FILE 128

【 音曲猿口轡 】

(2022.05.15)
提供者:ね太郎
 浄瑠璃評判記集成による。日本庶民文化史料集成翻字と異なる箇所を*でしめした。(は-ハ、ば-バ、み-ミを除く)
 
 
音曲猿口轡
 
第一 新芝居は春祭
    時に合ふた着る物の綻
    縫すぼめられぬ人の口
    五分かつた道具立ての
       かざり物
第二 仲ノ芝居は夏祭
    文句に合ふた帷子の綻
    縫つぶされぬ人の目
    六分かつたあやつりの
          たて物
第三 辰松は跡の祭
    間に合せた古物の繕ビ
    縫ふさがれぬ人の耳
    十分かつた太夫の
         まれ物
第四 結城孫三は御旅所
    寄り合ふた浪人衆ノ俄
     百分はねた松風の
          諷物
第五 恋男に逢婬日持
    用水の堤から堀出した
    こひ女房箕笠着て
    もうつくしいしろ物
 
音曲猿口轡[おんぎよくさるぐつわ]  全
附リ恋しい男に逢婬日持[あふゐんひじ]
天の浮橋下照ルや陰神[メガミ]陽[ヲ]神の唱[トナヱ]え初メしむまし男女[ヲトメ]の睦言[ムツコト]は国の道猶人の道妹せの道のおのづから和らぎのする嶋台にかの二神の友白髪祝ひ祭りて代〃永く今に終せぬ教也爰に東国の長者号色[ゴフイロ]加和逢膳[アイゼン]宣留[ノブトミ]とて家留万くらからず吾妻に武名鷹の羽の弓取一人おわします世継に立べき男子はまだ十八の縁の月代面[ヲモ]長ならず丸からず背イ高からずひくからず鼻[ハナ]筋通ツて桜色黒めがちなる目の内に逢をもつたる美男石透とほるとの心から、艶[つや]の丞と幼名[ヲサナ]をすぐに用イて歯乳[タラチ]根のてうあいなゝめならざりしが秋の末より常ならず只ぶら〳〵と恋病に針灸[シンキウ]薬の術もつき諸社の奉幣[ハウヘヒ]諸山の祈名僧俗油[ヨクユ]の加持力にも更に験の見へされば父母余りの物うさに神を頼ばされどもと氏神吾妻の明神へ一七日の御願望殿の御下向候と夫レ〃呼次ク奥御殿北ノ方出迎給い早〃との御下向殊更御機嫌麗[ウルハ]しき御顔持吉事ならば早ふ御聞セ遊と窺ひ給へば逢膳宣留心よげに座に着給ひサレバ〴〵*躮艶の丞が不死難治[フシナンヂ]の二ツしめさせ給へと七日指の今日満[マン]願帰るさの駕の中チとろ〳〵まどろむ夢心衣冠[イクワン]正しき老翁ゆん手に折たる弓を持めてに錦の袋をたづさへこつぜんと顕れイカ二宣留汝が誠の心をかんじ此袋を授[サヅク]る也弓ハ折レ矢はつきたるぞとの給ふと夢覚たり是則躮が病気本腹の神教目でたい〳〵悦びめさと有ければ北ノ方暫く考へ自に力落させまいとて空言なの給ひそ弓ハ折レ矢もつきて本ぶくの的はない明らめよとの告ならん扨は神のお力にも叶ぬ事かと斗*にて其儘そこに伏まろび歎せ給ふぞ道理也宣留公聞シ召発明なれ共石流[サスガ]は女惣じて夢はしんきの労より出る偶然[グウゼン]の事と云へども実[マコト]の夢も有ばこそ夢にだも周[シウ]公を見ずと文宣王の古語有又神がゝりの政夢昔より其ためしすくなからず今日某が見しは神勅いかにと言に弓は折れ矢はつきたりと有て錦の袋を我にあたへ給ふ弓おれ矢つきて賜るなれば錦の袋の内は絃[ツル]斗*躮が病気本腹の弦を賜る神教有がたいと悦びめさ歎く事ではおりない病人の是迄に言しぜんご或は又下〃の取沙汰見たり聞たりせし事共一〃身に聞しめさ譬へあじやらごと成共聞た上で判談し伜が病気本腹の手筋にも成こと有ば神詫に引合せ工夫せんとの給ふにぞ北ノ御方生出し心地付〃の女中のこらず傍[ソバ]へ呼集メ少しのことに至る迄聞た事見た事あらば包ず申せと仰の下乳母が差出て口たんばく若殿様の煩は恋路の闇と思はるゝ私シにちよこ〳〵おつしやるは去年の秋の大水にお屋形のこらず破損して御普請成就の其間御ぼだい所法恩寺に御かり住其時見初メた人恋しいなつかしいとのお歎きなれ共寺に女ハないはづ但しはねつにうかされてのうわごとか若又じやうのこと成かと根を押て聞ませ共お市と言名を聞た斗*互に所を語ねば尋逢ん様もなし父上母上御両所へかならず言なとお口とめ明神様の神詫で御本腹の手がゝりと御意のおもさに申ますお呵ならばよい様におわびこと遊してと身がまへ言を宣留公隠すも事と品よる左様ノ事を是迄になぜ奥が耳へでも入レぬ伜が命取留メたく朝暮心をくるしむるを其方共も知ながら艶之丞が我〃に恥入て口どめをすれば迚隠し包ふ*届と呵物の能聞せた是則本腹の絃[ツル]譬へ土民匹*夫の娘にもせよ躮が目にさへ入ならば一生詠る花嫁に呼迎ん夫迄もなく家老共へ申付抱させて部やに直ん恋病にする杯*とは大名の子に似合ぬちいさき根生シテ其女は何国の者人の娘か召仕かふ義の筋にさへ有ずんば引上て妻になをさん乳母とくと尋て参れサア気の毒はそこの事名所が知レたれば御家老衆へ内証でおつしやるすべも御ぞんじなれ共互にふつとの出合頭お市と言名を聞た斗*こつちのお名もおなのりなくつい其内に御普請出来お屋形へ御帰り大名の子が有まじひくいばなしのつまみ喰死だ跡迄はちの恥御二方は扨置歯ぶしへ出すなとお口留去ねんの秋の大水に法恩寺で馴染たお市〳〵と尋ても雲闇の夜の空つぶて当どがないとしんきがる宣留心を痛め給ひ手懸りになる様で又ならぬ様でにうががにうの尋ね物まづ法恩寺へ使者を遣りよそながら尋見よ檀[タン]中ならば知れもやせん若外よりの水押にてさまよひ来ル者ならば何としてかわ尋んと千々に思ひを寄給ふ折もこそ有レ御門前さはがしく御手永の百姓*共、「御そせふ〳〵と呼はれば百姓*共の訴聞捨られず心済ねど一通リ聞得させんと記録所へ出給へばそれ〳〵の役人共相並ヒ訴詔人出ませいの声に随ひどや〳〵入来ル百姓*共十五六なる娘の箕笠着たるを其儘に荒縄にてぐる〳〵巻名主年寄先に立うせい〳〵とつきすゆれば父親母親めを泣はらし手に取付ぐわんぜもなしにした事を御りやうけんはなさらひでお殿様迄引出して命を取とは情ない高が子共のいたづらも同前でござるわいのコレ名主様了簡してお下ケねがふて下はれ慈悲じや情じや。腹がいずばわしら夫婦ぞんぶんに成ましよ娘を助て下され後生じやじひじやと手を合せあなたこなたを拝み廻るをつき飛し〳〵内証で済事なりや大そふ立て爰迄こぬ悪人を子に持ツたはお身達のゐんぐわなんぼ泣ても叶ぬ〳〵邪广なのきやれと口〃わめくを役人共御前じやしづまれシイ〳〵とせいせられて二親も土に喰付泣居たる宣留はるかに御覧有ヤア〳〵汝ら先へ通りを言聞せよ。ハツト名主がうづくまり私らは御手永の百性共砂村の名主出九兵へと申者でござります去年の秋の大水出た跡でお殿様からお金を下され村中が夜を日についで築立ました用水の水除堤雨のふる晩といへば三間宛堤が切レて田地へ水があふれます故替つた事じやと村中が寄合評判しても去年からは堤の切る程雨ハふらず三粒ふつても堤の切るは村にいしゆの有やつが仕業には極つた用水の水を姿か樋をぬくか畔や堤を切ルやつはとらへ次第お上へ願簀巻[スマキ]にして堤の切レ所[ト]へ埋ルが天下一統の極た御法村中ずいぶんめをきかし友吟味にとらまへよと気を付ればあんにへいほう切たやつはこいつめ爰におる愚津[グヅ]郎兵へが娘じたい此ぐつろ兵へは去年の水に家ざいかざい皆流シ本のごき持ぬ乞喰に成たを旦那寺の御願で村中から無尽[ムジン]して家迄立てくれましたそれにまた村中へ何いしゆ有て娘に堤を切せる聞て下され夕部*の雨にも此通り箕[ミノ]笠で此鍬で堤をれことやる所茂九左が見付て竹貝吹村中よつて捕へました御法の通簀巻[スマキ]にして堤の切所[キレト]へうづめさせて下さりませと口を揃へて願ける愛膳[アイゼン]つく〴〵聞し召言語同断不敵成女耕業[ノウギヤウ]をさまたぐる者は死罪一統の古法有女の身としてかゝる仕わざ定て人に頼れつらん有様に言聞せよ頼人出なば命は助ん親共年は幾つ何と名を言ふそれ頼人をいわせいと年を十四と言へがしに情のこもる御仰ぐつろべ夫婦這出てアレ聞たる娘お殿様さへ頼人が有ふとお御意片意地にかくさずと言てくれ出してくれ頼人が出たら命助てやらふとおつしやる年も名も有様にわれが口から申上と母親諸共すゝむれば名主が傍からコレ年は十六十三四とはいわさぬぞ人別帳が爰に有と先ぐり言を役人に呵られてすつこめり娘は漸顔を上年ハ十六名はお市と申ます頼ても何にもない皆私が心から仕ました事でござんすと塵炭付ぬけなげの白状お市と言名に宣留公もしやと思す御眼色御次の間にもひそ〳〵と障子にうつる影ぼうし何と言頼人はない心から出た事と言か其方女の身として村中にいしゆゐこん有ふ様なし何故雨降夜な〳〵堤を切には出たるぞ子細なふては叶ぬはづ有様に言て聞せとにうはなる仰に物も言よふて御はづかしながら聞て下さりませ村のお衆へねたみ恨は更〃なし去年の秋の大水にとつさんの家ハ流レたのみ寺恩法寺[ハフヲンジ]の寺中にしばしかり住ひ忘れもせぬ十三夜うつくしう照る月を本堂の椽かはでつく〳〵詠てゐる後へ十七八のうつくしひ侍様がござんして用が有こいてゝいわんしたが縁と成かりねの情は薄けれ共わたしがりんゑの深きにや日数立程恋しう成ふしんもできて親里へ帰りても忘れず寝*ても起てもお姿が目にちら〳〵とちらつきてうつら〳〵と恋こがれ泣て明さぬ夜はもなく文を遣ふも尋ふもお名を知らねば此世では逢見ることも叶ふまいいつそ死ふと刺*刀をいくたびのどへ押当しが能〃思へば水が出て家が流て寺へ行其お人にもあふた物又もや水が出るならば恋しい人に逢ふ物雨がふれかし水出よといのれどかいも永雨の此春雨のくらき夜にまぎれて堤を切たるは恋しい人に逢ふため村の衆へは露程も恨ふ*足はござんせぬお腹いせには此身をば存分に切さいなみとつ様*かゝ様*お二人と中よふして下さんせ頼まするとわるびれず言ふ物ごしのうつくしさ器量は花の都にも又とふたりもなつぐさのすげみの笠の透間より綻び出るあいきやうは夜光の玉を藁苞[ワラヅト]に包ですへしごとくなり北ノ方も障子ごし乳母を初メ腰元はした押合せり合指睨若殿にもしらせてやあこがれまろび差のぞきまがふ所もなつかしやとせふじ一重にゆびまどを明ればやがて逢坂のせきとめ兼て見へ給ふ宣留公は一向[ヒタスラ]に神の御告の命絃伜が病気本腹の妙薬はあの娘せい法も立村中もなつとくして命助るさばきもやと御賢慮いため給ふ内百性共口〃にさつてもあぢよう言い教へたあどない恋路に言くろめ助からふとはのぶとい事昔もさるためし有既に以て八百やお七火事故寺でいたづらしまたもや家をやくならば小性吉三に逢んとてのほゝん〳〵哥*さいもんの裏表火と水としゆかふは違へど御せい法ハ同じ事どふで命は助らぬ早ふ簀巻に致しましよと口〃願ふをせいし給ひ年端も行ぬ女の独[ヒトリ]の所為とは思はれず。頼人有は必定罪の疑敷はゆるがせにすといへば此儘法には行はれず暫ク村中へ預る間腰掛へつれ行いましめときいたわりなだめ白状させよ人に面を見らるゝもつらからん箕かさは着せ置ケあら立ては白状すまじ随分なだめ間落せ弥一人の業に極らば汝等が願に任すつれて立コリヤ〳〵身が休足して呼出す其間少しにてもあらくせば名主急度曲事に言付るぞ立ませい〳〵と底気味悪き御意を請ケハット一度に立て行御台は待兼立出今の娘が尋るお市なぜ縄解て奥へ入百性共を呵てはおかゑしないサレバ〳〵身もいろ〳〵と工夫すれ共何を言ても罪がおもい助る筋が見へ申さぬ暫も縄とかせくつうゆるめしが心斗*の寸志吟味〳〵と此上は日を延す外せん方なし譬[タト]へ伜がこがれ死すれば迚一国の政道には替られずとは言物の控も立百性共もなつとくし命助て艶[ツヤ]之丞が奥に備へ後日に隣[リン]国へ聞へても後指さゝれぬ様のさばき方も有ふかと休足の内腰懸に侍せ置しは工夫を練て見よふ為お手まへも思案めさ一家中出入の者に至る迄替つた公事のさばき方聞伝へし咄し有らば言上ケと触出しめさ早ふ〳〵と其身は古来の式目をうゐんひじ公事さぼきの双*紙迄おそば近習を手分してくり出させあれよ是よと記録所は書籍[シヨシヤク]の山をなす所へ日頃お出入御気に入若殿の御咄伽後車と言へる遊楽人折能来合奥方の御物語承り分別有とて罷出元来八百やお七に似たる咎人なれば是を御覧遊され御賢慮加へ給ハゝ*然ルべしとかうきでんうのはのうぶやの三だんめほとけごぜんあふぎいくさの三だんめ大じやうにうどうひやうごのみさきの三だんめ入用所斗*折出し御目に懸れば逐一に御覧有ハア趣向も有物かな扨かふ〳〵と後車に一〃談じ合頓而村中呼出させ外に申にもなく弥女が所ゐと申か然る上は願の通制[セイ]法に行んヤイ女親共も能聞五穀は万民の命の根、其耕作を妨はさいくわのがれず身が手にかけて首を討死骸諸共ふしづけの法に行ふ覚悟せよと白砂に下り腰刀ぬきはなし管笠はつしと打落シ箕引はいで笠諸共下部に下知して簀[ス]巻にさせコリヤ〳〵名主百性共用水の堤を切し女笠の台討落した咎人の此身のかさ長田の庄司がじせいのごとく身のおわりをば今ぞ験る国の掟汝らが願の通堤の切レ所[ト]へ埋べしなきからは親にとらす法恩寺へほうむるべし咎人の諸道具は不残けつしよ上り物此方の宝蔵へ納むべし金子百両葬礼[サウレイ]の仕たく金にとらする間ふ*足の品は買調へずいぶんりつぱに取認吉日ゑらみ道具を納めよ葬礼と嫁入が同儀式ト心へたり只今より当日迄見分の為臍村金兵へを遣ス間万かれが差図に任せよなきからを此儘やるはふ*浄の恐れ乗物へ入百性共につらせ行葬礼の日は名主年寄村中も法恩寺迄見送れよと筋道立たるさばきかたぐつ共すつ共百性共どふやら訳が聞た様でまた何やらたらぬ様で夢心にたのもしを取た様なとさゝやき合御前を罷立帰るぐつろべ夫婦は臍村が指図にてすぐに納戸へ乗物つりこみ日の目おがまぬ箱入娘吉日ゑらみけつしよ物お蔵へ納る嫁入の先荷天社万に野送は氏無き玉の轡乗物法恩寺迄死出立夫から嫁入の色直し艶之丞はたちまち本腹雛の女夫の三〃九度古来稀成旦那寺の舅入御家門振舞祝儀のお能父母の御悦び神の告とは言ながら偏に後車の働と御礼厚くあたゝまる二ツには上るりの影と有ツて一家中上るり稽古めされ語る者は加増有新板はつぼやの太へ三座の操替たび毎日棧敷言付て番替の見物役弥生三日は太夫操役者芸品定メの大評判一家中長局の女中方法恩寺の出家衆御出入町人諸職人召仕の女童に至る迄ひいき〳〵を遠慮なく評判させ京大坂は言に及ず諸国を見たる遊人にて六芸の道も明か成仁なれば後車を判者頭取に定ゑこひいきの位付なき神文を書て既に大評判こそ始ける誠に君が代〃栄へ通成道の楽也
干時延享三寅春三月    作者蠶梁
 
▲音曲操大評判見立鳥尽
 
堺町外記座本    竹本七太夫  操興行
去年今年打続大入に小判のさゞ浪〳〵寄る孔雀*
同町  座本    若松丹後椽*  操興行
金持には金が金もふける大入宝袋も若松に鶴
葦屋町 座本    辰松八郎兵衛 操興行
座本〴〵*が寄合た初操鬼に鉄棒かイヤきりに鳳凰
木挽町 座本    結城孫三郎  当分休
やぐら〳〵をあき風に今は音をのみ鳥無里のこふもり
▲惣太夫之部見立鳥づくし
上上吉   豊竹肥前椽*  辰松座
今歳から二度のおつとめうきふしつらき川浪に身をしづめ給ふ鵜の鳥
上上吉   竹本伊太夫  辰松座
いつでもあたりはてひどいてつぽう鳥
上上吉   竹本七太夫   座本
当〳〵と言だすはどうまんのわかれの鳥
上上吉   竹本杣太夫  辰松座
しゆら事のてひしさとや出のわし熊鷹
上上吉   陸奥彦太夫  七太座
うゑへ上る事は雲迄もくのないひばり
上上吉   豊竹粂太夫  同
         見へぬほとゝぎす
上上吉   竹本幡广太夫 同
抱ての顔が両方に有るひよくの鳥
上上吉   竹本熊太夫  若松座
嬉しがつて見物がときつくるには鳥
上上吉   豊竹留太夫  休
かたいときてはくろがねでもてらつゝき
上上吉   竹本要太夫  若松座
めづらしさに見物がむれ入ル鳥
上上吉   豊竹若挾太夫 辰松座
功者なれ共どこやら淋しいかんこ鳥
上上士   豊竹喜美太夫 休
うゑへくるりと能かへる山がら
上上士   竹本西太夫  休
出語のだんふうは祖師の悌のこるめいどの鳥
上上士   豊竹長門太夫 休
しゞうくるはをはなれ給ハぬかごの鳥
上上    豊竹桐太夫  辰松座
駒太をよこにくわへ給ふいすかの鳥
上上士   豊竹久我太夫 休
ちいさけれど面白て尻がむご〳〵するせきれい
上上    豊竹品太夫  若松座
いつでも子共がよろこぶあめの鳥
上上    豊竹井筒太夫 同
人のまねをよくなさるゝあふむ
上上    豊竹三和太夫 休
御病気とやらの故か評判眠めなふくらう
上上    竹本喜代太夫 休
上るりのつまり〳〵がちと長〳〵敷尾の山鳥
上上    竹本増太夫  七太座
さりとてはうつくしい声のうづら
上上    竹本重太夫  同
功者にすねこびたかうりんの鳥
上上    豊竹仲太夫  休
声に折レなく大つぶにこけるまめ鳥
上上    陸奥道太夫  辰松座
能ならふ〳〵と聞ク人がいふづけ鳥
上上    竹本時太夫  七太座
芸ぶりふ*りこふにくゞるかいつむり
上上    竹本河内太夫 若松座
つねり〳〵と入レ言のおどけは口がねばいもち鳥
上上    竹本千代太夫 休
ねいろやさしくて間延する常世の長鳴鳥
上上    竹本奥太夫  七太座
声がなふても御功者と聞てハきくいたゞき
上     竹本沢太夫  同
うまみなふてかしまし程わめくよし切
上     豊竹嶋太夫  辰松座
店下上るりのけは能ぬけましたつばくら
上     豊竹吟太夫  同
一ツたいお生れ付てたよはくひわ〳〵鳥
上     竹本歳太夫  若松座
上るりの一躰*かんきんする様なしきの鳥
上     豊竹元太夫  辰松座
お師匠ににてかたひかしとり
上     豊竹伊加太夫 同
評判は海共川共付ぬ沖のちどり
上     豊竹絹太夫  同
当地の声頭なれどまだ口ばしきいろないんこ
上上士   竹本伊豆太夫 休
お年だけでおもしろふくぜるほじろ
上上吉   豊竹若太夫  若松座
巻軸 お年寄ツてもお名はくちせぬきんけい鳥
 
▲三味線の部
上上吉   竹澤藤四郎  若松座
君がねじめに声なふて人をよぶこ鳥
上上士   鶴沢義助   七太座
君が評判は古伊八の跡をつぐみ
上上    野沢四郎八  辰松座
君がねじめにうつゝぬかして跡はがらん鳥
上上    岡村弥七   七太座
君はひかぬを名代後生大事とだかへてごさる仏法鳥
上上    喜代竹山三郎 辰松座
君が手はよくまわるこまどり
上上    竹沢平次郎  若松座
君がねじめはうつくしいるりの鳥
上     竹沢藤次郎  辰松座
君がねじめは気の薬喰かもの鳥
上     竹沢幸七   七太座
君がねじめはまた小がら
上上    仲沢次右エ門 七太座
一座のお世話御苦労で日に幾度か胸のひたき
 
▲おやま人形の部
上上吉   辰松幸助   座本
思ひ懸ぬ此春の大当りで方〳〵へかへるかりがね
上上吉   桐竹勘四郎  七太座
娘事のしほらしさはがりやうびんが
上上吉   森竹小八郎  若松座
お姿は見へつかくれつ浪に漂ふかもめ
上上吉   坂東音五郎  同
お山のふうそくには人が思ひを懸るおし鳥
上上士   山本彦三郎  同
君がお山のこし付にはたれも思ひにくれは鳥
上上    山本平八郎  休
近き頃は御ひやうばんがいろ〳〵鳥
上上    吉川幸十郎  七太座
今歳は立役とお山を二役にせおふれんじやく
上上    辰松十四郎  辰松座
お山のふうぞくしぜんとかわいらしいうぐいす
上上    西川藤五郎  若松座
親御のひかりきるかさゝぎ
上上    辰松八十五郎 辰松座
情出して羽をのし給へすだちの鳥
上上    松嶋文四郎  七太座
おやま一通リはなんでもかでも四十から
 
▲立役人形の部
上上吉   辰松六三郎  辰松座
立役師の上ヱに羽をのす大鳥
上上吉   木村兵蔵   七太座
何懸なき中に敵は見かけから恐ロしいぬへの鳥
上上吉   森竹幸五郎  同
人形にしぜんとくらいそなはる五位鷺
上上吉   西川新十郎  若松座
上づだ〳〵と評判がすみ〴〵迄わたり鳥
上上吉   豊松國*三郎  同
芸の仕出し大ていなこうの鳥
上上士   西川重三郎  同
此度の男はどこやら小気味わるいかけ鳥
上上士   森竹京四郎  同
諸芸すき間なくおしあふめじろ
上上士   薩摩善次郎  辰松座
ひいき〳〵にめをせる網代の鳥
上上    松井傳九郎  若松座
御年役に上座をゆるすつへの鳩
上上    岩井文次郎  同
世話敵に思ひ切て手をはなし鳥
上上    辰松安五郎  辰松座
芸のゐきおい淵の鯉も取さふなみさごの鳥
上上    吉川清次郎  同
はげみ給へ追付四十八鷹の部に入もずの鳥
上上    坂東友五郎  七太座
男ふりで女中をあつむるおとり
上上    山本弥四郎  同
荒こと師にきめられてはしよげ鳥
上     西川弥八郎  若松座
たび〳〵刀のつばをたゝく水鶏[クイナ]
上     西川伊三郎  七太座
実事師に合ふてはすくむ耳づく
上     辰松礒五郎  辰松座
評判がまだ定らぬむく鳥
上     瀧山新九郎  七太座
芸ぶりがそゝかしいあつとり
上     藤崎弥三郎  若松座
口上役口きくが商売のからす
上     森竹吉五郎  七太座
荒事師二おわるゝ鷹にきじの鳥
 
お名の高さはそら飛ぶとり
巻     辰松三十郎  辰松座
上上吉
軸     西川六十郎  若松座
後見となりて一座の世話をやき鳥
 
   作者   膚暖堂蠶梁
 
   豊竹肥前掾
[頭取曰] 天竺の釈尊は脇の下から誕生ましまし我朝の管丞相は梅のまたから出産したまふと言ふらすは方便の取なしにて実は与勘平狐が穴からには極つたりいわんや凡夫此お人も上るり世界から降[フリ]も涌[ワキ]もし給はじ農工商の夜喰のかたまりなんめりなまなか親の慈悲にてのらに育てられ備りし家職をうとみ遊民とは成給ひたんなるべし丸ひたひの時分より所〃の会稽古所へ出暦〃の親仁達を取てなげ給ひしむくひによつてとふ〳〵東の座へ初て出給ふ其時はたしか身替り弓張月かと覚ました豊竹新大夫と申せしが火縄くさひ音が有ル上ろ〳〵と言間程なく秀里の頃は日の出の脇太*夫と成給ふ芸上れば色が取れ出してやあつたらお声を建長寺の底竹箒の様に仕給ひ盛リすくなく金短冊四ノ口のちよこ場を取給ふ様になつて中頃より引込給ふ故案じ過しをせしに其年の盆より当地堺丁外記座へお下り[七組伊組] コレ〳〵頭取殿太*夫のゐんぐわ物がたり取置て芸の評判せられい七太殿伊太殿を差置此人の事言出さずと巻頭を直した〳〵[ヒイキ組] ハテぶしつけな頭取殿の評判腰折ずとだまつて聞ていたが能初江戸の上るりは合戦桜彦七病気の段の面白さ音曲の本躰*をそむかず語られし故むぎめしにこめの飯のまじりしごとく水ぎは立て今に人が言出します其頃迄は当地もカンの有声でなけりや悦ぬ故はる〳〵敷当リもなかりしに四の口馬之丞が少しのちやりにて若太殿の当テ給ふ所を見こみせはでなければうれぬと翌ル年冨士日記の少将がなまよいにて打わり玉ふそれより世話をおもの役に取十余年が内一度もふかくの名をとらぬこんたんのきつさ只ならぬ人でござるさればこそ荒地に芝居をうちたて受領して座本と[七組曰] ヲツト座本の段は預ましよ七年きが済で仕まふた十年已前と今は見物の耳がこへてげさくな事は取ませぬ肥前殿も昔の様にりちぎに語らるればよけれど、こんたん過て我儘ぶしが多い今ひの出の七太殿ハ古幡广*殿のせふうつし殊[コト]更去丑ノ年より座本此人を巻頭になをせ〳〵[所化衆] イヤ〳〵夫レハ其元の片ひいき此人の芸と七太の芸は段が有ル。殊更伊太や七太には好ぶ好有リ女中のひいきが薄し第一芸者は女中にひいきがなければ金にはならぬ棧敷はひけぬ[女中] いかにもぬれ事やつし事の思ひ入は此人の様なはござんせぬかるかやのゆふしてがぬれ事三勝猿丸の三の口ほんに〳〵身に付様にうまみが有ル。[ヒイキ] アレ聞れよどこの湯やでも髪結床でもあの通り色事せは事位事詰メ合事模様の有所とさへ言ばいつでも当ります行平ノ三ノ口三勝の吃イヤ此どもりも泣と悦と三段にわかりました名所井筒の惣八がいけんおやつのたいこ梅の由兵へ鶴ころしかぞへ立ればほうづはない分てきつかつたはかるかやの四段目やつこ迄が泣ました後藤はお家の物也[七組伊組] 過期帳くり能ゑかふせられて仏も嘸悦ぶおいらも帳をくり出してちと申そふ十余年が間一度もふかくをとらぬとはいわさぬ丹波与作の中巻は殊にゑての世は物なれどずたい聞れなんだ道理よあつい時で青蝿がたかつた冠合戦の四は留太殿と回し役扨悪ルかつた留殿にかみ付られ十日斗*語て後ハ品太殿に替れた冥途飛脚はあまりしい我まゝぶしあれ程ぶんごぶしが語りたか宗旨替へたがましなまよいは久しいゑて物こきが三ツなると出るにはくたびれた三人なまゑいの大ばたきでこりそふな物しやがまたでるかしらん世話語〳〵と人もなげに言るれど伊太殿幡广*殿を初ととして詰の衆に暦〃の世話語大分有ルあんまり味噌を上ゲ給ふな第一此人の風は素人がまねられずそふして三十日をろく〳〵に勤ずわがまゝに役を替らるゝ故しぜんとひいきもうすふ成ルそれではては芝居を人手に渡す様に成下られしはおいとしながら所全[シヨセン]根にない声で三四と段切の大場をこなす事もならず巻頭は慮外と存る伊太殿か七太殿を巻頭に仕替い〳〵[頭取曰] 双方あらそい何れも一理有しづまり給へすみやかに善悪[ヨシアシ]を糺して聞せ申さん先芝居人手に渡りしは恥に似てはぢならず盛衰は人のならい元祖宇治加賀掾の跡築後掾いづれも座本は別にござる是は格別芸一通りにかけてはふししやうの長短ハル *甲乙かいごふかなつかい清濁[ダク]程拍子口拍子操の合方心いき貴賤老若のわかることおそらく此人の上に立人覚なし大仏殿の三ノ切は此人ならで語給ふ方はないと存る七太殿巻頭にと有は御ひいきが交ます惣じて巻頭に立る人は其職の奥儀を明らめ臨気応変[リンキオウヘンン]のはつめい有て十人の内七人好ク人有しゆじやうゑんを第一に一人して大勢の入を引付給ふ手柄なふてはなりがたし此人の手なみ申に及ずいづれも御存永き月日の内には当はづれ有リ*則ち祖師を初メ越前殿中興開山たる古はりま殿いづれも年中当づめもなしはづれし事度〃然れ共三ツの二ツ当れば丸の当り也作の善悪土地に向とむかぬ有こゝはと言所を引付るを名人と申なり七太殿と此人の間タは五ツ鴈にて知り給へ兵方の段此人はお登の沙汰なければ本ぐり也七太殿は其年大阪*に居給へば定て度〃聞キ給ふべし然をあの違様はどふぞい見物に無理はなし声のかゝるがげんのせふご此人の兵法の段は近年の出来でござつた。一躰*お口に合し所とは申ながら操をいかして正九が電*を嫌ふ咄しにおかしめを加へ枕の段より末にはしつかりと本躰*をしめ所〃花やかめをば加へ長場をたいくつさせずしかもうれいはしごくあわれにていかな気強人もなきました是等こそ土地の気を能知り臨[リン]気応変[ヲウヘン]の用捨を加へし語様也若き衆は鑑になされと申さば袖の下でも取たか但しはゑこひいきかと思召ふが誓[チカイ]を立ていたす評判にゑこは申さぬよい事を悪ク申は悪口あしきをよいと言も取なし也善は善悪は悪とまつすぐに申が評判也愚意の及ざるは見免し給へ心の及たけは評じます扨此人のなんを申さば一ツたいをけやけく語給ふ俗で申ば花やか過ると申様な物それ知らぬ人にはあらねど当地の気に合て徳也と思ひ給ふと見へたり無理もあれ共夫レは四五年已前の事にて今は大分耳がこへて少しの事にも評を打ますけやけき方はにぎやかにておちハ参レどせすじのぞつ〳〵といたす程しんみにこたへたる面白さはなく上ひんの方へよらぬ物と存ル。又時々*のはやり言を入たり此跡の盛衰記の金の段に菊之丞殿せられしむけんのうたを入給ふ事本行をそむきてよろしからず赤素人の悦ぶをかちとなさるれ共本をひかへし見物が腹立ます素人は本を扣る者の評判でくる所へお心付ず御生れ付と素人が得まねぬ故御そんの有に時としてはやり言を入らるゝで本の事やら我まゝやら得音曲の道も弁へぬ黒人も白人ともに我まゝが交ると悪口を申はやり言を入レておちを取ルは脇以下の衆の事にて巻頭に居る人は余り望ざること也第一のきづは此人大入の日は身を入て語入すくなき日はなぐり給ふか名代[メウダイ]を出し給ふこと度〃有夫故素人も三十日をろく〳〵に勤られぬと申名人の上には有まじきこと千万人の見物も十人廿人の見物もたれかれを聞ふと楽しみ来る心に二ツなし入の無日は見物もそは〳〵としまらぬ物なれば猶更大じにしめて語るこそ名人の情[ジヤウ]とは申べけれ是迄度〃勤を引給ふは座本にて借金の断言に声をいため入の無日は気のくさることも有べしとりやうけんはいたせど悪口手合はさふ申ぬ右三四ケ条の評は自余の衆なれば芸の程〃にて評じか様の打越たるこみづは申さぬが巻頭にも立る御方故及ぶだけは打まする最前も七組伊組の衆がお評有し段切の事日を引給ふ事は此度辰松取立の為に勤られし石橋山鎧襲の三段目四段目の段切にて知給へ此三は自余の二場にも向ふて大愁しゆら詰合いさみ段切しかも大入に隅〃迄声の届事其四はどもの大愁初日より今日迄声もいたまず日もひかずてづよく語外〃には暦〃太夫脇操師の達物をすぐり道具いせふきらびやかに新物を仕給ふ所へ芝居なら道具なら操師は手がたらずしやうじんのはきだめへ鶴のおりた様に弟子の若狭殿を引つれて戦ひかつたる大手柄で一言もござるまい其身も役に立ずの様におもわれては座本の時と違ふて給[キウ]金の手前も有跡が又売物也かれ是で力のほどを顕はし給ふと見へ此度の三段目は古今の大出来也先年豊竹の祖師語給ひし時はさのみ替事なき様に存ぜしが何様語様もあれば有物西風と東と調合有故一句〳〵にぞつとする程面白く見物がときの声を上ます元来位有音声[ジヤウ]にて野卑[ヤヒ]めいたる事なく本躰*をしつかりとふまへ所〃花やかにおちを取事能のみこんだる物是ぞ祖師のおふむに演置れしかくにはづれて格に当るりんきおうへんの用捨と言語様なるべししかしうらば姫が死ぎはにてみだ仏ととのうると語給ひ次に下部が出てうつとうると言フシおち此開口はとなふるうつとふる也のふるとふるが。うるうると聞へルはいかゞ是迄覚ぬ開口かなの違ひ此人のかな遣ひ開口は余リに並ぶ人はないと存るに竜*もつまづきかいナ取分あやつり心いきのきついは姫が使者の口上言中に又のを生捕者与一ならで外になしと言詞ほれて居る心が五音に顕るゝ語様恐しいうまふござるれい〳〵と文句に有ことさへ語違へ心得違の有中にか程の妙なくては巻頭には成がたし次に四段目三ノにぎやか成跡にてしめりし場なればほだれぬ様に大愁を畳かけ〳〵語給ふはしかも有ル声どふも〳〵
 
   竹本伊太夫
[伊組]*とふざい〳〵なりをしづめて伊太殿の評を聞れい抑此人音曲の水を産湯にあび上るり浄土にゑなを納たる人にて青にさいの時より所〃の会けいこ所へ行て名を取凡西三十三ケ国廻り給はぬ所もなく此人知らぬ山家もなし伊藤にて操せし時出られしに大音にて声にあい有花やかにて上手なる故いづみ殿たくみ殿も叶はず其後東の座伊藤伝記より出勤有しゞう当リつゞけて又旅廻リし給ひ去ル肥前殿新芝居興行の砌下り給ひ新ぜたいを持しめてやられしは大手柄いか様其小ぐりの三段目はきついあたり也操芝居に古今まれな大入であった[彦組] コレ〳〵ちと遠慮有其年はおらが彦殿が御煩で声の出ざりしが伊殿のお仕合で有た其時の大入はひいきの有肥前殿が新芝居取立られ普請がりつぱなさじきが能のと此評判で入た伊殿一人のおてからでもないさ[七組] そふじや〳〵当りづめとは言さぬ小栗も太郎様斗*で四段目はほつこりせなんだ其後喜美太殿の馬の段がはるかよかつた二の替伊藤伝記よかろ〳〵とはづんだ所に先年若太殿にははるかおとつてはづれましたひらがなの重忠大けいづの北条くらひがなふて太郎様の声が出てわるふござつた七太殿が下られてからは一向あたま上らず道満のわかれの段役もめで一日替りにせられしが七殿の日は入が格別増たぞや[伊組] ヤイだまり上れ此人の芸と七殿と一口にいわりやうか耳がなくばだつ*つていろさ三庄太夫の四ノ切山姥の出語大当りを忘れたかい山崎与次兵への中下ひらがなの三の口四ノ切五ツかりがね又辰松座へお下りの節は芝居がさける程入た七殿や彦殿にそんな事はないぞよ芸者は入を引付るでなければ何程の名人でも上に立ぬと頭取の詞凡上るりを能語こなさるゝは此人程なは爰にも大坂にもない大景図の二ノ切は大坂のよりにぎやかでよかつたと上ノ人が言た大平記の赤松の小気味よさ外の太夫の様にほだれけなく気のつきることなくしやん〳〵わさ〳〵と引立〳〵語段切に成とてつぺきもくだくごとく語らるゝは名人のしるし也なんとつゞくせいが有ルか七組の衆彦組の衆一言も有まい第一操語りでは有心いき事はませて有リ世話事ならしゆら事なら愁なら詰合ならどつこに言分ふ*足のない人巻頭にしてくるしからず開口かな遣いをわけ給ふ事此人にならぶ人外になし[所化衆] ちとかな遣ひの事まつてもらを此人のかな遣ひは一風替りめ有ントのむかなをいわずうと語給ふ則大けいづ二の切に都西陣と言事を都にじうと語れ大平記の三ノ切赤松入道して後の段切に願為四功徳[クワンヰシクトク]と有文句をぐわんいしくとくと語られしはいかゞぐわんいをぐわんにと言が開口也にを永ク引ケばニイといの音生ル是アイウヱオノ産ム開口にして何レのはつち坊主もぐわんにしくとくと鉦をたゝくにイと開口改られしは深きいみも有にやすべて此人にはかやうの心へ違まゝ有様に存る[頭取曰] 御尤千万のさつとふ此人左様の事は常〃改らるゝ人なれども本の竜*のつき*づき弘法の書違へ俗の知らぬ所ハ御用捨有おそらく上るり一道にて此人の上に立人今三ケの津にて三人ならでござらぬ上るりのこなし操のぐ合ほど拍子にひやうし声有て達者で上手なれば鬼に鉄棒もたせしことく也土地の気を能知リ*見物引付給ふ事いだてんのごとし巻頭に立人なれ共生得[トク]声糸にうつらざる所有ていやみ也其上一躰*野卑[ヤヒ]成是によつて位有事おもはしからずハリマ音にてぞつとする甘味のないはかの生付て糸にあわぬ声一筋出る穴有が邪广也さる間爰ニ評をいたす生付て音に位有れば今。としら当地の見物の耳に懸る芸ではない伊藤伝記の三若太殿より悪との評有若太殿声盛り其節は見物の耳もよみこまずいかにも大当なりし此人に*大はたきなりしが能くらべてあぢわひ見るに当りしよりは此人のはづれしが格別よし然れ共段〃見物の耳こへてくるうへ及がたく思ふは過にし事のかふばしさなり当リはづれは時の運と言もの也山崎与次兵への中巻はさすがに古きお人程有て格別かんにたへました肥州の与作のあしかりしに思ひ合せては此人程にはできまじ肥州が叶すば其外にはなめて見る人なし盛衰記の四の切大和風に取直し語給ふこんたん杯はきついはつめいでは有ルしかし兜軍記の三の口はあまりほツこり共なかりし此人の重忠に位のないと七太殿の戸平次の口おもなとは役わり違と思れて御両人共ふでき〳〵別して此人の三ノ口琴哥*が順礼哥*の*様に有し兜ノ三ノ口は重忠五音の調子にてあこやが心にくもり有か無キかを聞悟段なれば大せつの場也二上り相ノ山琴の組共に古代の本手ごとならでは叶はず名のなき人は何様に語共子共のいたづら盲人の蛇たれかれ人ト言るゝ身分にてはかやうの儀はきつと本式に有たし知らぬ千人より知たる壱人の聞てこそ名人の上にははづかしかるべし諸万人の中にはいか様の人有べし共しれず是等は臨気応変とは違也至らぬ芸なればか様に打こしたる評はいたさず
 
  竹本七太夫
[七組] 筑後既に滅し佐内ついに世に出ず二ぶつのちうげんに政太出て三千世かいに舌を演べ鶴*沢が呂律のしらべにけゐかしんぷやうも車長持引ずる様ないびきをかゝせたる名人音曲の中興開山と称せし播磨少掾の身弟子とはおらがひいきの七太殿昔は廣太夫と申せしが應*神天皇八白幡より西の座へ出られ則五段目両面大王の役床中の声頭と諸人の耳目を驚かし追付一座の頭にも成給ふべしと申に違ず当地で座もと一座の頭と成て打つゞく大当を見ておけ〳〵[彦組] そふじや〳〵ぬつと爰へ下らるゝと幡厂殿に似たと言て当リ詰其筈かい大坂でも師匠の替りは大方此人がお勤大坂でも当リ詰で有たに今こちで座本仕てのぼる念がきれたと大分力落して居るとさ[肥組伊組] 彦殿が済でじやとて同じ様にかたはらいたき評判お下りより当リ詰とはいわさぬ初下りの武例であたまからはづれたをわすれたか四五年が内にひらかなと御所桜と三庄太夫是三ツ斗*大坂で当詰とは人違ではないか[七組] 人違とは耳なし共芦屋道満の序ノ中四の口となり柿の木の大当聞ヌか三太夫の得手物越前の鉢木政大夫の楠七太夫の柿ノ木と言評判を聞ぬか[肥組] いかにも聞及だ大坂は格別当地での評は第一上るりがちいさく調子はひくし地虫の鳴様でぶたいがしめつて気がつきる其上ふじうな人でついに新物東物を出し給はずひつきやう中買でござるさ[七組] 同じ様にばかつくすか辰松での西海硯清和東物も二度出た新物は桔梗が原冨見西行夏祭共に三ツ出たぞ古る物せらるゝは是迄爰で大事の上るり共を語ちらして置た故幡厂殿語置れし誠の節を改るのじや又有声で調子びくに少ク語るは耳をすまさせてとつくと上るりのしがを聞セふためじやなんぼわいらがひごついても此人の様に地に甘ひ音出して語初から語納迄地で音[ヲン]を第一ふしでうはつかずしめやかにしつぽりと語ル人はないてや三庄太夫大塔宮を聞なんだか[外組] ヤイ〳〵わいらが組へは七太から袖の下でも有たか町でわるいと言事を皆よいと言なそふほめるなら拍子打込事のならぬもいたつじやと言であろ三庄の二の切三の切にも大分心へ違が有た当座は能覚へていたが四年立故皆忘て仕合ヲヽ覚出したうは竹が手負山岡が女房を見て言間を深手と言心いきでたよはく語後に身なげる所でつよく語られしは心へ違古幡广*殿はあちらこちらで有たひらがなの先陣問答も七殿の様に餅をちぎる様に口のねばい物ではなかつた三段目樋口が名乗所にて天地に響*くいかづちのごとく朝日将軍義仲とヤコへにて語人形に左右を見廻サして声ひそめ駒若君と語又ヤコへにて我はひ口の二郎と語給いし天然みめうの心いきはりま殿には有しが七殿は跡も先ものべつゞけなんのけもなかつた大塔宮はよかろ〳〵と思ひの外はりま殿の語置れしを能覚おるがあんな物にてなし紅梅のたんざくをよみて町人の子は父母をしたふにも只めろ〳〵と泣斗*と有文句にて古はりま殿は泣たまはず初のアか程迄御父帝をしたはせ給ふとほろりと泣給ひしに七太殿はあちらこちらで只。めろ。〳〵泣斗*と文句の泣文句でしかもみそごく泣れしはきつい心いきの違様祖師は斎藤が来るよりは語口ぐわらりと違し故気が替りしに此人は天てらすよりつゞきにけり迄ねば〳〵と同じ語口故永場では有リあくびの千もでました三ツ子も聞及泣おんど先年の大火事に父こひし母こいしと泣出したと言*ふらした程の泣おんどをおどりくどきにやられしはあんまりむたひ其外むぐうの心いき有しか一ツもなかりしはりまの身弟子で本とうのふしを語改め上るりのしがを聞す杯と素人をとらへて味噌上給ふ由聞及ぶ祖師のまねし給ふ様に素人は思へど此人のまねは絵のしきうつしと同じことでひつせいがない又少ク語給ふは赤みを出さぬこんたんかい冬年の清和きついはたきたつた七日してやめ給ふ東物はお口に合ハぬかくそんゑいの*偽りならばの諷にはお里が知レてきのどくあいきやうありける万歳と聞へました次の真鳥肥前殿語給ひし二の切三ノ切と此人の二ばとはきつい違わるかつた寄かくるの一声七太殿諷給いしアノ間へつゞみはどふ打こんだ物ぞ[七組] コリヤおのらは七太殿に何いしゆが有て悪口ぬかす但しは七太殿に伊太やひぜんや彦太初メ江戸中の太夫が近年かみ付られし故疫病の神でかたき取のか地事は此人につゞくはないさ〳〵[頭取曰] アヽコレ〳〵もふよいかげんに論やめ給へおがくづも言へば言るゝでひを打テば祖師にも打所有其人の芸の程〳〵にてほめもしつひも打がよし双方のあらそい頭申ひらくべし七組は余りひいきに過る伊組肥組は悪口過る其程〃に評するが評判也初メの大塔宮盛衰記の評は是程違と存る三国一の越前殿さへ当地にて当らざりしに此人大坂にてはさせる誉れもなかりしにお下りのそも〳〵よりよい〳〵と引立られて去年より座本迄なさるゝは土地の風俗に乗しと言ふ中に一きやう有故也おてがら〳〵扨初て辰松へお下りの節武例の三ノ切は当リ目はなかりしが耳明の評には御きりやうに合しては東を西風に取直しあれ程には能語給ふと申た余リ*よさに大方お師匠がはなむけにおしへられたで有ふと存る程出きました其後の御所桜二ノ切はお口拍子なさにほつこり共せざりしが三ノ切はきつくよし其後は御こんたんと見へて調子びくに声少ク座敷で語心に操にも三味線にもかまはずつね〳〵〳〵と語給ふ故素人が悦で古はりま殿に能にたと嬉しがつてお仕合さる間三庄太夫は大ばね師走の果に大入也うまみでなづみ給ひしか其後はくる替りも〳〵地合にうまみ付ふ〳〵とお語有故上るりにもたれがきてじよはきうなく長場はほだれか参つてたいくついたす惣じて永場を陸[ロク]地斗*ふみてはおもしろからずたとへて申さば百三十里上方へ登る長の道中ろく地斗*ならばたいくつすべし山も有川も有寒風吹ぶりのつらきこと有ば泊〳〵の赤前だれの楽しみ有下宿〳〵風景替り人の姿物ご*し迄もやう変[ヘン]化有にて長途のつかれも忘れ楽しみと成是ぞ能手本教訓なるべし御ひいきに存からにが口も申お声は有せい出し給へ扨当春初上るり夏祭初三八のお役操能出来し跡評判能お悦と存る別て八段目初日出ざる先ことの外御じまん有し由承るよろしからぬこと素人らしく聞てあししじまんは人にいわするがよし大序の塩釜ほつこりせず住吉の段大坂は綿武新芝居伊筒品太也井筒程には聞ぬと存る八段目熊太要御同格と聞る其内お声おなじみだけに見物ノ取所有てお仕合しかしせは共時代共つかずじめ〳〵と入梅の内のせんべいの様にしめりかへつてきがつきます初に申長旅の御いけんは爰也徳兵へ三婦團*七が分リませぬ今少し操に心を付語給へひの字のかなを得言い給はぬ故身にしきうける覚悟のせつたしき請はなんのことでござるそれにしかへおれ又何とやらしてしゞはりかけ子共の小便やる様事を語給ふ次にふくろび縫所で少し色をふくみて語給はばうまかるべきにあまりすげのない語様徳兵へがせつた出してよりの詞徳兵へを泣声にて語給ふはづはなし内に泪をふくみて外はつよく其つよき中にほろりと泣と言心いきなくて叶はず近くは京土産の惣八が彦三にいけんせし格にて有たしあたまから泣給ふ故すつきりあわれになし男の義にていかな奴も泣所で有物をアヽはがいゝ併お声がらにて見物のうけ能益〃評判能御はんじやうにてお悦び今日の出故外につゞくせいなし情出して芸を上巻頭に成給へ三は一にきすと申心で先此度は爰に置ます。
 
  竹本杣太夫
[頭取曰] またるゝ身より待身のつらさとは申せ共待おふせて初音を承る楽しさ嬉しさ何といづれもすさましい声ではござらぬか[彦組] コレ〳〵頭取殿杣殿は御当地初てにてひいきの組もなしいまだ何の手がらもなき人をこちの彦殿より先へ評判し給ふは心へずどふや辰松ひいきか杣殿に縁でも有様に存る彦殿は数年当地にひいきも多ク是迄度〃高名有人なれば先彦殿を先へ直し杣殿年重て手柄を見ての事にし給へさ[頭取曰] 成程御尤至極の御ふしんしかし評判はいたせ共辰松ひいきにもあらず杣殿に元より縁なしひいきへんばにて評判成物にあらず杣殿手並当地にてはなけれど大坂にては武例田村の三ノ口久米仙人の五段目此外度〃の高名也すへで大坂両座は稲荷の鳥居にひとしく此やぐら越たる人故彦殿より上座へ立る其上此お人を初熊殿要殿久米殿以上四人は当地初てうい〳〵敷所有殊に此人〃にて金もふけせんと抱下り給ふ座本衆への立分なれば一二ツは取なしも申シ位付座並にも心付有夫だけは古イ衆のおとなしやかゞよかるべしと申せば此人に取なし有様なれど左にあらず大坂にて初ノ中五段目よりついに外へ出給いし事なき七太殿さへ当地にてはあの通此人はしゞう三ノ口勤給ひし然ば後にはいか様にのぼり給ふもしれず既此度仏御前三ノ切出語古今の大当じやはさ
 
   陸奥彦太夫
[彦組] 十三歳已前寅のとし辰松座へお下られ忠臣金短冊にてお当町中をなびけ給ひててより此かた土地の風に合打つゞいて御評判能永の年月ふ*覚をとらず当詰メ給ふはお手がら〳〵[悪口組] コレ〳〵待てもらを爰も今は見物の耳がこへて愁も上へ行はとらず下でこね廻してあわれに語でなけりや取ぬ世に成て此お人も近年は余りはか〴〵敷当りもなしお声も能が地にうまみなく口中がさつぱりと文句聞へかねてうつとしく老若男女の詞ごつちやになり場によりて格別能も有格別悪きもあり不同有人也[彦組] ハテ知れたこと言るゝ場がよければよしばがわるけりやわるいは此人にかぎらず初下りのたんさくではさしもの肥前殿の少将の酒よいさへけとばし其後名所井筒の大和場きびしき物也源平つゝじの四条*原の四大和場の大愁はたれがなんと言ても此人には叶ずのふお頭取[頭取曰]  イカニモ〳〵そんな物ばによつて口に合あわぬは名人の上にも有事人〃生付たる声のあやにてぜひなし大坂両座の太夫は其人〃の口に合様に作者より書てあてがふそれにさへ一躰*のたてによつて口に合所合ぬ所有まして爰にては大坂の正本引うけての役割なれば上方にて当りしとて口に合ぬばを得あてぬ共しかられずさるが中にも口に合ざる端ばを功者にこね廻す働も立れ共各方初メ当地にさ程こみづ聞見物すくなしいづれも二三四と役の場斗*目を付てせり合いづれの口にても我のどに合たる所を取リ当るをかちと気の付太夫衆もなきと見へて口にあわず共三の切を嬉しがる也一躰*浄るりを此人程行義能語衆もなし入の有日もなき日も行儀くづし給はず御きどく千万也先年はお声ほそくうつくしかりしが近年は太く成てうつくしめぬけたり芸は太分仕上ケ大丈ふに聞へ給ふあまり行義にけられ給ふ故うつくしき声にて色の道和事のでけざるは気のどく何様抑おくだりより十三年が間評判落ぬも外にるいなし別て七太殿座へ出られてより又〃評判わかやぎました此度夏祭道具やの段新芝居にて要殿役なんぼ顔が新ても道具やは古い物がはねると見へて水際が立まするしかし此方ではまつとよかろとぞんじたがさ程にはなし乳母がうれいもしもの事が有たらばのふしは定て喜平次フシと存が文ヤに語給へ共つぼへやってくるりとかへし給ぬ故落かいなし爰らが余りりちぎ過て御損也此お人もしのかながひに成ます気を付給へ一声二節と申せ共至り〳〵ては一節二声也御声有上に名人と成給はゞ鬼に鉄棒でござる
 
   竹本幡广*太夫
[頭取曰] 名護屋にてお名高くお下りを待し所去〃年肥前座へ半途にお下り潤色江戸紫二ノ切世話場故お口に合大に出来ました大坂にて駒太殿役此お人程にはなかつた駒殿よりこなし方能操の心いき能所有し三ノ切は内匠殿白銀の盤にざくろを入し様に語置れし所なれば夫程にこそなけれ出来ました其後大助の三別テ道成寺の出語両度ながら出きましたお口に合し物のこんたんきびし一躰*操の気能世話事能本ぐり能上るりのこなし能シと申ス中に田舎仕出しの様にて野卑成が大きづ也此人上ひんにあらばおそらく中ノ座にてつゞく勢なし名古やいせにて当給いしは断也当地は上るりの聞人なく平とふ言ば地獄同前にて下へ〳〵と引込ば油断有ルと芸下リ下さくに成也既に七太殿にさへ余程げさくが付ました人のひを聞て我ひに心を付給へ下地はすき也御意はよしときてはたまらず既にひらがなの辻法印は四ノ口なればゆるしも有べし道満ノ四ノ切はあんまり何を申ても土地がらで汗の出る様な事を嬉しがる見物も有千者万別にはこまつた一躰*此お人の声はよし大音也功者に能取廻し給へば下ノ見物が悦びますお下りより今ねんまで一度もあしき事なき故方〃から抱人もせり合と見たり芸者衆生縁有て見物を引付るが名人でござる
 
   竹本熊太夫
[頭取曰] 此人陸奥茂太殿の門弟にてそまやまひこの巻軸に有を当年大和太夫高弟としてお出有しを死人にもんごんと悪口言人も有しがとかく知らぬ人をおどろかすのこんたんと見へましたかんばんはとも角も当を取が芸者の第一にて、此度の夏祭六段目焼鉄の場殊の外はねましたおきな渡しは評判あしかりし所初日のうけ能大和の高弟様*と声懸ル見物あいだに有おてがら〳〵先年よりもお声はなけれどあぢ能取廻し語給ふどふでも古兵物也此人能所を当給いし故肥前殿ぬけられて明店同前に人の申せし芝居を評判たてなをりしはまつたく手がら也八段目も評判よしと申中に別て焼がねのだん大出来〳〵徳兵衛が女房に三婦*が訳言間うまい物也見物が悦でぞく〳〵いたすしかし爰に心へぬ事一ツ有一寸が女房焼鉄当テからの詞十ケ所も手負今を限りと言程によは〳〵とくるしき心いきに語給ふ是はあんまりむたいと存る三婦*と立引にて我でに焼鉄当る程の女いたむをかくして一ばいつよみを見する心いきの語口でなければ叶はず気を失ふは作者の心いきにて女のしやうを見せたり気が付てからは又つようのふては叶はず其せふこには三婦*がきづはいたみはしませぬかなんのいな我でにした事をヲ恥しと袖おほふと有しかも御自身も真鳥の三の口でヲゝヲゝ〳〵〳〵はづかしと語ながらお心つかぬは毛が三筋たらぬかい八段目能語こなし給へ共ひ力故六だんめ程にはなし然れ共七太殿より格別よふござる團*七一寸二人おとめて三婦*があいさつの極下の下の〳〵下の思案杯と言うちの詞三婦*は底心から身を入て言詞のはづ也どふやらうはついておどける様に人形のづをふる拍子についてヤ下の〳〵〳〵〳〵下の思案とうはつく様に聞へるはお心へ違か但しはお声ひりき故身を入てきめてせりかけ給ふことの叶はぬか次に表へつき出して言ほどきの愁泣ねばならぬ所がなけませぬはやく時代事の弁慶や金平の有詰合聞たし先当夏祭二軒の内にては語口壱ばんの当りおてがら〳〵
 
   豊竹留太夫
[頭取曰] 此人先年辰松初ぶたいの時鑓の権三の初語られし時は青い物にて有しが一番〳〵に芸仕上られてめき〳〵〳〵と立身し近年は太夫の部に入太夫ぶれさせて語給ふは目でたし先年より語口せはしく詞の尻を一句〳〵に押付耳に懸りしが功者に成給ふに随い余程なおりました操の気は有声は丈ぶなり諷は別てよしきやうはだな芸なれば情出し給はゞ世話事もいきませふに思ひ切て手を放した事語ては見給はずさりとはかたふござる彦三殿と此人は悪い事も能事もないと申評判芸程に評判のなきは花やかになき故也花やか成は野卑[ヤヒ]めくと申せど程らい有今少し花やかめと和らぎあらばきつい評判で有ふと存る去ル辰松にてさよ衣の四ノ口野平が釣狐の一ばは諷交にて口に合し物故近年の大当道満の初の切清和の二の口は此人につゞくせいも又有まじ先年辰松の清和去年中ノ座のうす引哥*口に合ぬ所を能語こなし給ふ女の文句をかわいらしめ付ふとてはなへ取て語給ふはこんたんしかし生れ付の声はしよ事なし鼻へ取ふが目へぬかふがアヽかはゆらしなかつた御一生の出来は冠合戦の四の切風俗太平記の三の中也中の座へ出られてよりはか〳〵敷役つかず夫故がちとね入ました其上此としお休もむふんべつ評判がうすく成て参る永休御無用〳〵
 
   竹本要太夫
[頭取曰] てんま佐世太殿近年めき〳〵と芸を仕上られて当年要太夫と成はんくわの地へゑり出されてのお下りいかいほまれと存取分此度夏祭道具やの段殊の外出きました上下共にふじうなお声なれ共能くろめて語給ふ此人は朔日のおきなからして評判がよふごさつたしかし道具屋の段にて田舎侍が清七をしかるにすてう人めがと語給ふ是はすまち人でなけりやならず惣じて大坂で言詞の爰へ通ぜぬも有左様の文句はつうずる詞を直し給ふがはつめい也其心にて直し給ふと見へたり夫をいかにと言に正本にもまちとかな付有をてう人と語給ふは爰は上にて何まち〳〵言を何てう〳〵と言から武士が町人しかるもすてう人と言であろのあてじまいと見へたり八段目にて熊殿のはらひだるいも皆はたらき過てあらし此人道具やの段まく前のノリ地は彦太殿よりおもしろござるなれ共まだ所々*あまい所が見へます其はづでも有團*七が舅を見るも中〃腹が立がよふござつた是等に心いきの語様有はづお心では句を心切して語給ふかも知らねど此方の耳へはのべ付に聞へます鯛や鱧のうり声右や左の長者めかぬ様に語給へ八段目存の外操の心いきをこめて能語らるゝおもしろし〳〵が徳兵へが義心の間七太殿よりは一ばい泣給ふくわしくは七太殿の評に有能〃*かんべんして見給へ泣で泣ず見物を男のぎで泣す語口有べし一寸が泣てかゝる故團*七をだます様に聞てよはし泣所泣ぬ所有べし泣文句なればとてしゞう泣クには有まじ能御かんべん有べししかしながら大坂にて能聞取下り給いし程有て上るりあぶなげなく語給ふ故丈ぶらしく聞へ見物のうけ能お仕合まだお年若なればはげみ給へ御出せはたしか〳〵
 
   豊竹若挾太夫
[頭取曰] 大坂にては絹太殿とて稽古屋なされてお名高き人去ル頃肥前座へ下り給ひし所内匠のせふうつしにて久米仙人の三ノ中お語有しが扨〃おもしろく覚ました四ノ中非*人の段ひりきにて能取廻し語給ふぜんたいしゆぎやう能たりて功者成人なれ共しゆじやう縁うすきと見へて素人の見物芸程に請かいなし随分神しんじんして諸人あいきやうをいのり給へ芸程に評判なくてはづゆふござる是程引下ケて評ずる人にはあらねど評の位付前後の座並はひいき多ク素人のうけ能入を引を先とし何程名人にても人ずきうすく諸人あいきやうなきを後と立なればぜひなし是迄させる大功は取給はねど紅梅手綱の四ノ中はおもしろかつた分て当春石橋の三ノ中先ニ駒太殿当られし所故駒殿程に素人評判はなけれど節付の面白さハ此人が格別よし去ルよつてお下り此かたの評判也四ノ口二ノ切共に能語こなし給ふ大分評判なをつて参つたれば仏神信心有て情出し給へあたりがでましやう三ノ中はきつく出来ましたがなんを申さば地過て味そごい様に存る爰等が大事の評也うかと聞給ふな跡が肥前殿也殊ににぎやか成場故みそごくてももてゝ参ル外の衆がしめつた場なれば三ノ中からたいくつしてもてませぬぞ御かんべん〳〵
 
   豊竹喜美太夫
   竹本西太夫
   豊竹長門太夫
[頭取曰] 御三人共に当御休み喜美太殿は去ル頃肥前座へお下り有て鎌倉大系図に大当テし給ひ其後五ツ鴈局の段道行いづれも能ござつたが翌年辰松にて又大けいづにて当りましたとかく此三段目は妙を得給ふと見へたり外はさして事替りし事もなしと申中にあしくもなし愁場一場もてるお声なれ共初日より五七日が間は声も出かねあぶかしくおてに入てはよし是がきづ故余り評判はし〳〵共いたさず西太殿は外記座へ風と*お下り有久米仙人二ノ切三の切よし出語の暖風はお家の物故はねました其後肥前座へ半途から出られしが潤色江戸紫二の切四ノ中いづれ共ほつこり共いたさずけつかふなお声なれば芸をはげみ給へたしかに御出世有ぞ〳〵長門殿は数年吉原に御住居故先年は吉原新太夫と申せしが嶋太夫より長門と国名を附めき〳〵〳〵と秀給いしがいつの程よりか御評判うすらぎましたいまださ迄のお年にもあらねば今一はた上ゲ給へ〳〵
 
   豊竹桐太夫
[頭取曰] 此人去丑ノとし辰松座へ下られし所お声よく達者にてどこやら駒殿に似たと見物のうけ能初芝居はゐなりより評判がよふござつたとかく下声にてしつほりめいて語給ふ故上手らしく聞へ素人おどし能此度石橋山二ノ中三ノ口いづれも達者に語給いしゆへ見悦びます脇太夫衆以下は一声一声でこそ有レひ力では一場渡されず脇詰の衆は達者が第一でござる
 
   豊竹久我太夫
[頭取曰] 此人大坂東門弟にて水ナ口のなにがしと名有お人しかもけいこ能たり功者に語給へ共小音に舞台には声とゞかず夫故此序に置ますお腹が立ば若狭殿桐太殿品太殿井筒殿の座並の前後にて疑ひはれ給へ先年肥前殿未新太夫たりし時吹矢町河岸にて操興行有し時出勤有猿丸太夫初ノ切善司が腹切の段芝居少キ故能通りくゝんで持程おもしろふ覚ました其後外記座へ出られ秀里の二ノ口行平の三ノ中いづれもよふござつたが遠ごへは聞かねし其後は座へは出られね共けいこや立給ふ故評判にはのせますアヽ大音をしたや。
 
   豊竹品太夫
[頭取曰] 此人御生国は奥筋の様に承つたが何様さも有かしてなまり多し先年始て辰松座へ出られてよりめき〳〵と仕上られすでに師匠の芝居にては片うでにも成給ふ程に相聞へ小栗三の口杯はアヽきび敷物にて有しが次第に評判かね入様な気をはつきり持てはげみ給へア*ゝ*けつかふな逢の有ルうつくしい声を持て心がけ薄いかお声頼のゆだんか御ひいきに存るでかくは申せい出し給へすべて人の申は哥*は日本詩は唐土上るりは大坂者一人飯喰は信濃者と申が其道へ入てまなぶ時は産神には寄まじすでに管相丞のかふろぼうの詩は楽天に勝ル王仁が浪花津の哥*は手習ふ哥*の手本とすとかやなれば其道へ入て情出さばなどか奥儀を得ざらんやハテ奥生れが夫程迄上りしからは其上の上らぬ事はないはづ也ヱヽ〳〵〳〵はがいゝ素人が悪口に此人芸は年寄に若い女房持せた様なと申心はあつたらものを持ころしじやとさ角力で申さば八角が手本ぞや此度夏祭にて住吉ノ段七段目舅の役いつれも達者語ラるゝ八段目やねのだん声限リわめき給ひて小気味能若い衆や子共大分悦ます。
 
   豊竹井筒太夫
[頭取曰] 品太殿より此人を上座させよとさつとふ有人もござれど兄弟子と申其上鳥が違ます巻頭二三座の御方トは格別にて脇以下の衆は達者が第一にて声をおもと評じます然れ共又達者声斗*にも限らぬは是迄是よりの座並位付にて御得心有べしさるが中に此人一雨〳〵にめき〳〵〳〵芸仕上られたぬつと語出した所は火縄くそふござる一たいきよふはだ故物まねを能なさるゝ余り度々*故しかる人も有レ共ぬし達の部にては烏の母言てなりとわつと落取が勝也と申せど此人の物まね上るりの語様に心いきのそむけた事はござらぬがひりき故たよはく立消へのするにはこまつた後藤の三ノ口ノ坂東太平記の竜*左エ門茂平次のかけ合此度七だんめ團*七を藤川平九にて語らるゝいつれさびしき也上るりは能こなさるゝ中にお七江戸紫の三此度住吉の段てききました此度の一ノ当リ人也道具やの口にて金物買がと有正本の文句を紙くず買と語替られしは爰での一休咄しに合様との心尤也然ルに初のゑぶなは直し給はぬゑぶなは爰へ通じず作者は大阪でさへつるすずれば外の国にはかまはず正本は直さぬものと言はことゝ品によるべしハテとうじんだん〳〵ゑのくわんおん経もつるぎがおれだん〳〵となるとこちでなをさねば有がたふはないはさ
 
   豊竹三和太夫
[頭取曰] 此人急に芸仕上られ声ひらけて上能聞口中のもつれもそろ〳〵直りなまりもうすくきよう成芸にて有し故辰松座にて七殿伊太殿の中へたてはさまり三庄の三ノ口にては大当テせられしが大事の気をぬいて旅へ行れ其後又辰松へ出られしが評判の気ぬけし故かまへとし程にはござらなんだ其後承ば御ひやうきにて引込れし由当師匠の出らるゝに付て行れぬは未御本腹無か
 
   竹本喜代太夫
[頭取曰] 親御のお名を譲請て二代目の喜代太殿上るりはずんどはつめいに語らるゝ若てのけいこやにて名取也声うつくしく能こなし給ふ故末座へは出られねどお名がはつして御本望と存る評判では井筒品太の上にも立様に人は申せど未桧*舞台ふみ給はねば御きりやうの程斗*がたし何方へも番入有て手並を見せ付給へけいこや座敷と舞台はくわらりともやう違ふ物なれば武功の顕れし人〃を上に置て此所評じます
 
   竹本増太夫
[頭取曰] 去秋辰松へお下り有て冨士見西行の二の口ことの外評判能冬より外記へすけに出られ真鳥の四の切場はよし声は有達者に語られ評判よし当春居なりのお勤列二ノ切、道行のつれ六の奥何レも達者にてよししかしけつかふなお声にてさてもあまふござるぞ気付て情出し給へ油断では糸切すゞめに成ル声からでござるお達者故引上ケて御評判いたす
 
   竹本重太夫
[頭取曰] 去丑ノ初冬より外記座へ出られ則十五段の三ノ中古河内殿語口能覚て語られし生得御声なけれど子供の糸鬢のごとく小ませたる芸真鳥の三ノ口もない声で能こなし給ふ別て此度の夏祭道具やノ口道行ノ次七段目のわけ合三場共ことの外能できました取分ケかけ合舅の方にくていに能語給ふ是は偏に大坂で聞下リ給ふお徳也なんぼ聞ても地ばにはつめいあらざればよからず既に七太殿西行ハ態〃聞に登リ給いし由もつぱら評判致せしが何を聞てわせしか扨おもしろなかりし然に此人能聞込下られしは一ツたひ芸にませたる所有故也とてもの事に去年出給はずわつさりと春より花にして出給はゞ大にはねませふ物芝居もそん其身も御そん也春の花なり給はゞ是程下座には評せず花は花とたてゝ要殿の格も有にハレヤレ〳〵おしき事かな
 
   豊竹仲太夫
   陸奥道太夫
   竹本時太夫
[頭取曰] 仲太殿は当年お休みかたしか新芝ゐに旧冬かんばん出しと覚へしが夏祭のお役場を忘れました不調法まつひら御免しかし忘れさせ給ふはそつちも御ふ*調法也きれい成なれ共上るり古風にしてかたし和らぎ給へ〳〵道太殿喜之助の時分とは声開き格別達者に成給ふ石橋の初切達者に能こなし給ふ此頃桐太替りの三ノ口石なげの段は桐殿よりてびしくて能し上りませふ〳〵時太殿已前は梅太殿と申て結城座の座本分なされしが其後肥前座では春太夫と成又時太夫と御改名芸者の度〃名を替は御そん也お名が通リませぬぞ扨此たび夏祭三ノ口六だんめ切のお役いつれもよし別て焼鉄の段熊太殿と聞くらべては御きりやうに合せて格別よしけつかふなお役めでござるノ
 
   竹本千代太夫
   竹本河内太夫
   竹本沢太夫
   竹本奥太夫
[頭取曰] 千代太殿は当時お休河内太夫殿は已ぜん和哥太殿と申て吹や町河岸の芝ゐへ出かるかやの三ノ中にて評判よし其後久〃座へは出られざりしに此度大にむつかしき名を付出給ひ夏祭道行の次おせゝおかまいやるなはできました〳〵追付駿河太夫に改名なさるゝで有ふと存る沢太殿は中ノ座にて夏祭初の切七段めかけ合團*七いづれもよし今少しうむみを付給へ達者には有ぞ奥太殿此四天王ノ内にて上座にも立たき人なれ共ひりきにて残念殊更古幡广*殿の直門弟に近年なられし由御表札にて見へたり功には有共ひ力故お役も付ず夏祭にても初中也能語給へ共一声二声のこり多し〳〵二ノ口は猶よし〳〵
 
   豊竹嶋太夫
   豊竹吟太夫
   竹本年太夫
[頭取曰] 嶋殿は石橋の四の中お寺にかった太鞁のお役場も能故芸も格別上つて聞へます木挽町の太子伝こくせんや三ノ中評判が大によかつた吟太殿は奥太殿御同ぜん残念〳〵
 
   竹本伊豆太夫
[頭取曰] ぬし忠殿と申ては大坂でも旅でも名高き仁也西風能呑込れて功者也先年辰松へ下り給ひかるかやの新作物にて阿は太夫ぶし大きに当り逢子の若河内通後三年十三鐘いづれもあしき事なかりしが古風にて堅クかき餅の様にてさせる大功もなく冬休居給いしが去〃年辰松座へ出勤五ツ鴈扨少く成給ふ事かな古兵物のうち成故お名を尋ます
 
   巻軸 豊竹若太夫
[頭取曰] 御出性からやつてくりよ泉州堺嶋太夫とて何十歳已前の東門弟と成阪上田村丸に出給ひ初段ノ切多川源太夫仕出しにてひふ盛声盛見物が受取し御当地へお下り有ても増〃評判能さしもの國*太殿さへかみ付られしが月日に関守居ざれば御気丈薄ふなりましたお若い時より芸大ざつぱいに取じめはなけれど声がら大音にて二ノ音にしごく逢を持耳当ぼんやりと和らかに見へしが当春久〃*にてお出の夏祭九段目お年だけに逢はうすく成れ共お声はまだ落ませぬ今若手の語あらそふ所へ久〃にてのお出はさしづめ釣船の三婦*かい京にては榊山当地にては此人同じ心いきと存ル昔にかわらぬ達者なわろ夫故巻軸に置也
 
▲おやま人形の部
   辰松幸助
[頭取曰] 只今は八郎兵衛殿と申せ共古人と紛ら敷其上在〃所〃にて人の知つたるお名なればかくのごとし扨近年はか〳〵敷お当なく当初芝い抔ハ出来兼申様にも承りしに肥前殿と仰合れ石橋山にて大当なされ毎日〳〵大入嘸お満足と存近所は太夫衆新顔の暦〃にて大坂大当り評判有新上るりをいしやう道具立に大金入てせらるゝに、古物を引直したる斗*にて初日出し給ひし処近年無類の大評判三ノ切にては見物ときの声で悦ぶは偏肥前の働と申中芝居にひいき有故也[若松組七太組] 当り〳〵とやかましい芝居の大小を知れぬかい辰松の入有と外二軒のないとかけ合わい入のせんぎせずと芸のよし悪言れいの[頭取曰] イヤ此人の芸善悪は改申に及ばず心いきの少しうすきこそなんなれ人形一道は生れ付たるお人故別て申に及ぬ也此度石橋の三与一が母の役色香姫にいけん言るゝ中の仕うち又野を留らるゝ間の身ぶりつよからずして女の情[ジヤウ]自然と顕ます外の衆なら手をひろげ足拍子ふみ抔してあら事がましくて女の情を失ひ給ふべきに爰らがしぜんと生れ付たる所也六七年いぜん迄は人形こせつきいごき過て心いきもなふ遣いのめし給ふがきづなりしに近年別シて此度などは人形いごかず只風俗てんねんとそなはり*たるくらい有てさも岡崎殿の奥方らしく見へます肥前殿操語故たしなみ給ふか但しはお年寄れて御太儀故か何にもせよ余りいごき過るも悪しいごかぬも悪し其場〳〵によるべき也とかく心いきを頼ます先此度はきついお手柄〳〵
 
   桐竹勘四郎
[頭取曰] 去ル酉ノとし肥前へ下り武例にて長者が娘ことの外評判能後藤が女房大当リ也其後はさしてはねめもなく人形にいやな身振出しが近年中ノ座へお勤有て又御評判そろ〳〵わかやぎ出ました取分此度道具やの娘一寸が女二役共にお隣とは水際立て見へます此人と森竹小八殿とくらぶる時は四分六分か五分五分かと申物也勘四殿は娘と世話女房がよし小八殿は打上つたる女房か傾城ならば太夫がよし是一躰*野卑とやひならざる故也然ればごかく成べきに小八殿は久〃御らう人有てお名はつせず殊更此度も御宗旨違也此人はしゞう当地をはなれ給はぬ故人が能存て居ル芸も四六と一歩方はたしかに違ませふと存る
 
   森竹小八郎
[頭取曰] 此人京森竹小八殿の弟子にて勘四殿と御同門とやら承リ及びし去久米の仙人四段め花増できました別て五段目なるかみを落すいさゝめの間は格別の当で有し其後ノお七もできました然ルに永〃お勤なく久〃にて出給いて御商買*のお山はなされず若男礒の丞しかもよろしからず知らぬ両替やよりしつた糖かいと申せば夏祭に五ツ迄有きゝお山せめて一ツは役付給ふべきあんまり也表付もはるか下リ給へ共此度は已前の功によりて此座に置重てはお手並に寄べし
 
 坂東音五郎
[頭取曰] 昔は三条乙次郎とか申て面座へたしか出られしがと覚へしが気を替て兄御の職をつき兄きにもまれ給いし故めき〳〵と芸仕上られて寿八郎殿御病中は替役見物が見違へました其後もおつはれ達お山引請て能こなし給ふ此度三婦*が女房団七が女房いづれも能なさるぜんたいきようはだ成芸にてしかも心いき能を付給ふ今お山師達物の部でござる
 
   山本彦三郎
[頭取曰] 久〃見へ給ざりしが当春より若松のお勤近年めき〳〵と芸上りましたお山の風俗一たい打上りおとなしうござるすでに新うす雪の御台はきびしく出来様其頃はつゞく人有間敷様に存たが三年芸腰懸ましたはげみ給へ〳〵此度なまの八の役宗旨故かできませぬ此人も小八殿もお山師に役が付ぬさても〳〵もつけなこと芝居の御損じやが
 
   山本平八郎
   吉川幸十郎
   辰松十四郎
[頭取曰] 平八殿はお休幸十段は此度駒船の役お山立役やらすのがきず両用共に能こなし給ふ別て此度の駒舟大役出来ました京四殿能なさるれ共余りいごき過る故三婦*ちへうすく見へます然る時は御両所ごかくと評いたす扨又十四殿石橋山の四どんどべが女房できましたがゆかより語てあてがふに合せてはまつと遣れそふな物
 
   西川藤五郎
   辰松八十五郎
   松嶋文四郎
[頭取曰] 藤五殿は道具屋娘お中と一寸が女房お辰二役共に能なさるゝ近年大分上りましたしかし首ふり給ふおくせは今になをらず道行にては小八殿もふり給ふ故御両所のお首のいごくでじや〳〵がまいる八十殿は石橋山色香姫大分上りました文四殿は三婦が女房團*七が女房御大役できましたしかし駒舟が女房夫を出入に押やりて跡にて立ついろうろ〳〵し給ふこと有しが御りやうけん違と存るやる女房の気のつよさとあれば戸を引立て落付い給ふはづ也が此間は初の様にあらず落居給ふ扨はお心付しかどふでもお古い程有是は取も見分ケじまん也音殿はわかふても初るゝよし
 
▲立役人形の部
 
   辰松六三郎
[頭取曰] 今ひの出の立役師多き中に此人につゞく人はあらじお名代の辰松風の手筋にてもみ上ケ給い故芸にいやみなく野卑成所なし時代せは共に能なさるゝ当リ多き中に武例の長者今川の才蔵是ら程てきたるはなしおしき事には荒事てづよくなし人形首をすつ込ム事有是ぞおきず也兵蔵殿此人ごかくと申評也此人は上下事を初位有能シ兵殿は芸当世にてはで也操心き格別よし能身を付給ふ芸の心ざしは格別すくれ給へとおしき事ハ一ツたいがげび也躰*くづるゝ也是によつて同じせはもげさく成事程よし此故にごかくの内にてお名高き六三殿を上座に立る也別て此度さなだの与一先年大坂ノ藤九殿遣れし程にはあらねど格おとつても見ゑず東九殿大弥太をさし上首ぬかれしはさん〴〵なりしが此人はひざに敷て首ぬき給ふ是は格別御尤に存る四だんめどんどべい別て能なさるゝ二役共に格別成出来でお仕合〳〵
 
   木村兵蔵
[頭取曰] 改評には及ばねど当世に向たる芸にてはで成はお徳也是迄何せられてもあしき事なしよく〳〵の事去冬かとり姫の犬迄よかつたしかし人形のたいがくづれますがきづ也鎧武者さん〳〵あじし武者ぶり抔はあの芸のはつめいさにてはお心が付そふな物じやが別て夏祭義平次田舎侍の間よし後に團*七をひがめるうちのにくさ〳〵ころされて死かねる間の遣方いやはやどふも〳〵八段目徳兵衛せつた出してより段〃のしうち綻縫内女房にぬれ懸る間床で渋のくすぼる様に語給ふに遣うちで色が有思ふ様なら肥前殿に語せて此人幸五殿六さ殿と寄て此ばが見たい。アヽ金ほしや座本せふに
 
   森竹幸五郎
[頭取曰] 立役人形荒事抔のてづよさこんりんざひよりはへぬいたるごとく上下事の見事さどふも〳〵しかし世話事はかいむ也心いき少しかいなししかれ共是迄の三人いつれも一くせづゝ持給ふ人也然れば前後と申にもあらねど三は一にきするの心にて爰にひやうじます此度の團*七お手に叶いし物故近年の大でき今少シじたひめかぬ様に心いき有たし此度の夏祭は兵殿と此仁の七だんめ八だんめの操で六分も八分も持ました
 
   西川新十郎
[頭取曰] 此人近年めき〳〵と秀られ此度夏祭に團*七九郎兵への役藤川平九仕立の人形にて身ぶりうつして遣ひ給ふ故大分出来ました小兵故たよハき所有て幸五殿程に大丈ぶにはなけれどこせついたる心いきはまさりました七だんめ舅に詫るを聞入ずきのどくにこまつた身ぶり藤平殿顔見世ためし者の場を取て遣ひ給ふ故見物悦ます八だんめもよし何とぞ達者にして進シたい。
 
   豊松国三郎
[頭取曰] 江戸知らぬ人に五百羅漢と此人の芸上つたを見せたい此度一寸徳兵へ兵殿程にはあらねど格別近年の出来也一ツたい人形のしまり能こせつかず大ていにて野卑ならず八段目ま男のたて二ノ手へ出てのつめ合大丈ふに見へますしかし綻縫もらふ間は格別兵殿にはおとりましたはりでつくと言れてはるか飛のいて居るゝ故表へ三ぶが来かゝり内よりは九郎兵衛出て見る此間はるか脇にのいてかしこまり居給ふ故ま男の様にはなしたき付と言文句で抱付給ふはあんまり也か様に隅〃へ心の付ぬはまへめよみの込ぬ故也気を付ずいぶんはげみ給へ追付きびしからふ
 
   西川重三郎
   森竹京四郎
[頭取曰] 十三殿三川や義平次田舎侍の段よし七だんめにくていに能なさるゝが舅手負てのワイフウ〳〵はおかしうてお徳かも存ぬがにくげがうすらぐ故後ノ團*七がふかうの様に成ます舅は極〃にくていになふては親をころせし團*七にふびん付ずおぬかり有仁にはあらねど落の有を徳と思召で有ふ京殿の釣舟市山傳五仕立にて人形のこしらへ能別て能遣ひ給ふしかし釣船に分別なしの様に見へます今少し落付給はゝ猶よかるべし御両所共にぬる間仁にはあらねどおちるをかちと仕給ふ素人は悦ます
 
   薩广*善次郎
   松井傳九郎
[頭取曰] 善次殿は石橋山梶原千寿前二役いづれもよし已前も今も相替らぬ芸先年弁長のこときあたりを見たい〳〵傳九殿は永〃お休み有しが当から又御出勤めでたし此度夏祭道具やのお乳お年役に立て上座也
 
   岩井文次郎
   辰松安五郎
[頭取曰] 文次殿は若松座夏祭に傳八のお役にくていにそゝかしく色をふくむ遣方大にでけました安殿は辰松座石ばし山に後藤兵衛と股のゝ五郎役出きました御両所共に上つた〳〵
 
   吉川清次郎
   坂東友五郎
   山本弥四郎
[頭取曰]  清次殿は別てめき〳〵と秀られ去年西行の才藤五はきび敷評判也今年の文蔵別テ口中あほうの間能ござる友殿磯之丞大きによし弥四殿でん八よしいづれも若手故甲乙はあれ共はけみの為同座に御評判いたす
 
  巻軸 西川六十郎
[頭取曰] 久々*御出勤もなかりし処此度肥州世務をのかれ二度の勤に出られし故定て座本若松殿に御内縁有にや後見と表札改芸を捨て勘定所のお勤御老年の御太儀也しかしながら其昔名取の立役師なれば若ての秀る人〃を前へ直し惣巻軸に置ます芝居は評判よし御子供の評判はよし嘸〃おめでたふござりませふ御子息も御年頃追付嫁取聟入舅入入に入増す芝居の繁栄四海渡しづかにておさまる国ぞめでたき
 
丙延享三年
   寅三月下旬
       書之