FILE 165
【 田中基臣関連資料テキスト 】
(2025.02.27)
(2025.03.05)更新
提供者:ね太郎
田中基臣関連資料のうち、『ホトトギス』とそのほかの記事のテキストを掲載した。
『ホトトギス』1898.4 塵外関連記事 塵外記事も再掲
「第三等/・・・/滋賀の春湖水の東紅す 塵外/春月や東叡山の森の上 同/春風に足弱倶しつ東大寺 同/朧夜の東雲近き浦曲かな 同」「越中国 高岡 田中 (塵外)」(
「本誌第十四号兼題投句諸氏名」1(14):29 1898.2)
「(十日夜記 山口花笠) 拝啓永らく消息を怠り申訳無之候扨て拙地の梅花早きものはやゝ盛りを過ぎ候へども・・・/去月二十六日金沢の洗耳子富山の紅緑子を訪ふべく俳句旅行を企て其途次小坂村に其月子を訪ひて無声会を起し(会員十名其月次下四名は越友会々員也)月の五日和田の煙霞亭を訪はれたるを幸ひとして越友会の臨時会を開き候処会する者高陵の塵外、北雪、陀仏、和田の守水老、竹湍、四目坊及び小生の七名にて清談雅話に一夜を明し申し候今其折の席上吟の中一二を録して御一粲に供す/ 春風や神馬おらたち埒の外 塵外/ 龍駕して春の海行夢なりき)」
「越中たより 越友会員なにがし/ 拝啓暑さ甚たしく候処益御清遊の事と奉察候扨て御承知の如く北陸金沢に於ける北声会の諸子がやゝ其鋒鋩を斂め徐に吟嚷を肥やし他日捲土重来の機を察するあるが如き時に当つて我中越に塵外、北雪、守水老、竹湍、及花笠の五子相集り越友会と称し呱々の声を挙げ候は実に客年七月廿五日に候へき・・・○先便にも申上置候無声会は其後さして盛大に赴きもせざれど熱心なる其月ありて大に会員の間を斡旋致され子は今回六里の道を遠しとせず単騎越友会を襲ひ運座の高点を占めて勇気堂々退陣いたし候先々月紅緑子煙霞亭を襲はれて激戦三日夜を徹し申候本月塵外また紅緑を富山に訪ふて俳談に夜を更し申候其他和田と高岡の同人の往復甚だ激しく候・・・《七月十九日朝》」
「○・・・越友会の塵外子目下上京中との事に候(九月十日)」
「本会に全国諸会中にて目下盛大なるものゝ由東京にて御噂有之候由、本会の面目欣喜雀躍に不堪所に有之、固と浅劣鹵才斯道に何等の稗益する所なしと難も会員何れも奮て諸先生の麒尾に付かん事を熱望致居候。十日にして雨なし祈りあぐみけり 塵外」
「残暑をかこちしも昨日の夢と過ぎ、火鉢をなつかしみて白き立山の峰を窓近く見るやうに相成候。お隣の北声会は離合聚散常なく、我会も亦た塵外子東上してより、高岡には北雪、古音、沈流、いろはの四子のみと相成り候。」
「試に各地俳人分付の表を作りて左に掲ぐ。・・・/越中 紅緑。竹の門。花笠。竹湍。塵外。・・・/右誤脱あるべし。句を見ること多からざる者はこゝに加へず。」
「○恋にも世界的と日本的とがある。(塵外)」
「若草や跣足つめたき水溜り 塵外」
「旅」 2(10):26-27 1899.7【他に 碧梧桐、今西鶴、紫紅、北渚、文魔、八州、猩々】
「○写生的の句続けざまに、シカモ得意なるが出来し時の嬉しさ。日暮れて宿に着けば、明き間乏しくて階子下の小間に押込められたるさへあるに、夜更けて合客の小商人めけるが無理に入り来れる嫌らしさ。心懸けて訪へる旧友の、我れと同し旅に今はありとて、家内の人の我を知らでうるさげに無愛想なる、乗り来りし車夫の足元や見けむ法外の酒代貧らむとする腹立しさ、名物の草の餅ならんと掛茶屋に憩ふ中、不図眠む気ざして夢に入りつ、眼覚むれば日暮れ近く、狼狽へて立出でむとするに、店先における洋傘の慥かに盗まれたる不念さなど(塵外)/○今夜はと、漸くに着いた宿屋の六畳に、横に成つて、日記を書きながら頻りに句を案じて居ると、隣坐敷に前夜からの馴染客らしいのが二人許り、晩酌の二合半に下婢を捕らへて騒かしい狼藉、アヽ月夜なら次の駅まで出掛けやうと思ふた(同)」
「○十二月廿四日蕪村忌、根岸草廬に会する者四十六人、坐敷と病室と勝手の間と玄関と総て襖をはづして打ち通したるも猶坐るに処無くして床の間に上る者二人。午後一時写真を写さんとて皆屋外に出ず、垣の外、椎槻など並びたる陰に集りて撮影し了る。家に入りて午餐を喰ふ、嘉例の風呂吹五十きれ、一人一きれづゝ配りて僅に十きれを余す。蓋し未曾有の盛会なり。」
「○三月廿五日虚子庵例会、会する者廿五名、運坐一回、二百五十句の内十句を互選す。/紫人(廿六点)・・・紅緑(十九点)・・・鳴雪(十六点)・・・塵外、芹村(各十三点)/次に花十句を課す。二百五十句の内十句を互選す。/四方太(廿三点)虚子(十九点)・・・碧梧桐・・・(各十三点)・・・」
「田植十句。作者十六人、選者十八人。百八十句の内七句を選む。互選結果/・・・虚子(十二点)四方太(十一点)・・・塵外(七点)・・・/四点 玉苗やうまし御国の田植唄 塵外」
「炬燵出て机によるやふところ手 塵外」
「屠蘇を一杯飲み過ごした。・・・/弁天小僧で思ひ出したが、「鯨」といふ雑誌の記事を御覧かい。此頃の僕は子規歿後の後家で淀君といふ役割ぢやさうな、さうして碧梧桐が片桐且元ぢやさうな。淀君は嬉しいね。芝翫の声色か何かで「黙れ無礼なるぞ、スリヤその方までみづからをば、アノ人質に送らん所存な、エヽ浅ましや情なや、」と遣るわけぢやね、すると碧梧桐は又我当気取りか何かで、「我が名に因む庭前の、梧桐悉く揺落なし、粛条たる天地の秋、ア有情も漏れぬ盛衰は、ハテ是非も無き、定めぢやなア」と来るのかね。こいつは面白い。岡田亭の新年会で一つ遣るかね。さうするといつか家鴨の声色を使つた塵外がすぐまぜつかへすね。「黙れ無礼なるぞ・・・ぎやア〳〵〳〵・・・スリヤその方までみづからをば・・・・ぎやア〳〵〳〵 ぎやア〳〵いふのは誰ぢや、何物ぢや・・・塵外ぢや〳〵、」ウハヽヽヽたわい〳〵由良さん〳〵。」
「金壱円也 東京市 田中塵外」
「・・・扨て今度愈〃船河原街の新発行所に五月の例会を開催することになつて発行所例会は再び発行所に復帰することになつたのであるが、凡そ何人位の来会者があるであらうかといふ事は殆ど予想することが出来無かつた。又どんな顔振れの人が来るかといふことも予想することが出来無かつた。余は心当りの人を探し当てつゝ数葉の葉書の案内状を出した。其は鳴雪、為山、五城、格堂、三允、桐芽、塵外等の諸君であつた。・・・三允、桐芽の両君は三月の会合に一度来会した事があるのを縁として、塵外君はいつか帝劇で逢つた時会合の話があつたのを縁としてであつた。・・・」
「本誌二百号記念文芸家招待能は予定の通り六月二十七日午後四時半より飯田町四丁目三十一番地喜多舞台に於て開催。招待者は都下の文芸家に少数のホトトギス読者を加へたり。受付にて芳名を書留め得たるもの左の如く、此他に記録洩れのもの若干あるべく、約三百五十名。満場一個の空席も無し。「八島」の次ぎに二十分の休憩時間を設けたる為八時半散会の見込なりしもの九時散会となる。/来会者 芳名/ タ 田中基臣」
「転居の報 牛込区市ヶ谷谷町四四 田中塵外 =五月二十一日」
「元日の少し曇りてめでたけれ 東京 田中塵外」
『商業界』10(6):73 1908
探訪記者としての予の経験
【一部のみ】
▲各社の腕こきが集る
議会を中心として各社の競争の行はれて居た時代は、日露戦争開始の際まば続いた。愈戦争が始まるとなると、舞台は一変して、各社の腕こきが佐世保軍港へ集つて来た。是れは同所から軍艦へ便乗しやうとする計画と、海戦第一の報道は同所へ達す可く予定されて居たからである。
当時佐世保へ集つて居た記者は時事の宮本辰之助君、新宮虎之助君、朝日の上野岩太郎君、吉村平造君、大村琴花君、日々の遠藤速太君、阪本箕山君、中外の三田村甚十郎君、日本の斎藤信君、読売の大島宝水君、中央の水田栄雄君、田村三治君、報知の辰巳豊吉君、二六の奥沢泰岳君、万朝の三木愛花君、田中基臣君、石井一二三君、都の林田春潮君、大場慎三郎君、毎日の宮田倉太君、国民の馬場新八君、大野太郎君及び我輩等で、外に地方新聞からも十数名見えて居た。是れだけの人が狭い佐世保に集つたのだから、競争の激烈さと云つたらない。殆んど火の出んばかりであつた。
▲水田栄雄君の怪手腕
時事の宮本君は前方[まえかた]からの海軍記者で、部内に大部知り合がある。新宮君は又電報打ちの名人で、来ると直ぐ其日から長電を発し出した人だ、上野君と吉村君とは朝日の重鎮で、腰を軽く走り歩くのには別に大村君が居る。若し其れ日々の遠藤君、阪本君、中央の田村君、水田君に至つては、此の当時の新聞界の両大関で、田村君は円転滑脱、何処へでも滑り込んで、何んな種でも取つて来る、水田君は昔も今も変る事なく頗る執拗に種を取つて来るのみならず、人の種を吐き出させる不思議な能力を持て居る。人が折角骨を折つて善い種を取つて来ると水田君早速やつて来て、さま〴〵に鎌をかけて其の種を白状させねば置かぬ。だから我輩なぞ一寸外を歩いて居ても水田君の影を見るとコソ〳〵隠れて仕舞つたものだ。此方では何[いづれ]今日こそ吐き出すものか反対[あべこべ]に吐き出させてやると固く決心して居つても会つて話をして居る中に不思議に吸取られて仕舞ふ。其の癖人づきは極く悪く、決して釣り込まれると云ふやうな訳ではないのだが、何時の間にか吸収られて仕舞ふ。其れに此の人は他人が何処か穴を見つけて種取りに行くのだと思ふと、定まつて其の人に付き纏ふて、種取りの邪魔をするか然らずんば其れに均霑せずには置かぬ、我輩も屡[しば〳〵]其の手を喰つて癪に触つて〳〵たまらなかつたから、或時美事に復讐をしてやつた。
『サンデー』43:6 1909.9
政党と記者との関係(一)
進歩党の記者詰所
▼政党と新聞記者との関係は今更事新しく説法する迄もなく、一方が専ら世間の人気取りに苦心し、一方が人気向背の鍵を握つて居る以上、此二者は先天的に離るべからざる一種の関係を持つて居ると云つて差支なく、政党の本部で春秋二期位に懇親会なる名目の下に出入[しゆつにふ]新聞記者の御馳走会を催せば、新聞記者の方では時々其礼に銘々提灯を持つと云ふ工合、新聞記者に取ては又各政党本部は書入れの御得意様で、年中絶えず何かと新聞の材料を供給して貰ふのは全く此政党本部の存在する御蔭である
▼一概に政治記者と云つても毛色目色の変つた連中の寄合であること勿論だが、流石周囲の空気が平生天下国家を論じて居る連中の寄合とて此仲間は比較的に高尚な記者を集め、中には自身で大政治家を気取つて居るのみでなく、実際有望な政治家を此仲間から出[いだ]すことが稀でない
▼そこで先づ各政党本部に就て重なる出入記者の顔振を調べて見ると、近年殊に新聞種の多くを供給しつゝある進歩党、中にも其又改革派の本部に出入するのが中島気崢(国民)橋本善勝(日々)島内登志恵(東朝)田中基臣(万朝)川口清栄(読売)阿曽六郎(東毎)沢本猛虎(時事)などの諸家で、此外にも未だ定連でない人達の出入がある、即ち此社会の元老たる大谷誠夫(都)藤村静郎(独通)関亮(やまと)などの連中で、未だ改革非改革の分裂せぬ時代には死んだ円城寺天山や代議士になつた村松柳江や、帝通の繁野珠城なんど云ふ豪の者が何れも欠かさず集まつて居たものであるから、記者詰所の賑さは一通でなかつたが分裂騒ぎ以来本部の落寞と共に、出入記者の連中も稍や落寞の観を生じて来た
▼右の中[うち]、橋本、島内、中島の三人は大石門下の三羽烏と謡はれて居る勇士で先輩大石氏の為めには水火を辞せぬ許りでなく、何れも政治界に老功の兵であるから,選挙問題や党の役員問題が起ると、卒先して其好む所に応援すると云ふ篤志家で、改革派の本部では雨が降つても日が照つても、此三人の顔を見ぬことはない
▼転じて旭館組即ち非改革派の事務所今も尚憲政本党改造準備事務所と云ふ厳めしい看板の掛つて居る内幸町の旭館に出入する連中を見ると工藤鉄男(日本)鵜崎熊吉(毎電)原道雄(国民)佐藤梅三郎(万朝)大山六郎(都)下野新之助(日々)片平茂市郎(報知)阿部鶴之助(中央)山田道兄(東海)などの諸豪傑が定連で、此外万朝の川尻琴湖報知の佐藤天風などは犬養君に対する一片の情誼上時々出入して居る、此中で工藤、鵜崎、及び数日前迄報知の記者であつた江森泰吉の三人は、犬養門下の三将と云はるゝ手腕家で、例の記者同志会の如きは此三人が犬養君の旨を受けて目論見た事業だと云はるゝ位、犬養君が除名せられた当時、氏を窮境より擁して兎も角今日あらしめたのは此三将の力与つて少くないとの話だ
▼右の次第であるから非改革派の方では新聞記者の待遇に自ら親疎の別を生じ、同じ出入記者の中でも、上局[じやうきよく]下局[かきよく]の別が厳然として、上局に属する記者達は、党の参謀会議に列せしめらるゝ程の特権をも与へられ、随て待遇の度頗る親密を極て居るが、降て下局になると、単に幹事から通一遍の報告を聞かさる位に止る尚此中で少しく注意を要するのは佐藤、片平、阿部などの諸氏は何れも政友会に縁故ある記者であることで、時勢とは云へ、不思議な取合せと云はねばならぬ
『サンデー』45:6 1909.10
政党と記者との関係(三)
大同派の記者詰所
▼以上説き来つた政友会と進歩党とは、兎も角今日我政界の二大政党として従て党中に人材も多く、材料も多い訳であるが、人数こそ少なけれ、山縣系統即ち現内閣との関係上、時々有力なる材料が供給され、同時に自身一種の材料として注目されて居るのは大同倶楽部である
▼犬養木堂が例の毒舌を以て政界の穢多村と罵つたのは既に昔の事で、今では世の中に穢多扱ひされて居た人物は多く政友会に譲渡し、実際国権党生え抜きの頑固屋を中心として居るのであるから、或る意味から云ふと天下の富豪三菱家の捨扶持を頂戴して居る木堂などよりも却て清浄潔白と云はねばならぬ、それで二三年前迄は政友会が未だ絶対的多数を得ず進歩党亦百内外の議員を有して居るに過ぎなかつた為め、其間に介在して八十余名の代議士を有し、何事にも両派の死命を制することが出来た、然るに今や内閣は山縣系の内閣でありながら、自派の代議士は多く政友会に奪はれて、僅かに三十名足らずの小団体となり了つたのは、抑〃亦何の故であらうか
▼併し茲に理屈は抜きとして流名[さすが]は一代の策士と云はれた佐々克堂が此派の首領であつた丈け、新聞記者の操縦も巧妙な所がある、即ち此派に出入する記者の仲間に日比谷倶楽部と云ふのがあつて、時々懇親会を催すのが常例であるが、此集会には一党の重立者[ぢゆうりつしや]が必ず出席して、酒食談笑の間に大に意志の疏通を計つて居る、此等は確かに此派の幹部が記者優遇の実を挙げて居る証拠で、記者仲間に熱心な同情者があるのも、畢竟種子[たね]の蒔方が巧妙なからであらう
▼現在此派に出入して居る記者の顔触を見ると時事の寺田市正朝日の荒木定雄毎電の日笠芳太郎、読売の川口清栄日本の工藤鉄男中央の阿部鶴之助中外の山本清八万朝の田中基臣、国民の石川六郎やまとの杉中種吉、関亮日々の橋本善勝なんど何れも一騎当千の連中で、此外元二六に居た秋岡徳生、報知に居た畑尾健順などの豪傑も居る
▼右の中で諸政党懸持ちの諸君も少なからず、従て前に紹介した人も多くあるが朝日の荒木君は人も知る凡鳥の雅号を以て同紙上に政治家や実業家の応接振りを連載して大に世の注目を惹いた人で、足まめに兼ぬるに筆まめな好記者である、格別大同倶楽部其者とは関係はあるまいが、今では大同派に同情ある記者の一人と云つてよからう
▼万朝の田中君は大同派出入記者としては最も顔の古い一人で、此人なくば大同派の記者室は闇である、勿論君は新聞の立場から云つても、其人物から云つても決して紙面を此派の為めに利用する様な事はなく、倶楽部員の誰彼れと特別の関係がある訳でもないが、朝報社が休みの時でも、自分は大同派に出張して詰所の籐椅子に昼寝すると云ふ程の篤志家だ
▼秋岡君は今太平洋通信社に特別通信と云ふのを経営して居るけれど、二六記者の時代から倶楽部とは密接な関係を有し一記者の身を似て同派の秘密会にも列席する程の特権を持つて居た人であるから同派の機微に通ずることは同派所属の末派代議士の及ぶ所でない、君は又演説の名人で、選挙になると自ら戦場に躍り出でゝ働くと云ふ篤志家中の篤志家である
▼それから未だ又新会と戊申倶楽部とああるが、まだ記者団が成立して居らが政党と記者との関係は未だ此外に色々書くべき事もあるが先づこゝらで擱筆する
『サンデー』230 p58-59 1913.8.3
素人芝居 五の字
大根の絵を書いて傍へ『近在劇協会章』とした草色の切符が二十枚と舞込んだ。 六月廿一日神奈川県は川崎大師都館に於て開演とある。
演物が『だんまり』『車引』『寺小屋』『鞘当』『大口の寮』『双蝶々』といふ並べ方。役者は当代の文士?画家といふ、次第不同で左の如くである。
瀬川蘆江、野崎久作、市川洗崖、尾上菊奴、山野芋作、尾上八重子、中村百合子、あづま朗々、坂東畑の人、鳥居清忠、小出緑水、市川暁紅、市川豊山、坂東みはる、市村西男、市川芳寿美。
午後一時といふので十二時頃行つて見ると見物は早や弗々[ぼつ〳〵]と来る。御贔屓といふものは大したもの、嘸かし運動費のかゝつた事だらうとお察し申すが、多くは東京からのお客、振りの人も少しはある。入場料金五十銭均一、歌舞伎座並だ。
楽屋を一寸いと覗く。大きな三升を染出した浴衣を一着に及んで便々たる腹を苦しげに持運んで、彼れやこれやと指図を仕て居るのは緑水先生。キク五郎格子をスラリと着流がして平骨の扇子でそこら中叩いて少し反身に、細長い顔を右の方へ曲げて居るのが暁紅大通、『この番組は気に入らないね、僕を市川暁紅は解[わから]な過ぎるよ、五代目でげさア、尾上とこなくちやア、第一楽屋着が承知しやせん』と来る。
衣裳屋、鬘屋、後見、顔師、何れも本職を頼んで狭い楽屋に混交[ごつたがへ]し。
序幕の二挺がはいる。其時はもう八分通の見物、二時近くなつて拍手の催促、楽屋では未だ仕度が半分、だんまりに現はれる役者は七人。大ざつまを買つて出た松野緑君事あづま朗々新宿仕込みの好い咽喉を聞かせやうと湿りを呉れて待ち構へる。
洗崖画伯、思ひ切つて汚ない着付けで『油坊主』これが仕たい計りで入会したのです』と嬉しがる、菊奴君の上総の助。久作氏の雪之亟、何れも見違へる程の美くしさ。
愈よ幕が明く、雪之亟のお目見得に上には後ろが付いて居る。探り合ひの珍にして妙なる到底見ないでは話しが出来ぬ。落し物を探すの蜘蛛の巣を払ふのとは来た〳〵批評が下手な位大間を冠つた蘆江君の夜叉五郎などは大事な柱巻きの見得を忘れて仕舞つた。
此間に『車曳』の仕度が出来る。緑水君の梅王、清忠君の松王は手心のある事、朗々君の桜丸は鳳仙氏の不意の欠席から一日稽古の舞台度胸に唯だ先づ楽屋の人を驚かせた。畑の人の時平公、初舞台の割りに失敗の無かつたのは如何に其の図々しさが判る、鬘のチヤチな為め金冠の梭が立つ筈のがブラ下つたのは見つともなく、魚釣りの見得で赤く塗つた舌を吐き忘れたなど、本人から言へば冷汗もの。蘆江君の松王の吠えるやうな調子も素劇の気分を漲らせた。
これで幕合が又た一時間もかゝる、楽屋へ行て見ると、洗崖画伯の武部源蔵、何やら独り言をいひながら見得を切つて居る傍に、朗々君の千代が大肌ぬぎで顔をして貰つて居る。暁紅君の松王は見違へる程立派になつて、刀を突いて腰かけに、例の右の方へ顔をかしげて『身代りの贋首、イヤそーれも喰はぬ』と五代目張り。緑水君の玄蕃は鬘を付けずに拵らへだけ出来て居る。其向ふに八重子さんの戸浪が立膝か何かで敷島を吹かして居る。
野崎君のよだれくりが出来ると二挺が廻り、小太郎に扮[な]る女の児が赤いべゝで無ければ着ないといつて泣き出したのには付添ひの母親も困り果てゝ居たのは滑稽だつた。
千代のこしらへが出来上つた頃幕が明く。急いで向ふへ廻つて見物する。
涎くりの悪戯から千代小太郎の出、仕置の御詫あたりまでは無事だつたが、千代が隣村まで行くといふて出る時、跡を追ふ筈の小太郎が戸浪の腰に寄りかゝつて一向立たない。どうなるかと見て居るとやがて後見が来て立たせやうとする、その児の足が利ないのである。それは長い時間坐つて居た為めにシビレが切れたので一同ドツと来たのは珍なる哉、愛嬌なる哉であつた。
アト涎くりと三助との例の巫山戯[わるふざけ]た立廻りから三助の引込は案外達者に出来て喝采。これから愈よ源蔵戻りとなる。源蔵大に納まつて戸浪も非常に済ましたものであつた為めに呑気な事になり勝で、殊に振[ふる]つたのは戸浪が源蔵に紹介すべく奥から連れて来る小太郎はどう間違へたか唯の寺子の一人であつた。舞台一同一寸面喰つて居る中に涎くりが本当の小太郎をかゝへて取かへに来たなどはおもしろからう。
松王と玄蕃の出になる、緑水君の玄蕃は本役で梅王のより好いとの評判だが、どうやら気がはいつて居ないやうだつた。暁紅君の松王楽屋で見た通り反り返つた五代目張りで大向ふから(僕等の席)音羽屋アーといふ声が懸る。
『表はそれとも白髪の爺』といふチヨボに白髪でも何でも無い若い丁髷の男が動く『岩松は居ぬかと呼ぶ声に』で奥からチヨコ〳〵走りに女の子が出て来るかと思ふと、次に出て来たやつは世話木戸へかゝらないで上手の入口へ行つて了ふこゝらが、素劇の嬉しい所だ。
愈よ首実験に移つて来る、松王例によつて愈よ首を右の方へかしげて納まる。玄蕃は裏向きになつたり何かで大に黒[くら]かつた所を見せる。洗崖先生の源蔵は車輪に百合子さんの戸浪は依然として気無しのやうな一生懸命のやうな不得要領。
松王『源蔵好く打つた』で、右の手を挙げて『失敬』の型、ドツと満場を唸らせて首実験怪しげに相済んだり。朗々君の千代バタ〳〵で短かい花道から出る、さほど不ざまでもなく源藏との気味合の笑ひもどうかかうか。『我子の文庫でハツシと受け留め』あたり源蔵と共に大骨折であつた。見物も大骨折。
『シテ何人の御内宝』と源蔵の詞の中にこしらへを変へた松王が中々出て来ない。嘸ぞ舞台の二人は気を揉んだ事であらう、親切な見物は大声を出して『オーイ松王』!
一寸穴を明けて松王、木戸口から松が枝に短冊を結んだのを投込む、上手に居た源蔵は、『勘』の好い人、直ぐと『梅は飛び』と見もせず言つて了ふ。『先刻は段々』の難かしい所かなりに素[しろ]ツぽく上下に入れ代つてから型通り千代は床[ちよぼ]に乗つて変な手付き、鼻紙を荷厄介の、やがて御台所の出になつてこれが大変、菊奴君、故意[わざ]とか但し場うてがしてか舞台をぴよこ〳〵と二重へ駈け上つて裳裾あらはにパタリと坐る。此処見物大喝采。上着を脱いだ松王夫婦かうなると当人も傍[また]も気の付かぬ貧弱な形ちが見物の眼から好く見える。いろは送りはどうやら無事に寺小屋の幕はこれで了つた。
次が『鞘当』豊山といふ人の伴左衛門は脊の高い、頬骨の高い柄は先づ〳〵として、肝腎の台詞が通らず、朗々君の山三一人で好い男前を見せて納まつて居たが、花道の無い劇場[こや]でこの演し物は既に天から失敗である、背景の仲の町、せめて灯位入れてやらねば可愛さう。洗厓夫人の留女、臭いほど達者なので、此場を浚つた形ちであつた。
次が愈よ大変な清元の出語りで『大口の寮』といふ。明治から大正へかけての丹次郎、花柳小説の泰斗?田村では無い市村西男君の直次郎、女優百合子の三千歳、床は御台所で見物を驚ろかした菊奴子、タテを唄つて大喝采、洗厓先生の寮番喜兵衛は稽古の折の熱心が現はれて存外の出来と云へる。豊山君の金子市之亟、これは又た余りに素[しろ]く急所も何もあつたものにあらず、見物大分悩まされる。
時間は遠慮なく経つて愈よ大切『相撲場』と相成る。芳寿美といふ人の与五郎は半黒人の納まり過ぎて、みはる君の濡髪の押出しの立派さ。肉も着ない其儘関取り、蘆江君の放駒も好いこしらへ、精々愛嬌を見せて目出度く打出し。
此日見物の大向ふには帝劇の山本支配人を始め女優の誰れ彼れも顔を見せる。新橋、日本橋辺りの美形も見える。朗々君の桜丸に花束を贈つた連中もあつた。江見水蔭君、石橋思案君、岡鬼太郎君、水谷幻花君、瀬戸半眠君、兼子伴雨君、藤沢紫紅君、石谷華堤君坂井久良岐君などもおもしろがつて見て居られた。
『近在劇協会』といふ名は彼の『近代劇協会』の上山草人君をして当日見物の一人たらしめたこと、松居松葉君をして彩旗一対を贈らしめた事をでも手柄としやう。斯くて新俳優諸氏をして今度は東京に打て出るとカませるに至つたのは物凄い事である。
『サンデー』246 p12 1914.6.7
蝶千鳥浮名達引 (上)
玩具箱をひつくリ返した様な浅草公園を舞台として、之は又雷門名物の『飛んだり跳ねたり』の艶活[つやいか]し何が偖て公園の七人組千代龍、舟子、花子、富子、千代駒、梅香、次郎なんど云ふ美形揃ひと、当代の粋を気取る演芸記者森暁紅、桑野桃華、足立朗々、田中煙亭と云ふ何れも濡事にかけては羽左衛門の意気を実際に演じようと云ふ面々、夫へ当代若手作家の随一吉井勇が一枚加はつて、情緒纏綿たる八段返しの大芝居。
(一)果敢なき逢瀬
チヨンと木が入つて浅黄幕が切つて落されると、奥山の待合『田原家』の奥座敷、黒板塀の背景[バツク]など宜しく在つて、ちやぶ台を真中に挟んで金縁眼鏡に今削[あた]つた許りと云ふ髭跡も清く側に体を靠せ懸けて済まして居るのが『らう〳〵』さん事足立と云ふ時事新報の色男、其前のちゃぶ台に両肱を懸けて前屈みにぢれつた相に盃を片手に掬げたのが毎日の森暁紅、二人は『何うして遅いんだらう』とか『今に来るよ』とかの会話型の如くであつて、トヾ暁紅が鈴[べる]を押して女中を呼ぶ、女中はイソ〳〵として『今宅を出たんですつて』と云つて引込むと入替つて『今晩は』と現れたのが七人組の随一山本の千代龍だ。一重瞳のパツチリした眼元は涼しく光る『先程は何うも失礼』と二人の間に座る。偖て宮戸座の帰途[かへり]だとは直ぐに読めた。一体千代龍は駒形の百助の主人を旦那に持つて居るとの評判だが、最初中央の田村西男が此妓を呼んで仲間を煽立てたので、近来演芸記者連が大騒ぎを初めたが、殊に暁紅と朗々とが最も熱心に千代龍を可愛がつたもので、宴会の席抔でも確と千代龍、花子、富子などの七人組を呼んでは、通がつた意気な遊びを標傍してご自身で長唄を唄つたり清元を弾かせて嬉しがつて居ると云ふ遊方で、自ら大通を気取つて『芸妓を遊ばして遣[やる]んだ。』と云つて居るが、其癖お多分に洩れぬ金には縁の遠い連中なので気ばかり焦つて、内心は中々の御執心で、今夜も芝居の帰りに二人が清遊(?)を試みようと来たのだが、実は朗々先生も暁紅さんも口には出さないが何うかして物にしたいと云ふ野心が潜んで居るのだ。処が千代龍は中々怜悧[りかう]な妓で、先生達を外[そら]せる様な事は気振にも出さず、内心では高く留つて居るので、容易に物になり相にも見えぬ。夫で亦二人は増々気を苛立てると云ふ塩梅、其処へ割込んで来たのが吉井勇だ。何日ぞかの法被会に菊五郎[おとはや]の『め組喧嘩』の辰五郎に扮して来て、『從五位の辰さん』と云ふ綽名を付けられて居る色男で、その勇さんが亦千代龍を呼んで居る。千代龍の方では根が怜悧な妓だから、小説家だとか演芸記者などには惚れないが、勇が華族で從五位と云ふ肩書に魅せられて近来なか〳〵安くないとの噂が立つた。
是を聞いた朗々、暁紅の面々が驚いて、勇と千代龍が向島辺に遠出に行つたとかの噂を聞込んで益々狼狽出した。或時などは暁紅、朗々、勇の三人が一座で千代龍、富子、花子などを呼んだ席上で、千代龍と勇とが二人を前に頬擦をして見せ付けたので、朗々、暁紅の二人は内心大にヤキモキしたが、他眼[よそめ]には飽く迄も、通を装つてヤンヤと囃立てた。斯麼[こんな]風で、朗々、暁紅は今は全く悲惨[みじめ]な立場になつたが、夫でも千代龍が諦められず、と云つて張合ふ迄の軍資は無くて、種々と考を廻らした末、一策を案じて、千代龍が玉突を稽古して居るのを聞込んで、花屋敷の裏の溝側[どぶわき]の『共遊軒』と云ふ玉突屋に待受けて、自分では玉突が出来ないので、千代龍の来る時間を見計つてはお互に出懸けて、ビールかサイダーを飲んでは千代龍が来ると洋食の二皿位を傲[おご]つては一時間も引張つて置くと云ふので、千代龍が『何処かへ行きませう』と云ふと『イや今晩は二長町の芝居に行かなくつちや』と濁して逃げる。而して朗々が仲間に逢ふ度に『今日逢つて来たよ』と云へば、暁紅は『俺も玉突を稽古するんだ』と云つた風で、朗々、暁紅の両人は昨今こんな果敢ない逢瀬を続けて居るチヨン。
(二)『朗々同情会』の場
舞台が廻ると『朗々同情会の場』で、席には田中煙亭、桑野桃華、森暁紅、岡村柿紅、市村俗仏、本山荻舟の何れも帝都の大新聞の演劇記者連の大一座で、今しも宴済みて例の七人組の芸者[げいぎ]連も帰つた後で、席には酒道具や調度類が散在[ちらば]つて居る。其中[そのうち]で唯一人のお酌が残つてビール瓶や銚子を片付けて居る。此お酌はかしわと云ふヤツト十七位に成つた許だが、実は何時見染めたのか朗々に岡惚れて夫が非常な執心で半歳も思続けて朋輩に向つても『足立さん〳〵』と云つて大騒ぎをして居ると云ふ逆上せ方だ。之を聞いた記者連は朗々に『如何かして遣れよ』とか『かしわが彼程[あれほど]に思込んで居るんだから』と煽てゝも、朗々先生は不見転なら一人でもこつそりと買ひに行く癖に如何感じたのか『只遊んでるのが面白いさ』と云つた調子なので、煙亭、俗仏などが見るに見兼ねて『朗々同情会』を組織して偖こそ桃華、暁紅、柿紅などを語つてかしわに思ひを遂げさせて解決させようと目論んだのだ。
今宵は即ち其席上で、他の芸者は早く帰して了つて女将にも其旨を甘[うま]く含ませて万事好都合に運んだ。而してかしわを呼んで朗々と二人を主人公として皆で『二人は夫婦なんだ』とか『之から仲好く遊[あそぶ]んだよ』と云つて煽てゝ置いて其間に桃華は朗々の袂を引いて別室に呼んで『万事俺に委して置け』と云ふと、其処へ俗仏も遣つて来て『すつかり話がしてあるから』と畳懸けたので、朗々も元から嫌いぢやないのだから只『ウン』と点頭[うなづ]いて当惑な様な嬉しい様な顔をする。 いよ〳〵時刻が来たので、俗仏、煙亭、桃華の面々は予て申合はして在るのだから『ぢや朗々君一脚先に失敬する』『かあちやん朗々君は酔つて苦し相だからお前しつかり介抱するんだよ』とニヤリと笑つて席を起つた。
--此処でチヨンと木が入つて黒幕が下りたが、翌日電話で聞いて見ると『足立さんは貴方がたがお帰りになると直ぐ後からお立ちになりました』との事で一同口アングリと開いた侭お互に顔見合はして呆れ果てた。其後かしわも朗々の事を思切つて、近頃では他に色男が出来たとの事だ。何だか狐に化された様な話だが『朗々同情会』は有名な事実だ。
蝶千鳥浮名達引 248 p11 1914.6.21
(三)
七人組と演芸記者連とが紛糾[こんがらか]つてのイキサツは歌舞伎[こびきちやう]や市村座[にちやうまち]でも些[ちよ]つとは観られない濡事だ。暁紅と朗々との千代龍熱は、遂に横合から飛込んだ『従五位の辰さん』色男の吉井勇にマンマと漁夫の利を獲られてからは、果敢ない逢瀬にせめてもの慰め続けて居るが、此の二人の艶事と好一対の一幕物が演ぜられた。
矢張七人組の一人に桝富家の富子と云ふ妓[こ]がある。此方は千代龍に脈のないのを悟つた東毎の暁紅先生が、何とかして自分の色男たる事を同人間に見[みせ]びらかしたいと思つて、観音様にお百度を踏んだ理[わけ]ではないが、熱心に公園を物色した末遂に此の桝富家の富子に白羽の矢を射放つたのだ。処が例に依つて新聞記者の悲しさには、顔継ぎとか招待日とかには『先生』とか奉られて『一直[なほ]』や『草津』の床の間に陣取つて『おい富ちやん』とか云つて脂下る事も出来るが、自前持とあつては一度の逢瀬も容易においそれと行かない。処が暁紅先生は千代龍を共遊軒に連出して果敢ない逢瀬を続けた経験から割出して考付いたのが、宮戸座の帰途[かへり]などに富子を引張りだしては仲見世の汁粉やだとか、溝傍[どぶばた]の蜜豆が通だとか云つては夜中過ぎ迄も引張り廻して、同人連に是見よがしに気取つて居た。桝富家の方でも相手が新聞記者だと云ふのでムキになつて怒るわけにも行かず『森さんにも困つた者だ』と零[こぼ]して居た。
処が、此処に又演芸記者連とは些[ち]と変つて、矢張某新聞社の夏川照三と云ふ上方育ちの色男がある。夏川はツイ公園の近処に住んで居て一時は『浅草タイムス』なんか云ふ地廻新聞に関係して居ただけに、公園の花柳界では相応に幅の利く方で、此男が亦富子に非常な執心で、暁紅の策戦とは違つて彼は毎日の様に桝富家の宅[うち]に入込んで、長火鉢に差向ひで女将に種々と話込んで其内に富子を物にしようと云ふ狡い策略を廻らして居た。而[そ]して故意[わざ]と夕方頃まで話込んで富子が湯から帰つて来ると『富ちやん些つとお話しな』と云つた塩梅で『湯上り姿は意気だねえ』とか云つては女将と富子の気嫌を取つて居た。
或時などは、富子一人を誘つては変だと云ふので雷門の東橋亭の義太夫などに女将を誘つては、『富ちやんもゐらつしやいな』と云つた調子で、中々用意周到な策戦で着々と成功の域に達しかけた。而して昨今女将が『実に森さんにも困る』と云つて夏川に零すと、夏川は益々シタリ顔で独りほくそ笑を洩らして居る。之を何処で聞いたか、暁紅先生の耳に入つて『此頃夏川と云ふ男が桝富家に入込んで俺の事をサンザ陰口をして居る』と云つて甚[ひど]く落胆して居るとか。--此の富子事件のイキサツの一方では万朝のMさん又は煙さん事田中煙亭が、近頃彼の名物の髭を剃るとか落すとか云つて騒いで居る相だが、その原因を探つて見ると、矢張七人組の梅香が岡惚れだとか、お安くないとかの噂だ。
『サンデー』247 p11 1914.6.14
文士劇酷評
博覧会演芸場で夜興行[よこうぎやう]の口開けに、所謂先生方の文士連を頼み、お道楽の薬の強い処を思切つた安直[あんちよく]で御覧に入れやうといふ協賛会演芸部幕内の計画見ン事的中。三日間満員は豪い騒ぎだ。
六月になつて『さつき会演劇』はと朱を打つ人にも新派ならをかしいが、車曳に実盛床下に双傷と来るのだから、それ万事時代に行つて旧暦の事でげせうツと。
演たくて出来ず、といつて賞めるの劫腹といつた、岡焼半分、豪がり半分の性の悪い演芸記者が、同じ仲間の演る事を、毎日のやうに冷かした、それもお蔭で好い広告と楽屋の方では笑い話し、一項いくらと俗に『費用』と称するお鳥目を日給の外に社から貪つてヨタ沢山な風聞記。時々御自分の洒落を惜し気も無く後から消して行くおもしろさ。何れにしても人を喰つた連中と、これから喰はうといふやうな人物が寄て集[たか]つて吹聴やら運動やら、此の処暫時さつき会万歳の体であつた。
その他のお仲間は悪い処は大目に見て、ちよいと出来た役々を賞めちぎる交際[つきあひ]上手、我輩幕の外から見るとそれもどうやら我慢がならず。
傷[きづつ]けやうとする輩も癪なら、賞めて済ますも厭な事なり、いでや大体は廊下へ逃げては居たものゝ見て来たゞけを忌憚なく、茲に酷評の筆を揮て読者に報ずるの光栄を有すと仕やう。
第一『菅原車曳の場』二度まで見たがどうしても長谷川の大道具が一番立派なり、其筈か先月木挽町のをそつくり崩して持て来たのだとやら。
緑水の梅王、朗々の桜丸、拵へ衣裳、柄行きも先づ々々として、数回手かけた梅王のそれ程に鮮かならず、至難の役とは申ながら桜丸の居所[きよしよ]も怪しく、御約束のノリになつても手足のキマリ覚束なげに、役者は面ばかりでは出来不申、稽古に努めたら出来さうな人を惜しい事。
芦江の鉄棒、素劇としては儲け役の一つなるに、『片寄れ〳〵』など安手に言へぬ不器用さ、これも研究の気の無い人か閻太郎の杉王嵌つた柄に後向きの見得など初舞台に似合はぬ出来を、台詞廻しでこれも乙の部。
清忠の又た松王かと言はれる先生の、ヌーボー式に場面を締めず十分に光つたとは言はれぬ出来。煙亭の時平、寸法の足らぬ腰から下が落付かず。調子は先づ々々として舌出しの見得も二日目までは怪しかったり。
第二『布引』演し物だけに贋阿弥の実盛、能くもあれほど覚えたものと其点は大に感服に価するが、丸顔にして甲高声の歩行[あるき]つきにも誰あつて、達者な女役者といふ評判。鳳仙の瀬尾は初役と聞いたが、衣裳着きのキチンとして、手強い調子、締つた顔、素劇の気分少しも見えず。唯々二度目の出より手負になると持切れぬ形ちであつた。杵男の小まん、彼の一役でシカモ女形を買て出た特志家として演る事などはどうでもよろしい。
第三『先代萩床下』みはるの男の助、糶出しの手数をかけて出て来るだけの貫目(身体の)は充分。唯だその代りに例のアヽラ怪しの台詞と終始眠つたやうな眼だけが少なく。スツポンの無い為めにダークにして駈け出す芦江の仁木皮肉に長過ぎる花道を持あつかつて長袴のさばさも大に怪しく、泥濘をあるくやうだといふ人あり、総じて此の床下に於て素劇の素劇らしき気分を充分に漲らしたのは寧ろ嬉しい。
第四『同刃傷』初舞台同然の煙亭、外記左衛門といふ難役を引受けた度胸のほど先づ大抵の見物を驚かし、危なく酔払ひになる足取り嘸ぞ骨の折れる事であらう。ヨヂユム丁幾を塗つた稽古の程も察しられたが、どうか斯うか仁木を仕留め細川の出から瀧なす汗に手傷[てをひ]とはいへ台詞が更に見物に判らず仕舞。鬼太郎の仁木、さすがに習つた型を修練したゞけの事あつて先づ〳〵の出来といへやう。暁紅 細川、書く物とおなじイカモノ勝元。川崎屋と五代目を張るとは無しの仮声[こはいろ]で近在劇以来有名な首の曲り塩梅、当人唯もう白く塗つてオホン、めでたいのう。
『舞台』1(4):40-45 1918.7.11
横浜座の文士劇
世間の節季師走を高揚枝、東西合同と銘打つて大阪三界まで伸[の]さうとしたは去年のこと、先づ梅田駅へ乗込めば南地新町の綺麗どこの出迎へ美々しく、それから直ぐに俥を連ねて富田屋[とんだや]での顔つなぎ、白粉[おしろい]の香と灘の生一本に長旅の疲れも忘れ、雑魚寝の夢濃かに、明れば浪華座の桧舞台、扇雀、長三郎を端役に使つて、孰[いづれ]も手心のある出し物に贅六どもの胆を寒むからせようの悪い趣向、それも当て事と何とやらで、鬘合せも事なく済み、道具帳も引けた土俵際で向ふから首尾よく脱[はつ]れ、三日三晩徹夜で書き上げた原稿の折角金に化けたものを、今更遣り場に困る始末、ムシヤクシヤ腹の啖火をお使者の中原指月に投げ付けて其場はどうやら済んだものゝ、さて納まらぬは腹の虫で、此鬱紛いつか霽らさで置くべきやと待ち構へてゐる折柄、贋阿弥氏追善劇といふ嘘のやうな話が真[まこと]となり、新富座の伊井河合の後を直ぐに明け今度は若葉会時代の岡鬼先生、綺堂先生、柿紅先生も加入なされ、岡先生の『毛剃』梅雪氏の『土蜘蛛』などは動かぬ処、追善の印としては贋阿弥氏作の『内海落[うつみおち]』を一番目に据えると専らの是沙汰[とりざた]、併しどうした時候の加減やらそれもいつかポシヤツて了ひ、時節柄ジメ〳〵と面々気を腐らして居た処、不意に寝耳を驚かしたは水に縁ある代地の飛箋[たより]、左団次一座の横浜座打上げを待つて二日間開演と事極まり、至急御協議申上度候との文言、面々が日頃の気焔忽ち茲に噴火して、怖しくも亦凄じい其有様、出し物も大物揃ひの大歌舞伎、コンノート殿下の来臨を仰がうとまでの意気組みは目覚しかりける次第なり。
さて批評などゝは烏滸がましい訳なれど、普段人の事を兎や角と口やかましい先生方のこと、稀[たま]に御自分の評をお聞きになるも常日頃の罪滅し、何も因果と観念してサア首の座へ直つたり〳〵。
第壱、『酒井の太鼓』--天現寺の場でほのほ君の家康、好く云へば綺麗過ぎ、悪く云へば小供じみたり。円く描[ひ]いた眉、紅で割つた口がさう思はせたのかも知れず。未だ顔を独りで出来ぬとは凝り屋さんにも似合はぬことなり。西男君の鳥居、池から上つての独舞台、蹌踉[よろけ]て槍を肩にしての幕切れまで少々中[ちゆう]の字らしい処もあれど、御当人誠に気が好さゝう。莚八君の山形、顔馴染みのあるが嬉し。本城では、ほのほ君の家康、先生自身の話では演つてゐて至極面白いのださうなれど、見てゐる方にはそれ程に受け取れず。台詞は羽左衛門になつたり、高島屋になつたり……。此役書卸しは家橘とか聞く、当今では先づ左団次のものか、予[おのれ]、その左団次のを見たれど、さして印象に残つて居らず、容易[やさ]しさうでさう容易しい役でもないのなるべし。緑水君の酒井、寸の短いのが見た眼に損、酔つた心で酒気を吐く時、口先だけを尖[とが]らすのは品が悪し。彦右衛門の槍先を避けてのタテは夢中にお稽古をなすつたゞけのことはあり。太鼓を打つ形と気組みは立派。此太鼓に就いて面白い話--緑水君の丈の短い処へ太鼓の釣り方が高く、仕勝手の悪さうなのを見た煙亭君、次の日は楽に手の届くやうと踏み台になるものを置いた処緑水君はさうとは知らず、大道具め邪魔な台を置いたものと、わざ〳〵避けて太鼓へ向へば、愈々撥の方が遠くなり、折角の親切を不親切にして了つたとはありさうな事なり。西男君の彦右衛門、稽古の時は「僕はどつちの足が跛[びつこ]なんだい」と云って笑はせたれど、タテは緑水君と共に結構、顔の奇麗過ぎしはほのほ君と同様、これは顔師の罪、此彦右衛門と云ふ役、敵の山形には腿を突かれ、軍議では家康に容れられず、妹には遣り込められ、酒井には翻弄されるイヤハヤ意気地のない奴だとは演者西男君自身のお説、いつも好い処から出る役ゆへ気にもならねど、さう聞けば成程御尤も至極なり。さて茲に嬉しい話、御台[みだい]をした役者の樒をシキビと濁つたのはまだしもなれど、稽古の時から不吉を不潔と間違つて覚え込んだ腰元の一人二日とも「樒はふけつでございませう」は可かつたり〳〵。
第二『島鵆』の招魂社鳥居前--素人と云つては失例かしらねど、素人らしくない出し物、短くて気がきいて、何を措き拝見する方には此上無し、殊にお暑い折柄、至極結構。ほのほ君の島蔵、関内の美しいのが橘屋に似てるとて大悦びだつたれど、予は菊右衛門と申上げたし。イヤ大向の「大橘屋」も可い。始め台詞を低くしたは後[のち]を引立たせる深謀遠慮にや、声は豊な方の君ゆへ始めからも少し高くされても調子をやる憂ひはなかるべし、立廻りは千太君と共に結構、朝の十時から夜の八時まで舛六師匠に痛めつけられたといふだけのことはあつたり。顔は余り白過ぎ、後へ往つてからの凄みを欠きしは残念。猿冠者君の千太、柄に嵌つたと云つてはドヤされるも知れねど、悪に根強い処の見えたは、何より。どうやら鶴蔵[まひづるや]の悌あるも嬉し。此一幕東京で出し給ふとも恥しかるまじ。是は決してお世辞でなし。
第三、「面影草」--気の早いのは、ほのほ君が出てゐるだけ『東人形』かと思つてゐたり。実は仲木貞一君新作の気分劇。是へ『猫の恋』とか云ふ歌沢を挿し込んだ風変りの代物。主人公は若い侍で、思ふ女の姿を人形に作らせ、処[ところ]を遠く隔てゝも心は一つと誓つて居るに引き変へ、女には別に美しい侍の恋人ありと伝へ聞き、女の文を読むにつけても其幻影[おもかげ]を眼の前に見るや、思はず刀を抜いて二人を斬る。と同時に人形の女はバツタリ倒れると云つた筋、主人公の侍が女の文を読む条[くだり]に怪しい猫を見ることあつて、「猫か」といふをキツカケに歌沢になる寸法。茲へ歌沢を取り入れたは鳳仙君のお道楽らしく、老僕と唄の方とを早変りなど恐れ入つたり。西男君の侍、背を屈めて歩くのと手先の黒かつたのとが疵なれど暗中に幻影[げんえい]を追つて、軒の盆燈籠を切るまで現[うつゝ]に心の乱れる条、好い出来栄えなり。大向は高島屋を叫んだ者なり。ほのほ君の人形は人形と幻影との変り目を苦心のやうに見たり。人形の倒れ方、自然で面白し。
第四、「逆櫓」松右衛門の内から浜まで--此一幕こそ本当の芝居を見る心地がしたり。鳳仙君の松右衛門、八百蔵直伝のことだけあつて万事橋尾写し。八百蔵同様松右衛門より樋口になつてからの方の好いのも不思議。たゞ台詞の少し間伸びする処のあつたは疵なれど、兎に角座頭の貫禄あるは豪し。猿冠者君の権四郎、義太夫の心得ある人とて愁ひも利き、近頃の当り芸。大向が松助[まつ]さんソツクリも冷かしばかりでもあるまじ。たゞ腰の落し方に難のあるのと、少し強[きつ]過ぎ、丈夫過ぎたのが厭足らず、ほのほ君のお筆、あのテコイ役をあれまで演つたお骨折の程お察し申すべし。初日は莫迦に堅くなつたやうなれど二日目には大分見直したり。花道の引ツ込みは二日とも失敗。蔦千代の駒若、品あつて好し。此子役自分の位置[ゐどこ]を兎や角云ひ、樋口やお筆を稽古の時から困らし、鳳仙君は飴チヨコを買つて納つて貰つた由、蛇は寸にして何とやら、此子後世恐るべし。
第五、「盛綱陣屋」--これは首実検の好きな暁紅君の出し物、松王ばかりでもあるまいとて、今度が初役の由。吉右衛門[はりまや]のやうな、五代目のやうな、秀調(故)のやうな、団蔵のやうな口跡が印象に残つたり。「討死せんこと眼前たり」の条で、三段から足を落さないのは此人の普段にも似ぬ臆病、首を見ての表情や思ひ入は結構。緑水君の和田兵衛は大向から「続ぎ足が足りない」との名評通り押出しは立派でも寸の短いのが損。煙亭君の時政は重忠同様御苦労様、蔦千代の小三郎は可愛く、此一幕を一人で浚つて了つたり。
第六、「勧進帳」--呆痴君の弁慶、頗る鼻息の荒いものなれど、本当に一所懸命なのは此人か、気が乗つて来ると段々首が前へ出るのは嬉し。口跡は九代目張りか。舞になつては天下無類。為春君の義経、足つきから首を曲げるのまで歌右衛門を真似たは、可い度胸。弁慶が打つ時分に後見座へくつろいで了つてゐるも悪なり。猿冠者君の富樫、段々弁慶に釣り込まれたのは面白し。
第七、「白浪五人男」--鳳仙君の弁天小僧は悪花道での唄は可いお声、それだけでお出しになつたのでもあるまじ、当然為春君と入れ代るべきものなり。為春君の南郷、蒲柳[きしや]すぎ、温順[おとな]しすぎたり。西男君の番頭、役中で一番可い出来。弁天と南郷が神奈川泊りを素破抜いたのも豪し。ほのほ君の鳶頭、臨時雇はれの加役の由、能く何んでも演りたがる人かな。
「稲瀬川」では煙亭君の日本駄右衛門が八百蔵と堀越、暁紅君の忠信利平が故秀調、為春君が吉右衛門と高島屋、ほのほ君の赤星が、歌右衛門と梅幸、羽左の声色とは、お道楽の上のお道楽、唯々恐れみ畏つて、乃ち此評を引さがる。
『新演芸』4(3):104-105 1919.3
新富座に催した文士画家の大芝居は、本職洗足[はだし]の腕前を見せて、二日間が興行ではお客様の入り切れない程の上景気、出演の諸先生いづれ当らぬ大評判の中にも、松竹[まつたけ]合名社の遠藤為春氏は、日頃から羽左衛門生写しの男前と言ひ予て芝居の見巧者でもあり、又俳優に多く近付きを持つただけ、従つて舞台の心得もあり、旁々人気も素晴らしく、歌舞伎座の幹部技芸員より花環を送つたのを始め、横浜の名妓連中よりも同じく数々の花環の贈物があり、片岡我童と名古屋芸妓よりは大幟数本を送つて景気を添へるなど、御本人矢鱈と嬉しさが込み上げて、舞台は一倍車輪に馬力を掛ければ、根が小手の利く器用な人とて役々大喝采、之を見た新富座付茶屋の猿屋のおかみさん曰く、ねえ遠藤さん、私からお父さんにお話をしませうから、役者になつて淺草の芝居へお出なさい。
其文士劇の呼物であつた、『土蜘蛛』は、帝国劇場の幕内主任伊坂梅雪氏が、腕に覚えの振事を梅幸の型で御覧に入れた大掛りに、長唄は銀鈴会御連中の出演、足立朗々氏の唄と町田博三氏の三味線など悉く素人離れの仕た御馳走づくめに、見物はい〃心持に満腹して、実際二日では惜しい物だとは穴勝お世辞計りではない感歎の本値、出演者のお骨折は一卜方ならぬ次第とお察し申して居た所、右の梅雪氏が千秋楽の翌日より熱が出て病気になつたとの話。口の悪い宗十郎が之を聞て、伊坂大熱さんとは如何でゲス。
大愚堂主人
【写真 伊坂梅雪氏の土蜘蛛 町田博三氏の少将 平山蘆江氏の虎 仲木貞一氏の佐瀬春十郎 久保田金僊氏の平井保昌 伊坂梅雪氏の土蜘蛛 田口桜村氏の杉田 森ほのほ氏の金助 阪本猿冠者氏の宗庵 鳥居清忠氏の義経 永井鳳仙氏の平知盛 森暁紅氏の松王丸】
『新演芸』5(3):98-101 1920.3
吉例文士劇から 新富座にて
吉例とあつて此の正月の末に、新富座に於て文士画家劇を二日開けた。
吉例?とはいふが、去年の春は此一座の立者であつた小出緑水君が、その相談中に死んで、此春は亦、右田寅彦君が既に役割まで決まつたのに、流感の為めに死んで了つた。
『此次ぎは誰れだい。』
『来年は廃さうよ。』
『僕は厄年だからなあ。』
這麼[こんな]、気にした戯談が、誰れの口からも出た。
未だ節分の豆撒きも来ないのに、来年の事を云つて、鬼に笑はれるでもなからう、やりかけたものだからやつちまへと茲に相談の決まつたのが正月も中旬[なかば]過ぎで、開演は廿四五の両日とあり、此間稽古の日取は数へる程もない、い〃度胸だ。
狂言は一が曽我の石段とだんまり、二が盛綱陣屋、三が新作の関の扉、四が岡崎、五が河内山、六が雪月花で(浅妻船、鷺娘、鞘当)といふ順序。
役者は鳥居清忠、田村西男、永井鳳仙、遠藤為春、田口桜村、野崎迂文、平山蘆江、坂本猿冠者、田中煙亭、これに新顔として演芸通話会の方から三宅孤軒と南条南花、銀鈴会の中から柳吉三郎、吉田喜久太郎、この四人が此一座として初舞台を踏むので、序幕に鳥居永井の両君が口上を述べる。
右の外、帝劇から村田嘉久子が岡崎のお谷に馳参じ、鈴木福子が新作関の扉の小町姫を勤め亦雪月花の浅妻は山岸静江、鷺娘は藤間静枝といふ美しい色彩[いろどり]。
乍憚斯く申す暁紅も、盛綱一役と、岡崎で夜廻り杢助といふ役を相勤め頻りと御迷惑をかける。
時に本誌の内山君、拙者の部屋へ見えられて、何か書けといふ。
書くのは本業だが、茲許は役者の了簡、されば劇評家所謂御社[おしや]の御方を兼て、我れと我が手でコキおろすのも残念、と云つて本業を捨るも惜しく、夫れ盛綱は二股武士、と云つたわけで。
思案の扇からりと投げ・・・とね。
然し自分の事を棚へ上げて、皆さんのことをチヨツピリ評判しませう。
第一の曽我。
鳳仙清忠両優の奴[やつこ]は、花道のキマリから其追駈のあざやかさ旨いものとはこれをいふべく、然もノツケの大御馳走、此幕へ出る何[いづ]れもを引立たり。
為春君の近江は楽に科[こな]して然もキチンと舞台[いた]に納まり、桜村君の八幡のオツトリした芸も有難く、西男君の工藤の立派さ、孤軒君の朝比奈の親切者らしき、迂文君の五郎の緊張したこと、南花君の虎御前の堂堂たる、蘆江君の十郎の、溶ける様に美しき。
総て絵の様なる--但[たゞし]絵にもいろ〳〵ありとだけは断つて置く。
第二の盛綱。
拙者の盛綱、何と云つてよいものやら、注進受で三段 足が落せなかつたり、長袴[なが]の裾を捌くのに大苦るしみをしたり、切首がグラグラするので汗をかいたり、たゞお察し下さいと云ふ。
鳳仙君の和田兵衛と猿冠者君の微妙これらはモウ玄人で為春君の信楽太郎のあざやかさ、煙亭君の時政の上手さ迂文君の伊吹藤内の軽妙さ、南花君の早瀬の女形振[をやまぶり]亦あつぱれ、蘆江君の篝火の旨くなつたにも真から感心させられた。
第三関の扉。
これは西男君の新作で、作者自身と清忠君とへ適[はめ]て書いたもの。筋は。
嘉祥二年の冬、逢坂山の関には墨染桜が咲いて居る、宗貞は亡さ関白恒貞公の菩提を弔ふべく、此地に庵を結んで居る、関守実は伴健岑[とものこはみね]である、承和の謀叛に逃れて、今は関守となつて居るが、再び謀叛の企てを藤原吉野が告げ、割符を渡し狼煙を合図に鏡山へ参ずる様に云つて去る、都にあつて謀叛あるべしと聞きし小町姫は、墨染の精の仮に法師となる恒貞に雪道を送られて関に来る、法師は消えて了ふ、そして仔細を宗貞に告げる、関守が怪しいと語り狼煙を合図に関を囲む様にと小町を帰らせる関守は斧にて桜木を伐らんとし、恒貞の精霊に悩まされ、トド狼煙の上るに関を出でんとし、反つて宗貞の狼煙なりし為め降る雪の中に捕はれる--幕。
といふわけで、西男君の墨染法師と清忠君の関守、作と伴に近来の適[はま]り役にて、流石に普通俳優の及ばぬ味を見せ、鳳仙君の宗貞亦よくつき合ひ、福子君の小町姫は美しきこと限りなく、孤軒君の藤原吉野は活字で組んだ左団次なり。
其他桜村煙亭猿冠者三君の旅の男女は、シツクリとこの新味気分に適つて、幕明きを引締めた。
第四の岡崎。
猿冠者君の幸兵衛と鳳仙君の政右衛門、共に手に入つたもの、為春君の志津摩はトント亀蔵、嘉久子のお谷は流石に泣かせ、拙者の夜廻りは、我ながら困つたテ。
第五の河内山。
猿冠者君の河内山、玄関の白[せりふ]の旨さかげん、溜飲を下げさせたり、西男君の大膳手心のあるだけ、楽にして舞台[ぶたい]を引立て、煙亭君の高木小左衛門、しんみりと締め、迂文君の数馬は洒落もの、桜村君の松江侯は、聊か新派の殿様といふ気味はありたれど。ふつくらとは出来たり。
第六の雪月花。
銀鈴会の長唄、出囃子、これは悪からう筈がなく、静江君の浅妻美しく、静枝君の鷺娘結構の至りにて、さて花の鞘当は煙亭君の不破成田屋、為春君の名古屋は市村そつくり南花君の留女も大車輪、金棒の柳君と吉田君は亦勿体ない程の出来なり。
と云たわけで芽出度く打出し。
右の通りに相違無之候。
『演劇界』4(9):65-69 1946.12
思ひ出深い素人芝居 [上]
田村西男
▲素人芝居は何人が創始したのかを知らない。落語子に曰はせれば、お正月や恵比寿講に、伊勢屋の旦那が、丁稚の定吉や飯焚の権助を役者に仕立て、下座は横丁の女師匠黒文字を頼み、店を舞台や見物席にして催したのに始まるらしいが年代は不明である。それがやゝ進んで、通人連が料理茶屋や寄合茶屋で催すやうになつたらしい。
[ ]芝居小屋で開催するに至つた大掛りの素人芝居は明治も末期になつてからで、呑気な江戸幕府時代にも、こればかりは無かつたであらう。芝居小屋で催したのは新聞社の劇評家の人々が、明治四十一、二年の頃木挽町の歌舞伎座で、若葉会の名の下で、会費金五十銭で開演したのが、日本開闢以来の出来事であつたであらう。
▲若葉会の芝居を開催するに至つた径路は、明治四十年二月頃、上野公園の三宜亭で、合槌社の人々がこれこそ理屈一切無しの素人芝居を催したのが、計らずも大好評を博したので、新聞劇評家三四の人々があの三宜亭のおででこ芝居がなんだ、チヤンチヤラおかしい、此方の腕前を見ろと、評者と通人が結束して若葉会が組織出現し、日本一の桧舞台、歌舞伎座で開催するやうになつたのであつた。
▲合槌社といふのは、尾崎紅葉先生が三宜亭派の俳句の連衆に付けた会名を、素人芝居に転用したので、出演者は岡村柿紅、渡辺水巴(渡辺省亭息)、高梨俵堂(高梨哲四郎息)、三宜亭の主人であつた筆者、市村俗仏は幕内主任、尾竹竹坡、上原古年、田代古崔の各画伯も同人で、竹坡と古年とは舞台にも立ち、大道具製作にも自ら筆を執つたのである。
▲合槌社の第一回の狂言は第一ヒレン、第二五条橋、第三カチ〳〵山、第四、幸田露伴先生作、術くらべの四つで、ヒレンとはフランチエスカーのヒレンのヒレンを取つで名題としたもの。五条橋は能がかりで、竹坡の弁慶、古年の牛若丸、カチ〳〵山は渡辺水巴の狸吉で、諸事団蔵張で喝采だつた。【
1905.3.8】
▲五条橋の背景は、竹坡、古年の合作で、衣裳は竹坡夫人の丹精に成つた。此日依田学海翁が見物に来て「一同感服」の四文字を唐紙全面に大書したのを、舞台の右方に掲出した。未だ開幕とならぬに、一同感服は良い〳〵と、石橋思案、江見水蔭の二先生は迚も喜んで居た。内藤鳴雪先生は「春の夜や夕べの悲劇の鬘下」といふ句をヒレン出演に贈られた。伊原青々園氏の[ ]君が疾患があるので、三木竹二先生が合槌社劇見物を知つて、三宜亭へ来られ、三木先生の診察を受けられたなどは、実に思出深いのである。
▲此合槌社劇の見物側は、文壇の名士雲の如く、集つた。(次序不同)依田学海、宮崎三昧、三木竹二、江見水蔭、岡野知十、柳川春葉、谷活東、星野麦人、其角堂機一、竹貫佳水、武田桜桃、石橋思案、岡鬼太郎、与謝野鉄幹夫妻、坂井久良岐夫妻、井上剣花坊、杉原栄三郎、藤沢浅二郎、渡辺省亭、結城礼一郎、宮川春汀、福田琴月、牧野賎男、生田葵山、水谷幻花、永井鳳仙、伊坂梅雪、岡本綺堂、栗島狭衣、鳥居清忠、斎木菊雨、まだ〳〵沢山で、こゝに書き切れない。猶ほ特筆すべきは竹坡古年、古崖合作の絵ハガキを来会者に贈呈したことと、上野の茶店中から餅菓子、寿司、塩煎餅の寄贈があつて、これを観客席の諸々へ皿盛りにして出した事であつた。
▲第二回を矢継ぎ早に開催する事になつたが、竹坡の令弟国観が、第一回の折には郷里に帰省中だつたが今や帰京、第二回には是非加入させろと言ふのであつたが、竹坡が稍不承知だつたのと、国観が加入すると、ヂヤヂヤ張つて、会の統制が取れぬからと同人の不賛成が多いので、然らば三四ケ月経つてから催さうと休会となつたが、合槌社劇はそれ以来永久に開催することなかつた。五条橋の背景は、私が大切に保管して居たが大震火災で焼失した。
▲合槌社が俳句会をそつちのけにして芝居をやつたのは其頃の文芸倶楽部に、弁護士高梨哲四郎等が、[ ]年根岸の別寮で、紳士劇をやつたといふ記事に刺激されたのと、三宜亭で、江見水蔭先生を中心とする文士連の幻花、佳水、菊雨、狭衣、東禹、仏骨等々が時々集合して漫談会を催し、余興に稲妻強盗捕物、心中物語、狭衣、西男合作振付のみこと踊り等をやつて興じて居たのが、合槌社劇となつた、一元素でもあつた。
▲明治四十一年の春であつたか、明星派の人々が、江東中村楼で芝居をやつた。与謝野鉄幹夫妻も出場、感傷的な狂言だつたと思ふ。合槌社の同人は甘いものだ、と言ふ顔付きで見物して居た。
▲彼の若葉会は、これに続いて組織された。岡村柿紅は当時中央新聞社に勤務して居たので、此会の会員となつた、合槌社から大歌舞伎へ一人出した訳であるが、水巴や俵堂は甚だ面白くなからたらしかつた。柿紅は杉贋阿弥の熊谷で、藤の方を勤め、伊坂梅雪が相模であつた。変な手つきばかりして居た。梅雪はその頃から保名で売込んでゐた。大切に保名を出し、今の菊五郎、三津五郎が蝶々の差金を勤めた。豪勢なものだつた。
▲岡鬼太郎は、公平天狗問答で公平を勤め篁村老人が、八代目ですねえと、肩をすくめ乍ら褒めた。贋阿弥が稚児姿で出て、小出緑水の侍臣の出が早かつたので、贋阿弥狂言中をも忘れて、馬鹿々々と連呼した。緑水は非常に不愉快で、それ以来贋阿弥の出る幕には出なくなつた。贋阿弥は馬鹿とは言はない、未だ〳〵と言つたのだと弁解した。だが狂言中に、台詞以外を連呼したのは事実で、如何にも素人芝居らしくつて嬉しいのである。
▲日蓮辻注説法で、狭衣の進士太郎は第一の好評で、狭衣は芝居が上手だと極めをつけられ、当人も其気にすつかり成り、後に役者本業の端を啓いたのである。岡本綺堂は天目山の武田勝頼で、幕が開いて、天目山上、華かな鎧で、威風凜々たるものであつたが開口一番、台詞の調子がテコ変なので、ドと悪落が来た。併し綺堂は芝居が好きで、悪調子を意に介することなく、平然として素人劇に出場を欠かさなかつた。
▲合槌社の同人は、若葉会の桧舞台進出を羨み、浅草寿町の国華座を借りて開演しやうと策謀し、市村俗仏を介して水野好美に種々世話をかけ、宮崎三昧先生の桜吹雪を脚色上演と決し、市川小半次を補導とし稽古を二三回したが、全部の出し物が決定し会計問題となり一日総費用五百円を前金との交渉を受け、何れも考へてしまひ、遂にお流れとなつた。水巴の父渡辺省亭先生之を聞き五百円ばかりの金で引下るとは、なんといふケチ臭い料簡だ、金は私が出すからと言はれたが、左様なると水巴に一目も二目も置かねばならぬからと、同人間これを危惧し、省亭先生の好意を無にして、芝居お流れとなり、同時に合槌社はこれを以つて滅びてしまつた。が其後若葉会が解散して毎日派文士劇が組織された時、俵堂と私はそれへ参加した。
▲贋阿弥は毎日新聞社に在つて軟派の主任であり、劇評家として一大権威をなして居た。若葉会解散後、社長島田三郎先生を説き、文士劇を社の事業として創設することになつた。幹部四人、贋阿弥、鬼太郎、綺堂、狭衣で、俵堂も私も言はゞ名題下で、この四人とは大層な差別があつた。岡氏は私に、此会は素人芝居で無く文士劇であるから、真面目であるやうにと、稽古の時などキチンと座り雑談が禁じられた。だが四人の幹部は雑談をしてゐた。且つ曰く吾等文士劇は現在の新旧劇に演出に慊らぬので生れたのであると、言ひ聞かされ、殊に贋阿弥と鬼太郎は松本幸四郎に対しで毎日新聞紙上で筆誅して居た。
▲毎日派文士劇には農学博士荒川重秀氏、学校の先生で荒川博士の親友の山本抜山(狭衣と私はヌケヤマといつて居た)美容術経営の人で小口紫水、洋紙問屋の名塩兄弟、女優に葛城文子、阪東のしほ、佐藤露英、特別加入として市川九女八、その娘菊子、それから栗島澄子は子役として重宝がられて居た。
▲私は毎日派文士劇の一人として籍はあつたが、どういふものか、四幹部とは役の上に差別があつて、よい役をくれない。巌谷小波先生はこれを不快らしく思はれてゐたものか、先生主催のお伽芝居があると、特に私を誘つて、天野雉彦、石川木舟と伍せしめ親切な支援をしてくれたのである。
▲それから早稲田の文芸協会が興り、毎日文士劇が解散し、贋阿弥独力の芝居が始り鬼太郎綺堂脱退して、私が重用され、東京座新富座、真砂座で隔月開演となり、別に画家と通人合同劇が市村座に始まる。贋阿弥が毎夕新聞へ転じ、毎夕劇が組織され、私は新聞記者兼役者として入社する。文士画家が勃興する。神田明神境内の開華楼坂本猿冠者は久しき前から通話会の名の下に三宅孤軒、森暁紅、平山蘆江、南条南華、中藤英哉を同人に我が料亭で素人芝居を常に開催してゐたが、通話会の大劇場進出を企画し、鳥居清忠氏に談合、鳥居氏は私の参加を求めるに至り必ず大劇場進出するを言質に私は通話会に加入、通話会は新富座に公演する運びとなり、昭和十二年日支事変直前まで、素人劇の通話会は全盛であつたが、十二年六月末の三日間明治座公演を終つて以来、時局に自粛、鳴かず飛ばざる状態となつてしまつた。所謂これが素人芝居史の概略である。
▲さてこれから此間に於ける思ひ出と、逸話、笑話のやうな罪の無い所を記述して見やうと思ふ。
◇
荒川博士の絶句 贋阿弥の阿新丸で荒川博士が入道で、私の入道の家来で、入道と私の二人の所がある。荒川博士は幕の明く前に、今日はどうも絶句をしさうな気がする。詰つて黙つてしまふよりか、何か言つた方が、テレなくていゝと思ふから、その積りで居て下さい、お頼みします。と前以つて絶句することを断られたので、私は、博士がどこで絶句するか、絶句したら此方で、うまく辻棲を合はさねばならぬと今か今かと、おつかな喫驚で居ると博士は小声で、頼むよと言つて、訳の分らぬ事を言ひ出した。私はうまく調子を合はして、自分の台詞をおつかぶせて博士の絶句を救つた。幕になつて荒川氏に訳の分らぬ事を言ひ出しましたね、何を言つたんです。と訊いたらABCDEFGHを抑揚をつけて口中で言つたんです。分らなかつたでせう。私にも分からないんだから。とあはゝあはゝと自分ながら可笑しがつて居た。
◇
小柄の軍次 若葉会の熊谷陣屋で、伊坂梅雪の相模の対談する白塗りの軍次、桟敷で見て居た饗庭篁村老人、栗島狭衣はいい役者です。狭衣は相撲記者で、あの男の父は綾瀬川といつた力士です。狭衣はだから立派な身体です。だのにあの軍次を御覧なさい。身体を小さく見せやうと苦心して如何にも小柄になつて居ますと、然るに何んぞ計らん、狭衣の軍次では無くて、永井鳳仙であつた。それ程鳳仙は狭衣に似てゐたのだつた。小柄の狭衣とは竹の家主人の正に適評だつた。
◇
菎蒻の弥陀六 若葉会の熊谷陣屋で松本某が弥陀六だつた。少々背の高い弥陀六で、これが為め贋阿弥の熊谷は、継足をして、弥陀六の背に負けまいとした苦心があつた。弥陀六が鎧櫃を背負ひ、制札を杖に立上り、床にのつて制札を突いて、キツト見得をする所が、足取りと杖の突立て方がツボにはまらず、左に突いたり、右についたりして、なか〳〵見得にならず、身体がブル〳〵顫へて、締りがつき兼ねたので、大向から、ヨオ〳〵菎蒻の弥陀六ツ。
◇
電車内の大声 岡本綺堂は迚も稽古熱心で、新聞の編輯が終ると、社の露台に出て、台詞の暗誦に、彼方へ行つたり此方へ来たりして、ノソリ〳〵歩きながら、頻りに発声法を研究してゐる。編輯の終る時間がきまつてゐるから、毎日同じ時間に、露台へ現はれる。お向ふの中央新聞の編輯から此の有様がよく見えるので、ソラ動物園の熊が始まつたと言囃した。動物園の熊は檻の中を、彼方此方へと常に歩いて居たからである。或日綺堂は社用で浅草へ行き帰りの電車の中で、台詞の暗誦を始め、初めは腹の中で研究してゐたが、段々と声が大きくなり、時にニヤ〳〵笑つたり、果は怒鳴つたりしたので、両脇の乗客は狂人だと思つたか立上り、車掌に、あの男は狂人だ、保護者無しで一人歩きは危険だ車内の迷惑だから降車させろと談判をされ、本石町の停留場で下ろされてしまつた。
◇
臼の中の台詞書 合槌社の時カチ〳〵山で、狸吉に締め殺される婆さんの役を無理に画家の田代古崖に振つた。古崖は背景なら書くが役者の方はと辞退したが竹坡がソンナ事を言はず出ろ〳〵と言はれ是非なく承知をしたが、当日間際になつて出来ないから断つた。そこで、私が引受けることになつた。台詞は相当にある。急場で暗誦が出来ない。市村俗仏が君心配することは無い。臼の中へ台詞書を入れて、臼をつきながら、それを読めば見物にも分らず、至極妙ぢや無いかと言はれ、成程と台詞書を臼に入れて置いて、愈々幕が明いた。婆さん役の独白となる途端台詞書を読まうとすると婆さんの台詞でなくつてヒレンの主人公の役で大まごつき、俗仏が後をつけてくれたが、カツとなつてゐる私は俗仏の声が耳に入らず、俗仏が段々声高になるので、見物嬉しがつて拍手喝采。
◇
吃りとなつた迂外 俳陣社主の小泉迂外は信州内山峠相立に閑居、六十何来の老躯、猶ほ矍鑠として俳諧にいそしんでゐるが、青年期には一度舞台を踏んだと聞いて本当かしらと疑ふ人も多からうが、斯くいふ私と共に読売新聞社が、未だ京橋の角に在つた頃、読売新聞読者懇親会といふやうな会が本郷座に催された時に大島宝水が読売の記者で、此会の肝煎であつたが当時連戦中の露伴作新八犬伝を上演したいから、迂外と私に出場せよ。猶第二には新婚の春とかいつた、左様でないかも知れぬが、益田太郎冠者作で、三人の男が聟の候補者として争ひ、大島宝水役の紳士が聟となるといふ筋、これへも出てくれといふ。迂外先づ承知をしたので、私も素人芝居大好きであるから参加を承諾した。花嫁は宝水と同じく岡野知十翁の半面派の俳人で市村燕子といふ美童で、私の役は無暗にくさみをする迂外の役は吃りである。女に二人は嫌はれるやうに出来てゐる。所が迂外吃の役に就いて吃の研究をなし、吃り工合が真に迫つたが、これがため一年程は吃り癖がついて、治るかしら、とどんなに心配したか知れなかつた。それに第一の新八犬伝は私の信乃燕子の浜路で、新派劇である、信乃の家へ浜路が忍んで来るところがあるが、私の着る衣装の色気が如何にも安つぽく。私は納らないのだが、これしか無い。といふので然らば自前のを着ると、私の好きな藍鼠色の御召を舞台に着用することになつた。母は、お前の一張羅を芝居なんかに着てよごすといけないよ。と不服だつたが、自分の好きな色気の着物を着なければ、芝居はうまく出来ない、汚すことをしないから大丈夫と、それを着用して私は心嬉しく、燕子の浜路と大いに恋を語り、若い男女学生の青春の血を湧き立たゝせたか何うかは知らぬが、最後に浜路が信乃の膝にうつぶして泣く所がある。二人はいゝ気になつて芝居をして、楽屋へ入ると、私の大切な着物の膝へ、コテ〳〵塗つた浜路の顔の白粉がベタリ、母には叱られる、しみ抜き屋へ依頼する、それでも膝は薄くしみになつてしまつた。この燕子は後に雁々と改名したがた夭死した。聞けば精神病患者となり、頻りに鐘を気にしてゐたといふ。アノ鐘は三井寺の鐘、あの音色は芝増上寺、アレアレあのごんと響くのは天王寺の鐘なぞと鐘の事を死ぬまで言ひ続けて居たさうだ。
◇
技芸神に入る 杉贋阿弥主催で、抱腹絶倒会と銘を打つて喜劇を主とする公演を三崎町の東京座で催した。中幕は私が脚色した八文字屋物の鎧娘を上演した。鎧娘は贋阿弥の注文で強い娘形がやつて見たいとのいふので、種々と古い本を引張り出して其碩の書いたのに聟を取つた娘が、其夜盗賊が忍び入り、聟をはじめ一家の者を縛り上げて、家財を奪つたのを娘が武道家であつたので、盗賊を懲らし、聟や両親や一家の者を助けた。といふのを、鎧娘といふ名題で出したのであつた、贋阿弥が、主役の娘、私が花聟、狭衣が熊坂長範のやうな盗賊の張本、いよ〳〵盗賊が乱入、私の聟を荒縄で縛つて、舞台へ押付けるといふ段取になつた時、西の下桟敷で、お父さんが縛られた。と叫んで泣き出した幼女があつた。それは私の長女秋子が五歳の時だつたと思ふ。鎧娘の幕が終ると、此日見物に来てゐた岡本綺堂が、私の楽屋へ来て、君が縛られたら、お父さんが縛られたといつて泣き出した女の子があつたが、君の知つた子かと聞いた。うむ、娘の秋子が見物に来てゐて、僕が縛られたので泣き出したんだ。と言ふと綺堂スツカリ感服して、イヤ娘を泣かせるとは、技芸神に入るとは此事ぢやよ。と非常に悦に入つた。綺堂は夜叉王に技芸神に入るの詞を此時分から用ゐやうと思つて居たかも知れぬ。何うだか。【鎧娘は1910.6.30演技座】
◇
聞えぬ台詞 川崎大師境内の都館?で筆で商売をする人々が集つて、素人芝居を催した事があつた。山口豊山といふ人が居る。此人は蒐集家で知られ後に麻布の花柳界で待合を出し、実は洋品店をも経営をしてゐたが至つて芝居好き、又た此時には井川洗崖画伯も出演、中幕に直待が上演され、井口菊奴等が清元を語つた。彼の山口豊山は金子市之丞、私が直待、洗崖が寮番喜兵衛、三千歳が根岸辺の誰かの二号さんであつたが、何しろ狭い舞台に、二重をかざつて入谷の寮であるがら、金子市之丞と直待の間隔は、座布団一枚敷く程しか離れてゐなかつた。金子市之丞の台詞は、私にも、三千歳花魁にも、寮番にも、少しも聞こえなかつたので、台詞の受渡しに迚も困つたのである。豊山に何故黙つて居たんだと聞くと、あれ程大きな声を出してゐたのに、見物は市之丞は唖かふ怒鳴つたが、どうして聞えなかつたのかと、不審がつてゐた。だが全く聞えなかつた。声を出してゐると当人は思つてゐるらしいが、初舞台には全く声が出ないものである。
◇
御馳走さま 新富座で文士画家劇が催され贋阿弥が河内山を出した時のことで宮崎数馬に中央新聞の社会部記者の野崎迂文が扮した。松江邸で数馬が御使僧様には云々といふ台詞があるが、御使僧様が御馳走様と聞えるのである。これを誰やら楽屋の某が、御使僧様が御馳走様と聞えると迂文にいふと、迂文頻りに苦に病んで、その翌日の舞台で、天から御馳走様といつて、今日は御使僧様と聞えたでせうと、楽屋の某に言つた。所が正に御使僧様と聞えたさうである。
◇
鬼の青い顔 東京座で博文館発行の少年世界の主催で御伽芝居が催された時、私は柄が大きいから、是非田村を買ふやうにと天野雉彦と石川木舟とが巌谷小波氏の使者で私の宅へ来て、鬼だましの青鬼を引受けてくれ、赤鬼は雉彦で、青鬼の方が主役だからと、小波作の脚本を置いて帰つたが成程青鬼の役がよいから引受けた。いよいよ当日になると青色の縫ぐるみ、顔は西洋絵の具で、岡野栄がこしらへて呉れた。初日に青鬼の出来がよいと小波氏に褒められ其の跡竹芝館で飯をおごるから、芝居が済んだら直ぐ来るやうにと言はれ、私は役者がお座敷に招かれたやうな気持になつて、急いで芝居風呂で絵の具を落し、人力車を飛ばして竹芝舘へ行くと、玄関に迎へた女中の二三人がドツと笑ふ。下足の爺さんも笑ふ何事かと出た来た女中も笑ふ。女将もゲラ〳〵遠慮無く笑ふ。何うした事かと笑ふ女中に案内されて座敷へ通ると小波氏はころげて笑ふ。段々様子を聞くと落ちたと思つた顔の青い絵の具が落ちて居なかつたのである。
◇
土蜘の衣裳 文士画家劇を市村座に開催した時の中幕に、伊坂梅雪が土蜘を出した。中幕が済むと、土蜘の衣裳が失くなつた。伊坂は役済みで帰つてしまつた。衣裳屋は吃驚していろ〳〵楽屋を捜したが一向に知れない。こんな事は、芝居初まつて無い。紐一本でも決して紛失は無いのに、土蜘の衣装が見えないのは何うしたものかと衣裳屋は青くなつてゐると、伊坂から衣裳屋へ電話がかゝつて、僕は今築地の某待合に居る、土蜘の衣裳を直ぐとりに来い、その時僕の着物を持つて来てくれといふ。聞けば伊坂は、土蜘の衣裳を着て舞台顔そのまゝで、築地の某待合へ、いつの間にか楽屋をぬけて遊びに行つたのだと知れた。
◇
見物二十三人 贋阿弥主催の抱腹絶倒会を東京座で開催した時、春桜が咲いてゐるのに、大層も無い雪が降り、楽屋入りも困難であつた。狂言は何んであつたか忘れたが、序幕の板付きに出てゐる私は、いくら芝居が好きでも、こんな時の芝居は有難くないなアと楽屋入りをして、序幕が明くと、見物はあの広い東京座の場内に九人だつつた。二幕目になつて二十三人となり、大切まで二十三人きりで、大勢かゝつて芝居をした。此時三日間で三千七百円の損耗、贋阿弥一人で借金を背負つた。当時の贋阿弥は全く芝居狂だつたのである。
◇
頭をコン〳〵 劇作家の仲木貞一が文士画家劇へ出たのだから面白い。新富座へ出た時勤王劇の「桜散る夜」の或武士が仲木君の役だつた。芝赤羽橋の花の夜で、桜の木立に寄りかゝつて独白の時に台詞がつまつてしまつた。すると鬘の上から、頭をコンコン叩きはじめた。後で聞いたら、原稿の筆が進まぬ時、頭をコン〳〵叩くと、新しい考へが出て、筆が進むから台詞を忘れたから、コン〳〵叩いたら思ひ出せると思つてね。と 【
1919.1】
◇
盛綱一点張 森暁紅は通話会員で、余興に開華楼で盛綱を出して、お世辞者が、結構だと言つたのを、スツカリ嬉しがり、自分も亦うまいと信じ、暁紅に芝居をしないかといへば盛綱を出してよければ、といふ返事で、とう〳〵死ぬ迄盛綱盛綱で、素人芝居と絶縁してしまつた。盛綱は帳場一時間半、この時を暁紅に進呈する度量のある素人芝居は無かつたのである。
◇
玄関トチリ 中洲の真砂座で文士劇が開催され贋阿弥が河内山、家老を狭衣、北村大膳を私、いよ〳〵玄関先で見露はしとなり河内山がサア〳〵〳〵と北村大膳を言ひ詰める、大膳堪忍ならず、もう此上はと刀へ手をかけるのがキツカケで狭衣の家老が次の間から出て、お待ちなされ大膳殿と咎めに入るべきが、家老が出て来ないのである。河内山も大膳も大いにテレる。見物は何うした〳〵と騒ぎ出す。贋阿弥困つてしまつて、何うしたんだな、困つたな、私も困つたなア。其間二分位、見物はわアわア騒ぎ出して、さも〳〵、私達に過誤でもあるやうに、河内山しつかりやれ、大膳、間違へちやいけないぞと、怒鳴り散らされた。二分といば当に長い。スルト狭衣の家老が、お待ちなされ大膳で、やつと出て来たので、芝居は再び続けられた。幕になつて狭衣は贋阿弥と、私の部屋へ謝まりに来た。その弁解に曰く、実は澄子によく言ひ含めて、お父さんの出場所はこのキッカケだから、知らせるのだと教えてあるんですが今日は私の出る時になつてキツカケを知らせに来たので遅くなりました、いつも、大膳が見露はして、河内山が、イヤこんな瓢輕者に出られちや為方が無い。といつたら知らせることに成つて居たのに、ウカウカ大臣柱の横から見物して、私の出場所になつてから急いで、お父ちやん出だよと知らせたので、部屋からこゝ迄来る間もあるので穴をあけました。事実が明白になり、贋阿弥も機嫌を直した。
『演劇界』5(1):56-60 1947.2.1
思出深い素人芝居・(下)
田村西男
▲芝居なのよ 明治座で演芸通話会が開催された時、三宅孤軒は鳥辺山心中を出し物にして、自分が半九郎、お染をいろ〳〵物色した結果、浅草芸妓の寿美龍に演つて貰ふことになつて、毎夜神田明神境内の開華楼で稽古を励んで居たが、何うも情合が移らない。濃厚な恋仲とは二人の間に見られない。寿美龍ヤキモキして、ねえ三宅さんもつと私の肩を抱きすくめて、ぐいと力を入れて手を握つて、私の顔を見つめてね。言はれて孤軒ヘドモドして、そんな事をしてもいゝのかしら。といへば、あなたに私惚れてゐる訳ぢゃないのよ。私には歴きとした旦那があるのよ。三宅頭を掻いて、分つたよ、分つたよ。
▲悪戯な雲助 横浜の喜楽座へ、文士画家劇を開催した時大切に鈴ケ森が出て、遠藤為春が白井権八で、雲助共をズタ〳〵斬捨てゝ、大いに気持ちをよくしてゐたが、二日目の千秋楽に、一人の雲助が棒切を持つて権八に打つてかゝつた。こんな雲助が出る約束に成つて居ないので変だと思つて一刀浴びせても舞台へ死んで仆れてくれず、権八の刀を鷲掴みをしたり、仆れても、直ぐ起上つて、又た打つてかゝるといふ始末に遠藤業を煮やして、誰だ、死ぬんだ〳〵といふ、雲助、死ぬものか。オイ誰だ。遠藤困り切る。死んでやるからあやまれ。遠藤是非も無く、あやまる。件の雲助は死んでくれた。芝居がハネてから、当り祝の席上遠藤が、僕は迚も雲助に弱らせられたが、全体誰の悪戯だ。舞台で御免御免とあやませられてしまつた。といへば、小出緑水があの雲助は僕さ。
▲雪の墨染桜 文士画家劇が新富座で催された時、中幕に新作「関の扉」があつた。御囃子は杵屋佐吉社中で、舞台稽古の時、佐吉が来て、種々と凝つた鳴物を研究したが、幕が済むと、鳥居清忠、永井鳳仙の両画伯に、舞台の真中にあの大きな墨染桜が満開だのに、大雪が降るのはいゝとして、上は桜の枝に蔽はれてゐるのに雪布が敷いてありますが、そんな筈は無いと思ひます。枝の下だけは雪布を除いた方がよくはないでせうか。永井鳳仙は、見た感じが雪布のあつた方がよいし、変化物だから雪布が敷いてあつても構はないぢやありませんか、といへど佐吉、自説を固執して譲らず、雪布を徹せねば、御囃子を勤めぬらしい気色に、清忠画伯が仲に入って、樹の下へは雪布を敷かぬことにした。佐吉これをいつ迄も得意話にして居た。
▲涎くりと三助 新富座で毎日新聞社文士劇の時、中幕に寺子屋。涎くりが山本抜山といふ英語の先生とか、此人太訛りがあるが、至つておしやべり、その上大車輪。三助は西男で、二人の舞台になつて抜山の涎くりが、至つてくさい事をして見物を笑はせる。笑ふものだから抜山ます〳〵得意になつて勝手なことを言つて、いつ迄も切りがない。西男の三助は気が気でなく揚幕へ引込むと、それを見送つて涎くりが、源蔵が帰つて来たと殊勝になるのが、いろ〳〵-人芝居をやるので、岡鬼太郎の源蔵、いつまでも揚幕から出られず、漸く出て寺子屋の格子をあける。涎くりが出てお帰んなさい。といふと馬鹿めツ。
▲井上の深謀 通話会で大尉の娘を上演、父を三宅孤軒、娘露子を田村秋子、毎夜毎夜深更まで開華楼で稽古をしてゐた。中幕に新作「金鍔」を上演、奉行の娘を水谷八重子が演ずるなど、なか〳〵の豪華版であつたが、井上正夫は大尉が持役で、既に花柳章太郎の露子で当りを取つたので、誰人かゞ通話会で大尉の娘を上演すると井上に通ずると、失礼だが私が出向いて指導役を為様と、一日開華楼へ来て孤軒と秋子の稽古を見て居たが、こゝへ花柳を呼んで、私と二人でやりますから、それを御覧になつて、工夫をして下さい。この言葉に通話会全員が大喜び、井上は、此時に金鍔の奉行の娘小藤の稽古に来てゐた八重子に、八重子ちやんもよく見て置きなさい。といふ、花柳の居所が分つて、今直ぐ来るといふ返事、程無く来て井上、花柳の実演、其翌日も井上、花柳が来て急所急所を見せてくれたので、孤軒と秋子は凡てを習得、開演となつて舞台効果偉大であつたが、一ケ月程を経た浅草みくに座で井上の大尉森田、八重子の娘露子で、大尉の娘が上演された。井上が通話会の稽古を花柳を呼んでつけた時、八重子によく見て置きなさい。とは、こゝに在つたのだらう。花柳を招んだのは八重子に見せるためであつたのだ。と坂本猿冠者は井上の深謀を当時力説したものだつた。【
1923.6.27】
▲懐から股引 市村座で通話会劇極付幡随長兵衛を上演、山村座芝居で、白柄組の暴虐、此時に舞台番に扮して出て居たのが鈴木貫ちやんといふ人、坂田某に扮した西男が、貫ちやんの舞台番の胸倉を取つてグイグイと花道スツポン辺り迄引張つて来る。貫ちやん小さな声で困つたな〳〵といふ。何が困つたのかと思つたら、貫ちやんが腹ぶとん代りに、メリヤスの股引を丸めて入れて置いたのが、胸倉をとられて、前がハダケ、股引がダラ〳〵と胸からぶら下り、既にメリヤスの猿又は、落ちてしまつてゐるのだと分つた。その猿又たるや随分黒くなつた猿股だつた。
▲堀端の中間 文壇の寵児川口松太郎さんが、通話会で丸橋忠弥堀端の三人の中間の一人に扮して、とてもうまかつた事を記憶する。洒落気のあつた人だつた。
▲演説の持腐れ 通話会が伊勢の松坂の有志に招待され、津と松坂で開催する約束で一同出発した。伊坂梅雪曰く、必らず知名の士が通話会の幹部連を招待する宴席があると夙聞する、就いては先方では通話会劇招演の辞があるに違ひないから、此方からそれに対して挨拶の答辞が無ければならない、予めその人を極めて置いて答辞に就いても略ぼ草稿をつくる必要がある。鳥居清忠画伯曰く、それは伊坂君に頼まうぢや無いか。一同も賛成をしたので、伊坂は演説の草稿を書き懐にして、伊勢へ旅立つたが別に招待も無かつた。伊坂期待外れ、僕の演説は一体、何うなるんだ。 【
1924.7.25】
▲開華と花屋 通話会の出し物を決める時だつた、料理店、花屋の主人たる南条南華ひらき直つて曰く、私も花屋の南華です、開華の坂本さんが出し物をなさるんですから、花屋としても出し物をせずには納まりませんと、料理屋の沽券が、先づ出し物の先決問題となる。料理屋組合の参与で通話会の役者三宅孤軒曰く、芝居と営業の混同は嬉しくないよ。
▲定九郎の足 帝劇で文士画家の連中が忠臣蔵をやらうと、その役割を決める時、定九郎希望が三四人居た。 鬼太郎曰く定九郎は足の恰好のよいのでなければ見た眼が悪い。何しろ舞台へ、足をヌツと出して死んでゐるんだから恰好が悪いのは、定九郎役者として落第だと、希望者に自省をさせたその裏には、実は自分が此役を演りたかつたので、余り足の講釈をしてしまつて、扨て自分の足は恰好がよいとも言へず、自縄自縛になり、少し足に就いて言ひ過ぎたと思つてゐると、鳥居清忠画伯が折柄来て定九郎の役が決まらぬと聞き、岡さんがなさらぬのなら私が頂戴しますると貰つてしまつた。清忠画伯はデブ〳〵の人、恰好からいへば落第ものだが、真向から頂戴しますと言はれてしまつたので、定九郎を欲しがつた岡さん、私がやりたいとも言へず、鳥居さんなら定九郎は、ハマリ役でせう、は、聞いて居た人、さすがに岡さんは松竹の奥役であると、褒めたやうな皮肉なやうな。
▲花道の法界坊 斯くいふ私が法界坊を新橋演舞場の通話会劇で出した時の事で、菊五郎に、大七の鯉魚の一軸の件りを聞きに行くと、君なぜ双面を踊らないのだ、あの所作を出さなけりや、素人芝居の値打はない、それにスツポンから出る時の気持ちのよさといつたらないよ。同じ出立のやさすがたで、しのぶ売で出ると視線が一人に集つて、日本一の役者になつてしまつたやうな気持ちになるよ。だから、全部踊れとはいはないから、花道のくだりだけ踊りたまへ、うつら〳〵と迷ひきて、と、花道から舞台へかゝつたら、制規の時間が過ぎたから、と頭取に言はして幕にすればそれでいゝぢや無いか、是非花道だけやりたまへよ。斯う言はれて私も踊る気になり、踊の素養些も無いのに、神田明神脇に住んでゐた若柳吉佑さんに無理から頼んだところ、花道だけで無く、スツカリならば引受けて稽古をしやうといふので、私は大胆にも全部踊る気になり、スツカリ稽古をして、通話会劇三日間を演了したので、菊五郎の宅へ礼に行くと、君皆な踊つたさうぢや無いか、えらい〳〵、どんな風に踊つたのか、花道の所だけ、踊つて見せたまへと。菊五郎一人の前で、私が踊れるか踊れぬものか。私は便所へ行く風をして逃げ帰つてしまつた。
▲下敷の悲鳴 巌谷小波氏の肝煎で、合槌社の喜劇の連中が芝公園の紅葉館で、小波氏作の「誕生日」といふ喜劇を上演し、岡村柿紅の泥棒が主役で、この泥棒が洋服箪笥の中に隠れる所がある。柿紅いよ〳〵隠れやうとすると、どうしたはづみか本物の洋服箪笥が倒れて、柿紅下敷になつてしまひ、直ぐ幕にしたが、柿紅が助けてくれ、助けてくれ、と悲鳴をあげたのがいまだに耳に残る。
▲維茂の鼾 通話会盛なりし頃、会員に市会議員の柳下さんが居た。柳下さんは川柳家で也名貴の号がある。柳下さんが紅葉狩の維茂の役で、姫の舞ひの件りで、本当に鼾をかき出した。キツカケが来ても眼を覚さないので、後見が後からついて起して漸く眼が覚め大トチリだつたが、酒宴の銚子の中ヘウヰスキーを入れて、飲み過ぎたのだと分つた。曰く更科姫がのませたのは、正にウヰスキーだらうと思つたから、真に迫らうと思つてのんで見たのさ。
▲海上と上海 猿之助さんの弟市川笑猿君も通話会劇に加はつた事があつた。それは明治座の「金鍔」で金鍔治兵衛を捕へに行く捕手頭で、過日来より海上見廻り居りたるに、といふ台詞があるのを、稽古の時海上を逆に上海と読み、上海見廻り居りたるにとロを辷らしたので、舞台監督が注意をしたので、稽古中は海上といつて居たが、イザ初日となると上海、二日目も三日目も上海。笑猿曰く、ちやんと知つて居て、あすこになると上海と出てしまふんで、魔がさすとでもいふのでせうか。
▲大風と白粉 田中煙亭老は大の芝居好きそれ故通話会劇の老役として重宝がられて居るが、嫌ひなものは風の吹くことで、風を非常に恐れて、風が吹いてゐると外出を見合はせる。市村座で開演の時、煙亭老は序幕のだんまりで色若衆だ。老役の煙亭君白粉を塗りたがるので大喜び。所が二日目に朝から大風だ、風の時は外出を見合はせるのは、楽屋中知つてゐる。風のやむのはいつだか分らない。序幕のだんまりが出ないで、待つとなると、押せ押せで時間が詰つたら、影響する所大きいと、案じてゐると、煙亭が辛うじて着到した。三宅孤軒が風の吹くのによく来られましたねえ。といへば、色若衆で、白粉を塗ることを思へばね。【
19260329か】
▲文士劇の由来 毎日新聞社文士劇が発足する時、文士劇と名乗るのは何うかといふ議論があつた。自ら称して文士劇といふのは、何んだか耳障りだといふ人があつたが栗島狭衣が、だつて文士相撲といふのがあつて、江見水蔭さんが名付けた。といふと岡鬼太郎も、文士劇は合槌社の劇評を書いた、江見さんが、文士芝居と書いたから、文士劇といつても、差支もあるまいと、文士劇を用いることになつた。聞く所によれば、国技館の名付け親も江見さんだとか、狭衣がいつた事があつた。
▲僕の台詞 通話劇で、猿冠者の新三、孤軒の弥太五郎源七、閻魔堂橋の出会ひで孤軒、グツとセリフがつまつて、少しとちつたが、黒衣がつけたので、あとは無事に行つたが、楽屋へ引込むと、猿冠者に、オイオイ僕のセリフを覚えて居てくれなけりや僕は困るぢや無いか。
▲芸人御断り 演芸通話会劇へは芸人の加入をさせなかつた。我々素人芝居へ、芸人衆が加入したら、それに落をとられるは知れた事、それに素人劇の本領を失ふからであつた。そこで若草会にしろ、毎日新聞社文士劇にしろ、女形以外に本当の役者を交へず、時に立廻り位には、本物を使つた事があるが、ツマリ芸人を交へなかつた。通話会でも芸人御断りだつた。スルト二三幹部と深交のある太神楽丸一の小仙は、通話会加入を申込んで来た。雖然会全員は、芸人たる小仙を入会させる事を拒んだのであつたが、小仙側支持者は曰く、それなら何故常磐津仲蔵を加入させて、関の扉の墨染をさせたのだ、仲蔵は芸人ぢや無いのかと突込まれ、成程仲蔵に例があるから小仙を断れない。芸人も仲蔵、小仙に限つて入会と落着したが、仲蔵加入については、仲蔵の一門が、常磐津に出てくれた好意があるので、自然と仲蔵が加入したやうな訳で、小仙の入会とはそこに径庭があつた訳である。
▲播磨を罵倒 明治座の通話劇で、三宅孤軒が番町皿屋敷を、左団次張りで溜飲を下げた初日の打出し後、孤軒は西男を誘つて、柳橋の松葉へ行き、土地の姐さん株を十五六人招んだ。その中で二十二三の芸妓が、孤軒に向つて、あなたの播磨は左団次の油絵をまた油絵にしたやうよ、とか、あの時の恰好は珍型だとか、寿美龍さんのお菊がかあいさうだとか、幕切れの引込みが気がはいらないとか、孤軒の青山播磨を頭から罵倒してゐるのは、今日見物に来たらしいのだが、余り罵倒するので、孤軒つぎ穂無く、ニヤ〳〵笑つて、盃をなめてゐるのを見兼ねた西男が、君、今日見に行ったんだらうが、初日だから我慢をしてやるさ。といへば、三宅さん、あれで舞台へ出る度胸がえらいわ。と、ます〳〵悪罵するので、西男ムツとして、オイいゝ加減にしたがいい、我々のは素人芝居なんだ。うまい〳〵とおたいこを叩いてくれゝば、それでいゝのだ、真面目くさつて、芸がどうのかうのと、三宅は君達と懇意だから、何を言はれてもそれでよからうが、親友の僕として、今のやうに棚卸しは腹が立つて成らない。君だつて愛嬌を売る芸妓だ、先輩の芸妓も居る前、少し口を慎んだらよからう。斯うキメツケたので、一座の芸妓もヒツソリと成り、悪罵芸妓はきまり悪く帰つてしまつた。翌日楽屋で孤軒が、夕ベはとても溜飲が下つた、あの芸妓、生意気で通つてゐるんだ。と、孤軒感謝して、その夜も西男をおごつた。
▲結婚披露余興 随分変挺古な素人芝居を明治座で催した事があつた。左団次がお栄夫人と、今夜、結婚式を挙げるので、今日は入場料を半減して昼間だけ左団次等の本興行があり、夜は私達の素人芝居で、昼間の客は居残つて無料といふので出勤素人側は岡鬼太郎、竹柴秀葉、永井鳳仙、田村西男、といつた顔触れ、国姓爺と、五人男とを出した。国性爺が済み、五人男の浜松屋の幕があく時、結婚披露を済ませた、左団次夫妻が、向正面へ陣取つて、吾々の急稽古の浜松屋を見て、ゲラ〳〵嬉しさうに笑つて見物して居た。鬼太郎渋面つくつて、我々の芝居を結婚披露の余興にしてゐるんだ。あゝいゝ面の皮だ。
▲島田のてがら 明治座の通話会劇、番町皿屋敷の、山王の石段の幕があくと、桜の木の下に出茶屋、茶店の娘を、神田芸妓の小豊がやつてゐたが、島田のてがらが、ダラリと解けてゐるのを、下手大臣の後で娘の舞台の出来栄如何と、心配して見てゐた小豊の母が手がらの解けたのを見て、ハラハラして、手がらが〳〵と、頻りに手を振つて注意するのが、大臣柱の外へ手が出るので客席は大笑ひ。
▲馬へ乗る足取 馬へ乗るのは馬の首が左の時は左足から、右の時は右足からだといつも注意をする鳥居清忠画伯、市村座の通話会で、本山荻舟さんの日蓮が上演されて清忠画伯は日蓮の役で、馬へ乗る時、馬の首が左なのを右足から乗つて、ハツと気がつき、左から乗つてトチラずに済んだが、清忠画伯部屋へ戻つてすんでの事で首の無い馬に乗るところだつた。何しろ僕が馬へ乗らうと手をかけるかかけないのに、馬の脚が、痛い、痛いと、小さな声でボヤクので気がひけてねえ。と、併しそれは言訳にはなりませんと、坂本猿冠者が半畳を入れた。
▲花道で立止り 市村座の通話会劇、お祭佐七が小糸と料理茶屋から睦じさうに出て来るのを、敵役の倉田伴平が出て、くやしがる所で幕になるのだが、倉田伴平が何うしたのか出て来ない、佐七と小糸はキツカケがつかないので、花道に立止つて、途方に暮れる。此日西の桟敷に見物してゐた花柳章太郎、思はず声をあげて、倉田伴平さん、出て下さいよ。で見物嬉しがつて大笑ひ、これをキツカケに狂言方が気を利かして木を入れたから、幕になつた。
▲実演耳障り 坂本猿冠者が明治座で、勧進帳の弁慶を演じた時、神田の若い芸妓が楽屋へ来て、旦那(猿冠者の事)の弁慶の実演拝見して結構ね、羽左衛門さんの弁慶の実演とそつくりよ。と、実演は如何にも耳障り、僕を活動の役者だと思つてゐる。
▲芝居より角力 三宅孤軒の勘平、西男のおかるで、浅黄幕が落ちると、二人寄添つてゐる見得、見物の一人が、二人とも大きいな。芝居より、あの扮装で相撲をとつたら人気が湧くだらうに。
▲景物は市丸 浅草の花柳界を中心にあさぢ会といふ素人劇が組織され、春秋二度宮戸座で開催したものだつた。芸妓屋側で一松家、福助、料理屋側で大増、銀鍋、待合側で伊勢徳が幹部であつた。一松家が勘平銀鍋がおかるの時、一松家宣伝して曰く、私達のおかる勘平はどうでもようございますが、何しろ市丸が立で唄つてくれますから、これが外では出来ぬ御景物でしてと、全くその通り、どうして小唄の市丸が清元に出るのかと思つたら、市丸は永らく一松家の抱へで世話になつてゐたからだと分つた。
▲納まらぬ暁雨 文士画家劇が市村座で催された時、久保田金僊画伯が参加して、春雨傘の暁雨に扮し、釣鐘屋庄兵衛の乾分は羽左衛門の弟子達が手伝ひに来てゐた。仲ノ町の出会から、並木の暗討迄で、金僊画伯大納りで演つた。羽左衛門の弟子の一人がお世辞に金僊画伯に、先生の暁雨は家の旦那(羽左衛門の事)そつくりです。といふと、オイ僕は団十郎張でやつてゐるんだぜ。
▲四段目の諸士 通話会劇で忠臣蔵が出て四段目の諸士には会員全部出演といつても少数、殊に門外には諸士相当の数が要るが役者兼奥役の猿冠者は、この人頭を何うするかと、稽古の時孤軒などひどく心配して居ると、いよ〳〵初日になると、門外など相当の諸士が出たので、どこから集めたかと思ふと、見番の箱屋、理髪店の亭主、車宿の若衆、下足番、八百屋、魚屋の若衆、その友達等々々、毎夜遅く開華へ集めて、四段目門外の稽古だけ、つけてゐたのだと分つた。
▲素人芝居脱退 前進座が勃興し、猿之助一党が団結して歌舞伎劇の更新を叫んだりした時、演芸通話会にも、中堅の二三が、幹部専横を叫び、浅草仲見世の宇治の里主人小宮君を盟主として、会を脱退して別派を組織して、飛行会館あたりで一回催したが、素人芝居の脱退はその当時だけ鵜の真似のお笑ひ草だつた。
▲通話会の満員 演芸通話会は東劇、新橋演舞場、明治座、本郷座、市村座で永い間開催した。興行日数三日間で、開場の度毎に超満員で、松竹の大谷氏の如きは此の景気をスツカリ嘆服し、素人衆だから給金が無い。それで此の超満員だつたら、随分儲かるだらうといつたさうだが、事実は一階の一等席だけが会員席であるばかりで他は全部招待者なので、これだけの人を集めて見て頂く苦労は並大抵で無い。見物が無ければ張合が無い。入場券を握りつぶしをしないやうな人に呈上する骨折りは初日が出る迄に役者達の苦心一通りならずである。大谷氏はそれを知らなかったらしい。
▲子方と大方 通話階劇の勧進帳、猿冠者の弁慶、孤軒の富樫、南条南花の義経といふ役割、これを観に来たのは観世某、つくづく感嘆して、能と芝居の区別が、ハツキリと分りましに。早い話しが義経です。能では子方、芝居では大方です。と全く然り殊に南花は通話階中での背高ノツポなり。
▲竹の家の掛声 話は少し古くなるが三崎町の東京座で杉贋阿弥を盟主として喜劇文士劇大会といふ名で催した時、黄表紙仕立の「暫御免」といふのが上演され、杉贋阿弥の女兵法家浅尾菊葉、田村西男の花岡蔵人で、舞台は今や、菊葉が父の敵蔵人を討たんとしたが蔵人の凜々しさに、討たんとする刀がにぶる件があるが、東の桟敷から、ヨオ〳〵田西、田西と酔払つた人の掛声があつたので、幕になつて誰かと思つてゐると、栗島狭衣が、饗庭竹の家主人酔払つて、田西、田西といつて居たぜと、竹の家主人の掛声は、これが恐らく始めてだらう。
▲おかる下りず 帝劇で忠臣蔵を出して居た千秋楽の翌日、文士画家に忠臣蔵を出させ、女形は二期生以下の女優にさせた。七段目で、鳥居清忠画伯の由良之助、木村重子といふ女優のおかるで、九ツ梯子を下りる時になつて重子のおかるは、中二階から下を見て、梯子でおりる事が恐くなり、もぢ〳〵して下りられず、チヨボの重寿太夫はうむ〳〵言つてのばしてゐる。由良之助は早く下りてくれといつても、重子は、私恐くつて下りられません、由良之助も困る重寿太夫も困る。後見が重子をうしろ抱いて恐がるのを漸く下した。由良之助ホツとして、かる下りてくれたか、どうなることかと、心配した段では無い。と清忠画伯の当意即妙の捨台詞で、ヤンヤと大受け。【
1914.11.23 由良之助が異なるが】
▲雁首の煙草 横浜の喜楽座で、松竹の遠藤為春が弁天小僧をやつた時、浜松屋のユスリで、番頭のキセルを借りたはいゝが、持ちつけぬ煙管、雁首へどの位タバコを詰めてよいか手加減がわからず、いつ迄もタバコをひねつてまご〳〵して居た。
▲花道を派手に 東劇で通話会劇の時、「椀久色神送」で浅草の寿美龍が傾城松山で狂人になつた椀久の後を追ひ探して、上手から出て来るのを、二日目には常磐津浄瑠璃につれて、花道から出て来た。幕になつて聞くと、上手からだと見た目が悪いから、花道から派手に出たんです、狂人を追ひさがして、あても無く来たんですから、どこから出ても構はないと思つてね。御免なさい。と作者にあやまつて居た。
▲駕昇長兵衛 開華楼の坂本猿冠者、店の帳場に真面目な顔をして、重いものは筆、せい〴〵算露盤位を持つて、お客の勘定書を書くのが其日其日の勤めぐらゐで、至つて楽な生活だが、芝居となると案外力業をする。その中でも法界坊で番頭長九郎の役で、四ツ手駕へおくみを入れたと思つて縄でからげ、その駕を一人で背負ふて、花道を下座の三味線に乗つて、おくみさん、おくみさんと引込むのだが、とても駕を背負ふのは楽ぢや無い、もうこり〳〵だといふ。それから一年程経つて、又た法界坊が上演されると猿冠者が又た長九郎の役を振られた。重い駕を背負ふので、さだめし役を断るであらうと思ふと、快よく引受ける。孤軒が長九郎はコリ〳〵だと言つたのに、役を引受けるのかといへば、考へると長九郎は面白い役だ。駕の重い位何んでもない。前言取消すよ。と、どこ迄も猿冠者に芝居淫乱。
▲矢衾を忘る 素人芝居一方の大関白山の島田天涯が甲府の桜座で妹背山の御殿で弥藤次を勤め賀状を読み上げ一旦引込んで、楽屋へ引込みこんな役ぢや汗一つ出やしないと、鼻を蠢めかしてゐると、東京の白山から芸妓衆が御面会ですといふ。楽屋へ通す。知つた顔でお遣ひ物持参、天涯納まつて、まあいらつしやい、さこちらへと、鬘をとり衣装を脱いで、話し込んでゐると、弥藤次二度目の出、弥藤次矢衾の出ですよといつても間に合はず、鱶七に大カスを食つて、済みません〳〵の連発。
▲蘆溝橋事件 演芸通話会は昭和十二年六月末の三日間を以て公演打切りとなつたやうなものだ。坂本猿冠者にしろ、三宅孤軒にしろ、もう一度でいゝから、焼残つた東劇でやりたい、といふ希望はあるが恐らく出来ずしまひと思ふ。その最後ともいふべきは六月末だつたが、若し一週間後れて開催すれば支那事変の序幕たる蘆溝橋事件に打つかつて折角お膳立をした公演もポシヤになる所 その損失甚大であつたと、いまでも三宅孤軒が述懐するのも無理ではない。損失よりも、折角の稽古を無にして落胆失望頗る甚大であつたに相違ない。
『このみづ』復興4:11-12 1947.3.25 【
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故田中煙亭を偲ぶ
三宅孤軒
けむさんー。
私達同人は故人の事を斯う呼んでゐた、私達同人とは『演芸通話会』と呼ぶ素劇団で、元は杉贋阿弥、岡鬼太郎氏等に依つて始められた『文士画家劇』の跡を引受けて、その残党に新顔を加へて出来た劇団で、煙亭さんは元祖組みの一人であつた、演芸通話会は素劇団として、東京の大劇場中、歌舞伎座を除く外は明治座、東劇、新橋演舞場などで、毎年春秋二回、三日間宛公演して、いつの時も満員の盛況を極めるやうになり、東都劇団の年中行事の一つとなつてゐたが、煙亭さんはいつの時にも、顔を見せてゐたし、手堅い芸風には相当のひゐきもついてゐた、いろ〳〵の当り役が思ひ出されるが、中でも『合邦』などは得意の役であつたのも、好まれてゐた義太夫の腹がものを云つたものだと思ふ。
高ぶらず、威張らず、上下ともによき交際ぶりであつたため、私達同人が云ふ『けむさん』と云ふ呼び名にも、少ならぬ尊敬と親しみを含んでゐた。
伊勢の松坂、津などへも、土地の新聞社の招聘に応じて旅興行にも出た、それと同様な企てゞ、新潟へ行つた時、土地の芸妓連中の地で『勧進帳』を中幕に据へ、煙さんは富樫を勤める事になつてゐたが、水が変つたせいか喰ひ物にあたつたゝのか、乗込み早々下痢を始めたので大騒ぎを演じ、立てつゞけの下痢止めの薬を呑ませたゝめ、幸ひ下痢は止まつたが、今度は糞づまりで、富堅の左ヱ門を苦しめた事があつた、その時、一行の茶目が糞づまりの呪いだと云つて、何やら紙に書いたものを細紐に巻き込み、これをおへそへ当て腹を括つておくと、便通があると云はれたので、煙さんの富樫はその云ふがまゝの、細紐で腹を括つて無事に勧進帳一幕をすませたが、お呪ひは一向にきかぬので、一体何を入れたのか、と中を調べて見ると、子規先生の『糞づまりならば卯の花下しませ』の句であつた、けれども煙さんは別に腹も立てず、笑つてゐた、私はそれを煙亭さんが俳句にしたしまれ、俳人として一方の雄であるからだと眺めてゐた。
演芸通話会がまだ素劇団として旗揚げをせぬ前は、森暁紅君が主宰してゐた博文館の文芸倶楽部へ、色々の標題をとらへて、同人の座談会記事を発表してゐた、記事は故鈴木春甫君がまとめ役で、今月どこの雑誌でもやつてゐる座談会記事や、対談記事は、実は此の演芸通話会が文芸倶楽部に発表した形式などは元祖とも云ふべきもので、煙亭さんは此の座談会の中心をなす位ひ、多趣味で、且つ相当豊富な意見も持つてゐた。
同人の集りで酒宴でも開いた時、輪番で何か芸でもやる時は、煙亭さんは襷がけの姿で立ち上つて、『鼻毛の一曲』と云ふのをよくやつた、鼻の穴から一本の長い鼻毛を引き出し、それを立てものにしていろ〳〵の芸をやるので、その手つき、その声、身ぶりなど堂に入つたもので、鼻の上に立たつもりのその鼻毛を、腰を据へて、下座の『かにまやふ・・・・・・』か何かの地唄につれてのこなしは、正に売り物になる位ひだつた、あの謹厳そのものゝやうな煙さんの、日常とは似ても似つかぬ奇声を発して、豆造もどきの表現は、今でも瞼にある、賑やかな地囃子につれて、『鼻毛は元へとぎやく戻り、ホイ来たい!』と手つき、腰つき、身ぶりもおかしく、鼻毛を除々に鼻の穴へ戻すまで、何度見ても涙が出る位い、おかしい芸の持ちぬしであつた、俳句も、義太夫も、素劇も、決してマヅくはなかつたが、蓋し此の鼻毛の一曲ほど、万人をアと云はせるものはなかつたと思ふ、と斯ふ云ふと、地下の故人は怒るかも知れないが、私はそれほどけむさんの鼻毛の一曲を忘れる事は出来ないのである。
(三允)煙亭即ち塵外明治時代からの古い俳人であつた。又義太夫の批評家としては古い時代は黒顔子後金王丸の号を使つた。