FILE 165
【 田中基臣 記事テキスト 】
【 塵外 煙亭 黒顔子 えむてい 里の火 煙の人 九曜星 金王丸 たの字 】
(2025.02.27)
(2025.03.05更新)
提供者:ね太郎
田中基臣の記事のうち、一部の記事のテキストを掲載した。
『太棹』の「通話会劇」、「東劇の廊下から」、「ラヂオ浄曲漫評」の一部と『文芸倶楽部』の記事は公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館の蔵書を使用した。
『咸宜園』1890.5-1890.7 塵外掲載句
「歌苑」p18『咸宜園』 (5) 東宜園 1890.5
「花薫風 田中基臣 山ゆけは風かをるなり野辺ゆけは風薫るなり花のさかりは」
「歌苑」p19『咸宜園』(7) 東宜園 1890.7
「蓮露 田中基臣 濁り江の水にはしまで蓮葉の涼しき露の香に匂ふなり」
『日本大家論集』6(1):87 1984.4.14
「勅題梅花先春 霜にたへ雪にしのひて あら玉の はるをむかふる 梅の初花 柴田礼一 /物みなの後れかちなる 世のさまに ひとりならはぬ 梅の初花 田中基臣」
『進歩党党報』1897.6-1898.6 塵外掲載句
「自由党 富山 塵外子/ 春逝て一山の僧皆愚かなり/ 藤侯の漫遊 煩悩の犬去りやらす夕涼み」
「呈党報記者 塵外子/ 其筆の青しといはす彼の新樹たれ/ 燃犀の筆よく木下闇をてらせ」
「蜂須賀文相 塵外子/ 蚊遣焚く人愚かにも見ゆる哉/ 馨六次官 しはしとて移し植えけむ芥子の花/ 己代治男 比叡となり筑波とも見ゆ雲の峯」
「大隈外相兼農相 富山 塵外子/ 花咲て庭一ぱいの牡丹かな」
「狂句(話海舟老伯)塵外子 戌の春喧嘩なんども興あらむ」
「勅題 田中塵外/ 降る雪に松もみとりをあらためて 大内山は静けかりけり/ 同[勅題] 富山県 塵外子/ 旗風や雪の朝日のきらり〳〵/ 雪ちらりまち高ひらり御慶哉」
人にいふ天下の事紛然雑然としてまた言ふに忍ひす、只見る溷濁汚醜の極なりと、アヽ真に夫れ斯くの如きか、吾れは知らす、霎時らく塵外に立ちて其の蠢たる人類か怒り、泣き、罵り、笑ふを見る、可ならんか。
閣に坐して遠き蛙を聞く夜哉 蕪村
○斯の境にあつて斯の世を行く、天下自から大平
春の海ひねもすのたり〳〵かな 蕪村
○雖然、蛙声閣々として時に安眠を妨く、之を逭るるの策、唯れ我れに数巻の俳書あるのみ。
春雨やものかゝぬ身のあはれなり 蕪村
○蛙聲の一 再ひ所謂戎智内閣に盲従せる自称大政党あり其心事酷た陋劣なりと。
猫の恋初手から鳴てあはれなり 野坡
○蛙声の二 其の現状甚た朦朧にして地位亦た危ふし。
山の端をちから顔なり春の月 魯町
○蛙声の三 比年軟骨動物といふもの政界に現はれしも今に稍々払底の有様なりと伝ふ。
手のとゝくほとは折らるゝ桜かな 一橋
誤まる勿れ、此の句は美しき桜花を詠ぜしもの。
○蛙声の四 一陣の狂風先に曩に起れるより所謂心に盲するの徒は必すや茫乎として霧中大洋十望むか如けん、されと硬軟、美醜、政党の旗幟今や正さに鮮明なり。
山吹と蝶とまきれぬあらし哉 卜枝
○蛙声の五 枢府といひ、宮中といふ、所謂元勲を羅して 至尊最高の顧問たり、慨するものは曰くこれ徒に養老の府たるに止まると、果て然るか。
花守や白きかしらを突あはせ 去来
○蛙声の六 或は軟骨海月の如く或は醜悪河豚の如く政界多く硬骨の男児を見す、此時に当り青年急進党興る、其形未た甚た大ならず其勢未た甚た熾ならすと雖も、其意気は既に斗牛を呑む、庶幾くば長して溌剌たる鮮魚たれ。
鮎の子の心すさまし瀧の音 土芳
「眼を病みて」25:34 1898.5)【富山紅緑子の投稿に続いて掲載】
「眼を病みて 中越 塵外子/ 眼病のおほろつき夜もなかりけり/ めをやみて夜たゝ蛙をなつかしむ/ 行く春を眼をやむおとこ妻もなし」
「駄句 富山 塵外子/ 大雨のたちまち晴れし夏野かな/ 滞陣の評定果てす五月雨/ 銀燭の牡丹見そなはす大臣かな/ 僧訪へは昼寝し居ますと尊とかり/ 鵜つかひの祟りもなくて老いに鳧」
『ホトトギス』1898.4
「第三等/・・・/滋賀の春湖水の東紅す 塵外/春月や東叡山の森の上 同/春風に足弱倶しつ東大寺 同/朧夜の東雲近き浦曲かな 同」「越中国 高岡 田中 (塵外)」(
「本誌第十四号兼題投句諸氏名」1(14):29 1898.2)
「春風や神馬おらたち埒の外 塵外/ 龍駕して春の海行夢なりき)」
「●高岡通信(越友会) 某」 2(1):45 1898.10
「十日にして雨なし祈りあぐみけり 塵外」
「○恋にも世界的と日本的とがある。(塵外)」
「若草や跣足つめたき水溜り 塵外」
「旅」 2(10):26-27 1899.7【他に 碧梧桐、今西鶴、紫紅、北渚、文魔、八州、猩々】
「○写生的の句続けざまに、シカモ得意なるが出来し時の嬉しさ。日暮れて宿に着けば、明き間乏しくて階子下の小間に押込められたるさへあるに、夜更けて合客の小商人めけるが無理に入り来れる嫌らしさ。心懸けて訪へる旧友の、我れと同し旅に今はありとて、家内の人の我を知らでうるさげに無愛想なる、乗り来りし車夫の足元や見けむ法外の酒代貧らむとする腹立しさ、名物の草の餅ならんと掛茶屋に憩ふ中、不図眠む気ざして夢に入りつ、眼覚むれば日暮れ近く、狼狽へて立出でむとするに、店先における洋傘の慥かに盗まれたる不念さなど(塵外)/○今夜はと、漸くに着いた宿屋の六畳に、横に成つて、日記を書きながら頻りに句を案じて居ると、隣坐敷に前夜からの馴染客らしいのが二人許り、晩酌の二合半に下婢を捕らへて騒かしい狼藉、アヽ月夜なら次の駅まで出掛けやうと思ふた(同)」
「田植十句。作者十六人、選者十八人。百八十句の内七句を選む。互選結果/・・・虚子(十二点)四方太(十一点)・・・塵外(七点)・・・/四点 玉苗やうまし御国の田植唄 塵外」
「炬燵出て机によるやふところ手 塵外」
「元日の少し曇りてめでたけれ 東京 田中塵外」
『憲政党党報』1898-1899 塵外 田中基臣
「党員の去就/ しまきして残る紅葉や散る紅葉/公党の精鋭/ 常磐木の枯葉は散てしまひけり/偽党の堕落/ 庭だづみ風の落葉の行衛かな/蛮閥の乾児/ 暮れ近く落葉掃く子の哀れなり/蛮閥の余命/ こがらしの一夜に散らむ梢かな/老朽の官吏/ 橋杭に凍り付いたる落葉哉/伊侯の帰朝/ 帰りきておどろく庵の落葉哉/政界の暗澹/ 広庭の落葉しはらくは掃きもあへす/伴食の閣員/ 御手洗にしばし散り浮く枯葉哉/朋党の機関/ 狗の児の落葉の庭に狂ふ哉」
「降伏 次の間に畏まりたる火鉢かな/対抗 さるほとに角つき合ふて年くれぬ/硬骨 買ひに来た盆栽売らす冬こもり/軟腸 乾鮭の腐れかゝつて売られけり/衒硬 炭売の叩いて見する自慢かな/俗衆 一山は百文と申す蜜柑かな/蛮閥 祝はまく雑煮に老の恨あり/[非/虫]党 うかれ女のうきたる恋や松の内/議会 争ひは龍虎の凧の張強し/政府 門松のめでたかりける館哉」
「憲政党々報は其の第二号の劈頭に党論とも擬ふべき『財政改革意見』(大江卓氏稿)を掲げたるが中に言へるあり、曰く
余は既に経常歳入は経常歳出を弁ずるの程度に止め、臨時歳出即ち其時々計画の事業に係る経費は一時之に応すべき財源を求るの至当なるを説けり、而て彼の十年計画の継続費に就て考ふるも其経費は明治四十四年に至れば皆無に帰すべきにも拘はらず、是が費途に充つるの目的を以て百千年に亘る劫久的性質を有せる地租を増さんとするか如きは其の謂れなき事、三尺の童子と雖とも容易に解し得べきなり・・・・・・僅々三四年間幾何か経費の不足を生するより経常歳入の増加を計るが如きは経済の本源を知らざるも亦甚しと言ふべし、斯る議論の世上に喧伝せらるゝに於て余輩奚ぞ一驚を喫せざらんや。
議論は可なり、余は憲政党中斯くの如き意見を持するものあるを喜ぶ、只宛かも地租増加案が衆議院に於て大論戦に付せらるゝ日を以て発行する憲政党々報の劈頭に斯る議論を掲けたるを見て頗る奇異の感なくんぱあらず、何とやらの筆法に依れば憲政党々報地租増加に反対すとでも書すべきか、サリトテは党の機関たる実を没却ずるものにあらずや。」
「梅咲きぬその一と枝を手折らんと おりたてはなくかごの鶯/ わたかまる龍のあきとの玉なれや 老木の梅にさしかゝる月/ 探ね来し梅また早く家土産に 茶みせの媼か昔かたりを/ 紅梅の軒端は雨と成りにけり 妹か手馴の琴や弾くへき/ 鉢にして心尽しの梅さきぬ 歌よまむ友にいさや文せん」
「○○議員 塵外/ 列へられて雛の貌の罪もなや/所謂先輩/ 上段に古き雛の大いなる/軟骨議員/ 紙雛の腰弱くして埒もなき/博覧会/ おとゞひの雛に争ふいはけなき/ 十三議会/ 一日を甘きに酔ひぬ桃の酒」
「里の子の蛇追ひまはす焼野かな/ 袴着て酔ふて戻りぬおぼろ月/ 春寒し日枝の麓の朝ぼらけ/ 間道や雑木の中の初桜/ 春月や東叡山の杜の上/ 陽炎やぬきすてゝある草鞋より/ 滋賀の春湖水の東紅す/ 春風に足弱倶しつ東大寺/ 若草や跣足つめたき水溜り/ 春風や左手に手綱右手に鞭」【
ホトトギス1(14)後3 参照】
「菜の花に百戸の村の夜明けかな 塵外/ 恋猫の闇をなきゆくあはれ也/ たそかれの雉子打ちとめし端山かな/ 紫や董咲く野の夕つく日/ 桃咲いて女客あり処士か門」
一部の党与と虚業家とが狂奔怒号する鉄道国有の議が我国財政経済の現状に於て到底実行すべからざるは固より言を俟たず、仮りに歩を譲り之を実行すべしとするも、国有と民有との得失の上より之を較視すれば其の民有に益にして国有に損なるは我が鉄道営業の実況に依りて輙く之を察知するを得べし。左の数表は予が嘗て前党報局員円城寺清氏と共に調査したるもの、粗略に失すと雖も亦以て国有と民有との得失を概見するに足るべし。
[既成哩数と興業費の割合]【表省略】
表中、一哩に対する興業費を掲げざるは未成線の竣功程度不分明にして精確に算出するを得ざるに由る、斯くの如く不分明のもの少なからざるを以て固より彼我の間、十分の比較を為すを得ずと雖も、要するに官設鉄道の興業費の民設鉄道の興業費に比して頗る夥大なるは争ふべからず。彼の買上線を以てせらるゝ日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道等の大鉄道のごとき、其の竣功程度不分明の未成線に投ぜし興業費を積算するも平均一哩の興業費に日本鉄道四万九千二百九十二円、山陽鉄道五万八千四百八十円、九州鉄道六万四千二百八十六円に過ぎざるを見れば、則ち以て益々其の然るべきを徴知すべきなり。
[既成哩数と営業費]【表省略】
営業に関する経費の上より見れば京都、阪堺等一二を除くの外は官設鉄道に比して何れも少額なるを見る、勿論営業費の多少は其の営業の繁閑に由るものにして之より生する利益を較視するにあらざれば其の真相を断ずる能はざるも、要するに官有の冗費多くして民有に節省の美風あるは此の一表に依りて明かに推知すべきなり。
[興業費と純益金]【表省略】
東海道線は我国鉄道中、最も有益多望なる線路なり、然かも其の興業費に対する純益金の割合は僅かに一割二分四厘にして民有鉄道の之に凌駕するもの少からず、殊に信越線以下に至りては著しく民有鉄道の下に出つ、国有と民有との得失益〃以て明白なるにあらずや。世の鉄道国有の妄議を唱ふるもの、此の諸表を熟視せば必らず自から啓発する所あるべきなり。
『中央公論』23(9)(234):152-156 1908.9
警察の一と昔
黒顔子
僕の前身は巡査==過ちの功名--何者か怪しの人影==行路病者の取扱==赤坂警察の不埒==両署員の確執==非常な敵愾心==赤坂に対する復讐==治外法権が残念==日本婦人凌辱事件==陸軍から談判==予戒令を喰つた==連累者としての冤罪==新派俳優になる
▲僕の前身は巡査 でした、それが十年以前の素より血気旺んな時代、随分おもしろい事、苦しい事も沢山ありましたが、左様サ、二三件変つた事をお話し申しませうか、僕は当時多く麹町署詰で、先つ
▲過ちの功名 をしましたのは、九段の華表前の交番に居た時分、寒い頃の夜行や何か可なりに憂らいもので、先輩がよくやらかすので、新参の僕等もいつか見習ひ、あの中坂の上に小さなお宮があつて、賽銭箱の後ろに蹲まると丁度、表からは見えず、午前二時から四時頃迄一ト巡りを大抵、其処で寝たものです、或晩の事、寝むくて堪らぬ処から一つ今夜もとやつて行き前後をうかゞい、例の賽銭箱の傍まで来ると、我より先に、
▲何者か怪しの人影 がする、管内同僚では乃公一人の筈だがと、立坊でもある事かと左手の角燈を翳して一寸箱の角を蹴つたが早いか、飛鳥の如く身を躍らして逃げ出す曲者、同時にガラリト落した一挺の出刃庖丁、ハツと思つて有繋にソコは職掌ですね、角燈投げ出し跡追掛け、漸くの事で取押へ拘引をして取調べると、これが前科者の強盗未遂で、見付かれば嚝職のお咎めを受けべき僕が賞与を貰ふ、即ちこれが怪我の功名、随分斯ういつた様な事はいくらもありましたよ、それから
▲行路病人の取扱 に就ては其当時随分警察も乱暴な事をやつたもんです、それは茲に一人の行路病者が出来ると余所の管轄区域に棄ちやつたもので、僕の関係した此事件が大事になつた実験談があります、それは僕が丁度夜の十二時頃でしたらう、清水谷の大久保公園から赤坂の弁慶橋の方へ巡行中、フト向うを見ると赤坂の方から警察の提灯が三ツ計り、ブラ〳〵とコチラの方へ来る、ハテナと立留つて見て居ると、橋を渡つた大きな石の傍へ何か大きな物を置いたまゝ、其提灯は元来し途ヘサツサと引返して仕舞ひます、夫から近付いて何だらうと之を見ると、イヤ其臭気といつたら衣類も身体もメチヤ〳〵に石炭酸をブツ掛けた例の病人ですね、彼処の弁慶橋の真中から麹町と、赤坂と管轄が分れるので、僕は其時其病人を可愛想だと思ふと同時に
▲赤坂警察の不埒 を憤慨したのです、又憤慨すると同時に、どうして呉れやうと大に考ヘたのです、先づ取敢へず其病人を何でも赤坂の管内へやつておいてと、之を起すと、『ア、またお巡査さんですか』と心細い声を出して憐みを求める、抱くやうにして之を橋の方へやつて置いて急き足で僕は警察へ引返し部長や署長へ此旨を報告した上、更らに其承認命令を得て、又直ぐと今度は赤坂の警察署へ談判に行つたのです、果して其晩赤坂では当直の巡査が面倒だと思つて小使を連れて麹町の方へ舁ぎ込んだのに相違なかつたのですが翌朝署長と署長の往復で其事件はマア内分で済ませる事になる。得て上の方ではコンナ不都合な交渉が成立つたものですね、それはそれで済んだけれど、其後といふものは遂に何事によらす。
▲両署員の確執 となつたのです、無論赤坂の方が大変な事を素破抜かれたのを根に持つて、何か麹町の奴等が、と私かに眼を付けて居たものですね、すると生憎と少し酒癖のある僕の方の同僚が或夜赤坂の方で飲食をして少し乱暴をやつて居るのを知つた赤坂署の連中、直ちに現行犯として之を引致し、理も非もかまはず表沙汰にした、酒の上の少々位の間違は常にある事で、同僚の事などはイツも示談で済ませる慣ひであるにも拘はらず、平素事あれかしと待構えて居たのですから、堪らない、遂に其巡査は免職になつて仕舞つたのです、サア、之を聞いた僕等は無暗に癪に触つて、今度はコツチが
▲非常な敵愾心 を起したのです、それから一二ケ月も経ちましたか、恐れ多い事ですが 英照皇太后御崩御の朝です、今上陛下には御急電に接せられ、後ちに伺ひ奉つたのですが其時御馬車の扉も御自身に開かせられて青山御所へ行幸になつたのですが、咄嗟の場合此の行幸の仰出され、直ぐといふ、素より赤坂警察へも警戒命令が間に合はず、我麹町署に御出門の事が達した時に居合はして僕と今一人の巡査、それツといふので当時麹町八丁目の署から青山の御所まで一気に駈け付けた位で、出来る丈の敏捷な方法を執て麹町署の巡査を徴発して赤坂方面まで悉く兎に角警護の固めをやつて仕舞つたのです、何しろ前後に例の無い事でせう、御馬車が侍従長と御同乗の只一輌、前に天皇旗を立てられた極めて簡単な事ですから、赤坂署などは始めの程は、僕等の騒ぎを見て何が始まつたのだらうと怪しんで居た位、僕等の方ではこれが即ち
▲赤坂に対する復讐 の積りで一番鼻を明して呉れやうとの野心を持て居たのです、見事大成功で、やゝ少らくして赤坂の方からも出て来て我々の間々へ立て居たが、『コヽは僕の方で引受けたからお構い下さらんでも大丈夫です』と皮肉を言つて実に其時位愉快な、いい心持の事はありませんでした、其日も無事に相済んで僕等は非常に面目を施こす、赤坂の署長は何でも進退伺を出したといふ事でした、其お話はそれだけでしたが尚其当時、僕が巡査をして居て、屡々見聞し或は関係した中、常に、
▲治外法権が残念 で堪りませんでしたよ、二言目には国と国との問題になるからツてんで、始終僕等は署長に叱られて居たのです、其一例を申せば欧羅巴の最も強い某国(筆者曰く総て国名、人名は預る)公使は大層日本通で評判の好かつて人で長く我国に駐在された人ですが、彼の人なども随分、永い間に乱暴を働いたものですよ、彼の人の
▲日本婦人凌辱事件 なども我々仲間や其他にも随分有名な話しで、御承知の通り西洋館の構造が部屋の中からピンと錠を卸せば玻璃窓で、それこそ呼べど叫べどですからね、例の雇女を強姦したのですね、それで何しろ公使といふので其筋でも殊に秘密に取扱ひ結局僅かの金て内済といふ始末でさア、僕等も当時大に憤慨した一人ですが、我々が何んと言つても仕方がありませんや、それからモ一ツは○国公使でこの人はよく馬で市中を駈けたもので、随分乱暴な往来のものを鞭でなぐる癖があつたのです、悪い癖ですね、当時一二の新聞にも極めて簡単に、この鞭打事件は出たものでしたが、それは士官学校の連中を打つたので遂に
▲陸軍から掛合 ふ騒ぎになつたので、事が大袈裟になりかゝつたのですが、何分例の治外法権といふので、尤も此公使は間もなく転任する事になつたのですが、僕は一変斯ういふ事がありましたよ、永田町辺を巡行して居ると、後の方からやつて来た先生、例の無茶でピシリと僕の左の肩へ鞭をあてたのですね、其時に僕はチヨイと右の手で、斯う掴むと同時に曳いたら、スルリと向うの手を辷つた鞭を其儘ポント投つた奴が何処かの屋敷の中へ飛込んだのですね、先生躍起となつて怒る、僕は始めて気が付いた風をして二三押問答の末、『投つたのは悪るかつた』と口惜しいけれど例の治外法権の為に謝まつて署に帰り、署長に此旨を報告しましたが、署長は僕がどんな失礼をしたかと大分心配の模様でした、トニカク鞭を引たくつて投つてやつたのは自分ながら痛快でした、まア当時のお話しは此位な事で、其後僕は巡査をやめて浪人となり、友人のやつて居た或る下らぬ雑誌など手伝つて居る内に
▲予戒令を喰つた 事があります、或日元と懇意な刑事がやつて来て、『一寸君に署長が遇いたいといふから署まで来て呉れ玉へ』といふので、何の気なしに行つて見ると、別室へ通されて丁寧に署長が洋食など取て食はせる、ハテ何事だらう、以前は上官として知り相には相違ないが、今ま御馳走になる因縁はないと、不審に思つて居ると、やがて署長は威儀を正して一通の辞令様のものを出し『どうも気の毒ぢやが一度警視庁が之れを発すると、モウ一寸、恢復が出けんのでナアハヽヽヽヽ』と高田式に差付けられたのが即ち予戒命令なのです、僕は実に意外にも、心外にも、少し署長と争ひながら其仔細を聞くと
▲連累者としての冤罪 で、それはチヨツとして知人に当時某新聞の三面記者が、両三日僕の処が静かだといふので、原稿を書きに来て居たが、其原稿が某華族の家庭の事を書いたもので、奴は脅迫罪で引つぱられる、原稿を書いた家主の事とて僕の後援者といふ難有い認定を下されたのでした、これも偏に僕が無職業で居た罪であると、已なく例の『十日以内に正業に就くべし』との命令に従ひ、非常に考へた揚句の果、膝を打つて思ひ付たのは
▲新派俳優になる 事で、早速夫々の手続を履むで其筋だけの俳優の鑑札を受けましたが、まだ一度も舞台を踏んだ事のない役者が一人出来上つたので、滑稽ですな、其後しばらくしてから川上さんの一座へはゐり爾来別種の辛酸を嘗め来つたのです。(完)
『中央公論』24(1)(238):1-5 1909.1.1
廿五議会の夢
黒顔子
衆議院の予言
平生国事を憂ふるといふものは恐ろしいもので、ちよいと病気をしても、夢は日比谷の方へ飛んで行く、新聞のチリン〳〵に驚き覚めたあとまでも、髣髴として猶ほ其夢はまざ〳〵と見える、可笑しいやら、おもしろいやら、不図思付いて取敢へず書いて見る。
△長谷場氏の議長振
蛮音を揮絞つて、宣告は能く場の四隅に徹底す、杉田よりは、その評判は蓋し此点に於て也、黒人筋よりは其裁決か余りに手前勝手なる為め、却て議長典故の教授方困難なりとの説、書記官連の口より洩る、是亦尤なるが如し、
△議長室のお召替
長谷場氏、臨時参内を要することあり、例のモーニングを議長室にて脱ぎ代ふ、偶々通り掛れる新聞記者、之をスキ見して、議長の大喝を喰ひ縮み上る、
△戸水博士の八百長
戸水博士其珍竹林なるフロツクコートを演壇に運ひて、議会に於ける処女演説を為す、東亜の形勢に関する質問の理由を詳説せるなり、小村外相の答弁簡単に過ぎたるより、更らに再質問書を提出して、大演説を為すべく期待されたりしが、時機を逸したりとて止む、一部政界は前者をすら八百長演説なりとなし、後者は無論、其筋に囚はれたる結果なりと猜するもの多し、
△蔵原氏の長演説
蔵原惟廓氏、某新聞記者に対し、今期議会は緘黙主義を守るべしといへるに拘はらず、越えて数日、教育問題に関し約一時間半に渉る長演説を試み、政友会の鳩山氏を始め、盛に之を妨害し、議員亦た過半退場せしも、氏は熱心に其所説を演了し、今は昔の夢となれる望小太氏を想起せしめたるのみならず、彼の神藤才一氏と好一対の名声を(?)を博す、
△福井三郎氏の愚痴
請願委員会に於て某問題の為め、福井三郎氏主査席を他に譲りて大に論争し、得意の快弁底止する所を知らず、第二喋郎の名益々高し、シカモ採決の結果、一に対する十余にて悉く反対す、三郎氏曰く「喋舌り過ぎたか知らん』と、
△山根氏の政府攻撃
山根正次氏例の伝染病予防問題を提げて、政府当局を攻撃すること頗る痛烈、身宛かも直参党たるを忘れしが如し、臼井哲夫氏、安達氏を顧みて曰く『浅羽と山根は夢中になるから困るね!』
△浅羽氏振はず
大同派の浅羽靖氏、常に北海道問題を捕えて彼の所謂『人民』の為めに気を吐くこと最も旺也、然るに今期氏は殆と絶対に沈黙主義を守りて振はざること甚しく、人其の意外に驚く、氏曰く『斯うして置かんと可かんです』と其何の意たるやを知らず、
△中野氏と税制整理
中野武営氏、早く軟化の風説を流布せられ、心私かに憤慨せり、予算案討議に当り、武営氏決然起て大に税制の整理を説き、悪税の改廃を論ず、之に対して若槻大蔵次官、例の簡潔、人を愚[ばか]にせるが如き弁明を為したるが、中野氏再起せず、為めに其軟化説依然として衰へず、
△新議員の戸惑ひ
新選議員の戸惑ひは敢て珍らしからざるも、各種委員会に於ける最も甚たし、就中某博士議員が会議中に飛び込みて、直ちに堂々と意見を陳述す、列席の人、呆然凝視するのみ、蓋し其の未だ質問を了らざりし案なるのみならず、全然、別案に対する議論を吐いて洒然たりしが為め也、
△大博延期の質問
東京市政関係者より提出さる、肥塚龍氏咽喉を害して演説する能はず、尾崎学堂に譲る、学堂事を構えて之を辞し、お鉢は新議員にして市の助役たる田川大吉郎氏に廻る、先生蓋し大得意也、
△航路助成金問題
今期議会に於ける醜問題の第一也、之に対する衆議院は例に依て、否な例以上の醜劣を極めんとせり、其の実情は予等門外漢の知り得べき筋にあらざれど、唯た外形に現れたる処によるも、政友会の一部は三河屋組とみどりや組とを作り、其他の諸派亦た暗闘に暗闘を重ねて、問題の切迫と共に漸く陋状を暴露せんとす、シカモ結局、議場に現はれたる処を見るに、頗る平々凡々たるものなりき、
△後藤蛮爵
鉄道予算の議事、後藤逓相の出る幕頻々たり、新団体に属する某弁護士議員、常に警句を以て名あり、極めて真面目なる言論中、屡々『後藤蛮爵』蛮爵と呼ぶ、男爵苦笑し衆皆な失笑す、蓋し平生の口癖より誤て出でたるも、彼れ遂に其謬りを遂行し了る、
△遠藤清子
衆議院婦人傍聴席に毎期、連日、黒紋付、紫袴を着し、胸間常に美しき花卉を挿める一女史あり、姓は遠藤、名は清子、治安警察法問題、請願委員会を経て今期又た復た本会議に現はる、蓋し清子女史の熱心なる運動に係り婦人に政談を許さんとする案也、採決に疑義あり、結局氏名点呼を行ふの騒きとなり、少数を以て否決せるに、女史痛憤の気を眉宇の間に洩らし、蹶然として去る、一種の女傑也、
△ソマトーゼの看板
拓殖会社保護案に関して論争を生じ政友会の奥繁三郎氏、六尺豊かの体躯を演壇に上せて攻撃軍の急先鋒たり、之に対し直参党として忠勤を抽んづべく、大同派の柴四郎氏入れ代つて登壇せり、身長僅かに四尺幾寸、翌朝の新紙筆を揃へて曰く『ソマトーゼの看板』
△岡邦の足
政友会に於ける岡崎邦輔氏は九州の野田卯太氏と並むで、事実上の院内指揮官なり、問題の起るや、彼毎[つね]に議席を空うして右往左来、奔走到らざるなし、一日氏病みて出でず、偶々一問題を生し形勢混沌たり、策士議長席に上り議長と諮り、其決定を延期せんと試みしも、反対派勢に乗して即決を迫り、結局僅少の差を以て政友派見事に敗衂せり、後、同派幹部の人笑て曰く『今日は岡邦の足が無かつたので』
△翰長の密書
議案平凡、問題皆無、某日の議場頗る閒也、粋翰長私かに鉛筆を走せて当夜例の溜池に遊ばんとの一書を裁し、給仕に命して之を某悪友A議員に致さしむ、給仕手に別に面会人の名刺を携ふ、誤て之を議場内のA氏に渡し、重要なる密書は無残、新議員B氏の手に致さる、滑稽は実に這個偶然より生ずるを以て其の上乗とす、A氏未知未見の名刺を掴んで小首を傾け、B氏雲梯の誘惑を異としつゝ尚ほ快諾の返書送る、好個のポンチ也、後時、其給仕の誤りなるを発見して、三者相寄り大笑之を久ふし車を連ねて衆議院を出づ、
△陸相の鼻息
予算の討議漸く進んで、猶与派連、例に依て質問を連発し、政友会員亦た時に愚論を喋々するや、軍事費に関し答弁の衝に当れる陸相寺内氏、音吐怒気を含むて『帝国の自衛』を喝破し、鼻息荒きこと近年嘗て見ざる所と称せらる、
△質問演説
前期議会に於て最も多く質問演説を為せるは進歩党の沢来太郎氏なりき、自から称して二十五問題を捉ふべしと、恐るべき事共也、今回は其多く政友会側より出づるは甚だ現金なり、竹越与三郎氏の『清国問題』森本駿氏の『非募債主義に就て』斉藤珪次氏の『樺太漁場問題』など、二三のみ、
△前蔵相と現次官
予算案討議に於て最も注目せられしは松田前蔵相が政友会の一員として意見を述べたることなりき、而して其不得要領を発揮し了るや、現次官若槻礼次郎氏之が弁明の衝に当る、面白き対照也、次官が例の長き体躯に勿体を着け、落付払ふ演説振は太く政友会の末輩をして憤激せしめ、少なからぬ妨害を加ヘたる亦た当日の議場を賑はせる好材料にてありき、
△武富氏起つ
寡言沈黙久しく飛ばず、鳴かざりし武富時敏氏は『予算編成に関する建議案』提出者として登壇し、一場の演説を試む、荘重、森厳、好く議場を傾聴せしめ、進歩党議員は拍手を以て之を送迎せり、
△出雲大社補助案
前司法大臣千家尊福男、出雲大社分祠を東京に設け、婚礼儀式一切を受負ふべく運動却々[なか〳〵]如才なし『分祠奉置国庫補助に関する建議案』なるもの先づ貴族院を通過し来る、神宮奉斉会側の妨害運動ありと伝説せられ、政友会幹部はその前内閣の義理合として賛成の態度を示し、平田内務大臣亦た同意を仄めかせしも、各派は之を自由問題として、結局委員会の手に握潰しぬ、
△清国問題の秘密会
清廷に於ける某国の活動頗る旺んにして、列国使臣会議開かるとの報あり、時局漸く急ならんとすと伝へられ、衆議院各派交渉会は小村外相を擁して実情の報告を要請す、外相乃ち秘密会となして巨細に陳弁せしが、要するに大事に及ぶべき模様なく、事々多くは例の誇大に通信せられつゝありといへり、
△解散風
所謂新団体より提出せられたる例の三税廃止案中塩専売に就ては政友会中にも廃止に賛成せんとするものあり、動もすれば絶対多数に勝誇つたる同派の事なれば、少々位の運動にては容易に纏りが付かず、結局政府は其慣用手段たる解散風の奥の手を持出せり、浜口局長などの鼻息は頗る荒く、御用党議員の如きは傲然として曰く『此の内閣で、モ一度総選挙をやつて貰うかナ』と、
△所謂硬派
三税廃止案、解散風によりて僅かに多数の盲従者を出したりと見るや、請所硬派と称する団体中の軟骨連中は、ホツと一息するや否や、頗る猛烈なる硬論を主張し、中にはおかしき迄に其態度を一変せるものあり、心あるものは其いつもながらのサモンさに慨憤せざるなく、某新聞の如きは一々其氏名を明記して痛快なる評論を加へたり、
(未た随分珍なこと、ヒヨンなことも沢山あつたが、さまではとて。議会開会前しるす)、
『演芸倶楽部』1(3):195-196 1912.6.1
演芸俳神楽
えむてい
■帝国劇場
五月の帝劇例に依て初日から殆んど満員、水蔭君作の『愛と怨』で華族様の内幕をちよつと素破抜いた処、株主にして看客[けんぶつ]たる方々に大分ムヅついたのがあつた筈なり
打棄てし去年[こぞ]の抱籠[だきかご]おもひけり
委員長でも名優でも畑違ひと来ては致方なく、三幕を通じて宗之助と律子に団扇が上り幸四郎と梅幸が中でも不評とは聊か笑止といふ拙者に愛も怨も無い事なり
青梅や若木の枝にたわゝなる
『大森彦七』は呼物なり結構なり、故団州のを思ひ出すだけも嬉く、知らぬ見物には猶更ら妙也、蓋し幸四郎の当り芸、宗の助の姫も意外に好く、馬の前足亦た好評
駿足も騎手も賞めけり若葉影
『小磯原』梅幸のお賎彼[あ]の長丁場を殆んど独りで持堪へたのが豪し、唯だそれ豪いといふ計り、決しておもしろい芝居では無かつた様なり要するに失敗なるべし
短夜を子役が出ては泣かせけり
『福の神』は梅幸のビリケン縫ぐるみに金をかけて真物[ほんもの]以上と大喝采、踊りは苦心したほどに誰れも感服せず、女優総出で芸妓[げいしや]の仮装は長過ぎたれど賑やか至極
背景に牡丹の贅や仮装会
■新富座の新派
『瞽使者[めくらじゝや]』は、壮士芝居には持て来いなり、故人川音[かはかみ]の演つた物、何故追善に出さなかつたと思ふ、伊井が珍らしく強い人になり、河合が不思議に慎んで演つて居た。
虫払ふ下宿時代の筆記かな
『南地心中』は鏡花先生の小説を御自分での脚色とか、奇蹟、怪談例に依ての泉式、綺麗な景物で脅かしたものとも言へる、一座の江戸ツ子おます言葉で大汗なり
恋に生きて身は道端に蛇の衣[きぬ]
狼と犬、猿と蛇、飛んだ動物園なり、瀬戸の坊ちやん上野へ通つて猿の研究、犬は藤井が家の芸、五月の当り役は此犬と帝劇の馬だと申す、所謂犬馬の労か
夏の月馬噺けば犬吠ゆる
大切笑劇『金のなる木』は見ず、新たに出来た南の運動場は、ビヤホールに腰を掛ければきまりが悪く、匆々[そこ〳〵]に出て表ての飾り物宝恵駕の人形をロハで見て帰る
看板の人形を吹く風薫る
■文芸協会劇
五月の劇壇で文芸協会の公演は重なるものの一なり、三年経てば三つになる今度の出来栄彼れだけに見せた幹部の苦心は買はねばならず'舞台の有楽座も恰好也
家[や]移りの我が意を得たり栗の花
オフエリヤ、ノラ、マグダと進み行く須磨子嬢、ハムレツト、ヘルマー、シユワルツエと変り行く春曙君、依然重きを為す大王、クロダスタツト、ケラーの鉄笛子よ
泉石に花卉に庭面の涼しさよ
■明治座
老優市川斎入久振りに久松町の舞台を踏み、縁者鯱丸の四代目米蔵を襲ぎし披露の口上に、老の繰言細々と語るもめでたし、小団次亦た老て子故の涙それも嬉し涙也
本家から幟見に承る叔父伯父[をうぢ]
沼津の平作を見せんが為めの『伊賀越』は是非なし、斎入の老手、仁左衝門の巧者に競べんは我等素人の出来ぬわざなり、どちらも一度は見とくものとでも申さうか
足元に老を見せたる鵜匠かな
左団次亡父写しで得意の立廻り、唐木政右衛門は役どこなり奉書仕合を避けて講釈の真剣白刃取りも可く、畳返して曲芸も大向ふ大喝采、自由劇とは恰かも別人也
鮎刎ねて瀬々に雷光石火かな
絢堂と左団次、いつも新らしい方で成功するは嬉しい事也、『弟切草』に新味の分量薄けれど淡泊な所に一種の味あり、寿美蔵、松蔦の若き男女亦た好く出来たり
薬草に紅つけて名も新しう
米蔵名題昇進の演物として『土蜘蛛』は大役也、父小団次の渡辺、座長左団次の金時、斎入老も頼光を頼まれて迷惑さうに白く塗る、幹部総出の補助、蓋し贔屓の冷汗物也
花魁の襠[しかけ]は重し更衣
名人加賀太夫の新内も、余り度々にはと謝まつて見残し帰る、蘭蝶の又五郎、此糸の松蔦は嘸かし綺麗事なりしなるべく、演[す]る事も勿論確かと評判依て件の如し
唄に聞く果敢なき恋や明け易き
■楽天会
三度目の上京、喜劇楽天会をかけた本郷座は大入なり、曽我の家が十郎を失なつた如く此座も楽翁病気とあつて天外五郎の向ふを張つて大奮闘、一座も達者揃にて
呼ひ立つる高音聞きたり羽抜鶏
難かしくいふ喜劇は知らず、仁輪加の域は早くから脱して居る此会は、来る度に進境を見せ狂言の選択に苦心の痕を示して、今度の『我侭と強情』など特に,好評也
其中[うち]に樫の若葉の木ぶり哉
■いろ〳〵
歌舞伎座に演芸大会あり、美音会と名人会と落語研究会を集めたやうなもの、若手役者の袴踊りが景物なるべし、通俗教育会といへば真面目な方々の催ほしなり
日車[ひまはり]の傾むく頃や紅の花
演技座の革新団、五月の二回目は『三羽烏』で信長の怨霊出で中幕新作烈女浅岡で白川頼母の亡霊あり、二番『三世相』の夢の幕に地獄や極楽の亡者を見せるなど大変なり。
怪談に短夜更けて雨の音
東京座に猿之助出で綺堂の『小笠原島』を演じ,親譲りの法界坊に扮す、前者は淋しきも新らしく、後者は賑やかにして逆さ宙乗りの大ケレンなど、喜熨斗党大喝采
ゆきたけを合せて古き夏羽織
『文芸倶楽部』18(7):234-237 1912.5
貞山と山長
黒顔子
--不平と愚痴を言つて二人は笑ふ--
四月の名人会へ中日[なかび]から出演に及んだ一立斎貞山、長広の地味な芸が呂昇ほど喰付かず、日露戦争談といつたやうな素人噺し甚く評判が悪く、竹子の琵琶も余りドツとせず、さりとて相変らぬ加賀太夫の明烏では椅子料一円が合点せず、僅かに玉蘭会の美形揃ひが呼物の、それも六左、勘五のお内儀とあつて帝劇で売物に舁いだゞけの代物、日露戦争が引下つて乗込んで来た貞山で、いくらかお客を増やしたとあれば大なる功名である、前回の名人会へ出席して得意の義士談、初めての紳士淑女を泣かせ笑はせ、有楽座の先生方も感服の結果、今度も出て貰うやうになつたのだと我輩は自分で決める。
今度の読み物に『伊賀の水月』荒木又右衛門武勇の長講、義士ほどにホロリとさせる急所は少ないが、これ亦た貞山の家の芸。貞山徐ろに語つて曰く
『伊賀越のお話を致しまするに就きましては貞山の名跡を受けました私には深い関係がございますので、元来此のお話は二代目貞山が作致しまして、所謂家の芸なのでございます、当時二代目が、お話の中[うち]にございます柳生様のお屋敷に招かれまして荒木又右衛門を一席御好みで読みました、先達て大阪の雁次郎が帝劇で演じました『奉書仕合』誉田大内記が突然槍をお付けになると又右衛門、雁次郎は唐木政右衛門で致します、お神酒徳利の巻いた奉書紙を取て之をしごいて立合ふといふ、恐る〳〵弁じ了[をは]りますると柳生の殿様、貞山好く寄席で読む通りに奉書仕合を聞かせて呉れた、過分である、併し如何に達人でも真剣に対[むか]つて紙片[かみきれ]で立合ふことは出来ぬ、あれは作り事であらう、斯る場合は我流儀で真剣白刃取りの法があつて、切込み又は突込んで来る白刃を諸手の掌でピタリと押へる、得物の無き時分には此の法を用ゐる外は無い。今後寄席で読む場合も替て弁じたら好からうとの御言葉でした。』
『二代目の貞山恐れ入つて、尚ほ当時の御記録でもございませうかと伺ひますと、記録はあるが此の法は秘密の伝授ではあり、又右衛門と立合ひの時は次の間の襖は立切つてあつたのだから更らに判らず、勿論記録にも何も書いて無いといふことでムいました、二代目貞山に之より此の白刀取りの御話をこしらへ上げましたので申さば此の台本[ほん]の版権は手前の家にある訳でございます、柳生公の御話の中[うち]に『形ちのみあつて手に取られず』といふ御言葉があつた所から二代目が演題を『伊賀之水月』と命じましたので、知るや知らずや、当今では浪花節などで頻りにこの『伊賀の水月』を用ゐて居りますやうで、私から申しますと版権を侵害されたやうなもので一寸不平が申したいのでございます』とにこりと笑ふ。
新派俳優山崎長之輔一派は此の春から永年売込んで相応に人気を持て居た中洲の真砂座を追はれて仕舞つた、追ン出たのか追ひ出されたのか其辺は確と判らぬが、我々見物の側から言へば惜しいものだと思ふ、伊井の声色を使うのが少し嫌だがそれも売出すべき手段にしたのが容易に放れず、又た多少は同じ二枚目役者の天稟に似て居ると思へば腹も立たず、持味に伊井以上の処も贔負眼には見へる、一座の若水、久保田、木下なんぞ皆相応に贔負もある、どこにどうして居ることかと代り目毎に見て居た拙者などは苦労症の大[おほい]に心配をして居ると、去る三月忽焉として赤坂の溜池に現はれ出でた、狂言は『己が罪』に『通夜物語』十日間日延なしと断つて一座は大奮闘大きな芝居が大抵は日限[ひぎり]を打通し兼ねて三分から五分のお客を呼んで居る臨時霜枯れの時節に際して初日から満員をかけた成功は我等頗る満足の感に堪へなかつた。
其時山長愚痴つて曰く、
『どういふ訳で真砂座が私共を袖にしたのか今以て判らないのです、何しろ御承知のやうに最初女優が一幕切りに旧派が二幕位であつたやつが、其次には女優が二幕取つて旧派が三幕から四幕で、私共新派は開場時間を早めた午後三時頃から五時頃まで三幕とやれない仕組になつたのです、二月でしたが最う後[あと]の狂言[せかい]の相談になる筈だが何の話もない、中日[なかび]過ぎても我々の方は前途が真黒[まつくら]です、其中に旧派の方は狂言が極つたといふ噂、サア一座の者は私の処へ来て行詰つてから狼狽しないやうにといふ騒ぎです、已むを得ませんから座主に対して一体何うして下さるのですと談判に及ぶと一寸こゝの処横浜[はま]へ出ては呉れまいかとの意外な話です。』
『既[も]うその時座主の腹は決つて居たのです、私は万事休すと思ひました、併し私は断然之を拒絶しました、自分の手で地方へ出るのなら致方もありませんが本城を取られた形ちで同じ座主の手では断じて出ませんと私も覚悟を決めました、まア〳〵といふので物別れになり、私は直ぐと名古屋の方へ売込みの相談をかけると、今度は座主の方から一座の鑑札を渡さないといふ強硬な態度です、情ない事には座員が多少の差はありますが、座主に借金がありまして鑑札は平生座主が預かつて居る訳で、如何とも致方がありません、渡さないのみならす貸しても呉れないのです、苦心惨憺の結果、私共は其鑑札の質を出さうが為めに福宝堂の活動写真を撮つて金をこしらへました、同[おなじ]地方では座主への義理がありますから、既に契約の出来た私の名古屋の方を破約して鑑札だけを取戻しましたが、恰度演技座が明いて居るので借りることに決めると、今度は真砂座の方から『活動を撮[とつ]た役者は組合法違犯なり此段御通知に及ぶ』といつたやうな書面が演技座へ来ます。飽くまで私共は苛められるのです、公然斯ういふ事になると黙つては置けぬといふことになりまして、さアそれからは組合規約と活動撮影といふ事件が大きくなつて歌舞伎座の田村さんなども中にはいつて非常に御迷惑をなすつたのですが、実は這の規約が出来た後[のち]秘密に撮つた先生方も明らかにあるので洗ひだてると大騒動になるのですが、無理に私共は此座に旗を上て仕舞つたのです、成行はこんな事で、前[ぜん]申上げた通り真砂座がどうして私共を苛めるやうな態度をとるかは今以て解りません、お蔭で大層な景気で一座はこれから姑らく地方を働いて参ります』云々と白い歯を出して之れも笑つた。
『文芸倶楽部』18(8):246-250 1912.6
よしあし草 (写真版口絵[△浪華の舞妓(二頁大、淸子、勝勇、呂之助)])
黒顔子
▼曽根崎での舞の上手▲
大阪は北の新地、一といつて二とは下[さが]らぬ○○席の女将[ぢよしやう]、剃たての眉の痕青く艶々とした豊頬[ほゝ]に靨の穴、若い折の昔を偲ばせる稍や権のある切長の眼に微笑を湛へて、
『恰度今[いン]ま文楽が開てゐますせ、越路はんは大層な太夫はんにならはりましてな、それに大椽はんが二ン度高座へ上らひやります、妹山脊山で一役、御殿で竹に雀のとこ、豪い人気だすといな、一日見物してお出でやす』
と、我輩に向つて弁ずる、連れの観光団が箕面の動物園を見に行つた間、女将と僕とは公園の某旗亭にシナルコを呑みながら其帰りを待合はして居るのである。
昨夜『八島』を踊つた清子[せいこ]とかいふ芸妓[げいこ]も可いが、地唄の『ゆき』を舞つた小きんといふのは大層な芸妓だね』
と質問に及ぶと、女将は頗る得意げに、
『先づ北では彼[あ]の二妓[ふたり]だつせ、月の中[うち]一週間づゝ名古屋から西川のお師匠はんが見えまして、何ぞ新らしいものでも出来[でけ]ます折には、両妓[ふたり]が名古屋へ駆け付けまして皆に教へるといふ風で、小きんはんは女形[おやま]、せい子はんは立役だすな、今では小きんはんが恰度五花街[みなみ]の富田屋[とんだや]の八千代はんといふたとこや。』
と細羅宇[ほそらを]の口金[くちきん]の烟管[きせる]で一服吸ひつける、
『小きんはんの阿母[おか]はんは有名な佐藤のおくにはんでな、舞の上手な血統[ちすぢ]を引いてまんな、妹[いもと]はんに小力はんといふなと小吉はんといふなとあつて、皆好う舞やはります、一[いつ]チ下にお信はんといふ子がおますが、縹緻[きりやう]もようおますし舞も上手やが、芸妓はんに出ぬうちに灘万(料理店)に嫁[かた]づきましたんや、灘万は摂津大椽はんの縁つゞきでな、大椽はんが媒介[なかど]してな』
と、聞かぬことまで盛んにしやべる、
『二人の外にまだ若うおますが勝勇、喜代次、呂の助、地の方では勝太郎、若春、よし子なぞが好い芸妓はんでおます、つい此間まで・・・』
と限[きり]が無い、僕は何かの材料にもと写真を貰ふ約束をして、扨て此の浪花花柳界の老将から、役者の噂を聞かうと企てた。
▼我童嫌ひの福助贔負▼
『十何年振とかで東上[のぼつ]た我童も余り評判が好く無かつたかね』
と水を向ける。
『好い筈がおましやうか、彼[あ]の優[ひと]も、親父の我童に仕込まれたらも少しマシな役者になつたんやろが、仁左衛門[をぢき]の悪うい処[とこ]ばかり覚え込むよつてさうだツしやら、早う、親父が亡くなりやはつた時、東京へ上[の]ぼせて仁左衛門[をぢき]の手から離れて修業したらな、貴郎[あんた]』
と大松島屋、骨灰微塵である。
『近頃東京へ来て当てた役者は雁次郎は別として延二郎と福助だね』
とモ一つ引出す。
『河内屋は達者だすからな、達者過ぎますしやら、福助は好い俳優[やくしや]でおます、炬燵のおさんが大層な評判やと聞いとりました』
と此女将高砂家贔負と見える、それから福助の家庭、人格に就て語る事頗る詳密、大方は忘れたが、何でも福助は今以て真[ほん]の坊ちで、親父梅玉が一切の切廻しをやり、芝居の身上[しんしやう]なども当人は碌に知らず、直ぐ裏合せに別居して居るけれども賄ひも皆な梅玉の方でやつて呉れる、先年神戸の成る恐ろしい毒婦に引つかゝつて大枚の手切れをとられた時などは大騒きであつた事など、いろ〳〵と話して呉れた。
『堀越福三郎はどうだらう』
といふと、言下[ごんか]に、
『あの人も雁二郎はんに付いてな』
と、一寸間を置いて、
『団十郎になりやはりましたら、芸も可[よ]うなる事だすやらう』
とは又た東京者の僕を前に置いての挨拶として巧妙を極めたもの、此の婆ア喰へねへ奴だと思つた。
ドヤ〴〵と観光団が帰つて来たので対話はこれで了ひになつた。
▼楽翁を失なつた天外▲
大阪へ着いたのはもう夕景であつた、一風呂浴びてお膳が片付くと彼此八時、徳三郎とか多見の助とか東京へ来ない、生粋の上方の芝居が見たいねと、一行四人新聞を繰つたり宿の女に聞合せたりしたが生憎なこと丁度切れ目で、どこも開場[あい]て居なかつた。
買物がてら散歩と決て宿の寝巻に外套を羽織り、電車通りをうろつくと不図、堂島座といふ小屋に楽天会の喜劇があるのを発見した、お小屋拝見旁々と一幕覗く事に一同異議もない。
西の桟敷へ腰を下ろして見廻すと、東の雛段には赤い処が一パイに押並んで居る、東京の新富座を一廻り小さくしたといふ居心地の好[い]い小屋で、聞けば今夜が楽だといふに相当の入である。
『楽翁が居ないやうだ、五月は本郷に来るといふが天外に会つて見やうか』
と誰かゞ言出して、トモカクも東京から見に来たのだと名刺を通じて貰つた。
幕が切れて楽屋へ招ぜられて行く、部屋着の上へ縞お召の羽織を着た渋谷天外、素顔の方が大層好い男のやうで、どこやら高田に似て居ると思つた。
『中島君に寝られたので非常に弱り込んで居ります、へい、曽我の家が十郎さんを失なつたより、私が中島君を失うのは苦痛です』
とさすがに座長だけの謙辞よろしく、
『中島君も今度は六かしいかも知れません、唯今は池田の回生病院の分院に居りますが、へい、やつぱり御承知の病気で、前に甚くやられまして、少し癒りかゝると最う女を近付けて居りますから、私は其時などは泣いて忠告をしたのです、何に大丈夫だといつてる中に、又悪くなつたのです、実に困つて了ひました、座員もあることですから休むわけにも行かず。一生懸命に演つて居りますが、五月の本郷[おんち]がどうも心配で〳〵で堪りません、へい十日開場の予定です、大切りに中内先生の文芸倶楽部にお書きになりました『嘘』といふのを演らせて頂かうと思つて居ります』
『へい、お蔭で、この堂島座はどうもお客の足の悪い小屋ですが今度も三日ばかり満員をかけました、今晩なども摂津大椽さんや、越路さんも来て居られます、北新地[きた]から小きん姐さんも見えてゞす、思ひがけなく先生方[あなたがた]まで・・・』
と、大層お世辞が好い、夜も更けることで、翌日は東京へ帰る人、そこ〳〵にして引取つた。
『文芸倶楽部』18(15):256-261 1912.11.1
新京極
▼桃山御陵参拝の事を了へて、奈良へ廻れば少くも一日仕事、宇治も近いが又の事と、帰京を急ぐ同行二人は紀念の菓子や絵葉書を買う型の如く、京都電鉄の停留所へと伏見の町をブラリ〴〵。
▼トある荒物屋の店前に、親指ほどの美くしい竹を並べて菱形に筏のやう、籐の鼻緒をすげた下駄とも付かず、草履とも付かぬを発見した、一足何程[いくら]?二十五銭!それは安いと土産心[みやげごゝろ]に一二足、萩桔梗秋の小庭の敷石伝ひ、下[しも]便所、凝土[たゝき]の風呂場など最も適当、今度御大葬に付て出来たものとか、其名を問へば伏見の人は優しい哉『呉竹草履』
▼薄曇る東山を電車の窓に眺めて七条に着いたのは未だ日の高い頃、最終の急行列車と決めて停車場前の旅館に荷物、一風呂頂いて宿の浴衣へ外套を羽織り踏み慣れぬ京都の町、一ぱし田印[たじるし]になつて二三時間ほつき歩行[あるく]く。
▼逢ひに北やら南やら方角を言はれて面食ひ、上る下るの町並、一向解らず三条小橋を左りの方へ、何とか大丸といふ怪しい呉服屋の建物ばかり箆棒に大きくてガンガラガンとした店頭を憐みつゝ所謂『新京極』の横へと出る。
▼赫[くわつ]と輝[て]る電燈真昼の如く、三間程の狭い往還、押し返されぬ人、両側は木の香新らしき手遊品屋[おもちやゝ]、菓子屋、袋物屋、甘[うま]い物屋と軒を並べてとんと公園の仲見世なり。
▼ドンヂヤン、ブー〳〵の楽[がく]の音[ね]耳に入るよと見れば、右側に広大な洋風建物、正面高き所、横に『歌舞伎座』とある。
▼けば〳〵しい絵看板の芝居ではなく活動写真、腮[あご]振り上げて倩々[つら〳〵]見れば年中無休、『東京福宝堂特約』とあり、喜劇『物価騰貴』や『ダム君の逃走』や新派悲劇『犠牲』囃子鳴物声色入り、別看板の図ぬけて大きいのには泰西活劇『波間の影』最長尺、これが呼物らしく主任弁士中川愛光説明と来た。
▼『一寸見やう』と下等十銭を二枚、今し『波間の影』の映写中、真闇[まつくら]な見物席は手障りフワ〳〵の立派な椅子、派手な事務服を着けた別品の姐さんがこちらへ〳〵と手を取らんばかりに、これ等も充分に『活動』の味。
▼愛光中川君とやらなるべし、快弁を揮つて、かなり鮮明な、かなり際どい写真を遺憾なく説明する、拍子も時に起らぬでは無いが、アノ広い小屋に八分通りの看客[けんぶつ]の静かな事、成程喧嘩口論を知らぬ京都ぢや哩[わい]とツマラヌ方面に感服して約[やゝ]二十分、長尺物の切れぬ中[うち]、この歌舞伎座も呑込み顔に出て了ふ。
▼仲見世と六区を一所にしたやうな新京極、それへ芝居もあれば寄席もあると連れの男は此の土地に一日の長、成程々々、福真亭といふに伊達若、東広なんど女義太夫の看板、活動小屋を中に挟んで今度は何とかいふ女流浪花節、引延ばし写真の堂々たる御面相を晒して下に木戸番の大胡坐『入らはい〳〵』
▼『芦辺館』といふ立派な建物、大阪の人でも出して居るのか、色物席の別看板に口上付、『柳亭燕枝』前の連中を並べた中には東京でお馴染の剣舞有村謹吾など、一寸懐かしさにはいらうかと思つたが、まだ此の先に何があるか、剰す時間に素通り御免。
▼不図横町を見ると『明治座』の新旧合同劇、新派は小織[さおり]、井上を筆頭に熊谷武雄、小堀誠[こぼりせい]、女形に井上春之輔、英[はなぶさ]太郎、若水美登理がはいつて居る、旧派といふのは九女八親子に秀調の妻女のしほが加はり、とにもかくにも結構な顔触れ。
▼狂言は第一近松の『世継曽我』此の春帝劇で女優が演じた中村閑居の場、九女八[くめはち]の満江にのしほと菊子の虎少将、この『のしほ』で想出[おもひだ]したは今夏東京明治座で伊井と河合の『己が罪』に瀬戸の息子へ振つてあつた玉太郎をかつみに演らせた内実の経緯[いりわけ]はのしほを松竹[まつたけ]が買はうの腹と小耳に挟むだその事〳〵
▼第二は井上の『鈴[ベルス]』クリスチヤンは熊谷の、小織は森番[もりばん]のハンスにつきあひ、娘のアネツテは井[ゐ]の春[はる]が勤める、一寸覗きにはいつた時恰度井上のマテアスが例の幻影を見やうといふ『ベルス!べルス!ウンニヤ何でも無い何ン、何でもない』と一句は一句より悽[すご]く、パツと舞台が暗くなる、正面一パイの綟張[もじばり]、橇に乗つた猶太人[ゆであじん]が吹雪の中に、電気の工合が充分に、注文通りに行[ゆ]かぬらしかつた。
▼この一場[ひとば]で下の巻催眠術の場は見残したが井上はやつぱり『鈴[ベルス]』役者だと思つた、第三は九女八の甚五郎で菊子の『京人形』、第四新作『疑[うたがひ]』四幕、第五喜劇『一粒種』と大層な盛上げ方、それで御座料[おざれう]一等五十銭の四等八銭は東京の小芝居より廉い。
▼汽車の出るには未だ三時間もある、先刻真葛ケ原の水琴亭で無理に呷[あふ]つたビールが漸く醒める、宿の借下駄の鼻緒が足を喰う、帰りは電車に仕やうとモ少し歩行く、『京都座』の前へ出る、おなじみの曽我の家一派、看板だけで失敬したが、第一『一時逃[じのがれ]』第二『むこ選み』第三『寝物語』第四『情』第五『隣の腹』何だか脚本が連続して居るやうだ仮令十郎無きも観劇料の一等六十五銭、四等十二銭は格安で東京ではどうも貪るらしい。
▼突当り『夷谷座[えびすざ]』といふ小屋、笑劇『瓢々会』とある、曽我の家、楽天会の他、松竹[まつたけ]の手に此の会あることは聞くこと久し矣だ、一寸なりと拝見をして、何れは東京へ乗出す筈の、其折は通をも並べんと上等場所行次第[ゆきしだい]十二銭といふ木戸を払つて飛込んだ。
▼恰度第三新作『合三味線』の車夫仙吉内の場が開[あ]いて居る、番付によると車夫に扮したのが座長格の泉虎[いづみとら]、見たやうだと思へば以前曽我の家に居た男、今の五郎の呼吸と柄で達者なものだ、其他島津瓢太郎、時田[ときだ]一瓢、清水猛、花木ひさごなんど確かに見られる、殊に女形が美くしい、作者賀古[がこ]残夢とある、これも聞いた人のやうに覚える。
▼無論一幕で退席したが、この分なら今少し上方式の擽[くすぐ]りを忘れて練つたものを拵らへ、来年あたりは出て来ても可からうと思つた。
▼後の雁[がん]が先きになつたとも言はうか、今ま京阪[きやうはん]で楽天会の人気素晴らしく久しく謹慎休業の後も楽天会は楽翁の復活と共に大阪で盛んに鳴らし前記曽我の家は京都へ廻はされたといふのでも相判る、瓢瓢会の諸氏よ、実力と工夫が届けば高名[かうみやう]手に唾して取るべき今や劇界の戦国である。
▼などくだらぬ事を考へながら『新京極』の瞥見もこれで打留めとして三条から電車に飛乗り其夜十二時過ぎの汽車に揺られて、新橋へ着いたのは翌日の午後、タクシーの自働車を駆[か]つて丸の内を飛ばせながら『ウム、帝劇がやつちよるナ。』
『文芸倶楽部』20(7):239-258 1914.5
変装東京一泊記 思案 荻舟 暁紅 春霞 煙亭 鬼太郎
【一、二、三、五 は一部分のみ】
口上 思案
兎角地方出の大事な方々を、江戸ツ児といふ人種が馬鹿にするのは、我等が常に見聞くところ、殊に大正博の開期を好い事に心得、動[やゝ]ともすれば甚い目に会はす由。・・・遮莫[よし]然[さ]ういふ事なら、我等一番田舎者と成り澄して、ぼられるだけはぼられて見やうの菩提心を発起し、日を期して上野停車場の待合室に参集した面々・・・鬮引で担当区域を定[き]めた、他の五君の健筆に事明細、・・・
一 上野から浅草泊り 荻舟
そこには最う大分先着の顔が見える。顔は見えるが変つた装[なり]で、何方を向いても失礼ながら、お知己[ちかづき]と名乗りかけて、名誉になりさうな柄は一人も見当らない。・・・最も凝つたのは田中様で、夜具縞の様な銘仙の布子に絣の羽織、羽の短いつんつるてんのインバネスに、信玄袋を襷に掛けて、首にはハンケチを巻きつけてゐる、頭の先は山高帽の頂辺を凹まし、足の先は朴歯の日和下駄に、コール天の鼻緒といふ、五分も隙がない隆とした好み、態々一本骨の折れた洋傘を携へて、見ると常から大事にしてゐた、鼻の下と下唇との髯迄落してかゝつた程の、何様手数のかゝつた扮装[いでたち]。・・・『宿屋に着いても間誤つくと不可ないから、凡そ段取だけは決めて行かう、何処の田舎者だい。』『何処彼処といふより、皆の知るつてゐる木更津にしやう、千葉県君津郡木更津町とな。』・・・『御旅館ふぢや』といふ看板が懸かつてゐた。博覧会が始まつてから、下谷浅草の旅籠屋は、到る処満員で、振りの客は断られ勝だと聞くてゐたから、・・・
二 夜食より脱出[ぬけだ]しまで 暁紅
落語の一分茶番を逆にゆく様な真似をするのも、折柄陸続東上する都馴れぬ客に対して、東京の宿屋は什麼扱ひをするか、其れを究めたいのが先づ此行のヤマ、元来[もとより]一同茶気満々たりと雖も、苦しみは漸く是よりぞ始まる。・・・
三 脱出しより泊込みまで 春霞
・・・おらが団長どんは藤屋へ帰つて切[しき]りに臥[ね]たがる。時計商[とけいや]の岡さんは固[もと]より異議なく、魚行商[ぼてふり]の荻舟子は唯ニヤ〳〵。山林売買師[やまし]の番頭然たる暁紅子と、堅気で居ながら小賭博[こばくち]の一つも打ち相な打扮[つくり]の煙亭子とは、些[すこ]し引下て何かは知らず囁き合ふ。天気の好い夜の浅草にはこんな図柄の人が確に徘徊[うろつ]く。秀逸々々。・・・
真ンまと千葉県君津郡木更津町の住人と成り了せて、一晩馬鹿にされた同行六人は、出かけにちよいと啖呵を切つて尻尾を出さうか、といふものもあつたが、何を申せ相手の女中の方が真物[ほんもの]と来て居るだけに、却々[なか〳〵]通せず。
『おウ俺の傘はどこにあるい。』位の江戸ツ子を用ゐた処で、力まけがして居るのだから『田舎の摺れツ枯らし。』位に思はれて了うが落だ。
例の怪しげな扮装[いでたち]で、雷門前の電車を横切つて吾妻橋の方へとゾロ〴〵。『電車道は斯ういふ風に歩かにやアいかねえ〳〵。』と僕は、前後に眼玉をキヨロキヨロさして、頗る狼狽の体で駆け出して見せる。
東橋亭の前へ来ると、真物がウヨ〳〵居る。見較らべると春霞君だけが聊か物になつて居るばかり。暁紅君の帯付毛皮襟の外套もちよいと好い。僕の短いインバネスに朴歯の下駄、中山[ちうやま]を凹まして阿弥陀に冠つた形は、やつぱり我ながら秀逸だらうと思ふ。
吾妻橋から蒸汽で奥の植半へ行つて飯を食はうといふ恐ろしい贅沢な議が持上つたが、自働電話で問合はすと、普請か何かで休業と知れ、一銭蒸汽説も打毀[ぶちこ]はれる。何といふ生意気な田舎者だらう。
予定通り、博覧会へ行かうと一決して、足弱の動議の賛成があつてワイ〳〵言ひながら電車に乗つて仕まう。
時々大きな声で『だんべえ』を用ゐるが直ぐと持病の駄洒落が出る。シツ〳〵といふ声がする。観覧券の事から話が真面目になると、のこらず江戸だ。
筋向ふに乗つて居た若い手代風の男が、ニヤ〳〵笑つて居る。
カン〳〵日の当る晴天に、人込みの博覧会へ此の扮装[いでたち]では、と最初は聊か人見知りをする風もあつたが、段々と度胸が据る。山下で電車を降りて一番後[あと]から一行をながめると、可なりにをかしい。
双角[さうがく]先生に観覧券の不用なやつを貰つて見ると、福引券を取つた日曜日の分だつた。馬鹿な顔をして第一会場の正門に向ふ。
お天気で相応の人出、自動車風を切つて三橋[みはし]の方から会場に向つて飛ぶ。フト見ると美形が五六人ベールを冠つて居る。小旗の文字に朧げながら「赤坂」とある。正門で切符を出すと、守衛が一寸見て『もしもし、これは日曜ので、五銭損ですが可[い]いですか。』といふ。素より承知だが少し驚ろいたやうな顔をして『ハァ可[え]いです〳〵。』と切て貰ふ。
ふと昨日出がけに銀座から電車に乗つて山下へ着くと、車掌が『あなた、こゝが上野です。』と注意して呉れたのを想出した。僕の変装は既に此時に於て成功して居たのである。
正門内の噴水の傍へ行つて、先づ皆なで詠める。口から小便を仕て居るやうな、其の下にブリキの馬ケツのやうなものゝあるやつを詠める。おもしろくも何とも無い。
案内を知つた暁紅君、双角君等が先へ立つてドンドン行く。左右の工業館などは見やうとも仕ないで行き過ぎる。已むを得ず後から踉[つ]いて行く。
誰れかに逢ひさうなものと。実はビク〴〵もので歩くのだが、誰にも遇はない。
思案先生は時計を出して『まだ十時だ、我々の知つてる奴は大抵今時分顔を洗つてる位だらう。』といふ。
双角先生は『自動車へ始めて乗つた時のやうに、誰かに逢ひてえやうな気もするよ。』などゝいふ。
美術館の前へ出る。何[いづ]れも素通りをしてズン〴〵行く。僕は荻さんと二人で一寸口元の彫刻を覗きにはいる。何だか人が見るやうな気がして、変で耐らなかつた。
畑正吉氏の「大隈伯」がよく似て居たので、目に付く、拙者の同郷の先輩であつて、当時内閣組織の大命を拝さうといふ政界の大立者だと思ふと、近づいて一寸逢つて見たくなる。
誰やらの作で、二人の女を両腕に抱へて立つ裸体像が正面に見物の視線を惹いて居た。
『あれ魂消た物があるでねえか。』と口元まで出たが、ふりかへると誰れも居なかつたので呑込んで仕まう。
皆の跡を追うと「東京館」へはいる所。
暁紅君が石橋さんの大きな革嚢[かばん]を洋傘の柄にさして担いだやつを入口の石畳ヘバタンと落す。中が空だから可いが陶器[せともの]でもあれば滅茶々々だ。
はいるや否や皆な出て来る『どうしたね。』と聞くと『満[つ]まらねえ。』といふ、『雷門前のふぢや旅館ていのは見えねえでがすか。』『ちげえねえ。』など、巫山戯ながら行く。
御園白粉の特設館がある。ちよつとはいると間口は相応にあるが、奥行は一間半ばかりで、何だか食はせ物のやうな気がした。『こんなのが特設館なら僕の処でも出せば可かつた。』と博文館の石橋さんがいふ。
入口の処でフロツクコートを着けた男が、何か玻璃[がらす]の器へ延上つて口を付けてフーフー、スースー言つて居る。立て見て居ると、その永いこと。香水か何かを吸上げて居るのらしい。始め人形かと思つたが人間であつて、シカモ恐ろしい長い人だ。
横の硝子棚の中に、九代目と五代目が楽屋で使つたといふ鏡台が陳列してある。『はゝア音羽屋の鏡は横に四角なやつだ、横は珍らしいね。』と小さな声で不審を立てる。
双角先生が、『横ぢやア無いよ。横にして飾つたまでの事、楽屋ではやつぱり縦だつたのだ。』と通をおつしやる。
団菊の楽屋を談ずるに至つては、田舎者離れが過ぎて居る。
此処を出て凌雲橋[りよううんけう]の方へ曲らうといふ角の処で、最前電車の中でニヤ〳〵笑つて居た若い男に遭ふ。此の男も見物に来て居たのだ。相変らず我々の方を見て微笑して居る。
少し行くと誰れだつたか『オイ〳〵彼の男の言ひ草が可いぢやないか。伴れの洋服を着たやつに、彼処に五六人行くのは彼んな風をして居るが、彼りやア田舎者ぢやア無いんだよと教へて居たよ』と。アア遂に彼の炯眼に看破されたり。
岡田の飲食店の前へ出る。『女将を驚かさうぢやア無いか。』と誰れかゞいふ。『居るか知らん。』と誰れかがいふ。と春霞君だつたと思ふ、ツカ〳〵と暖簾口へ寄つて、『少々物を伺ひます、アノお女将さんは未だ見えませんか。』などは、随分な田舎者だ。
凌雲橋を渡つて、『あすこが人喰人種だといふ処で茶でも呑まう』と、一同橋袂[はしだもと]の台湾喫茶店へはいる。
お客は一人も居ない。隅の方へ一塊りに、各自[てんで]にかついだ革嚢や疲れたお尻を、ドツコイシヨと下す。
揃ひの衣服[きもの]で手首に同じやうな大きな蟇口をブラ下げた美人が二三人、正面奥の火鉢の前へ腰をかけて、長羅宇の煙管でパク〳〵やつて居るのは其中[うち]の姐さん株、女王[ク井ーン]とでもいふのであらうか、感じの悪い顔をして居た。
此席での談話[はなし]は残らず江戸で行く。『何だい、その袋は。』と美人が来たので聞いて見る。受持があつて其日の勘定を入れるもので、それが毎日区分された卓[てーぶる]によつて競争になる訳だ、と訊ねない事まで話して呉れる。奥に鍵の手になつた室がある。そこは上等の客を案内する所で、上等といふとツマリお菓子が違うのだといふ。
一人前金十銭づゝで、約十分ばかり休憩した一行は『満[つ]まらないから最う出やう。』といふことになつて、そこを立出る。暁紅君が石橋さんの革嚢を又た落した。
再び岡田の前を通つて、朝鮮館の寺内さんの額を右に、左に「満州日々」の迎賓亭や、人参畑などを見て演芸場の方へ行く。
『この位歩いて未[ま]だ誰にも遇はないね。』などゝ話しながら行くと、演芸場の木戸に主任の坂本俊一君がゾロリとしたお装[なり]の雪駄穿きか何かで、こつちを見るのとブツかつた。
『やア。』『おう。』と帝劇以来何れもお馴染の顔揃ひ、殊に双角先生などは当演芸場に関係を持て居られるのだ。
驚ろいたやうな、可笑しいやうな、一種変梃な顔をした坂本君は、赤坂芸妓の演芸にはまだ間もあるといふ訳で、何といふことなしに一所にブラ〳〵と歩行き出した。
手短に昨夜来の経過を、大勢の口から聞いて居た坂本君は、今度は呆れたやうな羨ましいやうな顔をして居るやうに見える。
『写真屋は居ないかね、是非写真を撮るべきものだ。』といふ声がする。
美人島旅行館の前へ出る、出口から吐出される此の館の見物の顔が馬鹿のやうに見える。一行中の見た人々は口を極めて愚劣呼はりをして居る。表看板に居る二三美人の顔を覗いて見たが、あんまり美人では無かつた。
荻さんが四時までに帰らなければならぬと言ひ出して、昼飯の会場を近い処に決すべく要求する。僕も実は一時頃までには社へ行かねばならぬのであるが、最う到底その間には合はない。
此侭別れる訳には行かぬ。料理らしい料理を食つて、一ツ立派に解散式を挙げやうといふ議論が多数で、荻さんも四時までには帰る、僕もタマの事だから一日社の方を失敬しやうと決心させられる。
『サア何処へ行く?』風呂へはいるのが第一の条件となる。
二三人手を繋いで芸妓[げいしや]のやうな女が、キヨロ〳〵して歩いて居た。演芸場へ出る赤坂のだらう。
立佇つたり歩いたり、出口で無い門の処へ行つて又引返へす。今度はと進む門の中にも出入を禁ずる立札がある。坂本君が『出られるだらう。』と先きに立つので、六名の千葉県は黙つて踉いて行くと、やつぱり出られるのだ。禁止の立札は何の為めか、判らぬことになる。
汽車で王子へ行かう。と評議拠ろなく一決して、上野の山を降りた。
五 博覧会引上げより解散まで 鬼太郎
・・・昼食[ちうじき]ながら別を惜みに、王子まで踏出さうとなつて、偖電車に乗るに、上野が近いイヤ鶯谷が近いと忽ち御百[おんひやく]の性根を現し往来ツ端に一寸立止りの末・・・草臥足を漸く電車に預け、汽車に乗換へ、王子に着いて扇屋へゾロ〴〵入る。・・・団長が差出す絵葉書に記念の署名する中[うち]・・・
『文芸倶楽部』20(8):177-181 1914.6
三座「蚤取りまなこ」
黒顔子
歌舞伎、帝劇、本郷と順に端から見物して、ギロリ〴〵凄い眼を盛んに光らしたものゝ、さてこれといふ獲物もなく、最初結構なものばかりを拾つて書かうと思つたのが、つい持前の悪口が出洒張つて、とう〳〵恁[こ]んなものが出来上る。題して時節柄「蚤とりまなこ」といふ。
第一 結構なもの
△寺子屋の捕人と百姓 日本一の歌舞伎座は、茲に素晴らしい結構なものを見せて呉れた。それは、羽左衛門の松王が延二郎の玄蕃に譲つたとかいふ『源蔵夫婦を取巻き召され』の台詞の下、バラ〴〵ツと駆け寄る組子である。同時に奥と上手の障子内からも島十郎、芝若、照蔵、鯉三郎といつた各題役者が同じ取人[とりて]姿で十手を振つて立かゝる。これで前に松王が脅かした『裏口には数百人(よりは少し少ないが)の付け置き』といふ台詞も生きやうと申すもの。それと寺子の親共とある百姓が、我蔵、歌十郎、竹三郎、団三郎、団八、芝賞、村右衛門、橘十郎の八人、何れも堂々たる名代役者で、番付の表にも一々畑作とか麦右衛門とかいふ役名がある、捕人の方も左内、右内、隼人、主水、要人、兵衛といふやうな御家老若くは番頭位に付ける役名が明白に書いてある。歌舞伎座ならでは、といふのはこゝいらの事、先づ結構の筆頭に据ゆべきである。
△片市の黒雲尼 これを取立てゝ結構の部に置くのは、奇抜だといはれるかも知れぬ。併し僕が見た日、猿の助、亀蔵、粂三郎の尼さん達、ズラリ並んだ其中[うち]で、始終気を入れて役の心持、其場の情景を出して居たのは、片市一人、他は悉く出来ないのと仕ないのとばかりであつた。僕は片市の此役には特賞を与へて可いと思ふ。
△段四郎の繁斎 最も真面目に近来此の位な繁斎を見たのは珍である。此優[このひと]の役々の中[うち]でも此位僕に感動を与へて呉れた役は少ない。至芸である。勿体ない位結構といふのは斯んなのをいふのであらう。
△帝劇の幕間 歌舞伎座の初日で一時間乃至一時間と二十分位な幕間に頗る反感を持つた僕は、帝劇の初晩を覗いて七分乃至二十五分で、とにもかくにも彼の大道具を飾り付けて見せるのは、結構の部に特筆せざるを得ない。
△玄関の道具 帝劇中幕「河内山」の松江家書院の場が廻るところを幕にして、五分ばかりで開いた玄関先、式台を広く、二段にして、曰窓[いはくまど]もお約束通り、少し勾配が急過ぎるが高い大屋根を見せた道具は、結構なものとして置く。
△八百蔵の清正 当代の清正役者、亡師との比較は別物、此優[このひと]には此優の味がある。唯彼[あ]の底力のある台詞だけでも結構。『梅は枯れても』の武骨な手振も此優だけで見れば切て嵌めたやう。幼君を抱いての大泣きなど無類である。
△松蔦の娘お切 啻[たゞ]に美くしいといふのみでない。綺堂氏の作の人物に成り得て居て結構。
第二 困りもの
△才治郎と雪野 言ひ換れば亀蔵と粂三郎、悪い一対、気の毒な一対、貧弱の二字で尽きる。これが歌舞伎の・・・。
△児太郎の声 十五になつたから、お半を勤めるといふ。成駒屋の坊ちやん、美くしいといつても惚れ惚れする美くしさではない。唯だ人形と思へばそれで可い綺麗さ。生理的に変な声が出て当人も随分困つて居る事だらう。初日には何ともいひ様のない悪声を聞かせたが見直した時は調子を低くして稍や胡麻化し得たので無事であつた。兎に角困る。
△竹雀のチヨボ 道行は見落したが、帝劇妹脊の御殿で、律子嬢のお三輪が愈〃肝心の竹雀[たけす]を踊るあたりの、重寿太夫の上るり。困り物へ入れても可からう。
△宗ちやんの足 親譲りとも申すべき我が宗之助君の足取り、松江出雲守は勿論、野晒悟助と来るとはや見て居られず。此人はどうしても女形の方が形が付く、喜劇の場合なら我慢が出来る。
△長十郎の直待 なアんだい彼[あ]れは。
△本郷座の浪路 幹尾といふ男優、河内山松江邸の一場は、此の腰元の為めに起つた波瀾である。気を入れぬといふのは彼んなのでは無い。彼[あ]れは演[す]ることを知らぬのである。無能極まつたもの、何故左団次[たかはし]も、八百蔵[はしを]も、イヤ傍[はた]があれで納まつたかと思ふほど、困りものゝ番外である。
△荒次郎の大膳 も帝劇の菊四郎の小左衛門と同様に、気の毒付きの困りもの。
第三 案外なもの
△河内屋の桜丸 実は期待が過ぎたのが歌舞伎[こびきちやう]の延二郎の桜丸、案外におもしろいと思はず唯だ其員に連なるのみの感があつた。
△委員長の鳴神尼 前半は無論悪るからず、後[のち]シテ(も変だが)になつてから彼[あ]の足取りでは困りものの部に入るかと思ひきや、可なり充分に荒[あば]れて見せたのは案外千万。顔の造りの如き宛然[まるで]男のやう。あれなら鳴神上人でも演れるであらう。
△仁左衛門の長右 例の稲妻式珍型の恐ろしい所を見せるかと思ひきや、神妙といふのはあんなのかと思ふほど。唯だ一度布団の横から両手を出して女房を拝む所でやんや〳〵。
△律子嬢のお三輪 反対に期待したやつが案外にまとまつて居たのは帝劇案外部々長。
△幸四郎の宗俊 自慢にならぬ比較的好評を得た弁慶のあと、この河内山もと思つたのは黒人[くろうと]了見(?)団十郎[くだいめ]所[どころ]か死んだ又三郎の方がよつぽどゝいふ出来栄、初役の高橋がまだ〳〵などは焼の廻る年でもねえに、案外々々。
△左団次の浄閑 老役[ふけやく]巧者の高島屋の近松物と来ては聊か勝手が違ふと見えて期待以上に感服しなかつた。今度の本郷座案外の部にたつた一つ。
(以上の外は何れも拠ないものでなければ無事なのばかり、憎まれ口は先づ此の位に・・・)
『文芸倶楽部』20(9):171-178 1914.7.1
「役者に成て見た記」
□事件の発端□
『最う来月は六月、川崎で演つた近在劇の一週年だね。』
『芝居が演りたいね、驚かすやうなやつを。』
『さうさ、新らしい変な臭ひのばかり立つゞけに見せられて居ちやア耐らないからね。』
『全たくさ。いくら新らしくツたつて、拙くツちやア困るからナ。』
『向うぢやアいくら巧くツたつて古くツちやアと仰ツしやるだらう。』
『古くツたつて巧けりやア好いさ。』
『旧劇復活!文芸復興かね。』
『どうだい一つ目論まうか。』
『便利に行く寸法があるかね。』
『無いでも無いさ。』
『ふーむ。で、どういふ工合に?』
『ま、さう乗出すなよ。実はね。・・・・・・』
といつたやうな話しが二三同人間に取かはされてから間もなく、博覧会の演芸場で夜興行を始める舞台開きに、一つ大に蘊蓄やら器用やらを見せやうといふ話が纏まる。
肝入の人が僕をも其の出演者の一人として、既に連判に加へられて居た。
□狂言と役割□
愈〃顔寄せとなる。
演芸場の三階に集まつた面々。最う其時は演らうか演るまいかの問題では無く、何を演[だ]さうどういふ工合に、と直に狂言の並べ方、役割の相談に取掛つたのである。
去年近在劇通りの顔触れが揃つて居た為め、序に菅原の車曳を出すことだけは直ぐと決つて、僕は持役藤原時平公、閻太郎氏の杉王が新顔で、蘆江氏が金棒へ廻される。
「曽我の対面」といふ案は役は捌けるが稽古が大変といふのを重なる理由として止[やめ]。
幸四郎[かうらいや]と左団次[たかしまや]へ追かけて鬼太郎氏へ「河内山」を持込むと、謙遜の体とあつて謝絶される。「扇屋熊谷」の説も一寸行難む。
贋阿弥氏と鳳仙氏とで中幕にどツしりした物をと「一の谷」説稍や纏まらうとして相模に本職を買うのが厭と、結局「実盛」と確定。
みはる氏と蘆江氏で「双蝶々」の角力場といふ説に、与五郎に手を出す先生なく、これ亦た否決。
何分にも二十何貫といふみはる氏の図体を持あつかつて茲に漸く「床下」の男の助を案出し、蘆江氏は仁木の引込みで納まることになる。
押すな〳〵の名優連一人一役として、まだ茲に先輩岡鬼太郎氏ありだ。彼[あ]れは此[こ]れかと評議の末、床下から直ぐに「刃傷」を見せて『めでたいのう』の追出しは可からう、更に仁木を役替りにして是非共岡君の登場をと要求する。
『岡君が仁木を演るなら、僕が大奮発して外記を買はう』と切出した拙者の無法『可しツ』と鬼太郎氏の快諾に、並居る諸氏は一斉に喝采する。さア斯うすると逃れぬ羽目、初舞台同様の僕たるもの、どうして外記といふ難役を勤め得やう、と遂に頭痛の一段と相成りましたやうにござりまする。
□ヨヂユム丁幾[ちんき]□
話がトン〳〵と決る。開演は早や週日に迫つて居る。
岡君は八百蔵に教はつて来たといふ。振付けに頼んだ団右衛[だんゑもん]中村氏に先づ一寸花道の出をやつて貰ふ。
岡君と二人で立廻りの段取りを覚える。団右衛門氏が連れて来て呉れた市川柿太郎氏と二人で、随分丁寧に教へて呉れる。
岡君と二人はこれをノートに書止めて、翌晩社の仕事を済ましてから演芸場の三階へ行つて無上に繰返して演つて見る。回一回に辛うじて覚える。
三日目位であつたが、左の足の股が凝つてしまつて軽い跛を曳くことに相成つた。何分中腰のよろぼひ〳〵で身体の重みが左の足一本に支へて居る時間が長い為めだが、もう二三日やれば癒りますと、先生は言つて呉れる。
秘[ひつ]そりヨヂユム丁幾[ちんき]を買つて、寝る前と朝出る前とに塗つたものだ。一日二日休んで又た始めた。
岡君の熱心なる研究は既に大姿見の前に、キマル処や振かぶる処の形ちに苦心して居るほどに進んで了ふ。
股の痛みは癒つた。暁紅氏や朗々氏は碌たま稽古も仕ないで、既に充分心得て居るやうな顔を見ると、自分は歯痒くて耐らず。愈〃舞台へ行つて岡君と二人で、更に熱心に稽古を励んだ。
ガタン、パタンと例の舞台に尻餅を搗くので、今度は腰骨と膝頭が痛い。
其代り二人で研究の結果、二三、先生の教へた手を変更したり、差支ない程度の新手を加へるほど、生意気千万な余裕を生ずるに至つた。
□髭の別れ□
愈〃六月五日、初日と相成つた。
勤めて居る社の方を一日も欠かさず夜昼稼ぐ拙者の身体は、初日のあく頃は可成の疲労を覚えて居た。
梅雨期に近い陽気の加減、軽微なる脚気の兆候をすら感じて居た。
朝出がけに愈〃床屋のレースをくゞつて、本誌にまで暁紅君に書かれた例のイカモノ髭を剃落すことになる。
髭の別れといふ喜劇である。『旦那こいつを落すなア惜しいもんですね』と床屋の金さんが理由も知らずに同情して呉れる。僕としては過般[このあひだ]も一泊旅行の時落した事ではあり、元より覚悟の道楽三昧。『何の』とばかり落された顔を姿見に写して、そのズンベラ坊なのに聊か悄気る。
社へ行くと、『やア愈〃やツたね』と何だか冷笑されるやうな気がする。事務室から女の給仕が誘ひ合はして、二三人僕の顔を覗きに来る。
『愚だなア』と思つたり『愈〃今夜だナ』と思つたり、四時頃勝元公ににつき合つて呉れる暁紅氏と連れ立つて上野へ、上野へ。
□時平の冠□
案じられた空は、日本晴。
広告が届いて観客は一パイの入。
着到がはいつて二挺が廻り、梅王に出来上つた緑水氏が合引にかけて男衆の団扇の風に当つて居る。朗々氏の桜丸はお手々に白粉を塗つて居る。五人がかりで清忠氏の松王の帯を締めて居る。
三階の大広間は雑然紛然として火事場のやう。
隈取では上手と聞いた米三君に時平の顔をこしらへ貰ふ。出来上ると我ながら恐い顔。白重ねに緋の長袴を着け、例の白衣を着せられて見ると、随分暑い。
胸まで下つた黒い髭をつけてさて、金冠の造り付けになつた鬘をかけると、重い事、苦しい事。眼がグラ〴〵として気が遠くなる。
長袴を捲つて二階へ下りた時は金棒氏の『ハイハウ、片寄れ〳〵』が聞える。軈て梅と桜が揚幕へ駆込んで二度目の出。
道具裏へ行つて太刀をつけて貰ふ。これが又可成に重くて今度は腰が苦しい。
清心丹を二粒。
杉王が出て、愈〃松王の出になる頃、車の後へ這ひ込んで蹲踞む。と胸がどき〴〵する。舌が乾く、彼の間が可成長いのでシビレが切れる。
『現はれ出たる時平の大臣』の床[ちよぼ]で立上る。台詞になつて調子が充分に張れない。出る筈の三分の一も声が出ない。ジツとして立て居られない。ツマリ落付かないのだ。定めて向うから見たらダラシの無い事であつたらう。
『早く車を轟かせエヽ』の幕切れになつて稍や調子も張れ、気も落付いた。その代り頭がガン〴〵と痛んで、幕になつて写真を撮られたのが恨めしかつた。
二階へ上つて第一に先づ冠を外して貰つた。
いろ〳〵考へた末、二日目からは床山に少々賄賂を使つて、道具裏で松王の出になる頃冠せて貰ふことにした。
蔭口が伝はつて僕の耳にはいつたのには『大歌舞伎の役者よりも贅沢な人だね』といふ。
□夏蜜柑と御薬湯□
二役外記は大役である。
顔は鯉三郎氏と左升氏との一日替りにして貰ひ、着付は小袖と上下だが片肌抜きで涼しい。
床下[とこした]が切れると直ぐだたら、鬼太郎氏の仁木と二人で揚幕へ行く。団右衛門師が付いて来て呉れる。
茲にまだ何人にも知らさぬ一事といふのは、持薬の清心丹は別として口が乾き息が切れるのを扶ける為め、秘[そつ]と夏蜜柑を袂に忍ばして衝立の蔭で少しばかり奥歯の裏に押込んだことである。
仁木と上下にドタンバタンと演る最中も苦しい表情と共に、蜜柑の露は甘く口中を湿して呉れたのである。
併しこれは初日だけであつた。二日目からはそこらに夏蜜柑が見当らなかつたので、勝元公に頼んで、お薬湯の中に少量の真水を入れて貰つて、舞台でゴクーリとやらかした。翌日水の代りに在合はしたサイダを入れて貰つて、却て後口の悪かつたなどは、大失敗であつた。
立廻りの最中、小声で苦しい〳〵と言つて、仁木に大層心配をかけたのも、初日の晩であつた。
勝元の出になつてからも汗といふものは実際瀧なすばかり、嘸ぞ衣裳屋がボヤいた事であらうと察する。
□金縁の眼鏡□
愈〃三日目千秋楽と相成つて、漸く胸の動悸も鎮まつた外記左衛門、早くから拵らへを済まして、仁木と団右衛門氏と三人で揚幕へ廻り、刻んで行く柝の音に今夜はいくらか楽だと思ひながら、花道中程によろめき出ると、見物席がざわめく様子。
不思議にそこら判きりと見えるのも舞台慣れての落つきかと、済ましたは一瞬時ハツと、気が付いたのは後辺外記[わたなべげき]一生の不覚、十度の近眼鏡を鬘の上へ掛つぱなし。
どうする事も出来ない。お約束の衝立前ペタ〳〵となる時、裏向きで手早く取て舞台へ投出し、思入れも怪しげに衝立の蔭へと隠れた。
何たる麁忽、大抵は楽屋で外すか、揚幕で仁木の御注意を受けたやつを、今日に限つてと、悔むに及ばず、素劇のイキを出して呉れたと悦に入る友人もあり、花道だけは危ないから特にかけたのだらうと見て呉れる見物もあり、楽の日のそゝり心地と通に取られた知人もあり。
幕切れ落入りの型を教はつた小団次氏が、主任の坂本氏などと桟敷に見て居て、大層心配をして呉れたといふを後から聞いた。
投げ出した眼鏡は、幸に仁木氏に踏まれもせず、楽屋の人の手に拾はれ、無事に帰宅も出来たといふもの。
編輯者付記す--暁紅君の分は本月の「演芸倶楽部」に
「大正博文士劇」と掲載せり。併せ読まれんことを望む。
『文芸倶楽部』20(15):209-213 1914.11.1
演芸日記から
煙生
□九月廿六日--帝劇
歌劇部と洋劇部とした清水金太郎君や南部邦彦君などのローシー劇、調子の高いのは例のピヤノの御蔭といふ御当人は勿論、幕内御一統も御自慢のやうな申訳のやうな一件物。『アー大は小を兼ぬると雖、杓子は耳掻きの代りにやアならアぬ』と、よく前座の落語家[はなしか]が詩吟の節でやるそれを想起[おもひだ]してをかしくて堪らなかつた。尤も少し器用な人間なら声の加減位の事、何でも無からうに、と又たをかしくなる。
原信子ちやんの王女とやら、憫[かあ]いさうに御面相が醜[わる]いといふので、中には『引つ込め』といつた新聞の評家もござる。親を恨むの外はない信ちやんが、僕は可愛さうで堪らなかつた。それも帰つてから想起[おもひで]たら何だか変にをかしいやうな心持がした。
『霊験』は脚本で読んだ時は、舞台の見当が付かなかつたもの。さる文学士の先生は『新日本』を中途で投出[はうりだ]して『何んだい、これは。だが坪内さんはどうしてこんな言葉を知つてるだらう』と妙な処に感心したといふ実話がある。この先生は寄席へ行つて小さんでも少し聞たら可からうとをかしくなつた。
さてその舞台は案外以上におもしろいものであつた。贔屓役者の東儀君が充分に発揮した。但しこれは又た案外以上に近在言葉を真似損なつて居た。
都郷道子さんのお洒[しや]ツ子が木地[きぢ]の訛りに手伝つて貰つて、飛んだ好評を博して居たのはをかしい。
トンテンカンの忠さんになつた元安[もとやす]といふ人が出ると、先度[せんど]有楽座の瀧口入道で文章[もんしやう]博士に扮した時白[しら]あへの杓子のやうだと笑つた事を想出してをかしくて堪らなかつた。
我ながら満[つま]らない事がをかしくて堪らぬ時があるとおもふと又たをかしくて堪らない。
□九月廿七日--喜よし
夕景帰宅。食後ラジウムを沸かした風呂に漬つて今夜は「暇」だなと思ふ。上つて一服すると清々して飄然[ふらり]と戸外[おもて]へ出たくなる。
四谷の通りへ来て夜店を素見[ひやか]して、不図『喜よし』の看板を見ると、
大入に付き来る三十日まで日のべ結城孫三郎一座--特別興行金五銭とある。
出来心で木戸を潜ると一ぱいの入り。小沢愛圀といふ三田の先生が鼓吹された為め、この繰り人形結城一座にか程の人気が出たものか。それとも『金五銭』といふ特別がお客を呼ぶのであらうか。と一寸考へざるを得なかつたが、ズラリ見渡した客種によつて愚案するに、恐らく後者の御蔭らしい。
好き所へ陣取る。舞台は今や幕合である。前に二人者が仲の好い事、肩と肩と押合ふやうに坐つて、何やらん密々[ひそ〳〵]と打語つて居る。
沢潟を縫つた兜町からの緞帳が上ると例の小ぢんまりとした道具一式。平舞台世話木戸、上手に小屋、鳥井又助貧家の場とある。狂言は十月の歌舞伎座で見せる加賀騒動、「梅柳桜の幸染[かうぞめ]」と題する脚本[ほん]はお古い方。
チヨボを使つて充分に愁ひを利かす。殿の御勘気被つて此家の掛人[かゝりうど]になつて居る病人求女、其の薬の代を得やうと苦界へ身を沈める又助の妹お露、その弟の盲目しか市など。
又助は座長孫三郎が操るのである。相替らず繊細巧緻、充分に技倆を発揮して喝采を呼んで居る。お家の仇と思つて刺殺したのはお柳の方ではなく、奥方梅の方であつたと判り、悔恨悲痛の涙を絞る一手一言、唯だもう巧いものである。
切腹の前後、小弟[をとうと]しか市の琴を使ひ、忍ひの曲者をあしらつて、思ふ存分お芝居をして見せて呉れた
求女を使う糸城三といふのが、播磨屋の米吉のやうな声を出すが人物に調和して居た。安田隼人を勤める小船遊はちよつと菊四郎といつた調子であつたおつゆを使つた孫若といふの、台詞は新派めいて居たけれど、人形はかなりに動かして居た。
刀、行燈、七りん、など小道具を巧みに使ふのにも感心する。下座の合方などもキツパリと整つたものと思つた。
これが加賀騒動の大詰で仲入。あとに喜劇「ねずみ穴」といふのがあつた。落語の「三枚起請」のやうな筋で、「金五銭」の見物には滅法受けた様子。
前に居る二人者が女を抱くやうにして笑ひこけて居た。
中途で表へ出ると、降りさうな雲の切目に八日ばかりの月が半分顔を出して、夜風が湯上りの肌にひいやりと吹く。
□九月廿八日--明治座
「欧洲戦乱時局講演」と号して痴遊君が明治座で一週間、本当の独りで大気吐[きえん]を焔[は]くといふ。案内を受けて居たので、社の帰りに廻つて見る。
長講一席約一時間半位、立つゞけに喋舌りまくるそれで聴衆を飽きさせないのはもう腕である。それにはいふ事が政界の裏面[りめん]や、時局のある部分へ少しづつチク〳〵触るからでもあるのだ。
まづ第一此の男位、大胆不敵にやつゝければ、一般の聴衆は喜ぶにきまつて居る。その権幕が豪いのだ。それには此男の経歴や、出身や、交際や、仕事が唯の芸人と違つて居るからなのである、などゝ思ひながら、つい一席で失敬する積りを三席のおしまいまで聞いて了[しま]つた。
「保安条例夢物語」など随分古臭い演題である。痴遊はそれを新らしくして聞かせる技倆[うで]と余裕が出来たのだ。
例の「星先生」を中心にしたお古い話しも出て来る人物に例へば、『此の間安藤が首切られた後へ出た電気局の井上敬次郎なども其時委員の一人になつて』などゝやる。改進党と自由党と別れた時、尾崎行雄が唯一人自由党と行動を共にして條約改正反対の気焔を吐いた事を話して、『尾崎は此時分から一人が好きだつた。又た此時分から脱党や入会を何とも思はなかつたものだ』などと場当りではあるが聴衆は拍手喝采する。
『尾崎の貧乏は昔からで、今の一番大きな伜など、子供の時は近所の子を集めて、ベタ〳〵少さな紙を貼り付けては執達吏ごつこをやつたものだ、これには流石の尾崎も弱つて居た、今ぢやア司法大臣で…』なんかんとやつゝける。聴衆は声を出して喜ぶ
話しは横道へ這入つて、又た本線に戻る、その呼吸が可なり巧い。『遼東還付と陸奥宗光』なども、時節柄聴衆を惹くに足りる、筋を運ぶ間も、絶えず現在の事件や人物に触らして行く、それが如何にも自然に出て来るのが不思議だ、熟練の功だらう。
雲右衛門式--今は浪花節式に一席毎に卓掛[てーぶるか]けを替へて御覧に入れる、第一席が「福岡痴遊会より」といふので、中座[なかざ]が「犬養毅[いぬかいき]、尾崎行雄」と連名で伊藤痴遊君へとある。後席[ごせき]のが「痴遊兄へ」として「伊井蓉峰」からの分、
特に警視庁から来たといふ警部君も大いに面白さうに聴いて居た。
『文芸倶楽部』20(15):231-235 1914.11.1
有楽座の廊下
黒顔子
□自由劇場の二日目。タクシーの車庫に添つて、有楽座へと急ぐ彼[あ]の東洋軒前の広場で、インバネスの袖すれ〳〵に、後からけたゝましい鈴[べる]の音、驚いてふりかへると二台の俥が威勢よく駆けぬけた。
□前なる俥上の美人は、これなんマダム貞奴。
□ヨロ〳〵ツと悪い形を東洋軒のボーイ君に見られたらしい。お馴染とあつてその口からはいる。バーの下をぬけて西のボツクス裏へ出ると、まだ開幕前の観客諸君がウヨ〳〵と、煙草の煙は朦々と立騰[のぼ]つて居る。
□絞付羽織袴の伊井蓉峰君が急ぎ足で通る。『やア暫らく。』『ちよつと閑ですな』『いやどうも閑過ぎる位で、ちよいと新らしい芝居を拝見に…。』とあちらへ行く。
□便所の方へ行く木村操君を見ると随分な年寄りに見える。彼[あ]の人が「婦系図」の妙子を演[や]つたのかと思ふとちよつと驚く。
□『やア』『早いね』『どうだい』『今晩は」『もう開[あく]だらう』『相替らず煙りを吸つてるね』「いろんな人が来て居るね」『新らしい男と女』『恐いやうだね」『さうさだが君…。』など、毎時[いつも]会ふ人たちに会つて簡単に話しを交換して立つて居る。
□小出さんが番組を呉れた。筋書は買うんだと教へて呉れる。苟くも三田文学の愛読者だ、筋書は要らないと腹の中で思ふ。『八銭は不廉[たか]いね』と買つて来た誰かゞ云ふ。『三銭ばかり出すから一寸見せいなか』と、もう例の無駄を叩くものがある。
□幕が開く。見物席が暗くなつて、どこに誰が納まつて居るか、序幕の事だから判らない。後れて入場する人の押した扉[どあ]からさし込む光線が、恰度向うのボツクスに先刻のマダムが居ることを教へて呉れた。お貞さんの顔が一番先に僕の眼に映じたは、よくよくの縁だなぞと愚なことを考へる。
□舞台では中鶴[なかつる]君のルンツが神経的散歩をやつて居る。時々頓狂な声を出して驚かすのは寿美蔵君だ。
□随分長い幕だつたが漸く閉まる。ワーツと声こそ立てないが、観客の大半は廊下へ流れ出る。
□四五人一緒になつて東洋軒へ茶を飲みに行く。二階の好[よ]き処へ陣取るともうそこら一ぱいのお客さまで、ボーイ君は狼狽して居るらしい。我々の茶はなか〳〵来ない。
□下へ行つて席が無かつた為めであらう、表の階子[はしご]から尚ほぞろ〳〵と紳士淑女が押されるやうにやつて来る、例の時雨さんが俊子さんと手を繋いで通る。俊子さんの顔が真白たつた。彼の人の塗つて居ない顔を拝見した事が無いと誰やらがいふ。
□アヽ又マダムが来た。同じ卓[てーぶる]に知つた人があるので、叮嚀に挨拶をして行つた。先刻俥で脅かした僕が居るとは無論気がつくまい、と思ふと管らないがをかしくなる。直ぐ後から伊井君が通る、ハツと気が付いてお辞義をして行[ゆ]く。
□『団右衛門のワシリ、ワシリが一番巧いね、何しろさつき会の先生兼[けん]堀越福三郎のお師匠さんだからな』と誰やらがいふ。
□『米左衛門もやるぜ、彼の人もさつき会の俳優だ』と笑ふ人がある。
□『もう開くだらう、解らない芝居は見落すと愈愈解らなくなる。』と一人二人立かゝる。どうでも好いと思ふが、こゝに居たからとておもしろい訳でも無しと、小屋の方へ行く。鈴[べる]の音[ね]が聞える。
□少し早く席へ着いて場内を見廻はした。マダムは東のボツクスに居る、伊井君もそこへ顔を出した前の方には堀越福三郎君並びに翠扇夫人がござる。先達而[せんだつて]家庭頗る円満になつたと聞いたが、まつたくだと思つた。其の傍に居るのは浜の先生山崎紫紅君のやうであつた。
□真中ほどを一巡見渡たして一寸変つたお連れの二組を発見した。お連れといつても唯隣合はせに腰をかけて居るのであらうが一は左団次[たかはし]夫人と浅草の老妓春日家の鶴助嬢。今一つは伊達虫子[むしこ]事岡田八千代女史と。これも公園にさるものありと知られたる谷の家梅香嬢である。
□この二組に付いて『おやおや』と思ふ間に幕が開いた。
□我が松蔦君のマルシヤの可憐な、敏捷な舞台にしばらく雑念を払ひ去られる。左団次[たかはし]君の博士の立派な扮装[いでたち]が目に付くと、直ぐその夫人と鶴助を想起したが、見物席が暗くなつて判然[はつきり]判らなくなつて居た。
□幕が降りた。見物は又も廊下へ雪崩れ出る。
□『鶴助が来てるね』『ウム、先刻[さつき]遇つたがね、あたし先達而[こなひだ]の無名会を見損なつて残念で堪らないわ…たツサ。』と呆れたやうにいつた人がある、梅香も居るぢやないか』『そ、それさ、僕アもう堪らないや、何だい、こんな芝居が判るのかい。生意気だアね。』と同じ人はいふ。
□芸妓[げいしや]だつて新らしい芝居が嫌ひなのばかりは無からう。一寸浅草にも豪気な芸者が出来たなと思ふ序に鶴助は井上が出ない芝居も見るのかなと云つて見たかつたのを呑込んでしまふ。
□そこへその梅香なるものが来る。『暫らく、お揃ひね』『花ちやんは来ないの』『えヽ、妾岡田さんと。』『さうかい、妙なお連れだね、だが近頃大に発展するといふ噂だが…』『あら嘘よ、妾近頃芝居ばかり見て居るのよ、芝居も狂言よりは見物席がおもしろいんですもの』『さうかい、ふーむ』とこれが一寸僕と梅香の談話の速記なのである。
□狂言よりは見物席が。…と一寸驚かされて黙らされた僕は、最後に『まア精々お運び下さい』と何かで逃げて了つた。此女伊達虫さんの小説の材料に使はれて居るんだと直ぐさう思つた。
□『M君々々、何も貞奴が君、あア桃さんと一緒に廊下を歩かんでも可いだらう。』と後から肩を叩いて言つた人がある。そりやア歩いたつて可いだらうと僕は思つてをかしかつた。
□馬場孤蝶先生が恰度舞台の中鶴君のルンツ見たやうな態度で、廊下を歩いて居るのを見た。
□久保田万太郎君が何かしきりに活動して居るのも見た、庶務を預つて居る木村錦花君が例の坂本俊一君と話して居る。坂本君は商業会議所内の一室で博覧会演芸場の残務整理に忙がしいといふ話であつた。
□岡さんと石橋さんの顔が見えない。
□松蔦夫人が可愛らしい顔に丸髷を乗せてキヤツ〳〵と廊下をかけて行くのを見た。『まだカラ子供のやうだね。』と誰やらがいふ。
□市川莚女君が閻太郎君にブツかつて『いかゞです。』と挨拶して居た。白粉[おしろい]やけといふものは甚[ひど]いもので、女形も随分素地[きぢ]は黒いものだと、僕は大に人意を強うした。尤も最[も]う此優[このひと]は随分な年だ。莚登満女[えんどまめ]を連れて居る。幸寿丸の舞台顔よりは却て可愛らしいと思つた。
□第三幕目が開く。今度の幕は身にしみて見ようと思つて着席する。
□マダムも桃さんも伊井君も其時は見えなかつた。==(以下略)==
『文芸倶楽部』21(13):194-200 1915.10
こちの七代目団蔵
黒顔子
□丸の内の帝劇へ、どういふ風の吹廻しかの帰り咲、楼門の五右衛門に扮して、好い心地に、金光[きんぴか]の場内をグイと睨んで『絶景かな』を叫びツぱなし、その乗込に白煉瓦の窓側[まどぎは]に立ち、御濠越しの直ぐ眼の前、宮城を拝して落涙数行[すかう]に及んだといふ、そんな噂を後にして所謂蓮台座へ乗込んだこちの七代目市川団蔵!
□その団蔵は僕の子供の時から、大の〴〵大好きな役者であつた。遠く明治の初年は知らず、五代目菊五郎と手を繋いで居た千歳座時代すら殆んど覚えず。春木座の鳥熊芝居のやゝ姑らく、上置として出て居た時分、漸く此優[このひと]の舞台に馴染み、中学時代の包片手に、その立見場で怠け暮した幼時の追憶[おもひで]。
□それもほんの朧気に。本所の寿座で先代の家橘を相手におもしろい芝居を見せ、破[わ]れるやうな大入を取つた頃は、もう僕は訳もなく夢中になツた三河屋贔屓。
□それからずツと芝居の方の足が遠退き、この二十年間で記憶[おぼえ]て居るのは、久しい後東京座で「赤垣」を見て泣いた事。十二三年前新富座で、其頃まだ十六か七位の宗之助に時姫をさせて爺さん真白塗りの三浦の助、佐々木は無論訥子親方の大荒事。それから飛んで木挽町での「佐倉宗吾」位のもの。
□年が知れても構はない。今その大好の団蔵追善劇が、木挽町で催される時に当つて、思ひ出す昔の噂、少々ばかり言はせて頂く。
□春木座時代。取急いで言ひたいのは、先頃亡なつた門之助、有美先生(?)に言はせると、自分独りで彼[あ]の女寅を豪くしたやうに御しやるが、故団十郎が見込をつけて引立てたそれより以前、我が団蔵当時九蔵の三河屋は、鳥熊芝居の娘形福之丞を抜擢して、非常に骨を折つた事を忘れてはならぬ。
□例を挙げるまでもなく当時僕等の見た所によると、特に九蔵は福之丞に大役を宛がツて、人気を付け技倆[うで]を磨かせたと思ふ事が屡々あつた。九蔵が若し不遇で無かつたら、福之丞は必らず団蔵門下の花形役者として、更に長く其舞台に一座して居た事であつたと思ふ。その堀越家へ走つて女寅になり門之助に進んだ事は、彼の好運と忍耐との賜であつてこれは問題が自から別になるのだ。僕は今度の追善に何故市村座から、男寅が一幕でも駆付けて来ないかとさへ思ふ。
□要するに門之助は有美先生に閣下といふ奇号を贈られずとも、彼[あ]れだけの地位には進むべき俳優で、九代目以前、既に我が九蔵は彼の手を引き、彼れの腰を押し、慈愛の眼を以つて彼れを見て居たのである。僕等も亦常に、イヤ僕等ばかりではない、一般観劇に一隻眼を有するものは、福之丞時代から彼れを緞帳役者視しては居なかツたのだ。有美先生は自分より外に女寅の芸を認めて居なかつたやうに仰やり、或は門之助が死んでから遽に人々が騒ぎ出したといふやうな事を公然に書いて居られるに至つてはイヤ其の自惚や其の野法図に驚き且つ呆れざるを得ない。「門之助閣下」がお百姓に受けたところから、近頃先生の宇治龍子閣下に至つた。これは又イヤ言語道断、論外とも、沙汰の限りとも申し上げやうが無く、モ一つおまけに呆れるかい、といふべきものである。
□話が甚[ひど]く脱線致して相済まぬ。九蔵の春木座時代には福之丞の上に、加賀屋の梅太郎後に富十郎といつた女形[おやま]が居て、「陣屋」では梅太郎の相模に、福之丞の敦盛を見せた。「扇屋」でも福之丞の小萩で熊谷を見せた。「尼ケ崎」では梅太郎の操に福之丞の初菊であつた。其他では団六(故人)の弥陀六、芝鶴の十次郎などを覚えて居る。
□確か其折の光秀であつたと思ふ。当時千歳座で菊五郎がこの桔梗の旗上げを演[だ]したのに冠せて、春木座に九蔵が勤めたので、五代目より評判の好かつた時である。
□其後久振りで東京へ舞戻つて、寿座に現はれ、一番目に大名題を「帰咲花桔梗旗上」と据ゑて、眉間割から馬盥、愛宕、十段目と見せたが、他の役者がガタ落で、御大ピカ一といふ有様であつた。その折の評判は大したもので、例の六二連なども当時光秀は此丈の右に出づるものはあるまいと思ふ得意物[おはこもの]でござるぞ、なんて賞めちぎつたものであつた。
□其折の春永が死んだ照蔵、蘭丸が今の工左衛門の鬼丸[きぐわん]、伜茂々太郎(今の九蔵)が力丸を勤めて居た。茂々太郎が其前本郷で親父の仁木に床下の男之助を勤めたのを想起[おもひだ]す。
□照蔵、鬼丸で想出したのは、其折中幕に「三十三間堂」を出して、照蔵の平太郎に鬼丸がお柳を演じて居た、上るりで聞く程面白くないもので、お柳が赤ン坊の上をヒヨイ〳〵と飛で居たのゝをかしかつた事まで想出す。二番目は何でも斬髪物であつたと思ふ。
□此の狂言が当つて、二の替はウンと役者を買込んだ。即ち先代阪東家橘、前記中村梅太郎、今阪地[かみ]へ行つて居る中村伝五郎など。
□狂言は家橘の延命院の通し、この九月蓬莱座で歌門の演つたあれである。それに中幕へ九蔵は「近江源氏」の盛綱首実検を演[だ]した。家橘が北条時政をつき合つて和田兵衛の伝五郎、鬼丸の柵火、今の羽左衛門が竹松時代で御注進の藤太を見せた。九蔵の老練なる盛綱は勿論だが、其中で忘れられぬ傑作は梅太郎の母微妙であつた。其後幾多の微妙を見たが僕はこの梅太郎の時ほど、同感した事は無かつたやうに覚える。噫、今はそれも故人である。
□此の狂言中途九蔵が病気になつた大騒ぎ、家橘が盛綱を代つて勤めた。見には行かなかツたが、家橘は其前春木座で奮闘して居た時代、熊谷や盛綱や斯うした役をよく見せて好評だツたので、此の寿座も別に休場[まは]ずに打続けた。
□九蔵の病気は当時の新聞の伝へた処では例の持病のそれではなく、全くの腎臓病であつたといふので、一月余りで次狂言の蓋が開いた。
□その折は又役者が増えた。即ち紀の国屋の大夫源之助が来て、家橘の与三で横櫛お富、梅太郎の定香、伝五郎の大判事、家橘の鱶七で、源之助はお三輪を勤めた。雛鳥が竹松、久我之助が彼[あ]の忘れ得ぬ麒麟児小伝次であつた。これを思へば小伝次が今生存[ながら]へて居た日には、木挽町の大幹部である。御大九蔵は病後とあつて、梅太郎の政岡で、一番目に仁木を勤めた。
□九蔵の仁木、源之助のお富、家橘の切られ与三などゝ来た日には好劇家呻りを発して詰かける訳のもので、現代名優の舞台から較べて見れば、実に神様のやうなものである。
□思ひ出しては斯う並べたのでは切りが無いが、その次が確か吉右衛門が二長町で初役で演じた千本の「渡海屋」であつた。これが又こちの九蔵の専売物、誰れが何といつても足許々々。義経の家橘これ亦逸品。今度六代目が当てた御馳走役の相模五郎は、鬼丸であつたと思ふ。源之助[きのくにや]が脱けて松之助が這入り二番目に家橘の西郡で矢場娘お竹、新派でもやる「当的[あたりまと]」といふ狂言を演[だ]して居た。それに老巧の彦十郎といふ新顔が見えた。
□その時の一番目だと覚えるが「吉田御殿」といふ新作物。(講釈種)松之助と家橘で、今なら丸の内の赤煉瓦が八釜しさうな、甚[ひど]く艶ツぽいものを見せて居た。
□大入続きの寿座は次に三河屋の専売の「佐倉宗吾」を出して、家橘の渡守甚兵衛が呼物になつて居た。新顔の芝鶴が幻長吉で儲けて居た。女房おさんは梅太郎の嵌り役。九蔵の宗吾は勿論結構、若し夫れ二役光善の祈りに至つては、凄凔鬼気人に迫つて、未だに想ひ出すのも恐ろしい位なもの。
□九蔵、家橘の寿座籠城は、此の興行で終りであつたかも知れぬ。他は僕の記憶にもノートにも残つて居ない。それから何年、九蔵はどこにどうして居た事だらう。番頭の団六が死んだといふのも其後であつた。喜猿といふ役者の目に付いたも、ズツと後。
□四五年経つて後かと思ふ。お尻[いど]を抓ツて思ひ出せば新富座に大改良を施して、九蔵を座頭に立女形が多賀之丞、それに訥子、芝鶴などの顔触れで、花花しく開場した。
□其時の狂言が忠臣蔵の裏表、こちの九蔵は師直、由良之助、勘平の三役、訥子が若狭之助や定九郎や平右衛門で活躍する、芝鶴が判官を本役にして、老[ふ]ケの本蔵と加役で六段目のおかやを勤め、器用多芸の評判を取つて居た。他の役者は忘れたが、今も並び大名で時折木挽町にも現はれる老優紅若が、力弥を勤めて居たと思ふ。
□其時の新富座の改良は、実に英断的であつた。営業上の弊害を除くといふ触出しで、茶屋を休ませて案内所を設け、出方を廃して案内人を置き、敷物銭、増銭[ましせん]など一切頂戴せず、召上り物の如きも御持参を歓迎して、菓弁寿[かべす]の外は差出さず、案内人が定価外の金銭を申受けた時は、除名するといふ規約の口上を出した、恰も二十年後の今日松竹其他の実行して居るのと、些しも違はぬ大改良であつた。
□さてその実行はどうであつたか。どうも思ふやうに行かなかつたやうに記憶する。で其九蔵一座の出演も長続きは仕なかつた様に覚えて居る。其時分の観劇料の廉かつた事、此の時のが木戸大入場[おほいりば]金十銭、土間が四十銭、高土間が五十銭、桟敷五人詰で一人金六十銭といふのであつた。役者が下がつて直段の馬鹿上りを仕て居るのは、実にこのお芝居なるものである。
□追憶[おもひで]はこれで了つた。此間も子供が捜し出して見て居つた僕の秘蔵の豊国の錦絵に、九蔵の山名屋時次郎に扮したのがある。浦里は先代阪東三津五郎である。五代目がまだ阪東家橘といつた頃のと重なつて居る。僕等の知つた九蔵が時次郎を演じた時代もあつたのかと思ふと、何だかをかしい。今の九蔵が演伎座[ためいけ]や東京座[みさきちやう]で、白塗の心中物など演[だ]すことを思うて、此優[このひと]も追ては渋い名優となつて、いつか又団蔵を襲名するかも知れぬ。
□「袖の露これも身に添ふ光かな」とは木挽町の追善興行に就ての九蔵の句。僕亦立[たちどこ]ろに一句を案じ、こちの七代目を追慕して、此稿を結ぶ。
目じるしの鉾杉高し露の道
『文芸倶楽部』23(1):205-212 1917.1
二長町の素人劇より
旅の石橋思案兄へ
□一口に言ふ文士劇□
なるものが又企画[もくろ]まれて、斯くいふ僕にも召集の令状が下つた。辰年の十一月の初旬!博覧会以来、帝劇以来、動もすればその相談が持上る、其度に一ぱし同類と見られる拙者、異議に及んだことも無かつたが、今度といふ今度は、公私多忙とでもいふか、どうしても出演致し難き旨御断りにおよんだ事を折柄御旅行中の大兄に対し、先づ第一に報告する。
暁紅君から『何か書かないか』と言はれた時、僕は『出演せざるの記』と題して此の劇の顛末を書かうかと約束した。これはそれ一度でも二度でも舞台を踏んで、下手の横好き、悪い道楽に充分な未練のある所。実の所を白状すれば第一回の『顔寄せ』を浅草の『あづま』でやるから、と誘はれた時、ノコ〳〵と出掛けた奴を無理にも曳ずり込まれゝば演り兼ねない位のものであつた。
其時は真の発起人幹部とでもいふべき--清忠、鳳仙、緑水、西男、菊寿の五君と僕とであつた。僕は最初から謝つて居たので、もう其時は演物の相談も殆んど出来かゝつて居た。今度の呼物となつた西男君の
□新作気分劇『水へ』□
なぞは、其の席上で、何か新らしいものをといふ話から、鳳仙、清忠両画伯の立案で、西男君が筆を執ることに決まつたもの。今度並べられた狂言の外に『二十四孝』があつて鳳仙君の八重垣姫に清忠君の勝頼、緑水君の濡衣といふのも数へられた。西男君の直待、菊寿君の三千歳といふ案もあつた。入谷の蕎麦屋を付けれぱ差詰め僕に按摩の丈賀をツと、いや危ない事。
結局謝まつて物別れ、越えて十余日、緑水君に遇つて聞くと、役者は以上の外、都新聞の洗崖画伯と、平山蘆江君(伊藤みはる君は失敬)が加入して序幕に水入らずの『錣引』を演[だ]す事や、此前と役替りで『弁天小僧』が出る。切りに西男君が『お祭り佐七』の小糸殺しで溜飲を下げるに決つたといふ事など。
『どうも稽古の寄りが悪くつて』『開場中の万金の二階だから』とかいふ噂さを聞きながら毎[いつ]も此の道楽は稽古中のおもしろい事などを思ひ出し、一度冷かしがてら行つて見たかつたが、たうとう舞台稽古を見に行く遑が無く残念に思つた。こんな事を思つたり言つたりするのもやつぱり出演といふ事に大の未練があるものとお笑ひ下さい。
□愈よ十一月廿一日□
当日は社を休んで見物イの一番に乗込むといふ同情的大贔屓、電車を降りて二長町へ曲り、先づ驚いたのは『洗厓親方さんへ』といふ大幟が二本、小春の風に翩翻たり、どの御贔屓からと見れば下には『秀調より』とある。ナアール程、秀調最愛の妻のしほ女史は洗崖画伯の秘蔵弟子であつた。
はや七八分の入り、勝手知つたる此座の楽屋、トン〳〵と上る二階の大部屋には、早や景清(洗厓)と三保の谷(蘆江)扮装の準備全く整つて『やア、どうです演りたいでせう』といふ『今日は劇評家だよ』と奥の鍵の手に折れた勘弥、三津五郎の部屋へ進入する。そこには清忠、鳳仙の両先生『幡随院親分へ』などゝいふ小ビラの下に大納まり。
緑水君は例によつて頭取兼務の大童、神経病の足を引摺つて転手古舞、作者を兼ねた西男先生『どうも忙しいもんだねえ』と見物席の帝劇の女優連へ挨拶に出かける。
『どうだい、鈴が森の雲助へ出ないか』と鳳仙君の挨拶。『浜松屋の日本駄右衛門に代つて演りませんか』と清忠先生のお言葉。謹んで御辞退申上げ、先着の暁紅君と直ぐ桟敷の人と相成つた。
□二挺が廻つて幕開□
御約束の摩耶山の道具幕、『御鏡』を捧げた奥女中と武士、何れも市村座々付俳優の本職ばかり隣りに居た贋阿弥先生。こんなのも皆な素人で演つたらおもしろいが』と。この幕外などは何れも役になつてるから無人で無くば是非演るべきものに相違なく、そしてその本職が劈頭[のつけ]から台詞もあやしく、立廻りなど変挺[へんてこ]千万、既に早くも素劇の気分を漲らした。
大薩摩。これも素人から出べきもの、さも無くんば贅沢な大師匠に演て貰つて然るべし・・・切て落した山幕の糶出[せり]を使つて景清、三保の谷。杉先生又曰く『チヨンと柝がはひるとドキンとする奴さ』と洗厓先生の舞台は宛として堀越福三郎、調子を張つて大成田屋。蘆江君の度胸亦た驚くべく失礼ながら案外の出来。
大きな声で後ろを付ける後見に『エ?エツ?』と聞き直す長台詞、着込んだ鎧で背虫になり、かなぐり捨てた頭巾と一緒に鬘が危なく脱かゝる、呼止めの極り大刀、長刀の大立廻り、鎧と思つて振り乱した黒髪を引張つたなど、大に気分を発揮したが、我等予想のより以下に纒まつて居たのは豪い。
□『鈴ケ森』の長兵衛□
は清忠氏得意の立派さ。当時歌舞伎の大幹部を連れて来ても此の位の押出しは先づ無いといふ嵌り役、調子もズンド落付いて演る事に手落ちもなく、名乗りへ行つて『つひ昨日まで居た代地の長兵衛(吉右衛門の事)俺[わつち]はほんの・・・まア絵空事の長兵衛さ』など大喝采。鬼鹿毛の皮羽織でちよつとトツチたのや、手紙を提灯の上で燃したなどは、イヤもほんの白璧の微暇でげす。
鳳仙君の権八は又た腕に覚えの、着付を黒にしたのは、男前が悪いからとの謙遜で、其上へ鶸に似た色の道中合羽を着たのは梅寿菊五郎の型とやら。総体に愛嬌の無いのと、調子が沈み過ぎたのが難であり、名優次第に老役[ふけ]が嵌つて来るのかと思へば、どうやらお気もじ様の形ちであつた。
暁紅氏曰く『かう巧くつちやアちつとも面白くないや、だが鳥居君は確かに素劇の名優だね。それにつけてもどう考へても演るもんぢやア無いね、演らずに可かつたとつく〴〵思ふよ』と。僕はやつぱり演つて見たいやうな気がして居ると、有楽座の新免君がやつて来て『どうです、腕が痒つくでせう』と。又た誰れやらは『脾肉の嘆に堪へぬ処だね』と冷やかされる。
□割合に幕間が早く□
間に歌沢が一席あつて、直ぐ『扇屋』が開いた。此の一幕に対しては蘆江君の小萩の珍、菊寿氏の熊谷の立派--緑水君の姉輪の無類なるは問題外として--ーさを期待した。 果然、小萩女郎の子うとろ〳〵から、そんなら旦那さんや、嬉しくもまた可笑しくして結構な形ちを見せ、やつぱり我党の贔屓役者たるを失はず、喝采場[ぢやう]を震撼した。熊谷直実又た期待を裏切らず。堂々たる格服、調子、笠を脱いでから稍や見劣つたが、先づ此座での熊谷役者、花扇[くわせん]といふ人の忠太は達者なもので本職臭紛々たり、洗厓君の上総は落ついたもの、緑水君の姉輪の平次引込みの捨台詞に『いや投げられたのではないぞ転がるやうに出来てる身体だ』は大受けだつた。本職から出た桂子やおひろに喝采する見物のあつたは甘いものさ。
見物席を見渡せば西の高土間には森律子、初瀬浪子、藤間房子、田村寿美代、小林延子の帝劇女優連、お汁粉のお椀を前へ並べて見物する。土間の真中には此座の田村将軍親子を始め阪東彦三郎、中村東蔵、尾上菊次郎、同紋三郎、同菊右衛門、同伊三郎の面々顎を突出して手拍子喝采。
吉ちやんや六代目の素顔、間が好きやア隣りの升で見られるが目的[めあて]の綺麗な御見物は少少満[つま]らなささうだが、斯ういふ会に必らず見せる顔の丹いね子、田村俊子、岡田八千代の諸嬢、吉井、久保田、長田等の諸芸術家を見なかつたのは物足りず。水谷竹紫君曰く『不思議だねえ』と。
□又しても弁天小僧□
とは言へず、鳳仙氏南郷へ廻つてキビ〳〵した処を見せ、熊谷のアトが美くしい島田の姐さん、菊寿さんの器用な処、度胸の処唯だもう恐れ入るの外なく、其舞台の図々しさ加減、真個[ほんとう]の弁天小僧も確かに跣足。西男君が買て出た番頭、柄行[がらゆ]き不思議に嵌つて喝采のあと、捨台詞が言へないので舞台は陰々、清六といふ人の鳶者が中音の啖呵滅々として一向通ぜず。此処暫時浜松屋お通夜の形ち、清忠氏の日本駄右衛門は貫目も十分にスラ〳〵と楽なもの。
浜松屋が切れると、新富町の素義の名人星野桔梗氏の『堀川』一段、仙十郎の弦で訳もなく喝采を呼んだが、芝居の見物には上方でいふ『難儀やなア』で、ぼつ〳〵と帰る人も出来お猿めでたく舞ひ了うと、愈よ今回の呼物たる新作気分劇!『水へ』!
舞台一面、花道揚幕まで、枯芒、落葉をふんだ人に、横に上手奥へかけ小流れあり、上手に茅屋の窓を見せ、何時、如何なる場所か判らねど結構な道具立、幕開くと窓障子に二人の武士の何か言ひ争へる蔭写り、やがて一人は裏を廻つて舞台へ出づ、西男氏の扮せる老いたる武士。障子を明けて呼止むるは鳳仙君の生きる武士(はをかしいが)なり。
老いたる武士一徹にして君家危急の場合殉死を遂げんと敦圉[いきま]くを、生きる老人は何やらん書物を示して其の死を留むべく論争する。頑老決然として走る、後を追うも及ばず、折柄の寒月を仰いで浩歎之を久うして、瓢然として去る。
□左団次一座のそれ□
の如く新らしき気分漂ふ。舞台稍や空虚、下座より忽然として妙音響き出す。
『置くと見し露もありけりはかなくて、現つにねむる荻すゝき、恋する身には薄墨の』これ、新たに桃水先生の節付、寅千代女の歌沢である。この文句一ぱいに、上手奥より陰の如く魔の如く、清忠(死[しに]行く男)菊寿(死行く女)現はれて、小橋を渡り舞台真中に留る。女に盲[めしい]の母を後に残して・・・と沈んで言へば、男は『我とても同じ事、それを思へば死にも死なれぬ』と台詞渡つて、歌沢の、
『忍ぶにあまる袖たもと、見そめてそめて逢ひし夜の、楽しい事を今更に、思ひ出ぐさのしめりがち・・・』
の中、色模様、述懐の振?がある。再び元の地位に戻つて、とても二人は長らへる事は出来ぬといふ事になり、女『早く行きませう』男『恋の手本を残さう』と涙を払ひ、ひたと寄添うて花道へかゝる。唄の
『落ち行く影の雁金や、月か後ろに水の近くへ』一ばいに、落葉を踏んで男女は向う揚幕へはひる。と、以前の生きる武士再び現はれ、舞台真中でジツと見送り、無言の思入れ軽く、上手へ歩み出す。
□途端に柝無しの幕□
といふのがその荒筋である、総てに於て此の一幕は大成功、とても新派や新劇団の人々、には及びも無いほどの結構なものが出来上つた。素劇のレコードである。
追出しのお祭佐七は西男氏の為めに出たもの、喧嘩冠りのイナツこい処で花道の出、先づ喝采を浴びて、菊寿さんの小糸を斬つてからの立廻り、両優相対して奇型百出、妙態万変、秘術を尽したる処、我等当初からの期待空しからず、神妙に居残つて見た価値十分なるものであつた。
素人劇万歳、天下泰平、馬鹿々々しくも亦ためでたい事の極みである。報告終り矣。
『文芸倶楽部』23(3):204-209 1917.2.1
女肩衣評判記
里の火
竹本昇の助=(絃)竹本昇菊
中頃廃業[よ]して素封家[かねもち]の北の方と納まつた昇の助再勤後、余り数多くも聴かぬけれど、相変らずの人気、その人気も以前とは稍や変つた--謂はゞ堅実な人気を抑へて居るのは豪い、で、東京の女義中で此の位寿命の長い人も数へるほどの、それもこれも姉妹[きやうだい]打揃うた高座の美くしさ--十年一日の如く飾つたやうな容色[きりやう]の美が聴衆の感じをよくする為である。近頃は講談落語の大家と共に五人会とか演芸会とかいふ組織で、いはゆる色物に交つての出演も、此の義太夫があるから一杯の入りを取るのだと聞けば、毎晩付いて歩行[ある]く阿母[おふくろ]の自慢の鼻も無理では無い。といつて了[しま]うと美くしいだけかといふに、芸も益々手に入つて来るのは嬉しい、最近の高座では殊に『鳴八』の出来が好かつたふつくりとした彼[か]の顔通りな声も出る。節も細かく絃[いと]との呼吸[いき]はよく合つて、若いに似合はず、愁いの利く処は感服する。熱心な語り口[ぐち]の声量豊富とはゆかぬ咽喉を巧みに活殺して、御詠歌も哀れに、お弓の口説きもよく徹底したのは近来聴いた女義中での出色と評したい。昇菊の絃は或る程度まで行届いた堅実な撥捌きに、その厳乎たる態度を採らねばならぬ。
竹本朝重=(絃)竹本素雪
昇菊昇の助に対して一敵国の観を成して人気を争ひ、美くしい高座を競ふのは此の女夫[めをと]である。御亭の某文学士がどうしたの、子供がどうしたのと、新聞の材料[たね]となつてから、どうする連中の人気は或は数年前に比して落ちたかも知れぬ。けれども、依然目下の東京女義界、山田屋派の重鎮として、彼の昇の助昇菊と同じく、近来有名会とやら名人会とやらに出演する、若くはスケ場を語つて大飛ばしに、真打[とり]を二軒廻るといふ大忙がし、後刎[あとは]ねの席では仲入後ツナギの簾中で口語りが橋弁慶を浚はうといふ騒ぎも彼女等の人気で、それで聴衆[おきやく]を立たせぬのは豪いのである。最近其の後刎ねの席に打[ぶつ]かつて『酒屋』を半分ばかり聴いたが、例の師匠朝太夫の身振声色?を慎しむやうになつた大層聴きよく、朝重[このひと]を聴いて毎時[いつも]感ずるのは声に少しも苦しい所がない、すら〳〵と紅紫の糸を繰出す如き美音にあるがそれだけ芸に熱を持たぬといふ事になり、うわ〳〵と唯だ唇で唄ひ去るやうに聴える。それは其師朝太夫と同様口調、嫌[きら]ひの人が嫌[いや]がる処である。当夜好いと思つた処は、宗岸につれられて来たお園が爺[とつ]さんの一徹で、『無理につれられ』の辺りが浮出て居たのと、半兵衛の咳入る工合が驚くべく老巧に出来たのとであつた。さわりは投げた--若くは疲[くた]びれた調子で不感服に相済んだ。素雪の糸は確かである。引出したおくりから嬉しい音〆を聴かせてくれた。
竹本市三=(絃)野澤吉龍
市三は四五年前の大阪初上[のぼ]り、絃の吉龍は以前素行の瓢などを引いて居た腕達者、其後阪地[かみ]へ行つて吉兵衛の門に入つて修業をして、市三と共に上つて来たといふ。僕は其の当時、市三の『野崎』を聴いた時、先づ絃の吉龍が小撥の妙を極めるのに感心し、市三の落付いた語り口の、よく細かに人物を浮出させて、嫌みの無い芸風を頼もしいと思つた。『あんまり会いたさ懐かしさ』のさわりも例の東京流の多くの女義に見る巧んだ所の無い卒直[すなほ]な出来を賞し、殊にお光の『嬉しかつたはタツタ半時』のあたり頗る結構だつた事を記憶するが、さてその翌晩『太十』を聴きに行き、それが期待を裏切られて、大きいものよりも此の人は世話物の方が得意であるを思ひ、彼[かれ]の絃[いと]の吉龍が『叩き』より小撥の方が鮮やかであることを成る程と首肯したのであつた。爾來幾年、押されもせぬ真打も今や東京の風が充分に染込んで、近く又た『太十』に出ツ会[くわ]して、鳴呼平凡な女義太夫[たれぎだ]になつたなアといふ感があつた。でもさすがに初菊の『どうオ急ソオがるゝものオぞいの』のあたり情趣湧くが如く、吉龍の撥と共に嬉しく聰いた。
竹本越駒[ゑつこま]=(絃)鶴沢二三龍
この太夫に就ては余り言ふべき材料の持ち合はせも無いが、此間ふらりとはひつた宮松亭[やくし]でその『玉三』を聴いた事を考へて見る。高座の左右に後ろ幕やビラや見台などの贈り物が山の如くに積んであつた。それが多くは日本橋辺から来て居たのを見ると土地ツ子であらうといふ想像もついて、その高座を聴くとやつぱり江戸ツ子らしい調子となまりを持つて居た。『玉三』当夜の出来に取立てゝ評するほどのものでもなく、何等印象を残さなかつた普通の女義である。絃[いと]の二三龍[ふみりう]は絃としてのそれよりも、スケ場を弾語りの『太十』を聴いた所で、女義には珍らしい呂[りよ]の声の好い事が耳に残つた。甲[かん]から呂に落す工合の巧いのにちよつと驚ろかされた事を付記して置く。
竹本清幸=(絃)竹本鶴吉
清幸は近時若手の人気者だといふ。鶴吉は古い三味線弾きの鶴吉である。人気者だといふはちよつと高座が美くしいからであらう。お客への挨拶などの如才ないあどけない容子が好かれるかも知れない。見台の前に坐つた清幸は、老巧な鶴吉の絃に弾出され、弾まくられる形ちである。近く『三十三間堂』と『喋花形』の八つ目とを聴いたが、天才的な処はほの見えるけれども殆んど芸の修業といふものが無い。努力研究の態度の些しも無い人だと思つて惜しいやうな気がした。勿論、以上二つともスケ場でカケ持を急いで居たらう、多少音声を痛めて居た風でもあつたが、今少し誠実に上るりを考へて語つて貰はなければ困る。女義の通弊たる上つ辷[つべ]りの口先だけでは、アノ金の入歯をチラ〳〵と見せられるだけでは困る。
鶴澤大吉
女義一方の重鎮である。重鎮といふよりはもう古強者である。押しも押されもせぬ一枚看板である。弾語りで立派に真打を務め、人気者のスケ席なども稼いで居る。家では朝から新橋辺の女の子にお稽古をして随分と忙がしさう。最近に此の人の『壺坂』を聴いたが、恰ど投げ気味に語つたやうに聞えたのは残念だつたが、語り出しもふつくりとさすがに立派な世話上るりであつた。殊に最も感心したのは山へかゝつてから、お里を帰して後の沢市の出来であつた。『これ屈強の最期処』からしばらくは息もつけぬ面白さであつた。無論絃も確かな事である。
竹本播磨津=(絃)豊沢源之助
切三枚位を語つて居るまだ十五六の小供上りで、縹致[きりやう]で売出さうといふ人でもないが此頃その『御殿』を聴いた所によると、天才の閃めきとやらも見え、芸に熱のある所が嬉しく、声量の豊富なのも珍らしい位と思つた。努力次第では大物になる望みがある。絃の源之助は普通[なみ]である。
竹本住若=(絃)竹本昇寿
若手のこれから売出さうといふ--花形で近頃は猿玉の切前[もたれ]を語つて居る。美人といふではないが、愛くるしい顔立の、堂する輩[やかた]も少なからぬことであらう。『紙治』の炬燵を聴いたが、いや骨の折れる事であつた、その後聴いた『本蔵下邸』では三千歳姫が大層美くしく『霞の関に』のあたりよい出来であつた。本蔵や伴左衛門は腹が薄くて堪[こた]えが無かつた、絃の昇寿は高座の構へからかけ声まで昇菊のおもかげが見える。
豊竹猿玉=(絃)野沢吉一[よしかず]
昨年の暮、大阪登り初お目見得といふ看板の猿玉を聴く。甲府やら名古屋やらのさかり場から贈られた彩旗をかざり立て、東京落語講談師の大真打の名をズラリ並べた小ビラを席亭の所狭きまで貼り廻した大景気。僕の聰いた当夜の演物[だしもの]は『堀川』であつたが、さて何といはうか、甚[はなは]か失礼ながら取立て賞めちぎるほどの出来でもなかつた。体質の故[せい]でもあらうが、声量のある割合に腹の薄いのは此の人も彼の市三と同じやうに大物よりは世話物得意と相見えて、この堀川など蓋し得意の演物[よみもの]であらう。巻舌の歯切れのよい詞の調子、根は江戸ツ子かとも思はれて、時々老人[としより]になりかゝる虞れがあつたが与二郎の出来がよかつた。絃の吉一にお馴染である、叩きも小撥もよく利く達者な腕を持て居る。
竹本団女=(絃)竹本兼花
此の程朝重の切前[きりまへ]へ出た団女といふ女、大層御丁寧に女といふが、目尻の下つた愛嬌沢山な女、その高座は実は初めて聴くのであつたが、いや驚ろいたのは演物[だしもの]が大きく菅原伝習[すがはらでんじゆ]寺子屋の段と来て、ハナから段切[しまひ]まで、上るり本の素読[すよみ]である。後ろ向きになつて呂昇の好みの小本を見ながら首を振つて居る堂摺先生があつたが、或は其の人の方がまだいくらか上るりに近いかも知れぬと思ふほど、商売人にも斯んな朗読義太夫があるものかと呆れた為めに印象が残る。絃の兼花は代理のやうだつたが、これは達者なものである恰ど其夜、朝重の楽屋入が遅れた為め、この兼花が簾中で『日吉』を語つたが、確かに義太夫になつて居た。==(まだある)==
『文芸倶楽部』25(1):210-216 1919.1
越路太夫大入
田中煙亭
◎前景気
新聞広告のおしろい文学、彼のミツワ文庫なるものを見ると『歌舞伎座の文楽』といふ表題[みだし]の傍に先づ『日本一の義太夫』と名乗りを揚げて、竹本越路太夫の談が出て居る。前略後略で中味の処を読んで今度の座組の一班を知り、語り物毎日替りと断わつてある。次ぎの入場料で、特等二円八十銭、一等二円三十銭とあるのに先づおツ魂消える。此の一座日本一なるに異存は無いが、伊達と越路の二段(前にもお歴々は居るけれど)の素上るりの聴賃としての世に連れての暴騰に驚かざるを得ぬ。更らに驚くべきは此の興行十日間、必らず満員を続ける筈になつて居るといふに至つて、更らに世の中の景気の好いのに驚かされる。自分は十二月一日夜帝劇を観に行つて居たのだが『朝鮮征伐記』や『新朝顔日記』の管らないのに欠伸を催しながら、急に越路の『合邦』所謂得意中の得意と称する当夜の語物を想出して、次の『大盃』などは毎度のものと、直ちに失敬することに決して木挽町へと駆け付けた。
◎沼津
日比谷から歌舞伎座前、電車を飛降りてと見れば、果して大入満員、直営案内所の下駄の山。見知つた下足番に履物を頼んで外套の儘。揚幕傍の通路に立つて取敢へず舞台を見れば津太夫の『沼津』の中ほど『灯火の消ええ-しよをう』といふ処。二重常足[つねあし]の金襖を建てた高座の両側、舞台上下へ一ぱい同じ高さの座席をしつらへて、最初から此処へお客を押上げる計画の聴衆ぎつしり。何処を見廻しても真黒な人の天窓。津太夫例に依つて一生懸命、難渋ともいふべき悪声を絞つて語り進むる、通路を出入る出方や客人に妨たげられて、中々落ついて聴き泌[し]まれず。さすがに言葉で補つて行く研究の平作が最も好く『落ちたる印籠』から追かけの呼吸[いき]おもしろく、松原になつての臨終前後。重兵衛の嘆きも思つたより騒々しくなく、友次郎の糸も結構至極。この舞台で昨年も見た仁左と羽左とのそれよりは確かに真実の籠つた光景を髣髴させた。切れた時の聴衆の拍手は場を揺がすほどであつた。
◎廊下
押出されて大玄関の隅の方に先づ一ぷく。座付名優の誰彼から師匠連へ贈られた眼の覚めるやうな美くしい花輪、花籠を眺めて居ると『やア』と出て来たのは若旦那文士の森ほのほ君『演りたいね』と、帝劇のお仲間、義太夫を聴いても其道を忘れぬ処が嬉しく『重兵衛をか、お米の方だらう』とからかへば『お米は難かしい』と、『そんなら僕の平作で、この松原だけを出して見たいね』とこつちも演りたいといふ風、そこへ真物[ほんもの]の俳優猿之助君が帝劇から駆付けた弟の新八百蔵とやつて来て、猿子『沼津といふものは好い作ですね。此種のものゝの中に、今の我々にも確かに同感の出来るものですね』と、さすがに新らしい頭の俳優[ひと]らしい事をいふ。更らに猿子は『私は彼の重兵衛を普通芝居で演る二役目のやうな器量のよくない役でなく、本文通りで演つて見たいと思ひます。段四郎[おやぢ]の平作で・・・・・・』と『阿父[おとつ]さんの平作はまだ見た事が無いね』『家父[おやぢ]の平作は私の口からいふとをかしいが、好いですよ、二三年前名古屋で私の重兵衛で演りましたが、非常な(力を入れて)真面目で平作で傑作でした。是非一度演つて見たいと思ひます。』と大層自信のあるらしい話。ほのほ君も傍から『元来平作といふ役は仁左衛門氏のやうに笑はせる風の人でなく、もつとしんみりと見せるものだらう、全体沼津といふものがもつとしんみりして可い舞台だから…』と、僕も付合ひに『それは是非一度見たいもんだ』と、真面目な平作と新しい重兵衛と言はうとする時『おい』と僕の肩を叩いた人があつた。それは昔しの友人でSといふ義太夫好きであつた。
◎伊達太夫
Sは大阪へ行つて文楽を聴いて、そして用を済まして昨夜帰つて来たのだといふ熱心家。これは連れがあつて自分の席[とこ]へ『後に会はう』と拾ゼリフでサツサと行く。既[も]う伊達が開いて居るのに、廊下はまだザワ〳〵として居る。ほのほ君や猿之助氏等は『この処一寸休憩だ』といつて二階へ上つて行く、食堂へでもはいるのだらう。油屋は去年も聴いた。此の前有楽座へ来た時も聴いたが、何でも好きな僕は又例の揚幕横の通路に立つて聞く。喜助との出合に貢は結構だが、喜助の調子が変テコで、恰ど瀬川路蝶といつた小芝居の役者に似て居る。おこんは可い。万野も此の上るりを十八番として初日に演すほどの人として悪るからう筈もない。が大体に於て当夜の『油屋』は上出来の部とは言へなかつた。全体の上から活気に乏しく、本文通り十人切の、芝居以上に精細なクド〳〵した処も、動もすればダレさせた。要するに骨の折れる割に儲け損ねた気味であつた。切れると又た廊下へ押し出される。次に愈よお目的[めあて]の越路であるのと、長丁場の幕合の短かいのとで、席を放れる人の数が非常に多く廊下の雑踏は大したものである。
◎又廊下
ばつたり出遭つたのは市村座の東蔵氏『や』『おう』との挨拶から『陣屋は是非見物に行きますよ・・・型を取りに・・・』笑ひながら言ふと『いや大変。ぶる〳〵振へてますよ。何しろ真個[ほんとう]の初役なんですからね。毎日香川さんに教はつてる騒ぎです。供[しか]し是非御見物を・・・部屋へ来て下さい』と愛嬌を言て行く。と、今度は赤坂の名妓大福[おほふく]姐さんが来る『ケムさんも好きだわねえ』といふ『常盤津の師匠の癖に初日から・・・』とからかふと『これは別ですよ、何しろお座敷を三つも断わつて来たんですもの、明日の晩も伊達さんの連中で又た来ますよ、』『僕だつて帝劇を途中で脱けて来たんだもの、明日も会はうぜ』と負けない気。そこへ三つ輪の丹羽老人が来る。『僕は今までお米と重兵衛の間に挟まつて聞いて居た』といふ『何の事だい』と訊くと『歌右衛門と羽左衛門が東の桟敷へ女房[かみ]さん付か何かで来て居る』といふ。『平作は(仁左衛門)は腹を立つてどつかへ行つちまつたらう』と折から新富座の粉紅を想ひ起こして笑ふ。舞台へ咳の音が聞える、『おやツ』と思つて覗くとそれは『明晩の物語[かたりもの]』であつた。又一しきり廊下をうろ〳〵する。柳原伯の細そりしたお姿を見かける。
◎大通
かゝりける処に、斯道の大通として東京でも屈指の先生、実業界にも其人ありと知られたる『ふうさん』といふ方、僕も予て御懇意に願つて居る方。必[きつ]と見えてるだらうと思つて居ると果してバツタリ。『やア又た十日間は暇潰しですね』といふのをキツカケに滔々として太夫の芸評となる。『困るね伊達にも、何しろ勝手な事を語るんだからね。大隅に就て居る時分も、教へても其通りに語らうと仕ないので、師匠の方で呆れて居た人だから、何しろ第一あア鼻へ懸られた日にやヤ困るよ、それで当人大天狗なんだから、俺位知つてるものは無いなんて言ふんだからね、津太夫の『沼津』も悪るかつたね、聴かなかつた、さうかい、奇妙に治つた父様のあの疵、などもお米の独語であるべき筈をば、津太夫のを聞いて居ると、向ふの家の人に話をして居るやうだつた、それから『お米は一人物思ひ』からは以前は太夫が替つて語つたものでグツと調子を変へなければ可けないのだが、津太夫のは全く研究も何も無く、足も前半と同じ事だ、あれでは困るよ。それに彼[あ]の悪声だからね。吉右衛門の舞台と同じやうに、此の人のは汗をかいて努力といふか懸命といふか、それが聴衆を引つける唯だ一つのものなのだからね。全体前の津太夫の名が大きかつたので東京では買かぶられて居る形ちだね。越路も今夜はどうか知らないが、合邦の冒頭[のつけ]から『わりや未だ死なぬか』なども津太夫と同なし事、腹の中で思ふ事をやつぱり人に言ふやうになつて居るからね・・・』と実は果しのないやうな総捲り。
◎合邦
『越路の合邦』これこそ確かに日本一!座方の売物にして居るほどの事も確か通路の後ろ戸もピツタリ〆め、出方がシツ〳〵といふ警蹕の声? 語り出す一行二行、場内千余の聴衆恰も水を打つたやう。僕は第一此の人の三味線吉兵衛の高座顔が好きで堪らぬのである。玉手御前の出『あとを慕うて徒跣足』手を叩く百姓共をシツと制する通な方、聴衆の中がジワ〳〵といふ嘆声の渦が巻く。どんな早口に、どんな絃の音にも、一字一句の鮮明に聴取れるのを、僕は此の太夫に昔から敬服し嘆服して居る『茶漬でも』でちよつと切つて『手向けてやりや』も能く徹つて『いや増す恋』から『いつか鮑の片思ひ』など聴き惚れる。酔はされかゝる僕等微瑕を発見すること不可能である。『玉手はスツくと立上り』から例によつて馬力がかゝり、チラと見た東桟敷の歌右衛門君倒れるやうに倚りかゝつて居た襖の頭を起して座り直した、吉兵衛の糸と共に益々発展して、玉手の手負になると愈よ努力。息をもつかせず。『道理[もつとも]ぢや〳〵』と畳みかける処滑稽に落ちぬは勿論、百万遍まで唯もう結構づくめと申す外なき次第であつた。紙半枚ほどを残して下足を急ぎ電車に飛び乗つた時正に十一時十五分。(同夜記)
『文芸倶楽部』25(4):196-202 1919.3
梨園の想ひ出 初舞台と其傑作
田中煙亭
現代名優の初舞台、見たり聞いたりを次第不同で、それには拙者の覚えたほどの当り役一つ二つを記して見よう。
□中村歌右衛門□ 先代芝翫に貰はれて十一の歳、甲府の三井座で五代目菊五郎の『貢』に書き足した油屋の息子、直ぐと浜松で養父の『五斗』に徳女を勤めが女形の初め、本式の初舞台は同じ年、新富座で宗十郎[すゑひろや]の盛綱に小四郎だつた。拙者の最も気に入つた此優[このひと]今日までの当り役は、昔団菊左で見た時の忠臣蔵の判官、近頃では糒倉[ほしゐぐら]の淀君。
□中村鴈治郎□ 先代延若の弟子分となり実川と名乗つて、筑後の芝居(今の浪花座)で師匠の『油屋与兵衛』に茶屋場の太鼓持を勤めたのが初舞台の十五歳、好きな役々では何といつても『河庄』の治兵衛、それから吉田屋の伊左衛門。
□尾上梅幸□ 梅寿菊五郎の血を亨けて五代目にウンと仕込まれた人、名古屋の立花座で『ほゝづきや』か何かで仕出しに出たのが十歳の時。直ぐと東京へ来て栄之助と名乗つて千歳座(今の明治座)で五代目の『筆幸』の妹娘が初舞台。歌舞伎座時代の『野崎』のお光、評判は近年の坪内博士の『お夏狂乱』最近『志度寺』のお辻。
□片岡仁左衛門□ 昔々中村座で『傾城稚児淵』といふ狂言に先代芝翫の捨若丸に抱かれて出たのが二歳の時、四歳で親父の仁左衛門『喜内住家』の重太郎の一子太市を勤めたのが真個[ほんと]の初舞台。十一代目を相続して、東京へ来てからの当り芸はやつぱり『名工柿右衛門』か、拙者の最も気に入つたのは歌の淀君と共に『片桐市正』!
□市村羽左衛門□ 六歳、竹松時代団十郎の松王に菅秀才、菊五郎の権太に伜の善太(新富座)それから大根々々といはれながら家橘になつてからの進境発展。ズツと前に見た時の妹脊の久我之助。中頃では二度ばかり前の弁天小僧。最近では・・・・・・。
□松本幸四郎□ 幼名豊吉、藤間の養子になつて金太郎と改め、初舞台は十一の歳。拙者の覚えて居るのは、師団十郎が本郷で『真田』を演じた時伜の大助を勤めて好評だつた。その前の舞台を聞洩らして居る。ズツと以前に結構と思つたは(東京座?)紅葉狩の更科姫後に鬼女。所作ではまた『関兵衛』など、師匠の物は、まだお手本が眼にある為め慊[あきた]らぬ節も見える。近頃では此間帝劇の『森口源太左衛門』
□中村雀右衛門□ 五歳の時大阪の戎座で、嵐笑太郎と名乗り『三人新兵衛』の子役に出たのが初舞台。雀右衛門[せんだい]に貰はれて、最初は立役修業。芝雀で以前東京に来た時『岸姫』のおそよと朝比奈を見せたのが印象の初め。近年の好評もの野崎のお光、酒屋のお園、最も気に入つたのは段四郎の俊寛の千鳥であつた。
□尾上菊五郎□ 丑之助で先代全盛の頃、東西判らぬ間から舞台の人。どれが初役か知らないが拙者の第一印象は団十郎の『敷皮の五郎』に犬坊丸を演[し]た時である。鏡獅子の『弥生』道行の『忠信』なぞ忘られず。新所作事で『身替座禅』や『太刀盗人』黙阿弥物で文弥の早変替り、それから天徳の縫ぐるみの蝦蟇!
□中村吉右衛門□ 医者になりたいと役者を嫌つたが十一の歳、市村座で故団蔵の『越後騒動』で仙千代といふ子役に出たのが初舞台に、子供芝居の団十郎、努力で見せる其の舞台、その人気!『盛綱』羽左衛門を凌ぎ『清正』八百蔵の中車を驚かし、最近菊五郎[ろくだいめ]の湯潅場吉三に対して弁秀坊主などの巧さ。拙者はアレが非常に気に入つた。
□市川中車□ 中山鶴五郎といつて名古屋の子供芝居で座頭役者。その初舞台は五歳、京都の芝居で『鈴木主水』の末の伜に頼まれて出た時、七歳大阪で『盛綱』の小三郎等。故九代目の門に入つてワキ役者としての動かぬ大舞台。益々若返つて愈よ大きな俳優になつた。何といつても当り芸は『安宅』の弁慶。
□市川左団次□ 四つの歳、新富座の団十郎[くだいめ]の助六に金棒引きに出たのが初め、駄々を捏ねて金棒が刀をさして出たといふ。ぼたんで先代の富樫の太刀持あたりから目に着き初め、今では新らしい天窓の役者として幕の内外に持て過ぎるほどの大人気。新らしい脚本なら何でも相当に演出する頭脳を有[も]つ。拙者の好きなのは青山播磨と藤枝外記。
□実川延若□ 大阪の人気役者天星庄右衛門、父延若の歿後、荒五郎の世話で十歳の時、戎座の初舞台が宗十郎の口上で曽我の狂言に書き足した庄屋の息子と、『菊畑』で延平といふ小さい奴。度胸と器用で押し上げた今の人気は七役早替りなど得意の此優[このひと]に、拙者の好きだつた役は、先年歌舞伎座で見せた『啀[いがみ]の権太』
□市川段四郎□ 六歳、五代目菊五郎の門に入つて、羽太作と名乗り、元地[もとち]の市村座で団十郎の長兵衛に一子長松を勤めたのが初舞台、団州に望まれて市川の流れを汲んで今に東京の大達者。老巧な芸と軽い踊りで売て居る。近頃の老け役では帯屋の繁斎酒屋の宗岸など巧いと思つた。
□市川猿之助□ 色の黒い為めもろこし団子と呼ばれた五歳の時、師匠団十郎の『関ケ原誉凱歌』矢野五郎左衛門の伜千代松を勤めたのが初舞台、秀調の母親に負はれて『かゝ様眠うなつた』とたつた一言、親の光りで大役につくが、実はまだ傑作といふのを見た事がない。と言うて拙い事は少しもない。
□中村梅玉□ 菊太郎と名乗つて道頓堀竹田の芝居。渡海屋の安徳天皇を勤めたのが八歳の初舞台。藤岡仙菊といふ女形の弟子になつたのである。佐渡の日蓮が十八番[おはこ]だが、早や長いこと雁治郎のワキで老巧穏健な舞台、近く見た中では伊左衛門の母親など結構なものであつた。
□中村福助□ 政治郎の昔から好きな俳優[ひと]、六歳の時、先代芝翫の松王に小太郎を勤めたのが初舞台。とり立ていふ当り芸もないが、炬燵のおさんなどは当代の優等品であらうと思ふ。
□中村歌六□ 五歳の初舞台が京都の松若座で、『板額』の迎ひに来る子役と、先代萩に鶴千代、何れも父の歌六の折である、米吉から時蔵なり、歌六を襲ぐ、老て毎々盛んに、ギク ヤクとして活動して居る、先達而の六段目のお萱など神妙で好い方だつた。
□沢村訥子□ 武家の二男に生れ寺の子僧にやられ、十七の年から役者になつた、千之助と名乗つて大垣から名古屋へ出て、中車を座頭にした子供芝居の書出し役者になつた。助高屋へ見出されて大歌舞伎の人となり、一流猛優の御大将、傑作は暴れるものなら何でも傑作。
□阪東三津五郎□ 芝居の神さま守田勘弥の長男に生れ、八歳の時、新富座で団菊左の『先代萩』に鶴千代を勤めたのが初舞台。明治三十九年同じく新富座で父の追善興行に連獅子の親獅子を勤め踊りにかけては今や名人の域に近い、柄こそなけれ、調子こそ面白からね、真面目に勤める舞台にソツの無いのは嬉しい。
□守田勘弥□ 三田八で、初舞台は七歳の時、新富座団十郎の『樋口』に遠見の船頭を勤めた。父の追善には兄八十助と二人で連獅子。爾来市村座に立籠つて進境驚くべく、近年の傑作は三座競演の『助六』に白酒売、第一等の名声を博し、新劇の畑にも切込んで去暮の帝劇、文芸座のロメオなど天晴の技倆を現はした。
□尾上多見蔵□ 五歳、京都南座で当時鶴之助といひ、名人阪彦の松王に小太郎を勤めたのが初舞台、多見之助時代、東上して幾度か其舞台を見たが、拙者はその『吃又』を傑作とする。多見蔵襲名後はまだ一度も顔を見ない。
□嵐吉三郎□ 雀三郎といつて九歳の時、京都四条の北座で今の梅玉当時福助の『野晒悟助』に里の童、先代雀右衛門の詫助の処へ土器を買ひに来る子供になつた、今度東京へ来てから間もないのでまだその傑作といふのを見ない。
□尾上菊次郎□ 東京麹町に生れて鳥熊時代に今の芝鶴を豪いと思つて弟子になり、芝幸といふ名で、師匠が『五斗』の義経に出る時太刀持を演たのが初舞台、直ぐに五代目菊五郎の門に入つて梅二郎と改名、『釈迦八相』の童子になつたのが二度目の初舞台?今や二長町の立女形、揚巻ござれ、政岡ござれ、その度毎に不評といふもの只の一役も無く、世話時代何でも行ける。最近『壺坂』のお里の如き亦た傑作の一。
□市川松蔦□ 先代左団次の門に入つて初舞台は十歳の時明治産で『会津戦争』の学校生徒。左喜松と名乗つて居た。高橋の妹婿となつて、女房の芸名松蔦を貰ひ、今の左団次に無くてならぬ女房役。これ亦た傑作沢山でちよつと取立てゝは想ひ起せぬ。
□市川寿美蔵□ 小団次[ちいたか]の弟子で高丸といつた七歳の時、明治座に『箱根鹿笛』といふ狂言に娘おみつといふ子役、小満之助が登升と改め、寿美蔵の養子になつて父の名を襲ぎ、これ亦高橋の股肱の臣。綺堂物で不思議に傑作を示して居る。
□中村又五郎□ 子供芝居以来人気と熱心の舞台で持てた人、初舞台は六歳の時大阪朝日座で寺小屋の小太郎、今公園に落ちたものと、別看板の上置役者大した勢ひ、近く西男氏の『藤屋伊左衛門』など傑作に推せば推される。
□市川米蔵□ 大阪町の若旦那、鯱丸といつて五歳の時、明治座で団十郎の俎板の長兵衛に長松を勤めたのが役者になつた初め、去暮市村座の勉強競べに吉右衛門の重忠、菊五郎の岩永で阿古屋を勤めたのは此優[このひと]近来の傑作として好評嘖々。
□中村東蔵□ 中村鷺助の子、腹からの役者にしては俳優[やくしや]らしくない男、先代芝翫に可愛がられて、七歳、翫兵衛と名乗り信州飯田で師匠の松王に菅秀才を勤めたのが初舞台。おもちやとなり、駒助となり、東蔵となつて今や市村座幹部の一人[にん]。最近先師匠の型で『陣屋の熊谷』を演じて好評を博した。これまでの傑作には老役が多い。
□中村翫助□ 市村座の三枚目端敵役者、今度の弁天小僧に番頭の与九郎など無類の傑作。その翫助、香川君の初舞台はといふと、十一歳の時、猿若座で芝翫の光秀、仲蔵の喜平治、宗十郎の藤吉といふ名優揃ひの『三日太平記』に一子十次郎を勤めたのであつた。アノ翫助が十次郎! 子供の時は可愛らしかつたものと見える。
まだ〳〵名優雲の如きも翫助まで出ればもう沢山と失敬するが、序だから新派の人を三四人加へる。
□伊井蓉峰□ 富小路といふ京都のお公卿様の末葉。自然と備はる先生の人品気風、依田学海翁に名を付けて貰つて川上の処へ行つた申三郎君の初舞台は『板垣伯遭難実記』の相原尚文といふ刺客、板垣は青柳捨三郎であつた。
□河合武雄□ これは又た大谷馬十といふ旧役者の伜、今の羽左衛門[いちむら]などゝ学校朋輩の悪戯者、呉服屋の小僧などにやられて居たが、役者になりたくて十八の年今の源之助の処へ押かけ弟子、二月ばかり経つて、山口定雄の一座へ飛び込み初舞台は、山口の芸妓がピストルで自殺をする所へ取巻きに出る巡査の一役唯だ花道を駆けて出る白[せりふ]なしだからをかしい。
□喜多村緑郎□ 素人芝居が初舞台で、最初から女形、何でもかでも九女八[くめはち]の声色を使はなければ台詞が出なかつたもの。河合君よりは先輩である。
□井上正夫□ 冒険放浪--十七歳の時、伊予の松山で、敷島義団といふ一座に投じて舞台に上つたが、何とかいふ狂言で、木賃に泊つて居る白なしの役と読売をして歩く書生。以上四先生の傑作は随分多いが、今はこれを列記することなく省く。
-(をはり)-
『文芸倶楽部』26(3):205-211 1920.2
演芸懐中日記
煙山人
◇田村将軍の鞘当◇
素劇の噂さが出た席で、市村座[にちやうまち]の老将軍がふと釣込まれて昔の想ひ出。『私も一度若い時鞘当を演つた事がありましたが、例の丹前六法を菊三郎に教はつて、一生懸命さる座敷でこれを演ると、五代目が観て居て、その六法は不破の六法だ、名古屋のぢやア無[ね]えやといふんです。丹前六法は同じものと心得て居た私は、驚いて菊三郎を呼んで、何だつて乃公[おれ]に嘘を教へたんだと、大カスを喰はせる騒ぎ。やつぱり不破と名古屋とは違うもんでせうねえ。』と此間不破を演つた私の顔をヂローリと見る。
◇出ない狂言◇
珍らしい狂言。書卸し以来[このかた]。先[せん]の五代目以来。といふやうな狂言に限つて、近頃大劇場で演ぜられる時の座方の呼声、新聞広告の脅かし方は容易ならぬものであるが、その実、必らず大しておもしろいものでなく、こんな狂言を今までどうして下積にしてあつたらうといふものは殆んどない。帝劇の十二月[くれ]に左団次[たかしまや]の演[だ]した『騎兵隊』の如き、市村の師走興行に演じた慶安太平記の三幕目、有馬温泉の場など、その好個の例証であつた。明治三年に出て今日[こんにち]まで出さうともしなかつたものを、六代目がこれを一番目にして、丸橋の新演出を見せるに当つて、余りに棒のやうな狂言だとあつて、歌沢の家元を狩出して一つ大[おほい]に艶をつけたのが即ち此の有馬温泉であつた。初日を覗いて此幕の切れ間に、ちよいと六代目の部屋へ行つて見ると、どうです今の幕は?といふ質問、取敢ず『長いねえ』と答へると、丸橋の眉を引かけた菊五郎直ちに曰く『長いてえのは、ツマリ面白くないといふんですか』と、実を云へば『其通り。』
◇東蔵脊負ひ込む◇
その有馬温泉の場の主人公[たてもの]役たる浪士増田八右衛門は、明治三年の時は先代の芝翫丈[なりこまや]、田村将軍の説く所によると、歌沢が唄へて三味線の弾けた芝翫の当り芸、米蔵のやつた湯女の小藤はその時は紫若[やまとや]、色立役といふ中[うち]に忠臣蔵の由良之助といふ所があり、今度吉右衛門君の役の大竹初蔵が先代の左団次[たかしまや]で、とんと寺岡平右衛門といつて見ると大層な役のやうだが、舞台を見ると、根つから満[つま]らず、聞く所によれば、最初田村氏は之を播摩屋に納めやうと試みたのだが、台本[ほん]を読んだ吉[きち]ちやん直ちに願ひ下げに及んだのであつた。お鉢は勘弥の逃げた此座、嫌でも東蔵の方へ廻つて来るのである。田村氏の東蔵に納めた工合の巧さ。何しろ東蔵から見れば大師匠の先[せん]成駒屋の役ではあり、その又成駒屋がこれを演[だ]した当時の全盛、幕内の羽振りの好い事。五代目菊五郎なぞは小僧あつかひにされて居た模様など委しく自身物語つての、さて此役を--と来たものだ。演じ了[をは]つて楽屋へ戻り、羽二重を取つた東蔵、居合はした客に向つて『やつぱり出ない狂言は、それだけの事はありますね、吉ちやんは怜悧[りかう]ですよ』と。
◇常磐津二八会◇
有楽町に新宅を構へた元と因幡町の師匠、常磐津松尾太夫。新宅開きの祝ひをやつた席上、男のお弟子として又た松尾の肝煎役として、世話好きな帝劇の伊坂梅雪子。師匠のからだの閑のある二十八日頃、此の家で毎月溜飲の吐きくらをやらうと言出し、即座に纏つた常磐津二八会。御馳走は『そば』だねといふ戯談を真当[ほんたう]にして、会費も二八の一円六十銭、大凝りに凝つた第一回が去年の十一月廿八日、午後三時搦みから、昼の部は女のお弟子、夜に入つたら男の方と区別したが、昼の中[うち]から男のお弟子が詰かけ、夜に入つても女のお弟子は帰らず、結局両性の区画は撤せられ入り乱れての『さがやおむろ』浮気な蝶のありやなしや、永坂の細く永く、七十越した志津摩太夫など大噪[おほはしや]ぎにて、自身のお弟子まで連れて来て三味線弾になるといふ大盛会。梅雪子深い処へ押し上つて『小夜衣千太郎』と一段丸ごかしに汗もかゝず。尤も懐中で語つて居るのだから骨も折れずか、と口の悪いのが、あゝ好い親類を有[も]つたねえ。
◇習作劇場◇
十二月に有楽座で公演した林幹[はやしかん]氏の創作劇場は第一の『地獄へ落ちた写楽』で俳優[やくしや]の芸と作とが出合はないで先づ失敗。こんなものが此のやうな俳優[やくしや]に演り了[をは]せられないことは見ない前から判り切つて居る。凡そ大胆不敵なものは所謂新劇団の俳優[れんぢう]であると思ふ。第二谷崎潤さん作の『春の海辺』だが、これは劇中の人物が人物だけに、拙[まづ]いながらも見られた中[うち]、帝劇の音羽かね子が大光りに光つて居た。こんな手頃な作には村田実氏なども、相当に演[や]り得られるから先[ま]ア好い。次の『十五夜物語』と来ると、又た気の毒なほど困つたものであつた。此の芝居なぞは、脚本も演技も習作劇場といふべきだらうと例の口悪る男。
◇梅雪丈出演せず◇
渡欧記念と触出して昨年の一月新富座に大がゝりの『土蜘蛛』を演じて数千の見物、数千の同僚を悩ました伊坂梅雪丈、めで度く帰朝の演劇開催は今か〳〵と待つ人のあつたかどうかは知らないが、今度演るなら『望月』の赤毛を振るのだともいひ『大蔵卿』で一つ大[おほい]に踊つて、との噂さもあつたが、此春の文士劇が新富座に催されるに就て、出演の交渉が肝煎側から行くと、どうも会社イヤ劇場の方が忙がしいので、--と平謝まり。
皮肉な同じ素優[なかま]の一人が、忙がしいのでも、気兼といふ訳でもあるめえ、お師匠番の方が忙がしいので稽古に間に合はねえ為だらう、とキビ〳〵と素破[すつぱ]けば、名優口惜しがつて『そんなら出るよ』は好い〳〵。【
1919.1 新富座】
◇猛烈な素義◇
素劇[そげき]の演し物など、よくその月又は前月に、本当の役者が舞台をその侭、現に此正月の文士劇に鳳仙丈の『伊賀越』の如きやり方のそれでも此方[こつち]は拙[まづ]ければ拙いほど御愛嬌にもなるものなれど、文楽の越路大夫一派のアトへ、東京の素人義太夫が、同じ日本一の木挽町で、呻つて聴かせるに至つては、驚くべく怖れつべしで、われ等大抵のことには物驚きをせぬ連中も、少々ばかりだが開いた口が塞がらなかつた次第である。催しは新聞社の事ではあるが、呻らるゝ方々には当代知名のお歴々、義太夫の拙いのはあまり愛嬌になるものではなく、予てお稽古を申上ぐる三味セン弾きの師匠連の苦しみは実にお察し申すと、さる神経衰弱に罹つた朋友[ともだち]が言つて居た。中にも手塚の旦那猛昌[まうしやう]様の如き、どこを押せば彼[あ]んな調子が出るだらうと、死んだら解剖をして医学上の参考品に仕たいと千葉から出て来た医学専門学校の生徒の咄。【
1920.1.24-25 新富座】
『文芸倶楽部』27(5):212-220 1921.4.1
市村座の腕利き 友右衛門の家
九曜生
とある日。
和泉橋で電車を乗換へて、千住大橋行を仲徒士町で降りる、右手の賑やかな細い道をはいつて、機械鍛冶屋の横を左へはいる新道。その中程の左側、冠木門に『青木八重太郎』とある標札を見て、今時分内に居て呉れゝば可いがと思ひながら、門からら玄関まで三四間を進むと番犬ブル君が出迎へて呉れる。但し見慣れない我輩の物騒な面を怪訝な難かしい顔付きで、ヴーツと少しばかり唸つて見せる。これに驚いて後を見せれば、愈よ怪しい奴と直ぐに飛付いでワウと一つ噛まれる筈である抑か不気味なやつを、凝つと泰然自若たる風を装つて、二間四枚の硝子障子を一枚だけ明けて、『頼まうツ』と出かゝつたやつを呑込んで『御免ン』と柄になく優しい声を出して見た。
奥の方に話声が聞えるのに中々出て来ないから、考へて見ると後ろにブル君が、なほも怪訝な眼を光らして居る為めに、如何にも拙者の声が細かつたのだと気付いたので、今度は少し調子を張つて『頼むツ』とやつた。とがらりと襖を開けて出て来たのは、予て部屋でお馴染の所謂忠僕助八君であつた。
『やア。』
『これは来[い]らつしやい、さお上り。』
と奥へも伝へず、先づ歓迎して呉れるのである。
『居るかい?』
と奥の方を指した拙者は顧みて彼のブル君に一瞥を与へた。助八君の歓迎を正に一見に及んだブル君は『はゝア、此男はお馴染のお客だな』
と心得顔に、四足を返へして日当りの好い元の居所[ゐどこ]に安心の体で丸くなつて納つた。
玄関の三畳に帽子外套をかなぐり捨てゝ、次の四畳半を通つて客間に通される。八畳のキチンとしたお座敷、床には今は亡き人、広業画伯筆日の出の一軸が懸かつて居る。忠僕助八の知らせによつて、主人青木氏事大谷友右衛門丈が現はれる。其以前に女中が火鉢、お茶など運ぶことよろしくある。
『好い家だねえ。』
と、拙者はさも自分が住宅難に苦しんで居るやうに、そこら見廻はして先づお屋敷を賞めたものだ。
『いや。・・・よく来て呉れましたねえ。一度はと思つて居たんですが』
と青木君は例の温顔に微笑を湛へて、
『サ、先[ま]ア膝を・・・』
と火鉢の中に相対した。
今見た四畳半の横の六畳が、友右衛門の居間になつて居る。それから八畳の茶の間、そこが舎弟--よく友右衛門の伜と間違へられる、--福之丞の部屋になつて居る。それから中の間にまだ八畳があつて女中部屋が六畳で、湯殿、台所がある。台所の無い家も無いもんだが・・・と先[ま]アそれだけの間数で、これが平家建、総て派手々々しくなくつてちよいと奥床しい、土地柄としては大変に静かな落ついた家である。それから広くも無いが立派に手のはいつた庭、隅の方に茅葺の稲荷様の祠がある。同じく茅葺の柴折戸など。一木一石にも多少の数奇は凝らしてある。家屋庭園を合して、総坪数百三十坪ほどあるといふ。
快弁では無いが、感じの好い話し振で、それからそれと話題が続けられる。帝劇の勘弥の精力、努力を激賞する。一緒に『黒猫座』や『文芸座』を目論んで骨を折つた時代の追懐談なども出る。そして大友は今の境涯--地位を先づ難有いものとして、決して不平もなく、動揺も感じて居ないらしい。
『へい、僕が飛び出すだらうなんて噂さがありましたか。戯談でせう。』
と彼は市村座の近き将来に対する片々たる世評を一笑に付し去て居た。
義太夫の話が二人の間にやゝ暫らく交換[とりかは]された。大友の義太夫は最う有名なものになつて居る、故人三代目菊次郎や国太郎などゝ『芸道会』といふものを組織して、同志を集め、盛んに唸つて居た時分よりは、今ではズツと芸も上つて居る。そして今ではその会の牛耳を執つて、時々芸道会を催し、故人の追善もする、後進の引立てもやつて居る。市村座の若手で吉右衛門門下の腕利き役者吉之丞、菊五郎門下の未来ある琴三郎などもその会員となつて、デン〳〵を勉強して居るらしい。弟の福之丞も、既に随分段数[だんかず]を上げて居る。彼の児が割合に早く調子の定[き]まつて来たのも、一にこの義太夫のお蔭である。
『役者が義太夫と踊りをやらないのは嘘です。』
と彼は喝破して居る。
『だが、どうも演れば演るほど難かしいものですね、今寺小屋を始めたのですが、とても巧くいきませんでね…』と言つて居た。彼れは義太夫を真面目に研究し、稽古しつゝあるものの一人[いちにん]である。
『雀』といふ後援雑誌の話が一しきり。彼れはしきりに、
『何かおべんちやらや、お座なりでない、真実に私の事を批評したものを書いて下さいな。』
と言つた。
『皆さんにさう願つて居るのですが中々痛い事を言つて下さる方がありませんね。』
と言つて居た。
雀友会といふその後援団体も、大分真面目に大友兄弟を見てやる人達があるらしいから、先づ結構な事である。贔負の引倒しは一番困るものである。
今が恰ど合の子時代で、福之丞の関ちやんは、どうも役がつかない。頃合の役のある狂言が選まれないから、毎興行、序幕か切りの上るりか何かにちよいと出る位に過ぎない。身体にアキの多い関ちやんは、舞台でも御覧の通り、おとなしやかな生れつき、決して不良少年にならない。又た成り得ない人であるらしい。家に居ても、三味線のお稽古と、居間の八畳で裁縫[おはり]の実習に暮らして居る事が多いといふ。何でも一日に五口位しか口を利かないといふ位、無口である。
俳優の女房[かみ]さんらしくなく、堅気の内儀風な友右衛門の妻君おとめさんは、この関ちやんを可愛がつて、よく劇場などでも食堂へ連れて行つて好きなものを御馳走して居るのを見かけるが、殆んどこの関ちやんの、物を言つてるのを聞いた事がない。例の忠僕助八君に連れられて、桟敷に御挨拶に廻つて居るのも、毎度見かけるが、唯だそのお客の前へ行つて、黙つてお辞儀をして居るばかりらしい。
その宛然[まるで]、十四五の女の児のやうな関ちやん福之丞君に就て、驚くべき奇蹟のやうな一問題がある。それは彼が腕力--といふよりは怪力の所有者であることである。腕押しや枕つ引きなどで、殆んど市村座の楽屋で敵するものは無い位だといふ。嘘のやうである。茶目を看板に、一時は荒れ廻つて居た荒川清、市川男女蔵君の如きは、関ちやんと角力を取ると、立上るや否や其処へ打倒[ぶつたふ]されるといふ、これは見た人の話である。全く嘘のやうな咄である。
此日留守らしく、その関ちやんは顔を見せなかつた。角力でも取て居るか三味線のお稽古か。
俳優で幸四郎などは晨起[あさおき]の方といふ事である。近頃はどうか知らぬが、藤間の阿母[おつか]さんが莫迦に八釜しく、耳を引つ張つたり、布団を取つ払つたりするので、高麗蔵時代までは確かに朝起で名代だつたといふ事である。寝坊の方は誰彼れといふ迄もなく、殆んど全部、それは宵ツ張りの結果である。
我が友右衛門なども芝居があると、打出し後家へ帰ると既[も]う好い加減夜が更けて居る。先づお加減を見て姑らくは湯殿の人となる。出て来るとそこにはおとめさんの手で膳拵らへが出来て居るのである。ちよつと好きな事とて、お銚子が付いて居る、三合位が適度で、非常に甘[うま]く舌鼓を打つて、ぽーツと彼[あ]の豊[ふく]よかな頬を染めるのである。
母親のおうらさんも、妻君も大抵はそれ迄食事をせずに、兄弟の帰つて来るのを待て居て、大きな食卓を囲んで、家内一同楽しい晩餐を共にするのだといふ。
そして夜は次第に更ける。一日中あつた事共の話に花が咲いて、十二時は無論過ぎ、一時二時になる事も多いといふから、友右衛門の朝起きるのは、毎[いつ]も九時頃になるのである。 朝九時頃に起き出した青木氏は、嗽手水を終ると、師匠歌右衛門氏と同じく、先づ金神様を拝むのである。それから庭のお稻荷様まで、神仏の礼拝を怠る事は無い。朝飯は十時過ぎになる。食事が済むと、ちよつと甘味など抓む事もあり、新聞雑誌のひろひ読をして、座へ行くのに時間があれば、庭へ出て彼の愛犬ブル君をからかつてちよつと運動、その中に俥夫[くるま]の準備が出来ればやがて楽屋入、といふ段取になるのだといふ。
道斎坊かるた、といふ大谷家独特の歌留多があつて、芝居の無い時などは、関ちやんは勿論、お婆さんから女中まで、一緒になつて楽しむのだといふ。どんなものかは知らぬ。序ながら書くが母親のおうらさんは中々の賢婦人で、大友も亦た並々ならず孝養を尽して居るといふ事である。
地位の進むに連れて給金[しんしやう]も上り、比較的地味な生活振りにも見えるし、これといつて穴を明けるやうな道楽も無いらしい大友は、今の若さに既う大分残して居るといふものがある。その証拠には近所に家作の三軒も有つて居るといふ。その差配役は例の忠僕助八で、家賃の取立や何かに彼の男が歩いて居るかと思ふとをかしい。それより友右衛門が大屋さんだと思ふとちよつとをかしい。
その日はそんな事で、彼のブル君に送られて徒士町のその家を辞し去つた。
五代目大谷友右衛門、彼れはその後援雑誌『すゞめ』の新年号巻頭に於ける挨拶の文句の中に、次のやうな意味を書いて居る。
--前略--今年こそは、と常に年の始めに思うて居りますが、飜つて過去を考へますれば、やはり今年こそはと云はなければならない程、去年も変哲もなく一年を送つたのでした。慚愧に堪へません。今年の『今年こそは』と本当に今年こそはといふ意気で努力致し度いと考へて居りますが、何に致せ多くの御方々の御声援に待つの外は・・・云々。
と。平凡な言葉であるが、彼れの真面目な心持がよく見えて居る。又たその通り今年こそは、是非何か--一層発展して貰らひたいと思ふのは後援者を以て任づる人達のみでなく、多数の贔屓が一斉に望む所のものであらねばならないと思ふ。
『文芸倶楽部』27(15)
演芸秋風録
黒顔子
越路太夫が新富座の舞台で倒れた頃、歌舞伎座のチヨボ語り豊竹巌太夫が文楽へ買はれて行くといふ話を聞いた。市村座の尾上太夫が文楽へ行つた後だから、さなきだにチヨボ払底の東京から、有望な?のを凌つて行くほど文楽の方も太夫払底かとちよツと驚いた。併し巌や尾上を何十人連れて行つた処が、越路の代りにやアなるまいに、と直ぐに思つた。
興行毎に送つて貰う文楽の番付を虫眼鏡で捜しても尾上の尾の字も見出されない時に、巌太夫の文楽座入りは廃めになつた。折角話も纏まりかける処を、東京の歌舞伎役者の先輩から切に思ひ留まれといふ忠告を受けたのだと、御当人の吹聴である。それは留めるのが当然で巌も今の地位を棄てゝ、彼[あ]の腹の薄い調子の立たぬ咽喉を持て、文楽へ行つて端場を語らせられては堪らぬ訳、巌はそんな愚かな人間では無い。而して曰く『東京に居て今後専ら劇場の傍ら本業の義太夫を盛んにすべく努力するツ』と、素劇の一つもやつて、それも自分が太夫元を兼ねて演る位の男、この文楽行[ゆき]の宣伝も、彼れの書いた芝居でつたかも知れぬといふ人すらある。
巌はこの文楽行中止の宣伝をする前に、彼は既に東京で『義太夫研究会』といふものを起して、此程既に其第二回を公演した。それはどう研究するのか知れぬが、最初聴いた時彼は『酒屋』を発表した。ちよい〳〵とこれまでのと違つた節廻しや、三味せんの手があつた。それが果して改善か無駄事かは、我等門外漢の論[あげ]つらふ限りでないが、其の名乗りは勇ましく、其の態度によし多少の狂言的衒気があらうとも、巌の才気は認められねばならぬのである。
東京に居る男太夫の連中は何をして居るか、陰が薄くなつて居る近年、男の義太夫といふものを、ともかくも我等門外漢にも聴かせるのは巌太夫である。彼[あ]アいふ衒気を一種の熱心を以て宣伝して居る中[うち]には何時の間にか、斯界の第一人者になつて了うものだ。熱心ほど恐いものは無い。不思議でも何でも、今に東京の義太夫は巌太夫のものになるかも知れない。好漢、努めよやよやである。
○
牡丹燈籠のお峰とお米を演つて居る中[うち]、急病で相踵[つ]いで殪れた三代目尾上菊次郎と河原崎国太郎の今年は三周忌である。この二優は若い時分から義太夫に力を入れて、今の大谷友右衛門等と芸道会といふのを組織して、盛んに唸つて居たものだつた。義太夫ばかりでなく、鼓や太鼓にも修業を積んで、俳優としては当然ながら芸事に身を入れるのは好い心掛けの人達であつた。二優に逝かれた友右衛門はその後も淋しげに此の芸道会を継続し、一周忌にも盛んに追善会を催ほしたものであつた。
今年三周忌といふので、同じ劇場で八月興行の中に話を纏め、千秋楽を待ち兼ねて、日本橋倶楽部に追善の大演芸会を催ほした。
〇
大歌舞伎を時めく内閣の諸公に比すれば、在野に雌伏するとでもいふ小劇場の御大に沢村訥子、沢村源之助の二雄がある。訥子が犬養木堂先生とすれば源之助は加藤高明氏である。
そんな見立番付はえて付会[こじつけ]になるから止めるが、その訥子と源之助紀の国屋の両大将がこの新秋九月には本郷座と辰巳劇場とに立籠つて活躍して居た、先づ久し振りに本郷座を覗いて見ると仲町の大将、『高野長英』を演じて例の専売の大立廻りを見せ、下駄穿きの信者はワツ〳〵と喝采する。
瀬川如皐氏が私の為めに書いて呉れた脚本だから私以外の人は演らない、といふ大気焔の高野長英。歌門の女房、団三郎の母親、松十郎の忠僕、二人の子使[こやく]を使つて、生別離苦の愁嘆場から大詰本雨[ほんあめ]の捕物まで思ふ存分に荒[あ]れて見せる。憲政擁護木堂の獅子吼のやうである。
辰巳劇場は内外大改築とあつて、ペンキ塗立御用心といふ小屋へ納まつった田圃の太夫、序に『女長兵衛』を出して、先づそのスツキリとした江戸俳優式の舞台面に贔負の喝采を浴びる。中幕が二つあつて、二番目『四谷怪談』にお岩様を髪梳きから戸板返し、蛇山の庵室まで大骨折[おほぼねを]りの源ちやん大[おほい]に若返つて御覧に入れる。加藤総裁大会に臨んで、開会の辞から得意の外交演説に長広舌を揮ふとある。
訥子丈の大立廻り、丸橋でも安兵衛でも荒れるには荒れるが、全体剣道から見たらどうか、或る人は訥子の剣術では到底人は斬れない、今の役者の中で人の斬れる太刀先は吉右衛門丈[だ]けであると言つたとやら、全くさうらしい。それに荒れるやうには見えるが、大分衰へたものである。さすがにお年の故[せい]であらう。木堂先生の事は言ふに及ばぬ。
源ちやんの啖呵、それも時代は既に遠ざかつて来た『女長兵衛』なども余程遠見の立派なだけ、お岩様の方も初めの美くしさが大分くたぶれて来た。加藤の旦那の外交論はまだそれほどでもあるまいか。
『雄弁』5(4):207-212 1914.4
俳人一茶の生立
里の火
一茶といふ人は伽承知の通り一風変つた発句の名人でございまして、六歳の折り
おれと来てあそべや親のない雀
と吟じましてから六十五歳、仮住居の土蔵の中で歿します時、
あゝまゝよ生きても亀の百分一
と詠んだまで、少なからぬ句もございますが、奇想天外と申しませうか、滑稽の妙を極めたと申しませうか。飄逸、奇警、軽妙、滑脱、真似て出来るものではございません。臨終の時門人を集めまして決して俺の真似をしてはならぬといつたのは尤もな次第で、カの足りない奴がこいつをやらかしますと、飛んだ卑俗な川柳の出来損ひになつて仕舞ひませう。
俳諧の神様と仰がれまする芭蕉庵桃青が歿なりまして七十年、宝暦十三年癸未の年に信濃国水内郡柏原の駅に於てやはり『呱々』といつて生れ出ました。一茶坊の父は小林弥五兵衛と申し代々のお百姓で、これも宗源と号して俳句をやつて居たものと見えまして
おさらばぞ仲よく致せ門涼
といふ辞世が残つて居ります、この句なども後の所謂一茶調でございます、血統と申すものは争はれないものでございます。
名を信之、通称弥太郎と申しました。両親の外に弥太さんの生れました折恰度五十二歳に相成ります祖母さんにおかなさんといふのがございました。
素より大百姓ではございませんが別に駄馬の業を営んで居りまして相応の生活をして居たものと思はれます。両親も至極結構な人であつたらしく、祖母さんが初孫とありて大層可愛がられたので家庭も円満に育ちましたのは、弥太さん三歳の時までゞございます。
明和二年八月十七日といふ日は一茶の一生に取つて如何なる悪日でありましたか、母親のおはつさんは乳放れもせぬいとし児を置いて病に仆れて歿つたのでございます。それから後といふものは年寄つたおかな婆さんいとゞ不便さが増しまして朝は背に負ひ夕は懐ろに掻抱きまして乳貰にでます。弓のやうに曲つた腰で弥太さんのもりは一人で引受け泣けば共に泣き、笑へば共に笑ふといふ可愛いがり方で八歳に相成りまするまでは何事もなく育て上げたのでございます。
母親を失ひました時は父親はまだ三十二歳の男盛りで、小児の為めには一生鰥で暮さうと思つて居りましたが、何分にも老母の苦労心配を朝夕に見るのが辛うこざいます、また一家の締りから致しましてもと諸方からのお勧めもございます、とう〳〵五年の後同郡倉井村といふ処からおさつさんといふ後妻を迎へる事になりました。一茶の弥太さんの為めには継母が出来ました訳でございまして二十七歳になりまするおさつさんも我子の如く可愛がりましたのは当座の事、一茶十歳の夏其腹に弟の仙六といふが生れました。斯うなりますと致し方がごさいません、例の継母根性と申しますやつが芽を吹き出して、そろ〳〵弥太さんが苛められるといふ紋切型に相成ります。
学問が好きでございまして本陣へ手習に通つて居りましたけれど、仙六が出来ましてからといふものは、その守が忙しいので、母親は『百姓の子供に学問など要らぬこと』といふ訳でやめさせられて了ひます。好きな一茶にとりましてはどの位子供心に悲しかつたか判りません。手習をやめさせられた計りではございません、守をして居ります仙六の泣き声を聞き付けました母親は
『十歳にも十一にもなつて小供の守位出来ぬといふことがあるものか』
といつて叱ります。
『守をするのが厭だもんだから態と仙六を泣かせるのだね、いゝえさうに違ひない必とさうだよ、小供の癖にそんな智謀がどこから出るだらうね』
といふ母親は、ありあふお祖母さんの杖を取つて
『この児は〳〵』
と擲ります。最初の中は祖母さんの袖の下にかくれ、父親の袂に縋り付いて謝つて貰ひましたが、六十歳を越した隠居のお祖母さんや、好人物の父親ですから。後には頼み少ない事になりまして五体に生疵の絶間もなく、目も泣き腫れて居るといふ始末です。一茶が後に自分でかき残した文章の中に
『杖の憂目を受くること日に百度、月に千度、一年三百五十九日、目の腫れざることもなかりけり』
と書いてございます。折檻のあまり烈しい時は、手習にまゐります本陣へ駈込んで助けて貰ひ、或時は菩提寺の椽の下に一夜を泣き明かしたこともございます。後に出来た句でございますが、
古郷はよるもさわるも茨の花
といふのは当時の哀しかつた追憶です。『梅の魁に生れながら、茨の遅生にせばめられつゝ、鬼はゝ山の山おろしに吹かれ〳〵て』と彼の有名な『おらが春』の中に書いてございますのを見ましても随分継母の虐待は甚かつたものと思はれます。
お話が前後致しましたが、一茶の弥太さん五つか六つの時でございます。隣村に赤渋の富右衛門といふ悪太郎がございまして、弥太さんよりは年寄でもありますし、大柄な力自慢で、村での餓鬼大将でございますが、一茶が近所の小供等と遊んで居りますと、自分の村の腕白小僧を大勢連れて参りまして、
親のない子は何処でも知れる
爪を唾へて門に立つ
といふ唄に節を付けて唄ひましてからかいます、一茶が何とかいひでも致しますと、『親無しツ児の癖に生意気だ』とばかり、今度は石をぶつけたり、棒で追つかけたり致します、今まで仲の好かつた近所の朋友も見やう見まねで同じやうに唄を唄つてからかひます。これを訴へる母親はございません、子供心にどんなに辛かつた事でございませう、後には其子供等の姿を見かけますと、自分の方から密つと逃げかくれるやうになりまして、独り坊ちんで裏の畑か何かで遊ぶやうになつて了ひます、
おれと来てあそべや親のない雀
といふ句は其時の涙の結晶でございます。五つや六つで出来る句ではございません。後来俳諧寺一茶となる斯道の天才は既に此時から閃めいて居たのでございます。
幼少からこれでございますから、一茶の句に同情の多いのが沢山あります。動物でも植物でも自分の友達のやうな気がして人間扱ひにした句が多く、
初螢何故引返へす己だぞよ
萍の咲いてたもるや庵の前
やれ打つな蝿が手をする足をする
蚤どもが嘸夜長だろ淋しかろ
など有名な句で、
やせ蛙負けるな一茶これにあり
寝返をするぞそこのけ蛬
蝸牛壁をこはして遊ばせん
なんといふのもございます。同情が溢れて居て、其の生立に考へて見ますと涙がこぼれるやうでございます。
打ち打擲の責め苦も十二、十三と年を経りまして、弟の仙六が漸くお祖母さんと遊んだり、一人で寝て居りますやうになりますと、今度は手荒い百姓の業や副業の馬の口取りをさせられるのでございます、『昼は日もすがら菜摘み草刈り、夜は夜もすがら窓の月の明りに沓打ち草鞋作りて文学ぶ暇もなかりけり」と書いたものがございますが、十二や十三の少年が継母の苔を逃がれます間はさういふ荒仕事に手足を腫らして居たのでございます。
まゝつ子や涼み仕事に藁叩く
といふ句が一茶にございます。
学問好きの弥太さんは其間にも母にかくれて書物を読み俳句を学んで居りましたので、或日の事でございます、本陣に泊りました加州金沢の藩士某といふ、弥太さんの馬に乗りまして、有名な黒姫山の麓をまゐります。頃しも霜月の末つ方でございまして、雪国の事、頂上は早や真白な雪、麓に枯れ残つた尾花の景も自から吟懐を動かします。彼の馬上の侍は俳諧を好んだものと見えまして、頻りに『黒姫や〳〵』と独語を申します。四辺に人通りもございません。至つて物静かに寂びた旅。弥太さんが最前から侍の独語を聞いて居りましたので
『旦那さま、何を考へてゐられますかね』
と聞きますと、
『さればさ、彼の黒姫山の雪景色があまり好いので、一句仕らうと存したが、どうもうまく出んのでなア、お前達にいふた処で致方もないが』
と笑ひます、之を聞きました一茶は
『旦那さま、私一つやりませう、斯ういふのはどうでございます。』
黒姫も色気づいたか綿帽子
件の侍は驚きました、十三か十四の汚なごしらへの馬士の口から、しかも自分が今やウン〳〵いつて苦しんで居た実景を苦もなくスラ〳〵と大人びた口調でやつつけたのでございます、駄賃を奮んで感に堪えた件の侍は、江戸から帰りに又たその子を尋ねたが、もうその時は此の土地に一茶の弥太さんは姿を見せなかつた時でございませう。
襁褓の時から只管に愛くしみ育てゝ呉れた大事の〳〵祖母さんは一茶十四歳の秋に黄泉の客となつて了つたのでございます。弥太さんの悲しみはどんなでございましたらう。
汁の実も蒔て置かれし畠ぞよ
といふ句は祖母の三十五日に出来た句だと申します。
前申しました通りの家庭の事情でございます、一茶は到底この悲しみと苦しみとに堪へ得られません。父弥五兵衛もこれを知つて居りますから一茶を江戸修業に出しましたのでございますが、これも学費を持たして快く勉強に出してやつたのではございません。彼の鬼のやうな継母の虐待に堪えられずして一茶は出奔して了つたのだといふ説もあり、出て行けといつて放逐されたのだといふ説もございます。自分の日記には『園原やそのはゝならぬはゝき木に住まれし伏家を掃出されしは十四の歳にこそ』とありますので、姑らくこれを真当の事だと致しておかねばなりません。
さすがに父親は実の子でございます、余所の親は今少し年でも取れば家督を譲りて自分等も行末を楽しむべき処を、年歯も行かぬ痩骨に荒い奉公をさせ、さぞや無情い親だと思ふであらうが、皆是れ宿世の因縁と諦らめて呉れと申したといふことが記録に出てをります。
これから江戸に参り随分難義も致しましたが、好きな俳句は忽ちの中に宗匠株になつて了ひまして、遂に稀代の名人大家になつたのでございます。生立はこれで段落をつけましてこれから少々、一茶一代の奇行逸話を摘んで此稿を了へやうと思ひます。
稍や名を成しましてからの事でございます、江戸へ参りまして浅草蔵前の札差で俳諧の先輩夏目成美といふ人を訪ねました時、元より辺幅を飾りません一茶の事、店前へやつて参りまして夏目さんに会はして下さいと申しますと、店の者は其の風体を見ますると、どこの乞食坊主かと名前も聞かず一応の取次も致しませんで『先生は昨今お留守でございますが、お帰りの程も判りません、へい、左様なら』甚いやつがあるものでいきなり『左様なら』といつて所謂門前払ひでございます。これを聞きました一茶坊グツと癪に触りましたが、別に喧嘩をするでもございません、土産にと思つて持つて参りました生れ故郷は信州の名物蕎麦粉の袋の口を開きまして、黙つて店先へこいつを撤き散らして何をするかと思ひますと、平らに真白に撒いた蕎麦粉の上へ指でもつて
信濃では月と仏とおらが蕎麦
といふ一句を書いて、プイと出て行かうと致します。これを見ました店の者の中で急いで奥へ駆け込んで成美先生へ告げたものがございます、予て一茶の俳風を慕つて居りました成美はこれを聞きますと、直ぐにそれは信州の一茶坊だと悟りまして、飛んで出て跡を追はせ、番頭共の不礼を謝まつて下へも置かぬ歓待を致したと申すことでございます。
その時の事で、お湯か沸いたからおはいり下さいとといふので、一茶は結構とばかりに飛込んだが、やがて出て参ります一茶の顔が赤や青や紫に染まつて全然鬼の面が流れ出したやうになつて居ります、成美を始め一同驚きまして、『どうしたのです』と尋ねると、一茶も鏡を見て驚いたが、姑らく考へてアツハツハツハと失笑するのでございます、愈よ変だと思ひますと何でも無い、慌てゝ飛込んだ湯の中には、家の者も気の付かぬ事で、手拭が無かつたのです。已を得ませんから一茶は例の蕎麦粉を包んで来た更紗の風呂敷で顔を拭いたのだといふので又風呂へ飛込み大笑ひを致したといふ暢気な男てございます。
下駄ころりからり彼奴らが夕涼み
といふ句がございますが、これは人が涼みを致して居りすのを見まして癪に触つて詠んだもので、弱い者に同情する一面には僻み根性のやうな一種の負けじ魂もあつたのも偏へに彼が生立の境遇から来て居るのでございす。或る年吉野山を通りかゝりまして花を見て歩きます中に、まだ蕾も碌に持たない穉い桜が一本あつたのを見付けました。一茶はやをら懐から紙を取出しまして、矢立の墨も黒々と『若き桜に代りて』と題し 私も憚りながら桜かな
といふ一句を其の枝に結び付けて立去つたと申します、好い話です。
故郷へ帰りまして独り草庵に居ります時、白昼行燈を灯して煙草の火に致したり又夏になると蚊帳を釣放しにして、三度の食も其の中で済ましまして、夜は蚊除けで昼は蠅除けだと申して居りました、冬は紙帳を吊して同じく昼夜とも其中に居たといふことで
今迄は罰も中らず昼寝蚊帳
独寝の大平楽の紙帳かな
などの句がございます。
さういふ風でございますから書斎に雨などが漏りますとそれを繕ふといふこともなく、机を寝所へ移します、その寝所へ雨が洩つて来ると今度は台所の方へ机を持出して、平気の平左で句を作つたり書物を読んだりして居た位でした。幼名を弥太郎と申しまして、何だか先達て死んだ落語家の弥太ツ平馬楽の一面が一茶のやうな心持がするのも不思議です。
文化十一年四月十一日、自筆の日記に、『五十二にして始めて妻帯す』と記してありますが、これも三十二三歳の時、郷里に帰り妻を迎へたといふ記録もありますからまだ私には確と研究を経て居りませんので姑く疑を存しで置きませうが、その五十二歳の時貰つたお菊さんといふ細君が文政六年に歿しまして、其当座衣類の洗濯や何かを多くは明専寺といふ近所のお寺の女中に頼みましたが、或る晩其のお寺へ招ばれました酒の席で、着て居た被布が綻びて居るのを女中に縫つて貰つて
つぎかねて破れ衣となりにけり
さして下されついで下され
といふ狂歌を読んで笑はしました、お酒の席だけにおもしろうございます。
或る懇意な人の宅で孫が産れたといふのでお祝ひがございます、一茶も招かれて御酒の席へ出ましたが、席上で、是非先生一句御祝ひを願ひたいもので、と、短冊をさしつけられました、一茶は一寸いと首を捻つて書いた句が、
親は死ね子は死ね後で孫は死ね
といふので御座います。主人を始め一座の人々は驚きました、無暗に死ね〳〵ツといふのですから、座も白ける位でございました。すると中に一人解つた人がございまして、やがて仔細らしく膝を打て『名吟々々』と賞めたのですが、一同どういふ訳でと詰寄ります、その人は祝ひの句などは是非こういふに詠みたいものですねと、句の意味を説明して、先づお祖父さんが歿くなつて、それからこのお孫さんの親、即ちお父さん、其の次に今度お生れになつたお孫さんが亡くなれば物が順に行つて誠にめでたい、ツマリ天命を全うするといふので、と披露に及んだので、一同漸く愁眉を開いたと申します。
これと一対のお話しがございまして、さる旧家、御家老の何かの宅に御婚礼がございまして、文兆の立派な軸に賛を頼みに参りますと、一茶は『婚礼だね』と聞き直して直ぐと筆を採つて
來年は小便くさく炬燵かな
とやらかしました、さア其の持主は納まらない、めでたい客人の席へ尾籠千万であると大に怒りまして、ビリ〳〵と引裂いて了ひますと、後で物の解つた臣がこれを聞いて、それは何より結構な句、御夫婦仲も睦まじく、やがては和子さまの御出来になることを詠じましたものでござりましたに、惜しい事をなされましたと申し上げたので、主人も大層後悔されたといふ、こんな話は昔しの田舎にはありさうな事でございます。
一茶一代の奇行逸事は容易に尽されるものではございませんが、最初に生立と題しましたものでもございますから、この位で止めて置きます。
(此稿一茶研究者東松露香氏其他諸家の研究に拠つたものといふことを書添えて置きます)
『雄弁』 5(10):178-187 1914.10.1
楠氏
田中煙亭
(一)
一世の奇計妙策、殆んど人間業とも覚えざる古今の名将、楠河内の判官橘の正成は後醍醐帝の霊夢によつて、無道の臣執権北条高時を伐つべく召出された。一門悉く忠魂義胆の結晶であつたが、勢利あらずして、世は竟に北条の天下となり、室町の天下となり了つたのである。
人皇三十一代敏達天皇の玄孫に当らせ玉ふ葛城王は実に我が楠公の祖先である。和銅元年十一月元明天皇は群臣を宮中に集めて遊宴を張らせ玉ひ、御宴に侍し玉うた葛城王に、盃に浮めた橘を下し賜つて、これを汝の姓とすべしといへる勅諚があつた。
後、聖武天皇の御宇となつて、従三位葛城王に更めて橘の宿弥を賜はり、王は其日を以て御名を橘の諸兄と改められたのである。左大臣となり、正一位に叙し、宿弥を改めて朝臣と号すべしとの勅命があつたのは、天平三年の交である。
(二)
『橘朝臣諸兄公に逆心あり』といふ浮説が伝へられた。否単に浮説として伝へられたばかりでなく、此の事を実しやかに、主上に対し奉つて讒言をしたものがあつた。
勝宝八年の春、時の主上は孝謙天皇であらせられる。
聡明叡智の主上である。忠誠格勤の諸兄公である。陛下は之を以て讒者の言として斥ぞけ玉ふた。諸兄公を召され、却つて御慰めの御諚をさへ賜はつた。
諸兄公は感泣之を久しうした。然し、仮令それが讒者の言でありとするも、此の如き不祥の取沙汰を受けたのは、畢竟我が不徳の致す処である。晏然として此の侭朝廷に立ち、宮中に出入する事は能きぬ、と決心された。そこで直ちにあらゆる官職を拝辞して、閑雲野鶴を伴とする身となられたのである。
根もなき讒者の言といふことも明白であり、且つは畏き勅諚をさへ下し賜はつたのであるに拘はらず、公は『不徳』の罪を闕下に負うて、潔よく公職を辞されたのである。武臣銭を愛すなどいふ騒ぎでない末世の人々とは、実に雲泥の相違であると謂はねばならぬ。
楠判官正成公はこの橘朝臣諸兄公の後である、血汐を引いて居るのである。
諸兄公当時、山城国井手の里玉川の辺りに別殿を営まれて、多く其処に居られたので、人呼んで井手の左大臣と申し上げて居た。この里は酴醿[とび]の花の名所であつて、盛りの頃は其の花が清き玉川の流れに映つて得も言はれぬ眺めであつた。公はそこらにあつて徐かに蛙の声に心耳を澄し風流の余生を送られたのである。その酴醿の花を直衣の模様に繍とらせて召されたを、後に水を画き添えて紋所とした、その花が後世菊の花に似た所から、『菊水』と誤まり、伝へられて、今や楠氏の紋は菊水であると信ぜられ、疑がはれぬやうになつたといふ事である。
(三)
降て天慶の乱、我が帝国の歴史に危くも一点、黒き影を印しやうとした彼の平親王将門、藤原純友は四国から兵を起して東西相応じた時、小野好古を大将軍に、数万の官軍、勅を奉じて西に向ひ、大に純友軍と戦つた。此中に殊勲を奏して凱旋の後河内、備中の二国を賜はつた武臣、橘少将経氏といふのがある、それは実に井手の左大臣諸兄公十代の後胤であつた。
領を河内に得た橘家は経氏から更らに十一代を経て、河内守成綱といふ豪の者を出した。金剛山の麓七郷を領地として武を四隣に振つた。
この成綱は大層楠を愛して、馬場に数株の楠を植え、朝に夕に之を愛して居つた、常に近習に左の如く語つた。
世人の最も愛好する植物は桜、藤、梅の類である、これは一陽来復の気を享けて花を開き、白に紅に、其の匂ひ亦た得ならぬもので、詩に歌に詠ずる、けれども詩歌は公家の翫ぶ所のものであつて、我が武人の家のものではない、彼の松を愛し柳を好むもの、人さま〴〵であるが、予は楠の剛強にして雪折れもなく、大木になるのを愛する、後には盤石となつて不朽に伝はり、天地と共に長久を保つ、武人の愛すべきは楠である』といふのであつた。
世人遂に成綱を呼んで『楠殿々々』といふやうになり、成綱も自ら楠河内守と名乗ることになつたのである。
(四)
成綱の嫡子盛康の時に至つて、この楠に就て一場の譚がある。
領内にある水分明神といふは武略の祖神として兵家は一様に篤き信仰を捧げて居たが、盛康も常に社参を怠らなかつた。ある時二三の従者を供に忍びやかに参拝して、帰ると例の楠木を植えた馬場にさし蒐つた。
茜色に春つく夕陽を詠めながら心長閑に歩みを運んで行くと、大きな楠の根方に年歯二十年ばかりの美くしい、臈長けた女房が、身には唐綾の小袖を着けて、悄然として涙ぐんで居るのを認めた。
まだ独身の盛康、この艶なる姿を一目見ると、未だ曽つて覚えざる感じに打たれて、思はずツカ〳〵と立寄つた。
『お身やそも何国如何なる人なるか、かゝる片田舎に住む人とも覚えず』
と尋ねた。女はハツと顔を上げて、稍や恥しき態に
『されば候、自は何処とも知らず逍ひ来れるもの、爰は何処にて候や』
といふ、盛康尚ほもすり寄つて
『爰こそ河内国赤坂と申す所』
『ナニ、河内の国とか、そは都近き国と聞き及ぶ、懐かしうこそ候へ』
盛康怪しげに眼を光らせ、如何にして爰に来れるや、又た如何なる人にや従者も無くて、など懇ろに尋ねると、彼の女臈は涙と共に次の如く語つた。
女は都の者、父なる人は雲の上にも上る人であつたが、去年の春、讃岐国寒川郡牟礼松の領主坂原藤馬助といふ人に迎へられて八重の潮路を一葉船に、押渡り夫婦の契りも束の間に、其藤馬助は多くの人に深き恨みを受けたるとかで、或る夜数百の武士に館を囲まれ、火をかけられて防戦の力及ばず、切死なして相果てた。女は忠義の壮者に脊負はれて、煙の中を遁れ出で浜辺まで落延びると幸ひの商人船、無理に頼んで都の方へ送られる、彼の壮者だちは引返して主人の後を趁ふた。
件の商人船はやがて尼崎とやらいふ処に着いて、都まで送り進ぜたいが急ぎの用事もあり、これからは都にも近い事であるから、何とかして尋ね行けと女はそこへ取残され商人だちは何処へか行つて了つた。それから歩みも慣れぬ女性の身、あなたこなたを彷徨ひて漸く爰まで来たのである。
(五)
彼の女臈は委しく物語つてさめ〴〵と泣き入るのである。心を動かした盛康はどうして其侭打すてゝ行かれやう。
『さてはやんごとなき人にておはせしよ、都へは某方から送り届け申すべし、とにもかくに吾が館へ参られよ』
と其夜は旅の疲れを慰め、さま〴〵にもてなして休ませる。
女も頼もしき武人よと、行末の心細さにまだ年弱き心のゆるみ、盛康の言ふがまゝに、三日、二日と館に止まり、遂に割なき契を結ぶに至つたのである。
間もなく懐胎、十月が程も夢と過ぎて玉のやうなる男子を産落した。盛康の悦びは一方ならず、此若成長して家督を嗣いだのが楠左兵衛督成氏である。
茲に不思議なるは成氏二歳の春、霖雨降続く夕暮に、母なる女房忽然として姿を消した事である。盛康の驚きは如何ばかりぞ、日頃故郷の都へ帰りたいといふて居たが、一人ぬけ出で父の許へ逃げ行きしか。あるは狐狸に誑らかされしか、何にもせよ今一度捜ね出せと、八方へ人を走らせ館は上を下への騒動である。
乳母であつた某の女房、ふと若の寝床の傍に、小さな巻物一軸を発見した。何ならんと驚きながら急ぎ之を盛康の所へ持て行つた。盛康受取つて見ると、悉く細字の一巻、始め終りを篤と読むと、これは世にも稀なる孫子の『神武統宗』といふ軍略の秘書であつた。
盛康稍や暫し見入つて居られたが、ハタと膝を打つて
『こは希代の珍書である。吾幼なきより軍学に心を委ねをつたるも名をだに聞かぬ名書である。思ふに明暮孫子の宮に歩みを運び、多年誠を捧げたる信仰を水分明神あはれと覚し召させ玉ひ、仮りに女に化けして此の若子を授け、今また此の秘奥の一巻をさへ与へ玉ふ。されば此の若も凡人にてはよもあらじ、あな有難や、尊とや』
と感涙に咽び、直ちに供揃ひを命じて水分明神に参詣されたのである。
(六)
恙なく若も生立ち、翌年の春若三歳となつた。一家変る事なく盛康は只管明神の霊顕に感じ、軍書に眼子を曝し兵学の奥義を極むるのであつた。
母なる女房姿を躱[かく]してから早や一歳、ある日館前の楠の根方を掘る事があつて下部共土の下やがて三尺ばかり堀下けると鍬に当つたものがある。泥を払つてよく見ると金欄の守袋であつた。
盛康が取て之を見れば紛ふ方なき恋しき我妻の肌身に添えた守りである。はて心得ぬと開いて見ると、中から法華経の普門品が出た。正しく在りし昔に妻が自から認めた水茎の跡であつた。
盛康之を見てしばらくは言葉も出でず、目を閉ぢ息を深うして考へて居た、やがて
『父盛綱より以来、世人と勝ぐれて楠を愛し又た常に水分明神を信仰する、これ単に武勇の道に達し子孫の繁栄を祈るが為めである。明神は曩きに秘奥の一巻を授け玉ひ、非情の楠又た神力によつて其精霊凝て我妻となり一人の若を挙げしめたり、子孫武名を天下に顕はさん事ゆめ疑あるべからす』と勇み喜び、彼の一巻と今ま堀出した普門品とは家宝として之を伝へんと館の奥深く之を納めた。
普門品の奇瑞として名高く伝へらるゝは、その後数十年を経て元弘年間正成赤坂の城に立籠り防戦甚だ努めたるも力及ばず、篠衝く雨夜寄手に紛れて落行く折、太平記に左の如く記されて居る。
『政成是は大将の御内の者にて候が、道を𨂻違へて候ひけると云捨て足早にぞ通りける。咎めつる者、さればこそ怪しき者なれ、如何様馬盗人と覚ゆるぞ、唯射殺せと近々と走り寄つて、真直中をぞ射たりける。其矢正成が臂の懸りに答へてしたゝかに立ちぬと覚えけるが、素肌なる身に少も立たずして筈を返して飛翻る、後に其矢の痕を見れば年来信じて読み奉る観音経を入たりける膚の守に矢中りて一心称名の二句の偈に矢さき留りけるこそ不思議なれ』云々。
この観音経とあるものこそ、即ち盛康の楠の根方から堀出した法華経普門品である。
(七)
さて此の盛康の愛子、楠の精が残した若、成長して左兵衛督成氏と呼はれ武略の名を畿内に逞うした。
その嫡子は刑部大輔正俊である。其子左衛門尉正遠、名を改めて正澄といふ。正澄卅一歳に及んで嗣子がない。あはれ勇武隣郷に鳴つた楠氏の家系爰に絶えたかと夫妻の歎きは実に一方ならなかつた。
和州平郡(大和河内の国境)に信貴山歓喜院といふ毘沙門天があつて震験頗る灼かであると聞き及ばれた正澄の夫人は、茲に百日の間日参して才智勝れた男子一人儲けさせ玉へと祈願を籠められた。
夫婦の信心や通じけんといふ訳で、夫人或る夜、金光燦爛たる甲冑を着けた異人が、口の中に飛入つたと見たは夢。朝夙く起出でゝ現の如く思ひ考へると、こは如何様霊夢であらう。さてはと心に思ひ秘めて日を経る中、果して夫人は其頃より唯ならぬ身となつたのである。
正澄夫妻の喜悦は如何ばかりであらう。
懐胎十四ケ月、楠家の上下歎の声を以て充たされたのは、永仁二年甲午に玉のやうな男子誕生、これ正しく毘沙門天が我子となりて現はれ玉ひしものであると、我子に名を多門丸と命せられた。
多門丸は申すまでもなく、我が楠河内の判官橘の正成公となられた人である。
(八)
多門丸の聡明睿智、今更詳説の要もない。乳母は素より正澄夫妻、御付の誰彼何れも常に舌を巻いて驚嘆する事ばかりてあつた。
健やかに成長した多門丸六歳の時、家人等打よつて相撲の慰み、十二三位の小姓とも何れも易々と倒され、本気になつて懸つても足を掬はれ、後を押され若様に勝つべき少年は一人も無いといふことになり、誰一人御対手にならうと出るものがなくなつた。
其時、多門丸の乳母の子、宇佐美次郎澄安の嫡男弥次郎といふもの、御見物にと出仕した。今まで散々に悩まされた童子共『や弥次郎殿が見えた〳〵、今若君と相撲を取つて勝ち給はん人宇佐美殿の外にない、いざ若君の御対手に、弥次郎殿、準備〳〵』と打ちはやした。
この弥次郎は年既に十八に及び大人も及ばぬといふ力自慢の強者である。余りの馬鹿々々しさに弥次郎戯談にしなして取合はぬ位、多門丸は『弥次郎組まう』と仰せられる。
『若様、某若様と取り申さは空より振り落し申さん』といふ。
『ナニ落されてならうぞ、さらば取らう』と多門丸は早や身構へる。
普通[よのつね]ならば迚も勝負にもならぬ年嵩。併しながら十二、十三の年嵩が脆くも破れる若君の角力の事、乳母をはじめ並居る面々、若しやと思ふこの取組に片唾を呑んで見物する。
『やツ』と突き来る若君を『よいしよ』と抱いた弥次郎は多門丸の帯を攫むとその侭に宙にさしあけて莞爾と笑ふ。
見物一同拳を握る。
弥次郎笑ひながら差し上げた侭、『若様落しませうか』といふ。
多門丸宙にあつて少しも動ぜず、『落されるなら落して見よ』といふかと思ふと、右の手で宇佐美の眉間のあたりを丁と打つ。
『ハツ』と気を取られた弥次郎の緩んだ腕を振り挘ぎつてひらりとばかり自から跳ね落ち、隙もあらせず弥次郎の足を掬つて打倒された。
大の男がズン顛倒。
倒されながら宇佐美弥次郎、恥も体裁も忘れて了つて、只管若君多門丸の才智武勇に驚嘆した。
『此君御成人の後は如何なる武道軍略の功をや顕はし玉ふらん』
と、さすがは乳母の子、忠義の臣ら弥次郎は涙を浮めて悦んだといふことである。
当時十八歳の弥次郎、後に宇佐美河内守と呼ばれ、正成の正の字を賜はつて正安と号り、忠戦を励み、建武の二年、湊川の一戦に運尽きて、主君と共に自刃した。
(九)
多門丸七歳の折には、最う大抵の男より強いものであつた。
或は雪の降る夕ぐれ、雲井逈かに渡る雁のつれの、一羽後れて行く雁を見た多門丸、床にかけたる弓押取り、狙ひ定め、兵弗と切て放せば、見事その雁を射落した。それを見て居た父左衛門尉正澄凡人ならずと舌を捲いて驚いた。
所謂一を聞て十を知る多門丸、翌八歳から学問を学び、剣法を修め、日に月に驚くべく上達する。
嘉元三年四月、多門丸十二歳の時。
父正澄と予て地方に在りて確執の間柄である矢尾別当顕幸、武勇侮るべからさる法師と又も戦端を開いた。顕幸自から出陣すると聞えた同月十二日。
多門丸父正澄に向て『味方直ぐ様馳せ向ふべし、思ひ寄らぬ事なれば敵は油断し居り申さん、不意を討つて勝ち玉へ」と申し出た。正澄掌を打て『実に尤も』
果して此の戦、小勢なからも楠方敵軍の中へかけ入り駈出で思ふさま矢尾軍を悩ました。
十二歳の多門丸、初陣とあつて真先に進み戦ふ。矢尾別当に加勢として泉州より馳せ来りたる岡田六郎左衛門といふに名乗りかけ、馬上に渡り合ひ切て落し、大刀の鋒に其首級を貫いて高声に名乗りを挙げた。
実に驚くへき武勇智謀の少年であつた。父正澄が『汝はさながら老将の智あり」と賞賛したのも道理である。
(十)
多門丸十五歳になり愈よ聡慧並びなき武人と称さるゝに至つたが、何とかして軍略の秘法を得やうと心を砕く中、河内国加賀田の郷に軍法家大江維時の後胤大江時親といふ人のあるを知つて、子弟の約を結び、之に就て彼の唐朝伝来の軍術、所謂大公望の八十一変、転化順逆百二十八変、孫子十三変といへる臨機応変の秘奥を習ひ修めたのである。
延慶二年二月十三日、年十六にして元服、茲に楠兵衛尉正成と称す。此年六月又々例の矢尾別当顕幸軍勢を狩催ほして攻めて来る、正成、父正澄と二手に別れて一方の大将を承はり馳向ひ巧みに計略を用ゐて之を逆撃し遂に矢尾の領地一千五百余貫を合せ、河州に三千七百余貫の領主と相成つた。
これより以後奇疇妙計、戦へば必らず勝ち、武名を四隣に轟かした。
霊夢感応、藤原藤房卿勅命を奉じて正成を笠置に召された時『謀を以て戦はゞ欺くに易かるべし、合戦の習、一旦の勝敗を必らず叡慮に懸けらるべからす、正成一人戦死仕らず、未だ存へ罷在りと聞召し候はゞ聖運再び開かるべし』と言上した。正成は、遂に「嗚呼忠臣楠子之墓』を湊川の畔に残し、英霊毅魄長へに千歳の後に燦然として照り輝いて居るのである。(完)
『雄弁』5(11):147-148 1914.11
芝居の女
煙の人
▽芝居の女形を男が扮するのは悪いだらうか、所謂女優なるものを用ゐた方が可いだらうか、これが拙者には疑問であるのだ。
▽その拙者の疑問は理窟の上からいふので無く、事実の上からさう思はれてならぬのだ。拙者の過去と現在の観劇眼の上から見て、どうも女形の可いのは女優の可いのより可いのだから疑問になるのだ。
▽稀には例外がある。それは彼の芸術座と称する新劇団の松井須磨子嬢の如き、若くは数年前の故市川粂八丈の如きものである。須磨子嬢のは傍の男優が憐[プーア]過ぎるからである、粂八丈のは其の技芸が特に優れて居たからである。
▽要は舞台といふものを見物席から客観して、男性と女性との調和がとれて、所謂渾として綜合芸術を為せば、それで可いのである。
▽尤も男子の女形なるものに、女になり得る俳優は数へるほどしか無い、多数は無論駄目である。でも、女優の方には未だ一人も男優の向うへ廻つて立派に芝居の出来るのが居ないのである。
▽拙者は変性男子でも何でも好いから、女になり得る男優を養成すべしといふ議論を持て居る。次の時代までに女優の立派なのが産出さるゝまでは、といふ条件を付けて……。
▽情がうつるのうつらぬのといふ俗論も出やうが、拙者は男が女に扮した方が寧ろ商業上の効果はあるものと確信して居る。男と女で真当[ほんとう]に情がうつた日には、幕内の心配は大変である。
▽そんな事は関[かま]はぬといふ暴論は知らず。帝劇などにも大分この情がうつツて、騒がしいやうな、おめでたいやうな噂がある。芸術座などでも彼の試演で、キスを沢山する『死人の踊』の女主人公を、須磨子嬢の情がうつり過ぎると困るとあつて、外の女優に演らせたといふ先生もござる。
▽そんな事は別としても実際男同志の方が舞台では情がうつツて観客の目から見ると寧ろ可いのである。聯想の実感など感ずる人は論外である。
▽甚だ勝手な変痴気論と言はるゝかも知れぬが拙者は現在の処飽く迄も女形の可いのを要求する。河合万歳、喜多村万歳、木下万歳、英万歳、松蔦万歳、歌右衛門万歳、梅幸万歳、源之助万歳論者である。此に於て乎我が瀧の家門の助の死を劇界の為めに痛惜する。
▽帝劇に女優あり、それはどうして呉れるのだとの詰問が出やう。それは遠き〳〵将来の為めに芝居ゴツコを為せて居るものを観て置くのだ。
▽願くは宗之助君のやうな小男でなく、もツと堂々たる男優に、彼の女優たちをかけ合はせて、立派な将来の女優を産出させて頂きたい。
▽『女』といふ題目に対しては、筆が見当違ひになつて了つたが、今回は之れで責を塞がせて貰う。
『風俗画報』476:45-48 1916.1.5
能楽垣のぞ記
里の火生
■垣覗きは盲目[めくら]の事と、先づ標題[みだし]から断つて、今年は能を研究するのかい、と友人を驚かすつもりでもなく、『千載不磨の御大典記念の為め此の度「大典」を作曲候に付ては右御披露申上度、来る十二月九日午后五時より……』とある観世宗家の案内状を他所から貰つて、訳つたやうな顔をして四角に座り、長い時間を畳にケバの無いに苦しんだ其様[そのよう]の記事。
■世に盲評といふはあれど、拙者のこれは評ではござらぬ、されば絶対に素人の、唯だ能舞台の空気の中に二三時間浸つて居るといふだけの事、どれがシテ柱か、鏡板か、况んや地がシラの何といふ名人か一切存せず、ツマリは新聞の劇評に所謂ヨタの甚しきもの、この劇評にも時折は盲も及ばぬ勘違ひを見受けるに気が強く、をかしかツたら笑うも春、腹が立ツたら怒るも春の屠蘇綺言、など抑も古いか。
■大礼最終の奉祝日、東京市は観喜慶福の巷であつた九日の夜、聊か出遅れて牛込新小川町の舞台前に、江戸川行の電車を乗捨て、帰りの混雑を思はせる不慣な下足と、満員に近い紳士淑女に驚ろかされ、辛うじて座を得た拙者、唯だもうカーツとして暫らくは舞台も見えず。况[ま]してや場内にどんな先生方の居らせらるゝや更らに判らず、どうやら真物[ほんもの]の盲のやう。
■太鼓、鼓の音漸やく耳に入つて、嚠喨たる笛の音聞ゆると思へは、地謡の『還御なることめでたけれー』で、それは鶴亀の終局[をはり]であつた。シテの王様、番組に依ると聞及ぶ片山九郎右衛門氏。此家元の実父としては嘘のやうに若い顔。鶴と亀とは誰れなるか、隣りの人に聴けども知らず。『はゝア此男盲かナ』
■眼鏡の玉を綺麗に拭いて、先ツ近所から見廻すと、いろ〳〵な人が眼に付いた。此方だけで知つた先生方、鳴雪内藤翁が正面真中にム[ござ]る。その後ろの方に岡田三郎助画伯、同じく八千代女史、お連れとして無ければならぬ俊子田村夫人。笹川臨風先生に少し隔つてヨネ野口氏はちよツとおもしろい取合せ。更らに眼[まなこ]を八方に配つて物色すると松葉松居君の思ひ倣[な]しか満[つ]まらなさうな顔。芝居で言へは東のウヅラといふ処、能では地方の後ろ側には野上臼川先生同じく弥生子女史、岩野泡鳴先生。清子女史も美枝さんも見えず。土間といつた処には文豪青柳有美先生の洋服姿、丹いねの音楽会で演説をする人とも思いず、生田長江先生や長田幹彦先生などのお顔も見える、其の間を縫ふやうに始終チヨロ〳〵前行[ある]き廻つて居るのが、能楽界の大通、坂本雪鳥先生である。
■観客のザワツキが止んだと思つてフト舞台を見ると山階徳次郎翁の仕舞『老松』の始まる所。奉祝能楽と唄つた丈におめでたいものを並べたと相見える。それだけ我々にカラの素人は何の変鉄もないこと夥しい。最も非常に短いもので直ぐとをしまひ。拍手の音は盛んに起つた。斯道古顔の、言はゞ一流の舞であると思へば立派なのも当然である。喝釆も当然である。
■次は『草紙洗』の小町である。年こそ若けれ、天覧に『翁』を勤めた観世の宗家元滋氏の小町は当夜の呼物である、それよりも素人ながら我等の見たいと思つたのは当時ワキ師の名人宝生新氏の黒主である。この一番で来た観客も蓋し少なくは無い筈である。何れも居坐ひを正した。隣の人が拡げた謡本を横目に見ながら我等襟をかき合せた。
■地方、噺方が居並んだと思ふと、揚幕から橋がゝりに蒐[かゝ]つた大伴黒主、と見れば底事[なにごと]ぞ、待つてましたの新氏ではない、それは同派の宿老尾上始太郎[もとたらう]氏であつた。拙者でさへさう思ふに、通の人、その派の人、弟子筋の人、先づ当夜の興趣大半を奪はれた事であらう。併し尾上氏も下がゝり宝生派では上手と知られた大家である。立派にこの黒主の大役を仕[つかまつ]ることであらう。大刀持は島田政志といふ人で、性来の訥弁家[どもり]が舞台に出ると淀みなく美音を揮うと聞いて居たが、果せるかな『まかなくになにを種とて瓜蔓の』の応答から、黒主が揚幕へはいつて後の独り言など確かなものであつた。芝居で見る吃又を実地に今見る心地がした。
■芝居で言へば舞台をブン廻し、宮殿歌合せの場となつて帝(王といふのかも知れぬ)を先きへ貫之以下小町、黒主一同が登場する。王になる子方木原勇次郎氏は却々[なか〳〵]確[しつ]かりして居た、唯だ能にはこれでも構はぬか知らんが、子方の顔に王といふ品位が無くて、ひねこびた悪戯者のやうであつたのを遺憾に思つた、貫之の役を承つた武田とかいふ人は堂々たる美音を有[も]つた人である。声から言へば黒主の出来る人であらう。尾上氏の黒主、新氏の代り役として決して恥かしからぬ出来といへやう。古歌であると言出す音声[おんじやう]、草紙を突付けて哮り立つ処など立派なワキ役者と敬服した。元滋氏の小町二十歳の青年とは思へぬ沈着[おちつき]、さすがは二十四世観世家の家元である、傍の通士は曰く『まア〳〵尋常の出来でせうね』と。
■観曠[こうこ]の大典に当つて御前演能の栄誉を忝うして能楽界は、今後益々発展し行くかも知れぬ、社会の上流とか中流とか、飛んだ投身[みなげ]の行衛捜索のやうな事をいふ所謂紳士社会の流行品、その多くは衛生の為めか、見得坊か或は又不器用の結果他の演芸に手の出せぬ連中ばかりの独占物とせず、広く頑冥な由緒古実の障壁を除き去つて、我々素人にも其の真趣味、真価値を知らせるやうに、斯道表裏の先生方にお願したい。といふやうなことを考へながら此の一番を拝見し了つたのである。
■それから能楽堂見物席の改良は出来ないものか、此の観世の舞台よりは宝生の倶楽部の方が幾分か進んで居る。今回宮中に新築された能舞台のやはり見物席は椅子による風になつて居たと承はる。舞台は演舞と調和せねばならぬが、見物席は見能く聴好く改められた方が可い。舞台の帝劇は困るが、見物席は彼[あ]の方が便利である。そんな事も考へられた。又た当夜その演能中、不慣な女中共と不用意な招待客とによつて狭苦しい場内に、弁当や寿司や、茶を持運ばれた事は非常に不快な感を与へた。
■『草紙洗』が済むと直ぐに狂言の『三人長者』といふのが始まつた。小早川精太郎氏を筆頭に藤江、吉野の両氏持[もち]で前夜天覧に供へ奉つたばりのものである。今夜横から見たら小早川氏はちよつと段四郎[おもだかや]の面影があつた。例のおめでたい無事なもので、狂言は今少し狂言らしいものを演じて貰ひたかつた。これ唯だ一番の狂言にこの動きの無いをかしみのゼロなものを見せられたのでは、素人は喰付く訳にゆかぬ。勿体ないが欠伸なりシビレなりで、次の新曲『大典』にまで敬意を表して帰りを急ぐ人も出来た。
■呼物は『草紙洗』でも観物[みもの]はこの「大典』であらう。由来斯ういふ新曲は実の処、余りおもしろいといふ側のもである筈である。印刷して配られた謡本は十月二十五日発行とある。京都の藤代博士の作とやら、元滋氏は大典中、入洛して片山の舞台へ封を切つたと聞く、東京では無論当夜が初めてなのである。
■『四方の雲霧収まりて〳〵、のどけき日影仰がむ』といふのが、ワキ三人の謡出しである。ワキ勅使は予定の宝生新氏欠勤とあつて、同氏門下の某青年が勤めた。シツカリはして居るやうだが、声変りのやうな、吹切れぬ咽は、聴者の耳に充分の快感を与へることが出来なかつた。返す〳〵も当夜新氏の姿を舞台に見得なかつたことを残念に思ふ。勅使平安神宮に奉告の為め参向する、式漸く終れば『不思議や社壇の方よりも〳〵、異香薫じて瑞雲たなびき、微妙の音楽聞え来て』と天女に扮した谷村直次郎氏が出て来る。天女の舞があつて、羅綾の袂を翻し』云々で納まると『御殿遽かに震動して、玉の階踏轟かし神体出現ましませり』とシテ橋岡久太郎氏の天津神は作り物の宮の中から現われる。
■天女と天津神とで明治天皇頌徳の辞より今上御聖徳の一端を述べる事あり、神舞一さしある所になる段取である。最後の『国土豊かに四海の波も、四方の国々も、靡く御代こそ茅出度けれ』と納まつて、テン〳〵と大鼓を打込むをキツカケに観客総起立『万歳』を三唱して、めでたく此の演能の一夜を終つたのである。
■翌十日は午前九時から同舞台に祖先伝来の所蔵品を陳列して展覧に供されたが、名だゝる観世家の宝物は以て国宝とするに足る珍書珍品に乏しからず、其数実に数百点の多きに上つて居た。大正開明の世、旧来の能楽界の如く秘事秘曲と称して一般と人種、社会を異にするが如き陋習を打破する事を望む矢先に、この公開的の催しのあつたことは、我等の歓迎措ざる所のものである。実社会に近づくを以てその俗化を気付うものは僻見である、頑冥である。挾量である。批評でもなく、議論でもなく、見た侭、感じた侭を記して此誌に寄する亦た能楽趣味普及の微意に外ならぬのである。(極月十日)
『新演芸』4(12):52-53 1919.12
舞台稽古の日 歌舞伎座の『桐一葉』の開く前
顔黒子
上野へ行くのも銀座から・・・・・・それには先づ昼食をと、ちよつと簡単にそれを済まして、木挽町を歌舞伎座前へ出た。奥から幽かに冴えた柝の音が聞こえた。
直ぐに明日初日の舞台稽古だなと思ふと、大修繕もどんな工合かと、知つた顔の座の人の居たのを幸ひ、フラ〳〵と案内所で草履を借りて、ズウツと通る。
廊下の泥縁を飛ぶやうに渡つて、揚幕の処へ来て覗くと、土間から雛段から大道具が一ぱいに乱雑に塗つては乾かし、乾かして塗つて居る。見限りの植込みや、遠見の花壇などが見る〳〵中に描かれて行く。
舞台はと見ると『桐一葉』の序幕奥庭茶座敷が開いたばかり、中車老人は持役の石川伊豆。上手に居るのは伝九郎の大野入道軒。二人は大に密談の体、密談だから聞こえぬのであらう、頗る小声で、唯だ台詞の一句々々にいや伝九郎丈の首の動くこと〳〵。中車の方は造り付けのやうに真四角。
只見る舞台端[ばな]に背を向けて四六版位の洋本と、手帳と鉛筆を以て熱心にこれを観ては、時々ツカツカと二優の傍へ近付いて、何やら云ふは通語の所謂『駄目』であらうが、殊に伝九郎氏しきりに傾聴しては一々お辞儀をする。これぞ本劇の原作者兼改修者たる坪内老博士であつた。
下手、柴折門から楽屋の方が筒抜けに見える。そこから出たりはいつたりするのは大道具や狂言方ばかりではない。当狂言に出場すべく次幕の出を待つ歌右衛門、福助、権十郎、亀蔵なんど。やがて段四郎丈も若々しい柔和らしい顔を見せる。
密談の二人はさらに耳打をしてやがて平舞台へ降り立つて、立別れるので柝がはいる。狂言方其他大勢が春陽堂発行の『桐一葉』を手にし懐ろにして居る様子。
二階の売店から三階運動場を一廻りして又た下へ降りて見ると、大道具作製中の土間の間隙二坪ほどの処へ椅子を据ゑて二三人話しあつて居る。一人は舞台装置の監督者たる久保田米斎画伯、他の一人は片岡市蔵氏であつた。直ちにそこへ割込んで淀の方居間の場を拝見する。
歌右衛門の御母公御着座になると、伝九郎の正栄尼と市之丞の大蔵が出ていろ〳〵お話--こ〃は密談ではないがやつぱり判然聞こえない程度で台詞が渡る。最前から下手の方へ出て、例の洋本桐一葉を読で居た片岡我童丈、大野修理亮であらう。やがて本を懐ろへ捻ぢ込んでそれへ出る、一封の書面を淀君へ御覧に入れる。後ろの方へ大道具がしきりに金槌の音をさせるのを淀君一喝して、向うへ去らしめる。誰れやらが蒔絵の御煙草盆と曲彔を持て来る。
坪内先生は伝九郎の手燭のか〃げ様と形ちとを直される。伝九郎はお辞儀をした。我童の居所を二尺ばかり下[しも]へ下げさせる。修理亮はしきりに成程といつた顔をしながら退がる。
『すりや、みづからを…』
と委員長の含み声が稍や大きく聞えて曲彔へ身を持たせるところあたりで、此の幕は済んだやうだつた。
今度は二幕目『城内溜の間』である。後ろの襖の波の絵が山のやうだねと誰れやらがいふ。坪内博士が我々の処の椅子へ来てかけられる。約二三分『御監督が大変ですね』と御挨拶を申上げると、『都合ですつかり縮めましてね。何しろ蜻蛉銀之丞の件りを全部抜かれたのでね……』と言はれるかと思ふと直ぐ又た舞台へ飛上つて、道具に就て、俳優の出はいりに就て、いろ〳〵と御さし図。久保田先生も何やら大道具と話し合つて居る。片市氏は此の夏の地方巡業談などをして、出立から帰京まで三十五日間を三十三日興行したのだから大変でしたなどいつて居た。
廊下を三幕目まで用の無い新帰朝者喜熨斗の若旦那猿之助氏が、変り色の紋付か何かで、サツサツと歩いて居る。此場登場の片岡仁左衛門老の顔が見える。
門蔵、羽太蔵、市三郎、芝右衛門などの近習が、これも坪内さんの御指図でチドリに坐ることになつて、真中に村右衛門氏の茶道珍柏。それが引込むと亀蔵氏の大野主馬と権十郎丈の渡辺内蔵之助とが出て上手へかくれる。市蔵氏が舞台へ飛上つて織田入道常真の役、仁左衛門丈の片桐を案内して出る。中車老人の石川伊豆が出る。仁左衛門は懐から書抜きを出して下へ置き、身体を傾げて繰つて居る。中車のまくし立てる例の激論。羽織袴の扮装では内蔵之助の茶屋場が聯想される。石川伊豆守『刀の汚れだツ』大喝しての例の引込みの意気組、中車老は極めて真面目に演つて居た。
しづ〳〵と立つて片桐は思入沢山に花道へ引込むのだが稽古の事なり七三から引返して又た舞台へ。上手から以前の亀蔵、権十郎の二人立出でて、息込む制するといふ処で道具替りの柝。
大道具手不足とあつて大に手間取る。後はあらためてと、折柄顔を出した木村錦花氏や遠藤為春氏やに挨拶して退場する。
四時少し過ぎて居たので、上野行きはたうとうオヂヤン。(其夜記す)
『新演芸』4(13):36-37 1919.12
舞台稽古の日 写真攻めの幹部
黒顔子
【煙の人「名工柿右衛門」『演芸画報』6(12) 1919.12】
十月三十一日といへば天長節祝日である。日比谷まで出て来たが例年の菊もまだ支度中、時雨模様の空合を気にしながら、楽屋口に自働車や俥のあるのを見付けて帝劇の裏からヌーツと。
□此座[こゝ]の名物ともいふべき、克明なブツキラ棒な小父さんに草履を借りて頭取部屋を覗くと、例の佐藤さんと鈴木さんが居る。挨拶をして直ぐに舞台の上手裏から薄暗い廊下を探ぐるやうにして向うへ廻る。午後二時半頃。
□舞台は今や妹脊山の御殿、幸蔵[おほはしや]の紅葉の局以下七八人の官女に、左右から責められて居る宗十郎[いまど]のお三輪、お美くしい事である。玄蕃、弥藤次を演[やつ]て居る高丸、由次郎のお父[とつ]さんとは決して見えない。書き遅れたが、此座の舞台浚ひは毎時[いつ]も本式の衣裳付けである。
□竹雀[たけす]の件にか〃らうといふ時、床[ちよぼ]を止めて一同がや〳〵と姿勢を整へ、居場所を極める。と見るまに四方から、ほんとに四方から四台の写真機が舞台の真中を目蒐[めが]けて、レンズを向けた。お三輪が太い声を出して後の誰やらの局を少し引こませる。下から見て居た伊坂君が、舞台へ飛上つて二三人の官女の居場所を直した。何百燭かの電光が一時にパツと光るとバタン〳〵〳〵ンと器械の音「よろしいか」「よろしい」といふやうな声がして四台の写真機は何れも一ヶ所に固まつて、退[ひ]いた。
□愈よ竹雀から官女の虐めが始まつた。見物席をと見ると、どこのお嬢さん達か美くしい若いのが三々五々。所々には楽屋から手明きの役者衆もちらほらと並んで居る。高丸、由次郎も顔を洗つて出て来た。ふと後ろの方を見ると夜具縞の厚綿の着付に手拭を頭に冠つた浪花の浦の鱶七が、腰をかけて見て居た。その少し傍に守田君の所の大和平[やまへい]が槍を突立て、花四天の扮装[こしらへ]で何が可笑しいか笑つて居た。
□お三輪を当て〃官女が引込む、「三国一の婿取済まアした」になつて、後を見るともう幸四郎君の鱶七も大和平君の花四天も居なかつた。稽古としもなく、舞台はトン〳〵と進んで金輪五郎今国の立派さ。ボツクスの一に小さくなつて熱心に見て居た勘翁[おとつさん]は花四天が出て一殺陣あると、とぼ〳〵と出て行つた。別に駄目を出す所もなかつたらう。
□幕になると、又四台の写真機が幸四郎[ふじま]君を取巻いてバタリ〳〵と撮影する。惟ふにこれは、上方屋と矢吹と演芸画報と新演芸の葉書と口絵になつて現れるのであらう。
□頭取部屋へ行つて見ると、梅雪君が、弁当を喰つてる傍に右田君と梅鶯君[すゞきくん]とが居る。初番付を一枚貰つて話込むと「皆な豪気な役者にばかりなつちまつて官女などは出来ないね」「婿君にあはしてやらうな、それ、皆さんあはしてやりませう」と桧扇で打つ真似をする所を「婿君を拝ましてやらう、をがまして〳〵といふやつがあるんだからね、やりきれないよ」などと盛んに官女攻撃が始まつて居る。
□梅鶯君は、一体このお三輪はこれまで誰れのが一番可かつたらうねと言ひ出して「私は先の芝翫さんのも見たし、松之助の、歌右衛門さんの、さう〳〵寿三郎[わかまつや]が好かつた。この宗十郎[いまど]などは仁ではありますがね」としきりに追想して居る。「九代目のはどうだらう」と僕がいふと「ありやア唯だ団十郎が演るといふので評判になつたんで、困つたね」と言下に答へる。「梅幸君[てらじまくん]のは好いだらう」といへば「え〃、巧いですよ、少し柄か大き過ぎるけれど、巧い事をやりますよ」といふ。
□二挺が鳴る。松助老[くりはらさん]のお婆さんと幸蔵子[おほはしや]の香具屋弥兵衛が合部屋同志、一緒に舞台裏へ出て行つた「鰻谷」が開くのである。開く前に又た一しきりマグネシユームを焚いて梅幸[てらじま]氏のお妻や、大松島[かたをか]氏の八郎兵衛などの撮影がある。
□絵葉書の噂さが出る「劇場では高麗屋さんのが一番売れるつてね、その次が梅幸さん、宗十郎さん、宗之助さんといふ順だといふが妙ですね」といつた後で「女優さんのは小原小春のが一番で、それから矢ぱり律子さんだつてね」と付け加ヘた。市村座[にちやうまち]ぢややつぱり六代目、吉右衛門といふ順だらう、それから飛んで時蔵、男女蔵か男女蔵、時蔵かといふ訳だらうと誰やらがいふ。どうでも可いわ。
□中幕が開いたので、向うへ廻つて見る。見物が大分増えて居る。小父さんのを見に我童が来た。前から居たらしい女優の河村菊江さんの、奥様風なのを見付けた。二宮さんと何やら舞台を指して話して居る。全体此処の女優さんなどは本興行のこの舞台稽古などは、なるべく見に来[こ]べきものだと思ふ。お三輪やお妻は、嬢さん方の演物[だしもの]になるものであるのになどと思ふ。
□舞台は後ろも付かずにトン〳〵と運ぶ。片岡君の付人言二[ことじ]さんの孫だとかの少女優松女のお半、初舞台のいたいけ過ぎて、調子を一ぱいに張るので動もすれば息が続かず、初日には潰[や]つて了ふだらうと皆々心配する。影には例の千代坊[ちよぼん]ちが黒衣姿も甲斐甲斐しく立働いて居た。前に歌舞伎座の時は千代坊ンがお半を勤めて可愛らしかつたもの。
□老母とお妻を斬り倒した八郎兵衛の肩にブラ下るお半の手が、や〃もすれば緩んで落ちる。八郎兵衛が揺り上げようとすれば、御当人の足許がよろよろと危ない。片岡君も大分お年を拾はれた。
□幕になる。又写真である。楽屋へ引込むと直ぐと思ふほど早く「柿右衛門」の二挺がはひる。やがて海岸の場が開いてやがて済んだ。
『新演芸』5(1):74-75 1920.1
仕切場から楽屋へ 二長町の初日を見て
黒顔子
例に依て大層な景気。
序幕の道灌山が済んで、仕切場の前を通ると、此座[ここ]のお歴々が一ぱい大田村の先生も御機嫌で呼込れる。
帳場机で最[も]う『大入』袋を製造して居る。足立さんが『あの先生にも一つあげて』と、小生への事らしかつたが、判を捺して居る人は忘れて呉れなかつた。小生も其侭忘れて居たが、今此の記事を書かうとして想起した。
市村君や三木さんや、小山内さんやの間に、自動車事故の噂さから、会社の配当の話が始まつて居た。
今の序幕に就ていろ〳〵大田村さんから駄目が出たらしく、岡村さんが楽屋への使者の役。どうやら其報告も今あつたらしい。『由井の正雪と来ると是非篝火が要るやうでねえ、それに煙りでも出したらよからう』と大田村さんが言つて居る。
『小山内さん、此の方がちよつと…』と定番[ぢやうばん]の常さん(?)が名刺を持て来た。小山内さんは、『はてな、知らない人だが…又た役者になりたいからつてえのかな』と笑ひながら立つて行つた。時々さういふ頼もしい書生さんの面会人が来ると見える。
誰れかが時計を出して人のと時刻を較べて五分違ふの、七分早いのと、いふ事から、小田村さんが、黄ろい小さな腕時計の時刻を、最も正確なるものと主張して、他のを悉く排斥した。又た五六人の時計が不思議にも悉く二三分乃至七八分も相違して居る。小田村さんは『そんなに俺の時計を疑ぐるのかい』といふと、誰やらが時計は疑ぐらないが、時間は当にならないといふ。足立さんが、『違つてるのが真当[ほんたう]ですよ、さう好い時計ばかしぢや無ささうだから』といつたので皆なが笑つて仕舞ふ、小田村さんは、『僕は時計を皆な売つちまつて、一つ素敵に高い上等のやつを買はうと思つてる』といふと、大田村さんが、『全体それで可い訳だよ』とおツしやる。
柝の音が遠くに聞こえると、仕切場の入口がちよつとざわついた。ふと顧[ふりか]へると、そこに六代目の丸橋が立つて居た。一同の目が『やア』といふ風にそつちに向つた。初役[はつやく]の呼物たる忠弥の初日の初めての出の壕端が今開く処なので、揚幕からちよつと此処まで出て来たのである。
『先生、此の鬘[あたま]はどうでせう。高島屋さんのやうな太いやつア私にやアどうも似合はねえんで…』と入口に立つたま〃言ふ。『先生』と呼ばれた大田村さんは『可いよ』と応へた。
『それから帯の色ですが、これに仕ました。どうも高島屋のはをかしいやうで、可いでせう?』『うむ』その帯は黒の艶の無い角帯である。『高島屋さんは一本差ですつてね。』『さうだつたかね』と大田村さんがいふと、立て居た岡村さんも、坐つて居た関根さんも、『さういへば一本だつたやうだね』といふ。六代目は更らに『先生』と呼びかけて『この笠は冠つて出なくつても可いんでせう、かう肩ん所へぶら下げて…』といふ中[うち]に幕が開いたやうす。『まアいろ〳〵演つて見るんですね』と六代目は笑ひながら揚幕の方へ駆けて去[い]つた。
一同も直ぐに桟敷へ駆上つた。
ワツ〳〵といふ喝采。殊に幕切の伊豆守の出から、大向は両優声援の大叫喚、宛然[さながら]運動会のフレー〳〵のやうである。
下へ降りて廊下を西へ、お茶屋の前に人垣を 造つて居るのは何事かと思ふと、それは歌沢の連中が楽屋入をする処であつた。成駒屋のおもちやが居たので一緒に奈落を抜けて楽屋の三階へ飛込み、東蔵の部屋を覗くと、次の有馬の温泉へ出る湯女の小ふぢ(米蔵)と共に、今来た寅右衛門さんの一派で唄の間を合はし始めて居た。
これはお邪魔と大部屋の方へ向ふと、そこの大廊下には「やツやツ」といふかけ声で、大勢の人立、何事かと見ると、真中に仁王立ちになつて、寄り来る人々を投げ飛ばして居るのは、これ実に六代目菊五郎丈である。大詰丸橋捕物の練習である。少時[しばらく]後ろの方から見物人の仕出しになつて見て居たが、『お前は又たか〃るのか、可愛さうだなア』、おい〳〵此処で飛降りる、ここで少し息をするぜ』などと六代目の部下を劬[いた]はる台詞が聞える。
歌沢連中の立去つた東蔵[なりこまや]の部屋へ戻ると、そこには大田村さんが居て、顔をして居る青木氏へいろいろと何か注意を与へて居た。明治三年に先代の芝翫さんが三味線のいける所から、此の増田八右衛門の役で当てたといふ話から、其時分の芝翫の楽屋に於ける勢力の豪かつた事。五代目菊五郎など小僧扱ひにされて居た事などを得意の記憶術で今見るやうに話して居る。
吉右衛門へ廻つた役を断られた此役。無理に納められた東蔵は、大役ではありながら、多少持扱かつて居るといふ愚痴を、後で東蔵[あをき]氏から聞いた小生は、ははア、あの時の大田村さんのそれとなき昔噺しも、無理に納めた東蔵への……と、思へばちよつと微笑まれた。『何しろ先代芝翫全盛時代の役だから、此座[こゝ]の成駒屋たる君より外に仕手は無い筈』といつた僕は、更にそれにしても今少し舞台で三味線を使つて貰ひたかつた、とはいへ青木氏の言ひ草が好い。三味線を使へば唄もちよいと唄はなけりやアなりますまい。さうすれば寅右衛門[いへもと]さんの方へ障りまさア』と。好し〳〵。
有馬の湯はかなりの長丁場。それが済んで、ふらりと音羽屋の部屋を覗くと、浪宅へ出る忠弥のこしらへ中であつた。
『どうです高島屋に見えますか--』と、これは大分謙遜の言葉である。僕はいきなり『左団次に見えちやア困る。何しろ、丸橋を音羽屋の家の芸にしようといふんだから--』とやると『どうして〳〵』と、牡丹刷毛を持つた手を振つた。
『この家[うち]の場は大分変へましたよ。浪士を憤[おこ]らして帰へすやつを、私[あつし]なア承知をさして帰します。それから高島屋さんの方は、二度目の家で婆さんが自害をするんですが、私[あつし]のは皆な寝て居る処ヘ、捕方が来る事にします…』といひながら羽二重をかけ終わつて、『おい、足袋はどうした。紺足袋かな、武士[さむらひ]が家で紺足袋を穿いてるかな、白ぢやア無からうか--』僕が『白の方が好いかも知れない』といふと『白にしよう二度目は寝て居るのだから脱いでるんだ』と言足して居た。
『濠端でも、高島屋さんは石を投げて聞いてるばかしのやうですが、私は見る事にします。まアいろ〳〵やつて見ますよ。立廻りは、黒の四天にしましたのと、仕舞の幕切れが違つてます』などと話して居る中に二挺がはいつた。
『岡さんが見えてますね。正面の、どうも岡さんのやうでしたぜ』『さうかなア、僕はまだ見かけないが…』岡さんといふのは、鬼太郎さんの事である。忠弥、高島屋、岡鬼太郎--僕はチト皮肉だが、六代目もとにかくこの忠弥には大分気もさすだらうし、又た苦心もして居るのだなと思つた。来て居もせぬ岡君の顔が、濠端へ出た舞台の六代目の瞳に映じたのであつた。
辞して廊下へ帰ると、落語家のさん馬に会つた。相替らず長い顔をして両眼をぐりつかせて居る。『巧[うま]うがすな、丸橋、』と褒め立てる。『芝居が演たいだらう』といへば『演りたうがすな』といふ。落語家の中でも此の男などは、芝居の巧い方である。
『此間[こなひだ]、此座の睦会劇を見て、君が嘸ぞ演りたがつて居るだらうと思つたよ』『さうでげすか私等の方では小勝が大層演りたがつてますぜ。それから、燕枝さんが嘸ぞウジ〳〵して居るでせう』といつて居た。先年、中洲かどこかで、さん馬の陣屋の弥陀六と、河内山の高木小左衛門を見たが、達者なものだと思つた事を思ひ出した。
恰どその折彼の人悩ませの文士劇が催ほされる噂さを聞いて、さん馬の顔を見ても、素劇の事が気なるのである。--仕切場へ行くと又たその素劇の噂さでちよつと賑つて居た。
--(その夜)--
新演芸 5(5):86-87 1920.5
頭取部屋の十分間 幕間の楽屋ばなし 明治座
黒顔子
【煙の人「(芝居みたまゝ)遠山桜天保日記」『演芸画報』7(5)】
『吃又』が済むと、直ぐ『遠山桜』の河原崎座の楽屋の場が開[あ]いた。ごた〳〵する間に堀越の旦那と留場[とめば]のこしらへが莫迦に立派で、もう少し見せるやうに演[し]たらば可からうにと思はせる。太田君の金四郎が美くしい文身[ほりもの]の片肌を脱いだ所が、小さいながらまア好かつたと贔屓目にはほツとする。
岡さんか木村さんに逢ひたいと思つて楽屋へ行かうとすると、本家茶屋の田辺さんが上草履を持て来て貸して呉れた。『雨続きで奈落などはジメ〳〵しますから…』と毎[いつ]もながら行届いた待遇[もてなし]である
割合に掃除の届いた奈落を抜けて楽屋へ出ると、直ぐ突当りが頭取部屋である。角火鉢に土竈が燃えるやうにおこつて居る。正面にこつちを向いて反り加減に両手を翳[かざ]して居たM君が『おや、いらつしやい』といふ。M君は何といふ役か知らぬが楽屋全体を切つて廻して居る人で、例の文士劇の時なども此の人が一手に取仕切つて、親切な、そして辣腕な人らしい。
『今晩は』といつてそこへ坐ると、お狂言のH君が台本を持て黒衣の頭巾の垂れを刎ね上げて、奥の方に居た。『ヤア』と挨拶。今一人のお狂言はこつちに背を向けて何かして居たらしいのが、顧向[ふりむ]いてこれも『ヤア。』
『岡君は見えませんか』と訊くと、『初日に見えた限[ぎ]りです』といふ。『電話で昨日頭痛がするとか言つてたが、陽気が悪いから…』と僕がいふと『さうさうどつか悪いと仰しやつてました』とお狂言の一人が言つた。『木村さんは?』『木挽町でせう』とM君は言下に答へて『遅く廻つて来るかも知れませんよ』と言ひ足した。
八九年前に高島屋がやはり此座[こゝ]で『遠山』を演[だ]した時の話をして居ると、秀一君は持て居た台本の表紙を見せて呉れる。書下しは明治二十六年とある。左の端に『団十郎』の字が鮮やかに筆太に見える。不動明王に扮したのである。団右衛門だの、権十郎だの、升若君だの、懐かしい故人の名も見えた。細い字で団七、染五郎などとある。新十郎[こやま]氏や幸四郎[ふぢま]君なども出て居たのであらう。』
そこへ後室妙貞の扮装[こしらへ]で大阪町[おほさかちやう]の親方がやつて来た。『近頃、身体の工合はどうですか』と訊くと『どうも可けません。耳が聞こえなくなつて、頭がぐわん〳〵鳴つて困るんです』と顔をしかめながら、巻煙草へ火を点けた。『二長町の方の米升[むすこ]さんも段段出世で結構ですね』といふと『お蔭様で…』と、鬘や羽二重をしきりに気にして居た。
何かの話から死んだ又五郎の噂に移つて、僕は『まだ是からといふ処をとにかく惜しいことをした』といふと、M君は『浅草辺では彼[あ]の人が死んでから絵端書が莫迦に売れるさうですね。大分値もよく…』といふ。又『娘ツ子は何かの墓参[はかまゐり]も絶えないといふ話ですね』といふ『八代目の団十郎見たいだね』と僕は思ひ且[か]つ言つた。
竹柴君が『何だか近頃遺族の…今の神さんの方に怪談話があるさうですね』と言ひ出すと、小団次老[おほさかちやう]が『そりやア神経だよ』と煙草の灰を落とした。と吸口から抜けて燃え立つ火の中にその巻煙草が落ちた。それから一しきり又五郎の色男時代の噂やら、死んだ政代の怪談などが繰返された。
二挺が廻り出した。秀一君は道具調べだらう、舞台の方へ出て行つた。M君は時針を見て『今夜は十一時五分位にはなるだらう。大分追込んで来た』と言つた。そして『何しろ沢潟屋の身体[からだ]が、木挽町の外記を済まして来るんですからね。どうしても仕やうがありません』と言つて居た。
二重廻しを着て鳥打帽を冠つた大兵[たいひやう]の男が、戸外[おもて]からはひつて来て、通りすがりに大阪町に『今晩は』といつて挨拶をする。それは寿三郎氏であつた。ちよツと『吃又』の間浮気でもしに行つたのだらう。
入れ違ひに二階から降りてサツサと形式的に此の部屋へ会釈をして帰つて行つたのは堀越福三郎氏であつて、留場の福松で役が上るのである。
莚升氏の弟清之丞が舞台裏へ行く。長十郎氏の若党箕浦が奈落へ降りて揚幕へ急ぐ。と、寿美蔵君が遠山で降りて来たが、僕も大阪町も居たので、頭取部屋へはひつて火鉢の傍へ坐り込んだ。
大阪町が『その帯は紺献だね』といつた。遠山は自分の帯を叩きながら『茶献が無かつたもんですから…』といふ。僕は着付の小さい弁慶を見て『向うで見ると無地に見えたが…』といふと寿美蔵氏は『さうださうですね。この藍が濃過ぎるのですね。当世風の色ですから…。随分探して貰つたんですけれど…』といふ。如何にも今流行のこツくり仕過ぎた藍だから、弁慶の紺と離れて見ると一緒になつて了ふのである。
『何[なん]しろ遠山は好い心地だらう』といへば『えゝ…』とにツこり笑つた太田君。『今夜は稀[めづ]らしい方が見えてますね』『さう〳〵何年になるだらう』『八九年、十年にもなるでせう』と或る客の噂さである。『誰れなんです』と僕が口を出すと、寿美蔵氏はこれが説明を与へて呉れる。
『いつでも土間の一へ来て、よう〳〵と褒めたり、拙[まづ]いなア、といつたり、そりやア面白い方です。何しろ小[こ]一ですから舞台で手に取るやうに聞えるんです。又た大きな声で、こいつア拙いやだとか、此の男は見込みがあるぜだとか、又よく何か判つては居るんです。私なども随分やられたものですよ。先[せん]の団升が嫌ひで、あ、こいつア可かねえ。仕様が無[ね]えなアや何かで、皆[みん]な恐れをなしたものでしたが、その方が今いふやうに、此処[こゝ]何年となく姿を見せなかつたんですがね。今夜来て居るんです。
いろ〳〵な人があるものだ、近年どこの初日へ行つても必[きつ]と小[こ]一の真中に陣取つて見て居る年輩の人がある。僕は一度あの人の話が聞いて見たいと思ふ位だが、まだ其機会を得ない。そんな事を思つて居る中[うち]に、幕明きが迫つて来た。太田氏は揚幕へ急いだ。
僕も『左様なら』をいつて、帰りがけにちよツと三階に上つて、大部屋を覗いて見た。『おやいらツしやい』と先づ挨拶をされたのは、近頃松蔦君の部屋の世話をして居る男で、それから寿美蔵の所の若い女形で、腰元の顔をしたのに『今日は』と声をかけられた。
赫々とおこる炭火の傍で、紋付の羽織を着て煙草をふかして居るのは蔦丸であつた。此の男は子供の時から知つて居るので、割込んでそこへ坐る。二つ三つ話の中に、向ふの方で車座になつて何かやつて居るのは、近頃この楽屋で盛んに流行[はや]るヒヨイ〳〵といふ遊び道具である。双六のやうなもので、熱心に真剣にやつて居るのは莚八氏と蔦之助氏とであつた。チラリと僕の居るのを見つけて、投げ出した足を引込めて挨拶に及んだ。別に何も賭けてやつてる訳ではなし、大の男が子供のやうになつて遊ぶのが面白く、いつぞや市村座の東蔵の部屋で、おもちやと翫助が一生懸命にトランプをやつて居た事を思ひ出した。
幕が開いたやうだから、急いで又た一幕桟敷の人となつた。最前「吃又」の時、廊下で立見をして、非常に沢瀉屋を賛めて居た升六氏と、俳優でない喜熨斗の弟御とは、もう姿をかき消して居た。
(三日目の夜)
『新演芸』5(6):104-105 1920.6
市村座 二長町のある夜 仕切場から楽屋
黒顔子
【煙の人「(芝居みたまゝ)富士額男女繁山」『演芸画報』7(6) 1920.6】
○日目[かめ]の夕方ふらりと二長町の仕切場からはひる。薄ら寒い霖雨[ながあめ]の上りか〃つた日、漸く暖くなつて来て、火鉢の中も炭[すみ]勝ちの、ほじくるやうにして煙草へ火を点け、二つ三つ世間ばなし。芝居は相変らず満員の大景気で、今中幕[なかまく]の『矢口』が切れて、これから五人の新名題口上の幕が開かうといふ処であつた。
『あの電話をお貸し下さい』と美くしいお客が来て、十銭のお札を置いて行く。引ちがへに懸けに来たお店者[たなもの]らしいが『お話し中』で急で銅貨を二銭置いて駆け去つた。足立さんが『お話し中』に使用料は要らない、といふので、そこに帳簿を控へて幕合、開幕の時間を計つて居た人が、その鳥目[てうもく]を持て出て見たが既[も]う判らなかつた。電話の度数制もうるさいものである。
そこへ電話をかけに来たのは、六代目の部屋に居るきくといふ子役上り、昔は木下二葉といつて新派の麒麟児、音羽屋へ来てから大人になつて、今は唯だの大部屋役者、後見へ出た姿其侭で、『此間公園の家へ盗賊がはひらうとしましてね、湯殿の羽目へこんな手のはひる位な穴を明けやがつて、中から懸けてあるカキ金[がね]を外さうとしやがつたんですがね…』『さうかい、でどうしたい。』『何しろ旦那の家[うち]と来た日にや、昨夜[ゆふべ]も寝たのが三時ですからね、眠くつて…』『その晩の泥棒はどうしたんだよ』『その中[うち]にザアツと降つて来たんで、逃げちまひました』『何をいつてやがるんだ雨が降つて来たから逃げるツてやツがあるもんか』、と居合はした奥役の小笠原さんが笑つた。皆[み]なもドツと笑つた。少し言ひ損なつてキマリの悪い顔をしたきく公『その中に夜が明けたもんだから…』と言ひ足して行つて了つた。
小笠原さんは『あの二番目の熊谷の宿屋の所で、今日から新内を入れますつて--先生に序[ついで]があつたらさう言つて下さい』と足立さんに言ふ、足立さんは『誰がやるんだい』と訊くと巳太郎ですといつて忙[いそが]はしげに小笠原さんも行つて了つた。
私は足立さんと、切迫した選挙談などをやつて居る中に、口上の幕が開いたらしい。
『エー、次に控へ居りまする琴次と申しまするは、御承知置かれますやうに、故人になりました菊次郎の門弟で、私が引続き預かり置きまして、此度尾上菊次と改名致し、これ亦名題の列に加はりましてござります。次に居りまする…』
といふ工合に七人の新名代を並べて、六代目が一一口上を言ふのだが、お辞儀をして並んで居ると、誰れが誰れやら判らなくなつて、最初の間は口上人名[じんめい]の所へ「後[うしろ]」を付けて貰つて居る--。『どうもごつちやになつて始末が付かねへ』と六代目は弱つて居ますよ--と足立さんがいふ。
序幕眼鏡橋から廻つて熊谷町の旅籠屋[はたご]の場。六代目の車夫は髷の鬘で得意の悪漢、キビ〴〵として嬉しい出来だか、妻木の梅幸は男装の散切鬘、調子の出し処も工風物[くふうもの]で、楽のやうで存外苦しさう、と同情する。
丸の内の御大[おんたい]を迎へた此の座は、殊に開場の時間を少し遅らした上、狂言の盛[もり]が多い処から、セツセと幕合を詰めて、大道具と部屋部屋との大競争。その間に立つて狂言方が柝を入れての進行係。近頃稀[めつ]らしい短い幕合である。
揚幕から奈落を小走りに、頭取部屋に目礼を投げて、二階へ上り、毎[いつ]も遊びに行く大友の部屋。その階子[はしご]の上り口の一間には、子役を大勢集めて三味線がはいつて居たので、ちつと覗て見ると、今夜始て出幕になるといふ大切浄瑠璃の上の巻『御存傀儡師』のそれは唐子[からこ]で、藤間勘翁八十に近い老躯の腰を屈めてチントンシヤンと今やお稽古の真最中であつた。尾登丸[をとまる]、時太郎、きく丸、朝丸[ともまる]、もみじ、いづれも可愛らしく、踊り若くは踊らうとして居るのであつた。
大友の部屋へはいると、馬丁[ばてい]小助の法被を脱いだ上へ部屋着を羽織つて『や、これは』と迎へて呉れる。どこへ遊びに行つたか上るりまでは用の無いおもちやの福ちやんはそこらに見えず、先月改名の真新らしい鏡台や座布団がキチンとその侭。床の間には、これも改名で寄贈された三代目国貞筆の初代に先代と今度の友右衛門の似顔画[ゑ]。これは『天下茶屋』の元右衛門と『盛衰記』の知盛と、今度の小刑部元親で、結構な表具に出来上つて居た。
『今度は莫迦に楽さうだね』
『どうも少し楽過ぎますよ』
『先月が忙しすぎるからね、埋合せだね』
『何しろ、一番目の序幕で権八へ出たつきり、今の口上へちよいと、これも拠なく内の弟子が居るんですからね、それから二番目のこの二幕目まで閑で居て、それで、追出の五人男に捉まつてるんです楽過ぎて、退屈で全く始末が付きませんよ』
『さうだねえ。悪い事ばかし考へてるんだね』
『どういたしまして、何しろお天気でも好けりやあ、まだ先月のお礼廻りが済まないから、出かけたいんですが、此の雨でね…』
こんな話の中に既う柝が廻つて来た。そこへ二三人お客が来る。お茶屋の三州屋の兄[にい]さんが来る。何か義理を兼ねて、某地へ発展の計画など密談の体。
『大そうな景気だねえ』とやると兄さんは『なあに二月に一度位でさね』といふ。青木氏も『中々遊べませんよ』といふ。兄さんは『どうも変ですよ、こと私が青木君と遊びに--御飯でも食べに行くと、必[き]つと雪が降るんですから、今年も二三度やられましたよ、不思議だね、ツマリ稀しいからだね』一同笑ふ。
既う開くらしいので此の部屋を出る。ふと向うを見ると、毎[いつ]も男女蔵[あらかは]の居る部屋に梅幸の表札がかゝつて居たので、御免とばかり覗き込む。『おや今日[けふ]は』と丸の内の委員長は、女[をんな]書生が愈よ女に戻つた扮装[こしらへ]、権妻風の滅法美くしく、今、口紅をさして居る。
『変な芝居をやるんですね』と言ふと『いや変にも何にも、どうして可いか判らないんですよ。』といふ
『でも楽々とやつてゐるぢやないか』といふと『い〃え、遊[らく]といふのか何か、寧[むし]ろ水なら水、湯なら湯だと可いんですが、微温[なまぬる]なんで困つて了まひます』と零[こぼ]す。『五代目の時のを知つてましたか』と訊くと『幸蔵[おほはしや]が付合つてたんです』といふ。
処へ『旦那のこしらへが出来ますと開けます』と次の間から言つて来る。ちよツ、と舌打をした梅幸は『莫迦にせかすんだね、今、紅をさしてるんだよ』と少し疳高な声で怒鳴りつける。そこへ狂言方が柝を持て覗きこんだので、『仕方がないな、好いよ〳〵開けても好いよ』と言つて僕の方を向いて『やり切れませんよ、無暗に急がせるんですもの…』と立かかる。幕合の短かい帝劇から来た委員長は、幕合の長い二長町で急き立てられて居るのは、ちよつとをかしいと思はれながら一緒に部屋を出た。
頭取部屋の処で梅幸氏は『明日つからどうかして貰らはなくちやあ』といつてるらしい。僕は奈落を抜けて向うへ廻ると、既う妾宅の場が開いて、福島甲羽君の牛窪が得意の漢語交りで『あツハツハツ』と笑つて居た。
『新演芸』5(10):72-73 1920.10
市村座の廊下から 大黒割の話
黒顔子
【煙の人「(見たまゝ)傾城三度笠)」『演芸画報』7(10) 1920.10】
三日に開けた初日。二時の芝居を十一時頃から詰めかける見物。それもさうか総幕出揃ひの 一円均一。今日此位廉いものは先づ無いといふ。
自分がこの黒い顔をその東桟敷に現はした時は、最う満員大満員下の高場[たかば]も、御役席もお客で一ぱい。『六代目』!『大統領』『音羽屋』『大播磨』!といふ正面の劇通連、声を嗄らして喚いて居る。
例の大黒割が済むで、次が小牧山遊猟の場。一流の調子で波野君、相変らず大いに儲ける。
幕になると残暑の昼中。土間は一面に扇子の白波、ドツと雪崩を打て廊下へ、廊下へ。
『や、これは御老体、このくそ暑いのに初日を御見物で・・・・・・』
『お互ひですな。御覧でしたかい、大黒割を・・・』
『何の変哲も無い、といふやつですね。貴老[あなた]などは九代目の書卸しを御覧の事勿論なのでせう』
『見ましたよ。時世も違ひ、我共でも芝居を見る眼も頭悩[あたま]も違つた訳でせうが、この大黒割は当時大層な評判だつたものでさア』
『はア、どういふ風に評判だつたんです』
『左様、九代目の書卸しは明治十七年ですかな。此座[ここ]では無いがやつぱり市村座。忘れもしませんね、二番目に五代目が栗原の宅悦で四谷怪談。昨年でしたか帝劇で梅幸が演つた、『形見草』で、例の小平と与茂七の三役を替つて見せたもんでさア』
『さうですか、大層な入りでしたらうね』
『可成来ましたね。で、この団十郎の藤吉は、無論前の場の、女房--え〃先の松之助でした。--に薄情にされて、自分で袴を畳むなどやつぱり受けたものでした。辻堂の場で一人舞台になつてからの巧さ。独吟の下座で大黒に物を言つて、ウハヽウハヽの高笑ひになる幕切れ、その時分今日[けふ]びのやうに手を叩くものゝ少ない時、割れるやうな拍手でしたね。それは実に不思議な位なものでしたね。』
『へえ、さうでしたかね。外[ほか]の役者ではどんな処が評判でしたね』
『左様。今生きてるのは成駒屋位なものでせう。当時福助で藤井のお八重を演[し]て居ましたが、やつぱり綺麗だから評判でしたよ、此処では誰れが演[や]つてますね』
『さア、時蔵です、先の米吉』
『あ〃、さうですか、淋しいけれど可いでせう。ええとそれから死んだ団蔵がちよつと小芝居や旅を廻つて、久振りに帰つて来た時で、太閤記の松下喜平治と、柴田勝家と、蓮賀[はちすか]小六を演[し]てゐましたよ。尤も今度の前に、富士川の今川義元本陣の場があつて、藤吉が何とか日向守を打つ処、首実検の処などがあつたもんですよ。』
『あ〃、さうですか。よく講釈で聴くやつですね。』
『さうです。信長は先[せん]の仁左衛門の我童時代、犬千代が川崎屋でしたよ。権十郎の前田は当時嵌役として好評の部だつたやうですね。』
『はア、さうですかねえ。何しろ九代目全盛時代の書卸し狂言[もの]など覚えて居る見物は少ないですからね。』
『いや併し、今の役者も皆巧うがすよ。全く巧いと思ふ時もありますが、実は・・・同じ役を見せられると、何だか物足りないのは変なものですなア。でもやつぱり好きだもんだから、大抵見遁がさずに見てますよ。』
『あ、幕が開きます。では・・・。』
『二番目までお在[いで]ですか』
『え〃、何しろ新作ですから見たいと思つて・・・』
『では後ほど・・・。』
恐ろしい廊下の長話。老劇通と別れを告げて、そこに立つて居ると、又たむうツと暑さが、烈しく迫つて来た。ちよつと想出した用もあり、M氏と二人で、二三時間抜けて出る。
外で夜食を済まして帰つて見ると、最う、二番目の序幕が開いてゐた。煙草に火を点けて桟敷へはひれず、しばらく廊下に立ちながら、人の天窓越しに舞台を見る。
丸々と肥つた六代目の真白に塗つた忠兵衛が、岡村さんの旧稿で読むと、長い独白のやうなものがあるのを、全部喰つて、無言で革財布を懐ろに捻ぢ込んで、羽織と脇差を取るや向うヘ駆けてはひつた。吉之丞の若い者が、提灯を寝惚け眼でさし出す幕切れは大受けのやうす。
成程あの場合、何にも言はない方が写実だらう、などと考へながら、煙草を吹かして見ると、二三間向うに、例の小山内さんや久保田さんや、長田さんやが居て、その中には又例の八千代さんの顔も見える。廊下にはこの作者の岡村さんも居た。幕になつたので、誰れかの部屋へ遊びに行かうかと思つて下から仕切場の前を通ると、市村さんや、新専務取締役の小田村さんが居て呼び込まれる。ぬうツとはひると、道具屋のやうな人が持出した一軸を帳元の足立さんが拡げて見る。覗き込むと、それは鳥居先生の画であつた。
足立さんは『随分好い値だらうね。もし好い値なら、僕の処に沢山あるから、少し売りませうか』などと冷かして居る。『何しろ年に二幅宛は画いて呉れるんだから・・・』と足立さんは笑ひながらいふ。一軸はその侭元の人の手へ戻つた様だつた。
さつき君、六代目がこ〃へ出て来て、『こんなに白く塗つちやつて気が咎めて可けねえや』つて言つてたが、随分白かつたね。と誰れやらがいふ。僕は大五郎の馬士のこしらへの巧いのに、感服した一人だといつた。
どや〳〵と仕切場、会社になれば此処が事務室の満員にもならうといふ大入りに僕は遠慮をしてそこを飛出し、少しぶら〳〵して居ると、そこに今仕切場で評判のあつた清忠画伯が見物に来て居られたのに会つた。またその中[うち]に素劇の催しをやらうといふやうな話。場所は此座[こゝ]と決めるといふ話も出る。いや危ない〳〵、と笑ひながら別れる。
僕はその足で西の下から楽屋へ行つて見た。初日の楽屋はどこでも混雑[ごた〳〵]して、改まつた訪問は先方迷惑と最も懇意な、そして暇さうな友右衛門[あをき]の部屋を襲つた。
一番目には二役あるが、二番目は今の母親一役だから序幕でもう身体が明いて了ふ人。白塗の、犬千代の話が出ると、坐つて喋舌るばかりであんまり好い役ではないやうな事をいふ。書卸しには、信長公の御前で、腰元と仕合をする場などがあつて、もつと花やかだつたらしいが、今度はその場は出ずにゐる。
先達て、日本橋倶楽部の菊次郎追善会の盛況だつた事など話し合つて、不図いつもと違つて鏡台が一つしかないのに気がついたので、舎弟はどうしたと訊くと、今度は休みですといふ。成程さういへば最前桟敷裏を男衆と一緒に歩いて居たのを見かけたと思つた。
帰り新参の粂三郎の部屋を訊いてはひつて見る。中二階の先[せん]に死んだ国太郎の居た部屋である。鏡台を二つ並べて、一つは玉之助丈のである。二幕目に、出る梅川のこしらへが出来て、今、鬘[あたま]を冠せる所であつた。玉之助は仲居で、もう乙な年増姿になつて居る。
『どうです、身体の工合は』?
『ありがたう、壮健[ぢやうぶ]になりました。』
『やつぱり働いた方が可いんだね。』といふ。
『新演芸』6(2):78-79 1921.2
もつと評判になつて好い役者 行方不明の名優
田中煙亭
とても東京で現に踊つて居る人々の中に、御註文の品が見当らない処から、凝[じつ]と眼をつぶつて地方へ出て居るか、生きてるか死んでるか判らない、行方不明の俳優を物色して、辛と新旧両劇壇に一人宛発見した。それは左の二優である。
旧劇大阪俳優 市川荒太郎丈
新派 木下録三郎氏
荒太郎は屋号を三河屋といつて三代目荒五郎の養子である。十六の歳に名題になつた女形で、故人団蔵や璃珏などの一座で、嘗ては大功記の初菊を勤めた事もある。二十五歳の時父の名を襲いで荒太郎となつて、数年前東京へ来た時には、彼の老優眼玉の立女形として、宅兵衛上使のお軽、二役かほよ御前--矢口のお舟などを演じたと記憶する。それが僕の眼にハツキリと残つて居る。好い女形である。今の梅幸と同じやうに背が少し高過ぎるが面もよし、身体もこなれる。横浜辺に居た事を聞いたが、その後とんとその舞台を見ない。何とかして中央に出して出世をさして遣りたい。家柄と芸とは幹部になれる資格がある。人気は舞台次第でとれよう。唯だ仲間受けと太夫元の信用だけだ。敢て松竹の人々に推奨する。東京の水に適ふべき芸風だと僕は信じて居る。
木ノ録先生は、ズツと以前水野好美君の奨励会に居た人だが、僕も知り世間から認められるやうになつたのは、例の山長と中洲に立籠つて居た時代である。敵役が得意の本役であるが、三枚目の巧い人である。今の新派に此種の人が居ない。舞台が懸命で熱があるのが何よりで、心掛け次第では、どんな新らしいものでも楽にこなして行く実力を有つて居る。東京の舞台に復活さしてやりたい。新生劇壇などと大層な名の下に、随分古い人も復活して来る世の中だ、彼の劇壇などへ連れて来れば上置にしても可い人だ。今の伊井喜多村一座へ入れても立派に使へる。河合の座へ持て行つても松本と役争ひの出来る人、東先生など、蹴飛ばすのは何でも無い。
これでやつと責塞ぎの稿を了るのだが、更らに帝劇の女優諸嬢を一わたり見渡したが、遂に一人も発見されなかつた。小劇場の方は近頃御不沙汰をして居るから判らない。
『新演芸』 6(8):104-105 1921.8
文楽人形浄瑠璃の一夜 有楽座を見物して
黒顔子
好きな人形浄瑠璃、近頃の大方の芝居を見るよりはいくら面白いか。近年夏毎に文楽の引越し興行、それも今年は新富座には来ないらしく、有楽座にはお馴染の深い古靱、錣の一行が、人形の精鋭を挙げて七月九日から・・・・・・
初日に障りが出来て、二日目の晩に、早速出かける。
三十三所花の山、観音霊験記、良弁杉の由来から壺坂寺の段まで、とある前狂言、三十三所は壺坂より外殆んど知らぬ東京の人達には頗る珍な演物である。
上方役者の手でこの「良弁杉」は時折劇場では見るもの、先年帝劇ではこれを『二月堂』と題して梅幸、宗之助等が演つた事がある。が義太夫の方では滅多に聴かれぬものである。
向ふ正面の二階に席を定めて見ると、今や舞台は第二幕目『桜の宮の段』が開いて居て四枚五挺といふ賑やかな床、越登太夫をタテに、絃は吉作芳之助浅造など。人形[てすり]の方は花売の娘、里の子、里人、船頭達大勢に取巻かれた渚の方のなれの果、渚は名手文五郎が使つて居るのである。
すぐに切れて二十五分の休憩がある。例に依て狭い廊下に雪崩れ出る人、食堂へ群れ行く人々。煙草の煙濛々たる中に、新劇、勘弥劇などに見も慣れぬ客種の違ふ事。
やがて開く舞台は『東大寺』門前、島太夫、浅造の持[もち]、人形は文五郎の非人渚と、辰五郎の伴僧と二人ぎりである。番組を見わたすと座がしら株の辰五郎はこの伴僧一役のみである。暑いからこの老人を助けるのか、それとも身体でも悪いのか、後進引立ての為めの補導格か、蓋し二の替りにウンと大物を使つて見せるのでがなあらう。
短かい一幕、やがて切れる。又二十分の所謂御食事時間。
予て音に聞こえたデン通S君に会ふ。『又、閑潰しなものが来ましたね』とやると『いや、今度は五日に一度来れば好いから大分助かります』といふ。古靱の評判など仕合つて居る所へ、のそりづしりとやつて来た一大巨漢。S君の肩を叩いて『何処に居る?』『下に、家の者を連れて来て居る』。「さうか?』と行過ぎて巻煙草に火をつける。
S君は『君、あれが有名な杉山茂丸だよ。』と僕に小声で『知つてる、併し向かうでは知らない』と僕も小声で。『紹介しやうか』『いや、まア面倒だから止さう』『何しろ、素人義太夫では大家だからね。僕等は始終御馳走になつて聴かされる側だから、賞めるのもをかしいが、彼れは天狗にならずに、常に三味線引と研究的に演つて居るのが豪らいよ』『はア、巧いさうだが、まだ実は一度も聴いた事はない。今度一度紹介して貰つて拝聴しやう。』『他の有名な華族様や何かのは殆んどお朗読的でしやうがないが、杉山氏のは確かに研究的だから聴かれるよ』とこんな話の中に開幕のしらせ。
愈よ古靱の『二月堂良弁杉の段』である。幕があく、口上があつて名人静六のデーンデーンと来るその音締!
良弁大僧正のお通り。御伴廻りが下手から上手へ舞台を通り抜けるのに鑓持などがいろ〳〵の芸をやる。芝居では無い事の中々おもしろい。
やがて玉蔵の良弁大僧正が近習や侍を従へて出る。幼時(序幕志賀の里で見たる)大鷲に浚はれたのが、この大杉の梢にかゝり、先の僧正に助けられて、今や学徳一世に高き大僧正になつて居るのであるが、父母の名さへ顔さへ知らぬ身の上を常に慨いて居ると、今日此処で、非人になつて自分を尋ね廻る生母渚の方に邂逅[めぐりあふ]のである。
文五郎の渚と玉蔵の良弁と二人きりの芝居。金襴の袈裟、緋の衣の若き僧と髪もおどろの女乞食とが相擁して泣く場面は、淋しいは淋しいが、見物の涙をそゝらねばならぬ。古靱の床が、この非痛な情景をよく現はして、荘重に品位を保つて語り込んで行つたのは敬服すべきである。文楽の多くの先輩、病越路を除いては、先ず此太夫ならではと思はせた。
休憩十分、ちよつと楽屋を覗きに行つたが、馴染の無い我等。下の大部屋には所狭きまで並べ立てられた各種の人形の傍、肌脱ぎ、丸裸の使ひ手が雑然として寝そべり喋舌り合つて居る。二階へ上ると、次の錣太夫が絃の吉作と二人、肩衣[かた]をつけて、ちよと調子しれべをやつて居る。クソ暑いのに話し込むのも心無き業と、知らぬ顔して通り抜け古靱の部屋を覗くと、大汗になつて湯にでも行つて居るか姿は見えず、紋付を着たお客らしい人が、背中を見せて煙草を喫つて居た。
事務所を覗いても知らぬ顔の、その儘再び見物席へ取て返へすと、早や開幕のしらせ。西側の中庭には女義の統領小清と大吉が何か話し合ひながら、額をすり合して巻煙草に火を点けて居た。
階上に上ると杉山先生、新橋辺の義太夫芸妓を傍に正面に納まつて居る。S君はと下を覗くと、真四角にキチンと腰をかけた洋服姿がその熱心さを見せて居る。
錣太夫の『壺坂』が開いた。実は予期した以上に悪いものと聴いた。殆んど人形などにお構ひなしといつた風に、突拍子もない大きな声を出して、哀れな盲人と貞淑な美人との彼の淋しい懐かしい情景を打ち壊しつゝ語り行くのである。文三の沢市と栄三のお里とは、大した誇張もなく、よく自然に近く動いて居た。後段の山の場は大道具の奇体なので困りものに見えた。
幕になる。やれ〳〵と廊下に飛出すと例のS君に又バツタリ。『どうだい彼[あ]の堕落は、迚も駄目だね。』と直ぐ浴せる。先生も錣ぎらひと見える。『声はあるし、今の中の何とか矯正すると可いが』と付加へた。
愈よ大切『尼ヶ崎』は静太夫、芳之助の持である。人形は最早評する迄もなく度々のもので、文五郎の操は、どうしても人形とは思はれず、否、到底歌舞伎役者に出来ないほど細かい表情から動き。後ろ向きの形ちの好さ、先づは結構至極のものである。栄三の重次郎、玉七の初菊も好い。文三の光秀も辰五郎のよりは神妙に、しかも行届いて動いて居た。玉蔵の老母は存外不出来と見た。それは彼[あ]れ丈けの間に同じ形を二度も三度も繰返すばかりであつたのは無性[ぶしやう]である。
さて静太夫だ。これは大隅太夫歿後文楽に入つて松竹も方でも眼をかけて、其の大成を期待して居る人である。二三年前までは、俳優[やくしや]でいふと上[かみ]の寿三郎か東京[こつち]の坂彦[ばんひこ]のやうな、所謂性[たち]の好い大根[だいこ]のやうに見えて、到底[とても]近き将来には物になれぬと思はれたが僕はこの太十を聴いて、彼れの熱心な稽古と、指導宜しきを得たものが、案外の進境、中々味を語るまでに至つたのは喜ぶべき事であると思つた。
越路大患に罹つて或は再び舞台に上ることが出来ぬかも知れず、他の諸先輩漸次老境に入らんとする時に当つて、この静の著しき進境は浄界の将来に又一つの企望を繋がせるものかと思ふ。併し、まだまだ修業中である。全体に於て不整である。声調の不整、これがやがて下手なりに固まらぬ彼に将来があるとも思へる。(十日夜記)
『新演芸』6(12):54-55 1921.12
引越興行の初日 二長町の歌舞伎座
黒顔子
日本一と誇つた桧舞台。
破風造り梨園の宮殿歌舞伎座が、一朝にして灰燼に帰したのは十月の末であつた。此の座として稀らしい新作揃ひ、二百余名の俳優登場、それも誇りの一つとして、日本一を標榜したのだが、何もかも煙になりさう。
途方に暮れて居る大谷氏の鼻も少々曲つて居る処へ駈着けたのが二長町の小田村寿さん。男にならう、侠気[をとこぎ]な、と恰ど空いて居る市村座を使つてはと切出せば渡りに舟で、では願ひまへうか、と極つたのが、十一月の引越興行である。
月の八日、前[ぜん]以て約束の、動きの付かぬ下谷の「ともだち会」を五、六の二日に踊らせて、大道具も昼夜兼行、それでもよく初日が開けましたといふ関係者の大働らき。
二長町の大横町、見上れば四尺に余る大提灯を町幅狭しとかけ連ね、それには一々大[おほ]幹部の連名、委員長歌右衛門丈を筆頭に、座付役者は伝九郎、片市まで、左団次を加へて顧[ふりか]へれば裏の方には『橘屋』『澤瀉屋』と屋号も入れて用意周到。
市川左団次君へ、中村福助さんへ、市川寿美蔵さんへと、小屋の前へ建列ねた大幟も景気好く、さて劇場の前へ来くると両側の花暖簾、こ〃にも幹部連中の大提灯、清忠画伯の絵看板、山岸荷葉氏椽大の筆を揮つた大名題の白木の看板、左手立見場入口の前には二間巾位の大看板に名題以上公達連の連名役名、これ亦荷葉先生得意の筆。
容体総て木挽町をその侭、唯だ案内所の看板がなく、いつもの「魚十」から今日はとはひるといつもの阿母[おつか]さん。帝劇の花形女優延子さんの姿が奥の方にチラリと見える。
送られて、西の桟敷へ納まると、渡された絵本それが又た丸見屋製の広告番付、米斎画伯を煩はしたが表紙画の美くしさ、楽屋話を付録にした松竹式、舞台には既に『佐倉新絵巻』
序幕の領内百姓一揆の場、片市や村右衛門が威張つて居ると、寿美蔵、左升、荒次郎が犇めき合ふ。猿之助の名主六郎兵衛が何やら分別顔に芝居をする。やがて揚幕から大統領の木内宗吾が現はれる。衣裳[きつけ]の加減か、百姓大石内蔵之助といふ見立。先づお静まり下されいか何かで一生懸命に騒ぎ立つ大勢を制する処、宛として忠臣蔵四段目の切、城渡の場。
序幕の開く前、半値段とはいへ早くも満員、幕が引かれると雪崩れ出る廊下の人、縫ふやうにして下に降り、仕切り場の前へ来ると「やア、やア」といふ人、それは市村座の誰に彼れ。中を覗くとそこには歌舞伎座の劇場部長井上伊三郎さんが泰然として控へて居る。『これはおめでたう』と先づ坐り込む。
新富座の帳場某君も居る。松竹の事務所の何某君も居る。会う人、話す人。『一体どこの芝居に来て居るのか』といふ気がする。
呼ばれて立つた井上さんの後へ市村座の三木さんが坐る。例の懐手無造作に葉巻を咥へた田村専務がやつて来てドカリと坐る。
『随分大道具など騒ぎでしたらうに』
『何しろ五、六と踊りの会があつたものですから、大道具などは皆な徹夜でさア。
『空いて居たとはいふもの〃、いろ〳〵小さい小屋貸しの約束があつたものですからね。幇間の芝居なんか困るとき〃ましたよ。これまでの場代は要らないから開けて呉れと頼んでも肯かれないんですからね。無理もありませんが、それに困つたのは通話会の芝居これが十日の舞台稽古で十一、十二といふ約束でせう。それはまアお願ひ申して延期といふ事になりましたが・・・』
『何しろ非常な事ですからね、下廻りや出方がもう旅へ出る訳にも行かず、可哀想ですかららね。』
『大谷君は五日に開けたいといつて居ましたが、それは無理ですよ、ね、漸く今日・・・』
と三木さんと田村さんは割台詞でいろ〳〵話す。電話や何か仕切場もごたついて来たので失敬して大間へ出る。
玄関正面は絵巻物実写の為めに佐倉へ技師の出張したらしい写真を額面にしたのが飾られて、その前には咲き揃つた菊の大鉢。美くしい見物の群れ右往左往。
ぶら〳〵して高場を覗き込むと、そこには市村座の島田君が、毎[いつ]もの通り十呂盤を弾いて事務を執つて居る。その前には交る〳〵出方の誰彼れが立替つて場所の調べ。
専務の事務室の前、そこに『おやツ』と思ふほど老けて見えた市川男女蔵事荒川清君が立つて居る。
『いつまで暇なんだい。』
『や、まア今月一ぱいは、来月も遊びかも知れません。』
と鼻の下を細い指先で撫で〃居る。近寄り見れば不思議や髭-
『なアんだい、生やすのかい。』
『どうもね、親譲りが中々廷びないんで・・・』
と笑つて居る。成程物になりさうもない生毛のやうなのがちらほらと。『指で摘めるやうになれば剃[あた]るのだから』と又笑ふ。面白い男だ。
東の階子段[はしごだん]を二階へ上つて見る。とそこの喫煙廊下には、当代の劇作家先生、山崎紫紅先生、岡本綺堂先生、池田大伍先生、岡鬼太郎先生などが談笑今や酣なる処であつた。
人見知りをしない拙者直ぐ飛込んで煙草にしたが、何も取とめたお話も無い御様子。そこへ向ふからいときらびやかに扮装[いでた]つた一婦人。諸先生の顔を見るや顔中口にしての愛嬌笑ひに『どうも御無沙汰を』科を作つたお辞儀である。これなん誰あらう名女優森律子嬢である。先生方何れも何か一口づ〃御挨拶がある。中に山埼先生だけが『随分暫らく』か何かであつたが森さん別にテレもせず去つて了ふ。
『新演芸』7(4):76-77 1922.4
白羽二重を前に 吉右衛門と勘弥
新富座の楽屋
九曜星
元は一つ鍋の何かを突き合つた波野と守田、市村座脱退組の二人が、久し振りで、この四月に新富座で顔を合はせた。
顔合せも顔合はせ、殆んどこの二人の芝居のやう-といつて秀調[やまとや]や三升には相済まぬ言草かも知れぬが、須磨の浦で熊谷と敦盛、陣屋で熊谷と弥陀六、俳諧師で鬼貫と路通、二番目で与三耶と蝙蝠安、大切で二人の駕籠舁、と斯う幕毎に二人の顔合せはちよつと記録といつても可い。
その中幕『俳諧師』が切れて、秀調のどんどろが開[あ]く時分に、同行のたアさんと二人で両優の部屋へ遊びに行つた。たアさんは二人に用があるといふのだ。拙者はお伴[つれ]のやうなものだ。
三階の突当りを右へ向つた方、昔九代目が居たといふ部屋に、守田が納まつて居る。座には先客が一人居る。
『相変らず奮闘して居るね』
とまア言つたもの。来客の為めに今の乞食路通の顔をまだ洗はずのそこには薄汚ない勘弥先生。
『でも、今度は四日ほど稽古をする間があつたのです。年中、朝、稽古の、昼から舞台ぢやア堪まりませんや』
といふ。昨年恰ど吉右衛門氏が市村座を脱退した時、勘弥氏が明治座に左団次[たかはし]、猿之助[きのし]一派と例の新らしい『俊寛劇』を演[や]つて居た時、訪問して、その大気焔を聴いた事を想ひ起した。その時もこの稽古の忙がしい事、長台詞の新らしいのを覚えるのが苦しいといふ話を聴いた。
『田端の奥からの劇場通ひは何しろ大変ですね』
『たつぷり一時間はか〃ります。併しその一時間の俥の上が、私の書抜を覚える時間です。よく覚えられます。時々急いで詰込む時に、家へ帰つて四畳半へ閉籠つて、誰も来ちやア困るよか何かで読む事がありますが、余まり長いので、家の者が覗いて見ると、机の上へ斯うなつてグー〳〵大鼾なんていふ喜劇が始まるんで・・・』
ぐるりと見渡す部屋の床には竹坡の細物[ほそもの]の花鳥の絵、その下に何やら神様が祭つてある。並べて飾る鏡台の一つは愛甥玉三郎のである。たアさんがふと勘弥の鏡台に眼をつけた。桑でもあらうが簡単な折畳みの四角な箱。
『大きさも恰ど、便利なものですねえ』
『え〃、これが一番便利ですよ、畳んで仕舞ふと提げげられますからね』
『洋食屋の出前持が下げて来さうだね』
『全く。何しろ安物ですから、丸の内で梅幸兄さんが、よく言ふんですよ。私と宗之助[なかまち]がこんな物には一切構はない質なので、頭髪[あたま]だつて櫛など入れた事もないやうにして居ますし、二人ともに若い癖に、構はなさ過ぎるぜ、とよく言はれるんです』
『さうですか宗之助[なかまち]もさうかねえ』
『妙ですねえ、仲町は近頃大層詩に凝つてますよ。彼[あ]の人は詩人ですね。それからをかしい事には、此頃私と二人で代り番こに咽喉[のど]を痛[や]つて仕やうがないのですよ。二人で会ひさへすれは、どうだい咽は、と先づそのお見舞です。』
『さういへば、少し痛めてますね。さつき弥陀六で大分苦しさうだつた』
『え〃、苦しくつても弥陀六はまだ可いのですが小次郎で困りますよ。昨日あたりから裏声を使つて見ますがどうも巧くゆきません。』
たアさんは前以て頼んであつて、守田氏へ何か書かせるつもりで来たのであつた。それは愛嬢のお花見に着る羽織の裏で、天下の名優、文士、画家のあらゆる寄書きで、今日勘弥と吉右衛門に書いて貰ヘば全都揃ふのだといふ。たアさんがそこへ拡げたのを見ると、梅幸が得意の梅を書いた傍に羽左衛門[いちむら]が鶯を一羽描いて居る。清忠画伯のがある。小山内薫君や久保田万太郎君、吉井武君、長田幹彦君などお歴々の、酔余の十七字が散らし書きになつて居る。新派で右の袖裏に当る処へ、伊井、河合、喜多村の三氏。
『さア、困りましたよ。与三郎といふ御注文ですが疵といふのは少しねえ、縁起が。・・・実は先刻ちよつと舞台から引込む時、案じた句がありますが、これを書いて可いでせうか』
と半紙の切れに書いたのを見せる。『薄月に傷の・・・恋衣。』とある。
『結構々々。どうか願ひます。』
とたアさんは白い処を直ぐと拡げる。勘弥氏は男衆を呼んで、与三郎の傷を書く墨汁(?)を取寄せて慎んで書いたものだ。
『どうもへんてこな物が出来て・・・尤も筆が良けりやアもつと巧いのですがね』
と笑ふ。『かん弥』と署名して生憎印がありませんが・・・偽筆ぢやア無いんですから・・・と又笑ふ。
路通早速俳人になり了[をほ]せたのである。そこへ紺地の背広服を着た少年玉三郎がやつて来た。舞台からどんどろのお弓の愁嘆が手に取るやうに聞える。二人は雑談二つ三つの後[のち]辞して、ついお隣りの波野君を襲つた。たアさんは又も白羽二重を吉右衛門の前へ拡げるのである。
有名な丈余の大姿見が天井を切り抜いてスツクと立つて居る。蝋色金紋の素晴らしい鏡台の前へ坐つた波野氏は更らに二月の病気以来、聊か痩せを見せて、火鉢の向ふには医師が見えて居る。
愛想の好い妻君が、我等二人に坐布団をす〃めて『何しろ一日に九勺のお米、一合に足りないお粥を三度に分けて喫べるんでしよう、それで出ずつぱりに働らくんですから、目方が十三貫しかないんですよ。』
としみ〴〵した調子。『この上脊[うはぜい]があつてね、僕はこれでも十六貫からありますよ』とたアさんがいふ、予て同病相隣れんで居る拙者は、同じ十三貫位。
『相変らず熊谷は大努力ですね。併し、檀特山だけで沢山な位草臥れるでせう』
といへば、波野君は『え〃、もう彼[あ]れでがツかりします』といひ『それからこの鬼貫は実に難かしい役です』と例によつて詞少な。
向ふの方には寺内[じない]の金作[ししやう]と囃子方、とそれから吉兵衛や何かゞ居て、傍に着換えをして居る小弟米吉が居る。何やら大切の喜劇に出る禿で米吉が唄ふ投げ節の訂正が試みられて居るらしい。
『先生、煙草はお廃しなさい、私は漸くやめました。』
『いや、それは豪いね』
『なアに、気のもんですね、もう人様が喫つても何ともありません。』
といひながら傍にあつたカルミンを出してす〃められる。例のカルシユームミンツである。お医者は帰る。投節の打合せは済む、小さい声で米吉が唄つて見る、お囃子の人は更らに注意を与へて金作翁と一緒に去る。部屋は主人夫婦と我等二人になる。
たアさんは『一つ蝙蝠を願ひます』と今勘弥の書いた白羽二重を拡げた。
『顔へ描いて捺した方が可いでせう』
と波野君は鏡台に向つて、二番目安蔵の扮装[こしらへ]にかかる。舎弟の時蔵氏がはひつて来た。
『やア、今度は大役を背負つて骨だねえ』
と言へば兄貴の前か『どうぞよろしく』と大層叮寧に物優しい。男女蔵と一緒に茶目ツて居た市村座時代とは人間が変つた様である。
波野君の頬ぺたには大きな蝙蝠が描き上つた。三人がかりで、これを羽二重へおツぺした。恰ど勘弥の句の上の方へ飛んでるやうに。
濃淡がよく出て甚く巧く出来た。位置を考へて『吉右衛門』といふ名を入れた。たアさんは非常に喜んで薄乾きを叮寧に巻いて居る。
『新演芸』7(6):90-91 1922.6
久松町へ高麗屋
黒顔子
高麗屋の明治座出演は実に十四年振だといふ。
五月左団次一派と一座した幸四郎の為めに選まれた狂言四種。綺堂さんの新作『小田原陣』で秀吉と政宗、『大盃』で掃部頭と馬場三郎兵衛。極付と銘打つた風呂場の長兵衛は左団次の水野、かうした風に、二頭[とう]が幕毎[まくごと]顔を合はせる組合せ。
更らにこちの高麗屋は『素襖落』で踊り抜く。この狂言所作は新歌舞伎十八番の一つで、桜痴居士の書下し、九代目が歌舞伎座で演じた時、染五郎時代の高麗屋は、太刀持に出て居たし、又その高麗蔵になる、改名披露の演し物にこれお選んだほどの物、其後幾度[いくたび]か舞台にかけて、酔態から扇の的の物語りなど、結構至極なものである。
『大統領』『高橋』『駿河台』!と役者の賞め詞も変つて来た此頃『高麗屋』『藤間』『丸の内』『浜町』!と大向ふは声を嗄して呼び立てる。
二
『大盃』が喝采の裡に演了された。近頃珍らしい幸四郎丈への引幕が引かれると、一しきり廊下のどよみ。最前から同じ桟敷の誰れ彼れが、盛んに向ふ桟敷の中程にグラスな向けて問題にして居る。何事ツとよく見ると、そこには五尺に足らぬ小男の、頭から頬へかけ、腮へ廻して、グル〳〵巻きの大繃帯、それが美くしい若い女と共に頻りに弁当の箸を操つて居るのである。それがどうも見た様な顔の男。
幕間の廊下の煙草に又もその男が問題になつて居る処へ、ヒヨツコリ其処へ現はれた。それは誰あらう当時民衆娯楽の宗本家といふやうな顔をして、浅草の興行界に覇を唱へて居る武智某事曽我廼家五九郎であつた。
『どうしたね、その繃帯は?』
『いやどうも又た先達ての腫物再発で・・・』
『明治座見物は暢気だね』
『いや、実は内証で、座の方は病気休業・・昨日から怠けまして、出られない事も無いのですが、お医者は動かぬ方が可いと仰せられますし・・・為めにちよいと・・・』
『内証は可いね』
『皆さんお揃ひ様で、エヘ・・・』
流行五分も隙[す]かさぬ背広扮装に、盛んに敷島を吹かして居る先生、鼻下の口鬚も可愛らしい。
三
久し振りに此処[こゝ]の楽屋をと志す。事務所を覗き込むと社長大谷君が何か帳簿の点検らしく、デスクの蔭にその横顔を見せて居る。通り抜けて西の桟敷裏からお囃子の後ろを奥へ進むと、その床板がギシギシと撓[しな]うやうで、此座もやがて大修繕を要することを思はせる。
作者部屋へ飛込むと、先年屡々御厄介を煩はした事のある竹柴の両先生『やアこれはしばらく』と一しきり雑談する、大部屋の俳優某村山座の劇中劇源頼義家臣に扮したのが、大に艶ツぽい電話をかけて居る。話が大分面倒に永引くやつで、ロハでは済されぬと大業[おほげふ]に揶揄[からか]はれて居る。
先づ高麗屋はどこだらうと二階へかけり上ると、取ツ付きの中二階の板羽目に『カメラ倶楽部』の懸賞映画展覧会の掲示がある。立止まつて見ると、一等賞には金牌贈呈とある。楽屋のベスト熱はまだ中々旺盛らしい。
早く来ればよかつたのに、例の五九郎事件で十幾分を費やした上で、幕間が中々早く、もう二挺が廻つて居る。高麗屋訪問は此の次の幕にと決める。
四
戻らうとするそこへ河原崎長十郎が後見のこしらへで、手に大事さうに湯呑を捧げて居る。『やア』と先づ挨拶の、その部屋の表札をふり仰ぐと、それは我が市川の宗家堀越三升君の部屋である。
『いやこれは』とズウと通ると、三升君は今や坂田の金平扮装の真最中、高合引に大紋の腰を下して、大姿見を前に二三人の門弟衣裳方に取巻かれ、急に後ろを向く事も出来ないで居る。
『今晩は』といふ僕の後ろから、長十郎が『旦那。××先生が・・・』と呼んで呉る『え』と横を向いて漸くそれと判つたので『どうも失礼。しばらくでしたね』といふ。
『そろ〳〵暑さに向つての金平は苦しさうですね』
『え〃、暑うございますよ。今日御見物でしたか』
『え〃、身体は達者ですか』
『難有う。ちとお遊びにお出下さいな』
などいふ中にスツカリ出来上る。もう追ひかけられるやうに柝の音が鳴る。大太刀を持つた男を先きに、湯呑を持た長十郎氏。『では失礼を』と三升の金平君、長袴[なが]の裾を捲くし上げて五枚重位の厚草履を穿いたやつで、ウン〳〵言ひさうにして階子[はしご]を降りる。僕も続いて奈落から表へ廻る。
五
家の芸の荒事も、三升氏の調子の足らぬのはいかにも残念だが、花道で喧嘩が始まつてからの気の入[いれ]た方[かた]など先生出来の好い方であつた。
下手の高い所に高島屋の水野が現はれて、東の歩みからバラ〳〵と幡随院の乾分[こぶん]が飛出して、この幕切。時代に大芝居を演ない幸四郎氏、立派な柄で、立派な長兵衛。
今度こそは、と直ぐに楽屋へ押かけた。三階より上つて突当りの右手の奥。構はずヌツトはひると、早くも衣裳を脱ぎ捨てた真裸体、鏡台の前へ大胡坐の藤間君、今、出来上つて届けて来た上方屋の写真絵はがきを猫背になつて眺めて居る。
『暑いんですか』と其横に坐り込む。『これは』」と軽く会釈して、尚ほ熱心にあれかこれかと、その絵はがき、一番目の秀吉を見て居つたが、一枚出して『どうも私の顔は柔和になりませんね』といふ。
『ど、どれ』と僕がそれを見て居ると、傍から一枚の美濃紙に書いた秀吉の画像を取出して、
『これは米斎さんが調べて書いたのですが、これは高野山にある木像ですね。どうもこれに似せやうとしましたが、こ〃の皺なぞが巧くゆきません。第一、私の眼は性来[うまれつき]で、かういふ工合になりませんね』
といふ。成程その絵像を見ると、二つ三つ描いてあるのが、如何にも柔和に出来て居る。何も必ずしもこれに似せなくてもよいのであるが、高麗屋の顔は、とてもその絵と同じやうに行かぬと思つた。
尚ほ扮装[こしらへ]や何かに就[つい]い少しばかり話して居ると、幕間頗る早く、既う二挺が廻つて来る。
六
『かなり大役の出ずつぱりのやうだが、先月の丸の内は本興行の上に台覧劇、殊に娘道成寺の振付けまで、先月位忙がしかつた事は無いでせう』
『いや実に一日も休ませないのですからね、此処が一日初日ですからね』
『時に台覧劇の勧進帳を活動写真に写したさうですね』
『え〃、横浜へ行つて大活の撮影で。動きの処でなくつちやア可けませんからね、鎧にそひし袖枕の条りと、おもしろや山水のから幕切までを写しました。それに蓄音機を添へて献上したんです。』
『横浜へ行つたんですか、それは大変だ』
『え〃、それに就て斯ういふ話がありますよ。その日朝早くといふのが、少し遅れましてね、自動車で宅を出て、葭町のあの平床[へいどこ]のある辺へ来ると、がら〳〵ツといふ、硝子の破れたやうな音がして往来へ人が飛び出したのですがね、喧嘩でもやつた事と思つて、横浜へ飛ばしたのですが、向ふへ着くと、今大地震があつたと横浜では大騒で・・・先達てのあの地震を私は知らなかつたのですね。よく〳〵地震に縁のない男と見えまして、昨年の暮のやつも、私は恰ど顔見世芝居で、京都へ行つてた留守でした。あの地震のあつた日に弁慶のフイルムが出来たのでした』
『いや、それはおもしろい、併し確かにあの地震は甚かつたのに、知らずに済んだ人は幸福ですよ』
『全く・・・』
長兵衛宅へ出る縮緬の袷着流し、鬘[あたま]を掛けて、鼻頭を叩いて、
『では、失礼』と無造作に舞台裏へ廻るのである。
『新演芸』 8(8):66-67 1923.8
廊下から楽屋へ 七月帝劇の初日
黒顔子
かさばツた荷物 を南側の女給さんに預けて、大急ぎに二階へ。階段の中ほどでチヨンといふ柝の音が聞こえて、一番目牡丹灯籠のもう二幕目が切れた。上つて先づ席へ落ちつき、更らに廊下へ出て敷島へ火を点ける。そこには毎月[まいげつ]初日に見える定連の顔が盛んに並んで、陽気の悪いことや、今の幕の評判などが、他の雑音に混つて聞える。
洋装の若い紳士 が、美くしい奥さん、それがまだ娘さんかと思ふばかりの若い、洋装の美人に肱[ひじ]を与へて、舶来の活動写真に見るやうなスタイルでスツスツと通行される。四辺[あたり]の人々は雑談の口を噤[つぐ]んで、しばらくは見返り見送つたものだ。益田さんの所謂メロドラマなるものを、観に来たお客でがなあらう。蓋し帝劇には相応[ふさ]はしい観客である。
一本の巻煙草を 喫ひ切らぬ中[うち]に、チリヽンと開幕知らせの鈴の音が鳴り渡る。予じめ計つてある時間もとかくに狂ひ勝ちの、初日は殊に大道具を急いで幕間が非常に早い。好い加減に見て早く帰りたい見物には結構だが、まことに気ぜはしない事である。第三幕目白翁堂勇斎住居の前、とある。こゝの大道具、イヤ舞台装置は頗る気に入つた。夏の夜更、縁台に浮世話しの団扇の風、
蒸暑い一しきり を、折柄の怪談に、一人去り二人去る情景が好く出て居る。松ツアンの志丈と寿三郎の勇斎が巧い。舞台が廻ると新幡随院の裏手墓地の体。聊かチヤチであり、又た写実だが暗過ぎて勘弥も寿三郎も玉三郎も誰が誰れやら声ばかりで、サツパリ判らぬ。良石和尚の説法めいた長々とした台詞が渡つてスル〳〵バタリと緞帳が下りる。
部屋へ行かうか と思つて廊下へ出ると、ばツたり会つたのが、牡丹灯籠の作者長田秀雄さんであつた。『今晩は』『好うこそ』『これは何かへ出ましたか』『いやこれは非常に昔の作ですよ、十四五年も前のです』『さうですか』『今度少し抜いたり直したりしました』『案外足が早いやうですね、此の分だと今夜は早いでせう』『いやどうも昨晩も二宮君と丸で喧嘩です』『へえー』
幕合や運びの為 作者と劇場の人とは毎月[まいげつ]初日前後には此の騒ぎがあるらしい。とにかく間誤[まご]まごすると切狂言が出なかつたり、半分でチヨン切られたり、えゝ侭よと時間を延ばすと翌日始末書を取られたり、此頃はどこでも甚[ひど]く弱つて居るらしい。長田さんに別れて二階を降りやうとすると、山本専務が時計を出したり入れたりして、歩いて居るのに会ふ。『今夜は大丈夫です』『さうらしいですね』
先月は一分も違 はずキチンと十一時に打出しました。今夜は少し前に閉場[はね]ませう』と言ひながらスタ〳〵行つて了[しま]ふ。下へ降りて南側ボツクス裏から楽屋を覗かうと急ぐと、チリヽンと開幕の鈴が又た聞こえる。これは可かぬ、と引返す時、二階から降りて来られた内藤鳴雪翁、夫人御同伴である。寒喧の辞美に芝居の噂、依然として元気である。
新らしい芝居は どうも困るですなア、いや併し勘弥は好う演ります。』旧劇党の先生は此間明治座に催された通話会劇の評判などが始まる。やがて幕が開いたので、双方急いで座席へ戻つた。第四幕萩原新三郎住居からその離れの裏手。お札を新三郎自身で剥がすのが、此の作の覘ひ所らしく、勘弥は此幕でも新三郎と良石和尚との二役を勤めて居る。
是が人間の心だ といふ良石和尚の述懐で幕が閉ぢられた。御食事時間二十分といふので、愈よ問題のメロドラマ『乱曲』である。雪崩れ打つ人々に押されながら、東洋軒の食堂で簡単な晩餐[ばんめし]を済まして大急ぎで場内へ戻ると、既[も]う開幕のしらせ、飯も碌に食へないねと、愚痴のやうな感嘆の辞[ことば]を交しながら一服する中に、『乱曲』第一幕が開く。舞台は青年作曲家ヂヨーヂ・グリーンの書斎
丸ツこく肥ツた 高助の門弟ヂムの茶目振りがばかに目に着く。太郎冠者氏最も得意の役であらう。介十郎のウオーカー博士、風采堂々、言語荘重、当り芸である。アリスさん「律子」が持つて来た花束に接吻を加へ、もろ手で犇と抱き緊める勘弥の作曲家の擽[くす]ぐツたい幕切れに、幽かな観衆の動揺[どよ]めきが場内に渦を巻いて幕。今度こそは遮二無二、南側のボツクス裏から。
楽屋の通ひ路へ 飛込んだ。廻り舞台其他の装置が見え透いて気味の悪い橋のやうな薄暗い大道具の横手を抜けて楽屋へはひると、今引込んで来た三階の部屋へも行かず、直ぐ右手カーテンの中作者部屋へ腰をかけて居る守田君、黒い盲人用の眼鏡を外して左手[ゆんで]に手まさぐりつゝ、お狂言方の付けて居る幕合の時間を見分しつゝ『いや、どうかかうか行きさうですな』と
閉場時間の心配 らしい。『どうも先生、初日は大変です。全く落ついて芝居も何も出来やアしません。斯う急がしくやつて明日の二日目は開場が三十分遅いんでせう。それだけ詰るかどうか問題ですからね。とても自分でも少しは好い心地の芝居を演[し]て御覧に入れられませんや。』と愚痴やら言訳やら、とにかく今月女優劇の主なる補導である。そこへ男衆が、此の間にちよつと
お会ひになつて は如何です、と言ツて来る。誰れやら待て居るらしい『よろしツ』と立上つた勘弥君は更らに帳面の時間を一瞥して『御免下さい、後[のち]に部屋へ来て下さい』と愛嬌をこぼして出て行つた。一番目の山本志丈で役の上つた栗原老人事松つアんがインバネスを引つかけながら、帰つて行く後姿。上から降りて来たこれも弟子坊主良岸一役の
御曹司玉三郎君 が薄化粧をして居るかと思ふばかりの蒼白い顔をして生意気らしく挨拶をする。『既う用なしかい』と訊くと、『えゝ、好い役者はね』とグツと澄ます。舞台の方はかなり騒々し、い、二幕目公園から伯爵の宴会場の二場を一緒に飾るのと幕開を早める必要とで、大道具の先生達必死である。そこヘ登場俳優が道具調べを兼ねて、扮装を済まして道具裏へ出張して口を出して居るらしい。
濃い口髭を生し た寿三郎氏のレヴエル伯爵の姿が大姿見[おほすがたみ]え写つたと思ふと、ヅシリ〴〵とこつちの方へやつて来る。兼子さん、美禰子さん、日出子さん、薫さんだちの喜歌劇女優に扮した思ひ思ひの美くしい娘子軍に取巻かれて、頭取台の前でニヤニヤと笑つて居る。大きな人の好い男である。幕開きのしらせに転ぶがごとく、亀蔵君の作曲家の弟ヘンリー・グリーンが
舞台の方へ走て 行つた。と同時に舞台の方から浪子さん、延子さん、福子さんなどの喜歌劇女優が楽屋の溜りへ戻つて来る。幕内主任の二宮さんが大童といつた風でこれも道具裏から、やつて来る。同時に鈴[ベル]が鳴つて開幕のしらせ。此間十分の予定が七分で出来上つたのである。『此幕で三分間儲け出した』と二宮君は自分のデスクの前へ納まつた二宮君は
洋食の皿を並べ て晩餐[ばんさん]の半ばであつたらしい。さうして口を開いて『今夜は大丈夫です、十分前位に閉場[はね]るでせう』と得意気ながら尚ほ不安気にいふ。斯うなると、芝居は唯だ十一時までに並べた狂言を見せて了ひさへすれば、好いといふ事のみになるかとさへ思はれる。珈琲を啜り終つてやゝ落ついたといつた風に二宮君は、四日から新富座へ来る文楽の噂などを始める。既う幕は開いて居る。
勘弥君が出ない 此の幕には余り興味もそそられぬ僕は、一緒に上るりの話をして居る処へ、高助君の茶目ボーイ・ヂムが『イヨー』と覗き込んで舞台の方へ走つて行つた。裏も表もおんなじやうな男である(その夜)
『新演芸』9(1):32-35 1924.1
復興芝居のうらおもて 南座-ホテル-牛込会館
黒顔子
△中車老のお冠▽
グラ〳〵瓦落々々[ぐわら〳〵]ピシヤリのボーツと来た東京の惨めさ。全く一時はお芝居どこの騒ぎではなかつた。大事の大事の玄文社「新演芸」もボーツと来た。
罹災、バラツク、失業、都落ち。さうした処へ「復興」の叫びは直ちに興つた。「慰安」の声が先づ聞こえる。沢正、六代目、天勝、奈良丸。これ等何れも一流どこの演技者が、日比谷や上野で慰藉演芸会を催ほした。そしてそのどれもが非常の歓喜を以て迎へられた。
突然[とつぢよ]、中車が麻布の南座へ出る!といふ新聞を見た。南座は松竹焼残りの第一劇場である。中車は東都劇壇の一流俳優である。従ふ面々は秀調、市蔵、亀蔵等……まア〳〵大歌舞伎役者の錚々たるものである。誰れだ絵葉書にしちやア売れの遠いのばかりだなんテ。
口上に曰く。(前略)聊かにても夫れが復興の資に供し申し度、慈善興行として当る十月三十一日の佳節を卜し、震災後の東都劇壇に魁けて、大歌舞伎を開場・・・・・・奮励の限りを尽して適役揃ひの好狂言を尊覧に供すべく・・・・・・
(後略)
特等二円半、一等二円、二等一円半で、中車の「熊谷」が見られる。どう見まはしても東京中にペイ〳〵役者のでも、芝居らしい芝居の無い時に、此の宣伝! 此の興行! お客は雲霞の如く(大業だが)木戸前へ押寄せた。満員を続けて二日の日延べ。
中車の「陣屋」は珍らしい。拙[まづ]くつても市蔵の弥陀六、秀調の相模、飢えたる観客は更らに市蔵と秀調の「壺坂」に日本一の、親玉のと、更らに亀蔵の「黒手組」に橘屋アの掛声を浴びせることを惜まない。
「何でも好いんだねえ。」「地方巡業気分だね。」「ツケを入れてギツクリ睨み、ポテチンでハツと来れば、見物は唯だパチ〳〵と手を叩くんだから・・・・・・」と良くない見物は廊下で煙草である。
其の勢ひを追ツ蒐[か]けて二の替を開ける。幡随長兵衛ばかりでなく、中幕の「松王」も中車老人の極付である。見物は押し返して来る一番目とあつて大和屋の太夫コチの秀調は「二十四孝」を御殿から狐火まで、大道具大仕掛(?)も一つお負けに大車輪を以て御覧に入れる。
その大道具の御蔭を以て、初日午後三時開場、とあるやつが四時半になつても、末だ幕内には長谷川の金槌の音が盛んに聞こえる。
「真当[ほんたう]にバラツクを建てゝるのか。」「電車が無くなるウーー。」「開けろ!おいツ」など、
気の立つた御見物の叫声、罵声。
内外総司令官たる松竹の井上君、奔走尽力漸く四時四十何分かに柝がはいつて開幕舞台付の腰元が余憤の悪罵を浴びながら引込むと悠然として現はれたのが、亀蔵の武田勝頼。橘屋ア。ー-で先づ見物はお静かになる。
初日の混雑[ごた〳〵]した部屋を訪問するのは、一体心無しの業である。今日は御遠慮申上げやうかと思つて居る処、清忠画伯がヌツクリ桟敷裏に現はれ来つた。浴衣一枚で湯島から焼出され、府下荻窪村に逃げ延びた先生。
「一番惜しかつたのは、多年愛翫して居た二着の鎧です」と飽まで芸術鑑賞家らしい愚痴のやうでも、却て涙ぐましく聞かされる。元気な先生はハチ切れるやうな身体を、背広の服に包んで、漲る復興の劇界の気分に声援するのである。
「屁古垂れる事があるもんですか。賑やかになり、景気になるなら、私だつて今でも通話会劇を演りますよ。伜に勘当されても演りますよ」と。其の意気々々々。「橋尾老人は元気ですよ。今も部屋で会つて来ましたが、今日もアキが遅れたんで、長兵衛の湯殿が出損[でそこな]はうかと、時計を睨んでお冠りです。」と。
中車のお冠り。そのお冠りの曲るのも、他の某々等の常にゴテるのとは訳が違ふ。芸術と戦ふためのお冠りである。これを聞いた僕は、ウツカリお冠りの部屋を襲つてお互ひに気拙い顔をするのが恐ろしかつたのみでなく中車老人の元気な処を、元気の塊りのやうな鳥居先生から伝へられたので、非常に満足して、次の得意の「松王」を緩くり観やうと、ようやく桟敷に落ついた次第である。
寺子屋が済み、長兵衛の村山座が済むと、既[も]う九時過。なるほど湯殿まで出ると十一時だ。よきほどに引下る。
△焼出された天勝▽
南座を新富座とすれば、差詰帝国ホテル演芸場は、今日の場合「帝劇」である。震災後大物では歌右衛門主催の福助三津五郎舞踊会があつた。世界的天才提琴家ハイフエツツ氏が来た。
月の十六日から十日間の天勝は、此際の長期興行である。興行中の衣裳道具から、福井町の自宅も丸飽けの天勝は、大勇猛心を振ひ興して、予定の渡米を遂行とある。全部新調の道具衣裳の封切なり、小手調べなり。
名古屋仕込みの「京人形。」熱心はひどいもの、ともかく山台の唄と絃と乗つて踊るのだから凄い。引ぬき平和音頭で一座の娘子軍美くしいのやら、まづいのやら。
戸締り厳重な上に勝手の判らぬ楽屋口。探し廻つて漸く行けば、とツ付きの一間は男生天海と一光の部屋。続いてムーツとするほど暖かい広間は、紅紫絢爛、眼も綾に、十余の美人半裸体。今の音頭の振の袖、手ン手に肌ぬぐやら畳むやら。
大火鉢に炭火の焔。湯沸の口からは、龍のやうな白雲棚引き騰る。大姿見の前に大肌脱ぎの座長天勝、鬘下地をハイカラに今や手入れの真最中。「踊が巧くなつたねえ。」「笑談言つちやア厭ですよ。何しろひどい事になつたわねえ。」これは地震と火事の事である。
「常盤座脱出から上野公園避難の光景は、野呂君から此間委しく聞いたよ」といへば「ほんとに、上野で彼の人に邂逅[めぐりあ]つた時は抱き逢つて手ばなしで泣いちやツたわ。ねえ此の歳になつて亭主に会つたつて、往来でねえ。嘘のやうですが、その時は全く泣くより外に仕やうが無かつたんですもの……」
談は再挙から渡米の件に移る。「衣裳から道具の新調・・・ほんとにすると十万円からかゝりますよ。えゝ、大抵は上方です。ですけれどねえ、妾、人様から何かいろ〳〵貰つたのは今度初めてよ。古いお友達の洋服なんぞ呉れる人があるのよ。嬉しいと思ひましたわ。罹災者ですからね……もう此頃は俥になんか乗りませんわ。」鏡の中で嫣然[につこり]笑ふ。
そこへ野呂君が入つて来て、「おい〳〵誰れでも可い、手のすいた娘は舞台へ行つて呉れ。道具が新らしいんで、よく調べなくちやアしやうがない」と言ひながら見付けた僕。「や、今日はどうも大変な騒ぎでさア、初日が済むと極りますからね」と立ちながら敷島へ火を点けて出て去つた。
舞台は今、天海のボールと一光の曲芸と、其鮮やかさを競つて居る処。
「あの一光さんに、少し引つ張つて演つてくれつてね。」
襟から顔ヘ、入念のお化粧、天勝は弟子達の方へ向つて怒鳴つて居た。
△次は舞台協会▽
新劇座の後が舞台協会劇、長唄銀鈴会があつて小奈良の浪花節とくれば、どうして牛込会館は有楽座の格である。
加藤精一君日蓮様に走り、善鸞で当てた森英次郎氏も離れて去[い]つた此の劇団。残るは親鸞の佐々木積氏と唯円の山田隆弥君。勇猛精進の体である。
あの騒ぎ(地震と火事)の後、当分は迚もと・・・・・・見込をつけて、有楽町はガード下に洋食店を開業の、岡田嘉子さん、六条波子さん望月みどりさんなど勿体ないやうな女給振り店の名も其侭に「カフエー、ステージ」と。
さるからに、まだ開業の許可の指令の下らぬ中、早くもお客様が詰かける。一方更らにお芝居の方も、話がトントンと進んで月の十二日から五日間。これは又た忙がしい事になつた訳。
常から山の手の銀座と見[い]はれる神楽坂、開場前から突つかける角帽、耳隠し。満員続きの好景気は、正に此の一座「出家と其弟子」以来の事といふ。
『新演芸』9(4):60-61 1924.4
神田から麻布へ 歌扇と伊井の楽屋
黒顔子
【田中煙亭「(芝居見たまゝ)切られお富」『演芸画報』18(4):26-33 1924.4】
◇焼けた三崎町 の神田劇場は、焼跡でしばらく呉服屋の糶売のやうな事をやツて居た。歌扇とお父アンの青江老人は当時箱根の『成駒』に温泉場の旦那、女将としてモ口に潰されたのであつた。命数未だ尽きず、東京に逃げ戻つた歌扇は、江戸川の助かつた住居[すまゐ]に『お座敷洋食』といふのをオツぱじめて近頃評判、と聞く中[うち]に、バタ〳〵と神田の小屋の仮建築、この三月花々しく復興第一回松竹提携と銘打つて
◇訥子、源之助 菊右衛門、三十郎といふ顔触れに交つて何年振りかで再び好きな舞台を踏むことになつた。『京の友禅』で娘のお京『堀川』のおしゆん『白石噺』のしのぶ『浮名の読売』でお染といふ四役を引受けて、子供の時から鍛えた腕を本式に発揮する。ともかくも久し振りに会ひたいなと木戸口をズツと通ると、顔馴染の事務員君、満員に次ぐに満員といふ大景気に面喰つて居るらしい割込まして貰つた。雛段は見渡す限り
◇見物の頭と頭 柱無しに広々と気持ちの好い小屋に出来て居る。舞台はソツチ除けにして物珍らしげに場内を見廻して居ると、それを聞いたかそこらをうろうろ歩いて居るのは青江の老人、『や、今聞いて探して居ました。芝居はまア可[よ]うがさア。チヤア(歌扇の通称)の部屋へ行きませうさ、御案内を』と先きに立つ。行くつもりで来は来たが、斯う早急では、聊か煙に捲かれた形。はいはい参ります〳〵と。
◇揚幕で草履を 借りて奈落を奥へ、中二階のやうな階子[はしご]を上る取付が関三大親方の部屋その次が我がチヤアさん事中村歌扇、美しい染色の楽屋暖簾を潜ると、燃るやうな友禅の布団にチヨコンと坐つた主人公『あら先生、まア好く……』と火鉢を直し座布団を侑[すゝ]めて呉れる。日当りの良い硝子窓に、鏡台の上には五十燭光が二つ、六畳の隅には電気行火[あんくわ]に赤い布団が懸けてあつて、カーツとするほど暖かい
◇道楽者の末が 斯うなつたといふ風の男衆が注いで呉れたお番茶を一口呑むと額際に汗が滲む。長煙管でポンと叩いた火鉢を膝で押して、チヤアさんは鏡台の横から菓子折を持出し『これなら可いでせう。卵で出来てるから、一つ如何?』と先づ自分が抓んだ。『何しろ喰物は監視付ですからね。折角久し振で出た舞台に又胃でも悪くされちやーー』と青江老人がいふ。とかく食物[くいもの]で失敗する女と見える。『お俊の信夫[しのぶ]のお染と来て
◇此次がすしや のお里に時姫と来れば、すツかり娘形だね』といふと『お婆ちやんの娘でね』とはにかんで見せる。親父が傍から『どうも源之助[たんぼ]と訥子[なかまち]の間へ挟まれゝば、拠ろなく娘でさア』といふ。『何か是非演ツて見たいといふ役は無いかね』『さうねえ今ちよツと考へてるのは中内さんの大尉の娘位ね』といへば親父は『あれは難かしいよ。第一、此の連中にアノ大尉をやる役者が居ないよ。駄目だよ、
◇肚でする芝居 だからナ、迚も駄目だよ』と先づ頭から否決して『源さんなんか何でも此の間[あひだ]に教へて置くからといつて呉れますし、訥子さんも歌扇の時姫なら佐々木を出さうといツた風にまア可愛がられて居りますよ』といふ。不図舞台から来るツケの音と誰やらの台詞声[せりふ]が耳を驚かした『今、兄弟の花道の出です』と、チヤアさんがいふ。対面の三十郎の五郎の団州張が響いて来るのである。
◇突然隣の部屋 に人声が起つたと思ふと、立上ツて芝居の稽古らしい。そこは訥子親方の部屋で次狂言の立廻りを付けて居るのだといふ。『御免下さい』と若い娘ツ子が訪づれて、青江のをぢさんとその子供時代の話が初まつた。そこへ又チヤアさんお馴染の年増の人が見える『まあ珍らしいツ』『どうもその後は』『箱根でしたつてね』『えゝ、モロに潰されてね』といふやうな震災以来の物語である。先きの娘ツ子
◇歌扇のお弟子 になりたいのらしかつたが、青江老真向からその不心得と困難とを説破して追帰して了うのである。『どうも年中彼アいふのが来て困るんですよ。少し踊りをやつたり、唄を歌つたりすると、直ぐ女優になれるもんと思ふんだから堪まりませんよ。どうしてねえ先生、三年や五年で好い役が付いて好いお給金が貰へると思ふのは図々し過ぎますよ』とやツつけたもんである。堀川のお俊のこしらへに懸かつた歌扇も
◇顔でもうんと 好ければねえ……と、瞬くまに出来上る舞台顔。二の腕に紅絹の紐で伝兵衛の起請をくゝり、衣裳をつけて手足を白く塗りながら『これが嫌でね、京の友禅のお京は足袋を穿いてますよ』といふ。舞台は木の音高く幕になる。懐ろ紙に例の退き状を重ねながら『こら、如此[こんな]大きな字、これでなくちやア源さんに読めないのよ』と笑ひながらいふ。『年だね』と一緒に笑つてやがて失敬してちよつと暖簾長屋を覗き歩くと
◇工藤の衣裳を 脱ぎ棄てた今も噂の源さんがお風呂へ急ぐ、これから評判の伝兵衛さんになるんである。僕は抜けて表の雛段へ戻り、その伝兵衛や彼[あ]のお俊、さては訥子の与二郎を見物し友人と約束があつたのでそこから直ぐに、麻布の南座へ駆付けた。こゝも久し振りの伊井君、河合君を見やうといふのである『好いわねえ、可愛想だわねえ』といふ新聞の続き物『彼女の運命』といふ昼の部のお芝居は疾うに済んで、夜の部
◇清水の次郎長 も二幕目吉良の仁吉の内の場が開いて居た。高神山の切込から仁吉の焼香場まで、此前通り、藤井君の小政が立廻りに独舞台の大儲け、暗転の五分間に夜明けを見せる気の利いた脚色に見物を喜ばせる。隣りに陣取つた大丸髷の美人など夢中になつて、桟敷の羽目を叩いて立廻りを喝采するといふ騒ぎである。二番目へ移る幕間、此の座の楽屋へは初めての勝手知れぬを手探りに、大道具の横をぬける、
◇狭い事汚ない 事、聞きしに勝り、実に話の外[ほか]である。足を爪立て二階を上ると摺れ違ふ人と動きが取れず。よろけるやうになつて取つ付きの暖簾の中『これは暫らく』と飛たつやうに手を出したのは、震災後初めて会つた石川新水君。堅い握手をして隣を見ると復[かへ]り新参の小堀君が居る。その又傍には、英[はなぶさ]太郎君が矢場女お柳の扮装、目下塗り立て中とある。四畳半位の部屋へ、此の三人の名優が詰込まれて居るのである。
◇名題下大部屋 の騒ぎ、混雑、よろしくお察し下さいである。『高神山の喧嘩の時なんざア此の辺動きが取れません』と、小堀君がいふ『暫らく復座で落付くのか』と聞けば『もう動きません』といふ。『ともかくも両大将に会つて来やう』と、ゴツタ返して居る大部屋をスリ抜けて奥へと進む細い廊下の右側が河合君の部屋と判つて、ガラリと開けると『おやツ』と顧[ふり]むく。今二番目『浅草寺』のお楽の衣裳最中、一室一人の
◇河合君の部屋 も二枚折の蔭に栄龍夫人と岡田女史が居て、もう一ぱいである。『ま、お這入り』と言はれても這入る場所が無い『河合さんには震災後、牛込会舘で会ひましたね』。『さうさう、新劇杜の芝居の時ね』など少し立話しで失敬する。その先が伊井君の部屋、恰度誰れも居ずの、密猟船船長の扮装も了つて、火鉢の前ヘドツカと坐して居る所『どうも御見舞も致しませんで……』と地震からの挨拶、規丁面にあつて
◇伊井君得意の 談論風[かぜ]を生ぜんとするのである。『全体歌右衛門さんが麻布の末広座へ出なくともですな、伜可愛さでもありませうが……歌右衛門さんの芸の味なんか解る見物は来ませんや。ヨチ〳〵するのやブル〳〵する所だけつきや見ない見物を対手[あいて]に委員長が芝居をするんですからね。』と先づ人事[ひとごと]とは思へぬ残念さを説いて、伊井君は更に『南座へ出る位なら宮戸座へ出た方が勝[まし]な位ですよ。……』とちよつと聞くと飛んでもない事、又
◇何か不平でも あるらしい事をいふ『浅草寺境内』はおもしろいといふ評判だが、といへば『えゝ河合君のものですよ。私はちよつとお付合で。』と。雑談は、新顔新加入の事から次狂言の事など数分にして二挺の柝の音、座付作者の瀬戸君が威勢の好い洋服姿を現して、何やらん商売用の話。この瀬戸君は東京に家が無く伊井君は向島が遠過ぎるので、近所に部屋借をして南座通勤といふ気楽さ加減。いろ〳〵又乙な、聞捨てにならぬ話もありさうたが、そこまでは聞かぬ事にして退場した。(その夜)
『新演芸』9(5):62-63 1924.5
勘弥と宗之助 吉右衛門と三津五郎
【田中煙亭「お静礼三小磯ケ原」『演芸画報』18(5):38-43 1924.5】
□月の三日 突ツかける木戸前の群衆を、押分けるやうにして大国座の見物席へ紛れ込む。久し振で宗之助に会ひたいと思つたが、まだ楽屋入をしないとの事で、舎弟の『知盛』を見物する。三杯道具の長幕が漸ツと切れたので、此座は初めての西の幕溜りから楽屋へと侵入した。鉄筋凝土[こんくりと]の本建築、廊下も階子も、足袋はだしでは冷りとする。
□守田君の 部屋はと訊くと、あの突当りの二階ですと、教へられた通りを行けば、楽屋暖簾で直ぐ知れる。先客がある×新聞の×さんである。大将は今『小磯の』の礼三郎に扮[な]らうとして居る。傍に坊つちやん玉三郎が弟子の弥好氏と将棋の最中『待つた〳〵』と争ひの『狡いなア』か何かで直ぐに勝負が付いて仕舞う。但しどつちが狡かつたか僕は知らない。今度は
□楽らしい と言へば守田君は『えゝ、これまでが苦し過ぎましたからね』といひ『此座[こゝ]の開く前に遂々[とう〳〵]熱を出しちまいましたよ』といふ。『君の熱はいつでも推して癒しちまうね』『ほんとですよ』と笑ひながら眉を引く。小磯の話、壺坂の話『役の数は同なじですが、伊藤君の方が今度は忙しうございます』といふ。『漸く新作物が出はじめたね』と僕がいふと
□ギヨロリ あの眼を光らした守田君は『そろそろ演りませんと、皆さんに叱られますから』とあつさりと片付ける。見廻す部屋の隅々には坊ツちやんと二人前、役々の小道具衣裳が雑然と、最も目に着くのは大切『どんつく』へ出る太神楽の毬籠である。九尺に余る右手の壁へ一ぱいの異様な大旗、支那麻へ黒色の同じ裂で『守田勘弥』の文字を大きく切り貼にしてある。
□何処から 来たと訊ねると琅玕洞からです、ちよツとおもしろいものですねといふ中に二挺が響く、衣裳にかゝる『では又後に』と辞し去つて小磯ケ原を緩くりと見物した。いたいけな宗之助が千代松になつて見物の涙を誘ふ。これが神田劇場へ掛持ちで祖父[おぢい]さんの浅岡に、同じく千代松を勤めて居る。幕になると直ぐ最前見て置いた
□宗之助の 部屋を襲つた。今見た舞台の恵之助が、次の間で顔を落さずしく〳〵泣いて居る。地震以来初めて会つた伊藤君久闊を叙す隙もなくどうしたんですと訊ねると何アに、今日セリフを二度間違つたもんですから、今二つばかり(拳を見せて)やつたんでといふ舞台の為めの仕置である。『やそれは可愛想に、いくつになる?』『恰ど舞台でいふ通りの七つです』
□先月神田で 祖父さんの『堀川」で小猿が大層な評判だつたが・・・祖父さんは可愛がるでせうね『えゝ、ですが稽古や舞台は、祖父さんの方が厳重ですね、どうも私は思ひ切つて甚[ひど]い仕置きが出来ません』といふ。話はそれから震災後の地方巡業談に移つた。金沢から福井あたりには珍談も大分あつたらしい。金沢といへばあの冠十郎はどうしたらうといへば
□一時大阪 で死んだ璃寛さんの付人のやうな事をして居ましたが近頃は役者を廃めて郷里へ引つ込んで居ると聞きました』といふ『土間の二のあたりに甚い酔払ひが居ますね』『さう〳〵ビール瓶か何かを持つて騒々しいやつ・・・』『困りましたね(戦塵)のやうな物にあんなお客が居ちやア演れませんがね』と松ケ枝の扮装にかゝりながら眉を顰める。手敏[てばし]こく顔が出来る。
□立上つて 衣裳となる。肌襦袢が汗臭いと言つたが代りが無い。男衆を怒鳴りつける。皆な焼いちまつた、といふのへ冠せて『当然[あたりめ]よ、今夜直ぐと四五枚こさへるんだ』と疳癖らしく言ひ、無雑作に扮装[こしらへ]を済まして敷島に火を点ける。早くも二挺が聞こえるので辞して立つ。泣いて居た坊やはと見れど居ず、湯にでも行つたのであらう。表へ廻つて『戦塵』を見る。
□同月八日 の夜、新装した浅草の松竹座へ行つた。東京一と誇つた本建築の大劇場、どうやら旧態を復活して、歌舞伎大幹部技芸委員長歌右衛門閣下、民衆娯楽と銘打つて、御曹司福助の慶ちやん以下家の子郎党、副将として中村吉右衛門、阪東三津五郎一派、初めての公園出場とあつて人気旺盛、三階までギツシリの大入である。『吉野山』では守田氏大努力の狐忠信、
□慶ちやん の静御前、唯もう美しい事。次が委員長閣下得意の『実録先代萩』それへ堂々たるは我が浪野君の片倉小十郎である。幕が切れると廊下の人波。さすがに奥山のいつもの見物と違つて居る。近頃吉右衛門を背負つて居る例の遠藤君が顔を出して大に愛嬌を振撒く『地震後初めて、浪野に会ひたいが部屋はどこだらう』と訊くと『廻ると大変です
□間道を教 へませう。あれあの食堂、あの台所の扉を開けると直ぐ部屋です』と。では、と直ぐに満員の食堂をスリ抜けて楽屋へ飛込んだ『や、これは、まア御無事で』。『随分しばらく、君の処ではおめでたが・・・達者ですか』『いや有難う、まだ泣いてばかり居て可愛い所へ行きません』蓋し巡業の留守中、妻君が赤ん坊を産んだ訳である。今し、毛剃の唐衣裳着込みの最中、衣裳方が
□三人掛り 大騒である『何しろ御見物が九代目のを知つてますから、演れませんよ。第一此の眼が駄目ですからね』といふ『いや立派だよ。それに此前市村座の時、長崎弁が存外こなれて居ると思つた』と僕が云へば『いやどうしまして、岡さんに叱られ〳〵、唯台本に捉まつて行くだけですよ。難かしいもんですなア』と謙遜する『岡君は毛剃を自分で演りたいと言つてたが
□粂八のが 僕等の眼に残つてる』『さうですか、巧かつたさうですね』話の中に扮装が出来上る鏡台に向つて目隈を直しながら『先生、致方[しかた]がありませんから、これを太く入れるのですよ』と眼の小さいのを大層苦にする。このをぢさんの顔をしきりに見て居た麒麟児又五郎が、叮嚀にお辞義をした。今度此の児は遠見の熊谷と亀千代君の二役で、どうやら
□喰足らぬ といつた顔。床山が持つて来た鬘をスツポリ冠り不図思ひ起したやうに、吉之丞を呼ばして、どこかのキツカケを合はせるのである。これはお邪魔と遠慮してつい御近所の三津五郎氏の部屋へとはいる。いつの間にか青年俳優になり済ました八十助君が先づ笑顔を以て迎へて呉れる。守田君は真白に塗つて小松屋宗七、こしらへを済まして、
□キチンと 座り『ヤ、これは暫らく』と『勘弥[しやてい]にはちよい〳〵会つたが、君にはあれから初めてだ、先づ以て御機嫌よう』『どうも酷い目に遭ひましたよ。』『で、バラツクは?』『それがね、早く建てないで可い事をしたんですよ。今戸のあすこが公園になるんださうで……』『さうして今はどこに?』『えゝ、高円寺といふとこに、おい名刺はないかい、無い、ぢやア書いてお上げ』と
□八十助に 『えゝ、では名筆を振つて書きますかな』と伜は万年筆で手帳の端へ、今の宿所を書いて呉れる『大分今度は多過ぎますよ。三番叟の熊鷹太郎、勾当内侍の梶六でせう。道行の忠信に、松前鉄之助、それからこの宗七でせう。骨の折れる役ばかり』『なるほどねえ。』
□此二三日 省線にして見ましたが大層楽ですよ』といふ。開幕の知らせに『左様なら』をして委員長のお部屋を覗いて見たら、既[も]う役が上つて御帰館になつたといふ。桟敷へ戻つて腰を落つけ、奥田屋まで見て引上げた。
--噫、我が宗之助、伊藤三次郎君、突如として逝く。訪問子最後の訪問記を書いて茲に謹んで弔意を表す--
『演芸画報』18(5):38-43 1924.5
芝居見たまゝ お静礼三 小磯ケ原(一幕)
河竹黙阿弥翁作 大国座四月狂言
役割
礼三郎 勘弥 父宗右衛門 介十郎
非人 弥五郎 同 守蔵
同 嘉好 大工 哥川
大工 弥好 よたんぼの虎 長十郎
小町お静 宗之助 千代松 恵之助
二挺の柝を打切つて刻む、雪おろしの音で幕が開いた。
斑に雪の積つた大きな石地蔵が高い処へ先づ目に付く。松の立木、段になつて舞台端[ばな]は田圃、稲の切株を見せて一面の雪布。下手はダラ〳〵坂、上手小流れには土橋が懸つて居る。
下手から雲介らしいのが二人、小町お静とまで唄はれた評判の女太夫が、どうして如彼[あんな]姿になつたのかと、噂さをしながら、寒さうに上手へ通りぬける。
床の出語りになつて、おくりから置上るりが一くさり〽あはれやお静は二世かけし、夫に別れ泣きあかし、頼む木影も七ツ子を--と。揚幕から一子千代松を先きに、竹杖で手を引かれながら探り足のお静が出て来た。手拭がほどけて吹流しになり、白の腰巻、着物の尻をからげて居る、小供は浅黄の手拭で頬冠りもいたいけである。七三で立停つた。
『阿母[おつか]ちやん、大層雪が降つて来た』
『曇つては居たけれど降らうとは思はなかつた、もう方々が白うなつたかいの』
『いつもの大きな地蔵様が真白に…』
『おゝ、それではもう此処が小磯が原か』
『牡丹に唐獅子竹に虎、虎を踏んまへ和藤内、内藤様は下り藤……』
千代松は唄うやうに言ひながら舞台にかゝる。と、お静は石に躓いて転んだ。
『阿母ちやん……足の小指から血が……』
母子は慄えながら、しばらく地蔵の前でいたはり合つて居る。
〽遊び帰りの二人連れ--といふチヨボで下手から職人が二人、合々傘で出て来たが直ぐとお静母子[おやこ]を見出した『おゝおしづだ、小町お静だ。』『お前、目が悪いのか』と立寄つて訊ねるのである。
『何方様かは存じませぬが……笹目ケ谷[やつ]の日朝[につてう]様へ、今日で七日の満願ゆゑ……』
『これが五丁か七丁なら……この小僧が可愛さうだ。』二人は相談して差して居た番傘をやり、小供には一人がいくらかの金を恵んだ。遠慮をしたが肯[き]かぬのでお静は二人の後[あと]を伏拝んだ。そして『世間に人鬼は無いと噂の通り、千代松、少しも早く行きませう』
〽傘を片手に我子を杖、行かんとすれど--と、立上つたが、寒気に堪へず『あ痛たゝゝゝた』と持病の癪がさし込んで苦しむのである。千代松はうろ〳〵と、後から母親の背中を擦つて居る。
〽折から又も雪道を、一ぱい機嫌の雲介が--上手からよたんぼの虎が、息杖を肩に赤合羽を羽おつて現はれた。
『久しく酒が高へから呑まねへで居た酒を……雪が冷たくつてヴーイ、好い心持ちだ……』
と言ひながら土橋を渡つて酔顔にお静母子を見つけ出した。『何をして居る』と覗き込んで持病の癪と聞き『そりやア気の毒だ、癪だてへのに雪の中、何か好い工夫が……』と着て居た合羽を脱いで着せてやゐ。千代松がこれを見て、
『をぢさん、お前が濡れるよ』といふので『可愛い事を言やアがる。年が年中裸の雲介、こんな雪なんか寒い事[こた]アありアしねえ』
と寒さうに、カラ元気を言つて居たが、やがてしんみりした調子に変り、
『俺も酒ゆゑだりむくり、国へ女房と子供を残し、此の鎌倉へ長の年月、何も送つてやらねえから、恰どお前[めえ]達のやうになつてやしねへかと……そんな事を考へると、かゝ、悲しくならア……』
〽すゝり上げたる泣上戸--と、虎は拳固で鼻頭をひつ擦つた。
腹巻の間から、いくらかの小銭を出して千代松に握らせる、お静が辞退するのを制して、
『遠慮は無駄だ、お前達を恵みア又た、他所の人が俺の女房や子供を助けて呉れる、なう、坊や、寒からう、お前いくつになる?』
『をぢちやん、とつて斯[か]う』と千代松は紅葉のやうな、手を拡げて右手[めて]の指を二本出した。
『おゝ、俺の餓鬼も恰ど七つ……こんた衆二人を見るにつけ、俺ア……涙が〳〵』
〽身につまされて鬼の眼に、こぼす涙ぞ殊勝なる--』とよたんぼは鼻をつまらせて、下手へ歩き出し、ちよつと肩を窄めて手拭を後ろ鉢巻、息杖をひつかついで花道へ懸り、
『忘れられぬは夫婦の愛、想ひ出すは親子の愛、紺屋で染めるは色の藍、去年の九月は地震にあひ。……あい〳〵イ--』
と馬士唄を美音で聴かせながら急いで向ふへ去[い]つてしまつた。癪の気も薄らいだので、お静は千代松に手を曳かれて立上つた処へ、下手の方からガヤ〳〵と喋舌りながら出て来た非人[ひじん]が三人。
『おしづぢやないか』
『さういふお前は』
『おぬしの嫌えなまむしの仁三[にさ]だ』
『えゝツ』とおしづは悸乎[ぎよつ]としてスリ抜ける、追ひ縋る。先づ彼[か]の傘を取上げた。それから小使銭もあるだらう、と懐ろの財布を奪ふ。
『そりやあんまりでござんすぞえ』
『なにあんまりだ。あんまりだぶつと往生しねえ。』
三人は無理無体『面倒だ、引つぱげ〳〵』と組んづほぐれつ狼藉の、おしづは『其金を取られてはこの児が不便でござります。唄上るりの稽古して漸々貯めたそのお金、こればつかりは勘忍して、お慈悲、お情でござります。』と泣き詫びる。
『おいらのお銭[あし]を上げるから阿母ちやんのを返しておくれ。』と千代松も駆け廻つて頼むのである。三人の非人[ひにん]共『端[はし]た銭でも重荷に小づけだ』『こけ未練な事をいふ、往生際の悪い女だ』と子供の金も掻浚ひ、蹴仆し〳〵逃げ去つた。
『情けない目に逢ふものぢやなア』と親子は半狂乱のやうになつてうろ〳〵する。その中[うち]に又たお静の胸はさし込んで来た。千代松が家[うち]へ帰らうといふのを、今日が満願ゆゑ是非お詣りをと、一足歩いては二足もどり、絃[いと]に乗つて苦しんで居る。
〽斯る歎きもしろたへの。雪踏みわけて礼三郎、舅と共に大師の戻り--』と上手から、礼三は渋蛇の目、宗右衛門は藍蛇の目の傘をさして『お危ふござります』と劬[いたは]り〳〵出て来たが、宗右衛門は耳が遠くてトンチンカンな事ばかり言つて居る。
『あれ、おつかちやん、おとつちやんが……』
『ナニ、礼三さん……』
『おとつちやん、何故家へお出がないの……』
『これ何をいふ、親といふのは妾一人……』
縋りつかうとしておしづは凝[じつ]と辛抱する。礼三は舅に気を兼ねてとつおいつ。
『礼三や、見れば爪はづれも尋常な、定めてよい処の……』舅の詞に礼三郎『どうか、さうらしうござります』と言つて二人の方へ、
『何をいふても、舅殿の耳が遠いのが、私の幸福[しあわせ]……』
『何、しあはせが可いのか』と一切不通の容子[ようす]である。心を定めて礼三はお静の傍へ寄つた。
『これお静、では無い他所の女中、別れて僅かまだ一月、どうしてそんな眼になつたぞ』
『何れのお方か存じませぬが、好う問うて下さります。頼みに思ふ夫に別れ、其の悲しみに泣き潰し、生れもつかぬ片輪となり--頼りない身の上を御推量なされて下さりませ。』
〽あとは涙に伏しづむ、礼三郎も涙を拭ひ--』
『その憂目を見せるのも、それも別れた男ゆゑ、嘸ぞ義理知らずと思はうが、それには段々切ない訳、この礼三が窶[やつ]れた顔が見せたいわい……』
『それではお前も……』
『縁を切つても七年越--一生涯忘るゝ事がならうかい』
お静は思はず礼三郎の手を取らうとする。礼三はハツと舅の方をふりむいて『悪い〳〵』と高声[たかごえ]に。宗右衛門はなにげなく。
『悪いとは眼の事か』
『はい、さぞ不自由な事でござりませう、これから笹目ケ谷の日朝さまへ……』
『笹の雪には一丁ある……』どこまでも耳の遠い宗右衛門は、千代松を小手招き、天窓を撫でてつく〳〵と顔を見る。
『おゝ〳〵、孝行な事、器量といひ装容[なりかたち]、いや人柄のよい顔かたち……最前から二人のそぶり、どうやら合点行かずと思うて居たが、この幼児[をさなご]の顔容[かほかたち]、礼三、こなたに生写し……』
『やツ』
『いやなに、とんと俺[わし]は忘れて来た。噂に聞いた中気の名灸、天王様の横町でおろして貰ふを忘れて居た。ちよつと俺は行つて来る。』
『そりや父親[おやぢ]様にはこれから後[あと]へ……』
『生来の灸嫌ひ、嘸ぞ熱からう、せつなからう、と我慢して居る二人の心……』
『えツ』
『さ、すゑぬ先きから思ひ過し、熱い涙がこぼれてならぬ……灸をすゑて来るその中に、介抱してやつたがよい、はて此の雪にこれまでのにつもるはなしを、いや、とつくり介抱してやつたがよい』
〽夫[それ]と言はねど宗右衛門、灸によそへて泣く涙、又も降来る雪ふぶき--』
粉雪[こゆき]が盛んに降る中を、宗右衛門は元来た途へとぼ〳〵と戻つて去つた。
〽後ろ姿を伏拝み、礼三は傍へ走り寄り--』
『これお静。』
『礼三どの。』
『おとつちやん。』
三人は縋り付き、しばらくは一つになつて泣き崩れた。『うゝむ』とお静は又た胸先へさし込む癪『おつかちやん〳〵〳〵』と千代松は悲鳴である。
『水を〳〵』と礼三はお静の背へのしかゝつてうろたへる。傍[かた]への溝から千代松はかはいゝ掌[てのひら]へ水を掏[すく]つたが持つて来る間にこぼれて了[しま]ふ。礼三が渡した手拭に湿[しめ]さうとした千代松は『アーツ』と溝へ転げ落ちた。
はつと礼三が立ちかゝるとお静がうーむと反[そ]るのである『あゝア』といふ我児の叫声、礼三は一人苦悶に苦悶。漸[やうや]う隙[すき]を見て抱き上げて来た。その濡れそぼつた袂の水を母親の口へとしぼり込んだ。
『お静やーい』
『おつかちやーん』
『礼三さん……』
『おゝ、気がついたか、千代松がどんぶりと溝へ落ち、右と左に私一人、こんな、こんな困つた事はない。』
『怺[こら]へ〳〵た癪が一図にさし込んで……』
『おう。』
『おつかちやん、冷めたい〳〵。』
『少しの間ぢや辛抱しや、おゝこゝによいものがある。』と礼三は袂から軽焼を出してやる。
『他所のをぢさん、ありがたう』
『おゝ……これ千代松、今少しの間、父[おと]つちやんと言ふてもよいぞや』
『いつてもいゝかい…いつてもいゝかい--』
と千代松は礼三の懐中[ふとこ]へ縋りついた。凝[じつ]と抱き〆めた礼三の声は、うるんで居た。
『親といつても朝夕に、一つに居たはほんの僅か、それでも私を親ぢやといつて、慕うて呉れるか、かゝ添けない……』
『そりや慕はずに居ませうか、そこが親身の親子ぢやもの……昼は遊びに実がいつて、紛れて居れど、夜は寝てから思ひ出し、おとつちやんはと訊かれる度毎……いまにお帰りなさらうと……夢にもうつゝにも、探がさぬ夜[よ]とてはござんせぬ。泣く此の児より傍に居る。妾が心のせつなさを推量して……』
『おゝ、棄てゝ行くほど邪慳な親を、そ、それほど俺がいとしいか……』
『お母[つか]ちやんがお前の事を言ひ続け……阿母ちやんはお前に惚れて居るよ』
三人はしばらく無言になつた。又一しきり雪が降り出した。傘を拡げて千代松をその下へ坐らせた礼三は、お静の傍へ来て蹲んだ。お静は居ずまひを直して言葉を改めた。
『礼三どの、この後どこで会はうとも、言葉をかけて下さるな』
『そりやお静、何をいふ、夢に見るほど想ふて居る、おれに愛想が尽きたのか』
意外の言葉に礼三はカツとなつて詰寄つた。お静はそつと涙を拭ひ、思ひ入つて言葉を続けた。
『何の、何のお前に愛想が尽きよう。この眼を泣いて潰すほど、妾や焦れて居るけれど……もう人並にはなられませぬ……』と泣崩れ、更らに切れ〴〵に小町お静のなれの果、これも前生[ぜんせ]の約束事と、歎きに歎くのである。
『そんならどうでもこの礼三と……』
『あい。お早様と睦まじう、百万年も御寿命過ぎ、彼[あ]の世へ行つたらこの静と、夫婦になつて下さんせ』
〽二世も三世とおもふたる男をこちから想ひ切る、心の中[うち]を礼三さん、ふびんとおもうて下さんせ--』と絃に乗つて掻き口説き、礼三と手を取り合うて泣き叫ぶ。
『お父つちやん、寒いからお家へ帰らう。』
だしぬけに後から何んにも知らぬ千代松が呼びかけた。『おう』と礼三は二人の中へ抱き寄せて『この手の冷めたさ』と劬[いた]はるのである。
『もうこれからはお父ちやんといつては悪い。』
『もうこれからは言はぬから、唯[た]つた一遍、お父ちやんと言はせておくれ………』
『おゝ……一遍なれば大事ないわいな……』
『おとつちやん!これからは他所のをぢさんだねえ』
『現在親子に生れながら、何の因果で他人となり……』
『浮世に義理が無いならば、親子三人一つ家に破[や]れたる垣の隔なく……』
『気兼苦努も中田圃、それも田の畦抜道と……』
『別れ〳〵になるといふは……』
『おもふに任せぬ世の中ぢやなア』
〽互に手に手を取りかはし我子を中に三人が今降る春の雪とけて、流す涙は漲りて七里ケ浜
に打寄する浪に浪増すごとくなり--』
割台詞のあとしばらくは三人丸くなつて泣くのであつた。
〽折から後に宗右衛門、咳[しはぶき]なして立帰る--』
咳払ひを高くして父宗右衛門が戻つて来た。三人はパツと離れた。
『親父様、寒かつたでござりませう。』
『いや〳〵、熱い思ひをして来たが、定めし其中[そのうち]とつくりと……』
『え』
『いやなに、女中の癪は治まつたかの、これ礼三郎、これはな、鮑の真珠、これを飲まして……の……』
『これは又た思ひがけない……灸を据ゑると仰つしやつて、真珠を求めに……』と礼三は舅の親切を心の中に伏拝んだ。
『これおし……いや、よその女中、今聞く通り、旦那から……よく信心して早うその眼を癒して呉れよ。』
『それは又、勿体ない。お早様の邪魔になる、この静をそれほどまでに……』お静は唯だ有難さにすゝり泣く。宗右衛門は何も聴えぬ容子の中に『水は無いか』とそこらを見廻はす。千代松が『これ他所のをぢさん、あれあのう地蔵様の……』と指ざす方を礼三は目早く、手向の茶碗を取つて来る。
『中に溜りし雪水は、これ清浄[しやうじやう]な眼の薬……』
と、礼三は彼の高価な真珠をお静の口へ入れ、茶碗の水をゴクリと呑ませた。
『おゝ、咽へ通つたか』
『あい』
『やがてその眼も癒るであらう。』
立身で宗右衛門とちよつと見合つて凝つとなる。ゴーンと鐘の音。
『ありやもう入相……』
『礼三、行かうか。』宗右衛門は不びんなやつ、と軽く涙を払つて三人の前を下手へ通る。お静は膝行[いざ]つて礼三の方へふりむいた。
『そんなら、もうお出でなされまするか』
『春とは言へどこのやうに、雪の降るほど寒いゆゑ、身体を大事に……』
『お、お、お名残をしう……』
『もうしおとつちやん、イヤあの他所のをぢさアん。』
『おゝ、遊びに耽つて、怪我ばし仕やんな…』
『い、いつまで言つても……名残は尽きぬ』と宗右衛門が促がすので、礼三も気をかへ『どれ、お伴致して参りませう。』と顔を背けて泣き上げる。お静はさすが女である。見えぬ眼をあげふり仰ぐ。
『唯[たつ]た一目、この眼をあいてお顔が見たい』と、取縋つた。心を鬼にして礼三郎は振離した。バツタリと仆れる、千代松がうろ〳〵する。
〽見やるお静が哀れさを、見るにふびんと礼三郎。輪廻の絆にしめからまれ、ゆきつもどりつ、行きなやむ、空には雪の--』
咫尺をわかぬほど降り出す中[うち]を、思ひ切つて宗右衛門の跡を追ふ礼三郎、花道で振かへる、舞台ではお静が千代松に手を引かれてよろ〳〵立つて延び上る。
『もうおとつちやんは見えぬかへ』
二人は揚幕へはひつた。お静は半狂乱になつて駆け廻る中、足を辷らして田圃の畦に堂となつた。
『あれ、おツかちやんは眼が見えるの--』
『おうツ、ほんに……』
お静の両眼は豁然として開[あ]いたのである。両手を眼の前に翳[かざ]しつ透しつ『開[あ]いた、眼が開いた。あ、あ、開いた』と驚喜する。
喜びの余り、瞬時忘れかけて居た礼三郎の事、お静は千代松の手を曳いて突立ち上つた。転ぶが如く一段二段、石地蔵の台石を上つた。
雪は又た一しきり盛んに降る。延び上り、延び上り、遙かあなたを見やつたが、礼三の姿はもう見えなかつた。傍[かた]への松にからむ葛かづらに手をかけて、なほ延び上るお静は、フツと切れて堂と転んだ。
『おつかちやん!』
と絡[まつ]はる千代松、起上つたお静は、礼三が最前脱いで行つた半合羽を子供に着せて、尚ほも向ふを見送つた。
鐘の音[ね]、雪大[おほい]に降る。(幕)
『号外』1(2):6-7 1927.8.1
星亨の刺された刹那
或る日、もう夏であつた。その頃は既に東京市政は種々の問題で新聞記事の最も多く産出される役所であつた。市会議員稲田某の収賄事件がある、例の街鉄といつた今の市電の問題の盛んであつたのも其頃であつた。島田三郎の主宰してゐた東京毎夕新聞が狂犬の如き峻烈な叫びを揚げてゐたのもその頃であつた。その或る日である、午前中の材料を社へ送つて、市役所で油を売つてゐた、丁度其の日は何の問題だつたか午後一時から市参事会の例会日であつて、僕はその議決の材料を得べくそこらを迂路付いてゐた。参事会は秘密会議で、会が了ると議員をつかまへるか、書記を呼び出して、会議の内容のほんの上ツ面だけを聞出すのである。参事会室の隣りに広い空室[あきしつ]があつて、議員の応接などに用ゐられたものであつたが、そこに、万朝報の松山伝十郎と中外商業の富樫某と僕と三人で世間話などして時を移してゐた、松山君は後に浅草から市会議員に出た人、富樫君は郷里の新潟へ帰つて、新聞社の社長様になつたと聞いてゐる、参事会の議事は却々[なか〳〵]済みさうも無い、時々給仕や係りの役人が物静かに出入するのを見受けるばかりであつた。
と突如参事会室で異常の物音、それはワーツといふ叫び声、続いて器物の投げつけられるやうな音!話してゐた三人はハツと同時に耳をそば立てた、ドヽヽヽヽとけたゝましい靴音、やがてドアが開かれて声高に人声、廊下を走る人々、此の間実に一分、二分、三分、恐らくは五分と経たぬ、隣室から僕等が飛び出して参事会室のドアの処に騒つけた時、見上げるばかりの巨漢が、右手[めて]に持つた短剣を、腰のあたりに引そばめて悠然と廊下へ向つて動き出したのを見た、思はずハツと途[みち]を開いた処を、悠々と階段の方へと歩いて行く、中からゾロ〴〵と蒼白[まつさを]な顔をした参事会員が茫然無言で出て来るのである。彼の巨漢こそ実に市庁初まツて以来の大椿事!市政の大親分星享を刺した伊庭想太郎であつたのである。彼れは秘密会議の参事会室にどうして闖入したか星の命数が尽きてゐたのである、
室の入口で名刺を出して星に面会を求めた男があつた、給仕がその名刺を持て室内へはいると共に、スーツとはいつて来た伊庭は星の椅子の後から、左の手で抱くやうにして、右手で、唯だ瞬間に、その脾腹[ひばら]を刺し且つえぐツたのであつた。その早業!市参事会長市長松田秀雄をはじめ並みゐる官員は唯だ眼をみはり息を呑むばかりであつた。それでも吉田といふ市助役は机上の硯箱を取つて投付けたのである。浅草で有名な江崎礼二は椅子から辷り落ちて泰然として腰をぬかしたと、あとから悪口を言はれたものであつた。伊庭は元より剣道の猛者[もさ]、狂気乱心ではないのであるから、悠然として階段を下り、自ら市役所内に詰めてゐた警官に捕はれて近い鍛治橋内の警視庁へ行つたのであつた。釣台が二階へ舁ぎ上げられた、まだ縡[こと]切れてゐなかつた星の巨躯を病院へ運ぶのである。ヒユー〳〵ツといふ苦しげな息の音が、僕等の耳へもはいつた程であつた。その時にはもう、電話が八方へ伝はつて、市役所へ駈けつける恩顧の郎党関係者は幾十人とあつた。
これより先、僕は、今考へると稍や滑稽にもなるが、一順事件の大要を聴きとらうと、市役所内の便所内へ駆込んで、二三十行の原稿を書き、直ちに待たしてあつた車夫を通信社に走らして再び二階へ取つて返しいろ〳〵と談片の材料を得たのであつた。その時万朝の松山、中外の富樫、彼[あ]の二人はまだその侭に残つてゐたと思つたが、やがて各[おの〳〵]車を飛ばして帰つて行くのを見た。翌朝の両紙には両君がおのがじゞ、得意の健筆を揮つて星亨刺殺見聞記が事委しくも書き伝へられたのであつた。各社の記者が車を市役所の玄関へ乗りつけた時は、かなり時間を経てからであつた、僕の通信が謄写版になつて配達されたのを握つて駆けつけた社までも少くはなかつた、社に居た川田君が特別に電話で知らせた社もあつたといふ事であつた。此日僕は、通信として、料らずも奇功を奏した訳だつたのである。便所の中へ駆け込んで原稿を書いたのは、をかしくも臭くもあつたが此の特別な大事件を取敢えず社へ急報するのは、最も秘密を要し、人に見られないやうに、と考へた為めであつたらしい。
『太棹』1:16 1928.6
『太棹』3:14 1928.9.15
『太棹』3:14 1928.9.15
『太棹』34・35:31 1932.3.15
『太棹』37:16 1937.6.30
『太棹』49:31-33 1933.8.15
『太棹』63-133 1935.2-1941.10
『太棹』93:31 1938.2.15
『太棹』114:2-6 1940.5.10
『太棹』117:25 1940.8.10
『太棹』116-135 1940.7-1942.5
『太棹』117:25 1940.8.10
『痴遊雑誌』1(3):181 1935.7
劇通相島虚吼
煙亭生
鷲尾温軒氏が前号に、相島虚吼翁の片鱗と題して、翁は新聞と政治と俳句の三つの大きな道楽があつたと、それに関するくさ〴〵の逸話を物されてゐたが・・・・・・。
その壮年時代、大阪へ去られた為め、記者は殆んど直接に翁との音信を絶つてしまつたが、翁の在京時代--かゞなうれば今から四十年ほどの昔--翁は団菊左の全盛時代の劇通として、例月劇評の筆を執つてゐられたのを知つてゐる。
相島勘次郎氏が劇通であるといふ事は、もうあまり知つてゐる人が少ない。先日痴遊先生にその話をしたら『それは確かに珍らしい話だ。さういへば先年、大阪へ行つて、一緒に芝居を観た時、相島君がしきりに涙を流して見物してゐたので、僕が何で泣くのだと嗤つたら、イヤこれでも我輩は相当の劇通なんだが、どうも今夜は感激して困る、といつてゐたよ』といふお話であつた。
記者が知つてゐる翁の劇評家時代は、明治二十六七年の交、銀座尾張町の角、今の服部時計店の処にあつた「新朝野新聞」--有名な硬派朝野新聞の後を受けて--社長は実業家の波多野承五郎氏、主筆、編輯長として北川礼弼氏、川村淳氏がゐた、翁はこの編輯局の一隅に蟠居して、重に今でいふ社会部の方面に健筆を揮ひ、其間、例の幸堂得知や、饗庭篁村や、三木竹二などの劇評大家の間に伍し『朽橋黄色之助』のペンネームを以て、侃諤峻厳、若き虚吼一流の劇評を試みてゐられた。記者は当時、同じ社の編輯小僧をしてゐたのである。
物心つくや否や芝居好きになつた記者は常に翁の劇評のゲラ刷を工場から持て来て自分の予評などを加へて、翁と芝居話をしては喜んでゐた。ある時、『君、君、僕は今日用があつて行かれないから、君、代りに観て来ないか』と渡された招待券は、何と浅草座の川上一座のであつた。歌舞伎劇心酔者の記者は、当時まだ碌に書生芝居なるものを見た事がなかつたので、嬉し喜んで新聞お社の招待桟敷へ、その見すぼらしい書生ツポ姿を運んだのであつた。
狂言は川上が西洋種を岩崎蕣花に執筆させた翻案物『又意外』であつた。川上の主役秋元裁判長も好かつたが、高田実の悪家令、小織桂一郎の外国人など目に着いた出来で、藤沢浅次郎の芸妓が特に好い役をおもしろく見せたのを覚えてゐる。翌日社へ行くと、相島さんは『君、書けるなら一段ばかり評を出さうぢやないか』と勧められ初めて事の劇評なるものを新聞へ載せて貰つたのであつた。
間もなく、日清事変が起つた。 相島さんは大阪毎日へ行かれた。新朝野新聞はどうなつたか?、記者も続いて社をやめてしまつた。
翌廿八年の初夏であつた。記者は或る仕事で、当時広島にあつた大本営に出かけた時、偶然、徒軍記者としての相島さんに出会つた事を覚えてゐる。それツきり、遂に所謂かけちがつて会へなくなつてしまつたのであつた。(煙亭生)
夕立や馬曳き入れし寺の門
日盛の上り七里や木曽の杉
瀧口や夏帽一人現はれし
冷豆腐象牙の箸にのり難く
-虚吼句集より-
【「[1895.4.5]此日大阪毎日新聞社に知友を訪ふ、在らず。」(田中塵外「西征録(其一)」p39 『惟一』15 1895.4.28)、「[1895.4.8 広島] 帰路大坂毎日社の知友に遇ふ。曩きに予が其社に訪ふて遇はざりしの人。嘗て筆を載せて韓山清海の激戦を観、病を獲て帰来、未た幾旬ならざるに、今回亦た軍に随ふて戦地に向ふといふ。」(田中塵外「西征録(其二)」p31 『惟一』161895.5.28)】
【「その翌日、空虚な心を抱いて、市内の、剣影旭日に閃めき、軍馬東風に嘶く処を彷徨いてゐると、大阪毎日の従軍記者で、病気の為めに帰つて来てゐる虚吼、相島勘次郎君にパツタリ出会つた。虚吼先生は、数旬の後、再び筆を載せて、戦地に向う筈だとおつしやる。アヽ、羨ましい事の限りである。ステツキで、地べたを叩き〳〵話される相島さんの姿を、今でも想ひ出せる。」(
煙亭生「まだ韓国と言つたころ」p64『痴遊雑誌』 3(3) 1937.3))】