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【 黒顔老人 浄曲そゞろ言(1) 】
(2025.02.11)
提供者:ね太郎
太棹 1号 16ページ 1928.6.1
浄曲そゞろ言(1)
黒顔子
女義太夫(一)
近頃其方面にとんと遠ざかつてゐるので事新しくお談[はなし]する材料の持合せもなく、又何分研究的に考へる時間もない為に理屈めいた意見もありません。唯だ、無茶苦茶に此の義太夫といふやつが好きで、デーンといふ太棹の音〆を聞くと、スーツとする位な老人。むやみに一つその昔を憶ひ出して、暗やみの恥をあかるみへ出すことに致します。
先づ「女義太夫」といふ標題を書いてしまひましたから、極くお古い処、堂ずるの元祖めかして、明治も中頃時代の寄席廻りでも試みませう。伊井蓉峰君のお父さんへびらいさんが大層贔負にしてゐたといふ芸も達者に人気もよかつた名古屋出の竹本蝉香[せみか]なんて古い処は、名を聞いたゞけで高座を知りません。
拙者が始めて東京の寄席で義太夫といふものを聞いたのは竹本京枝といふお婆さんでありました。何しろそれまでは許されてゐなかつた女義太夫の肩衣、袴は此の京枝が嚆矢だといふ事ですから、大変なわけのものです。浅草の東橋亭、神田の小川亭(今の天下堂のあと)それから九段のふじ本(今、仏教の説教所か何かになつてゐる処))などで大入(満員とは言ひませんでした)を取つてゐました。一座には京駒、京峰、京照、京富などいふお弟子達が、何れも前を語つてゐたものです。
義太夫といへば東京では、其頃若い血気な処で播磨太夫に綾瀬太夫といふ両大関が、大きい渋いものと艶つぽい処と負けず劣らずの贔負々々で鳴らしてゐたもので、女義[たれ]などは殆んど相手にされなかつたものでした。
京枝は名古屋から来たのでしたが、其中に大阪から湊琴[みなこと]といふ中年増[ちゅうどしま]が上[のぼ]つて来ました、続いて小伝[こでん]といふ確かりした、大阪でも相当の顔触れの人だと聞くのが迎へられた。それから美音の猿玉、美形の照吉などが続々とやつて来ました。
当時、京枝と相並んで横綱を張つた竹本東玉の上京はそれから間もなくでした。切前[もたれ]には小政といふ綺麗首、後に糸吉となつた東代玉[とよぎよく]、東溜玉[とまぎよく]、東糸[とうし]、ずつと後に二代目東玉になつた東吉などはまだ口語りで、一門一座。それには東京の席亭で後ちに「睦」と称するトラストが人気を煽り、名人円朝、鼻の円遊、禽語楼小さん、談洲楼燕枝などの色物席を食むやうな急発展となりました。
その東玉一派と、どちらが早かつたか、根が江戸つ子の永らく大阪[かみ]へ行つて住太夫の門に遊び叩き込んで来た負けぬ気の芸達者、竹本小住が旗を挙げた一座には勘吉、播梅、勇治なんといふ腕達者を従へて、かなり花々しく打つて出ました。続いてこれも大阪から熊吉といふ上手が上つて来た。この熊吉は大阪で小住、猿玉、鳴音と女義界の四天王と言はれたものといふ。江戸つ子の女義太夫としては、その時分鶴蝶[つるてふ]といふのが現はれた。京都から鶴沢花友[くわゆう]といふしつかりしたのが看板を見せた。
女義太夫の流行は漸く景気を見せて、どこの席でも大入な事であつた。その頃木戸銭といつたのが金四銭位、色物も大体同じ事で、円朝が累が淵をやるとか塩原太助だとかいつて、前に一門の錚々たる処を使つて木戸が十銭であつた。大阪から越路が来る(後の摂津大掾)これがまた最初十銭位、少し後に僕は越路が本郷の若竹にかゝり、今度は二十五銭とるぜといつて驚きながら三晩か四晩、牛込から出かけたのを覚えてゐます。話は元へ、それから新看板として現はれたのは若吉改め三福、渋い語り口で、鏡山の長局だの、忠臣蔵の九段目だの得意で語つた三福は、やがて素行と改名し、又た竹本瓢[ひさご]と改め、更らに戻りの素行になり堂々たる一枚看板となつたのが今も時折、JOAKでお聴きになるあの素行さんなのであります。此間亡くなつた小清さんの東上は、其の後の事でした。その間に女義界の中心人物として扱はねばならぬ竹本小土佐。竹本綾之助、竹本住之助、竹本越子等の花形出現、女義全盛。ドウスル連勃興時代に入るのであります。