FILE 108

【 ラヂオ浄曲漫評 (太棹)】

 
ラヂオ浄曲漫評 金王丸  (太棹連載のうち 1938.6 - 1939.10 分)
太棹 98 99 100 102 104 105 106 107 108 109・10
「金王丸は田中煙亭氏です。」 内山美樹子 十世豊竹若大夫、晩年の奏演をめぐって  注13
  
  
98号 p8-12 1938.8.15発行
 
文楽紋下〔六月一日〕
仮名手本忠臣蔵=山科の段=
  竹本津太夫
絃 鶴澤綱造
 津太夫の九段目である。これは、記憶の好い我等はよく覚えてゐる。昨年文楽一座が東上した時、最終興行に、忠臣蔵を出し、これが都合で七段目の茶屋場までを演じ、山科を出さなかつた為めに、東都浄曲愛好家、津太夫フアンの人々は忠臣蔵を出して九段目を聴かさないのは法にあらず、怪しからんと、騒ぎ出した事があつた。その時に津太夫は、ある贔屓筋に対して陳謝し、実は『本』まで用意して来たのだが、会社の都合でやれなくなつた、来年は必らず御希望に副ひませう、といふ一つ話が残されたほど、当今、浄曲界に於て、九段目を語る太夫は、我が津太夫師にトゞメを刺してゐるのである。−−後に判つたが、その約に違はず七月東上の文楽では、津太夫の山科が出たのであつた−さて、ラヂオでは?時間制限の関係から、奥の本蔵の出より段切りまでを語られた。『笠脱ぎ捨てゝしづ/\と……』あゝ我が津太夫!『案に違はず拙者が首、聟引出に欲しいとな、ムヽヽハヽヽ』の笑ひの大きさ、腹の強さよ。力弥の槍に肌骨を突かれてからの、例の悲痛な物語、主人の欝憤……以下、確かに堪へる。彼の時平の七笑ひ、加藤の毒酒の大笑ひと共に所謂三笑ひと称される難物も、何の苦もなく、充分に津太夫フアンの溜飲を下げさせた。絃の綱造師、例によつて弾きまくり/\、達者な撥音に、太夫とは別々のあたり構はぬ……イヤそれで好いのでもあらうが、翻つておもふ、大体に於て津太夫師もやゝ行留りか、ともすれば詞尻りが下つて、ハツとおもはせる個所が無いでも無かつた事を附加へて置かう。
 
前因会長〔六月七日〕
鎌倉三代記=三浦別れの段=
  竹本津賀太夫
絃 鶴澤紋左衛門
 第二放送の演芸時間は、主として国民精神的の教化に資する材料を撰ぶといふ建前である。さればこそ物語、講談、浪曲、琵琶等々々、何れも艶つぽいものその影をひそめ所謂修養、美談を集められ、中には変哲も無いものまで聴かされる御時世。その見地から−−といふと少し堅過ぎるが、この三代記はどうあらうが、時姫を主とした前半、親に背いて焦がるゝ殿御、果ては父時政を討つて見せうなど、随分以てヒド過ぎる品物ではないだらうか、その実は、戦国のならひとあつて、シカモ佐々木は真田、三浦は重成の変名であるといふ、戦術機略縦横と申せば、やゝ緩和される次第であるが、などゝ我等一応野暮を申しておいて、全くの処、久し振りの津賀さん、頗る期待してスヰツチを入れたのであつた。『されば風雅の歌人は……』から三浦の出、持つて生れた艶は、引退後の今日、なほ少しも衰へず、『ヤア三浦様かと駈寄つて、抱起さんも大男』など水の滴れるやう。『ムヽ思ひも寄らぬ時姫どの』の三浦の詞、思ひものもは不要である。大した事ではないが、是非津賀さんあたりの大家は本文通りに願ひたい。全体、斯うした誤りは津賀さんには多いやうにおもはれてならない。『お寝顔なりと』や『静に/\』や『百筋千筋』など結構な出来、続いて『どうやらつんと』の例の時姫の口説きは無論、『ゆきつ、もどりつ』も大によく『みじかよ』でチヨンは、時間一杯ながら誠に惜しい位であつた。紋左衛門氏の絃は、可もなく不可もなし、と片づけるべきものであつた。言ひ忘れたが、『此城一重破らるゝなら』までの、病母の切言は殊に力がはいつて、満点ものであつた三浦の木村重成で想ひ出したが、金王丸は、往年態々拝聴に出かけた津賀さん自身の節付と承はる、重成血判取といふものがあるが、これなどは、所謂第二放送用として、至極なものであらうとおもふことを附言しておく。
 
文楽頭目〔六月九日〕
蘆屋道満大内鑑=狐別れの段=
  豊竹古靱太夫
絃 鶴澤清六
 我等の古靱、元気の恢復が見えるのは先以て喜ばしい。放送は、昨年忠六の変つた勘平腹切りを聴かせたそれ以来である。今夜は又、師の十八番といつても可い葛の葉の狐別れであつて、ザラには聴かれぬ語り物の、時間も恰度四十五分といふ頃合である。所謂世話時代だから、狐別れは厳として四段目であつて、師の荘重なる音上の語り出し既に頗る我が意を得、庄司の不審に。ムキになつて言訳する保名の真顔も眼に見えるやう。『あそこにも葛の葉、こゝにも葛の葉』のあたり『童子が母はおはさぬか、今帰りしと呼はれば』なども平凡にして平凡ならず葛の葉の『恥かしや浅間しや』から、童子を抱いての身の上述懐、例の尻上りの狐言葉も、大業ならずしてそれになり、それと判つて駈出た保名『たとへ野干の身なりとも物のあはれを知ればとて』以下の畳み込む悲痛の一節、地合としての受け場の少ないを、ジツと締めて充分に段切りまで息をもつがせず、正に結構な上るりであつた。唯だ、絃の清六氏、やゝもすれば弾きはやツて、今一つ語らるべきを、せき立てるやうの個所があつたは、あながち時間の為めとばかりではあるまい、と惜しまるゝ事であつた。
 
大阪女義〔六月十五日〕 
白石噺ー揚屋の段ー
 弾語り 竹本小仙
 白石の揚屋は、勿論女義には恰好の語り物であり、又た、女曾我仇討物語りとしても、所謂国策の線にも副へる放送的浄曲である。語り手は、嘗ても大阪放送局の国宝と言はれた小仙さん、近頃家庭的に恵まれず、聞くが如くんば、第二の夫君と破鏡の嘆に陥り、これからは、愈よ芸道一本槍で進みますと語つたとやら健気にも悲痛な心構へによつて、語り出された宮城野信夫、心から謹聴致した次第である。『歎きの中にも姉はなほ、妹が背を撫でおろし』以下のキキドコロも、今全盛を唄はれる花魁の一種の品位、田舎者とはいへ、純真無垢の信夫の可憐さ、さては、ドツシリと、曾我物語の教訓も、情けの籠る惣六の重み、始んど間然する処なく『便りのないを杖柱、首尾よう年を勤めたら……』など、近頃結構な出来であつた。弾語りは、我等気に入らぬ事事なれど、この位のものなれば、それも達者な撥捌きで先づは堪能されられた。
 
文楽若手〔六月十七日〕
菅原伝授手習鑑=車場の段=
時平公 竹本長尾太夫
松王丸 豊竹富太夫
梅王丸 竹木播路太夫
桜丸 豊竹辰太夫
杉王丸 竹本さの太夫
絃 豊澤広助
お囃子 望月大明蔵牡中
 この菅原車場の段は、新聞の紹介によると、大正十五年四月に、相生太夫タテで出た以来、二度目といふ事であるが、東京では、玄人太夫連のカケ合で、其後一度出たやうに記憶する。今夜は第二放送の演芸に、之れを演出され、今の文楽若手連の競演である。絃を承はつた松葉屋の師匠が指導か演出か、とにかくおはやしを入れての賑やかさ。役々、人に嵌つて別段に甲乙もなく、又た彼是批評を加へるものでも無からう。我々は歌舞伎の舞台でお馴染の曲であるから、お囃子の上方式のが、聊か珍らしいとおもつて聴いたものである。
 
元文楽庵〔七月二日〕
菅原伝授手習鑑=桜丸切腹の段=
竹本土佐太夫
絃 野澤吉兵衛
 後進に途を拓く、といふ訳で、昨年文楽座庵看板を一擲して、花々しく引退の披露をした我れ等の土佐はん、名コンビ吉兵衛はんと共に、役柄打つてつけの『賀の祝』桜丸切腹の段をマイクを通して、或はいつか東上の機会でも無くば、当分あの枯れ切つた独特の妙技に接し得ぬだらう、と思つてゐた我等を堪能させて呉れたのであつた。後半、桜丸のくだりは、ともすれば、悪く陰気になり勝ちな上るりであるが、土佐はんは、所謂東風といふか派手に派手にと、しかも曲の悲痛さは勿論失はれず、就中、白太夫が傑作であつた。八重との間の情合もよく現はれる梅王−−といひかけて、松王への気の持ち方も充分、一種気味合の白太夫の笑ひも上乗、桜丸と八重との情合も結構なり『無理な事いふ手間で一緒に死ねとコレ申し……云々』の八重のクドキも、可憐の中に何とも云へぬ艶があり、土佐未だ老いずの感を抱かせる。二度目の出の梅王も可し、唯だ例の半音になると時折外れるのは致方なしとや言はん。我等は、その半ばに至らぬ中、さすがに土佐だ、如何にも文楽といふ気分になる、と敬服したものである。吉兵衛はんの絃、よく太夫を助ける立派な女房役たる事いつもの如しであつた。イや此の処、ラヂオ浄曲の豪華な事よ。
 
東京新人〔七月三日〕
八陣守護城=政清本城の段=
  竹本越喜太夫
絃 鶴澤新造
 新人とは申しながら、嘗ては文楽にも居たとか聞く。今は東京で素義の御連中のお守りを仕て、愛宕山で試験をパスし、所謂新人として三回の放送、爾来本職と認められての時折はマイクに向ふ。けふ日曜の昼間演芸に、清元や新内、漫談などと共に、短時間の御機嫌を伺ふ次第『ゆく先は二重に建てし思惟の間』の主計之助の出からだから、雛衣の『都でお別れ申してよ』の艶も聴かせる、奥の間、加藤のイバリ、鼠の荒事まで、気をよくして語られる。成績は先づ中の上か、前夜土佐はんのアトだけに、ラヂオだけのお客様にはチト損の卦。!
 
大阪女義〔七月十四日〕
花上野誉の石碑=志渡寺の段=
 竹本久国
絃 豊澤蔦之助
大阪女子因会の幹部どこ、お二人とも勝鳳老師のお弟子との事、さすれば、御両人とも相当のお歳ともおもヘ、又た早くから斯道に勉強のほど察せられる。第二放送のだし物としても、又た語り栄えのする芸題とも申さるべく、志渡寺は可い。我等一二回しか伺つた事はないが、どうして/\、中々の上出来にて、殊に源太左衛門の堂々たる、アノ大笑ひの格に嵌つて大きい事。東京にこれだけの男太夫があるかッてんだ、又た全体に於て少しのたるみもなく、今人気のある団司などより確かに買へる品物だ、と、我等同席の一傍聴者はほざいてゐた、事ほど左様に、引つけられた。乳母のお辻が少し老け過ぎはせぬかといふ評もあるが、人形でも、窶し形ではあり、菅の谷とのつり合ひもあり、アレでも可いか、とにかく、まだ/\義太夫は、大阪である。
 
東京故老〔七月十九日〕
日吉丸稚桜=駒木山城中の段=
  竹本都太夫
絃 鶴澤亀造
 故人朝太夫の三枚目として、朝さんの艶を承けついでの、美くしい咽を発揮してゐた都太夫さんは、真とに以て古い存在である。東京の玄人連が、不振甚だしく、或は影を没し、或は劇場の床にかくれるが中に、公演に、稽古に、近時更らに冴え返つた趣きのある我が都太夫氏のラヂオ進出は、聴き洩らされぬものであつた。教化主義による第二放送の演芸に、日吉丸の奥を出した語り物も、当を得てゐた。よし、師の特意の艶物は、むしろその前半であるとはいへ『せめて別れににし/\と顔見て死にたい我が夫と』や『髪の結ひやうかざりまで、幾千代祝ふ丈長も』など、いつもながら、若々しい美音心ゆくばかりのものがあつた。殊に『母も思ひに正体なく』の一句の如き、ちよつと真似手もない妙技であつた。更らに師の冴え返つた努力は、五郎助の言葉の『ホヽオ、推量の如く』から堂々としてシカモ蔭腹の五音の調子まで、どうやら都太夫氏とは思へぬまでのイキで、故人小イ高の舞台を想はせた。唯だ『半座をわけて相待つべし、アヽ忝い、アレ聞いたか娘……ではないコリヤ……』を、娘で切つて、更らに『娘ではない』と重ねたのは、やはり最初だけで、冠せるやうに……ではないコリヤ−−とゆく方がよくは無からうか。限切のノリ地は、今一ト息派手に活気をつけられたかつたが、近年メキ/\と腕を上げて来た文之助改め亀造氏の絃と相俟つて、おもしろい事であつた。最後に『照らすは月の熊本に清正宮(ぐう)と』が、ともすれば女義などの、清正公(こう)と聞えるのをはつきり宮と本文通りだつたのも、些事ながら、嬉しい事の一つであつた。
 
 
99号 p10-13 1938.10.25
 
文楽幹部〔七月二十六日〕
摂州合邦辻=合邦庵室の段=
  竹本綴太夫
絃 豊澤新左衛門
『しんたる柳の道、恋の道には暗からね共……』の出は、いかにも虐たげられた声帯の荒びを聴かせて、あアまでゞ無くとも、とおもはせたが、さて、だんだん聴きしんでゆくと、これは又綴さん近来の大出来、といつては失礼か知らぬが此の人としては、実に最良の語り物であつた喜びを禁ぜられぬ。第一は、母親が飛でぬけてよろしい。最初の『これ合邦どの、今こなさん、何んとぞ云ふてか』の詞、先づやはらかに『ま一度見たい娘が顔』慈愛溢れて『疾しや遅しと開く間も』『抱きしめ/\嬉し泣き』など、頗る自然に、殊に『今更あきれ、我子の顔、只打守る−−』の巧さ、驚くばかりであつた。唯だアノ『嘘であらう、おゝ/\、おほゝゝゝ嘘か/\』の笑ひが、宛で男のやうであつた。合邦も確かなもので『ヤイ畜生め』以下の長ゼリフも、どこまでも世話口調を忘れず結構。玉手御前の最初の『かゝさん/\』は稍や老けたが『とゝさんのお腹立』から『お憎しみは御尤』や、例のあしのうら/\、で『親のお慈悲』も可愛らしく出来、後の『あつちからも惚れてもらう気』など、滴るやうな色気を聴かせた『納戸へ』までゞ終つたが、時々ボヤケて動いた写真のやうな所もあつたが、先代大隅太夫の舞台を髣髴させて、我等別種の興味を覚えた事を特筆する。新左衛門帥の名絃、飽くまで美くしくして而かも大きく、充分に巾を聴かせ、時には綴の声は聴えずに、唯だ三味線が物をいつてゐるやうな箇所も少くなかつた。古靱さんの売出し時分、先代清六の絃が、よく我等に此の感を与へた事を想ひ出した。綴四分の新左六分といふ分にならう此の一段であつた。新左衛門師の絃は、やがて文楽の重宝とならう。
 
文楽中堅〔八月二日〕
鬼一法眼三略巻=五条橋の段=
武蔵坊弁慶 竹本相生太夫
ツレ 竹本さの太夫
牛若丸 竹本伊達太夫
絃 鶴澤友次郎
  鶴澤友造
  鶴澤友平
  鶴澤友若
  はやし連中
 大団平の作曲にかゝり、明治二十三年大阪御霊の文楽座で演ぜられた以来、上演されず、ラヂオにも無論初演であるといふこの五条橋。内容は、俗説なり又た「橋弁慶」で各種の上るりに演奏されるものと違ひはなく、唯だ歌詞と、節付に多少の相違をもち、とにもかくにも、珍らしいものであつた。殊に、文楽を引退したといふ名絃友次郎師の、指導なり自演なりで、興味も多く、太夫の方も先づは適材適所であつた。『夕程なく夕暮の……』と相生のウタヒガカリの語り出しもよく、伊達も牛若の出から、美声を発挿して結構『こなたはもとより法師の身、なまめく気色アラいやよと……』など乙な文句もあり『斬てかゝれば』『打寄る剣』から『薄衣刎ねかけ若君は笑ひを含んで高欄に』のあたり中々おもしろく『すつくと立ちしあしたづの』『裾を薙んと水車』の間の合の手に、友次郎師先づ充分に腕を見せ『蝶鳥なんどを見る如く』や、ツレの『晴れゆく月の影そひて……』も大層よかつた『しのぎけづりて』のあとのメリヤス、我等初耳のやうにおもふ、『関羽の道行』の手とかいふ、これ亦た友師特意の壇場、最後の『祇園ばやし』も賑やかに、お囃子連も、最初の中やゝ邪魔らしくあつたれど、鮮やかに、手揃ひで、此の曲に相応はしい事であつた。最後に少し、白璧の微瑕を拾つて言へば先づ前半のツレが不揃ひの難があり、最後名乗りになつて、相生の弁慶頗る小さくなり、伊達の若君、品位を喪くした。それから、『抜きとる中も嵐の木の葉』の次ぎ、『或は蜻蛉、水の月』を、セイレイと語られたが、これは或はカゲラフと言ふべき処ではあるまいかと思つた。口うつしに伝へられて文字通りのセイレイかもしれぬが、吾等はかげらふといふて欲しいとおもふが如何に。
 
東京女義〔八月十六日〕
岸姫松轡鑑=朝比奈上使の段=
弾語り 竹本素女
 スヰツチを入れて聴いてゐる中に思ひついた事を一つ書きにする。
一、『傍なる柱に猿繋ぎ』といふ文句をオクリにして『飯原兵衛、親仁が前に両手を突き』からであつた。それで最後が詠歌三番が済んで『身を投げ伏して娘が首』で終つたから、表題の『朝比奈上使』は誰れもの詞の中にも一言も現はれぬ、されば聴き人には判らぬ道理である。よろしく、飯原兵衛館の段とすべきであつた。
一、例の弾語りである。得意の撥、結構には相違ないが、よく肝賢の処で、カケ声をかけるので、気が抜ける。それから又、調子を張る所では撥へも思はず力がはいつて強過ぎる事になる。僕は常に、之れを困るとおもふ。
一、与茂作は結構な出来であつたとおもふ。時間で急いだのであらうか『テモ偖もサムライといふ商売は』など少々判りにくかつたが『最前もアノ一間で手を合して拝みました』あたり無類であつた。
一、おそよは、総体に於て、色気に乏しかつた。何か考へ過ぎてか、サラリとし過ぎた傾きで『鎌倉を見せていの』や『父上も来てたべと』や『足爪立てゝ』の説教節なども、今一ト息。受けさせても、素女理事長の沽券にはさはるまいとおもふ。
一、飯原兵衛は悪い。詞の粒が立たなかつた。存在が不明瞭であつた。
一、要するに、素女さんとして、我等の期待を裏切つたやうに感じた。聴いて居ながら、前に聴いた他の人々の、此のおそよが、夫からそれと想ひ出されたのは、当夜引つけられなかつた証拠だとおもふ。
 
東京素義〔八月二十一日〕
仮名手本忠臣蔵=山科の段=
  栗原千鶴
絃 梅本香伯
 日曜の昼間演芸、与へられた時間二十四分。何で充分な事が語られやうぞ。お石の『礑と引きたて入りにける』から『途方に暮れし折柄に』まで、これでも戸無瀬母子の肝腎なキカセドコロはそつくりある。このアトは、此の間津太夫がラヂオでも聴かせで呉れた。さて、我等のホープ、東都素義界の権威千鶴さんの出来やいかに。先づ以て賞すべきは、稽古の本格的にして厳重なる事、一字一句苟くもせず、テツなんどあつたらお目にかゝらうといふ位。第一、短時間ではあるが五分の隙もない、タルミのない、熱と緊張で塗り潰した二十幾分間であつた。強いて難をホヂクレば、熱演の結果、戸無瀬の詞『欲しがる所は山々』だの『虚無僧の尺八よな』など、男性になる虞れがある。それから『そういふ声はお石様、そりや真実か誠か』なども捧にならずに息を呑んで心理的の技巧が欲しいとおもつたのである。香伯老師の名絃、唯だ愛弟子を語り好くするに努めてゐた点も窺はれて、結構と申しておかう。
 
文楽中堅〔八月二十三日〕
伊賀越道中双六=沼津の段=
  竹本大隅太夫
絃 鶴澤重造
 今夏、文楽一座東上の時、さゝはる事あつて失敬した我等は、久し振りに四代目の大隅を聴くのである。殊に、この沼津は初耳である。先づ、『およねは一人物思ひ』の出から『奇妙に癒つたとゝ様のあの疵』のお米の詞の巧いのに驚いたものである。調子の奇麗な、色気もあり、一種の気品もあつて大いによろしい。ともすれば、外れ勝な此の人が、練磨の功か、つゝしんで語つた為めか、危ないツと思ふと、グツと〆める。イや中々以て結構な工合で行つた『櫛笄まで』の『笄』がちよつと異様に聴こえたが、あれは或は、先代写しの技巧であつたかともおもつた。お米に相当の点を入れたあと、さて平作である。やゝ遠慮勝ちのやうにも聞かれたが、松原になつて、馬力が加はり『おゝい/\』など少々強過ぎて、息すた/\が取つて付けたやうだつたが、『親子一世の逢ひはじめの逢ひ納め』もよく、最後の落入など、充分に堪えさせたのは豪い。重兵衛は『荷物は先きへ』の出がけの笑ひが、聊か困つたが、じツと撓めて人物を出してゐた。難を言へば時間に責められる結果か知らぬが、大体に於て余裕が無く、人形の思ひ入れの間が乏しい事である。総て走り過ぎてゐたとおもふ。重造師の絃は、さすがに、これも中堅どころ『したひゆく』の三重など、頗る好い音〆を聞かせて呉れ、松原へ行つての、あしらひも、好感が持てた事を特筆する。最近、錣君が『合邦』でヒツトを放ち、今又、大隅氏が『沼津』をこれほどに聞かせて呉れたのは、寧ろ案外の嬉しさであつた。
 
東京女義〔八月二十五日〕
奥州安達原=袖萩祭文の段=
  豊竹猿司
絃 豊澤猿幸
 二人ながら、赤坂のお師匠さん猿之助門下の達者揃ひ、そして、今や二人ながら、太の芸者として褄を取つてゐる人である。特に美麗といふほどでなくとも、調つた咽喉を持つてゐる猿司、祭文の聴かせどころも、先づ/\よく猿幸の絃と合つて結構だつた『後謳ひさしせき入る娘』から、思ひ切つて飛ばしも飛ばした『ハテぐづ付かずと早うおじやれ』と謙杖の詞だから、実をいふと訳が判らず。身は濡鷺のあし垣や−−が今一ト息『親なればこそ子なればこそ』はどうにか出かす、といふ所。浜夕が泣き過ぎる位泣いたが、中々味を聴かせた。『見返り』でお時間一ぱい。
 
 
100号 p18-20 1938.12.10発行
 
大阪女義〔九月五日〕
加賀見山旧錦絵=長局の段=
お初 竹本住龍
尾上 竹本雛昇
絃 豊澤小住
 男太夫のそれの如く、女義も、さすがに上方のは、相当に聴かれる、といつては悪いが。今夜の住龍さんや、雛昇さんは、いはゆる中堅といつても若手、まだ大家の部では無い。それでも、立派に長局を聴かせて呉れるのである。跡見送りて……から、錠口さしてまで−−主おもひのお初の心意気は勿論、年端のゆかぬ女性の、シカモ、それが、シツカリ者である処を、充分に顕はしてゐて、案外の出来である。一日の長ある筈の雛昇さんの尾上がまた、それだけの品位を保つて、堅い決意をしんみりとした語り口に会得させる、豪いものである。絃の小住さんは今では堂々たる大家、お師匠さん株として、よく引締めて語らせてゐた、といへやう。
 
大阪女義〔九月十三日〕
仮名手本忠臣蔵=山科の段=
  竹本綾助
絃 豊澤小住
 九段目なんてへものば、さうザラに語るものぢやア無い、といふのが、吾等の常識である。岡鬼先生などに言はせると今の津太夫の九段目なぞ問題で無い、といふ事になつてゐる。それを女の人が語らうといふ、勿論前半だけではあるが……まづいはゆるハンデーキヤツプで聴く事になる。で、この綾助さんのだ。まア一ト口に結論を言つてしまへば、無理であつた。戸無瀬と小浪とお石、此の三人の女性の語り分けが難かしいのだ。五百石取りとはいへ、家老職の奥方である。それから、深窓に育つた処女である。まさかに、世話女房の戸無瀬にもならず、カフエーの女給上りの小浪にもなつては居なかつたが……唯だ、お石は可かつた。相当の点が入れられるお石であつた。近頃のお石であつた。第二放送といふので演し物に苦心した結果が、かうした義太夫として損をした結果になつたものといふより外は無い。女子因会の幹部ドコも位負けといふ落になつたのは気の毒である。
 
文楽若手〔九月十五日〕
碁太平記白石噺=揚屋の段=
  竹本源太夫
絃 野澤吉弥
 源太夫といへば新らしいが、源路太夫と聞くと、相当古い文楽のモロ/\であつた。又た此の人ほど、先代を思ひ出させる人も少ないだらう。我等先代はこと/\く贔屓であつたが、まだ多望の前途を以て逝りてしまひ、我等をして、凋落文楽のわびしさを思はせたものであつた。今、何もこんな事を言ふことも無いが、実は、この源太夫氏、あまりにも進歩の跡の遅々として、未だに、昔日のモロ/\の域を脱し切れぬのを歯痒いとおもふからである。当夜の語り物『白石』は悪くない、が、宮城野が、如何にしても全盛宮城野花魁とはおもはれず、肝腎のサハリでも、時々トテツもない声を出して驚かせたり『首尾よう年を勤めたら』や『色や浮気をたしなんで』など、モ一つ何とか味を聴かして貰ひたかつたのである。しのぶはそれでも或る程度まで可憐さが出て居たのを頂く。絃の吉弥君は筋もよく達者な人、カケ声もウルサイほどで無くて好かった。
 
東京床語〔九月二十日〕
一谷嫩軍記=熊谷陣屋の段=
  豊竹巌太夫
絃 豊澤猿蔵
 この大それた語り物、陣屋の放送を前に、我が巌太夫事藤田蛙水氏が、某新聞記者に語つた処によると『日の本は大和神楽の始めより…・:』(世の諺に曰くといふ)と前座の落語家に聴いて来たやうな事で、先づ女義太夫を盛んにする事が、義太夫の衰勢を打開する唯一の方法だとおツしやり、更らに、文楽座の連中と交際してゐるのは、東京では自分一人である……といふ途轍もない怪気焔である。さて選りも選つたり、熊谷陣屋を巌太夫が、ヘエーと仰天する位なもの、尤も青年歌舞伎のチヨボとして千代坊の我当あたりを動かした事はあらうが、義太夫としての陣屋を、さう甘く見て貰ひたくないものとおもふ。ノツケの熊谷の出からひよろついてゐたのは確かで相模の『あなたは藤のお局様』−−など、スラ/\と言つて退けてゐるなど呆れるばかりの研究である。全体陣屋のドコを聴かせるおつもりだつたか、細かいテツや、届かぬ声や、鼻声のごまかしやは我慢しても、大体に於て『熱』といふものが皆無である、イヤ、その熱を聴かせる、表現が、出来ないのである。批評に及ばざる品物であつた事勿論で、やはり、長唄なり、常磐津なりと両床で、チヨボ台に乗つて納まるか、御自慢の浄瑠璃小唄とやらに浮身をおやつしになる外はござるまいと存する次第。失礼無罪。猿蔵氏の絃、とかくの評なし、唯だ、内心苦笑しつゝ弾いてゐたであらう事を想察する。
 
文楽中堅〔九月廿九日〕
一谷嫩軍記=1組打の段=
  竹本相生太夫
絃 鶴澤道八
 十日ほど前に陣屋が出て、今度は組打といふ、およそ物事が逆である。文楽中堅をすぐツて明治座の人形芝居、近頃の成功を収めたその楽の翌日で、東京出身の相生氏が、置き土産のやうな放送、結構な事である。第二放送の語り物として最近、新内だの、常磐津などで、この一の谷の組打は盛んに演ぜられる。少し微苦笑ものの感がしないでもない。さてその出来は、と開き直るほどの事もなく、身分相当に聴かせられたといへやう。尤もその大半は、老巧道八師の絃によつてゞあるが、これも亦た我が老師を煩はすぼどの物でも無い。明治座の妹背の山の大判事が、向うの定高と雛鳥(織太夫と伊達太夫)に食はれて、呂太夫の久我の助と共に、どうやら見物をだれさしたといふ評判もあつたが、今夜の相生は、出し物の当を得てゐた点で、さすが、といふ事であつたのを祝福しておかう。
 
東京女義〔十月五日〕
恋女房染分手綱=三吉愁歎の段=
  竹本越駒
絃 鶴澤紋教
此の処、東京の女義太夫御連中、中々にはり切つてござるらしい。越駒紋教のコンビもやゝ久しく、一時ダレ加減だつたのが、このごろは又た大緊張とある。さて、当夜の重の井はどうであつたか。先づ、特筆して賞めてよいのは、三吉の可愛い事であらう。アノ柄で、といつては悪いが、とても、男性の太夫には出ない声を出しての三吉、可憐そのものであつた。御乳の人もよし。品位も相当に出てゐて、愁ひもよく利いたのは豪い。「お乳ははツと気もみだれ……』も、気がはいつてゐて大に可かつた。タレとしての、演し物も嵌つて、充分にこたへさせたのは、紋教さんの絃も、与かつて力があつた。
 
文楽巨頭〔十月十日〕
玉藻前曦袂=道春館の段=
  豊竹古靱太夫
絃 鶴澤清六
 文楽座十月興行の中継放送である。ズツと忠臣蔵があつて、中幕どころに此の玉三、切りが蝶の道行といふタテ方であつたが、八時五十分から五十分間、嬉しや古靱さんのハリキツた舞台が聴かれるのであつた。我等先づ無条件で謹聴したが、蔭にはなつてゐるが、皇子々々、といふ文字が出る、例の『皇子兼々御懇望ありし獅子王の剣』とか『はからず皇子の見出しにあづかり』とかいふのを、全部、イヤ所によつて『若様』としたり『我君』としたり、又は『主君』といつたりしてゐた。萩の方の『我がつま此の世にましまさば』は『せめて夫のましまさば』といつてゐた。此の方が本文なのであらう。金藤治の『いツかなひるまぬその顔色』は図ぬけて大きく、後の『上見ぬ鷲塚』のセヽラ笑ひが、ちよいと変つて居たが、スバラシイ笑ひであつた。桂姫の例のサハリは、アノ悪声で、無論、喝采は出来ず、双六の条りも、フアンで無ければ、人形の動きも見えぬから、ダレて来て損であつたが、奥へ進んで、萩の方とのヤリトリなどイキも吐かせず、時間の都合で、段切りまで聴かせられなかつたのは、惜しい/\である。清六君も、中々腕を上げられて、両娘の呼出しのあたり、結構だつた。
 
 
102号 p9-11 1939.2.25発行
 
〔アナウンサー〕浄曲漫評のスペースです。出演者の病気其他で前号にお休みを頂きましたが、御勤めに従ひまして本年も続けることになりました。所で、特に御断り致しておきます事は、久しく休みました為め、昨年末の浄曲放送の漫評が下積みのローズとなつた事でございます。今日に及びまして、昨年の事を申上げますと、豚でも笑うと困りますから、断然割愛致しまして、本年初頭からの分を申上げる事に致します。御諒承を願ひます、尚ほ金王丸氏に代つて一言申添えます事は本評は出たとこ勝負と申しますと語弊がありますが、放送の当夜、周囲のコンデイシヨンや又た放送される方の態度や何かで、存外失礼を申上げるかも判りませんが、芸評以外には−−イヤ芸に関係のある事以外には、出来るだけ触れぬやうに心掛けますが、要するに『漫評』の事、御容赦を願ひたいと存じます。中には本当の事を言はれて、痛い所に触られて、恐ろしく腹を立てゝ執念深く、しつこく怨み言を並べる向きもあるとか聞及びますし、又た金王丸を或る新進の評家と勘違ひをして、彼是悪声を放つ太夫さんもある由に承りますが、面と向つてお世辞ばかり言はれて納まつてゐるさういふ方には、此上本当の事を言つても、注意をしても、蛙のツラに水であらうと思ひますから、蒋介石ぢや無いが『相手にしない』といふ事に致し、太棹社及び其の間違つて恨まれてゐるらしい方に対して、御迷惑な事をコチラからお詑申上げる次第でございます。では、漫評を始めます。
 
文楽中継〔一月三日〕
卅三間堂棟由来=平太郎住家の段=
  豊竹古靱太夫
絃 鶴澤重造
 大阪文楽座初春興行の第四狂言を、八時五十五分から、時間の許す限り放送するといふ厄介な聴き物、古靱さんの『柳』は、五年振りの演し物とあるが、我等は実に初耳である。文楽で『柳』といへば今でも始んど鮮やかに耳に残つてゐる先代南部太夫のそれであつたなど、家人と話し/\スヰツチを入れる『夢やむすぶらん』もオクリになつて、ちよつと一般と違う気がしたが、大体において、此の人ならでは、が随所に聴かれて、自から膝の進むのを覚えるのである。幽霊は決して泣かない、といふ原則通り、どうかすると、女義(タレ)などはアハヽヽと泣く処を泣かぬのも有がたく、一人の子を残しおき(稽古本)のそれを一人の若を、といつたのもよく、次の『枯柳』が馬鹿に凄かつたのも大したものとおもつた。其他ちよい/\普通と変へられた文句もあつたが『母は仏間の看経に……』へ行つて、愈よ俗にいふ『泥棒』の和田四郎が出て来たが、時間が迫つて来て、気が気で無かつた。『どこやらぞゞかみ』の凄さ、婆も可ければ、和田四郎が馬鹿に可い、とおもふ中『氷のたまりへおちこちの…』あたりで、アナウンサーの『時刻をお知らせ致します』とが二重放送になり、古靱さんの声が次第に薄れゆくなぞは、心細いやうなおもしろいやうな、随つて遂に此の人の『気やり音頭』を聴く事が出来なかつたのであつた。随つて重造氏の絃も……
 
大阪女義〔一月十三日〕
傾城恋飛脚=新口村の段=
  竹本綾助
絃 豊澤小住
今 は、大阪女義界の堂々たる幹部となつた前名末千代の綾助さん、絃は、いつの間にか日本一のやうに言はれる我が小住嬢? そして、今夜の『新口』も亦た格好なだし物である『孫右衛門ナ老足……』から、後半を少し飛ばして『涙々の浮世なり』の段切まで、先づ相当の出来栄えなりと謹聴した『撚捻つて』のあたりの色気も出たし、大阪を立退いて以下のキカセドコロも、可なり御稽古が積んで居て結構なり『切り株で足ツクナ』は、少し鮮やかさを欠き、時間の都合、追つかけられる形ちは、イヤこれも本文を利かせての注文か、以上。
 
東京故老〔一月二十七日〕
菅原伝授手習鑑=松王屋敷の段=
  竹本都太夫
絃 鶴澤亀造
 朝太夫松太夫全盛時代からの都太夫である。随分古い都太夫である。一ト頃首振り芝居など持廻つてゐた時分は、可なり腐つてゐたのではなかつたかとおもはれたが、此の人位近来冴え返り若返つた人は、東京の太夫中にも少ないではないか、或は他界し,或は隠退し、或は、例のパンの関係からといふべきチヨボ語りに納まるが中に、大してお上手とも思へぬ三味線を抱えて、素義の御連中を盛んに製造し、御自身は又た、各方面に進出して、本格的の芸術を頻りに発揮する、時には独演会すら試みやうといふ勢ひは実に素晴らしいものである。この放送の当夜も、実は日本橋倶楽部に催されたお素人の人形芝居、南北座に一段勤めてから愛宕山へ飛ばしての松王屋敷であつた。サテ其の出来は?忌憚なく言へば争はれぬものとして当夜は甚しくお疲れの模様が露はれてゐたのを否む事が出来ない。玄蕃の三枚目敵とドツシリとした松王のヤリトリなど無論今一ト息である。千代は相当に品位もあり、持ち味も出て結構だつた。時間の都合で筋の飛ぶのは致し方なしか。全体我等は、名篇寺子屋の筋をバラしてゆく此の松王屋敷は好ましからぬ語り物と思ふが、近頃割合に流行るらしい。亀造君の絃、文之助時代から見ると、益々腕を上げてゆくのは天窓の好いのと、芸熱心の賜物であらうとおもふ。
 
文楽紋下〔一月卅一日〕
娘景清八島日記=日向島の段=
  竹本津太夫
絃 鶴澤綱造
 ラヂオ特輯番組週間第三日とあつて、我が紋下の義太夫が楽しめるのである。この日向島は『盲景清』といつて、故九代目団十郎の家の芸ともなり、今の幸四郎氏も嘗ては帝劇花やかなりし頃上演した事もある。芝居の方でも滅多に現はれないものほどあつて、浄瑠璃の方でも、伝ふる所によれば、去る昭和五年以来九年振りに文楽に上せられたといふ。謡曲『景清』の、伝授物にもなつてゐる例の『松門独り閉ぢて年月をおくり……』の文句なども取入れてあり、津太夫も初演の折、某師に就いて、此の謡曲を伝授されたといふ因縁附の十八番物であると申す、ちよつと珍らしいものなので、ラヂオ初演の事は勿論である。一般に受けないから、屡々上演されないのだ、といふのが常識かも知れず、現に、某専門の浄曲誌が、津太夫は損な演し物をした、と残念がつて居た位であるが、我等は斯うした曲は稀らしいものとしてばかりでなく、結構な大物として大に歓迎するものである。さすが津太夫師である『娘はそれと聞くからに、のうなつかしや御身が父上様かいの……』からの悲嘆、『縋り付いて泣きければ、父も引寄せ撫でさすり……』のあたり、盲目の景清を髣髴させる。それから最後に、島の俊寛とひとしく、『船よのう、返せ戻せと声を上げ、心乱るゝ……』の悲痛、絶叫、我が紋下ならでは、とおもはせて感激の一段であつた。幕明き?に文楽式の口上があり、例のアナウンサー無しであつたのも嬉しいもの、綱造師亦これを援け、謹んでよく引き締めてゐたのはよろしい。
 
文楽中堅〔二月八日〕
安宅関=勧進帳の段=
弁慶 竹本大隅太夫
富樫 竹本織太夫
義経 竹本さの太夫
片岡 豊竹辰太夫
駿河 竹本常子太夫
伊勢 竹本隅若太夫
常陸坊竹本播路太夫
絃  豊澤広助
   竹沢団六
   豊澤新太郎
   鶴澤清友
   鶴澤一郎右衛門
鳴物 望月太津吉社中
 何と芸界に勧進帳の流行−−と言はんより、寧ろ横行跋扈することよ。此間まで子役だつた役者が、初役で弁慶を勤めると、これが、勧進帳や忠臣蔵といふものを、あまり観た事のない、生若い連中が、兎も角も、切符を買つて見物に罷り出でる、といつた御時世、それから思ふと、我が文楽の勧進帳なんてへものは、実にテーシタ品物なんである。昭和の中頃、名人団平が苦心の作曲、今夜は、一時間の時間を割いて、大隅太夫一巻キがその全曲を聴かせるといふ、唯だ栄三の弁慶が、特に橋がかりでなく劇場の本花道を六法で引込む、それが観られないだけであり、殊に、相手の富樫左衛門が我等の織太夫君で、ウンと一つ頑張らうといふのであつて見れば、難有い位のものなんであつた。堂々荘重味を盛つた大隅に対して、一調子高い所を出して織太夫の富樫、問答は勿論かの呼止めのイキなんてへものは結構至極である。タテ三味線広助師以下何れも御苦労と申したゞけでは悪いか知らぬが、『一期の涙』から『鳴るは滝の水』まで、確かにおもしろい事であつた。
 
104号 p14-16 1939.5.25発行
  口上
 毎度ヤツつけな漫評、よくぞ御覧下さいまして難有御礼申上げます。然る処、金王丸事、とかく病弱の、殊に今春肺炎といふ重病に罹り、二ヶ月ほど蓐中の人となりまして、ラヂオのセツトが病室にござりませぬ処から、又たもや御無沙汰に相成り、殊に此の三月は、BK新案の管絃楽入り義太夫なんて珍奇、奇怪なるものもあり、その他聴きものとしては、津賀さん事米翁師の五条橋やら、錣太夫新左衛門の国性爺などもあり、更らに、文楽の解剖として、木谷先生や、津太夫、栄三などの談話と実演、文字太夫と織太夫の『壷坂』などもあつたのですが、遠音に三味線を聴いたばかりで、何れも失敬したもの故に、今回は四月に入つてからの分だけを、例の一筆、かくの通りにござりまする。
 
東京女義〔四月九日〕
観音霊験記=壼坂寺の段
  竹本小土佐
絃 豊澤美佐尾
 新聞の説明通り、東京女義界の長老であり、古い人であり、絃は愛娘、五反田の太棹芸者。出演の度数や、宣伝を以て見ると、いかにも、AKの局宝であるかの感じがある。誠に以て困つたものである。昔しは相当に鳴らした人であり、我等も随分、手を叩きにその高座を打仰いだものであるが、今日、もう実に、真面目にこれを聴き、これを評するの忍耐を持たねことになつてしつた。聴き了る壼坂−−伝へ聞く壷坂の−−の山の段、それはさすがに、今の若いのに言へないことを言ふ個所もないではないが、さて、局宝だの、長老だのとして拝聴させられては叶はぬとまで思はせられた。闇の晩に誰れかにナグラレルかもしれぬ。
 
文楽中堅〔四月十四日〕
増補生写朝顔話=宿屋の段
  竹本相生太夫
絃 鶴澤道八
箏 鶴澤清友
 文楽若手の中堅である。しかし、およそ此の人位までは、イヤ此の人位まで進むのは、容易の業ではあるまいが、更らに、これ以上に進むのは愈々以て容易ならぬことと思ふ。故に、此の人などは、今日ウンと頑張つて勉強しなければならぬのである。幸に、近頃、道八といふ名手を附けられてゐれば、懸命の努力精進を希望せねばならぬ。我等は、今宵、相生の宿屋を聴いて、如上の感の、一層深きを覚えたのである。身分相応の出来栄であつた事は確かであるが、その大半、イヤ七分八分はわが道八師の名絃によつて聴かれたのであつた。放送三十分間、素より、その技倆の判別を的確にする訳にはゆかぬから、多くを望むのは無理であるが、前に云ふが如く、此の人など、有望の中堅として、既に認められてゐる人の、近く数年の間に、一向取り立てゝ進歩の跡を感ぜしめざるは、甚だ心細い事であると思ひ、特に精進を望む次第である。
 
東京床語〔四月二十七日〕
一谷嫩軍記=熊谷陣屋の段
  竹本米太夫
絃 竹沢仲造
 米さんといへば、東都男太夫中錚々たる人であつて、我等朝太夫全盛時代からのフアンであつたが、近頃望まれて播磨座一座の床を勤めるやうになり滅多に聴かれぬ存在になつた人。その今夜は陣屋である。陣屋は、又た吉右衛門の得意の舞台『ナニ、藤の御局』から『うやまひ……』など満場を呻らせるもの、米さん又た大馬力であるのである。しかし、今夜は? 全体を通じて、我等の耳には頗る……所謂喰ひ足らぬ陣屋であつて、殊に、その詞に至つて、熊谷も存外に小さく、相模も藤の方も、あんな事では……困つたものだ、と思はせられるばかりであつた。床語りに転向後尚ほ日の浅きに拘はらず、斯うも違うものかと嗟嘆之を久うした。大体に於て落付きを欠き、言葉の受渡しも格を失なつた憾みが深かつた。が、何といつても鍛えた腕、物語りなど相応に立派だつたし、奥の弥陀六でも語られたら感服したかもしれぬが、『軍次』までゝは如上の感じで了つた訳である。仲造の絃は、相変らずカケ声がうるさいことであつた。
 
文楽中堅〔四月二十九日〕
仮名手本忠臣蔵=一力茶屋場
 (カケ合)
由良之助 竹本大隅太夫
お軽   豊竹駒太夫
平右衛門 豊竹織太夫
絃    豊澤広助
     鶴澤清二郎
     おはやし連中
 天長節昼間演芸の時間である。おはやし一しきりあつて、神ならぬほとけかゝりしとお軽の出からである。配役何れもよく嵌りて、駒太夫のおかる、言葉に梅玉のセリフ調子があつて、美声の発揮、不思議に遊女といふ色気もある。大隅の由良之助、立派な貫禄。極めて巧からぬ下座の独吟が気の毒な位。織太夫の平右衛門、やつぱりお師匠はんの引写しだがお軽とのやりとりも、クドくなく、サラ/\とさすがに結構、時間があれば前の口軽のくだりも語らせたかつた。小身もののかなしさは、今一ト息と思つた。お軽の『ヤア/\/\それはマア……』や『おかるは始終せき上げ/\』は可なり高い処へ届いて喝采もの、遺憾なく我が駒太夫を発揚した。九太夫を引出して打擲する大星の長ぜりふは立派に出来た。総て、女義やお素人の達者どころが致す『入れ事』がなく、本文通りに進行したのも、我れ等得心が参つた一段であつた。絃の広助、清二郎堅実に、克明に、御苦労であつた。
 
大阪女義〔五月五日〕
菅原伝捜手習鑑=寺子屋の段
  豊竹昇之助
絃 豊澤力松
 小供の時分東京で売出した昇之助さんそれはよく手を叩きに行つたもの、その割りに……イヤ当夜は拠ない所用あつて外出した為め、この放送は聴き洩らしたので、何とも書きやうがない、失礼する。
 
東京女義〔五月七日〕
卅三間堂棟由来=平太郎住家の段
弾語り 竹本素女
ツレ弾 鶴澤素一
 パトロン杉山先生の没後、却つて斯界にノシ上つて来た感のある素女さん。因会女子部の理事長とあつて、いつの間にか押しも押されもせぬ東京女義の大御所になりきつて、近くは歌舞伎座の大殿堂に満員をかけさせて、萎靡振はざる東都デン界に、我が世の春を謳はれる豪勢振りを示した素女さんである。当日の演じ物は、俗にいふ『柳』の後半、母は仏間の看経に、から所謂『泥棒』のくだりであつた。さすがにドツシリとして結構なもの婆の気味合もよし、例の問題の、納戸を取出す古葛籠ンナ、もさして耳際りでもなく、軽くボカシて言つて居たのもほゝゑまれた。平太郎が帰って来て、みどり丸との驚きも口説きも充分に堪へさせた。時間の都合なるべく、和田四郎の二度目の出、熊野権現の御符の奇瑞など飛ばして、大落しから直ちに、はや東雲へ第一のキヤリの賑やかさと、二度目のそれの陰々たると、立派にうなづかれた。大方の素義や、女義連が抜いてゐる蔵人の錦の袋みぐしの件も語り進んで段切りまで三十五分間を、充分に楽しませてめでたし/\。
 
大阪女義〔五月十二日〕
鏡山旧錦絵=長局の段
  竹本綱龍
絃 豊澤東重
 前に聴いた事があるかも知れぬが、記憶がない。処で、新聞のラヂオ面に出てゐた写真を見ると、殊の外美くしい女性である。どうも得てして、面の好いタレにあまり上手なのは無いやうな気がするので、大して期待もかけなかつたが、サテ、愈々となつて聴くと、果して、といつては悪いが、どうも本場と言はれる大阪でも、これはまた……何とも申上げにくいまでに、おもしろくなかつた。それは巧いまづいよりは、天で何を言つてるのか、お初の如きは徹頭徹尾聴き取り難い口捌きには、弱らされてしまつた。恰かも十六七の少女が御簾内を勤めてゐるやうで……尾上の方はまア判るには判つたが、大名屋敷の奥女中、中老とかお局とかいふ品物にはなつてゐない。チト毒舌イや毒筆が過ぎたやうだが、実際、さういふ風にしか取れなかつたので、歯に衣着せぬ暴評御免々々である。絃の東重はシツカリしてゐる。トニカクいくらお上手でも、聴く人の耳に判らなければ、何にもならず賞めたくても賞められないと思つて貰いたい。
 
 
105号 p6-8 1939.6.25発行
 
文楽中堅〔五月十八日〕
新作恩讐の彼方へ=洞門の段=
  竹本織太夫
絃 竹沢団六
絃 野澤吉季
 原作は菊池寛の出世作、嘗ては『敵討以上』と題し、作者自身に脚色して、先代勘弥の文芸座をして、帝劇の舞台に脚光を浴びさせたもの。その三幕目洞門のクライマツクスともいふべき一齣を、今度食満南北氏が浄曲化し、織太夫と団六のコンビで新たに作曲したものである。『この間二十年相経ち申候』といふ後年の出来事であれば、原作を知らぬ人にはアナウンサーの解説を聴き落しては、甚だ訳の判らぬものとなる嫌ひがあり、更らに了海和尚と実之助との二人だけの芝居であつて、局面の淋しさも、大衆の興味には如何かと思はれるが、織太夫は、よくこの凄愴なる舞台面を顕現し、団六の絃亦たよく、槌の昔、瀬鳴りの音等の伴奏的合方を聴かせて、この新曲の新しき試みを示し得た事であつた。『月影もれし岩穴に、互に手に手を取かはし、本願成就の喜びは、たとへん方も注く涙』で始めてポテンを一つ聴かせたゞけの淋しい上るりであるが、段切りの荘重さもよく、約四十分の丁場を倦きさせなかつたことを多としやう。新作待望の声漸く起る近頃、際物でない品物で、これだけのものは、容易に得られぬかも知れぬと思ふ。
 
文楽巨頭〔五月二十四日〕
一谷嫩軍記=熊谷陣屋の段=
  豊竹古靱太夫
絃 鶴澤重造
 邦楽名曲選の第二回として選まれたものといふ、古靱さんの『陣屋』何と魅力一〇〇パーセントである。
 先づ聴く『相模は障子おし開き……』から紙一枚。いつもながら、その足の長いこと、特殊の古靱ぶしも充分に『軍次はやがて覆ひになり……』から漸く平常に復したといふ恰好。この長いのに批難の声もあるやうだが、我等はとくと聴きしんで、静かに栄三の大舞台を聯想すれば、アノ位ドツシリと語らなければ、この三段目の大物が鑑賞されず、舞台の寸法が合はぬやうな気がして、必ずしも反対する事はないとおもつたのであつた。さて、一般評に出て来るやうに、例の研究的な、理知的?な、神経過敏的な語り口で、グイ/\と聴者の耳を惹きつけてゆき、夢のやうに、アレよ/\と熊谷の物語りも済んでしまつたは何たる事ぞ、おぞましの評者の耳よ。唯だ到る処、巧いなア、とおもふ地イロのおもしろさ!アヽ気の毒やなア、とおもふ高い所のあの苦吟!例へば『涙は、胸にせき上げし』や『一の谷へは向ひしぞ』や『すゝめてやりし可愛いやな』の如き、先代清六にこんなに迄叩きつけられたか、とおもふばかりのいとしさである。最後に至つて『軍次は居らぬか』の微妙な、何ともいへぬ節廻しに感服すると、チヨンとなつた残り惜しさであつた。重造君の絃は非常に慎み深く無論邪魔にならぬ苦心の撥捌きで、この大家の芸術を相応に援け得た点を買はねばならぬ。
 
東京女義〔五月二十九日〕
加賀見山旧錦絵=草履打の段=
  竹本越道
絃 豊澤猿幸
 東京女義の若手売出しのチヤキ/\野澤道之助師の秘蔵弟子越道さん、猿之助師の同じく秘蔵弟子猿幸を絃に得て、鏡山の草履打とは、格好の好い演し物。二嬢(ふたり)ながら芸熱心の効、こゝに現はれて近頃傾聴に値ひするものがあつた。女義特有?のキイ/\いふ金属的の処が無くて好い咽に,癖やイヤミの微塵も無い節廻し、詞も相応にこなれてゐて、品位もあり、殊に、前受けを狙はぬ情を語つて頗る結構。慾には岩藤に、今少しドスを利かせ得れば完璧であるが、要するに、『草履打』といふ語り物がピツタリと嵌つた手柄といふ事が出来る。これが次の長局になつたならサテどうあらうかと、一度聴きたいと思つたほど引きつけられた。猿幸さんの達者な撥捌きが、シカモ謹しんで邪魔になるカケ声も無かつたのは豪い。
 
文楽紋下〔六月一日〕
傾城反魂香=土佐将監閑居の段=
  竹本津太夫
絃 鶴澤綱造
ツレ鶴澤寛市
 俗にいふこの『吃又』の上るりは、大近松の『傾城反魂香』を吉田冠子や三好松洛などで改作したものであるから、これを竹本座に上演した時の芸題『名筆傾城鑑』の方が正しいのではあるまいか、そして、この吃の段は、その四段目の切になつてゐる。それはともあれ、紋下の吃又は、例の引き吃の研究もあつて、得意中の得意ものであつて見れば、もう文句も何もない。唯だ全段丸ゴカシ(稽古本によると紙半枚ばかり抜いた処がある)五十四五分、楽々とシカモ息も吐かせぬおもしろさ。女房のシヤベリなど、此の太夫の口から、あアした条りをこんなにまで聴くかせるのは、むしろ不思議な位。更に、又平の述懐、苦悶、咆哮、歓喜、真似も及びもつかぬものとばかりに傾聴したのである。殊に絶望のドン底になつて『口に手を入れ舌をつめつて泣きけるは』の処や、修理之介に縋り付き、さては女房に狂人といはれたを痛憤するあたりの泣き処などに至つては、ゾツとするほど凄絶惨絶の極みであつた。綱造の絃亦た精彩突々たるものがあり、『硯引きよせ墨すれば』……で寛市のツレ弾がはいり、舞台の人形の動きも眼前に髣髴するばかりであつた。
 
文楽中継〔六月七日〕
傾城阿波の鳴門=十郎兵衛内の段=
前   豊竹駒太夫
  絃 鶴澤清二郎
奥   豊竹呂太夫
  絃 鶴澤寛治郎
 文楽座六月興行の中継放送である。前半の駒太夫、後半の呂太夫は蓋し適材適所の語り物であらう。駒は先づノツケの武太六の貸し金督促の条りをぬいて、いつもの通り『元来し道へ立帰』でお弓の心がゝりと封押し切りから語り出し、最初の独白から、盗み騙りも身欲にせぬあたりまで、やゝ時代がゝつて、やがてお鶴の普陀落やの出、テモしほらしい順礼衆、ドレ/\報謝、からガラリと生世話調子に変る巧さ、大得心である。御詠歌の結構な事勿論、お鶴の『夜は抱かれて寝やしやんす……』など、正にホロリとさせ、ま一度顔をと引寄せての愁嘆場、充分に堪へさせて、我が駒太夫の真価を発揮した。
 呂太夫は、既に其日も入相の……から後半、十郎兵衛の世話時代、侍の心を忘れぬ詞使ひは、確かにそれと受取らせたが、大体に於て早口の、殊にお弓が帰つて来てからのヤリトリなど、何が何やら天で聴き取れぬ口捌になつてしまつたには大に困つた。無論、拙い人では無い筈だが、この鳴門は失敗であつて、前の駒さんとは格段の相違であつたのは遺感である。
 絃の清二郎と寛治郎。前者は伊達太夫を弾いてゐた時分から、若いに似合はぬ柔かい撥捌きだとおもつてゐたが、駒太夫について更らに健実の度を加へて来たらしい。後者は団六から改名して一段と手を上げ、今夜など誠に申分の無い弾き手となつたと思つた。
 
東京女義〔六日十二日〕
本朝廿四孝=十種香の段=
  竹本越駒
絃 鶴澤紋教
 与へられた時間二十五分とある。されば、行水の、の出から、御経読誦の鈴の音で、次のこなたも同じ松虫の、の濡衣を先づパクツて『申し勝頼様』と例の、たましひかへす反魂香、になり、続いて『飛び立つ心』から、勝頼様ぢやないかいのと、まで飛んで、思はず一ト間を、になり、更らに『御廉相あるな』から、何枚刎ねたか『微塵覚えのない蓑作』までをぬき、同じ羽色の鳥つばさ、を充分に唄つて『縋り付いたる恨み泣き』でチヨン。であつた。要するに、姫の唄う所だけを特選した演し物で、越駒君思ふ存分に美声を発揮し、悪く言へば頗る付濃厚で、宛かもおン女郎さアの如き八重垣姫、とお見上げ申した。こんな殿御と添ひ臥しの、など、その儘大に気分を出したものだつた。蓑作は、勝頼といふ武人だといふ肚か、アノ前髪の赤い衣裳を裏切つた威張り方、濡衣も、高島田の立ヤノ字といふ腰元とは、恐らく思へず老けたをばさんのやうであり、四段目、金襖の奥御殿といふ事を少しく研究して貰ひたい。紋教君の絃には異論は無い。
 
 
106 p17-21 1939.7.25発行
 
大阪女義 〔六月十六日〕
花雲佐倉曙=宗五郎住家の段
  竹本春駒
絃 豊澤仙平
 新内などではかなり度々語られるものであるが、義太夫では先づ珍らしい。併しお芝居の方では屡々繰返されるから、大衆には行渡つた筋のもの、大阪女義の中堅春駒さんと仙平さんは、土佐太夫の相三味線だつた今の吉兵衛師から教へられたものとあつて、無論本格的に克明のものである。宗五郎の百姓とは言へ、武士の心を持つ確つかりした言葉使ひにも苦心の跡が見え、女房の『夫の難義をよそに見て、命を惜みのめ/\と、長らへさうな私ぢやと思うてかいな』と口説き泣く貞節振りも受取られ、一子宗市のいぢらしい親思ひには正にホロリとさせられる。手に入つた語り物で近頃成功の部に数へられやう。新聞には『わつとばかりに泣倒れ暫し答へも無かりしが……』まで、とあつたが、降りしきる雪中を、宗吾が堅い決意を以て、出てゆく光景を浮き出させた段切りが誠にはつきりと印象に残つた。
 
大阪素義 〔六月十八日〕
艶姿女舞衣=酒屋の段
 〔カケ合〕
おその 沢田金声
半兵衛 吾孫子櫓
母親  有尾アリオ
宗岸  野口生楽
絃   鶴澤勇造
 所謂『新人』として、二回乃至四回とマイクロフオンの前に据つた経験者で、誠に今回は、津太夫、友治郎の両大家から、このカケ合コンビの折紙をつけられた酒屋とあつて、何れもハリ切つて居たであらう事は想像に難くない。さて時間の関係で、前半おそののサワリまで約四十分間。聴き耳立てる中、唯だ感服敬服の出来栄えであつた事を先づ申上げる。アリオ氏の母親のつゝましさ、生楽氏の宗岸の懸命さ、櫓氏の半兵衛の楽々さ、金声氏のおその美声など、適材適所は申すまでもないが、最も感服したのは、四人で語つてゐて、決して別々に聴こえず一人で語つてゐるとしか思へぬイキの、稽古の積んだ事である。残念ながら、東京の大家連でも、このイキの合つたカケ合は到底企て及ばぬ事であらうと私かに思つたのであつた。最後に一言したいのは金声氏の美声は、正に洗練された美声に相違ないが、声に任せて、嫌や味にこそ堕せぬが、小節が利き過ぎて、サラリと行かず、稍や耳触りでもあつた事で、これはシツカリしたお師匠さんから、少し叱られたら直らうかと思はれた。失礼御免。
 
文楽中堅 〔六月二十九日〕
中将姫古跡の松=雪責の段
  竹本伊達太夫
絃 鶴澤友衛門
 暫らく振りの伊達はんのやうだが、相変らずの美声である『あら痛はしの中将姫』からであつたが『剣をふむが如くにて』あたりまで、殆んど地唄を聴いてゐるやうで、どうやら義太夫ばなれのしたやうな、それほどの美声なのである『起れは叩く割竹に』をわれ竹といひ、後にも随所に出る「割竹」を皆われ竹と語つてゐたが、我等は『わり竹』の方が正しいとおもふ。一般に御研究済かとも思ふが、我等はどうもわり竹説を固執する。予想の通り、後室と広次が、弱々しくて気に入らなかつたが、桐の谷は正に上出来であつた。浄聖摂津以来、引退の土佐さん以来、此の上るりも終りかともおもつてゐたが、今後幾十回かの研鑽で、伊達はんの物にして上げたいものである。所で、放送の時間に罪を帰すべきであるが、殊にも姫が打仆れたまゝ「いひ罵りて両人とも王子の館へ走り行く』でチヨンとなつたのでは、桐の谷、浮舟の苦衷も空しく、況んや豊成公の父性愛から、西方弥陀の御国にて、待奉る父上様と、の悲想的結末が、全然相判らぬ事となつて、前後を知らぬ聴者には、何といふ滅茶苦茶な戯曲であるか、と思はせる外はないのである、因に、新聞紙の報ずる所即ち放送局配付の解説には、此の上るりの作者を、三世河竹新七−−寛政九年二月−−とあるが、年代も無論違うし、その前に『雲雀山』の浄るりを並木宗輔が書いてゐるのがあり、作者不詳といふ方が当つてゐるのではないかとおもふ。三世新七といふは、東都劇場の舞台脚本に物した作者の誤り伝へられたのでもあらうとおもふのである。
 
文楽中堅 〔七月三日〕
花上野誉の名碑=志渡寺の段
  竹本文字太夫
絃 野澤吉左
 文楽の公演では、紋下津太夫以外には殆んど出した事の無い志渡寺、名人団平が先代大隅太夫を弾いてゐて仆れたといふのは有名なはなし。相当大物で、今夜は、前半の源太左衙門の条り、坊太郎の桃の条りが省略されて『花は昔と散り失せて今は老木の乳母お辻……』から段切まで語られる。作意の興味は更らに徹底せぬ故、唯だお辻のクドキと祈りの一条に演者の技倆を聴くの外ないもので、一般大衆向きではないが、当夜の文字さんは頗る緊張して、吉左の絃と共に、近頃の上出来であつた。就中、これ和子、此方はの/\、のあたり、病苦?衰弱の息切れの工合、稍や老婆過ぎる憾はあつたが、あの姿が目に見えるやう、殊に『てゝ御か此世に』からは最も良く、クドキから祈りへ飛んで『顔は笑へど心には』や、断末魔の凄惨さも頗る上出来、と聴きしんだ。文楽でも、アタマがつかえて稍や不遇の感のある文字さんなど、語り物によつては、やはり確かな稽古のあらはれが見えて頼もしいことであつた。
 
東京床語 〔七月十四日〕
奥州安達原=袖萩祭文の段
  豊竹巌太夫
絃 豊澤猿蔵
 只さへ曇る雪空に、心の闇の暮近く……のお袖の出から、祭文まで、始終慎しんで語つてゐた事は確かに認められるし舞台数のかゝつてゐる人だけに、更らに危なげのない語り口はさすがである。唯だそれ慎しんで語るだけに、平板無事、妙味のつかみ処が皆無だつたのには少しく呆れる。袖萩の盲らになつてゐないのは、大抵の人がさうで、致し方もないが、謙杖に力が無く、浜夕が殊に不振であつたのは、此の人にも似合はぬどうしたものだと言ひたい。肝心の祭文も、その本文を御存じなしや、ツマリ研究不足、といへば、或は酷評と受取られるかも知れぬ。何もかも知りぬいてゐるやうなお豪い太夫さんであらつしやるだけに、かうも言ひたくなるのである。要するに、上から、そうツと撫でゝみるやうな上るりであつた事は確かである。
 
AK新案 〔七月十八日〕
義太夫物語=政岡忠義の段
物語 坂東蓑助
   竹本越道
絃  豊澤巴住
 AKとBKでは、競争的に、常に新らしい企画を立て、演芸の新種目を発表してゐるやうであるが、気の毒な事には、滅多にヒツトを放たないやうである。凝つては思案に能はず、といふは真に名言であるとのみ思はせる。今宵の義太夫物語亦た御多分に洩れぬ代物の一つで、近松秋江作とあり、秋江といへば、昔徳田秋江といつた老文士で、近年一向振はない先生であるが、先づ先代萩の竹の間から解説をはじめて、御殿のまゝ焚を事細まかに、それはしかも、解説ではなく、上るりの文句を羅列して、俳優蓑助が、これを頗る低音に朗読するのである。そして、ハツトと思ふと、デンデーンと太い絃が鳴て来て、雀の唄の条りを越道が語り出す。と、それがいつもの越道とは似ても似つかず、調子ツぱつれの甚だしいもので、ひゐきの我等を驚かせる。と『さういふ訳で、いよ/\御飯が出来る』とか何とか又た物語りになり、やがて栄御前が帰つて行く、御約束の『誠に国のいしづゑぞや』から又た越道がやり出して『人目無ければ』が切れると、又た蓑助が、八汐の殺される処から、悪人滅びて云々と、この戯曲の結末を報告して、予定の時間を約三四分残して(をはり)を告げたのである。我等がこれを聴くと、実に変哲も無い代物であつて、筋を知らなければ義太夫の解らぬ人間なら、テンからラヂオのスヰツチを別の講演か、西洋音楽の方へ切替へるであらう事を考へる。知つてゐるものは、御殿の文句を解説者の口から蒟蒻版摺のやうに、聴かされるのでは、面倒でたまらぬ訳である。強て、これをやりたければ、珍らしい語物、例へば『■(みばえ)源氏』だとか、せめて津太夫の『盲景清』だとかなら、又た解説の要もあらうといふもの、又先代萩なら最後までも、これが実説を簡単でも附加へれば或は、それは必要あり興味ありかも知れぬ。近松秋江で脅かしたり、坂東蓑助でごまかさうツたつて、何だいあれは、といふ外はない。喝ツ。
 
 
107号 p14-15 1939.9.10発行
 
文楽中堅 〔七月二十日〕
増補大江山(カケ合)=戻橋の段
扇折若菜実は愛宕山の悪鬼 竹本綴太夫
渡辺綱 竹本大隅太夫
絃   豊澤新左衛門
    豊澤広助
ツレ  豊澤新太郎
八雲  鶴澤友三郎
    豊澤竜市
大護摩 今藤長太郎
    杵屋勝勇治
    鳴物連中
 常磐津物で、歌舞伎でも五代目菊五郎以来、御馴染の「戻橋」義太夫になつたのは、明治三十三年、団平さんの節付で堀江に初演され大入を取つたといふ。今夜の綴太夫は、当時も其座にあつた人なり又たこれを得意に語つてゐる人。扇折若葉(芝居では小百合)実は愛宕の悪鬼は、此の人に打つて付け、近頃の綴さんとしては、驚くべく緊張もし、慎んでも居て、存外といつては失礼だが、上等の出来である。初めの出から、可愛いらしい中に、凄味もあり、綱に見現はされ、悪鬼の本性を現はしてからは、大荒れに荒れて完全にその真価を発揮した。大隅太夫の綱も、適材適所で、近来、大器稍や晩成の実を示しだして来た此の人、堂々として、武辺一徹の面目を表はし、好調のコンビとうなづかせた。新左衛門、広助の両師、自在の絃は楽々と弾きまくり、其他ツレ、八雲、大護摩、鳴物はやし連中も申分なく、大がゝりの『戻橋』誠に四十分間のおたのしみであつた。だがしかし、最後に一言したいのは、文楽座が得意に演す『勧進帳』やこの『戻橋』などは、いかに団平師の節付なりとはいへ長唄のそれの方が、曲節其他に於て、勝つてゐるといふ事である。
 
大阪女義 〔七月二十五日〕
仮名手本忠臣蔵=二ツ玉と身売り
 (カケ合)
定九郎  竹本久国
与市兵衛 竹本春駒
絃    豊澤東重
母親   豊竹此助
おかる  竹本雛駒
一文字屋 竹本綾助
勘平   竹本綱竜
絃    豊澤小住
 これなどもBK新案といへばいへやう。今風に芸題を附ければ、『与一兵衛の死』とでもするか、一幕二場で、よく判る。イヤそれは贅だ言!二ツ玉で二嬢とも相当なもの、テン/\/\で出て来る手負猪は、久国さんだつたか春駒さんか、女義の五段目は、とにかく珍らしい。六段目の身売りは、しんみりと、雛駒さんのおかるが可かつた。此助さんの母親と綾助さんの一文字屋は達者の二字で尽きる、絃の小住さんは楽なもの。おはやし入りはお景物!
 
大阪混成 〔八月九日〕
道中膝栗毛=赤坂並木より古寺まで
(カケ合)
弥次郎兵衛 竹本角太夫
喜多八   竹本文字太夫
和尚    豊竹和泉太夫
親父仙松  竹本常子太夫
絃     豊澤仙造
      豊澤八造
 チヤリだなんて馬鹿にして貰ひますまい。弥次喜多なんて古いとけなす解らずやは、奇声とくすぐりを下手に騒々しくやる漫才の下駄穿き小屋へでも行つてくれ。奇声は奇声、くすぐりはくすぐりだが、洗練されてゐる、気が利いてゐる。多数の百姓にやア解らねえ我等のユーモアである、とまア怪気焔を上げておいてさて、全くの話しが今夜の弥次喜多のカケ合は、BKが又たヒツトを放つたものといへる。膝栗毛の中でも赤坂並木、古寺などは、有名なもので、東京のお素人でも時には高座へかけられる。杉山茂丸先生亡き後の、此の方面の大家、福島行信氏の此の上るりを、我等は一度傾聴した事がある。『次第に更くる夜嵐の、ぞツと身にしみ弥次郎兵術……など、頗るをかしいものであつて、我が角太夫師の縦横自在のノドによつて、更に又た、文字太夫氏の喜多八も、懸命に滑稽味を放出して、盛んに我等をほゝゑませた。軽い気持で楽しむべき、このチヤリ上るりを何と真劒に聴き入つた事か、それはやがて、如何に他の普通の上るりの、常におもしろからざるもの多きかを嘆ぜしめられた訳である。アヽ、角太夫師を、再び文楽座へ戻して、滅多に出ない古曲の復活や、チヤリ上るりの上演が願へますまいか。人形には我が栄三氏健在なり、当事者諸君以て如何となす!ぷツ……
 
文楽若手 〔八月十五日〕
生写朝顔日記=大井川の段
   竹本源太夫
絃  野澤吉弥
胡弓 野澤吉蔵
 アレ又た源太夫……といふ人があつたかも知れぬが、今度は『宿屋』を遁げて大井川だけを四十分に渉つて放送するといふ。何は然れ、とスヰツチを入れると成るほど、宿屋の切れ目、駒沢岩代が出立した後、徳右衛門の独り言の処から、ゆる/\と時間引延ばしを策しつゝ始められた。続いて、大井川になる、ひれふる山も無事に、やがて関助とのめぐり合ひ、徳右衛門の腹切りまであつて、それでも、尚ほ四五分の時間を残して切れた徳右衛門が少し若過ぎ、関助の詞は大に間延び(これは時間延ばしの為め?)朝顔の深雪は、好い出来で、殊に関助と知つての、驚きやら、懐かしがりなど結構なものであつた。前にも書いたか知らぬが、義太夫は、太夫の位置身分に相応して、成るべく、役どこを語れば間違ひなく、修業中に大物を狙はぬ方が可いのである。
 
大阪女義 〔八月二十二日〕
さわり集=御殿、揚屋、本下
  豊竹昇之助
絃 豊澤力松
琴 野澤吉蔵
 失礼させていたゞきませう。唯ださすがは大阪、三味線と琴の調子の狂はぬ事東京のお浚などで、よくヒドイ乱調子を聴かされるのを思ひ出した。
 
 
108号 p12-13 1939.10.10発行
 
文楽中老 〔八月二十九日〕
伊賀越道中双六=沼津の段
   豊竹駒太夫
絃  鶴澤清二郎
胡弓 鶴澤友若
 時間の関係で、前の小あげが聴かれずオクリがあつて直ぐに、お米はひとり物思ひ……からである「思ひも寄らず」と切つて「ムーツと心でうなづき」と続けるやうな思ひ入れが割合に多く、心理描写に骨を折つてゐる。「真ツくらがアり」など頗る良く「おのりや手に印籠持つて旦那様のか……などは入れ事らしく、ラヂオでは判りがよい。サワリで「今宵の事は/\」と返へして二度言ふのも、ちよつと思ひ入れの部であつて良い。重兵衛が立ち際に、お米を招いての訓戒で「孝行しや」と言ふ所では少し愁ひが過ぎたと思つたが「心に一物、荷物は先きへ、足をはやめて……」のあたり無類と喜びたい。松原へ来ても平作は大車輪でシカモすべてアツサリ、と落入りの南無アミダなども数が少なく、清二郎の絃と友若の胡弓とが、可なり微妙に伴奏の効をつとめ、重兵衛も至極サラ/\と演ぜられ、津太夫の例の熱演とは又た一種、小ぢんまりして楽しめる沼津であつた。
 
東京女義 〔九月五日〕
傾城阿波の鳴門=巡礼歌の段
弾語り 竹本素女
林の中でも高い木は……で、とかく素女さんが問題になるやうだが、どうか泰然として斯界に活躍されんことを望みます。たしか、素女さんのラヂオは今年に入つては初めてだとおもひますが、素女さんとしては、例の弾語りでの「鳴門」は、実は腕も咽もムヅ/\する位、屁のやうな語り物だらうとおもひます。所が所がです。同夜は、こちらの耳が悪かつたか、いつもの素女さんとは案外な、元気もイキもおもふ壺にこなかつたやうに伺ひました。とんと、間延びに、イヤ絶句的につまづき加減の個所が二三回ならずであつたやうでした。尤も放送会館になつてから、ともすれば器機に故障を来たす例もありますから、其のせいだつたかも知れません。しかし、お弓の「言はんとせしが、待てしばし」の結構だつた事、お鶴の「叩かれたアリ」の可憐さなどもさすがに、感服ものであつた事を記臆にとゞめておきませう。
 
大阪女義 〔九月十七日〕
傾城恋飛脚=新口村の段
  竹本清糸
絃 豊澤仙平
 此の上るりは、名人摂津大掾も一生満足に語られなかつたといふ難かしいものです……とBKのアナウンサーが解説した。本当か知らん、さうすると、安藤都昇君のなんかナツチヨランものとなる。サテ此の清糸さんのはどうだつたらう。昼間の演奏にしては四十分といふ時間に恵まれて充分に発揮出来る「立寄らば、大樹の蔭」から。梅忠二人の出も、悪く艶ツぽく語らぬに好感が持てた。好い声柄、何でもいける調子である。「京の六条の珠数屋町」もよい。例の忠三のくだり、窓前を通る人達の事などスツ飛ばし突如として老足孫右衛門の出になつた。憂ひも割合に利いて、これは達者である「是非もなや」も出来た「わたしの姿…」には聊か難があり、段切りに近づいて、少しタレギタになつたが。「とゞかぬ声」は巧かつた。仙平さんの絃は、無論結構である。さて、摂津大掾とどう違つたか幽冥境を異にして……
 
大阪女義 〔九月廿一日〕
双蝶々曲輪日記=引窓の段
弾語り 竹本小仙
 久し振り、恐らく本年は最初の出演かとおもふBKの局宝竹本小仙さんの弾語りである。出し物もさすがに、かいなでの唄うものでなく、渋いといへば大渋な古靱好みとでもいふべき「引窓」である。先づ、ノツケの与兵衛と十字兵衛の語り分け、取つて付けたやうな拙劣なものでなく、世話から武士言葉に代る頗る結構、母親もよし、お早もよし、総ての足取りも闡Rする所なく、濡髪もシツカリと、稍や博徒染みたといふ評もあるが、立派な角力取、女義と思へぬ声巾のどうやら古靱さん式のケ所もあり、最も良かつたのは、例の母親の絵姿に搦む「銀一包取り出し」から「未来は奈落へ沈むとも、今の思ひには替へられぬ」まであたり、真に迫つてホロリとさせる「さらば/\」の段切りまで、どこを抜いたか、ちよつと判らぬほどに十分の纏め方もよいとおもつた。
 
大阪古老 〔九月二十六日〕
仮名手本忠臣蔵=山科の段
  竹本叶太夫
絃 鶴澤友造
 冒頭に御詫をしなければならぬのは、当夜障はる事があつて、どうしてもラヂオの傍に寄れず、人伝でになりと、評判を聞きたいとおもつたが我等同好の誰れもが、同じやうに聴き洩らしたといふ始末であつた。叶さんは、今は文楽の第一線から退いて、専ら後進の薫育に努め、尚ほ研究を怠らぬといふ浄曲界の大先輩である。
 今春恋十の三吉子別れをラヂオで聴き敬服したものであつたが、この九段目はとにかく義太夫節としては大物に数へられ、その権威としては今や文楽の津太夫氏が目せられてゐるもので、叶さんの口とは、稍やその向きを異にしてゐるから、一般にはどうかとおもひ、更らに、当夜聴き損ねた事を残念におもふ事を附記しておく。尤も当夜は時間の都合もあり、前半だけを語られた筈であるから、津太夫氏とは又た別趣の、好き聴き物であつたらう事は想像に難くない。
 
 
109・10号 p14-15 1939.12.10発行
 
文楽中堅 〔十月十六日〕
菅原伝授手習鑑=佐太村の段
  竹本大隅太夫
絃 豊澤広助
 我が大器晩成居士大隅太夫君、痛めつけられてゐた道八翁に代つて、絃が広助師になつてから、此の前の放途『戻り橋』の綱や、最近東上文楽では、毛谷村の杉坂墓所や、廿四孝の景勝下駄などで、殊の外評判が好かつたは、先づ、何よりと喜んでゐたものである。さて当夜の『佐大村』聴く前には、或は此の人には良い演し物を探し当てた、と思つて、徐ろにスヰツチを入れる。と、豈図らんや、弟知らんや、年は寄つても怖いは親、からの訴訟の間は、松王丸の勘当願ひに吹き出すやうな白太夫の笑ひなど、中々味で、結構な出来であつたが、愈よ聴き所の桜丸の出からに至つて、極言すれば、醜態を暴露し始めた。アレ/\/\と思ふほど調子が外れ、いとも怪しい声が出る。第一、桜丸の詞が、一つも二つも低いので、中年の男にきこへ、八重が姥桜になりさうであつた。白太夫も熱意か、研究の不足の為めか、あまりに一介のお百姓になつてしまひ、前の訴訟の間の松と梅とを叱りつけるだけの一徹な強気皆無は、考へ違ひではあるまいか。広助師の絃が大隅氏の調子を外させたのは、駒が少々軽過ぎたのではあるまいか。介錯の鉦の音から以下は段切まで、中々よろしいとおもつたが、要するに、先師得意のものながら今の大隅氏には、この佐太村は、芸題の撰択をあやまつたものかと思ふ。
 
東京古老 〔十月三十一日〕
伽羅先代萩=政岡忠義の段
  竹本都太夫
絃 野澤粂造
 粂造さんとのコンビは四年振とかいふ。近頃お弟子の御連中も盛んなので、自然、芸道の勉強も出来るらしい都太夫師、今回はグツと品好く、先代の御殿である。オクリから直ぐ後半の、栄御前の出になつて、まゝ焚のダレ場を逃げ、充分に聴かせどころを捉まへて、四十分といふ余裕のある時間を、どう延ばすかと聴いてゐると、いつもの『さすが女の愚にかへり……』の後、本格的に八汐の最期を語り、さては、床下の鼠の件、仁木が現はれるかとおもふと、丸本の大詰にある『庄司重忠喜悦の眉、おゝ出かしたり/\』と来て『千代の栄へを鶴喜代の威勢は旭の昇るが如く、げに神国の人心、頼母しかりける……』と誰れも初耳であらうめでたし/\の段切を付けてチヨンは気の利いたやうな、又をかしなやうな勉強であつた。ノツケに我等が気に入つたのは、栄御前の調子の結構であつた事、殆んど近頃聴いた事のないほどの嵌つた演出、政岡も、存外、といつては失礼だが、品位相当、八汐も大緊張の、ドスを利かせて夫々によく『まことに国の』からの肝心のクドキは、普通当然の出来といふ処であつた。故朝太夫一党の、今は殆んど一人となつた都さん、その健在健闘を悦び祈る。
 
元文楽庵 〔十一月八日〕
卅三所花の山観音霊験記=壺坂寺の段
   竹本土佐太夫
絃  野澤吉兵衛
ツレ弾野澤市松
 名人大隅と団平のコンビで叩き上げ、弘めに広めた当時の新作『壷坂』は三つ違ひの兄さんで、浄るりなんど本式に聴いた事も無い現代の兄さん、嬢ツちやんでも知つてゐる名曲である。その名人両師から、親しく承け継いだといつてよい土佐太夫が、今や第一線を退いて、我等文楽党に、深い寂寥を感ぜしめてゐる時、彼れの最も良き同伴者吉兵衛の絃で、ラヂオとしては、時間も相応に貰ひ、邦楽『名曲の夕』のしんがりを承はる。寔に聴くに値する、聴かずんばあるべからざる一夜であつた。さて要らざる前置きを長々と書いてしまつたが、如何でした土佐さんは、と訊ねられた我等、言下に、近頃結構な壼坂だつた、と答へたものである。先づその語り出しの「まゝの川」イヤ『夢が浮世か浮世が夢か』から、現代の誰れもが殆んど言へぬ本格的の小事を聴かせて呉れる。御約束の三つ違ひの兄さんのサハリは言はずもがな、ともすれば、老けやすく、さては、堅くなり、或は、色つぽ過ぎる誤ちに堕するお里が、実に、此の曲中の若き世話女房になる切つてゐたのに驚かされる。後段、山へ行つてから、あア気の毒だなア、と心から同情を禁ぜぬほど届かぬ声もあつたりしたが、岩を建て水をたゝへての御詠歌も昔ながらに聴かれた悦ばしさ、途中の口三味線を以て唱ふアノ条りを抜いたのは時間の都合なるべきも、其他一二ケ所殆んど気づかれぬ程度に飛ばされたのも研究の末かとうなづかれ、殊にハツとばかりに、同聴者と顔を見合はして絶讃したのは、二度目にお里が戻つて来て、沢市の見えぬをいぶかり、先づ何気なく沢市さん、と呼び、更らに調子をツメて沢市さんと叫び、次第に、不安焦躁のイキを作る巧さ、犇々と我等の耳朶と心魂を打つた事である。茲に至つて、殆んど絶対的に賞讃してよいものであると思つた。吉兵衛師の絃は我等が久しき以前より推賞措かざる所、久し振りに心ゆくまで楽しませて貰つて感謝に近い気持と同時に、此を失つた文楽に、惜しくはないか、と言ひたいものが込み上げて来る位であつた。お里を帰してから沢市が、死所を求めて、上る段さへ四つ五つ、のあたり、此の絃が物を言つてゐて、栄三の人形が動いてゐるのを髣髴させたものである。金王丸久し振りに滅茶苦茶に賞めちぎる事かくの如し矣。