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【 里の火 東劇の廊下から 】
(2025.02.28)
提供者:ね太郎
公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館の蔵書を使用した。
太棹 49・50号 31-32ページ 1933.8.15
東劇の廊下から (里の火)
▽-文楽人形一座見物日録-△
▼七月一日(初日)
例の紋下問題のゴタ〳〵から、文楽人形浄瑠璃座の東上は、実に久し振りであつた。問題渦中の大立物津太夫が休んで、土佐、古靱、錣の三頭目に、若手の相生、つばめ、鏡、南部、小春、むら、辰、可美、といふ顔触れで、絃は吉兵衛、友次郎、新左衛門、清二郎仙糸、吉左、吉弥、重造、団二郎など、手擦りの方は、栄三、文五郎の両大家をはじめ玉次郎、玉七、政亀、小兵吉、玉松、紋十郎、玉幸、扇太郎、門造、其他殆んど一座の顔を揃へて見参する。
出し物は三日毎に替つて十二日まで四回の興行といふ立て方、各得意のものを聴かせて呉れるらしいのだが、さてどうであらうかと先づその第一回のシカモ初日に飛び込んで見た。所が日の永い折からとて夕方から出かけ大ウツカリ者の拙者、これは又た何たる事ぞ既に第一の「廿四孝」桔梗ケ原は言はずもがな錣太夫、新左衛門の「十種香」もすみ、南部太夫、吉弥の奥庭狐火もとうのむかし、肝心の土佐太夫、吉兵衛の「堀川」の段切れにかけつけといふ始末は、我れながらどうしたものと悔んでも後の祭、申訳も無い事になつてゐる。まア〳〵お目あてにして来た古靱の「すしや」が満足に椎の木から聴かれ見られるのをセメテもの……と廊下ヘゴロついて前の下馬評を何やかや聰いて廻つた。
『十種香』の前に『桔梗ケ原』だけをつけて何になる、筋も通らず意味を成さない事をする、とムキになつて怒つてゐる人もあつたが、それは野暮でゲセウよ、錣を聴かせるその前に客寄せの太鼓代り、遊ばせても置かれぬ処から若い連中にカケ合でもつけさせるといふ寸法の、それならどうだ『桔梗ケ原』をとなつたものだらう。でその錣の出来栄はといふと、テンデ成つちやアゐねへや、あんな赤姫が江戸ぢやア緞帳芝居にだつてありやしねえ、と恐ろしくホザク友人がある。それが錣の床ばかりではなく、人形の方の紋十郎の八重垣姫だつてカラどうも、と来る。アヽ見ないで可かつといふ事になるが、しかし、土佐の堀川は、結構なものなる事いふまでもない。栄三の与次郎、文五郎のおしゆんと来れば見ないでもこれも結構、とまアさう極めておいて、早や開幕のしらせに、ひやりと気味のわるいほど涼しい場内の椅子にかける。
『東オー西イ、義経千本桜、語りまするは竹本可美太夫、三味線野沢吉貞、愈々椎ノ木の段とうーざい〳〵』と黒衣の口上例によつて場内をしイんとさせる。紙四五枚でクルリと廻り相生太夫、清二郎が権太のゆすり場、鏡太夫、吉左に替つて、これが小金吾討死、更らに廻つて愈々お待兼の、古靱太夫友次郎の「寿司屋」となつた。
この「寿司屋」東京では少くとも古靱の初役である。先づ嬉しかつたのは最初の紙一枚が既に立派なすしやになつてゐる。と解らぬながらうなづかせて呉れたのである。巧さ〳〵、語り込まれてボーツとなるほどの巧さに驚く、あのダレ場の内侍六代のくだりでも息も吐かせない。お里のさはりに至つて此の人としては、声の調子の好かつた事、おやおやとおもふばかりに可愛いお里が出来上つたのも嬉しいものゝ一つであつた。友次郎の名絃亦た頗る我意を得たりで、手すりでも栄三の権太、文五郎のお里、とやかくいふべきものでなく、小兵吉の母親が何もせぬ中に滋味の溢れたのも好く、紋太郎といふ人の若葉内侍が目につくほどの出来栄えを見せた、唯だ内侍の人形の着付の色が気になつた。何か青みがゝつたものにして品位を見せたい。門造の梶原が人形も無論大きいが、よく意気を入れて見せた。この梶原に至つて残念ながら津太夫といふ人の腹の強い、大物語りを想ひ出させたが、権太の戻りになつてから落入りなど古靱、友次郎二氏の床は無類の絶品に数へられるものであらうと思つた。
切りの「道行」は割愛した。
▼七月四日(二回目)
けふは聴きたいとおもふ土佐の「酒屋」があるからと、前回に懲りて少々早目に出かけて行つたが、やはりもう錣太夫の『長局』の段切りであつた。紋十郎のお初が遺恨の草屐を以て半狂乱の処であつた。例のからす啼きはちよつと聴きたくもあり見たくもあつたのと、それから栄三の尾上が見たかつたやうな気がする。
『酒屋』の端場は鏡太夫が受持つて、例のお通の捨子の条があるから筋がよく判つて可い。床も人形もいふ処はない。愈よ土佐太夫吉兵衛の出になつて人形も出づかひになる。此の前、東上の折、たしか素語りであつたと覚えるが、此の人の酒屋は正に結構なものと謹聴したが、今度もさすがにおもしろかつた。近来此の人は益々名人芸を聴かして呉れるやうにおもふ、全体からいふと昔から好きな人でも無かつたが、やはり結構なものは結構であたまの下るのを感じた。人形では一幕中の出来は小兵吉の宗岸である『丸い天窓の光りさへ』の出からして、立派に宗岸になつてゐる。『さゝ、まづお上りなされませ』の女房の言葉に、門口で文五郎のおそのと、うなづき合つてはいる処など堪らないほどの好さであつた。
次ぎは古靱太夫、友次郎の『岸姫』で、これも小生初見参の問題劇である。端場はつばめ太夫がはつきりとよく判るやうに聴かして呉れる『あとに藤巻唯一人』からが古靱である。大体に於て自信もあるものだらうから、結構なものに相違ないが、初日のすしやに聴いた美声がどこへか行つてしまつて、例の難声に近い古靱になつてゐた。どうも此の人は直ぐに声を潰して了うやうで、気の毒な事である。手すりで一等の出来と感心したのは政亀の藤巻であつた、割合に役が付かない人だが、この大役をこれだけにこなしたのは豪い。小生はズツと昔から此の人が好きで目をつけてゐるのであるが・・・・・・栄三の与茂作は無論上等だ、文五郎のおそよはどうやら投げてゐるやうに思へたのは、あんまり後ろ向きの片手つかひなどを『どうだ』といふ風に見せるその反感かもしれぬ。だがしかし、後ろ向きで泣く処など実に人間の俳優などには出来ぬよい形ちを見せるのには一言も無い。
切り、八段目の『道行』は又た失敬する。
▼七月七日(三回目)
駄弁が長くなつた、日記帳の抜萃にして大に駆足となる、「朝顔」の通し明石の舟別れから浜松小屋、宿屋と見せたのは非常によいのであつたが、又た出おくれてテンデ見ず、鏡太夫が大阪に残して来た病妻の死目にも会へず、宿屋の「笑ひ薬」のくだりを語つてゐるのは、同情に堪へない悲劇である。聴き落したが土佐の『宿屋』は克明で、稀らしくも例の笆久藏のくだりも出してゐたと聴く。
次の古靱はこれも今度の問題になつてゐた「妹脊の門松」「質店」である。皮足袋の強意見は栄三の遣つた久作の人形と共に感に堪へさせたものであつた。蔵の前になつて例の皮文章も東京の見物には珍奇なもので難有い事と申さうか、お染も久松も結構、殊に久松が好いなと思つた。錣の『御所三』は半ほど聴いたが、相当なものだつた。玉松の弁慶がよく遣つた、紋十郎のおわさも達者に動いた。 切りは「阿古屋」のカケ合、贅沢なやうだが割愛した。
▼七月十日(四回目)
今度は古靱が前へ廻つて太功記、配膳から妙心寺(相生太夫)夕顔棚(つばめ太夫)尼ケ崎と通した。妙心寺の人形は初めて見たが光秀の馬上の出陣が非常におもしろかつた。ヒラリと跨がる所など栄三懸命の舞台、馬の足も歌舞伎のやうに不合恰でなく立派なものと感心する。さて十段目だが、御大得意の語り物、初中後とも殆んど閒然する所もなく、益す円熟の境地に進んで来た事を喜んだ。徒らに弾きまくる事なしに、よく太夫を扶けて味のある絃を聴かせる友次郎が、右手を痛めたとかで、中ほど『操の鏡』で小春太夫の合三味線重造と更代したのはちょツと危ぶませたが、重造も懸命である、後半のタヽキを遺憾なく勤めたのは名誉であつた(後に聞けば三日目の千秋楽の日には友次郎が全段を勤めたが、やッぱりさすがに違つたものだといふ事である。)
中が土佐太夫が何年振りか、小生等無論初めての紙子仕立両面鑑「大文字屋」である。予て土佐の得意物とは承知してゐたが、聴いて見るとこれは又た天下の絶品、妙技至芸に驚かされた、酒屋に敬服した小生はこの一段に至つて完全に土佐びゐきの一人になつて了つた。仁左衛門が得意で出す歌舞伎、小生の若い時分初代の住の助や鶴沢花友などゝいふタレ義太が時折聴かせてくれた大文字屋がこれほどおもしろいものであらうとは思はなかつたことを告白する。文五郎のお松、政亀の栄三郎、小兵吉の助左衛門、玉七の母親などいづれもよく太夫の出す情緒に乗つて、殊に栄三の手代権八が大ハシヤギにはしやいで、しばらくは我等をして夢に夢見る心地に誘つた。
次は錣太夫の『三十三間堂』で紋十郎がお柳を、政亀が平太郎を、玉幸が和田四郎を、小兵吉が老母を遣つた。最後の木やりの舞台がおもしろかつた外、取り立てゝ言ふ所もない。切りは小春太夫とむら太夫の「揚屋」例によつて、大文字屋の評判をくりかへしながら帰りを急いだ。以上