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【 平井真次郎 緑煙亭雑記 】

(2023.03.01)
提供者:ね太郎
 浄瑠璃雑誌 388号 34ページ
 
 緑煙亭雑記
  本誌同人 平井真次郎
◇浄瑠璃の振興と共に、芸評の賑ふのは難有い。お蔭で好きな許りで一向物を知らぬわれらは教へられる所多大である。たゞ批評はどこ迄も品よく調子高くありたい。云ふ事が尤もなら人が服し、毒舌や喧嘩の必要は無い。元来が意見の分れ易いものなのである。芸の批評は、理論一貫して勝つた方が正しいとも限らぬ。理論は時によつて変り、勝ち負けは相手の筆が廻るか廻らぬかにもよる。
◇浄瑠璃はこんなものだと極めてかゝり、それに合ふのは芸妙で、合はぬのはヨタ芸だとすれば、批評は誠に容易である。しかしこんなものだとする所に人により差があつたり、又それが時代によつて動いたりするのでやゝこしくなる。自然主義文学の流行した時、若い評論家が泉鏡花の新作の二三行を引用して「ぷッと吹き出して了つた」で片付けたのを未だに覚えてゐる。其の泉鏡花は死後珠玉の存在となつてゐる。イズムの変化の多い洋書など殊にこれが甚だしい。
◇よく勉強する事と、よい成績のあがる事とは常に必ずしも一でない。勉強は何れにしても必要であり、又仲々やれぬものであるから、するのは感心であり、大に褒むべきであるとして、勉強振り許りほめて其結果たる全体としての成績を問題にしてならぬ評をよく見る。一字一句の語り方を、事を別け理を攻めて、尤も千万に細評する事、五色豆を一粒々々味ふ如くするも、普通浄瑠璃は五色豆を食ふやうには味はず、刺身が出て、汁が出て、煮物、焼物の間に酢のものなどで調子を取られ、最後に一杯機嫌の腹へお茶漬をさら〳〵と流し込み、あゝ旨かつたと涙をふく。五色豆計りぽるリ〳〵食ひ乍ら、旨いなア、旨いなアと喜ぶ計りが浄瑠璃の聞き方の全部とも思はれぬ。尤も会席のお膳は近年あまり出ぬやうである。又そばや天ぷらも場合によつては悪くはない。
◇古靱大夫が一間半五色豆計り食はせ、津大夫が一升のジヤガ芋に二切れ三切れの牛肉をまぜて食はすとして、五色豆に千金の値あり、ジヤガ芋に三文の値打も無いと考へ得る人計りもあるまい。又そば、すし、天ぷらと雖も時と場合によつてはそれ〳〵の味がする。怪しからぬと憤慨する人の出るのもこんな事からであらう。
◇批評は六かしいものである。漠然と全体を聴き、自分の好みや自分の師匠や先入主に比べて文句を云ふのは非科学的で当てにならず、従つて異論も多い。之に反し細かく一字一句理智的に検討するのは科学的であるが、五色豆になり易く、テクニツクにのみ没頭すると味噌は三州、「だし」は何々と計りで肝腎の汁の味の吟味がおるすになつたりする。尤もかく云へばとて、もとより科学的批評や学問的研究を幾分でも軽視するといふ意味にはならぬ。
◇小山内薫の「芝居入門」に、俳優は楽器で演出家は演奏者だと云つたやうな言葉があつた。請け売か知らぬが旨い事を云つたものである。さしづめ映画俳優や宝塚などには其まゝ当てはまるが、歌舞伎の役者などはそれでは承知すまい。大夫に至つては文字通り自身楽器であり同時に又演奏者である。
◇彼等は自身を優秀な楽器にする為めに血を吐く様な修行をする。同時に演奏者となる為めに師匠に仕へて薪水の労を執り、稽古々々と励むのである。其上演奏と云つても五線譜の通り再生する西洋流の演奏と違つて、自ら工夫し、表現するといふ、或程度作曲者の役目をも持つのであるから、故実を調べ先輩に聞き苦心惨憺するのである。だから六かしいのであり、芸道深遠であり、一生の修行なのである。浄瑠璃は単なる再生芸術ではない。
◇楽器と演奏と揃へば申分ないが、多くはとちらにかずれる。浄瑠璃を批評するのに、音色計りに聞きとれて、さもない芸を無暗に高く評価したり、又演奏振り計りに注目して、音曲らしくない厭な義を玄いとしたりする事が往々ある。ことに音色にごまかされる事が最も多い。
◇浄瑠璃を語る人と語らぬ人との間に折々喧嘩が始まる。おれは三十年月謝を払つた、お前達に何が分るかと一方が云へば、浪花節を三十年習つたとてそれが何になるかと一方がいふの類である。しかし、多くの喧嘩がさうであるやうに、これは双方に理窟がある。極めて粗硬な云ひ方であるが、原則として、芸は其人の芸の力だけしか分らぬものである。画を書く人は新聞の批評など、気にはするが参考にはせぬさうである。寧ろ仲間の批評が痛いと云ふ。だからよき師を選び、先生に見て貰ふのである。浄瑠璃とても其通りで、よい師匠を選び、叮嚀に稽古し、段々と芸が分るのである。前に分つたと思つたのは上つ面であり、よいと思つたのは詰らぬものであつたりする。しかしこれは往々視野の狭くなるのを避け難い。情実や其他もあらうが、展覧会の審査などで一人が一等だとし、他が落選だとするの類である。第一銘々自分が旨い人はまづいと思つてゐるのを見ても、あまり当てにならぬ事が知れる。それにしても芸は原則として芸の力だけしか分らぬものと云ふ事には動かせぬ真理がある。従つて其人の修行の深浅も問題になる訳である。
◇之に反して浄瑠璃をやらぬ側の人にも理窟がある。漠然たる聞巧者などは論外とし、まじめな研究を積み、同時に沢山聴き、「浄瑠璃学者」とでも云ふ程度の人の云ふ事は内容があり、尤もで、確かに参考になり、指導的である。其代り前項にも述べたやうに一木一木に注意して却つて森を見落すやうな事が往々おこる。又調子外れの天才が出ると器械が役に立たなくなつたりする。ラスキンにターナーが分らず、菊五郎が出て劇評家が失業(?)するの類である。これ以下の所謂浄瑠璃好きのインテリ、新聞雑誌記者などには怪しいのがあり、新聞の芸評など大抵見当が違つてゐる。狂言のよしあしと芸のよしあしとを混淆するのは多くこの階級にあり、語る方でも知らぬものについては其弊に陥り易い。
◇浄瑠璃を聞くのは画を見るのと同じである。十年画を描いてゐる人と、三十年画を見てゐる人と、どちらがよく画が分るかといふのに似た処がある。どちらから這入るにしても、要は其人の感受性である。たゞ画は死後百年の知己を待つ事も出来るが、浄瑠璃は消えて了ふから生きてゐるうちによいものはよいとならねば困る。そして或程度大衆性があり、生きてゐるうちに相当売れる事が必要となるから、自製の理想論で芸人を干乾しにする事は考へねばならぬ。
◇批評家の権利義務といふ事を誰れか考へた人があるであらうか。批評を公表する権利はどこから生ずるか、公評する以上責任を伴ふかの問題で、恐ろしく六かしさうである。普通は批評家は筆まめであり、発表の機会を有し、被評者は筆無調法で、弱い商売で、理窟を云ふのに不慣れである為め、切捨御免の厭ひが無くもない。斯道の学者研究家乃至は先覚元老として教へ導くのは問題ないとし、気に入らぬからとて筆誅を加へ、人の商売物に「ペケ」の烙印を押すとなると大分問題が深刻になる。
◇画書きが個展をして作品を「世に問ふ」場合、事実は新製品の売出しでも、「問ふ」のに答へて批評するに形式上あまり不自然は無い。芸人が興行する場合は木戸銭を取つて見せるので、批評をしてくれといふのでは無く、銭を払つて来る客が、気に入らぬ時ブツ〳〵云ふのは自然であるが、厭なら来るなとも云へぬ事はない。たゞ評判は如何とも出来ず、来て貰へぬと困るから、何と云はれても「未熟で」とお叩頭をするのを、得策とする。さりとて、あいつは下手だ、誰れも聞くなと木戸口で喚いたりしたら袋叩きに会はう。展覧会の画は批評しても、美術倶楽部あたリへ行つてあれは不出来。これは偽物と公言したら営業妨害である。
◇研究は自由だと云へば発表は必ずしも自由でないとも云へ批評は勝手だと云へば往来で出会つた人にコラひよつとこと云つてもよい事になる。斯道発達の為めだと云へば誰れがそんな事を極めたとなり、批評は商売だとなるとこの寄生虫奴がとなる。両方がヤケになり無例になれば切りが無く、世の中が無茶になる。
◇芸人が勉強して批評家の云ふ位の事は承知しており、筆まめに応酬したら形勢は少し変る。しかし両刀使ひは六かしく人気商売となると若い間はさうも行かぬし、批評家の方が負けさうになると新聞が出してくれぬかもしれぬ。今の所、批評家が彼等の立場や、ことに理窟ベタな点を斟酌してやらずやつつけて快とするやうでは男らしいと云へぬ。どうせお互に好きな道である。好意を以て、彼等の研究の及ばざる所を補つてやるといふ態度が望ましく、彼等も亦知らぬを知らぬとし、至らぬを至らぬとし、云つて呉れるのを難有いとし、云ふ事が間違つて居ると思へば自説をも勇敢に出し、自分で書けねば人に書いて貰つてもよい。かくして両者の間に利害の共通感、感情の疎通感を得たいものである。
◇批評家の権利計りで義務を書かずにしまつたが、たゞ一つだけ申添へる。それは、芸の性質上、芸のテクニツクに関する事、例へば「何々の風になつてをらぬ」とか、「何々が弾けてをらぬ」とか、「何大夫の足取りになつてをらぬ」とかいふ場合、相手に分らねば、語つたり弾いたりは出来ずとも口真似とか口三味線とか手拍子とかで、其云ふ所の意味をはつきり示して見せるだけの責任はあると思ふ。或は少くともこれと同様に近い細かい説明の出来るだけの用意は必要、それが出来ぬなら出来ぬ様な緩和な言ひ方が望ましい。そんならどう語りますか、どう弾きますかは、意地が悪いやうで当然の反問であり、大体之に答へるだけの用意なくして大きな事を云ふと無責任な批評といふ事になる。これは例へば画の批評をしてそんなら描いて見ろと云ふのとは少し違ふ。
◇批評論に経始したが、こゝに云ふ批評とは誠実親切な芸評ではなく、此頃折々見るやうな、稍々敵意ある冷評、罵倒、愚弄に近い批評態度を意味するので、色々書いたが要するに批評家は親切に、被評者は謙遜にといふのが主意である。(一五、四、一二)