(陸竹)747・2陸竹上上うれい事は互にしぼる袖扇子博労町稲荷の六兵ヱ。昔は声花やかにて、上地かんの所など身内がちゞむ程よし。越前と大和の両方の口うつしが一つになったため、浄るりの行義がくづれて詞と地の区別がつかぬ
  747・3上上吉此人の上るり間夫[まをとこ]といふ、心は、ふるひ〳〵もむまひmいなり六兵ヱ。年配にて音声下落。民屋四郎五郎に同じく、音曲劣し
  747・0上上十声はくったくあたま、とはとかくふけました、節は末社の神、なぜ稲利からの仕似せ 
富太夫(竹本)757京都上上お上手といふはどこ迠も隠れない真葛ケ原きいたよりは御かうしやのび〳〵と御語りm
  761上上士近年のめき〳〵と上った六条瓦せんべい 
  765四条南 歌舞伎出勤[扇谷富太夫]
富太夫(豊竹)762江戸舟路を追風てまづろは早く車切 
  766上上おんせい打ひらいた天啓通宝 
留太夫(豊竹)746上上吉かたいときてハくろがねでもてらつゝき辰松初床は「鎗権三」の初を語る。語り口せはしく詞の尻を一句〳〵に押付ける癖少しなほる。芸程に評判なきは花やかになき故也。辰松の「さよ衣」四ノ口は近年の大当り。「道満」序切、「清和」二ノ口、「冠合戦」四ノ切、「風俗太平記」三ノ中好評。若松座では、はか〴〵しき役つかず。
友太夫(竹本)1746年(延享三)正月初出座[邦]
  747・2   
  747・3 上上士此人をいかのぼりといふ、心は、空てようなる吉田万四郎と同じ
  747・0 上上声につめ袖のげい子、とはじみでさみしい、節は町のめいわく、なぜ、まあワキでもめ 
  756竹本 功述珍重 
  757京都上上吉御名人なつめ合は香もある軒端の梅功者、何時でものつしりと鶴の歩みか
  761外記巻軸上上吉人の面白がる場の多い両国橋 
  762江戸しやんとして魲はさびもしほらしき二本居 
  763上上吉しっかりと手あつい椿の花 
  764土佐誰が見ても愛するさんごの玉 
友太夫(豊竹)781・3肥前上上追善でよいちいふむすめが出た瀬戸物町の干物みせ音太夫追善の意なり
豊太夫(北本)764北本上上替りに遣るゝもの吹玉 
登代太夫(竹本)761土佐豊竹本と一所にならぶ扇橋 
名尾太夫(竹本)761土佐豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  762江戸上〃すききらいの有ってうまい鮫汁 
直志太夫(豊竹)781・3外記上上  
中太夫(竹本)1756年(宝暦六)二月初出座[邦]
  756竹本 対揚[竹本仲太夫]
  757上上吉しめて聞く程音声の出る御出世は鼓がたき「姫小松」の評あり。
  758 中品ノ上又ある時は立者衆が休むおもにに肩をかさるゝ山姥m三年前の子の春初出座。
  762江戸上上吉一塩あてるとむつはたいにまこふ櫛形m 
  763京都上上吉ぼたんに似たよふな物芍薬の花m 
  764当り上上吉日の出に舞いづる牛王の玉 
  765上上吉鐘のごとく鳴し給へ八田米 
  (三世竹本政太夫ニツヅク)
  1767年(明和四)十二月、三世竹本政太夫になる[邦]
仲太夫(豊竹)746上上声に折レなく大つぶにこけるまめ鳥きれいなれども浄るり古風にてかたし。旧冬看板出しが、「夏祭」休座
中太夫(竹本)781・9 上上士詞にしり声のない鴬塚去秋より上京。北の「三日太平記」三ノ口(安永七、九)、南の「紙治」ちよんがれ好評
長門太夫(竹本)756竹本 功述珍重 
  757上上吉少さうてもどこやらにきく所のある今宮の森帰り新参、久方振りの出勤。「姫小松」の配役あり。
  761京都上上吉折々当りの来る矢わた牛房 
  762   
長門太夫(豊竹)746上上士しゞうくるハをはなれ給ハぬかごの鳥吉原に住む故、吉原新太夫といったが、嶋太夫から長門太夫になる。いつの程よりか評判うすらぐ
名太夫(竹本)781・9   
鳴渡太夫(竹本)762江戸舟路を追風てまづろは早く車切 
  763世にはびこりて目出度稲の花 
  764土佐思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
錦太夫(竹本)1737年(元文二)七月豊竹和佐太夫トシテ初出座、1744年(延享元)十一月改名[邦]
  747・2 上上吉節付の名人身内が拍子扇子かわった節付を能くする。拍子よく、つめ修羅よし。綿武の時は播广のもの、豊竹座では和佐太夫というた時は評判よし。それが滅入って再び竹本座へ出勤。しかし、「西行」二ノ口、「楠」三ノ口は好評
  747・3 上上吉此人を太夫年寄といふ、心は、浄るりの事知り。錦屋武兵ヱ。初めて筑後に出た時は和佐太夫、その后暫く休座。又々竹本座へ住む時は、古郷へ錦を飾れという義で錦太夫と改名。声柄悪けれど姉川新四郎と同じ。
  747・0 声は祝言の二日ゑい、とはもうわれました、節は功をへたすっぽん、なぜ川中のすい方 
  756竹本 風雅名誉独歩無格歌仙第六大伴黒主の歌の心に同じ、頗逸興有、然共少し野鄙也。譬ば薪を負る山人の花の蔭に休めるがごとし。m
  758 上品ノ大上上語り方の面白さに見物衆の誉るかけごへは百万m元文二年豊竹座「釜ケ渕」中の巻大当りが初床、以来子の年迠八年間好評。子年の冬、竹本座へ移り、「西行」、「菅原」、「忠臣蔵」、「布引」、「大峯桜」大当り。どうした訳やら此一両年は折々出たり引たり。浄るりは少し下品な仕出しにて、二三四の詰の場にては、建が軽う聞える。高位なる人形若侍、別しては女形には声が鼻へ入って聞苦し。其の上愁歎の場は哀れにはなうて、可笑味が出る。下劣な在所の爺婆のチヤリは能い。声が鼻へかゝるのは生れ付だが、其の声の並生[ナバエ]に付て語りこなさるゝは功者上手也。今度「春日野小町」ニノ詰、道行、四の口は近年の大当り。八瀬や小原の黒木売の様、心は、名に高き名物なれど女の言葉が鼻へ入て賎しい。
  759   其のさまいやし、地もよく語れども、チヤリにて当を取る。いはゞ顔のこはひかけ乞の子供に菓子をやるが如し
  761 不出 預り出して遣ふとよく切れる剃刀節 
  762 ナ上上吉丹花の唇は赤貝よくせうが酢 
  763 大上上吉久しく盛とたもったさつきの花 
  764外記大上上吉尊く言ひはやす宇賀のみ玉m 
  765 節はるいなし最上の土佐米 
  806   錦武ト云う。前名和佐太夫。此人異風なる声にて面白し上手なり。生涯語りもののうち好評のもの。 釜ケ渕竹瓢たん、富士見西行二口、楠三ノ口、菅原伝授序、千本桜序ノ切、忠臣蔵六ツ目、布引三人上戸、恋女房六ツ目、道風ホウリン、姫小まつ二ノ切、日高川二ノ切、菊水四ノ口、崇禅寺墓所。m
錦太夫(竹本)(竹本家太夫カラ)
  781・9 上上士師の名をゆすり受た二代鑑の太夫改名。此度天神へ出勤。
西太夫(竹本)746上上士出語のだんふうハ祖師の俤のこるめいどの鳥外記座へ下り「久米仙人」二ノ切、三ノ切よし、その後肥前座へ半途から出て「江戸紫」二ノ切、四ノ中勤む
布太夫(豊竹)781・3肥前  
萩太夫(竹本)766 上上取まはしのよいは政和通宝 
葉太夫(竹本)781・9   
初太夫(陸竹)747・2陸竹  
  747・3上上此人を小米上るりといふ、心は、かみしめるとあまい所が有る坂田文重郎に同じ
  747・0上上声は朱唐紙、とはべち〳〵する、節は親方せりふ、なぜ、ずいぶんはたらけ 
浜太夫(豊竹)765江戸のびやかに見渡す様也房州米 
播磨太夫(竹本)746七太夫上上吉抱ての顔が両方に有るひよくの鳥名古屋にて高名。去々年肥前座へ半途に下り、「江戸紫」二ノ切大当り。「大助」の三、「道成寺」の出語りよし。操の気、世話事、本ぐり、上るりのこなし能けれど、野鄙なるがキズ。上品ならば若松座にて続く者なし
  761土佐ちやりときては外に語りては中橋 
  781・3   延享年中、外記座を七太夫興行の時、初下り「江戸紫」の四ツ手駕籠を語る。以来江戸に留り、「大内鑑」の四段目大出来。肥前座では「菅原」四、「千本」三、四等々。1765年(明和二)四月二十一日歿。蒼龍院岩千町居士、淺草東岳寺に墓。「鶯宿梅」出版元中山清七はその弟子。
播磨掾(竹本)(竹本政太夫カラ)
  759   古今の妙音にて、語出したしかならず。のち程面白きは娘子の新枕とも云べし。
  806   始め若竹政太夫 二代目竹本儀太夫受領して竹本播磨掾藤原喜教と云う。末世まで評判うけたるもの。 国性爺三ノ切、大塔宮三ノ切、山崎与次兵ヱ、篠原合戦三ノ切、日本振袖三ノ切、三浦大助二ツ胴、博多小女郎、鬼一三ノ切、河内道三ノ切、兜軍記三ノ切、隅田川三ノ切、大友真鳥三ノ切、川中島三ノ切、応神天皇三ノ切、宵庚申八百屋、芦屋道満三ノ切、つゞれの錦土手、赤松円心三ノ切、御所桜三ノ切、小栗三ノ切、ひらかな三ノ切、薄ゆきはら切、厂かね矢法、児源氏三ノ切、 1744年(延享元)七月廿五日卒 行年五十四才 法名 不聞院乾外孤雲ト云うm
春太夫(豊竹)1744年(延享元)十二月初出座[邦]
  747・2   
  747・3 上上此人の節をうどんの粉といふ、心は、ちとふるへどこまかいうどん粉商売。中村次郎三と同じく、上調子は良いが、しっぽりとしたる事は少し不足。
  747・0 声はのべのはながみ、遠音がさゝぬわいの、節は五郎兵ヱ櫛、なぜこまかできれいな 
  1748年(寛延元)竹本ト改姓[邦]
  756竹本 恬然優美 
  757京都上上吉御こへの美しさハ言ふに不及おなを聞さへやハらかなあしのまろや「道風」の別れの段は京都迠大評判。どこやら嫌味があって、駒太夫と大和掾を一緒にした語り口。「夏祭」の評あり
  758 上品ノ上浄るりの仕出しひくうはない小原御幸十五年前の辰の冬、豊竹座初出座。申年より竹本座、京、大阪を勤らる。声美しいが、此の一両年は少し泊[タル]みの様
  761 大上上吉花やかに諸人を引立る茶箱 
  762 大上上吉肌きれいな烏賊にもはるめく木目あへ 
  763江戸大上上吉ゆったりとして色を用る藤の花m 
  764京都格別にうつくしいるりの玉 
  765色ハ最上とあをく美濃米m 
  766しごくうつくしいの阜昌げんほう 
  781・9巻軸切上上吉 いつきいてもはんなりとした蘭奢待最近は目もうとく耳も遠い。いなり天神かけもち。去々年新地顔見世「妹背山」、いなり「花景図」道行の評あり。
  806   大和掾弟子にて評判よし美音也。名高き語りもの。 あいご道行、道風道行勘当、蛭ケ小嶋よろひ着せ、日高川三ノ切・道行、菊水巻二ノ切、安達ケ原二ノ切、花系図道行、妹背山三ノ切四ノ切道行
  1778年(安永七)九月引退 1784年(天明四)三月十九日歿[邦]
彦太夫(陸奥)746七太夫上上吉うゑへ上る事は雲迄もくのないひばり十三年前の寅に辰松へ下り「金短冊」以来好評。声はよいが、地にうまみなく、文句聞へかねてうつとしく、老若男女の詞がごっちやになる。「源平つゝじ」四、「篠原」四よし。此度「夏祭」道具屋の段を勤む
彦太夫(大和)759   大音にて四段目語の上手なれど誠すくなし。例へば看板斗を見て徒らに作の評判をするが如し
彦太夫(竹本)1766年(明和三)十月初出座[邦]
  766堀江市の側上上精出してかたり給へ聖宋げんほう 
久太夫(竹本)766京都上上ふし付にほねを折貞観永ほう 
久太夫(豊竹)781・3肥前上上  
肥前掾(豊竹)1726年(享保十一)二月豊竹新太夫トシテ初出座、1734年(同十九)江戸へ下り元文ノ始メ肥前掾ニナル[邦]
  746辰松上上吉今歳から二度のおつとめうきふしつらき川浪に身をしづめ給ふ鵜の鳥東の座初出勤は「身替弓張月」。「秀里」の頃より人気出る。「金短冊」の年の盆より外記座へ下る。初下りは「合戦桜」彦七病気の段。翌年の「富士日記」以来世話場を主として語る。此度の「石橋山」三段目大当り。昔の様に律気に語ればいが、今はこんたん過て我儘ぶし多く、入れ事もあり、大入りの日は気を入れて語り、不入りの時は代役をたてる。
  756m   大坂の出生、若年の比より此道に立入、越前掾に随従し新太夫と号し、享保年中お江戸に立越、程無芝居を興行有、豊竹肥前掾と受領し、芝居迄求られ、猶、薩摩座・辰松座ハ休の時も有ぬれど、豊竹座斗は絶せぬ繁昌、芝居主と座本と太夫との三つを兼備せしは、京都に宇治加賀掾、大坂に豊竹越前掾、江戸には豊竹肥前掾との三人斗m
  761江戸上上吉後てには蓬莱にのり給ふ銭亀橋 
  762味いも少しさつはり仕合よしの葛溜りm 
  763江戸不出其土地にはびこる鳳凰草の花 
  764みいりのよい千箱の玉 
  765  
  766  
  781・3   若年より越前掾に随従し、やがて新太夫と号す。享保末年江戸に下り、肥前という座元の名目を求めて芝居興行し、肥前掾を名乗る。改良したる事。1.延享迠の人形招きの看板を画看板にかえる。これは江戸風には背きし事。2.夜中木戸前に明日札をあんどうにてかけ始める。延享四年春「菅原」大入り大当り。神田町紺屋町へ家を建てたから、すがはら長屋と言はれる。宝暦十一年、伊勢太夫へ名目を譲り、自らは隠居して宮内と改めたが、伊勢太夫病身のため、名目を辞して帰阪、そこで宮内を再び肥前とした所病死す。
比奈太夫(竹本)763京都上上源氏物語にもれぬ夕顔の花 
兵庫太夫(豊竹)781・3肥前上上  
鰭太夫(豊竹)1755年(宝暦五)十一月出座[邦]
  756豊竹 若術 
  757上上士贔屓のぼりは段々に増してくる大峯山「前九年」の評あり
廣太夫(豊竹)781・3肥前  
冨士太夫(竹本)766江戸上上ねばりのつよい祥符通宝 
豊前掾(扇谷)765四条南 歌舞伎出勤 
筆太夫(竹本)766京都上上しよ人ひいきに思ふ皇宋通宝 
  777外記上上吉しろきをみればきびしい手取り岩附町の油屋作介。「城木屋」は一昨年から去年迠二年越しの当りをとる。小音になり。
  781・3肥前大上上吉誉は四方にかほるそのいさおしは大好庵[豊竹筆太夫] 初下り以来何を語っても面白し。真の義太夫節ではないとの噂あり。「城木屋」、「かさね」、「比翼塚」花川戸大出来。当春「むかし唄」九の評あり。
  781・9 上上吉  
  806   油屋佐助と云。江戸にて評判宜く。妹背山酒屋、城木屋、糸桜小石川、比翼塚花川戸、万代曽我m
麓太夫(豊竹)1757年(宝暦七)十二月初出座[邦]
  758 中品ノ中馴染みはなけれどきよう肌なと誰も夕顔 
  761 上上たへず御ひいきに預り手形箱 
  762 上上士段々料理に遣ふ蜊きいたかからし酢m 
  763 上上吉日の出とほめらるゝ朝顔の花 
  764 上上吉細工に用ひて上なし目のふの玉 
  765 上上吉段々と出世あらん今ぞ日出米 
  766江戸上上吉かず〳〵そろへてたつとし嘉定通宝 
  781・9 上上吉けつかうな声はどこ迠も融大臣声大きく、敵形から女形迠夫々にわかる。しかし糸をつむぐ様な声、語り出しは低く、後へ行く程大きくなる。好評の「巌柳」、「出口」以来当りなし。此度の「白石」、「千本」三、「景清」の評あり。 大阪にて評判よし。立物にて名高し。別て生涯評判うけたる浄るり戯題。 三代記七ツ目、花襷四ツ目、太功記十段目、蝶花形八ツ目、出口四ツ目、木下蔭七ツ目
文太夫(竹本)727   ふしみや五兵ヱという商売屋。竹本座→豊竹座→竹本座。浄るりおとなしく、節こまかに、詰修羅巧者、杉山勘左ヱ門に同じ。浄るりの一体を崩さず本間に語る故、当り目すくなし。 声量不足
文太夫(竹本)763 上上手打に上手の入るそばの花 
  764外記上上士取りつくろわすきれいにしら玉 
  765 上上士色で丸めたやうに聞へる嶋原米 
  766堀江市の側大きにやはらいたり大和通宝 
巻太夫(竹本)777外記上上巻のはにきり立のぼる評判「おさな陣取」三ノ口好評
政太夫(竹本)若竹政太夫 1712年(正徳二)竹本政太夫トシテ出座
  727   中もみや長四郎。豊竹座京都興行の時、若太夫方にて勤める。大阪に下り曾根崎の芝居にて若竹政太夫と改名。両年勤め、三年目に出雲方へ出座。荻野八重桐に同じ。小兵なれど取廻りりゝしく修羅つめなどかゆい所へ手の届く如し。別して段切を大事にす。音声は非力。
  756m   中紅屋長四郎。若竹政太夫と号し、始めて豊竹座を弐年勤、三年目に竹本座へ住て立物と成、筑後掾の跡替りを勤らるゝ竹本義太夫と変名し、播磨掾藤原喜教と受領せられしが、延享二年乙丑七月廿五日に五十四才にて死去、不聞院乾外孤雲居士m
  (竹本播广掾にツヅク)
  1734年(享保十九)二月竹本義太夫、翌年十一月竹本上総少掾、1737年(元文二)一月、竹本播广少掾ニナル[邦]
政太夫(竹本)1743年(寛保三)十月初出座[邦]
  747・2 上上吉師匠の名まで揚葉の朝鮮扇子ざこ場にて十兵ヱといひ、小政という異名、故播广に生写しのため政太夫となる。もち〳〵とねばつく浄るりなれど、「菅原」二ノ詰など位事は好評
  747・3 此人と兵庫渡海といふ、心は播广迠は行かぬざこ場重兵ヱといふ魚屋。播广少掾門弟。芝居出勤時より声大きくなり、風もかわり巧者なれど少し癖あり。浄るりを十分に練るため、人形三味線の間も折にははづれ易し。岩井半四郎に同じ。当世芝居にて面白く、やつし、世話事の名人。
  747・0 声は鯉のさし味、あぢはいより名がよひ、節は者のはてそうな、なぜ、うつりが残ってねる。 
  756  成功甚深琢磨無類歌仙第三文屋康秀の歌の意に同じ、浄るりは功者にして其体俗に近し譬ば商人の能衣着たるが如し
  757 名大上上吉播广殿面影に少しも変らぬ浄瑠璃の響き尾上の鐘m初床の「真鳥」より一度も悪しい事なく、全く文正翁先生におもざしが有る。「姫小松」の評あり。
  758 左座上品ノ大上上万代迠も西の座の大立者、只よい〳〵と持て囃す猩々舞播广掾門弟で雑魚場重兵ヱ。寛保三年、三度目の「真鳥」に竹本座初床。次の替り、「児源氏」大当り、その後「菅原」二、「千本桜」狐、「布引」三ノ詰、「道風」三 大当り。去る子年の秋、京都の座へ御越有っても好評にて、丑年の「姫小松」三ノ詰、「春日小町」三四ノ詰大出来。播广掾の音声節付共に直写しに語られ、其上心を付て芸を大事にかけらるゝ。須广明石の風景の様、心は、名にしおう所なれど、播广の中程行き届かぬ。
  759   浄るりはよく語りても前の政太夫と一口には言はれず。いはゞ田舎から来た養子の身代をよくかたむるが如し
  761 極上上吉位事にかけては誰か聞ても千両箱 
  762 ひほとしのよろまたいさきよき海老の台引m 
  763 富貴のかたちとほめる牡丹の花 
  764外記自由自在に妙を得し満干の玉 
  765 糸筋をたがへす通す播广米 
  766   明和二年七月十日、五十六才にて歿。声誉雲外冝乾居士
  806   サコバ十兵ヱ。西口とも云う。此人始より播磨の名をうけ三ノ切語り。生涯評判よきもの 菅原二ノ切天拝山、千本桜二ノ切・狐、忠臣蔵四段目・十段目、双蝶々八ツ目、布引三ノ切、恋女房四ノ切、道風三ノ切、姫小松三ノ切、日高川三ノ切、菊水巻三ノ切、安達四ノ切、蘭奢待三ノ切m
政太夫(竹本)(竹本中太夫カラ)
  781・9 上上吉おしい事は何処へ往ても三日太平記小音になったが、うま味が出来る。西口の弟子か岸もとやの弟子か分らぬ。去秋より京都出勤。「紙治」(安永七、四、北新地)、「亀山噺」(同年、七)「曾根崎村噂」下の巻(同年九)以降休み。その後、「盛衰記」四、「紙治」、「信仰記」三、「児源氏」、「応神天皇」を勤める。
  806   塩町はりまや理兵ヱト云う。前名中太夫。二代政太夫弟子にて明和中より文化年中の間三ノ切斗語られ立者上手なり。三ケ津評判よし。播磨二代目政太夫場の三ノ切のみ語られ中にも生涯評判よきもの 太功記本能寺、亀山噺在所、紙治、比良嶽三ノ切、彦山毛谷村
  1811年(文化八)七月十四日、八十才で歿[邦]
増太夫(竹本)746 上上さりとてハうつくしい声のうづら去秋辰松へ下り「西行」二ノ口好評。冬より外記へスケに出、「真鳥」四ノ切を勤める。当春いなりで「武烈」二ノ中、道行のツレ、六ノ奥を勤める。声あり、達者なり。
増太夫(扇谷)765四条南 歌舞伎出勤 
桝太夫(陸竹)747・3 上上未だ評判知れず 
  747・0 上上十声は大めしくらい、とははりまくさい、 節は茶の下座、なぜ、おりが残る様な 
  761肥前大上上吉誰がきいても道筋わかる新大橋 
町太夫(竹本)766江戸段々出世有べし宣和けんほう 
町太夫(豊竹)777肥前上上士初下り御当地にながくもがなと当春初下り、氏太夫を真似るよう
町太夫(豊竹)781・3外記  
的太夫(北本)764北本上上色々の役に立ものなまり玉 
万太夫(竹本)766 上上いつてもこへのかゝる元符通宝 
万太夫(豊竹)764 上上遣いでのあるいとの玉 
三木太夫(豊竹)761外記豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  762江戸舟路を追風てまづろは早く車切 
岬太夫(竹本)1759年(宝暦九)九月初出座[邦]
  761 上上色々と節に心を懸物箱 
  (竹本咲太夫ニツヅク)
美知太夫(陸竹)747・2陸竹  
  747・3上上此人を天王寺からうつす相庭といふ、心は、平野へ取るはさて道六とて平野の道具商。杉山藤五郎と同じく、柄はよいが、読みがこまぬ
  747・0上上声は二百二十屋、とは平野の通用、節は呑んで花見、なぜ、しやらなふて京がよい 
道太夫(陸奥)746辰松上上能ならふ〳〵と聞ク人がいふづけ鳥前名喜之助、「石橋山」序切達者
道太夫(竹本)761土佐豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  765江戸上ト声かゝる様にとひいきを松代米 
光太夫(豊竹)763 上上とり廻しやぼでない水仙花m 
  765江戸上上手取り物と聞ゆる伊勢崎米 
美名太夫(豊竹)761肥前上上吉初ゆかから三段目詰を取こへ橋 
  763江戸上上吉人聞てのんどならして引つわの花 
湊太夫(竹本)761土佐上上吉声がかゝってにぎやかな日本橋 
湊太夫(北本)764北本上上吉奇妙〳〵とほめる品玉 
湊太夫(豊竹)781・9   
湊太夫(豊竹)806   歴々なれども末世に残りたる戯題しれず
三根太夫(竹本)1763年(宝暦十三)十二月初出座(邦)
  764外記上上ゑり出して遣ふ数の玉 
  765 そゝけぬやうに思ひます阿穌米 
  766堀江市の側めっきりと上りました宋元通宝 
  781・9 聞しめるとしっかりとした昔八丈くせのない浄るり。「塩飽」三ノ中(安永五、九、竹本)「妹背二ノ切と「大塔宮」三ノ口(同六、四、北新地)「安土」四ノ切(同九、一、竹本)「時代織」(同十二、竹本)の評あり
  806 上上吉 八兵ヱと云う。「五人切」名人なり。大阪にて評判よし。
三和太夫(豊竹)727   内匠理太夫の子で勝次郎。十五才の時、辰松八郎兵ヱ同道にて和歌山へ下り浄るりを語る。卯(1723年、享保八)の十一月朔日より豊竹座へ出て、三和太夫といふ。器用にて手跡よく、三味線もよく、ふしのうけ取。本ぐり早し。地事景事道行はよいが、つめ詞に少し難点あり、嵐三五郎と対比。
  (豊竹上野少掾ニツヅク)
  1734年(享保十九)十月竹本内匠太夫、1741年(寛保元)九月、豊竹内匠太夫、1745(延享二年)十一月、豊竹上野少掾ニナル[邦]
三和太夫(豊竹)746上上御病気とやらの故か評判眠めなふくらう辰松座、「三庄太夫」三ノ口大当りの後旅へ出る。再び辰松座へ出勤すれどさしたる事もなく、その後病気
三和太夫(豊竹)763江戸世にはびこりて目出度稲の花 
陸奥太夫(豊竹)747・2 上上吉御口中もさつぱり自由に廻るからくり扇子堀江にて平太と言う。当世の気に応じ受けよく、声ふし共に打ちそろう。
  747・3 上上吉此人の声を郡内嶋といふ、心は、地がよふてうつくしいはさてm平太という商人。芳沢あやめと同じ、音曲おとなしう、下卑ず、開合さっぱりとして、せりふよし
  747・0 上上吉声は坊主あふぎ、とはほねぶとなが始末、節はかい帳のふだ、なぜ、近年のはやり物m 
村太夫(竹本)764京都上上沢山にして用いるあい玉 
  765江戸上上士此次には語給ふと皆々松本米 
  766しぜんときよう有天聖げんほう 
  777外記上上吉しだり尾のなが〳〵しいが功者株「矢口」道行、「千本」三ノ中好評。「おさな陣取」二ノ切は聞きとれず。
  806   中村屋源次郎と云う。「本町育」行徳、「矢口」道行よしm
村太夫(豊竹)781・3肥前上上吉商ひ功者になんでも重宝な十九文みせ結城座の「花襷」は此の人一人の大入り大当り。当春「むかし唄」五ツ目の評あり
文字太夫(竹本)1740年(元文五)九月、豊竹文字太夫トシテ初出座、1747年(延享四)八月改姓[邦]
  747・2 上上吉聞からに花やかな間拍子のよい舞扇子両年豊竹へのち尾州へ、去年帰り竹本座へ出座。
  747・3 上上吉此人の音曲雪ふりといふ、心は、しつほりとして面白い浄るり小兵なれど、ふし事地事よし。山下又太郎と同じく、仕打ち手際よし
  747・0 上上吉声はまめ巾着に小玉、とは、ちいそうてもきれいな、節は勘当のむす子、なぜ、江戸もどりからよい 
  781・9 上上吉声がらはちとかた過る金年越声大きくてよく通るが、ぎん過て固い。「時代織」二ツ目、六ノ口、「崇禅寺」屋敷の評あり。
  806   其の名高しといへども二ノ切迠ゆかず、其の頃名人多き故也
元太夫(豊竹)746辰松お師匠ににてかたひかしとり 
元太夫(豊竹)747・2 上上士どこやらに見込みのある黒絵の扇子m京都より下り豊竹座出勤
  747・3 上上吉此人の上るり勝間[こつま]もめんといふ、心は、器用なれど地がよわいm京都生れ、越前風に心をよせ、豊竹座に入る。「時頼記」四段目好評。嵐小六と同じ、音曲きれいにして面白し
  747・0  声は切付のせった、とははてしりがほそい、節はやき物のうし、なぜ、京からの出じやm 
元太夫(竹本)757京都上上吉のつしりとして御かうしやな所ニミな目をさますあさひやま大和掾に似た所もあれど、これはうぶから美しい声。「夏祭」の評あり。
  762   
  763上上吉是はとほめはずんだ袖の花 
  764上上吉かたり伝へによりくる珠数の玉 
  765四条南 歌舞伎出勤 
  766京都上上吉引くるんでように立開喜通宝 
森太夫(竹本)727   音曲未だ実のらず
森太夫(竹本)1756年(宝暦六)二月初出座[邦]
  756竹本 対揚 
紋太夫(竹本)1741年(元文六)一月初出座[邦]
  806   播磨掾弟子にて名高し。後に受領して竹本上總掾となる。生涯名高き語りもの 薄雪清水の段、伊呂波縁起わしの段、出入の湊瓢たん丁、橋供養二ノ切、双蝶々米屋の段、布引二ノ切
  (竹本上総太夫ニツヅク)
紋太夫(竹本)756竹本 声花秀術 
  757上上吉御出世は段々に吹寄せ来る女波男波の和歌の浦師匠は上総。「姫小松」の評あり
  758 上品ノ上はんなりとして美しいちつかの錦木上総太夫の弟子にて、師匠に負けまじき器量。九年前の冬より出勤
  761 上上吉諸方から引立る三味線箱 
  762江戸上上吉三ツやく揃たたいの急度向詰めm 
  766 座本をつとめて繁昌する和同珍開m 
  806   其の名高しといへども二ノ切迠ゆかず、其の頃名人大き故也
紋太夫(竹本)781・9 上上吉  
  806   此村屋治兵ヱと云う。前名 倉太夫。取分け江戸にて評判よし。白石噺五ツ目・七ツ目、伊達競とうふや・土ばし、花上野品川、紙治
紋太夫(豊竹)781・3外記巻軸功上上吉御巧者な立こみはどっしりとした駿河町の越後屋1775年(安永四)秋名古屋若宮八幡社内にて七月朔日より「妹背山」岡太夫と三ノ切かけ合、二ノ切、九月より「剱の紅葉」縁切、ともに大当り。1778年(同八)江戸初下り。「菅原」三ノ切大当り、其の後「伊賀越」、翌年の「伊達競」も好評。外記座新太夫の後見
八重太夫(豊竹)1762年(宝暦十二)四月豊竹八蘇太夫トシテ出座、1765年(明和二)二世八重太夫ニナル[邦]
  765 上上一トふしとこやらが尼が嶋米m 
  766江戸上上あいきやうは一ぶんのとく天福鎮ほう 
  781・9 上上吉口中はさてもよふ廻る車海道mいづ平。江戸下り以来好評。京都でも「おどけ曽我」、「新口」大当り。「融大臣」二ノ切(安永六,八、北堀江)、此度の「白石」十一冊目の評あり。ウレイ場は口に合ぬが、チヤリにかけてはきついもの
  782   三年以前、江戸の「新口」は大当り。去冬より外記座へ下る。1782年(天明二)一月「鏡山」九ツ目を語り、「近江源氏」九ツ目が目見得。1776年(安永五、四、北堀江)「三国無双奴請状」四ノ口大当り。m
  806   伊豆平と云う。「堀川」は名人なり。三ケ津にて評判よし
  1794年(寛政六)十月歿[邦]
八尾太夫(竹本)765京都上上聞てうかるゝふしは小室米 
  766上上ます〳〵ほめます紹定通宝 
八義太夫(豊竹)762江戸上上士江戸へは出世の鰡八情一はい筒きり 
  763こまかにしをらしいは南天の花[竹本八義太夫]
八十太夫(竹本)764土佐思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
彌太夫イ巴國)747・0 上上声はなら茶くらべ、河内からの出じや、節はやとひ徒士、どこやらそゝつく 
彌太夫(陸竹)747・2陸竹末たのもしき御巧者追付左扇子故錦太夫門人。おどけたる所、さはぎたる所などおかしく、面白き節などよく付けらるゝ。拍子はよいがウレイ事は少し申分あり。国太夫、文弥など多からぬ様に頼ます。
彌太夫(竹本)(竹本磯太夫カラカ)
  781・9 上上吉語りやうは突出した兵庫岬声は丈夫。北の「昔八丈」白木屋、「安土」序切の評あり
彌太夫(竹本)806   紙屋儀右ヱ門と云う。「鎌倉山」四ツ目の評判よし
大和太夫(竹本)727   和州田原本の人。「天神記」天拝山が初床で好評。おとし一流かはり、思入れにあてん事を第一とする故、見物受けよし。嵐三右ヱ門と同じ。世話事よし、時々とんきようなる声が出るが、声大きにして語出し派手なり。
  806   前名 彦太夫。播磨掾におとらぬ名人にて始終四ノ切語なり。生涯評判よろしきもの 日本振袖四ノ切、寿門松新町、宵庚申在所、川中島四ノ切、真鳥四ノ切、鬼一四ノ切、篠原四ノ切、京土産、兜軍記琴責
  1733年(享保十八)三月十二日歿
大和掾(竹本)(豊竹上野少掾カラ) 1751年(宝暦元)再受領 [邦]
  756竹本 至功美麗音節無双歌仙第五小野小町の歌の意に同じ、古への竹本頼母の風也。音声艶敷して気力なし喩へていはゞ能女の悩ある所有に似たり
  757實大上上吉神代からの行儀をくづさず音曲の随一は天の橋立日本惣巻軸。浄るりの行儀をくづさず、古風に語る故語り口は淋しうて退屈する。始め三輪太夫という。「姫小松」の評あり。
  758 極上品上上音せつの正風躰と声の優さは牡丹に獅子の石橋始め東の座にて三輪太夫。それより出羽の芝居で伊藤と名乗り、其後西へ住んで竹本内匠太夫、再び東へ帰って豊竹内匠より上野掾と成る。それより京都へ行て竹茂都大隅、去る辰の年、再び竹本座へ帰り、「大内鑑」子別れ、恋女房」重の井愁ひ、「愛護若」、「盛衰記」鐘の場大当り。「粟嶋系図」は不評(二十日程で打上げ)。父は内匠理太夫で越前掾の門。浄瑠璃の格式正しく行義乱れず、筑後越前の遺風を守る。声柄は美しいが、生得微力なる声故か、序破急の分ち立ち難き故に、詰合、段切の場に至っては、かゆき所へ手の届かぬ様な場も折に触れては有り。十種香の会の様、心は、花車で奇麗に優しき遊びなれど下々へは向きにくい慰みぢや。
  759   昔の頼母の流れ、ふし事あまりて地事いかず、いはゞ鼻歌で女をふづくるに同じ
  761 至大上上吉評判に及ばぬ物せかいの伽羅箱 
  762 至極上上吉小たゝみにすると海鼠は上なし極っていり酒 
  763 うつくしく咲き分る源平の梅の花 
  765江戸世界で随一ともてはやす尾張米 
  766京都五ゐんかねそなへたる五行たいふ 
  806   始め三輪太夫、内匠太夫、大隅太夫。豊竹座を勤め、又竹本座に戻り、播磨跡続となる。節語りの名人なり。評判よき浄るり ひらかな鐘場、薄雪心中、双蝶々はしもと、恋女房十段目、役行者三ノ切、蛭ケ小嶋三ノ切、安達三ノ切、あいご中ノ切鐘場
  1766年(明和三)十一月八日歿 [邦]
由良太夫(豊竹)781・3肥前  
百合太夫(竹本)1741年(元文六)一月初出座[邦]
  747・2 上上士美しさは粋らしい加賀扇子此太夫門弟。拍子よし
  747・3 上上吉此人の声をほし月夜といふ、心は上が賑はしい丹州生れ。健気な音曲にして、あまり、とんだふしを語らず。三保木七太郎に同じく、功者なれど当りはなし。
  747・0 声は生魚節同ぜん、とは大きうて歯ぎれがせぬ。節は進上に一升樽、なぜどうでも徳利がないm 
  758 中品ノ上上語り方のじょうぶささっても強い弓八幡十八年前竹本座初出座。以来七年間勤める。辰の冬より豊竹座を暫く勤め、それより江戸、京へ。去る丑の冬より竹本座へ帰り新参。
  761 上上吉老木でも語りかたは数年の香箱 
  762 老功は蛎を一所にあたゝまる湯とうふ 
  806   其名高しといへども二ノ切迠ゆかず、其の頃名人多き故也
百合太夫(竹本)777外記上上吉うつくしい声があまりてなとか富田屋庄次という。声が良く、突込んで語るが、同じ節ばかり語るよう。近頃は評判が少し滅入る。
  781・3上上士うつくしい声はやま〳〵ある五町の夜みせ初下りの「妹背山」四は大当り。外記座の頭取
  806   鬼と云う。「昔八丈」鈴ケ森 評判よしm
芳太夫(竹本)781・9   
淀太夫(竹本)763 上上手入なしに見事なぼけの花 
  764土佐上上士愛有てにぎやかな手玉 
淀太夫(豊竹)766豊竹   
頼太夫(豊竹)761肥前豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  762江戸上〃すききらいの有ってうまい鮫汁 
  764土佐思ひ付いろ〳〵とある年玉m[竹本頼太夫]
  765 上上うるほふ水をたゝへて丸亀米 
  781・9 上上吉ずっと聞のおそろしい皿屋敷m此度「白石」五ツ目、七ツ目掛合、八ノ口の評あり。女形の口跡いやらし。
  806   米屋利右ヱ門といふ。「白石噺」逆井村評判よし
力太夫(尾張)747・0  声は手をたゝく、かんがござらぬ、節はきんかあたま、すれてひかる 
理喜太夫(豊竹)761肥前豊竹本と一所にならぶ扇橋 
  762江戸上〃すききらいの有ってうまい鮫汁 
  763上上よらずさわらず野菊の花m 
  764肥前上ト思ひ付いろ〳〵とある年玉m 
律太夫(豊竹)766豊竹   
律太夫(竹本)781・9   
律賀太夫(豊竹)766豊竹   
若狹太夫(豊竹)746辰松上上吉功者なれ共どこやら淋しいかんこ鳥大坂で絹太夫といって稽古屋で名高き人。去る頃、肥前座へ下り、内匠のせううつしで「久米仙人」三ノ中を語る。芸はうまいが評判がたゝず。当春「石橋山」三ノ中はお下り以来の評判。地過ぎて味そごい
若太夫(豊竹)746若松巻軸上上士お年寄ツてもお名ハくちせぬきんけい鳥堺嶋太夫とて東門弟。若い時から芸大ざっぱいに取じめはなけれど、声柄大音にて二の音よし。当春久々出座の「夏祭」評あり
若太夫(豊竹)(竹本島太夫カラ)
  756豊竹 優艶妙絶音声無類歌仙第一僧正遍照の歌の意に同じ。浄るりの様は得たれ共其言葉花にして実少し、譬へば図に画る女を見て徒に情を動かすが如し
  757 大上上吉結構な御声は汲めども尽きぬ湧き出づるみづうみm四段目の詰は天下第一。「前九年」の評あり
  758 中央上品ノ大上上評判は日本一の名物、世上に響き渡る富士太鼓元文四年、竹本座「盛衰記」が初床。「菅原」四段目は太夫中第一の当り。豊竹座にては、「橋供養」四段目琴の場は下地よく声に色と匂ひが有り、「かしく」は愁嘆にうま味。「後三年」と「勲功記」四段目の濡れ場は美うて〳〵どうもたまらず。声は世上に又と一人並ぶ人は有まじ。此の人をのけては今の世に四段目の切を賑かに面白う語る人は聞及ばず。しかし芸に実の入ぬ様に聞ゆる時も有り(四の切は見物の気に聞き退屈の出る折なれば、声花やかなる語り方に有ざれば見物が精をつかす物也)。今度「信長記」三の詰は天晴れ御手柄。花見小袖の様、心は、模様は派手で美しけれど、中入の真綿が薄さうに見ゆる
  761 大上上吉当年曾根崎に当りのつよい矢箱 
  762 亟上上吉高銀に光る蚫の福ニふくらいるm 
  763 極上上吉品数多くてよいさくら花 
  764 何方より聞ても面向不背の玉 
  (竹本島太夫ニツヅク)
若太夫(豊竹)806   幾竹屋庄蔵と云う。前名 和佐太夫 島太夫。其名江戸にて高し。評判よきもの 先代萩御殿場、新八百屋、小田館五ツ目、三勝、書置m
若太夫(竹本)806   歴々なれども末世に残りたる戯題しれず
和歌太夫(扇谷)765四条南 歌舞伎出勤 
和光m(竹本)766 段々出世有べし宣和けんほう 
和佐太夫(竹本)765京都上上一とくるめに取かこんた大垣米 
和佐太夫(豊竹)766豊竹   
鷲太夫(竹本)763江戸上上気に拍子の有るたんほほの花