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【 田中煙亭 津太夫の事ども 】
(2025.02.18)
提供者:ね太郎
太棹 126 9-10ページ 1941.6.10
津太夫の事ども
田中煙亭
昨年の事であつた。アノ大阪で批評家といふ人達に、かなり虐めつけられ、津太夫是非の問題が八釜しかつたそれとは関係なしに、東京の三越の某重役の意見もあり、一つ津太夫を聘び、同好の士だけの集まりで一夕しんみりとその芸術を味はひたいものだといふ議が、僕にも話があつた。それから僕は又た別に、素義の有力者に津太夫をお座敷で、ゆつくり一段聴く会を催ほしたら、といふ議を提出して、賛意だけは得たが、そのいづれもが、事実とならずにしまつたのであつた。もうその津太夫は此の世に居なくなつたのである。
芸術に批評は付き物であり、又その向上、研鑽に必要なものではあるが、その批評なるものが、急所に当らなかつたら何にもならず、的を外れたら、その本人は徒らに苦笑して、唯だ所謂腐つてしまう外はないものである。津太夫に対する生前、殊にその晩年の批評が、的中してゐたかゐないか、我等は知らず、その津太夫は、もう此の世には居ないのである。彼の死の直前まで、毒づいてゐた人など、聊か寝覚の悪い事であらうともおもふ。
腹の強い事無類、実に堂々たる義太夫を語つたのは津太夫である。それでゐて、その得意は、むしろ世話物であつた事もおもしろく、又、絃などはどうでもよいといつた風に、お前は聴手に弾け、おれは聴手に語る、といつた風でもあつてどうかすると、驚かされる事もあつた津太夫である。アノ力量で強引に語る浄瑠璃の中に、アノ難声を駆使して、又恐ろしく艶つぽい所を聴かせた津太夫でもあつた。沼津のお米などがそれで、日向島の佐次太夫の巧さなどが、世話物語りの本色を発揮するのであつた。一見ヌーボーの如く、棒読みの如く聴こえる彼れの浄瑠璃に、云ひ知れぬ苦心の技巧の痕を認める、といふ評はどうであらう。恰かも故人になつた三代目柳家小さんが、一見とつ〳〵として、そゝつかしい話し振りの中に、憺たる技巧が織り込まれてゐた事は知る人ぞ知る、それと同じである。
合三味線に綱造氏を起用した時の「沼津」の、小あげの弾出し、三下りでゆくべきを、綱造氏が二上りで弾いてゐた。これを聴いた或る人が、津太夫があれを黙つて弾かしてゐるのが判らない、と云つてゐたのは、早や数年前の事であるが、津太夫といふ人は、三味線などは実際どうでも可かつたのだらう。晩年合三味線をしきりに取り代へてゐたのには、内部にどんなイキサツがあつたのか、それは僕等にはわらない。
最近戦場から帰還した津の子太夫が浜太夫と改名して文楽に名乗り出たのを聴くや聴かずに病歿した津太夫には同情せずにはゐられない。又、紋下の一子として、これから大いに勉強もし、向上もしやうといふ浜太夫其の人には更に同情する訳だが、聞く所によると、中々の利根者で、今後文楽をピカ一で背負つて立つべき古靱太夫氏に気に入られてゐるといふ話だから、古靱氏は充分この憐れむべき遺児を傳育薫陶する事であらうと思はれる。
ともあれ、津太夫は此の世にゐなくなつた。もうあれだけの人も輩出しないであらうとおもふと、心細いかぎり、アヽ文楽はどこへ行く、と云ひたい。越路、南部全盛時代から、好きで聞き洩すまいとしてゐた津太夫だが、僕はまだ一回も面接した事もなく、彼れも亦た僕の名をすら知らなかった訳であるが、徴せられて匆惶これだけの事を筆にした。以上