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【 浄瑠璃評判鶯宿梅 】

国会図書館古典籍資料(書名:儀太夫評判記)によった。
判読できない文字は□とした。徳川文芸類聚を参照した。
興行年月は義太夫年表近世篇に従った。
白抜きの「吉」は[白]と注記した。

 
それ上るりは、作者のこゝろをたねとして、万のふし付とハなれりける、花にながむるうかれ人、ミずにすむ座頭、いづれか義太を語らさらんや、力をも入れずして、御家老の治部右、しわき親父の心をもやハらげ、情なき田夫野人にもあはれとおもハせ、男おふなの中おも、むつまじうするは、此ミちなるべし、伝へきく永緑の比かとよ、小野のお通と[1オ]いゑる艶女のつくれる上留里御前の趣向より、上るりの名目こゝに起り、瀧野角沢のちよつかいにて、三味に合せて世に流布し、江戸半太夫のゆう/\たる流れより、河東の一曲に伝へ、土佐外記、あるハ都一中豊後文彌のたぐひ、其おもむき家/\の節流あまたなる中に、わけて竹本豊竹のすへ葉さかへて、お江戸にしけり、湯入の人のはだかの出語、夜あるきのともがたり、小むすめのけいこ所、ミな/\[1ウ]竹豊の曲声にあらざるハなし、いまやお江戸操二座のはんじやう、太夫三味線の名人佳手、とし/\に下り、その折/\の新上るり、ふしごとの名音耳にミち、まことにはつ春の初音のけふにあへる心地して、あなたの清音、こなたの囀りを聞まゝに、すなはち鶯宿梅と題して、上るりのひやうばんとハなすものならし、[2オ]
 
三芝居藝品定二の替大評判 来ル五月五日より□御覧入候
役者東花王 全三冊
附リ 嵐雛助恋女房役割細評入 作者虎水
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竹本豊竹 外題年代記 先達テより売出し□申候 御もとめ御覧
并ニ豊竹座外題残リミ□五月五日より売出し申候
御求御□下候[2ウ]
 
操上るり評判鶯宿梅
 
さかい町 豊竹肥前掾座元 豊竹東治
同    薩摩掾外記座元 豊竹新太夫
 
太夫目録
見立江戸の商家に寄する、左のごとし、
 
極[白]上上吉 豊竹住太夫 外記座
  巻頭にすへてきつときゝます團十郎もぐさ
眞上上吉 豊竹氏太夫 肥前座
  声のしこみもよく当り違ハぬ両替町のこく印[3オ]
大[白]上上吉 豊竹筆太夫 同
  誉ハ四方にかほるそのいさおしは大好庵
ほうび
上上吉 豊竹駒太夫 外記座
  誰もうまいといふ名物の駒が出たひやうたんやのそば
上上吉 豊竹内匠太夫 肥前座
  きれいでうまいぞ瀬戸もの町の白玉もち
上上吉 豊竹島太夫 同
  誠に上るりの根づよき語うちハうごかぬ大ぶつもち
上上吉 豊竹出水太夫 同
  お江戸初下りにてよいといふ祇園細工の山ぼこ[3ウ]
上上吉 豊竹村太夫 同
  商ひ功者になんでも重宝な十九文見せ
上上士 豊竹百合太夫 外記座
  うつくしい声はやま/\ある五町の夜ミせ
上上士[白] 豊竹伊勢太夫 同
  代物は小さけれどめき/\としあげたおまん酢
上上 豊竹友太夫 肥前座
  追善でよいといふむまみが出た瀬戸物町の干物ミせ
上上 豊竹七太夫 同
  いつでもしつかりときゝちからのある相撲とりかうやく[4オ]
上上 豊竹倉太夫 外記座
  江戸着より御当地の氣を呑込た新橋のしがらき
上上 豊竹折太夫 肥前座
  いつでもよくちやりで売れます田原町の弘慶子
上上[白] 豊竹兵庫太夫 同
上上[白] 豊竹絹太夫  外記座
上上[白] 豊竹多美太夫 肥前座
上上[白] 豊竹此面太夫 同
上上[白] 豊竹久太夫  同
上上[白] 豊竹直志太夫 外記座[4ウ]
上 豊竹喜志太夫 肥前座
上 豊竹喜代太夫 同
上 豊竹布太夫  同
上 豊竹廣太夫  同
上 豊竹伊与太夫 同
上 豊竹由良太夫 同
上 豊竹鶴太夫  同
上 豊竹高太夫  同
上 豊竹枝太夫  外記座
上 豊竹町太夫  同[5オ]
上 豊竹淺太夫  同
上 豊竹千代太夫 同
上 豊竹和太夫  同
上 豊竹喜久太夫 同
巻軸
功上上吉 豊竹紋太夫  外記座
  御功者な立こみハどつしりとした駿河町の越後屋
 
三味線の部
大上上吉 鶴沢名八  外記座
上上吉  鶴沢蟻鳳  肥前座[5ウ]
上上吉  野沢庄治郎 同
上上士  野沢喜治郎 外
上上士  鶴沢吾八  肥
上上士  野沢東三郎 外
上上十  野沢藤五郎 同
上上   大西藤藏  肥
上上   野沢太八  外
上上   野沢繁六  同
上上[白] 鶴沢間三郎 肥
上上[白] 鶴沢勘五郎 同[6オ]
上上[白] 鶴沢吾四郎 同
上上[白] 鶴沢久米藏 同
上上[白] 野沢市次郎 外
上上[白] 野沢仁三郎 同
 
肥前座
上 野沢庄藏  上 鶴沢十七八
上 鶴沢繁藏  上 鶴沢喜代八
上 鶴沢常藏  上 鶴沢佐市
上 鶴沢大二郎 上 野沢庄二郎
上 鶴沢久之介 上 鶴沢平五郎[6ウ]
 
外記座
上 野沢小三太 上 野沢此八
上 野沢政五郎 上 野沢秀八
上 野沢藤吉  上 野沢榮二郎
上 野沢長次郎
功上上吉 野沢富八 外記座
 
座元部
上上吉  豊竹東治
     豊竹新太夫
ます/\繁昌のさかり根づよき染井の植木ミせ
 以上[7オ]
 
  極[白]上上吉 豊竹住太夫 外記座
見物左衛門曰「何れも方へ御聞合もいたさず、予が一存にて此住太を巻頭にすへましたが、そゝうでもござるまいかと存る、頭取曰「数年來三ヶの津のあやつりを見物被成たる大通の先生、音曲大悟の御はからひ、誰か壱人妨を申ませう、御心入のとふり、此太夫ハ過し明和元申の年かと覚候、大坂筑後一座、御当地外記座へ下られし時ハ、『姫小松』[姫小松子日の遊 宝暦14・1・2外記座]の三の口の役、又『千本』[義経千本桜 明和1・6外記座]の二の中、其比ハいつとても[7ウ]わき場なれども、おもしろい事でござりました、其後御当地にふミとゞまりで、次第/\にあたりつゞけて、今、わゐ口曰「おつと待てもらひませう、なんぼう頭取のお詞なれバとて、あたりつゞけとハあんまりじや、すぎしとし、『おさな陣取』[塩飽七島稚陣取 安永6・1外記座]なとの三の切ハ、大のふとゞき、つぶさに穴をせゝくつたらバ、まだ不出來が大ぶんあるぞ、見物左衛門いハく「此人ハきついねんしやの、五六年もすきた事を取出していはるゝ、かゝる音曲のミちハ、口にあふ処も有、又口にあハぬ語りばもあるものなれバ、年〃[8オ]のつとめなれば、すこしの不出來ハ誰人にてもありかち、然れ共一たい、三の切かたりにハ、動きなき上手、過し矢口の三の切もあたりはづさす、去年ひらかなの三の切などハ別て聞事、此春の『忠臣藏』[仮名手本忠臣蔵 安永10・1・2外記座]四ッ目また外にかくはな/\しき事をきく事ハ、もふ成ませぬ、なんといふてもきつい團十郎もくさ、今でのおや玉/\、
 
  真上上吉 豊竹氏太夫 肥前座
おもへハ此人、御当地の重年も余程久しい事[8ウ]に成まするか、日に増して評判よく御立身被成た、そのはづ、諺にも一声二節といへども、此人の妙音あまねく三ヶの津にまたと一人ハ有まい/\、初下りの出語に、『雁金』[男作五雁金 安永5春カ肥前座]の紺屋の段は、おそろしい事で有た、筆太ひいき曰「これ/\其やうな、かびのついたふる事を取出していはずと、おらが筆ぼうが、『しろ木や』[恋娘昔八丈 安永4・9・25外記座]の手柄より、打つゞきての大出來、今での手取をさし置、ここへハなぜ筆太をおかぬぞ、はやくおきなをせ/\、頭取曰「貴公の御しやりぶんも、御尤にハござれ共、此上下にハ、いさゝかの趣意もござれハ、先ハ[9オ]見物左衛門先生の方寸にまかせまする、次に『女護の嶋』[平家女護島 安永5冬肥前座]二段めハ、きびしゝに冬牡丹の花を咲かせての大入大あたり、角力の出語も宜しく、何を語られても、めてハとらぬ此人の勝角力、当春『むかし唄』[むかし唄今物語 安永10・1・2肥前座]七ッ目長兵衛腹切にて、女房つゞミを打ながらのうれい場、うかつに聞ハもつたいなし、
 
  大[白]上上吉 豊竹筆太夫 肥前座
世の人の諺に、くろかねの楯よりも丈夫なる事を、鬼に鉄棒といへども、地ごくの圖にて見る斗で、[9ウ]其はたらきハ眼前にミたものハなけれど、今その諺に合せていへば、此筆太夫か事なるへし、初下り[安永2 2度目:安永4]より何を語られてもおもしろい事、諸見物ハ申に及ハず、外々の芸者衆もきゝとれていられます、わる口曰「いや/\、なんほうおほめなされても、真の義太夫ぶしてないといふうハさも時々あるよ、頭取曰「それハほんのやつかみと申もの、取分け『昔八丈』[恋娘昔八丈 安永4・9・25外記座]の城木屋の段ハ、きもをおどろかせ、其後『伊達くらべ』[伊達競阿国戯場 安永8・3・21肥前座]かさねの段、『比翼塚』[驪山比翼塚 安永8・7・7肥前座]にて花川戸の段なと、大でかしにて、当春『むかし唄』[むかし唄今物語 安永10・1・2肥前座]九ッ目、藤井彌市どのとかごぬけ早替り、落間にての[10オ]一曲ハきついもの、いよおらが金箱め、
 
  上上吉 豊竹駒太夫 外記座
老人曰「当春は新太夫座へ、生駒太夫父の名跡をついで下られしよし聞及ひしが、是につけて親駒太夫の、お江戸へ初て下られし事を思ひ出せバ、はや一トむかしの夢とハなりぬ、アゝ名人かな名物人かな、すぎつる寛保二年壬戌の年[寛保1・9または冬か]、御当地肥前掾座へ、大坂表より豊竹越前掾、豊竹駒太夫、三味線竹沢東四郎、人形若竹東九郎、作者並木宗輔、筆者亀喜、右六人同道にて下らるゝ、此時が駒太の初ての江戸勤め[10ウ]なり、並木宗輔作新上るり出來の内、正月二日より、『田村丸鈴鹿合戦』[田村麿鈴鹿合戦 寛保2・1・2肥前座]をいたしたり、其時の手摺ハ、なにおふ若竹東九郎、森竹幸五郎也、アゝおめにかけたいハヘ、夫より三月三日より新作『石橋山鎧襲』[寛保2・3・3肥前座]、則ち四段目の切が駒太の役場にて、大あたり也、此上るり九月迄いたして、名残いとまこひして、越前掾、駒太夫、若竹、並木、皆々、大坂へ登りたり、其後寛延二巳年に、同じく肥前座へ下り、此時『仮名手本忠臣藏』の上るり、初て江戸表にていたしたり、則七段めかけ合おかるの役、同く九段めを語り、古今無類の大あたりにて、江戸中の見物の目[11オ]をおどろかせ、酒屋の樽ひろひ、犬うつ童、猫もしやくしもおしなへて、山科のかくれがをと語らざるハなかりし也、二の替り『御狩巻』[東鑑御狩巻 寛延2肥前座]の三の切大出來、朝伊奈の人形は、森竹幸五郎遣ひ大でき、此やうな事ハ又とみられず、此冬大坂へ登り、又宝暦十四申年下り、此節大坂の筑後座一まき外記座へ下り、政太夫、錦太夫なと一座の大できを引うけ、ことゝもせずして、『番場忠太』[番場忠太紅梅箙 宝暦14・1以降5以前肥前座]の三の切を語りて大あたり、只一人にて、筑後をみせつけ、大手柄也、五月節句より、『信長記』[祇園祭礼信仰記 宝暦14・5・5肥前座]も大できにて、其冬古郷へかへられ、又々明和[11ウ]三戌の年に下られ、『和泉式部軒端梅』[明和3・8以前肥前座]の三の切大出來にて、二の替り『忠臣藏』九段目を語られ、先年にかわらず大あたり也、此年の九月大坂へ登られしが、まことに是が御当地の一生の名残なりし、寛保二年の初下りより明和三年まで二十五年の間に、都合四度下られ、其たびごとにあたりはづさず、江戸中称美せし太夫也、此人と助高やハ、まことに奇妙の名人なりしが、つゐに古人とハなりぬ、扨今の駒太夫[生駒太夫改め]どのハ、去ル明和四年の春、肥前掾座へ[12オ]初下りにて目見へ出語、『頼政追善芝』四段目也、今年十六年ぶりにて下られ、則駒太夫と親の名跡に改め、出語は『兜軍記』[檀浦兜軍記 安永10・1外記座]琴責の段、大出來也、わる口曰「大できとハいはれぬ、殊外に三味線が勝たといふ評判でござる、頭取曰「なる程三味線名八殿ハ、親父のあい三味線にて、先年下りし人なれバ、今のむすこには少々かつたる処も有かち、然共其勝たる三味線を相手にして語らるゝハ、きつい手柄、上手の太夫衆の上手に語らるゝハほめず共よし、かゝる取立の人をほむるが、評判といふもの、ことにハ此琴責の段は、中こうにてハ[12ウ]喜美太夫、文字太夫など、れき/\の上手の語られたる処なれバ、一しほのほねがおれます、次に九段め[仮名手本忠臣蔵 安永10・1外記座]評よろしく、別て七段めかけ合、おかるの場ハ大出來にて、此頃ハ夜あるきの人々までが、勘平殿ハ三十になるかならずにと云ふ処を、かたりてあるきまする、かいるの子ハかいるに成ると、親におとらぬ大でき、あゝおやのかぶハ有がたいもの、まづハめでたふ一ツしめませう、しやん/\、
 
  上上吉 豊竹内匠太夫 肥前座
此太夫ハ去る安永五申年、外記座へ下られて[13オ]より、何一ツ取はずさぬ上手、中にも『双蝶々』[双蝶々曲輪日記 安永5・6年頃外記座]の米屋の段大出來、其後春太夫殿とかけ合、『妹背山』[妹背山女庭訓 安永7・1・2外記座]の三の詰ハ、さすがの春太どのも手を置たるほどの大でき也、当時肥前座への出勤、『むかし唄』[むかし唄今物語 安永10・1・2肥前座]の六ッ目はきびしいもの、古大和掾を御ぞんじなき方ハ、精出して聞たまへ、もちつとのよくめには、当世を少しまぜ合て聞たし/\、
 
  上上吉 豊竹嶋太夫 肥前座
初めの名ハ和佐太夫と申て、肥前座へ初下りの時、出語の『三かつ』[女舞剣紅楓 明和7肥前座]書置の段は、はな/\しくて[13ウ]よふござりました、その後折節休ミ多くして、はか/\しき事もござらなんだが、中登いたされて、師匠より名を受られ、嶋太夫と改名致されて、外記座におゐて『万歳の台』[寿万歳島台 安永5・1・2]の出語は、諸見物のかんしん、今にいひ出して称美いたしまする、当春『むかし唄』[むかし唄今物語 安永10・1・2肥前座]十段目の中ハ、さしたる御役場にてもなけれども、もちりやうの御声ゆへにか、おもしろい事/\、
 
  上上吉 豊竹出水太夫 肥前座
当春お江戸へはじめての下り太夫、『おはつ[14オ]徳兵衛』[往古曾根崎村噂 安永10・1・2肥前座]興孝寺の段、手すりなしの出語ハ、見物もかんにたへました、さし出口「いやもし、此人ハ近頃しろうとにて、染太夫の弟子じやといふ沙汰、あんまりほめたらあらが出てわるからふ、頭取曰「それは余りせんさくな?お詞、素人でも一心不乱の出精にてハ、歴々の太夫衆も及ハぬ事もありかち、年久しき太夫衆も、不精なれバいつも同じ位付、此度『むかし唄』[むかし唄今物語 安永10・1・2肥前座]十段目の切、ありふれたる役場なれども、御功者ゆへ皆人が咳もせかずに聞かれまする、是から御手際のほどが思ひやられまするぞ、[14ウ]
 
  上上吉 豊竹村太夫 同
過しころ結城座にて、『花たすき』[花襷会稽褐布染 安永4・1・2結城座]の新上るりの時にハ、此人一人りにての大入大あたり、諸見物も目をさましたる事也、一たい功者とだしては限りない事、当春『むかし唄』[むかし唄今物語 安永10・1・2]五ッ目屋敷の段は、別しておもしろい事、なんでも重宝な事ハ、また外にあるまい、
 
  上上士 豊竹百合太夫 外
初下りの『いもせ山』[妹背山女庭訓 安永3・4・11肥前座]四ッ目にて、竹にすゝめの段は、今に人が残り多がります、然れどもその[15オ]後おりふしお休ミゆへ、はか/\敷ひやうばんもござらぬ、どふぞ宜しき役廻りをまちまする、当時新太夫座の頭取を勤めらるゝ、二ツどりにハ徳用なるお人でござる、
 
  上上士 豊竹伊勢太夫 外
三代めの伊勢太夫となられし出精、いつも/\よく小どりまハしに語られます、めき/\と身が入りました、久しぶりにて外記座への出勤珍重/\、憚りなれども随分御修行なされい、今の間に大鳥になられませう、[15ウ]
 
  上上 豊竹友太夫 肥
この人ハ初めて下られてより[安永6か 物ぐさ太郎外記座]已來、これぞと申きつといたしたさへもござらず、いかゞとあんじましたる処に、此度音太夫殿死去いたされ、則ち追善の出語[むかし唄今物語 安永10・1・2肥前座]ハ、きついお上手があらハれまして、御手がら/\、
 
  上上 豊竹七太夫 同
さて/\いつの御役もしつかりと、聞ちからのあるかたりくちにてよふござりまする、なろう事なら、お声がもつとしんぜたい、[16オ]
 
  上上 豊竹倉太夫 外
この倉太どのハ、江戸のふうぎをきついのみ込みやう、どてらの上に麻上下の出がたりハ、見物がきつい承知/\、
 
  上上 豊竹折太夫 肥
当世の愛敬男にて人ずきあり、時々哥舞妓座へ勤められ、そが祭などの俄に出られ、其元氣たくましく、芸道も氣につれて段/\の上達、いまちやりの冠首ひらかなのあやつりハ、此人かなけれバならぬ様に成ました、諸見物がうれしがります、[16ウ]
 
 巻軸
  功上上吉 豊竹紋太夫 外記座
さて巻軸とハ動きない先生、此人のうハさを聞しに、去ル安永四年の秋、尾州名古屋若宮八幡の社内におゐて、七月朔日より『女庭訓』[妹背山女庭訓 安永4・9・15若宮御社地]、岡太夫と三段目切かけ合、役場ハは二の切、九月替りより『劔の紅葉』[女舞剣紅楓]縁切の場、古今の大あたりにて有りしと也、其後安永七年当地へ初て下られ、『菅原』[菅原伝授手習鑑 安永7・1・2肥前座]の三の切の出語ハ、諸人のきもをおどろかしたる事、言語に絶したり、わる口曰「いや/\、そう一はいにハいはれまい、いかにといふに、其年外記座ヘ、春太夫久しぶりにて下られて、大[17オ]入にてありしが、其時ハ此紋太のもんの字もいはなんだよ、頭取曰「其節ハ春太夫久々にての下りし事と申、又ハ御当地なじミ深きゆへのあたりもござる、畢竟語りくらべの、あたりふあたりと申事にてもござらず、其論ハむやくの沙汰、其後『伊賀越乗掛合羽』[安永7肥前座]、翌年『伊達くらべ』[伊達競阿国戯場 安永8・3・21肥前座]も打つゞき大評判にて、功者な事ハかぎりもない上手、当時外記座新太夫の後見とまでなられし大てがら、天晴/\、
 
座元之部
 
  上上吉 豊竹東治[17ウ]
そも/\元祖豊竹肥前掾ハ、元來大坂の出生なり、若年の頃より此道に執心にして、古人越前掾に随従して稽古おこたらず、上達して新太夫と号し勤め居られし処に、亨保の末年に当地に下られ、肥前といへる座元の名目を求めて芝居興行し、則豊竹肥前掾と名乗て座元と成る、生得利発の人にて、種々の趣意をなし、中にも操芝居ハ、延享已來迄ハ、かんばんハ人形まねきを出したる事也、然るを此人、大芝居のことく、画かんばんにいたせしより、今以て操座もまねきをやめ、通かんばんにする事也、然共是ハ大坂ハ知らず、江戸風にハそむきし事也、又夜中[18オ]木戸まへに、明日札をあんどうにてかけ初めしも、此人の思ひ付により今以て右の如し、延享四年春、『菅原伝授手習鑑』[延享4・2・18肥前座]の上るりを致し、其時の太夫喜美太夫、播磨太夫、自分共に太夫三人にて、大あたり大入にて、江戸中の手習師匠へやす札をくハり、殊外に大入にて、手まへ宜敷成て神田紺屋町へ屋敷を求め、世の人すかハら長屋といひしと也、其冥加の爲にとて、亀戸聖廟のかたはらに、紅梅の社を建立し奉る、夫より打つゞき、『千本櫻』、『忠臣藏』にてます/\はんしやうして、宝暦十一年、豊竹伊勢太夫へ肥前といふ名目を譲り、隠居して宮内と改めしが、伊勢太夫病身に付[18ウ]、名目を辞して大坂へ登る、又々宮内を肥前と再名せし処に病死いたし、其内豊竹文字太夫芝居を後見して居たりしか、藤井小八縁類を以て、今の東治を聟養子となし芝居相続し、元祖肥前か行跡をついで、春夏秋冬一日も休日なく相勤む、東治殿ハ近年御役場ハ御休息なれど、芝居相替らず繁昌し、当春不慮の類焼有しかども、早速普請出來、正月廿七日より初日大てがら、諸人感心いたしまする、
 
  上上吉 豊竹新太夫
此新太夫と云ふ名目ハ、前に云へる処の、古人肥前掾の[19オ]前の名なりしが、古肥前掾門弟に、豊竹哥門といへる少年の者ありしが、宝暦十三年春肥前掾座ニて、『軍法富士見西行』[宝暦5-6年頃]の上るりを致し、豊竹文字太夫罷下り、三段め中古肥前とかけ合大出來也、其五段目に、『源平花合戦』を出語いたしたり、其時年十六才にて、前髪にて初ての見物へ目見へ也、三味線ハ岡村彌吉相勤む、夫より年々稽古なし、新太夫といふ名をもらい受、暫く外記座元いたせし処病死して、其弟子御藏前代地松平十兵へ、古新太夫弟子七太夫といひしが、師匠の名を付、去ル安永四未年より座元と成、外記座を興行する、上るり[19ウ]も功者に、よくとりまハさるる、殊に近年打つゝきての繁昌、別して当春普請も早く出來、『忠臣藏』[安永10・1外記座]の大あたり大入、若年なれともそのお働き天晴/\、もふさハ元祖肥前掾孫弟子の儀なれハ、もとより座元東治殿とハ、同し流れの末葉榮ふる両座繁昌、まことに豊竹のよゝをかさねて、幾千とせ目出度春を祝ひまする、
 
浄瑠璃評判鶯宿梅 大尾[20オ]
 
 
扨末筆に御断申まする、当春肥前掾東治座にて、新上るり『むかし唄』[むかし唄今物語 天明1・1・2肥前座]の役割に出しおかれましたる音太夫義、当二月十二日に病死いたし、歌舞の菩薩の中間入になられましてござる、おしいかな此人、過し宝暦十四年、座元竹本伊勢太夫土佐の芝居興行致されし時、正月二日より『名香兜』[吉野合戦名香兜 宝暦14・1・2土佐座]の三の切、音太夫勤められ大でかしなりし、其七月『ひばり山姫捨松』[庚+鳥山姫捨松 明和1・7土佐座]も宜しく、それより年々でかされ、当年も東治殿座の勤め成しが、一たいいやしからぬ語りふうにて、諸人ミなひいきいたされ、大鳥とハなられました、存生の当り上るり(このとしちくご一座ス)、思ひ出せハ小紙にハ書つくしがたけれバ、爰に[20ウ]除きまする、おなじミの太夫ゆへ、法名を印し一遍の御回向をなし下されませい、
 
        
本空院称音日證信士 丑二月十二日 俗名竹本音太夫
   寺ハ淺草たんぼ光龍寺也、
     十七回忌
蒼龍院岩千町居士 明和二年四月廿一日
   芸名 名護屋播摩太夫
   寺ハ淺草新寺町東岳寺也、
   門弟中山清七追善ス[21オ]
 
ついでながら古人播磨太夫、明和二年四月廿一日に死去いたしまして、当年十七回に成まする、追善にも存爰にしるしまする、此播州ハ近來の名物ものにて、諸人ひいきつよふ被成たる太夫でござりまする、過し延享年中、外記座元を竹本七太夫致せし時、初て御当地へ下り、則『潤色江戸祭[紫]』[延享1肥前座]の上るりにて、四ッ手駕籠の内にて出語りめミへいたし、声がらと申、ちやりハ家のものにて、諸見物衆の大きに受取られました、夫よりお江戸にふミ止まり、『大内鑑』[芦屋道満大内鑑 延享2カ 辰松座カ]の四段目与勘平の場など大でかしいたし、肥前座へ参りては[21ウ]『菅原』[延享4・2・18肥前座]の四段目、『千本櫻』[寛延1肥前座]の三の切、四段目の切の横川の覚範は、柏莚のこハ色などつかい、何れも当りを取、『檀浦』、『ひらかな・辻法印』[延享1か 肥前座カ]、なと語り、見物に腹すじをよらせ、年々の評判、『忠臣藏』[寛延2・1肥前座]の九太夫の役、古肥前とかけ合大でき、六段め勘平腹切おもしろく、其後文字太夫、桐太夫、此人と三人『琴責』[檀浦兜軍記 宝暦11以前]の段出語に、岩永のちやりハ、見物のあごをかゝへさせ、もふ此やうな出語ハ今ミる事ハならぬ、一たいたつしやな上るり、ちやりといひ中こうの名物成しが、おしや播州明石の浦の朝ぎりに、嶋かくれ行身とハなりたり、わすれかたみの娘有て、深川になまめき居たりけるが、今ハいづこに[22オ]かあるやらん、定て父の追善をもいたすらめと、いらざるおせわを書のべて、播磨が古事を知らしむるのミ、
 
安永十丑年彌生吉日
 
本町四丁目大横町
書舗 中山清七板[22ウ]
 
提供者:山縣 元 様(2003.10.19)
(2011.10.22補訂)