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【 ラヂオ浄曲漫評 金王丸[田中煙亭](太棹連載)】

(2014.07.05)
(2024.12.25更新)
提供者:ね太郎
 
「金王丸は田中煙亭氏です。」 内山美樹子 十世豊竹若大夫、晩年の奏演をめぐって  注13
原文のルビは[ ]内に、原文の傍点は付された文字を太字とした。
63-67,70,73,74,77-86号の原本は公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館の蔵書です。
  
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太棹63  ラヂオ浄曲漫評 金王丸 
 
大阪女義連 (三月廿二日) [1935.2.22]
 関取千両幟
 ある程度に期待をかけてスヰツチを捻つた僕は、ノツケから驚くべき妙技に眼を、イヤ耳を、欹て義太夫はやはり大阪のものだなと思はない訳にはゆかなかつた。
 やゝ疳高い小仙の声と、ドス一方と思はれる東広とを聴いて、誰もが先づ稲川と鉄ケ嶽の配役を、振り替へたらと思つたであらうけれども、その小仙も立派にドツシリとした敵役になつてゐるし、その東広もまさに白塗りの稲川になつてゐる。要するに詞の研究練磨がツンでゐるからである。
 もしそれ、団司のおとはに至つては、その侭そこに貞節な世話女房が髣髴として現はれ来るのであつた。三人ながら詞のやりとりにイキが合つて立派なかけ合であり、誠に稲川とおとはの愁嘆に及んでは、われら麻痺した神経の持主さへ、ホロリとさせられた近来の傑作であつた。
 仙平の三味せんもさすがに確かな腕前なる事を首肯させ、櫓太鼓になつて一二度撥にオコツキを見せたが、音〆の結構さ、最後まで感に堪えて聴き惚れた。我らは怪しげな曲引のケレンなど、見られないラヂオの方を寧ろ喜びたいと思つた。
 
文楽座より (三月七日) [1935.3.7]
 冥途の飛脚【新町封印切】
竹本土佐太夫
(絃) 野沢吉兵衛
 歌舞伎では誰れも彼れも、二枚目役者はともすれば演じて観せる封印切であるが、浄るりには、我等珍らしいものとして、予告の中から楽しみにして、土佐さんを坐ろに歓迎する気持でスヰツチを入れた。尤も三月の大阪文楽座は、珍らしいものづくめである。第一は新曲『修善寺物語』(鏡太夫が此の間放送した*)に津太夫の『帯屋』はまアお古いとして古靱さんが、これも我等芝居でお馴染の河中島『輝虎配膳』切りが又た友次郎さんの自作曲、自演になる『娠道成寺』等々、珍浄るりオンパレードである。
 さて、さすがに色街情緒だけあつてお陽気な弾出しから、やがて土佐さんの例の二へ下りると、恰も電波を絵にかいたやうに、震へに震へる懐かしい肉声が、最初は稍やうるさいやうな吉兵衛さんのカケ声と共に聴えて来る。
 耳慣れぬばかりか、新聞のラヂオ版も、判り切つた梗概だけを載せて歌詞を省略され、手近かに本を持たぬ我等の耳には、初の紙二枚イヤ四五枚のほど、何が何やら殆んど判らず、興味自から索然と来た。イヤこいつア東京……以下各地の聴取者には歓迎されぬお浄るりだナと気の毒になつて聴いてゐた次第であつた。
 梅川が出てくる、八右衛門が出る。梅川が二階へ上る、忠兵衛が門口へ来て立聞きする、段々と判つて来る。歌舞伎とは、カナリな違ひ方であつて、それを連想し、又た、手スリの名人たちの誇張された人形の動きを想ひ浮べながら聴いてゐると、中々面白くなつて来る。その、クライマツクスに達する最後の、土佐さんの緊張した技術練磨した技巧は、さすがに大したものと、驚嘆の声を発しながら遂に最後まで引きつけられた。
 『アヽ済んだ』とホツとして、さて考へて見ると、此の義太夫は寔に難物らしい、又たその骨折の割りには面白味が少なく所謂損な演し物らしい。だから東京などには流行らないのだ、我等大阪を知らない浄るりフアンに珍らしい語り物である筈であると思つた。そこで、同夜、同じ中継されるなら、時間の都合で止むを得ないが、次の友次郎さんの『娘道成寺』で、派手な賑やかな三味線本位の方がどの位おもしろかつたか判らないといふ結論になつた。
 それから、モ一つは、土佐さんの声音である、お年のせいか、心臓の工合か、いつもの土佐さんとも覚えぬものがあつた。そして、ともすれば調子がダン〳〵と下つてゆく、吉兵衛さんが、その下つてゆく調子を追ひかけるやうに下げてゆくのが眼に見えるやうな気がした。尤も土佐さんを聴くと、多くの場合調子が下がつてゆくのである。例の豪傑大隅太夫氏のダン〳〵に上つてゆくのと反比例をして……
 吉兵衛氏の三味線は、当時文楽切つて、どつしりとしてそして行届いた弾き手の上によく太夫を助けて語らせるといふ、真の女房役として貴重な芸の持主であり、当夜の一段を聴き泌んで行つたのも、大半は我が吉兵衛氏の絃のお蔭と言ひたい。よく鳴る事に於ては友次郎氏あり綱造氏あつたが、津太夫綱造のコンビの如き、お前はお前、おれはおれといふ風なのと違う点を我等は難有いものに聴くのであつた。
【* 34.10.28】
 
東京の女義 (三月十六日) [1935.3.16]
 艶姿女舞衣
竹本綾千代
(絃) 竹本重八
 私は久し振りに東京の女義といふものを聴く、綾千代さんは藤菱会の綾之助さんのお弟子で、たしか娘分にはなつてゐなかつたらうが今まで、芸妓になつて小唄で売つてゐるらしいが、思ひ違ひか知らぬが、猿之助師の処でお稽古をした事もある筈、すりや、かいなでの振廻す一方のタレでも無からうと楽しみにした。
 演じ物も『酒屋』とは恰好な、又た十八番だといふ新聞の宣伝もある。ことは入相の……のオクリ先づよし、と聴く中に『あるじのつまは』の母親の出イカナ事、はしやぎ過ぎた声音、下女りんが駆け出たやうなは困つた『これいなコレ親父殿オオホ……』は大層よかつたが『嫁ン女』のンがイカぬ、やつぱり『よめぢよ』だらう。
 宗岸は大体に於て半兵衛との調子をかへる為めに、女性になつて了つて婆さんとの区別がつかず『心はやみ』でもう泣き出し『頼んます御夫婦……』でもあゝ泣いては困る、後の『これまで泣かぬ宗岸が』が御本人も困る筈だ。それから半兵衛へ対する『口説き言』は憂ひも利き大層好かつた。半兵衛は例のセキ入る件りを飛ばしたが案外に結構。
 お園は最初から、さすがに本役でよろしい『鈍に生れた……』以下のさはりも先づよくお目あての『あとには』以下のさはりも、存分、振りまはしもせず、女ですからアレ位の派手さはあつても可いだらう。及第!
 『心の中ぞあはれ--なり』のあひだの泣きがお園だけの大泣きに聴えたのは困つた、あれは半兵衛と宗岸が奥にゆく時のホロリと来る泣きだから男泣でなければならない。
 重八さんの絃は、よく太夫を助けて達者に弾きまくるでもない程よさ、結構だつた。
 
素義の『新人』(三月十七日) [1935.3.17]
 菅原伝授手習鑑【寺子屋】
栗原千鶴
(絃) 梅本香伯
 AK募集の新人として、我が千鶴栗原寅吉君は、今回が第三回の当選で、もう新人ではなく、向後主人として依頼放送の資格を得られたのである。
 ギリ〳〵二十分といふ予定の放送である。アナウンスの時間ももどかしく、聴耳を立てる間もなく、デンデーンと響く太棹の音〆は我が老大家香伯氏の撥の冴えである。好きなものひゐきの人、おのづからゾク〳〵するのであつた。
 首実験が済んで、玄蕃は館へ、松王は籠に揺られて立帰つたあと、『夫婦は門戸』からである。一言にして之を評すれば、無難な好い出来であつた、といふ外はない。何分にも時間が短かいからである。
 千代の『何の因果で疱瘡まで……から、ともに悲しむ戸浪は立寄り』も『コリヤ女房、何でほえる』も『につこりと笑ふて……』の泣笑ひも『その伯父御に小太郎が逢ひますわいの』も『松王突つ立ち』の御台の出も--此間全部飛ばされて、直ぐに松王の『コリヤ〳〵女房、小太郎が死骸あの乗物へ……』になり『門火々々』になり、聴かせ所のイロハ送りにはいつたかと思ふと所定の時間!
 『六道能化の弟子になり……』でプツンとスヰツチは切られ『遺憾ながら時間で』とアナウンサーの声だつた。千鶴さんの遺憾は勿論此処へ来て、ちよいと聴かせねばならぬイヤ我等は聴きたいと思つた香伯さんの干腎な絃を殆んど全然駄目にされてしまつたのであつた。
 一、二、三の声を器用に届かせ得る天稟の美声の持主であるのと、足の長くない要領の得た語り口も千鶴さんの新に賞される処であつて、お師匠の薫陶もよろしきを得たものであると思つた。たゞし、奥の『御台若君』のすこし後に一二度調子を外されたやうであつた。香伯翁の絃は我等の残すべく、あまりに美しく完全なものであつて、シカモ常に我等は翁の無駄なカケ声の無いのと、荘重な撥捌き、従容迫らざる鍛へぬいたその至芸とを喜ぶものである。
 
太棹 64 掲載なし 
 
太棹 65 ラヂオ浄曲漫評 金王丸 
 
=新人二人=〔四月七日〕 [1935.4.7]
 合邦 =前半=
柴野筑波 (絃)豊沢団八
 たしか二度目の入選である。筑波氏は甚だ失礼の申分ではあるが、大層よく細かい節を覚え込まれてゐる。あしのうら〳〵なには潟のあたり、ハツキリとして結構であつたが、玉手が総じて老けてゐたのは残念である。只だ打まもりで、終つたのは時間の都合。
 
 朝顔
豊竹龍太夫 (絃)豊沢団七 (箏)鶴沢紋三郎
 我等は初めて師の演奏を聴いたのであるが、さすがに素人とちがう処の多いのに気づく、第一、駒沢の詞など、苦心の工夫が受取れた。たま〳〵逢ひはあひながら、など--殊に結構。『身のをはりさへ』あたり、声の届かない虞れのある所をよくも巧にやつて逃げられた。これを伺がつたゞけで見ると、大物の方が師の声に適してゐるのでは無いかと思つた。
 
=又た新人=〔四月十四日〕 [1935.4.14]
 袖萩
橋本よね (絃)鶴沢延左衛門
 子役が出るし、唄う方のもの、安達の前半は、女義のだしものとして恰好である。総じて一、二、三の各調子の声もあり、間もよし、呼吸づかひも工夫されてゐてムラの無い無難の出来、父謙杖の詞などもたしかであつたが、唯だ一つ、最も大なる欠点は、袖萩が明眸皓歯美くしさは好いとして、パツチリと眼の開いてゐる人であつたことである。お師匠さんと共に一考を煩はしたいものである。
 
=久し振り=〔四月十八日〕 [1935.4.18]
 沼津 =千本松原=
竹本米太夫
(絃) 鶴沢新次郎
 歌舞伎のチヨボに転向してから、久し振りに聴く我が米太夫師、新次郎さんといふ名コンビで沼津の松原を、心ゆくばかりに語つて聴かせた。全く心ゆくばかりのやうであつた。一言一句のもつれも見せず、真に悠揚迫らざるものがあつた。
 オオイ〳〵の追つかけも、たしかに息すた〳〵に聴える。其金銀にかへての願ひをいふ長ゼリフも立派な平作、一重明けぬ十兵衛が情の詞もキツカリと透る、『聞いて平作感じ入り』のあと『アヽさうぢやあつたな』などの巧さ、脇差グツと突立てた、と『やア、やア何とした何とした』の十兵衛の探り、確かに闇の夜と受取れる。
 さう申しては甚だ以て相済まぬが、素義の方々の語る沼津とは大分ちがう……のは当然だが、文楽紋下、津太夫のそれとくらべて聴いた人がある。『親子一世の逢ひ初めの、逢ひ納め』など、おもしろいにはおもしろいが、さてそれが、やつぱり津太夫だけの幅の無いのは是非もないと思つた。南無阿弥陀仏の臨終は至極結構、米太夫尚ほ健在とおもはせたが、さて、歌舞伎入りをする前の米太夫とはどうであらうか、聴き終つて聊か疑問!?書き忘れたが、末段にいつもの胡弓が入らなかつたは、少し物足りないと思つた。
 
=又々新人=〔四月廿一日〕 [1935.4.21]
 忠臣蔵=四段目=
和田浜治 (絃)野沢道之助
 和田浜治さんといつては、ちよツと判りにくいが、太棹の愛読者諸君には先刻御承知、かなりお馴染である春和さんの事である。春和さんは昨秋五十義会で、一躍大関の地位を獲得した剛の者、我が大棹の身振り劇なぞへも時に御出演の方である。
 さて、第三日曜午後新人のドツサリとして道之助師の絃で扇ケ谷塩谷館の段を語られたが、僅々二十分で四段目とは、確かに演じ物が悪かつた、損である『玄関広間ひしめけば』の上使の入りからシカモ慌だしくチラ〳〵中を飛ばして由良之助の『根ざしは』までとあれば殆んど地合など全然無い上るりはひどく御損であつた。判官切腹の雰囲気が醸しだされ得なかつたのである。
 薬師寺の『あざわらへば』の笑ひが、大笑ひになつて、あざ笑ひにならぬも欠点なり、石堂の申渡しに愁ひの心持が透らなかつたのも難であり、判官と石堂との調子の変らぬのもその一つ、力弥々々で『未だ参上、仕りませぬ』が泣き過ぎたのも小生には気に入らなかつた。要するに、演し物の時間と場所とを無視した難が現はれたのであつた。
 
=文楽若手=〔四月廿八日〕[1935.4.28]
 伽羅先代萩 =御殿=
竹本小春太夫 (絃)鶴沢清二郎
 土佐のおしらうとから一躍文楽の若手中堅といふ地位へ跳躍した小春太夫さん、成る程聴く度びにほれ〴〵するアノ美音、アノ落ちつき、摂津大掾を目指して進まうといふアノ意気!
 だがしかし、まだそれまでにはかなりの歳月と研究を要する事勿論で、当夜の演し物先代萩の御殿はチト重荷でした。政岡に貫目が足りません。荘重を欠いて我等をガツカリさせた処が多かつた。それに呼吸のツギ目に大分御研究を願ひたいと思つた。それも要するに荷の勝つた語り物であつたからです。懸命の修業が肝腎です。
 だがしかし、あの人が、つい此間まで素人だつたと思ふと、全く巧いものです。あれだけの素義を常に聴いてゐた土佐の人達は幸福であつた訳です。どうぞ、その天稟の美声を尚ほ願はくは銀のいぶしをかけて情を語る大物の太夫となられる事を念じつゝ例の漫評です。
 
=文楽中継= 〔五月十日〕 [1935.5.10]
 卅三間堂棟由来 =平太郎住家=
豊竹古靱太夫 (絃)鶴沢清六
 今月の文楽座は古靱太夫が珍らしく『柳』を演し物にしてゐます、何でも二十年振だといふ事で、津太夫の『陣屋』土佐太夫の『酒屋』などは普通なもので、柳だけは聴いて見たい気がしてゐたのを、ラヂオが中継して放送してくれたので、何をおいても、と拡声器の前に早くからガン張つた次第でした。
 さてノツケから先づアヽこちの古靱ツアんだなと思ひました、それは外でもない。所謂変化物に属する此の上るりで、飽くまで憂欝に--陰気といふのでせう--節尻、言葉尻の一字だけを必らず下タへ下げて語つてゐます。そして決して例の上るり特有の泣き声を聴かせません。ついその数日前東京の素義で本当の大家がこの柳を語つて盛んに泣いてゐたのを聴いて困つた私しです。幽霊は決して本当に泣きません。泣かないのがよいのです。先づ其点だけでも、古靱が如何に本格的の上るりを語る人、充分に研究して語つてゐるといふ事がうなづけるのです。
 所謂『ドロボウ』といふ和田四郎からは、無論本式に充分に三段目として語り、面白い事でした。あの無い声で緑丸の詞が、立派に子供の調子になつてゐるのだけでも敬服ものです。
 木やりに至つても更に陰気に陰気にと、たゞ『よい〳〵よいとなア』のカケ声だけを派手に、勇ましくするといふゆき方で、これも得心がゆきました。堂々たる大家でも、ともすれば前受専門に語りまくる人の多い今日、この研究的演奏を聴き得た古靱氏に、その健在を祈つて止みません。
 
=新作=〔五月十四日〕 [1935.5.14]
 真如 額田六福原作 食満南北五行
豊竹つばめ太夫
 (絃)豊沢猿糸
 BKの売物です、額田六福氏の脚本で書下しは帝劇で梅幸、宗之助、勘弥等何れも今は故人となつた名優の舞台にかゝツたもの、若党曾平太は幸四郎が演つてゐた、其後も劇場に屡々現はれて好評を博してゐたが、今度も食満南北氏が五行に書き改めて、つばめ太夫猿糸両氏が節付をしたものです、BKでは曩きに広助師の節付した綺堂氏の『修善寺物語』を鏡太夫が放送*した事がある。
 『真如』は上るりとしては、深刻といふほどではないが、かなり適切な語り物に作り上げられてゐるし、つばめ氏はよく数馬と源治郎の同年輩の若き武士を語り分けてゐたのを手柄としませう。母親も品位もあつてその人らしく、又若党の曾平太が最もよく活躍してゐた。
 小春氏とは又た異なつた美音の持主、つばめ氏の努力はやがて文楽中堅の随一として好評をつゞけてゆける事受合、と遙かに賛辞を呈しておく。
【* 34.10.28】
 
太棹 66 掲載なし 
 
太棹 67 ラヂオ浄曲漫評 金王丸
 
 前号は文楽研究号といふので、ラヂオ評判記の続稿を一回休んだところ、さて引続き書かうとすると、日記の番組記録だけで、根つから身にしみて想ひ出せず、其中に転居やら何やらの身辺多事の為め、甚だ以て相済まぬ次第であるが六月中の分は唯だ演じ物、語り人などを列記するに止め、七月に入つてからの分を、例の漫評と出かける事にする。
 
 【五月廿二日】 [1935.5.22] 大楠公六百年記念とあつて近松の「吉野都女楠」を竹本叶太夫、鶴沢友造でBKから放送、松葉屋にあつた古い節付を更らに友次郎が作曲したものだといふが、普通の語り物としてはどうかと思ふ単化もの、唯だ珍らしいといふだけであつた。
 
 【六月三日】 [1935.6.3] 大阪の団司、小住で朝顔の「宿屋」近時益々味が出て来て結構な出来であつた。
 
 【六月十一日】 [1935.6.11] 東京の女義、竹本駒若、鶴沢二三龍で「太十」の前半段、女としては前受けをねらはぬ語り口、絃も中々達者なもの。
 
 【六月十四日】 [1935.6.14] 大阪女義の重鎮竹本東広が、東重の絃で得意の「沼津」つい先達而米太夫が東京から奥の松原を聴かしたが、当夜は木場からいとしんまで、難の無い出来であつた。
 
 【六月二十日】 [1935.6.20] 此の処、東西女義の競演といふ工合、当夜は東京の豊竹猿司、鶴沢弥之助が「先代萩」の御殿。一生懸命といふ語りやう。
 
 【六月廿九日】 [1935.6.29] 大日本浄曲協会が財団法人となつたとかで、丸ノ内工業倶楽部から、いろ〳〵中継放送があつて、余興といつた工合に文楽の土佐太夫、つばめ太夫、相生太夫、小春太夫など、吉兵衛の絃で「野崎」のカケ合。土佐が久作で老熟の境地を味はせ、つばめがお光で愈よその進境を認めさせた。以上
 
大阪女義 〔七月四日〕 [1935.7.4]
 艶姿女舞衣 =酒屋の段=
弾語り 竹本小仙
 一しきりAKの越喜美とBKの小仙は局宝と言はれたものであつた。その越喜美も近頃とんと美声を聴かせなくなつたが、大阪の小仙は屡々その益す円熟の芸術を楽しませて呉れる。
 当夜の「酒屋」は彼女の得意な語り物の一つであるが、呂昇以来の弾語りを以て充分に心ゆくばかりに語つてゐた。宗岸半兵衛の応対も確かな事、お園も神妙に、母親も気あつかひの情がよく語られた。
 「鈍に生れたこの身の咎」で、近頃立派な太夫さんまでがやる泣きを聴かせなかつたのも、本格的研究の賜物かと、嬉しかつた。宗岸も「これまで泣かぬ宗岸」までに、随分聴き苦しいほどに泣く人のあるのに、我が小仙君は、たゞ愁ひだけで持つたのは結構であつた。さはりも無論大した振り舞はさずに、しんみりと文句通りの意気を聴かしたのを喜ぶ。
 
=東京女義=〔七月十日〕 [1935.7.10]
 壷坂 =御寺まで=
竹本小土佐
絃 豊沢美佐尾
 小土佐といへば、ほうアノ先の小土佐か、と此間もある友達が言つた位古い小土佐である。初代綾之助と並んで、声と顔とを競うた花形も今は昔、芸は此の人の方が、と当時の堂擢連を唸らした古強者。
 名を貰つてゐるだけあつて、師匠土佐太夫その侭の音づかひや節廻しを聴かされる。時には、土佐の悪い所だけをよくも真似るなアといふ悪口すら出るほど似てゐる。
 壼坂は彼女の十八番物といふ、地唄の「まゝの川」先づよく、沢市の詞の、近頃多く盲人にならぬのを聴くが、かなり苦心してゐられたやうだつたのもよし、お里のクドキも昔ながらの美しい咽を充分に、情味たつぷりと、さすがにかいなでの女義とは又た格別なものであつた。
 
=東西競演=〔七月十四日〕 [1935.7.17]
 さはりの夕
 約一時間の中に、東京から越駒、紋教の「十種香」佳照、清一の「すしや」播磨一の「湊町」大阪方として綱龍、東重の「鳴門」雛駒団司の「白石噺」旭嬢、広春の「沼津」といふ並べ方。拙いのゝ長いのも困るが、斯う矢つぎ早やに替つても替り栄えのせぬ、といつては甚だ失礼だが、これは御評をあづかる方が可からうと、実は少々拠ない私用もあつてボツ〳〵と千切れ〳〵に聴いたので、御免々々と逃げを打つことにする。
 
=文楽若手= 〔七月廿三日〕 [1935.7.23]
 夏祭浪花鑑 =田島町の段=
竹本相生太夫
絃 鶴沢清次郎
 長町裏の義平次殺しでお馴染の「夏祭浪花鑑」の八ツ目、田島町の段といふのは、近頃芝居にも人形にも殆んど見せられない、況んや、素語りの上るりなどでは、現在聴いた人もないであらう。明治時代に一二度文楽でも語られたといふこと、又た芝居では大正何年であつたか二長町で、吉右衛門の九郎兵衛で一度上演して筆者も朧ろげながら観た記憶がある。
 それで今度の放送も、文楽の鶴沢友次郎師の推薦とやらで、相生太夫が半歳もかゝつて稽古した珍らしい演じ物といふ。ハテどんな風に聴かれるか、と筆者もかなりの期待を以てスヰツチを切つた。
 精評をする余裕も力も無いが、卒直にこれを評すれば、期待が大きかつたゞけに、何の変哲もなく、おもしろいものでは無かつたといふ事になるのを遺憾におもふ。それは一段に大した上るりとしての山が無いからである。雪駄片しを持て来ての九郎兵衛と徳兵衛のやりとりの最初の間、二人の詞がゴツチヤになるほどの失態はさすがに相生だけの人であるから無かつたが、徳兵衛の方に今一ト工夫を要するとおもつた。お梶は結構だつたが、着物の綻ろびをさせながら、横恋慕のつくり事の大事なテーマ、その間が放送で聴いてゐたゞけでは、徹底しないで要領を得なかつたのも残念である。これは人形なり、劇なりで、その二人の表情を眼に見なければ、真味は解せられない。
 イタに懸けられずに埋れてゐるものに、大抵碌なもの……イヤ大したおもしろいものゝあつた例しは少ない。これなどもその組で、もつとおもしろければ、時々は観せられる筈であるとおもふ。
 東京へ来た今夏の文楽一座で、土佐太夫の病体に「中将姫」の代役まで勤めた相生太夫だ、決してそのおもしろくなかつたのは太夫の罪でも、三味センの罪でもない。まだアレだけに聴かせたのは研究の結果、ヱライもんや、といふ事になるのである。
 
太棹 68
 
東京女義 〔八月六日〕 [1935.8.6]
 摂州合邦辻 =合邦内の段=
竹本素昇
絃 鶴沢三生
 当夜は実に生憎な事で、拠ない来客があつて、隣室に話をしながら聴いたので、充分に評など出来ぬ始末となつた。けれども、その来客との話の方も半分以上、上の空に自分の耳はラヂオの方へ行つてゐたのである。
 この御両人、どこかで一度聴いたやうな記憶もあるが、実は初めても同様で、先づ素昇氏の堂々たる声量に驚き、尚ほ些の当て気のない語り口を喜び、三生氏の撥捌きのシツカリしてゐるのに感服する。
 茶漬でも手向けてやりや、のあと、母親が疾しやおそしと開く間も、『おなつかしや、おゝ、なつかしやと縋る娘のかほかたち』が近頃どうかすると『縋る娘のなりかたち』といふのを、本文通り顔形といつたのも嬉しい一つであつた。
 合邦の『ヤイ畜生め』以下の長セリフ『ドヽどの頬げたでぬかした』から『覚悟せい、ぶち放す』あたりの力強さ、タレも此の位なら聴かれるナ、と来客と評判した。
 それから『ヱヽ、さう吐かしやもう堪忍がと父が身構へ母親は、おゝ道理でござんす〳〵、腹の立つは尤もじやが』の辺で、大抵の人はよく泣くのだが、あすこを泣かなかつたのも可いとおもつた。が、大体に於て、あの母親は若過ぎはしなかつたか、尤も玉手御前が十九やはたちといふ本文があれば、二十歳位で出来た娘なら、まだ母親も四十そこ〳〵ではあらうけれど、人形からゆくと、も少し老けた方だらうとおもはれる。
 
大阪女義 〔八月十三日〕 [1935.8.13]
 壼坂霊験記 =奥、御寺の段=
豊竹団司
絃 豊沢小住
 あゝ又た壷坂かと、元来、あまり好きでない此の浄るりのプロを見た時、実はウンザリした拙者だつた。が、いよ〳〵スヰツチを入れて奥の山の段であつたので、稍や救はれたとおもつた。つい此の間、東京の小土佐女史が、例の三つ違ひを聴かせたばかり、恰ど、これで丸一段になる訳である。
 さて、団司嬢?の語り、語り出しなど、コロツと違つた人のやうに線が太くなり、十年前の団司君とは格別の相違である。元来が詞の巧い人、最初のほどはおさとの方が盲人でないかとおもはせたが、例の笑ひなどから、グツトさすがに盲人の沢市を現出した。
 観音様へ来てから『知らずとつかは』でおさとが山を降りるまでの、二人の会話の巧さちよつと真似人もない、とさへおもはせた。それに特に推賞すべきは、此人の泣きの巧さである。東西を通じて、此の人ほど泣く事の巧い人は無いとおもふ。沢市の独白から飛込みまでの泣き、おさとが気も狂ふばかりの愁嘆、おもはず吊り込まれて目がしらを熱くさせられた。
 さらに、おさとのクドキの間でも、巧いなア、とおもはせた息つかひの研究を感ぜしめた処数ケ所ある。観世音の美妙の御声も不思議に神々しく、感服させた。段切りは小住の絃と共に、驚喜する人形の動きを髣髴させた。
 
文楽古老 〔八月十八日〕 [1935.8.18]
 恋娘昔八丈 =鈴ケ森の段=
豊竹駒太夫
絃 鶴沢清次郎
 駒太夫さんは小富太夫から富太夫になり、更らに大正三年に七代目駒太夫を襲いて、もう二十年、明治十五年の生れだから年輩から言つても文楽の古老で、今では別格といふ処だらう。上るりは何でもよく調べて知つてゐる人といふ事である。
 盲人であつて割合に、所謂メクラ声を出さぬ美音の持主、当夜の語り物『鈴ケ森』などは近頃では寧ろ珍らしい演じ物の、シカモ師に打つて付けの語り物だつた。そして大体取り立てゝ言ふ処もない無難な出来であつたと言へやう。
 二三ケ所、紙二三枚抜いたゞけの全部を語られたが、最初のざわ〳〵いふ見物群衆の、あんまり待つたで寒むなつた、のあたり非常に結構に聴いた。強いて難を言へば母親の調子が少し若過ぎはしなかつたか、それから地合の、ともすれば一音特に耳立つて下がる癖のあるのを聴いた。
 絃の清次郎さんは、相生太夫の合三味線かとおもふが、奇麗な撥捌きで、この上るりなどには結構な人かとおもふ。
 
太棹 69
 
文楽若手 〔八月二十九日〕 [1938.8.29]
 増補忠臣蔵 =本蔵下屋敷=
竹本文字太夫
絃 豊沢広助琴 豊沢猿若
 増補ものは概してつまらないとか、此の上るりは、九段目の底を割つた駄作であるとまで酷評する人もあるが、割合に、すたれもせず、相当に、劇の方でも演し物にされてゐるのは、どこかよい処があると見える。先づ人形の配合がよく出来てゐるのにもよらうし、前の三千歳のさはりなどおもしろい手がついてゐるし、奥の若狭之介と本蔵、主従の対応に至つても演者の技倆を要するやうに出来てゐるし、段切の一節などいつも我れ等はおもしろく喝采するのである。
 文楽の若手文字太夫君は、常子太夫といひ後八十太夫から三代目越路の前名文字太夫になつた先づは有望な語り手である、絃の広助師は皆様御存じのヱラ者である。三絃は松葉家といふ名人のアトを襲ひ、東西を跨にかけて活躍し、語りもいけるし、レコードで先生をするといふ才人である。
 時間の関係と、それから最近、前の三千歳のくだり「奥庭」まで出た事があつた為めであらう『行く水の』から語り出された。大々名でもなく、疽癖の強い殿様、若狭之助の調子は、あれで結構とおもつたが、本蔵に今少しドスを利かせて、そして今少し荘重に、御家老の貫禄を聴かせたかつた。どうやら世話がゝつて、平作や久作と大した変らぬケ所があつたやうであつた。判左衛門にも少し文句があるが大体に於て、唯の三枚目にならなかつたを可しとしやう。琴歌から後は無難の出来であつた。絃は最初の中、どうやら極端にいへばド壼に嵌りはせぬかと危ぶまれたら、次第に持直して段切へ来ると、さすがに鍛えた腕を聴かせるとおもつた。
 
大阪女義 〔九月五日〕 [1935.9.5]
 御所桜堀川夜討 =弁慶上使の段=
豊竹昇之助
絃 豊沢力松
 此間、巌太夫さんの機関紙で、どうも放送に大阪ばかり出るやうだが、東京の太夫さんも精々やらして貰いたい、と愚痴つてゐられたが、全く近頃団司小住、駒太夫清次郎、文字太夫広助から、今夜の昇之助力松と、盛んに大阪からの電波に乗る。
 女義未だ花やかなりし頃、昇菊昇之助の姉妹で、東京へデビユーした時は、大層な人気であつた。シカモ上流社会にひゐきが多く、普通芸人のはいれぬお座敷でも、両美形は盛んに聘されたのであつた。容姿としては一枚上であつた姉の昇菊が歿くなつてから、彼女は良縁を得て一家の主婦に納まつたと聞いてゐたが、又た近年ちよい〳〵其の名を呼ばれるやうになつた。
 さて、当夜の『弁慶上使』だが、前書のヨタが長くなつたから、極めて簡単に片付ける事にするが、一言にして訳すれば、昔しながらの昇之助、イヤ昔の侭の女義であると申す外はない。ツマリ枯れても来ないし、熟してもゐないといふのである。絃の力松は初めて聴いたが達者に弾いてゐたとおもふ。
 序ながら、例の上るりの文句の是正?があつた。それは彼のおわさの物語りの中、お約束の『おゝはつかしや、つい暗がりの転び寝に』を『ついうば玉の闇の夜に』とやつてすぐその後の『起きゆく袂控ゆれば』を『立ちゆく袂』と直してゐた。イヤ寝ないものは起きる道理はないから御尤千万至極、この物語りあるが為めか、今度東京の浄曲協会で選まれた女学校の生徒に聴かせてよい曲目の中にこの『御所三』は除かれてゐるのであるが、それからやがて、弁慶の『先年播州福井村にて人目を忍びしばしの仮寝、さては汝…』とのめ〳〵と、イヤ天窓かくして尻隠くさず。
 
文楽座 〔九月十七日〕 [1935.9.17]
 菅原伝授手習鑑 =寺子屋の段=
竹本大隅太夫
絃 鶴沢道八
 近頃東上の文楽一座に、怠けて三頭目以外の人を滅多に聴かぬ吾等、申訳もないが大隅さんも、実は勧進帳の弁慶や何か追出しカケ合のタテを語られるのを伺ふばかり、此の『寺子屋』のやうな大物を身にしみて聴くのは久し振りであることを、ノツケに断はつておく。
 さて、時間の都合もあつて、前の所謂源蔵戻りを全部飛ばして『かゝる処へ』からである。腹の強い人ではあり、先づ玄蕃と松王の出の立派さ、当代無比の賛辞を呈してもよい。更らに進んで源蔵の結構な意気組を頂き、戸浪が判然と戸浪になつてゐるのも嬉しく、要するに、失礼かはしらぬが、大隅氏非常に義太夫を上げられたといふを憚らぬ。歿くなつた其日庵先生に聴かして上げたいと思つた。『奥にはバツたり首打つ音』の前後など、急迫せる場面に彼のクライマツクスの処に至つても、地合も詞もハツキリと一字一句鮮明に聴こえるのを大に讃めたい。大抵な人がともすれば口がもつれたり、絃の音に消されたり、聴取りにくい事が多いにと感服する。それも道八先生の絃の妙玄なるが大に助けてゐるのである。
 松王の二度目の出から、やゝだれ気味に、なつたも僅かの間『申し付けてはおこしたれど』あたりから盛り返して、源蔵の詞に大に愁ひを持たせたのなぞも、吾等は非常に結構だと思つた。
 『あはれや内には覚悟の用意』で、調子を一本上げられると、あはれ大隅氏の声は変になる。出そこなつて気の毒千万、呂から下の声は当代無比といふ此の人も甲(カン)の--極カンの声が容易に出ないので苦しむらしい。これは節の巧拙でもなく、古人の型を破る破らぬの問題ではない。発声の工夫が至らぬといふ外はないのである。難声の点からいへば、御大津太夫、古靱氏のより以上なのがある。その津太夫氏のすしやでお里のさはりなど立派に届いてゐるのを聴く度びに、豪い修練研究であると敬服する。道八氏の絃の調子でも多少の融通はつきさうなもの、といふ素人考へもつい出るのである。いろは送りに至つてもその感を深うした。
 先代大隅譲り、団平好み?寺子の呼出しの直されたもの、摂津大掾も一度だけはそれで語られたとか聞いてゐる。その直伝である。道八師の絃は、柔かな行渡つた撥捌き、殊にいろは送りに至つて唯だ〳〵感に堪えさせられた。
 
太棹 70
 
 文楽中継 〔十月八日〕 [1935.10.8]
 摂州合邦辻 =合邦庵室之段=
竹本錣太夫
絃 豊沢新左衛門
 十月の文楽座は、病土佐太夫、吉兵衛の一組を除いて、紋下津太夫は「太十」を、古靱太夫は稀らしく「沼津」を、切へ若手のカケ合で『十四孝』をつけ、その前の好い処で、錣太夫が『合邦』の前納戸まで、奥の『突ツ込み』から段切までを、大隅と道八とで、充分に聴かせる方法になつてゐる。
 その綴、新左衛門の『合邦』が、文楽から中継されるので、栄三、文五郎の手すりを想像しながら、緊張して拝聴した。
 我が年のゆくのも、うつかりとしてゐるが錣さんも、もう若手の、人気物の、といふ歳ではなく、立派な老大家になつてしまつてゐるのである。新左衛門師は無論の事、堂々たる弾き手である。とかくの評など、をろかな沙汰ではあるが……
 『しんたる』の出から、先以て堂々としてゐる。或は、なまじ、顔を見ないで聴く方がよいかもしれぬ。大方の、玉手御前が、老け過ぎる此の上るりの……さすがに、正銘の玉手御前になつてゐる。合邦も結構だつたが、就中、母親のイキが非常に可かつたとおもふ。
 『あしのうら〳〵浪花潟』あたり、当年の艶語りの名残りを立派にとゞめて、ラヂオでなければ、おもはず喝采したであらう、とまで、イヤ少し賞め過ぎて、例の錣邪道論を唱ふる友達や、イヤな癖が、といふ反対連に何か言はれるかもしれぬ。
 奥の突込み、嫉妬から、薄紅梅など、大隅君も儲けたらうが、錣君の大馬力が想像されて、大変な事だらう、とほゝゑまれる。
 
素義東西 〔十月十三日〕 [1935.10.13]
 一、摂州合邦辻 =合邦庵室之段=
東京 栗原千鶴
絃 野沢吉作
 報知新聞社主催の東西素義競演大会で、東西一等入選者及び二等入選者三名が、此の日AB両Kから、腕くらべとして放送される。其第一陣を承はつたのが、お馴染の千鶴さんであつた。
 競演大会前幾十日間を、汗みどろになつて猛練習を続けた香伯老仕込の『合邦』である。義太夫としての声音、声量、無類の定評ある此の千鶴さん、玉手によく、合邦によく、苦心と練磨の功は、微塵の欠点をも示さゞるもの、『納戸へこそは』までの二十八九分、息をもつかせず、既に新人として、マイクにも馴み切つて、むしろ楽々と語りをはつた事を祝福しよう。
 
 二、近頃河原之達引 =堀川之段=
大阪 伊東柳平
絃 鶴沢友造 ツレ 鶴沢友太郎
 大阪方一等入選者、語り物も、競演の時と同じく、得意の『堀川』我れ等殆んどお馴染のうすい人なれど、聞く所によれば、練習四十余年、京阪神一流の大家にして素義界の大御所、大会の審査員を勤むる人といふ。
 報知社に於ける競演の時と、今回のラヂオの時と、どちらが好かつたか。ある玄人筋の評判によれば、報知の方がよかつたといふが、我等はラヂオの方が結構だつたとおもふ。報知の折は、絃の関係(同し弾手)か調子の外れた事を耳にして、頗る残念に聴いたのだが、マイクを通しての当日は、殆んどその事なく自由の発声、さすがは大家とうなづかれたのであつた。
 時間のたりないに、何もあア克明に、猿廻しを弾かせなくとも、それだけ前のウロ抜いた処を、惜しいとおもつた。
 
 三、奥州安達原 =袖萩祭文之段=
東京 伊藤松鶴
絃 豊沢猿之助
 東京で、断然第一位の入選者コチの松鶴さん。競演の演し物は、猿之助師によりて、苦心研究された伊賀越の饅頭娘だつたが、放送向きでないといふ処から、得意の袖萩に代へられたもの。
 冴えた撥音、弾ぢかれるやうな猿之助師のかけ声。それに乗つて、悠然と語り出される松鶴さんの……唯ださへ曇る雪空の……と。その温顔も見えるやう、最も好い出来は、母親の浜夕であつた。
 総体から言へば、いつもの松鶴さんに比して、やゝ堅くなつた憾みに聴いた。それは、マイクを通す放送は、初めてゞあるといふ僻耳であつたかも知れぬ。
 
大阪女素〔十月廿八日〕 [1935.10.28]
 伽羅先代萩 =政岡忠義之段=
竹本東広
絃 豊沢仙平
 呂昇花やかなりし頃、数寄屋橋畔の有楽座以来、随分と久しい東広さんである。常に、呂昇さんの持論であつた弾語り主義の一人でもあつた東広さんが、此頃は、いや、今度は仙平さんの絃で、その声量やら、恰服から見て、どうかとおもふ先代の御殿、それも時間の都合で、前半「まゝたき」だけといふのであつたが、過般、千両幟のカケ合に稲川を買つて出て好評を博した東広さん。別に不思議でも何でもなく、立派に、まゝたきを聴かせて呉れたのであつた。
 『ほんにさつきに沖の井どの、へ御膳を上げた時』の『若』を『』へと改訂して語つたので、実はちよツとイヤになり、段々聴いて行く中も、この間違つた改訂が、気になつて、巧かつたのか、ツマラなかつたのか、判らず仕舞に済んで仕舞つたのであつた。
 要するに、お素人ではないのだから、巧くもなく、拙くもない成績であつたのだ。論者は東広さんとしては演し物が、やつぱり違つてゐたものと断定する。
 次号は十月卅一日呂太夫(絃、叶)の陣屋より
 
太棹 71
 
文楽若手〔十月卅一日〕 [1935.10.31]
 一谷嫩軍記 =組討之段=
豊竹呂太夫
絃 鶴沢叶
 『青年和楽の夕』といふ放送趣向、謡曲、常盤津、長唄、と何れも名流家元の御曹司連の実は甚だ失礼な言ひ分ながら、あんまり感服も出来ぬ、怪しげな音曲の、ドツサリを承はつたのが、我が呂太夫君と叶さんであつた。
 其日庵主杉山大人が、急死の前、呂太夫君の『長局』の口を聴いて、大に見込ありとなし、爾来に贔屓にするとあつて、叶さんと二人で庵主を訪ね、種々雑談を聴いたのが、最後であつたといふ事を伝へ聞いてゐる。この呂太夫君、十一月の文楽顔見世興行には大序の師直と、五段目二ツ玉、七段目の判内などの役もついて活躍しやうといふ、その呂太夫君!さてその一谷組討『去るほどに御船を始めて……』の謡ひがゝりもドツシリと、オヽイ〳〵の熊谷の呼びも先づ〳〵といふ所。『朝日に輝く剣の稲妻、かけよせ〳〵てふ〳〵……』のくだり、叶さんの絃もよければ結構な出来と聴く。
 時間の都合、玉織姫のくだりを全部抜いて直ちに檀特山になつたのだが、この段切りは今一イキ熊谷の悲痛の場面が現はれて来なければ、此の一段の画龍点晴にならない、惜しい事であつたと申さう。
 
文楽中継 〔十一月九日〕 [1935.11.9]
 仮名手本忠臣蔵 =勘平住家の段=
豊竹古靱太夫
絃 豊沢猿糸
 十一月の大阪四ツ橋文楽座は、顔見世月とあつて、忠臣蔵の通しを出してゐた。その六段目、勘平切腹を、古靱さんが語つてゐる。絃は、合三味線の清六氏病気の為め、抜択された若手の猿糸君が、懸命の努力である。『身売』が済んで、床がくるりと廻つたのであらう、万雷の拍子が聴こえる。やがて、文楽特有の口上触れがある。オクリが弾出された。さて、一句一節聴き漏らさじと、殆んど息をつめる我等。好きな古靱、贔屓の古靱、もうとかくの評言を加ふる余地もない、嬉しい出来栄えではある、といふべき筈ではあるが、ちよつと困つた事に当夜はさうは行かなかつたやうな気がしたのである。第一は、此の一段中最も大切な老婆おかや?が、恐ろしく時代になり過ぎはしなかつたか、腹を切つた勘平が、最後まで、甚だしつかりとした調子が変らなかつたのではあるまいか。郷右衛門や千崎は無事であつたが……。仁にはまつた演し物でありさうに見えて、実は古靱さんのものでないのではあるまいかとさへ、遂に思つたのであつた。程経て此の稿にペンを執つたので、他の細かい処は忘れてしまつて、ひどく要領を得ない訳になつてしまつた。
 
大阪女義 〔十一月十七日〕 [1935.11.17]
 明烏六花曙 =吉原揚屋の段=
竹本清糸
絃 豊沢仙平
 金王丸初見参の方である。仙平さんは毎度の腕達者先以て絃は結構に伺ひました。新聞の紹介によると、清糸さんは故人豊竹時太夫の門で、最初時太郎といひ、後、先代清六師に就て研さん、清糸と改め、清六師以後今は友次郎師の領かり弟子といふ事であれば、女義としては実に、大層に経歴?肩書付きの方なのである。所が程経て此の稿にかゝつた拙者甚だ以て申訳ない次第ではあるが、とんと一切の印象を薄くして困つてゐる。唯た前半の髪結のお辰が思つたよりでかされず、浦里とのやりとりも間延びになつた嫌ひがある。後半雪責めは結構で、いたいけな禿にもほろりとさせられた。彦六の件りが時間の都合、省かれたのは残念である。
 
新人三氏 〔十一月二十三日〕 [1935.11.23]
 一、一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段=
柴野筑波
絃 豊沢団八
 本名半次郎さんとおつしやる、初めてゞはない新人、『陣屋』とは大きな演し物である。出の間稍や勝手の違つたといふ感じだつたが大体に於て壮重さも相当であつて、ホツと安心する『不届至極の女め』の『め』に難があり、藤の方の『サ、相模、助太刀して夫を討たしや』が、車輪に過ぎた為めか男になつた。次の相模の『あいと返事も胸にせまりながら……』なぞは結構に出来たと思ふ。物語の中に、『一きは、すぐれし緋縅し……』など、充分に届いたのは豪い。熊谷のイバリ詞が、やゝこなれ切らぬ憾みがあつた。両馬の、でチヨン、時間十八分。
 
 二、玉藻前曦袂 =道春館の段=
和田春和
絃 野沢道之助
 春和さんの『玉三』は、例の報知新聞の東西競演をはじめ、五十義会からその前後各所の催ほしで数回拝聴した香伯翁仕込の十八番物である。先づ喜ぶべきは、声帯の調子が非常に多かつた事である。報知の時はノドをやつてゐて、為めに、何点かを減じたかとおもふ程であつたのだ。堂々として鷲塚金藤次は出て来たが『かくと知らせに館の後室』以下数行、即ち御台の出を食つて、直ぐに金藤次の『上意の次第余の儀にあらず』へ飛んだのは困る。時間節約といふ心持は判つてゐるが、僅々二分か二分半か、恐らく三分とはかゝらぬのである。続いて『はれ間はさらに見えざりき』から又た大飛びに飛んで『母の嘆きにかきくもる』のさはりである。かつら姫は、今少し可愛らしくゆかぬものかとおもつたが、総て、楽々と、充分に情を語らうとする努力であつた。段切りの『三つ瀬川』が少々怪しかつたのは、絃の方かな。
 
 三、奥州安達原 =袖萩祭文の段=
高野喜代
絃 竹本三福
 高野さんは金王丸初めてのお耳である。先づノツケから、おや〳〵美音の持主であつて大層玄ツぽい、と好感を持つて拝聴する『身にこたゆるは血筋の縁……』女義恰好の演し物である。祭文も至極なだらかに『あと歌ひさし』で切られてしまつたには、全く惜しい、とおもつた、謙杖も一通り、浜夕の詞がちよつと藤間房子に似て、それも先づ〳〵である。それよりは、総て充分に口を開けて語られるのは嬉しかつた。これは何でも無い事ながら素人の方には中々難かしい、殊に女義の方には珍らしいとおもつた。感服。
 
文楽若手 〔十一月廿五日〕 [1935.11.25]
 本朝廿四孝 -十種香の段-
八重垣姫 竹本小春太夫 武田勝頼 竹本相生太夫 濡衣 豊竹つばめ太夫 長尾謙信 豊竹和泉太夫 原小文治 竹本さの太夫 白須賀六郎 竹本津の子太夫
絃 鶴沢友次郎
 文楽の若手、所謂中堅の人気揃ひで、十種香のカケ合ひだ。絃は紋下の友次郎師、東京で夜長のお伽には勿体ない次第、文明の利器ラヂオに感謝すべきでせう。と嬉しがるのは、まア僕等浄曲淫乱党だけかも分らぬ。
 『行水の-流れと……』のまくら、それで既に、四段目の金襖物の感じが現はれたかどうかは判らない。勝頼を承はつてゐる相生太夫である。直ぐに八重垣姫の後ろ姿が上手の一間どころに現はれる。それは新進美声の小春太夫である。続いてコチのつばめ太夫の濡衣である。先づは三人競演といふ訳である。
 美声は即ち類ひ稀れなる美声の持主ではあるが、小春太夫といふ人の八重垣姫は、アノ詞の間の品位を欠く声柄が僕は気に入らないで困る。誰れかラヂオで聴いてゐて、あのお姫様に惚れ〳〵した人があつたら、手を挙げて呉れ、と言ひたい位、嬉しくなかつたのである。嘗て萩の政岡の時も荘重を欠いた事を僕は感じた事であつたが。……だが地合は救はれる『可愛ゆがつて……』や『うそいつはりに言はれうか』など結構であつた。後の『勝頼様でも無い人に、たはむれ事……』などはアヽ拙い、とおもつた。それから『如何にお顔が似ればと』は『似ればと』と言つてゐた。
 勝頼と濡衣は、無難と片付ければ片付けられる処だが、二人とも年輩が老けて聴えた。殊に、あの赤い前髪仕立の勝頼は、何故、今一ト調子上げて言へないかと、これは厳に相生太夫に言はうとおもふ。お付合の出演だが、和泉太夫の謙信は、大体しつかりはしてゐたが投げたのか遠慮になつたか、詞尻りに力が足らぬ、あの荒気の大将といふ本文に叶はぬ、とおもふ節も気になつた。さの、津の子、御両人の原、白須賀は御苦労といふの外はない。
 友次郎師の絃は、狐火の狂ひを聴きたかつたが、それでは、あまり小春太夫の役が好くなり過ぎる。テストや何か、嘸ぞお骨折の事であつたらうとおもふ。
 
 金王丸氏の『ラヂオ浄曲漫評』は益々好評『遠慮をせずに厳評を乞ふ』と投書もありました。
 
太棹 72
関西素義 〔十二月廿二日〕 [19.5.12.22]
 昨秋大阪南地演舞場で催された大日本素人浄瑠璃第一回競演会入選者の中から、先づ三名が選ばれて放送といふ事になつたもの、次回は今春行はれるといふ。
 
 (第一) 一谷嫩軍記 =陣屋の段=
藤原明石
絃 豊沢浜右衛門
 大会で西の大関に据つた人、種を洗ふと此人、元と素義でなく、太夫を志して錣太夫の門に出たのだが、中途、業を転じて今の新聞販売をやるやうになつたとの事。その堂々たるもの故ありといふべきか。『時刻移ると次郎直実』から語り出して『泣く音血を吐く』まで。首実検で『寄るもよられぬ』あたり結構『実検まし〳〵』なども、落付充分と申すべし。唯だ、我等の耳には、相模の詞が、いや、その音声にいやな処があつて、困つたといふ事を付加へておく。
 
 (第二) 観音霊験記 =沢市内の段=
吾孫子櫓
絃 豊沢龍助
 明治三十八年からの稽古といふから、もう三十年もやつてゐる人、今度の大会では西の関脇になつたとか、頗る美声で、成るほど壼坂でも得意にださうといふ人らしい。第一、写真で見ると好い男だ。『夢が浮世か』から、お里の『口説き立てたる貞節の涙の色』まで、ちよツと飛んで『沢市涙で暮れながら』から『御寺をさして』までを二十分に、遺憾のない出来栄だつたが、マイクの前に時間の制限からかやゝ急行…の感があつた。
 
 (第三) 極彩色娘扇 =天王寺村の段=
椿原喜幸
絃 野沢喜市
 大会で東の大関の地位を獲得して、文部大臣の優勝旗を保持する光栄を担ふの人。殊には語りものも、誰れもがザラに持出し得ぬ凝つたもの、盲兵助である。我等も東京素義あたりでは聴いた事もない品物、歌舞伎では幼少の頃、緞帳芝居で、上方の実川正若といふ人の兵助に、後に吉兵衛となつて死んだ中村蝶昇の朝比奈藤兵衛で一度見た記憶があり、其後、帝劇華やかなりし頃、今の延若が初出演のお目見得に出したのを見た、其時の朝比奈は幸四郎であつた。それ以来歌舞伎にも殆んど出ない珍らしいものである。喜幸さんはその兵助を最も得意の語り物として、各所に持出してゐるらしく、成るほど拝聴した処によると『無残やな兵助は』から『こけつまろびつ』の引込みまで、充分に鍛練された技巧の妙、殊に、小判が出ての驚きから『筆松、表しめて来い』など、巧いものであつた。数はなくとも、充分に聴かせ得るもの一つでも二つでも持つて居るその人に敬意を表する。
 
大阪女義 〔十二月廿七日〕 [1935.12.27]
 双蝶々曲輪日記 =引窓の段=
弾語り 竹本小仙
 『橋本』は滅多に出ないが『引窓』は此の頃男女素玄の人々によつて、度々聴かされる。金王丸大好きの曲の一つである。度々出るといへば、此の太夫小仙さんも、実にBKから度々現はれる局宝の語り手である。技芸は既に定評もあり、当日の出来栄えも亦た、一点批難の点も見出されぬものであつた。約四十分の弾語りに少しのタルミも見せぬ努力と修練とには感服の外はない。更らに我等は、誰れか適当な相三味線を以て、痛ましいとさへ感じられる弾語りを止めて貰いたいと思つたは間違ひか、但しは弾語りの方が、やつぱり気が揃つて好いのであらうか。
 
文楽若手 〔一月一日〕 [1936.1.1]
 一、相生松
 二、花競四季寿
竹本相生太夫 豊竹つばめ太夫 竹本小春太夫 竹本源路太夫
絃 鶴沢友次郎 豊沢仙糸 野沢勝平 鶴沢友造
 丙子元旦の昼間演芸の中に組まれた、お祝儀物である。共に文楽座三絃の紋下鶴沢友次郎師の家の芸であり、又たその作曲になるものであつて、文楽座若手中堅の人々によつてカケ合に、尚ほ望月太津吉社中の囃子入りで放送された。御祝儀物であり、景事ものであり、とかくの批評もないが、前者は相生太夫をタテに、後者はつばめ太夫がタテを承はつてゐたやうであつた。賑やかにめでたく、機嫌よく発声されてゐた。
 
東京女義〔一月三日〕 [1936.1.3]
 近頃河原之達引 =堀川の段=
竹本素女 ツレ弾 竹本素衛門
 永く寄席稼ぎもせず、東都女義太夫の第一人者を以て任じてゐる竹本素女さんである。客冬の如き、生前知遇を忝なうしてゐた杉山其日庵主人の追善を名として、日本一の大劇場、木挽町の歌舞伎座*を満員にした豪勢を示した竹本素女さんである。昭和十一年東京側の劈頭の放送を承はつた素女さんは、得意の『堀川』であるが『頃しも師走十五夜の』と傳兵衛の出から語られる。役々確かな出来といふ事が出来やう。猿廻しの三味線も、一二ケ所、躓きがあつたやうだが、達者なものである。
* 1935.11.28 芸術13
 
東西女義 〔一月九日〕 [1936.1.9]
 一、袖萩祭文 竹本越駒 絃 鶴沢紋教
二、白石揚屋 豊竹猿司 絃 豊沢仙玉
三、朝顔 大井川 竹本雛昇 絃 豊沢小住
四、酒屋 豊竹呂之助 絃 豊沢新造
  一、二は東京即ちAK。三、四は大阪即ちBK。競演とある。袖萩は『謙杖はかく共知らず』から祭文まで、揚屋は、しのぶをぬいて宮城野の例のさはりから『貰ひ泣してたてわけの』まで、第三は宿屋の『深雪は何か気にかゝり』から大井川のくどきまで、酒屋はほんとうに『さはりの夕』で『後には園が』から『猶いや』までといふ語り方、どれを害しても、どれを取り上げても、といふ次第で批評はおあづかりを利巧とする。大阪の呂之助さんは例の名人?呂昇の養女になつて、名を襲がうとした、あの呂之助さんで久し振りに美音に接したが、酒屋のさはりを恐ろしく引延ばし、お時間一ぱいにしたなどは、BKのお好みかと、眉を顰めた。
 
淡路人形〔一月十四日〕 [1936.1.14]
 奥州秀衡有髪花婿 =秀衡館の段=
竹本島之助
絃 豊沢町広
 これは又、珍らしいものをBKでは聴かせて呉れた。淡路人形浄るりの、今猶ほ余喘を保つて保存されてゐる事は、少しく浄曲に関心を有つものゝ、知つてゐる所であり、一二年前には、一度東京へも見せに来たものであつたが、聞く所によると、今度放送された市村六之亟座は、二三残つてゐる同人形浄るりの主なるものであり、放送者竹本島之助さんは、その文楽なぞでいふ所謂紋下、即ち本太夫と称する人であるといふ事で、そして、その語り物も、芸題の八字並べてあるのから珍らしく、内容は、ちよつと御所三の弁慶上使に市若初陣を一緒にしたやうな大悲劇で、節付も殆んど、その末段の如き御所三そツくりのやうであつた。三味線の豊沢町広さんも、若いに似合はず、頗る達者で、唯だ時に、変な入れ撥をするのは、淡路上るりの特色かとも思はれた。島之助さんは、音量も堂々と、一二、三とも確かな声の持主で、節廻しも、自から名乗る荒削りでもなく、素朴でもなく、普通義太夫節の各節を取入れてあるものであつて、結構な一段を聴き泌ませた。末段に至つて、稍や声につかれを見せたのは、マイク慣れぬ為め、最初に力を入れ過ぎた為かともおもふ。
 
太棹 73
 
大阪女義 〔一月二十六日〕 [1936.1.26]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段=
竹本綾助
絃 豊沢小住
 全体評者は、この熊谷陣屋といふ浄瑠璃は素人や女太夫の語るものではないといふ意見を有つてゐる。一通りは語れるかも知れぬが感心して聴くに堪える語り物には、余りに力を要する大物であると、確信してゐるものである。さういふ見地から、アヽ又『陣屋』を女の癖に、と先づ拠なくスヰツチを入れたものであつた。よくは知らぬ大阪の女義陣、この綾助さんは、相当の語り手らしい。殊に絃の小住さんは、評者は、その口語りを弾いてゐた東京時代から知つてゐる人の、シカモ、当代、本場の大阪でも第一人者といはれてゐる人だから、相当なものかと、オクリから謹んで聴いた次第であつた。両々相待つて熊谷の出など、先づは堂々と、立派である。軍次を奥へやる意気組もよし。相模の『あいと返事も胸にせまりながら……』と、我れ等は非常に難かしいものと思つてゐる処も無難の出来は天ツ晴れである。藤の方の出に、やゝ意気の足らぬ処があつたのと、物語りの、モ一つ沈痛味が欲しいと思つたは、是非もない次第である。『さほど母を思ふなら』の藤の方のクドキが少し唄ひ過ぎたかと思つたが『軍次』まで、女義でこれほどに聴かせ得た処を見るとこれは得意の演し物であつたナと首肯されたはめでたし。
 
大阪太夫〔二月十日〕 [1936.2.10]
 花上野誉碑 =志度寺の段=
竹本錦太夫
絃 豊沢龍助
 つばめ、相生等少壮中堅の一派が、文楽座を飛び出したといふニユースを最近に聴いた折柄、堀江近松座にゐた先代大隅の高弟錦太夫の放送、といふのは、一種皮肉的な興味を以て、ラヂオセツトの前に座らせたものだ。殊にこの語り物たる『志度寺』は先代大隅師の最も得意としたものであつて、どれだけ先師の遺鉢を継いでゐるかも亦た一つの興味である。先づ大体に於て、地いろ其他の語り口におぼろげながら先師大隅を髣髴させるものがあつて、彼の源太左衛門の、馬鹿々々しい大笑ひなど、先代そつくりである。そして、その笑ひも幾度かの笑ひが、いろ〳〵の笑ひ方の見本のやうなものを聴かせて呉れて頗る面白いものがあつた。巧緻でなく荒削り的なものが、又た我等の嬉しい聴き物であつた事を特筆する。シカモ、その一段の中に最も我等を驚かせたのは、大体に於て前に言ふた如く荒削りな語り口なるにも拘はらず、第一に好いとおもつたは、菅の谷である。次に方丈の詞が今まで聴いた誰れもの志度寺に聴く事を得なかつた微妙の言葉遣ひを激賞したい。それから最後に出て来たお辻、そのお辻の、断食して弱りぬいてゐる息づかひの巧さ、普通、イヤかひなでの太夫の語り得ぬ苦心の痕があり〳〵と、殆んど絶妙といふべき出来栄えを賞めたい。要するに、名人大隅師直伝の志度寺を聴き得た事を感謝する。ともすれば、時代に迷つた改良的義太夫の流行する時に於て、この荒削りの、シカモ苦心鍛練の芸術を有する錦太夫師、健在なれ!イヤ、チト賞め過ぎたかナ。
 
太棹 74
 
大阪女義〔三月二日〕 [1936.3.2]
 恋女房染分手綱 =沓掛村の段=
竹本久国
絃 豊沢蔦之助
 例の二・二六事件といふ、トテツも無い騒動の、まだ鎮まり切らぬ時、何となくソワソワと心も落付かぬ三月二日といふ日、大阪から女義太夫の放送があると、朝の新聞で見たが、危なく聞洩らす処であつたが、定刻になつてラヂオの前へ胡座をかいた。さて、久国といふ人は、われら、お初のやうな気がするが、「沓掛」とはちよつと聴物とおもつて、耳を澄ますと、果して、結構な御両人、シツカリしてゐること近頃にない位、先づカケ乞と八蔵のやり取りもカツキリしてゐる、さらに三吉が巧く、ちよつと若いとおもふが、乳母もよろしい。そこで改めて、新聞のラヂオ版を取上げて見ると、御両人とも勝鳳さんの御仕込らしい、なるほど、とおもふ中、アレアレ大分堅くなつてゐる、といふ処も聴える、絃の方も一二ケ所つまづいたやうであつたは、僻耳だつたか、恐らく、東京に中継されるので厳として、勝鳳師匠が聴いてゐられるとおもつての緊張か、何にしても、かいなでの男太夫など及ばぬ所。思はぬ儲けものをしたやうにさへ思はれて、時間の制限が物足りないと感心した。
 
文楽中継〔三月十一日〕 [1936.3.11]
 恋女房染分手綱 =重の井子別の段=
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛
 昨年の夏、東京へ来た時、古靱太夫と同時に病に仆れて、舞台を退いてから、もう、あの艶々とした浄瑠璃は、聴かれぬものか、と危ぶまれてゐた土佐太夫が、この三月には、久振りに文楽の本舞台に上り、得意の『恋十』を語ると聴き、更に非常な元気で、文楽の危機を打開しようといふ大それた、イヤ大それたといふのは決して悪い意味でなく、驚くべきその元気を喜んだ私であつたのである。とこの十一日には、それを、ラヂオに中継して呉れるといふ、何と難有い事ではある、イヤそんなに喜びもしなかつたが……。
 さて、その聴いたる士佐の『恋十』?
 全く中々の元気であつた事は事実である。或は、仆れる前よりも、元気らしい紙二三枚!危ぶんで聴いた故もあらう、案外の元気に、本当に喜こばしいとおもつた。いつも我らが言ふ事だが、アノ打震ふ節尻、それも大して気にもならず、三吉の調子などといふものは、アノ老年土佐翁の声とはおもはれぬほどの若々しさ!『千三百石………』のあたりの巧さ、何人と雖も真似の出来ぬ彼独特の味!妙な処に、何といつても此人は人と違つた味を持つてゐるのは敬服させられる。吉兵衛師が一生懸命に追ひかけたり、調子を引上げて調節したりする処は依然たるものがあつたが……一段五十分、決して衰へを見せなかつたは豪い。
 『今度からは美味いものを上げますから、どうぞ箸をとつて下さい、きつとやりますよ、わたしも四月の興行には珍らしいものを、演りたいと準備してます』と、放送を前にして語つたさうだが、この元気なら、充分期待し得られると思はれる。
 病後の小手調べ、その実は六ケしい語物だが、比較的、楽な『恋十』先づはその成功を喜ばう。
 
東京女義〔三月十二日〕 [1936.3.12]
 伽羅先代萩 =政岡忠義の段=
竹本静香
絃 豊沢猿玉
 文楽の土佐太夫を聴いた翌晩、東京の静香さんの『御殿』を聴かされた。放送局も、罪なプロの編成方をするものだ。といつて、静香さんが拙いといふ訳でも何でも無いのだが、浄曲翫賞家は、克明に、果して此の静香さんの御殿を謹聴したかどうかを疑つて、ほゝゑまずにはゐられなかつた。しかし、我等は熱心に伺ひました。新聞に出た静香さん、猿玉さんのお写真を見詰めながら、その美声を聞き泌みました。笑つてはイケないホンの事である。鶴千代、千松両子役の詞が先づ結構だつた。政岡はやゝ若くなり品位を欠いたが、これは、大抵の人のがさうで、引合に出しては気の毒千万だが、文楽の、例の小春太夫君のマヽ焚を聴いた時は、なほヒドかつたやうにおもつたのが事実であるから致し方がない。
 それでも、時間の都合で『屏風にひしと』までゆかずに切れてしまつたのを『まつてました』と言はず『をしいツ』と叫ぶだけの贔屓ではあるのである。
 
文楽若手〔三月二十一日〕 [1936.3.21]
 阿波の鳴戸 =順礼歌の段=
竹本源路太夫
絃 豊沢広助
 カケ合のツレか、一番目の端場を語つてゐる源路太夫さんなるが為めに、常に出不精な怠け者の我れら、しみ〴〵その舞台を聴いた事がない。故源太夫師は我等大のひいきであつたので、源路君の文楽にある事は、かなり前から知つてはゐた。けふ、単独に、シカモお馴染の広助師の絃で『鳴門』の放送、一つ聴かずんばあるべからずと、祭日の昼をラヂオの前へ。
 オクリの撥音、先づあの広助師の人並勝れた大きな手の甲が見えるやう。『よしあしを何と浪花の町はづれ……』堂々たる立派な音声。眼をつむり、耳を欹てゝ聴いてゐると、故源太夫師によく似てござる。恰ど、つばめ太夫が古靱の声色をつかふやうなもので、師弟とて争はれぬものである。そして、殊に際立つて巧いとおもつたは、地イロの語り口であつた。絃を離れて、よく詞と節の間をゆく処、嬉しいばかりに上達性をおもはせた。御詠歌も悪くはないが、子役の声にしやうとする苦心の痕があり〳〵と、やゝ苦しげに聴えたのと、をはりに近い約七八分の処に来て、お弓のくどきも強過ぎて、時々は男になり、大落しなど、弁慶上使と間違へてはいけないよ、と言ひたい位、殊に四十分間の、つかれを見せたやうだつたのは、聊か気の毒の感があつた。序ながら、余計な事を言ひ添えるが、広助師の絃が、時々随分意地悪いばかりに、語りにカケ離れたやうに思つたのは僻耳だつたらうか、どうか。
 
太棹 75
 
大阪から〔四月三日〕 [1936.4.3]
 日本振袖始 =大蛇退治の段=
竹本角太夫 豊竹富太夫 竹本源路太夫 竹本陸路太夫
絃 野沢吉弥 野沢八造 野沢姫丸
 何と珍らしい語り物、我れ等素人は、文献によつて、近松に此の作ありとのみ知れる珍物、東京の勝鳳老師の手許に、此の朱章のついた本のあることは、嘗て聞いた事がある位、この語り手角太夫さんは、故摂津大掾の門に出て、長く文楽にも覇を称へた人、今は大島太夫と共に別派?竹本座の重鎮であり、其他の面々は、当夜の絃の吉弥君と共に、現文楽の若手太夫達である。所演の芸評はしばらくお預りとする外なく、唯だ珍らしいものを聴かして呉れた事を感謝するに止めるが、稲田姫を語つた源路太夫が耳に残つた出来であつた。
 
大阪女義〔四月十二日〕 [1936.4.12]
 義経千本桜 =道行の段=
竹本清糸 竹本綱龍
絃 豊沢小住外
 大阪女義因会の中堅、四枚四挺で囃子入りで賑やかに、昼間邦楽競演の聴き物であつた。清糸さんの静、綺麗な咽喉も物足らなげに、綱龍さんの忠信、大に堅実に、例の物語りも大派手に演して結構な出来、絃は、小住さんのタテ申分もなく、ツレ弾三挺もよく揃つたと賞めておく。
 
東京女義 〔四月十四日〕 [1936.4.14]
 加賀見山旧錦絵 =長局の段=
竹本伊達子
絃 鶴沢勝八
 近頃勝八さんと名コンビになつて、熱心研究の結果は、今や東都女義界第一人者--大名古老の人はまだあらうが我等伊達子フアンには、他に比類を見ない語り人と思ふ--となつてしまつた。久振りのラヂオ出演、演し物の『長局』は相当力を要するものとして、先づ、耳を傾けしめた。尾上の品位、お初の意気。ともすれば、年齢の穿き違へを生ずるこの二人、其点もどうやら無難に、それとうなづかせた技倆を第一に認めなければならぬ。忠臣蔵の狂言によそへての意見から、使ひにやられて、あとの気あつかひ、烏啼きも腹から出る真剣の息組、かひなでの男太夫は跣足と聴いた。伊達太夫も四代目が出来た今日、土佐離れのした新研究の近頃、伊達子も何とか改名しなくてはなるまいなど思つた。
 
文楽若手〔四月廿八日〕 [1936.4.28]
 由良湊千軒長者 =山の段=
竹本小春太夫
絃 鶴沢友次郎
 土佐の素人から飛上つて、一代の寵児となつた竹本小春太夫、この六月には師の前名伊達太夫を襲名して、堂々文楽座に盛んなるその披露をするといふ。後進引立の為め、三絃の紋下友次郎師が、特にその合三味線となる、イヤ嘸かし、多数の組見を構成して、益す松竹のお覚えもめでたい事であらう。さて当夜の語り物『安寿姫』は、この人に打つてつけの唄つてのける品物である。我等若い時分に、よく、女義の口語りがみす中や何かで、しきりに唄つてゐたもの、唯たそれ唄つてのけると一口に言ふものゝ、しんみり、泣かせねばならぬ語り物、美声の小春君、充分に気を入れて語つてゐたけれど、我等は残念ながら、唯だその美声にのみ聞き惚れてとんと涙を誘はれなかつた。やつぱり唄つてのけられたものであつたらう。小春フアンは充分の満足を以て喝采した事であらう。
 
文楽紋下〔五月七日〕 [1936.5.7]
 心中天網島 =河庄の段=
竹本津太夫
絃 鶴沢綱造
 五月七日の夜から文楽座紋下津太夫師が、紙治の茶屋場を放送した。大近松の名戯曲である。所謂ビラの利くのは、後段の『炬燵』の方であらうが、我等はこの茶屋場の方が好きである。茶屋場の結構なのは久しく聴かないので、非常に期待して出演を楽しんだ。シカモ、どちらかといへば、腹の強い人で大物語りである津太夫師だが、我等は、むしろ、その世話物の好さを知つてゐる。果然、当夜も、孫右衛門が好く、善六太兵衛が、何ともいへず結構なものであつた。更らに、治兵衛も、宛として魂抜けた遊次郎を表現して遺憾なく、難声悪声の方である此の人として、小春が立派に小春になつてゐるのにも驚かされた。尤も、いかに大物語りにしても、難声にして、陣屋の相模でも、藤の方でも、太十の初菊にしても操にしても、合邦の玉手にしても、立派に情を語つて、其の人を浮き出させるのは、叩き込んだ芸の力である。達者に弾きまくる綱造氏の絃などは、津太夫師にとつては、どうでもよいのである。よき後継者の出現せぬ間、当分は健康を保たせたいものである。
 
文楽幹部〔五月二十一日〕 [1936.5.21]
 薫樹累物語 =埴生村=
竹本錣太夫
絃 豊沢新左衛門
 『かさね』といへば、直ぐ土橋を連想するほど、お芝居や清元や、新内でお馴染のものであつて、この埴生村も近く故梅幸あたりが、歌舞伎へ出して当てた狂言で、新内の身売りは義太夫よりも通つてゐる、前年、古靱が東京でも語つてゐるし、当夜の錣さんも、同じく新左衛門の絃で、往年文楽で出し物にしたものである。稲川の与右衛門も柄に嵌つて立派な中に世話調子に砕ける所が巧く、かさねも、少し年輩が老けるが、世話場だけに、それでよく、就中、才兵衛になると、殆んど、此の人独特の語り口で、大当りであつた。新左衛門師の絃の結構な事は申すまでもない。
 
大阪女義〔五月廿八日〕 [1936.5.28]
 良弁杉由来 =桜の宮物狂の段=
豊竹団司 竹本雛駒 竹本住蔵 竹本名瑠昇 竹本綾助
絃 豊沢小住 豊沢蔦の助 外三挺
 五枚五挺のカケ合である。何れも大阪因会女子部研究会の中堅で、例の団司小住のコンビである。二月堂としては、例の古靱さんの専売のやうになつてゐる良弁杉の段が聴きものであるが、この狂乱も亦た大団平物としての名曲であることは確かである。当夜の出来不出来は、真に甲乙もなく、殊に実演中継放送であつたから、非常に賑やかに、おもしろく拝聴する事が出来た訳であつた。五挺の絃もよく揃つて、美事であつた。
 
太棹 76 掲載なし
 
太棹 77
 
文楽[若手〔六月七日〕 [1936.6.7]
 新曲『連獅子』
竹本相生太夫 豊竹呂太夫 竹本源路太夫 豊竹辰太夫
絃 竹沢団六 鶴沢重造 野沢吉左 野沢喜代之助 鶴沢道造
 「爆弾三勇士」なんて、飛んでも無いやうな、恐いやうな、をかしいやうな新作をやつたのは文楽の友次郎だつたが、今度は、名手道八が『連獅子』をこしらへたといふ、おどかしちやアイケねえ、聴いて見ると、それは、我が長唄の馬場連獅子を、おなまに、太い三味線に乗せたといふだけのもの、ノツケの『夫れ牡丹は百花の王にして……』といふ大薩摩を謡がゝりにした以外は、ほとんど合の手までの杵屋張り?シカモ、作曲者と名乗る道八先生は、飛んだ神様の御利益で出演不能と相成つた為め、団六タテの若手揃ひと来て、これが道八ならばなど、素人に難有がらせる寸法--でもあるまいが--イヤ、この連獅子は、素浄瑠璃の、シカもラヂオの聴ものではなく、文楽で栄三、文五郎、紋十郎の人形で見るだけのものと、評する外はない代物と相成つたのである。呵々。
 
東京床語り〔六月十五日〕 [1936.6.15]
 摂州合邦辻 =合邦の段=
竹本鏡太夫
絃 野沢吉作
 土佐門下の俊髦?鏡太夫は、その昔、東京市村座の菊吉全盛時代のチヨボ語り尾上太夫である。屈強の体格、音声、野心、それ等が彼れをして、本行精進の正道を歩ましむるに至つて、忍苦十年、漸く師匠の、又は他の大幹部の端場を語るやうになり、東京へも度々来た人である。それが、昨年、再び六代目菊五郎付の床語りとなつて、松竹の舞台に、彼の巨躯を現はすに至つた。六代目が引張つたか、彼れが泣き付き縋り付いたか、その辺は知らぬが、再び素の木阿弥となつて、少しは前よりお給金が上つた程度の出世をしたのである。アヽもう彼れの義太夫は、向上の期待は持たれぬものとなつたのである。--尤も文楽にゐて、土佐はんのお湯を汲んでゐても、義太夫向上の望みがあるかどうかは、保証の限りではないが--さて、この、文楽脱退後の新放送『合邦』の出来は、といふ事になるのだが、それは、一向何の変哲もなく、平々凡々たるものであつた。合邦然り、玉手然り、母親など更らに然り『納戸へ』までゞあつたから、俊徳や浅香姫は判らぬが、勿論、彼れ得意の畑のものでないから、先づは、もしや、の希望もかけられないと思ふ。妄評多罪。
 
 大阪素義コンクール三人--〔七月五日〕 [1936.7.5]
 評者、移転の為めラヂオ中絶して失敬*
【*第一位 仮名手本忠臣蔵 山科閑居 行元乙鳥=団六
  第二位 絵本太功記 尼ヶ崎 我孫子櫓=龍助
  第三位 仮名手本忠臣蔵 山科閑居 奥田利生=小住】
 
文楽中継〔七月八日〕 [1935.7.8]
 色彩間苅豆 =木下川堤の段=
かさね 小春太夫改め竹本伊達太夫 与右衛門 竹本相生太夫
絃 鶴沢重造 野沢喜代之助 野沢市之助 豊沢仙三郎 鶴沢友三郎
 長唄の連獅子に、追ひかけて、矢継早やな清元の『かさね』とは驚ろかせる。それが、新伊達太夫の出し物にされたのは、一応はうなづかれる。作曲者重造といふ人は、文楽の若手三絃者として、有望な人らしい。長唄をおなまに取つた連獅子よりは、まづ多少の鑑賞に値するものがあるのであらう。元来、清元のこの曲は、南北の『法懸松成田利剣[けさかけまつなりたのりけん]』の中に入れた浄瑠璃で、それが久しく歌舞伎の方でも、埋もれてゐたやつを、大正の中頃、故人梅幸と羽左衛門とが、延寿太夫の床で木挽町の舞台で復活したもの、それが好評を博して、其後も盛んに持出されるやうになつた。義太夫の方にも、このかさね殺しの、所謂土橋なるものは、例の「身売」の続きとして、語られもし、又人形の方でも、時には見せられるものであるが、今度の新曲で、これを伊達と相生に語られ、人形を文五郎が与右衛門を買つて出て、花形紋十郎にかさねを使はせる処に、座方のあたまの働きを御覧下さいといふ訳なのである。さて、相生の与右衛門は先づ平凡な処であつて、その人だけのもの、伊達のかさねが、得意の美音を遺憾なく駆使して「起請誓紙は反古にもなるが」のあたりを、充分に振り廻して、フアンを喜ばせてゐたのであつた。
 
大阪古老〔七月廿四日〕 [1936.7.24]
 卅三間堂棟由来 =平太郎住家の段=
竹本叶太夫
絃 鶴沢友造 鼓弓 鶴沢友太郎
 明治六年生れといふから、叶太夫さんは本年六十四歳である。摂津大掾に師事した斯界の古老、今こそ文楽の本拠にはをらぬが、大阪でも、押しも押されもせぬ大家である。『夢やむすぶらん』から、本格的なリズムで語り出す柳の一段、われ等は訳もなく謹聴した。さうだ、殆んど批判力を失つたやうになつて聴き泌んだ。お柳の詞が滅法好かつた。平太郎も、横曾根といふ武士の性根を失はぬ物ごし格好に聴きとれた。末段木やり音頭は、期待したほどでなく相済んでしまつた。これへ鼓弓を入れたのも、ちよつと、東京では珍らしいものであらう。
 
文楽別格〔八月一日〕 [1936.8.1]
 艶姿女舞衣 =酒屋の段=
豊竹駒太夫
絃 鶴沢清二郎
 岡鬼太郎先生が、盲目を振しぼる、と嘗て評されたので、ひどく奮慨してゐた東京の某大家があつたが、殆んど生れながらの盲人だから、多少、所謂めくら声も出るだらうが、今、この位義太夫を知つてゐる太夫は珍らしいであらう。文楽の中堅といふのは、やゝ年輩なり不遇なりだから、我等は文楽の別格人として、此の人が贔屓である。鍛えられた美声の持主、当夜の語り物、酒屋などは、まづ打つてつけの役であらう。やゝ癖もあつて、どうかすると、イヤミにも聴える節廻し、それに何とも言へぬ妙所がある。末段サワリにも、一二ケ所、オヤツとおもふ変つた節曲を聴せて呉れた。文五郎のお園が、束輪に活躍するのも眼に見えるやう。絃の清二郎は故人源太夫の女婿とやら、今が修業盛りの、手筋もよいといふ評判の若手。
 
新義座〔八月六日〕 [1936.8.6]
 女舞剣紅楓=美濃屋の段=
豊竹つばめ太夫 竹本南部太夫
絃 竹沢団二郎
 文楽脱退といふ、天ツ晴れ義勇軍らしい義名の下に、全国的に奮闘してゐる新義座の初放送とある。盟主つばめ太夫と南部太夫のコンビで、三勝の「美濃屋」とは、おほツ感心な演し物と、先づ我等をしてラヂオのスヰツチを入れさせる。美濃屋の段は、先代南部太夫が此の間歿なつた寛治郎の絃で、今から二十年も前に文楽で語られたのが最後であつたといふ事だが、大阪では素義の御連中にも語る人もあらうし、東京では先代の港太夫も聴いた事があるし、今では、因会の若手、朝見太夫君が芳太郎氏の絃で、得意の演しものになつてゐるものである。筋から言へば、例の酒屋の前に当る訳で、半七の母親が、美濃屋に三勝を訪ね、お園の為めに縁を切つて貰ひ、トヾ、お通にも会つて帰るところである。芸題は全然別物であつて『浮名茜染五十年忌』となつてゐる。とにかく、ザラには語られぬ珍らしいものである。人物も母親と三勝の二人限りで、派手では無いが、しんみりと情の深い好いものとおもふ。そして、その母親をつばめが、三勝を南部が、両々相侯つてよく語つてゐた、殊につばめの母親は無類の出来と賞めたい位に聴かされた。予てから贔屓のつばめ、此の一段を聴いて、我等は、土佐や錣はどうなつてもよいやうな気がした、といつては悪いか知らぬ。
 
 東西女義 〔八月十五日〕 [1936.8.15]
(一) 天網島時雨炬燵 =紙屋内の段=
竹本伊達子
絃 豊沢猿玉
(二) 伽羅先代萩 =政岡忠義の段=
竹本東広
絃 豊沢仙平
 卒直に、ぶツつけて言つてしまへば、東西ともに、どちらも仁にある語り物ではない。我等の伊達子は、時代を得意とし、殊に、情を語る点に於ては、当今、東都女義界随一の名手である。こたつのさはりを聴きたくは無い人である。大阪の東広も、同じく赤垣とか佐倉とかいふ方のタチの人で、先代のクドキだけ聞かすのでは、当人が可愛さう、聴者も物足りないのは、言ふまでも無い次第である。かるが故に、此の競演は競演にはなるか知らぬが、義太夫好きには、一向難有ない代物になつてしまつたのである。アノこゝナ放送局の心無し奴がツ……。
 
太棹 78
 
大阪より〔八月二十六日〕 [1936.8.26]
 新作 神崎東下り -箱根山峠茶屋より三島本陣まで-
神崎与五郎 竹本伊達太夫 馬喰丑五郎 竹本相生太夫 講釈師 竹本長尾太夫
絃 鶴沢友次郎 ツレ鶴沢友平
 近頃唖然として、且つ憤然として、又た……呆然として、スヰツチを入れたラヂオに、新作?義太夫?『神崎東下り』がある。丁東詞庵*とか名乗る先生の題詞で、大日本、大文楽の三味線紋下を以て自任する鶴沢友次郎さんの作曲と、言いも言つたり、言はせも言はせたりなである。そして、それを浄曲の大衆化なりと、ホザキもホザイたり!だ。
 どうこれを、デーンと弾いても、チヽンと弾いても、浪花節、チヨンガレ節の糟粕を嘗めたものでないと誰れが、言ひ切れるか、こんな馬鹿気切つた真似をして、これが大衆化だといふのなら、大衆なんてもの、ナーンだと言いたい。義太夫は宮内省の雅楽でも無ければ、曹洞宗のお説教でも無い。既に〳〵大衆化された演芸である。今更何を苦しんで、何をアセつてチヨンガレ節の糟を嘗めて、大衆に聴いて貰ふ必要があるのか。狂気の沙汰である。シカモ、これを浪花節の上手の口から聴かされた方が、よツぽど面白いのである。文楽なんてものが、こゝまで来れば、をしまいである。さすがは漫才の本場、上方贅六共のアタマから割出された近頃御趣向である。津太夫さんや古靱さんや、どうかしつかりして下さい。そして、早く文楽を脱退?して東京へ出て来るか、信洲の山の中へでも入つてしまふか。
 さすがに、気のせいか、神崎を語る伊達太夫が、いや〳〵ながら、苦笑ひをしながら、やつてゐる顔が見えるやうだつた。相生の丑五郎は、ハメを外したベランメイで、生れば江戸でございと啖呵は巧かつた。しかし、それも、故人の雲右衛門の馬喰ひに及ばざる事遠しである。長尾太夫の講釈師の拙[ま]づさ〳〵。なつてねえ、といふのはこんなのをいふのである。それもこれも物が悪いからである。
 作曲は、頼まれたのか、道楽か知らぬけれど、友次郎師を煩はすべきものでない事いふ迄もなく、ノツケの道中ヅケといふ処、即ち道行風の少しばかりが味噌なのだらうが、何と変哲もないものである。
 いやも一度、繰返していふ。馬鹿々々しさを通り越した気違ひ義太夫を聴かされて呆れた事を……。
【*丁東詞庵[ちよつとしあん]松竹企画課長大西利夫 BKが浄るり大衆化】
 
文楽若手〔九月十日〕 [1936.9.10]
 伊勢音頭恋寝匁 =油屋の段=
竹本文字太夫
絃 豊沢広助
 『油屋』は私の好きな浄瑠璃の一つである。元々芝居から浄瑠璃の方へ逆輸入されたものだけに、人物の出入りが頻繁で、殊にラヂオなどで聴くには、どうかするとコンガラかつてしまふ恐れはあるが、しんみりとしたお紺の述懐から、万野の意地悪るや、お鹿のチヤリや、喜助の主思ひ、貢の苦衷、愛想づかしから、殺傷まで、お約束の責道具とはいへ、波瀾万丈、語り人は余ほど達者を要するのである。
 当夜は『あとにお紺はうつとりと……』から、貢の『道を蹴立てゝ立帰る』まで語つたが、万野に尚ほ不熟の点があつた事、貢の調子が少し若過ぎたのに反して、お紺の声が稍や老けた感じがした事などを除いては、イヤミの無い語り口で、真面目な態度も見えて頗る頼母しい太夫とうなづけた。三代目越路の唯一の愛弟子、先輩漸く老いて、若手或は邪道に迷ふかの懸念あるとき、特に励精研鑽を望むべき人である。広助氏の絃は、よくこの助演に成功してゐた事を特記する。
 
太棹 79
 
文楽幹部〔九月十八日〕 [1936.9.18]
 『彦山権現誓助剣』 =毛谷村の段=
竹本錣太夫
絃 豊沢新左衛門
 文楽座三頭目と称する人々の、次に据る錣さんだ。絃は名におふ新左衛門。浄曲フアンは飛び付いて聴くべきものであらう?だが、しかしだ、昔はともかくも艶物語りで鳴らした人に相違ないが、いつの頃よりか……杉山其日庵主一派の人々など、早くから『錣はあの通り、邪道に踏込んでしまつて駄目だ』と折紙?を付けてしまはれた人である。数年前、幹部総出で木挽町の歌舞伎座だつたか、妹背の山の段に、雛鳥の役で、キヤ〳〵と当つたとおもつた以来、いつ聴いても、なるほど、これが邪道といふのかなといふ語り口に、我れらも少々眉をひそめてゐる錣君。彦山の毛谷村は先づ出ず入らずといふ処の語り物であらう。仄かに伝へ聞く所によると、いつも盛んに変な事を語るので『錣はん、どうや、もう廃めたら……それとも、何とか本筋を語ることに努めたらどうや』といふ忠告をする親身の人に対して、当の錣はん、何とノホヽンで『わても。もう六十や、今更勉強もでけんやないか』と言うたとやら、如何にその心掛けのナツチヨラン事よである。六十だらうが七十だらうが『芸道』といふものは、一生を終るまでの修業を要するものではなからうか、もはや多く言ふを要せぬ次第である。
 
大阪女義〔九月二十七日〕 [1936.9.27]
 明烏六花曙 =山名屋の段=
豊竹団司
絃 豊沢小住
 つい此間、浄曲協会の催ほしに係る東西女義競演会の選手として東上、『堀川』と『長局』を語り、我等をして第一等の成績と評させた団司、小住の名コンビ。帰阪間もなく此の放送である。堀川の小住の絃、長局の団司のおはつ、共にまだ我等の耳の根に余韻を残してゐる。さてこの山名屋。この二嬢?にしては頗る平凡に、殊に居間の慌ただしい気分の、充分に堪能されなかつたのは遺憾であつた。だが、しかし、あの髪結お辰の意見など、さすがに巧いもので、浦里も立派に、花魁として通る出来栄だつた事をいふて置かう。
 
新義座連〔十月三日〕 [1936.10.3]
 義経千本桜 =吉野山の段=
静御前 竹本南部太夫 忠信 豊竹つばめ太夫 外四名
 絃 野沢勝平 豊沢猿糸 外四名
 元気旺盛、溌刺たる新義座十二名の総力ケ合『道行初音の旅路』である。文楽を脱退して、各地を巡業し、近く東上して、その第二回の公演を行はんとする此の一座、曩きにはこの八月に、つばめ南部の御両人は、三勝の『美濃屋』を放送して、我等を喜ばせたばかりであつた。そして、今度の吉野山も、二人の適材適所、ツレの総出演で、いとも賑やかな演し物の、先づは当を得たものである。特に取立てゝ評する所もないが、つばめの壇の浦の軍物語りは、勝平以下の絃によりて、頗る面白く聴かれた事を特筆する。
 
文楽中継〔十月九日〕[1936.10.9]
 心中天網島 =紙屋内の段=
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛
 四ツ橋文楽座よりの中継放送である。庵看板土佐はん得意の世話物心中物である。聴かずんばあるべからずの品物である。絃は七代目、押しも押されもせぬ吉兵衛師、昔ながらの名コンビといふものである。『門送りさへそこそこに……』の語り出しがら、フアンの視聴を傾けしむるもの、あんまりぢやぞへ治兵衛さん以下の口説きから、立つて箪笥の小抽斗、あたり、まだ〳〵手を叩かせるに充分であらう所のお浄るりである。殊に特記すべきは、いつもさう想ふ、土佐はんの『泣き』だけは天下一品である。実際泣く事の巧い土佐はんではある。さて一段聴き了つて、つら〳〵思ふ。土佐太夫老いたりな、と。重患後、此の前何やらを聴いた時は、捲土重来の感を以て、頗る我等の意を強うしたるものありしに、と思はずには居られない事であつた。調子の外れるを吉兵衛師が追つかけ〳〵弾き直してゆく事も相変らずで、その点は、むしろ、ほゝゑましい訳のものであるが、総体に於いて、やゝ心細い感じを有つたのは残念である。
 
大阪女義〔十月十三日〕 [1936.10.13]
 碁太平記白石噺 =揚屋の段=
豊竹昇之助
絃 豊沢仙平
 東都女義花やかなりし末期に当つて、満都のフアンを熱狂せしめた昇菊昇之助姉妹の存在は、実に旺んなものであつた。その昇之助が、今は大阪にあつて猶ほ太棹に親しんで居るらしい。此日、豊沢仙平の絃によつて白石の揚屋を放送したが、各種和楽の間に挾まつて『義太夫さわり』と銘打つての事であるから、どうやら本気になつて聴くにも及ばぬ代物である。出来栄はさて何といつて好いやら、宮城野に花魁の品位といふか、重味といふかが無くて、大きな失敗であり、更らに困つた事には、そのナマリの多い事であつた。さわり、の事であるから、謡ふ所のみで、まアあんなものか、といふ丈である。仙平の絃は頗る結構であつた。
 
太棹 80・81
 
文楽若手〔十月十七日〕 [1936.10.17]
 絵本太功記 =夕顔棚の段=
豊竹呂太夫
絃 鶴沢叶
 所謂十段目の端場である。うるさの浮世を厭ふて光秀の母皐月閑居の庭へ、操、初菊、十次郎、久吉、光秀と、続々集まつて来ての大悲劇を醸成する発端であつて、所謂太十の筋を通す面白い場面である。十年一日の如き端場語りである若手呂太夫には、得意の語り物であり、楽な出し物である。出来栄は、可もなく、不可もなく、といふ処であらうが、故其日庵に前途を見込まれた呂太夫、叶。大物になれるかなれぬかは、予想もつかぬが、癖の無い、極めて真面目な語り口で、此の上の勉強次第、巨頭連の心細い文楽に於て、有望な人である事は確かである。
 
東京素義〔十月二十五日〕 [1936.10.25]
 玉藻前曦袂 =道春館の段~=
吉田三芳
絃 豊沢猿三郎
 放送局では、新人扱ひであるが、素義の方では、三役以上、五十義会審査員のチヤキ〳〵である。たしかこの三芳さんの玉三は、五十義会大関時代の出世芸であつた筈。梅本香伯、鶴沢綱造あたりの、上等の稽古で出来上つた品物で、素義の通人連をしてアツと言はした十八番物である。放送の当日は、報知新聞の東西素義競演会の第二日目で、大方の義太夫フアンはその方へ押しかけて、例の審査に、赤くなつたり青くなつたりしてゐた時に、悠然として、三芳さんは、愛宕山のスタジオから、美音を全国に送つてゐたのである。シカモ、玉三の「奥」に至つては、放送などゝしては頗る珍らしい出し物で愉快である。例の『御台はくわツとせき上げ玉ひ』からで、金藤次が『首取り上げ、コリや爺[てゝ]ぢやわやい』など不思議と思ふほどの出来で、ホロリとさせたのは大手柄であつた。大落しから、飛んで段切りまで、時に『調子』に危ない所もあつたが、近頃の聴物であつた。
 
大阪女義〔十一月一日〕 [1936.11.1]
 仮名手本忠臣蔵 =一力茶屋場の段=
由良之助 竹本東広 おかる 豊竹団司 平右衛門 竹本小仙
絃 豊沢小住 はやし連中
 アヽ又かとおもふ此の顔触れ、BKからの女義としては、少し頻々過ぎる御連中ではあるが、さて、聴くとなるとやつぱり、結構な顔ぶれではある。どこの注文でこんなものをやらせたのか知らぬが、役どころは適つてゐるけれど、七段目とは、少し智慧のない演し物ではあるまいか。九太夫も伴内も、力弥も、三人侍はもとより要らぬおかるの出からである。これは時間の関係もあるのであらうが、団司嬢当夜のおかるに、いつもの此の人とは思へぬ不出来、イヤ、余り期待し過ぎた故もあらうか、どうも、気の乗らぬ、今一息といふ出来であつた。小仙さんの平右衛門頗る結構、詞にどこといつて覚えぬが、抜いた文句などもあつたやうだが、それらも、時間の関係とおもひながら聴いた。東広さんの由良さんは、堂々たるもので、貫目充分(芸の上ですゾ)小住の絃は唯た楽なもの、おはやしの独吟は頗るまづかつた。
 
文楽新進〔十一月九日〕 [1936.11.9]
 ひばり山古跡松 =中将姫雪責の段=
竹本伊達太夫
絃 鶴沢友次郎 胡弓 野沢市松
 東京の放送局からの、予告の時、アナ君が『中将姫琴責の段』とやツつけて我等を驚かした。誠に以て申訳のない次第である。当夜は何を申せ四つ橋からの中継であつて、彼の懐かしい、嬉しい文楽式口上の声と共に、相当に入りのあるらしい拍手の音が聴こえて来た。近来の幸運児、斯界の寵児、我が伊達太夫の中将姫である。美音の持主の演し物としては、誠に格好のものに相違ないが、中将姫一人の芝居ではない。浄るり語りは、劇中の人物それ〳〵の声や調子を語り分けねばならぬ厄介なもので、ノツケに現はれる敵役、あんな十次郎のやうな勝頼のやうな大貳広嗣は、無いでせう。岩根御前にしてからが、その通りで、憎ツぷりなど薬にしたくも無いといふのは、どうしたものか。さてその肝腎なお姫様はどうであつたか。我等の耳には残念ながら、中将姫とは受取れなかつた。世話舞台のお染であつた。桐の谷、浮舟はどうやらそれらしくもあつて、先づは救はれた事であつたが、唯た驚くべき意外の出来は、最後に現はれた右大臣豊成の巧かつた事であつた。人形は誰れが使つてゐたか、昨年東京へ来た時の栄三の豊成の好さを想ひ出した事である。大家友次郎氏の絃は評するまでも無い。どうぞ、人気があり、花形である伊達君は、ウンと叱つて、極端に言へは、モ一つ叩き直して、大物に仕上げて貰ひたいとおもふ。
 
東京女義〔十一月十三日〕 [1936.11.13]
 奥州安達原 =袖萩祭文の段=
弾語り 竹本素女
日本帝都義太夫因会女子部理事長--といふ肩書を持つ素女さん。其日庵先生を喪つてどうなる事か、と人事ながら、私かに心配してゐたのは、所謂杞憂!木挽町の大歌舞伎座を満員にして、先づその存在を明らかに、且つ大ならしめ、続いて女子部の理事長となつて今月は、男子部糞を喰へと、浜町の明治座に大会を催さうといふ大活躍。十八年生れといふから、五十路の坂を一つ二つ飛び越した働き盛り、打ち見た処、まだそれほどとも見えぬ若々しさ。ノツシ〳〵と各所の催し場にも御出動……イヤこんな事を書くのでは無かつた筈。当夜の『袖萩』今更、評でもあるまいといふほど結構なものであつた。唯さへ曇る雪空』から、処々少々づゝぬいて、お時間四十分、最期に、桂中納言を出さず仕舞ひに、『竹にたちまちすつくと宗任』に飛んで段切のキキドコロを充分に聴かせて呉れた。初めて聴いた人は、此の処、筋はメチヤクチヤ、訳判らずに手を叩く始末であつた。弾語り主義一貫は、何れも賞めておやりなされ、と申す。
 
太棹82 掲載なし
 
太棹 83
 
文楽中継〔一月六日〕 [1937.1.6]
 双蝶々曲輪日記 橋本の段
竹本津太夫
絃 鶴沢綱造
 双蝶々の橋本は、割合に珍らしい演し物である。角力場は芝居に、引窓は上るりの方でもかなり度々出る。が、この橋本は、津太夫も先代譲りの語り物でありながら、今の文楽座が改築成つた時に出して、今年は八年振りだといふ、東京でも滅多には語られぬ。二三年前、豊沢会で、猿蔵の絃で赤坂の師匠猿之助が聴かせた事がある位。
 出雲、松洛、千柳の合作物で、吾妻とお照の若い女二人はともかくとして、お照の親侍の次郎左衛門と、与五郎の父商人の与次兵衛と、吾妻の瞼の父駕籠の甚兵衛といふ、この三人の老人をそれ〳〵語り分けねばならぬ皮肉物といへばいはれる難物を、一口に言へば、津太夫はさすがに、確かに好く語つてゐた。とりわけ、甚兵衛が栄三の人形を想ひ出させた、といへば数年前東劇かどこかで*、一度見たやうな気もするが、筆者のおもひ違ひか、八年振りといふ宣伝は嘘かともおもふ。
 とにかく、あの難声で、お照も吾妻も、相応に聴かせ、「吾妻は涙押しぬぐひ……」のサハリも存外艶が出て結構だつたのは豪い。綱造の絃は、この生世話物としては、少しどうかとおもふケ所もあつたが、相変らず太夫に構はず達者に弾捲つてゐた。
【* 34.7.27-29 歌舞伎座 津=綱造 甚兵衛 栄三】
 
大阪女義〔一月二十日〕 [1937.1.20]
 義士銘々伝 赤垣出立の段
竹本東広
絃 豊沢仙平
 関西女義の重鎮(肥つてゐるからではない)東広さん得意の語り物、全く以て堂々たるものである。
 慶応年間に書下ろされたもので、通な人に言はせると、頭から味も何もない愚劇だとされてゐる上るりだが、素義連中などにも中々好きな人があつて時々聴かされる。斯ういふ語り物は、愚劇でも珍劇でも、語り人によつて、とにかく聴き堪えのあるもので、この上るりなどは、浪花節好きの老人にも、よく内容が判るから受けるのである。
 イヤ全くの事、東広さんの、この赤垣は、過ぎし呂昇時代の有楽座名人会以来の演し物で、筆者などは又かといふ代物だが、ヘロ〳〵した、デレ〳〵した艶物よりは、まア結構なもの、と申されやう。絃の仙平さんも達者なもの。
 
文楽中堅〔一月廿五日〕 [1937.1.25]
 絵本太功記 妙心寺の段
竹本大隅太夫
絃 竹沢団六
 文楽では、紋下津太夫から指を折つて五人目の大太夫である所の大隅太夫、名人先代の後継者としては、同じ不器用さを学んでゐるばかりで、一向にパツとしない存在は気の毒であるが、堂々たる体躯から、イキミ出すその音量は、恐ろしい位のもので、この太功記の妙心寺などは、スツカリ嵌つた語り物である。
 静太夫の間から、大物になる筈で、特に目をかけてゐた杉山先生も、心を残して先立たれた。どうも今の浄曲界の組織は御時勢で、此の上に、勉強の仕やうもないらしいが、大きな声を出すだけで、真の大物語りには、まだ成りきらず。時々調子を外す事などが耳立つのは情けない事だと、筆者など、少々匙を投げかけてゐる人であるが、この妙心寺を聴きしんで実は、大層落付いて来て、どうやら芸を上げられたやうにおもつて嬉しかつたものである。絃の団六は、近く寛次郎を継ぐ筈だと聴いてゐるが、確かな撥捌きで、ウンとタヽキも聴かせて貰つて頼母しい事であつた。
 
大阪女義〔二月二日〕 [1937.2.2]
 傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段
竹本雛駒
絃 豊沢小住
 数ある大阪女義太夫の中堅どこの人だといふ。筆者しみ〴〵と聴くは、これが初めてのやうな気がする人。『よしあしを何と浪花の町はづれ……』の語り出し、先づ、これは結構、とゐづまゐを直す。絃の小住のキチンとした弾音の為でもあらうか。
 子役の声もさうなると、気に入つた。やりとりの間も好いなとおもつた。巡礼歌は、筆者実は誰れのを聴いても、メツタに感心した事がないのだが、まア〳〵といふ所であらう。『道は親子の別れ道、あとを……』の追駈けまでゞあつたが、優れて満点とも申兼ねるが--たるみもなく、所謂、身上だけを聴かせものとして、今度は何か、子役で泣かせるものでなく、少し味のあるどツしりしたものを聴かせて貰ひたいとおもつた。
 
文楽若手〔二月十三日〕 [1937.2.13]
 御所桜堀川夜討 弁慶上使の段
竹本源路太夫
絃 鶴沢清二郎
 文楽大一座上京の折など、道行物カケ合などに居流れて、一枚か二枚を聴かせられるので、番付面で、名跡だけは知つてゐる源路太夫君、今度源太夫の八代目を襲名する、といふ触出しなので、謹聴する。先代源太夫は、筆者の嘗て好きな太夫の一人であつた、誠に、この弁慶上使などは、先代の得意物であつた。
 時間の都合、弁慶の入り込みは略されて、侍従太郎の屈托顔からである。声の調子はどうやら先代に似てるな、とおもはせる。段々聴いてゆくと、サテ困つた。トンとイキが違ふ。間が取れない。なかば過ぎになると、ヤレ〳〵これは困つた〳〵、といふ嘆声を吐かせる事になつた。無論お素人の上るりを聴く耳で聴くのではない、文楽の太夫、源太夫にならうといふ人の義太夫とおもつて聴くからではあるが、どうも期待を裏切られた。やつぱり、まだ〳〵これは道行のカケ合にゐならんで修行をつまねばいかぬ人であるとおもつた。失礼!
 
東京太夫〔二月十六日〕 [1937.2.16]
 生写朝顔日記 宿屋の段
竹本津賀太夫
絃 鶴沢紋左衛門 琴 鶴沢紋三郎
 関東の義太夫因会の会長であり、東京太夫の大御所ともいふべき津賀太夫師久振の登場である。岡鬼太郎君の解説実演で寺子屋を半段ほど聴いたそれ以来のラヂオであらう。
 影の薄くなつてゐる東京玄人連の為めに、大に気を吐いて貰いたいと期待しつゝ、スヰツチを入れる。七十三の御老体だといふに、その声の艶のあること、色気のあること、演し物が朝顔といふのでも知れる。殊に三味線弾きからはいつた人とて、間の好いことは無類である。そして、何でも心得てゐるといふ事に於ては、今や東京での国宝的存在といへば少し誇張であるが、お素人のお天狗の人は、此の師匠に就て、愈よお天狗になるといふ師匠である。
 『声をしのびて……』まで聴き了つて、さて気の付いた事は、徳右衛門が少し武士になり過ぎてゐた事である。大井川の腹切りをあたまに置いての理窟からかもしれぬが、宿屋の間の徳右衛門は、やはり宿屋の爺ぢでなければ嘘であらう。絃の紋左衛門も確かなコンビである。琴の紋三郎は、先にひどく調子を外づしたツレ弾きを聴いて覚てえゐる人だが、当夜のお琴は先づ〳〵出来たといふ方であつた。
 
太棹 84 掲載なし
 
太棹 85
 
文楽巨頭〔二月二十五日〕 [1937.2.25]
 誠忠義士銘々伝 勘平切腹の段
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六
 古靱師が古く、東京でも語つた事のあるものといふ、忠六の改作である。新聞ラヂオ版の報ずる所によれば、作者は誰れとも知れず、節付けは、鶴沢亀之助といふ人で、阪地で有名な素義の名手炭小太や、花十三などいふ人が語つたものとか、無論、文楽にも上演された事はない。
 ハテどんなものかと、先づ好奇心も手伝つてスヰツチを入れる、そして、熱心に聴いて見た。と大体のテーマは、無論、忠六と変らぬが、その段取りに於て、かなりの相違がある。聴き洩らされた方の為めに、その違つた点を一ツ書きにして見やう。
 おかるの身売りが済んで行つてしまふと母親は、与一兵衛の戻りの遅いを気にしながら、勘平を慰めて奥へはいる。と、勘平は、歯を喰ひしばり息をつめ、脇差おツ取り腹一文字、心静かに腹帯をしツかと締める。ところへ、尋ねて来るのは、二人侍でなく、千崎弥五郎唯一人。例の調達の金子五十両を突ツ返す、勘平が言訳と共に、別の五十両をさし出す、息つかひの苦痛を見て千崎は蔭腹と覚る、納戸口からこれを見つけた母親も転び出ての愁嘆、そこへ猟師仲間が、与一兵衛の殺されて居る事を知らせに来る。此処で勘平は昨夜の二ツ玉を物語り、五体をもがき七転八倒、血走る眼に無念の涙、千崎も涙を揮つて介錯に立上つた時『やれ待て弥五郎、弓矢神の御恵みにて、一功立てたる早野勘平』郷右衛門がはいつて来る。計らず親の敵を討ち冥加に叶ひし早野がいさほし、と、これから例の連判状に臓腑をつかんで血判のくだりとなり、聟と舅の七々日、と、大体忠六の文句通り、『にツこと笑ふを筐にて、どうと倒るゝ誠の最期、誠の武士の仮名手本、残す美名ぞ誠なる』といふ段切りになる。
 要するに勘平が蔭腹を切ると、二人侍が別々に来る事、婆さんの例のくどきがなく役が非常に悪くなつてゐる事などが、作り替えの重なる点であるが、さて、やつぱり、古い忠六の方が面白く、古靱さんなればこそ、あれだけに聴かせ得たといふ事になる。変つたキカセ所は、勘平の物語りで次のやうな語りがある。『思ひ込みしが因果の始め、元より砲術覚えの手の内、闇は物かは折よくも、空さえ渡る星明り、彼方こなたと付け廻す、荒れに荒れたる猛獣の、泥も草木も一まぶれ、飛違ふ筒下り、狙ひ極む二ツ玉、引金丁と手ごたへした、その筒先が舅殿、非業の最期と知らばこそ、まだ息もやと撫で廻す、手先きの金は我が身に立つ、剣の山道一足飛び、直ぐに駈け行き貴殿に渡し……』と、聴きながら人形の動きを考へると頗る面白い所とおもつた。絃の清六さんは、病後久振りに聴いたが、しつかりしたものであつた。此の上るりはもう滅多に聴かれぬものと思つて、長々とかくは識した。
 
文楽中継〔三月九日〕 [1937.3.9]
 安宅関 勧進帳の段
武蔵坊弁慶 竹本大隅太夫 富樫左衛門 竹本伊達太夫 源義経 豊竹和泉太夫 伊勢三郎 竹本長尾太夫 駿河次郎 竹本むら太夫 片岡八郎 豊竹辰太夫 常陸坊 竹本隅栄太夫 梶下佐忠太 竹本常子太夫 番卒 竹本隅若太夫
三味線 竹沢団六改メ鶴沢寛次郎 鶴沢重造 鶴沢喜代之助 鶴沢友次郎 鶴沢友平 纏拝寛若 野沢市松
 明治十八年の書き下しといふから、義太夫の中では新曲といへるもの、新曲好きの近頃の文楽座が、時折取上げる事になつたも故なきにあらずだが、勧進帳といへば、我等は、東の長唄の演奏及び舞台を愛翫する。豪壮なる場面と苦衷をあつかつたテーマは、如何にも義太夫向きではあるが、どうも、まだ我等の耳にシツクリと来ないのはどういふものか、名人団平の節付といふから、悪るからう筈はないが、図ぬけて勝れてゐる今の長唄の節付の妙を否む訳にゆかぬ。殊に団十郎(幸四郎とはいはぬ)といふ名優によつて、洗練された舞台美に眩惑されてゐる我等を、どうする事も出来ぬ。さて今度は、三味線の竹沢団六が、鶴沢寛次郎を襲名したに就ての披露として、タテを承り、御大友次郎は、富樫の伊達太夫をあしらつてゐる訳で、とにかく、大隅以下九枚七挺といふ大がゝりの、イヤ恐ろしく賑やかなことであつた、といふに留めて、一人々々の芸評は、おあづかりにする方が、双方の……イヤ我等面倒がなくてよい。
 
東京×× (三月十八日) [1937.3.18]
 一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段
竹本鏡太夫
絃 野沢吉作
 数年前の事。東劇に文楽一座がかゝつた時*、紋下の津太夫が、この陣屋を出した。自分の持場を了へた当時同一座の若手新進であつた鏡太夫が、詰襟の黒い洋服か何かで、客席へ現はれ、予て顔馴染の我等、久振りに何かと話会つたが、其折『どうだね、陣屋を一つ語つたら好い心持だらう』といふと『へえー、全く……』と答へた鏡太夫であつた。
 今夜、その鏡が陣屋を語るのだ。その時の事を想出しながら、スヰツチを入れる。鏡太夫は今、松竹の、六代目付のチヨボ語りになつて居る。さて、聴きしむと、彼の堂々たる体躯から流れ出る大音声、先づ以て物語りの間など、文字通り堂々たるものである。正に津太夫の影響を受けてゐて、これが土佐はんのお弟子かと思はれるばかり、尾上太夫の昔から識つてゐる我等、ほゝゑましさに堪えなかつた。追々払底になる文楽に、此人をもツと〳〵修業させたら、と思はぬ訳にはゆかぬ。×太夫××太夫などゝ伍して松竹のチヨボ床に……と慨して嘆ぜざるを得ないのである。絃の吉作も、此の仲間では、正に結構な撥捌きである。
【* 34.8.1-8.2歌舞伎座のことか。8.2に中継放送されている】
 
文楽故老 (三月二十三日) [1937.3.23]
 明烏六花曙 山名屋の段
豊竹駒太夫
絃 鶴沢清二郎
 駒はん得意の世話物である『雪はまだ』残りて寒き春の風、吹き晴れぬ身の浦里が……』から『あたりを睨むかやが目の光輝く奥座敷、引立てゝ……』まで、即ち雪責めの前半である。きゝ所は、いふ迄もなく、髪結のお辰の意見の件りであらう。この意見ぐらゐ、語り手によつて甲乙のある上るりは無いとおもふが、我が駒はんは、盲人の無本にも拘はらず、我等が思ふ所に調子を持つて行つて、満足を与へて呉れた事を先づ賞めたい。浦里の調子も無難、かやのシヤ〳〵り声も出来た。欲には、後の彦六のチヤリを大に聴きたかつた。
 
大阪女義(三月二十六日) [1937.3.26]
 寿連理の松 湊町の段
豊竹団司
絃 豊沢小住
 遠く摂津大掾あたりのは、よくも覚えず、東京では故人になつた朝太夫が松太郎の絃でよく聴かせた。近頃では、たしか。東劇だつたかとおもふが、土佐太夫が、充分にこれを語つた*。その時、我等は朝太夫と同じ席で聴き且つ話し合つた記憶がある。それから間も無く朝さんは歿くなつた。湊町といへば、直ぐにそれを想ひ出す事である。
 ひゐきの団司と小住が、けふ、それを聴かせるといふので、夜に入るのを待ち兼ねた位。この上るりで、我等が最も気を入れて聴くのは、前の方の、お梅である。お梅と清十郎の皮肉な恋、それが胸を打たれると同時に、お梅がよく語れたら、もうこのお夏のさはりなどはどうでもよい、とおもふほどである。団司のそれは、先づ無事の方で、しんみりとよく聴かせたのは嬉しかつた。聴き了つて難をいへば、佐次兵衛が、少し堅くなつて、さむらゐ上りのやうに聞こえた事である。『日の目も拝まぬ座敷牢、丸一ト月を泣き暮し……』のお夏のくどきも美声を発揮して受けさせた。勿論、小住の鮮やかな、綺麗な絃の力に負う所が少くない。
【*東京劇場 32.5.4-5.6 土佐=吉兵衛】
 
太棹 86
 
東京女義 (四月一日) [1937.4.1]
 廓文章 吉田屋の段
 弾語り 竹本素女
 帝都義太夫因会女子部理事長といふ厳めしい肩書よりも、堂々日本一の歌舞伎座に、タレギダを開演して、満員の札を掲げる豪勢な素女さんとして、真に女義界の重鎮である。そして呂昇以来の弾語り主義者として、三味線に於ても、優に斯界をリードしてゐる素女女史の『吉田屋』を聴いた。
 『冬編笠の赤張りて、紙衣の火打膝のさら……』から、過ぎし夜すがの連弾きへ飛んで三十五分間、充分にその技倆を発揮する。『無残やな夕霧は、流れの昔なつかしく……』と、飛び立つ心も得心なり『見るに嬉しく走り寄り』のあたり濃艶の情緒も出て、とんと寝て、など巧いものであつた。更らに、後の、夕霧涙もろ共に、からのさはりもさすがにキキドコロだけの事は語つて退ける、段切りまで、近頃の吉田屋であつた、と少々賞過ぎておく。
 
東京素義 (四月三日) [1937.4.3]
 菅原伝授手習鑑 佐太村の段
島清一
絃 鶴沢絃平
 新人としてテスト合格第三回目とある。前二回は我等ウツカリ記憶がない。新聞の紹介によれば、竹本由良太夫(?)とかのお弟子で、芸名うつぼといひ、約三十年の御修業とある。佐太村は、近頃巧いのを屡々聴いた我等大好きな上るりだが、さて、うつぼさんのは、どうであつたか、八重と桜丸は、今一いき品位を持たせたく、白太夫もやゝ騒々し過ぎて南無阿弥陀など、堪えなかつた。要するに年限は食つてゐるがお稽古が怪しいといふ事になるのだらうとおもつた。失礼。
 
大阪女義 〔四月十六日〕 [1937.4.16]
 傾城恋飛脚 新口村
竹本清糸
絃 豊沢仙平
 先代鶴沢清六のお弟子で、師の没後、今の文楽紋下友次郎にお稽古を願つてゐる関西女義の中堅どころ、竹本清糸の新口村だ。絃はお馴染の仙平さん。
 『孫右衛門は老足の、休み〳〵門を過ぎ-…』から語り出されて、少しぬいた処もあつて、段切りまで。
 孫右衛門が少し若いといふ難は、ツマリ、梅川が綺麗でよく、艶のある美声といふ事になつて、この新口など得意のものといへる訳、久離切つたのきうりのアクセントが我等の耳にはテツのやうに聴えたが、そちらの方が本当なのかも知れぬ。とにかく、声は高い処へよく届いて、絃の仙平さんと共に、結構々々、と、--金王丸、此の頃少し、賞める癖がついたやうである。
 
東京新人〔四月十八日〕 [1937.4.18]
 壼坂霊験記 沢市内の段
 弾語り 塩田鉄治郎
 何に?弾語り?新人の、それも男の……と驚いたは我等ばかりか、どれ〳〵新聞を見せて呉れと、眼鏡をかけて探して見ると、何アーんの事だ、白山のお師匠さん近衛太夫君ぢやア無いか、莫迦にしてらア--。アハツ
 豊沢団平、鶴沢勝鳳に就く……とあり、今では湯島の師匠団市君の処へ、さらひに見えるアノ近衛さんである。そんなら、アノ童市にでも弾かしてやればよいに、とおもつたが、尤も弾語りの方が、気が揃つて巧くゆくかも知れない。
 アツそんな事を考へ〳〵聴いてゐたら、スラ〳〵と十八分の時間が経つてしまつて、さて何と評さうか判らなくなつた。結構々々。
 
文楽中堅〔四月二十八日〕 [1937.4.28]
 ひらがな盛衰記 逆櫓の段
竹本相生太夫
絃 鶴沢道八
 つばめや南部が追ン出た後の文楽は、此の人や伊達や呂太夫が、押しも押されもせぬ中堅の語り人となつた。殊に絃に大家の道八師がついた。更らに、この逆櫓は、現四月文楽の本興行に、呂太夫と半分宛ではあつたが、堂々、と公演した品物である。
 同夜、相生を聴いてゐる中に、我等は、変な事をおもひ出した。それは外でもない、二三年前、東京劇場で*、吉右衛門が、この松右衛門を出した事がある、中車なき後、イヤ中車健在の時に於ても、波野はこの樋口を立派な売物にしてゐたのである。処が其興行中、吉右衛門が病気をして休む事になり、松右衛門を、権四郎役の友右衛門が代り、権四郎を、吉之丞が代つて勤める事になつた。我等は、その両方とも見物したが、さて、友右衛門の松右衛門も、堂々として立派なものであつた。そして、吉之丞の権四郎も、懸命の舞台に些の破綻も見せずに演了したものであつた。だがしかし、その何れもが、つく〴〵観察すると、やはり、一枚上り、といふ事は免かれなかつたのである。
 舞台の上の態度風采が、イヤ其の声柄までが、常に吉之丞に酷似してゐるとおもふ相生太夫が、この大物を演してゐるを聴いて、彼の折の東劇の舞台をおもひ出した我等は、独りほゝゑまずにはゐられなかつた。
 さてその浄瑠璃の出来栄はどうであるか、既に、本場所文楽の舞台で、試験済みの『逆櫓』である。新義座のつばめや南部が、大物を持ち廻つて、少しも不思議でないと同じに、相生だつて逆櫓が語れない筈はないのである。
 『鳴アる雷の如く』の大名乗りも、存外といつては、失礼だが、堂々たるものであつた。それからの物語りも、委曲を尽すに、充分の真情を現はしてゐたのを感じた。権四郎は、前を今一息頑丈に、後を、今一ト息工夫して、ホロリとさせて貰ひたかつた。我等は、この逆櫓では、権四郎の人情味を最も好むものであるだけに、チト喰い足りなかつたとおもふ、後の逆櫓の稽古も、今一馬力とおもつたが、疲れを見せたのは是非もない、それに、二ケ所ばかり、妙な、上ずつた、おもしろい声が出たのは、三味線に引ずられた形ちであつた。
 道八師の三絃の妙、さすが〳〵といふほど、鮮やかな、美くしいものを聴いた。撥音とイキ、道八未だ老ひずである。
【*34.9東京劇場】
 
女の新人〔四月二十九日〕 [1937.4.29]
 艶姿女舞衣 酒屋の段
井口明子
絃 豊沢猿三郎
 井口明子と聴いて、ハテどんな女かとおもふと、これは〳〵、赤坂のお師匠さんの家の、今は廃めてると聞く、その昔、イヤ最近までの月のや杵子姐さんであつた。紅緑会盛んなりし頃の幹部どころ、絃はその頃からのコンビ、京谷の舎弟猿三郎君である。
 曲は、いきなり『あとには園が……』のさはりからであつた。そして『あすはとうから父さんに、また連れられて天満へ行く』の述懐があつて、直ぐに『無残やな半七は……』へ飛び、巧みに、かきをきの件を省略して、段切りの儲け場、『乳はこゝにあるものを……』など、絃の妙曲と相待つて、普通女義の引延ばし、振廻しにならず、といふて、素義の変哲もなき朗読でもなく、女としての湿ほひをよく生かしたは面白くもまたお手柄であつた。
 
新義座連〔五月六日〕 [1937.5.6]
 日本振袖始 大蛇退治の段
岩永姫実は大蛇 豊竹つばめ太夫 稲田姫 竹本越名太夫 素盛雄尊 竹本叶美太夫 豊竹小松太夫 豊竹津磨太夫
絃 豊澤勝平 豊沢猿糸 竹沢団二郎 野沢勝芳 鶴沢綱延 野沢勝之助
 此の大蛇退治の浄瑠璃は、たしか、昨年の春だつたとおもふ、大阪から、角太夫、富太夫、源治太夫等で、放送されたものである*。一年以上になるから、老人殆んど忘却してゐるが、源治太夫の稲田姫が、よかつたと覚えてゐる。今度の稲田姫は、越名君で、これも可愛い出来であつた。大蛇のつばめ君は、さすがに堂々としたもの、その他五枚六挺の大カケ合の、一体によく揃つて聴き好かつた事を賞める。『無残なるかな稻田姫』の六ケしい調子替りも無難な出来で、変化になつて『千歳経るこの仙宮の……』の本調子の替り目も、きれいな絃であつた。それから次のツレになつて『盃の数はつもれども……』のあたり、三味線に不揃ひの処があつたのに気づいた。とにかく、珍らしい語り物だけに、我れ等には批評など出来ぬ品物である。
【* 36.4.3】
 
太棹 87
 
文楽中継〔五月十二日〕 [1937.5.12]
 桂川連理柵 帯屋の段
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛
 今度愈よ文楽の庵看板を退いて、余生を後進の指導に捧げるといふ土佐はんが、五月文楽座に、花々しく引退の披露目?をした、そのだし物がこの『帯屋』である。引退に当つて、土佐はんは『止り木を降り立つ土佐の尾長鶏若葉の中を暁の声』といふ一首を詠じたといふ。
 当年七十五歳の御老体、殊に前年重患に罹つた土佐はん、その元気を恢復して、現に放送もこれで二度目に当り、当夜、打ち聴く所によれば、前回--昨年の重の井子別れ--よりは、寧ろしつかりとした出来栄は嬉しかつた。例の半音に鼻へかゝる声は相変らずではあるが……。どこといふてをろかはない。殊に『私も女のはしぢやもの、大事な男を人の花……』の、お絹のさはりなど、正に一品、更らに、お絹が奥にはいり、隣りのお半が出て来る僅かの地合なぞ、何といふても、枯れ切つて、到低何人も真似の出来ぬ妙味を味はせてくれた。又更らに、段切り近く、長右衛門がお半の書置きを読上げる所も、頗る結構、斯ういふ処に此人の勝れた鍛へられた腕があるとおもつた。吉兵衛はんの絃も、無論上々である。
 
文楽故老〔五月十六日〕 [1937.5.16]
 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段
竹本錣太夫
絃 豊沢新左衛門 ツレ弾 豊沢新太郎
 文楽でも、所謂三巨頭の次に据る錣太夫が、堀川を語る、尤も猿廻しだから、聴く人にとつては、名手新左衛門の絃をアテである。『同し都も世につれて……』の出から、先づ地唄の鳥辺山を聴かせる。『あのおもしろさを……』の前の合の手など、正に聴きものであつた。錣さんは、どうも我等には苦が手である。どうも聴き苦しくて困る。何を申せ、あの美音を持ちながら、金襖の三段目でも語るやうな頓狂といふか、突ぴやうしも無い大声を出して、時々脅かされるには弱る。お鶴が帰つて行く処など、大きなかたき役でも引込む按配に聴えるのであつた。嘗て妹脊山の段で、雛鳥の美くしかつた錣さんを想ひ出して、殊に近頃はどうした事かと思はれるのである。鳥辺山がすんで、直ぐに与次郎の帰る処もウンと飛ばして、--これは無論時間の関係ではあるが--伝兵衛の出になるのであつた。『戸口をあくればはアしり入る……』と、これは、近頃『はアしりゆく……』と語る人が多く、我等はそれが賛成である。人形を見れば判る、はしりゆくやつを与次郎が追かけて、内へ引き入れる、そして『妹を無理に四人が……』になるのである。こんな事は或はどうでもよいのかもしれぬが、ちよつと気がついたので、書いておく。猿廻しの絃は結構、ツレ弾の新太郎君も段々上達されるのである。
 
大阪女義〔五月廿三日昼〕 [1937.5.23]
 菅原伝授手習鑑 寺子屋の段
竹本春駒
絃 豊沢仙平
 前に一二度は、放送で伺がつた筈ではあるが、どうも覚えがない。根が東京の人で、名人春子太夫に就て学び、初看板は茅場町の宮松だつたといふ古い人。その後、本場の上方住ゐ、今では吉兵衛師に就て稽古をしてゐるとやら、源蔵戻りもしつかりしてゐるし、ちよまよ〳〵の呼出しの終りで、おしまいといふアツケない時間の切り詰め、絃の仙平さんはお馴染の、確かな撥捌きはいふまでもない。
 
淡路人形〔五月二十九日〕 [1937.5.29]
 双葉の楠 久子の方教訓の段
豊竹上総太夫
絃 鶴沢町太郎
 文楽の本家といふ古き由緒ある淡路人形芸術復興協会が、報知講堂に三日間公演を有つた時、その一座の呼物と称する新曲『双葉の楠』が放送された。歌詞は小笠原長生子爵、節は、楠公の末孫であるといふ竹本叶太夫が付けたものである。この人形の頭[かしら]が上等なもので、名工苦心の作といふ実伝も、浄瑠璃の放送には、何の関係もないが、さてこの上総太夫といふのは、座付のタテ語りであるらしいけれど、声の調子が、如何にも耳慣れず、節廻しもやゝ説経節が多く、我等にはどうも批評の気分が出ず、かなり困り物であつた。絃の町太郎といふ人は中々鮮やかな撥捌きで、音もよく鳴つていた。
 
チヨボ語〔六月九日〕 [1937.6.9]
 碁太平記白石噺 =揚屋の段=
豊竹巖太夫
絃 豊沢猿蔵
 巖太夫といへば、かなり古い松竹のチヨボ語りである。その有名なのは、さう申すもいかゞなれど、お浄瑠璃の巧いので有名なのでは無く、時々問題を起して、イヤ、さうではない。三面六臂、あらゆる芸界に活躍するので、有名になつた人、時々、口や筆がすべつて、松竹の井上さんあたりから、叱られるのが、新聞の演芸面に現はれて有名であり、近頃は又、日本帝都義太夫因会理事長--長ですぞ--といふ怖いみたような肩書で押廻し、更らに、義太夫小唄とか、義太夫舞踊とかと案出?して、花柳界などに流行らせる奮闘で、斯界に貢献してゐるのでも有名である人である。さてその巖さんが、久し振りのラヂオ放送であつて、新吉原揚屋の段と来た。お芝居の床でちよい〳〵用ゐられる語り物だから、悪からう筈はない。が、又た、義太夫として決して……チヨボの人だから、詞の方は……それも御当人得意かも知れぬが、当夜つた処によれば、姉の宮城野が、余りにも重々しく、片はづしのお局の如く、妹の信夫も、もう少し、だだアがアま、の心持ちを語つて貰はなければ、アノ人形が動けない、と笑ひながら聴いた事であつた。地合は可もなく不可もなし、といふ処。金王丸どうも賞め過ぎるとの評判に、こゝ少々口から出まかせの悪口、御免候へ〳〵。
 
太棹 88 掲載なし
 
太棹 89
 
文楽若手〔六月廿八日〕 [1937.6.28]
 伊賀越乗掛合羽 =円覚寺の段=
竹本文字太夫
絃 豊沢広助
 文字太夫氏は、現文楽での前途有望の若手の語り手である。ドツシリとした大物になりさうな気がする人である。更らに、松葉家といふ合三味線を得て、近頃特にその将来を思はす、我等は御両人の研鑽を望んで止まざるものである。さて当夜は一般にも、また、ラヂオにも珍らしい出し物で、同じ伊賀越でも、道中双六の方でなく奈河亀助の乗掛合羽五ツ目又五郎の母親鳴海と姉の笹尾の苦節の段である。耳馴れぬこの浄瑠璃を、あれだけに聴かせ得たのは成功である。『今日に限つて化粧もせず、此のまア髱のばらつき様、逢うて何うして斯う言うて…』など色気も充分にあつて良かつた。広助師も気を入れて弾いてゐて結構々々。
 
文楽中継〔七月七日〕 [1937.7.7]
 菅原伝授手習鑑 =松王首実検の段=
豊竹呂太夫
絃 鶴沢友衛門
 たとへそれが、頭目連を抜いた納涼興行とはいへ、寺子屋を丸一段、その中継放送を聴かせたは豪い、贔屓連は大喜びであつたらう事は想像される。我が呂太夫氏は次の文楽を背負つて立つ一人になつたのである。オクリの調子をちよつと外したが、直ぐ立直つて、源蔵戻りもしつかり聴かせた。ハテサテこなたは好い児ぢやなア、で笑はなかつた。迚も御運の末なるか、いたはしやで又ちよつと外れたが、若君の為にはかへられぬ、お主の為めを、に充分憂ひを持たせて上出来であつた。妻が嘆けば、夫も目をすり、はやゝ不出来。かゝる処へ、から首実験の間は無事に身上だけを語つたが、夫婦は門の戸、から千代の来るまでは、此の一段を通じて頗る上々であつた。大いに賞めて好い。以下、千代が少々泣き過ぎる感があり、従つて品位を欠いたのは残念。千代のクドキあたりに、やゝ疲れを見せて、どうやら焼けくそな風にも聴かれた。絃の友衛門は力が這入り過ぎて、撥をはづしかけるのでヒヤ〳〵させた。
 
東京女義、〔七月十二日〕 [1937.7.12]
 金毘羅御利生 敵討稚文談 =百度平住家=
竹本小土佐
絃 豊沢美佐尾
 例の蝶花形先生などは、毎々御承知の語り物であらう。昔はかなり女義間にはやつたもの、田宮坊太郎兄弟が巡礼になつてめぐり会つたのが、乳母のお辻と忠僕百度平親子佗住居の一段である。当夜小土佐さんのそれは、どこといふて取立て申す事もないが、さすがに、しかし、近頃聴いた小土佐さんのものゝ中では、結構な出来栄のものであつた。女義生活五十年といふほどに、叩き込んだところもうなづけるし、そして、まだ〳〵当分後継者を仕込むだけの元気も聴かれて、頼母しい事であつた。お写真で見る美くしい美佐尾さんの絃も美くしいものであつた。
 
大阪古老〔七月廿八日〕 [1937.7.28]
 忠臣二葉楠 =久子の方意見の段=
竹本叶太夫
絃 鶴沢友造
 新聞のラヂオ版によると、これは初放送と申す事、ハテ又違つた浄瑠璃かと思つて聴けば、正に二タ月前、淡路人形芸術何とか会の東上に当りて、AKから上総太夫、町太郎でマイクにかゝつた品物である。金波楼閣下*には相済まぬが、如何に新作でも、国民精神ものでも、二タ月に一度同じ義太夫はチト満腹である。併しながら、前回は時間の都合、今度は丸ごかしといひ、将に楠氏の末裔といふ作曲者叶太夫師自身の出演である。無論此の前の説教節がゝつたそれとは大した相違、結構々々の聴物ではあつた。竹童丸の軍物語など、仲々おもしいろ事であつた。
【*金波楼主人 小笠原長生子爵  新作金波浄瑠璃集 昭和十年十月竹本叶太夫が淡路人形復興協会の委嘱で脚色作曲して同協会の手で初演された。】
 
東京新人〔八月一日〕[1937.8.1]
 本朝廿四孝 =十種香の段=
安藤鶴夫
絃 竹本都太夫
 新人安藤君は、俳名を都昇といひ、都太夫氏の愛息である。本当にアタマのある新人で、始めてからまだ間も無いに拘はらず、東都素義界でも前途を囑望される逸材である。十種香や、新口なぞを得意とする、親父譲りの艶語り、行水の……と出て来るそも〳〵から、特に落ちつきを聴かせたは手柄である。箕作の詞先づよく、濡衣と姫とのけじめも判然と、地合の延び縮み、(はをかしいが)仲々に味を語り、巧みにお時間一ぱいにキカセドコロをきかせ了つたは嬉しかつた。御本人よりは、絃のおやぢさんが大汗であつたらうとほゝえまれる。愈々精進を続けられたら、当時、年毎に語り手を失ふ東都五十義会の大関は、今の間〳〵。
 私の義太夫 1963.6.12】
 
今は床語 〔八月五日〕 [1937.8.5]
 日吉丸稚桜 =駒木山城中の段=
竹本米太夫
絃 竹沢仲造
 朝太夫華やかなりし頃、我等をその寄席へ通はせたのは、主にこの米太夫氏の本格らしい(?)しつかりした浄瑠璃が聴きたい為めであつた。ラヂオにしてからが、その大晏寺堤や、沼津や我等の耳を喜ばせて呉れた事であつた。数年来歌舞伎へはいつて、所謂チヨボ語りの列に入られても、さすがに光つた床の、殊に好きな吉右衛門専属で、常に大物を聴かせてくれる。その米太夫の、これは又近頃珍らしい日吉の三、当時あまり流行せぬ曲の様だが、僕等の好きな語り物、『始終聞ゐる五郎助は……』からで、前のお政の艶をぬいて、段切りの勇ましい虎之助を充分に聴かせたのも我意を得たもの。さすがに立派な出来で訳もなく三十分間を楽しんだ。前には多く新次郎の絃で聴いたが、近頃は歌舞伎の関係で、仲造氏とのコンビ、少々カケ声がウルサイが、達者なものであるとは言へやう。
 
 さはり集〔八月十六日〕 [1937.8.16]
☆御殿(東京)竹本佳照 絃 鶴沢清一
☆太十(同) 竹本越駒 絃 鶴沢紋教
☆沼津(大阪)竹本団初 絃 豊沢雛吉
☆寺子屋(同)竹本雛駒 絃 豊沢小住
☆陣屋(同) 竹本東広 絃 豊沢東重
 又はじまつた女義のさはり集。実は聴き度くも何とも無い品物だが、拠なくスヰツチを入れる。此の顔触れで、関東関西女義の競演が聞いて呆れる。先づ佳照の御殿、中どころの出来、政岡に今少し品位を有たせねばイカン、清一の絃は可い。次が越駒の尼ケ崎だが、これは又、テツ沢山で助からない。東京方この御両人では、先づ三対一位の勝負であらう。それからBKへ廻つて団初の沼津、『一旦本復』など感心しなかつたが、ちよつと聴かせる。絃の雛吉はモ少し御勉強が願ひたい。次が雛駒の寺子屋、案外(は失礼だが)によく、殊に、いろは送りになつて、小住の撥で近頃にないおもしろい段切であつた。最後は、東広の陣屋『やアをろか〳〵』から、女で陣屋のイケル人は先づ此人位なもので、それに東重の絃が頗る鮮やかであつた。以後贔屓にしやうかナ。
 
文楽中堅 〔八月廿八日〕 [1937.8.28]
 恋女房染分手綱 =重の井子別れの段=
竹本伊達太夫
絃 鶴沢友次郎
 恩師土佐太夫引退に、やゝ心細い感もあらうと、天稟の美声に、フアンの人気を獲得し、殊に近時、指導役として絃に友次郎師を得て熱心な研究を続けつゝ、文楽座中堅の地位を築き上げた人、当夜は師匠譲りの重の井、四十分の時間を与へられ前の道中双六の条を抜いて、殆んど全段の放送は得意な事であつたであらう。打聴ける処、僅かの間に、その芸も貫禄も上げられた事を確認した。一つはこの語り物が、その口に嵌つたからの為めでもあらう。前半は頗る好い間も持つて語りゆき、三吉もその舞台の動きが眼に見えるやう、巧みにやつて退けられたが、唯後段になつて、急いだ為めか重の井の詞がとかく世話に近くなつたを瑾としやうか、尤も友次郎師の絃が盛んに畳み込んで弾いてゆく所もなくはなかつた。
 
女の新人〔八月二十九日〕 [1937.8.29]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段=
林福子
絃 竹本志磨吉
 女だてらに、しかも素人で、陣屋を語らうといふ強い心臓の持主、それだけに真当の物にはならぬまでも、相応の自信を以ての出し物、物語りも案外に手強く聴くに堪えぬほどでも無かつたを取柄としやう。ところ〴〵、伊達子の口吻の聴かれたのもおもしろい。
 
太棹 90
 
大阪女義〔九月三日〕 [1937.9.3]
 絵本太功記 =尼ケ崎の段=
弾語り 竹本小仙
 小仙さんは、関西女義鉄中の鏘々たるもの、硬軟両方、行くとして可ならざるなきは、東広と団司を兼ね備へるものである。BKの国宝と言はれる所以、と僕は夙くから、遙かなるフアンの一人である。当夜『太十』の奥の、勇ましい所を語つたのも可い。得意の弾語りで、ちよつとオコツイタなと思はれた所もあつたが、総てが堅実な出来であつた。十次郎の調子も息つぎも巧い。主役の光秀も女義としては、真に堂々たるもので、物見の松のタテ言葉が、少し気に入らなかつたが『互ひの運、ナ天、王山』と息で切つたのなぞは、頗る我意を得たるもの『運は天』といふ作者の技巧を生かしてゐる。さすがの久吉よく言つたハヽヽヽの笑ひなど大したもの、久吉の笑ひは少しアヤシイ気がしたが…………
 
東京新人 〔九月十二日〕 [1937.9.12]
 増補忠臣蔵 =本蔵下邸の段=
三ノ宮静枝
絃 竹本志摩吉
 新人とは申せ、芸名を昇之助といふとかいへば、半クロの、三十七歳とあれば好い年輩『本下』を『かくと……』からなら、三千歳で聴かせるつもりと早合点は、全く外れて、我れ等の耳へは『釜の煮音』や『憂き身とや』や『身にひしひし』や『月雪花川戸』などが、あれ?おや?といふほどおもしろくなかつたが、『時分はよし』との伴左衛門の出からは別人のやうな出来、例の笑ひの語り分け、もまア〳〵といふ名調子。奥の若狭之助が聴きたいとまで思はせたはお手柄であつた。…………
 余談ではあるが、この静枝さんの放送に引続いて『ラヂオ聯曲』*といふ時局物があつて、新派の村田正雄が、好い加減に何かやつてゐたその中へ意味もなく、長唄と、常磐津と義太夫とが、チヨツピリづゝ出たのだが、イヤハヤ、新人とは申せ、ヒドイ代物の連続で、唯だ一人、我が三芳さんが猿三郎の絃で『日吉の三』を……それだけが、さすがに叩き込んだ芸?立派に聴かれたは嬉しかつた……。
【*AKの新人放送を三回パスして玄人待遇の人々を活用するラヂオ聯曲「銃後の秋」はAK銃後の演芸報国のあらはれで、AK文芸部が村松梢風氏の愛弟子小菅一夫氏と新橋演舞場文芸部の上坂聖三氏に依頼した新作もの。都会篇・第一場 朝・第二場 昼頃・第三場 夕方(義太夫 吉田三芳=豊沢猿三郎)・第四場 夜、 田園篇】
 
文楽故老 〔九月二十日〕 [1937.9.20]
 義士銘々伝 =赤垣出立の段=
竹本錣太夫
絃 豊沢新左衛門
 ラヂオはニユースを第一に、軍歌、詩吟と、戦時態勢になつて了ひ、浪花節や琵琶が、一番多く、何れも斬ツつはツつのものばかり、割合に多く出される我が浄曲も、演し物に好みがついて、それは武張つた物に限られるやうになつた。今宵、錣氏のだし物も、まツその如く、赤垣源蔵出立とは考へたりな、悲壮、勇敢此上なしと来た。そしで、直ちに結論を言へば、大出来、大当りであつた。先づ弾出しの新左衛門の絃「ゆき」の合の手の又なく美くしさ。錣氏は曾平太の若徒振り、源蔵の酔態、竹光を抜いてソレソレ〳〵など巧いもの、最も好かつたのは婆の病蓐にある言葉であつて、コリヤ源蔵、といふのが、ちよつとテツと覚えたのと、老さらばうて、で調子を外して、得意の不器用振りを聴かせた外、立派に詞語りの太夫としても通るほどの成績であつた。
 
文楽掛合〔九月三十日〕 [1937.9.30]
 支那事変挿話 軍国民 =ある村落バス発着所の段=
竹本相生太夫 豊竹呂太夫 竹本源太夫 豊竹辰太夫 豊竹竹太夫 竹本相瀬太夫
絃 鶴沢道八 野沢八造 鶴沢清友
 新作!新作!噫、文楽の新作である。原作は流行作家川松事川口松太郎のもの、八月、東京の歌舞伎座で、猿之助がイタにかけた所謂際物篇。例の道八老が得意、さうだ得意の作曲になり、相生以下の若手六枚、三挺のカケ合浄瑠璃。さてこれは歓迎してよいか悪いか、金王丸も本来なれば、アタマからケナシ付けるべき代物であるが、国民総動員といふ御時世であつて見れば、誠に以て謹聴致さゞるを得ない事であつた。噫、それにしても、モ少し何とかしたものが欲しいといふ苦情は、原作者にも、又これを採り上げたそれ〴〵の御係りにも、何とそれがBKの委嘱になるものであると聞いては少々驚ろき入りながら。…………
 何しろノツケが『雪の進軍氷を踏んで……』といふ軍歌の合唱に始まつて、『戦さの噂ちか道を、急ぐ乗合自動車の』と来たもんだ。その運転手が、バスをそこへおいて『あほるビールも時節柄、ラツバ飲みとぞ見えにける』といふ誤名文であるのである。何でも召集令が来ないといふのでヤケ酒を呷る運転手、猛烈なる夫婦喧嘩を展開し、急ぎのお客を怒鳴りつける、まるで支那人見たやうな無法極まる醜態を盛んに続出する。結末は無論、皇軍万歳になるのだが、どうも、イヤハや大変なテーマをあつかつたものである。相生太夫の酔パライは、此の前の馬喰ひの牛五郎以来の得意芸、キビ〳〵として好い心地にやつてゐた。それが大真面目に『あゝそれなのに、それなのに怒るのンはあつたりまへでせう』*といふのが、この酔ツぱらいの詞の中にあつたのには、さすがの金王丸も、思はずラヂオに顔をそむけたのであつた。芸評など無論、略ツ。
【*美ち奴「あゝそれなのに」1937】 
 
太棹 91
 
東京新人〔十月三日〕 [1937.10.3]
 絵本太功記 =尼ケ崎の段=
高野喜代子
絃 竹本三福
 『残る蕾』から、一二ケ所端折つた所はあつたが『操の鏡』まで三十分は新人放送としては時間に恵まれて、先づおめでたうと申さう。第三回目の入選といふ事だが、記憶の悪ひ我等、初耳の、さて仲々味ぢを語つて聴かせました。女のお師匠さんなり、相手が御婦人のお素人とあれば無論幾割かのハンデーキヤツプを要するが、アヽイケネエな、とおもふところもちよい〳〵あつたが、とにかく、あれだけに聴かせるには、相当熱心にお稽古をつまれた事と敬服した。総体に、今一ト息も二タ息もの『力』が欲しいのはやむを得ぬ所であらう。
 
新義座連〔十月二十一日〕 [1937.10.21]
 信州川中島合戦 =輝虎配膳の段=
豊竹つばめ太夫
絃 豊沢猿糸 琴 竹沢団二郎
 川中島は大近松晩年の作で、この輝虎配膳は、その三段目である。劇の方では今でも稀には上演される条りであるが、上るりとしては、誠に以て、珍らしいものである。輝虎の武勇、疽癖、お勝のドモリ、老母越路の、所謂三婆アの一人としてのシツカリした処、品位もなければならず、切[せ]ツパ詰るイキを大切にする難かしい語物、三段目語りとしても、堂々たる我がつばめ君は、それらをガツチリと、遺憾なく表現したのは豪い。殊に、老母の高笑ひから、長がせりふなど、或は、此の人ならでは、とまで思はせたほど巧かつた。お勝の皮肉な琴の段も、頗る結構。前を省略して三十五分間、近頃のおもしろい聴きものであつた。
 
文楽中堅 〔十月廿八日〕 1937.10.28
 増補忠臣蔵 =本蔵下屋敷の段=
竹本源太夫
絃 野沢吉弥 琴 野沢吉蔵
 所謂、増補ものといひ、本格的にはおもしろからぬ脚色の、殊に、九段目の底を割る仕組みとあつて、一部の人からはあまり歓迎されぬものではあるが、割合に素玄両方面に流行する義太夫である。源さんは、最近、源治太夫から、故師名を襲ぎ、無人の文楽に於て、今では中堅あつかひをされる人である。当夜は、奥庭の方、若狭之介が主役で、詞で続かせる、後半であつたが、さてどうも、根つから感服させられなかつたは存外であつた。本蔵も老け損ねて、重みも足らず、若狭之介の品位もどうやら、第一、アノ大切な疳癖が充分に現はせなかつたは遺憾であつた。まだ〳〵、道行のカケ合太夫といふ外はない。御修行々々々。絃の吉弥氏は段違ひの腕、結構々々。
 
東都女義 〔十一月三日〕 [1937.11.3]
 菅原伝授手習鑑 =寺子屋の段=
竹本小土佐
絃 豊沢美佐尾
 小土佐さんほどの老大家、古強者になると、かひなでの女義とは一列には評されまいが、随分古い小土佐である。寺小屋の奥、夫婦は門の戸から、いろは送りの段切りまで、大に若返つた大風に、例の引のばし〳〵、絃の美佐尾さんが一生懸命に緊めやうとする弾法まで、あざやかに聴取されたのもおもしろい。恰ど、外れかゝる土佐さんの声を、吉兵衛氏が追つかけてゆくかに聴こえるソレと想ひ合はしてなど、をかしい事であつた。厳格に評すれば、この寺小屋は、四段目には無論なつてをらず、唯だ昔し風に、振る事ばかり、誠に以て困りもの、とエヽモ失礼ばかり。
 
天下一品 〔十一月十日〕 [1937.11.10]
 桜時雨 =桜町佗住居の段=
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛 琴 野沢市松
 忠六の勘平切腹を東京の舞台最後の語り物として、庵看板の文楽座を引退した土佐太夫老、名コンビの吉兵衛氏と共に、得意中の得意、他に演り人もない高安月郊の『桜時雨』を提げて、BKのマイクに現はれた。一部の友人から、土佐ぎらひ、と言はれた事もある小生だが、この人の大文字屋や、桜時雨には、どうしてもあたまが下る。きゝ耳を立てざるを得ない。当夜も、楽しみにしスヰツチを入れた。先づ『音羽川、世にながれては秋となる。風も身にしむ桜町……』の出から、もう、はツきりと此の人の専売物といふ感じである。一々取り立てゝ申すまでもなく、誠に結構なもので、殊に紹由老人が出てからは、唯だ故人大松島屋の舞台をおもひ出しつゝ、聴きしむの外はないのである。土佐と仁左衛門、同じイヤな処があつて、眉をひそめさせることも少くないが、又た、他に類を真似人の無い名人芸に対しては、前にも言つた通り、あたまが下る事が多い。当夜の吉兵衛氏の絃も、例のカケ声沢山がチト困るが、鮮やかに美くしい撥音であつた事を特筆する。琴の茶音頭も、その情景を髣髴させて、この曲の名作たる事を賞美させた。近頃の怪しげな新作に比して上等な新曲であることよ。我等古い人間には涙がこぼれるほどの感銘を覚え、文楽座がニユース劇場となつた昨今、感慨更に深いものがあつた。
 
文楽故老 〔十一月十六日〕 [1937.11.16]
 仮名手本忠臣蔵 =判官切腹の段=
豊竹駒太夫
絃 鶴沢清二郎
 我が駒太夫氏のだし物として、四段目はチトどうかとおもふ。シカモ前の花籠の、かほよ御前の件を飛ばして、すぐに上使の処から語られたは、蓋し時間の都合でがなあらう、無論駒さんだけの落つきもあり、格式もあるにはあるが、やはり、例の美声を揮ふものゝ方が得意なり聴き好いものであるとおもつた。判官の由良の助は、に対する力弥の、未だ参上なども、期待したほど胸を衝いて来なかつた。駈付けの、近う、ハア、も、今一ト息、こたえさせて貰ひたかつた。薬師寺だけが、図ぬけてキバラレたのも、過ぎたるは及ばぬ憾み。最後の『血に染まる切ツ先を……』から『さてこそ末世に大星が……』は、充分にイキを入れられたのを、まだしもとおもひ、返す〳〵も演し物の選択は、むづかしいものとおもはせた。
 
大阪女義 〔十一月廿七日〕 [1937.11.27]
 仮名手本忠臣蔵 =一力茶屋の段=
由良之助 竹本東広 おかる 豊竹団司 平右衛門 竹本春駒 九太夫 竹本住龍
絃 豊沢小住 おはやし連中
 大阪因会女子部の精鋭が、恤兵献金の為めに催ほした北陽演舞場からの中継放送である。役割も動かぬ処、団司のおかるの、のべ鏡から始まつて、東広の九ツ梯子、『どうやら船に乗つたやうで……』を省いたのは『船玉様』を言はぬ為めの注意も察せられ、この二人のとりやりも頗る結構、平右衛門の春駒は、我れ等の耳に馴染薄すの人ながら、しつかりとした達者芸、人形が眼に見えるやうにイキが合つたのも嬉しく、おかるの『ヤア〳〵〳〵』に万雷の拍手、兄妹相擁しての悲嘆にも同じく盛んに手が鳴つた。派手に〳〵と弾く小住の絃も鮮やかに、団司さん好い心もちに唄つてゐたのは、少し苦笑ものに近い所があり、わしや恥かしいの詞で、調子を外したのはどうしたもの、とおもつた外、一同大緊張で、先づは結構な茶屋場であつた。
 
太棹 92
 
昔の女義〔十一月三十日〕 [1937.11.30]
 蝶花形名歌島台 =小坂部館の段=
弾語り 竹本東玉
 『蝶八』といふ上るりは、たしかに昔ははやつたもの、それが近頃ぼつ〳〵聴かされるやうになつたのは?……東玉さんも、昔はやつた東京のタレギダ君、今は予備か後備か、これで放送が三度目とある。歯に衣着せずズバリと言つて了うならば、第一、弾語りがイケないのだ。三味線に無理が出来て、大体の拍子も乱れ勝ちになる、語りのイキのぬけるのも、弾語りの罪である。七十三歳の老人として無理もないが、小坂部兵部に力がなく、此の曲の重要な点が、既に駄目なのであつた。二人の娘では真弓が好かつた。勝員に負けた松太郎も好い出来であつた。昔取つた杵柄といふ事にはなるが大体に於て、期待を裏切られた感じであつた。
 
新義座連 〔十二月五日〕 [1937.12.5]
 一谷嫩軍記 =流の枝の段=
竹本南部太夫
絃 野沢勝平
 恰かも新義座連が東上、公演の折とて、何か聴かせて呉れやうと私かに期待してゐたところ。南部君が一の谷の二段目を放送すると、先達而はつばめ君がBKから、廿四孝の輝虎配膳といふ義太夫では、珍らしい語物を、今又、忠度とはさてもラヂオの難有さを感じさせるだし物ではある。輝虎と同様、これも芝居の方では、時折--それも久しく出ない、拙者が覚えてゐるのは、旧二長町の市村座時代、今の寿美蔵が臨時に出演して、この忠度を見せた事がある。それはとにかく、恰どこの放送の二三日前、早稲田の演劇博物館で、河竹繁俊君が、浄曲に関する講演をして、そのあとで、つばめ太夫が、団二郎の三絃で、いろ〳〵と浄曲の実演解説を行つた時、拙者も招かれて参聴したが、つばめ君の話の中に、この流しの枝の件に触れ、先代の源太夫が一度語つた以来のもので、そして、これは美声の聴え高き先代駒太夫が語りだした為め、これを駒太夫風のものといふ旨を語つたが、恰ど南部氏の口に合ふものであらうと思はせられた。さて聴いて見ると、先づ第一に南部君の芸の進歩の著しいのに驚いた。この耳馴れぬ語り物を、あれ丈けに聴かせたのは豪いといふ外はない、六弥太が出て来ての『今更返す詞もなし、惜しからぬ命なれど、明けなば陣所へ立帰り……』のあたり、何ともいへぬ巾もあり又た忠度の品位もあり、感服した。絃の勝平氏また頗る結構、殊に末段、『暇乞さえ泣き顔に、見送る姿、振り返る……』の処、その間の手など、得も言はれぬ憂ひを含み、絃でホロリとさせたるは、大の手柄であるといへやう。何といふても、真剣に勉強する人は上達するものとつく〴〵思はせられた。
 
文楽中継 〔十二月十日〕 [1932.12.10]
 仮名手本忠臣蔵 =五段目・六段目=
山崎街道 竹本源太夫 絃 鶴沢友平
二ツ玉 豊竹駒太夫 絃 鶴沢清二郎
身売り 竹本文字太夫 絃 鶴沢友造
 普通にラヂオのプログラムを一見した時、この忠臣蔵は?『何だいこれは』。『イヤ、これはおもしろい』と両方の考へ方もあつたらうといふもの。今その此処に至つた訳を訊くと、予定の某劇場中継が纏まらなかつた穴埋めに、単に、八時から九時までといふ時間の都合でBKが苦心の、イヤやツつけた編成といふ次第である。それはともかく、山崎街道の源太夫と友平は、もうはや何の変哲もない語り場なり、品物なりで、次の駒太夫清二郎の二ツ玉が、やはり何といつても光つて聴かれた。普通芝居なぞで見る五段目と違つて、茶利がかつた定九郎。金が仇きの世の中、南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経、どちらへなりとうせをろ……』など、とんとおもしろいものであつた。次の文字太夫のおかる身売りは、ひどく謹んで語つてゐたし、又た大物を覗ふ此の太夫のだし物としては、まだ少し枯れ方も不足なり、先づは一と通りの出来であつたと申しておかう。
 
文楽座連 〔十二月十七日〕 [1937.12.17]
 祇園祭礼信仰記 -金閣寺碁立の段-
竹本大隅太夫
絃 鶴沢寛治郎
 さても、大阪からは近頃次から次と珍らしい語り物を聴かせて呉れる。之の『金閣寺』なども其一つで、先代清六に習つたといふ大隅太夫初演の浄るり、と銘を打つてマイクに向つたものである。但し、金閣寺とはいふものの、前半『碁立』の段で、実は奥の雪姫爪先鼠の方が、どちらかといへばおもしろいのであるが、大隅氏としては、やはり碁立の方が嵌つてゐるのかもしれぬ。処が、同夜聴いた処によると、豈計らん哉であつて、立派であるべき松永大膳が、唯だいつもの大隅氏の地声のドス以外の何ものでもなく、あの雪姫のしとやかなむしろ可憐な容姿がクツキリと、当夜一緒に聴いでゐたものが『大隅でもこんな事が言へるのだね』と大変に失礼な事を言つた事ほど左様に、所謂三姫のお姫様を聴かせたのであつた。それはともかく、この金閣寺碁立の段は、絶対にラヂオ放送などで聴かすべきものでなく、人形なり芝居なりを見なければ、その筋も、その趣向も、何が何やら訳の判らぬ浄るりである事を付加へて、放送用の演し物の難かしい事を考へて貰ひたいとおもふのである。
 
太棹 93
 
大阪素義 〔十二月十九日〕 [1937.12.19]
 絵本太功記 -尼ヶ崎の段-
吾孫子櫓
絃 豊沢龍市
 大関を三回重ねたといふ上方素義の大天狗、放送も三回目とある、櫓氏の上るりは、定評のあるものであらう、前をうろぬいて、操の鏡まで、かいなでの玄人跣足とはこの事で、しつかりした上に間もよく、調子もよいのであるから、もう結構と申すより外はない。
 
大阪女義 〔十二月廿六日〕 [1937.12.26]
 増補生写朝顔話 -宿屋の段-深雪 竹本雛昇 徳右衛門 竹本住龍 駒沢 竹本旭次 岩代 豊竹照靱
絃 豊沢小住 琴 豊沢団秀
 大阪のスタヂオからである。宿屋など女義のカケ合には格好なものであるが、深雪だけが役が好過ぎるので、役割に骨の折れる事もあらうか。当日は押し詰つた暮れの廿六日の、昼間演奏の時間と来ては、それがたとへ日曜だとは言へ、余程の熱心家か、閑な御隠居の外は、多く聴いては居なかつたであらう。我等、この御隠居の方か熱心家の玉か、とにもかくにも、半分以上謹聴したのであつた。深雪の出からであつたらしい。雛昇といふ人は、新聞の写真によると、福よかな美しい顔だち、イヤ、ラヂオでは見えませんが、今売出しの若手らしく、美声を盛んに振つて居た。小住姐さんが、これを好い加減に(失礼)あしらつてゐる。駒沢は大層気取つてゐるといふ風に聴こへたが……岩代は、かなり張つては居たが敵役には成らなかつた。若いにしては徳右衛門が達者にやつてゐた。お琴評なし、イヤ神妙々々。
 
文楽紋下 〔一月四日〕 [1938.1.4]
 傾城反魂香 -土佐将監閑居の段-
竹本津太夫
絃 鶴沢綱造
 新春に入つての第一回浄曲演奏である、所謂豪華版として、紋下津太夫師の『吃又』を大阪北陽演舞場からの中継である。沼津や熊谷やと共に紋下得意の引き吃、時間は四十五分間、寅年に因んでの演し物ながら、前の虎が現はれて、百姓共の騒ぐ所、修理の介が、師命によつてこの寅を描き消す条りは、端場として、他の太夫の持場とあり、津太夫は、又平何ぞいひたげに……のあたりからである、さすがに、当代、先づは此の師のものとうなづかれ『吃でなくば、斯うはあるまい、ヱヽヽヽ恨めしい喉笛を……』や『オツ突け、コヽヽ殺せ、ハハハ放しやせぬぞ』や『女房を取つて投げ、踏みつけ〳〵地団太踏み』や、数へられぬ力の入れ方、『姿は苔に朽るとも、名は石塊にとゞまれと』など、ちよつと他に真似人もあるまい。去るほどに鎌倉殿--』の狂言詞も結構なり、無論、段切まで息を抜かず、唯だ最後の『らりるれろ、まみむめも』はまだ宜けれど『言ふは〳〵何をいふ』以下は、やゝ鮮やかさを欠いてゐたが、とにかく、おもしろい事であつた。綱造師の絃も、いつもよりは慎しんで、弾まくるといふ風に聴えなかつたはよろしい。
 
東京女義 〔一月八日〕 [1938.1.8]
 近頃河原の達引 =堀川の段=
弾語り 竹本素女 ツレ弾 竹本素右衛門
 此の程辞表を出したとかいふが、素女さんは、帝都女子因会の理事長であつて東京女義群の、大御所とも言へる。が、今夜の放送は、傷病将士慰問の夕、といふので、他の歌謡曲や、落語や、漫談や浪花節やとコミで、堀川といふ大物を、時間もタツタ二十分である。気を入れて聴くがものはなく、『何と詞もデン兵衛』あたりから、飛ばして直ぐに、此の曲の眼目たる猿廻しの三味線を聴かせるのであつた。と申しては甚だ失礼ながら、当夜のお容様は、勿論これでも御喝采の事と思ふが、ツレ引との調子が、結局最後まで会はず仕舞ひに、アナ君曰く『義太夫は終りました、次は……』
 
大阪故老 〔一月二十日〕 [1938.1.20]
 義経千本桜 =吉野山=
竹本角太夫
絃 豊沢新造 ツレ 豊沢新三郎 豊沢新吉 おはやし連中
 文楽座こそハミ出したれ、阪地で、ドツカリと地盤を持つて一方を押へてゐる此の人。六十七歳の高齢?にも拘はらず道行太夫として売つた美声未だ衰へずとあつて『初音旅』をツレ引ともに三挺の三味線と、おはやし入りで相勤める、賑やかな事であつた。『しらべあやなす音につれて』の静御前もうつくしく『実に此鎧を賜はりしも、兄継信が忠勤なり』からの、例の壇の浦の物語もおもしろく『のぢの春風吹きはらひ、雲と見まがふ三芳野の』の段切まで、さすがに十八番と、謹聴々々。
 
太棹 94
 
東京長老 〔一月二十七日〕 [1938.1.27]
 伊賀越道中双六 =政右衛門屋敷=
竹本津賀太夫
絃 紋左衛門
 朝太夫逝いて、東京では、津賀さんは最長老の太夫である。東京へ来て五十年になるといふので、芝の飛行館で、お祝ひをやつたのも何年か前、そして今度、因会の会長をやめて、現役を引退する、その披露が近く、歌舞伎座の大殿堂で、いとも盛大に催されるといふ。今後は、米翁の名によるお師匠さんで余生を、文字通り八十八までも九十までも送られる事であらう。ラヂオで聴いて、拙者が憶えてゐるのは何年か前、岡鬼先生の解説で、寺小屋を半分ほど、愛宕山から電波にのせた事があつた。など考へながらスヰツチを入れる。心がけある侍は……の出、アヽ津賀さんだ、と先づ膝を進めた、前書が長くなつたから、手ツ取り早く片づけるが『又た堅造がわせられた、誰ぞ羽織持て……など、品のある好い呼吸。政右衛門は始終上乗。宇佐美五右衛門がわれらの勝手をいへば。まだ〳〵、我無シヤラ気が不足であつた。今一層強くガツチリ仕て貰ひたかつた。お谷はちよつとだけゆゑ評もない。当夜の紋左衛門さん、いつもよりは更らによく鳴つて結構な絃であつた。と賞める。
 
大阪女義 〔二月一日〕 [1938.2.1]
 傾城阿波の鳴門 =順礼歌の段=
豊竹昇之助
絃 豊沢力松
 一時東京で、姉さんの昇菊とコンビで若いドウスル連の血を沸かした昇之助さん。今でも時々マイクの前に現はれるがもう斯ういふ現役だか予備だか判らぬタレと来ると、進歩などいふもの微塵も聴き出されず、唯だもう、昔ながらの……ハレヤレ変哲もない事と、又してもガツカリする外はない。「鳴門」など格好な語り物なのだらう。跡うちながめ女房が……』から何でも二つ目の御詠歌をヌイたやうに思つたが、『さうぢや〳〵と子に迷ふ、道は親子の別れ道、跡を……』までそれでも、男性の三味線のシツカリした音〆に、唯だ、むかしながらに唄つてる高座をなつかしんで聴き入るだけのこと、あア済んだ……と喫ひさしの煙草を灰皿へ突ツ込んで、二階の書斎へ上つたやうな訳。
 
大阪女義 〔二月七日〕 [1938.2.7]
 義経千本桜 =すしやの段=
竹本東広
絃 豊沢仙平
 これは又た大阪女義界の大元老である、殊に、先づ我等の気に入つたのは、弾語りを廃して、仙平といふ達者ものを絃に頼んでの熱演である。すしやを、お里のサハリから、不思議と申しては失礼かも知れぬが、お里に充分の色気のあるのは熱の力である。豪いツ!やがて、梶原の出、これなどは正に女とは思へぬ大きさ、仙平さんの撥音亦た頗る雄壮、感服ものである。例の時間の都合とあつて、大分、ところ〴〵ウロぬいて、権太の殺しから段切まで、文字通り息もつかせず、文句を言へば、手負になつた権太に感違ひがある。ツマリ強過ぎるのであつた。弥左衛門や母親の結構な事申すまでも無い。何といふても大したもの、久しい御ひゐきの欲目ばかりではない。
 
東京女義 〔二月十九日〕 [1938.2.19]
 伽羅先代萩 =政岡忠義の段=
竹本素女
 東広の後に、素女があらはれる。東西女義の大御所競演の態である。但しこれはAKの第二放送新設演芸であつた。まくらを半枚ほどで、飯焚を遁げ、直ぐ栄御前の御入りである。これは又た頑強に、弾語りを堅持してゐるが、出のオクリなど取りわけて結構なものと感心する、或る人は駒が少々軽い恨みがあると評してゐた。とにかく流石である。強いて白璧の微暇を求むれば、栄御前の貫目が少し軽く、政岡も幾分その嫌ひはあるが、八汐其他が奥へ去つてから、二人の対談、取りかへ児の一件で『ヒエー、何と仰ツしやる……』などは、頗る結構であつた、栄が帰つてからの政岡頗る上乗で、泣きも真に迫るものがあつた。我等は近頃の御殿であり、素女さんの近頃の出来だツたとおもつた。
 
東京女義 〔三月二日〕 [1938.3.2]
 菅原伝授手習鑑 =松王屋敷の段=
竹本小土佐
絃 豊沢美佐尾
 昨年、文楽を引退した土佐太夫の先代土佐太夫から、土佐の名跡を貰つたといふ小土佐さん、甲羅が生えて、猫ならば大抵化ける時分(失言)その小土佐さんが、今に、時折、マイクを通して、我等に昔年のアノ懐かしいお上るりを聴かして下さるのである。好いの悪いのといふさへ失礼であるかも知れない。が、とにもかくにも謹鶏した処によると、上使、春藤玄蕃の出からであつて、その玄蕃がいかにも弱々しい、松王も今少し確かりして欲しいとおもつたが、千代のくどきは、さすがに相応に聴いたし、尚ほ、あの年で、まだ〳〵アノ上の声がアレだけ出るといふのには感心させられた。あれだけの上の声が出るといふ事になれば、まだ中々廃められない訳であるナと思つた。美佐尾さんの絃、毎度御苦労様。
 
文楽中堅 〔三月七日〕 [1938.3.7]
 妹脊山婦女庭訓 =妹山背山の段=
脊山の方 大判事 竹本相生太夫 絃 鶴沢道八 久我之助 竹本源太夫 絃 野沢吉左
妹山の方 定高 豊竹つばめ太夫 絃 竹沢団二郎 琴 野沢喜代之助 雛鳥 竹本伊達太夫 腰元 竹本さの太夫 絃 鶴沢重造
 文楽座三月興行の大阪新町演舞場からの中継放送である。新義座の盟主としてわれ等が大のひゐきであつた豊竹つばめ太夫が、ソコにはどんな事情があつたか忽然として、元の文楽座員となりすまし五月には織太夫といふ名を襲ぐ前に、この定高の大役を勤めてゐるのである。絃の団二郎もやがて、団六にならうといふ人、老大家道八を向うに廻して、コヽ曠がましい懸命の舞台である。全段克明に語れば二時間に渉らうといふ艶麗、雄大の左右両床、それを五十分だけの中継である。雛鳥の出あたりから、中程の「逢はで別るゝ名残の涙、一つに落る三つ瀬川……』と、雛鳥自害の決心あたりまでの放送時間五十分間とある。義太夫党には稍々物足らぬ感じがする。一口評で御免を蒙るが、先づ相生太夫の大判事は相当貫目と落付きは聴かせたが、更らにドツシリとせねば其人にならず、どうやら敵役になつたのは残念であつた。源太夫の久我之助は、あはれや調子も外れたり相当の品位はあつたが、力が不足であり又た色気など皆無といふ、所謂荷の勝つた代物である。つばめの定高、先づ嬉しかつたのは声にしまりのある所であり、此の戯曲の定高として充分に品位を聴かせたのは、何といふても傑出した出来である。伊達太夫の雛鳥も、勿論役所ではあり、或る程度まで無難と思つたのを、案外にも頗る付きの上出来であり、御殿の政岡などゝ違つて、娘形とあれば、色気も充分、品位もあり、といふ佳品であつた。要するに、近来の大曲で、おもしろい事であつた。
 
文楽中堅 〔三月十四日〕 [1938.3.14]
 三十三間堂棟由来 =平太郎住家の段=
豊竹呂太夫
絃 鶴沢叶
 直截に言へば、此の太夫の上るりは我等大好きなのである。そのつもりで聴いたのであるが、結局呂太夫としては損な演し物であつたから、やゝ期待をうら切られた形である。まくらをやつて、中の泥棒へ飛んで、キヤリで納める訳にはゆかなかつたものか、損といふのは、此の人の声柄の関係からである。語り物は大切なものである。先代南部太夫が東京での終曲と覚えてゐるが、新富座の舞台で我等を呻らせたのを思ひ出させた。それ以来、柳は誰れのを聴いても、感服しない我れ等ではある。しかし以上は、ひゐきの我れ等大体に於てのはなしであつて彼の『いさぎよい名を上げてたも……や……から、草木成仏……のくだりなど頗る結構な事であつた。老母のやゝ若過ぎたのを難とする。叶師の絃、相変らず結構であつたが、枕の辺にカケ声がやゝうるさい気がしたのは、いつもあアであるのかとおもつた。
 
太棹 95
 
大阪女義 〔三月二十一日〕 [1938.3.21]
 唄とツレ弾 =堀川の鳥辺山 酒屋の妹脊川 野崎のオクリ=
竹本雛昇
絃 豊沢小住 琴 豊沢団秀
 彼岸のお中日、春季皇霊祭当日の昼間演芸である。アレヤコレヤとBK苦心の義太夫の一ト趣向。時間全部で二十分、先づ最初が、『女肌には……』と堀川の鳥辺山である。選ばれた語り手イヤ唄ひ手とあつて、声量の特に豊かな、又た美くしいといふ極め付。さすがに結構ではあつたが、婆の詞や、最後の『お鶴は立つて……』のあたり、時代物になつてしまつたのは遺憾であつた。絃の小住さんは定評あるもの、鮮やかな事である。直ぐに酒屋の奥の、書置のくだり『聴いてゐるさの……』と、これも上等。イヤミや当て込みの無い……団司より此の方が……といふ好評である。琴の団秀ともよく合つておもしろかつた。最後の野崎で、小住さん、チヨとツボを外した処などあつたけれど、賑ぎやかな事で、一般に大受けであつた。
 
文楽中堅 〔三月二十三日〕 [1938.3.23]
 箱根霊験躄仇討 =餞別の段=
竹本文字太夫
絃 豊沢広助
 初花、勝五郎が、諸国を遍歴する中に旅費を費ひ果し、その上に躄といふ業病に罹つて難渋、非人の群に入つてゐるを奥州白石の里正徳右衛門といふ老人が、不愍に思つて、餞別を与へて発たせるといふ筋で、例の、此の戯曲の大詰、箱根の瀧の段の前段である。近頃、時にBKでは、相当の太夫をして、この種、所謂端場物を放送させて呉れるのは、我等デン党の歓迎する所で、東京に、此の餞別の段を語る素義の方のあつたのを知つてゐるが、とにかく珍らしいものである、文字太夫氏は、早くから、大物語りになると、目されてゐる人であり、絃の広助君と共に、文楽でも今少し用ゐられて好い人であらうが、どうやら下積み的に扱はれてゐるのは遺憾である。当夜も総て結構な出来で、一般受けはともかくも、義太夫を投げて語らぬ好い処のある人で我等特にその将来を期待する。
 
新義座連 〔四月四日〕 [1938.4.3]
 鳥帽折莩源氏 =伏見の里の段=
竹本南部太夫
絃 野沢勝平
 盟友つばめ太夫を、文楽に奪還された新義座の頭目、南部勝平の出演である。この語り物、莩源氏は、彼等が先頃大阪で公演、好評を博したもの、東京では、梅本香伯老今の観西翁が、最近、絃を猿蔵氏に、語りを、湊太夫、浪花太夫、朝見太夫等に移し、翁自から主役宗清を語り、更らに、近江清華氏に教へ、今では素義としては清華唯だ一人、これを知つてゐるといふ珍らしいもので、上方では十余年前、加藤享博士が語つた事があるといふ。南部太夫の、常盤御前や、三人の子役は、その本役である上に、宗清の「笑ひ」なども大元気で、さすがに、近時、腹が出来たと喜ばしい聴物であつた。段切りの『急げや急げ山鳥の、尾のしだり尾の長居は恐れ、お暇と夕告げの鳥が啼くあづま路指して飛ぶ鳥の、飛ぶが如くに下りける、心はさすが大鵬の千里一翔源氏の運、開くる末こそ……』など、三味線の手と共に面白いことであつた。
 
大阪女義 〔四月十六日〕 [1938.4.16]
 壇浦兜軍記 =阿古屋琴責の段=
(カケ合)阿古屋 竹本雛駒 重忠 竹本綾助 岩永 竹本綱龍 榛沢 竹本雛昇
絃 豊沢小住 豊沢東重 胡弓、琴 豊沢団秀
 大阪の女子因会の大会が、北陽演舞場で催ほされた、その中の、阿古屋の琴責を、八時四十分から五十分だけ、中継で放送されたのであつた。三曲が主とあれば、小住さんの絃を聴く為めと申しても可い。されば、小住さんの絃は、世既に定評あり、先づ〳〵と判らぬながら謹聴致したる次第なるが、三曲と銘打つて、アノ鼓弓は如何にしても、ヒド過ぎた。それで、長々と鶴の巣籠りは、第一、絃と律の合はない点に於て、タテの小住にも一部の責任はないだらうか。琴の方は先づ、アノ程度のものであらうとおもふ。語りの方に至つて、重忠に品位微塵もなく、此の曲の重忠としては、初手から落第ものである。端役の榛沢が中で一等結構だつたのは皮肉である。
 
東京女義 〔四月十九日〕 [1938.4.19]
 蝶花形名歌島台 =小坂部館の段=
竹本越駒
絃 鶴沢三生
 蝶八は近頃冴え返つて、女義の人々によつて、時折聴かれるやうになつたもの、越駒君は、アノ体格なり、小坂部兵部はさすがにシツカリしてゐる。謡ひは無論大素人だが、後の物語り、さうだ、この物語りは、少し手負ひの老人としてはシツカリ仕過ぎてゐたかも知れぬ。二人の姉妹、二人の孫たち、いづれ劣らぬ出来、先づ女義としては、総体に好い点を入れて可い。絃の三生さん、先代三生のやかましい、本格的の仕込みを受けた人かどうかは知らぬが、これも相当の点を入れて可いとおもつた。
 
大阪素義〔四月廿四日〕 [1938.4.24]
 -義太夫三題-
 一、双蝶々曲輪日記 =橋本の段=
山田義鳥
絃 豊沢小住
 第五回コンクール入選者三人のトツプを承はつた義鳥さん、若いに似合はぬシツカリとした語り口、殊に、演し物も凝つた割に、要領を得たヌキ工合、二十分に、此の浄るりのキキドコロを悉く聴かせて、シカモ津太夫振りの駕舁甚兵衛など巧いもの、栄三の舞台を思ひ出させたのは、お手柄であつた。
 
 二、絵本太功記 =尼ヶ崎=
下瀬千里
絃 野沢雛昇
 十次郎の出陣から、操のかゞみまで、お時間一ぱいに、御自身は立派に溜飲を下げられたらしいが、さて、前の若手の橋本に比して、如何にも素義らしい語り口は致し方ない義でござつた。ドコといつて悪い所もないが、届かぬ処の多い高座であつた。
 
 三、菅原伝授手習鑑 =寺子屋=
武居信濃
絃 野沢稲丸
 信濃さんといへば、報知新聞の東西競演でも、感服させられた大家である。『かゝる処へ春藤玄蕃』から『駕』までを相当に張り切つて語られたのだが、どうも前に聴いた陣屋ほど頂だけなかつた。呼出しの子供を、二人だけにして、アトを食べたのは、時間の都合とおもふが、結果は立派に二三分余つたやうで、ヌイたゞけ損をした訳、とはいへ、東京にはザラには無い語り手だとは申し上げられる。
 
太棹 96
 
東京床語 〔五月一日〕 [1938.5.1]
 奥州安達原 =袖萩祭文の段=
竹本鏡太夫
絃 豊沢猿平
 大土佐太夫門下として、東京市村座付床語りから、一時文楽入りをして、中堅所の語り手となつたが、数年前、再び東京に舞戻り、六代目菊五郎に拾はれて、元の床語りとなつた人。堂々たる体躯の持主の、最も大物に適する声量を持つてゐる。この安達なども、奥の方を語らせたら、大に聴衆を唸らせるだらうと思はれたが、けふは袖萩の出からの前半、しかし、流石に、悪くは無い出来、袖萩が盲人になり切れぬ難こそあれ、お君も可憐に、浜夕も老実そのものであつた。絃の猿平は、どなたも御承知の猿之助門下の秀れた人、ラヂオには珍らしい出演でいつもながら、結構な撥捌きであつた。
 
文楽中継 〔五月九日〕 [1938.5.9]
 ひらがな盛衰記 =逆櫓の段=
つばめ太夫改め 竹本織太夫
絃 団二郎改め 竹沢団六
 太夫は問題の新義座から舞戻つたつばめ太夫、織太夫となつて、文楽初出演の披露興行に、堂々『逆櫓』を演し物にしての中継放送、絃の団六も同しく新義座からのコンビ団二郎である。されば二人ながら、曠れの舞台であり、懸命の舞台である事はいふ迄もない。スウイツチを入れて、息をこらす。と、アヽ、我等が贔屓のつばめである。が、お筆の出、芝居なら花道から門口へかゝる間、大に堅くなつて、いつもと違ふ。絃も同じく堅くなつてゐるらしい、これはあながち思ひなしばかりではなかつたとおもふ。権四郎が出て『お顔見知らふ様は無けれども』『無けれどもなりやなぜござつた』あたりから、立直つて馬力が出はじまる。『お筆が胸に焼金さす……』などスバラシイ呼吸。段々膝を乗り出させたが、奥へ行くほど、大きくなつて、松右衛門の名乗りは堂々と、権四郎の例の笈摺のあたり、ほろりとさせる腕前は、無論たしかな大出来である。時間の都合で、浜辺、逆櫓の条は、全然聴かれなかつたが改名披露としての織太夫、蓋し会心の舞台であつたらう。秀才団六、先きに道八を向うに廻して、妹背の妹山を弾き、今又此の大物を、本場所で叩き上げた寧ろ幸運児の感がある。撓まぬ精進を望んでおかう。
 
大阪女義 〔五月十八日〕 [1938.5.18]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段=
豊竹団司
絃 豊沢小住
 ノツケにずばりと言つて仕舞はうなら、演し物が悪かつた。イヤ物は好いのだがこの人達にはまらなかつたのだ。団司小住は年来の名コンビとされてゐて、当時大阪女義界の一流であるが、何といつても陣屋は無理である。BKからの註文でゞもあらうか、解つてゐる筈の人達の、案外さういふ事に無頓着、無理解な点はAKもBKも同しである。やつてやれぬ事は勿論無い。ヅブの素人でも、好んで陣屋を持出す此の世界ではあるが、外にいくらも語り物はある筈だ。アツタラ此の二人を殺したやうなもの、従つて評に及ばぬ、好きな二人の為めに、金王丸腹を立てた形である。
 
大阪女義 〔五月廿一日〕 [1938.5.21]
 日蓮上人御法海 =勘作住家の段=
竹本綱龍
絃 豊沢東重
 放送の予告に、AKのアカウンサーが「日蓮上人ゴハウカイ」とおつしやつたが、BKでは、さすがに「みのりのうみ」と言つた。我等の若い頃、寄席などでは単にこれを『日蓮記』と書出してゐた。どうでもよろしい。さて綱龍さん、東重さんだが、語り物も珍らしかつたし、声柄も、これに嵌つて可なり結構に謹聴した。勘作の亡霊など、凄味も充分に、婦人の傍聴者など、ゾツとして恐れを為した位であつたのは成功である。お伝のクドキの如きも、決して踊らさずに、頗るよろしい。近い頃、阿古屋のカケ合で此の人は岩永を持つてゐて、絃の東重さんは小住のツレを弾いてゐたのを思ひ出した。この日蓮記は昔しは鈴ケ森だの、蝶八だのと共に、女義には相当流行つたものだが、近来滅多に聴かれぬので、懐かしかつた。二三年前だつたか、都太夫氏が、どこかで聴かせて、その時は、頗る熱演であつた事も序に想起した。
 
文楽中堅 〔五月廿四日〕 [1938.5.24]
 増補忠臣蔵 =本蔵下屋敷=
竹本相生太夫
絃 鶴沢道八 琴 鶴沢清友 尺八 酒井竹保
 『琴尺八入りの義太夫』なぞと、新聞のラヂオ版には、さも……さうに宣伝的に報道されて居たこの『本下』人気取りのタレ義太でゝもあればともかく、苟くも文楽の堂々たる太夫の……いや、さう理窟をいふ段になると議論も出やうが、ありやうは、道八老師の、うつくしい絃を味はゝうとおもつた人々に取つては、飛んだ難有迷惑なサービスであつて、琴はまだしも律の合はぬ尺八など、邪魔にこそなれであつた。相生君の語りに付ては、先以て若狭之介に品位が乏しいのが、一番の失敗である。前半なら姫と伴左衛門の活躍だからともかく、今回の奥庭だけとなると、若狭之介が主であるのだ、伴左衛門は本役である。やつぱり例の中村吉の亟である。失礼!
 
太棹 97
 
編輯後記 金王丸氏の『ラヂオ浄曲漫評』は次号にゆづりました。御了承を願ひます。
 
太棹 98 p8-12 1938.8.15発行
 
文楽紋下〔六月一日〕 [1938.6.1]
 仮名手本忠臣蔵 =山科の段=
竹本津太夫
絃 鶴沢綱造
 津太夫の九段目である。これは、記憶の好い我等はよく覚えてゐる。昨年文楽一座が東上した時、最終興行に、忠臣蔵を出し、これが都合で七段目の茶屋場までを演じ、山科を出さなかつた為めに、東都浄曲愛好家、津太夫フアンの人々は忠臣蔵を出して九段目を聴かさないのは法にあらず、怪しからんと、騒ぎ出した事があつた。その時に津太夫は、ある贔屓筋に対して陳謝し、実は『本』まで用意して来たのだが、会社の都合でやれなくなつた、来年は必らず御希望に副ひませう、といふ一つ話が残されたほど、当今、浄曲界に於て、九段目を語る太夫は、我が津太夫師にトヾメを刺してゐるのである。--後に判つたが、その約に違はず七月東上の文楽では、津太夫の山科が出たのであつた--さて、ラヂオでは?時間制限の関係から、奥の本蔵の出より段切りまでを語られた。『笠脱ぎ捨てゝしづ〳〵と……』あゝ我が津太夫!『案に違はず拙者が首、聟引出に欲しいとな、ムヽヽハヽヽ』の笑ひの大きさ、腹の強さよ。力弥の槍に肌骨を突かれてからの、例の悲痛な物語、主人の欝憤……以下、確かに堪へる。彼の時平の七笑ひ、加藤の毒酒の大笑ひと共に所謂三笑ひと称される難物も、何の苦もなく、充分に津太夫フアンの溜飲を下げさせた。絃の綱造師、例によつて弾きまくり〳〵、達者な撥音に、太夫とは別々のあたり構はぬ……イヤそれで好いのでもあらうが、翻つておもふ、大体に於て津太夫師もやゝ行留りか、ともすれば詞尻りが下つて、ハツとおもはせる個所が無いでも無かつた事を付加へて置かう。
 
前因会長〔六月七日〕 [1938.6.7]
 鎌倉三代記 =三浦別れの段=
竹本津賀太夫
絃 鶴沢紋左衛門
 第二放送の演芸時間*は、主として国民精神的の教化に資する材料を撰ぶといふ建前である。さればこそ物語、講談、浪曲、琵琶等々々、何れも艶つぽいものその影をひそめ所謂修養、美談を聚められ、中には変哲も無いものまで聴かされる御時世。その見地から--といふと少し堅過ぎるが、この三代記はどうあらうが、時姫を主とした前半、親に背いて焦がるゝ殿御、果ては父時政を討つて見せうなど、随分以てヒド過ぎる品物ではないだらうか、その実は、戦国のならひとあつて、シカモ佐々木は真田、三浦は重成の変名であるといふ、戦術機略縦横と申せば、やゝ緩和される次第であるが、などゝ我等一応野暮を申しておいて、全くの処、久し振りの津賀さん、頗る期待してスヰツチを入れたのであつた。『されば風雅の歌人は……』から三浦の出、持つて生れた艶は、引退後の今日、なほ少しも衰へず、『ヤア三浦様かと駈寄つて、抱起さんも大男』など水の滴れるやう。『ムヽ思ひ寄らぬ時姫どの』の三浦の詞、思ひは不要である。大した事ではないが、是非津賀さんあたりの大家は本文通りに願ひたい。全体、斯うした誤りは津賀さんには多いやうにおもはれてならない。『お寝顔なりと』や『静に〳〵』や『百筋千筋』など結構な出来、続いて『どうやらつんと』の例の時姫の口説きは無論、『ゆきつ、もどりつ』も大によく『みじかよ』でチヨンは、時間一杯ながら誠に惜しい位であつた。紋左衛門氏の絃は、可もなく不可もなし、と片づけるべきものであつた。言ひ忘れたが、『此城一重破らるゝなら』までの、病母の切言は殊に力がはいつて、満点ものであつた、三浦の木村重成で想ひ出したが、金王丸は、往年態々拝聴に出かけた津賀さん自身の節付と承はる、重成血判取といふものがあるが、これなどは、所謂第二放送用として、至極なものであらうとおもふことを付言しておく。
【*1938年5月放送番組改正後、原則として2030から30分 第一放送は洋楽、第二放送は大衆演芸の浪曲、講談、琵琶、物語、義太夫などの一つを放送する】 
 
文楽頭目〔六月九日〕 [1938.6.9]
 蘆屋道満大内鑑 =狐別れの段=
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六
 我等の古靱、元気の恢復が見えるのは先以て喜ばしい。放送は、昨年忠六の変つた勘平腹切りを聴かせたそれ以来である。今夜は又、師の十八番といつても可い葛の葉の狐別れであつて、ザラには聴かれぬ語り物の、時間も恰度四十五分といふ頃合である。所謂世話時代だから、狐別れは厳として四段目であつて、師の荘重なる音上の語り出し既に頗る我が意を得、庄司の不審に、ムキになつて言訳する保名の真顔も眼に見えるやう。『あそこにも葛の葉、こゝにも葛の葉』のあたり『童子が母はおはさぬか、今帰りしと呼はれば』なども平凡にして平凡ならず葛の葉の『恥かしや浅間しや』から、童子を抱いての身の上述懐、例の尻上りの狐言葉も、大業ならずしてそれになり、それと判つて駈出た保名『たとへ野干の身なりとも物のあはれを知ればとて』以下の畳み込む悲痛の一節、地合としての受け場の少ないを、ジツと締めて充分に段切りまで息をもつがせず、正に結構な上るりであつた。唯だ、絃の清六氏、やゝもすれば弾きはやツて、今一つ語らるべきを、せき立てるやうの個所があつたは、あながち時間の為めとばかりではあるまい、と惜しまるゝ事であつた。
 
大阪女義〔六月十五日〕 [1938.6.15]
 白石噺 -揚屋の段-
弾語り 竹本小仙
 白石の揚屋は、勿論女義には恰好の語り物であり、又た、女曾我仇討物語りとしても、所謂国策の線にも副へる放送的浄曲である。語り手は、嘗ても大阪放送局の国宝と言はれた小仙さん、近頃家庭的に恵まれず、聞くが如くんば、第二の夫君と破鏡の嘆に陥り、これからは、愈よ芸道一本槍で進みますと語つたとやら健気にも悲痛な心構へによつて、語り出された宮城野信夫、心から謹聴致した次第である。『歎きの中にも姉はなほ、妹が背を撫でおろし』以下のキキドコロも、今全盛を唄はれる花魁の一種の品位、田舎者とはいへ、純真無垢の信夫の可憐さ、さては、ドツシリと、曾我物語の教訓も、情けの籠る惣六の重み、始んど間然する処なく『便りのないを杖柱、首尾よう年を勤めたら……』など、近頃結構な出来であつた。弾語りは、我等気に入らぬ事なれど、この位のものなれば、それも達者な撥捌きで先づは堪能されられた。
 
文楽若手〔六月十七日〕 [1938.6.17]
 菅原伝授手習鑑 =車場の段=
時平公 竹本長尾太夫 松王丸 豊竹富太夫 梅王丸 竹木播路太夫 桜丸 豊竹辰太夫 杉王丸 竹本さの太夫
絃 豊沢広助 お囃子 望月大明蔵牡中
 この菅原車場の段は、新聞の紹介によると、大正十五年四月に、相生太夫タテで出た以来、二度目といふ事であるが、東京では、玄人太夫連のカケ合で、其後一度出たやうに記憶する。今夜は第二放送の演芸に、之れを演出され、今の文楽若手連の競演である。絃を承はつた松葉屋の師匠が指導か演出か、とにかくおはやしを入れての賑やかさ。役々、人[にん]に嵌つて別段に甲乙もなく、又た彼是批評を加へるものでも無からう。我々は歌舞伎の舞台でお馴染の曲であるから、お囃子の上方式のが、聊か珍らしいとおもつて聴いたものである。
 
元文楽庵〔七月二日〕 [1938.7.2]
 菅原伝授手習鑑 =桜丸切腹の段=
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛
 後進に途を拓く、といふ訳で、昨年文楽座庵看板を一擲して、花々しく引退の披露をした我れ等の土佐はん、名コンビ吉兵衛はんと共に、役柄打つてつけの『賀の祝』桜丸切腹の段をマイクを通して、或はいつか東上の機会でも無くば、当分あの枯れ切つた独特の妙技に接し得ぬだらう、と思つてゐた我等を堪能させて呉れたのであつた。後半、桜丸のくだりは、ともすれば、悪く陰気になり勝ちな上るりであるが、土佐はんは、所謂東風といふか派手に派手にと、しかも曲の悲痛さは勿論失はれず、就中、白太夫が傑作であつた。八重との間の情合もよく現はれる梅王--といひかけて、松王への気の持ち方も充分、一種気味合の白太夫の笑ひも上乗、桜丸と八重との情合も結構なり『無理な事いふ手間で一緒に死ねとコレ申し……云々』の八重のクドキも、可憐の中に何とも云へぬ艶があり、土佐未だ老いずの感を抱かせる。二度目の出の梅王も可し、唯だ例の半音になると時折外れるのは致方なしとや言はん。我等は、その半ばに至らぬ中、さすがに土佐だ、如何にも文楽といふ気分になる、と敬服したものである。吉兵衛はんの絃、よく太夫を助ける立派な女房役たる事いつもの如しであつた。イヤ此の処、ラヂオ浄曲の豪華な事よ。
 
東京新人〔七月三日〕 [1938.7.3]
 八陣守護城 =政清本城の段=
竹本越喜太夫
絃 鶴沢新造
 新人とは申しながら、嘗ては文楽にも居たとか聞く。今は東京で素義の御連中のお守りを仕て、愛宕山で試験をパスし、所謂新人として三回の放送、爾来本職と認められての時折はマイクに向ふ。けふ日曜の昼間演芸に、清元や新内、漫談などと共に、短時間の御機嫌を伺ふ次第『ゆく先は二重に建てし思惟の間』の主計之助の出からだから、雛衣の『都でお別れ申してよ』の艶も聴かせる、奥の間、加藤のイバリ、鼠の荒事まで、気をよくして語られる。成績は先づ中の上か、前夜土佐はんのアトだけに、ラヂオだけのお客様にはチト損の卦。!?
 
大阪女義〔七月十四日〕 [1938.7.14]
 花上野誉の石碑 =志渡寺の段=
竹本久国
絃 豊沢蔦之助
大阪女子因会の幹部どこ、お二人とも勝鳳老師のお弟子との事、さすれば、御両人とも相当のお歳ともおもヘ、又た早くから斯道に勉強のほど察せられる。第二放送のだし物としても、又た語り栄えのする芸題とも申さるべく、志渡寺は可い。我等一二回しか伺つた事はないが、どうして〳〵、中々の上出来にて、殊に源太左衛門の堂々たる、アノ大笑ひの格に嵌つて大きい事。東京にこれだけの男太夫があるかツてんだ、又た全体に於て少しのたるみもなく、今人気のある団司などより確かに買へる品物だ、と、我等同席の一傍聴者はほざいてゐた、事ほど左様に、引つけられた。乳母のお辻が少し老け過ぎはせぬかといふ評もあるが、人形でも、窶し形ではあり、菅の谷とのつり合ひもあり、アレでも可いか、とにかく、まだ〳〵義太夫は、大阪である。
 
東京故老〔七月十九日〕 [1938.7.19]
 日吉丸稚桜 =駒木山城中の段=
竹本都太夫
絃 鶴沢亀造
 故人朝太夫の三枚目として、朝さんの艶を承けついでの、美くしい咽を発揮してゐた都太夫さんは、真とに以て古い存在である。東京の玄人連が、不振甚だしく、或は影を没し、或は劇場の床にかくれるが中に、公演に、稽古に、近時更らに冴え返つた趣きのある我が都太夫氏のラヂオ進出は、聴き洩らされぬものであつた。教化主義による第二放送の演芸に、日吉丸の奥を出した語り物も、当を得てゐた。よし、師の特意の艶物は、むしろその前半であるとはいへ『せめて別れににし〳〵と顔見て死にたい我が夫と』や『髪の結ひやうかざりまで、幾千代祝ふ丈長も』など、いつもながら、若々しい美音心ゆくばかりのものがあつた。殊に『母も思ひに正体なく』の一句の如き、ちよつと真似手もない妙技であつた。更らに師の冴え返つた努力は、五郎助の言葉の『ホヽオ、推量の如く』から堂々としてシカモ蔭腹の五音の調子まで、どうやら都太夫氏とは思へぬまでのイキで、故人小イ高の舞台を想はせた。唯だ『半座をわけて相待つべし、アヽ忝い、アレ聞いたか娘……ではないコリヤ……』を、娘で切つて、更らに『娘ではない』と重ねたのは、やはり最初だけで、冠せるやうに……ではないコリヤ--とゆく方がよくは無からうか。限切のノリ地は、今一ト息派手に活気をつけられたかつたが、近年メキ〳〵と腕を上げて来た文之助改め亀造氏の絃と相俟つて、おもしろい事であつた。最後に『照らすは月の熊本に清正宮(ぐう)と』が、ともすれば女義などの、清正公(こう)と聞えるのをはつきりと本文通りだつたのも、些事ながら、嬉しい事の一つであつた。
 
 
太棹 99 p10-13 1938.10.25
 
文楽幹部〔七月二十六日〕 [1938.7.26]
 摂州合邦辻 =合邦庵室の段=
竹本綴太夫
絃 豊沢新左衛門
 『しんたる夜の道、恋の道には暗からね共……』の出は、いかにも虐たげられた声帯の荒びを聴かせて、あアまでゞ無くとも、とおもはせたが、さて、だんだん聴きしんでゆくと、これは又綴さん近来の大出来、といつては失礼か知らぬが此の人としては、実に最良の語り物であつた喜びを禁ぜられぬ。第一は、母親が飛でぬけてよろしい。最初の『これ合邦どの、今こなさん、何んとぞ云ふてか』の詞、先づやはらかに『ま一度見たい娘が顔』慈愛溢れて『疾しや遅しと開く間も』『抱きしめ〳〵嬉し泣き』など、頗る自然に、殊に『今更あきれ、我子の顔、只打守る--』の巧さ、驚くばかりであつた。唯だアノ『嘘であらう、おゝ〳〵、おほゝゝゝ嘘か〳〵』の笑ひが、宛で男のやうであつた。合邦も確かなもので『ヤイ畜生め』以下の長ゼリフも、どこまでも世話口調を忘れず結構。玉手御前の最初の『かゝさん〳〵』は稍や老けたが『とゝさんのお腹立』から『お憎しみは御尤』や、例のあしのうら〳〵、で『親のお慈悲』も可愛らしく出来、後の『あつちからも惚れてもらう気』など、滴るやうな色気を聴かせた『納戸へ』までゞ終つたが、時々ボヤケて動いた写真のやうな所もあつたが、先代大隅太夫の舞台を髣髴させて、我等別種の興味を覚えた事を特筆する。新左衛門師の名絃、飽くまで美くしくして而かも大きく、充分に巾を聴かせ、時には綴の声は聴えずに、唯だ三味線が物をいつてゐるやうな箇所も少くなかつた。古靱さんの売出し時分、先代清六の絃が、よく我等に此の感を与へた事を想ひ出した。綴四分の新左六分といふ分にならう此の一段であつた。新左衛門師の絃は、やがて文楽の重宝とならう。
 
文楽中堅〔八月二日〕 [1938.8.2]
 鬼一法眼三略巻 =五条橋の段=
武蔵坊弁慶 竹本相生太夫 ツレ 竹本さの太夫 牛若丸 竹本伊達太夫
絃 鶴沢友次郎 鶴沢友造 鶴沢友平 鶴沢友若 はやし連中
 大団平の作曲にかゝり、明治二十三年大阪御霊の文楽座で演ぜられた以来、上演されず、ラヂオにも無論初演であるといふこの五条橋。内容は、俗説なり又た「橋弁慶」で各種の上るりに演奏されるものと違ひはなく、唯だ歌詞と、節付に多少の相違をもち、とにもかくにも、珍らしいものであつた。殊に、文楽を引退したといふ名絃友次郎師の、指導なり自演なりで、興味も多く、太夫の方も先づは適材適所であつた。『夕程なく夕暮の……』と相生のウタヒガカリの語り出しもよく、伊達も牛若の出から、美声を発揮して結構『こなたはもとより法師の身、なまめく気色アラいやよと……』など乙な文句もあり『斬てかゝれば』『打寄る剣』から『薄衣刎ねかけ若君は笑ひを含んで高欄に』のあたり中々おもしろく『すつくと立ちしあしたづの』『裾を薙んと水車』の間の合の手に、友次郎師先づ充分に腕を見せ『蝶鳥なんどを見る如く』や、ツレの『晴れゆく月の影そひて……』も大層よかつた『しのぎけづりて』のあとのメリヤス、我等初耳のやうにおもふ、『関羽の道行』の手とかいふ、これ亦た友師特意の壇場、最後の『祇園ばやし』も賑やかに、お囃子連も、最初の中やゝ邪魔らしくあつたれど、鮮やかに、手揃ひで、此の曲に相応はしい事であつた。最後に少し、白璧の微瑕を拾つて言へば先づ前半のツレが不揃ひの難があり、最後名乗りになつて、相生の弁慶頗る小さくなり、伊達の若君、品位を喪くした。それから、『抜きとる中も嵐の木の葉』の次ぎ、『或は蜻蛉、水の月』を、セイレイと語られたが、これは或はカゲラフと言ふべき処ではあるまいかと思つた。口うつしに伝へられて文字通りのセイレイかもしれぬが、吾等はかげらふといふて欲しいとおもふが如何に?。
 
東京女義〔八月十六日〕 [1938.8.16]
 岸姫松轡鑑 =朝比奈上使の段=
弾語り 竹本素女
 スヰツチを入れて聴いてゐる中に思ひついた事を一つ書きにする。
一、『傍なる柱に猿繋ぎ』といふ文句をオクリにして『飯原兵衛、親仁が前に両手を突き』からであつた。それで最後が詠歌三番が済んで『身を投げ伏して娘が首』で終つたから、表題の『朝比奈上使』は誰れもの詞の中にも一言も現はれぬ、されば聴き人には判らぬ道理である。よろしく、飯原兵衛館の段とすべきであつた。
一、例の弾語りである。得意の撥、結構には相違ないが、よく肝腎の処で、カケ声をかけるので、気が抜ける。それから又、調子を張る所では撥へも思はず力がはいつて強過ぎる事になる。僕は常に、之れを困るとおもふ。
一、与茂作は結構な出来であつたとおもふ。時間で急いだのであらうか『テモ偖もサムライといふ商売は』など少々判りにくかつたが『最前もアノ一間で手を合して拝みました』あたり無類であつた。
一、おそよは、総体に於て、色気に乏しかつた。何か考へ過ぎてか、サラリとし過ぎた傾きで『鎌倉を見せていの』や『父上も来てたべと』や『足爪立てゝ』の説経節なども、今一ト息。受けさせても、素女理事長の沽券にはさはるまいとおもふ。
一、飯原兵衛は悪い。詞の粒が立たなかつた。存在が不明瞭であつた。
一、要するに、素女さんとして、我等の期待を裏切つたやうに感じた。聴いて居ながら、前に聴いた他の人々の、此のおそよが、夫からそれと想ひ出されたのは、当夜引つけられなかつた証拠だとおもふ。
 
東京素義〔八月二十一日〕 [1938.8.21]
 仮名手本忠臣蔵 =山科の段=
栗原千鶴
絃 梅本香伯
 日曜の昼間演芸、与へられた時間二十四分。何で充分な事が語られやうぞ。お石の『礑と引きたて入りにける』から『途方に暮れし折柄に』まで、これでも戸無瀬母子の肝腎なキカセドコロはそつくりある。このアトは、此の間津太夫がラヂオでも聴かせで呉れた。さて、我等のホープ、東都素義界の権威千鶴さんの出来やいかに。先づ以て賞すべきは、稽古の本格的にして厳重なる事、一字一句苟くもせず、テツなんどあつたらお目にかゝらうといふ位。第一、短時間ではあるが五分の隙もない、タルミのない、熱と緊張で塗り潰した二十幾分間であつた。強いて難をホヂクレば、熱演の結果、戸無瀬の詞『欲しがる所は山々』だの『虚無僧の尺八よな』など、男性になる虞れがある。それから『そういふ声はお石様、そりや真実か誠か』なども捧にならずに息を呑んで心理的の技巧が欲しいとおもつたのである。香伯老師の名絃、唯だ愛弟子を語り好くするに努めてゐた点も窺はれて、結構と申しておかう。
 
文楽中堅〔八月二十三日〕 [1938.8.23]
 伊賀越道中双六 =沼津の段=
竹本大隅太夫
絃 鶴沢重造
 今夏、文楽一座東上の時、さゝはる事あつて失敬した我等は、久し振りに四代目の大隅を聴くのである。殊に、この沼津は初耳である。先づ、『およねは一人物思ひ』の出から『奇妙に癒つたとゝ様のあの疵』のお米の詞の巧いのに驚いたものである。調子の奇麗な、色気もあり、一種の気品もあつて大いによろしい。ともすれば、外れ勝な此の人が、練磨の功か、つゝしんで語つた為めか、危ないツと思ふと、グツと〆める。イヤ中々以て結構な工合で行つた『櫛笄まで』の『笄』がちよつと異様に聴こえたが、あれは或は、先代写しの技巧であつたかともおもつた。お米に相当の点を入れたあと、さて平作である。やゝ遠慮勝ちのやうにも聞かれたが、松原になつて、馬力が加はり『おゝい〳〵』など少々強過ぎて、息すた〳〵が取つて付けたやうだつたが、『親子一世の逢ひはじめの逢ひ納め』もよく、最後の落入など、充分に堪えさせたのは豪い。重兵衛は『荷物は先きへ』の出がけの笑ひが、聊か困つたが、じツと撓めて人物を出してゐた。難を言へば時間に責められる結果か知らぬが、大体に於て余裕が無く、人形の思ひ入れの間が乏しい事である。総て走り過ぎてゐたとおもふ。重造師の絃は、さすがに、これも中堅どころ『したひゆく』の三重など、頗る好い音〆を聞かせて呉れ、松原へ行つての、あしらひも、好感が持てた事を特筆する。最近、錣君が『合邦』でヒツトを放ち、今又、大隅氏が『沼津』をこれほどに聞かせて呉れたのは、寧ろ案外の嬉しさであつた。
 
東京女義〔八月二十五日〕 [1938.8.25]
 奥州安達原 =袖萩祭文の段=
豊竹猿司
絃 豊沢猿幸
 二人ながら、赤坂のお師匠さん猿之助門下の達者揃ひ、そして、今や二人ながら、太の芸者として褄を取つてゐる人である。特に美声といふほどでなくとも、調つた咽喉を持つてゐる猿司、祭文の聴かせどころも、先づ〳〵よく猿幸の絃と合つて結構だつた『後謳ひさしせき入る娘』から、思ひ切つて飛ばしも飛ばした『ハテぐづ付かずと早うおじやれ』と謙杖の詞だから、実をいふと訳が判らず。身は濡鷺のあし垣や--が今一ト息『親なればこそ子なればこそ』はどうにか出かす、といふ所。浜夕が泣き過ぎる位泣いたが、中々味を聴かせた。『見返り』でお時間一ぱい。
 
 
太棹 100 p18-20 1938.12.10発行
 
大阪女義〔九月五日〕 [1938.9.5]
 加賀見山旧錦絵 =長局の段=お初 竹本住龍 尾上 竹本雛昇
絃 豊沢小住
 男太夫のそれの如く、女義も、さすがに上方のは、相当に聴かれる、といつては悪いが。今夜の住龍さんや、雛昇さんは、いはゆる中堅といつても若手、まだ大家の部では無い。それでも、立派に長局を聴かせて呉れるのである。跡見送りて……から、錠口さしてまで--主おもひのお初の心意気は勿論、年端のゆかぬ女性の、シカモ、それが、シツカリ者である処を、充分に顕はしてゐて、案外の出来である。一日の長ある筈の雛昇さんの尾上がまた、それだけの品位を保つて、堅い決意をしんみりとした語り口に会得させる、豪いものである。絃の小住さんは今では堂々たる大家、お師匠さん株として、よく引締めて語らせてゐた、といへやう。
 
大阪女義〔九月十三日〕 [1938.9.13]
 仮名手本忠臣蔵 =山科の段=
竹本綾助
絃 豊沢小住
 九段目なんてへものは、さうザラに語るものぢやア無い、といふのが、吾等の常識である。岡鬼先生などに言はせると今の津太夫の九段目なぞ問題で無い、といふ事になつてゐる。それを女の人が語らうといふ、勿論前半だけではあるが……まづいはゆるハンデーキヤツプで聴く事になる。で、この綾助さんのだ。まア一ト口に結論を言つてしまへば、無理であつた。戸無瀬と小浪とお石、此の三人の女性の語り分けが難かしいのだ。五百石取りとはいへ、家老職の奥方である。それから、深窓に育つた処女である。まさかに、世話女房の戸無瀬にもならず、カフエーの女給上りの小浪にもなつては居なかつたが……唯だ、お石は可かつた。相当の点が入れられるお石であつた。近頃のお石であつた。第二放送といふので演し物に苦心した結果が、かうした義太夫として損をした結果になつたものといふより外は無い。女子因会の幹部ドコも位負けといふ落になつたのは気の毒である。
 
文楽若手〔九月十五日〕 [1938.9.15]
 碁太平記白石噺 =揚屋の段=
竹本源太夫
絃 野沢吉弥
 源太夫といへば新らしいが、源路太夫と聞くと、相当古い文楽のモロ〳〵であつた。又た此の人ほど、先代を思ひ出させる人も少ないだらう。我等先代はこと〳〵く贔屓であつたが、まだ多望の前途を以て逝りてしまひ、我等をして、凋落文楽のわびしさを思はせたものであつた。今、何もこんな事を言ふことも無いが、実は、この源太夫氏、あまりにも進歩の跡の遅々として、未だに、昔日のモロ〳〵の域を脱し切れぬのを歯痒いとおもふからである。当夜の語り物『白石』は悪くない、が、宮城野が、如何にしても全盛宮城野花魁とはおもはれず、肝腎のサハリでも、時々トテツもない声を出して驚かせたり『首尾よう年を勤めたら』や『色や浮気をたしなんで』など、モ一つ何とか味を聴かして貰ひたかつたのである。しのぶはそれでも或る程度まで可憐さが出て居たのを頂く。絃の吉弥君は筋もよく達者な人、カケ声もウルサイほどで無くて好かつた。
 
東京床語〔九月二十日〕 [1938.8.20]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段=
豊竹巌太夫
絃 豊沢猿蔵
 この大それた語り物、陣屋の放送を前に、我が巌太夫事藤田蛙水氏が、某新聞記者に語つた処によると『日の本は大和神楽の始めより……』(世の諺に曰くといふ)と前座の落語家に聴いて来たやうな事で、先づ女義太夫を盛んにする事が、義太夫の衰勢を打開する唯一の方法だとおツしやり、更らに、文楽座の連中と交際してゐるのは、東京では自分一人である……といふ途轍もない怪気焔である。さて選りも選つたり、熊谷陣屋を巌太夫が、ヘエーと仰天する位なもの、尤も青年歌舞伎のチヨボとして千代坊の我当あたりを動かした事はあらうが、義太夫としての陣屋を、さう甘く見て貰ひたくないものとおもふ。ノツケの熊谷の出からひよろついてゐたのは確かで相模の『あなたは藤のお局様』--など、スラ〳〵と言つて退けてゐるなど呆れるばかりの研究である。全体陣屋のドコを聴かせるおつもりだつたか、細かいテツや、届かぬ声や、鼻声のごまかしやは我慢しても、大体に於て『熱』といふものが皆無である、イヤ、その熱を聴かせる、表現が、出来ないのである。批評に及ばざる品物であつた事勿論で、やはり、長唄なり、常磐津なりと両床で、チヨボ台に乗つて納まるか、御自慢の浄瑠璃小唄とやらに浮身をおやつしになる外はござるまいと存する次第。失礼無罪。猿蔵氏の絃、とかくの評なし、唯だ、内心苦笑しつゝ弾いてゐたであらう事を想察する。
 
文楽中堅〔九月廿九日〕 [1938.9.29]
 一谷嫩軍記 =組打の段=
竹本相生太夫
絃 鶴沢道八
 十日ほど前に陣屋が出て、今度は組打といふ、およそ物事が逆である。文楽中堅をすぐツて明治座の人形芝居、近頃の成功を収めたその楽の翌日で、東京出身の相生氏が、置き土産のやうな放送、結構な事である。第二放送の語り物として最近、新内だの、常磐津などで、この一の谷の組打は盛んに演ぜられる。少し微苦笑ものの感がしないでもない。さてその出来は、と開き直るほどの事もなく、身分相当に聴かせられたといへやう。尤もその大半は、老巧道八師の絃によつてゞあるが、これも亦た我が老師を煩はすほどの物でも無い。明治座の妹脊の山の大判事が、向うの定高と雛鳥(織太夫と伊達太夫)に食はれて、呂太夫の久我の助と共に、どうやら見物をだれさしたといふ評判もあつたが、今夜の相生は、出し物の当を得てゐた点で、さすが、といふ事であつたのを祝福しておかう。
 
東京女義〔十月五日〕 [1938.10.5]
 恋女房染分手綱 =三吉愁歎の段=
竹本越駒
絃 鶴沢紋教
 此の処、東京の女義太夫御連中、中々にはり切つてござるらしい。越駒紋教のコンビもやゝ久しく、一時ダレ加減だつたのが、このごろは又た大緊張とある。さて、当夜の重の井はどうであつたか。先づ、特筆して賞めてよいのは、三吉の可愛い事であらう。アノ柄で、といつては悪いが、とても、男性の太夫には出ない声を出しての三吉、可憐そのものであつた。御乳の人もよし。品位も相当に出てゐて、愁ひもよく利いたのは豪い。「お乳ははツと気もみだれ……』も、気がはいつてゐて大に可かつた。タレとしての、演し物も嵌つて、充分にこたへさせたのは、紋教さんの絃も、与かつて力があつた。
 
文楽巨頭〔十月十日〕 [1938.10.10]
 玉藻前曦袂 =道春館の段=
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六
 文楽座十月興行の中継放送である。ズツと忠臣蔵があつて、中幕どころに此の玉三、切りが蝶の道行といふタテ方であつたが、八時五十分から五十分間、嬉しや古靱さんのハリキツた舞台が聴かれるのであつた。我等先づ無条件で謹聴したが、蔭にはなつてゐるが、皇子々々、といふ文字が出る、例の『皇子兼々御懇望ありし獅子王の剣』とか『はからず皇子の見出しにあづかり』とかいふのを、全部、イヤ所によつて『若様』としたり『我君』としたり、又は『主君』といつたりしてゐた。萩の方の『我がつま此の世にましまさば』は『せめて夫のましまさば』といつてゐた。此の方が本文なのであらう。金藤治の『いツかなひるまぬその顔色』は図ぬけて大きく、後の『上見ぬ鷲塚』のセヽラ笑ひが、ちよいと変つて居たが、スバラシイ笑ひであつた。桂姫の例のサハリは、アノ悪声で、無論、喝采は出来ず、双六の条りも、フアンで無ければ、人形の動きも見えぬから、ダレて来て損であつたが、奥へ進んで、萩の方とのヤリトリなどイキも吐かせず、時間の都合で、段切りまで聴かせられなかつたのは、惜しい〳〵である。清六君も、中々腕を上げられて、両娘の呼出しのあたり、結構だつた。
 
太棹 101 掲載なし
 
太棹 102 p9-11 1939.2.25発行
 
〔アナウンサー〕浄曲漫評のスペースです。出演者の病気其他で前号にお休みを頂きましたが、御勤めに従ひまして本年も続けることになりました。所で、特に御断り致しておきます事は、久しく休みました為め、昨年末の浄曲放送の漫評が下積みのローズとなつた事でございます。今日に及びまして、昨年の事を申上げますと、豚でも笑うと困りますから、断然割愛致しまして、本年初頭からの分を申上げる事に致します。御諒承を願ひます、尚ほ金王丸氏に代つて一言申添えます事は本評は出たとこ勝負と申しますと語弊がありますが、放送の当夜、周囲のコンデイシヨンや又た放送される方の態度や何かで、存外失礼を申上げるかも判りませんが、芸評以外には--イヤ芸に関係のある事以外には、出来るだけ触れぬやうに心掛けますが、要するに『漫評』の事、御容赦を願ひたいと存じます。中には本当の事を言はれて、痛い所に触られて、恐ろしく腹を立てゝ執念深く、しつこく怨み言を並べる向きもあるとか聞及びますし、又た金王丸を或る新進の評家と勘違ひをして、彼是悪声を放つ太夫さんもある由に承りますが、面と向つてお世辞ばかり言はれて納まつてゐるさういふ方には、此上本当の事を言つても、注意をしても、蛙のツラに水であらうと思ひますから、蒋介石ぢや無いが『相手にしない』といふ事に致し、太棹社及び其の間違つて恨まれてゐるらしい方に対して、御迷惑な事をコチラからお詑申上げる次第でございます。では、漫評を始めます。
 
文楽中継〔一月三日〕 [1939.1.3]
 卅三間堂棟由来 =平太郎住家の段=
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢重造
 大阪文楽座初春興行の第四狂言を、八時五十五分から、時間の許す限り放送するといふ厄介な聴き物、古靱さんの『柳』は、五年振りの演し物とあるが、我等は実に初耳である。文楽で『柳』といへば今でも始んど鮮やかに耳に残つてゐる先代南部太夫のそれであつたなど、家人と話し〳〵スヰツチを入れる『夢やむすぶらん』もオクリになつて、ちよつと一般と違う気がしたが、大体において、此の人ならでは、が随所に聴かれて、自から膝の進むのを覚えるのである。幽霊は決して泣かない、といふ原則通り、どうかすると、女義[タレ]などはアハヽヽと泣く処を泣かぬのも有がたく、一人のを残しおき(稽古本)のそれを一人のを、といつたのもよく、次の『枯柳』が馬鹿に凄かつたのも大したものとおもつた。其他ちよい〳〵普通と変へられた文句もあつたが『母は仏間の看経に……』へ行つて、愈よ俗にいふ『泥棒』の和田四郎が出て来たが、時間が迫つて来て、気が気で無かつた。『どこやらぞゞかみ』の凄さ、婆も可ければ、和田四郎が馬鹿に可い、とおもふ中『氷のたまりへおちこちの…』あたりで、アナウンサーの『時刻をお知らせ致します』とが二重放送になり、古靱さんの声が次第に薄れゆくなぞは、心細いやうなおもしろいやうな、随つて遂に此の人の『気やり音頭』を聴く事が出来なかつたのであつた。随つて重造氏の絃も……
 
大阪女義〔一月十三日〕 [1939.1.13]
 傾城恋飛脚 =新口村の段=
竹本綾助
絃 豊沢小住
 今 は、大阪女義界の堂々たる幹部となつた前名末千代の綾助さん、絃は、いつの間にか日本一のやうに言はれる我が小住嬢? そして、今夜の『新口』も亦た格好なだし物である『孫右衛門ナ老足……』から、後半を少し飛ばして『涙々の浮世なり』の段切まで、先づ相当の出来栄えなりと謹聴した『撚捻つて』のあたりの色気も出たし、大阪を立退いて以下のキカセドコロも、可なり御稽古が積んで居て結構なり『切り株で足ツクナ』は、少し鮮やかさを欠き、時間の都合、追つかけられる形ちは、イヤこれも本文を利かせての注文か、以上。
 
東京故老〔一月二十七日〕 [1939.1.27]
 菅原伝授手習鑑 =松王屋敷の段=
竹本都太夫
絃 鶴沢亀造
 朝太夫松太夫全盛時代からの都太夫である。随分古い都太夫である。一ト頃首振り芝居など持廻つてゐた時分は、可なり腐つてゐたのではなかつたかとおもはれたが、此の人位近来冴え返り若返つた人は、東京の太夫中にも少ないではないか、或は他界し、或は隠退し、或は、例のパンの関係からといふべきチヨボ語りに納まるが中に、大してお上手とも思へぬ三味線を抱えて、素義の御連中を盛んに製造し、御自身は又た、各方面に進出して、本格的の芸術を頻りに発揮する、時には独演会すら試みやうといふ勢ひは実に素晴らしいものである。この放送の当夜も、実は日本橋倶楽部に催されたお素人の人形芝居、南北座に一段勤めてから愛宕山へ飛ばしての松王屋敷であつた。サテ其の出来は? 忌憚なく言へば争はれぬものとして当夜は甚しくお疲れの模様が露はれてゐたのを否む事が出来ない。玄蕃の三枚目敵とドツシリとした松王のヤリトリなど無論今一ト息である。千代は相当に品位もあり、持ち味も出て結構だつた。時間の都合で筋の飛ぶのは致し方なしか。全体我等は、名篇寺子屋の筋をバラしてゆく此の松王屋敷は好ましからぬ語り物と思ふが、近頃割合に流行るらしい。亀造君の絃、文之助時代から見ると、益々腕を上げてゆくのは天窓の好いのと、芸熱心の賜物であらうとおもふ。
 
文楽紋下〔一月卅一日〕 [1939.1.31]
 娘景清八島日記 =日向島の段=
竹本津太夫
絃 鶴沢綱造
 ラヂオ特輯番組週間第三日とあつて、我が紋下の義太夫が楽しめるのである。この日向島は『盲景清』といつて、故九代目団十郎の家の芸ともなり、今の幸四郎氏も嘗ては帝劇花やかなりし頃上演した事もある。芝居の方でも滅多に現はれないものほどあつて、浄瑠璃の方でも、伝ふる所によれば、去る昭和五年以来九年振りに文楽に上せられたといふ。謡曲『景清』の、伝授物にもなつてゐる例の『松門独り閉ぢて年月をおくり……』の文句なども取入れてあり、津太夫も初演の折、某師に就いて、此の謡曲を伝授されたといふ因縁付の十八番物であると申す、ちよつと珍らしいものなので、ラヂオ初演の事は勿論である。一般に受けないから、屡々上演されないのだ、といふのが常識かも知れず、現に、某専門の浄曲誌が、津太夫は損な演し物をした、と残念がつて居た位であるが、我等は斯うした曲は稀らしいものとしてばかりでなく、結構な大物として大に歓迎するものである。さすが津太夫師である『娘はそれと聞くからに、のうなつかしや御身が父上様かいの……』からの悲嘆、『縋り付いて泣きければ、父も引寄せ撫でさすり……』のあたり、盲目の景清を髣髴させる。それから最後に、島の俊寛とひとしく、『船よのう、返せ戻せと声を上げ、心乱るゝ……』の悲痛、絶叫、我が紋下ならでは、とおもはせて感激の一段であつた。幕明き? に文楽式の口上があり、例のアナウンサー無しであつたのも嬉しいもの、綱造師亦これを援け、謹んでよく引き締めてゐたのはよろしい。
 
文楽中堅〔二月八日〕 [1939.2.8]
 安宅関 =勧進帳の段=
弁慶 竹本大隅太夫 富樫 竹本織太夫 義経 竹本さの太夫 片岡 豊竹辰太夫 駿河 竹本常子太夫 伊勢 竹本隅若太夫 常陸坊 竹本播路太夫
絃 豊沢広助 竹沢団六 豊沢新太郎 鶴沢清友 鶴沢一郎右衛門 鳴物 望月太津吉社中
 何と芸界に勧進帳の流行--と言はんより、寧ろ横行跋扈することよ。此間まで子役だつた役者が、初役で弁慶を勤めると、これが、勧進帳や忠臣蔵といふものを、あまり観た事のない、生若い連中が、兎も角も、切符を買つて見物に罷り出でる、といつた御時世、それから思ふと、我が文楽の勧進帳なんてへものは、実にテーシタ品物なんである。昭和の中頃、名人団平が苦心の作曲、今夜は、一時間の時間を割いて、大隅太夫一巻キがその全曲を聴かせるといふ、唯だ栄三の弁慶が、特に橋がかりでなく劇場の本花道を六法で引込む、それが観られないだけであり、殊に、相手の富樫左衛門が我等の織太夫君で、ウンと一つ頑張らうといふのであつて見れば、難有い位のものなんであつた。堂々荘重味を盛つた大隅に対して、一調子高い所を出して織太夫の富樫、問答は勿論かの呼止めのイキなんてへものは結構至極である。タテ三味線広助師以下何れも御苦労と申したゞけでは悪いか知らぬが、『一期の涙』から『鳴るは滝の水』まで、確かにおもしろい事であつた。
 
太棹 103
 
編輯後記 ラヂオ浄曲漫評は筆者金王丸氏又々病気にて休載致しました。
 
太棹 104 p14-16 1939.5.25発行
 
  口上
 毎度ヤツつけな漫評、よくぞ御覧下さいまして難有御礼申上げます。然る処、金王丸事、とかく病弱の、殊に今春肺炎といふ重病に罹り、二ケ月ほど蓐中の人となりまして、ラヂオのセツトが病室にござりませぬ処から、又たもや御無沙汰に相成り、殊に此の三月は、BK新案の管絃楽入り義太夫なんて珍奇、奇怪なるものもあり、その他聴きものとしては、津賀さん事米翁師の五条橋やら、錣太夫新左衛門の国性爺などもあり、更らに、文楽の解剖として、木谷先生や、津太夫、栄三などの談話と実演、文字太夫と織太夫の『壷坂』などもあつたのですが、遠音に三味線を聴いたばかりで、何れも失敬したもの故に、今回は四月に入つてからの分だけを、例の一筆、かくの通りにござりまする。
 
東京女義〔四月九日〕 [1939.4.9]
 観音霊験記 =壼坂寺の段
竹本小土佐
絃 豊沢美佐尾
 新聞の説明通り、東京女義界の長老であり、古い人であり、絃は愛娘、五反田の太棹芸者。出演の度数や、宣伝を以て見ると、いかにも、AKの局宝であるかの感じがある。誠に以て困つたものである。昔しは相当に鳴らした人であり、我等も随分、手を叩きにその高座を打仰いだものであるが、今日、もう実に、真面目にこれを聴き、これを評するの忍耐を持たぬことになつてしまつた。聴き了る壼坂--伝へ聞く壷坂の--の山の段、それはさすがに、今の若いのに言へないことを言ふ個所もないではないが、さて、局宝だの、長老だのとして拝聴させられては叶はぬとまで思はせられた。闇の晩に誰れかにナグラレルかもしれぬ。
 
文楽中堅〔四月十四日〕 [1939.4.14]
 増補生写朝顔話 =宿屋の段
竹本相生太夫
絃 鶴沢道八 箏 鶴沢清友
 文楽若手の中堅である。しかし、およそ此の人位までは、イヤ此の人位まで進むのは、容易の業ではあるまいが、更らに、これ以上に進むのは愈々以て容易ならぬことと思ふ。故に、此の人などは、今日ウンと頑張つて勉強しなければならぬのである。幸に、近頃、道八といふ名手を付けられてゐれば、懸命の努力精進を希望せねばならぬ。我等は、今宵、相生の宿屋を聴いて、如上の感の、一層深きを覚えたのである。身分相応の出来栄であつた事は確かであるが、その大半、イヤ七分八分はわが道八師の名絃によつて聴かれたのであつた。放送三十分間、素より、その技倆の判別を的確にする訳にはゆかぬから、多くを望むのは無理であるが、前に云ふが如く、此の人など、有望の中堅として、既に認められてゐる人の、近く数年の間に、一向取り立てゝ進歩の跡を感ぜしめざるは、甚だ心細い事であると思ひ、特に精進を望む次第である。
 
東京床語〔四月二十七日〕[1939.4.27]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段
竹本米太夫
絃 竹沢仲造
 米さんといへば、東都男太夫中錚々たる人であつて、我等朝太夫全盛時代からのフアンであつたが、近頃望まれて播磨座一座の床を勤めるやうになり滅多に聴かれぬ存在になつた人。その今夜は陣屋である。陣屋は、又た吉右衛門の得意の舞台『ナニ、藤の御局』から『うやまひ……』など満場を呻らせるもの、米さん又た大馬力であるのである。しかし、今夜は? 全体を通じて、我等の耳には頗る……所謂喰ひ足らぬ陣屋であつて、殊に、その詞に至つて、熊谷も存外に小さく、相模も藤の方も、あんな事では……困つたものだ、と思はせられるばかりであつた。床語りに転向後尚ほ日の浅きに拘はらず、斯うも違うものかと嗟嘆之を久うした。大体に於て落付きを欠き、言葉の受渡しも格を失なつた憾みが深かつた。が、何といつても鍛えた腕、物語りなど相応に立派だつたし、奥の弥陀六でも語られたら感服したかもしれぬが、『軍次』までゝは如上の感じで了つた訳である。仲造の絃は、相変らずカケ声がうるさいことであつた。
 
文楽中堅〔四月二十九日〕 [1939.4.29]
 仮名手本忠臣蔵 =一力茶屋場
 (カケ合)
由良之助 竹本大隅太夫 お軽 豊竹駒太夫 平右衛門 豊竹織太夫
絃 豊沢広助 鶴沢清二郎 おはやし連中
 天長節昼間演芸の時間である。おはやし一しきりあつて、神ならぬほとけかゝりしとお軽の出からである。配役何れもよく嵌りて、駒太夫のおかる、言葉に梅玉のセリフ調子があつて、美声の発揮、不思議に遊女といふ色気もある。大隅の由良之助、立派な貫禄。極めて巧からぬ下座の独吟が気の毒な位。織太夫の平右衛門、やつぱりお師匠はんの引写しだがお軽とのやりとりも、クドくなく、サラ〳〵とさすがに結構、時間があれば前の口軽のくだりも語らせたかつた。小身もののかなしさは、今一ト息と思つた。お軽の『ヤア〳〵〳〵それはマア……』や『おかるは始終せき上げ〳〵』は可なり高い処へ届いて喝采もの、遺憾なく我が駒太夫を発揚した。九太夫を引出して打擲する大星の長ぜりふは立派に出来た。総て、女義やお素人の達者どころが致す『入れ事』がなく、本文通りに進行したのも、我れ等得心が参つた一段であつた。絃の広助、清二郎堅実に、克明に、御苦労であつた。
 
大阪女義〔五月五日〕 [1939.5.5]
 菅原伝授手習鑑 =寺子屋の段
豊竹昇之助
絃 豊沢力松
 小供の時分東京で売出した昇之助さんそれはよく手を叩きに行つたもの、その割りに……イヤ当夜は拠ない所用あつて外出した為め、この放送は聴き洩らしたので、何とも書きやうがない、失礼する。
 
東京女義〔五月七日〕 [1939.5.7]
 卅三間堂棟由来 =平太郎住家の段
弾語り 竹本素女 ツレ弾 鶴沢素一
 パトロン杉山先生の没後、却つて斯界にノシ上つて来た感のある素女さん。因会女子部の理事長とあつて、いつの間にか押しも押されもせぬ東京女義の大御所になりきつて、近くは歌舞伎座の大殿堂に満員をかけさせて、萎靡振はざる東都デン界に、我が世の春を謳はれる豪勢振りを示した素女さんである。当日の演じ物は、俗にいふ『柳』の後半、母は仏間の看経に、から所謂『泥棒』のくだりであつた。さすがにドツシリとして結構なもの婆[ばば]の気味合もよし、例の問題の、納戸を取出す古葛籠ンナ、もさして耳障りでもなく、軽くボカシて言つて居たのもほゝゑまれた。平太郎が帰つて来て、みどり丸との驚きも口説きも充分に堪へさせた。時間の都合なるべく、和田四郎の二度目の出、熊野権現の御符の奇瑞など飛ばして、大落しから直ちに、はや東雲へ第一のキヤリの賑やかさと、二度目のそれの陰々たると、立派にうなづかれた。大方の素義や、女義連が抜いてゐる蔵人の錦の袋みぐしの件も語り進んで段切りまで三十五分間を、充分に楽しませてめでたし〳〵。
 
大阪女義〔五月十二日〕 [1939.5.12]
 鏡山旧錦絵 =長局の段
竹本綱龍
絃 豊沢東重
 前に聴いた事があるかも知れぬが、記憶がない。処で、新聞のラヂオ面に出てゐた写真を見ると、殊の外美くしい女性である。どうも得てして、面[めん]の好いタレにあまり上手なのは無いやうな気がするので、大して期待もかけなかつたが、サテ、愈々となつて聴くと、果して、といつては悪いが、どうも本場と言はれる大阪でも、これはまた……何とも申上げにくいまでに、おもしろくなかつた。それは巧いまづいよりは、天で何を言つてるのか、お初の如きは徹頭徹尾聴き取り難い口捌きには、弱らされてしまつた。恰かも十六七の少女が御簾[みす]内を勤めてゐるやうで……尾上の方はまア判るには判つたが、大名屋敷の奥女中、中老とかお局とかいふ品物にはなつてゐない。チト毒舌イヤ毒筆が過ぎたやうだが、実際、さういふ風にしか取れなかつたので、歯に衣着せぬ暴評御免々々である。絃の東重はシツカリしてゐる。トニカクいくらお上手でも、聴く人の耳に判らなければ、何にもならず賞めたくても賞められないと思つて貰いたい。
 
太棹 105 p6-8 1939.6.25発行
 
文楽中堅〔五月十八日〕 [1939.5.18]
 新作 恩讐の彼方へ =洞門の段=
竹本織太夫
絃 竹沢団六 野沢吉季
 原作は菊池寛の出世作、嘗ては『敵討以上』と題し、作者自身に脚色して、先代勘弥の文芸座をして、帝劇の舞台に脚光を浴びさせたもの。その三幕目洞門のクライマツクスともいふべき一齣を、今度食満南北氏が浄曲化し、織太夫と団六のコンビで新たに作曲したものである。『この間二十年相経ち申候』といふ後年の出来事であれば、原作を知らぬ人にはアナウンサーの解説を聴き落しては、甚だ訳の判らぬものとなる嫌ひがあり、更らに了海和尚と実之助との二人だけの芝居であつて、局面の淋しさも、大衆の興味には如何かと思はれるが、織太夫は、よくこの凄愴なる舞台面を顕現し、団六の絃亦たよく、槌の昔、瀬鳴りの音等の伴奏的合方を聴かせて、この新曲の新しき試みを示し得た事であつた。『月影もれし岩穴に、互に手に手を取かはし、本願成就の喜びは、たとへん方も泣く涙』で始めてポテンを一つ聴かせたゞけの淋しい上るりであるが、段切りの荘重さもよく、約四十分の丁場を倦きさせなかつたことを多としやう。新作待望の声漸く起る近頃、際物でない品物で、これだけのものは、容易に得られぬかも知れぬと思ふ。
 
文楽巨頭〔五月二十四日〕 [1939.5.24]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段=
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢重造
 邦楽名曲選の第二回として選まれたものといふ、古靱さんの『陣屋』何と魅力一〇〇パーセントである。
 先づ聴く『相模は障子おし開き……』から紙一枚。いつもながら、その足の長いこと、特殊の古靱ぶしも充分に『軍次はやがて覆ひになり……』から漸く平常に復したといふ恰好。この長いのに批難の声もあるやうだが、我等はとくと聴きしんで、静かに栄三の大舞台を聯想すれば、アノ位ドツシリと語らなければ、この三段目の大物が鑑賞されず、舞台の寸法が合はぬやうな気がして、必ずしも反対する事はないとおもつたのであつた。さて、一般評に出て来るやうに、例の研究的な、理知的?な、神経過敏的な語り口で、グイ〳〵と聴者の耳を惹きつけてゆき、夢のやうに、アレよ〳〵と熊谷の物語りも済んでしまつたは何たる事ぞ、おぞましの評者の耳よ。唯だ到る処、巧いなア、とおもふ地イロのおもしろさ!アヽ気の毒やなア、とおもふ高い所のあの苦吟!例へば『涙は、胸にせき上げし』や『一の谷へは向ひしぞ』や『すゝめてやりし可愛いやな』の如き、先代清六にこんなに迄叩きつけられたか、とおもふばかりのいとしさである。最後に至つて『軍次は居らぬか』の微妙な、何ともいへぬ節廻しに感服すると、チヨンとなつた残り惜しさであつた。重造君の絃は非常に慎み深く無論邪魔にならぬ苦心の撥捌きで、この大家の芸術を相応に援け得た点を買はねばならぬ。
 
東京女義〔五月二十九日〕 [193935.29]
 加賀見山旧錦絵 =草履打の段=
竹本越道
絃 豊沢猿幸
 東京女義の若手売出しのチヤキ〳〵、野沢道之助師の秘蔵弟子越道さん、猿之助師の同じく秘蔵弟子猿幸を絃に得て、鏡山の草履打とは、格好の好い演し物。二嬢[ふたり]ながら芸熱心の効、こゝに現はれて近頃傾聴に値ひするものがあつた。女義特有?のキイ〳〵いふ金属的の処が無くて好い咽に、癖やイヤミの微塵も無い節廻し、詞も相応にこなれてゐて、品位もあり、殊に、前受けを狙はぬ情を語つて頗る結構。慾には岩藤に、今少しドスを利かせ得れば完璧であるが、要するに、『草履打』といふ語り物がピツタリと嵌つた手柄といふ事が出来る。これが次の長局になつたならサテどうあらうかと、一度聴きたいと思つたほど引きつけられた。猿幸さんの達者な撥捌きが、シカモ謹しんで邪魔になるカケ声も無かつたのは豪い。
 
文楽紋下〔六月一日〕 [1939.6.1]
 傾城反魂香 =土佐将監閑居の段=
竹本津太夫
絃 鶴沢綱造 ツレ鶴沢寛市
 俗にいふこの『吃又』の上るりは、大近松の『傾城反魂香』を吉田冠子や三好松洛などで改作したものであるから、これを竹本座に上演した時の芸題『名筆傾城鑑』の方が正しいのではあるまいか。そして、この吃の段は、その四段目の切になつてゐる。それはともあれ、紋下の吃又は、例の引き吃の研究もあつて、得意中の得意ものであつて見れば、もう文句も何もない。唯だ全段丸ゴカシ(稽古本によると紙半枚ばかり抜いた処がある)五十四五分、楽々とシカモ息も吐かせぬおもしろさ。女房のシヤベリなど、此の太夫の口から、あアした条りをこんなにまで聴かせるのは、むしろ不思議な位。更に、又平の述懐、苦悶、咆哮、歓喜、真似も及びもつかぬものとばかりに傾聴したのである。殊に絶望のドン底になつて『口に手を入れ舌をつめつて泣きけるは』の処や、修理之介に縋り付き、さては女房に狂人といはれたを痛憤するあたりの泣き処などに至つては、ゾツとするほど凄絶惨絶の極みであつた。綱造の絃亦た精彩奕々たるものがあり、『硯引きよせ墨すれば』……で寛市のツレ弾がはいり、舞台の人形の動きも眼前に髣髴するばかりであつた。
 
文楽中継〔六月七日〕 [1939.6.7]
 傾城阿波の鳴門 =十郎兵衛内の段=
前 豊竹駒太夫 絃 鶴沢清二郎
奥 豊竹呂太夫 絃 鶴沢寛治郎
 文楽座六月興行の中継放送である。前半の駒太夫、後半の呂太夫は蓋し適材適所の語り物であらう。駒は先づノツケの武太六の貸し金督促の条りをぬいて、いつもの通り『元来し道へ立帰る』でお弓の心がゝりと封押し切りから語り出し、最初の独白から、盗み騙りも身欲にせぬあたりまで、やゝ時代がゝつて、やがてお鶴の普陀落やの出、テモしほらしい順礼衆、ドレ〳〵報謝、からガラリと生世話調子に変る巧さ、大得心である。御詠歌の結構な事勿論、お鶴の『夜は抱かれて寝やしやんす……』など、正にホロリとさせ、ま一度顔をと引寄せての愁嘆場、充分に堪へさせて、我が駒太夫の真価を発揮した。
 呂太夫は、既に其日も入相の……から後半、十郎兵衛の世話時代、侍の心を忘れぬ詞使ひは、確かにそれと受取らせたが、大体に於て早口の、殊にお弓が帰つて来てからのヤリトリなど、何が何やら天で聴き取れぬ口捌になつてしまつたには大に困つた。無論、拙い人では無い筈だが、この鳴門は失敗であつて、前の駒さんとは格段の相違であつたのは遺感である。
 絃の清二郎と寛治郎。前者は伊達太夫を弾いてゐた時分から、若いに似合はぬ柔かい撥捌きだとおもつてゐたが、駒太夫について更らに健実の度を加へて来たらしい。後者は団六から改名して一段と手を上げ、今夜など誠に申分の無い弾き手となつたと思つた。
 
東京女義〔六日十二日〕 [1939.6.12]
 本朝廿四孝 =十種香の段=
竹本越駒
絃 鶴沢紋教
 与へられた時間二十五分とある。されば、行水の、の出から、御経読誦の鈴の音で、次のこなたも同じ松虫の、の濡衣を先づパクツて『申し勝頼様』と例の、たましひかへす反魂香、になり、続いて『飛び立つ心』から、勝頼様ぢやないかいのと、まで飛んで、思はず一ト間を、になり、更らに『御麁相あるな』から、何枚刎ねたか『微塵覚えのない蓑作』までをぬき、同じ羽色の鳥つばさ、を充分に唄つて『縋り付いたる恨み泣き』でチヨン。であつた。要するに、姫の唄う所だけを特選した演し物で、越駒君思ふ存分に美声を発揮し、悪く言へば頗る付濃厚で、宛かもおン女郎さアの如き八重垣姫、とお見上げ申した。こんな殿御と添ひ臥しの、など、その侭大に気分を出したものだつた。蓑作は、勝頼といふ武人だといふ肚か、アノ前髪の赤い衣裳を裏切つた威張り方、濡衣も、高島田の立ヤノ字といふ腰元とは、恐らく思へず老けたをばさんのやうであり、四段目、金襖の奥御殿といふ事を少しく研究して貰ひたい。紋教君の絃には異論は無い。
 
太棹 106 p17-21 1939.7.25発行
 
大阪女義 〔六月十六日〕 [1939.6.16]
 花雲佐倉曙 =宗五郎住家の段
竹本春駒
絃 豊沢仙平
 新内などではかなり度々語られるものであるが、義太夫では先づ珍らしい。併しお芝居の方では屡々繰返されるから、大衆には行渡つた筋のもの、大阪女義の中堅春駒さんと仙平さんは、土佐太夫の相三味線だつた今の吉兵衛師から教へられたものとあつて、無論本格的に克明のものである。宗五郎の百姓とは言へ、武士の心を持つ確つかりした言葉使ひにも苦心の跡が見え、女房の『夫の難義をよそに見て、命を惜みのめ〳〵と、長らへさうな私ぢやと思うてかいな』と口説き泣く貞節振りも受取られ、一子宗市のいぢらしい親思ひには正にホロリとさせられる。手に入つた語り物で近頃成功の部に数へられやう。新聞には『わつとばかりに泣倒れ暫し答へも無かりしが……』まで、とあつたが、降りしきる雪中を、宗吾が堅い決意を以て、出てゆく光景を浮き出させた段切りが誠にはつきりと印象に残つた。
 
大阪素義 〔六月十八日〕 [1939.6.18]
 艶姿女舞衣 =酒屋の段
〔カケ合〕
おその 沢田金声 半兵衛 吾孫子櫓 母親 有尾アリオ 宗岸 野口生楽
絃 鶴沢勇造
 所謂『新人』として、二回乃至四回とマイクロフオンの前に据つた経験者で、誠に今回は、津太夫、友治郎の両大家から、このカケ合コンビの折紙をつけられた酒屋とあつて、何れもハリ切つて居たであらう事は想像に難くない。さて時間の関係で、前半おそののサワリまで約四十分間。聴き耳立てる中、唯だ感服敬服の出来栄えであつた事を先づ申上げる。アリオ氏の母親のつゝましさ、生楽氏の宗岸の懸命さ、櫓氏の半兵衛の楽々さ、金声氏のおその美声など、適材適所は申すまでもないが、最も感服したのは、四人で語つてゐて、決して別々に聴こえず一人で語つてゐるとしか思へぬイキの、稽古の積んだ事である。残念ながら、東京の大家連でも、このイキの合つたカケ合は到底企て及ばぬ事であらうと私かに思つたのであつた。最後に一言したいのは金声氏の美声は、正に洗練された美声に相違ないが、声に任せて、嫌や味にこそ堕せぬが、小節が利き過ぎて、サラリと行かず、稍や耳触りでもあつた事で、これはシツカリしたお師匠さんから、少し叱られたら直らうかと思はれた。失礼御免。
 
文楽中堅 〔六月二十九日〕 [1939.6.29]
 中将姫古跡の松 =雪責の段
竹本伊達太夫
絃 鶴沢友衛門
 暫らく振りの伊達はんのやうだが、相変らずの美声である『あら痛はしの中将姫』からであつたが『剣をふむが如くにて』あたりまで、殆んど地唄を聴いてゐるやうで、どうやら義太夫ばなれのしたやうな、それほどの美声なのである『起れは叩く割竹に』をわれ竹といひ、後にも随所に出る「割竹」を皆われ竹と語つてゐたが、我等は『わり竹』の方が正しいとおもふ。一般に御研究済かとも思ふが、我等はどうもわり竹説を固執する。予想の通り、後室と広次が、弱々しくて気に入らなかつたが、桐の谷は正に上出来であつた。浄聖摂津以来、引退の土佐さん以来、此の上るりも終りかともおもつてゐたが、今後幾十回かの研鑽で、伊達はんの物にして上げたいものである。所で、放送の時間に罪を帰すべきであるが、殊にも姫が打仆れたまゝ「いひ罵りて両人とも王子の館へ走り行く』でチヨンとなつたのでは、桐の谷、浮舟の苦衷も空しく、況んや豊成公の父性愛から、西方弥陀の御国にて、待奉る父上様と、の悲想的結末が、全然相判らぬ事となつて、前後を知らぬ聴者には、何といふ滅茶苦茶な戯曲であるか、と思はせる外はないのである、因に、新聞紙の報ずる所即ち放送局配付の解説には、此の上るりの作者を、三世河竹新七--寛政九年二月--とあるが、年代も無論違うし、その前に『雲雀山』の浄るりを並木宗輔が書いてゐるのがあり、作者不詳といふ方が当つてゐるのではないかとおもふ。三世新七といふは、東都劇場の舞台脚本に物した作者の誤り伝へられたのでもあらうとおもふのである。
 
文楽中堅 〔七月三日〕 [1939.7.3]
 花上野誉の石碑 =志渡寺の段
竹本文字太夫
絃 野沢吉左
 文楽の公演では、紋下津太夫以外には殆んど出した事の無い志渡寺、名人団平が先代大隅太夫を弾いてゐて仆れたといふのは有名なはなし。相当大物で、今夜は、前半の源太左衛門の条り、坊太郎の桃の条りが省略されて『花は昔と散り失せて今は老木の乳母お辻……』から段切まで語られる。作意の興味は更らに徹底せぬ故、唯だお辻のクドキと祈りの一条に演者の技倆を聴くの外ないもので、一般大衆向きではないが、当夜の文字さんは頗る緊張して、吉左の絃と共に、近頃の上出来であつた。就中、これ和子、此方はの〳〵、のあたり、病苦?衰弱の息切れの工合、稍や老婆過ぎる憾はあつたが、あの姿が目に見えるやう、殊に『てゝ御が此世に』からは最も良く、クドキから祈りへ飛んで『顔は笑へど心には』や、断末魔の凄惨さも頗る上出来、と聴きしんだ。文楽でも、アタマがつかえて稍や不遇の感のある文字さんなど、語り物によつては、やはり確かな稽古のあらはれが見えて頼もしいことであつた。
 
東京床語 〔七月十四日〕 [1939.7.14]
 奥州安達原 =袖萩祭文の段
豊竹巌太夫
絃 豊沢猿蔵
 只さへ曇る雪空に、心の闇の暮近く……のお袖の出から、祭文まで、始終慎しんで語つてゐた事は確かに認められるし舞台数のかゝつてゐる人だけに、更らに危なげのない語り口はさすがである。唯だそれ慎しんで語るだけに、平板無事、妙味のつかみ処が皆無だつたのには少しく呆れる。袖萩の盲らになつてゐないのは、大抵の人がさうで、致し方もないが、謙杖に力が無く、浜夕が殊に不振であつたのは、此の人にも似合はぬどうしたものだと言ひたい。肝心の祭文も、その本文を御存じなしや、ツマリ研究不足、といへば、或は酷評と受取られるかも知れぬ。何もかも知りぬいてゐるやうなお豪い太夫さんであらつしやるだけに、かうも言ひたくなるのである。要するに、上から、そうツと撫でゝみるやうな上るりであつた事は確かである。
 
AK新案 〔七月十八日〕 [1939.7.18]
 義太夫物語 =政岡忠義の段
物語 坂東蓑助
竹本越道
絃  豊沢巴住
 AKとBKでは、競争的に、常に新らしい企画を立て、演芸の新種目を発表してゐるやうであるが、気の毒な事には、滅多にヒツトを放たないやうである。凝つては思案に能はず、といふは真に名言であるとのみ思はせる。今宵の義太夫物語亦た御多分に洩れぬ代物の一つで、近松秋江作とあり、秋江といへば、昔徳田秋江といつた老文士で、近年一向振はない先生であるが、先づ先代萩の竹の間から解説をはじめて、御殿のまゝ焚を事細まかに、それはしかも、解説ではなく、上るりの文句を羅列して、俳優蓑助が、これを頗る低音に朗読するのである。そして、ハツトと思ふと、デンデーンと太い絃が鳴て来て、雀の唄の条りを越道が語り出す。と、それがいつもの越道とは似ても似つかず、調子ツぱづれの甚だしいもので、ひゐきの我等を驚かせる。と『さういふ訳で、いよ〳〵御飯が出来る』とか何とか又た物語りになり、やがて栄御前が帰つて行く、御約束の『誠に国のいしづゑぞや』から又た越道がやり出して『人目無ければ』が切れると、又た蓑助が、八汐の殺される処から、悪人滅びて云々と、この戯曲の結末を報告して、予定の時間を約三四分残して(をはり)を告げたのである。我等がこれを聴くと、実に変哲も無い代物であつて、筋を知らなければ義太夫の解らぬ人間なら、テンからラヂオのスヰツチを別の講演か、西洋音楽の方へ切替へるであらう事を考へる。知つてゐるものは、御殿の文句を解説者の口から蒟蒻版摺のやうに、聴かされるのでは、面倒でたまらぬ訳である。強て、これをやりたければ、珍らしい語物、例へば『莩源氏』だとか、せめて津太夫の『盲景清』だとかなら、又た解説の要もあらうといふもの、又先代萩なら最後までも、これが実説を簡単でも付加へれば或は、それは必要あり興味ありかも知れぬ。近松秋江で脅かしたり、坂東蓑助でごまかさうツたつて、何だいあれは、といふ外はない。喝ツ。
 
太棹 107 p14-15 1939.9.10発行
 
文楽中堅 〔七月二十日〕 [1939.7.20]
 増補大江山(カケ合) =戻橋の段
扇折若菜実は愛宕山の悪鬼 竹本綴太夫 渡辺綱 竹本大隅太夫
絃 豊沢新左衛門 豊沢広助 ツレ 豊沢新太郎 八雲 鶴沢友三郎 豊沢竜市 大薩摩 今藤長太郎 杵屋勝勇治 鳴物連中
 常磐津物で、歌舞伎でも五代目菊五郎以来、御馴染の「戻橋」義太夫になつたのは、明治三十三年、団平さんの節付で堀江に初演され大入を取つたといふ。今夜の綴太夫は、当時も其座にあつた人なり又たこれを得意に語つてゐる人。扇折若葉(芝居では小百合)実は愛宕の悪鬼は、此の人に打つて付け、近頃の綴さんとしては、驚くべく緊張もし、慎んでも居て、存外といつては失礼だが、上等の出来である。初めの出から、可愛いらしい中に、凄味もあり、綱に見現はされ、悪鬼の本性を現はしてからは、大荒れに荒れて完全にその真価を発揮した。大隅太夫の綱も、適材適所で、近来、大器稍や晩成の実を示しだして来た此の人、堂々として、武辺一徹の面目を表はし、好調のコンビとうなづかせた。新左衛門、広助の両師、自在の絃は楽々と弾きまくり、其他ツレ、八雲、大護摩、鳴物はやし連中も申分なく、大がゝりの『戻橋』誠に四十分間のおたのしみであつた。だがしかし、最後に一言したいのは、文楽座が得意に演す『勧進帳』やこの『戻橋』などは、いかに団平師の節付なりとはいへ長唄のそれの方が、曲節其他に於て、勝つてゐるといふ事である。
 
大阪女義 〔七月二十五日〕 [1939.7.25]
 仮名手本忠臣蔵 =二ツ玉と身売り
 (カケ合)
定九郎 竹本久国 与市兵衛 竹本春駒 絃 豊沢東重
母親 豊竹此助 おかる 竹本雛駒 一文字屋 竹本綾助 勘平 竹本綱竜 絃 豊沢小住
 これなどもBK新案といへばいへやう。今風に芸題を付ければ、『与一兵衛の死』とでもするか、一幕二場で、よく判る。イヤそれは贅だ言!二ツ玉で二嬢とも相当なもの、テン〳〵〳〵で出て来る手負猪は、久国さんだつたか春駒さんか、女義の五段目は、とにかく珍らしい。六段目の身売りは、しんみりと、雛駒さんのおかるが可かつた。此助さんの母親と綾助さんの一文字屋は達者の二字で尽きる、絃の小住さんは楽なもの。おはやし入りはお景物!
 
大阪混成 〔八月九日〕 [1939.8.9]
 道中膝栗毛 =赤坂並木より古寺まで
(カケ合)
弥次郎兵衛 竹本角太夫 喜多八 竹本文字太夫 和尚 豊竹和泉太夫 親父仙松 竹本常子太夫
絃 豊沢仙造 豊沢八造
 チヤリだなんて馬鹿にして貰ひますまい。弥次喜多なんて古いとけなす解らずやは、奇声とくすぐりを下手に騒々しくやる漫才の下駄穿き小屋へでも行つてくれ。奇声は奇声、くすぐりはくすぐりだが、洗練されてゐる、気が利いてゐる。多数の百姓にやア解らねえ我等のユーモアである、とまア怪気焔を上げておいてさて、全くの話しが今夜の弥次喜多のカケ合は、BKが又たヒツトを放つたものといへる。膝栗毛の中でも赤坂並木、古寺などは、有名なもので、東京のお素人でも時には高座へかけられる。杉山茂丸先生亡き後の、此の方面の大家、福島行信氏の此の上るりを、我等は一度傾聴した事がある。『次第に更くる夜嵐の、ぞツと身にしみ弥次郎兵衛……など、頗るをかしいものであつて、我が角太夫師の縦横自在のノドによつて、更に又た、文字太夫氏の喜多八も、懸命に滑稽味を放出して、盛んに我等をほゝゑませた。軽い気持で楽しむべき、このチヤリ上るりを何と真劒に聴き入つた事か、それはやがて、如何に他の普通の上るりの、常におもしろからざるもの多きかを嘆ぜしめられた訳である。アヽ、角太夫師を、再び文楽座へ戻して、滅多に出ない古曲の復活や、チヤリ上るりの上演が願へますまいか。人形には我が栄三氏健在なり、当事者諸君以て如何となす!ぷツ……
 
文楽若手 〔八月十五日〕 [1939.8.15]
 生写朝顔日記 =大井川の段
竹本源太夫
絃  野沢吉弥 胡弓 野沢吉蔵
 アレ又た源太夫……といふ人があつたかも知れぬが、今度は『宿屋』を遁げて大井川だけを四十分に渉つて放送するといふ。何は然れ、とスヰツチを入れると成るほど、宿屋の切れ目、駒沢岩代が出立した後、徳右衛門の独り言の処から、ゆる〳〵と時間引延ばしを策しつゝ始められた。続いて、大井川になる、ひれふる山も無事に、やがて関助とのめぐり合ひ、徳右衛門の腹切りまであつて、それでも、尚ほ四五分の時間を残して切れた。徳右衛門が少し若過ぎ、関助の詞は大に間延び(これは時間延ばしの為め?)朝顔の深雪は、好い出来で、殊に関助と知つての、驚きやら、懐かしがりなど結構なものであつた。前にも書いたか知らぬが、義太夫は、太夫の位置身分に相応して、成るべく、役どこを語れば間違ひなく、修業中に大物を狙はぬ方が可いのである。
 
大阪女義 〔八月二十二日〕 [1939.8.22]
 さわり集 =御殿、揚屋、本下
豊竹昇之助
絃 豊沢力松 琴 野沢吉蔵
 失礼させていたゞきませう。唯ださすがは大阪、三味線と琴の調子の狂はぬ事東京のお浚などで、よくヒドイ乱調子を聴かされるのを思ひ出した。
 
太棹 108 p12-13 1939.10.10発行
 
文楽古老 〔八月二十九日〕 [1939.8.29]
 伊賀越道中双六 =沼津の段
豊竹駒太夫
絃 鶴沢清二郎 胡弓 鶴沢友若
 時間の関係で、前の小あげが聴かれずオクリがあつて直ぐに、お米はひとり物思ひ……からである「思ひも寄らず」と切つて「ムーツと心でうなづき」と続けるやうな思ひ入れが割合に多く、心理描写に骨を折つてゐる。「真ツくらがアり」など頗る良く「おのりや手に印籠持つて旦那様のか……などは入れ事らしく、ラヂオでは判りがよい。サワリで「今宵の事は〳〵」と返へして二度言ふのも、ちよつと思ひ入れの部であつて良い。重兵衛が立ち際に、お米を招いての訓戒で「孝行しや」と言ふ所では少し愁ひが過ぎたと思つたが「心に一物、荷物は先きへ、足をはやめて……」のあたり無類と言ひたい。松原へ来ても平作は大車輪でシカモすべてアツサリ、と落入りの南無アミダなども数が少なく、清二郎の絃と友若の胡弓とが、可なり微妙に伴奏の効をつとめ、重兵衛も至極サラ〳〵と演ぜられ、津太夫の例の熱演とは又た一種、小ぢんまりして楽しめる沼津であつた。
 
東京女義 〔九月五日〕 [1939.9.5]
 傾城阿波の鳴門 =巡礼歌の段
弾語り 竹本素女
 林の中でも高い木は……で、とかく素女さんが問題になるやうだが、どうか泰然として斯界に活躍されんことを望みます。たしか、素女さんのラヂオは今年に入つては初めてだとおもひますが、素女さんとしては、例の弾語りでの「鳴門」は、実は腕も咽もムヅ〳〵する位、屁のやうな語り物だらうとおもひます。所が所がです。同夜は、こちらの耳が悪かつたか、いつもの素女さんとは案外な、元気もイキもおもふ壺にこなかつたやうに伺ひました。とんと、間延びに、イヤ絶句的につまづき加減の個所が二三回ならずであつたやうでした。尤も放送会館になつてから、ともすれば器機に故障を来たす例もありますから、其のせいだつたかも知れません。しかし、お弓の「言はんとせしが、待てしばし」の結構だつた事、お鶴の「叩かれたアリ」の可憐さなどもさすがに、感服ものであつた事を記臆にとゞめておきませう。
 
大阪女義 〔九月十七日〕 [1939.9.17]
 傾城恋飛脚 =新口村の段
竹本清糸
絃 豊沢仙平
 此の上るりは、名人摂津大掾も一生満足に語られなかつたといふ難かしいものです……とBKのアナウンサーが解説した。本当か知らん、さうすると、安藤都昇君のなんかナツチヨランものとなる。サテ此の清糸さんのはどうだつたらう。昼間の演奏にしては四十分といふ時間に恵まれて充分に発揮出来る「立寄らば、大樹の蔭」から。梅忠二人の出も、悪く艶ツぽく語らぬに好感が持てた。好い声柄、何でもいける調子である。「京の六条の珠数屋町」もよい。例の忠三のくだり、窓前を通る人達の事などスツ飛ばし突如として老足孫右衛門の出になつた。憂ひも割合に利いて、これは達者である「是非もなや」も出来た「わたしの姿…」には聊か難があり、段切りに近づいて、少しタレギタになつたが。「とゞかぬ声」は巧かつた。仙平さんの絃は、無論結構である。さて、摂津大掾とどう違つたか幽冥境を異にして……
 
大阪女義 〔九月廿一日〕 [1939.9.21]
 双蝶々曲輪日記 =引窓の段
弾語り 竹本小仙
 久し振り、恐らく本年は最初の出演かとおもふBKの局宝竹本小仙さんの弾語りである。出し物もさすがに、かいなでの唄うものでなく、渋いといへば大渋な古靱好みとでもいふべき「引窓」である。先づ、ノツケの与兵衛と十字兵衛の語り分け、取つて付けたやうな拙劣なものでなく、世話から武士言葉に代る頗る結構、母親もよし、お早もよし、総ての足取りも閒然する所なく、濡髪もシツカリと、稍や博徒染みたといふ評もあるが、立派な角力取、女義と思へぬ声巾のどうやら古靱さん式のケ所もあり、最も良かつたのは、例の母親の絵姿に搦む「銀一包取り出し」から「未来は奈落へ沈むとも、今の思ひには替へられぬ」まであたり、真に迫つてホロリとさせる「さらば〳〵」の段切りまで、どこを抜いたか、ちよつと判らぬほどに十分の纏め方もよいとおもつた。
 
大阪古老 〔九月二十六日〕 [1939.9.26]
 仮名手本忠臣蔵 =山科の段
竹本叶太夫
絃 鶴沢友造
 冒頭に御詫をしなければならぬのは、当夜障はる事があつて、どうしてもラヂオの傍に寄れず、人伝でになりと、評判を聞きたいとおもつたが我等同好の誰れもが、同じやうに聴き洩らしたといふ始末であつた。叶さんは、今は文楽の第一線から退いて、専ら後進の薫育に努め、尚ほ研究を怠らぬといふ浄曲界の大先輩である。
 今春恋十の三吉子別れをラヂオで聴き敬服したものであつたが、この九段目はとにかく義太夫節としては大物に数へられ、その権威としては今や文楽の津太夫氏が目せられてゐるもので、叶さんの口とは、稍やその向きを異にしてゐるから、一般にはどうかとおもひ、更らに、当夜聴き損ねた事を残念におもふ事を付記しておく。尤も当夜は時間の都合もあり、前半だけを語られた筈であるから、津太夫氏とは又た別趣の、好き聴き物であつたらう事は想像に難くない。
 
太棹 109・10 p14-15 1939.12.10発行
 
文楽中堅 〔十月十六日〕 [1939.10.16]
 菅原伝授手習鑑 =佐太村の段
竹本大隅太夫
絃 豊沢広助
 我が大器晩成居士大隅太夫君、痛めつけられてゐた道八翁に代つて、絃が広助師になつてから、此の前の放途『戻り橋』の綱や、最近東上文楽では、毛谷村の杉坂墓所や、廿四孝の景勝下駄などで、殊の外評判が好かつたは、先づ、何よりと喜んでゐたものである。
 さて当夜の『佐大村』聴く前には、或は此の人には良い演し物を探し当てた、と思つて、徐ろにスヰツチを入れる。と、豈図らんや、弟知らんや、年は寄つても怖いは親、からの訴訟の間は、松王丸の勘当願ひに吹き出すやうな白太夫の笑ひなど、中々味で、結構な出来であつたが、愈よ聴き所の桜丸の出からに至つて、極言すれば、醜態を暴露し始めた。アレ〳〵〳〵と思ふほど調子が外れ、いとも怪しい声が出る。第一、桜丸の詞が、一つも二つも低いので、中年の男にきこへ、八重が姥桜になりさうであつた。白太夫も熱意か、研究の不足の為めか、あまりに一介のお百姓になつてしまひ、前の訴訟の間の松と梅とを叱りつけるだけの一徹な強気皆無は、考へ違ひではあるまいか。広助師の絃が大隅氏の調子を外させたのは、駒が少々軽過ぎたのではあるまいか。介錯の鉦の音から以下は段切まで、中々よろしいとおもつたが、要するに、先師得意のものながら今の大隅氏には、この佐太村は、芸題の撰択をあやまつたものかと思ふ。
 
東京古老 〔十月三十一日〕 [1939.10.31]
 伽羅先代萩 =政岡忠義の段
竹本都太夫
絃 野沢粂造
 粂造さんとのコンビは四年振とかいふ。近頃お弟子の御連中も盛んなので、自然、芸道の勉強も出来るらしい都太夫師、今回はグツと品好く、先代の御殿である。オクリから直ぐ後半の、栄御前の出になつて、まゝ焚のダレ場を逃げ、充分に聴かせどころを捉まへて、四十分といふ余裕のある時間を、どう延ばすかと聴いてゐると、いつもの『さすが女の愚にかへり……』の後、本格的に八汐の最期を語り、さては、床下の鼠の件、仁木が現はれるかとおもふと、丸本の大詰にある『庄司重忠喜悦の眉、おゝ出かしたり〳〵』と来て『千代の栄へを鶴喜代の威勢は旭の昇るが如く、げに神国の人心、頼母しかりける……』と誰れも初耳であらうめでたし〳〵の段切を付けてチヨンは気の利いたやうな、又をかしなやうな勉強であつた。ノツケに我等が気に入つたのは、栄御前の調子の結構であつた事、殆んど近頃聴いた事のないほどの嵌つた演出、政岡も、存外、といつては失礼だが、品位相当、八汐も大緊張の、ドスを利かせて夫々によく『まことに国の』からの肝心のクドキは、普通当然の出来といふ処であつた。故朝太夫一党の、今は殆んど一人となつた都さん、その健在健闘を悦び祈る。
 
元文楽庵 〔十一月八日〕 [1939.11.8]
 卅三所花の山観音霊験記 =壺坂寺の段
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛 ツレ弾野沢市松
 名人大隅と団平のコンビで叩き上げ、弘めに広めた当時の新作『壷坂』は三つ違ひの兄さんで、浄るりなんど本式に聴いた事も無い現代の兄さん、嬢ツちやんでも知つてゐる名曲である。その名人両師から、親しく承け継いだといつてよい土佐太夫が、今や第一線を退いて、我等文楽党に、深い寂寥を感ぜしめてゐる時、彼れの最も良き同伴者吉兵衛の絃で、ラヂオとしては、時間も相応に貰ひ、邦楽『名曲の夕』のしんがりを承はる。寔に聴くに値する、聴かずんばあるべからざる一夜であつた。さて要らざる前置きを長々と書いてしまつたが、如何でした土佐さんは、と訊ねられた我等、言下に、近頃結構な壼坂だつた、と答へたものである。先づその語り出しの「まゝの川」イヤ『夢が浮世か浮世が夢か』から、現代の誰れもが殆んど言へぬ本格的の小事を聴かせて呉れる。御約束の三つ違ひの兄さんのサハリは言はずもがな、ともすれば、老けやすく、さては、堅くなり、或は、色つぽ過ぎる誤ちに堕するお里が、実に、此の曲中の若き世話女房になり切つてゐたのに驚かされる。後段、山へ行つてから、あア気の毒だなア、と心から同情を禁ぜぬほど届かぬ声もあつたりしたが、岩を建て水をたゝへての御詠歌も昔ながらに聴かれた悦ばしさ、途中の口三味線を以て唱ふアノ条りを抜いたのは時間の都合なるべきも、其他一二ケ所殆んど気づかれぬ程度に飛ばされたのも研究の末かとうなづかれ、殊にハツとばかりに、同聴者と顔を見合はして絶讃したのは、二度目にお里が戻つて来て、沢市の見えぬをいぶかり、先づ何気なく沢市さん、と呼び、更らに調子をツメて沢市さんと叫び、次第に、不安焦躁のイキを作る巧さ、犇々と我等の耳朶と心魂を打つた事である。茲に至つて、殆んど絶対的に賞讃してよいものであると思つた。吉兵衛師の絃は我等が久しき以前より推賞措かざる所、久し振りに心ゆくまで楽しませて貰つて感謝に近い気持と同時に、此を失つた文楽に、惜しくはないか、と言ひたいものが込み上げて来る位であつた。お里を帰してから沢市が、死所を求めて、上る段さへ四つ五つ、のあたり、此の絃が物を言つてゐて、栄三の人形が動いてゐるのを髣髴させたものである。金王丸久し振りに滅茶苦茶に賞めちぎる事かくの如し矣。
 
太棹 111
 
東京床語〔十一月十四日〕 [1939.11.14]
 義経千本桜 =すしやの段
竹本鏡太夫
絃 鶴沢市作
 土佐太夫の門下に列し、文楽中堅を目ざして研鑽数年、事志と違ひてか再び元のチヨボ語りに逆戻つた斯界の俊鋭鏡太夫君、久方振りの放送である。堂々たるアノ体躯から絞り出す豊富な声量、何でもいける達者芸。撰まれた芸題は、千本のすしや、神ならぬから縄付、まで。内侍に今一つの品位と、弥助に今一息のふくらみとが欲しく『このおつむりは……』あたり、あまりに拙かつたは、どうしたものか。お里のさはりは存外の美声で、可愛く出来たが、権太が飛出してから、父親や母親を呼び立てる大事の所で、声の出どころが低過ぎて娘にならず。梶原の出からは、コツチのものとばかり、大きい所を充分に聴かせたが、気のせいか危ふく芝居になる所が多く、ヤリトリにイキの詰まらぬ難が多分にあつたは残念であつた。因に例の『私は里と申して』とおの字を言はぬはよかつたが『たとへ焦れて死すればとて……』と語つてゐた。絃の市作とやらは、初めて聴いたが、中々調子の良い三味線で、勿論邪魔もせず、よく灸所を押へて弾いてゐたのには、失礼ながら感心した。
 
大阪女義〔十一月廿一日〕 [1939.11.21]
 菅原伝授手習鑑 =寺子屋の段
源蔵 豊竹団司 戸浪 竹本清糸 千代 竹本雛昇 松王 竹本綱龍
絃 豊沢小住
 大阪北陽演舞場からの中継放送である。日本義太夫因会女子部の幹部連をすぐツて、寺子屋の後半『夫婦は門の戸ぴツしやりしめ』からいろは送りの段切までのカケ合である。半ば聴きかけて、早や、期待を裏切られた感に打たれ、頗るおもしろくないものであつたは、どうしたものか。最も困つたのは、団司の源蔵で、美声の節語りとでもいふか、言葉の口先だけで、ベタ〳〵〳〵〳〵する、恐ろしく聴きづらいもの、これが先づ全体をおもしろくないものにしたのではあるまいか。綱龍の松王も、例の泣き笑ひに、ちよいと巧いたと思はせたゞけで、甚だ気の抜けた感じのする演出であつた。先づ中でよろしかつたのは、雛昇の千代であらう。いろはおくり、も互ひに譲り合ふといふか、探り合ふといふか、この中の誰れでもの、一人語りの方がよほど好いものではなからうか、要するに、カケ合といふものが、斯くの如く、寧ろダラシの無いものにしたといふのが当つてゐやう。演舞場内では受けたかも知らぬが、放送では大失敗である。
 
大阪女義〔十一月廿八日〕 [1939.11.28]
 伽羅先代萩 =政岡忠義の段
竹本三蝶
絃 豊沢仙平
 我等不敏にして、三蝶嬢は初耳なのであるが、大阪の女子部でも相当な顔の人であらう。先代の御殿は、奥の、栄御前の出からであつた。段切に近づいての、礎ぞやからの政岡のクドキは、さすがに、それでも擒従自在、とまでは行かなかつたが、普通ザラに聴くタレギタとは、一歩進んで、考へられた演出で首肯した。処が、我等は、この御殿の奥は、八汐で聴かせるものと心得てゐる位のそれが、栄御前と八汐と同一列の意気であつたのは、大の不服で、もうそれだけで、余程、今夜の先代は点が落ちるとおもつた。八汐を今一つも二つも強く、大きく張り切つて貰ひたかつたのである。でないと全体に於て、此の劇--イヤ此の場面の覘ひが外れる訳である。仙平さんの絃は結構であるが、どうやら、中途まで、御両人のイキが合はず、所謂イタに付かぬとおもはれたのはどうしたものか。
 
大阪女義〔十二月五日〕 [1939.12.5]
 夕霧阿波鳴門 =吉田屋の段
豊竹昇之助
絃 豊沢力松
 他の演芸種目なら、毎月のやうに出る人も珍らしくないが、義太夫で、年に三度はちよいと無いやうだ。昇之助さんは、今年の五月に寺子屋を語り、八月に、さはり集として、現はれ、今度又た吉田屋といふ事になる、BKの重宝芸人ではある。処で、誠に以て申訳ないが、金王丸障はる事あつて、同夜も実は聴き洩らしたのであつた。女義として、殊に美声の昇ちやんには、恰好な語り物、開き直つて云へば、難かしい近松ものではあるが、『冬編笠の赤ばりて!』の、出がどうだつたか、奥へ来て例の夕霧のさはり、唯た訳もなく、本人好い心持の、聴者も相当嬉しがつて手を叩いた事だらうと思ふ。
 
文楽中堅〔十二月十二日〕 [1939.12.12]
 新作『南部坂』 食満南北作
竹本相生太夫
絃 鶴沢清二郎 八雲 鶴沢清友
 大分、チラホラ義太夫の新作が現はれ出した。結構な事である。だがしかしだ。それ又た金王丸の毒舌かとおぼしめさうが、全くの話しで、名物にうまいものなし、といふのが、新作に好いものなしである。この『南部坂』は黙阿弥の戯曲を書き直したものださうで、そして、相生師と清二郎君の御両人の作曲になるものといふが、大した曲節なく、芝居で言へばト書程度のものであつて、それはまアそれでよく、相生師も、どツしりと、大分声巾も出て近頃、芸を上げられたのは、我等も認めるし、清ちやんも中々よく手が廻つて、無論前途有望の青年三味弾であることは確かになつた。唯だ、この「南部坂」の一段、筋をよく知つてゐるから訳がわかるが、だしぬけにこれを聴かされて、大石の苦忠や、一角の出現などが判る人があつたら、手を上げろ、である。訳の分らぬ点ばかりでなく、その面白さに於ても、現にある人に、雲右衛門の南部坂の方が好いね、と不用意に評すると、その人は、雲右衛門でなくたつて、アレよりは面白いよ、と言つた。無論浪花節以下であつた事は確かである。
 
▲訂正 前々号本漫評、駒太夫氏の肩書に『文楽中老』とあるは古老と訂正します。
 
太棹 112
 
口上
 旧臘中から、身体の工合を悪くして、懊悩呻吟、かなりの苦患を嘗めましたが、二月にはいつて、漸く少しは軽快を覚えるやうになりました。処で此の漫評ですが、十二月二十六日の南部太夫の鳴門は、送つた筈の原稿が紛失して、富取主幹と手紙の押問答、再び書く勇気も記臆もなくて、遂に失敬と決め、それから呂太夫の野崎?は全然、知らずに済んでしまつたのでこれまた失敬、次に、大晦日の午後、海外放送に、大阪の春駒、綱龍、東重などの壷坂があつた事翌日になつて新聞で知り、何とあまりに申訳の無い事とひた謝まりに謝まる外はありません。以下、昭和十五年に入つてから漫評も漫評、前述の通り、一月中は病苦の連続であつた為め、その都度克明に書き留めてもおかず、今、思ひ出しての責塞ぎ、乱暴至極の評言、我ながら愛想の尽きた不仕鱈、これから気を付けます、と口上書きも気の乗らぬ事夥だしい次第です。
 
文楽幹部〔一月一日〕 [1940.1.1]
 寿式三番叟 =カケ合=
翁 竹本津太夫 千歳 竹本錣太夫 三番叟 竹本相生太夫 竹本文太夫 ツレ 竹本越名太夫
絃 鶴沢重造 鶴沢清二郎 野沢喜代之助 野沢八造 鶴沢寛治郎 鳴物 望月太津吉社中
 謡曲から出た祝儀物、荘重典雅なる一曲である。その翁の役に、紋下津太夫氏を煩はして、千歳の錣太夫、三番の相生太夫、文太夫は、正に適材適所で、殊に御大の翁などは、実に満点と言つて可からう。千軍万馬、も大袈裟だが、錣の千歳も大によし、中堅にして今や人気を盛り上げて来た相生の三番も懸命な演奏亦た推賞するに足りる。絃も、重造、清二郎、キヤ〳〵と来てゐる出世盛り、改名後、更らに重用されんとしてゐる寛治郎亦た大に努めて、効果を挙げた。元日早々のめでたき演奏、我等も惣花的に讃辞を呈する次第である。
 
文楽中継〔一月五日〕 [1940.1.5]
 関取千両幟 =猪名川内の段
おとわ 豊竹駒太夫 猪名川 竹本織太夫 鉄ケ嶽 竹本文字太夫
絃 鶴沢清二郎
 四ツ橋文楽座一月興行の一幕中継である。稍や老け過ぎてゐたやうだが、正にこれは駒さんのおとわの演し物であらうほどに気を入れて盛んに聴かせてゐた。織さんの猪名川は、鉄ケ嶽に対する隠忍から、後のおとわとのやりとりまで、無類といつて良いほどの出色の出来であつた。文字さんの鉄ケ嶽も適任ではあつたが、今一ト息手強い処を聴きたかつた。清二郎の絃、さはりの間も結構なり、大体に於てこの天才三味引を発揮すべき大役をやり了せたと言つて可からう。千両幟といへば、我等は、ウツカリ櫓太鼓の曲弾きを聯想したが、成るほど、人形ではあり、清二郎では、といふ事で、それは聴かれなかつたのであつた。
 
東京女義〔一月十六日〕 [1940.1.16]
 絵本太功記 =尼ケ崎の段
竹本駒若
絃 鶴沢三生
 駒若さんは、浅草に演芸館を経営して男勝りの活動を続けながら、決してその本業の浄瑠璃を捨てず、常に研究を怠らず(?)といふ訳で、女義男特異の存在である。放送は昨年三月に「日吉丸三段目」を聴かせて呉れたのが、我等の初耳であつて、割合に(も失礼だが)シツカリしたものとの記臆がある。今回は太十といふ大物であつたが、我等病蓐にあつて、隣室から、幽かに聴いた為めか、今、ハツキリとした記臆がない。老母が聊か若きに過ぎたが、例のキカセドコロも相応な出来で、初菊など可愛い出来で、光秀の出も充分に堪えたのは豪いとおもつた。絃の三生さんは確かな腕である。
 
大阪女義〔一月二十三日〕 [1940.1.23]
 伽羅先代萩 =政岡忠義の段
竹本清糸
絃 竹本東重
 所謂、国策の線で、女義といへば直ぐに先代萩が出て来るが、今夜のは、近頃割合に語られぬ前半「まゝたき」を充分に聴かせるといふ訳である。寧ろダレ場ともいふべき「まゝたき」は、通してならともかくも「それだけでは、と私かに我が清糸さんの為めに、危ぶんでスヰツチを入れたのであるが、さすがに本場の大阪因会女子部の売出し、中堅の腕を揮つて遺憾なき出来栄を示した。特に裏声も使はず、千松のキカセドコロもハツキリとうなづかせ、政岡の品位も先づ〳〵といふところで結構、絃の東重さんも若手の売出し、重宝がられる三味引と首肯した。
 
東京古老〔二月六日〕 [1940.2.6]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段
竹本米翁
絃 鶴沢紋左衛門
 米翁とは申すまでもなく、此間までの東都因会々長竹本津賀太夫である。老齢引退後、重患に悩まされたと聞いてゐたが、今夜久振りの放送に、先づは祝福せねばならぬ事である。シカモ、其の演し物の「陣屋」とは又大きな事、大元気である。お世辞でも何でもなく、その芸たるや無論本格的で、少しの危なげもない。が、唯だお年と、御病後のつかれとは、総体に弱々として、いた〳〵しいのである。性来の美声で、熊谷が女義のやうに聴こえる処があり、又た半音が巧く出なくなつた恨みがあつた。軍次迄、さすがに絃の方で鍛え上げた芸、間がよいので如何にも聴いてゐて気持が可い。絃の紋左衛門は近年の合三味線、よく太夫を助けてゐた事を推賞する。
 
大阪女義「二月十五日〕 [1940.2.15]
 日本振袖始 =大蛇退治の段
岩永姫実は大蛇 竹本清糸 素盞嗚尊 竹本久国 稲田姫 竹本綾助
絃 豊沢小住 豊沢仙平 鶴沢東重 鶴沢鶴栄
 紀元二千六百年奉祝プロの、時節柄選まれた芸題である。東京では目下新橋演舞場で、文楽の呂太夫仙糸の一座が特別出演で、歌舞伎に移し『剣』と題して上演されてゐる。それへ冠せて、女義の中堅が、三絃の精鋭をすぐつて、おはやし入りで賑やかに聴かせるのである。語りの方は、特に取立てゝ言ふ処もなく、それ〴〵人に篏つて懸命の演奏であつたが、絃の方は、正さに驚くべき緊張振りの、シカモ稽古がつんでゐると見えてタテの小住をはじめ、一糸紊れぬ撥捌きで、近頃結構な聴き物であつた。
 
大阪女義〔二月二十日〕 [1940.2.20]
 伊賀越道中双六 =沼津の段
竹本東広
絃 豊沢仙平 ツレ引 鶴沢東重
 東広老嬢は久し振りである。出張所か、本城か、稽古を朝鮮京城に移して、浄曲道に精進するといふ。我等は呂昇の名人会以来のお馴染である。沼津はお得意の筈であつて、その千本松原などは、私かに期待してゐたのであつたが、聴いて見ると、珍らしく、前半の小アゲを充分にやるのであつた。そしてお米のサハリ直前で、お時間の三十分!そしてその小アゲは仙平の絃、東重のツレで、近来の面白い聴き物であつた。唯だ難を言へば、平作のヤツトマカセや、乱れかゝつてやのアトの笑ひなど、今一つ軽く行かぬものかとおもつた。重兵衛は非常に結構であつた。
 
太棹 113
 
文楽巨頭〔二月廿五日〕 [1940.2.25]
 新版歌祭文=野崎村の段
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六 ツレ 鶴沢清友
 邦楽名曲選の第十一回目である。古靱太夫の放送としては、昨十四年の五月以来である。その放送題目は「陣屋」であつたが、このところ、ズツと好調であるらしいのは、私等古靱フアンを楽しませて難有い。サテ「野崎村」袂の白絞や妹脊門松などが粉本になつてゐるが、これは、半二の傑作であり、又たよくも売込んだお染久松である。我等としては、古靱さんの世話物は、どちらかといへば珍らしいものであつて、そこに当夜の興味も湧き、又た随つて一抹の不安もあつたのであつた。果然!といつては少し当らぬかも知れぬが、当夜の我等の耳朶を打つた古靱太夫の野崎村は、案を拍つて満点を入れることの出来なかつたものであつた。先づ、「あとに娘は気もいそ〳〵」の語り出し、案外に軽く出来ん、お光は上乗、よく此の曲の主役たるお光を表現して遺憾なきものであり、彼の難声を駆使して、充分に人形を動かし得たるは賞讃すべく、後段の「嬉しかつたもたツた--で、瞬間、ハツとさせたが、よく「半とき」で持直し、喝采させたなど、随所に研究と苦心が窺はれて、豪いものだとおもつた。歌舞伎で考へると、故人雀右衛門のお光を想起せしむるものがあつた。次はお染であるが、これが、失敗、といふよりは、自体古靱さんには無理だつたのである。先づその年輩が、ウンと老けてゐた事は、弁護の余地がない。さはりになつて「逢ひにキタやら南やら」のキタが、明らかに「北」と「来た」とにかけられた語り方に、細心の注意(極めて些細な一例ではあるが)が行届いてゐる事など、認められるが、全体として、声柄が此の役の邪魔をして悲しい事であつた。故人になつた慶ちやんの福助とゆかぬのは当然である。
 では、久作はどうか?最初のやいと灸の間で、悪る騒ぎをしないのは、我意を得たが、次の久松への意見のくだりに至つては、百姓放れがして、合邦や、少くとも菅原の白太夫程度に、堅くなつたのを頗る遺憾とする。--相良丈太夫様といふ、れこさの息子殿、のレ、コ、サを、妙に持つて語られたのは、このれこさを何の意味に解釈されたのか、とちよつと気になつた--又た俳優に比べていへば、故人中事の久作である。土佐太夫の久作は故人仁左衛門、津太夫のは松助のそれである、などおもつて見ると、興味が深い。其他久松や、後家やは評なし。清六の絃は、大いによろかしつたが、最後オクリのつれ弾で、清友との調子が聊か変であつたといふて置かう。それから、与へられた時間が、五十分、全段から約二十分程度のカツトを余儀なくされた分を、素義の方々などの参考にもと、書留めておいたのを左に…………
◎門の戸ぴツしやりさしもぐさ、のあと「燃ゆる思ひは娘気の、細き線香に立つ煙り」を抜く。
◎お灸の所で、敷の上へ大きうしてすゑて置きたい、のアト「アツツ……コリヤやいお光よ、どうするぞい、そこは頭ぢや〳〵、頭に三里はないわいやい、トツトモウ、ひどい目に合はしをるがな」をぬく。
◎振りの肌着に玉の汗、の次「久作も持てあつかい」をぬく。
◎お染がはいつて来て、振の袂に北時雨晴間はさらになかりけり、のアト「曇勝ちなる久松も、背撫でさすり声ひそめ……」からズツト紙数幾枚か「互に手に手を取かはす悪縁深き契りかや」までモロに飛ばす。
◎久作の異見になつて、コリヤコレ清十郎が咄ぢや〳〵わいの、のアト「疾うから意見も仕たかつたれど」から「可愛うなうて何とせう、コレ」まで抜いて、又直ぐ「聞いての通りお光めと女夫にするを楽しみに」の婆のくだりを飛ばして「若い水の出端は」へ行く。
◎それから「申し、コレ、拝みますわいの〳〵」の次「ムウコレほどいふても聞き入れず」から、ズツと「何と返事もないぢやくり」まで飛ばす。
◎「世の中の義理にはどうもかへられぬ」のアト「成程思ひ切りませう」から「みじんも違ひはござりませぬか」まで抜かし「晩の間も知れぬ婆が命」から「大きな善根」までを飛ばして「ヤ、善ナ急げぢや今爰で盃さそ、お光〳〵と呼ひ立てる」をいつて又「声聞入れてや病架より」の婆のくだりを数枚飛ばして「ハテ、出ぐすみをして居るわ」から語る。
◎それから、ズツと行つて「死なしやんすを知りながら、どう盃がなりませよぞいな」でアトの婆の処、ウンと飛ばして、直ぐ「四人の涙八つの袖」の大落しをやり、又「見聞くつらさに忍び兼ね……」のお染の自害の体のから、お光の五条袈裟のくだり、グツと飛ばして、「久作涙押し拭ひ」になる。
◎後家が出て「これから直ぐにお礼参り……」で、金のはいつた杉折の条、早咲の梅のくだり、総べて飛ばして「幸ひ私が乗つて来たアノ駕で……」と段切りのオクリになるのだが、その中にも、本文には、婆の「そんなら久松、モウ行きやるか、来る正月の薮入を、母も必らず待つてゐる」といふ処などいつもの通り抜くのであつた。(をわり)
 
文楽故老〔二月廿七日〕 1940.2.27
 恋娘昔八丈 =鈴ケ森の段
豊竹駒太夫
絃 鶴沢清二郎
 割合に頻繁に聴かれる駒太夫さんである。去年の夏、沼津を、この一月、カケ合ではあつたが、千両幟のおとわ、今日お得意の鈴ケ森。このお駒才三は、一昨年もたしかマイクに懸つたものゝやうに記憶するが、タレ義太の口語りに聴き古した語り物で、どうやら文楽のヱライ人から聴くのは変な気のするものでもある。然し、然しである。我が駒太夫氏にこれを聴けば、又た堂々?としても聴こえて来るのは、あながち、好きな駒さんなるが故でもなく、誠に以て不思議である。先づ、諸見物のざわめき去るのが、あつさりと物々しくないのもよく、目の見えぬ老父をいたはり出てくる母親の二人が、どこまでもその人らしく、唯た父親の如来様に対する恨み言が、盲人だけに、今一ト息強く、所嫌はぬ喞ち言でありたかつた。次に最も好いと思ひ、又た駒さんならでは、とおもつて聴いたのはお駒の引廻しの馬上の出の所で、浮世絵から抜け出たやう、と文献に書残してあるその侭の姿が、眼に見えるやうであつた。勿論、御約束の「世上の娘御様達は、此の駒を見せしめに」以下のキカセ所の、無類だつた事は、言はずもがなである。清二郎君の撥捌きもよし〳〵、と賞めておく。
 
文楽中堅〔三月十二日〕 [1940.3.12]
 摂州合邦辻 =合邦内の段=
竹本織太夫
絃 竹沢団六
 織さんも、このところ、ラヂオに頻出するやうである。尤も此の前の千両幟も、今度の合邦も、四ツ橋の中継放送であるが、前の猪名川は、我等賛辞に窮する位の上出来だと聴いたが、今度の合邦も亦た、イヤ、さう頭から賞めるにも及ばぬが、一日替りといへ、本興行に、この大物?の前半だけでも語らせて貰うやうになつたのはひゐきの我等、喜ばずにはゐられないのである。殊に、織さんが、古靱師の声帯摸写以外に、近頃、大いに勉強してゐる事も--吉兵衛さんの所などに稽古に行つてゐるとも聞く--ハツキリと、その舞台に現はれて来たやうに思ふ。未来の紋下を望んで進む、イヤ、紋下候補と願つてゐる贔屓連の喜びもさこそとおもはれて、ほゝゑましい。さて、当夜の玉手御前はどうであつたか「しんたる」の出から、既に我等を魅了した、といつては賞め過ぎるか、天狗の先生方に叱られるか、笑はれるか。先づおど〳〵する母親が傑作である。あしのうら〳〵のさはりは、今すこしやさしい味を聴かせた方が、後の、不貞腐る「尼の坊主の」といふ所との対照に役立たぬものだらうか。これに対する合邦の怒罵、述懐、ダレ気味になる長い言葉の研究は充分につんでゐたとおもふ。「納戸へ」の切れ近き母親の情味は忘れ難いものであつた。団六は懸命に弾いてゐたのを買ふ。
 
大阪女義〔三月十四日〕 [1940.3.14]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段
豊竹団司
絃 豊沢小住
 お馴染の団司と小住。小住の絃は、最早評する迄もなく、大阪女義界の国宝物であり、団司亦た二十余年のコンビで、大幹部の語り手であるが、さて、この陣屋はどうであらうか。聴いて見たいナ、聴かねばなるまい、と思つたが、当夜どうすることも出来ぬ用件があつて外出、イヤなまじ、聴かぬ方が可いのではあるまいか、団司は、此の前、千両幟のおとわの傑作が、まだ耳にあつて、其の後、昨年の十一月寺子屋のカケ合に源蔵をやつてゐたが、実は感服しなかつた、といふやうな訳で、陣屋は、確かに無理だ、好い筈がない、と極めてしまつて、用件の方に出て行つて、申訳の無い始末となつた。この事情と、心もちとをコヽに告白して、さて、其後、これを聴いた某批評家から「君、団司の陣屋は、間の抜けたやうな成績だツたよ」と言はれて、間抜けは甚いとおもつたが、正に傑作ではなかつたらしい、といふ事を付記しておく。
 
太棹 114
 
大阪女義〔三月廿一日〕 [1940.3.21]
 中将姫古跡松 =雪責の段
竹本雛昇
絃 豊沢住繁 胡弓 豊沢団秀
 雛昇さんは、昨年の十月、小住さんの絃で安達の三を放送し、十一月には寺子屋のカケ合で、千代を勤めて気を吐いてゐたが、中々御勉強と見えて、今夜の中将姫など、先以て結構なものでした。広嗣の入りから語られたが、これは少しく憎みも足らず、今一ツ大きくドスを利かせて欲しかつた。これに比して岩根御前はその人らしく、おゝほゝゝゝの笑ひなど大によろしかつた『いたはしや中将姫』の出、先づ出来て、品位もさすがに相当であり、前半稍や哀れげに不足の憾みはあつたが、後半、桐の谷が来てからは『死んでも忘れぬかたじけない』あたり、次第に弱りゆく息つかひよく、しんみりと哀れに聴こえたは豪い。桐の谷の忠義一づもよくこたへ『桐の谷は声を上げ』以下のクドキなど喝采物でした。某所で問題になつたやうだが、例の割竹を最初はワ竹であり次の『起きれば叩くワ竹』であり、後の『下部もワ竹』であつた事を書き添えておく。絃と胡弓は評なし。
 
文楽紋下〔三月廿五日〕 [1940.3.24]
 伊賀越道中双六 =沼津の段=
竹本津太夫
紘 鶴沢重造 胡弓 鶴沢清友
 津太夫の『沼津』は誰れが何といつても当代随一の語り物、聴き物である。先年故人になつた貴田の越路太夫の三枚目を語つて東上した時(大正初年の事)に、僕は初めてこの沼津を聴いて、可なりに感服し、時の文芸倶楽部か何かに激賞した事を覚えてゐる。越路の『合邦』と先代南部太夫の『柳』と、この沼津を三絶と推賞したのも覚えてゐる。スヰツチを入れて聴き初めると『およねは一人物思ひ』からである。前のこあげや重兵衛のお米への座興のあたりも聴きたいとおもつたが、さうすると、時間の都合で肝心の奥の松原が聴かれなくなる、と、おもひ出したのは、先月、女義の東広が、こあげからいとしん〳〵と、までを、このラヂオで聴かした事で、恰ど、男女両巨頭が全一段の沼津を、二タ月がゝりで放送した事になる、BKのアタマもそれでよい事になるのである。さて先づ推賞すべきは、お米に艶気の失せてゐない事である。『其の貢ぎに身のまはり、櫛笄まで売払ひ……』など、いつもの津太夫氏とはおもへぬ音使ひの妙を感ずる。重兵衛も、名人栄三の人形が目に見えるやう、予ねての願ひに書付けも、此内に委しうござる』の気を持たせた技巧『心に一物、荷物は先きへ』の巧さ、など、数へ上げるに遑まもない。奥へ進んで、千本松原に入れば、古への名人は聴かねば知らず、現代何人も追従を許さぬ独断場である『二十や三十のはした銭で、露命を繋ぐ私が、死ぬる迄安楽に……』など、さすが、とばかり案を打たせ、重兵衛の『命が無くては本望が遂げられまい』や、平作の『不思議にはじめて逢うた人、何うした縁やら我子の様におもふもの』などの思ひ入れ『孝行の仕納め』や『親子一世の逢ひ初めの逢ひ納め』などの工合、『御臨終でござりますぞへ』以下段切まで、何ともいへず。以上、最大級の賛辞を呈してしまつたが、少しくその、当夜気付いた……考へやうによると、驚くべき、或は悲しむべきミステーキのあつた事を指摘せねばならぬ。その第一は、最初の、お米が印籠を盗んだくだりに、平作の狼狽した痛恨を怒鳴る中、『コリヤ此親はナ、其日暮らしの者ぢやけれど、人様の物もじきなか、盗もうといふ気は出さぬわいやい』といふ、その次に、四言五言入れ事があつて、又た同じ以上の詞を二度繰返へして言つた事である。これは、いつもは言はなかつた筈である。人様の物もじきなか、などいふ異様の詞は、耳につくから直ぐ判る言ひそこないである事はたしかである。次に、これは、ほんのある、と、ない、との相違であるから、本人も気がつかず、又た聞く人もウツカリしたかも知れぬが、およそ大変な間違ひである、それは、重兵衛が出て行つたあと、跡に親子は、の次、平作の言葉で『夜明までは、あひだもあるといふべきを『あひだも無し』と津太夫は言つてのけたのであつた。すぐその前に、重兵衛の言葉に『最早夜明けに、あひだもない』といふのがあるから、その錯覚であることも判るが、有ると無し、とは大変な意味の相違、お歳のせいか、あたまのせいか、女房役の三味線弾などに、あまり苦労をせぬやうにお勤めする。最後に、例の問題?の『子故に迷ふ三悪道』を、当夜は、明らかに三ナク道と言つてゐた。僕は先づ此の方に賛成しておく。前に言ひ落したから、こゝに書き添える。
 
大阪女義〔四月二日〕 [1940.4.2]
 義士銘々伝 =弥作鎌腹の段
竹本春駒
絃 豊沢仙平
 春駒さんは、筆者の記臆によると、昨年の夏、同じく仙平さんの絃で、佐倉の子別れを語り、続いてその翌月だつたか、忠臣蔵五段目のカケ合に、与一兵衛を受けもつてゐた。地合よりは詞を語るに長じ、節よりは情を語る人で、渋いといふか、堅いといふか、女義には珍らしい存在であると思ふ。今夜の弥作にしてからが、放送などに持出しては、損であらう、と思はれる語り物であるが、七太夫と弥作のセツパ詰つたやりとりなど、かいなでの男太夫など、足許にも及ばぬほどの情を語つて聴かせて呉れたものである。といふて、高い調子や美くしい声の無い人ではない。幟[のぼり]のおとわもどきの、女房など頗る情味を有つてゐたのも聴のがせぬ所であつた。仙平さんには気の毒な位『あとに弥作は』から、和助の『船場をさして』の出立まで、殆んど絃の御厄介にならぬ詞ばかりのもので、そして少しもダレさせぬ鍛錬は豪いとおもつた。『酒も水も咽をとほらぬ……』や『待つてくれ〳〵〳〵〳〵〳〵』や、『出かしたなア、あハヽヽヽヽ』などの巧さは特賞に値ひするものと思つた。
 
大阪女義〔四月四日〕 [1940.4.4]
 義経千本桜 =すしやの段
竹本綱龍
絃 豊沢住繁
 綱龍さんは、最近では昨年の十一月、寺子屋の、カケ合で松王をやり、次で十二月の大晦(これは金王丸が聴洩らした分)に春駒さんの沢市でお里を語つてゐる。今夜は鮓屋のお里である。松王の時は、その泣き笑ひに味を聴かせて呉れた記臆があるばかり、それほどにも思はなかつたが、今夜聴く所では、先づ第一に、地合でも、詞でも噛む癖が耳立ち、呑むやうに語尾が聴こえぬ憾みが多く、更らに、一字一字角ばツてふツくりとした柔か味が欠けてゐるのを大いなる難とする。特に『サワリ』と断はつて約二十分、例の『神ならぬ』の内侍六代の出からであり、思ひなしか内侍の品位に不足のうらみもあつたが『都でお別れ申してより』先づよく『打手に出会ひ』など、当て気味が無くて可いと思つた。弥助の言葉も例の角[かど]ばツた難はあるが、全体の調子はよし『何がな一礼、で切つて、返礼、といつたのもよろしい。肝心のお里の『過ぎつる春の頃』や『夢にも知らして下さつたら』や、更らに『惚れらりよか』など大層可かつた。例の最初の『私は里と申して』の『お』の字を取つたのは我等の思ふ処、次の問題のすればとて』は『』と言はなかつたやうであつた。『身をふるはして』でチヨンは惜しいとおもつた。
 
文楽中継 〔四月十日〕 [1940.4.10]
 新版歌祭文 =野崎村の段
久作 竹本相生太夫 お光 竹本南部太夫 お染 竹本伊達太夫 久松 竹本播路太夫 お勝 豊竹伊勢太夫 およし 竹本津磨太夫
絃 豊沢仙糸 ツレ弾 鶴沢友平 豊沢仙作
 時間の関係、頃合ひの中継とあつて、ツイ此の間、古靱さんの野崎を聴かして、又たざふらふお染久松、BKも少しはあたまを悩ましたらうけれど、拠ろない始末となつたものらしい。唯だ中堅どころを三人集めてのカケ合--競演--となれば、聴きての方でも興味が湧くといふものである。あだし言はさておきつ、南部のお光は、東京へ出た時分、香伯老にも叩かれたとか聞くお得意もの、伊達のお染は、美声を発揮して動かぬ所、相生の久作は、兄キ分の、これ亦た適材適所か、南部のチヨキ〳〵〳〵もよい工合の『さてしはお染エ--』と声を落した所大に可し。ラヂオで聴けば、同じ人かとも思ふばかりの美声くらべ、久松を連れて出て来る久作、相生もどうやら、ドスを封じて、高い所でいふ競争振り!『燃ゆる思ひは娘気の……』あたり、しきりに見物の動揺めきがうるさかつたは、多分紋十郎のお光が活躍してゐたのであらう。お灸のくだり、喧嘩のあたり、騒がず沈まず、普通にやつてゐて合点が参つた。『問はれてやう〳〵顔を上げ』からのお染のさはり、わしや何ぼうでもえゝ切らぬ……で手が来たやうだつたが、伊達氏も存外振り廻さなかつたのは、さすがに可い、だしぬけに、久作の『其の思案悪からう』はどの思案です、と言ひたい位、飛ばしてしまう悪い近頃ではある。少しくダレ意味ではあつたが、久作の意見は、しんみりと、よく出来た。奥へ来て、お光の二度目の出以下、いづれもサラ〳〵と聴かせる心得たもの、唯だ驚いたのは、後家のお勝の伊勢太夫といふ人、恐ろしい大声はまだよいとしても、アレハ又た何たる武張りやうぞや、巴、板額もかくやとばかり。堤にかゝつてから、播路太夫の久松の調子の外れ方、どうしても元へもどらず思はず吹き出してしまつた。但し、当夜だけの事だつたかも知れぬ。お光が別れにお染さと言つたのは、普通『お染さ』では無いだらうか。定刻より三分間延びた為めの、オクリの三絃が、次第に遠のいてゆくのは、却つて大に興味があつた。仙糸さんの絃はさすがに全般結構至極のものであつた。
 
文楽中堅 〔四月十六日〕 [1940.4.16]
 絵本太功記 =妙心寺の段
竹本文字太夫
絃 鶴沢寛次郎
 文字太夫氏は吾等ひゐきの一人である。あまり沢山も聴かぬ、耳馴染の薄い人ではあるが、そのシツカリとした語り口の、近頃の流行?といふては語弊があるかもしれぬが、悪く言へば古風な、本格的の芸術を有つてゐる人だとおもふ。今夜は、ラヂオ放送などには珍らしい妙心寺といふ演し物、甚く大物でないのも可い。待つ間ほどなく、の光秀の帰つて来る処から四十分。最も気に入つたのは『心は鉄石』の母親皐月の、超然とした高踏的な描写であつた。光秀は、帰来、妻の操に対し、先づ母親の様子を尋ねる、不安な焦躁な、心持がよく現はれて、トヾ母親の一徹な喞言を聴きながら、凝ツとして堪えてゐる間の苦衷を、確かに、納得させた。母親の去つたあと、操や、十次郎、初菊等三人を奥へやつてから覚悟、それから四王天の出四王天の荒武者振りもよく、以後、馬を牽かせての段切りまでの、光秀はやゝ小さく、我等久しい前に見た栄三氏のそれを想ひ出でゝ、残念におもつたのであつた。母親のあとを追はせた『箪笥、長持、はさみ匣……』あたりの、寛次郎氏の三味線が、バカにおもしろかつたのを付記しておく。
 
太棹 115
 
大阪女義〔四月十四日〕 [1940.4.24]
 艶姿女舞衣 =酒屋の段
弾語り 竹本小仙
 今から思へば大分以前の事であるが、放送に於て、大阪の小仙、東京の越喜美等共に局宝であると唄はれた存在であつた。その東京の越喜美は引退して了ひ、小仙さんは、続いて我等東京のフアンを堪能させて呉れてゐる。今度は暫らく振りのやうで、たしか、昨年の九月頃だつたとおもふ、引窓を同じく弾語りで放送した以来である。酒屋の前半は殆んど詞語りといつてもよい位であるから弾語りもさして苦にならぬが、それでも、常に絃の方のカケ声もあつて、どうも我等は気になつて困るのである。それは先づ致し方の無い事として、さて当夜の出来はどうだつたらうか。総評としては、遂に感心させられずにすんでしまひ、確かに期待に反したものであつたといはう。第一の欠点は宗岸が、はじめから泣き過ぎた事である。所謂泣きみそといふもので女の太夫さんは、此の弊に堕するのが多い。これまで泣かぬ宗岸がといふ本文もあれば、解り切ツた事であつて、愁ひを充分に持たせて、あすこまで泣かずにゐる訳にはゆかぬもゐだらうか。次に、時々、本にない助字を入れる癖? よくやる所謂入れ言ではなく、半七が厭がるなら、といふやうに、イヤこれは我等の聴きちがひだつたかも知れぬが、さうした耳障りが二三ケ所あり、又た可なりに訛りが多かつたとおもつた。最後に、最もどうかとおもつたのは、肝心の聴かせ所とはいへさはりの全体が、あまりにも派手に唄つてしまつた事であつた。今少し、しんみりと、或はじツくりと、あの情景にふさはしい、おそのの心境を如実に表現して貰いたかつたのであつた。もう小仙さんなどは、たゞのタレギタと、同列には聴きたくないのである。フアンなればこその苦言である。
 
文楽中継〔五月七日〕 [1940.5.7]
 卅三間堂棟由来 =平太郎住家の段
竹本南部太夫
絃 鶴沢重造
 文楽へ返り咲いて、やがては、越路太夫を襲がうといふ噂まである南部君、相当に毎回役もつくやうに見え、先づ以てめでたい。どうやら聴く度に、浄瑠璃に貫禄がついて来たやうであるのもよろしい。従来の美声を節約して、ドツシリとした音づかひを用ゐ、勉強をしてゐるものと見え、伊達太夫君との距離を、更に引放したやうなのは、修業が違う、といふものか、伊達君だつて勉強をしてゐるには違ひなからうが……さて、今夜の『柳』だが、先代南部の特意もの、即ちお家芸ともいへる語り物、これが悪くては仕やうがない訳である。はじめの紙一枚、無難に出来て、葉がくれや、を今一ト息とおもつたが、母は今を限りにて、のキカセドコロ、中々味をやり、悪く振り廻はさぬのは嬉しかつた。ノドの調子で、みどり丸がヒドク濁音で気の毒な外、平太郎も、母親も、就中、やはりお柳のコトバはかなり苦心したものらしくうなづけだ。イヤ言ひそびれたが、後の『アレ〳〵あのマ雪の降ることわいの』あたりの母親と平太郎のやりとりが、どうも白ら〳〵しくて、しツくりした肝心の情緒がうかゞへなかつたのは、非常の欠点であつたとおもふ。一人のを残しおき、や、尊とき方の御悩み、や、其他、世話物としてか、みどり丸が総て『かゝさ〳〵』といふのと、平太郎が一度だけ『母人』と様をつけたのが、おやとおもはせ、何にもお構ひなさるな、をお案じ下されますなと直してゐたのなど、それから、最初の方で『乳が無くと育つべし』と『も』の字を加へたのは、近頃皆はかういふのかしらん、とおもつた。開幕前の時間を利用して、木谷蓬吟氏の解説を聴かせたが、アナウンサーの拙いのと、解説が堅過ぎて、一向に徹底しなかつたのと、舞台が変り、次はカケ合になる関係から、此の上るりの一番聴き所であるべき木遣り音頭が全然ヌキになつたのは、抑ものプランが悪いので、まことに困つた放送であつた。
 
文楽幹部〔五月二日〕 [1940.5.2]
 仮名手本忠臣蔵 =勘平内の段
竹本大隅太夫
絃 豊沢広助
 障はる事あつて、何としても間に合はず、遂に聴聞を断念した此の一段。漫評の書けぬ申訳なさよりは、自分の残念さの方が勝つた位、実は期待してゐたものであつた。
 
大阪女義〔五月二十一日〕 [1940.5.21]
 碁太平記白石噺 =揚屋の段
宮城野 豊竹此助 信夫 竹本雛昇 惣六 豊竹団司
絃 豊沢小住
 女義連のカケ合には、役に甲乙少なく恰好の演し物である。当夜は、時間も相当に充分なり、段切まで大に緊張して語つてゐて存外におもしろかつた。此助さんは我等の耳にお馴染が薄く、果して宮城野が適任であるかどうか、ちよつと予断が出来なかつたが、さて聴きしんで見ると、相当に花魁の品位も備はり『此の妹はまめなか知らぬ』以下の聴かせ処をじツとりと得心のゆく芸であり、『幸ひ奥の大騒ぎ-』と姉妹立退く身仕度の急迫感も先づは出てゐた。信夫の雛昇さんは、昨年寺子屋のカケ合で千代を勤め、最近中将姫を語つて其の美声を発揮したのを覚えてをり、今夜のだゝアは五月田植の時分……以下の一人舞台、充分に懸命に、結構な出来であつたが、欲には、稍や老け過ぎたを憾みとする。団司さんの惣六、どうやら、一座の座長格、役柄も役柄、スツカリどすを利かして、似たりや〳〵花あやめ杜若-から、曾我物語を引く意見の長丁場、大芝居、大播磨屋、吉右衛門の声帯写になりかゝつたのには、少々恐れをなした。小住さんの絃、危なげの無い撥捌き、急所々々のカケ声も、太夫を引立てゝ、語よさゝうに弾いてゐたのを賞めておく。
 
文楽座連 〔五月廿六日〕 [1940.5.26]
 伽羅先代萩 =政岡忠義の段
政岡 豊竹古靱太夫 鶴千代・八汐 竹本織太夫 千松 竹本雛太夫 栄御前 豊竹和泉太夫 沖の井 豊竹伊勢太夫 小牧 豊竹辰太夫
絃 鶴沢清六
 古靱太夫の『先代萩』は、我等には初耳である。つばめ時代はよくも知らず、古靱となつてからは、恐らく文楽に上演されなかつたらうとおもふ。新聞の伝ふる所によれば、この御殿のカケ合は、松竹が再三文楽上演を交渉して実現しなかつたものといふ。とにかく、珍らしい聴きものである。先づ、その配役を見ても彼れの一門をすぐつての放送、適材適所とうなづける。押明け入りにけり、からの出、例の荘重典雅、金襖の格に嵌まつてゐる事勿論で、思はず襟を正さしむるものがあつた。『物案じなる母親の、顔をながむる千松に』と『鶴喜代君も打守り』の織太夫との変り目、オヤツとおもふほど区別が付かず、織さんよくも師匠に似たるものかなと、今更ながらほゝゑまれた。『其御膳を上げるほどなれば』以下政岡の詞、頗る徹底して断然押へてゐた。竹太夫改め雛太夫の千松は大役であつて『何共ないと渋面作り、涙は出づれど稚気に』のあたり、大外れに外れて苦しげであつたが、後に漸やく軌道に乗つた。蓋し、古靱氏に合はした絃の調子の低い為めに、この現象?を呈してしまつたのであらうと思つた。まゝ焚きのくだり、雀の唄のあたり、雛太夫も懸命に必らずや大汗であつたらうと想察されたが『いはれて涙の声はり上げ-』など中々可かつた。屏風にひしと、のあたり『稚なけれども天然の』から『心の奥のしのぶ山、忍び涙の折からに』まで、紙なら五六枚をぬいたのは時間の都合であつたらう。栄御前の出、和泉太夫は頗る慎んで語つてゐて、先づは無事。二タ役織太夫の八汐は、可なりの苦心が払はれてゐて甚だ結構。千松を突いての一くだり、荒れ狂ふが如き事なしに憎みも充分ひゐきの我等を堪能させた。最後の、政岡のクドキ、礎ぞや、千年万年待つたとて、など、可なりに古靱さんのノドを苦しめたらしいが、無論些かの破綻を示さず『後ろにすツクと八汐が大声』と本文通り結末をつけ『てん手に一腰長刀も、きらめき渡る』でチヨンになり、一時間と十分の長丁場は終つたのであつた。辰太夫の小牧が、大層その人らしかつたのを特筆しておく。絃の清六は、さぞ骨の折れた事であらうと、慰労の辞を呈するものである。
 
東京床語〔五月廿八日〕 [1940.5.28]
 花上野誉の石碑 =志渡寺の段
豊竹巖太夫
絃 豊沢猿蔵
 巖さんは昨年の夏、安達の三を放送してから久し振りとおもふが、今度の志渡寺は、先づ好い語り物を選んだといへやう『泣く〳〵立つてゆく……』の語り出しから、源太左衛門を芯にして、相当手強く、且つ、かなり練習も工夫もついて居たやうである。いつものやうに、だらついても居らず、内記も、すがの谷も、舞台の心得があるだけに、詞など間が取れてゐてよろしい。僕がいつも難かしいとおもふ方丈の詞も、相当苦心の痕が見えて、やゝ年輩が若過ぎたが、先づ〳〵と受取れた。『あはやと見る内広庭よりこけつ転びつ乳母お辻』は少々困ツた、といふほど気の毒ながら拙かつた。それに、お辻は、総体に於て、息も絶えだえの断食をしてゐる女性とは聞こえなかつた。それは、此の上るりの最も大切な失敗であり、時間の都合で肝腎の坊太郎の砂書き以下が出せなかつたのも、筋の通らぬ太だしい憾みであつた。猿蔵の絃御苦労々々々と申上げておく。
 
太棹 116
 
元文楽庵 〔六月一日〕 [1940.6.1]
 加賀見山旧錦絵 =長局の段
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛
 昨年十一月、傑作『壷坂』を放送してから半歳以上の土佐翁、『長局』は翁として頗る好題目であるが、今夜聴く所によると、哀しいかな大に衰残の風を感ぜしめられた。『跡見送りて襖の蔭』から、例の土佐太夫節といはうか、土佐太夫音といはうか、鼻声にからませて、刻むやうな節尻愈よ烈しく、舞台なれば左ほどにも無き息切れも、マイクといふ瓢軽者は、それを細かく聴者の耳朶に運ぶから致し方もない。尾上の自害になる前の『年端もゆかぬ心から、大事に思ふてくれる志、コリヤ忝ないぞや、嬉しいぞよ』のあたり、如何にも苦しげに、『酒でもたべて気を晴らし、煩らはぬ様に、第一は御奉公を』なども調子が遂に張れなかつたのは痛ましかつた。さばれ、一段を通じて、やはり、他の人に言へぬ妙味があり、自然と具はる尾上の品位も有がたく、お初の年頃や、主思ひの忠実振りも『アノ参れ、なら、参りませうが、ア、アレ御らうじませ、空合も曇つて来る』などの巧まさ、他の追従を許さぬ呼吸がある。『案じる胸も張葛籠、明けて出したる生木綿の、在所染なる紋付も、部屋方者の一張羅ンナ』あたり、人形の動きが眼に見えるやうであつた。処で、ちよつと言ひたい事は、時間の都合なるべきも、端折られた文句である。先づ初めの方の『直す草履も昨日の意恨--知らぬお初が物案じ』までや、書置きの『硯の海のそこはかと』から、『無き長文も後や先--中結ひ締めて玉の緒を』までの二三枚を抜いて『今を限りの空結ひに……』へ飛んだのなどは先づ可しとするも、此の上るりを聴くほどの人は誰れでも知つてゐる、お初の忠臣蔵の意見の条りで『おゝ夫なれば話が合ふ』から『能う見物にまゐりましたが』を抜いたのや『昨日鶴ケ岡の喧嘩の様子』云々や『御機嫌に違うても、往た振りして行くまいか……』などを飛ばし、更らに、最も人口に膾炙して肝心ともいふべき最後の『からす啼の此の悪るさ、アレ〳〵怪しからぬ胸騒きは』を抜いたのは、ほんの五秒か六秒の時間の節約で、甚だ以て真意を得ぬ事だとおもふ。吹に蝶花形博士が躍起研究してをられる例の『待つ間もとけし長廊下』は、ハツキリ、待つ間も、で切つて、とけし、と続けてゐた事を書き添えておく。絃の吉兵衛師には無論文句は無く『翌日は亡き名を白紙に、硯の海のそこはかと」のあたり、巧妙を極めた撥の音を聴かせ、尚ほ危く土佐老のハヅレかゝる処を、例のカケ声でカムフラージユするお手際など、先づ認めさるを得ない。
 
文楽中堅〔六月九日〕 [1940.6.9]
 檀浦兜軍記 =阿古屋琴責の段
庄司重忠 竹本大隅太夫 岩永左衛門 竹本文字太夫 榛沢六郎 竹本播路太夫 阿古屋 竹本南部太夫
絃 豊沢広助 野沢吉左 琴・胡弓 鶴沢綱延
 近頃、カケ合義太夫が、中々はやるやうだ。適材を適所に用ふるといふ長所はあるが、やはり、一人での熱演の方が実がはいるとおもふ。しかし、唯だ慰みに聴くのには、肩が凝らずによろしい。阿古屋の琴責は、南部太夫には、今の文楽座り顔触れでは、先づはまり役といふ事が言へる。『姿は伊達のうちかけや』の出から、中々よろしい。『四相をさとる御方とは……仇口に云ひなせしが、今日の仰せに我が折れた』の詞も結構だが、『同じやうに座に並んで、殿様顔して御座れども、いきかたは雪と墨云々』の言はば、啖呵を抜いてしまひ、さて、蕗組の一曲を終つてからの、例の『道は変らぬ五条坂、互に顔を見知り合ひ、いつ近付になるともなく、羽織の袖のほころび……』と、景清との馴れ染を物語る情けの道の一条も、アツサリと飛ばして語つたのは、物足りなかつた。三絃の『翠帳紅閨に、枕双ぶる床のうち』を抜いたのは、御尤で、それから胡弓の相の山、巣ごもりで、以下駈け足の段切りと相成つたが、琴と胡弓の綱延君、中々上等の出来であつた。大隅太夫の重忠、堂々として『鎌倉の厳命に従ひ』など、立派を極めた。岩永を制して琴曲の弾奏を所望する中も、よくその人に成り切つて、温情を湛えてゐたのを賞める。文字君の岩永も虎の威を籍る狐武士、憎みも利いて可し〳〵である。広助氏の絃、始終努力の撥捌き、大御苦労である。
 
文楽若手 〔六月十四日〕 [1940.6.14]
 増補忠臣蔵 =本蔵下屋敷の段
竹本源太夫
絃 野沢吉弥 箏 野沢吉蔵
 源太夫氏は、昨年の夏頃、朝顔の大井川を放送してから、久し振りだとおもふ三段目語りとして、先代の源太夫が、余りに巧く、且つ我等大好きの人だつただけに、自然、此の人に苦言を呈するやうな事になつて、気の毒な気もするが、致し方もない。しかし、今が勉強の仕どきであり、又た、事実勉強も仕てゐるらしく、今回の『本下』は、失礼ながら、相当聴かれるやうになつたと言へるのは嬉しかつた。放送は、後半奥庭で、「出」の半枚ほどは、感心しなかつたが、若狭介の調子は仲々可かつた。唯だ少しく間延びのした詞もあつて、前の本蔵を責めるイキに、たるみの出来たのは残念であつたが、奥の情味などもよく出てゐて、よし〳〵であつだ。本蔵は、或は、今一ト息ドツシリとした貫目を望む人もあるかも知らぬが、我等は、アノ程度の調子で結構であるとおもつた。柴小舟の琴唄も先づは難なく、段切りは、唯だ吉弥氏の絃楽に耳を取られて、おもしろい事であつた。言ひ忘れたが、番左衛門の笑ひも出来た方であつた事を付け加へる。
 
大阪女義 〔六月廿五日〕 [1940.6.25]
 和田合戦女舞鶴 =市若初陣の段
竹本雛駒
絃 豊沢住繁
 『和田合戦』は、大阪方面では、よく語られるやうであるが、東京では殆んど出ないものである。文楽では、土佐さんが一両度演じた事があると覚えてゐる。芝居の方でも、久しい前、故人の尾上多見蔵が東上して、左団次一座へはいつて、本郷座で見せた後、たしか大歌舞伎では出ないやうである。巴、板額といはれる例の女豪傑が、一子市若の初陣に当つて荏柄平太の幻影を見る風に装つて、我が子をたばかり切腹をさせ、お主の身替りにするといふ皮肉なもので、相当、力量のある人でなければ語れぬものとおもふ、さて、当夜の雛駒さんだが、我等耳馴染の薄い人、どうあらうかと、危ぶみながら、スヰツチを入れたのだが、素語りであり、殊にマイクを通しての、この皮肉な板額の苦衷を聴者に徹底させるには、可なりの距たりがあつたのは已むを得ぬ所である。けれど、筋だけは相当に通つて、よく解り、且つ、市若の健気な哀調が、存外に勝れてゐたので、結構語り物になつたとおもつた。荏柄の幻影、幻声を聴くあたりは、筋を知らぬ聴者には到底理解出来ぬのは、致し方もない。声調の確かな、向うへ出る口捌き、女子因会でも相当な人であらう。住繁さんの絃も慎しんで弾いてゐて、無事とでも申さうか。
 
太棹 117
 
文楽紋下〔七月三日〕 [1940.7.3]
 楠昔噺 =徳太夫住家の段
竹本津太夫
絃 鶴沢重造
 聴取者五百万突破のお祝ひ豪華版の内だらうか、紋下の津太夫が、去る五月に文楽座に芸能祭として上演した楠昔噺を放送した。シカモ時間をたツぷり取つて丸一時間、グツと落着いて、充分に聴かす三段目の切『早や夕陽も傾く頃…』と徳太夫住家の段である。たしかこれは、摂津大掾引退の時の演し物であつたと覚えるが、どこといつて、振り廻はすサハリもなく、例のドンブリコに続いての爺と婆、それから照葉とおとは、初めて会つたあいあけ同志のやりとりから、奥が公綱と楠の思はぬ出会ひまで、義理人情の皮肉な経緯をおもふさま搦ませて、老夫婦の臨終など、息をゆるめさせぬ大物で、末段、照葉おとはの立て引きの処数枚や、楠が藁人形の奇計のくだりなぞ、一二ケ所をぬいた外、全段をつかれも見せぬ津太夫の熱演は、たしかに我等を傾聴させて呉れたのであつたが、前段の爺と婆とのやりとりが、例の堅過ぎて、昔しばなしの二人としては、チトどうかとおもつたが、あいあけどしの皮肉なやりとり、山科の戸無瀬とお石をおもはせるあたり、さすがに、鮮やかに語り分けられておもしろく、両女が孫達の祝言を承知せぬより『もうよい〳〵、のう婆、早や日も暮れた、看経しませう、仏壇へ御明かし上げて……』から、入りにけりまでの覚悟定めた爺と婆の淋しきおもかげが目に見えるやう、こゝらは誠に名人の芸に近いとおもつた。老人夫婦の自害を知つて、照葉のくやみ言『仕様もやうもあるべきに、お心早き御最期と、悔み涙に祖父は起き立ち』のあたり、重造の絃と、恐ろしくチグハグになつて聴えたのには、又例の紋下が、とおもはずハツとなつた位、ひあいな一くだりであつたが『矢ツぱり聟の智慧なるぞや』など、アノ高い声が、よく届いて豪いとおもつた、楠の公綱呼び止めから、勇ましい段切りの『素より仁義の楠も、睨合ふたる目は涙、互ひに待つとも待たぬとも、云はで別るゝ猛将勇将……』と、尼ケ崎の段切そのまゝに、中々楽しめた一段であつた。
 
文楽中継 〔七月九日〕 [1940.7.9]
 傾城反魂香 =吃又平名筆の段
豊竹呂太夫
絃 野沢吉左 ツレ弾 豊沢団伊三 鶴沢清友
 丸一時間、丸一段。一座のドツサリ処を承はつて、紋下並みの語り物を提げての呂太夫氏、懸命の努力を要する訳である。スタヂオからでなく、文楽座七月興行の中継であつて見れば、決して浮かめて語り捨てるやうな事のあらう筈もなければ、勿論大緊張の舞台である。懸命の努力、大緊張の舞台は、よく判るが、それにしては、今一ト息とおもはれる節が全段を通じて各所にあつたのは、語り場語り物の深か過ぎ、大き過ぎた為め、緊張し過ぎ、考へ過ぎた結果であつたものと思はせられた。おくりが済んで、爰に土佐の末弟浮世又平云々の、おき浄るりともいふ処、先づ震え声の息切れが、マイクを通してしきりに聴こえる。お徳の長しやべりも、作者の狙つたこちの人の吃りに対照させるつべこべには、今一ト際の鮮やかさを要求したい。奥へ行つて「おとましの気ちがひや」のあたりは、却つて気がはいつてゐて頗る可かつた。又平は、吃りにかなりの苦心が払はれてゐたやうだが、これ亦た今一ト息の鍛練と工夫を要するは勿論にして「吃でなくは斯うはあるまい、エヽ恨めしい咽ぶえを、かき破つて……』のごときも、懸命は則ち懸命ながら、悲痛の場面が聴衆に盛り上つて徹底しない憾みは無かつたか『サ、又平殿、覚悟さつしやれ』も声がふるえて今一ト息『名は石塊にとどまれと』は立派に出来後の『忝けなしと口吃り』や『嬉しナナナナン泣くこそ』など先づ〳〵良好、台がしらの舞以下段切に及んでは無事と評すべきものであつた。雅楽の助の御註進は勇ましく出来、将監は今少しくどうにかならぬかと思つた。吉左の絃も無事御苦労の部であつたが、野沢、鶴沢、豊沢と三人並んでのツレ弾も無事過ぎるほど無事であつた。
 
東京女義 〔七月十六日〕 [1940.7.16]
 傾城阿波の鳴門 =順礼歌の段
竹本越道
紘 豊竹巴住
 新聞ラヂオ版の紹介に、越道さんを東京女義界の重鎮と書いてあつたが、重鎮は少し重も過ぎる、尤も、さて外に誰れを重鎮とすべきかとなると、素女さん以外は問題だが、越道さんあたりは先づ花形といふ処だらう。閑話休題。大体から言つて越道さんは、芸が素直で、たしかに筋の良い人である。近年メキ〳〵と上達を示してゐるのは頼もしく、ラヂオだけでも、昨年の『草履打』など傑作であつたと記憶する。其後『義太夫物語』とかいふのに、御殿を語つたが、これはAKの企が悪くて、我等感服しなかつたが、今夜の放送は、多分それ以来の久し振りであると思ふ。鳴門半段に四十分の時間を与へられたのであるから、悠揚迫らず頗るおちついて語つてゐた。そして、その大体を評すれば、平凡といへば悪いやうだが、至つて無事な出来栄えであつたと言へる。最初の『ふるさとを、はる〴〵こゝへ紀三井寺』の順礼歌は、モツト無邪気に、普通に唄つて欲しい、アレデハ少しウレイを持たせ過ぎてゐた、恰ど柳の木ヤリの和歌の浦には、と、次の無残なるかな、との違ひのやうでありたい、と不図思つた。それからお鶴を今一ト息可憐に、ツマリいたいけに聴こえるやうに願ひたかつた。例の『夜は抱かれて寝やしやんす云々』の『うらやましうござんす』などは大体あはれによく出来た。『人の軒の下に寝て……』のあと『逢ひたいこつちや』は今一ト工夫が望ましい。お弓は少し泣き過ぎる感があつたが『イヤ待てしばし』や『ま一度顔をと引寄せて……離れがたなき』など大に良かつた。最後の狂気半分半分は……も、ハツキリ仮名が解つて結構、道は親子の別れ道までゝ時間一パイ。巴住さんの絃は近頃ズツとコンビらしく、よく語らせる撥捌き、遺憾なき出来であつたと賞める。
 
大阪女義 〔七月廿三日〕 [1940.7.23]
 増補大江山 =戻橋の段
扇折若菜実は悪鬼 豊竹呂之助 渡辺綱 豊竹昇之助
絃 豊沢力松 ツレ弾 豊沢仙作 お囃子 望月太津吉社中
 実の処、率直に、歯に衣着せぬ批評をすれば、この戻橋は、開き直つて聴くに堪えぬ代物であつた。全国放送の翫右衛門の物語「太閤記」の連続を犠牲に(これも実は大したものではないが)するほどの義太夫では無かつた。殊に時間を五十分取つてあつて、其実は終ひに約十分近い空間を生したなどは、蓋しBKのゾロツヘエを具体化したものであつた。お囃子をつけて、大衆を胡麻化し去らうといふ……ま、それも仕方が無いが、先づ昇之助嬢の綱のか弱さ、駒沢治郎左衛門が、勝頼実は蓑作といつた位の押出しのシカモ気の長さ加減、それに呂之助嬢の若菜の凄味皆無のベタ〳〵てイヤらしい言葉使ひ、特に耳立上方訛りは、テツ以上の変挺なもの、空もかすみて八重一重の舞になつても、不明瞭を極めたもので見現なしに来て、稍やドスを用ゐ、鳴物を入れたので、段切は、アハヽ鬼になつたかといふ次第である。この戻橋は過般文楽の大隅太夫と錣太夫で、相当結構な処を放送してゐるので、殊に情けなかつた。要するに、人選と演し物の撰択をあやまつてゐたBK近来の失敗ものである。酷評多罪
 
東京女義〔七月廿五日〕 [1940.7.25]
 朝顔日記 =宿屋の段
深雪 竹本素女 徳右衛門 竹本素広 駒沢 竹本素八 岩代 竹本素次 川越し 竹本素国
絃 鶴沢紋教 箏 山室千代子
 病蓐にあるとか聞いた素女さんが一門をズラリ並へて、朝貌の宿屋をカケ合に常は三味線すら人に持たせぬ素女さんとしては、珍奇な企画、それも病気の為めであらうか、箏に本職の山田流を頼んだ事も御趣向、と思ひはしたが、当夜如何とも致し難い時間の都合で、直接に聴聞の出来なかつた事は残念至極であつた。
 
大阪女義 〔七月廿八日〕 [1940.7.28]
 観音霊験記 =沢市内の段
弾語り 竹本小仙
 別府の海軍病院から、傷病将士慰問の午後として中継である。前が漫才、あとが浪花節、その間に挟つて、わが小仙さんは、壼坂の前半を熱演するのである。先づ、夢が浮世か、浮世が夢か、から、次の『鳥の声……落ちて流るゝ……』の地唄が、立派に、めくら声になつてゐたのに敬服する。それから、地イロにおいて、往々、古靱さんの声音が聴かれるのにも、ひゐきの我等には興味がもてた。お里の言葉に実があり情が籠るのにも感服する。沢市の『いつそ死んでものけうえゝツ、イヤサあの……』や『月日の経はアヽ早いもなア』なぞ巧さ、別に、タレギタ式に振廻はさずにゐて、三つちがいの兄さん以下の聴かせドコロが、情もあり艶もある、完璧の壼坂であつた。時間の都合で、山の段が全然聴かれなかつたのは、残念であると、大に推賞しておく。
 
大阪女義〔七月三十日〕 [1940.7.30]
 傾城恋飛脚 =新口村の段
竹本三蝶
絃 豊沢仙平
 これを本格的に難かしく考へれば、摂津大掾さへ、滅多に思ふやう語れなかつたといふ新口村。けれど、駈け出しの口語りでも、五色の声を発して『大阪を立退いて』と振り廻せば、拍手喝采されるといふ艶物であつて、女義の演しものとしては、先づよろしいものである。三蝶さんは昨年の末であつたか、同じく仙平さんの絃で『御殿』を聴かしてから久振りの放送『孫右衛門な老足の……』から段切まで、声こそ美くしいが、ついとほりのタレギタ式でなく。しつくりと梅川の情緒を出してゐた。孫右衛門の『覚悟きはめて名乗つて出い』から、次の『アヽ今ぢや無い〳〵』の間がちよつと延びたのは、本格か知らぬが、我等は息をつめられず気のぬける感がした、ほんの二タ呼吸位の事である。『是非も無や』もよく通り、梅川の『お心ついたこのお金、さかさまながら、頂きます』の減法巧まかつたのが耳に残る。例の『とゞかぬ声』もよく通つて、仙平さんの撥音のうつくしいのと共に、ちよつと聴きほれたことであつた。
 
太棹 118
 
文楽巨頭 〔八月十日〕 [1940.8.10]
 奥州安達原 =袖萩祭文の段
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六
 古靱太夫の放送は、本年に入つて二月に『野崎村』を、五月に一門を引具して『先代萩』の御殿をカケ合で聴かせた以来、今夜の『安達』である。此の太夫の袖萩は、傑作と定評のある『良弁杉』に次での語り物であり、太十や寺子屋などよりも、我等は高く買つてゐるのである。サテ、スヰツチを入れて、オクリから慎重に聴きこむだが、『只ださへ曇る雪空に……』の雪空がいかにも雪空らしい節調に先づ感服させられ『身に耐ゆるは血筋の縁』でふーむと唸つたほどであつた。御約束の『戸を叩くにも叩かれぬ不孝の報ひ、此垣一重がくろがねの、門より高う心から……』に至つて、吻ツと息をさせ、やツぱり古靱さんのどこまでも理詰めに押してゆく語り口、と膝を進める。それから進んで、犬でもはいりましたか、の謙杖夫婦のやりとりでも、情をこめ、理をせめて、此人ならではと思はせる。愈よ待ツてましたの祭文にかゝツたが、これがまた、殆んど今までの誰もが語る祭文と祭文が違ふ、といふ感に打たれた。それは飽くまで、音を沈めて決して上はついてをらぬ唄で掛りの『琴の組とは引かへて、露命をつなぐ古糸に皮も破れし三味線の……』とある本文通り、極めて哀れ深いものであつた、これに従つて、かひなでの三味弾が、こゝぞとばかり、絃の音を聴かせやうとする所を、グツと沈めて、清六の撥は、どこまでも、彼の古糸の破れ三味線を意識した弾き方に、さすが、とおもはせられたのである。元来この祭文は、京唄の「出口の柳」の曲譜を採つて、おのが今の身の上を訴へる袖萩であると聞くが、殆んど完全にそれを演出した古靱氏に敬服する。初演に好評を博したといふ竹本大和掾は無論、今一般が語りまくる踊り地のやうな祭文ではなかつたらうとおもはれる。唯だ一ケ所『お気にそむきし報ひにて』の報ひにてが、どうした加減か、ひよツと、咽を廻して江戸唄めいて聴こえたのは我等が僻が耳であつたらうか。祭文にかゝる前の『罰も慮外もかへり見ず、お願申し奉る』の巧さ、それから、ズツと来て『むがういふのは可愛さの、裏の浜夕幾重にも……』など、これまで誰れ、のを聴いても気の付かなかつた処に膝を拍つほどの巧さを感じて驚いたと同時に、我等も余程熱心に傾聴してゐた事に気が付いた。これで、例の『黒沢左中』のくだり数枚と、後の『町人の身の上ならば、若い者ぢやもの、いだづらもせいぢや』を棄てたのも用意周到、見返り〳〵で時間一パイとなつて終つた。最後に、古靱太夫の浄瑠璃全体に就て、我等は常にその如何にも理詰め一方の如く、考へに考へを重ねた演出には感服させられるが、これと同時に浄るりを楽しんで聴くおもしろ味が薄いことを遺憾とするものである。更らに、今一言付け加へるが、その音づかひの妙は素よりであるが就中、節尻その他に、上から下タへ下げる所に何人も及ばぬ妙味がある事で、これは各種上るり若くは唄ひもので、この下げる音づかひの巧い人に、清元の延寿太夫がある他は、長唄の小三郎でも、常磐津の松尾太夫でも到底及ばぬ、延寿と古靱、此の点に於て、実に東西の二名人と賞讃するものである。
 
大阪女義 〔八月二十日〕 [1940.8.20]
 傾城阿波鳴門 =順礼歌の段=
竹本綱龍
絃 豊沢小住
 つい此のあひだ、AKから越道さんがこの鳴門を放送したのに、又しても順礼歌である。AB両当事者も、一般の聴取者も、そんな事はお構ひ無しかも知れぬが、我等は少し馬鹿々々しくなる。プロの編成に神経を使はぬ事例は啻にこればかりではないのである。も一つおもしろいのは、越道さんの時は、四十分取つてあり、今夜は二十八分で、同じ鳴門の半段で終つてゐた。越道さんがひどく悠然と語つてゐたのに比して、綱龍さんの、お弓の詞など、恐ろしいほどの早口でまくし立てるやうに聞こえた。が、充分に口を開いて、全力的に、天稟の美声を発揮し、小住さんの撥に乗つて、大体に於ける出来は佳良であつた。捲くし立ては立てながらお弓が我子を説得する調子は可なり心持ちがよく出てゐて感服した。言はんとせしが待てしばし、であア泣き過ぎては可かぬ、泣くにはまだ早いのである、嘸ぞおつるが驚いた事だらうと思つた。おつるの『会ひたいこツちや』は哀れに出来、『ま一度顔をと……』より『名残り惜しげに振り返り』の方が可かつた。二度目の詠歌も『父母の……』のあとのお鶴の泣き声は、お弓のと同じく大人になるから、一工夫あるべしだとおもふ。以上
 
文楽中堅 〔八月廿五日〕 [1940.8.25]
 夏祭浪花鑑 =釣船三婦内の段=
竹本文字太夫
絃 豊沢新左衛門
 思へば古い文字太夫であつて、大掾以来、かなり本格的の修業を積んでゐる人であるが、どちらかといふと、文楽ではイナ、浄曲界に於て不遇の太夫であるらしい。しかし、僕はこの人の義太夫は好きである。それも近年の事であるが、ラヂオでも昨年の志度寺も良かつたし、その前の膝栗毛のカケ合ひでも、角太夫に対して遜色のない喜太八を聴かせ、最近には、大隅、南部との阿古屋のカケ合の岩永の如きも、役所だけは立派に押へてゐたとおもふ。サテ今夜の「夏祭」だが、これ亦た、近頃の聴き物であつた。勿論品物も好かつたからである『賑はしき難波高津の夏神楽、練込む振り込む荷ひ込む……』の語り出しと、段切りに、遠く神楽ばやしを入れたのも、邪魔にならず嫌味にも堕せずして大に好かつた。釣船の三婦が、一歩を誤れば、歌舞伎になる所を、よく踏耐えたのも、修業鍛錬の効であらう。女房おつぎと、稍紛らはしい世話調子を巧みに語り分けて、主役お辰は、上乗の出来である。疵は痛みはいたしませぬか、に対して『何のいな、我が手にした事、おゝ、恥かし……と袖おほふ』など、ちよつと心憎いばかりの味を聴かせ、悲痛の鉄灸、その苦悶から、三婦や女房の吃驚、狼狽も、至極アツサリと、シカモ真剣味が迸ばしツてゐてよかつた。絃は、予告は新造とあつたが、お師匠さんの新左衛門が代つて弾いたらしい。殆んど振る処もない詞沢山の此の上るり、此の老大家を煩はす必要もないがさて、灸所〳〵のカケ声や、締めてゆく気分のかはりの伴奏に、さすがとおもはせる撥の冴えは、我等素人にも確かに聴取れた。
 
文楽中堅 〔八月廿七日〕 [1940.8.27]
 近頃河原の達引 =堀川猿廻しの段=
竹本相生太夫
絃 野沢吉五郎 ツレ弾 野沢喜代之助
 文楽座引越興行の明治座と、歌舞伎座の新作『二人知盛』の床とをカケ持ちに、八月の相生太夫は、相応稼いだ上、千秋楽の翌日、AKからの放送といふ大した売れツ子である。処が、その『堀川』は徒らに絃の吉五郎の為めの引立て役といふ工合に、頗る不振の語り口を示して、御贔屓を嘸ぞや心細がらせた事だらうほどの成績であつた。要するに、例の如く語り物が間違ツてゐたとより申しやうもなく、御当人は或は一ツぱし語れたつもりか知れぬが、先づ我等の聴いた処での悪い点だけを挙げて見ると、第一に、母親が、全然世話になツてをらず、或は近八の微妙の如く、太十の皐月の如く、それが貧苦の上に、眼が見えず、可愛い娘の命の瀬戸といふ哀れ気は皆無、何としても堀川の婆では無かつた。時間の都合、月は冴ゆれど、の伝兵衛の出からで、出来さうなものと思つた『心はさうぢや無いじやくり』などの嫌やらしさも困り、又た三味線の間が待てぬ所が随所にあつたのはどうしたものか。次には、伝兵衛が、心中に出て来た二枚目にならず、忠六の郷右衛門ほどでもないが、立派な立役になつてゐたのも注意が足りない。おしゆんの『言葉にわツと泣き出し』などの、失礼ながら拙かつた事、大落しの少し前あたり、お素人にもモ少し巧いのがあるやうな気がした。それから与次郎もイカニモ重苦しくて、かはりが全然出来ず、「読んだ〳〵〳〵」なぞも、今少し何とかならんかとおもつた。吉五郎の絃さすがに好い音も聴かせ猿廻しに鮮かな腕を発揮した。以上、無茶苦茶にコキ下して申訳なしだが、この以外は、御身上だけの事は無論語つたと御承知ありたく要するに、忙がしい中を、こんな大物に粗漏な稽古で、やつつけたのが悪いといふ事になるのである。
 
太棹 119
 
東京床語 〔九月三日〕 [1940.9.3]
 伽羅先代萩 =政岡忠義の段
竹本鏡太夫
絃 野沢市作
 六代目付の歌舞伎義太夫鏡太夫の「御殿」の奥、栄御前の出からである。本行を去つてどうなつたとか、衰へたとか御盛んだとかは先づ取り置いて、当夜聴いた所の感じを卒直に、一つ書きにして責めを塞ぐ (一)栄御前は最初のうち、どうも八汐とついて困つたが、これは栄御前を今一つ高い調子でゆくとよろしいとおもつた。総体に詞の調子が低いのはいけないだらう。(二)政岡は、残念ながら品位が足りなかつた。それは、詞のテンポを今ちよツと寛々的にするとよいので早口過ぎた結果でないかとおもふ。(三)八汐の笑ひと、政岡のクドキのあひだの泣きが中々良かつた。(四)「礎ぞや」の苦心は受取れたが、ムラといふか、タルミといふかゞ出来たやうだつだ。クドキを振り廻はさぬのは、本格的の大舞台とやらであらう。(五)総体に、地合で、声の出しどころに迷ひ、何やら探り〳〵語つてゐるやうに聴えた。豊富な、あり余る声量を控え目に出さうとする為めでは無いか。(六)息継ぎに無理な所が多く、かなり骨も折れたやうだが、聴きづらひ所も少くなかつた。ウンときばる語り物だつたら、アノ堂々たる鏡太夫を発揮したであらうものを。(七)絃の市作は、平凡無事といふ所だらう、前のまゝ焚きが弾けたら、師匠譲りの繊細な味のあるところを聴かせ得たであらうとおもつた。
 
元文楽庵 〔九月十二日〕 [1940.9.12]
 さくら時雨 =桜町佗住居の段
竹本土佐太夫
絃 野沢吉兵衛 琴 野沢市松
 明治時代とはいへ、新作浄瑠璃である、高安月郊氏の傑作で、曲は三代目になつた豊沢団平の仙左衛門時代、初演は土佐さんの伊達時代で、爾後土佐さんの専売物になつてゐる。歌舞伎の方では、先代の仁左衛門好みで、数回上演され、東京の初演には、紹由と三郎兵衛を二役替つて見せたと覚える。次には、三郎兵衛が羽左衛門で、吉野太夫のおとくは、二度とも、最近死歿した歌右衛門が、その気品ある舞台を見せて何れも好評だつた。土佐太夫は放送もこれで二度目で新曲も、この位に好評を博すれば結構である。前日の予告から楽しみにして当夜スヰツチを入れると、例の土佐式の下の調子の震え声が始まつて、おや〳〵と一緒に聴くものと顔を見合せたが、直ぐに立直つて好い工合に、語り込んでゆくと、聴き惚れ聴き入る事になる。やつぱり、他人に真ねられぬ巧ま味が湧いて来る。あの番頭のイキなぞといふものは、並大抵の修業では出来るものではないとおもふ。おとくの詞のなまりは少し耳障りではあるが、これも奥にゆくほど自然と品が出て来て、吉野太夫になつて来る。自由自在に動きはするが、文五郎の人形には、この真実な心持は出せない。殊いつぞや東劇だつたか、文楽の引越興行で、文五郎が、おとくで一度奥へ引込んで、次の出場を遅らし、舞台に穴をあけた事を想ひ出した。土佐さんは、それから、時々六つかしい声を出して、外れかかる『秋の夜永の寝覚め……』など危ないものでハラツとさせた。いよく紹由の出になつて、雨宿りに引入れられて上り込むあたり、吉兵衛の絃が大に冴えて義太夫には珍らしい調子を弾き、市松の琴とピツタリ合つてしばらくは気持ちの好い聴き物であつた。太夫、三味線、琴が、この位合つた事は、近来聴かぬ処のもので、余程の練習があつた事とおもはれる。あの土佐さんは、昨年のヒツト放送「壷坂」の時なども、十数回弾合せをしたとやら聴いたが、後進の有象無象共の学ばうともしないだらうほどの、良い心掛けと感心する。栄三の紹由が断然傑出する如く、土佐さんも、紹由がやはり最も好かつた。本阿弥光悦もその人らしく、同じ老け役を、はツきり紹由と語り分けたのもさすがである。正味五十分、イヤ面白い事であつた。特に言ひ添えたいのは、当夜の吉兵衛の撥音が非常によく鳴つてゐた事で、吉兵衛の三味線が鳴り出すといふ事は、実に鬼に金棒の感がある。
 
文楽中堅 〔九月十七日〕 [1940.9.17]
 増補生写朝顔話 =宿屋より大井川迄
竹本南部太夫
絃 鶴沢重造
 新義座といふものから、帰り新参といへば言はれるが、文楽生え抜きの艶語り南部太夫が「朝顔」を放送すると聴いて五月に「柳」六月に「阿古屋」を語つた人、露の干ぬ間から恋し〳〵のなげきを充分に、と思つた処、当夜は宿屋の段切れの『深雪は何か気にかゝり……』と二度目の出から、直ぐ大井川といふ寸法であつた。徳右衛門の『金地に一輪朝顔……』と裏の『宮城阿曾次郎事駒沢次郎左衛門』の読み方は先づ可しとして、『ハツとばかりに俄の仰天』も結構だツたが『突き退け刎ね退け、杖を力に降る雨…』の徳右衛門との揉み合ひから一生懸命に駆けゆく光景は、今一ト息の工夫と努力を望みたかつた。大井川へ来て『言ふ声さへも息切れの』は可く、船頭の『俄かの大雨で川が止まつた……』の調子も充分に向うへ出て巧いものであつた。『又た起き直り見えぬ眼に、空を睨んで…』以下は大井川での肝心の語り場とおもふがどうも少々睨み方が足らず『何事ぞいのう』も充分とゆかなかつた。次の『おもへば此の身は先きの世で』からのガツカリした声音は先づ〳〵で、例の『ひれふる山』になり、大分咽を痛めて居たらしく、思ふところへ届かなかつたのは惜しかつた。関助と徳右衛門が出てからはサラ〳〵と心得た語り方で、本文の女房を出さぬのも無論、徳右衛門の腹切りは本文の書き方、節曲の付け方も甚だつまらなく出来てゐるので、どん〳〵片付ける段切りは又た止むを得ぬ事であらう。でも、此処まで語れば一篇の趣向に結末がついてゐるから聴く人には筋が判つて可いといふ訳である。重造氏の絃は堅実で、言ふ処もなかつたやう、誰れか知らぬが、胡弓も邪魔にならずに可し〳〵である。
 
太棹 120
 
大阪女義 〔十月六日〕 [1940.10.6]
 伽羅先代萩(御殿) 観音霊験記(壼坂) ◇さはり◇
豊竹団司
絃 豊沢小住
 どうで「漫評」と題してはゐるものゝ、こんなさはり集を真面目に評する気にはなれない。殊にそれが若手の売出しでゝもあるなら知らず、本場の大阪で、押しも押されもせぬ団司さんと小住さん、何十年といふコンビではあり、今更ら、どうする〳〵と賞めた処で嬉しくもなからうし、我等とて賞めたりくさしたりする気にもたれない。唯だデン〳〵といふ撥音を聴いて、好きな義太夫の気分に……イヤそれほどな気にもなれない一夜であつた。ヘンに濁み声を出しては、聴かせ処で、イヤに綺麗な声を、自由自在といはうか、人を喰つた語り方といはうか、政岡の品の無い事、世話物のお神さんのやうであつた。三つ違ひの兄さんの方はまづどうやら本格的?ウフ、それもまア〳〵お時間一ぱいのお楽しみ。失礼します。
 
東京女義 〔十月十日〕 [1940.10.10]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段
竹本佳照
絃 鶴沢清一
 四五日前、大阪の団司小住で、後味の悪いさはりを聴いて、今度は東京の佳照さんの、飛んでも無い、身のほど知らぬ……といつてはよくないかも知れぬ熊谷の三段目を聴かされたのだから、やり切れないと思つた事である。そりやア佳照さんだつて、目下東京では相当の人気もあり、宣伝も巧いので、大したおしよさんで通つてゐる人だから、陣屋の語れぬ筈はないのだが、僕は、毎々此の漫評でも言つたやうに、此のやうな大物は、大抵の人には語つて貰いたくないのであるから、聴きたくない上るりである。これまでゝも、昔の小清さん以外には、女で陣屋を充分に傾聴させる人は無いとおもつてゐる。第一、初めの紙一枚で、既にアヽ困つたな、とおもつた位、相模の『つい都まで、おほヽヽヽ』なぞ、腹の減つた八汐のやうな笑ひは少しひどい。熊谷も、少しも堂々とした人形が目に見えて来ない、それは当り前なので、佳照さんが拙い訳ではない、演し物の選び方の罪である。本人の提案か、放送局のお差図か知らぬが、此の後もある事だ、考へて貰ひたいものである。
 
文楽中堅 〔十月廿三日〕 [1940.10.23]
 国性爺合戦 =楼門の段
竹本織太夫
絃 竹沢団六
 獅子ケ城を紋下が語つて、口(中)の楼門を織太夫と南部太夫が一日替りに引受けた文楽座の十月興行と聴き、実は今夏明治座へ一座が見えた時、この国性爺が出る筈であつたのを、何かの都合--稽古の日が無いといふ理由もあつてか--で出ず仕舞ひを残念がつた我等であつたので、何はしかれ、楼門だけでも--実は人形が見たかつたのだが--楽しんでゐたものだ。処が、拠ない会があつて其の日は宵から出かけ、困つてゐる中に時が経ち、何とかしたいとおもふ時、同好の某氏の好意で、この会合をちよつと抜け出し、辛うじて二人でそれを聴く事が出来た。実に苦心の四十分であつた。さて、斯ういふものには打つてつけの、織太夫の声量なり、語り口なりで、先づ文句なしに聴き込まされたものである。が、しかし、耳に馴染の薄い、聴きなれぬもの、殊には近松式名文の、俗受けのせぬ歌詞の事とて、遂に人形を見ねば完全に判らぬこの一段は、地合ひに、喝采すべき当て節のない所から、勢ひ、各人物のイキと容姿を心に描いて聴く訳である。何といふても、第一に、錦祥女の品位ある美くしさがよく出てゐたのに賛辞を呈する。南部太夫のそれは或は世話模様になつて、これほどの品位が出なかつたのでは無いかと、同聴の友人も評してゐた。次は此の場の最も大切な役であり、且つは至難役である母親の出来が好かつた。内輪に、悪く言へば影の薄い老一官は、人形では我等のひゐき政亀の舞台をどうかと偲ばせるほど神妙に、玉蔵の和藤内の荒れに荒れる幻影を心に描いては、織太夫のそれは、今一トつ調子を張つて大きく語らねば、などゝ思つた。絃の団六は、よきほどにイキを合はせて、丁寧に弾いてゐた事を特記しやう。
 
文楽若手 〔十月廿九日〕 [1940.10.29]
 中将姫古跡の松 =雪責の段
竹本雛太夫
絃 豊沢仙糸
 竹太夫改め雛太夫、たしか古靱さんの門下である。カケ合や、口を語るので、実は我等の耳には、まツとうに聴くのは殆んど初めてのやうである。中将姫は先づ、美声を要する語り物であつて、申すまでもなく、摂津大掾の十八番、東上した文楽で、往年相生太夫が之を出して、可なり悩まされたのと、その時の人形で栄三の豊成卿が、ほんの段切れに現はれただけで深い印象を残した事を覚えてゐる。昨年の夏であつたか、今の伊達太夫が放送をした事がある、いかさま、伊達氏が演じたい品物であるともおもつたがどうも思ふ処へ行つて呉れなかつたやうに覚えるものである。雛太夫はどうであらうか、勿論荷の勝つてゐるものには違ひないが「あら痛はしの中将姫」から桐の谷の出までは、些しもゆるかせにならぬ独り舞台、大事の〳〵の語り場所、神妙に、慎重に、一生懸命の態度はよく判つたが、如何せん、声にスキ切れが出来て、時々全然聴こえなくなるやうで危ないこと此上なしであつた。しかし、中々の美声である。むしろ伊達太夫の素人臭い美声よりは、コナレて居る声柄で先づは得をしてゐる訳である。桐の谷の懸命さも得心がゆき、トヾ岩根御前が自身で手を下して責める一くだりは、あまりの残酷さから特にぬいたか、時間の為めか直ぐに「ヤア〳〵誰かある彼の女引ずり出せ」になつて浮舟の出になり、最後の豊成の、「親はかくれて血の涙、浮舟桐の谷頼むぞや」になり、御約束の「身体芭蕉の葉の如し、必らず風に破られな」の段切まで、大分疲れを見せながら、語り了つて、我等もホツと一息入れた次第であつた。要するに、此の人としては、相当の出来栄を得たと言ひ得る訳であるがこれも実は、ひとへに、名手仙糸の絃の力に負ふ所の多い事は、見のがせぬ、イヤ聴きのがせぬ処であつた。お給金は太夫三分で絃七分といふ訳かナ、どうでもよいが……失礼!
 
太棹 121
 
大阪女義 〔十一月五日〕 [1940.11.5]
 加賀見山旧錦絵 =長局の段
竹本清糸
絃 豊沢仙平
 清糸さんは僕の好きな人の一人である。好きなといふと語弊があれば、素直な好もしい浄瑠璃を聴かせて呉れる人の一人である。昨年の夏、放送で新口を聴いたのが初めで、十二月に、寺子屋のカケ合で戸浪を、今年になつては、春に先代の御殿を、それから大蛇退治の岩永姫、それ以来、久し振りのやうに思ふ。語り物も女義にふさはしい長局の「跡見送りて」の廊下の立聴きから、既に、主思ひめ若い、甲斐々々しいおはつの面目を髣髴させる。かはりをはツきりと、同じ言葉の中でも、句切り方、間(ま)の取り方で、心持ちも明瞭に合点させる。忠臣蔵の浄瑠璃に就ての例の意見のくだりは、尾上もお初も、稍や気を持たせ過ぎた傾きはあつたが、実意は確かに受取れる『御家中ちり〴〵』も出来「拍子にかゝつて」のあとの笑ひももよかつた『硯の海の底はかと……」から少し飛んで「今を限りの空結ひに」と、書き置きのくだりを抜いたのはダレの為めか、アトズーツと錠口指して、までのお時間一ぱい、をはりの方のお初の「アレ御らうじませ、空合も曇つて来る」や、尾上の「主のいひつけを背むきやるか」などは、此の間聴いた土佐太夫のより良いとさへおもつた。仙平さんの絃は結構の二字に尽きる。序ながら初めの方で「待つ間も」で切つて「とけし」と語り、終りの方で『部屋方者の一張羅ンナ』で、ランナを言は無かつた事。共に岡田博士に報告、以上をはり。
 
文楽幹部 〔十一月九日〕 [1940.11.9]
 仮名手本忠臣蔵 =山科の段
竹本大隅太夫
絃 豊沢広助
 『紀元二千六百年譜』第六回で、この催ほしの最終節、江戸時代として選まれた忠臣蔵である。殊にその中でも重い語り場の九段目を引受けた御両所の、緊張のほども窺はれ、こちらも、大に謹んで聴いたものである。口の雪丸けのくだりは無論なく、人の心の奥深き……と戸無瀬と小浪の出からである。鴬の梅見付けたるほゝゑ顔……が先づよく、アノ力弥様のお屋敷はもう爰かへ、の小浪の第一声大いに可愛らしきに、ほゝうとこちらも微笑を洩らした位。わしや恥かしいと艶めかし、も存外の出来。サテこれからお石しとやかにの出から、両女史の例のやりとり、殊の外に結構、『是は思ひも寄らぬ仰せ、折悪う夫由良之助は他行』…や『二君に仕へぬ由良之助が大事の子に』など、充分に心得た腹を語られ、心へだての唐紙を……まで息もつかせず、アト戸無瀬の亢奮、小浪の悲観、些しのたるみも見せず『姑去りは心得ぬ』や『尋ねる親の気は張弓』や『貞女両夫にまみえず』や『睦まじいとてあじやらにも』……の如き、或は思ふ所に声届き、或は充分にその気分を出して、大隅氏近来の傑作といふ感がした。覚悟は可いかと立派にも、涙……で切られたのは時間の都合、次の尺八のくだりが全然聴かれなかつたのは惜しいことであつた。広助の絃は、頗る神妙に、太夫内助の功を挙げてゐたのを賞賛したい。最後に大隅氏の語りで御当人気もつかぬ事であらうが、咽の調整が、屡々マイクを通じてハツキリと聴えたのに少し困り、それから何といつてよいか……本文以外に、例へばお石の『疾くよりお目にかゝる筈(が)お聞及びの今の身の上、お尋ねに預り(ま)お恥かしい』とか『金閣寺拝見あらば(のこれ)好い伝手が……』とか『本蔵様の娘御を貰ひませう(おうお)然らばくれうと(サ)いひ、約束は……』など、括孤内の入れ言?が到る処に、実にうるさいほど入れられた事である。調子をつける、或は、意味を強める、為めに役立つてゐるにはゐるが、それが余りに多かつたので、つい、気になつて仕やうがなかつた。それから、最後に『早う殺して下さりませ、おツおよう言やつた、でかしやツた』で、この出かしやツたを無数に続けてせぐり泣きをふんだんに入れられたが、恰も、先代の御殿で政岡が千松の死骸に対する悲嘆と同じであつたのは、少しどうかとおもふ、まだ後に充分に聴かせる所もある筈だから、余り過ぎたるは及ばざるでは無からうか、気になつた為め書き添えておく事である。
 
文楽連中 〔十一月十七日〕 [1940.11.17]
 寿式三番叟 =建国会館中継
翁 竹本津太夫 千歳 豊竹古靱太夫 三番叟 竹本文字太夫 竹本相生太夫 ツレ 竹本津の子太夫 豊竹松島太夫
絃 鶴沢寛治郎 野沢吉五郎 鶴沢重造 豊沢新太郎 豊沢広二 鶴沢清友 鶴沢清六 お囃子 望月太津吉社中
 紀元二千六百年を記念して、橿原神宮の建国会館に催された奉献ラヂオ芸能大会からの中継である。言はゞお目出度いもの、勿体ないものであつて、我国古典芸術の粋である所の人形浄瑠璃、文楽座の紋下以下を動員して、此の大会のトツプを切り、古式ゆかしき浄瑠璃触れから、鳴物の響き、柝の音、『そオーれー』と翁--津太夫--の第一声、森厳、幽玄、たう〳〵たらりたらりたう--と、栄三、文五郎の踏む足音もうれしく、寛治郎、吉五郎重造、清六等、三絃も精鋭をすぐツての大がゝり、殊に、「千歳」として、古靱太夫の出演は、近頃での聴物で、謹んで心耳を聖地浄域に馳せ、既定の時間を感激にひたツた訳である。
 
東京床語 〔十一月十九日〕 [1940.11.19]
 観音霊現記 =沢市内の段
豊竹巖太夫
絃 豊沢猿蔵
 アレ〳〵、又た壷坂かい、とお時間にセツトの前に坐り込んだが、サテ、当夜の巌太夫君、頗る神妙に、天稟?の美声を揮つて、楽々と、いとも平易に、京唄も地唄もヘツタクレも、といふ塩梅に、イヤ大真面目に、気をよくして語つて退ける。御当人白く塗つて舞台へも立たうといふ人だけに、お里も、沢市も、言葉は中々結構であつた。猿蔵氏の絃は、達者なものであるが、カケ声の少ないのは大いによろしい。いつもの仲造氏だつたら、大変だつたらうとおもつた。
 
文楽若手 〔十一月九日〕 [1940.11.29]
 由良湊千軒長者 =山の段
竹本伊達太夫
絃 鶴沢友衛門
 此の浄瑠璃は、宝暦年度に半二や小出雲などの合作物で、竹本座に上演されたかなり陰惨な因果物語であるが、今夜放送される山の段は、タレ義太の口語り連が、昔はよく簾中の弾語り、手と喉の勉強に用ひたもの、我等も度々早目に詰めかけた寄席で聴かされたものである。美声で唄はれてゐる伊達太夫には、頗る恰好の語り物を探し出したものと感服した。『歌人の三十一文字の種となる……』といふ序詞といふかマクラといふか紙半枚ほどで、直ぐに『浮世とはいつの浮世に始まりし……』の対王丸安寿姫の出になり浜と山とへ別れ兼ねた愁嘆の『泣く〳〵しぼる袖袂……』で、飛ばしも飛ばして段切り近く『思ひ切つて鎌おツ取り、自害と見るより……』へゆき、爰に又もや大愁嘆があり『前後正体泣きしづむ、心ぞ思ひやられたり……』これで終るかとおもひきや、ウンと前へ逆戻つて、泣き〳〵しぼる袖袂の次ぎ『いつまでいふても返へらぬくり言』となり、これから、此の段の最も聴き所ともいふべき御約束の『必らず木の根につまづいて』や『姉様汐にさそはれて流れてばしたまはるな』を充分に、姿へだつる春霞--で、恰と二十七八分の丁場にこしらへたものであつた。よくも切り刻ンだやうに飛ばしたり前後させたり、物語りの筋など絶対に判らず、唯だ、子供二人が、悲しい情ない、といふだけの三十分であつた訳。大体を評すれば、伊達氏近頃、浄瑠璃に巾が出来て来た事をフアン御一同と共に喜びたいとおもふ。此の上は……だ、更らに大いに精進上達されんことを望んで止まない。此の浄瑠璃などでも、奥州五十四郡の主、判官様の忘れがたみ……としての品位が出ない、又た対王はよいとして、安寿姫が、老けて母親のやうに聴こえたのは困つた。一ト工夫あるべきである。
 
太棹 122
 
大阪女義 〔十二月三日〕 [1940.12.3]
 伊賀越道中双六 =岡崎雪降の段
弾語り 竹本小仙
 斯う言つては、御本人気に入らぬかも知らぬが、例によりて、堂々たる古靱張り、一点の非の打ちどころも無いやうな出来に聴いたので、我等フアンに取つて此のやうな喜ばしい事はない。--なにそんな変な評ツてあるかい--と叱るやうな声も聴こえて微笑ましい。先づ、最初の『早や九つの、かね、てより』や『あた、ふた押しあけ忍び込み』などの、カケ詞も心して、更らに、この紙二三枚『透きもありせずバラ〳〵〳〵』から『腕を廻はせ』や『捕つたとかゝるを引ツ外し』や、 の捕手を合手『ゑのころ投げ』などで仮名の鮮明に判るやうに語る人がサウ、ザラにあるものぢやない。意気ばかり過ぎるから、何を言ふやら判らないのが多い、わが小仙さんのはそれが鮮やかに判るのである。これだけでも、もうあとは唯だ感にたえて聴いてゐればよいのである。『身にとつて覚えぬ難題』や『ムヽお別れ申して十年ンなまり、相好は変られしが』など、古ウツフアンの声帯が自然に模写されてをり、それから『未熟の師匠と見限りしか、家出致して十五年』や、ずツと先きの『ハアテ、壁に耳ある世の諺』や『迂闊にそれと明かされぬ』などの言ひ廻しの巧さ驚くばかりである。『歩きを先きに幸兵衛は……』で時間が来た。をしかつた〳〵。
 
文楽中継 〔十二月九日〕 [1940.12.9]
 摂州合邦辻 =合邦庵室の段
竹本津太夫 中途代り ??
絃 鶴沢寛治郎
 前半、納戸までは、駒太夫の持場で『こそは入月の……』と俊徳と浅香姫の出からであつて、先づBKアナウンサーの簡単な解説があり、次に、例の古風な嬉しい文楽特式の口上に続けて津太夫甚だしく音声を痛めをる旨の口上があり、語り出し聴き入る中に、なるほど、相当難声の、シカモ、いつもと違ふサモ苦しげな息使ひさへ聴こえて来る『気をせく折しもかけ出る玉手……』と、早くも此の段のクライマツクスに近づいて来る。『飛びかゝつて俊徳の……』や『怒る目元は薄紅梅』など、かなりの馬力でまだなか〳〵津太夫弱らぬナと思はせてゐたが、その中に『エヽ情ない母上を手にかけしかと御涙』のあたり、大層楽な、稍や、綺麗な声が出る、アレ、何か薬でも呑んだのかナ、と思ふ中、馬力もかゝれば、声も楽だ。それはいつ代つたか、どこで下りたか、実、全くの巧妙に替玉が登壇してゐたのであつた。変な処で、見物が掌を叩くな、とおもつたアノ時であつたらう、とはズツと後に考へた事であつた。中々巧い、津太夫よりよいかも知れぬ、とおもふ処もある、ズツと奥の手負は声を振り上げて、サア〳〵とゝ様コレ此の鳩尾を切りさいて……』など恐ろしく元気過ぎて、アノ重傷の女性とはおもへぬ処などもあつたが、とにかく、立派な「合邦」を聴かせてくれた。アトで判つたがこの替へ玉は、文字太夫であつたのである。絃の寛治郎はズツと弾き通したのであつた、段切近き例の『平等利益、東門中心極楽へ……』のあたり、大骨折の大出来であつた。
 今は昔になる、三代目柳家小さんと、後に二代目円朝になつた先代の円右が、落語研究会で、十八番物の小言幸兵荷と唐茄子屋を交換して演じた事があつたが、フアンの期待を裏切つて、確かに両方とも面白い出来では無かつた。それを今、文楽で古靱が沼津、津太夫が合邦と、各得意の演題を取替へたのであつたが、果して面白かつたであらうか、津太夫の病体と、聴かぬ古靱では我等何とも評の仕やうが無いといふ事になつた。
 
大阪女義〔十二月十三日〕 [1940.12.13]
 仮名手本忠臣蔵 =天河屋の段
天河屋義平 豊竹団司 女房おその 竹本雛駒 矢間重太郎・丁稚伊吾 竹本綱龍 大鷲文吾 竹本鶴栄 大星由良之助 豊竹此助
絃 豊沢小住
 赤穗義士討入の前夜、とあつて、忠臣蔵の十段目放送は、BKの御趣向といふ訳だが、さて名優ぞろひの歌舞伎でも、近来はトント上演されぬほど、おもしろいものでないから、お上るりでは、誠に早や、寧ろ困つたものゝやうで、我等当夜は、殊に少しくゴタ〳〵した場所で聴いたので、唯だ雛駒さんのおそのゝクドキや、綱龍さんの伊五の阿呆振りに、少しく興味を有つたのみで、お時間が経つてしまつたやうな次第であつた。中には急稽古をしてお間に合せたのや何かもあつた事なるべく、皆様御苦労様と申上げておく。
 
東京素義 〔十二月十七日〕 [1940.12.17]
 伊賀越道中双六 =郡山屋敷の段
高瀬操
絃 野沢道之助
 テストで当選した所謂新人としての高瀬操氏である。たしか当選は二回目とおもふが、とにかく、東京の素義界では、横綱格で、本場所東都五十義会の審査員であり、シカモ其義太夫は素人離れのした技芸の持主で、又たその語り物も相応の数があり、本誌の読者諸氏には、先刻御馴染の方、今更試験を受けて放送するなんて、少々おかしい位のものである。当夜の演題は伊賀越の五段目、俗にいふ饅頭娘の段である。私は此の上るりでは例のイキリ立ツて来た五右衛門が、政右衛門を手痛く面罵する、それが後に、殆んど声を放つて泣き出して了ふ最後の対照にいつも興味を持つて聴くのであるが、今日は、その前の手剛い方の五右衛門が省略されてゐたのでガツカリしたのである。それから、所謂饅頭娘のくだんから、花嫁にシシやつて寝かしてやれのあたり、作者のユーモアが、どうも完全に出ず、頗る生真面目なものになつたのを遺憾とする、外、結構な演出であつたやうである。素義の連中で、この五段目を聴かせて呉れた人に、ズツと前、猿平さんの青山翠谷氏、猿之助さんの福勝さんがあり、近くは猿之助さんの、伊藤松鶴氏を聴いた。私の好きなこの五右衛門の好かつたのは、今はどこぞへ雲隠れしてゐる三太郎氏のが、大分前だがはツきりと印象に残つてゐる。
 
東京女義 〔十二月十九日〕 [1940.12.19]
 奥州安達原 =袖萩祭文の段
竹本越駒
絃 鶴沢紋教
 御両人は、東都因会女子部でも、相当古顔の久しいコンビであつて、放送でも好い加減お馴染であるが、此のところマイクは暫らく振りのやうである。「安達」は近頃やゝ頻繁に現はれる語り物のやうだが、女義では恰好のものではあり、又語り栄えのするものであつて、この御両人にも批難の加ふべきものもなかつた。袖萩お君の出に於ても、哀れ気が足らぬなどといふ贅沢は先づ取置いて、祭文のくだりも厳格に言へばだが、一応うなづける程度には語られたし、又た浜夕も中々馬力がかゝつてゐてよろしい。宗任の出の前『見返り〳〵』までゞ了つた。
 
東都新人〔十二月廿七日〕 [1940.12.27]
 蝶花形名歌島台 =小坂部館の段
高田トラ
絃 高田松子
 何だか二三年前から八十になると聞いてゐるので、もう年の勘定など分らなくなつて了つた高齢者、シカモ矍鑠壮者を凌いで、放送局へ行つて、あんな大きな声を出す高田おとらさん。実に大したものであつて、そしてそれが新人でも何でもないのである。我等は彼女が、銀杏返しを振り乱して見台に延び上つてゐた阿波から出て来た小虎さんを知つてゐるのである、立派な商売人の、真打であつたものだ。三味線の松子さんは、その愛嬢で此の方は山田のお琴の方が本職かも知れぬ、器用で太棹を弾くズブの素人なのである。
 さて当夜の「蝶八」昔取つた杵柄の少しの衰へをも見せぬ頑畳振り唯だ〳〵驚くばかりであつて、それでゐて、上るりに露ほどのケレンもなく、二人子役はもとより、クドキの間など、高い処へ好い声を届かせる豪さ、一百三十六地獄……など、感々服々の出かし振りであつた。八十を越してこの元気、まことに以てめでたし〳〵。
 
東京女義 〔十二月廿九日〕 [1940.12.29]
 菅原伝授手習鑑 =寺子屋の段
竹本駒若
絃 鶴沢三生
 昭和十五年最後の日曜日の午後である。長唄、清元、常盤津、箏曲とあつてそのトメを承はつた浅草の女親分駒若さんの寺子屋の奥、『夫婦は門の戸……』からである。中々好く咽が廻はつて、聴き耳を立てさせる『持つべきものは子なるとは……』のあたり頗る好かつた。それから我等の気に入つたのは、源蔵夫婦の愁ひのよく利いてゐた事である。寺子屋の奥は源蔵が泣かなくてはいけない。いろはおくりも器用にこなされた。結構々々。
 
太棹 123
 
文楽紋下 〔一月一日〕 [1941.1.1]
 娘景清八島日記 =日向島の段
竹本津太夫
絃 鶴沢寛治郎
 お正月の豪華版に、津太夫の『日向島』が電波にのせられた。津太夫のこの娘景清は、一昨年の正月、九年振りとか十年振りとかいつて放送され、尚ほ同じ年、東京へ出開帳の時にも上演して、一部の浄曲通を喜ばした得意の津太夫氏には持て来いの語り物である。一昨年放送の時の絃は綱造氏で、東京引越の時は、重造氏であり、今度は近頃相三味線に抜擢された寛治郎氏であつた。無論綱造氏の力量に及ふべくもないが、寛氏亦た大に慎重努力して、大過なく聴かせたやうであつた。由来此の曲は、近世では、先代大隅太夫極め付の語り物で、豪快無比の景清を演出してゐたといふが、我が津太夫氏は又た別の境地から、この盲目の豪傑が、悲痛の苦衷を、さながらに展開して遺憾なく、更らに娘糸瀧に対する父性愛をもうなづかする最後の叫喚に至るまで、当代又となき、好演技と推賞せざるを得ないものである。景清の完璧は元より、彼の難声を以てして、よく可憐の糸瀧を髣髴せしめ、更らに、世話物に独自の妙技を有つてゐる津太夫氏は、佐次太夫に於て、他の企及し能はざるものを感嘆せしめたのであつた。
 
文楽中堅 〔一月十四日〕 [1941.1.14]
 彦山権現誓助剣 =瓢箪棚の段
豊竹呂太夫
絃 豊沢仙糸 ツレ弾 鶴沢叶太郎
 瓢箪棚は、毛谷村の七ツ目で、おそのの流浪を主に取扱つてあるが、放送は勿論初めてゞ、通し狂言で出なければ、滅多に見られぬ、聴かれぬ珍らしいものである。昨年か*、文楽の引越興行の時、古靱氏が六助内を、その前の墓所を大隅氏が(大層好評を博した)その前がこの瓢箪棚で、その時、呂太夫氏が、それを語つてゐたかどうか、どうしても想ひ出せぬ(尤も聴かなかつたからではある)今度、この放送の当夜、生憎来客があつて、スヰツチを入れは入れたが、今はつきりその印象が残つてゐない。しつかりした呂太夫氏の声だけは確かだが、こゝにこれを取上げて、とやかう言ふことの出来ぬのを遺憾とし、読者諸彦に対しても、金王丸甚だ申訳の無い気が致す事である。
 
【*39.6.5-6.8 明治座 杉坂墓所 津磨=新太郎大隅=広助 六助住家 呂=寛治郎古靱=清六】
 
東京素義 〔一月十七日〕 [1941.1.17]
 敵討襤褸錦 =大晏寺の段
和田春和
絃 鶴沢絃平
 歌舞伎では、先代の仁左衛門と故人になつた雁治郎の二人が東京で見せて呉れた襤褸錦、浄曲では、我等大家のを聴いてゐない。放送では東京の米太夫がある。素義では、名古屋の加藤兜君がある。今度、我が春和さんが、所謂新人として試験を経てマイクの前に坐つた訳である。春和さんは、五十義会で夙に大関の地位を獲得した人、香伯老に大分痛めつけられてやつた玉三であつたと記憶するが、其後故粂造氏及び絃平氏などで、東都素義中老会を牛耳つて活躍し、本誌の読者諸氏にはお馴染の深い人である。春和さんの大晏寺はどこで出来たものか知らぬが、詞と貫禄で聴かせる訳だが、当日は昼間の〇時五分からと、時間の短かい為め、充分に堪能するだけ語れなかつた所謂損の卦に属したものであつた。
 
文楽巨頭 〔一月廿五日〕 [1941.1.25]
 恋女房染分手綱 =重ノ井子別れの段
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六
 毎一回定期的に放送しやうといふ『義太夫名曲選』の第一回に選まれたものが、この古靱氏の重の井であつた。俗に『恋十』と言はれる上るりで、根本は大近松の『丹波与作』から出たものだけに、作もよい、又た曲もよく出来てゐて、歌舞伎でも、此の十段目は一幕物にして常に賞用されてゐる。劈頭に、近松研究に名ある木谷蓬吟氏の解説があり、さすがに簡明なもので誰れにもよく解つてシカモ力あるものであつた。さて、古靱氏の重の井は我等実は初耳であつたのだが、実に申分のない結構なものと傾聴した『傍の衆にはやされて……』の語り出しから直ちに由留木家の客殿模様が鮮やかに、重の井の襠姿の品位十二分に、三吉のいぢらしい中に、肯かぬ気の武士の胤といふ情合も滲み出る。因果を含める物語のところで『すれつもつれつ、一夜が二夜と度重なり……』などいふ文句を抜いたのも、当然過ぎるほど当然であり、元来こんな文句は小供に対する説明であつて初めからあるのがイカヌものである。『お乳の人よお局よと、玉の輿に乗つたとて』など、絶妙であり、不憫や三吉しく〳〵涙……になつてからの結構さ『母でも子でもないならば……』の辺、どうする〳〵である。最後の『坂は照る〳〵……』は三吉の諷ふとすれば、少々困り物であつたが、この段切辺の絃の清六氏の妙腕を推賞せずには居られなかつた。
 
大阪女義 〔一月廿八日〕 [1941.1.28]
 傾城阿波鳴門 =順礼歌の段
竹本綾助
絃 豊沢小住
 綾助といふ人は、ラヂオでは久し振りのやうである。一昨年の春頃*であつたか「吉野山」が出て静を勤めたのが幽かに記憶にある。その時の忠信は、清糸といふ人とおぼえる、忠信は中々立派だつたやうで、静の綾助嬢も、すんなりとした美声を聴かせたやうだつた。今日の鳴門も無論前半のお約束のところだけで、子役もそれらしくいぢらしい出来で、言ふ事はないとおもつた。絃の小住さんは唯だ楽々と弾きまくつてゐた。
 
【* 36.4.12】
 
大阪女義 〔一月卅一日〕 [1941.1.31]
 さはり二題 =寺子屋と朝顔
竹本三蝶
絃 豊沢仙平 BKがよく用ゐる「さはり」である。寺子屋は千代のクドキをちよつと聴かせて、直ぐに「御台若君」となつてイロハ送りを充分に?朝顔は大井川の又起き上り見えぬ眼に-から段切まで、これ亦充分に声張り上げて、手を叩かせる-放送では、その手の音は聴こえなかつたが……アハヽヽ評には及ばぬ品物である。
 
太棹 124
 
文楽古老 〔二月十六日〕 [1941.2.16]
 伽羅先代萩 =御殿の段
〃義太夫名曲選第二回〃
豊竹駒太夫
絃 鶴沢清二郎
 名曲選の第二回目に選ばれたのが今夜の御殿であつた。先づ木谷蓬吟氏の簡明な解説がある。続いて文楽特有の口上触れがある。我が駒さんは直ちに政岡を語り出した。どうも開き直つて、義太夫の批評をする事の出来ない金王丸は、駒さんが好きなんで、間違つたのも良く聴こえるかも知れない。先づ、冒頭の『ほんにさツきに沖の井殿、若へ御膳をさし上げられし時、かねて乳母が申した事、お聴きれ遊ばして、ようマアお上り遊ばさなんだなア、それでこそ此の乳母が……』といふ処、歌右衛門の品位こそ無けれ、故人梅幸どころをしツかりと押へて殊に、その『それでこそ此の乳母が…』が、にこ〳〵と笑顔を綻ばして喜びたゝえる、それがまざ〳〵と眼に見えて、この処、これまで続いた誰れものよりは傑作の政岡である、と敬服推讃するのであつた。お末が業をしがらきや、から、骨も砕くる思ひなりで、直ぐ栄御前のお入りに飛んだのは、時間の関係である。だから千松の聴かせどころたる軒端の竹に飛びかはす以下の雀の唄は勿論、政岡の、日本国の其の中に、や、鶴喜代の稚なけれども天然に、や何か聴きたい所総て預りだが、鶴喜代に権威を持たせやうとした為めか、その詞が、ともすればイカツ過ぎ、大人にならうとする虞れがあつたのを遺憾に聴いた。後の政岡や、八汐もやゝ平凡にすまされたが、栄御前が素晴らしい処を発揮して『年頃仕込みしそなたの願望、成就して嘸ぞ悦び-の栄御前が独りのみ込み政岡への詞のあたり、感嘆之を久しうした位であつた。イヤコチの駒はん、エライ〳〵。名曲選光彩を放つたといふべきである。
 
文楽中堅 〔二月十九日〕 [1941.2.19]
 義士外伝 =神崎東下りの段
馬方丑五郎 竹本相生太夫 神崎与五郎 豊竹雛太夫 瀬古六太夫 豊竹辰太夫 講釈師 竹本播路太夫 茶店の婆 豊竹千駒太夫
絃 野沢吉五郎 ツレ 鶴沢清友
 たとへ其の作詞が、丁東誌庵先生(○○○○氏)の御作であるにもせよ、その作曲が、文楽三絃の紋下といはれる友次郎師のお骨折(御道楽とは申さぬ)であるにもせよ、その主役が、東京出身の江戸弁がちよつと操つれる所の相生太夫君であるにもせよ、です。嘗ての初演の時にも、たしか、思ひ切つて毒づいたやうに覚えてゐることほど左様に、口語りのタレ達のさはりを聴くほどにも真面目に扱かへぬ我等は、何と、天邪鬼でござるぞよである。漫才なら漫才でよい、浪花節なら浪花節でよい、そのつもりで聴き、又たそれ相応に聴きごたへもするものである。クヤシクモ、文楽一座を動員して、一度ならず二度までも、こんなものを聴かせられては堪らぬことである。救けて呉れである。
 
大阪女義 〔三月四日〕 [1941.3.4]
 近頃河原の達引 =堀川の段
母親 竹本三蝶 お俊 竹本雛昇 伝兵衛 豊竹昇鶴 与次郎 竹本清糸
絃 豊沢仙平 ツレ 豊沢清芳
 都市放送*でのカケ合義太夫である。先づ大阪女子因会の若手のソー〳〵たる嬢さん達である。シカモ適材適所の配役であらう。三蝶さんのノツケの鳥辺山、先づ〳〵といふ所でせう。お鶴は立つて…から与次郎の出、それをズツと飛ばして『頃しも師走十五夜の、月は冴ゆれど胸の闇……』と伝兵衛の出になつたのだから、母親の『寝られぬまゝの物案じ…』あたり、それからお俊の例の書置きのくだりが無いので、実は理窟も判らず、又た我等の聴きたいとおもふ所が無くなつたを残念におもつた。昇鶴さんの伝兵衛は言ふ事もない。雛昇さんのお俊の例のまつてました、のそりや聞えませぬ…もまア〳〵結構に聴こえました事であり、清糸さんの与次郎も、失礼ながら、思つたよりは調子も出るし、歯切れも可かつたといへる。仙平さんの絃も、文句なし『名を絵草紙に聖護院…』までピタリと弾きまくられてめでたし〳〵。
【*1939年7月1日から第一放送を全国放送、第二放送を都市放送と改称】
 
東京女義 〔三月七日〕 [1941.3.7]
 伊賀越道中双六 =沼津の段
弾語り 竹本素女 胡弓 鶴沢好造
 何といふても、東京では素女さんは豪い。年一回一日とはいへ、アノ歌舞伎の大殿堂を一ぱいにする女義太夫は他には無い。今度大阪から団司小住外二組の人気者を聘び上げての事とはいへ、むしろ、それも素女さんの豪いところを追加する事になるのである。アレ〳〵、これは放送には何の関係も無い事の、イヤ病中の我等が錯覚をさらけ出した訳になる御免下さい。サテ、この「沼津」であるが、無論時間の関係で『お米はひとり…』から、千本松原の段切りまでゞあつたが相替らずの弾語りも達者なもので、さはりの『其のみつぎに身の廻り、櫛笄まで売払ひ、悲しい金の才覚も…』のあたり頗る結構なものであつたが、我等が特に今夜感じた素女さんの総評としては口捌き、がおもしろくなつた事で「噛む」といふほどでもないが、何とか今一ト息、向うへはつきり出る事を要望したかつた。松原へ来ては十兵衛、平作共に可く『親子一世の会ひはじめのあひ納め…』など特筆讃賛に値する出来であつた。余談のやうだが、平作の臨終に於ける例の胡弓を、此のほど物故した師匠同様の鶴沢司好師の後継者好造君を採用したその心づかひを推賞しておかう、とおもふ。
 
大阪古老〔三月九日〕 [1941.3.9]
 義経千本桜 =道行初音の旅路
静御前 竹本角太夫 忠信 竹本文字太夫
絃 豊沢新左衛門 ツレ 豊沢新造 野沢喜代之助 豊沢新太郎 鶴沢清友 外お囃子連中
 義太夫名曲選の第三回に選ばれたのがこの千本の道行である。例によつて、木谷蓬吟氏の解説がある。忠臣蔵の八段目と、妹脊山の小田巻と、この吉野山とは浄曲三大道行と称されて、この初昔の旅路は、文学的には稍や低下するけれど、劇的には頗る興趣深きものである、と蓬吟氏は説いてゐた。語り手も特に文楽の閣外から、道行太夫とうたはれる美声の角太夫を拉し来つて静御前を、狙ひは外れず、まだ〳〵声には年を取らせない角さん、充分に高い所も発揮して大喝釆だ。忠信は、やがてドロ〳〵の鳴物に連れて文字太夫が現はれる。常に角さんとはコンビであり、又たヒツトも放つやうである。「思ひぞ出づる壇の浦」など、今一ト息強く聴かせて貰ひたかつたのと、稍やイキミ過ぎる難のあつたのは残念である。絃は、名手新左衛門師、弾出しからのおもしろさ、そして、その撥音の美くしさ!ツレ弾連も能く揃つて、この名曲は、唯だ我等をして充分に聞き惚れて楽しませて呉れたものであつた。
 
太棹 125
 
大阪女義〔三月十七日〕 [1941.3.17]
 さわり二題 =合邦と沼津
竹本春駒
絃 豊沢住繁
 BKの例の「さわり」であつて、聴いても聴かんでも……イヤ大衆には、或はこの方が受けるのでがなあらうホンのお慰み。タレとしては稍や難声の春駒女史にさはりを語らせるのはチト罪のやうでもある。たしか昨年、弥作の鎌腹を放送した事があると覚えるが、此の人はむしろ、詞語りではあるまいか。とにもかくにも合邦も沼津も一向おもしろく無かつたやうだ。娘は涙押しぬぐひ、門の戸口に口を寄せ……からの合邦で、咽の調子が整はぬ中に、例の『お憎くしみは御尤』など、外れざるを得ないらしい。玉手の『親のお慈悲と手を合はせ』は、ちよつと味を聴かせた。沼津は『十兵衛は気の毒顔……』からで、ちよつと詞があつたので外れる心配も無くさはりに進んだが、お約束の『櫛笄……』のあたり、何だかあアでは無かつたやうにもおもはれて、………(をはり)
 
文楽中堅 〔三月廿七日〕 [1941.3.27]
 ひらがな盛衰記 =逆櫓の段
竹本織太夫
絃 竹沢団六
 四月は東京へ来て、猿之助一派の歌舞伎の床へ、無人の文楽座に失敬をする織太夫、行きがけの駄賃挊きとも見えるこの放送、本場では容易に語らせて呉れぬ大物の逆櫓の一段、我等もこの人のこれは初耳の、楽しみにしてスヰツチを入れた。『数書くお筆が身の行方……』の出から、案外といふてもよい一段の中で、お筆が可かつた。権四郎が゜『わるさよ、我が内を忘れたか、何故這入らぬ……』に答へて『いや門にではござんせぬ』の一語が非常に可く、槌松と若君を取ちがへた其夜の物語りが又た判然とわかつて可い。権四郎も『此方の子をいたはつて貰ふかはり、大抵大事にかけたと思ふかい……』の大泣になるまでの『笈摺に書いたせんもない、是が何の二世安楽』がおもしろく『夫知らぬまんざらの賎しい人でもなさゝうな』が巧く、松右衛門が出てから、例の『なぜ致すまい、さア夫れはとは、ヱヽ水臭い云々のところの権四郎が又た非常に可かつた。前にお筆の出来を案外と云つたが松右衛門の樋口になつてからが、又た案外堂々とせず、今一ト息大きく行きたかつた『最前よりの物語、障子越しに聞くに付け、見れば見るほど面やつれ給へども……』のあたり、我等が聴うとおもつた期待に少し遠かつた恨みがあつた。時間の都合『お筆は別れ出てゝゆく……』で了つてしまつた。全体としては、充分柄にあり、将来立派に自分のものとしてやれる逆櫓であるが、この放送だけの出来から言へば、まだ〳〵研究、練磨の余地があり、所謂コナレが足らぬと言へるものであつたとおもふが、好きな織太夫、一夜を楽しませて呉れたものであつた。
 
東京元老 〔四月?日〕 [1941.4.17]
 艶容女舞衣 =酒屋の段
竹本米翁
絃 鶴沢紋左衛門
 しきりに病体を伝へられ、又た頻繁に転居を報ぜらるゝ米翁師、近頃大に健康を恢復して、稽古にも努めらるゝと聞く中に、今夜、久振りに放送とある。およそどんなものでも心得てをられる老師、酒屋の一曲、先づ宗岸とお園の出から、落ちついた語り口、世話物としては有り過ぎるほどの品位を備へ、おそのはたしかに結構だが、宗岸が、動もすれば母親と同じ調子になるのは少々困つた。半兵衛は、底を割るほどでない肚を聞かせたのはうなづかれ、どうかとおもつた持病の咳も至極あつさりと、それは本格的のサハリまでゞ時間一パイ、紋左衛門師の絃は馴れたものである。ちよつと聴きながら思ひ付いた事であるが、津賀太夫時代に作曲された新曲を、時折持ち出して聴かせて呉れたらと……さし詰、木村長門の血判取など、当節柄のラジオには打てつけのものである。
 
大阪女義 〔四月廿五日〕 [1941.4.25]
 さわり二題 =陣屋と鈴ケ森
豊竹昇鶴
絃 豊沢清芳
 又たBKのさはりである。尤も女義などはこんな所がよいのかも知れぬ。第一は熊谷陣屋と大きく出たが『義経席に着き玉ひ……』出から首実験の一トくさり、なるほど、ちよつと相模の『あいとばかりに女房が……』の、さはりらしいものを聴かせる『うなづくやうにおもはれて……』などヤンヤ〳〵である。泣く音血を吐くで、陣屋が切れたかとおもふと直ぐに『お駒は顔をふり上げて……』と、昔八丈の鈴ケ森に舞台は廻る。これこそタレギタ独得?のさはりであつて、どうする〳〵と来る処『濡れぬ袂は--おーン無かりけり』で終りツ。
 
文楽中堅 〔四月廿九日〕 [1941.4.29]
 本朝廿四孝 =御殿より狐火まで
竹本南部太夫
絃 鶴沢重造 琴ツレ 鶴沢綱延
 所定の短時間に『御殿より狐火まで』はどう前をカツトするかと思つてゐると冒頭[ノツケ]が『父謙信の声として』だつた。これでも御殿には相違ない。たしか、昨年も此の人だつたと覚えるが『宿屋より大井川まで』とあつて、宿屋は、深雪の二度目の出からであつた、それは余談だがさてその御殿の『更科なんどの譜代の郎党』あたり、ノリ地の所も、三味線との間もヘンで、何かお素人の浄るりを聴いてゐるやうであつたが、奥へ行つて『とんで行きたい、知らせたい』の辺はまだ何か、乗つて来ないやうに聴かれたが、『兜を取て押しいたゞき』から『うつる月影怪しき姿』へ来て、凄気といふか、鬼気といふか、頗る上等、漸くにして我が南部さんが立直つた、とおもふと、やがてをしまひ、であつた。重造さんの絃はたしかなもので、綱延さんの琴とつれ弾きで出した此の一段とも言へる。
 
太棹 126
 
大阪女義 〔五月二日〕 [1941.5.2]
 楠昔噺 =碪拍子の段
弾語り 竹本小仙
 『むかし〳〵…』と呼びかけるやうに語り出した。例によつて弾語りである。徳太夫の内は、津太夫によつて放送され、この碪拍子--どんぶりこで有名な--は、たしか先年錣太夫がマイクにかけたやうな気がするもの、中々、達者な芸の人でなければ、おもしろく聴かされぬものである。さて我れ等の小仙さんは、『柴よりは腰打つ音が』のあたりもよく、爺と媼との、仲のよい二人の笑ひを、克明に、頗る念入りに、それが相当鮮やかに出来たのは豪い、道行く人の戦さ物語りの『雁のわたるやうに』が、少し突飛な大声を出したほか、二度目の落武者の戦ばなしの三枚目も大層おもしろく、雀と橘の老夫婦のいさかひも、真剣の中に情が籠つて結構だつた。地色の音調に、例の古靱さんがちよい〳〵出てほゝゑませ『腹立ちまぎれ、日の暮れまぎれ、むしやくしや腹の……』まで、可なり愉しませて呉れた。
 
東京女義 〔五月六日〕 [1941.5.6]
 増補生写朝顔話 =宿屋の段
竹本佳照
絃 鶴沢清一 琴 豊沢松四郎
 珍らしくも無いが、アナウンサーが、生写(しやううつし)朝顔話、とやつたのは先づ噴き出させられた。よく、佳照(かてるさん)清一(きよいちさん)などと言はなかつた事とおもふ。テン〳〵〳〵と弾き出した撥音は冴えてゐた。丁寧にオクリをつけて「何国にも暫しは旅と綴りけん」と語り出した佳照さん、しばらくは調子の安定が取れなかつたやうだつたが、やがて立直つて、徳右衛門の朝顔の不仕合せを物語る工合も克明で、心に犇々こたゆる駒沢も大に苦心らしい。岩代は相当張つて居たやうだが、どうやら思ふ壼に嵌らず、無残なるかな秋月の……と朝顔の出からはコツチのものとばかり、馬力もかゝり、焦るゝ夫のあるぞとも、から、涙に曇る爪調べ、など大によろしい。『露の干ぬ間』の琴唄の声なり調子なりが、次の身の上ばなしの、さはりと同じ声なり調子であつたやうなのは、少し考慮を願ひたく、多少なりともカン高く、めくら声にまでならずとも、女の琴唄らしく聴かせる必要があるとおもふ。さはりでは、「偶々逢ひは逢ひながら」や「美濃尾張さへ定めなく」あたり、女義式ながら大に受ける、『短かい契り』を『逢瀬』と改めてゐたが同じ事だらう。最初の語り出しの『つれ〴〵詑る仮の宿』を『詫る』と語つたが、これは『ぶ』が可からうとおもふ。『声をしのびて歎きける』でをはり。清一さんの絃、無論結構だが、チトかけ声がうるさく耳について困つた、殊に琴唄の間、アー、アーアーと同じやうに、間断なくやつてゐたが、アヽいふものでせうか、と疑はしかつた。松四郎氏の琴、楽なもので御苦労様ツ。
 
文楽中継 〔五月十日〕 [1941.5.10]
 関取千両幟 =猪名川内の段
おとわ 豊竹呂太夫 猪名川 駒若太夫改メ豊竹司太夫 鉄ケ嶽 竹本織太夫 大阪屋 竹本播路太夫 呼遣ひ 豊竹千駒太夫
絃 豊沢仙糸 胡弓 野沢龍市
文楽座五月興行の中継放送である。降つて湧くやうな浄曲殿堂の異変凶事は、遂にこの放送の日、我等の耳に伝はつた紋下津太夫の他界であつた。一座の愁傷はもとより、聴者の多数浄曲フアンも、感慨無量のものがあり、中堅若手の発奮勉励を望むの外はない。されば、先月は津の子の浜太夫、今月は駒若の司太夫、改名を披露して大に後進の抜てきといふ事になる。此の千両幟も、司太夫の為めに企画された一段らしく、御覧の通りの配役である。先づ文楽独特の口上触れがあつて『芝居は南、米市は北、相撲と能の常舞台』とお約束の置上るり、弾出しの仙糸師の撥のおもしろさ、直ぐ『町中の贔負に肩も猪名川が……』と力士二人の出になるが、悲しい事には織さんの鉄ケ嶽の堂々と立派を極めるに対し、猪名川関の影の薄いは此の一段の悲劇の為めか、呂太夫氏のおとわも結構角力取の世話女房にはなつてゐたが、肝心のくどきの中も、仙糸の絃の妙技に喰はれて、今一ト息パツとせぬものゝあつたは、我等の僻が耳であるかも知れぬ。後の司太夫の猪名川が『もしもゆかねば絶対絶命、これが暇乞ひにならうも知れぬ』……云々のじツと持たせる言ひ廻しの、悲痛の感じの薄かつた事を遺憾とする。お師匠番?仙糸師の鞭達を望んでやまぬ。
 
東京女義〔五月十五日〕 [1941.5.15]
 壼坂霊験記 =沢市内より壼坂寺の段=
弾語り 竹本素女
 東都女義界の御ン大である。断乎弾語りを固守しての出演、愚作であり名曲であるといふ壷坂を提げて……とにもかくにも聴かねばならぬ我等の職域奉公であつたにも拘はらず、どうにも都合の悪い外出時にぶつかつて、出先きで聴くべき便宜もなく、時計をにらめて遂にその侭…誠に申訳もない次第、決して悪からう筈のない此の人、此の語り物!
 
東京床語〔五月廿二日〕 [1941.5.22]
 絵本太功記 =尼ケ崎の段
竹本鏡太夫
絃 鶴沢市作
 歌舞伎座のチヨボ床へ上つて、遙かに西文楽の巨星異変を考ふる時、感慨一しほであらう処の鏡太夫君、暫らく振りに太十を放送した。堂々たるものである。そして、先づ十次郎が大層好い。さこそなげかんふびんやと、など大に可く、二世も三世も、は平凡のやうだつたが『なさけない』はかなりに味を聴かせた。初菊も存外(失礼)可愛らしく、どう急かるゝものぞいな、など中々結構だつた。体躯の生理的に声帯の工合からか、彼の織太夫に聴く如く、古靱太夫その侭の音づかひにほゝゑませる『門出をいはふのしこんぶ』や『察しやつたる十次郎』や『前後不覚に泣き叫ぶ』など、古うツフアンその侭であつた。夕顔棚の光秀の出、素晴らしく大きいのに対して市作君の撥が、割合に……叩きの利かぬ嫌ひがあり、その代り『ぬき足さし足』のあたりは、よくその風景をゑがき出してゐた。大体に於て鏡太夫氏、所謂足が長いといふものか『唯だ茫、チヨン然たる』で三十五分のお時間一ぱいになつてしまつた。
 
文楽若手 〔五月廿五日〕 [1941.5.25]
 玉藻前曦袂 =道春館の段
竹本源太夫
絃 野沢吉弥
 三段目は源太夫御家の芸である。先代のそれなど未だに耳に残つてその早世が惜まれてならぬ、とにかく先代源太夫歿後、文楽に三段目語りが無くなつたとまで言はれるその後継者である。さて当夜の玉三、多少の期待を以てスヰツチを入れたのだが……初めの紙半枚、先づ金襖の上使受けといふ舞台を現はさねばならぬ大事の処、あまりに朗読、素読のノベツタラで、金藤次の呼びなども、確ツかりしてくれと言ひたいほど、聊かガツカリさせられる。かくと知らせに……と御台の出、この萩の方は、調子もよし、品位も備はつて頗る結構、此の工合なら、と膝を進めて聴き入ると、金藤次がどうも振はぬ。遠慮をするのか、これが本格か、我等は、今一ト息突込んで、語り進んで貰ひたいのであつた。金藤次ばかりでない、桂姫も同様である『死手の晴着とおとゞひが……』など失礼ながらお素人以下の稚拙であり『そら、おそろしい身の冥加』などの間(ま)なども困りものとおもつた。所謂キカセドコロの中で『声くもらせば初花姫』あたりがちよつと出来たとおもはせたゞけ、大奥殿に、うちかけ姿の二人の姫の寿語禄、といふ場面を考へたゞけでも、今少し美くしく、今少し色気-艶-を持たせて語れぬものかとつい毒口を叩きたくなるのであつた。
 
太棹 127
 
大阪女義 〔六月八日〕 [1941.6.8]
 さわり二題 =加々見山と柳
竹本雛駒
絃 豊沢住繁
 又たBKのお得意「さわり二題」かと、新聞をよく見ると、これは昼間の海外放送を、内地のわれ〳〵へお裾分けといふ品物、聴いてもよし、聴かぬでもよし、とは申すものゝ、役目なれば、と折柄の閑ふさげにスウヰツチを入れる。雛駒さんといふのは、我等どうやら初耳らしく、記憶が無い。「第一」は長局の中ほど、影見ゆるまで見送りて……から尾上のくどきを聴かせ、続いて、お初の例のからす啼きから書置きの事、一字も読まず一散に、御門の内へと……までゞ了るのであつた。女義としては平々凡々、最近東京の伊達子改め土佐広の「長局」熱演を聴いた我等を感心させる訳にはゆかず『身も浮くばかりせき上げて、前後不覚に歎きしが』など、チツトも前後不覚になつて居なかつた、アハヽである。次は『柳』の早やしのゝめの街道筋……からキヤリを二つ神妙にうたつて段切りまで、住繁さんが、それでも骨を折つて弾いてゐた。
 
大阪女義 〔六月十四日〕 [1941.6.14]
 日蓮上人御法海 =勘作住家の段
竹本雛昇
絃 豊沢小住
 上方の女義の中でも、中堅か若手か、相当の語り手らしく、放送でもかなりお馴染の多い方である。好い声柄で殊に音づかひに工夫もあり、この勘作など、まづ恰好のだし物であらう。最近では、カケ合の堀川で、たしか、伝兵衛を持つてゐたと覚える『お伝はあとを打見やり……』からの、すぐ勘作の出である。亡霊になつてゐる勘作の詞は、無論難物であるが、ある程度まで落付いてそれらしくうなづける出来であつた。母親が出て、付き歎くので、お伝の『わつさりと打ちうるほうて悦んだがよこざんす……』のあたり、少しく異論もあるが、まア〳〵としておいて、老母の自害は大切りの処を懸命にやつて退けた。勘作の死を知らせに来る庄屋は、ひどく三枚目にならず実体に語られたのもよろしい。愈々本段のクライマツクス『扨も〳〵世の中』のとお伝のクドキ『鵜の咽締めたる報ひなら……』も相当に『波立ち騒ぐ』で終つたのだが、時間の都合とはいへ、此れでは、この浄瑠璃の筋も理窟も一切判らず唯だ『親子婦夫四人の内今日一日に三人』が非業の最後を遂げるといふ悲惨の出来事だけを聴かした事になる。後の日蓮出場、経市救助の結果を何とかしたいものではないか。小住さんの絃、例によつて太夫を威圧するやうに聴こえて確かなものと申すべしか。
 
文楽新星 〔六月十八日〕 [1941.6.18]
 摂州合邦辻 =合邦住家の段
竹本叶太夫
絃 鶴沢寛治郎
 文楽の巨星相踵いでの他界によつて、久しく第一線を退いてゐた叶太夫氏の復活第一声である。六月の文楽座本興行に角太夫氏と一日代りのだし物になつた合邦を、けふは、舞台中継ではなく、特にBKからの放送となつたらしい。摂津大掾系の古強者、どうやら近く春太夫を襲名するといふ噂もあり、文楽の巨星として迎へられる人であつて、浄瑠璃は無論本筋である。そして、尚ほ元気もあり、艶気も失せてはゐないから、将来、しばらくは愉しませて貰へる人である。聊かすんなりとせぬ癖のある語り口で、一般には、取つ付きが悪いかも知れぬが、耳馴れて来たら無論随所に閃き渡る妙音に随喜する信者も出来るであらう。後家になつた津太夫未亡人寛治郎師の再縁で、絃も相当に骨折りを見せるであらう。『しんたる夜の道……』の語り出先づはつきりして、本当の年齢からいふと、やゝ老けたかとおもふ玉手御前も、進むにつれて品位も出、艶気も添うて相当なもの合邦のイキリ立つ例の長ゼリフも気組がはいつて完全である。母親も気あつかひの真実味が充分にあらはれてよく『心のへだて聴き寄りの、真身の誠ぞ哀れなる……』など、頗る古風な語り口でほゝゑませた。玉手の『なほいやまさる恋の淵』もよく、母親の『今更あきれ我子の顔、唯だうちまもる』が、かなり自然に語られる。合邦の刀の鯉口の次の尼法師のくだり、これからは色町風のあたり大に飛ばして『納戸へ』までゝ、三十分の時間は経つた。絃の寛治郎氏は、たしか昨年の暮れに、故津太夫氏で同じ合邦が放送されたやうに覚えてゐるが、叶さんとの初会せに、その感想や如何に、である。
 
太棹 128
 
文楽中継 〔七月十三日〕 [1941.7.13]
 釣女
太郎冠者 竹本相生太夫 大名 竹本南部太夫 美女 竹本津磨太夫 醜女 竹本伊達太夫
絃 野沢吉五郎 鶴沢重造 竹沢団六 野沢吉季 鶴沢清友 野沢勝芳
 歌舞伎の方で、イヤ常盤津の方で、ともかくも名曲になつてゐる釣女を、四五年前に、道八が義太夫に作曲して四つ橋の文楽にかけたもの、その後も幾度か上演されてゐる。今度、新橋演舞場に引越興行とある文楽から、お昼の真ン中にこれを中継放送することになつた。果してどれだけの聴きてがあつたか、筆者は、どうで閑人の、間違ひもなく、四時にスヰツチを入れた。と、東京日々の三周事三宅周太郎氏が、もと謡曲から出て、明治何年に長唄になり、其後何年に黙阿弥が手を入れて歌舞伎の所作事にする、何年に、死んだ勘五郎が、これを踊つて好評だつたとかいふやうな解説を試み、其中に常盤津の方が頗る名曲である処から作曲者道八もひどく困つたといふやうな事があり、何といふても、これは、ノツケから舞台で観る人形の動きに興味の大部分はある筈のもので、中堅どころの熱演もラジオでは甚だ変哲もないものになつてしまつた訳である。所演約四十分、先づ〳〵適材を適所つかつてゐるのであるが、我等が最も気に入らぬものは、狂言詞の何れも拙劣な事である。不器用な俳優共でも近頃は中々巧くなつて来たこの狂言詞、『畏こまつてござる』だの『心得てござる』など、きまり〳〵のアクセントが天でナツチヨランには困つた。そして、それが重苦しくて、軽く行かぬ事は即ち芸がナマな事から来てゐるとしか申されぬ。釣竿の糸を投げる時の『ヱヽイ〳〵』など、特別に大きな声を出して仕草の判はぬラジオでは殊に、剣撃の気合ひのやうに聴えゐ。
 義太夫語りに少し上手な落語を勉強させる必要がある。津磨太夫の美女の高い処の声は気の毒とも何ともはや……。最後にアナ君は『大どかな笑ひを残して、釣女は静かに幕が下りました』といふ。大どかな笑ひといふのは、苦が笑ひの事でがなござらうテ、アハヽ。
 
大阪女義 〔七月二十二日〕 [1941.7.22]
 さわり三題
(1)政岡忠義 豊竹昇鶴 絃 鶴沢東重 (2)野崎村 竹本雛昇 絃 豊沢小住 (3)太十 竹本三蝶 絃 豊沢仙平
 例のさわり集と来た。それでも時間は一ツ十五分見当にして、相当に語り場をやらせてゐた。第一『御殿』は沖の井八汐両人が、奥へはいつて、栄御前の、取りかへ児と思ひ違へて帰る処から、政岡のクドキ、人目なければ愚に返り、の段切りまで、存外といつては失礼だが、栄御前がよく出来て、政岡はまア〳〵一ト通りといふ処だらう。第二『野崎』は、はじめから、久作のやいと灸の条り、引込んで、お染のさわりまで、これも、さすがに、本当の稽古の出来てゐる人とて何れも結構なものだつた。久作のやゝ若いのは是非もなく、久松がはつきり聴こえたのは、寧ろ豪い、とほめやうか。第三『太十』は、入るや月もる、の光秀の出から、操の鏡まで、よい語り場で力の見せ場は充分であらう。光秀の案外小さいのはどうしたものか、婆は普通の出来栄えで、高い処の声も届き、操のクドキは、これは、取り立てゝ賞める処もなく、ケナス箇所も無かつたやうだ。要するに『さわり集』で、情を語つて聴かせるといふやうな野心は、いづれも無からうし、御時間一つぱいに、三絃に乗つて声を出した、といふ事になるのである。絃は、いづれも錚々たる人達で、賞めるまでの事もない。
 
東京女義 〔七月廿六日〕 [1941.7.26]
 加賀見山旧錦絵 =長局の段
伊達子改め 竹本土佐広
絃 鶴沢綱助
 土佐広といふ名を貰つて、披露会を催ほす準備中に、恩師土佐太夫の急死に遭つた伊達子、十三の歳から可愛がられた師匠の慈愛、一時は茫然として世の中が厭やになつたが、気を取直ほして予定通りに盛んなる改名披露を済まし、好コンビと称される綱助と共に、練磨を重ねた『長局』(故人になつた勝鳳師でこしらへたとある)の放送である。そのお初の心境を語る時、恩師土佐太夫を想ふて胸一つぱいになる感情は、自然に演技の上に現はれて、聴衆の胸をも捉らへるこの一段、披露会で聴いた時よりも、その前の試演の時がよかつたもの、それが僅かに三十分の抜き語りではあつたが、我れ等伊達子フアンを充分謹聴せしめたものであつた。『あとに尾上は胸迫り』から『云ひ付けられてもぢ〳〵と、どうやら済まぬ今日の仕だら、不肖々々に……』のあたり、何んでも無い処を巧まぬ巧さ『主の言ひつけを背きやるか』など、キツパリと可く『何ういふ急な御用やら知れぬ事を、さうもなるまい』など、その心持ちがにじみ出て、かいなでの太夫衆にも言へぬ巧味、取つて返しての『えゝ死なしたり、遅かつた〳〵〳〵〳〵』から半狂乱のお初の熱演、義女の其の名を末の世に、まで、声の調子も可なり好調であつた。どちらかと言へば、やはり尾上よりお初の方が可く、古靱太夫師は別として、文楽の男太夫に、これだけ長局の語れる御仁はあるまい、とはチト御贔屓の賞め過ぎになつたらうか、絃の綱助は東京では初放送の、さすがに綱造師の愛弟子なり、伊達子とは久しい仲よしの弾き手の事、堅くもならず頗る結構な撥捌きを聴かせて呉れた。殊にお初が独り語『今日に限つてこのお使ひ……昨日鶴が岡の喧嘩の様子……』云々の間の難かしいあしらひの三味、何ともいへぬ味を弾いてゐたのは、しつかりした稽古の効と敬服した。
 
文楽新顔 〔七月廿八日〕 [1941.7.28]
 増補生写朝顔話 =宿屋より大井川まで
竹本角太夫
絃 豊沢広助 琴 豊沢仙三郎
 道行太夫として、かなり有名な角太夫、放送ではお馴染だが、文楽へ返り咲いてからは初放送であり、演じ物は、美声を要する朝顔で、三味線は腕達者を以て聞ゆる広助である。聴くべし聴かざるべからざる品物と思つた所、生憎当夜は、新橋演舞場に於ける文楽引越興行の最終日前売切符を貯へてをり、且つは古靱太夫の「引窓」と放送の刻限が重なり、更に栄三の十字兵衛が見て置きたく、どうしても抜けて聴く気になれなかつた旨を記して、読者及び角太夫、広助両師に謝罪する外は、ない事になつたのである。
 
太棹 129
 
大阪女義 〔八月十六日〕 [1941.8.16]
 さわり二題 『安達』『鳴門』
豊竹照靱 絃 豊沢清芳
 新聞のプロと順序が変つて、第一に『安達』の袖萩が『もう逢はうとは申しませぬ、お身の難義の其訳を……』から始まつて可愛のものやと老の足見返り〳〵奥へゆく』までゝ十分あまり。祭文を省略したのは寧ろ賢明といへやうか。お君が大層可憐に出来、袖萩の聴かせどころも充分あるが、浜夕の巧拙が、こゝだけでは判らぬ訳であつた。『鳴門』は、愁歎一わたり相済んで『言ひつゝ内へはり箱の、底をさがして豆板の……』あたりから始まつた。それでも、充分クライマツクスの『ま一度顔をと引寄せて』や『名残りをしやと振り返り』やのキカセドコロもあり、お鶴の例の、父母のめぐみも深き粉川寺の御詠歌も美声を発揮して狂気半分々々の『道は親子のわかれ道、あとを』までゝ時間一ぱい、御役目御苦労といふ次第であつた。
 
大阪女義 〔八月二十三日〕 [1941.8.23]
 双葉蝶々曲輪日記 =橋本の段
竹本綾助 絃 豊沢小住
 さき頃の素女会に、団司が病気の為め上京不可能となつた代役として、同じ小住の絃で参加した綾助であり、無論上方でも押しも押されもせぬ顔付けの人であらう。無論、ラジオでは数回聴いてゐる人であるが、この渋い出し物をした綾助小住の放送は、かなり期待してスヰツチを入れたのであつた。折もこそあれ山崎与次兵衛からで、大体落ついた語り口先づ可く『そりや又たなぜでえす〳〵』のなまり言葉など中々味をやり、抜き合はしてカツシ〳〵の斬り合ひも、小住の絃と共におもしろく、やがて甚兵衛が出て、これは大にドスを利かせて、ハツキリと語り分ける、大体三人の老人に盛んに喋舌らせる皮肉のこの難物、故人津太夫でさへ、ともすれば、イヤそれがこの出し物をする味噌ともいふべく、可なり稽古に苦心が払はれてゐる事は、うなづける、吾妻は女義の事なり危なげもなく、その吾妻への甚兵衛が長物語りも骨を折つてゐたのは買へる。現在親に駕籠かゝせ……』など、好い当て場であつた。地合の少ないこの語り物をあしらつてゐた小住の絃は勿論上等である。モ一ツ想ひ出して賞める所は、甚兵衛の苦しい泣きであつた。
 
東京故老 〔八月二十四日〕 [1941.8.24]
 日吉丸稚桜 =駒木山城中の段
竹本米翁
絃 鶴沢紋左衛門
 四月に酒屋を放送してからの米翁師である。たしか、喜寿を迎へて、殊に近年かなりの二豎に冒された師も、最近こと〴〵く元気を恢復して、素義連のお稽古も相当あるとか聞く。されば、今夜の曲目など頗る若返つたもので、『始終聞きゐる五郎助は……』から、例の瑞龍山の峰づたひ、稲田山の間道を説く音声も若々しく、第一竹松の虎之助が、立派に子役になつてゐるのも、あたり前だが豪いと言へる。名智の一声鶴の間を出て来た羽柴筑前も、悪る口を言へば前髪立のやうに若々しい。要するに一調子高く張るとカンになる性来の美声が、時に累をするといふ形ちである。せめて別れににし〳〵と、顔見て死にたい我がつまと……のあたり、これも当り前だが、唯だ振り廻す事に堕せぬ処もさすがである。しぼる袂も雨車軸……の大落しに至つては、又たさすがに争はれぬ御老体を想はせたが、段切りの、でん〳〵太鼓攻めつゞみ、になつて武名は轟く鬼しやぐわん以下紋左衛門師の絃と共に嬉しくなるほど元気であつたはめでたし〳〵。
 
文楽御大 〔八月二十五日〕 [1941.8.25]
 近頃河原の達引 =堀川猿廻しの段
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六 ツレ 竹沢団六
 古靱太夫の「堀川」は、我等には初耳である。前の鳥辺山のお稽古や、与次郎の羊羹饅頭生ざかな、のくだりや、おしゆんにドキ状を書かせる一節を措いて『頃しも師走十五夜……と忍ぶ姿の伝兵衛の出からであつた。例の素ツ頓狂の、白痴に近い、又たがさつ極まる玉蔵の使ふ人形のやうな与次郎でなく、真に朴訥な、妹思ひの、栄三に使つて貰ひたい与次郎になつてゐるのには、さすが、といふも失礼な位、感に堪えながら、聴き泌んで行つたのであつた。どこか淋しい影の付き纏ふ伝兵衛も大に佳く、彼の「探り寄つたる伝べが傍」も、ハツキリ「伝べえ」と延ばし、又た、奥の「何と詞も伝びようえ」と言はずに、『伝べえが』と「が」の字を加へてゐたのも、さすがの部であらう。お俊の大体に於て老けるのは拠ろないが、しかし、当夜は殊に、声の調子がよく、遊女の艶とまではゆかずとも、立派に悲恋の女を活現し『心はさうじやないじやくり』など、危くも外れさうになる処を、得意の音使ひの妙を発揮して、次の詞に移る間の巧さ、お約束の『そりや聞こえませぬ伝兵衛さん』で、殆んど意外といつてよいほどに艶美の咽を聴かせ『命の際にふりすてゝ、女の道が立つものか』のあたり、普通の受けさせでなく、結構なものであつた。更らに母親が無類な出来と言へると思ふ。娘を存分にせうとのたくみ、ハヽハヽそんな嘘は喰ひませぬ』など、ちよつと真似の出来ぬ巧さ『女の道を立て通す娘の手前面目ない』の憂ひも至極。我等ひゐきの小兵吉である。次に、時間の都合もあらう、普通の本文を抜いた処と、嫌つて削つたものと思はれる所を、ちよつと想ひ出すと、先づ、おしゆんを立て出した与次郎の『いふもがた〳〵胴ぶるひ』から、例のその声色おいてくれ』の条りを取る。一通取り出し、こは〴〵ながらの次『傍へより』の五文字を言はず『屑が出るぞ屑が』の後の返しをよした。それから伝兵衛の読む書き置の中に『根をたづぬれば』を取り『おゝ母者人、どうやら風がかはつて来た』の約一枚を刎ねて『ともに覚悟を極めまゐらせ候』から直ぐ『何事も〳〵前世の定まり事』へ飛んだ。それから、猿廻しの中で『ひぞらずに、ほんまにさしてやらんせ』へ続けて『なむし』と言つたのは、我等初耳のやうで、思はず微笑を洩らさせた。清六、団六両師の、お猿はめでたや以下の三味せんのおもしろさ、中でも、起きたら互ひに抱き付きやれ、から、くるりと返つて立つたりな、あたりの撥の音色の愉快さ、解らぬながら、聴き入つたものであつた。『あゝ好い女房ぢやに』をホロり、と古靱さんの泣いたも大に可かつた。要するに、今や文楽紋下を眼の前に、我等は、斯うした生世話物も立派にやつて退ける師の健在を、唯だ悦ぶ外はないのである。
 
太棹 130
 
文楽中継 〔九月八日〕 [1941.9.8]
 双蝶々曲輪日記 =引窓の段
豊竹古靱太夫
絃 鶴沢清六
 先月、放送で「堀川」を聴いたばかり、又た、この引窓は、同じく近く、新橋の日延べ六の替りに感服させられたばかりのもの、今夜は、唯だ、器械を通しての古靱ツあんの引窓はどうかナとおもふばかりで、愉しめる訳だわい、とゆつくりスヰツチを入れたものである。先づ例の文楽独特の口上触れがある、それが、放送を意識してか、特別に声張り上げて、シカモ大層入念なるトザイトーザイーであつたのも嬉しくほゝゑませられた。『人の出世は時知れず』から、声の調子も中々によろしい。『母上、女房ども』でガラリかはつて『唯今帰つた』の侍言葉『両腰させば十字兵衛……』の時代、世話の遣ひ分け、誰れがやつてもさう語るのではあるが、そのイキと鮮明さが違うのである。ずつと聴き込んで行つてやつぱり、渾然珠玉の如き妙技に魅せられる。由来賞讃の語彙に貧困な我等は、何といつてよいかを知らぬほど、圧倒されたのであつた。圧倒された事と、雑用其他に妨げられ、聴いた日から約十日ほど経つて今、原稿紙に向ひ、さて何と書いたら好いか、劇場とちがひ、雑音や、人形や、無神経の見物人などに邪魔をされないだけでも、浄瑠璃としては、直接充分に聴き得た訳であつて、今瞑目して当夜を回想すると、我等の耳には母親、濡髪、十次兵衛、お早の順位に推賞されるのである『かたじけなや、と』の高い所もよく出たし、お早が、母親に気兼ねの、夫への佗言なども、真情溢るゝばかり、例の河内への抜け道を知らするお約束のキヽゼリフで『あゝ、よもやそれへはゆくまい』と軽くかはる巧さ、駆け出す濡髪を抑へて、婆の『罰当りめ』の強意見、何と巧いことぞや、である。『生きられるだけ生きてくれ』や『昼夜と分けるまゝ子ほんの子』あたりの音使ひの妙、母親の『長五郎召捕ツたぞ』のイキ、数へ立てゝ切りはない。終りに、少しの邪魔にもならぬどころか、段切れ近くに及んでの、清六の撥さばき、益すその研鑽の功を加へ来つて、此のコンビこそ、今日では無くてならぬまでになつたを称たへる。
 
東京女義 〔九月十八日〕 [1941.9.18]
 一谷嫩軍記 =熊谷陣屋の段
竹本津太龍
絃 鶴沢清一
 又も女義には大それた陣屋である。聴くまいとまで思つたが、家人が聴くので拠なく耳へはいる。やツぱりおもしろくない、聴いて幾日かの、今、更らに印象に残らない。津太龍といふ人は、一向我等に馴染が無く、恐らく誰れかの改名なのであらう事は、三味線に清一老嬢が当つてゐる事でも察せられるのである。時間の都合で、『軍治はをらぬか……』までゆかず、藤の方のくどきで了つた事などは覚えてゐるが、怪しげな批評は此の次に聴くまで遠慮する事に致さうとおもふ失礼。
 
東京女義 〔九月廿三日〕 [1941.9.23]
 卅三間堂棟由来 =木やりの段
弾語り 竹本素女
 「何やらの夕」といふやうなバラエテーの中に挟まれて、女義の大御所素女さんが、柳の奥を十五分間、ほんのちよつぴりお突合ひをしてゐたのであつた。木やりだけでは、それでも時間が足らぬ処からか、前の『随分親子長生きして、末の栄えを……』あたりから、老母のクドキを少し聴かせて、お約束の『早やしのゝめの街道筋』へ飛んだのである。評無し!
 
文楽中堅 〔十月三日〕 [1941.10.3]
 伊賀越道中双六 =沼津の段
文字太夫改め竹本住太夫
絃 野沢喜代之助 胡弓 野沢勝之助
 文楽も名人が殖える〳〵。文字太夫君は先月住太夫を襲名した。今月は又、叶太夫が春太夫になり、角太夫が重太夫になつた。全く以てえらいこツちや。今夜は、我が住太夫師の初放送であり、その語り物は『沼津』とある。さて出来栄はどうだつたか、少しく名前負け、だしもの負けは仕なかつたか『お米は』からで、少し堅くなりは仕なかつたか、どうやら御連中にお稽古でもしてゐるやうに、こまかい節を一々克明に割つて刻んで、先づ総体に味の無いものゝやうに聴きなされた。それに、時々、唐突な、大きな声を出して脅かされた、例へば、お約束の『櫛笄も』などもそれであつた。又た、こなれぬ節も時折あつた。最初の方で、例の平作の『お米、お米、お米』や『真ツ暗がアリ……』は、あまりに技巧が無さ過ぎた、それから、お米の盗みをした、といふに、驚き方が皆無で、直ぐに大泣きに泣いてしまうのも、どうかとおもふ。重兵衛は年配が老け過ぎて困つた位、尤も奥の松原で、最後の『おやぢ様、平三郎でござります〳〵』あたりは、別人の如く若い声になつて大に聴き直したものである。お米のさはりは、当て気味更らに無く、むしろ結構で『一日暮らしに日をおくる』など大に可かつた。総てサラ〳〵と語り捨てるやうなのには却つて好感が持てる。平作の『子のかはいゝといふ』など真実味が出て最も上乗。『不思議にはじめて会うた人』を殆んど詞でやり『親子一生の会ひはじめ会ひ納め』も先づ及第点であらう。若手三絃、有望者の一人である喜代之助君の上達も認められる、勝之助の胡弓は御苦労。
 
東京古老 〔十月五日〕 [1941.10.5]
 八陣守護城 =政清本城の段
竹本都太夫
絃 鶴沢辰六
 目下築地に興行中の、南北座人形浄瑠璃とのカケ持放送は豪い事である。八陣とは近頃好い見つけもの『二重に建てし思惟の間』先づ充分に重みを持つて、絃と共に失礼ながら存外に期待させられる。主計之助が凛とした若々しさも出来、予て松虫雛衣は、都師天稟の美声に品位を有たせ『不孝のとがにもよも成るまい』や『聞えませぬと娘気に』などヤンヤ〳〵である。あらはれ出でたる数多の鼠のくだり、無法に大騒ぎせず、むしろジツと締めて語られた寸法もさすがである。正清の高笑ひは、師には難物を、どうにかやつてのけ、『おのれ生年十七歳』から『女に迷ふ大馬鹿者』あたり、立派には出来たやうだが、器械の工合か、その中に病苦の呼吸、音づかひの微妙な工夫が聴き取れなかつたのは残念であつた。『離れがたなき女気はあはれにも…』でチヨン。
 
太棹 131 
 
ラジオ浄曲漫評 金王丸
 今月ラジオの義太夫は、十月二十五日 [1941.10.25]]、文太夫の朝顔(絃新左衛門)二十七日 [1941.10.27]の大隅太夫寺子屋(絃清二郎)とだけでしたが、障はる事あつて双方完全に聴取出来ず、為めに今月に限り漫評を休ませて頂きたいとおもひます。識者曰く『どうでもよろしい』おや〳〵。(十月卅日)
 
太棹 132 掲載なし
 
太棹 133
 何年と続けて来た愚稿、漫評も大東亜戦争に会ツちヤア叶はねえ、コヽ姑らく中止、或は廃止にするの已むなきに至つた。その第一理由はラジオが聴き取りにくいからで、第二は甚だツマラヌものと永い間考へてゐた為である。 さらば〳〵  (一六・一二・二五)