FILE 108
【 田中煙亭 塵外居放談 】
(2025.01.15)
提供者:ね太郎
太棹 116号 p19 1940.7.10
塵外居放談
煙亭記
芝居ごつこ-記念会は天下泰平-
近頃呼び名を改めて、歌舞伎義太夫節とかいふ昔のチヨボ語豊竹巌太夫君は、その宣伝用として、古くから浄瑠璃時報といふ小雑誌を出してゐて、それが何と、二百何十号かに及んだ所から、これを紀元二千六百年に結び付けて、六月の中旬、日本橋倶楽部に盛大な祝賀会を催ほし東京素義の大連を動員して、その蘊蓄を傾けさせ、更らに余技として二幕の素劇を演ぜしめスバラシイ喝采を博したといふ事である。
無論、御招待も受けず、当日のプロさへ知らなかつた我れ等は、これを拝聴し、拝見するの光栄には浴さなかつたが、恐らく、此の素劇二幕の余技が、当日大多数の見物を呼んで、盛況を見たのであらうと想察すればどうか午前中から汗を流して出演された多数の素義の紳士方には相済まぬ気もするが、事実その通りでは無かつたらうか。而して、その素劇なるものが、大して巧く無かつた事も想像され見物の大多数は、実は苦が笑ひを禁じ得なかつたらう事も想はれるのである。何れもは泰平の逸民であるのである。今の世界の情勢は、今の日本の現状は、など、野暮な事を言ふべからずである。然し、この素劇に至つては、何といつても、芸術でも趣味でもなく、唯だの、全くのお道楽である事は、争はれぬ、グツとでも言つて見ろである。
道楽といへば、素劇くらゐ念の入ツた、また、おもしろい道楽は無いとおもふ。我れ等も、二十何年も前から、天魔に魅入られて、この念の入つた、おもしろい道楽にうき身を窶し、毎年のやうに、親類、縁者、友人達に、少なからず迷惑をかけて来たものであるが、大正三年第一次欧洲大戦勃発し、日本もこれに参加した時には、帝国劇場に於て所謂文士劇を催ほし、僅少ながら恤兵部に献金した。その翌年だツたかも、市村座に、同じく文士画家劇を開催して、その時も、諸費を節約した義金を其筋に献納した事を覚えてゐる。爾来、泰平の逸民として年々このお道楽を継続し、人に笑はれ、そしられてゐたものだが今回の支那事変勃発と共に、国策の線に添はぬ事を痛感して、夢にも現にも、芝居ゴツコの面白さを忘れ得ぬ我等同志も、断然これを止めてしまつてゐるのである。
『宣伝』が洋服を着て颯爽と歩いてゐるやうな巌太夫君である。必らずや都新開の演芸欄にその、今募集してゐる桜樹献金にでも……と思つて、それ以来毎朝、各種の芸人達が、或は演奏会の費用を、或は法事の金をと節約して紙面を賑はしてゐる中に、若しや、とおせツかいにも探して見るが、兜会の十周年記念の百円は、直ぐに判つたが浄瑠璃時報も、巌太夫も見当らないのである。これは我れ等の見落しであるかも知れぬ、或は他の方面に献金されたのかも知れない。それを今どうのかうのといふ訳では無いが、さうでもすれば、まだ幾分、例のお道楽に耽つた申訳になるともおもふからなのである。
何をぬかす!自分の金で自分が道楽をするのだ、要らぬお世話!と申さるれば、無論それまでの事、御免下さい、と引下る外は無いのである。(百二十億貯蓄強調週間第一日しるす)
太棹 117 p10-12 1940.8.10
塵外居放談
煙亭記
桐竹紋十郎絶交さる
=吉田玉造の孫富崎大検校から=
文楽の文五郎、紋十郎一派が近来しきりに他流の唄上るりで人形を使ひはじめた事に就てはとかくの議論もあり、それが、本質的に操り芸術としての存在価値は皆無といつてよく、又、芸祖の供養塔建立の挙も、人形遣全体の総意によつて企て為されなかつたのは遺憾である、といふ説は、嘗て、都新聞の安藤鶴夫君が、同紙上で手痛く批難され、当時、我等も同感至極と思つた事である。
他流を地方[ぢかた]として人形を使ふのは、悪く言へば人気芸人の浮気か道楽かと評してもよく、それが決して、人形界の為め浄曲会の為めに喜ぶべき現象であるかどうか、少くとも、文楽の衰運をどうにかするといふ運動には役立つとは思はれぬが、パツと光るやうな線香花火的な景気を見れば、如何にもそれは結構な事であると思はれぬでもないから、一方には、これを奨励する輩も出て来るのである。又、これを禁止するといふ理由もなく、方法もなく、これも御時世で致方なしか、といふ事になり又、或は将来、本行の文楽が滅亡し去つて、この浮気芸術が、天下に覇を称へ、勝てば官軍の名誉を担うかも知れぬのである。
近頃盛んに行はれる文楽人の歌舞伎出演にしてからが、同じくさうである。心ある浄曲の愛好者や、又た其道の上座にある人達でも、眉をひそめて『困つたものだ』といふ考へは多分に有つてゐるのだが、さて、それを止める力は無いのである。現に、古靱太夫といふあれだけの大家が、門弟の織太夫等が、歌舞伎へ出るといふ事に対してもどうする事も出来ず、内心腐つてゐるらしく、何分にも主人にも均しい会社(松竹)の命令ではあり、更らに、出演者にすればいやな話しだが、身上(お給金)が少くとも五割以上も多いのだから……といふ次第であるといふ。これは御時世である。
昔、伊井、河合が女夫劇といふのを組織して盛んに新派を発展させてゐた時に、故人になつた中内蝶二君などが顧問になり抜け駆けて活動写真(映画の事ですぞ)に出る者があると、直ちにこれを馘にするといふ規約を造つて 行した事がある。それが今日ではどうであるか、何事も御時世である。今やそれをどうのかうのといふ我等は、唯だあたまが古いんだといふ事になるだけである。あゝ!
これまでは、実は余談のやうなもので、僕が茲に言はうとするのは、この冒頭に書いた浮気芸術と供養塔建立に就て、紋十郎に関するニュース(少々古いが)である。
先づ最近七月三十日の都新聞一面に、箏曲の大家宮城道雄氏がものした『人形の夕』と題する随筆を見る。
『文楽の人形使ひの紋十郎氏が私の所へ来られて、自分は箏の地で人形を使つてみたいから私に何かやつてくれないかといふ事であつた。そして今度催す会は昔から人形使ひの中に恵まれない人があつてお墓もなく無縁仏となつてゐる人が沢山あるので人形の夕を催してその純益で無縁仏のお墓を建てたい、そして師匠の文五郎の達者なうちに是非完成したいといふのであつた。紋十郎氏の話しぶりは大阪弁で率直なので私も大変好きになつて賛成した。
といふのがその随筆の書出しで秋風の曲を選んで大阪の楳茂都陸平の振り付けも出来、軍人会館で盛況裡に催された事が書いてある。
此の事件(もをかしいが)が、これは実に昨年十一月の事であつて、宮城氏は無論何にも知らぬ訳であらうが、元来此問題は紋十郎がその以前から、青山の生田流の大検校富崎春昇師の処へ持込み、いろ〳〵と示教を仰ぎ『文楽の人形に就ては、御縁故があるお師匠さんの事であり此の企てが、愈々となれば、是非お師匠さんにお願ひ致します』と頼んでゐた件なのである。
宮崎検校は、人も知る文楽の人形で紋下になつた故名人吉田玉造の嫡孫で、父は即ち吉田玉助であリ、先代桐竹紋十郎との縁故も深い関係から、文楽の連中は上京すれば多くこの青山の門をくゞつて何くれと世話になるのである。無論紋十郎も其一人で、この供養塔建立に就ても真ツ先に示教を仰ぎ、種々段取などもつけて貰つた訳であつたのだが、その後パツタリと来なくなつた。恰ど其頃富崎師の方では美喜子夫人が重病に罹つても居た事だから、取紛れてゐると、或る日某蓄音器会社が富崎師の曲をレコードに納める事があつて、青山の邸へ来て、実は今宮城さんの処で『秋風の曲』を入れて来ましたが、これは文楽の紋十郎が人形を使ふ為めに、大阪へ送つて、楳茂登の振を付けるのです、といふやうな訊きもせぬ事を喋舌つたので、富崎師は、其時既に、あれほど度々内へ来て此の事の相談をしてゐた紋十郎が、と、可なり不快の念を有つたなどの挿話も思へば皮肉な事である。
愈々軍人会館で人形の夕が催されたのは十一月二十七、八、九の三日間であつたが、富崎検校の芸の上でも片腕と頼んでゐた最愛の美喜子夫人が、病革まつて逝去したのは、其の月の二十二日であつた。この凶報は当時新聞にも伝へられるし、関係者の知らぬものも無いに拘はらずそのズツと前から上京してゐた紋十郎が端書一本の弔詞も寄越さず、会を終へてその儘帰阪してしまつたのに至つては、さすがに温厚の老検校も今の芸人はかうも人を踏付けにするものかと、嚇怒せずにはゐられなかつたのである。
以前から文楽東上の都度紋十郎は手土産を携へて後援を頼みに来るので、必らず金一封を与へ、時には組見を催した事も一再でなかつたが、あまりいろ〳〵の文楽人の来訪に、とてもやりきれぬ、とあつて、金一封の中味を半減した、それ以来、紋十郎自身は顔を出さず、文之助や紋司やの弟子を使ひに寄越すやうになつた『彼の連中は総てさうした人達ぢや』と富崎検校は笑つて語つた事もある。
越えて幾日、舞踊家藤間寿右衛門は紋十郎を連れて青山の富崎邸を訪れ、叩頭陳謝する場面を見せた。寿右衛門は富崎検校の主宰する箏曲温心会へ余興的に出演するので、常に青山に出入する、そして紋十郎の息子がこの寿右衛門の許に舞踊の内弟子になつてゐる。
前述の如く、余りにも仁義を知らぬ紋十郎に憤懣してゐる事を知つた笹川臨風博士が、紋十郎に会つた時にこれを伝へ、紋十郎は、最早今になつては、一人で検校を訪れる面ひか無い処から、この寿右衛門を頼んで、連れて行つて貰つたのであつた。富崎検校は、此の時断乎之を肯き入れなかつた。
紋十郎は自分の知らぬ間に、東京の後援会の連中が、宮城さんの方へお願ひして総て曲も振りも出来てしまつたので、どうしても先生の方へといふ訳にゆかなかつたのだ、と、しきりに彼の箏曲「秋風の曲」の言訳をするのであつた。そして、恐る〳〵寿右衛門の後ろの方から美喜子夫人への供物を差出すのであつた。
富崎検校は、じツとして言ふだけ言はしてから『いや、そりやあんたが今、百万ダラ言訳した処であかん。一体あの人形はあんたが使うのやろ、あんたが主でする仕事やろ、後援会とやらが、どうせうと実は此の事に前々から富崎さんの方へ願うてあるのやから一応断はらん事には、と言へん筈はないわ、後援会云々といふのはそりやあんたの言訳に過ぎやへん、も今となつては仕方ない。それにこのお供物も……寿右衛門はんのお土産は頂ておきますが、あんたの分は、仏になつた美喜子が面白う思はんによつて、受け兼ねるどうぞ持つてお帰り、そして今後もう〳〵内へは足ぶみせんとおいて貰ひまへう』といふやうな訳で、検校は紋十郎の面前に於て、寿右衛門立会ひの上に明らかに絶交を宣言したのであつた。
処がこの後援会云々の遁辞はあまりにも明白に、半年の後今度、都新聞紙上に於ける宮城道雄氏の随筆で判明してゐるのである。紋十郎が宮城氏へ頼みに行つた時は宮崎先生にこれ〳〵かく〳〵などはオクビにも出さなかつたに違ひなく、それから今後紋十郎は、最早大威張りで宮城氏でも、菊原氏でも頼んで踊りまくる事が出来るやうに、富崎検校とは縁が切れたのである。
他流の唄上るりで、花々しく人形を使つてヤンヤの喝采を博する人気男紋十郎の世の中である、芸祖玉造、玉助、先代紋十郎などの霊は、地下にどんな顔をしてゐる事であらう。
今月文楽一座は明治座に来てゐるが、七月三十一日までは、文五郎紋十郎の姿は、青山の富崎邸に現はれなかつたやうだ。あツたり前でせう。
太棹 118 p5 1940.9.10
塵外居放談
煙亭 記
人形出遣ひ是非
近頃、都新聞に『文楽の人形使ひが、裃を着けて、扱ふのは甚だ邪魔になる。人形の直ぐ後ろに人間の顔があつて、人形を反り身にする者には、その顔にも力みが現はれ、左りを何かしやうとする時には、人形遣ひの眼も左に向く……』といふ坪内士行氏(宝塚少女歌劇の人)の文章が出た。
すると、二三日経つて、同じ新聞に、土師清二氏(大衆文芸家)の抗議が現はれた。それは『出遣ひ廃止論は書生論だ、人形遣ひだとて芸人である、年中クロを被つて一生を終るのは甚い、誰れだつて本当の仕事をするのに、匿名では仕ない』といふやうな同情論である。
坪内さんの佐渡おけさが編笠を冠つて踊る処は、実に「内ぞゆかしき」で面白いといふのはチト問題が違つてゐるし、土師氏の、匿名で本当の仕事をする人は無い、といふのも、人形遣ひの場合、どうかと思はれる。
もと〳〵人形浄瑠璃は、黒衣が本来であらうが、文献によると夙く、大近松がお初徳兵衛の曾根崎心中を上演した時、名人辰松八郎兵衛がお初を遣るのに、出遣ひを試みて大喝采を博した、といふ古い伝統?でもあり、我れ等若い頃・・・・・・イヤ殆んど近年といつてもよい頃まで、特に『此のところ、人形出遣ひにて相勤めまアす』といふやうな口上を付けて見せたものだ。それが、近頃に至つては、序幕から大切まで、殆んど出遣ひになり、出遣ひ濫用といふ事になつてしまつた。
本誌の前号には、河竹繁俊氏も、黒衣を主張され、せめて、一日三分の二をクロにして欲しいと言はれる、成程人形の邪魔になるといふのは、一応尤ではあるが、実は、あの出遣ひであつて、尚ほその人形が、鮮やかに見えるところに『芸』といふものがある、とも言へる。此の点我等が最も強調したい処である。--尤も人形の衣裳と人形遣ひの裃の色合などは、考へて貰はなければならぬが--更らに、これを全部黒衣にすると、文五郎のやうに、それで無くとも、自分の動きの無い時に、スルリと抜けて、舞台裏に引込んでサボルやうな事を容易ならしめる虞れもある、といふ議も出て来るのである。
そこで我等は、端場は無論黒衣で、切り場だけを出遣ひにする。それから成るべく、時代物を出づかひにして、世話物は、多く黒衣にする方針はどうであらうか、も一つ、例を挙げれば「帯屋」のやうなもので、人物の数の多い場合、人形が六個出ると、三人使ひだから、三ぶ六十八人と、後見が二人位ウロ〳〵する、それがアノ裃姿では、さなきだに狭い舞台セツトで、上下に入れ替る時など、実際ゴツタ返して大変な騒ぎである。それがクロなれば、いくらか楽なのであらうとおもふ。
最後に、黒衣遣ひの場合に於てアノ人形は大層巧いが、誰んだらうと、番組を調べて見て、なるほど小兵吉だ、おゝ、あれは政亀だツた、とおもふやうな時など、実に文楽フアンの一興味でもあるといふ事も言へる。イや毒にも薬にもならぬ愚論を述べて恐縮千万、坪内さんからは、『文楽に淫し過ぎた人、深入りし過ぎた人』と言はれる事だらう。
太棹 120 p10-11 1940.11.10
塵外居放談
煙亭記
▽言葉とがめ△
=浄瑠璃本につける文句=
浄曲研究に熱心な岡田蝶花形博士が、盛んに発見される浄るりの毫句に対する事細かな文句は、大層有名なものになつてゐるが、最近、同博士が提出された疑問の中に、忠四の「これは〳〵力弥どの」は郷右衛門の言葉か、九太夫の言葉か、といふのがある。
これは言ふ迄もなく、忠臣蔵四段目塩谷館の口、所謂「花籠」の、「生けらるゝ花よりも」の所で、『柳の間の廊下を伝ひ、諸士頭原郷右衛門、跡に続いて斧九太夫、是は〳〵力弥殿、早い御出仕…』とある、その言葉をいふのであるが、本を見たゞけでは、斧九太夫、とあつて直ぐこれは〳〵、とある為めに、一考もなくひよつと起つた疑問と察せられる以外、些しの疑ひもなく、これは郷右衛門の言葉と思ふ。
力弥はお座敷に坐つてゐて、真つ先にはいつて来たのは郷右衛門で、文字通り九太夫は、後につゞいて来たのであるから、先づ郷右衛門と力弥が顔を合せるから、この言葉が出るのである。人形を考へれば何人も解る筈で、後ろから九太夫が、斯う呼びかける訳はない。殊に九太夫は、心に権力争ひをも仕兼ねまじき由良之助の伜が、御台の側に付添つて居る此の場面を見て、にが〳〵しく思ふといふ心理もあつて、決して力弥如きに世辞も愛嬌も言はぬ筈である。そして、それに対して力弥が「昼夜相詰めまかりある」といふのに冠せて『それは御奇特千万、と郷右衛門両手をつき…』とあるのを見ても、一目瞭然である。どうしてこんな疑問が提出されたのか疑問である位なものだ。或は、近く、義太夫の神様古靱太夫でも、この言葉を、九太夫のダミ声でゞも語つたかナといふ疑ひさへ起つて、をかしくなつた。
四段目で思ひ出したのは、九太夫と郷右衝門の争論で、例の『言葉をかざらず真実を申すのぢや、元を言へば郷右衛門殿、こなたの吝嗇しわざから起つた事』云々である。圏点をつけた「吝嗇しわざ」は丸本にもちやんとさうあり、又た語り手も多く「しわざ」と濁りを打つて語つてゐるやうであるが、僕は往年「太棹」誌上に浄曲うろ覚を連載して、この忠四の駄解を試みた時も、特にこれを誌して大方の思考を求めた事がある、それは「吝嗇しわざ」と続け、しはざを「所業」の意味で語つては言葉の意味を為さぬと思ひ、これは吝嗇、で切つて、その吝嗇の意味を更らに強める為めに、「吝はさ」と俗語-平語に重ねて郷右衛門をやツつけるのであれは却て面白くなると思ふのである。ちよつと試みにやつて御覧ンなさい「こなたの吝嗇、吝はさから起つた事」と(さ)を濁らずに言ふのである。これを主張したのは、もう何年か前の事であつたが、本年の夏、千鶴さん等の発起にかゝる九重会が並木倶楽部で大阪の名士を招いて聯合会を催ほした時、氏家鶴峰といふ人が、この忠四を演じて、ふと、僕の主張と同じく「吝嗇」で切つて「しわさ」と語つたのを聴いて、アツと僕は私かに心で膝を打つて喜んだものであつた。文楽の大家連のこの花籠の段を僕は聞洩らしてゐるのでまことに残念に思つてゐる。とにかく、「吝嗇仕業」といふ日本語は無いとおもふ。
序でに、四段目を聴いて、いつも気になるのは、愈よ判官切腹と相成つて「力弥御意を承り、予て用意の腹切刀、御ン前に直すれば・・・・・・」といふ文句である。直すれば、といふ文章はどうかとおもふ。大近松の丸本には断じてこんなのは有るまいとおもふ。この例はまだ「すしや」の後段、権太が戻りになつてから「わしと善太をこれかうと、手を廻すれば伜めも」といふのがある。七五調を無理に書かうとするから、こんな事になる。中将姫の段切近く豊成公の詞に「…殺さば殺せ死ねば死ねと、余所に見做する我心…」といふヘンな苦しがりの文句もある。其他気をつけたら、此の類のものは到る処にあらうとおもふ。それから、浄曲ではないが、近頃、相当文字もあり、見識もあるらしい豪い人達の中にも時々、イヤ多分に、「無理からぬ次第」といふのがある。アレハ僕は断じて無理ならぬでなければイカンとおもふ、容易からぬ事件、怪しからぬが聞いて呆れる次第だ。序でにも一つ、大新聞の大記者?先生が、往々「八面六臂」といふ文字を用ゐる、手の無い面(ツラ)が沢山あつては気味が悪いではないだらうか、アレハやつぱり「三面六臂」が正しいとおもふ。
太棹 124 p13-16 1941.4.10
塵外居放談
煙亭 記
◇愛氷先生と僕
例年の如く、暮れの十二月から春の三月までは、殆んど外出の出来ぬ持病に悩まれて穴籠りの僕である。今年は稍や暖かい寒中で、此分なれば、好天気に恵まれゝば、少し無理をすれば、出席可能かナ、と思つたのは、中川愛氷先生の『三絃楽史』出版記念と、大阪から見えた団司小住両女史の義太夫を感嘆すべき岡田先生等御催し鉄道ホテルの晩餐会であつた。処が、ところがだ、その数日前、庭先すら歩かない僕が、どこの隙き間から飛び込んで来をつたか、流行性感冒といふ怪しからぬ奴に見舞はれ、体温頓に上昇、三十九度三四分を計るに及び、これが中々下らないといふ容体と相成り、予て自分で決めてゐた肺炎になれば直ちに一命を落す、といふ危惧の念に駆られるに至つたのである。素女さんからも特に頂いた歌舞伎座の招待も、その翌日がすなはち、愛氷先生の会もである。岡田先生へお詫びの飛報、残念の歯を喰ひ縛つて、褥中、独り次のやうな感想?を洩らすのであつた。
僕は、今でも所謂堂摺連の元祖--でないまでも、大先輩であると信じてゐて(自慢になるかい)義太夫節といふものに非常の愛着--寧ろ盲目的の--を感じ此の歳に及んでも、尚ほ皆さんの後ろの方から、素玄の浄るりを謹聴し、拍手して楽しんでをる。此の歳といつた序でもをかしいが、愛氷先生は、本年古稀、といふて七十歳になられたと承るが、実は僕は、先生より更に一つの兄で、七十一歳に相成つた事を残念ながら茲に告白する。シカモ僕は若い頃から病弱であつて今日まで碌々、何の為す所もなく、徒らに年ばかり拾つて、古稀になつた昨年の如き、最も無為無能の年であつた事を恥ぢ悲しむ者である。と申せば、それやがて、中川さんが、此の古稀といふ年の記念として『三絃楽史』の如き名著を世に出されたお豪い事の、対照となると思ふのである。中川さんの方では、無論記憶も無いだらうとおもふほど古い話しで、明治の末葉、僕が万朝報の政治部記者から今でいふ転向して当時の所謂三面記者に堕落致した駆け出しの演芸記者時代、浅草橋外の植木屋といふ貸席で(今もあるかナ)新内だつたか、常磐津だつたか、それは忘れたが、中川さんと御一緒に聴いてゐて、初めてお近付になつた事を、はつきりと記憶してゐる。爾来、劇場其他で、唯だほんの見知り越し程度にお目に懸つてゐたのだが、三十年も経つた近年、この義太夫といふものが取持つて、(子太郎君などの、例の名作同好会など)親しくお交際を願ふ事になり、殊に、お門多いところを、僕にまで、この三絃楽史の大著御恵贈を給はる、浄曲の徳、よく茲に及んだ事に感激を覚え、改めて愛氷先生に敬意を表する次第である。
◇古き堂スル物語
前に堂摺連の元祖だとか、先輩だとか莫迦が自慢さうに申上げたに就て、茲に序でながら、その事実を簡単に申述べて大方のお慰みにする。僕が二十歳がらみだから、どう堪定しても五十年前の事である。京枝だとか、東玉だとかいふお婆さん(?)が盛んに東京の各席を打廻り、小政、小土佐--左様、綾之助さんが、ザン切りか何かで鶴沢加津といふ人の三味線で、所謂寄席の八町荒し、芝居の成駒屋福助と二人で、東都の人気を正に両分してゐた時代だから、お古いはなし。初代の小住、同しく初代の住の助が、花友鶴蝶なんていふ達者なのをスケ場に頼んで押し廻してゐたが、恰ど、僕の宅が神楽坂でその小住の有つてゐた寄席の藁店の近所だつた関係もあつて、デン熱がたかぶり出し、遂には木戸御免の入り浸り、住の助の四天王といふ事で、俥のアト押し(まさか…)までするといふゴシツプを、当時の読売新聞に書かれた事がある。それは、読売の社員で二宮といふ人が、同しく我々の仲間--大分年輩の人--の住の助党で、硯友社の広津柳浪君なども、同じく矢来町にゐて、僕等も懇意にして、横寺町にゐた尾崎紅葉君なども、稀には引つ張り出して聴かせたものだつた。その二宮氏が我々を素つ葉ぬいた訳だつた--二宮氏は柳浪子が当時文芸倶楽部の出世作として有名な『今戸心中』の四宮といふ通客のモデルになつたほどの道楽者だつた--当時改進新聞といふ絵入の新聞があつて、娘義太夫の伎芸投票を試みた時の如き、僕等は夢中になつて、新聞に摺込んである投票用紙を集めて、或は買溜めて、これに竹本住之助の印を捺して大運動をしたものだ。その結果は、群を抜いて住の助が最高点に二等はたしか京勝といふ人だつたとおもふ。今思ふと、綾の助さんなどはツマラヌ事だとばかり、運動をしなかつたものと見え、あまり上位には出なかつた。その賞品見台開きを神田の錦輝館で催し、名人三遊亭円朝や竹本播磨太夫なども応援されたと覚えてゐる。何しろ大変な騒ぎだつた。それから、越子といふ人が大阪から帰つて看板を上げたのを、又た我々は大に堂ズツたものだつた。越子は浅草の雷門横の鳶頭の娘だつたので、東橋亭などにかゝると可なりの人気、僕等は牛込からテク〳〵歩いて昼間から越子の家へ乗り込み、一緒に晩めしを食つてブラ〳〵東橋亭へ、よう〳〵とか、待つてましたとか怒鳴るのを楽しみにして、ハネてから神楽坂までテクルのだから誤苦労千万な実に大変な訳のものだつた。斯ういふ古い堂摺だから、岡田先生あたりのお騒ぎになつた朝重だの、相玉だの美光だの、素雪だの、昇菊昇之助などの時代は、僕はもう堂摺を引退して、タマに聴きに行くといふ訳で、其後ズツと芝居の方へ凝つたものだから、その何十年かの間の人気者は、唯だ寄席の看板で見るだけ位のものだつた。
◇竹本小住と僕
僕の堂摺時代の恥さらしのイロ〳〵を申述べたのも、実は僕と小住さんとの関係に及ばうが為めであつたのだが、いづれにしても溜まらぬ話、どうぞ御随意に此のぺーヂを飛ばしてお読み下さい、である。ところで、前申述べたやうに、僕の最も近しくもしたし又た力瘤を入れた女義太夫は、初代の小住、住の助であつたのだが、その住の助は、それこそ全く男の匂ひも嗅ぐことなしに、唯だ厳格な芸道修業に心身を疲らし、東北巡業中、秋田市の興行中、あはれ十六歳を一期として、蕾の花と散つてしまつた、当時住登と名乗つてゐた前語りのおはつといふ娘が、やがて二代目住の助を襲いで、しばらくは初代小住の絃で打廻つてゐたがこれは芸才にも乏しく、やがて、よい御亭主を持つて引退してしまつたのであつた。此の初代小住も八十歳と長生して二三年前死亡した。僕が初代小住一派との交渉が、かくも深まつたのは、前にも言つたやうに、宅が近所であり、悪友どもが多かつた為めでもあつたが、その小住の御亭主である佐藤廉之助といふ新鋭の興行師と朋友づきあひをするやうになつた為めであつた。佐藤といふ男は、兎角の批評も受けるだけあつて、中々のやり手で、寄席のワラ店を高等演芸場と改称して、革新興行を断行し、当時としては珍らしい、地下室にバーを開いて大に発展もし、後には、演芸場を昼間、藤沢浅次郎の俳優学校に提供するといふやうなやり方で、その交友も又た此の業者とは変つた人々があつた。大学教授の和田垣謙三博士など、毎夜のやうに此のバーに現はれ、マドロスパイプを咬えてプランを呷るといふ工合、当時文名を馳せてゐた長田秋濤居士などもよく遊びに来る、寄席の定連の方には後に市会議員になつて荒れ廻つた瀬川光行君や、日本派の論客井上藁村君なども、住の助党の旗頭であつた、といふ風で、連夜入り浸つてゐた僕も自然その仲間に加はつて、可なり生意気を発揮したものだつた。以上、誠に余談に渉つて恐縮するが、その当時、お鶴さんといつて、三味線の稽古に来てゐた娘があつて、時には寄席の木戸へ坐つて、下足札を番台へ叩きつけて「入らつしやい」や何かを言つてゐた事もある。その娘さんが、実に我が二代目小住さんになつたのであつた。このお鶴さんが、二代目を襲名する時、初代小住の隠宅で僕が立合つて何かいろ〳〵申渡しがあり、奉書だつたか鳥の子だつたか、襲名の書付(お免状)は僕が拙ない達筆を揮つて書いたものであつた事を覚えてゐる。其後僕は堂摺を引退し、お鶴さんは大阪へ出て、今のやうに、押しも押されもせぬ一流の三味線になつてしまつたのである。--此間何年か相経つて--大正の何年か、団司さんとのコンビで、初めてとおもふが、桃中軒雲右衛門全盛時代、上京して神田の入道館へお目見得をした時、顔つなぎの宴会が、雲の支配人峰田の妾宅、新橋の竹の家だつたと記憶する。僕も演芸記者として招待を受け、絶えて久しき二代目小住さんを見た僕だつた。それから又た『此の間二十年相経ち申候』で、昨年の五月、栗原千鶴さん達の九重会と大阪の八千代会聯合の素義大会が並木倶楽部に催ほされた時、団友師と共に世話やきに来た小住さんと、楽屋でヒヨツクリ出会ひの一幕、その時、更ためて名乗り合ひ、暫時なつかしき懐旧談を試みたものであつた。
今度の上京に当り、僕は病気の為め遂に相見る事の出来なかつた事を残念におもひ、恰かも中川さんの出版記念会に関係があつた為め、馬鹿々々しく長い寝言の筆を走らせたのであつた。以上。
写真の年代は忘れたが、何れも襲名、改名の時のもの、何十年も前の分--但し初代住之助の写真は無い。
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煙亭氏より、
十九日、午前十一時、満室の春光を欲みて「万年床」を動かし、枕辺に箒を用ゐ、先づ此の位の運動は出来るやうになつたと、息スタ〳〵、近く出動も相叶ふべしか。
不相変一人留守番をして……(煙翁)
太棹 128 p16-17 1941.8.10
塵外居放談
煙亭記
人形の栄三を紋下に古靭とならべること
今度東上の文楽引越興行を観聴して、当然近く作らねばならぬ紋下は、太夫陣のピカ一、古靱太夫と並べて、人形の栄三を据えたい、といふ結論を得た。その理由などくど〳〵と説き立てる必要もないほど、明々白々である。嘗て名人玉造が太夫三絃と並んで、三人紋下の地位に据つた前例もあり、栄三の芸の力が傑出してゐるからである。大判事、待つ玉、甘輝、稲荷明神、孫右衛門、良弁僧正、太郎冠者、光秀、お辻、又平、尾上、熊谷、十次兵衛、と数へ立てるまでもなく、或は所謂腹芸であり、或は芸の巾の大きい事、精神の籠つてゐる事、迫力のある事殊に、志渡寺のお辻や、長局の尾上の如き、彼れが三宅周太郎氏との対談に聴くまでもなく、女形に造詣の深い事、昔執つた杵柄を発揮して、眼ある見物を驚かした事、更らに文五郎と並んで踊つた二人禿の如き、全然役者が違うの感を深からしめた事等々によつて、他の追従を許さゞるものがあるからである。営業関係者の営利万能の人々でも、最早その位な事は解つてゐる筈である。切符が売れる売れないで、芸に目を蔽うて、表彰すべきを表彰せざる不都合を敢てするものとも思へない。内々お給金は他へ沢山廻してもよい、日本の人形浄瑠璃最高の栄誉は此の際、真の技芸あるものに与ふべき゜ではあるまいか、今度など、文楽引越興行に、若し、栄三が居なかつたら、我等は恐らく、古靱を一二度聴くだけで、必らず行かなかつたらう、とおもふ。茲に敢て栄三を人形の紋下に推す事を提唱する。
寺子屋の『睨みつけられ』松王説に異議
第一回の古靱の寺子屋で、門口の寺子の呼出しに当り、初日に都新聞の安藤君が観て来ての評に曰く『詮義に及ばぬ連れうせうとにらみつけられ』を津太夫は言葉で語つてゐたが、勿論古靱太夫は松王で語つてゐるにも拘はらず、玉幸の玄蕃は眉を上げて頭を振つてをり、栄三の松王は黙つてゐる。即ち床では松王で語り乍ら人形では玄蕃がこれを取つてゐる』と書いてあつた。これを読んだ我れ等は「おやつ」とおもつた。我れ等は津太夫と同じくこれはそれこそ「勿論」玄蕃のものであると信じてゐた。安藤君が『敢て本文を詮索する迄もなく』と断つて書いてゐる「本文」によれば益すそれは玄蕃のものと言はざるを得ず、これを松王のものと考へることはどうしても出来ない。その『うぬらが伜の事まで身共が知つた事か』は寺子の首実験をするなどはまだ思ひも付かなかつた時の玄蕃の詞である。松王は安藤君が證拠に引いた『首見る役は松王丸』で、唯だ子供の顔を見てイヤ〳〵をすればよいのである。中啓であたまを叩いたり、付き飛ばしたりするのは総て玄蕃の仕事になつてゐる。殊に安藤君が圏点をつけた『睨みつけられ』は「られ」といふから、明かにそれは寺子の方の地合でなければならぬのもアハヽである。処がだ、全く処がだ、我れ等は安藤君のこの評を読んでサテ、五日目の最終日に気をつけて見てゐると、驚くべし、安藤君の御指示の通り玉幸の玄蕃はニユーツと澄ましてゐて、栄三の松王が、きまり悪るさうに、ちよいと頭を振り肩を聳かして、睨む形ちをしたでは無いか。都新聞と安藤鶴夫の権威(?)は大したものである。アノ評判記によつて、栄三と玉幸と古靱太夫と三人が、楽屋に鼻を揃へて如何なる塩梅に話し合ひをして古来の型及び本文の明白な指定--とまではないが--を破つて、改め(実は改悪と云ひたい)られたか、第一、松王が小さくなつて甚だ困る。これなどを栄三、三宅周太郎の対談で伺ひたかつた位のものである。此の上は岡田蝶花形先生を煩はして、一つ研究して頂いたら、どぢやろか、とおもふ。老耄した我れ等の頑冥さを納得させるやうな御高説を得たいものである。
本格も糞もない芸能連日の大景気に驚く
勧進帳の弁慶の台詞ぢや無いが、世は末世に及ぶといへど、芸能だけは本格的でありたい、などゝ今時真面目に開き直れば、莫迦にされる位のものだ。文楽だらうが、人形浄瑠璃だらうが、もう、何でも可いのである。安藤君の--又た引合ひに出して相済まぬが--都新聞の評にしてからが、あんまり専問的で、何だか判らないといふ相当な芸界の廊下鳶の囀りを聴いた。全くの話しで、あの連日の大景気に値する今度の文楽に……古靱太夫と、栄三と、清六と、仙糸を除いてあとに何がある?安藤君に、斧とも久太とも言はれなかつた連中、若くはコツピドクやツつけられた某々が、盛んに喝采を浴び、切符の数を捌いてゐるのである。摂津大掾、大隅太夫の昔までに及ばず、貴田の越路や、先代の南部すら全然知らない連中が、今や場内に溢れてゐるのである。新陳代謝である。この現象は、啻に文楽ばかりでば無い、演劇然り、釈界然り、落語然りである。どうともなれ!勝手にさらせーである。
実は、少々真面目に、初回から六回まで疳にさはつたり、気のついた「あれやこれや」に付いて、芸評なり注意なりを話すつもりであつたのだが『勝手にさらせ』と喝破したら、もうその元気は無くなつてしまつた。さらば!
太棹 129 p16-18 1941.9.10
塵外居放談
煙亭記
玄蕃か松王か
=お歴々の研究を待つ=
前号此の稿に於て、我等は、都新聞の文楽評を取上げ、寺子屋の、寺子呼出しで『詮議に及ばす連れうせう、と睨み付げられ』を古靱太夫が松王で語り、人形が最初玄蕃で動いてゐたのを、後に松王に改めた事に関して、津太夫のやうに玄蕃で語るべく、又た無論睨みつけるのも玄蕃であると、閑人らしい愚見を長々と放談した。それに対し、直ちに御意見を寄せられたのは、同記事の末段に失礼にも、一つ研究して頂きたい、と書いた岡田蝶花形先生からであつた。先生の御意見の終りにある栄三、玉幸の責任は、我等も同感で、無論其の事にも言及して置いたのである。岡田先生の御意見は、全文を次に掲載させて頂く事にする。
それから、前号のその放談の中で、勢に乗じて、我等は、安藤君の芸評中、睨みつけられ、の数文字に圏点が打つてあるのを捉へて、これは明らかに寺子の方の地合であるのもアハヽである、などゝ揶揄的に放談したのは誠に、年甲斐もない軽卒で、あれは、その「睨みつけられ」の人形の動きが、此の問題の中心点である処から、安藤君が特につけたのだ、といふ事を知れば、放談の「行き過ぎ」であつた事を茲にお詫びする。
次に、我等の畏敬する府下は八王子の住人斉藤拳三氏に対して、前号文楽評拝読の件を申上げた序でに、我等のこの寺子屋問題に関する御意見を徴した処、次の如き回答に接したから、恐らく、氏は例の健筆を呵して、此の問題の感想を太棹社に寄せられるだらう事を確信し、本誌に掲載される事を期待する次第である。尚ほ玄素御歴々の御研究をお示し願へれば、幸ひ甚だしとおもふ。
八王子の斉藤氏から
(前略)あの件は、では先生へ御返事の形式で太棹へ書きませう。私は「詮議に及ばず」は松王の心持ちでいゝと存じます「にらみ付けられ」は百姓の地で、玄蕃が睨んでいゝと存じます。安藤君と先生とでは、意見の相違よりも、議題が少々くいちがつてるかと存じます「詮議」以下百姓の形容として小生は床と人形と多少ちがつて居ても結構だと存じます『打てば響け』で空なのより、軽事と存じます……云々
この斉藤君の端書によつて見ると、斉藤君は半ば以上松王説のやうであつて、唯だ安藤君及び古靱太夫、栄三、玉幸と違つて、睨むのは玄蕃で無いといふ事になるらしいが、さうすると、我等と安藤君等との中間説のやうでもある。がしかし、我等は尚ほ執拗にも、詮議に及ばずから玄蕃説を固執するものである。アノ時、寺子改めは松王の主張で始まつた仕事だが、松王は一子小太郎を身代りに寄越しておいたので、我が子は来たか、といふ事で胸も一ぱいであり、ゾロ〳〵寺子共が出て来ると、其の中に若し、我が子がゐはせぬか、といふ心配も多分にあり、さてこそ、一人づゝ呼びん出せ、といふ事にして、小太郎は結局ヒヨロ〳〵出て来ないやうに念願してゐる、とまで考へて可いとおもふ。さうして、寺子の実験をして、玄蕃が抑へて見せる顔に、イヤ〳〵をして、他は、殆んどまなこを半眼に閉ぢ、正面を切つてゐるやうにしたい。玄蕃は何しろ、彼アいふ扮装なり面構えなり、松王がそでない、と言へば直ぐに、コン畜生ツ、といつた工面に寺子を突ツ放す、といふ演出であるべく、詮議に及ばず、と怒鳴り付ける、今も昔しも同じ心理の、お役人の唯だ威張り散らせば可いのである。
斉藤君の『床と人形と多少ぢがつてゐても結構だ』といふのなら、尚ほの事、睨むのは、栄三、玉幸の如く改める必要はなく、玄蕃に睨ませておいて下さい、お願ひです。古靱さんも栄三も神様ではない、本文やら、舞台雰囲気やら、種々の角度から考へて、我等は、今日に於ても、玄蕃説を覆へす訳にはゆかぬ。安藤君は共芸評の最後に、文楽にも演出家の必要があるといふやうな事を書いてをられたが、若し我等に演出を頼むものがあれば、断じて松王に肩をイカラセ、眼をムカセないであらう(誰だい、ヘツ誰れが頼むものかなんていふのは……)
「睨みつけられは」玄蕃の動作の顕れ
岡田蝶花形
前号塵外居放談で煙亭先生から、不肖を指名研究しろとあるが、私は古実家でも無く、国語学者でもなく、一研究生ゆゑよいテーマを与へて頂いたとして、故老を訪ふて歩くところだが、今のところ一寸閑が無いから、私一人だけの考を述ベてもし古靱太夫師や安藤君等から間違つてゐたら、教へて頂くとして本当の素人考を茲に述べさせて頂く。
さて「睨みつけられ」」問題の要は松王が睨めたのか、玄蕃が睨めたのかで、ひいては其上の文句の「詮議に及ばぬ連れ失せう」が松王の言葉か玄蕃の言葉か、といふのである。詮議といふから松玉が詮議に来たのだからと単なる考へから松王のつもりで語つてゐる人も多い、私は先日の文楽引越の寺子屋を聴かなかつたから、古靱太夫がこゝを松王で語つたか否か、関する所では無いが、私は煙亭君と同感で、これこそ明かに玄蕃の言葉であると思ふ、その理由は、
少し前に「これでは無いと、許しやる」といふ文句がある。それは明らかに玄蕃の言葉である、松王に許しやるの権能は無いので、許しやるは玄蕃の言葉に違ひない、それに対応する言葉が「詮議に及ばぬ連れ失せう」であるから、私は玄蕃の言葉と見る、そして直ちにその続きとして「と睨みつけられ」であるから、この睨みつけた人は玄蕃であるから、「睨みつけられ」といふ時人形では玄蕃が眼をむいて見せれば可い、その時松王はたゝいや〳〵菅秀才とは違ふといふ気味を表はせば可い、又事実としても松応の様な病人の弱々しいものに睨みつけられても百姓共は恐くないに違ひない、それ故古来及芝居でも皆玄蕃でやつてゐるやうだ、煙亭先生がこれこそ勿論玄蕃であるといふ方が正しく、安藤君の方が解釈違ひではあるまいか。
それは夫れとして一安藤君に云はれたからと云つて、若し、古来の型を改めたとしたら、栄三、玉幸にも責任はあるまいか、安藤君果して根拠あるならば何で黙つて居る筈は無いから次号に於てお答へ願ひ度い、もし永久に黙つて居たら軍配は勿論煙草先生にあげさせて頂く。
太棹 130 p26 1941.10.10
塵外居放談
煙亭記
斉藤拳三君へ
『可楽を聴く会』でお目にかゝつた後、土佐広の『質店』の晩、心待ちにお待ちしましたが見えず、当夜は超満員の盛況で、遅く駆け付けた小生など、しばらくは廊下で立ち聴きといふ始末でした。相変らずの熱演でしたが、久しく高座にかけなかつたとかで、例の長局ほどの感激はありませんでした。やはりあんな真世話物は、難かしいと見えます。しかし、一段を通じて、お染だけは素晴らしく、大どころの御寮人といふ品位と、久松に対する真情とが、可愛らしく滲み出て居ました。又た次の機会に、御一緒に聴いてやりませう。
処で、例の寺子屋の睨み付けられ問題ですが、賢兄の御所説通り、些細な、どうでもよい問題を捉へて、クド〴〵と弁じ立てる事はいづれも様や、太棹社に対しても、御迷惑で相済まぬ次第とおもひますから、好い加減に眼をつぶりませう。就ては、前号の賢兄のお書きになつたものに対し、一つ書きに簡単にお答へを致します。お許し下さい。
一、私の家へわらじをぬいだ云々は、なるほど、どこやらで言つたやうですが、最後の『私の言ふ事はきけ』といふ所謂一世一代の大見得は、切つた覚えはありません。
一、君の結論『院本の一つ一つの地合を余り細かに人形の一人一人の受持としない方がいゝ』といふ貴見は、大負けに負けて程度問題でせう。甲の地合に乙が動き、乙の言葉を甲が引取つたら、滅茶苦茶でせう。某老大家(玄人)も『あんな事は、さう詮索をせずともよろしい、芝居とは違ふ』といふ意味の事を語ったやうだが、曖昧で、独断で、殊に芝居と違つて構はない道理も無さゝうです。それに関連して、賢兄が、一例のやうに書き添えられた故段四郎の合邦が『納戸へ』のところで、再び舞台に現はれて派手な引つ込みをした事を激賞されてゐますが、小生は『見かヘりもせず行くてゝ親』といふ本文を改竄すればともかく、大袈裟に言へば、実に怪しからぬ歪曲演出と思ひます。如此例は、芝居道にはザラにあるやうですが、いつも小生は苦笑と憤慨とを以て見物するのでした。
一、栄三紋下論は御賛成を頂いたが、条件付きで『将来の重責を負はせる為めの紋下でなければ』云々との御説、これこそ勿論です。小生とて栄三を紋下に祭り込まうといふのでは決して無く、後進養成といふ大任を負はせる為めにも、特に紋下の栄位を与へたいとおもふからです。さうして、現在の……イヤ、又た行過ぎを喋舌つて恨まれると大変々々。
一、古靱紋下適任の御説は無論その通りです。何しろ、外に誰アれも居ないのですから……。唯だ一例としてお書きになつたチヨボ床出演問題でも、恰かも津太夫を無能のやうに、古靱、土佐なら……とあるが、これはさすがの古靱でも、或はどうにもならないでは無いでせうか、現に、その高弟織太夫が盛んにそれへ出てゐるので、古靱は昨年、どうも困つた事ではあるが、何分にも、阿賭物の問題からだから、仕方が無い、といふ意味の言葉を洩らしてゐた、と確聞してゐます。それは、御時勢でもあり、お主筋とも言へる興行主の命令ではあり、給金が大層な違ひだからといふ訳なのです。紋下になつた処で、これを抑止する権能は無いかも知れません、まあ拠ろない事なのでしたらう。
一、次は小生が東上文楽の演舞揚へ五回行った事に就て、あなたからお礼を申上げられたのは恐縮でした。
といふ訳です。今月分新放談のネタが無かつたので、こんな事を、失礼。
太棹 131 p20-21 1941.12.10
塵外居放談
煙亭記
例の寺小屋の睨みつけられ問題に就ては、我等もう好い加減に静まらうとおもつてゐる処へ、素劇の先輩、今は新劇文学座の客員坂本猿冠者君が、次の如き漫録をものし、その掲載誌を寄せられたので、茲にこれを転載させて頂くことにする。我等はこれに対して別段に言ふ事はない。
松王か玄蕃か
坂本猿冠者
都新聞の安藤鶴夫君が文楽を批評した「寺子屋」の松王玄蕃の語り口に就て、「太棹」と云ふ雑誌で煙亭翁から横槍を入れたのが問題に花が咲き、だいぶ騒々しくなつて来た。
往来の弥次馬が、人中からおせつかいに口を出す型で、私も仲間へ割込ませてもらう、但し私の言ふことは何処までも弥次馬のおせつかい口と思つて頂きたい、これはノツケから責任を持たないことを安藤君、煙亭翁にお断りして置く、同時にこの原稿は「太棹」に掲載されべきもので、川柳の「きやり」誌の貴重な紙面を使用すべきものでないことは百も承知はして居るが、何処までも弥次馬式に口が出したい処から、貴重な紙面を拝借する次第で、きやりの愛読者諸君には誠に申訳がないがお馴染甲斐に今度だけは勘弁してもらいたい。
問題の起因は古靱の「寺子屋」で、「詮議に及ばぬ連れ失せうと睨みつけられ……」の処で、古靱は松王の心で語つてゐるのに、人形使ひは玄蕃と思つて動いてゐるのは怪しからぬと安藤君が都で叱つたのを、煙亭翁が其後見物したら、安藤君の注意によつて松王が動くことに改められてゐたのを憤慨して人形遣ひに権威がない、アノ文句は昔から、玄蕃にきまつてゐると云つたのがそも〳〵この問題に花が咲いたのである、アレは、松王が至当だ、イヤ玄蕃だと、斯道の大家先輩が真赤になつて力味返つてゐる。
煙亭翁に言はせるとアノ際の松王は首だけ横に振つてればよい、松王が百姓共を睨みつけて動くなぞ沙汰の限りだと云ふ、安藤君はアノ際菅秀才の顔を見知つてゐる者は松王以外にないから、「詮議に及ばぬ」などと玄蕃が云ふ筈がないと云ふ主張だ。
喧嘩両成敗、どつちにも五分の理はあるやうに思はれる、義太夫の方のことはテンから解らぬ私だが、従来芝居では玄蕃が睨みつけて居る。
文句から考へても玄蕃らしく思はれるが、安藤君の説を聞くと松王でもいゝやうに思はれる。
解釈の仕様でどつちでもいゝといふことが一番いけないことで、此際折角問題になつたのだがら、アレは松王で語る古靱の語り口が正しいとか、玄蕃で語る故津太夫の語り口が間違つてゐないとかきめる必要があると思ふ。
「寺子屋」に就ては面白い話がある、煙亭翁が松王を演つた時「けなげな八つや九つで」と云ふ台詞がある、松王が我子の身代りに、血涙を呑んでる際、八つや九つと洒落れでゐるのが気になつて仕方がない、僕はこれを台詞で云ふのは水がさすから、床にとつてもらふと所謂煙亭型を演じたことがある。
その煙亭翁が「詮議に及ばぬ」を玄蕃と解釈してゐるのだから根拠があると思つていゝだらう。
私はどつちでもいゝから、ハツキリさせて置く必要があると思つてゐる。(雑誌川柳きやり)
中川愛氷先生
愛氷先生から、何か書け、といふ御諭しを受けてゐながら、ツヒ何も書けずにゐる。それは、僕のアタマに好材料が無く、何か少しあれば、創刊以来出来るだけお助けする太棹社へ送つてしまうので……或るは、冗談半分に、太棹への貞操を守つてゐるので、と申上げたのに対し、愛氷先生はこれを『けんもほろゝに』断はつたと、先月の浄瑠璃月報の穴埋めにお書きになつたのは、恐縮至極の事でした。僕がにこりと仕損なつて太棹への云々と言つたそのツラが、生れつきの怖い顔と、咄々とした濁み声の為めに、如何にもドキツイて聴こえたものと恐察するので、をかしくもあり、悲しくもある次第です。殊に近来は老躯病弱、素義の会、女義の会などへも、トンと御不沙汰して、左なきだに材料不足の手前、漫評と放談の外、どうにもならず、勿論、今後は何ぞ思ひ付きがあれば、月報の方へもタマには埋草記事をさし出さうとは考へてゐるのですから、アマリ怒らずにおつき合ひを願ひます。以上。
太棹 132 p18 1942.1.25
塵外居放談
煙亭記
松王か玄蕃か
=やうやく打切りに=
寺小屋の首実験で「詮議に及ばぬ連れうしよ、と睨み付けられ」の人形、イヤ演出が、松王か玄蕃かの問題は、読者諸君には、アヽうるせへな、と感ぜられるであらうほど、号を重ね、筆を替えての意見開陳であり、本誌前号には、本問題の張本人ともいふべき、安藤鶴夫君が、多年に亘る研究を頗る長文に発表表されて煙亭老骨灰微塵、宛として香港攻略に於ける皇軍新鋭機の爆撃の如く、彼の頑冥なる英総督のやうに、多大の犠牲を省みず抵抗を続くる勇気も無く、例年の通り宿痾漸く重く、褥中に苦悩する煙翁、白旗のやうなものを掲げて、此の問題打切りを宣言すべく、茲に悲壮?なる決意を致した次第である。岡田、齋藤坂本等比の問題に関して意見を寄せ、太棹紙面を飾られた諸兄に対して、甚深なる謝意を表すると共に、唯だ何等研究らしき事もせず、常識と伝統?とによつて固守したる愚見は、尚ほ全体的に抛棄する能はず、安藤君が、誰れが何といつても、古靱氏の松王演出を尊敬するといふと同じく、老生は又た、頑然、アノ場合、旧来通り松王でなく、玄蕃のものであり、玄蕃の動きに任ておきたい、といふ信念を変ずる事なしに行きたいとおもふ事を、付加へて御憫察を願ふもの、未練と嗤ふて下さんすナ、である。
太棹 135 p7-9、15 1942.5.25
塵外居放談
煙亭記
▽吉右衛門句集△
=高浜虚子君の序文=
暮から寝込んで、二月三月まで、一歩の外出も出来ない業病?に悩まされ、その癖、安静に火鉢の火でもせゝつてゐれば、殆ど何ともない容体であつて見れば、その退屈さ加減は諸君御想像以上のものである。ラジオと新聞と雑誌で百日の日をくらしたが、そのラジオも、大東亜戦争の余波を受けて、開戦当座は波長の関係もあり、拙宅の古い器械は故障ばかり、碌々豪華版の演芸にも遠ざかってゐる時、予て、新聞の紹介欄で承知してゐた我が中村吉右衛門君の句集を恵まれた時の喜び! 実にかぶり付くやうに読み耽つたものであつた。
装訂の基紙に二つの柿を描いたのは、安田靱彦氏の麗筆である。題字並に序文は、吉右衛門君の恩師高浜虚子君である。別に『はりまがた』と題した川合玉堂氏の口絵も大に光彩を添えたものである。
昭和六年から昨十六年に至る十一年間の作句二百七十五句が、一頁に三句づゝ、三号活字を以て組まれた贅沢さ、外に随筆めいた短文約二十章が九ポで挿み込まれてゐる。旧四六版の百八十三頁。中央出版協会の発行で、定価壱円八拾銭とある。
虚子君は、その序文で、所謂写生句といふ建前の、目前に見た景色をたゞ写す、といふ教へを守り、
木々の芽に少し開けありむさう窓
といふ句を『それでいゝのだ』と言ったと書いてゐることほど左様に、読過した処、その多くが、即ち目前に見た景色をたゞ写してゐるやうである。それでゐて、中々巧いのが眼につくのは豪い。けれども。あまりに見た通りであり、又楽屋落ちといふのが又少くない。吉右衛門と署名し、何か前がきでもないと一般の読者には判らないものや、変哲もないといふのがあるのである。今、少しばかりその芝居の句を拾つて見る。
新しき着到板や初芝居
白粉の残りてゐたる寒さかな
元日や舞台稽古の長かりし
門弟の名札そろふや鏡餅
昼ばてや多日の残る東山
道かへて桜の道を歌舞伎座へ
冬霧の京都の町や楽近し
歌舞伎座も中日過ぎたり初句会
初春や歌舞伎座前の人通り
蓮池の寺を抜ければ芝居小屋
糸瓜忌に三升も居て古風なる
おはやしの暑気中りしてゐたりけり
久々の下り役者や近松忌
看板の大羽子板の歌右衛門
門弟の古きがさきに鏡餅
稽古場に飾る鎧や菖蒲の日
東山すだれ越なる楽屋かな
歌舞伎座のとんぼ返りの寒稽古
無花果や隅の座敷は吉之丞
それから、吉右衛門には昔から秀山といふ雅号があるが、虚子君は総て「吉右衛門」で通した方がよい、俳優の方でも、二代目吉右衛門など作らぬ方がよい、といふのに対し、波野君も、私も其積りでをりますといつたとやら、我は鎮西八郎にて、のイキであつて。頗る面白い。
随筆の方も、文章よりも事実がおもしろいので、我等芝居好き、殊に吉ツちやん贔屓の者には、極めて興味深い読みものである。虚子君も、淡々として事実を叙して居て、それで深い味ひが有る、と評してゐる。
ホトトギスの雑咏には阪東みの助君の方が、先きの投句家であつたやうに思ふが、近頃はやらぬらしく、吉右衛門の一門、七三郎、吉之丞、辰之丞等諸君の投句をよく見かける。僕の知つてゐる俳優の俳人としてはホトトギス派ではないが、堀越の三升君があり、その俳画と共に、夙く一家を成してゐる。子規先生時代からの人に、今は故人になつた菊五郎門下の伊三郎、後に尾上松助の福島甲羽君があり、甲羽君は文章も頗る達者で、我等は古いホトトギスで愛読したものであつた。
とにもかくにも、病床の我等を愉しませた此の書に感謝し、更にその「あとがき」を読んで、素地の我吉右衛門君その儘なる謙虚さを嬉しいとおもつた。
▽河合武雄逝く△
=初対面の日の追憶=
新派の名女形河合武雄君が、長い病気のやゝ快方と聞く間もなく、遂に所謂蓮台座へ乗込んでしまつた。も一度舞台に花を咲かせてやりたかつたのは僕のみではあるまい。僕が河合君と舞台以外の初対面は、今より三十余年前、明治四十年の春、伊井蓉峰君と共に、新富座の楽屋であつた。それは、東京府、市と商業会議所聯合主催の大博覧会が上野公園に開かれた時、僕は万朝報社の政治部に籍を置いてゐて、報知、中央、国民、自由通信社などの府市政関係の記者が幹事となつて、日本に初めての全国記者大会といふものを開催した時であつた。
千家府知事、尾崎市長、中野商業会議所会頭といふ三巨頭の賛同を得て、先づ芝紅葉館に於て頗る盛大な歓迎会を催ほし、更らに歌舞伎座の旧劇と、新富座の新派劇が、歓迎招待会を、其他、三越だとか、麦酒会社だとか各方面の東京名物を案内して、全国三百余名の来会者を、クタ〳〵に弱らせる歓迎責めをやつたのであつた。若い時からの道楽が役に立つて、僕は主として演芸方面の肝煎を承はつて奔走したのであつた。
紅葉館の大会余興には、三遊亭円喬の落語、丸一仙太郎(今の小仙は十歳前後の若太夫であつた)の太神楽に、幸四郎(当時の高麗蔵)を煩はして、先代藤間勘右衛門老の袴踊を出演させたのは成功であつたと記憶する。歌舞伎座は、まだ松竹乗込み以前の事で、大河内社長の書面を持て、支配人田村成義将軍が、牛込の拙宅を訪問され、諸般の打合せを行ひ、その時の狂言は、春日局、勧進帳など。今の所謂豪華版興行であつた。新派の方は、伊井河合の女夫劇(とはまだ言はなかつた)が新富座に人気をあふつてゐる時で、泉鏡花の瀧の白糸と近松劇(芸題を忘れた)で、何れも二階三方全部を其席に宛て、菓子弁当寿司、所謂当時のカベスに、絵葉書其他お土産沢山で会衆大満悦の態であつた。
その新富座の準備打合はせの為め僕は一夕伊井君の楽屋を訪問し、幕合に、河合君と共に、種々の協議をした。今ならば、そんな事は、松竹の方即ち仕打との交渉であるべきだが、当時は伊井、河合の両君が自から万事取仕切り、そして、座方其他へ命令を発するのであつたらしい。その近松劇の演出?かどうか知らぬが、漸く学校を出たか出ぬかの時代の小山内薫君が、カスリの着物か何かで、楽屋へ出没してゐたのを覚えてゐる。
当夜閉場頃には、篠つくばかりの豪雨となり、ともかくも、こゝでは落ち〳〵話も出来ませんから・・・・・・と勧められるまゝ、閉場と共に、僕は両君と車を連らねて新橋の某旅亭へ連れて行かれたのであつた。全国の重なる新聞記者といふので、伊井君等の此の話しに対する乗気は大したものであつたことは、特に記者大会と銘打つた記念の写真をこしらへ、当日の歓待至れり尽せりであつた事でも判せられた。その晩餐の席上に現はれた美妓が、今度未亡人になつたお栄さん、即ち当時の栄龍姐さんであり、伊井君の方も、僕は知らぬが…・・・やはりその・・・・・・であつたのであるんである。
その後二三年を経て僕は、同じ社の社会部の方へ転じ、殊に演芸方面の記事も手がけるやうになり、毎興行に、職業的義務的に芝居を観るやうになつたので、自然、観劇の際は殆んど必らず楽屋を訪づれて、両君とも愉快に会談する機会を与へられたが、伊井君はアレで、喜多村君ほどでは無いが、純然たる江戸ツ児調子の豪快な談し振りであるに引替へて、河合君は、さすがに女形で、扮装最中の部屋へ闖入すると、ハツと驚いて、居ずまゐを直し、はだけてゐた腰巻の前などを、慌てゝ合はせたり何かして、いらツしやい、と首をかしげて挨拶されるなど、微笑ましいものがあつた。
大谷馬十といふ旧役者の子と生れ若い頃、沢村源之助の弟子になつて百之助を名乗つたほどあつて、河合君は、僕等が道楽に演つてゐた通話会の素劇にも、毎回お栄さん同道で見物に来られたのを見かけたものだつた。とにかく、喜多村君、河合君など、新派の女形舞台の巧さは、実に特異的なものであり、全く惜しい人を故人にした、といふのほかはない。
素劇で想ひ出したが、先日都新聞に久保田万太郎氏が、河合武雄を偲ぶの談話中、伊井がお三輪をやつた妹背山の御殿に、鱶七を村田正雄と言つてゐたが、僕が往年東京座で見た妹背山では、鱶七は藤沢浅次郎君だつたと記憶するが、その時に、高田実君が、アノ堂々たる体躯を以て鳥帽子折求女、実は藤原の淡海公に扮し、小田巻を手にしてノソリ〳〵と舞台を散歩してゐたのを見た時のをかしさは、未だに忘れ難いものであつた。