《 其ノ〇 『鴻池幸武文楽批評集成』増補 》

【0】書評
 ◎毎日新聞 2020年(令和2年)2月2日付10面 今週の本棚 渡辺 保 評
 (紙面中央部・約1,500字)
 
 https://mainichi.jp/articles/20200202/ddm/015/070/011000c (会員限定有料記事)

【1】校訂
 口絵 鴻池幸武自筆書入本 〔翻字〕 三四 四行目 定めて思わしことのあるであろ → 定めて思合たものあるであろ

【2】拾遺 (文字表記等については「収録に際して」に基づく)
 「勾欄雑筆」 『中央演劇』第四巻第二号 昭和十四年二月一日発行
[考察]
「勾欄雑筆」は、扱っている対象が「4 初春の文楽座」と同じである。特徴的な内容としては、栄三と古靱の談話(古靱については手紙も)が引用されている点で、前者は人形の持ち役の多さについて、後者は大隅の『日向島』についてが主眼となっている。また、各演目ごとに近世の名人についての話題が示され、青竹の勾欄問題に関する言及もある(この問題については「36 文楽評の評」中に記述がある)。このように内容が多岐に渡っているのは、「勾欄随筆」が文楽に関する随筆という大まかなものだからで、一方の「4 初春の文楽座」には劇評(芸評)という確固たる枠組みがある。なお、編輯後記に「鴻池氏は演劇研究の新人で、「吉田栄三自伝」の近著がある」と紹介されている。

 「操雑筆・浄瑠璃の風のことども」 『浮世絵芸術』第四巻第七号 昭和十年七月十日発行
[考察]
「操雑筆・浄瑠璃の風のことども」は鴻池幸武による最初の文楽批評であり、当時彼はまだ早稲田大学の三回生であった。内容は浄瑠璃が三業による総合芸術であること、浄瑠璃の音楽的研究は「風」を対象としていること、そして「風」は五段形式が基になっていることの三点である。とりわけ「風」については題名に示されてある通り多くの紙面が割かれており、その定義も記されている。「6 五月の木挽町 付・浄瑠璃の「風」に就いて」と比較すると、全体として一般的かつ丁寧な説明が加えられているが、中身としては師石割松太郎の論説を踏まえたものとなっており、鴻池が浄瑠璃研究家としての地歩を固めつつあったものとしてよいだろう。

 「『競伊勢物語』に就きて」 『浮世絵芸術』第四巻第十二号 昭和十年十二月十三日発行
[考察]
「『競伊勢物語』に就きて」は、鴻池幸武による最初期の批評である。主題は、東京明治座における歌舞伎上演(昭和一〇年一〇月)の劇評であるものの、前半に、『競伊勢物語』についての考察が、その梗概も含めて展開されており、人形浄瑠璃のそれに関しても、「風」に言及しながら記されている。杉山其日庵『浄瑠璃素人講釈』中の記載と一致するところも多く、参照した可能性が高い。この掲載により、『浮世絵芸術』誌上では、「操雑筆・浄瑠璃の風のことども」と併せ、半年間に二本の執筆となったが、当誌昭和十年十一月号「後記」に、「石割松太郎先生の御厚志はまことに有難い。門下数氏は、毎月健筆を揮われ、私等の裨益するところ極めて大である。こうして江戸時代の文学に関する研究を発表してもらうと、浮世絵のことも分るように思える。新進の着実な真摯な態度が、嬉しくてならない。」とあることから、その背景が理解できよう。

【3】備考
 P88 L1 十七頁三段目七行目 → 十七頁二段目七行目 (劇評には「三段目」とあるが、床本では二段目に「人の出世」がある。)

 P155 L6-8 いつかも特急の富士に事故があって展望車が破損した時大騒ぎをして富士の通過時刻に駅へ行って列車を見て「今日富士には燕の展望車が連結してありました」と私の処へ電話かけて来たことがあった。
 …二十九日午前二時三十三分ごろ東京発下関行各等特急富士(中略)が岡山駅下り一番フォームに停車中、大阪発広島行二、三等臨急一一〇一号列車(中略)が追突、大音響とともに一一〇一号機関車が富士に追突して富士の後尾の展望車に四米ほど喰込み機関車、展望車は大破、(以下略)「大阪朝日新聞」1937.7.29号外
 …1937年(昭和12年)7月29日午前2時34分、天気小雨。岡山駅に3分30秒延着した急客第l列車(特別急行列車「富士」号、機関車C53 62号、現車11両換算45.5両)が、4分の延発でまさに発車しようとしていたところに、後続の臨客第1101列車(機関車C51 77号、現車8両換算25.5両)が追突した。原因は、信号所掛員の取扱い失念によって、富士号が停車していた岡山駅l番線の遠方信号及び場内信号が進行となっていたためであった。追突した臨客第1101列車のC51 77は、第l列車の最後部「スイテ37010」に約3.8メートル食込み展望室を大破した。(中略)大破した「スイテ37010」は廃車となるような被害規模であったが、展望車であったことから後日復旧した。「第11章 主な事故 11・2 岡山駅列車追突事故」『国鉄鋼製客車史第2編 スハ32形(スハ32600)の一族〈下巻〉 長形台枠、モニター屋根の客車』2006.7、p218(なお、同頁には事故現場の写真が、次頁には破壊された展望車の写真が複数枚掲載されている。)

 …鋼製一等展望車として最初に設計した形式で、1930年(昭和5年)3月に大井工場で3両が落成し東鉄に配属した。展望室は洋式構造で東京日本橋にあった白木屋デパートの内装に似ていたために白木屋式とも呼ばれた。(中略)1931年(昭和6年)に特急「つばめ」用展望車に使用するため、スイテ37002をスイテ37030に改造し、1941年(昭和16年)の称号改正では残った2両がスイテ38形になった。「第2章 形式別概要 2-1スイテ38形(スイテ37000形)」『同』p89
  1930年(昭和5年)10月1日、東京〜神戸間に新設の特別急行列車、第11、12列車「つばめ」号が運転を開始したが、列車設定当初は一等展望車の連結はなかった。(中略)翌年8月にスイテ48形(スイテ37020)が大井工場で2両落成して9月4日から置換えられた。「同 2-3スイテ48形(スイテ37020形)」『同』p94

  [「今日富士には燕の展望車が連結してありました」とあるのは、上記のスイテ37030、スイテ37020のいずれであったのか。]

 P239 L1 この度、創造劇場で … パンフレットには「昭和15年5月27・28・29日 飛行館」とある(参考:入場券半券
          但し、「第一回試演を五月二十七八日、飛行館で開催した。」(渥美清太郎「創造劇場の「太功記」」『演劇画報』第三四年七号)、「廿七日 大谷広太郎を中心とした大谷友三、平沢鴻太郎、大谷門二郎、小百合葉子当の劇団、創造劇場誕生、二日間飛行館に第一回試演を開催」 (「付大正昭和日本芸能史」『宝塚歌劇四十年史』一二九頁)

 P337 L3 文楽座 … 竹本攝津大掾廿五年追善興行(昭和一六年一〇月興行)

 P343 L4 豊竹古靭大夫が櫓下を襲任した … ちょうどこれと反対に私が櫓下になりました折、大阪の鴻池幸武さんと武智鉄二さんとが、祝いに下さいました肩衣は、古代布で能の衣裳を作っている家に註文されたものとかで、この肩衣はまるで着ていないのもおなじように軽くて気心地よく、防水布の肩衣を思い出して清六さんと笑ったことがございます。この古代布の肩は東京では昨年の暮新橋演舞場の出開帳で、鬼界ヶ島を語りました折に着けましたものでございます。(安藤鶴夫『古靱芸談』一〇六頁)

 P347 L1 ◇二代目豊竹古靱大夫 … 文楽座櫓下披露興行昭和十七年一月の床本に原稿提供

 P363 L1 吉田玉次郎の死は … 「文楽の人形頭取吉田玉次郎師(本名後藤吉久)は宿痾の神経痛にて臥床加療中の処、三月十三日正午大阪北区山崎町の自宅で逝去した。享年六十九。」(「吉田玉次郎師の死を悼む」『浄瑠璃雑誌』四〇八)

 P408 L1 和泉太夫の死は … 「しかしそれから一ヶ月も経たぬ九月十七日の夜、前日急逝の報を受けとつて、全く思ひがけないことで愕いた。   九月はじめ南座へ出演したのが最後の床で、その前後、怪我したところから黴菌がはいつてひどく腫れ上り、西宮の懐仁病院へ入院中、黄疸の症状を呈し、食物を全然受けつけず急に歿くなつたのだといふ。」(辻部政太郎「和泉太夫の事」『浄瑠璃雑誌』四一三)

 P411 L5 新作の事 … 東京公演での新曲は、第一回外題の西亭作曲作詞「景事 義士桜」、第三回外題の西亭作詞作曲「出陣」、第五回の新曲「末広加利」(番付にはないが鶴沢重造作曲)

【4】研究
 奇蹟を創る人々 ――文楽の三味線弾きの話――」武智鉄二 (『幕間別冊』文楽号 昭和二十二年七月) 
神戸の街が空襲で焼き払われるずっと以前――たしか昭和十七年の夏のことであった。中山手の道八の家へ、山城少掾(当時古靱太夫)が伊勢音頭の油屋の稽古に十二三日間通ったことがあった。その時私は亡き鴻池幸武君(この人は文楽研究史上稀有の天才であったが、昭和二十年ルソン島で三十二歳の若さで戦死した。吉田栄三自伝、道八芸談の二名著がある)に誘われて、その稽古を聴かせて貰った。山城は道八の語るのを一週間じっと聞いていて、八日目からやっと口を開けたが、私のきいたのは確かその二日目であった。
道八の油屋は極め付だが、山城は勿論初役であったにも拘らず、イキとマとの面白さは、とても稽古だとは思えなかった。その内に十人斬になって「水もたまらずきり落す」で、古靱が「斬りツ」とつめて語る、道八がテヽンツン弾くと、傍できいていた私は、確かに脳天から唐竹割にせられたと感じた。いや、感じたどころではない。盧頂骨の辺りに実際に痛みを覚えた。その傷痕はいまだに私の頭に残っている。こゝを道八に斬られました、と今でも私は人に示すことが出来る。私は鴻池君の方へふりむいた。鴻池君も同時に私の顔を眺めた。二人はそうやってしばらくポカンと顔を見合せていた。「片足丁と斬放せば」でも、「丁」で足が大根でもきるように鮮やかに、山城と道八とのイキだけで斬り放されていた。
その直後、文楽で山城は清六の絃で油屋を演じた。私は期待して聴きに行ったが、清六の三味線はやっとメスほどの手傷を私に負わせただけだった。道八は私に「清六はよい油屋の三味線を聞いていませんから可哀そうです」と云った。更に、最近「古靭を聴く会」(現在「山城を聴く会」と改称)で織太夫(現綱太夫)団六(現弥七)の油屋を聞いたが、これは太夫が文章を棍棒のようにふり廻して、登場人物をむりやりに撲殺しているだけで、三絃は唯伴奏としか響かなかった。これは現今随一の名人清六や、俊秀弥七を誹謗するつもりで書いたのではない。私は唯、命懸けの芸というものが,次第に無くなり、芸の奇蹟が段々見られなくなった、ということを言いたいだけなのだ。
(中略)
昨年死んだ仙糸も名人であった。グアイとモヨウを弾かせて近年この人の右に出る人はない。(中略)兎に角、仙糸の桜宮道行、太子難行などは大したものであった。楼門、桂川道行、三国汐待も素晴しいものだとの事だが、これは聞いていない。私が桜宮をほめると、仙糸は「あれはまだ一ぺんも思うように弾けたことがない」とぼやいていたが、この景事道行の名人に妹背の道行を弾いて貰ってお三輪をつかったある若手人形遣いが、間が合わないと云って「チェッ」とばかり仙糸を睨んだあたりから、今日の文楽の顛落が決定づけられたのである。この名人を栄三と共に陋巷に窮死させたのが、今日の文化国家日本だそうだから、涙がこぼれるほど笑わせるではないか。
道八も、惟えば、老衰とは云いながら、栄養失調死であった。もう彼の雄渾な布四の「ここに応ふる塵塚や」も哀艶な琴責の「形は派手に気はしほれ」も勧進帳も三番叟も再び聴く事は出来ない。この間も「古靱を聴く会」で清六の三番叟を聞いたが、三番叟の清爽な躍動美では遙かに道八を凌いでいたに反し、翁には道八にきかれる神秘性も雄大な間も清澄な音色も不足していた。勿論清六の近代的感覚が三番叟のダイナミズムに多くの共鳴を覚えたからであろうが、これからの名人芸の在り方について私は深く考えさせられた。而も清六こそ現在文楽に於て奇蹟を創り得る唯一の、恐らく最後の三味線弾きであるのだ。先代御殿で「風炉の炭」といえば炭はパチ/\はぜるし、河庄で「どつと笑ひ」といえば群衆はゲタ/\笑うし、堀川で「それで機嫌がなほつたぞ」といえば猿はキッ/\と啼くのである。道明寺の段切れなどは奇蹟の連続と云ってもよい。その道明寺をすら栄三は「間がせまいので丞相名残という事になりまへん」と批評した。唯この芸の道の奥深いのに慄然とするのみである。
新左衛門は音色の美しい、ノリの強い、どちらかと云えば呑気な芸風であった。然しスガタの弾き分けなど、ちょっと真似手のない練達さがあった。(中略)末世の文楽しか知らない私でさえも、なお多くの三味線弾きの行った奇蹟を聞いて知っている。然しこの奇蹟も今日では清六ひとりに期待出来るだけである。(以下略)

※上記を、ぺりかん社版『道八芸談』(S62.11)掲載の武智鉄二による「あとがき」と比較すると、この文章がそこに記載されたエピソードの元になったことがわかる。とりわけ重要なのは、「あとがき」において「鴻池幸武さんは、豊竹古靱太夫(山城少掾)の相三味線で、山城と喧嘩別れをして有名になった四代目鶴沢清六(東京では名人と信じられていた)のことを、てんから認めていなかった。」と記されている部分である。『批評集成』第一部で考察したとおり、鴻池自身は四代清六を高く評価しており、この記述との齟齬は等閑視できない。ところが、上記文章には「現今随一の名人清六」「清六こそ現在文楽に於て奇蹟を創り得る唯一の、恐らく最後の三味線弾きであるのだ」とある。しかも、「あとがき」で鴻池が清六を認めていない例として持ち出された「道明寺」段切についても、「道明寺の段切れなどは奇蹟の連続と云ってもよい」と記しているのである。これらは鴻池の清六評と軌を一にしており、「道明寺」段切に付記した栄三の言葉なども、鴻池の聞書そのままと言ってよいものである。すなわち、武智は鴻池戦没後も引き続いて鴻池文楽評(団平―道八、新左衛門、仙糸の評価を含めて)の影響を強く受けていたことになる。では、なぜ「あとがき」においては清六を酷評したのか。それは、「山城と喧嘩別れをして有名になった四代目鶴沢清六(東京では名人と信じられていた)」 との叙述から明かである。そしてそこに、かつての盟友であり夭折した天才鴻池幸武も同じ思いであったという記憶の補正がかけられたのであろう。 

 ◎鴻池幸武の遺書について…第一部「注(45)」の補足
昭和22年(一九四七年)
7・○[引用注…23より後]
鴻池幸武昭和20年4月比島にて戦死の公報来る(「吉田栄三自伝」「道八芸談」の著者)遺言状[引用注…ゴチ]に曰く「文楽座人形浄瑠璃技芸者の芸道修行を怠らず斯道の繁栄後続に専心せられんことを期せられたし」と。(「戦後の七年史年表」『歌舞伎の七年間』一〇八頁)

 折も折、故鴻池幸武氏の遺言書なるものが発表されそれが唯一事、文楽への激励と存続祈念にあったことが報ぜられた。この遺書は貴い。層一層の努力と愛護とを、われわれも切にこいねがう次第である。(十月一日)(河竹繁俊「東上の文楽」『文楽』第二巻第九号、昭和二二年一二月)

※武智鉄二が転載したものには「芸道修業を怠らず、」とあり、二カ所の異同が存在する。

 ◎鴻池幸武と初代吉田栄三との関係について
  『吉田栄三自伝』中の著名な話に次のようなものがある。昭和二年六月、栄三に『一谷嫩軍記』の熊谷の初役が来た。「熊谷陣屋」において熊谷が物語をする場面の「心にゝるは母人の御事」のくだりで、それまでは藤の局の方へ横目を引いていたのを、栄三は女房の相模の方へ横目を引くようにした。
  この新演出(以後現在に至るまで受け継がれている)について、石割松太郎は『人形芝居雑話』(春陽堂版)の中で、昭和四年五月文楽座の舞台を参考に言及している。河竹繁俊はそれを引用した後に、「人形浄瑠璃研究家の鴻池幸武君の話では、栄三が此の演出を試みたのは、もう一つ前の初役の熊谷からで」(「栄三・人形芸談」『中央公論』昭和一一年九月号三二四〜三三六頁)と記述している。
  『吉田栄三自伝』は鴻池幸武の著作であるから、鴻池の指摘は至極当然のように思われるが、そうではない。同書において鴻池は「この冊子の編纂に着手の為、栄三丈と私が、会見をし始めたのは、昨昭和十二年七月卅一日であった」と述べているので、当該の指摘は栄三芸談の聴取以前のものである。
  昭和一一年当時、鴻池幸武は早稲田大学文学部国文科の四回生であり、翌一二年から同大演劇博物館の嘱託として勤務することになる。鴻池は学部生の段階から、鋭い観察眼と批評精神を以て人形浄瑠璃研究に勤しんでいたわけである。

 以下の記述も、鴻池幸武と吉田栄三との交流を物語るものである。

初め私は、旧友の人形劇研究家広川清君の紹介で、栄三老と相知ったのであった。その後は老が出京して新橋演舞場あたりに文楽の一座を統率する毎に、これと往来し、その木挽町の宿を訪ね、またしばしばこれと会食し清談を重ねるのを楽しみとしたのであった。栄三の芸術の珍しい理解者、今は亡き鴻池幸武君なども若々しい紺飛白の着流しで、老の宿に座り込んでノートをとっている姿を一二度ならず見かけたことがある。(嘉治隆一「名人栄三を憶う」『觀照』一二号、昭和二二年一二月、七頁)

 ◎第二部「16 中村章景の思い出」の補足
かんがえてみると、東海林太郎のように、長く人気のある歌手も珍しい。それは、彼の芸術の魅力によるのは勿論だが、ひとつは、彼の徳にもよるのである。彼の秀作である、戦場初舞台は、彼が大阪巡演の際などによくとまる、旅館京屋のひとり息子、中村章景君の戦死に捧げた花束であった。アレが、新聞に発表された時、或る人は、筆者に向って、東海林太郎地位と勢力をもってすれば、あんな事はなんでもない、といったが、全く利害関係を超越して、生一本の友誼と好意から、売れるか、売れないかか判らない、レコードのために、献身的につくすなどということは、凡人の、とうてい、能く為しうるところではない。東海林太郎の日常を知るものゝみが、よく、彼のまごころを理解するであろう。(山地幸雄「国民娯楽演芸読本」朝日書房、 昭和一七年九月、五八〜五九頁)

※戦場初舞台は昭和一五年五月ポリドール発売(レコード番号P-5011)
佐藤惣之助作詞、服部逸郎作曲、中山正編曲
歌詞カード…すべての漢字に振り仮名があるが、必要なもののみ()内に記す
一、花の歌舞伎の子と生れ/眉を染めたも昨日まで/今日は戦地で 銃(つヽ)をとる/若い精神(こヽろ)の凛々しさよ 凛々しさよ
二、弾丸(たま)のひゞきを合の手に/進む決死の突撃は/馴れた芝居じゃなけれども/今ぞほまれの初舞台 初舞台
三、燃ゆるいのちのこの胸に/来たか無念や敵の弾(たま)/流す血潮のくれないは/夢の所作事花吹雪 花吹雪
四、遠いあの世のお父さま/賞めて下さい この伎(わざ)を/天皇陛下、万才と/叫ぶわたしの幕切れを 幕切れを

 ◎第一部「実父の鴻池善右衛門幸方」に関する補足…鴻池幸武の書面を含む
    中村歌六の松浦鎮信
 右の写真は中村時蔵(三代目歌六)の松浦鎮信です。よく吉右衛門が演ずるところの、あの松浦の太鼓ですが、あれは父歌六によって始めて書卸され、そして歌六が最も得意として演じた狂言であります。此写真はその初演の明治十五年正月大阪角座のもので、人気のあった若々しい時蔵の様子が之によって偲ばれましょう。此写真は早稲田大学を卒業して、只今早稲田演劇博物館で演劇を研究されている鴻池幸武氏が、伊原さんと私に焼いて下さったものですが、キャビネ判で非常に鮮明です。幸武氏の話では、大阪の自宅の土蔵の中に此種のキャビネの原板が百余枚保存されてあったのを此程発見したのだそうで、氏のお父さん(鴻池先代)が写真が好きであったゝめ、自然役者のものまで手がけたらしいとのことであります。私はこの時蔵の写真と外に鴈治郎、先代梅玉その他のを十枚ほど貰いましたが、どれもキャビネ判の、驚くほど立派なものばかり、中に二枚複写ものがありましたが他は悉く直接写した写真で、六七十年前の斯様な大きい演劇写真の原板が保存されていたのは実に珍しいことで、劇界の至宝と申すべきであります。然し写真をよく調べて見ますと、すべて写真専門家の撮影したものらしく、写真屋の写場でとったのもあれば、劇場の横の空地あたりに幕を張って写したり、或は芝居茶屋の二階あたりで撮ったりしたもので、背景、敷物、光線等まち/\で、期間も相当長きに亘っているようです。幸武氏が母堂から聞いたという話では、先代は写真は好であったけれども芝居は左程好きでなく、従って自分が劇場などへ行って撮影したような話はなかったらしいということでありますから、之はおそらく、先代がヒイキにした写真屋にレンズから暗箱、原板等を買与え、写真屋はそれで写した原板を、こんなによく撮れましたとお礼心に持って来る。それを其まゝ土蔵へ保存したのでははあるまいかと、僭越ながら私は左様に想像するのであります。何しろ目もさめるような堂々たる写真で、素人の手がけたものではありません。
 さて此時蔵の写真は、うしろの掛物は明治十五年正月とはっきり出ているから書卸しの時にちがいありません。ヒイキから大引幕を貰ったうれしさに、其書物を下げているところ、本人のあの純情な個性が出て面白いと思います。丸窓も小道具も劇場のもので、角座近くの写真屋で写したものと思われます。(以下略)
(安部豊「故名優のおもかげ 珍しき演劇写真――其八」『演芸画報』第三十二年第九号、昭和一三年九月、七四〜七五頁)

 尚前号中村時蔵(歌六)の松浦鎮信の写真と記事に就て、其写真を下さった鴻池幸武氏より書面を貰いましたから、左に肝腎な処だけを掲載いたします。先代の鴻池氏が、貴重な演劇写真原板を保存されたことの半面が知れましたので、記録として残して置きたいからであります。

          鴻池幸武
――先日の時蔵の写真御掲載下され誠に光栄に存候。又詳しき御説明の程恐縮に存候。殊に亡父と写真屋の交渉に就ての御鋭察の段恐入申候。それにつき私方も研究いたさんと、宅に六十年程勤め主として亡父の用事を致し居りし老人に尋ね候処、父の写真道楽は矢張り明治十五六年頃より始まりしとのことにて、当時出入りの写真屋は、南区九郎右衛門町(現道頓堀松竹座の少し西――只今は御堂筋の道路と相成候)の一間路地構えの家の伊藤と申す写真師に有之、此人は其当時六十歳位で、長崎の人と申す由、父と二人で写真に熱中し、父もレンズ等を贈与致し居りしこと右老人の物語にて判明致候。斯様ないきさつを思いながら画報の御滂注拝読致し候えば却々に面白く、且つまた色々と其かみの事ども想像いたされ興趣尠なからず候。下略
(安部豊「故名優のおもかげ 珍しき演劇写真――(其九)」『演芸画報』第三十二年第十号、昭和一三年一〇月、三一頁)

 ◎石割松太郎「解嘲」―今日新聞記者と白井松次郎氏とに与う―『演芸月刊』三輯、昭和四年八月…第二部「2 幕内秘録(三)」の補足
◇金銭に関する「大松竹」の芸人に対するやり方は啻にこれのみに止らぬ。私が茲最近の十五六年間に亘って演芸の事項に関して毎日聞賭した事を書留めてある「幕内秘録」と自ら題する私の手許で私が手記した一種の「演芸日記」の数冊が、これらの材料を満載している。例えぱ越路太夫死後の財産整理や。この間死んだ文楽座三味線の野沢吉兵衛及びその娘神戸の芸妓蔦吉、楳茂都の舞踊名を咲耶といった女の死後の有様や。鴈治郎の妻女おせんが、一時長三郎を小間物屋にでもさせようとして、故渡辺霞亭翁に相談に行った、成駒屋妻女の心配の真相。今を時めく成駒屋の家政上財政上の話や。京東の歌右衛門が俳優組合の大幹部としてどういう風な態度を採って資本主である東京松竹に対しているか。これに比較して大阪の成駒屋の態度はどうか。この東西両成駒屋の態度が演劇に及ぼす影響はどう現われているか。及びその実例の数種。地方興行の文楽座の売込はどういう風に行われるか。この七月の東京出演の文楽座の給金制度及び紋下竹本津太夫に絡まる一片の挿話。本興行を数ケ月休んでいる、三味線紋下鶴沢友次郎の東京出演の真相。又劇場建築取締府令と松竹座の実際との相異とは如何にして見るが如くに存して、これが何人も怪しまぬか。中座の新築と改築との当時の滑稽談が、何故そのまゝ今日に至ったか、これらの世態の不思議など、等、等等が、私の「幕内秘録」の六冊――厳密にいって五冊半――約五百五十枚の私の手記の内容を披瀝すると、次から次へとこの種の真相を穿った材料が開展さるゝのであるが、私は、この事に関しては「解嘲」の意を達するを以て足れりとするから、今はこれ以上には触れない。

 ◎『太棹』との確執について…第一部「注(19)」の補足
1940.1 近江清華 樋口吾笑氏に
1940.1 西村紫紅 義太夫の批評に就て 文楽34号(所蔵館確認できず)
1940.2 岡田蝶花形 『三悪道』及び太十の『逆賊非道の』問題
1940.3 武智鉄二 近江清華氏に
1940.4 平井真次郎 緑煙亭雑記
1940.5 樋口吾笑 公義と私情の交錯は絶対禁物
1940.5 岡田蝶花形 武智近江問題偶感 (三マク道の結論)
1940.5 兜会・九重会は断然近江氏を支持
1940.5 田中煙亭 沼津廃曲・下手糞友次郎
1940.6 浄瑠璃雑誌社御中 兜会幹事長
1940.6 森下辰之助 本誌の使命と天職
1940.6 矢野津の子 「逆賊非道」問題につき岡田蝶花形氏へ
1940.8 煙亭記 執拗な天狗雑誌−蒸し返す二問題−