058a-1. 「翌日午前十時発汽車にて管長は参州豊橋へ立越られ神戸氏に一泊被致小生は京都博覧会に叔父納富氏を訪はむとて一人車を降り尋ねし処早や帰国せられし由にて已むなく博覧会なと見物いたし其夜の汽車にて翌暁豊橋に着し」(田中塵外「西征之帰途(雁信)」p15『惟一』19 1895.8.28)【当時納富介次郎は高岡在住】
058b-1.「翌廿九日懇切なる招聘に任せ雨を衝いて大覚寺村堀田氏方に赴むき夜講を開会し一泊仕候此日東京より小生末妹の病気危篤なるよし電音有之已むを得ず明卅日一番汽車にて小生のみ帰京可致事と相成り申候。… 七月末日 田中塵外拝 惟一社御中」(田中塵外「西征之帰途(雁信)」p15『惟一』19 1895.8.28)
059-1. 【公務により富山県に行くこととなり、その連絡先を告知 「富山県高岡市旧旅屋門前町 能富介次郎方 田中基臣」(『惟一』20 1985.9.30 裏表紙)立憲改進党党報局の大隈伯昔日譚の広告の左に3行】
059-2. 「其頃金沢第四高等学校に学んで居た竹村秋竹が、北国新聞の俳句欄を担当して居たので、其由を通したところ大に賛意を表せられ、越中からの投句者田中塵外、向田竹の門の二人あることを知らせてくれた。・・・書籍店学海堂に到り、新聞雑誌の購読者名簿から田中、向田の両姓を探り出し、・・・其足で工芸学校の数学の教授である田中基臣氏を訪ねた。折りから大学派の森山吐虹氏の帰省して居るに出逢ひ、三人で運座をやり、中央俳壇の趨勢をも委しく聞くことが出来た。」(
寺野守水老『守水老遺稿 増補』p127 花笠編 越友会 1941)【森山吐虹田中塵外「曲肱偕談(其一)」『惟一』21:35-39 1895.10.28, 森山吐虹田中塵外「曲肱偕談(其二)」『惟一』22:35-37 1895.11.28, 】
059-4. 「塵外子、越に入りてより已に数月を閲しぬ。而かも互いに業務の匇忙たるに駆られて近情相委曲する能はず」(天山居士「論説 曲肱偕談を読みて少年子弟に警告す(上)」 p8 『惟一』23 1985.12.28)
060-2. 「故円城寺天山(朝報記者)と僕とは二十年来の友人で、・・・・・・往年彼れが憲政党や、進歩党の党報を主宰して居た時代にも、毎号必ず僕に俳句を作らせて之を掲載する、」(
田中塵外「天山と僕と俳句」 p19 『卯杖』7(1) 1909.1)
061-1.「我中越に塵外、北雪、守水老、竹湍、及花笠の五子相集り越友会と称し呱々の声を挙げ候は実に客年七月廿五日に候へき」(
「越中たより」 p21 『ホトトギス』1(19) 1898.7)
061-2. 「正岡子規一派に属する越友会の第一回句会が明治三十年七月二十五日和田西光寺で開催、時たまたま北陸歴遊中のこの道の大家碧梧桐師の批評を乞うた。集まる者、寺野守水老、寺野竹湍、筏井竹の門、山口花笠、新田三種、田中塵外、小林四月坊、小林葭水、橘天夢氏らであつた。」(
高岡史談会『高岡史話 : 庶民の歴史 上巻』p100 1964)
061-3.「三十年六月十五日碧梧桐氏北陸漫遊の途次、金沢より七尾へ廻り、・・・」(
寺野守水老『守水老遺稿 増補』p121 花笠編 越友会 1941)「十七日午下り富山へ去つた碧氏は、親不知を越えて直江津へ出て、二十日帰京の案内があつた。滞在中に句会を起すことを相談したので、其頃金沢第四高等学校に学んで居た竹村秋竹が、北国新聞の俳句欄を担当して居たので、其由を通したところ大に賛意を表せられ、越中からの投句者田中塵外、向田竹の門の二人あることを知らせてくれた。其の後愈よ句会を起すことを決心し、七月十六日先づ学校での先生であつた篠島半眠(久太郎、漢詩の方では復庵)先生を訪ひ、其助力をもとめ、書籍店学海堂に到り、新聞雑誌の購読者名簿から田中、向田の両姓を探り出し、・・・其足で工芸学校の数学の教授である田中基臣氏を訪ねた。」(同書 p126)「即ち盆がすんだので小生が動いたのである。七月二十五日愈々煙霞亭に寄り合ひ、会名を越友会と名付けて第一声を挙げた、当日の出席社は甘涯(守水老)、竹湍、塵外、竹の門、三種、四目坊(鬼骨)、藍水、天夢と僕の九人であつた。当時碧氏の批評を請ふたのである。」(同書p129)
061-4.「(高岡)寺野竹 「四 当時の交遊として今にかはらぬは竹の門花笠の二子のみ、田中塵外は万朝報に去りて後消息なく、小竹藍水は朝鮮に住んで富商となり、小林鬼骨は専ら和歌を嗜みて予撰の栄を担ひ、内田陀仏、新田三種、広岡敏種等は各自の業を専にして句作せぬ様になつた。」 (
「日本俳句発祥三十周年を記念すべく子規居士を中心としたる諸家の感想」p26『懸葵』19(10)(224) 懸葵発行所 1922.10)
062-1. 「・・・翌十六日再たひ腕車を仮りて石動を発し、高岡にて縁親田中塵外と午餐を共にし、・・・」(
円城寺清「富山紀行 中」 p39『進歩党党報』23 1898.4.1) 【なお「・・・富山県の政友諸君も此の機運に感激して益〃奮発する所あり、遂に二月十七日を卜して青年急進党富山支部の発会式を挙行せんとするに至り、遙かに羽書を飛ばして余等の出席を促かされぬ、/ 是より先き、余は富山県に於ける初一の遊説を了り、礪波郡出町を発して将に帰京の途に上らんとする際し、・・・」(
「富山紀行 上」p34『進歩党党報』22 1898.3.12)とあり、その後に「明くれば十七日疇夕の雨風新たに霽れて穹天洗ふがごとく、気候亦真に春にして先つ人の心を壮快ならしむ。青年急進党富山支部の発会式は実に此日に挙行するなり、」(
「富山紀行 下」p32『進歩党党報24』1898.4.15)とある。】
064-1.「三十一年頃の「ほとゝきす」の課題選は天地人一等二等三等の順位がつけてあつた。二月発行の十四号に僕が執筆した「越友会近況」の一文がある。其中に佐藤紅緑子の仙台より富山へ転じたることを報じ、・・・・・・ /紅緑子は新婚の夢未だ醒めやらず、紅裏の蒲団の匂ひが嬉しいと見えて、容易に越友会を訪ねてはくれなかつた。美髪の好男子紅緑子は田中塵外を従へ突と [守水老の]煙霞亭を訪れた。それは五月の或日であつた。/ 西光寺即吟/ 若楓の窓明け放つ対座かな 紅緑・・・」 (
寺野守水老『守水老遺稿 増補』p137- 花笠編 越友会 1941)【なお、
山口花笠「越友会近況」 p24 および次項の自筋道人「金沢通信」p25-26(『ホトトギス』1(14) 1898.2)共に紅緑に言及する】
065-1.「本月塵外また紅緑を富山に訪ふて俳談に夜を更し申候・・・《七月十九日朝》」(
「越中たより」 1(19):21 1898.7)
067-1.「お隣の北声会は離合聚散常なく、我会も亦た塵外子東上してより」(
「●越友会(高岡)花笠」 p70 『ホトドギス』2(3) ホトトギス社 1898.12)
070-2.「○十二月廿四日蕪村忌、根岸草廬に会する者四十六人、坐敷と病室と勝手の間と玄関と総て襖をはづして打ち通したるも猶坐るに処無くして床の間に上る者二人。午後一時写真を写さんとて皆屋外に出ず、垣の外、椎槻など並びたる陰に集りて撮影し了る。家に入りて午餐を喰ふ、嘉例の風呂吹五十きれ、一人一きれづゝ配りて僅に十きれを余す。蓋し未曾有の盛会なり。」(
「東京俳句界」付25 『ホトトギス』3(4) ホトトギス社 1899.12)
071-1. 「 [十一月] [六日 火曜日 晴]一 九州有志者より発する檄を示さる。別紙の通。 ・・・(別紙)檄・・・国民同盟会宣言・・・国民同盟会約款・・・明治参拾参年拾月/ 発起人(いろは順)/ 田中基臣」(
『近衛篤麿日記 第3巻』p368 近衛篤麿日記刊行会編 鹿島研究所出版会 1968)
072-1.「小伝次、吉右衞門、宗之助と浅草座の子供芝居時代から見て居た天才的な舞台。新富座で故団蔵の三浦之助に十六歳の宗 [そう]ちやんが時姫を勤めて大評判であつたそれも眼に残る。だが僕が故人と部屋で物を言ふやうになつたのは帝劇もズツと後、即ちこの四五年前からであつた。」(
田中煙亭「まざ〴〵と」p148 岡田孤煙編『宗之助の面影』伊藤都喜 1925)【
黒顔子「勘弥と宗之助 吉右衛門と三津五郎」 参照】
072-2.「この二十年間で記憶て居るのは、・・・十二三年前新富座で、其頃まだ十六か七位の宗之助に時姫をさせて爺さん真白塗りの三浦の助、佐々木は無論訥子の大荒事」(
黒顔子「こちの七代目団蔵」p194 『文芸倶楽部』21(13) 1915.10)
072-3. 「 [明治三十三年] ○十一月十四日より新富座【源平布引滝】中幕【鎌倉三代記】、【神霊矢口渡】第二番目【黒手組花街達引】息女時姫(宗之助)妹尾十郎三浦之助鳥居新左衛門(団蔵)/○団蔵訥子芝鶴鬼丸等の一座にて蓋を明け一番目の布引に芝鶴の実盛に団蔵瀬の尾をつきあひ中幕は宗之助の時姫に三浦之助を引受け若返つて存外派手に演じたれど批評まち〳〵なりき」(
田村成義編『続々歌舞伎年代記 乾(巻の1-36)』 p881 市村座 1922)
073-1. 「釣台が二階へ舁ぎ上げられた、まだ縡[こと]切れてゐなかつた星の巨躯を病院へ運ぶのである。ヒユー〳〵ツといふ苦しげな息の音が、僕等の耳へもはいつた程であつた。その時にはもう、電話が八方へ伝はつて、市役所へ駈けつける恩顧の郎党関係者は幾十人とあつた。」(
田中煙亭「星亨の刺された刹那」p7『号外』東京記者聯盟機関誌 1(2) 1927.8)
073-2.「煙亭曰 当時僕は明治通信社-顧問早川鉄冶氏、社長福井三郎氏-に居て、星先生遭難の折、市参事会室の隣室に雑談中けたゝましい叫声喚声に吃驚し真先に僕が東京の各社に急報し現に星先生の断末魔のうめき声も聞き、伊庭惣太郎が未だ手に匕首を握つてゐた姿も、見たといふ訳で、その帰途、報知の紅緑君に出会し、委細を話した翌朝の新聞に、あの記事が出たので、やア書いたナと思つた記臆がまざ〳〵とある。」(
「佐藤紅緑氏より」 p38『痴遊雑誌』』2(8)1936.8)
073-3. 「星亨氏暗殺せらる 昨日東京市参事会議事室に於て星亨氏が突然剣客伊庭惣太郎なるものに刺殺せられ遂に其侭現場に絶命するに至れる」(『読売新聞』1901.6.22 1面)
073-4.「追記 ・・・中幕にはシエークスピヤの『該撒 [シーザル]奇談』議事堂珍事の場と公園演説の場の二場・・・/このシーザルは深沢恒造でブルタスが福島清、伊井はアントニーオクタビヤに扮してゐたが、此の年の春、東京市参事会に起つた星亨刺殺事件を当込みに書き下ろされたので、其筋の干渉が甚く、シーザルの刺される処もブルタス一人では伊庭惣太郎に紛らはしいといふので、大勢の刺客を出す事に改められた事であつた。この星事件は、社会的にも多大の関心を与へ、興行師などは、大に之を覘つたもので、現に、此のシーザルぱかりでなく歌舞伎でも同じ月、菊五郎(五代目)が桶狭間鳴海軍談の芸題で、郡幸内といふ役で今川義元を刺す件の、脚本が不認可となつて、大に弱つたといふ事であつた。(煙生) 」(
伊藤痴遊「壮士芝居の思ひ出」p66『痴遊雑誌』2(4) 1936.4)
074-1. 「本書を編するに方り田中塵外君尤も蒐輯の労を取らる此に謹て謝す/ 明治三十四年八月一日 編者識」(
紅緑子編『滑稽俳句集』序 内外出版協会 [ほか] 1901)
075-1. 「華族会館に於ける晩餐会 十一月二十八日午後四時より目下上京中の韓国釜山領事幣原喜重郎氏並に清韓両国を巡回して帰朝したる戸水評議員を華族会館に招待し晩餐会を開く」(
『朝鮮協会会報』4 p30 朝鮮協会 1902.11)
077-1. 「財政整理案に題す 行春や庭木うごかすこゝろぐみ 田中塵外」(
円城寺清『財政整理案 』(哲学書院 1903.4.23)、「地租全廃論に題す 梅薫す けうとき庭の 夜やおぼろ 田中塵外」(
円城寺清『地租全廃論』哲学書院 1903.4.26)
077-2. 「故円城寺天山(朝報記者)と僕とは二十年来の友人で、・・・・・・往年彼れが憲政党や、進歩党の党報を主宰して居た時代にも、毎号必ず僕に俳句を作らせて之を掲載する、彼れが『財政整理案』や『地租全廃論』などを纏めて哲学書院から出版した時なぞも、出来ぬといふを無理に題句を作れと肯かず、遂に恥かしいやうな、/ 行春や庭木動かす心ぐみ(財政整理案)/ 梅薫ずけうとき庭の夜や朧(地租全廃論)/などの句を麗々と其巻首に置いた事すらあつた、」(
田中塵外「天山と僕と俳句」 p19 『卯杖』7(1) 1909.1)
078-1. 「僕が先生の知遇を忝ふしたのは、無論万朝報社に入社してからで、それは明治三十六年の五月でした。二た昔前の事です。/ 先輩円城寺天山、小林天龍二氏の推薦に依つて編輯局の座末を汚すことになつたのです。眇たる一外勤記者として、籍を政治部に置き、最初の受け持ちは政友会本部詰と、衆議院本会議の記事でした。前者は小林房蔵氏の退社の後を受け、後者は故幸徳秋水氏の代り役でした。・・・」(
田中煙亭「二十年来の感謝」 pp.835-836 涙香会編『黒岩涙香』 扶桑社 1922)【円城寺は1899.2に憲政本党党報局から万朝報に移った(「今般万朝報社の招きに依り党報局を辞し同社に入社致し候間此段辱知諸君に告く/ 明治三十二年二月 円城寺清」
『憲政本党党報』掲載広告 )】
079-1.「・・・万朝報社に入社してからで、それは明治三十六年の五月でした。・・・/ その年の十月。日露の風雲頗る急に、呉、佐世保の二軍港に社員を特派するの議が起りまして、新まいの僕がその佐世保に出張する事になりました。」(
田中煙亭「二十年来の感謝」 pp.835-836 涙香会編『黒岩涙香」扶桑社 1922)
079-2.「◇・・・想ひ起す三十年前 正確にいふと三十一年前だ。日露の風雲漸く急を告ぐる明治三十六年の秋、小村外務大臣は露国駐箚の公使栗野慎一郎に命を伝へて、露国政府と強硬な交渉を開始する。九月にはいると、我が海軍は常備艦隊を、軍港佐世保に集中するといふ。十月の末には、チチハルの露兵南下の電報が飛ぶ。新聞の所謂二面には、大きな活字の見出しが思ひ切つて眼立つて来た。『確かにこいつアおツぱじまるぜ』と社論早くも一決。僕は当時政治部に籍を置いてゐたM社の特派員として、少し早いが佐世保へ行つて機を待て!といふ社命を受けた。/◇・・・海軍省詰の記者の 伝ふる処によると、万一開戦といふ暁には、陸軍の従軍は無論許されるが、海軍の都合によつては軍艦乗込が許可されるかも知れないといふ。日清戦役の前例によれば到底許されさうもない。あの時、国民新聞にゐた国木田独歩は、石炭工夫に化けて某軍艦に乗込み、有名な戦報を送つて奇功を奏した事がある位だつた。しかし、或は・・・・・・といふ一縷の望みを、新聞社の一角に抱かせたのは事実だつた。甚だしい弱虫の癖に、そんな時には我夢しやらな勇気も出るものだ。行李もそこそこに、とにかくと佐世保行確定と相成つた僕だつた/◇・・・外交断絶は卅七年 二月のはじめだつた。それに僕の行つたのは、その前年の十月だからいさゝか早かつた、でも、その間、鎮守府に出入して要路の人達も知つてゐなければならないし、それからいろ〳〵と情報を探り、出す穴もこしらへて置かなければならない。僕は鎮守府御用商人として相当有力者に親戚があつたので、そこの二階を宿坊として、まア〳〵かなり緊張して活動した訳だつた。鎮守府には小学校時代の同期生の主計官がゐたので、久闊を叙すると共に、毎日のやうに訪問した。」(
田中煙亭「三十年前の通信戦」 p53『痴遊雑誌』 1(1) 話術倶楽部出版部 1935.5)
079-3. 「各社の腕こきが集る 当時佐世保へ集つて居た記者は・・・万朝の三木愛花君、田中基臣君、石井一二三君・・・」(
結城礼一郎「探訪記者としての予の経験」p73『商業界』10(6) 1908)
084-1. 「●教育倶楽部 ○十月三十日午後四時勅語捧読式挙行の後教育倶楽部晩餐会を開き・・・当日の出席者は来賓菊池男爵の外左の六十名にて頗る盛会なりき。 出席者氏名 田中基臣君」(
『教育公報』 (313) p5 帝国教育会 1906.11)
085-1.「僕が河合 [武雄]君と舞台以外の初対面は、今より三十余年前、明治四十年の春、伊井蓉峰君と共に、明治座の楽屋であつた。それは、東京府、市と商業会議所聯合主催の大博覧会が上野公園に開かれた時、僕は万朝報者の政治部に籍を置いてゐて、報知、中央、国民、自由通信社などの府市関係の記者が幹事となつて、日本に始めての全国記者大会といふものを開催した時であつた。・・・その新富座の準備打合はせの為め僕は一夕伊井君の楽屋を訪問し、幕合に、河合君と共に、種々の協議をした。・・・漸く学校を出たか出ぬかの時代の小山内薫君が、カスリの着物か何かで、楽屋へ出没してゐたのを覚えてゐる。」(
煙亭生「塵外居放談」 p9『太棹』135 1942.5.15)
085-2.【全国記者大会の主要行事は以下の通り。 4.5 全国記者大会 紅葉館、発起者主催招待会 紅葉館、 4.6 博覧会協賛会主催招待会 協賛会貴賓館、4.7 大日本ビール会社主催招待会 目黒同社庭内、4.8 大倉喜八郎氏主催招待会 同氏向島別荘、4.9 大隈伯主催招待会 早稲田大隈伯邸、4.10 東京実業組合連合会主催招待会 上野精養軒、4.11 三越呉服店主催招待会 紅葉館、4.12 歌舞伎座主催招待会 歌舞伎座 (『読売新聞』 1907.3.23 2面)】
086-1. 「帝国教育会記事 ●帝国教育会勅語捧読式幷第二十四回総会は十月三十日午後三時より、開かれたり、来会者の主なるもの、来賓牧野文部大臣を始め、金子子爵、藤井男爵、肝付男爵、神田男爵、三浦安氏等、約二百名にして、式は君が代の唱歌を以て起り、会長代理肝付男爵は謹んで勅語を捧読し終り、陛下の万歳を三唱し勅語奉答の唱歌あり、・・・懇親会出席者左の如し 田中基臣君」(
「帝国教育会記事」p71『教育界』 7(2) 明治教育社 1907.12)
087-1.「蛙会拾遺 三沢素竹 竹冷先生を文台の主人として下院の俳士が今回蛙会なる俳団を組織し其発会式の二月二十六日芝浦竹芝館に於て開かれたる其光景は既に諸新聞にて委細披露されたれば今は之を省茲には唯其拾遺として各吟者の詠句を摘んで紹介するのである。・・・/ 議員諸君の外にも院外といふものがあつて初会には世話役として浦上甫水、吉野左衛門、三沢素竹の三君其他福原雨六、井上秋剣、田中塵外の諸君も出席した。/ 剃刀に残る寒さや刃のこぼれ 塵外」(
「蛙会拾遺」 p36『卯杖』 6(4) 秋声会出版部 1908.4)
088-1.
黒顔子「警察の一と昔」(『中央公論』23(9)(234):152-156 中央公論新社 1908.9.1)【
『中央公論』記事一覧】 【これ以前に『中央公論』には円城寺清の記事がある。「我財政の前途」21(3)(204):95-98 1906.3, 「第廿四議会」22(9)(222):26-29 1907.9】
089-1.「故円城寺天山(朝報記者)と僕とは二十年来の友人で、・・・昨年竹冷先生や、野田大塊翁など政治家連の運坐、蛙会が催された時、僕も席末を汚して其記事を朝報紙上に掲げた節なども天山は多大の趣味を以て迎へて居た。二十五議会にも又た蛙会の第二回を催したいと思ふが、天山はもう居ない、//煤払いて亡き人のあれやこれや哉(申の十二月上浣記)」(
田中塵外「天山と僕と俳句」 pp.19-20 『卯杖』7(1) 1909.1)【第二回蛙会は1909.2.21午後1時から赤坂溜池三河屋で、第三回は1909.3.15午後1時竹芝館で開かれた。(『読売新聞』 1909.2.22 3面, 『読売新聞』1909.3.16 3面)】
089-2. 「円城寺清氏逝く」「万朝報者主筆天山円城寺清氏は去る十五日以来盲腸炎に罹り・・・二十一日午前八時十分永眠せり。」(『読売新聞』1908.10.22 4面)
090-1.「本部日誌 四月拾弐日 午後三時より上野公園常盤華壇に於て観桜会を催す。・・・散会せしは午後九時頃なりき。当日出席の来賓及び本党員左の如し。 田中基臣(万朝)」(
『憲政本党党報 』3(8) p7 憲政本党本部 1909.5)
091-2. 「●満洲観光記者団出発 満洲日々新聞社の案内に係る観光記者団は廿四日午後三時三十分新橋発急行にて神戸に向け出発せり一行は左の十四人にして満日社長森山守治副社長高田雄種両氏は主人側として同行せり(日本)早川茂一、(二六)野沢枕城、(報知)徳久武治、(日々)橋本善勝、(毎日)倉辻明義、(朝日)宮部教治、(中外)平松米蔵、(中央)阿部鶴之助、(やまと)松井広吉、(万朝)田中基臣、(国民)浜田佳澄、(都)大谷誠夫、(ジヤパンタイムス)秋元俊吉、(太平洋通信社)高田一二」p19 (『サンデー』23 1909.5)
092-1. 「◎根津代議士送別会/ 去月十九日出発の渡米実業団一行に加はりたる、代議士根津嘉一郎氏の行を昌にせんと、八月十五日午後五時より、星ヶ丘茶寮に於て、其の送別会を開く。・・・各自歌を尽して午後九時頃散会したり。出席者は左の諸氏なりき。/ 田中基臣」(
『憲政本党党報』 3(12) p12 憲政本党本部 1909.9)
093-1. 「一概に政治記者と云つても・・・進歩党、中にも其又改革派の本部に出入するのが・・・田中基臣(万朝)・・・」(
「政党と記者との関係(一)」p6『サンデー』43 1909.9)、「▼万朝の田中君は大同派出入記者としては最も顔の古い一人で、此人なくば大同派の記者室は闇である、勿論君は新聞の立場から云つても、其人物から云つても決して紙面を此派の為めに利用する様な事はなく、倶楽部員の誰彼れと特別の関係がある訳でもないが、朝報社が休みの時でも、自分は大同派に出張して詰所の籐椅子に昼寝すると云ふ程の篤志家だ」(
「政党と記者との関係(三)」p6『サンデー』45 1909)
094-1.「十 新聞記者招待/ 十月一日夜富山県市聯合ノ主催ニテ、行啓中本県ヘ出張シタル各府県ノ新聞記者二十有余名ヲ八清楼ニ招キ、饗宴ヲ開キタリ、主人側ハ永井、大芝、伊東ノ三事務官、石原事務官補、幷ニ県会議員中ノ奉迎委員、富山市参事会員、市会正副議長等ニテ、地方新聞記者モ主人側ニ参加シ、富山市長開会ノ挨拶ヲナシ、来賓総代日本通信社員吉田文外謝辞ヲ述へ、手踊、小原節等ノ余興ヲ催シタリ 尚ホ外来記者一同二対シ、富山市史、富山市勢一覧、富山市外地図、記念絵葉書、透模様ハンカチーフ、絹モスリンネクタイ、清涼簾、絹モスリン虫除ヲ寄贈シタリ、外来記者ノ氏名左ノ如シ、・・・万朝報社 田中基臣」(
富山市編『行啓紀念』 p103-104 富山市 1912)
095-1. 「◎東邦協会第七十七回総会 本会第七十七回総会は三月中に開催すべき筈の処都合のより四月に延期し同六日午後五時より華族会館に於て開催せり。」(『東邦協会々報』 (182)(221) p1 東邦協会 1910.4)「当日の出席者は左の如し 田中基臣君」(
同誌 p17)
096-1.
「『ムラサキ』7巻7号- 目次」 (近代女性文化史研究会編『近代婦人雑誌目次総覧』 第8巻 (婦人界・ムラサキ・婦人くらぶ・女子教育) 大空社 1985.10)【
『ムラサキ』発行年月日一覧 】【句題 7(7) 蝉 7(8) 蓮 7(9) 栗 7(10) 芋 7(11) 柿 7(12) 炬燵 8(1)新年雑題 】
097-1. 「夢声 駄洒落てえのは、遺伝するらしいんですね。あたしのおやじがたいへんなダジャレストなんです。(笑)おやじは洒落の名人をもって自任してたんですが、そのおやじが敬服してる洒落というのが、これまた実にくだらないんです。中村弥六というむかしの代議士が、夏のこと、政党本部の二階でテーブルをならべた上へ座ぶとんを敷いて、そこにすわって碁を打っていて、なにかの拍子におっこっちゃって肋骨を折った。これに対して、万朝報の演芸記者でのちに政治記者にもなった田中煙亭という記者が、しゃれたんです。「中村のヤロウ君(弥六)が、テーブルからろっこって(おっこって)、あばら(あたら)憫然(びんぜん)なことをした」(笑)(昭27・2・7日対談)」(「永井龍男」p53『徳川夢声の世界』 対談問答有用文学者編I 1994.8.15」)
097-2. 「中村弥六氏の笊碁も久しいものだが、此間中央倶楽部で大野亀三郎氏を五目にした嬉し紛れに、そつくり返つて二階から転り落ち、椅子にぶつ突つかて肋骨を折つたとは、笑れもせぬ気の毒な話」(「正伝訛伝」p2『サンデー』91 1910.8.28)【中村弥六は嘗て進歩党、憲政本党に所属。1895.12-進歩党 1898.12-憲政本党 1900.12-無所属 1908.12-戊申倶楽部 1909.12-1912.3中央倶楽部 (
衆議院議員党籍録 第1至55回議会)】
098-1. 「・・・今より三十余年前、明治四十年の春、・・・/ その後二三年を経て僕は、同じ社の社会部の方へ転じ、殊に演芸方面の記事も手がけるやうになり、毎興行に、職業的義務的に芝居を観るやうになつたので、自然、観劇の際は殆ど必らず、楽屋を訪づれて、両君 [河合武雄、伊井蓉峰]とも愉快に会談する機会を与へられたが、・・・」(
煙亭生「塵外居放談」 p9『太棹』135 1942.5.15)
098-2. 「明治の末葉、僕が万朝報の政治部記者から今でいふ転向して所謂三面記者に堕落致した駆け出しの演芸記者時代、浅草橋外の植木屋といふ貸席で(今もあるかナ)新内だつたか、常磐津だつたか、それは忘れたが、中川さんと御一緒に聴いてゐて、初めてお近付きになつた事をはつきりと記憶してゐる。・・・三十年も経つた近年・・・」(
煙亭記「塵外居放談」 p13『太棹』124 1941.4.10)
099-1. 「あの頃といふのは三十四五年前のことなのだから相当古い話である。その当時私は「やまと新聞」にゐた。・・・/「万朝報」は中内蝶二氏と田中煙亭氏。蝶二氏は演劇記者団中の古参株の一人だつたが、その劇評は青々園氏のそれと同じ意味で私達には物足りなかつた。」(
和気律次郎「あの頃の劇評家」 p19『劇場 1(11) 演劇文化社 1946.12)
100-1. 「謹賀新年 明治四十四年元旦 週報社/社主 森山守次/理事…////賀正 田中基臣」p1(『サンデー』108 1911.1)【
賀正】【転居通知も掲載しているが(
039-1 040-1)、役職不明。社主森山守治は従弟。
幕の外人「文士劇酷評」は煙亭による可能性もある】
102-1. 「それより大正時代に入つて、東洋城氏と秋菊氏が「歌舞伎」誌上に歌舞伎俳句なるものを連載した。田中煙亭氏が「演芸倶楽部」誌上で灰神楽と題して、俳句で劇評をものしたことがあつたのは、大正に於けるのんびりさの打出しらしい。」(
島東吉著『俳文読本 新版』 p77 健文社 1935)【
えむてい「俳神楽」 (1(1):91-92 1912.4)
『演芸倶楽部』記事一覧】
104-1. 「大正元年の九月には、私は万朝報特派員として伏見桃山の御大葬に参列してゐたので、乃木大将の事件は電話や号外で知つたのであつた。やがて万朝報は、社長黒岩氏の『乃木将軍の自殺を聞きて』と題する長論文を客中に見た。」(
煙亭「人と生れし神」p54『痴遊雑誌』 2(12) 話術倶楽部出版部 1936.12)
104-2. 「▼桃山御陵参拝の事を了へて、奈良へ廻れば少くも一日仕事、宇治も近いが又の事と、帰京を急ぐ同行二人は紀念の菓子や絵葉書を買う型の如く、京都電鉄の停留所へと伏見の町をブラリ〴〵。▼トある荒物屋の店前に、親指ほどの美くしい竹を並べて菱形に筏のやう、籐の鼻緒をすげた下駄とも付かず、草履とも付かぬを発見した、一足何程?二十五銭!それは安いと土産心に一二足、萩桔梗秋の小庭の敷石伝ひ、下便所、凝土の風呂場など最も適当、今度御大葬に付て出来たものとか、其名を問へば伏見の人は優しい哉『呉竹草履』」(
黒顔子「新京極」p256 『文芸倶楽部』18(15) 1912 )
105-1. 「◎むかし会の記▼一度此の誌上でむかし会といふ演芸同好者の会がある事を御披露に及んだ事があつた。其の因に依つて此の余白を借りて又少々其の消息を書かして貰ふ。▼むかし会はもう回を重ぬる事十三に及んだ。其の十三回を例の廿一日岡鬼太郎、田村西男が当番幹事で、山谷の八百善で開会した。会する者石橋思案、足立朗々、森暁紅、小出緑水、江沢春霞、瀬戸閻太郎,岡村柿紅と幹事を入れて九人。▼例に依りて演芸談や、昔ばなしやで通と通と洒落と洒落との衝突があつた。中に柿紅の本所七不思議考、緑水の四谷怪談地名考、西男の珍獣穿山甲に就いてなど、頗る有益なものがあつた。▼盆が廻るにつれて、誰やらが云ひ出すには、此の会も大分回を重ねたが、少数の会員丈けで互に気を吐いて居るのも面白くない。こゝらで一つ世間と交渉のある事をやらかさうではないかと。一同異議なし。扨て如何なる方法でと攻究の末に、或る計画を立て、実行委員として、閻太郎、緑水とが挙げられた。扱て其の計画が何であるか、如何なる事で世間と初めての交渉を開始するか、暫く天機を洩らす事は差控へるが、読者は次号を手にする頃には。相分る事です。(伴食会員)」(
えむてい「俳神楽」p194 『演芸倶楽部』2(3) 1913.3.1)【
柿紅「むかし会」 p204『演芸倶楽部』1(4) 1912.7.1】
107-1. 烟の人「或る御座敷」(『講談揃』4 1913.4)
109-1. 「塵外 田中基臣 牛込区余丁町一〇一/ (悼武石天郊) 渡る風いたづらに草の茂りけり」(
『現代全国俳人名簿』 p302 中央出版会 1914.10.3)
109-2. 【1913.5.4飛行機事故で死亡した武石浩玻については、
「二人の青年飛行家の夢」p940- (勝田市史編さん委員会編『勝田市史 近代・現代編 1』 勝田市 1979.11)がある。虚子が「弔武石天郊/雷公の轟き落ちし如くなり」の句を発表している。(
虚子「発行所俳句例会の記」p88 『ホトトギス』16(7)(201) ホトトギス社 1913.6)】
110-1.「頭取なり奥役なりの緑水君から『時平』が空いて居るが出ないかとの話。二十年も前から一度は演て見たいと思つた芝居といふもの。殊に大抵に俳優の演るのが平生巧いとは思へぬ我等、就中若い人だちの新しい劇といふものが、成つて居ないので、見ると歯痒くて堪らぬ我等、乃公に演せたらと毎度腕の鳴る我等だ。一つ思ひ切てやつつけるかな、と早速役者衆の顔触れを伺がつて『宜しい、出ませう』と承知に及んだが馬鹿だねへ。生れて初めての役者、随分図々しい話だが、時平公一役なら舞台は僅か十分足らず、車の上で三人の兄弟を呶鳴り付ければそれでよし、動きが無いから儲からぬなど生意気や贅は言はぬ、唯もう好い心持に溜飲を下げやうといふ了見方。・・・何が幸になるか判らぬは近眼の眼鏡を外して咫尺を弁ぜず・・・満場割れるやうな喝采。嘘を付け!僕の舞台はこれが空前の絶後であらうと、いふ口の下から此の秋は東京で演りたいね』と悪友共が寄るとさはると・・・・・・。」(
煙の人「時平公」p78 『大正演芸』 1(8) 大正演芸社 1913.8)【同誌同号p72に以下の記事がある。 「因果同士の寄合ぢやなア・・・・・・で川崎在へ送り三重、楽屋の裏は田圃の書割、こゝならノメ〳〵と因果の発展が出来ると、髭と生別れの初舞台、一度は演つて見度いの念願、大師の利生恐しくも、六月廿一日のご命日、其境内の都館でシヤギリを入れた近在劇、其初舞台の面々は、洗崖、朗々、煙亭、菊奴、みはる、蘆江、豊山、芋作、久作、暁紅、之に加へるにお素人の女優百合子に八重子、さて亦妙舞台の先輩として西男、緑水、清忠の三俳優がヱヘン別庵看板といふ格で・・・。」(
「妙優苦珍談 恐ろしや近在劇」)】
110-2. 「大根の絵を書いて傍へ『近在劇協会章』とした草色の切符が二十枚と舞込んだ。 六月廿一日神奈川県は川崎大師都館に於て開演とある。/演物が『だんまり』『車引』『寺小屋』『鞘当』『大口の寮』『双蝶々』といふ並べ方。役者は当代の文士?画家といふ、次第不同で左の如くである。/瀬川蘆江、野崎久作、市川洗崖、尾上菊奴、山野芋作、尾上八重子、中村百合子、あづま朗々、坂東畑の人【烟か?】、鳥居清忠、小出緑水、市川暁紅、市川豊山、坂東みはる、市村西男、市川芳寿美。・・・『近在劇協会』といふ名は彼の『近代劇協会』の上山草人君をして当日見物の一人たらしめたこと、松居松葉君をして彩旗一対を贈らしめた事をでも手柄としやう。」(
五の字「素人芝居 (近在劇協会の事)」 pp.58-59 『サンデー』230 1913.8.3)
110-3.「都舘の近在劇 〔六・二〇 都〕川崎大師公園の都館は来る廿一日近在劇協会に貸与する事となりたり当日は晴雨に拘はらず正午開場、演し物は「たんまり」「車曳き」「寺子屋」「大口の寮」「鞘当」「双蝶々」にて出演者は文士画家劇評家等にて「だんまり」の大薩摩「大口の寮」の清元出語りに至るまで協会員の手にてやるといふ凝り方なり。・・・」(
『新聞集録大正史 第1巻』p307 大正出版 1978.6)
110-4. 「□近在劇を失敬する 煙亭、西男、朗々、暁紅、緑水、菊奴、清忠、洗崖其他、即ち劇通や文士や画家の一団、之れ等に向つて巧さは素より足も腰も肩も手も首も調子も期待しては居ない、・・・煙亭の時平動かぬ丈に辛と助かり・・・」(「演芸あさぎ幕」『読売新聞』 1913.6.24 6面)
110-5. 「近在劇協会/ 文士、画家、劇評家といつた顔の道楽芝居、川崎都館に催さる、天下は太平なり/ 瓜茄子夏大根も員に座す」(
「俳神楽」 p191 『演芸倶楽部』 2(7) 1913.7.1)
111-1.「本誌二百号記念文芸家招待能は予定の通り六月二十七日午後四時半より飯田町四丁目三十一番地喜多舞台に於て開催。招待者は都下の文芸家に少数のホトトギス読者を加へたり。受付にて芳名を書留め得たるもの左の如く、此他に記録洩れのもの若干あるべく、約三百五十名。満場一個の空席も無し。「八島」の次ぎに二十分の休憩時間を設けたる為八時半散会の見込なりしもの九時散会となる。/来会者 芳名/ タ 田中基臣」(
「二百号記念催能」 p50 『ホトトギス』16(9)(203) 1913.7)
112-1.「一、のしほと井上と花枝 雨かと思つた朝は雲が断れて、西北の飇々[びゆう〳〵]風、午少し前チヨツと日の陰がさしたので、稍や風邪気味の勇を振つて、電車を中渋谷の終点に走らせる。今日は多摩の郊外に催される「屋外劇」を見に行くのだ。霜月は廿九日。・・・二、焚火をして叱られる・・・三、「無謀」見たまゝ、・・・四、見せつけられて散会・・・」(
煙の人「最新流行「屋外劇」 pp.85-91 『演芸倶楽部』3(1) 1914.1.1)【同記事中で言及される田端での野外劇場については、
松野緑「野外劇場といふ物」pp.103-107 (『演芸倶楽部』2(12))がある。】
112-2. 「玉川の野外劇/ 第一回試演大正2年11月29日午後3時開演玉川電車終点玉の丘遊園地「無謀」一幕井田絃声作/ 役割老案内人(青山長次郎)青年紳士(三好今太郎)美しい魔女(三浦千代子)若い者(四、五人)-主宰者井上勝。/ 田端に追いかけて玉川でも野外劇をやった。午後一時中渋谷玉川電車終点の待合室集合で、会費を払うと会員券と電車の切符をくれた。当日の来会者は七十名位、田端の「紅玉」に出演の井上疋夫氏や坂東のしほさん、有楽座の女優東花枝に、お伽役者の石川木舟、同座演芸主任の馬場黙蔵、演芸記者の田中煙亭などの諸氏も顔を見せていた。」(
田中栄三『明治大正新劇史資料』 p128 演劇出版社 1964)
114-1. 「△[四月]九日 朝起きると枕頭[まくらもと]に石橋さんを筆頭に岡鬼太郎、森暁紅、本山荻舟、田中煙亭、江沢春霞の諸氏連名で王子から絵葉書が来て居る。これは「むかし会」の連中が大正博覧会をあて込んで下情(?)な探らむため各〃思ひ思ひに変装して一昨日あたりから上野を中心として活動してゐたのだ。これはその連中からの通信で「滑稽百出」とある。今日か明日は本町で石橋さんから面白かつた話の数〃を聞くことが出来るだらう。此日号外頻りに飛んで皇太后陛下の御危篤を報ず。」(
生田蝶介「生活日誌の一面 三」p194 『演芸倶楽部』3(5) 1914.5.1)【「・・・汽車に乗換へ、王子に着いて扇屋へゾロ〴〵入る。・・・団長が差出す絵葉書に記念の署名する中[うち]・・・」(鬼太郎「東京一泊記 五 博覧会引上げより解散まで」pp.257-258『演芸倶楽部』20(7))】
114-2. 「吾妻橋から蒸汽で奥の植半へ行つて飯を食はうといふ恐ろしい贅沢な議が持上つたが、自働電話で問合はすと、普請か何かで休業と知れ、一銭蒸汽説も打毀[ぶちこ]はれる。何といふ生意気な田舎者だらう。予定通り、博覧会へ行かうと一決して、足弱の動議の賛成があつてワイ〳〵言ひながら電車に乗つて仕まう。」(
煙亭「変装東京一泊記 四 旅館引上げより博覧会見物まで」p251『文芸倶楽部』20(7) 1914.5)
115-1.「博覧会の演芸場で夜興行を始める舞台開きに、一つ大に蘊蓄やら器用やらを見せやうといふ話が纏まる。・・・去年近在劇通りの顔触れが揃つて居た為め、序に菅原の車曳を出すことだけは直ぐと決つて、僕は持役藤原時平公、閻太郎氏の杉王が新顔で、蘆江氏が金棒へ廻される。・・・『岡君が仁木を演るなら、僕が大奮発して外記を買はう』と切出した拙者の無法『可しツ』と鬼太郎氏の快諾に、並居る諸氏は一斉に喝采する。」(
煙亭生「役者に成つて見た記」 p171-172 『文芸倶楽部』20(9) 1914.7.1)【写真 「煙亭氏の時平」】
115-2. 「煙亭の時平、寸法の足らぬ腰から下が落付かず。調子は先づ々々として舌出しの見得も二日目までは怪しかったり。・・・初舞台同然の煙亭、外記左衛門といふ難役を引受けた度胸のほど先づ大抵の見物を驚かし、危なく酔払ひになる足取り嘸ぞ骨の折れる事であらう。ヨヂユム丁幾を塗つた稽古の程も察しられたが・・・」(
幕の外人「文士劇酷評」 p11 『サンデー』247 1914.6.14)
115-3.「雑 ▲六月、五、六、七日大正博覧会演芸場にさつき会文士劇は『車引』『寺子屋』『実盛』『床下』『刃傷』を演出、緑水、朗々、清忠、煙亭、閻太郎、贋阿弥、鳳仙、杵男、みはる、蘆江、鬼太郎、暁紅等出勤す」(
「劇界一覧」p116 『歌舞伎』 (169) 歌舞伎編輯所編 歌舞伎発行所 1914.7)
115-4.「その [大正三年]六月上野公園に開催された大正博覧会の演芸場に於ける文士劇に出演され、「先代萩」の仁木弾正に扮され、伊藤みはるの荒獅子男之助、森暁紅の細川勝元を相手に、日頃の蘊蓄を傾け憂さをやられた。杉贋阿弥氏は永井鳳仙の瀬尾で「実盛物語」を演じ、他に「車引」があって、松王丸は鳥居清忠、梅王丸は小出緑水、桜丸は足立朗々、時平は田中煙亭で、杉王丸には瀬戸閻太郎が出てゐた。後の「二筋道」の作者瀬戸英一で、明治二十五年生れ故、当時数へて二十三歳の筈である。わたくしもこの芝居は見た記憶があり、ウヲオタア・シユウトと称する当時としては最新の勇壮なるレクリエエシヨンと共に忘れ得ぬ処であるが、先生も一日何回か出演の幕間を、ウヲオタア・シユウトに興じて時を移されたといふ。」(
竹下英一『岡鬼太郎伝』 p165 青蛙房 1969)
115-5.「煙亭君の外記の顔は当時十二階の演芸場に出勤の幡谷に似て居るとの評、先生中中納まらず、・・・」(
森暁紅「大正博の文士劇=楽屋と舞台と=」 pp.39-44 『演芸倶楽部』 (3)7 1914.7.1)【p42 写真 田中煙亭氏の外記 (大正博さつき会)】
115-6. 「[写真] 第一(車引)鳥居井清忠の松王丸 小出緑水の梅王丸 足立朗々の桜丸 第二(源平布引滝)杉贋阿弥の斎藤市郎実盛 永井鳳仙の妹尾十郎兼氏 (伽羅先代萩)床下の場 岡鬼太郎の仁木弾正」(「大正博覧会六月狂言文士劇」p41『演芸画報』8(7) 1914.7) 】
116-1. 『「光の巷劇 ▲各紙の劇評(二)他紙に見ぬ称讃の辞/ 本郷座に於ける『光の巷』劇は何と云盛況であらう、連日連夜一日も欠かない満員大入りは予期した事とは云へ実際此△予期以上の成功には座主も作者も俳優もさては本社さへも驚かざるを得ない、・・・昨日は丁度開演後十日目で・・・△劇評を抜萃し『光の巷』劇が如何に完美な芸術品であるかを示さう▲万朝紙上には斯界に其人ありと知られたる田中煙亭氏曰『現社会の一面を例の才筆にて縦横に描写し幕毎に山を拵へ俳優を活動させる技倆は流石に新派に黙阿弥氏殊に登場人物の性格を鮮やかに写し出さうと試みた事に於て作者の注意と俳優の苦心を認ざるを得なかつた』云々と嘗て見ざる激賞の声を挙てある・・・」(読売新聞』 1914.10.21 7面)
117-1. 「道楽といへば、素劇くらい念の入ツた、また、おもしろい道楽は無いとおもふ。我れ等も、二十何年も前から、天魔に魅入られて、この念の入つた、おもしろい道楽にうき身を窶し、毎年のやうに、親類、縁者、友人達に、少なからず迷惑をかけて来たものであるが、大正三年第一次世界大戦勃発し、日本もこれに参加した時には、帝国劇場に於て所謂文士劇を催ほし、僅少ながら恤兵部に献金した。その翌年だツたかも、市村座に、同じく文士画家劇を開催して、その時も、諸費を節約した義金を其筋に献納した事を覚えてゐる。」(
煙亭生「塵外居放談 芝居ごつこ-記念会は天下太平」p19 『太棹』116 1940.7.10)
117-2.「劇界一覧 ▲帝国劇場(十一月廿三日マチネー)素人劇『忠臣蔵』清忠、鬼太郎、鳳仙、緑水、暁紅、西男、閻太郎、煙亭、朗々、杵男、菊奴、重子」(
「劇界一覧 自大正三年十一月十六日至同三年十二月十日」 p135 歌舞伎編輯所編『歌舞伎』(175) 歌舞伎発行所 1915.1)
117-3. 「幕を開けた舞台より、此役定めのをかしみ種々あつて結局各自勝手の演勝手と柄ゆきで割付る事となつて納まつた処が、即ち師直(緑水)判官(朗々)力弥(閻太郎)伴内(菊奴)九太夫(煙亭)四の由良之助と定九郎(清忠)勘平と平右衛門(鳳仙)若狭之助と薬師寺(鬼太郎)顔世と千崎(杵男)七の由良之助(西男)△其れから僕が、こりや柄からでは元来なく台詞数の少ないのと動きのないので何うにかなるだらうと引受た石堂、ところで柄から云つても些面倒なのがおかる、一同顔を見くらべて一ト相談あつた末、其れだけは真物の、然も女優を借る事になり、茲にガサツな一座へ紅一点、木村重子といふ花が咲いた。・・・煙亭君の九太夫が松助を慣うて執念き程に其呼吸を呑込むだは、僕等楽屋内からも唯驚いたり・・・」(森曉紅「八五郎御慶「一寸マチネー素人会の事」」p176 『文芸倶楽部』21(1) 1915.1)
117-4.「 [大正三年]帝国劇場の十一月興行は『忠臣蔵』を出しました。・・・尚此の興行の末日に岡鬼太郎、永井鳳仙、小出緑水、森暁紅、田村西男、瀬戸閻太郎、田中煙亭、足立朗々、鳥居清忠等諸氏が出演して素人芝居の『忠臣蔵』がありました。」(
関根黙庵『明治劇壇五十年史』 p444 玄文社 1918)
118-1. 田中煙亭「お笑ひ草」(『いろ』2巻5月号 1915.5) 【
『いろ』記事一覧】
119-1. 「大正四年には、 [森]暁紅は田中煙亭と落語家や講談師の研究評定を連載した。その時期の芸人の芸に、きめのこまかい分析が行れていておもしろい。」(
戸板康二『演芸画報・人物誌』p198 青蛙房 197)) 【15.6三遊亭円右 15.7柳屋小さん 15.11一龍斎貞山】【
『演芸画報』記事一覧】
120-1. 田中煙亭「花柳小説 ともしび」(『小説倶楽部』新年号 1916.1)
122-1.「坂本彦平 演芸通話会主任 開華楼主 又文士劇に特別の趣味を有し大正五年演芸通話会を起して自ら主となり公演をなす尚演出にも特種の技を有す号を猿冠者といふ」(
「坂本彦平」 p44『昭和調査録 昭和6年版』 日本人事通信社 1930)
122-2.【通話会】【「会の名前を考えた揚句、通な話をする集まりだから通話会と名乗つたらよかろうと誰となく通話会としてしまつた。今日になつて考えると気障な名前だ、自分から通と名乗つた所に若さと青さが現れて居る、その通話会が横浜で生れた「文士画家劇」に加入して、文士劇から鳥居清忠君、田村西男君、平山蘆江君、井阪梅雪君、田中煙亭君らと組んで文士劇から離れて演芸通話会を創立したのだ。」(
坂本猿冠者「素劇の思い出(6)-通話会の由来-」p2 桃源 (70) 桃源社 1958.7)】
122-2a. 「演芸通話会がまだ素劇団として旗揚げをせぬ前は、森暁紅君が主宰してゐた博文館の文芸倶楽部へ、色々の標題をとらへて、同人の座談会記事を発表してゐた、記事は故鈴木春甫君がまとめ役で、・・・煙亭さんは此の座談会の中心をなす位ひ、多趣味で、且つ相当豊富な意見も持つてゐた。」(
三宅孤軒「故田中煙亭を偲ぶ」p11『このみづ』復興4 1947.3)【当該記事の参加者は下表の通り。】
| タイトル | 巻号年月 | 参加者 |
演芸通話会連中 | 尾上菊五郎評話 | 23(8):205-210 1917.6 | 猿冠者・島村珠夫・越条孝雪・山口敝・森曉紅・すの字 |
演芸通話会 | 市川左團次評話 | 23(9):209-215 1917.7 | 猿冠者・花声・多加志・英哉・大内蔵・暁紅・すの字 |
通話会連中 | 実川延若の芸風 | 24(12):208-212 1918.7 | 猿冠者・多加志・南花・うしほ・紫葉・紅子・孝雪・里魚・秋光・花声・米太郎・すの字 |
[通話会]連中大勢 | 当世芝居と観客 | 24(16):204-210 1918.12 | 猿冠者・花声・紅子・うしほ・紫葉・右近・大和田・すの字 |
通話会 | 新富座の文士画家劇真面目評 | 25(4):190-200 1919.3 | 猿冠者・紫葉・英哉・南花・右近・大内蔵・孤軒・秋光・鬼瓦・多加志・すの字 |
通話会 | 今が売出の若手俳優 | 25(5):194-203 1919.4 | 猿冠者・鬼瓦・紫葉・南花・大内蔵・多加志・英哉・うしほ・すの字 |
通話会 | 黙阿弥の狂言えらみ | 26(3):224-234 1920.2 | 猿冠者・うしほ・英哉・右近・多加志・南花・紅子・すの字 |
演芸通話会 | 仁左衛門論戦 | 26(11):245-248 1920.8 | 猿冠者・紅子・吉菊・蘆江・紫葉・南花・孤軒・右近・すの字 |
122-3.【通話会代表・幹部】【[恤兵金品] [東京府] 五〇・〇〇[円] 東京市神田区宮本町一 演芸通話会代表 {坂本猿冠者田村西男三宅孤軒}」(
『官報』1933年04月21日 p586)】【「演芸通話会 東京都神田区宮本町一、電話下谷五二三二(幹部)田村西男、三宅孤軒、坂本猿冠者(文芸部)田村西男、坂本猿冠者、鳥居清忠(幹部俳優)田村西男、三宅孤軒、南条南花、鏡味鼓仙、田村栄造、坂東一胡、尾竹竹魚」(
「劇団一覧」 p228『文芸年鑑 1937年版 文芸家協会編 第一書房 1937.4.20)】
122-4.【坂本猿冠者】【「煙亭曰 猿冠者君は、よく痴遊先生の御話などにも出て来る古い料理屋、神田明神開花楼の主人で、交友も広い劇通、殊に、演芸通話会の主宰者、東京名物といはれる素劇団の頭目です。僕とは久しい道楽仲間で、彼アいふ社会の人には稀らしいインテリ、又た余技としては川柳界一方の旗頭です。」(
坂本猿冠者「西郷隆盛に扮した痴夕先生」p72『痴遊雑誌』 2(9) 話術倶楽部出版部 1936.9)】【俳号は柿亭「私の改号の浮気を封じてゐる人に坂本柿亭さんがある。これはシテイと称へるので、『猿冠者だからカキ亭じやないんですか』と訪ねれば、どちらでもいゝんだよ、と答へられる。」 (
巨呂平「ペンネーム」p32 『川柳きやり』 20(2)(211) 川柳きやり吟社 1939.2) 巨呂平は三宅孤軒】
123-1.「一口に言ふ文士劇なるものが又企画[もくろ]まれて、斯くいふ僕にも召集の令状が下つた。辰年の十一月の初旬!博覧会以来、帝劇以来、動もすればその相談が持上る、其度に一ぱし同類と見られる拙者、異議に及んだことも無かつたが、今度といふ今度は、公私多忙とでもいふか、どうしても出演致し難き旨御断りにおよんだ事を折柄御旅行中の大兄に対し、先づ第一に報告する。・・・愈よ十一月廿一日 当日は社を休んで見物イの一番に乗込むといふ同情的大贔屓、電車を降りて二長町へ曲り、・・・」 (
煙亭生「二長町の素人劇より 旅の石橋思案兄へ」 p205-206 『文芸倶楽部』23(1) 1917.1)
123-2.「雑誌「素人」を発行して居る家庭演芸研究会の主催で、廿一日午後一時から、市村座で文士、画家、実業家等の合同素人劇が催された。」(「市村座の文士画家劇」『読売新聞』1916.11.24 6面)【「錣引」景清 伊川洗崖 三保谷 平山蘆江 「鈴ヶ森」長兵衛 鳥居清忠 権八 永井鳳仙(ゐづつ)「扇屋熊谷」熊谷 菊寿 姉輪の平次 小出緑水 小萩 平山蘆江 上総 伊川洗崖 忠太 花扇 「弁天小僧」弁天小僧 菊寿 南郷 永井鳳仙 日本駄右衛門 鳥居清忠 番頭 田村西男(二松) 鳶者 清六 「水へ」生きる武士 永井鳳仙 老たる武士 田村西男 死に行く男 鳥居清忠 死に行く女 菊寿 「お祭佐七」佐七 田村西男 小糸 菊寿 】
124-1. 「ところで、顔寄せ、相談、稽古、これを〆てたツた三晩、舞台稽古が一晩あつて、暮のどん詰りを二日間の開演、然も舞台が横浜・・・」(音阿弥「文士画家劇大歌舞伎」p309『文芸倶楽部』23(2) 1917.1.15)【「丸橋の堀端」「扇屋熊谷」「直侍のそばやと大口寮」「尼ヶ崎」「忠臣蔵七段目」「寺子屋」「鈴ヶ森」「戻り橋」娘桂子、丑松(ほのほ)忠太、久吉、玄蕃(猿冠者)伊豆守、扇折早百合(呆痴)小萩実は敦盛、正清(浜村花扇)姉輪(緑水)熊谷、三千歳、十次郎(菊寿)丈賀、由良之助(田村二松)忠弥、渡辺綱(淡紅)長兵衛(清忠)直侍、権八(為春)市之丞、光秀、平右衛門、源蔵(長い茶味禅)松王丸(音阿弥)】
125-1. 黒顔子「社会百面相」(『新聞の新聞』1917.2)
126-1. 「例の相談が持上がりました。今度は羽田飛行機学校寄付の為めで、七月二十四日初日、二十五日楽といふわけで、連中は清忠、緑水、寅彦、梅雪、鳳仙、西男、みはる、洗厓、蘆江といふ顔ぶれです。場所は市村座、出し物は市野原、名和長年、寺子屋、望月、双蝶々大喜利飛行機ダンスといふ立て方です。是非兄を勧めてくれと皆が云つて居ます。実は三十日夜、帝劇の楽屋で、顔寄せをしますから、是非お出ください。待つて居ます。平山生』--突然、恁麼[こんな]手紙を受け取つたのは、六月三十日の朝であつた。」(森ほのほ「素人芝居の舞台と楽屋-市村座の文士画家劇-」p26『新演芸』2(9) 1917.9)
126-2. 「市村座の文士画家劇 廿四、廿五の両日午前十一時から市村座で催ほされた日本飛行学校寄付の文士画家劇の初日を見る。・・・第三の「義経千本桜(御殿)では・・・梅雪の忠信・・・鳳仙の義経・・・煙亭の六郎、森ほのほの次郎は無事、蘆香の静御前・・・」(『読売新聞』1917.7.26 6面)【「名和長年」長年 長谷川清寿 堯心 右田寅彦 忠顕 永井鳳仙「御殿」忠信 伊坂梅雪 義経 永井鳳仙 駿河六郎 田中煙亭 次郎 森ほのほ 静 藤舎廬香 「双蝶々曲輪日記(角力場)」濡髪 長谷川清忠 放駒 小出緑水 与五郎 田村西男 「寺子屋」松王 永井鳳仙 源蔵 右田寅彦 玄蕃 小出緑水 戸浪 松本幸四郎 千代 藤舎廬香 「春雨傘」暁雨 久保田金僊 鉄心斎 田中煙亭 庄兵衛 田村西男 葛城太夫 幸次郎 「玄冶店」与三郎 森ほのほ 蝙蝠安 伊川洗崖 お富 平山蘆江 藤八 野崎迂文】【(幽湖「文士画家素劇大会拝観記」p254『文芸倶楽部』23(12) 1917.9)】
126-3.「最近では大正六年七月の市村座に於ける、『飛行協会寄付演劇』の文士画家合同の開催で、出し物は『だんまり』『名和長年』『千本桜』『双蝶々』『寺子屋』『春雨傘』『玄冶店』等の七種で、右田寅彦、鳥居清忠、小出緑水、伊阪梅雪、永井鳳仙、久保田金僊、田中煙亭、森ほのほ、平山蘆江、田村西男、井川洗崖、野崎右分など云ふ人達で二日間開演せられた。」(
「■文士劇」 p318 『現代演劇総覧』文星社 1918.12.20)
126-4.「こゝに更に愉快なことは、此の挙を聞いた諸名士が、素人芝居を行つて日本飛行学校の存在を広告すると共に後援の実を挙げようと申出たことである。/ 即ち、東京日々新聞記者桑野正夫氏をはじめとして、/ 伊坂梅雪氏、伊川洗涯氏、鳥居清忠氏、田村西男氏、田中烟亭氏、永井鳳仙氏、野崎迂文氏、久保田金僊氏、藤舍廬香氏、小出緑水氏、右田寅彦氏、平山蘆江氏、森ほのほ氏/ 等の文士画伯が、後援会がやる決心があれば我々が出演すると申出で、七月二十四日、五日の両日市村座に於て素人劇大会を催し、市村座、三越、丸見屋、松阪屋等の厚意を得、又国民飛行機会長長岡中将の応援を得て大成功を収め、七百円の大金を学校に寄付することが出来たのである。」(
高橋重治『日本航空史 坤』 p709 航空協会 1936)
127-1. 「文士劇へ能く出る「万朝」の田中煙亭は、以前、政治方面を担当した人だけに、□□物々しく、如何しても、文芸に関係ある人と思へないが、其の実、芝居にかけては、三度の米の飯を喰べるより好きな方で、黒人染みた芸風が、素人文士劇の範囲を脱してゐる相な、本人は、自ら翫助あたりを以て任じてゐると云ふが、兎に角、永井仙鳳と故贋阿弥、足立朗々と煙亭とは、黒人跣足と云ふほどの技倆があるげな。」(
「涼風一陣」p171 『新公論』 32(9);8月號 新公論社 1917.8.1)
129-1.「私は、飛行学校後援会演劇のマネジヤーをやつた関係から、この東西合同文士劇のマネジヤーまで頼まれる事になつて、諸事打合はせの為め、大阪へ乗込んだのである。この話は大正三年の秋で、芝居は十二月の餅搗興行を大阪の浪花座でやらうといふのであつた。/ 私が大阪に乗込むまでに、東京方は、いろ〳〵と狂言の相談やら、出演者の顔ぶれなどを決めるので、大騒動をやつた揚げ句、鳥居清忠、小出緑水、伊坂梅雪、永井鳳仙、田中煙亭、杉贋阿弥、瀬戸閻太郎などといふ人々と協議の上、狂言も序幕が東西両花道から両方の役者がお目見得のつらねをやる事として、これを新しく書き、あと四つを二つ宛東西でやらうといふやうな事に、大体取極めをして大阪に出かけ、・・・」 (
桑野桃華『水のながれ : 芸苑秘録』 p217 聯合演芸通信社 1934)【大正三年秋ではなく大正六年末の事、次項参照】
129-2. 「世間の節季師走を高揚枝、東西合同と銘打つて大阪三界まで伸[の]さうとしたは去年のこと、先づ梅田駅へ乗込めば南地新町の綺麗どこの出迎へ美々しく、それから直ぐに俥を連ねて富田屋[とんだや]での顔つなぎ、白粉[おしろい]の香と灘の生一本に長旅の疲れも忘れ、雑魚寝の夢濃かに、明れば浪華座の桧舞台、扇雀、長三郎を端役に使つて、孰[いづれ]も手心のある出し物に贅六どもの胆を寒むからせようの悪い趣向、それも当て事と何とやらで、鬘合せも事なく済み、道具帳も引けた土俵際で向ふから首尾よく脱[はつ]れ、三日三晩徹夜で書き上げた原稿の折角金に化けたものを、今更遣り場に困る始末、ムシヤクシヤ腹の啖火をお使者の中原指月に投げ付けて其場はどうやら済んだものゝ、…不意に寝耳を驚かしたは水に縁ある代地の飛箋[たより]、左団次一座の横浜座打上げを待つて二日間開演と事極まり、」(
半九郎「横浜座の文士劇」p40(『舞台』1(4) 1918.7.11))
130-1. 田中煙亭「団、菊、左時代」(『舞台』1(2):30-36 1918.5)【
『舞台』記事一覧】
131-1.「現在は・・・大正七年とあまり変りはない。ただその日取のやりくりを、東京演劇記者界の幹事が折衝に当り、・・・/東京演劇記者会は日刊紙十四社の担当記者で構成されているが、おもしろいのは、大正七年、高沢初風が前記の文のおわりに列記した新聞も、数は十四である。/その十四紙名と、招待を受けていた人々の名をあげると、都新聞(伊原青々園、伊藤みはる)東京朝日(饗庭篁村、水谷幻花)、東京日々(桑野桃華、近藤京魚)、万朝報(田中煙亭、中内蝶二)、報知新聞(本山荻舟)、『読売新聞』(仲木貞一)、国民新聞(永井鳳仙)、時事新報(秋元柳風)、中央新聞(田村西男)、やまと新聞(山本柳葉)、中外商業新報(町田博三)、二六新聞(江沢春霞)、東京毎夕(田口桜村)、東京毎日(高沢初風)である。」(
戸板康二『演芸画報・人物誌』 pp. 163-164 青蛙房 1970)【
高沢初風「第二十二章 評判記と劇評家」 p262-263(『現代演劇総覧』文星社 1918.12.20】
132-1.「▲作者自演の失敗 十九廿日横浜座でやる文士劇の出し物中の新作「面影草」は作者が自演と云ふ広告・・・」(「演芸あさぎ幕」『読売新聞』1918.6.21 6面)
132-2. 「畠山重忠、北条時政、日本駄右衛門 田中煙亭氏 ○松助張りと言はれる人、昨年の市村座以来頻りに白く塗つて今度も逆櫓の畠山役(金僊氏)に付いた役を遽かに引受けた為め稽古無しとの事ながら相応にこなされ升た。花道の出が早過ぎたり陣床几にかけて居る間、モジ〳〵動くのは舞台慣れぬ証拠、御勉強が肝腎〳〵○先陣館に北条時政役、前幕と気が変らずに演りにくさう。三段を上る時老役の足取りは苦心らしく、ウフ、ワハの笑ひの小さかつたのは損でムつた○日本駄右衛門役は八百蔵張り、初日稲瀬川の花道で絶句、額叩きの大愛嬌、二日目は度胸を据ゑて九代目や小団次の声色を使つて居られた」(黒衣通士「文士画家大歌舞伎」p282『文芸倶楽部』24(10) 1918.7.15)【「太鼓音知勇三略」「島鵆月白波」「面影草」「ひらなが盛衰記」「近江源氏先陣館」「勧進帳」「弁天娘女男白波」 森ほのほ 小出緑水 田村西男 坂本猿冠者 永井鳳仙 森暁紅 遠藤為春 吉川呆痴】
132-3. 「此太鼓に就いて面白い話--緑水君の丈の短い処へ太鼓の釣り方が高く、仕勝手の悪さうなのを見た煙亭君、次の日は楽に手の届くやうと踏み台になるものを置いた処緑水君はさうとは知らず、大道具め邪魔な台を置いたものと、わざ〳〵避けて太鼓へ向へば、愈々撥の方が遠くなり、折角の親切を不親切にして了つたとはありさうな事なり。」(
半九郎「横浜座の文士劇」p42(『舞台』1(4) 1918.7.11)
132-4.「翌大正七年五月には横浜座に於て、更に其第二回を開演し『酒井の太鼓』『逆櫓』『勧進帳』『浜松屋』『新作面影草』等を鳳仙、緑水、西男、貞一、呆痴、猿冠者、為春の諸氏に拠つて演ぜられたのが極めて新しい事であるが、」(
「■文士劇」p317『現代演劇総覧』文星社 1918.12.20)
132-5. 【横浜の文士劇の「勧進帳」で義経と弁慶が共に笈摺を逆さに担いでいた】(「演芸あさぎ幕」『読売新聞』1918.6.24 6面)
132-6.「▲文士劇で儲けた人 先日横浜の文士劇は俳優各自数十金の自腹で行[や]つたのだが、此所に一人儲けをした者がある。夫は田村西男クンで・・・」(「演芸あさぎ幕」『読売新聞』1918.6.26 6面)
133-1.「猿冠者 対面から順に願ひます。・・・煙亭氏の朝比奈は可愛く工藤の腰巾着として結構。」(通話会「新富座の文士画家外記真面目評」『文芸倶楽部』25(4):190-200 1919.3)【「曽我の対面」鬼王 猿冠者「渡海屋」義経 清忠 知盛 鳳仙 相模五郎 梅雪 典侍局 ほのほ 入江丹蔵 為春 弁慶 猿冠者「土蜘」頼光 為春 保昌 金僊 蜘 梅雪「桜散る夜」石坂周造 猿冠者 芸者 福子 清川八郎 清忠「寺子屋」松王 暁紅 玄蕃 猿冠者 源蔵 煙亭「霜夜の鐘」杉田薫 桜村 宗庵 猿冠者 金助 ほのほ お豊 蘆江】
133-3.「永井鳳仙氏・・・舞台のはうもなか〳〵に玄つぽく、知盛などは立派な成績だつた。それは新富座であつたが、この時は通話会との合同で、序幕の曽我の対面では、久保田金僊氏の工藤、遠藤為春氏の十郎、森ほのほ氏の五郎、田中煙亭氏の朝比奈、平山蘆江氏の虎、町田嘉章氏の少将、仲木貞一氏の八幡、田口桜村氏の近江などといふ珍品があり、」(
渥美清太郎「劇評家研究 大正期のお社の人々」 p31 『日本演劇 』3(1);1月號 日本演劇社 1945.1)
133-4. 「渡欧記念と触出して昨年の一月新富座に大がゝりの『土蜘蛛』を演じて数千の見物、数千の同僚を悩ました伊坂梅雪丈、・・・」(
煙山人「演芸懐中日記」p209 『文芸倶楽部』26(3) 1920.2)
133-5.「大正八年二月の新富座では暁紅の『寺子屋』、鳳仙の『大物浦』のほか『対面』が出て、平山蘆江の虎、町田博三の少将仲木貞一が八幡三郎に扮した。仲木は、勤王劇『桜散る夜』の佐瀬春十郎にも出て、セリフにつまつたら、頭をかつらの上からコンコンと叩いた。原稿を書く時、頭を叩くと新しい考えが出る、それで叩いたのだといつた。」(
「素劇」p192戸板康二『演芸画報・人物誌』青蛙房 1970)
133-6.「▲文士劇下馬評 文士劇の「寿曽我」を見物してゐた土間の客・・・」(「演芸あさぎ幕」『読売新聞』1919.2.7 6面)
134-1.「第二十四回の演芸通話会に、定番幹事の春浦老人が欠席されたので、急に頼まれた俄書記が、お株迄も譲り受けて、所謂見たまゝ芝居のお稽古、と云つた処が、本職のお稽古見たまゝでない事は、今更らお断りする迄もなく、即ち通話会の御連中が年二回お定まりのお芝居が、此三月十九日に、専属の開花屋に催された。其お稽古の見たまゝをチヨツピリ斗り御紹介する。開花楼の鶴の間と呼ぶ大広間の、机を前に控へて、作者気取りに坐つたのは猿冠者君・・・」(「当世素劇の稽古」p202-『文芸倶楽部』25(7) 1919.5.1)【「鞘当」不破 文鳳 山三 秋光「丸橋忠弥」忠弥 ほのほ 藤四郎 紫葉 伊豆守 多加志「修善寺物語」頼家 右近 夜叉王 猿冠者 桂 ほのほ】
136-1.「さゝ鳴 (三巻一号)俚謡専門誌として定評あり煙亭、士峰、秋花、紫水、きいち諸氏の選吟満載備前片上町笹鳴吟社」(
「新涼」p61 『食糧評論』7(9) 食糧評論社 1922.9)
137-1. 「吉例とあつて此の正月の末に、新富座に於て文士画家劇を二日開けた。・・・相談の決まつたのが正月も中旬過ぎで、開演は廿四五の両日とあり、・・・狂言は一が曽我の石段とだんまり、二が盛綱陣屋、三が新作の関の扉、四が岡崎、五が河内山、六が雪月花で(浅妻船、鷺娘、鞘当)といふ順序。役者は鳥居清忠、田村西男、永井鳳仙、遠藤為春、田口桜村、野崎迂文、平山蘆江、坂本猿冠者、田中煙亭、これに新顔として演芸通話会の方から三宅孤軒と南条南花、銀鈴会の中から柳吉三郎、吉田喜久太郎、この四人が此一座として初舞台を踏むので、序幕に鳥居永井の両君が口上を述べる。右の外、帝劇から村田嘉久子が岡崎のお谷に馳来参じ、鈴木福子が新作関の扉の小町姫を勤め亦雪月花の浅妻は山岸静江、鷺娘は藤間静枝といふ美しい色彩。乍憚斯く申す暁紅も、盛綱一役と、岡崎で夜廻り杢助といふ役を相勤め・・・、・・・煙亭君の時政の上手さ・・・其他桜村煙亭猿冠者三君の旅の男女・・・煙亭君の高木小左衛門、しんみりと締め・・・さて花の鞘当は煙亭君の不破成田屋・・・」(
森暁紅「吉例文士劇から」pp.98-99『新演芸』5(3) 1920.3)
137-2. 「大正九年一月二十三日、新富座に於ける文士画家合同劇の舞台稽古を拝見して、正に判然と驚嘆したのです。」(江見水蔭「文士家劇 盛綱拝見」p234 『文芸倶楽部』26(5) 1920.4)
138-1. 「◇通話会の芝居 廿九卅両日市村座で華々しく開催」(『読売新聞』 1920.11.1 6面)【「伊達安芸尽忠録」安芸 平山 甲斐 三宅 板倉 田村 浅岡 南条 片倉 岡「万久の一夜」公卿 鳥居 太刀持 田村 白拍子 南条「四千両」富蔵 坂本 □十郎 岡「日高川」清姫 岡】
138-2. 「通話会劇といふ名の下に集つた通人粋士文士画家の大連、『伊達尽忠録』と『四千両』は市村座の本興行をそのま〃演つて、本職との腕くらべを見せ、その他、田村西男さんが自ら書いて自ら演ずる『承久の一夜』といふ新作があり、瀬川蘆江といふ立女形で納つてゐる平山さんの引退披露劇と称する『日高川』があつて、二日間とも満員の盛況だつた。写真は上図は平山蘆江氏の『日高川」の清姫で、中図は『四千両』の岡啓文氏の藤十郎と坂本猿冠者氏の富蔵で、下図は『承久の一夜』の田村西男氏の公卿と鳥居清忠氏の公卿でいづれも喝采を博したものです。」(「[口絵写真]市村座の素劇」『新演芸』5(12) 1920.12.1)
138-3. 「通話会の連中が市村座で開演した『承久の一夜』は、朔平門外の変を脚色したもので」三田村鳶魚「十一月興行の維新物三種」(『演芸画報』7(12) 1920.12 『三田村鳶魚全集』20 p175による)
139-1.「市村座の通話階劇 演芸通話会の面面が、六月廿九、卅の両日市村座で素劇を演じ、例によつて珍型新工夫沢山の面白い芝居を観せた。出演者は、伊坂梅雪、鳥居清忠、田村西男、田中煙亭、坂本猿冠者の諸氏で、演物は「相馬平氏二代譚」「鎌倉三代記」新作「討入前後」「保名」「盲長屋」「五條橋」だつた。」(「演芸消息」p86 『演芸画報』8(8) 1921.8.1)
139-2. 「前月の市村座の通話会劇の話が出て、荒川[男女蔵]は舞台稽古をちよつと覗いたが、あアいふ時に、向う正面に陣取つて、思入れ怒鳴つたんら、嘸ぞ面白いだらうと、相変らず舞台に似ない猛烈な事をいふ。」(黒顔子「気狂ひがぞろぞろ 帝劇の楽屋待合所」p23 『新演芸』6(9) 1921.9)
140-1. 田中煙亭「花柳哀話 紅蔦模様」(『ポケット』4(13) 1921.12)【
『ポケット』記事一覧】
141-1. えむてい「裏桟敷」(『芸術界』1(1):12-15 1922.1.1) 【目次は田中煙亭】
143-1. 「[大正11年]六・二八~二九 本郷座 増補忠臣蔵 本蔵下屋敷の場 [配役]演芸通話会。若狭之助(田中煙亭)、本蔵(田中友昇)、三千歳姫(相亀抱玉)、井波伴左衛門(富岡紫葉)」(「歌舞伎等上演年表(近現代)」p412『忠臣蔵』第5巻)
143-2. 【通話会の千本桜 本郷座 「川連館」 忠信 梅雪 義経 孤軒 静 南条 横川 鳥居 悪法師 坂本 「伊勢音頭」貢 坂本】(『読売新聞』1922.7.4 7面)
144-1. 「下萌 ◇山崎蓼水君 下町社の重鎮、一月十一日文芸部を訪はれ東都の近況につきて語る、田中煙亭氏の去れる万朝社より五味松塘氏も昨秋に退社されし由、共に惜む、」(
「下萌」p62 食糧評論 8(2) 食糧評論社 1923.2.1)
145-1. 「文士劇俳優三役番付 東関脇 田中煙亭」(
「文士劇俳優三役番付」p17 東京番附調査会編『今古大番附 : 七十余類』 文山館書店 1923.4.13)
146-1.「 [大正十二年]◎六月二十七日、演劇通話会開催、二日間」(
「明治座興行年表」p50 木村錦花『明治座物語』歌舞伎出版部 1928.3.1)
146-2. 「通話会劇 明治座 ◇明治座に開演の通話会の芝居を見る。大入満員は兎に角盛んなものである。処で一体素劇なるもの愛嬌をもつて終始するものこそその上乗なるものと心得て居るがその点ではこの素劇、いさゝか勝手が違ふやうだ。/◇出しものは六つ、第一が中内氏作「大尉の娘」だつたが田村秋子の露子が大出来で本職の女優もはだしと云ふ腕前を見せた処確にお父つあんの西男氏よりは役者が二三枚上である。・・・煙亭氏の村長猿冠者の村の物も巧なもの「盛綱陣屋」では暁紅氏の盛綱は確なもの、和田兵衛は煙亭で立派。」(「演芸界」『読売新聞』 1923.7.2 6面)【「大尉の娘」慎蔵 三宅孤軒 露子 田村秋子 村長 田中煙亭 村の者 坂本猿冠者「盛綱陣屋」盛綱 森暁紅 和田兵衛 田中煙亭 篝火 南条南花 早瀬 尾竹竹魚 小四郎 筆子 信楽太郎 瀬戸英一 伊吹藤太 まこと 軍兵 水谷八重子・田村秋子「日蓮佐渡の一日」日蓮 長谷川清寿 】【「確か、五月の末の明治座だったと思います。この文士劇は、田村秋子さんのお父さんの田村西男さん、坂本猿冠者さんが中心で、『大尉の娘』、『盛綱陣屋』、それに新作の時代劇『金鍔』が出ました。私は『金鍔』の何とかいう娘をやりました。この時の『大尉の娘』は田村秋子さんが露子で出演されていました。田村さんはこれが初舞台で、私にとっても初対面でしたが、すぐに仲よしになりました。『盛綱陣屋』では二人で雑兵の役をかってでましたが、何でも歌舞伎の雑兵が着る筒袖では引立たないからといって、鎧をつけてでました。」
水谷八重子『芸ゆめいのち』 p35 白水社 1956)】
146-3. 「今日も、ぼくは、三越劇場の楽屋で”三越現代劇”に出演している田村秋子君と、いまは亡き三宅孤軒について話し合った。・・・大正の中ごろ、東京に”演芸通話会”という素人芝居の団体があり、田村西男だの、坂本猿冠者だの、田中煙亭だの、森暁紅だの、そしてこの三宅孤軒だのが中心になり、年に一二度、都下の大きな劇場を借り、二三日位ずつ公演をしたのである。・・・だから切符を捌くにしても、自然、そこに頂点が置かれ、従って、出しものでも、歌舞伎八分の、あと二分といえどもしょせんは、出演者の道楽以上にでない、かいなでの、毒にもくすりにもならない〝新作”でしかなかったこと”大尉の娘”がそのいい見本だったのである。」(
「柳の芽」p37- 久保田万太郎『よしやわざくれ : 久保田万太郎小品集』青蛙房 1960)
146-4.「『大尉の娘』思ひ出 ・・・変つた所では、これも震災前の事だが通話会の連中が出して、三宅孤軒氏の大尉、今築地小劇場にゐる田村秋子君のお露等がある。秋子君のまだ丸つ切り素人時代の事だが、素晴らしい出来で大いに評判になつた。」(井上正夫『読売新聞』 1927.9.2 5面)【「『大尉の娘』思ひ出 (『読売新聞』1927.9.1 6面)のつづき】
146-5. 「▲井上の深謀 通話会で大尉の娘を上演、父を三宅孤軒、娘露子を田村秋子、毎夜毎夜深更まで開華楼で稽古をしてゐた。」
田村西男「思出深い素人芝居・(下)」p56『演劇界』5(1) 1947.2.1
147-1. 「あの震災までは、私も肩衣をつけて月に一度や二度催しに出た事ではあり、・・・」(
田中煙亭「思ひ出ばなし」p31 『太棹』93 1938.2.15)
148-1.「震災のあくる日のことだった。市谷台町に叔父の田中煙亭が棲んでいたので見舞に行くと、叔父は、近所の平山蘆江さんや俳人の鹿塩秋菊さん、その鹿塩さんのところへ見えていた浜村米蔵氏など、みんな家族ぐるみで、余震があるので、原っぱに避難していた。私も、その夜は一緒に野宿をしたが、何か取りに叔父の家へ行くと、空っぽの家の軒先きで、風鈴だけが涼やかな音をたてていたのも、遠い昔の想い出の一つである。」(円城寺清臣「四谷だより」p33 『江戸から東京へ』5 1969.7.31)
150-2. 「帝国新報社 部員 田中基臣」(
「第参部新聞機関編」 p15 日本電報通信社編『新聞総覧 大正14年』日本電報通信社 1924)
151-1. 「恰ど演芸画報から『小磯ケ原』の見たまゝを頼まれたので、あれは四月三日であつたと思ふ、二度目に見直しに行つたのであつた。」(
田中煙亭「まざ〴〵と」p148 岡田孤煙編『宗之助の面影』伊藤都喜 1925)
151-2. 「月の三日 突ツかける木戸前の群衆を、押分けるやうにして大国座の見物席へ紛れ込む。久し振で宗之助に会ひたいと思つたが、まだ楽屋入をしないとの事で、舎弟の『知盛』を見物する。」(
黒顔子「勘弥と宗之助 吉右衛門と三津五郎」p62 『新演芸』9(5) 1924.5)
151-4. 「お里に扮したまゝ 突如、宗之助逝く 『幕を幕を』と叫び乍ら 『壺坂』を開演中に脳溢血 悲歎にくれる父親訥子…昨七日午前三時四十五分大国座の楽屋で脳溢血の為死去した」(『読売新聞』1924.4.8 5面)
152-1. 「三円五十銭の税金を収めて八等俳優の鑑札を頂戴した、それから雑用付三等片迎ひといふ約束の三等乗車券、東京より松坂までといふ赤切符を太夫元の沢村其答君から頂戴すると同時にすつかり役者になつた心持がする。大正十三年七月二十五日の朝の三等と級が東京駅で仕立てられた時、私も俄仕立の役者になつた。」(
「文士劇巡業」 『劇と映画』2(10) 1924.10)【 津 松坂で公演 平山蘆江、坂本猿冠者、田村西男、三宅孤軒、伊坂梅雪、鳥居清忠、南条南花】【鑑札】【「ところが、こゝに一つの問題が起つたのは、私たちが普通の劇場の舞台に立つて、幾日間の公演を続ける以上は、会員組織などといふ名儀では興行を許可することは出来ない、警察ではこれを普通興行と認めるといふのである。さうなると、私達も本職の俳優と同様に、俳優の鑑札を受けなければならない事になる。これには少々困つたが、かうなれば仕方がない。私達一同は進んで鑑札の下付を求めることにした。 ところが、こゝに又困つたのは、在来の慣例として、俳優の鑑札下付を受けるには俳優組合の連印がなければならないと云ふのである。その連印を求めるには、俳優組合に加入しなければならない。俳優組合に加入するには、在来の俳優の弟子にならなければならないと云ふのである。この場合であるから、寿美蔵でも新十郎でも自分の弟子にして呉れるかも知れないが、毎日新聞社として我が社員が俳優の弟子になるのは困るといふ。幸に毎日新聞社には大庭善治といふ法律に明るい記者がゐたので、この大庭君に頼んで区役所に俳優鑑札下付の交渉をして貰ふことになつた。 私は麹町に住んでゐるので、大庭君は先づ麹町区役所に交渉してくれた。何分在来の慣例があるので、最初はなかなか面倒であつたが、どうにか斯うにか無事に解決して、私が真先に鑑札を受けることになつた。今日は最低を八等としてゐるやうであるが、その当時の最低は九等であつた。なんでも鑑札さへ貰へばいゝと云ふので、私は九等俳優の鑑札を受けたのである。その鑑札面には芸名岡本綺堂と記入されてあつた。それが先例となつて、他の人々も皆それぞれに芸名を届け出て、その居住地の区役所から滞りなく九等俳優の鑑札を受けた俳優組合を離れて鑑札の下付を受けたのであるから、一等でも二等でも勝手次第であるが、税金の高いのを恐れて、いづれも九等に甘んじたのであつた。」
岡本綺堂「若葉会文士劇と東京毎日新聞演劇会」p76-77 『芸術殿』2(11) 1932.11】
152-2.「文士画家から成る通話会一行が始めて旅興行に出ました、伊勢の津と松坂で狂言は総べてゞ七種、・・・」(
「旅に出た文士劇」『劇と映画』2(9) 1924.9)【写真 男之助 平山蘆江 松王 鳥居清忠 夜叉王 三宅孤軒 河内山宗俊 坂本猿冠者 治兵衛 田村西男 天明太郎 伊坂梅雪 政岡 南条南花】
153-1.「煙亭母堂逝く 煙亭田中基臣氏母秀子(七四)は十一日自宅にて永眠した(『読売新聞』 1924.10.13 5面)
155-1. 「▲煙亭曰 松原氏の発見された木堂先生の書簡に就て、想起したのは、当夜上野精養軒に於ける小笠原プロダクシヨン製作映画『水兵の母』試写会には、小生も某新聞演芸記者として、[小笠原]長生子爵の御招待に依て罷り出て居つた。どういふ訳か、我々記者以外に、高橋、犬養両大臣が、来賓として来て居られ、写真を見ての休憩時間に、小生は予て進歩党以来、記者として屢々お眼にかゝつて居た木堂先生と、久闊を叙しつゝ、四方やまの雑談を交はした。その傍に、高橋翁は、ニコニコして短かい足を椅子から宙にブラ〳〵させてをられたのが未だ眼底に残つて居る。同席の演芸記者達の誰れであつたか我々の仲間で犬養さんと談をするのは、煙亭氏一人だね、と言つてゐたのを覚えてゐる。」(
松原豊「木堂先生の実名」p52 『痴遊雑誌』 3(8) 話術倶楽部出版部 1937.8)
157-1. 「▲新規東洋画報社 七月創立の其の社の内部左の如し ・・・田中煙亭」(
「雑」p8 芸天 (19) 芸天社 1925.8)
158-1.「三月二十九日 それより四時市村座の通話会劇を見て、其夜十一時帰宅。/◇大正十五年三月廿九日三十日二日間午後一時開演 二長町 市村座/演芸通話会演劇 番組・・・」(
花柳寿太郎 小島二朔編『鶯亭金升日記』 pp.256-257 演劇出版社 1961)【全番組が掲載されている。 煙亭は「鞍馬山だんまり」の西国太郎のみ。】
158-2.「演芸通話会 市村座 二十九日三十日両日午後一時から」「第一『鞍山だんまり』一幕 第二『先代萩』御殿より床下まで 第三『先陣問答』一幕 第四『千本桜すしや』一幕 第五『戻り橋』常磐津連中第六『法界坊』二幕」「演芸欄」(『読売新聞』 1926.3.16 5面)【法界坊 田村西男 権太 坂本猿冠者】【「西男の法界坊は諸事六代目の教へを受け」とある】
158-3. 「久振りの通話会 震災以来久し振りの通話会が市村座に催された。・・・◇兎に角誰れも彼れも本職はだし、たゞ難を云へば上手過ぎて愛嬌のないのが素劇としては瑕とでも云ふか(与)」(『読売新聞』 1926.4.3 5面)【「先陣物語」高綱 孤軒 子之介 木秀 姉おみの 南花 小太郎 竹魚 薄衣 きよみ「すしや」権太 猿冠者 お里 歌子 弥助 竹魚 梶原 孤軒 若葉内侍 きよみ「戻橋」綱 猿冠者 早百合 かね子「法界坊」法界坊 西男 長九郎 猿冠者 要助 きよみ】
160-1. 「最初の文士劇 (昭和二年二月二十三日午後七時二十五分より-東京放送局にて)・・・然う請合つたのが、東京薬学校の卒業生で、安川政次郎といふ、今は故人ですが、其頃のハイカラ男。これは『ラヂオ新聞』の田中煙亭さんの親類で、煙には矢張縁があります。」(
「最初の文士劇」p22 (水蔭江見忠功『水蔭講演全集 第1巻(明治文壇逸話) 江水社 1934)
162-1. 「脚本朗読 午後八時四十分ごろ 修善寺物語 放送するのは通話会」 「配役 面作夜叉王 坂本猿冠者 源左金吾頼家 田村西男 かへでの婿春彦 黒顔子 金窪兵衛尉行親 三宅孤軒 夜叉王の娘かつら 南条南花 同かへで 尾竹竹魚 下田五郎景安 鈴木貫 修善寺の僧 加藤一若 軍兵 大勢 解説 鳥居清忠 放送指揮 伊坂梅雪」 // 「にらめつこに根負けして放送局が通話会にお叩頭」(『読売新聞』 1927.10.5 5面「ラヂオ版」)【写真 「通話会のお歴々黒顔子、田村西男、坂本猿冠者、加藤一若、三宅孤軒、南条南花、鈴木貫、尾竹竹魚」】
163-1.「放送舞台劇 午後八時五十分ごろ 霜夜鐘十字辻占 場所 上野三枚橋の場 配役(発声順) うどんや 石田昌夫 手代与七 加藤一若 按摩宗庵 天狗小僧金助 坂本猿冠者 巡査杉田薫 田村西男 囃子連中 杵屋光一 望月太意之助社中 解説 田村西男」(『読売新聞』 1927.11.12 9面「ラヂオ版」)【三宅孤軒 全国料理新聞主幹、坂本猿冠者 神田明神開華楼主人 素劇界では殊に有名、田村西男 中央新聞編輯主幹 築地小劇場の田村秋子の父、加藤一若 川柳家 明神下下駄種屋、石田昌夫 三宅孤軒の息】【写真 「田村西男、坂本猿冠者、加藤一若、三宅孤軒」】
164-1. 「脚本朗読 午後八時 霜夜鐘十字辻占 安泊丹波屋の場 通話会連中が放送 配役(発声順) 丹波屋お熊 田中黒顔子 六部義太八 富坂美京 同左見六 田村栄造 口入婆アお百 石田昌夫 古銭買泥蔵 尾竹竹魚 六浦正三郎 坂本猿冠者 宗庵女房お豊 平山蘆江 娘お竹 沼尻富江 按摩宗庵 三宅孤軒 天狗小僧金助 蔦谷きよみ 角彫師鈍斎 加藤一若 杉田薫 田村西男 解説 鳥居清忠 指揮 伊坂梅雪 竹本連中 太夫 鈴木木秀 三味線 豊沢猿七 鳴物連中 望月太意之助社中」(『読売新聞』 1927.12.22 9面「ラヂオ版」)【写真 「坂本猿冠者」】
165-1.【脚本朗読 午後九時ごろ 因果物師 通話会連中が放演 河竹黙阿弥作 場景 因果物師内の場 配役(発声順) 見世物師六部兼 池田このこ 同岩戸安 加藤一若 同じやがたらお角 曾根崎惣太 因果師野晒し小兵衛 坂本猿冠者 家主閻魔の正兵衛 石田昌夫 六之助弟七之助 田村栄造 洗濯屋の娘お吉 蔦谷きよみ 犯人見てくれ権次 田中黒顔子 古道具屋嘉兵衛 綾瀬潮江 因果小僧六之助 三宅孤軒 福島屋抱へかしくのお園 尾竹竹魚 解説 田村西男 鳴物望月太意之助社中 放送指揮伊藤梅雪(『読売新聞』 1928.2.15 10面「ラヂオ版」)【写真 「綾瀬潮江、池田このこ、加藤一若、三宅孤軒、坂本猿冠者、尾竹竹魚、田村栄造、曽根崎惣太、蔦谷きよみ、田中黒顔子、石田昌夫、望月太意之助」】
166-1.「 [三月]」三十日(金)明神開華楼に開きし、開華座稲荷祭試演会(演芸通話会)に、猿冠者一若等の柳人盛に舞台上の手腕を発揮」(
「京浜川柳史」p60 『川柳きやり』 9(5) 川柳きやり吟社 1928.5)
167-1. 「景物詩 午後七時二十五分から 花の東京 作者並に放送指揮 北沢楽天 景物詩「花の東京」は上野駅の混雑から順次諸君のお耳に聴えて行きますが、大体を説明しますと、御大礼記念博覧会見物に上京した金山番四郎氏の一日の見物課程を書いたものであります。・・・お芝居は通話会の連中にご厄介になる芝居は鞘当をやりますが、はその役割は不破伴左衛門を田中黒顔子 [こくがんし]、名古屋山三を坂本猿冠者、留男を三宅孤軒氏が勤め、・・・」(『読売新聞』 1928.3.31 5面「ラヂオ版」)【写真 「坂本猿冠者、黒顔子、三宅孤軒」】
168-1.「創刊号の昔から、ともかくもお手伝ひをさせて貰つた私、・・・」(
田中煙亭「百号に達した喜び」 p25『太棹』100 1938.12.10)、「・・・それは、僕のアタマに好材料が無く、何か少しあれば、創刊以来出来るだけお助する『太棹』社へ送つてしまうので・・・」(
煙亭「塵外居放談」p21 『太棹』131 1941.12.10)【なお『太棹』には演芸通話会の坂本猿冠者、三宅孤軒、田村西男、平山蘆江、円城寺清臣の名前が見られる。(
『太棹』目次』)】
168-2.「暑中御伺 太棹社 主幹 富取芳河士・・・/客員 浜村米蔵 岡田翠雨 田村西男 田中煙亭 中野三允 是沢悟園 坂本猿冠者 三宅孤軒 平山蘆江 仙台八雲」(『太棹』27・28 1931.8.7)、「謹賀新年 太棹社 主幹 富取芳河士・・・/客員 田村西男 田中煙亭 薄田斬雲 小泉蛙鳴 安藤鶴夫 斎藤拳三 三宅孤軒 平山蘆江」(『太棹』72 1936.1.25)
170-1. 「脚本朗読 午後九時ごろ 敵討天下茶屋聚 出演通話会連中 その他竹本鳴物連中 配役(発声順) 早瀬伊織 田中煙亭 早瀬次郎 田村栄造 仲間腕助 中藤英哉 安達元右衛門 坂本猿冠者 東間三郎右衛門 三宅孤軒 解説 田村西男 放送効果 円城寺清通 放送指揮 伊坂梅雪 竹本連中 太夫 竹本鶴寿太夫 三味線 豊沢猿七 鳴物連中 望月太意之助社中」「今ばんは久し振りにおなじみの通話会連中が「 敵討天下茶屋聚」と云ふものを脚本朗読で放送します。」(『読売新聞』 1928.8.17 9面「ラヂオ版」)【写真 「通話会連中の『敵討天下茶屋衆』のお稽古」】 【刀を持っての四人の立合い 名前は付けられていないが 田中煙亭、田村西男か】
171-1.「当昭和三年八月二十七、八、九日の三日間午後二時から明治座で開演、一番目「敵討天下茶屋」、中幕上「青山播磨」同じく下「摂州合邦辻」、二番目江戸育お祭佐七と四つとも揃へも揃つて殺害芝居、そんなことは何うでもよいとして、同劇は皆素人放れがして、而かも鈍帳臭くなく、偶々半熟があつてもそれがまだ玉子と来て居るところが納得される、・・・/三宅孤軒、田中煙亭(元と塵外と号す)等は、俳句の上で、これ又た明治時代からの旧馴染・・・/・・・煙亭が伊織の顔の作り、面長なので鬘との調和がとれ、それに声が如何にも若々としてゐた、」(
中野三允「通話会劇」 p23 『太棹』3 1928.9.15)「其後孤軒から太棹社を通じて、「青山播磨を見て」の前置で俳句を揮毫して貰ひたいと短冊を送て来てある。」(
中野三允「随感録 青山播磨守の芝居を見て」 p37医文学 5(1)(42) 医文学社 1929.1)【「敵討天下茶屋」元右衛門 坂本猿冠者 伊織 田中煙亭 東間三郎左衛門 田村西男 掃部之助 南条南花 弥助 永井鳳仙 順次郎 栄造 腕助 中藤英哉 染の井 蔦谷きよみ「青山播磨」播磨 三宅孤軒 腰元おきく 君子 後室真弓 南条南花「摂州合邦辻」合邦 永井鳳仙 妻 坂本猿冠者 玉手御前 南条南花 奴入平 東藤 俊徳丸 尾竹竹魚「お祭佐七」佐七 坂本猿冠者 倉田伴平 田村西男 小糸 小日向きよ子 藤亭】
171-2.「 [昭和三年 ]八月廿六日 曇、驟雨。・・・明治座へ義理でいつたのが、一番目の「天下茶屋」に、友人西男、「当麻」に扮して、この一座にはなくてはならぬ愛嬌者なり。--永井鳳仙、「弥助」。坂本猿冠者「元右衛門。烟亭の「伊織」。まづいゝ方だ。--三宅の「青山播磨」出色の出来。楽屋へ行く。素人連、今日は、すつかり役者気どりで、此方がお社の方へ廻はる」(
喜多村九寿子編『喜多村緑郎日記』 p373 演劇出版社 1962)
171-3.「通話会の劇 (一)中内蝶二 ・・・今度の明治座の狂言の立て方なぞも、一番目が『天下茶屋』四幕、中幕上『青山播磨』中幕下『合邦』二番目『お祭佐七』と、立派な本式の芝居興行陣立てである。・・・煙亭の伊織は形にもセリフ廻しにもウマ味がある。その輪郭がもう一とかさ大きければ大したものだ」 (『読売新聞』 1928.8.28 10面「演劇欄」)
171-4. 【写真説明「通話会の人々 八月の下旬に明治座に公演した演芸通話会の狂言で右から、『天下茶屋』中藤英哉氏の椀助、坂本猿冠者氏の元右衛門、田中煙亭氏の伊織、田村西男氏の東間、同栄蔵氏の源次郎、『皿屋敷』三宅孤軒氏の青山播磨、蔦谷きよみのお菊、『合邦』永井鳳仙氏の合邦、南条南花氏の玉手、『お祭佐七』の坂本猿冠者の佐七、小日向きよ子の小糸」】(
「九月東京劇壇」 p2 『劇と映画』 6(10) 国際情報社 1928.10)
172-1.「 [お聴きになつた義太夫の御感想] 近頃とんと聴きませんので、別に感想と申すやうなものを持合せません。・・・近頃のラヂオの義太夫は、全く愛想の尽きたものです、」(
田中煙亭「名士義太夫観」p13 『太棹』3 1928.9.15)
173-1.「午後一時半ごろ 放送舞台劇 岡本綺堂作 室町御所 演芸通話会連中 田村西男解説」(『読売新聞』1928.12.30 9面「ラヂオ版」)【配役掲載なし】
173-2.「 [十二月]三十日(日)猿冠者、一若等「室町御所」をAKより放送」(
「京浜川柳史」p62 『川柳きやり』 10(2) 川柳きやり吟社 1929.2)
174-1. 「煙亭 田中基臣(弁護士)/ 餅好きの翁となりて三ヶ日」(
「賀状のいろ〳〵」p88 『法曹公論』 33(2)(347);2月號 1929.2.1)
175-1. 「脚本朗読 午後九時ごろ 三人吉三 本郷火の見櫓の場 黒幕座連中出演 配役 お坊吉三 坂本猿冠者 お嬢吉三 田中煙亭 和尚吉三 三宅孤軒 八百屋久兵衛 石田昌夫 釜屋武兵衛 長谷川清寿 木戸番時助 加藤一若 蛇山長治 尾竹竹魚 其他熊蔵、金太、長沼、捕手等、竹本連中 太夫 竹本調太夫 三味線 豊沢猿七 ツレ弾 鶴沢市三郎 清元連中 浄るり 清元家枝太夫 浄るり 清元梅代太夫 三味線 清元喜久造 上調子 清元梅助 望月太意之助社中 狂言方 竹柴清吉 解説 田村西男」(『読売新聞』 1929.2.18 3面「ラヂオ版」)【番組表、本文とも黒幕座とあるが、演芸通話会の誤りか】
175-2. 「◇坂本猿冠者 田中煙亭 加藤一若の三君 二月十八日夜JOAKより三人吉三放送」(
「東西南北」p63 『川柳きやり』 10(3) 川柳きやり吟社 1929.3)
175-3. 「 [二月]十八日(月)猿冠者、煙亭、一若等の諸氏によりAKより三人吉三を放送」(
「京浜川柳史」p62 『川柳きやり』 10(4) 川柳きやり吟社 1929.4)
176-1.「東京毎夕新聞 編輯局 ラヂオ編輯部 田中基臣」(
「第参部新聞機関編」p13 日本電報通信社編『新聞総覧 昭和4年』 日本電報通信社 1929.5.20)
177-1.「脚本朗読 午後八時 天衣紛上野初花 書院の場から玄関の場まで 通話会連中出演 配役(発声順) 高木小左衛門 田中煙亭 宮崎数馬 尾竹竹魚 大橋伊織 加藤一若 黒沢要 長谷川清寿 米村伴吾 石田昌夫 堀江新六 鈴木貫 河内山宗俊 坂本猿冠者 松平出雲守 南条南花 近習 三宅辰雄 北村大膳 三宅孤軒 解説 田村西男 放送指揮 伊坂梅雪」(『読売新聞』 1929.5.28 9面「ラヂオ版」)
177-2.「 [五月]廿八日(火)夜、AKより通話会の演劇放送「河内山」に猿冠者、一若氏等中心出演」(
「京浜川柳史」p53 『川柳きやり』 10(7) 川柳きやり吟社 1929.7)
178-1.【脚本朗読での田村西男の解説放送後に、『太棹』に田村西男の「芝居ばなし」が掲載されている。(「三人吉三」 1929.2.18放送 6号(1929.6.15)掲載、「天衣紛上野初花」1929.5.28放送 7号(1929.9.15)掲載、「直助権兵衛」1929.8.8放送 8号(1929.9.15)掲載、「蔦紅葉宇都谷峠」1929.11.24放送 11号(1930.1.12)掲載、「曽我綉侠御所染」1930.2.14放送 14号(1930.5.7)掲載、「裏表春着伊達織」1930.7.1放送 16号(1930.7.28)掲載)】
179-1. 「平凡な夏でした。例の演芸通話会一座で新潟へ乗込み新潟劇場で芝居をしてゐました。一行中の田中煙亭君が暑さに当つたので急に役がふへたりなんかして面白おかしく、・・・(三宅孤軒)」(
「去年の夏 -諸家来信、順序不同」p25 『春泥』 (6) 春泥社 1930.8)
179-2. 「新潟へ行つた時、土地の芸妓連中の地で『勧進帳』を中幕に据へ、煙さんは富樫を勤める事になつてゐたが、」(
三宅孤軒「故田中煙亭を偲ぶ」p11『このみづ』復興4 1947.3)
180-1.「放送舞台劇 午後八時 直助権兵衛 第一場佐々木家奥座敷の場 第二場聖堂前の場 演芸通話会出演 配役 直助権兵衛 坂本猿冠者 佐々木弥太郎 三宅孤軒 お春 南条南花 お春の母お豊 田中煙亭 刀屋伝八 加藤一若 若旦那徳次郎 尾竹々魚 手先捕手 大勢 作並解説 田村西男 指揮 伊坂梅雪 鳴物 望月太意之助社中」(『読売新聞』 1928.8.8 10面「全国中継放送」)
181-1.「脚本朗読 午後八時五十分 蔦紅葉宇都谷峠 配役 提婆の仁三 坂本猿冠者 弥次馬の喜太 田中煙亭 紅葉見物甲 加藤一若 同乙 田辺光郎 若い者弥太 長谷川清寿 番公 三宅辰夫 丁稚三太 尾竹竹魚 口入婆アお百 田中煙亭 文弥母おりく 田辺光郎 伊丹屋十兵衛 三宅孤軒 鳴物連中 望月太意之助社中 解説 田村西男」(『読売新聞』 1929.11.24 9面「ラヂオ版」)
182-1. 「ラヂオ風景(午後八時より)看一看戯場内外 [のぞきみるかぶきのうちそと] 新派男女優連中演芸通話会合同出演 配役 梅王 坂本猿冠者 桜丸 田辺光郎 松王 田中煙亭 時平公 加藤一若 A 木下録三郎 B 花和幸一 仕丁 長谷川清寿 C 渡辺一郎 D 吉岡啓太郎 E 山田巳之助 F 雪岡光次郎 甲 瀬戸英一 乙 若林信男 事務員一 梅田重朝 同二 高梨俵堂 老人甲 大東鬼城 同乙 松本要次郎 子供A 伊藤薫 母 広瀬澄子 男一 吉永豊次郎 女給い 秋元梅子 同ろ 西条静子 給仕 松下誠 富樫 三宅孤軒 判官 尾竹竹魚 浄るり 豊竹生駒太夫 お囃子連中 望月太意之助社中 作並指揮瀬戸英一」(『読売新聞』 1929.11.29 5面「ラヂオ版」)【写真 「ラヂオ風景の本読はこんな具合!!」】【11人が台本を前に坐り、後に12人立っている】
183-1.「 [昭和五年一月]十九日(日)くろご朗読会を復活し其の更新第一回を午後零時半より上野松坂屋七階に開催、一若猿冠者煙亭等活躍す」(
「京浜川柳史」 p67 『川柳きやり』 11(2) 川柳きやり吟社 1930.2)
184-1.「放送舞台劇 午後九時 曽我綉侠御所染 五条坂出逢の場 演芸通話会出演 配役 御所五郎蔵 坂本猿冠者 子分梶原平兵衛 南条南花 同荒蔵 野口信 同秩父重助 田辺光郎 同太郎次 尾竹竹魚 星影土右衛門 三宅孤軒 門弟素兵太 長谷川清寿 同多九六 加藤一若 同五平次 三宅辰夫 同喜六太 鈴木貫 甲屋与五郎 田中煙亭 解説 田村西男 鳴物連中 望月太意之助社中」(『読売新聞』 1930.2.14 9面「ラヂオ版」)
184-2.「 [二月]十四日(金)AKより曽我綉侠御所染を放送、猿冠者一若煙亭氏等によりて」(
「京浜川柳史」p69 『川柳きやり』11(4) 川柳きやり吟社 1930.4)
185-1.「□ [二月]十五日(火)上野松坂屋七階ホールにて、くろご朗読会更新第二回あり、猿冠者、一若、煙亭等の諸氏活躍、三月には雀郎氏の講演「春芝居と川柳」がある筈」(
「京浜川柳史」p61『川柳きやり』 11(3) 川柳きやり吟社 1930.3.1)
186-1.「 [四月]十九日(土)くろご朗読会更新第四回を午後零時半より上野松坂屋七階大ホールに開き、猿冠者一若煙亭の諸氏活躍」(
「京浜川柳史」p69 『川柳きやり』 11(6) 川柳きやり吟社 1930.6)
187-1.「 [四月]同日 [二十二日、午後三時より明神開華楼に演芸通話会の試演会あり、猿冠者一若等の柳士舞台に登る」(
「京浜川柳史」p69 『川柳きやり』 11(6) 川柳きやり吟社 1930.6)
188-1. 「脚本朗読 午後九時 極付幡随長兵衛 花川戸長兵衛内の場演芸通話会連中 配役 幡随院長兵衛 坂本猿者 保昌武者之助 田中煙亭 唐犬権兵衛 三宅孤軒 出尻清兵衛 田村西男 極楽十三 野口信 地蔵の三吉 田辺光郎 雷重五郎 尾竹竹魚 小仏小平 長谷川清寿 閻魔大助 加藤一若 瘡守の団六 三宅辰夫 神田の弥吉 鈴木貫 長兵衛女房お時 南条南花 下女およし 桜井真一 長兵衛忰長松 田辺小光郎 解説及指揮 田村西男 竹本連中 豊沢猿七社中 鳴物連中 望月太意之助社中」(『読売新聞』1930.4.24 9面「ラヂオ版」)【写真 「脚本朗読の通話会連中」】【写真は1927.10.5の写真と同一】
188-2.「 [四月]廿四日(木)夜AKより脚本朗読極付幡随長兵衛を演芸通話会の手に依て放送、例に依て猿冠者一若等の諸柳士出動」(
「京浜川柳史」p69『川柳きやり』 11(6) 川柳きやり吟社 1930.6)
189-1.「 [六月]十五日(日)正午より上野松坂屋に第六回くろご朗読会 猿冠者、一若、煙亭等の諸氏活躍す」(
「京浜川柳史」p70『川柳きやり』 11(8) 川柳きやり吟社 1930.8)
189-2.「坂本氏が主宰してをられる黒衣朗読会へ出演する約束をしてから、日頃多忙の為、幾度か違約して申訳がなかつた、ところが六月の同会には出演することを確答して、本蔵下屋敷の若狭之助を引きうけてしまつた。・・・これが芝居であれば扮装によつて少なくとも八十パーセントは償はれ、其上動作があるから拙いながらもどうにか若狭之助になり得ることも出来るが、単に本を読むだけで其人物を顕はすのであるから、殊に黒衣一着、眼鏡をかけた髭のある若狭之助に至つては第一観興をそぎ、・・・/ それから田中煙亭氏の本蔵は本格もので、坂本猿冠者の伊浪伴左衛門が例の名調子でスラ〳〵と読まれたことゆへ・・・」(
久保田金僊「黒衣朗読会に列りて」p17 『太棹』16 1930.7.28)
190-1.「脚本朗読 午後九時 裏表春着伊達織演芸通話会連中 場景 足利家注問所白州の場 配役(発声願) 吟味役横井角左衛門 田辺光郎 医者大場宗益 尾竹竹魚 家主杢兵衛 加藤一若 同心一 三宅辰夫 同心二 長谷川清寿 用人侍 桜井真一 小者小助 三宅孤軒 召使お竹 南条南花 花売り佐五兵衛 田中煙亭 倉待弥十郎 坂本猿冠者 解説 田村西男 長唄はやし連中 望月他意之助社中」(『読売新聞』 1930.7.1 9面「ラヂオ版」)【写真「脚本朗読の演芸通話会の人々」】【マイクを前に畳に座った9人】
190-2.「 [七月一日]同日、AK夜の放送に脚本朗読裏表春着伊達織あり、猿冠者一若辰夫等柳人出演」(
「京浜川柳史」p70『川柳きやり』11(8) 川柳きやり吟社 1930.8)
191-1. 「日蓮宗本門仏立講東京第二支部教養局夏季大会 三日午後五時 神宮外苑日本青年館 東京演芸通話会連中の「極付幡随長兵衛」二幕「何が彼を?」一幕」(『読売新聞』1930.7.3 20面)
192-1.「話の劇場 午後八時 実説縮屋新助 演述 田村西男 配役 吉田屋甚之助・船宿小松屋女房お要 坂本猿冠者 尾花屋おみの・船頭勘次 尾竹竹魚 ツケ 長谷川清寿 鳴物 望月太意之助社中 長唄 坂田仙十郎 三味線 杵屋勝之進」(「ラヂオ版」『読売新聞』1930.8.15 5面)
193-1.「脚本朗読 午後八時半 江戸育御祭佐七 演芸通話会連中 配役 お祭佐七 坂本猿冠者 巴の三吉 尾竹竹魚 芸者小糸 南条南花 女中お玉 三宅辰夫 箱廻し九助 田中煙亭 倉田伴平 三宅孤軒 解説 田村西男 鳴物連中 望月太意之助社中」(『読売新聞』 1930.9.15 4面「ラヂオ版」)
193-2.「 [九月]同日 [十五日(月)]AKより通話会の脚本朗読お祭佐七を放送、柿亭竹魚巨呂平等の柳人活躍(
「京浜川柳史」p61 『川柳きやり』 11(11) 川柳きやり吟社 1930.11)
194-1.「演芸通話会後援 くろご朗読会(第十回) 時日 十月十九日正午十二時 会場 上野松坂屋ホール 一番目「父帰る」一幕 中幕「義経千本桜 鮨屋」一幕 講演「太鼓の話」田村西男 二番目「三人吉三廓買初」 二幕三場 ▼招待券を差上ます、御申込下さい。 事務所 神田明神境内(開華楼内)くろご朗読会」(
『太棹』18 p7 1930.10.17 )
196-1.「脚本朗読 午後九時 神明恵和合取組 芝神明芝居木戸前の場 演芸通話会一派 配役 九龍川浪右衛門 三宅孤軒 四ツ車大八 田中煙亭 葉山九郎次 加藤一若 職人山内の兼 桜井真一 同御成門の松 長谷川清寿 大木戸番大常 音羽蜂朗 おもちやの文治 三宅辰夫 浜松町長次郎 田村栄造 露月町亀右衛門 尾竹竹魚 辰五郎女房お仲 南条南花 辰五郎忰喜太郎 阪東太女丸 力士砂もぐり 宮澤重夫 浜松町辰五郎 坂本猿冠者 座元江戸喜太郎 田村西男 解説 田村西男 鳴物連中 望月太意之助連中」(『読売新聞』 1931.1.17 9面「ラヂオ版」)【写真 「脚本朗読の舞台はこんな風」】【客席正面からの舞台風景、黒衣を着、頭巾をかぶり、顔を出した10人が一列に座す、各人の前に立つのは役名札か】
196-2.「 [一月]同日 [十七日(土)]、AKより柿亭一若巨呂平等の諸氏「神明恵和合取組」を放送」(
「京浜川柳史」p61 『川柳きやり』 12(3) 川柳きやり吟社 1931.3)
197-1. 田中煙亭「浄曲うろ覚え」(『太棹』21-66 酒屋、尼ヶ崎(2)、平太郎住家(2)、道春館(2)、本藏下屋敷、宿屋(2)、合邦内、塩谷舘(2)、勘平切腹(2)、沼津(3)、寺子屋(3)、すし屋(2)、御殿(2)、堀川(2)、十種香(2)、正清本城、[ ]、紙屋内(2)、)
198-1. 「脚本朗読 唐人殺し 『今木伝七』武庫清徳寺の場 午後八時 演芸通話会出演 配役 所化快興 坂本猿冠者 下男久六 田中煙亭 傾城高尾 南条南花 今木伝七 三宅孤軒 清徳寺教善 長谷川清寿 所化教心 市川子鶴 講頭銭屋徳兵衛 尾竹竹魚 講中万屋太兵衛 三宅辰夫 同伊勢屋五郎助 桜井真一 同三河屋録三郎 山本ひさし 解説 田村西男 鳴物 望月太意之助社中」(『読売新聞』 1931.6.29 9面「ラヂオ版」)【写真 「演芸通話会の人々 (前列右より)長谷川清寿、坂本猿冠者、三宅孤軒、田村西男、(後列右より)加藤一若、南条南花、桜井真一、尾竹竹魚、三宅辰夫、田中煙亭】【
198-3 『ラヂオ演劇』掲載の写真の上半分に相当。当然6.29放送当日の撮影ではない。】
198-2.「-六年六月- □同日 [廿九日]、AKより脚本朗読今木伝七放送、柿吟社の人々」(
「京浜川柳史」p69 『川柳きやり』 12(9) 川柳きやり吟社 1931.9)
198-3.【写真「脚本朗読 今木伝七 演芸通話会一派 昭和六年・六・二九」】(
「第十講 脚本朗読」p289 佐々健治『ラヂオ演劇 : 鑑賞と作方』 同文館 1934)【写真については
198-1の項参照】【なお、p287 脚本朗読「修善寺物語」の放送日を昭和二年七月五日とするが、同年十月五日の誤り。】
199-1.田中煙亭 「流謫三十三年」(『日蓮主義』5(7) 1931、
『日蓮宗布教選書 16巻』 p264- 日蓮宗現代宗教研究所 同朋舎出版 1983.9))
200-1.「◇加藤一若、坂本柿亭君 八月十六日上野松坂屋七階ホールのくろご朗読会に出演」(
「東西南北」p70 『川柳きやり』 12(9) 川柳きやり吟社 1931.09)
201-1.「義太夫が好きで上手な大谷友右衛門丈は、・・・歌舞伎俳優の所謂大部屋連を会員にして芸道会といふものを企てた。・・・九月六日の午前十時から、桜田本郷町の飛行館で第一回の公演を催ほす事になつたものである。」(けむり「芸道会」p29 (『太棹』 29 1931.9)
202-1. 「脚本朗読 後〇、四〇 魚屋宗五郎「新皿屋敷月雨暈」芝片門前魚屋内 演芸通話会 配役 魚屋宗五郎 坂本猿冠者 女房おはな 南条南花 父親太兵衛 田中煙亭 召使おなぎ 市河かね子 菊茶屋女房 尾竹竹魚 若い者三吉 長谷川清寿 祭の若い者 市蔵 加藤一若 酒屋小僧 三宅辰夫 解説 田村西男 鳴物 望月太意之助社中」(『読売新聞』1931.9.13 5面「ラヂオ版」)
202-2.「-六年九月/ ▽十三日(日)くろご朗読会、上野松坂屋、柿吟社の人々、二番目もの「新皿屋敷」宗五郎家の場を現場よりAKが中継放送(
「京浜川柳史」p69 『川柳きやり』 12(10) 川柳きやり吟社 1931.10)
202-3.「◇くろご朗読会、柿亭、一若君等の同会は九月十三日上野松坂屋に公演、そのうち「魚宗」はAKで中継放送」(
「東西南北」p70 『川柳きやり』 12(10) 川柳きやり吟社 1931.10)
203-1.「月末に通話会が公演 演芸通話会では二十九日より三日間新橋演舞場で公演をするが出しものは第一「薫樹累物語」第二「夜叉王」第三「義経千本桜」鮨屋、第四「法界坊」第五「双面」ときまつた」(『読売新聞』 1931.9.7夕刊 5面「映画劇」)
203-2.「半玄人の通話会 猿冠者南花大出来の『累』 新橋演舞場の初日を見た。素劇とはいへ平素研究も経験も積んでゐる半玄人とて、時間も正確に開幕・・・田中煙亭は金五郎と奴丹助で気を吐き・・・」(「演芸」『読売新聞』 1931.10.1 11面)
203-3.「・・・煙亭氏の奴丹助、調子は低いが古淡な味がありました。」p38「吉田冬葉 私はちよつと遅れて行きましたので、花水橋は見ませんでした。・・・煙亭さんの金五郎は腹もありしどころも素直で非常に結構でした。」(
伊藤鴎二「演芸通話会雑感」p36- 『春泥』 (21) 春泥社 1931.11)【配役 「薫樹累物語」頼兼 田村栄造 絹川谷蔵 坂本猿冠者、黒川官蔵 鈴木貫 与右衛門 坂本猿冠者 累 南条南花 歌形姫 市川かね子 金五郎・丹助 田中煙亭 女衒勘六 長谷川清寿 島田重三郎 田村西男 「夜叉王」夜叉王 三宅孤軒 頼家 田村西男 姉かつら 南条南花 妹かへで 尾竹竹魚 婿春彦 桜井錦魚 従者の僧 加藤一若 金窪兵家 鈴木貫 下田五郎 三宅辰夫「鮨屋」権太 坂本猿冠者 弥助 尾竹竹魚 弥左衛門 田中煙亭 お里 市川かね子 老婆 桜井錦魚 梶原 三宅孤軒 「法界坊」田村西男】【写真 「猿冠者の権太、孤軒の夜叉王」】
203-4.【田村西男の法界坊と坂本猿冠者の権太の写真(
「幸四郎と菊五郎」p5『劇』 9(11) 国際情報社 1931.11)。関連する本文はない。】
203-5.「鴨水 田村西男さんの芝居へおいでになりましたか? 水巴 通話会ですか? 鴨水 えゝ 水巴 あの猿冠者一座は立女役の南条南花(講武所の料理店花家の主人)が草羊君と千代子女史の親戚にあたるところから、両君に誘はれて神田明神境内の割烹店開花楼で一度見物したぎりです。劇場へ持ち出すやうになつてからは一度も行きません 鴨水 もうあのくらゐになつたら止められませんネ、西男さんの法界坊はとても好い気持ちになつてゐましたヨ 水巴 アノ法界坊は極付だとかいふぢやありませんか・・・」(
「流觴座談会」p13 『曲水』17(3)(180) 曲水社 1932.3)【座談会日時 1932.1.13】
204-1.「-六年十二月- □同日 [十三日]くろこ朗読会、上野松坂屋に開く、柿吟社の人々」(
「京浜川柳史」p89 『川柳きやり』13(1) 川柳きやり吟社 1932.1)【以降のくろご朗読会については
一覧参照。】
205-1.「明治座で・・・・・・三月一日から/ 月はなの三日間を堂々と開けた豪勢振り!不景気も事変もフツ飛ばさうといふ素劇通話会諸優の大元気、怖ろしなんといふばかりなしである。よんどころなく拝見に及んだ舞台に就て、素人評ザツと件の如しツ。・・・煙亭老紅ゐの舌を吐いて負けぬ気の時平公、・・・煙亭老の父親太兵衛、・・・何れも纏まつた演出で、どこへ出しても立派なもの・・・」(
たの字「通話劇会」p31 『太棹』』34・35 1932.3.15)【演目と配役を抄出 「菅原車引」 松王 尾竹竹魚 桜丸 三宅辰夫 松王丸 坂本猿冠者 時平 田中煙亭 金棒 長谷川清寿 杉王 錦魚 「実盛物語」実盛 南条南花 妹尾 坂本猿冠者 九郎助 長谷川清寿 小よし 錦魚 葵御前 ひさし 小万 はる子 太郎吉 沼尻富江 「大尉の娘」森田慎蔵 三宅孤軒 露子 宮下喜美子 「新皿屋鋪」魚屋宗五郎 坂本猿冠者 父親太兵衛 田中煙亭 おはま 南条南花 三吉 長谷川清寿 おなぎ 声友(新加入) 酒屋の小僧 清水花声 おつた 宮下喜美子 磯部の殿様 坂本猿冠者 典蔵 田村西男 「廓文章」伊左衛門 田村西男 夕霧 南条南花 喜左衛門夫婦 三宅孤軒と坂本猿冠者/ 同号口絵写真 通話劇会(一)田中煙亭氏の「車引」の時平公 『大尉の娘』三宅孤軒氏の森田慎蔵 宮下喜美子の露子 /通話劇会(二)『源平布引滝』九郎助住家 南条南花氏の斎藤実盛 『新皿やしき』坂本猿冠者氏の魚屋宗五郎 『廓文章』吉田屋 田村西男氏の藤屋伊左衛門】
205-2.「演芸通話会 坂本猿冠者等の同会は三月一日より三日間、明治座に公演」
「東西南北」 p70 『川柳きやり』 川柳きやり社 1934.4)
206-1. 黒顔子「稽古見台」(『太棹』37-52 豊沢団市、豊沢芳太郎、豊沢猿造、豊沢猿平、鶴沢猿作、巴津昇、野沢道之助、鶴沢司好、猿三郎、津賀太夫、豊沢猿之助)【65号より富取が再開】
207-1.「演芸通話会劇公演 坂本猿冠者 九月二十七、二十八、二十九の三日間、午後二時開演で浜町明治座で、私達の通話会劇を開催いたします。・・・一番目『四谷怪談』髪梳きから隠亡堀、中幕『佐々木高綱』二番目『夏祭浪花鑑』住吉から長町裏殺し『雪月花』鷺娘、戻橋、戻駕。 役割の重なるものは=義平次、鷺娘 (西男)、伊右衛門、三婦(煙亭)、高綱、綱(孤軒)、お岩、小平、与茂七、お辰(南花)、お梶、与四郎(竹魚)、お袖、禿(声友)、徳兵衛(也奈貴)、智山、次郎作(寸楽)、宅悦、直助権兵衛、団七(猿冠者)。其他略」(『太棹』39 p20 1932.9.25)」
207-2.「坂本柿亭、三宅巨呂平、阪下也奈貴君の演芸通話会劇は九月廿七日より三日間明治座に公演」(
「東西南北」 p66 『川柳きやり』13(10) [(136)] 川柳きやり社 1932.10)
207-3. 「大物揃ひの通話会劇 来る廿七、八、九の三日真明治座に開演する演芸会通話劇本極狂言は一番目「形見草四谷怪談」髪梳より隠亡堀まで二幕、中幕岡本綺堂氏作「佐々木高綱」一幕、二番目「夏祭浪花鑑」住吉より義平次殺し迄三幕、大喜利「雪月花」(月)戻橋(雪)鷺娘(花)戻駕」(『読売新聞』1932.9.6 3面)
208-1.「脚本朗読 後〇・〇五 夏祭浪花鑑 第一場住吉鳥居先の場 第二場長町裏殺しの場 演芸通話会 団七九郎兵衛 坂本猿冠者 義平次 田村西男 釣船三婦 田中煙亭 一寸徳兵衛 三宅孤軒 団七女房お梶 南条南花 玉島儀之丞 尾竹竹魚 傾城琴浦 坂本よし子 こつぱの権 鈴木貫 なまこの八 石田義夫 堤藤内 山本ひさし 大島佐賀右衛門 長谷川清寿 床屋三吉 音羽蜂朗 縄取 中川彦次郎 鳴物 望月太意之助社中 竹本連中」(『読売新聞』 1932.10.16 10面「ラヂオ版」)
208-2.「◇柿吟社の柿亭君等 十月十六日AKより夏祭浪花鑑の脚本朗読の放送を為す」(
「東西南北」p56 『川柳きやり』 13(11) [(137)] 川柳きやり吟社 1932.11)
209-1.「「源平布引滝」「勧進帳」「天網島時雨炬燵」「雪暮夜入谷畦道」「御存鈴ヶ森」、おまけに「口上」までついてゐる。/これは去る二月十日、飛行行動に開催された『演芸通話会若手研究劇』なる素人芝居の番組だが、この番組を見て「まるで歌舞伎座ね」と云つたひとがある。最も完結に通話会若手連を褒めたこの言葉はそも何を語る?歌舞伎座の狂言立は素人芝居そつくりだといふことになるぢやアありませんか。素人ばなれのした通話会の人々よ。歌舞伎座の真似はやめること〳〵。」(
M・D生「聞き書き」 p28 国劇向上会編『芸術殿』 3(3) 四條書房 1933.3)
210-1.「脚本朗読 籠釣瓶花街酔醒 午後八時より 演芸通話会 配役 佐野次郎左衛門 坂本猿冠者 立花屋長兵衛 尾竹竹魚 絹商人丈助 三宅孤軒 同丹兵衛 長谷清寿 立花屋女房おきつ 華宮令 下男六 田中煙亭 兵庫屋八つ橋 南条南花 同九重 田部井梅峰 同七越 尾竹竹魚 芸者お糸 山本ひさし 同お琴 倉持紅路 太鼓持半中 萩原声昌 同調二 塚本豊花 やり手おたつ 竹田静夢 番新八重咲 増田吾楼 若者与助 音羽蜂峰 女中お咲 浅井勝寿 繁山栄之丞 尾竹竹魚 釣鐘権八 田村西男 鳴物連中 望月太意之助連中」(『読売新聞』1933.10.22 10面「ラヂオ版」)
210-2. 「◇坂本猿冠者君(東京) 十月二十二日AKより籠釣瓶を放送」(
「東西南北」p67 『川柳きやり』 14(12) [(150)] 川柳きやり吟社 1933.12)
211-1.「先月二十八日、シカモ一橋商科大学の同窓会、如水会館で催された語交会の席上、三十分といふ時間を与へられて演壇に押上られたのは驚きました。/ 会の方々とは殆んど初対面の僕だつたのですが、赤坂の猿の助師匠が態々見苦しきあばらや家へ出向いて来られ、自分の連中で斯ういふ会を発起されるのだから、是非出てやつて呉れといとも懇ろなお頼みにあひ続いて、北斗鬼外、有曲などの諸氏に紹介される。・・・/ 当夜の講演の内容を摘録させて貰はうと思うのです。・・・先づ一橋語交会の新成立、発会に祝辞を呈して、訥弁不弁の言訳を充分に致し、若い時分からの堂摺連の先輩として、幾十年一日の如く、感服係りを相勤め来つた事を申上げて、暫時お耳を拝借と咳一咳。・・・」(田中煙亭「僕の浄曲礼讃辞」p10-13『太棹』59 1934.11.15)
211-2. 「◇一橋連競演 黒顔子 九月十九日、小石川倶楽部へ行く、・・・次は北島北斗氏の『岡崎猿之助師の指導宜しきを得て益々研究が積み、次第に売物になる。・・・最後は保坂有曲氏が語左衛門師匠の絃で『城木屋』さすがに斯道の古強者、老巧を極めた聴物であつた。以上何れも一橋如水会連の試演会、近く『語交会』と名乗つて趣味の集りを催ほすと聴く。」(「太棹順礼記」p14『太棹』』58 1934.9.25)
212-1.「菅原伝授手習鑑の発端 筆法伝授の場初演 第一場菅丞相邸奥座敷 第二景菅原館の門外 午後八時 演芸通話会連中が放送 配役 武部源蔵 坂本猿冠者 妻戸浪 華宮令 菅丞相 三宅孤軒 左中将希世 田村西男 梅王丸 田中煙亭 園生の前 尾竹竹魚 三善清行 加藤一若 荒島主税 長谷川清寿 侍 音羽蜂郎 舎人 大ぜい 竹本連中 豊沢猿七社中 鳴物 連中望月太意之助社中」(『読売新聞』 1934.5.24 10面「ラヂオ」)
213-1.「[六月]▼演劇通話会 二十七-二十九日於明治座 「菅原伝授手習鑑」二幕 田村西男作「藤誉の浦島」「皷の里」「関扉」「神明恵和合取組」」(
「新劇団上演目録」p71 文芸家協会編『文芸年鑑 1935年版』 改造社 1935) 【「明治十五年以後はとんと見られなくなつた。興行師も知らず、俳優も忘れてしまつたのである。・・・(尤もその前、通話会の連中が明治座で一度やつたが、これはなかなか正しい演出だつた)」(
渥美清太郎「「伝授場」について」 p4 『劇場』 2(4) 演劇文化社 1947.6)】
213-2.「◇演芸通話会公演(東京)六月末明治座に公演の同会には、柿亭 也奈貴 一若 菊麿 舞将其他の柳人多数出演」(
「東西南北」p67 『川柳きやり』15(6) [(156)] 1934.6)
214-1.「七、三〇 日曜特輯新作演芸 ラヂオ小説 「義民六左衛門」 新派の梅島昇、演芸通話会の坂本猿冠者連中、新劇の清川玉枝等が合同で放送する。 阿波崎村名主六左衛門 梅島昇 北畠大納言親房、僧(藤原藤房)坂本猿冠者 北畠の労党小柴太郎 三宅孤軒 同真田次郎 田村西男 賊の幕僚鹿島幹寛 田中煙亭 おつぎ(名主左馬之助の娘)清川玉枝 他に百姓大勢及び伴奏音楽等 演出 永田衡吉」(『読売新聞』1934.11.4 15面)
214-2.「坂本猿冠者君(東京)十一月四日夜日曜特輯新作演芸ラヂオ小説「義民六左衛門」に梅島昇一座と出演 (
「東西南北」 p58 『川柳きやり』15(12)[(162)] 1934.12)
214-3.「とにかく神宮寺原頭に十三義民塚が建立されたその日其の除幕式の盛儀は申す迄もなく、その頃、芝愛宕山上にあった。わが日本で唯一ケ所の放送局は次の如く「ラジオドラマ」を演出して「ホイホイ地蔵」の史実を日本全国中に宣伝してくれた。/ラジオ小説 義民六左衛門/今晩の日曜特輯新作演芸はラジオ小説「義民六左衛門」で新派の梅島昇、演芸通話会の坂本猿冠者連中、新劇の清川玉枝等が合同で放送する。この小説の題材は現在も阿波崎村に残る南朝のために殉じた東条五郎十四ヶ村の名主達を祀るホイホイ地蔵の事蹟を主材として書いたもので、南北朝史の一頁を飾る輝やかしい実説である。・・・」(
西村文則「桜川村史」 p34 桜川村史編さん委員会 桜川村教育委員会『桜川村史考』1 稲敷市 1979.3.30)
215-1. 「今度の明治座でやつた六本立のうち、呼物は「勧進帳」だ。・・・「合邦」では煙亭氏の合邦が、渋味を見せんとする工合が売物なのだらう、・・・」(「通話会興味は勧進帳」『読売新聞』1934.11.29 10面 「演芸欄」)
215-2. 「劇評家連が山台に 廿六日より三日間明治座でやる通話会の出し物中「勧進帳」には須田栄、丸山耕氏が口上、長唄は秋本柳風、高沢初風、畑耕一、細井雀郎、大久保春来、石井迷花、岡田申、印南高一氏、また絃は渥美清太郎氏が立を勤めることとなつた。」(『読売新聞』1934.11.23 15面)
215-3.「演芸通話会 十一月二十七日より三日間明治座に於いて秋季公演を開催、狂言は第一が田村西男氏新作「護持院ヶ原の仇討」一幕、第二は「志渡寺」一幕に南条南花のお辻第三は田村西男氏自作自演の新曲舞踊「花筐」、第四には歌舞伎十八番の「勧進帳」を据ゑ三宅孤軒の富樫、鏡味小仙の義経に、坂本猿冠者の弁慶、第五は雪月花の趣向に、雪には長谷川伸氏の「雪の渡り鳥」、月は「市原野」花は「紅葉狩」と極り、卯之吉を鏡味小仙、鯉名銀平を坂本猿冠者、平維茂は坂下也奈貴、山神は三宅孤軒等で更科姫実は鬼女を田村西男」
「京浜川柳史」 p56『川柳きやり』15(11) [(161)] 川柳きやり社 1934.11)
215-4. 「[昭和九年甲戌][十一月二十四日]◇明治座の椀久と紅葉狩や、物凄い勧進帳。通話会の素劇を観る。二十六、七、八の三日間明治座でやる通話会劇は、一番目「護持院原の敵討」中幕上が「合邦ケ辻」中が「椀久色神送」下が「勧進帳」二番目が「雪の渡り鳥」大切「紅葉狩」という大芝居である。番組に「顔見世や、へたまでしやぶる柿の味」と一句添えてあるが、どうして、どうして、この柿も熱し切つているので、却つて面白くないと言う評を聞く位、処で、初日にちよつと、合邦、椀久、「勧進帳」だけを覗いたが、・・・安宅の関が一番乙だから、先ず「感心帳」を左に読みあげよう。「それ、つらつらおもんみるに、大概明治の劇の好きは、寺院の雲に隠れ、当時役者を真似る酒落、驚かしたる人もなし、・・・」【「合邦」合邦 田中煙亭 玉手御前 南条南花 入平 坂本猿冠者 おとく 鏡味鼓仙 俊徳丸 尾竹竹尾 「椀久」椀久 田村西男 松山 貴美子「勧進帳」富樫 三宅孤軒 弁慶 坂本猿冠者 義経鏡味鼓仙】(
花柳寿太郎 小島二朔編『鶯亭金升日記』 pp.419-420 演劇出版社 1961)
216-1.「東京毎夕新聞 田中基臣」(
「第三編一覧」p107 『日本新聞年鑑 第13巻 (昭和10年版) 1934.12現在』新聞研究所 1934.12.10)
217-1. 金王丸「ラヂオ浄曲漫評」【
全文掲載】
218-1.「創刊号の編輯は、徳田戯二氏に依頼しておいたが、六月号より田中煙亭氏を煩わすことになつた。」(
「編輯後記」p63 『痴遊雑誌』 1(2) 話術倶楽部出版部 1935.6)【
『痴遊雑誌』記事一覧】
218-2. 「□九月廿八日--明治座/ 「欧州戦乱時局講演」と号して痴遊君が明治座で一週間、本当の独りで大気吐を焔くといふ。案内を受けて居たので、社の帰りに廻つて見る。・・・長講一席約一時間半位、立つゞけに喋舌りまくるそれで聴衆を飽きさせないのはもう腕である。・・・」(
煙生「演芸日記から」p212 『文芸倶楽部』20(15) 1914.11.1)
218-3.「・・・想へば、本誌創刊号に、拙文を投じて、その第二号から、編輯の一切を君に委嘱する、といふ故先生の書状を受け、覚束なくも引受けた我等は、今や最後の努力を払つてその終刊号を作るのである。送られ来る玉稿、悉くこれ涙の集積である。凡そ日本全社会の各層からの追悼である。/噫。『痴遊雑誌』はこれが終刊である。(田中煙亭)」(
「終刊号を校了にして」p150 『痴遊雑誌』 4(11) 1938.11.25)
219-1.「二十七日 二十八日の両日演芸通話会劇明治座に公会、柳人中より柿亭、一若、竹魚、仙次郎、一胡司馬亭諸氏出演」(
「東西南北」 p58 『川柳きやり』16(6) [(168)] 1935.7.1)
219-2.「演芸通話会公演 中幕の大森彦七から見る。・・・」(
川端柳吉「をどりを観る」 p84『をどり』1(8月号)(3) 舞踊社 1935.8)【「大森彦七」彦七 三宅孤軒 千早 日本橋蝶々 左衛門 坂本猿冠者「春朧袖梅香」善六 田村西男 お染 花柳徳栄美 久松 遠藤素代 犬 岩崎さだを 紙屑買 三宅孤軒】
219-3.「演芸通話会水無月興行の初日を拝見した、鳩の平右衛門、平右衛門内の場が開いた処へ駈けつけた、・・・」(
藤廼屋主人「通話会劇の初日(明治座六月興行)」 p49『川柳きやり』16(7) [(169)] 1935.8)【「鳩の平右衛門」長左衛門 坂本猿冠者「髪結新三」新三 坂本猿冠者 弥太郎源七 三宅孤軒 大屋 鼓仙 おかみさん 加藤一若 かつを売り 仙次郎 長家の男 司馬亭「大森彦七」彦七 三宅孤軒】
220-1.「一月二十火午後三時から牛塚東京市長は市会議員夫妻招待会を歌舞伎座に催された。伊藤先生の代理として高島兄と共に推参したが、とにもかくにも、当代歌舞伎の豪華版で、・・・」(
煙生「市長の観劇招待会」p71『痴遊雑誌』2(2) 1936.2.18)
221-1.「『本年は亡父本寂一鷺信士三十三回忌に相当仕候に付ては来廿四日午前十一時丸の内東京会舘において・・・』云々といふ丁重な書函を、予て懇意にしてゐる大谷友右衛門丈から貰つたので参会した。」(
煙亭「孝子大谷友右衛門」p71『痴遊雑誌』 2(2) 話術倶楽部出版部 1936.2.18)
222-1.「編輯後記/○・・・戒厳の峻令漸く弛み、我が話術研究会は本月から、復活開催される事となり、・・・/ ○・・・芽城山人の『嘲笑録』以下数篇亦た所謂本誌ならではの読物である。」(
煙亭生「編輯後記」p79 『痴遊雑誌』2(6) 1936.6.18)【嘲笑録は伊藤痴遊が「無髭老人」「芽城老人」「如是山荘主人」の筆名で連載】
222-2.「編輯後記/○・・・梅雨の陰雲漸く去つて暑気頓に加はる。二・二六事件の処分漸く定まつて戒厳の峻令茲に解かれんとする。さるにても国策又国策に、当局正に逆上の体。時日は如何に之を解決する乎。/○・・・温古知新。その何れを見るも、必らずや皆、諷世嘲俗の文字ならざる莫し矣。本誌の珍重さるゝ所以。/・・・/○・・・芽城山人の八面鉾『嘲笑録』骨を刺し、髄を抉る。痛烈快哉。/・・・(煙生記)」(
煙亭生「編輯後記」p78 『痴遊雑誌』2(7) 1936.7.18)【
芽城山人「嘲笑録」p69-72 『痴遊雑誌』2(10) 1936.10】
223-1.「演芸通話会が明治座での吉例のお道楽(ではないかもしれませんが)芝居を拝見の光栄をお暑いことゝ有り難く参場。坂本猿冠者氏の「戻橋」から、余りの巧さに面白くなく(こなくて何んの通話会かな)です。向島と渋谷の姐さん達をふんだんに使つての長唄、大いしたもの・・・」(
「いろ〳〵」 p50 『春泥』(8月号)(73) 1936.8)【「戻橋」坂本猿冠者「浮ぼつくり」田村西男 大名 三宅孤軒「河内山」河内山 三宅孤軒 大膳 田村西男】
224-1.「日本に唯一つと言つてよい演芸通話会は恒例の六月二十六、七、八の三日間、金座の明治座に公演を催し、例によつて満員を続けた。狂言は『表裏忠臣蔵』と銘打つて、大序、三段目刃傷と落人、四段目の次へ、中幕として『どんどろ』『熊谷陣屋』を据え、それへ新作舞踊劇『恋淵瀬積六花夜』小山田左衛門と清水一角、何れも大でけ〳〵と申すべく、本誌の煙亭が幹部俳優に贈つた短冊左の如し。」(
[煙亭]「素劇団『通話会』公演」 p64 『痴遊雑誌』 3(7) 話術倶楽部出版部 1937.7)
224-2.「演芸通話会劇公演 通し狂言裏表忠臣蔵七幕九場大序より討入まで/中幕上 傾城阿波鳴門一幕 どんどろ大師の場/中幕下 一谷嫩軍記 熊谷陣屋の場/主なる役割 師直・由良之助・一角・妙林主なる役割師直・由良之助三角・妙林(坂本猿冠者)薬師寺・おかる・小山田・妙貞・義経(田村西男)石堂・勘平・熊谷(三宅孤軒)判官・相模(南条南花)若狭之助・伴内・弥陀六・丈左衛門(鏡味小仙)郷右衛門・仲間権平・藤の方(尾竹竹魚)お弓(宮下喜美子)力弥(平井幸子)顔世(遠藤素代)九太夫・軍治(蔦谷きよみ)直義・神埼(田村栄造)与一郎・間(坂本一胡)本藏・燗酒屋・不破(加藤一若)亀井・潮田(岩崎さだを)堀部・仲間(藤本高堂)大高・仲間・駿河(桜井菊磨)妹折江(深野静子)湯女おゆき(花柳徳助)/清元連中新富町梅富会連中/常盤津連中岸沢式佐社中/会費一名金参円(事務所・神田区宮本町一 開華楼方)昭和十二年六月廿六日よリ三日間 午後正一時開演 浜町明治座」(広告『太棹』86 p19 1937.6.5)
224-3.「□六月廿六日 より三日に亘りて明治座で公演された、演芸通話会劇の初日を見た、出し物は表裏忠臣蔵に傾城阿波鳴門、一の谷陣屋、恋淵瀬積六花夜で、・・・」
中川愛氷「愛氷雑記 演芸通話劇」 p8『芸術』 15(14) 大日本芸術協会 1937.7)
225-1.「爾来、太平の逸民として年々このお道楽を継続し、人に笑はれ、そしられてゐたものだが、今回の支那事変勃発と共に、国策の線に添はぬ事を痛感して、夢にも現にも、芝居ゴツコの面白さを忘れ得ぬ我等同志も、断然これを止めてしまつてゐるのである。」(
煙亭「塵外亭放談」p19 『太棹』116 1940.7.10)
225-2. 「▲蘆溝橋事件 演芸通話会は昭和十二年六月末の三日間を以て公演打切りとなつたやうなものだ。坂本猿冠者にしろ、三宅孤軒にしろ、もう一度でいゝから、焼残つた東劇でやりたい、といふ希望はあるが恐らく出来ずしまひと思ふ。その最後ともいふべきは六月末だつたが、若し一週間後れて開催すれば支那事変の序幕たる蘆溝橋事件に打つかつて折角お膳立をした公演もポシヤになる所 その損失甚大であつたと、いまでも三宅孤軒が述懐するのも無理ではない。損失よりも、折角の稽古を無にして落胆失望頗る甚大であつたに相違ない。」(
田村西男「思出深い素人芝居・(下)」p60『演劇界』5(1) 1947.2.1)
226-1.「百号に達した喜び 田中煙亭/ 創刊号の昔から、ともかくもお手伝ひをさせて貰つた私、今、何か書きたい気は一ぱいですが、種々さゝはりで締切に間に合ひません。申訳もなく残念でもあります。/ 番付も百と数へて顔見せや」(
田中煙亭「百号に達した喜び」p25 『太棹』100 1938.12.10)
227-1. 田中煙亭「名作浄瑠璃会観聴記」(『浄瑠璃雑誌』1940.1)
228-1.「◎田中煙亭氏の激励辞と推奨辞 △三八七号正に拝受誦読致しました。不相変痛快巻を措く能はざらしむものあり、更に〳〵御健闘を祈る。東京にもこんなのがあつたら・・・尤も東京ではこの痛快論に対照すべきものなしか。素義のみ語り数に於て発展するらしきのみ。老生春暖と共に漸く健康を取戻したるものゝ如く、次の御上京には親しく拝顔漫縷、不取敢御礼まで草々 /△三八八号本日落掌感謝々々。各位の御研究愈よ精彩を放ちて吾等よい学問を致します事謹で御礼申上ます。東京に籠居する老貧寒人の文楽をのぞく事の出来ぬものに取つて誠に難有い読み物なる事を更に感謝します。」(『浄瑠璃雑誌』389 1940.5.30)
229-1. 「注(19)中でも、『太棹』(昭和三年六月東京で創刊)との確執は、双方が誌上で批判合戦をするという様相を呈し、昭和一七年末まで尾を引いている」(多田英俊「第一部 鴻池幸武による「文楽評の成立-背景と特徴分析」p34 (『鴻池幸武文楽批評集成』大阪大学出版会 2019.2.28)【
沼津廃曲・下手糞友次郎 執拗な天狗雑誌-蒸し返す二問題-】
231-1.「一、八紘一宇の神勅ぞ/日出づる国の国是なる/紀元は二千六百年/茲にいよ〳〵輝きて。/ 二、箭竹束ねてをしへたる/古き武将のいましめも/実にや一億一心と/符節を合す総力ぞ。/ 三、億兆心を一にすと/明治の君が宣ひし/万古を貫ぬくみことのり/仰けば高く畏こしや。/ 四、滅死奉公君国の/覇業に尽す時は今/戦線銃後一斉に/困苦欠乏何のその。/ 五、昭和維新の黎明期/希望の彼岸はや近し/手に手交はして進み行け/傍目もふらず進み行け。」 (煙亭「輝く彼岸=紀元二千六百年奉祝=」p11『太棹』120 1940.11.10)
231-2. 「さらに十一月十日、天皇陛下御即位の佳き日をトし、畏くも天皇、皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉つて、政府主催の紀元二千六百年奉祝大式典は宮城外苑において盛大に催され新に御制定の祝典記念章を祝典参列者その他関係者廿万人余に対して授与されることとなつた」(
「紀元二千六百年」p73 『毎日年鑑 昭和16年版』1940)
232-1. 「何年と続けて来た愚稿、漫評も大東亜戦争に会ツちヤア叶はねえ、コヽ姑らく中止、或は廃止にするの已むなきに至つた。その第一理由はラジオが聴き取りにくいからで、第二は甚だツマラヌものと永い間考へてゐた為である。 さらば〳〵 (一六・一二・二五)」(
金王丸「ラヂオ浄曲漫評」 p11『太棹』133 1942.3.10)
233-1. 「追記。参考書の一部を、田村西男、田中煙亭、野村無名庵、岡戸武平氏の恩借に甘へ・・・」 (
「あとがき」p312正岡容『雲右衛門以後』文林堂双魚房 1944.3.20)
235-2.「同 [追加(女義の本名を読みて)] 田中煙亭(故人)/小虎(とら)は生きて居る(十二年前の昭和十六年には左様か)その他小虎、鹿の子の時代に居た阿波出身の「錦」はどうしたか、小住の一座にも竹本東糸が居た。いづれも肥満の女であつた。又東玉門下に竹本東代玉といふ一寸可愛いいのが居た、東吉はまだ生きて居るのでせう。又生きてる中に東猿の絃の二三竜が居る。死んだ方では京子、小豊後、小伝、友之助の生存年齢も知りたいものだ。」(「十一 女義太夫の本名と生存年齢」p128 岡田道一『明治大正女義盛観物語』 明徳印刷出版社 1953.10.6)
236-1. 「安藤 田中煙亭って人は・・・・・・。ぽくは晩年を知っているんですけどね。/浜村 あれは「万朝報」の人で、劇評は中内蝶二が書いていた。/安藤 煙亭さんは書いていませんか、劇評は?女義太夫の評なんかしてた人だね。/浜村 二人で来ていましたからね、「万朝報」は・・・・・・。煙亭はたしか円城寺清臣君のおじさんになるんです。/安藤 へええ、それは知らなかった。」(「[座談会]同人閑話--陽春之候」p115『演劇界』27(1) 1969.1)【浜村米蔵、戸板康二、大江良太郎、安藤鶴夫、利倉幸一】