赤城妙人 義太夫雑誌2巻1号 p26 1895.5.15
PDF
姓は桜井名はヲツ明治九年十月府下牛込区上宮比町に産る親は八百屋を渡世とし同人十二歳の時七年の年期にて小住の門に入り芸名を住八とし口語りをなし居りしが一二年の内に芸道頓に上達し時には師の代理を勤むるまでに至りしかは宮松、東橋、小川等の席主と愛顧[ひいき]連の尽力により住之助と改め真打となりしは僅か四年の後なりしが至る処大入を取ざるはなかりし以て其芸の如何に上達せしかを知るへし翌二十五年の秋師の小住は故ありて睦派を脱し其頃上京の小土佐を初め素行、団玉、綱巴津、栄糸、清玉、鹿の子等と謀り別に正義の一派を組織して暗に睦派と競争の傾ありしが暫くにして帰国する者あり睦派へ裏反るものあり終に小土佐の一座と自分等の二組に止まるに至れり折柄仙台の松島座より招かれ是非なく同地に一興行を演し後ち一二の他座を回りて十二月の中旬に帰京せしが翌二十七年四月再び地方に出で新潟、山形等に興行し七月頃秋田に移りしが突然肺炎を患ひ遂に養療相叶はず九月の十七日帰らぬ人の内に入れり聞くが如くんは生平品行正しくして芸を磨き且つ友愛の志あつく人を撰はず殊に己が身にして毎も口語のものを労はりしと惜哉此人時に年十有九