自序
大和浄(じやう)るりは作者(さくしや)の心を種(たね)として。万(よろづ)の慰(なぐさミ)とそなれりける。花に跡(あと)とふ芸子(げいこ)。水に浮(うか)む伽(とぎ)やろふの一トふし。いづれか出来文句(できもんく)をかたらざりける。たよりをもいれずして[女+必](こしもと)をもなびかし。目の見えぬ者(もの)にハ三弦(さミせん)と言(いふ)渡世(とせい)をあてがひ。悪口(わるくち)言(いひ)の穴(けつ)どもも。心をなぐさむるは是(これ)也。此浄るりも義(ぎ)太夫ぶしは凡(およそ)大坂のはじめよりはやりにけり。しかハあれど世(よ)に伝(つた)はる事ハ竹田出雲(たけだいづも)に始(はじま)り、当(あた)り浄るりにしてハ国性爺(こくせんや)よりぞおこりにける。世話事(せわごと)は天満やお初(はつ)のかな本(ぼん)そはしめ也。朝比奈(あさひな)・弁慶(べんけい)の人形(にんぎやう)は子(こ)達(たち)の持遊(もてあそ)びにもうりて、此二色(いろ)ハ本屋・御堂(みたう)の前(まへ)[人形店]の口過(くちすぎ)にもしける。元祖(ぐハんそ)筑後(ちくご)ハ浄るりの精(せい)也。又井上播磨と言(いふ)人あり。嘉(か)太夫ハ名人(めいじん)なり。嘉(か)太夫ハはりまが上にたゝん事かたく、筑後(ちくご)ハはりまが下にたゝん事かたしとかや。ちかき世にも聞(きこ)えける大和彦(ひこ)太夫[初世・竹本大和大夫]は。大音(をん)にして四段目語(かたり)の上手(じやうず)なれども誠(まこと)すくなし。たとヘバ看板(かんばん)斗(ばかり)を見ていたづらに作(さく)の評判(ひやうばん)をするがごとし。和泉太夫はふし事の名人(めいじん)なり。節事(ふしこと)を聞(きく)人は淋(さび)しき腹(はら)へ弁当(べんたう)を得(え)たるがことし。播磨掾[竹本播磨少掾。初世政太夫・二世義太夫]ハ古今(こゝん)の妙音(めうをん)にて語出(かたりだ)したしかたらず。のち程(ほど)おもしろきハ。ならびなき娘子(むすめご)の新枕(にゐまくら)とも言べし。又今の政太夫[二世]は。浄るりハよく語(かたり)ても前(まへ)の政太夫と一ト口にはいはれず。いはゞ田舎(いなか)から来(き)た養子(やうし)の身代(しんだい)をよくかたむるがごとし。今の大和(やまと)[竹本大和掾]はむかしの頼母(たのも)[竹本]のながれ也。ふし事あまりて地(ぢ)事いかず。いはゝ鼻歌(はなうた)で女をふづくるに同じ。錦(にしき)太夫[初世竹本]は其(その)さまいやし。地(ち)もよくかたれどもちやりとやらにて当(あたり)を取りぬ。いはゞ顔(かほ)のこハひかけ乞(こひ)の子供(こども)に菓子(くハし)やるがごとしとかや。花(はな)も過(すぎ)、夏(なつ)の間(あいだ)は祭(まつり)にわかに夜(よ)を明(あか)し。目(め)にたつなぐさみもあれど。おとりさへなくなりて八重(やゑ)むぐらの宿(やど)にいにしへをあをぎ。いま聞伝(きゝつた)ふるにまかせ。あら/\筆(ふで)を取ルものにかも。
後の文つき日
白徳斎述
倒冠雑誌(たうくハんざつし)
芝居(しばゐ)いまだ興行(こうぎやう)ならざる昔(むかし)、声(こゑ)よく清(きよ)きものハ床(ゆか)に昇(あが)りて太夫と成、こゑなく上手(じやうず)成ものハ手すりに懸(かゝ)りて操(あやつり)と成。筑後(ちくご)・近松(ちかまつ)の両人より竹田出雲(いづも)を座本(ざもと)として宝永(ほうゑい)二年乙酉三月よりはじまり、益(ます/\)繁昌(はんじやう)して類(たぐひ)まれ成妙(めう)芝居(しばゐ)也。
抑(そも/\)義太夫、天王寺五郎兵衛と言(いひ)し時(とき)、初而(はしめて)やぐらを揚(あげ)しハ貞享三年丑のとし(丑は貞享二年。義太夫旗上げは貞享元年とされる)にて、いまだ竹田のしばゐにあらず。ワキ竹本頼母(たのも)・多川(たがハ)源太夫などにて興行(こうぎやう)ありしか、此時分(じぶん)より、よし田三郎兵衛・辰松(たつまつ)八郎兵衛とて名人(めいじん)の人形(にんけう)有しが、才智発明(さいちはつめい)にして両人共頭取役(とうどりやく)を兼帯(けんたい)して、人形(にんげう)の外に楽屋(がくや)のしまり、給銀(きうぎん)のおりのり、町中の評判(へうばん)、表(おもて)の上(あが)り、万事(ばんじ)水ももらさず出情(しゆつせい)ありしが、故(こ)筑後掾(ちくごのぜう)博教(ひろのり)、竹田出雲(いづも)かゝへの役者(やくしや)と成て芝居(しばい)興行の節(せつ)、則(すなハち)右之一チ座こと/\く竹田へ属(そく)して相勤(つとめ)ける。
此時代(じだい)ハ別而(べつして)人形の芸(げい)至(いたつ)て上手(じやうず)ゆへ、突(つゝ)こみとて下より両手をさしこみ、人形壱ツを一人(ひとり)してつかい、手すりの上へ首(くび)を出さず、ちから一ぱいさしあげ、みじかき浄るりながら丸一段(たん)出づかいのやうにしてつかいぬ。中/\見るもしんどく又なるべきとも見えず。中にも辰松(たつまつ)ハ其(その)妙(たえ)なる所を得(え)て諸人(しよにん)専(もつぱ)ら用(もち)ゆる所也。依(よつて)今の豊(とよ)竹越前(ゑちぜん)のむかし若(わか)太夫と心を合し、芝居(しばい)興行(こうぎやう)して勤(つとめ)しかども、自分(じぶん)の器量(きりやう)すぐれしか、又ハ時(とき)の運(うん)によるか、若太夫を退散(たいさん)して東武(とうぶ)ふきや町に芝居を建(たて)て座本を勤(つとめ)、今繁栄(はんゑい)のしばゐ是也。
同時(どうじ)吉田三郎兵衛ハ立役(たちやく)人形を専(もつぱ)らにして元祖(ぐハんそ)山本飛弾(騨)掾(ひだのぜう)に近寄(ちかより)、人形の奥儀(をうぎ)を極(きハ)め其(その)比(ころ)よりの大立(たて)もの、天満やおはつのおやま人形辰松八郎兵衛相勤(つと)むれハ、徳兵衛ハ吉田三郎兵衛、最初(さいしょ)の国性爺(こくせんや)も此三郎兵衛役(やく)にて世に秀(ひいで)たる人形、ちかき此(ころ)迄(まで)も、役ハなけれど惣楽屋(そうがくや)の後見(こうけん)とて毎(まい)日/\出勤(つとめ)しが、定(さだめ)有年月ハのがれがたく、延享四丁卯年三月十七日死去(しきよ)有しよし、残念(ざんねん)の袖(そで)をぬらしぬ。
一子八之助ハ幼少(ゑうせう)より生(うま)れ立人並(なミ)ならず、器量(きりやう)骨柄(こつがら)人に勝(すく)れ、なる程(ほど)一方(はう)の大将(たいしやう)共なるべき人相(にんさう)成しが、則(すなハち)「国性爺後日合戦(こくせんやごにちかつせん)」に錦(きん)しやの出つかひ、片手(かたて)にてのはれわざ、年若(わか)なれ共さすが親(おや)三郎兵衛の子程(ほど)有、のち/\ハ天晴(あつはれ)の役者(やくしや)にもなるべしと、人〃是をほめけるが、扨(さて)こそ此南瞻部州(なんせんぶしう)に吉田文三郎と名を揚(あげ)たり。
若(わか)かりし時分より親(おや)の職(しよく)を受続(つぎ)て頭取役(とうどりやく)、出勤(しゆつきん)よりしバらくハ評判(へうばん)もなかりしが、大坂大火(くハ)後(ご)、「鼎軍談(かなへぐんだん)」に玉芙蓉(ぎよくふよう)といふ人形より桐(きり)竹三右衛門をあざむき、続(つゞい)て「出世握虎(しゆつせやつこ)」の藤吉よりめき/\と芸(げい)を仕(し)上ヶ、「真鳥(まとり)」の助八兼道(かねみち)、「篠原合戦(しのハらがつせん)」の兼平(かねひら)、「京土産(みやげ)」の宗八、「紅梅[革+勺](かうばいたづな)」の梶原(かぢハら)、「鬼(き)一法眼(ほうげん)」の大くら、「兜軍記(かぶとぐんき)」のあこや、「金(こがね)の歳越(としこし)」の椀(わん)久所作(しよさ)事、「道満(だうまん)」の葛(くず)の葉(は)・保名(やすな)・与勘平、「かたき打(うち)」の次郎右衛門、「行平(ゆきひら)」の松風、「小栗(をぐり)」の太郎、「ひらかな」の松右衛門、別而(べつして)梅(むめ)がへの無間(むけん)の鐘(かね)[同四段め]は古今(こゝん)無双(ぶさう)の事、。尤(もつとも)菊(きく)之丞(ぜう)[初世・瀬川菊之丞]の形(かた)とは言(いふ)ものゝ、舞子(まひこ)あるひハとしわすれのざしき狂言(きやうげん)にもしてもてはやすハ世(よ)の人の知(し)る所也。昔(むかし)よりハ見物(けんぶつ)も上手(じやうず)になりて中〃常(つね)ていの事にてハ合点(がつてん)せず、目(め)・口(くち)・まゆ・指先(ゆびさき)の動(うご)く人形迄を拵(こしらへ)、当世(たうせい)の世話(せわ)を心かけ、はやる事を人形にうつして一チ事(じ)もるゝ事なし。是(これ)大かた荒増(あらまし)は文三郎に初(はじま)リぬ。
それより此かた、「児源氏(ちごげんじ)」の熊坂(くまさか)、「西行(さいきやう)」の西行、「夏祭(なつまつり)」ハ団(だん)七、人形第(だい)一の大当(あた)り、「菅原伝授(すかハらでんじゆ)」の菅相丞(かんしやう/\)・松王女房(によぼう)ハ珍敷(めつらしき)仕内(しうち)、中〃申ハくた/\敷(しく)、人〃いつも肝(きも)をけしぬ。此次(つぎ)の浄るりに、嶋(しま)の勘左衛門[傾城枕軍団]ニ、塀(へい)をこす人形、馬(むま)に乗(のり)たる文三郎ともに引上ケしが、是ハ昔(むかし)の「かけ鯛心中(だいしんぢう)」[今宮心中]の首(くび)しめの趣向(しゆかう)より出し歟、ふら/\としてことの外うけよろしからず、此時(とき)初而(はしめて)文三郎も悪敷(あしき)との風聞(ふうぶん)、「千本桜(ざくら)」の忠信(たゞのぶ)、きつねの思ひ入是又大はね、耳(ミゝ)の動(うご)く人形ハこれが始(はじめ)の終(おハ)りならん。
「忠臣蔵(ちうしんぐら)」の由良(ゆら)の助、「布引(ぬのびき)の滝(たき)」のさねもり、凡(をよそ)六七十余番(ばん)の間(あいだ)、いづれか此人の不当(あた)りはなく、浄るりハさのミ出来(でき)ねども是非(ぜひ)文三郎ハ人形にて少(□こ)しにてもはねめありしが、此「布引」の比(ころ)より与風(ふと)作者(さくしや)の気(き)ざし専(もつは)らにして、「恋女房染分手綱(こひにようぼうそめわけたづな)」、吉田冠子(くハんし)一作(いつさく)、昔(むかし)の「小室(こむろ)ぶし」に当(たう)世の世話(せわ)をまぜたる続(つゝき)浄るりに取組(くミ)、「道成寺(だうじやうじ)」の乱拍子(らんびやうし)、近代(きんだい)世話(せわ)事にての大当り。世(よ)の取沙汰(さた)ことの外よかりし故(ゆへ)、作者(さくしや)を第一にして、「名筆傾城鑑(めいひつけいせいかゞミ)」ニ石橋(しやつけう)の所作(しよさ)事出づかひ、其身(ミ)ハ白粉(おしろい)青黛(せいたい)にて顔(かほ)をぬり、四方(しハう)八方にらみ付、文吾(ご)・官(くハん)蔵もろとも板(いた)に乗(のせ)て引づる趣向(しゆかう)、さりとてはおとなげなく余(あま)りの大不出来(でき)、にらみ付し目の評判(へうばん)真如堂(しんによだう)にひとしく、これをのミ評判(へうばん)を致(いた)しぬ。
次に、「愛護(あいご)の若(わか)」にて色(いろ)をあげ、人形は付(つけ)たり、作をおもにして、「小袖組貫練門平(こそでくミくハんねりもんへい)」「薩摩歌(さつまうて)げいこかゞみ」など不出来(でき)にして、それよりハ病気(びやうき)にて引籠(こもり)、出たりひつこんだり、子息(むすこ)八太郎ハ、「楠昔噺(くすのきむかしはなし)」の時分(じぶん)より千太郎の役(やく)にてありしが、「千本桜(さくら)」の維(これ)もりの役よりめき/\と仕(し)上ヶ、「忠臣蔵(ちうしんぐら)」より文吾とあらため、だん/\出世(しゆつせ)して三代根生(ねをひ)の立(たて)もの共なるべき器量(きりやう)、大かた子息(むすこ)へ役(やく)ヲ廻(まハ)して作(さく)のミとおもひの外、此(この)度(たひ)のおもひ立、其身(ミ)人形は名誉(めいよ)の名人(めいしん)、作者(さくしや)ハする、吉田苗字(ミやうじ)の役者(やくしや)をかたらひ、近〃(ちか/\)新(しん)浄るり外芝居(ほかしばい)にて興行(こうぎやう)のよし、内〃の取組(くミ)吉田連名(れんミやう)の内より告(つげ)しらせたるによつて、竹田近江大キにおどろき、とやかくと和談(わだん)も入、色〃と世話もありしかども、年〃(ねん/\)の大望(たいもう)やむ事なきによって、是非(ぜひ)なく、文三郎・文吾・弟(おとゝ)大三郎並一家(いつけ)彦三郎右四人同時(どうじ)にいとまを遣(つか)ハし、しばらく此座を退散(たいさん)す。依(よつ)て太夫本(もと)より残(のこ)る役者(やくしや)中へ、吉田苗(ミやう)字(じ)をあらため出情(しゆつせい)いたすべく段(たん)、書付(かきつけ)をもつて楽屋(がくや)へはり置(をく)。其文左(さ)のごとし。
覚
一 当芝居竹本筑後掾より凡八十年相続(さうぞく)仕候。吉田三郎兵衛儀、其節より頭取役相勤此方へゆづり請候時、猶以情(せい)出し候事。忰[=倅](せがれ)文三郎義[儀]、幼少之時分八之助与(と)申、手前ニ遣イ、其後人形けいこ致させ、親つとめ来リ候役儀ニ有之候間、若年(じやくねん)之時より頭取役相勤させ申候。
然ル処、人形之儀ハ世上へ風聞(ふうぶん)も有之程ニ候ニ付、自分之芸(げい)ニほこり、廿九年以前、大和彦太夫・作者長谷川千四、右三人心を合セ芝居興行可致企(くハだて)有之候得共、親三郎兵衛義実心(じつしん)之ものニ有之ニ付、段〃異見(けん)を加(くハ)へ、其上彦太夫病死致候ニ付相止(やミ)候。
然ル処、十三年以前、元祖竹田出雲死去被致候後(のち)ハ、役儀万端(たん)我意(がい)を致、此方よりれんミんをかけ候者も自分之はからひにて致候様ニ申なし、楽屋(がくや)之者をかたらひ、親方出雲申条ニ相不叶、依之暇(いとま)遣し候処、又〃芝居興行之くハだて致ス沙汰(さた)在之ニ付、座中之挨拶(あいさつ)、其上親共是迄了簡(りうけん)いたしつかひ来り候者ニ有之ニ付、手代之ぶ調法(てうほふ)と偽(いつわ)り和睦(わぼく)致シ、其分に致置候。
然ル所、八年以前、太夫方之不和を取むすび、親方へうらみをふくませ、其虚(きよ)に乗(のつ)て徒党(とたう)をあつめ、又〃芝居興行可致旨、右人数之内より我等へ相しらせ候得とも、其分ニ差置、同苗(どうミやう)へ談じ合、京都へ出芝居興行いたし候。
右の通、度〃おもひ立、殊ニ給金を取上ヶ身分不相応之おごりニ候得共、同苗存生之内ハ数年之功(かう)ニ免(めん)して差赦し置候。四年以前同苗相果られ候後(のち)ハ自分壱人と相心得、家内之儀万端まかせくれよと願候得ども、是まて実(じつ)なき者之儀ニ候ゆへ、家之乱(ミだれ)と存、給金相増し、手代五兵衛を以申遣候ハ、其方儀数年情(せい)出し候上、親三郎兵衛より文吾迄三代相続、外様(とさま)とハ格別(かくべつ)之者ニ候得ハ、給金之儀ハ其方若盛(わかさかり)ニ取上ヶ候操(あやつり)之給金ニ近松門左衛門給金之数を合セ遣候間、此上如才(ぢよさい)なくつとめ可申と申遣候。しかれども自分之気ニハ猶不足に存、右申遣候給金之倍(ばい)借用致し、其上万端(ばんたん)我儘(まゝ)申候故、此分ニてハ家之さわぎともなるべくと、譜代(ふだい)之者共我等へ申候得共、内証之義ハ世間(せけん)へ相しれぬ事故、数年相つとめ候者を其儘ニいとま出し候てハ世上之御贔屓(ひいき)之御方之思(おも)わくもいかゞと其儘ニ致させ候。
五七年之間に凡三十貫目借し銀在之候得共、差赦(ゆる)し置候処、去年十月、病気ニ付給金差上隠居(いんきよ)いたし度段相願候。尤之儀に致承知候。併(しかし)高給を取候者、俄(にワか)ニ家内之しまり方も出来かね可申候ヘハ、当払(はらい)之儀ハ壱貫五百目遣し可申、極月払より隠居料(いんきよれう)相極(きわ)め其方一代遣し可申と申遣し、其段手代共ニも申聞セ置候。極月ニ至り、払入用いか程遣し可申哉、文三方江尋に遣し候処、隠居致候とハ偽(いつわり)にて、此方より極(きわ)め候給銀より過分(くハぶん)ニ申越(こし)候へども、右申越候通遣シ候処、右請取自分不存分ニて女房まんニ受取致させ越候て、世上ヘハ給銀一せんも不取様に申なし候。右之通之心底(しんてい)に在之候間、浄るり相談ニハ一向くわへず候。
其のち、女房まん方より、当三月節季(せつき)払壱貫五百目越(こし)候様申候故、則(すなハち)遣し候様手代ニ申付候。併隠居願ひ出し候者之事ニ候得ハ、役者はらい同時ニ遣候てハ外役者共之しんていもいかゞニ在之ニ付、翌(よく)二日朝もたせ遣し候処、時刻延引不届(とゞき)ニ存候よし、右給金差戻(もど)し候。依之手代共いかゝ可致旨談(だん)じ候得ども、ひつきやう此方より合力(かうりよく)ニ遣し候銀子を差戻し候段不届ニ候へ共其分ニ差置候。
当卯三月十七日ハ親三郎兵衛十三年に相当り、法事いたし候ニ付、文三義ハ不届ニ存候得とも、親三郎兵衛儀ハ二心なく相勤(つとめ)候ものニ在之候間、右返し候銀子何とぞ遣し度存候得共遣しかた無之候ゆへ、十七日、我等仏前へ参詣(さんけい)いたし、金弐十五両、三郎兵衛香(かう)でんとして差置候。
五月節季ハ類焼(るいせう)ニて沙汰(さた)不仕、右之金子世帯(せたい)方江ハ不相遣、京都へ持参(ぢさん)いたし借(かし)座敷をかり浄るりを書、此浄るり京都にていたし度段願も在之よし粗(ほゞ)承候故、是まで世上へ名の聞江候者之儀、願之品ニより当地にても致させ可申心底(しんてい)に御座候処、左ニハ無之、此方之抱(かゝへ)置候役者共をかたらひ芝居興行可致段、先月廿三日ニ相聞へ候得共、永く相つとめ候者之義、浮説(ふせつ)にてあれかしと其分ニ相済(すめ)候処、当月四日、高津屋勘太郎芝居木戸頭(がしら)松葉屋清兵衛を文三方へ呼(よび)よせ、親子申候ハ、嵐吉三郎、北村六右衛門芝居にて致候旨承候。然は其方芝居之儀ハ明(あき)芝居に在之ニ付、あやつり芝居興行致度借りくれ候様申候よし、右清兵衛此方へ参り右之おもむきを申候。高津屋勘太郎芝居之義ハとくより我等買取罷在候得ハ、右之段申候へと申付候。依之翌(よく)五日朝頭取役へ申付、太夫方・三味線(さミせん)方・操(あやつり)方のこらず廻(まわ)り、文三右之思ひ立有之候、もし荷胆(かたん)[担]致され候哉、相正(たゞ)し参候様申付候ニ付、右夫〃申通シ候処、不届之文三儀に有之候ニ付、壱人も相加リ候者無之候。もちろん人形之儀ハ吉田名字多ク有之候ニ付、二心なく相つとめ候ハヽ吉田名字相けづり外名字ニ致すべく段申ニ付、数年相つとめ候者、此節にいたりいとまつかハし侯段、いかばかり本意(ゐ)なくざんねんに存候得とも、是非(ぜひ)なき事ゆへ此度いとまつかはし候段、御贔屓(ひいき)之御方にもいかゞ御うたがひも有之べく候ニ付、書付をもって如此御座候。已上。
竹田近江
かくのごとくしたゝめてはり置ぬ。おしむべし/\、太夫本も三代、役者も三代、殊に文三郎ハしばらくにても親方の名目ありしに、此時に至り義絶(ぎぜつ)とハなりぬ。しかしいづれよりか殊の外よろしき世話(せわ)やきありて金銀に事を闕(かゝ)ず。おつ付太鼓を打よせ波のやぐら幕(まく)を揚(あぐ)るに間も有まじ。都の方に蟄居(ちつきよ)との風聞(ふうぶん)、浪華の好士(かうし)この初日をの、ミ待(まち)ぬ。猶興行ののち追〃有のまゝなる事を後編(こうへん)のせんと爰(こゝ)にもらし侍ぬ。
宝暦九年
卯七月吉日