FILE 60

 【 女大名東西評林 】

 
付記
筑豊故事後編 とされている
義太夫大鑑 浪速叢書(巻15:31−57) 霞亭文庫本を参照した
挿図は浪速叢書による
 

浪速叢書版解題
 
一 『東西評林』は、原本五十六丁。(太夫、三味線、人形の位付目録七。本文総論八丁。東西太夫の細評四十一丁)天地四寸二分。左右三寸の小本。開板は宝暦八年(我が二四一八西暦一七五八)戊寅の二月。心斉橋南詰丹波屋半兵衛、八幡筋南綿町増田屋源兵衛の連名出板である。著者不明。
一 『東西評林』はその題名の示す如く、竹本(西の座)豊竹(東の座)の両座における太夫、三味線、人形の位付と太夫の芸評を書いたもので、浄曲界最盛の爛熟期の評判記である。
一 『東西評林』の発行当時は、浄るり人形芝居史上における所謂『東西両座の混乱時代』にして、豊竹座には、此太夫の筑前少掾以下、若太夫、駒太夫、鐘太夫がゐる。竹本座には、大和掾を中心にして、政太夫がゐる、錦太夫がゐるといふ時代である。浄曲界の最盛時であるとともに、それが峠の絶頂、早くも斯界の衰運は、こゝに萌し、『操漸衰』の陵遅時代に入らうとしてゐる。
一 『東西評林』は、この意味において、浄るり太夫評判記の一代表と観ていゝ。元来操関係の評判記は、極めて類が少い、役者評判記が、ふるく明暦二年(我が二三一六西暦一六五六)の『役者の噂』から始つて、明治の六二連の黒表紙に至るまで、ほゞ二百三十年の久しきに亘つて、年々歳々開板されてゐるに比べると、暁天の星の如く、寥々たるものである。が、その少い浄るり評判記のうちにあつて、この『東西評林』の如き、全く暁の明星の如くに、天の一方に輝いて居るといふ位置を、この書に与へていゝと思ふ。この他、操評判記には『浪花其末葉』、『浄るり評判闇の礫』、 『音曲猿口轡』、『操曲浪花の芦』等の二三がある。そしてこれらの開板は、大抵は、延享、宝暦、明和と限られてゐるが、恰も浄曲の全盛期、爛熟期と一致してゐる。
一 『東西評林』翻刻の原本は、解説者の所蔵本を用ひた。(石割松太郎記)

 
[1オ]
女大名東西評林
翁           名代   竹本筑後掾
千歳    西の座   座本   竹田出雲掾
三番叟   東の座   名代座本 豊竹越前少掾
[1ウ]
千年(ちとせ)の真鶴(まなづる)   老若(らうにやく)男女の見物衆を我此両芝居
万代(ばんだい)の池龜(いけのかめ) より外へハやらじとおんもふ
 
太夫極上品上上     豊竹筑前少掾
 修行(しゆぎやう)の功(こう)つもり/\てほまれハ四方(も)に高砂(たかさご)
太夫極上品上上     竹本大和掾
 音せつの正風体と声の優(やさし)さハぼたんに獅〃(し/\)の石橋
 

[2オ]左座上品ノ大上上    竹本政太夫
 万代迄も西の座の大立物只よい/\と賞(もては)やす猩々(しよう/\)舞
中央上品ノ大上上    豊竹若太夫
 評判ハ日本一の名物世上にひゞきわたる富士太鼓
右座上品ノ大上上    豊竹駒太夫
 今の世の名人音せつなら程ひやうしならさへ切た望月
上品ノ白抜き大上上     竹本錦太夫
 語り方の面白さに見物衆の誉(ほめ)るかけごへは百万[2ウ]
上品ノ上白抜き上      豊竹鐘太夫
 よし/\との評判ハ四方(よも)に聞(きこ)ゆる三井寺の鐘
上品ノ上白抜き上      竹本千賀太夫
 はなやかにしてしかもすぐなるさくら川
上品ノ上        豊竹此太夫
 時めきし評判ハいとくりかへす三輪(ミわ)の山
上品ノ白抜き上       竹本紋太夫
 はんなりさしてうつくしいちつかの錦木
 

[3オ]
中品ノ上上       豊竹十七太夫
 語り方のいさましさきほひ口にハおはすて山
中品ノ上白抜き上      竹本組太夫
 間合の仕こなしハ実(ミ)入のよいあきの田村
中品ノ上        竹本染太夫
 程びやうしの思ひ入浅くハ見へぬ玉の井
中品ノ上        豊竹伊豆太夫
 開語(かいご)のわかちよいゆへか木戸まで声がよふ融(とをる)
[3ウ]
中品ノ白抜き上       竹本中太夫
 又ある時ハ立物衆が休(やす)むおもににかたをかさるゝ山うば
中品ノ白抜き上       豊竹諏訪太夫
 出世にしたがふて名もはなも高くなるらんくらま天ぐ
中品ノ中        豊竹麓太夫
            豊竹恒太夫
 なじミハなけれどきようはだなとたれもゆふがほ
 
 巻軸旧功の衆
中品ノ上上       竹本百合太夫
 語り方の丈夫(ぢやうぶ)ささつてもつよいゆミ八幡
 

[4オ]
上品ノ白抜き上       竹本春太夫
 浄るりの仕出しひくうハない小原御幸
上品ノ上        豊竹伊勢太夫
 声花(はなやか)にハあらねど桜におとらぬ秋のもみぢがり
 
     三味線之部
上品ノ上上       大西藤蔵 竹本座
 ばち音のきれいさみがき立たるとくさ
[4ウ]
上品ノ上        冨澤藤次郎 竹本座
 ねいろをきけば有がたさのますせいぐわんじ
上品ノ上        鶴澤十次郎 豊竹座
 ねじめのやさしさハうぐひすのやどる軒端(のきばの)梅
竹本座中品之衆
 鶴澤文蔵   竹澤宗吉
 大西長蔵   大西音次郎
豊竹座中品之衆
 

[5オ]
 鶴澤龜次郎  鶴澤名八
 鶴澤千左衛門 鶴澤万三郎
 冨澤豊次郎
 
   おやま人形之部
極上品ノ上上      藤井小八郎 豊竹座
 女人形のふうていハ今の世の楊貴妃(やうきひ)
上品ノ上上       藤井小三郎 同座
 おやまのふうぞく立のびて品のよい遊行柳
[5ウ] 
上品ノ上        田中小八 竹本座
 女がたのしよていほつそりとしなやかな藤戸
上品ノ白抜き上       辰松文十郎 同座
 きやしやにてかわいらしさに心ハうきにうき舟
中品ノ上        藤井八十八
              新十郎 豊竹座
 名にめでゝかあひらしさハおミなへし
 
     立役人形之部
 

[6オ]
至極上品ノ大上上    吉田文三郎 竹本座
西ノ芝居の柱礎(はしらいしずへ)[ちうそ」大入蔵入金入の能道成寺
極上品ノ上上      若竹東工郎 豊竹座
  当流の達人諸芸ハ底(そこ)の知レぬ堀貫(ぬき)の井筒の水
上品ノ上上       桐竹門三郎 竹本座
  さきがけてかついろ見(ミ)せしゑびらの梅
上品ノ上白抜き上       吉田文吾 同座
  芸のきようさ御しんぶに似たりやにたり杜若(かきつばた)
[6ウ]
上品ノ上白抜き上      若竹伊三郎 豊竹座
  敵役との詰合に勝色見せし源氏くやう
上品ノ上        中村勘四郎 同座
  芸にせいを入て勤のすぐな竹生島
 
   竹本座上品之衆
 吉田貫蔵   桐竹貫十郎
 吉田藤五郎  竹川七郎次
  名人衆にもまれもまれて取廻しの能放下僧
 

[7オ]
西ノ座巻軸上品ノ上上  桐竹助三郎
   竹本座より外へハやらぬ安宅ノ関
    豊竹座上品ノ衆
      若竹清五郎  若竹友五郎
      豊松祐二郎  若竹三十郎
   あら事の勢(いきほ)ひハ得手に帆(ほ)かけし舟弁慶
[7ウ]
東ノ座巻軸上品ノ上上  豊松 藤五 郎
   豊竹座に幾千代万代を重ね籠(こめ)たる豊松風
目録終
 

[8オ]
 
東西評林
 
罷(まかり)出たる某(それかし)ハ八幡(まん)大名(たいめう)の妻女(さいぢよ)、ヤア/\局達(つぼねたち)腰(こし)本共ハ皆打揃(そろ)ふて詰めたか、イヤケ様に過(くハ)は申すれど召使(つか)ふ女ハ只(たゞ)二人、此者(もの)共が此程ハ吾儕(わらは)に暇(ひま)も乞(こ)ハず、何方(いづかた)ヘやら行走(おりそふ)てござる、承(うけたま)ハれバ今朝(けさ)程(ほど)帰(かへ)つたとごされバ、呼(よび)出して急度(きつと)折檻(せつかん)を加(くハ)へふと存じまする、ヤア/\お本(もと)お豊(とよ)ハ[8ウ]お居やるか
 
【両人】アイ、御前(まへ)に
【女大名お竹御前】何じや其の方達ハ隙(ひま)をも貰(もら)ハず、此間(あいだ)ハ何方(いづかた)へ行やつたぞ
【両人】大坂へ参(まいり)ましてこざる
【お竹御前】何と大坂へ行ハ、主人に暇(いとま)を乞ハひでも苦敷(くるしく)ない法(ほう)でかなおりやるかの
【お本か曰】御尤でハござりますれ共、御用の繁(しげ)き御屋形さまなれバ、願ひました共御暇(いとま)が出ますまいと存じ、お豊と申合せ忍んで参りましてごさります
【お竹御前】[9オ]夫ハ何の用か有て
【お豊が曰】御前様にハ毎度大坂へ御越遊バされ道頓堀(とうとんほり)の操(あやつり)芝居竹本や豊竹の替り浄瑠璃(しやうるり)を御覧遊バさるを、余り御浦(うら)山しう存じ参りましてござります
【お竹御前】何といやる、浄(じやう)るり芝居(しばい)へいきやつたとや、夫(それ)ならそれと知(しら)しやりなバ。札銭(ふたせん)や桟敷(さじき)代のおあしを、くわつとおまさふ物を、して/\嘸(さぞ)面白(おもしろ)かつたで有らふがの
【お本が曰】前々御供に召連(めしつれ)られ[9ウ]て見物(けんぶつ)を仕りました節(せつ)とハ違(ちが)ひ、浄るりの作にハ珍しい趣向(しゆかう)を思ひ付、太夫衆ハ節付も功者(こうしや)ニ面白ふ語られ、又操道具建(あやつりだうぐだて)衣裳(ゐしやう)の結構(けつかう)さ、働(はたらき)の見事さ、中/\言葉(ことば)にハ尽(つく)されませぬ
【お竹御前】さこそ/\、西と東とどちらが能(よい)と思やつたぞ、噂(うハさ)を聞けば去年(こぞ)の冬(ふゆ)両座(りやうざ)共に替(かハ)り新浄るりか出たと有が、外題(げだい)ハ何といふ事ぞ
【お本が曰】筑後の方ハ十二月[10オ]十五日より昔男(むかしおとこ)春日野小町(かすがのこまち)と申して、作趣向(しゆかう)共に能(よふ)出来、扨も/\面白い事でござります
【お豊が曰】サイナ私ハ余り面白過たかして、一日頭痛(づつう)と欠息(あくひ)で暮しました
【お本が曰】ヲヽおれもそなたにつられて越前(ゑちせん)を見物したが、欠(あく)びの替りに胸か悪うて、嘔(ゑ)づきが出て難義致しました
【お豊が曰】ヲヽいやんな、今度の新浄るり、極月五日が初日にて、祇園祭礼信長記(ぎおんさいれいしんちやうき)、作(さく)と[10ウ]云語り様(やう)と云、道具建(たて)の見事さ、面白ふて気が晴(はれ)れて西てした頭痛(づつう)がさつぱりとなをつた、道すがらもいふ通り、竹本贔屓(ひいき)を止(や)めて豊竹宗に珠数(じゆず)を切なさんせ
【お本が曰】当流(とうりう)の根本根元の筑後の芝居を其様にそしりやつたら、いとしや罰(ばち)が当ろぞや、私次第に成て是非(ぜひ)共竹本連中にならしませ
【お竹御前】ヤレ/\両人共に女子の端(はし)た[11オ]ない、静(しづ)まりやれ/\、東も西も面白けれバこそ、大阪中ハ云(いふ)に及(およ)ばず、国々(くに/\)の終(はて)までも、両座共の浄るりが葉流(はやる)でハないか、其様(やう)に片意地(かたゐぢ)張(ばつ)て依枯贔負(ゑこひいき)をしやると、此屋敷に奉公ハならぬぞ、当(とう)屋形(かた)の代々浄るり操(あやつり)を信仰(しんかう)し、見物する因縁(いんゑん)、其方達(そちたち)ハいまだ知(し)りやるまい、次(つい)てながら語(かた)つて聞(きか)さふ間、つゝしんで聞やつて能(よ)からふ、床几(しやうぎ)/\
【両人】[11ウ]ハア御床几(しやうぎ)
【お竹御前物語リ】抑(そも/\)当(とう)屋形両竹氏の系図(けいづ)と云ハ、とつとの/\其昔(そのむかし)、竹原(はら)天皇(てんわう)の王子大和(やまと)竹の尊(ミこと)より数(ず)代の末葉(はつよう)、竹野(の)の竹左衛門竹世(よ)の代にいたつて、竹の薗生(そのふ)の家筋(いへすぢ)を放(はな)れて民間(ミんかん)に出、竹田村と云(いふ)所に住居せり、又其頃(そのころ)鎌倉の最明寺(さいめうじ)殿(との)諸国(しよこく)行脚(あんぎや)に廻(めぐ)らせ給ふ折柄(から)、矢竹/幹(やの)竹のごとく降続(ふりつゞ)きたる長雨(ながあめ)に凝(こま)らせ[12オ]給ひ、御心ハ矢竹に思しけれど雨ハあがらず、竹の子発張(ばつちやう)の笠を被(かぶ)り、竹左衛門が竹垣の辺りに彳(たゞす)ミ晴間(はれ)を侍せ給ふ間に日ハたけたり、詮方(せんかた)尽(つき)て是非なくも、竹の網(あミ)戸を押開き竹椽(ゑん)に立より一夜の宿を借給ふ、折節お中もたんと空敷(さミしう)思しける故か、出来合にても早ふ/\と御所望有、さもしけれ共幸有合[12ウ]竹の子の煮染(にしめ)を平皿にうづ高くもり、竹箸(ばし)添(そへ)て差上けれバ、舌(した)打して召上られ、精進(しやうじん)物の水くさきハ喰(くハ)れぬに、扨も/\ 醤油が能しゆんでうまさ甘露(かんろ)のごとしと御褒(ほう)美有、竹の子に醤油が能(よふ)しゆんだといふしゆんの字と、甘露の様なのかんの字を取て、竹の子の煮物をバしゆんかんと号初(なづけ)しハ此時よりの因縁也、猶又何かな御[13オ]慰(なぐ)ミにもがなと、竹左衛門ハ尻(しり)ひつからげて身繕ひ、手頃(ごろ)の竹杖(つへ)おつ取て突(つき)立上リ大音上ツヽンツンツン 竹本氏の大出来浄るり国性爺(こくせんや)の千里が竹の虎(とら)の段、和藤内が身振(ふり)、操(あやつり)人形の所作(しよさ)、又次にハ火吹竹をしやに構(かま)へ、豊竹の当リもの親子三人跡(あと)や先成道行連吹(つれぶき)の尺八竹、芸の有竹仕尽(しつく)して慰め奉れバ、最明寺殿御感(かん)[13ウ]の余り、風呂敷包(ふろしきつゝミ)より尺長(たけなが)紙と竹の矢立を取出し、西国にてハ筑後に竹本の庄、東国にては越前にて豊竹の庄、合せて二ケ所の竹の庄、竹世が子々孫々(しゝそん/\)にいたる迄(まで)相違(さうゐ)有ざる自筆(じひつ)の状、贔負連中と書付せし提燈(てうちん)に取添(そへ)給(たま)ハつたる安堵(あんど)の御教書(ミぎやうしよ)、竹世ハ是を頂戴(てうだい)し、夫より次第に家富(とミ)栄(さか)へ、苗字(めうじ)をも両竹氏に改め、[14オ]名を筑越(ちくゑつ)の太輔(たゆふ)と号(がう)し給ふ、かゝる目出度浄るりなれバ、此儘(まゝ)差置ハ勿体(もつたい)なしと、庭前(ていぜん)なる竹薮(やぶ)の中に石の唐櫃(からと)を拵へ、時頼記(じらいき)国性爺(こくせんや)二番の浄瑠璃を、替り/\に一段語つてハ彼(かの)唐櫃の中へふつと吹込、又語つては吹込(こミ)ける程に、後(のち)にハ石の唐櫃(からと)の蓋(ふた)のふうわりふわりと吹上る程語り入、其上に社(やしろ)を建(たて)[14ウ]浄璃瑠(じやうるり)大明神と崇(あが)め奉る、斯(かく)由緒(ゆいしよ)有此方の屋形なれば、其方達も西の東のといふ隔(へだて)てなく、両芝居共に随分(ずいぶん)と贔負をしやれ、扨当時竹本豊竹両座の役者中、芸(げい)の位所定めを、殿様の御慰に書せられ吾儕(わらハ)に給はりし一書(いつしよ)有、幸(さいわひ)是を立にして、評判をいふて見よふでハないか
【お本が曰】哥舞伎(かぶき)役者衆の芸評[15オ]は前々よりござりますれど、浄るり芝居の評判ハ終(つい)に承(うけたま)ハり及びませぬ、壁(かべ)に耳(ミヽ)と誰(たれ)ぞが聞かれて、万一逆答(さつとう)ハござりますまいかな
【お豊が曰】惣じて芝居の狂言にハ、往古(いにしへ)の帝王(ていわう)王子(わうじ)公郷(くげう)大将(たいしやう)方、夫より下々迄の善と悪を正し、善(よき)道ニ導(みちび)く便(たより)になせる教(おし)へなれば、此評判も是に順(じゆん)じ、何の遠慮(ゑんりよ)がござりませふ
【御竹御前曰】[15ウ]そんなら互(たがひ)に云て見ずく、併し必ず依怙がましひ評判ハ無用にしや
【両人曰】畏(かしこま)りましてござりますと彼書を開(ひら)き、是ハ春の日の永/\と何よりの御楽(たの)しミ
【御竹御前】君ハ千代ませ/\と【三人同音】繰言(くりこと)を祝(いハ)ひ歌(うた)の有難(ありがた)の時代也。
 
 宝暦八ツの春
 
[16オ]     豊竹筑前少掾
         竹本大和掾
【お竹御前】筑前掾初めハ伊太夫とやらん云し由、元文(げんぶん)二巳年大政入道(だいぜうにうだう)の浄るりの時(とき)初て竹本座へ出られ、初床(はつゆか)の時より修行(しゆぎやう)の功(こう)を積(つま)れし程有て評判能、其次の替り行平(ゆきひら)の時、此兵衞の場より弥々(いよ/\)名高(なだか)く成、則(すなハち)此太夫[16ウ]と変名(へんめう)せられ相続(つゞ)きて当りをとられたり、延享(ゑんきやう)元年(ぐハんねん)子の秋(あき)播磨掾(はりませう)死去(しきょ)せられし故(ゆへ)、贔負(ひいき)の見物(けんぶつ)力(ちから)を落(おと)し、芝居の相続(さうぞく)いかゞと当惑(とうわく)せしに、此太殿跡(あと)役三段目の詰(つめ)を請取、富士見(ふじミ)西行を大きに出来され、菅原伝授(すがハらでんじゆ)ハ猶以(なをもつ)て大当り、又千本桜(せんぼんさくら)も評判能、其次忠臣蔵(ちうしんくら)の九ツ目ハ古今(こゝん)奇妙(きめう)の語り方に、大坂[17オ]中の耳(ミヽ)を驚(おどろ)かされ、筑後播磨(はりま)の再来(さいらい)かと諸人悦(よろ)び居たりし所に、其年(とし)の冬(ふゆ)より豊竹座へ立越(たちこ)され、今の世(よ)の三段目語りと益々(ます/\)評判能(よく)、剰(あまつ)さへ筑前少掾と受領(じゆれう)せられし段、先(まづ)以(もつ)て目出度お手柄(てがら)/\
【お本が曰】仰(おゝせ)の通(とをり)、西の座(さ)に居られし時(とき)ハ大きに評判(ひやうばん)能(よ)かりしか共(とも)、東の芝居へ来(き)られし顔ミせ浄るり橋供養(はしくやう)を初(はじ)め[17ウ]とし、其次(つぎ)のかしくの大当りにさへ此御人の当(あた)り目(め)ハなく、其後(そののち)是ハといふ大出来(でき)ハ終(つい)に聞(きゝ)ませぬ、然(しか)れば大和掾殿をなぜ巻頭(くわんとう)ニ御出しなされぬ、殿様(とのさま)の御書(かき)付にハ大(だい)分依怙(ゑこ)が有かと存(ぞん)じます、憚(はばか)りながら是ハ座並(ざなミ)を御替(かへ)遊(あそ)ハして能(よ)かりそふに存じます
【お豊が曰】お本殿だまらしやれ、和田合戦(わだかつせん)と頼政(よりまさ)と苅萱桑門(かるかやどうしん)との三番の古浄るりハ、[18オ]太夫本越前掾殿語られし場なるを、此人なれハこそ面白く勤め給ひて、町中か大きに悦んだでハなかつたか、作が不出来故ニ当りを取(とら)れぬハ此人斗リにハ限(かき)らぬ、作の能出来た一の谷と義仲の三段目、身替り地蔵(ぢぞう)和讃(わさん)の愁(うれい)の場、又前九年(ぜんくねん)の三ノ切ハ、忠臣蔵(しうしんぐら)の大当りよりハ増(まさ)つて面白いとの評判、大坂中ハ云ふに及ばず、諸[18ウ]国の端々(はし/\)までも響(ひゞ)き渡りしに、其方の耳へハ入ラなんだか、いかい聾(つんぼ)の若(わかい)人のいとしや薬師(やくし)様へ願(ぐわん)をかきやいの
【お本が曰】成程耳へ入ツた、先年より数多(あまた)の替りの中で一度や二度ハまぐれ当りといふ物も有筈(はづ)也、筑後座を勤て居られし時分(じぶん)ハ当り通(とを)しで能(よ)かつたか、豊竹座へ行れてから評判が目入ツて笑止(せうし)に思ふ、先ツ此方(こつち)の大和掾[19オ]の大当りといふハ、去辰ノ年竹本座への帰り新参(しんさん)の顔(かほ)ミせ浄るり、大内鑑(かゞミ)の子別(こわか)れの段、次に恋女房(こひにようぼう)の重(しげ)の井(ゐ)がうれひの場、次に愛護稚(あいごのわか)の替りの節(せつ)、政太夫殿錦太夫殿共に京都の座へ行カれし留守事(するごと)に一人しての大当り、何と此様な競(くら)べ事が筑前掾の方ニ有たかや、其上出語りの勿体(もつたい)と云(いひ)、声(こへ)と云、今の世の大名人(めいじん)と云ハ大和殿の事、筑前殿撫(など)ハ足(あし)[19ウ]本へも行届(とど)かぬ事、又過し盛衰記(せいすいき)の鐘(かね)の場の面白(おもしろ)かつたを思ひ出せバ、私(わ)しやもうアヽしんき、今でも気がもや/\とするわいの
【お豊が曰】ヲヽ軽忽(けうこつ)ウ、そなた斗(ばかり)気をもやつかしやつたとて、彼方(あつち)にハ何共思やせまいに、いかひおせ〃の、何じや筑前殿が豊竹座へ越(こ)されたを笑(おか)しさふにいやれど、其方の贔負(ひいき)の大和掾は、三輪(ミわ)太夫と云し初心の比ハ東の[20オ]座に久敷勤め、夫より出羽(でわ)の芝居で伊藤(いとう)と名乗(なのり)、其後西へ住(す)んで竹本内匠大夫と号(がう)し、又東へ帰つて豊竹内匠より上野(かうづけ)掾と成、又夫より京都へ行て竹茂都(たけもと)大隅(おゝすミ)と云、又筑後の座ニ帰り、今ハ竹本大和掾と名乗らるゝ、扨も/\あんな心の多(おゝ)ひ尻(しり)の居(すハ)らぬ男ハわしらハいやじや
【お本が曰】尻が居ろがすじらうが、そなたの様なお田(た)[20ウ]福(ふく)を大和殿が女房に持(もた)ふと云ハせられまいし、夫ハ芸の評判といふものでハなうて、悪口(わるくち)をいふて打込のか、ヱヽ身が焚(もへ)て腹(はら)が立、噛(かミ)付クぞや
【お豊が曰】そなたハ自慢(じまん)らしう大和掾の出語り呼(よば)ハりを召るれど、粟島系図(あハしまけいづ)の切ニ出語りをせられしが、見物の請が悪かつた故(ゆへ)にや、漸(やう/\)廿日程語ツて仕廻(しま)ハれたが、夫でも出語の名人でござるかの
【お本が曰】[21オ]筑前掾受領(じゆれう)の祝儀に出語りをせられたか、其方斗ハ能いと思ふて聞きやたか、何ぼ片意(かたゐ)地に贔負をしやつても、世(せ)間の目と耳とが証拠(しやうこ)じやもの
【お豊が曰】其所(こ)が名人の発明(はあつめい)、見物の請の悪ひを見(ミ)て取ツて七日語(かたつ)て止られた、兎(と)角浄るり太夫の肝心(かんしん)要(かなめ)の場ハ三段目の詰こそ大事なれ、大和掾ハ三でも四ても大切(せつ)な段[21ウ]切詰の場が不得(ゑ)手そふな、自身(ししん)にも気が付キしやら三の詰を語られしハ粟(あハ)島系図(けいづ)と崇(しゆ)徳院(いん)斗、凱陣(かいぢん)紅葉(もミぢ)の節ハ政太夫殿京行の留主(るす)故是非(せひ)なふ三ノ切を語られた、其浄るりの作趣向(しゆかう)ハ能出来たれど、第一要(かなめ)の場の三ノ切が淋(さひ)しいと町中が評判するでハないかいの、しやつ共いふて見たがよい、作の善悪ハ格別(かくべつ)、筑前掾の三段[22オ]目の語り打に難(なん)をいふ人ハ有まい、夫でも大和掾を巻(くわん)頭に出せじやまで、アヽおかし、余り笑(おか)しうて臍(へそ)もじが茶もじをわかしもじするハいの
【お竹御前曰】お豊だまりや、扨々女子だてら口のさがなひ、何とした不行儀(ぎやうぎ)な事ぞ、何程其方(そち)が悪口をいふても、大和掾の事ハ、父内匠(たくミ)理太夫より二代の太夫と云、殊更(ことさら)初心の砌(ミぎ)り三輪(ミわ)太夫と云し時ハ、名人[22ウ]の誉(ほま)れ高き越前掾に付添(そハ)れし故、第一浄るりの格式(かくしき)正敷して行義(ぎやうき)乱(ミだ)れず、筑後掾越前掾の遺風(ゆいふう)を守(まも)りて語(かた)らるゝ、正真(しやうじん)実体(じつてい)の太夫と云ハ此人一人に止(とゞ)めたり、其上声柄(がら)美敷(うつくしく)、難疵(なんきず)と云(いふ)ハ毛頭(もうとう)なし、併(しかし)生得(しやうとく)微(ひ)力なる声故か、序破急(じよはきう)の分(わか)ち立がたき故(ゆへ)に、詰合段切の場にいたつてハ、かゆき所へ手の届(とゞ)かぬ様な場も折に[23オ]触(ふれ)ては有との評判なり、又筑前掾も、竹本座を勤められし節の様に花々敷当り目ハ近比(ちかころ)にハ聞かず、尤余程(よほど)年(とし)経(へ)し語り手なれハ、次第ニ調子(てうし)も低(ひくう)成て聞苦敷様なれど、当世の人気を能(よく)さつし、工夫(くふう)を凝(こら)し云解(ほど)き撫(など)の場落合(おちあい)の所にいたつてハ、さら/\と能たゝミ込(こん)で安らかに語り、肝心(かんじん)要(かなめ)の場にハ情(せい)を入て勤らるゝ故に、[23ウ]聞中チに調子ハ低(ひく)けれと見物の情(せい)尽(つき)ず、又出語りの事ハ筑後掾越前掾時代とハ違(ちが)ひ、当世の気の短(ミじ)かい若い衆の気に合ぬかと思はるゝ、但し又筑後越前の両祖師(そし)程に行届(とゞ)かぬ所も有か知ず、何分にも近年の人気にては、出語撫(など)ハ何れの太夫衆が勤められても大当りハ有まじ、修行と云、功者と云筑前大和の両人、芸の位に[24オ]おゐてハ何れ甲乙(かうをつ)ハ有まじけれど、筑前掾ハ此近年当官(とうくわん)の受(じゆ)領せられし人なれバ、此意味(ゐミ)を以て殿様も巻頭に立られしと推量(すいりやう)せり、猶又功成名遂(なとげ)一世一代の暇乞(いとまごひ)、清(せい)和源氏大切リ山伏摂待(せつたい)の出語り大きに繁昌(はんじやう)し、太夫本越前掾の跡追、入(いり)舞(まひ)の能、御隠居(いんきよ)御手柄(てがら)/\、又大和掾にハ当時御休(やすミ)か、但(たゞ)シ京都座の御勤か出(しゆつ)座ハな[24ウ]けれど、両座共ニ太夫の名を出されし故に評判に出せり、必ずどちらが跡(あと)じやの先じやのと諍(あらそ)ひハ無用にしや、此次の太夫衆の評判もおとなしやかに女子らしういふて見やれ
【お本が曰】そんなら先ツ夫(それ)にして置(おき)なされませ、何ぼ御前様ても、評判のなされ方が悪ふござりますれバ、急度申分がござりまするぞ
【お竹御前曰】ヲヽ夫はそなたのいやる通り、兎(と)角世間の評判次第[25オ]て、座の前後ハ其年其時々で替る筈(はつ)の事、扨此次ハ
     竹本政太夫
     豊竹若太夫
【お本が曰】過行れし播磨掾の門人に、雑魚場(ざこは)重兵衛殿といふ上手有とハ、大坂中の人々誰(たれ)しらぬ者も無りし所に、去寛保三年辰のとし、三度めの真鳥の時に竹本座へ[25ウ]初て出られ、其次の替り児源氏の二段目を大きに当(あて)られてより、弥其名世上に高し、則(すなハち)其年播磨死去(しきよ)せられてより、町中の諸人播磨殿のかたミと思ひ、贔負(ひいき)弥増(いやます)大評判、是自分(じぶん)の器量(きりやう)斗(はかり)にてハなく、御師匠(しせう)さまの御影(かけ)と疎(おろそか)に思ひ給ふへからず、夫より後菅原伝授(すかハらでんじゆ)の二段目の切、千本桜(さくら)の狐(きつね)の場(は)、又此太殿島太殿豊竹座へ[26オ]行れし後、布引瀧(ぬのひきのたき)の三段目の詰を大きに当られ、其後大和殿京行の留主(るす)に、小野道風(おのゝとうふう)の三段目にて又々大入を取られ、去ル子年の秋よりハ京都の座へ御越有ても評判能、京の見物かきつう悦びますと呉服(ごふく)所の若い衆が咄しを聞ました、又丑の年姫小松の三ノ詰の大当り、次に今度春日ノ小町の三四の詰別しての大出来、今の[26ウ]世の太夫の巻頭(くハんとう)と町中の大評判を聞まして、私ハ嬉しうて/\、どこやらの人が腹か立たふと存じ、夫か猶面白ごさります。
【お豊が曰】とこやらの人とハおれが耳をこするのか、此方にハそなたより猶(なを)十増倍(しうそうはい)も面白い事か有、云て聞さふ、夫ハ先そうよト、若太夫殿をなぜ三番目にハお出しなされませぬぞ、憚(はゞか)りながら此段ハ殿(との)さまの御了簡(りやうけん)違(ちか)ひかと存じます、[27オ]扨此人ハ元文四年竹本座の盛衰記の節より初て出られ、先ツ第一に声柄(こへから)能、今の世に並ふ太夫衆ハ有まいと思ハれます、夫故町中の評判能、別して菅原伝授の四段目の大当りハ、大坂中は勿論(ろん)諸国の浦々山家(か)の隅(すミ)々迄も響(ひゞ)き渡る大評判、此菅原の一の当りハ島太殿、次ハ此太殿、其次ハ政太殿と錦殿ニて有し也、其後此太殿[27ウ]と同敷豊竹座へ来られての顔ミせ浄るり、橋供養(はしくやう)の四段目琴(こと)の場にてわ下地能声に色(いろ)と匂ひか有、私斗しやごさりませぬ、いかな女中も嬉しがりました、其次キの替(かハ)りかしくの時、お園(その)か親方の男気なる愁歎(しうたん)、少し斗の所にうまミが有と諸見物か大き悦ひにました、其次物ぐさ太郎の三ノ口と四段目の切、又在原系図の四の切[28オ]蘭平の場、釜淵の中の巻、別して私か面白う存しましたハ後三年と勲功記との四段目のぬれの場ハ、美(うま)うて/\どふもたまらず、男女共に若い衆がたんと思ひの種(たね)を拵(こしら)へました、ほんにマアあんな色気(け)の有かわひらしい声は何(と)所から出る事じや迄
【お本が曰】ヲヽ好かん、ヲヽ腹(ほて)苦(くろ)しい、人の事ハいやれ共其方の様にあだ惚(ほれ)ハせぬわいの、ちと嗜(たしな)まれたらよかろ[28ウ]、そふして此人の芸の評をいわふなら、尤声ハ少と能様なれど、どふやら浄るりに勿体気(もつたいけ)がなく、其上語り方かとこやら手の届(とゝ)かぬ様な所が多(おゝ)い、又一二を争ふ大立物とも云るゝ程の太夫にハ似合はず、折に触(ふれ)てハ軽却含(かるはづミ)な笑しひ詞を出さるゝ、尤下々の見物ハ嬉しがる事も有べきなれど、上々様方の御耳にハ下卑(けひ)た様ニかな思し召でござりませふ、[29オ]ナア御前さま、夫に何じや政太殿の前へ出せとハ慮外(りよハわい)千万な望事でハ有わいの、政太殿ハ三段目の切を語られて毎(まい)度大当りを取られたハそなたも知りやる通り、若太殿の芸の功者でハ中/\三ノ切の様な打付た場を渡さるゝ太夫でハ有まいと思(おも)ハるゝ、其上いかに誉自慢(ほめじまん)がしたいとて、若太殿の声の色ハどの目て見やつた事ぞ、又匂(にほ)ひの有声ハどの鼻(はな)で嗅(かぎ)やつ[29ウ]た事ぞ、余(あんま)りな事で興(けう)が覚(さめ)るわいの
【お豊が曰】政太殿の三の切を語られたを我(わが)連合(つれあい)の夫の芸かなんぞの様に鼻(はな)に掛(かけ)て自慢(じまん)しやれと、筑前殿や若太殿がやはり竹本座に一所に勤めて居られふなら及びも絶(たへ)た三ノ詰、仮令(けれう)大和殿ハ微力(ひりき)也、外に語り手がない故(ゆへ)に鳥ない里(さと)の蝙蝠(かうもり)とやらいふ物じや、先年竹本座てバ三の詰ハ此太夫、四段目[30オ]ハ島太夫、やう/\ 政太夫ハ二ノ詰よ、ヲヽ皆人の知ツた事でござる、すりや若太殿を前へ御出しなされませと申す私が無理(むり)ハござりますまいがな。
【お竹御前曰】嗚呼(あゝ)気(き)の毒(どく)な又諍合(せりあや)るかいの、尤二人の衆のいやる通りを聞ハ両方共に道理ハ有共、そこが評判といふ物じや、まづ島太夫の声ハ世上に又と一人並(なら)ぶ人ハ有まじ、此人をのけて今の世に四段目の切を賑(にぎや)かに面白ふ[30ウ]語る人ハ聞及はす、併(しか)し難をいふて見よふなら能声(よいこへ)故に高慢(かうまん)する心にても有やら、芸に実の入ぬ様に聞ゆる時も有なり、尤三段目の詰語ハ五段続の要の場にて、六ケ敷所と云事ハ誰も知て居る事なれど、四段目の切にハ見物の気に聞(きゝ)退屈(たいくつ)の出る折なれば、声花(はなやか)なる語り方に有ざれば見物衆が情(せい)を突(つか)す物也、此工夫を以て勤らるれバ、折にハ端手(はで)に[31オ]聞ゆる時も有るべし、去ル丑ノ春夏ハ豊竹座の作趣向(しゆかう)面白からず、夫故惣役者中に当り目見えず、秋替り清和源氏の役、大体(たいてい)にハ聞えしか共、此人初ての三ノ詰故か大出来と称美(せうび)する程の当りとハ聞へず、然るに今度信長記(しんちやうき)の三の詰の役、工夫をこらして語られしゆへか、見物の受能天晴(あつぱれ)御手柄(てがら)/\、又政太夫の事ハ故(ご)播磨掾の音声(おんせい)[31ウ]節付共に直写(すぐうつ)しに語られ、其上心を付て芸を大事に懸(かけ)らるゝ故、殿様も定(さだめ)て前へ出されしと見へたり、左有バ若太殿も故(こ)播磨掾の次に座する心にて居られバ不足(ふそく)は有まじ、尤此両太夫達(たち)ハ芸盛(さか)りの衆なれば、随分(ずいぶん)工夫を凝(こら)らし勤られバ、此行末の評判次第にて跡(あと)が前(さき)へ前が跡へならふも知れず、先ツ其通リに思ふて両人共に諍合(せりあハ)ず共、[32オ]中能くして評判をしやれ、扨此次ハ
      豊竹駒太夫
      竹本錦太夫
【お豊が曰】駒(こま)太夫殿ハ去る享保(きやうほう)廿卯の年少(ちと)の間の旅手+上/下(たびかせぎ)もせず、突(つき)出しよりも豊竹座の初床(はつゆか)に苅萱桑門(かるかやどうしん)の三段目の口を語られ、瓢箪(へうたん)から駒が出たと大坂中が大に[32ウ]悦んでの評判、過(すぎ)行れし大和太夫に生写(いきうつ)しとの噂(うハさ)にて、大に当りを取られ、其後釜淵(かまがふち)の上の巻(まき)硯(すゞり)の海(うミ)に筆しめすの一ト節(ふし)、大坂中ハ勿論(もちろん)の事(こと)諸国の隅々迄(すミ/\まて)も流(なが)レ渡りしハ御手柄、次第に立身有へきと存ぜし所に、どふやらしめり気に成て気の毒(どく)の癪痞(しやくつかへ)がおこりし所に、延享五辰の年東鑒(あづまかゞミ)の三段目の詰六根清浄(ろくこんじやうじやう)祓(バらひ)の段切にて、[33オ]又大坂中の見物目を覚(さま)し、此様な上手の太夫殿をなぜに埋(うづ)もらせて置給ふと、作者連をちと恨(うら)ミ心ながら悦んで居たりしに、江戸の豊竹座へ助に行れしと聞て又力(ちから)を落し、案じ暮して居たりしに、便(たより)を聞ハ江戸にても大きに評判能、其明る年御帰り故、起(おこ)つた積(しやく)もさつぱり愈り、物ぐさ太郎の二段目の切を江戸土産(ミやげ)に語りて大に出来[33ウ]され、夫より段々に浄るりに実(ミ)が乗、玉藻前(たまものまへ)の二段目、頼政(より)の四ノ口、別して一の谷の二段目忠度卿太刀おつ取て突(つつ)立上リの矢声、諸見物の耳を貫(つらぬ)く大当り、又相馬(さうま)太郎の二の切の大評判、相続きて後三年義仲勲功記(くんこうき)清和(せいわ)源氏の四段目の詰、今度信(しん)長記の三ノ口と四ノ詰の語り方、四段目にハちと淋(さミ)しからんと案の外賑(にぎ)ハしく聞へし[34オ]は御名人の証拠(しやうこ)、何れの替りにも此御人の当りを取れずと云事なし、大坂中ハ勿論(もちろん)諸国海山里々のはづれ迄評判の能太夫殿、天晴(あつぱれ)の手柄、エヘン慮外(りよぐわい)ながらしやつ共いふて見たがよい
【お本が曰】扨も云たりしやべつたり、まそつと誉(ほめ)残した事ハないかや、飯(まゝ)も能喰る、酒もなる手で引かひても歩行(あいや)もしやるといふて誉やれ、サアしやつと[34ウ]いふて見せふが何としやる、駒太夫の初床から久々の勤の中に当り目なく、漸(やう/\)此近年少色づかるれバ、今の世に競(くら)べ者もない様に誉(ほめ)上るを、知らぬ人が聞たら誠(まこと)かと思ハふがと、夫(それ)が腑(ぶ)が悪(わる)ひ、先此方(こつち)の錦太殿ハ、年かさと云、年来修(しゆ)行を経(へ)し太夫殿を差置ての高上りどふも堪忍(かんにん)がして居られませぬ、綿武(わたぶ)殿と云てハ立子膝行(いざる)子迄も能知つた[35オ]贔屓(ひいき)の多い大名人の太夫殿、去ル元文二巳の年豊竹座へ出られ釜淵中の巻の大当り、夫より子の年迄八年が間始終(しじう)評判能、其冬より竹本座へ移(うつ)り越され、富士見西行、菅原(すがハら)伝授、忠臣蔵(ちうしんぐら)、布引の瀧(たき)の酒の酔(ゑひ)の場、別して大峰(おゝミね)桜の節(せつ)ハ此人一人の大当り、いつとても錦殿の語らるゝ場ハ見物の悦バぬといふ事なし、どふした訳(わけ)やら此一[35ウ]両年ハ折々出たり引たり、私斗じやござりませぬ、大坂中が力(ちから)を落して居りました所に、又々出座せられて其嬉しさ忝なさ、雨夜の月見に空(そら)が晴(はれ)たといハふか、空腹(ひもじい)時に余所(よそ)から飯団餅(ぼたもち)を貰(もら)ふた心地が致しました、なんぼ悪口云のお豊でも此ノ人斗にハどうも非(さん)ハ打れまい、此様な名人ハ唐(から)にもあろかいな
【お豊が曰】ヲヽ非言(さん)が有共/\、毛(け)を吹(ふい)て疵(きず)[36オ]を求(もと)むるとハこんな事、望ならバ云て聞さふ程に必(かなら)ず腹を立やんなや、一体(たい)此人の浄るりハちと下品(げひん)な仕出しにて、二三四の詰の場にハ建(たち)が軽(かる)ふ聞ゆる、高位(かうゐ)成人形、若侍(わかさふらひ)、別(べつ)してハ女人形にハ声が鼻へ入つて聞苦し、其上愁(うれ)ひ愁歎(しうたん)の場ハ哀(あハれ)にハなふて、おかしミが出る、只下劣(げれつ)な在所の親父(ぢゞ)祖母(はゞ)のちやり斗の場ハ能といふて誉ても大事有[36ウ]まい、此二三ヶ年ハ年だけてかほつこりとした当り目もなし、ナア御前様、左様にハ思し召ませんか
【お竹御前】さりとハお豊にハ悪ひ評判の仕様、此人の声の一体鼻へ懸るハ生れ付故是非(せひ)に及ハず、然れ共其声の並生(なばへ)に付て語りこなさるゝハ、功者とやいハん、上手とや云べき、天晴(あつはれ)名人といふ物也、今度の替り春日野小町に道行と[37オ]四ノ口と別してハ二の詰の役義、此御人近年の大当リと町中の評判、当時西東両座に多き太夫衆の中ニ駒太夫と此錦太殿程見物の嬉しがる贔負の多きハ有まじ、又両人共に上手も牛(ご)角にして何れに甲乙(かうをつ)ハ有まじけれど、駒太殿ハ一体の声柄立派(りつぱ)に聞へて然も勿体(もつたい)有、其上女の言葉(ことば)柔(やハ)らかにして色気[37ウ]深(ふか)し、殊更初心初床の頃(ころ)より心替らず豊竹座に永く勤めらるゝ所の規模(きぼ)に錦殿より前へ出せしと殿さまの御了簡じや程に、さふ合点して得心(とくしん)しやれ。
          六人の太夫衆の惣評
【お竹御前の曰】大坂の芝居ハ勿論(もちろん)の事、京江戸其外諸国に今程浄るりの葉流(はやる)事ハないと年老(としより)衆の物語也、其内[38オ]に京の竹本の芝居ハ、当地の座より頭(かしら)立し太夫連一両人宛入替り、其外ハ若き衆中加ハりて勤らるれバ、外ニ格(かく)別の名人衆も有まじ、又江戸の豊竹座辰松座撫(など)も噂を聞バ大概(がい)知れた事也、米の相場と浄るり芝居ハ大坂が諸国の第一じやと出入の香具屋が咄しで聞バさふも有ふと思ハるゝ、竹本豊竹両芝居の浄るりを[38ウ]語りて家業(かけう)にする太夫衆、其外慰(なぐさ)ミに語る素人(しろと)衆、何千何万人といふ限(かぎ)りも数も知れまじけれど、是ぞ名人上手と極めもてはやす程の衆ハ有まじと思ハるれ、左有バ彼(かれ)よりハ是がよいの、是よりハ彼が勝(まさ)つた、劣(おと)つた撫(など)と、諸人の評判に合るゝ衆ハ、只此六人の衆也、然れバ何のかのと品を付て、影(かげ)沙汰にても此衆に対し誹言(ひこん)がま敷[39オ]悪口をいふハ、勿体(もつたい)至極もない事じやと思ハるゝ程にお本お豊二人共さふ心得て居やれ、扨次でながら此六人の衆を物に准(よそ)へて見立を云て見よふでハ有まいか
【両女が曰】是ハ一段と能ごさりませふ、私共もとも/\に存じ寄を申て見ませふ
【お竹御前曰】竹本大和掾の浄るりハ十種香(しゆかう)の会(くハい)の様に思ハるるわいの
【お本が曰】其御心ハどふでござりますな
【お竹御前曰】ハテ花車(きやしや)で暉(き)[39ウ]麗(れい)に優敷(やさしき)遊(あそ)びなれど、下々へハ向(むき)にくひ慰(なぐさミ)じやハさて
【お本が曰】豊竹若太夫の浄るりハ花見小袖の様に存じられます
【お豊が曰】夫ハなぜにの
【お本が曰】ハテ模様(もやう)ハ端手(はで)で美(うつく)しけれど中入の真綿(まわた)が薄(うす)さふに見ゆるハさて
【お豊が曰】竹本政太夫の浄るりハ須摩(すま)明石(あかし)の風景(ふうけい)の様に思ハるゝ
【お本が曰】夫レはなぜにの
【お豊が曰】ハテ名にしおふ名所なれど、播磨(はりま)の中程迄も行届(とゝ)かぬハさて[40ノ5オ]
【お本が曰】豊竹筑前少掾の浄るりハ貴(たつ)とひ御聖人の説法を聴問(もん)する様に思ハるゝ
【お豊が曰】夫ハなぜにの
【お本が曰】ハテ聞た所ハ尤らしう感(かん)し入様な所も有共、声花に面白い事ハ近比になかつたハさて
【お豊が曰】竹本錦太夫の浄るりハ八瀬(やせ)や小原(おはら)の黒木売(くろきうり)の様に思ハるゝ
【お本が曰】夫ハなぜにの
【お豊が曰】ハテ名に高き名物なれと女の言葉か鼻(はな)へ入て賎(いや)しいハさてニヤ[40ノ5ウ]
【お竹御前】豊竹駒太夫の浄るりハ砂(すな)の物の立花(りつくは)を見る様に思ハるゝわいの
【お豊が曰】左様に思し召御心ハとふで御ざります
【お竹御前曰】ハテ苔曝(こけじやれ)の凄冷(するど)き中に草(くさ)花を会釈(あしらふ)た様にしほらしい所か有ハさて又此次ハ
  豊竹鐘太夫
【お豊が曰】十二年以前卯ノ春万戸将軍(まんこしやうくん)の節(せつ)より出座(しゆつさ)有、打聞(きゝ)[51オ]にハ微力(ひりき)なる様に聞ゆれ共第一ニ声柄(こへから)清麗(きれい)にて然も難曲(なんくせ)のなき仕出し也、段々と立身有て序切の役を久く勤られ町中の請も能、清和源氏の節よりハ二ノ詰の大役を初て語られし故、いかゞと案(あん)じ暮せし所に大きに出来(でか)され、相続(つゞ)て信長記(しんちやうき)の御役(やく)益(ます)々評判能、御大慶(たいけい)/\、御年ハ若(わか)し末(すへ)頼(たの)ミ有太夫さま。[51ウ]
  竹本千賀太夫
【お竹が曰】此御人ハ十一年以前辰の冬替り二度(ど)めの大内鑑(おゝうちかゝミ)の砌(ミぎ)りより初て出給ひたり、先ハ御声の美しさ、直(すな)をさ、御師匠(しせう)大和掾殿増(まさ)りと町中の大評判、夫より相替らす竹本座の御勤め、子の年ハ江戸へ御越(こし)のよし成に、是も殊外(ことのほか)出来ましたとの噂(うハさ)を聞て悦ひました、丑の年御帰(かへ)りにて相[52オ]替らず御勤にて嬉しう存ぜしに、又当年ハ京都の御勤メか、此替りにハ御勤なし、アヽとこへもいておくれねバよいのに。
  豊竹此太夫
【お豊が曰】十年以前巳の年の冬替り物ぐさ太郎の節、八重(やゑ)太夫と号(がう)し初メての出ツ勤、第一達者なる声立、初心の砌リより浄るりの間合能、情(せい)を入て語られし故か次第に御立見(りつしん)、其後時太夫と変名(へんめう)せられ[52ウ]てより益々評判能、夫故御師匠筑前掾殿旧名を譲られ此太夫と名を改メ、序切の大役首尾能勤給ふに弥見物の請能、今度の信長記にハ別しての大評判、私ハ嬉しうてどふも成リませぬ。
  竹本紋太夫
【お竹が曰】此お人ハ上総(かづさ)太夫殿の御弟子のよし、九年以前の冬より御出勤、声柄(こへから)節(ふし)立共に御師匠(しせう)に負(まけ)まじき器量(きりやう)成との評判成しに、何故にて[53オ]此一両年ハ御役目も不情成様に聞へ気のどく山々、随分情を出してくれなさんせ。
  豊本十七太夫
【お豊が曰】六年以前酉の冬生年十七歳にての初床(ゆか)、生得(しやうとく)大音ンにて丈夫に聞へ見物が大に悦(よろこ)びます、次第ニ功者に成給ふ故か余程(よほど)うまミが付ました。
  竹本組太夫
【お竹が曰】六年前酉ノ夏(なつ)よりの出勤、当座へ出られぬ以前より余程功者に[53ウ]て名高き語り手也、今度昔男の御役大キに出来ました。
  竹本染太夫
【お竹が曰】五年以前の冬より初メての出座、第一に声柄能、浄るリの間合よし、去る薩摩哥(さつまうた)の節ハ此人の役場を第一に誉(ほめ)ました、今度の春日野小町にハ序切の大役を大に出来(でか)され、古参の衆中にも増りての大評判、西の座にて近年の堀(ほり)出し人と町中の噂(うハさ)故、私ハ気がいそ/\と致します。[54オ]
  豊竹伊豆太夫
【お豊が曰】五年以前戌ノ冬より初ての御勤メ、第一功者なる浄るりの仕出し、上手めきたる語り打、御修行の厚(あつ)い故でこざんしよ。
  竹本中太夫
【お竹が曰】三年以前子ノ春よりの出座、きよう肌(はた)なる芸の仕出しすへ頼母(たのもし)敷/\。
  豊竹諏訪太夫[54ウ]
【お豊が曰】去々年の子の冬よりの御出座、第一声柄丈夫ニ聞へ、其上功者なる仕出しすへ頼もしう存じます。
  豊竹麓(ふもと)太夫
  豊竹恒(つね)太夫
御両人共ニ丑の冬替リより初ての勤(つとめ)、随分(ずいぶん)御情(せい)を出されませ。
  竹本百合太夫
【お竹が曰】十八年以前竹本座へ初めて出座有、七年の間つとめ[55オ]られ、辰の冬より豊竹座を暫らく勤、夫より江戸京にて語られ、又去ル丑の冬より竹本座へ帰り新参、功者ニハ聞ゆれど役場の悪き故かしか/\ との当りめ見へず、春永(はるなか)ニ能評判を待ちまする。
  竹本春太夫
【お竹が曰】十五年以前ノ辰の冬より初て豊竹座へ出られ、申(さる)ノ年より竹本座京大坂を勤らる、尤(もつとも)声美敷(うつくしく)大役をも請[55ウ]取れしか、此一両年ハ少シ泊(たる)ミの有様ニ聞へます、今度の小町にハ二ノ口四ノ中の御役、殊之外評判能御大慶/\。
  豊竹伊勢太夫
【お豊が曰】十四年以前丑の冬より東の座の出ツ勤、生得(しやうとく)浄るり功者にて然(しか)も達者(たつしや)成故、五年の間大役を勤メられ、巳(ミ)の冬より江戸の豊竹座へ立越(こへ)られ、以(もつて)の外成御出ツ世と伝(つた)へ聞(きゝ)しに[56止オ]、お江戸の水がふさい不申故か病身(しん)になられし故、又古郷へ帰り、名を新太夫と改め戌の冬より帰り新参、いまだ病気もしか/\となき故にや声の艶(つや)が失て気の毒の山、去ル冬より旧名(きうめい)に立帰り、信長記(しんちやうき)の二ノの口の御役名がふさひしか、今度ハ殊の外なる大評判目出たし/\。
 
 若手太夫衆の座並(ざなミ)ハ、芸(げい)の甲乙(かうをつ)にもかゝハらず御出座の[56止ウ]年数(す)にて前へ出しました、今日ハ日も暮(くれ)方になりましたれバ先ツ是限(かぎり)にて相止め、春永に両座の浄るり操(あやつり)を見聞まして、太夫衆ハ勿論(もちろん)三味線(さミせん)方人形方等不残、次に近年両座の新浄るり作の善悪をも評判致しませふ。
 千秋楽にハ芝居繁昌(はんじやう)万歳楽にハ大入明日御出相生(おひ)の両竹颯(さつ)/\の声(こへ)ぞ楽(たの)しむ。
[57止オ]
 
宝暦八戌寅 二月吉日
 
浪華書肆  心斎橋南詰  丹波屋半兵衞
八幡筋南錦町       増田屋源兵衞

提供者:山縣 元さん(2005.04.24)
(2005.09.23補訂)