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【 久保田金僊 黒衣朗読会に列りて 】

(2025.02.28)
提供者:ね太郎
 
 公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館の蔵書を使用した。
 太棹 16 17ページ 1930.7.28
 
黒衣朗読会に列りて
   久保田金僊
 
 坂本氏が主宰してをられる黒衣朗読会へ出演する約束をしてから、日頃多忙の為め、幾度か違約して申訳がなかつた、ところが六月の同会には出演することを確答して、本藏下屋敷の若狭之助を引きうけてしまつた、けれども思ひかへして見るとそれは甚だ無暴なことで頗る軽卒の至り--去りとて今更ことわることも出来ず、これまであまり違約した関係上、どうでも今度は出演せねばならぬことゝなつた。
 芝居と違つて朗読会は台本を見て台詞を云ふのであるから、其辺は多少心やすいといふ考へであつたが、然るに実地当つて見ると全然それは反対で、寧しろ芝居の方が遙に楽であるといふことを悟つた、と同時に朗読会のむづかしいことをつく〳〵感じた、最も従来朗読の経験はないでもないが、之れは多く新らしい脚本のみを読んだ、時代もの、しかもデン〳〵ものは全く今度がはじめで、これが芝居であれば扮装によつて少なくとも八十パーセントは償はれ、其上動作があるから拙いながらもどうにか若狭之助になり得ることも出来るが、単に本を読むだけで其人物を顕はすのであるから、殊に黒衣一着、眼鏡をかけた髭のある若狭之助に至つては第一観興をそぎしかも拙いせりふ廻しにどうしてこれが成功は頗る覚束ないものであつた、それでも義太夫の力は大したもので、太夫と絃とによつて台詞をつり出され、そうしてこの拙い朗読がどのくらい補はれたといふことを今更ながら自覚した次第である。
 従来竹本劇が義太夫に俟つ成功は演劇によつて観察したものであるが、朗読を補給するに大なることをつく〴〵感じさせられた、もしこれが素読であつたら到底聞かれものでないといふことをも会得したのである。
 それから田中煙亭氏の本蔵は本格もので、坂本猿冠者氏の伊浪伴左衛門が例の名調子でスラ〳〵と読まれたことゆへ、九分否十分のお助けを蒙つたことゝ、義太夫の方に感謝の意を表します、折あしく当時風邪におかされ、いとゞまづい声が、すつかりのどをつぶされてをつたから、聴者はさぞ迷惑なことであつたらう、同時に一しよにつきあつて下さつた方にもいかばかり迷惑をかけたことかと、大いに恐縮するものである。