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【 黒顔老人 浄曲そゞろ言(3) 】

(2025.02.11)
提供者:ね太郎
 
 
 太棹 3号 14ページ 1928.9.15
 
浄曲そゞろ言(3)
   黒顔子
 
 女義太夫(三)
 綾之助さんの全盛は永く続いた。素晴らしい人気はどこまで立つか判らないと思はれた。その綾ちやんが、散[ざん]ぎりから男髷にならうと云ふ時分だつたか突如として・・・・・・と思ふやうに斯界に進出して来た娘--ほんとうに娘といつて好い太夫が現はれました。
 それは、大阪から戻つて来た竹本小住の秘蔵弟子住の助であります。小住の看板を上げた当時は住八といつて、それでも高座は小住の糸で前を語つてゐたのでしたが、突如!又突如です。小住、住の助の割看板で真打に進んだのでした。前にもちよつと書きました鶴蝶と花友がスケ看板で、師匠の小住もスケに弾語りで一段相勤めたものでした。ツマリ切と共に四高座は充分に聴けるものでした。
 一口に言つて了へば嫖致は綾の助とは比べ物にはなりませんでした。色が小黒くつて、口が大きくつて……ですが、につこり笑ひでもすると大層愛嬌のある可愛らしい娘でした。初めてその高座を観た時は、小供の癖に中々巧者な語り口だな、位に思つたに過ぎませんでしたが、つい近所に懸つた為めに前の鶴蝶が聴きたさに、それから小住の五斗生酔や大文字屋や油屋やなど、ちよつと女義太夫にはザラに聴かれない出しものだつたので、段々足を繁く--変な言葉に聴えるが--木戸を潜つてゐる中に、この住ちやんの案外の巧さ、意外の確かなのに驚かされるやうになったのでした。
 すぐに比較するやうになりますが、綾の助の声で唄うので聴かせられてゐた女義太夫なるものを、この住の助のイキや味で傾聴させられることを堀出しものをしたやうに、翌晩が待たれるやうに凝つてしまつたのでした。実際、住の助の義太夫は、師匠譲りのイキと腹で、同じ「酒屋」を語りますのでも、宗岸と半兵衛の前半のやりとり「玉三」を聴きましても金藤次の大きな腹から出る笑ひ、十四や十五の女の子の芸では無かつたのです。後には段々お稽古を励んで、例の大文字や、油屋をだし物にして我党の喝采を浴びてゐました。
 思へばドウスル党の元祖でしたね。「待つてました」の「そこだツ」の「しツかりツ」の、愈よ最後がドウスル〳〵といふ懸声を見物席から連発した、それが少しも語り手の邪魔になるやうな拙いのでなく実に巧みに、要所々々に打込んで行つたものでした。後に厄介視された例のサワリの手べうしなどとは訳がちがひます。私等の知つた定連の中にも実に巧妙なドウスルがゐました。実をいふと僕などもその巧い方で、愈よ今度はお目あての住之助なら住之助が上るといふ中入の時に、二階の一隅に陣取つてゐる贔屓の定連が下へ降りて来て「君今度だよ、しつかり頼むぜ」「よろしいツ」などと馬鹿々々しい応援団を引受させられたものでした。
 実際アノドウスル(所謂)の拙いのになるとブチ毀しで、巧いのになると、愉快に語れもするし聴けもするものです。同じ「待つてましたツ」と一つ打込みましても、その太夫が待つた甲斐の無いやうな拙い語りつ振りで、義理にもその急所で手を叩く事の出来ない、などは誠にこまりものです。例へば太十の婆さんの「主を殺した天罰の--」や、先代の「誠に国の礎ぞや」などで「しつかり」とか「そこだツ」とか、間髪を容れざる注文で、演者も懸命に、聴者も息を呑むといふ微妙な気分が醸成されるのです、とまア、盛んにドウズツテゐる間は、さう思つてやつたものです。
 その時分僕等の同士(もをかしいが)が三四人いつも一緒でしたが、京橋の鶴仙だとか、瀬戸町の伊勢本だとか、両国の新柳亭だとか、さては芝の琴平や下谷の吹ぬきやまで、遠路も厭はず、それこそ徒歩[かち]で追ひ廻したものです。しかも他の人は知らず、僕などは実際色気ぬきで、唯だ〳〵ほんとの芸を慕つて出かけたものでした。と、ある日、友達の処へ遊びにゆくと、そこに読売新聞があつて、おい、これを見たかい、と一人が言ひます、何だい、と手に取つて見ると「住之助の四天王」といふ標題で、匿名になつてゐましたが、それは僕等四人の事をおもひをかしく、短かい艶種仕立になつて出てゐたのです。この新聞には先達而も写真入で「住之助の評判記」が出てゐました。それは申すまでもなく、その社の事務に出てゐる二宮といふ人の悪戯です。この二宮といふ人は、当時四十がらみの粋な人で、やはり住之助の定連の一人です。僕等も常に寄席で会つて、挨拶やら言葉をかはす間になつてゐた人です。その晩住の助を聴きに出かけると、その二宮さんがゐて、楽屋と僕等の一団の処とへ「弥助」の大皿をおつかひ物に寄越して、会うと「アツハツハツ」と笑うのでした。両方とも新聞の事は何にも言はないで……。
 
   記者より
浄曲そぞろ言は愈々佳境に入りました、読者諸君の喝采さこそと思ひます。