《 其ノ〇 『鴻池幸武文楽批評集成』増補 》

【1】正誤
 ・P88 L1 誤:十七頁三段目七行目 → 正:十七頁二段目七行目

【2】備考
 ・P347 L1 ◇二代目豊竹古靱大夫 … 文楽座櫓下披露興行昭和十七年一月の床本に原稿提供

【3】研究
 ・奇蹟を創る人々 ――文楽の三味線弾きの話―― 武智鉄二 (「幕間別冊」文楽号 昭和二十二年七月) 
  神戸の街が空襲で焼き払われるずっと以前――たしか昭和十七年の夏のことであった。中山手の道八の家へ、山城少掾(当時古靱太夫)が伊勢音頭の油屋の稽古に十二三日間通ったことがあった。その時私は亡き鴻池幸武君(この人は文楽研究史上稀有の天才であったが、昭和二十年ルソン島で三十二歳の若さで戦死した。吉田栄三自伝、道八芸談の二名著がある)に誘われて、その稽古を聴かせて貰った。山城は道八の語るのを一週間じっと聞いていて、八日目からやっと口を開けたが、私のきいたのは確かその二日目であった。
道八の油屋は極め付だが、山城は勿論初役であったにも拘らず、イキとマとの面白さは、とても稽古だとは思えなかった。その内に十人斬になって「水もたまらずきり落す」で、古靱が「斬りツ」とつめて語る、道八がテヽンツン弾くと、傍できいていた私は、確かに脳天から唐竹割にせられたと感じた。いや、感じたどころではない。盧頂骨の辺りに実際に痛みを覚えた。その傷痕はいまだに私の頭に残っている。こゝを道八に斬られました、と今でも私は人に示すことが出来る。私は鴻池君の方へふりむいた。鴻池君も同時に私の顔を眺めた。二人はそうやってしばらくポカンと顔を見合せていた。「片足丁と斬放せば」でも、「丁」で足が大根でもきるように鮮やかに、山城と道八とのイキだけで斬り放されていた。
  その直後、文楽で山城は清六の絃で油屋を演じた。私は期待して聴きに行ったが、清六の三味線はやっとメスほどの手傷を私に負わせただけだった。道八は私に「清六はよい油屋の三味線を聞いていませんから可哀そうです」と云った。更に、最近「古靭を聴く会」(現在「山城を聴く会」と改称)で織太夫(現綱太夫)団六(現弥七)の油屋を聞いたが、これは太夫が文章を棍棒のようにふり廻して、登場人物をむりやりに撲殺しているだけで、三絃は唯伴奏としか響かなかった。これは現今随一の名人清六や、俊秀弥七を誹謗するつもりで書いたのではない。私は唯、命懸けの芸というものが,次第に無くなり、芸の奇蹟が段々見られなくなった、ということを言いたいだけなのだ。
  (中略)
  昨年死んだ仙糸も名人であった。グアイとモヨウを弾かせて近年この人の右に出る人はない。(中略)兎に角、仙糸の桜宮道行、太子難行などは大したものであった。楼門、桂川道行、三国汐待も素晴しいものだとの事だが、これは聞いていない。私が桜宮をほめると、仙糸は「あれはまだ一ぺんも思うように弾けたことがない」とぼやいていたが、この景事道行の名人に妹背の道行を弾いて貰ってお三輪をつかったある若手人形遣いが、間が合わないと云って「チェッ」とばかり仙糸を睨んだあたりから、今日の文楽の顛落が決定づけられたのである。この名人を栄三と共に陋巷に窮死させたのが、今日の文化国家日本だそうだから、涙がこぼれるほど笑わせるではないか。
  道八も、惟えば、老衰とは云いながら、栄養失調死であった。もう彼の雄渾な布四の「ここに応ふる塵塚や」も哀艶な琴責の「形は派手に気はしほれ」も勧進帳も三番叟も再び聴く事は出来ない。この間も「古靱を聴く会」で清六の三番叟を聞いたが、三番叟の清爽な躍動美では遙かに道八を凌いでいたに反し、翁には道八にきかれる神秘性も雄大な間も清澄な音色も不足していた。勿論清六の近代的感覚が三番叟のダイナミズムに多くの共鳴を覚えたからであろうが、これからの名人芸の在り方について私は深く考えさせられた。而も清六こそ現在文楽に於て奇蹟を創り得る唯一の、恐らく最後の三味線弾きであるのだ。先代御殿で「風炉の炭」といえば炭はパチ/\はぜるし、河庄で「どつと笑ひ」といえば群衆はゲタ/\笑うし、堀川で「それで機嫌がなほつたぞ」といえば猿はキッ/\と啼くのである。道明寺の段切れなどは奇蹟の連続と云ってもよい。その道明寺をすら栄三は「間がせまいので丞相名残という事になりまへん」と批評した。唯この芸の道の奥深いのに慄然とするのみである。
 新左衛門は音色の美しい、ノリの強い、どちらかと云えば呑気な芸風であった。然しスガタの弾き分けなど、ちょっと真似手のない練達さがあった。(中略)末世の文楽しか知らない私でさえも、なお多くの三味線弾きの行った奇蹟を聞いて知っている。然しこの奇蹟も今日では清六ひとりに期待出来るだけである。(以下略)

※上記を、ぺりかん社版『道八芸談』(S62.11)掲載の武智鉄二による「あとがき」と比較すると、この文章がそこに記載されたエピソードの元になったことがわかる。とりわけ重要なのは、「あとがき」において「鴻池幸武さんは、豊竹古靱太夫(山城少掾)の相三味線で、山城と喧嘩別れをして有名になった四代目鶴沢清六(東京では名人と信じられていた)のことを、てんから認めていなかった。」と記されている部分である。『批評集成』第一部で考察したとおり、鴻池自身は四代清六を高く評価しており、この記述との齟齬は等閑視できない。ところが、上記文章には「現今随一の名人清六」「清六こそ現在文楽に於て奇蹟を創り得る唯一の、恐らく最後の三味線弾きであるのだ」とある。しかも、「あとがき」で鴻池が清六を認めていない例として持ち出された「道明寺」段切についても、「道明寺の段切れなどは奇蹟の連続と云ってもよい」と記しているのである。これらは鴻池の清六評と軌を一にしており、「道明寺」段切に付記した栄三の言葉なども、鴻池の聞書そのままと言ってよいものである。すなわち、武智は鴻池戦没後も引き続いて鴻池文楽評(団平―道八、新左衛門、仙糸の評価を含めて)の影響を強く受けていたことになる。では、なぜ「あとがき」においては清六を酷評したのか。それは、「山城と喧嘩別れをして有名になった四代目鶴沢清六(東京では名人と信じられていた)」 との叙述から明かである。そしてそこに、かつての盟友であり夭折した天才鴻池幸武も同じ思いであったという記憶の補正がかけられたのであろう。