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【 田中煙亭 沼津廃曲・下手糞友次郎 】

(2023.03.01)
提供者:ね太郎
 太棹 114号 2ページ
 
 沼津廃曲・下手糞友次郎
   -天狗雑誌の一記事問題となる-
   田中煙亭
 富取さん--
 大阪の、俗に天狗雑誌といふのに、津太夫や友次郎がコキ下されてゐるのを見て、我慢が仕切れず、近江さんが、『樋口吾笑氏に』(天狗雑誌の社長さん)と題する一文を、あなたの『太棹』誌に投ぜられた。それを読んで僕は、近江さんは持ち馴れぬペンの事でもあり、短文でもあり、大分言ひ足りぬ節はあるが、大体御尤もであるとおもつてゐた。処が、最近の天狗雑誌に、同誌同人と名乗つて武智某先生が『近江清華様に』と題し、縷々実に数千言を費やして、極めて、巧妙皮肉なる文辞を連ねた反駁論?既にあなたも御覧になつた事とおもひます。
    ○先づ、その問題の天狗雑誌の文楽座芸評に就き、近江さんは、鴻池、樋口、森下の三氏、と書いて同じ同人で、同批評会の一員に連なつてゐた武智先生の名を逸したのが、抑も此の駁文を書かせたやうになつてゐるのは聊か滑稽ですね。武智君は、自分の名を挙げられなかつたのは、自分の評が適切であると認められたのだ、男子は知遇に感ずる、といふ風に先づ皮肉--あまりにあざといが--を言ひ、その御礼の印御恩に報ずる途として此の文を草する、といふのだが……
    ○
 近江さんが『小三十年間楽しみとして浄るりを学んだ』と言はれたのを捉まへて、中学生の例を引き、得意の冷評を浴びせてゐるが、何も、玄人になる訳ではなし、又た雑誌の同人となつて批評を専門にするといふのではなし、趣味として、所謂素義の仲間に入つて、同じ芸術の大家を師と仰ぎ、或は文楽の連中をひゐきにしてその後援に尽す、近江さんとして、これを楽しみといふに何の不思議があらうやでせう。
    ○
 富取さん--
 それから、ちんばの吉三郎、後の吉弥が二十六の年に、名人組太夫の相三味線を勤めたといふ、例の三羽烏の言ひ立てから、先代大隅が紋下になつたのは三十八歳(これは四十一二ではなかつたか)とか、組太夫は三十六で紋下になつたとか、ツマリ豪い人は年は若くても豪いといふ……そんな事は仰ツしやる迄もない事で、近江さんの三十年月謝を払つたといふ事の攻撃と共に、自分や鴻池は二十何歳の若い者だが、天狗雑誌の三羽がらすだぞ、やがて批評界の紋下になるんだぞ、といふ訳らしいが、随分背負ツてる人達だとおもひますね。殊に此の項に於ては『七十七の爺さんや一知半解の先輩から智慧をつけて貰はなくては……』などゝ、それが性分とはいひながら、思ひ切つた毒筆を哢するあたり、少々嫌やになりますね。御自分方も、土地のお年寄りに物を教へられて、今日それだけに豪く?なつた事を忘れたやうに、又た今でもどこかへ駆け付けてはゐないかのやうに……少し臍茶ですよ。
    ○
 次の項は、好き不好きの問題で『文楽』誌上の西村紫紅氏に対する反駁となり、「批評家の任務」を説き、続いて、コレラやペストの例?を引いて「批評の意義」に関するお講義をはじめたのはちよツと驚ろかされましたね。社会に対する悪影響だとか、浄るりの正風を知らしめるとか、恐ろしく大きく出てゐますね。西村氏に『冷評熱罵』と叱られた、と書いてゐるが、冷評熱罵は、時に批評として勢ひ已むを得ない事もありますが悪罵、毒筆は、なるべく慎しみたいものですね。
    ○
 次は津太夫の沼津問題でしたね。『津太夫の沼津を当今随一とするならば、今日沼津の語れる太夫は一人もなく、むしろ沼津を廃曲にする方がましだ』といひ、又た『まるで浪花節のやうだといふのは、どう考へて見ても、暴論ですよ、さうは思ひませんか、九代目団十郎が死んでから『勧進帳』はまだ廃曲?にはならないでゐる。当代随一なら、それで我慢すべきでせう。無論正気で言つた訳でもなく、そんなもんだといふ位の意味での廃曲論とは思ふが、こんな常識は人騒がせですね、解らない人は本当にしますよ。『沼津は、前の小アゲが咲太夫風(これは男徳斎になつてからの初演と覚える)後の染太夫との照り合が十分に出来なければ……』などゝ、丸で、つい此の間咲太夫や染太夫を聴いてゞもゐたやうな事を書いてゐる。誰れが今染太夫や咲太夫を知つてゐますか、尤も津太夫の、『お米はひとり物思ひ』は染太夫風ではない、といふ事は私も聞いてゐるが、全一段を通して、アレ丈の沼津を語る人は先づ無い訳で、テツや、言ひ損ねを数へ立てれば、無論随所にあらう。それは、古靱太夫でも、土佐太夫でも、大隅大夫でも、錣太夫でも探せばいくらでもあるだらう。しかし、それを注意するには文句は無い。廃曲にしろの浪花節だの、は、暴言、漫罵、毒筆でなくて何でせう。津太夫などは老先が短かいから、忠告や注意では追ツ付かぬから咽を締めるといふのです。堪りませんね。僕は、アノ人達が『さう思ふ』とか「さうではあるまいか』とかいふ風に批評するなら好き不好きもあらうし、聴いた時の感じもあらうし、十人十色で拠ろない。唯だ判る筈のない古人の芸風や上るりの正風やを独断的に断定する強烈なる自信力に驚き且つ呆れるのです。古人になつた石割松太郎君なども、僕は彼が東京の都新聞に居た頃から知つた人だが、どうも津太夫といふとよくコキ下してゐましたね、シカモ独断的に……序ながら、此処に書添えておきたいのは、あなたの太棹で、斎藤金太郎氏が熱心に研究してをられる例の三ナク道問題ですがね、この天狗雑誌の三マク説に就て、鴻池、武智、樋口の三先生が、同人森下氏の三マク説に対し『正当なる理窟です、大賛成です、本誌同人一同から、紋下に今後は改めて貰ひたいと希望します』とあつたのですが、果して、紋下に対して改めるやうに希望し、忠告したのでせうか、津太夫は最近ラヂオ放送に『沼津』を出して、余りにも明白に、三ナク道と従前通り語り捨てゝゐました。津太夫及び周囲の人もこの天狗雑誌は見てゐたでせうが、彼の先生方の所謂頑愚?にも、過まつて改むるに憚かつてゐるやうで、お歴々四先生の忠言もそれツきり、とは、近頃の所謂面子問題とはおもひませんか。
     ○
 それから古靱太夫の良弁杉に就て、書下しの柳適太夫の事がありますが、これは別に問題とするほどの事もないやうですね、唯だそのアトに例の毒筆、悪罵で、近江さんを『三十年来浪花節を研究なさつたと申しても云々』と、故らに此の場合必要以外の事が書いてありましたね。殆んど喧嘩を売るやうな書き方ですね、若い人は元気ですよ。
     ○
 次は友次郎の下手糞問題ですね。筆者の武智先生も、友次郎の物識りである事は先づ認めてゐるやうですが、物識りと演奏とは別物で『貴方や私がいくら物識りであつても、実際に語る場合には……云々』と御自分の物識りを先づ読者に認めて貰つておいて、それから徐ろに友次郎の演奏が下手糞である、とコキ下ろし、こんな太夫や三味線が紋下に坐つてゐる事は浄るりの発展を阻害する』と素晴らしい大見得を切つてゐるのには驚かされると同時に、僕は、この同人達の此の論議は、どうやら、一種の敵本主義のやうにも思ひなされて、寧ろ、私かに微笑さへ催されるのでしたが、如何でせう。友次郎は、嘗て古靱太夫が、初役で千本の鮓屋を語つた時、弾いて、驚くべき腕の力と冴えを発揮したもので、爾後堂々と紋下の地位を獲得した人で、近頃、病弱もあつて、衰へはしたものゝ、下手糞呼はりは、例の悪罵、毒筆でせう。近江さんの今日の浄曲界に於ける国宝は依然確かに国宝です少くとも、その物知りの点だけでも……近江さんは又た、道八も国宝に数へてゐますね。全く、道八のテーンといふ撥音など、文楽第一といふてもよいでせう。唯だしかし、友松から引上げられて道八となり、先づ津太夫を弾き、最近大隅太夫を--あの大隅の調子の外れ勝ちなのは、道八の強いといつてよいのかどうか、カケ声に脅かされた結果だといふ説もありますね--それから相生太夫の指導に当り、これ亦た早くも別れる事になつて、今後は専ら、芝居の所作事の作曲やら劇場の立三味線専問になるといふ風に、文楽の三絃界第一線を退いた形ちになつたやうですが、近頃の道八の撥捌きを聴くと、どうか、人形を動かすよりは、今では、人間を動かす方に適した足取りに聴かれるやうですね。新作の節付けに至つては、此処にいふべき余裕もなく、又た問題外でありませう。
     ○
 次は、人形に関してゞすが、これは、近江さんの太棹の書き方も、簡単過ぎて意を尽くさなかつたやうですがね。何も『栄三自伝』といふ書物を読むまでもなく、栄三が鏡山の尾上を遣ひ、廿四孝の八重垣姫を遣つた事は、近江さんだつて知つてゐる筈ですね、唯だ、栄三が、現在荒物使ひの名人として、十目の認むる処となつてゐる為めに、栄三は立役専門であり、文五郎は女形専門といふ意味だツたらうとおもふ。文五郎だつて、前には立役を遣つた事もあります。又出るが九代目団十郎が妹脊山のお三輪で、顔こそ美しくは無かつたが、立派に満場をどよめかしたやうに、加役の出来ないといふ事は無いのですね。天狗雑誌の同人仲間では『文五郎に女形は遣へませぬ』と評してゐると武智先生は言つてゐるが、それは例の毒筆、悪罵、皮肉、殺人?的の言辞でせう。僕だつて、文五郎が、ともすれば舞台の真中にのさばつて傍若無人の動きや、肝心の性根場でサボツて奥へ引込んでしまうやうな事に、一種反感のやうな憤慨をする場合もあるが、女形は女形です。紋十郎よりは正に巧いのです。イヤ兎に角アノ人達は、埒を越えて極言するのを能事と心得てゐるやうに見えるのは困りものですね、と言へば、堂々たる態度で、それは批評家の任務であり、批評の意義である、と常に大に苦しんでゐるらしいですね。
     ○
 コヽに哀れを留めて、気の毒な、同情に堪えないのは天狗雑誌のぬし樋口吾笑君ですね。吾笑君が昨年来、遽かに、編輯上の態度を一変して、同人制を採り、甦生の意気に燃えつゝ、誌面を刷新された事は、僕等も頗る結構な事として、時には痛快を禁ぜざる旨を私信で申述べた事もある位だが、痛快も度を超えると困つた事になる。今度も恰度五十義会で上京して、此の事が、問題になつてゐる旨を聞いた吾笑君は、近江邸を訪ねて釈明陳謝したといふ事をけふ始めて伝聞しましたが、全く気の毒千万な事です。陳謝は無論一片の儀礼かも知れません。所謂同人といふ豪い先生方と樋口君との間の誌面提供に就ての条件や何か、そんな裏面の消息は無論我等門外漢の知る処では無いが、樋口君が、東京へ来て、近江さんの前に頭を下げてゐる時分、大阪では、先生方、天狗雑誌を前にして、この武智先生の書いた頁を開いて『ヤ痛快だ、おもしろいね、東京では皆などんな面をしてゐるだらうか』などと、若い人達の事だ、手を打つて楽しみ合つてゐる光景が、何かこう、眼前に髣髴たるものがある。武智先生は曰く『今日まで執つた態度は、飽くまで固守し、持続する念願』であり、これが複雑怪奇ならざる常識であるといふのであり、どこまでも気の毒なのは、吾笑樋口君である、とおもひますが、どうでせう。
     ○
 武智某の最後の皮肉は、観西翁に関する事でしたね『とにかく一度も聴いた事は無いが、私(武智)が信頼してゐる耳のある人達の間では、氏の芸術は、あまり好評を博してゐない』といふのですね。これは〳〵御挨拶で、何しろ七十七の老人ですが、どうか一度、常識を用意して聴いて上げて下さい、と言ひたいですね、素人の紳士連でも、時には仲間の事となると、蔭ではあまり好評を奉らないもので、殊に芸人根性の、芸天狗と来ては、蔭で、好くいふ筈はありませんよ。耳なんぞあつても無くつても、どの社会でも同じ事ですよ。悪評で無ければ、歯の浮くやうな世辞評を言ふものですよ。僕等は情ない事には、大阪のやうに豪い人達を沢山持つてゐない東京に住んで、勝鳳、松太郎の両師相踵いて逝いた今日、語りでも三味線でも観西翁を第一指に数へない訳にはゆかないのですからね。文楽の人達でも、東京へ来て、現に此の間も呂太夫が観西翁の処で、日吉丸を聴いて--教はつたとは言はない--文楽に上演する、南部太夫は野崎村をといふ風に、いろ〳〵の人が聴きに来るのですからね、まア斯道の物知りでせう。殊に観西翁は、七十七にして未だに三味線の拍手が乱れぬのと、も一つは、絃に艶が抜けてゐないのは芸界稀れに見る珍らしいものです。第一まだ元気は頗る旺盛らしいから、下手糞な友次郎や、芝居の床に現はれるやうになつた道八が国宝だとすれば、観西翁を国宝としても宜しいでせう。さうちや無いですか。
     ○
 富取さん--
 武智某の文章を縷々数千言と冒頭に書いた私が、これは又娓々数万言かも知れぬほど、長々と書きなぐツてしまひました。恰度けふ閑だツたものですから……誌面にお載せになるならぬは随意です。何しろ此の問題はあなたの雑誌へ近江さんの感想を載せたから起つた事です。我慢して下さい。返へす〳〵も暴言、悪罵を、同人なるが故に載せねばならぬ樋口君は気の毒です。まだ書きたい事も沢山あるやうな気がするが、この位にしておきますが、じツと考へて見ると,天狗雑誌が四五頁を費やして並べた皮肉も、私がこんな長い手紙をあなたに上げた事も、斯道、浄曲界の為めに、どれだけの貢献をするでせう、ゼロです、寧ろ無駄です、或は害毒かも知れません、この紙飢僅の折も折……誠に以て申訳がありません。