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【 岡田蝶花形 武智近江問題偶感 (三マク道の結論) 】

(2023.03.01)
提供者:ね太郎
 浄瑠璃雑誌 389号 13ページ
 
 武智近江問題偶感 (三マク道の結論)
  本誌同人 岡田蝶花形
 これを武智、近江問題といふと、何だか太閤記や先代萩にありさうな名である。武智はもと美濃土岐の産にしてとかなんとか書けば逆賊にも当り、真書太閤記めくが、近江小牧ならぬ近江清華といへば悪人らしく感ずるが、会つて話をすれば好紳士で個人的に私は好きな人物である。
 問題は実にくだらぬ発端でこれは芸術問題でも何でもない素義として金持として有名な近江氏が多年文楽の大夫をひいきにしてゐたり、月謝を払つたことを鼻にかけて御叮嚀に誌上に書く態度に発憤して武智氏が鎗玉に挙げたのであるが、その文章が面白い為め多くの東京人士も近江氏を知る人知らざる人、近江氏に義憤を感ずる人(斯くいふ私も近江氏に電話でからかはれテンネ排斥論など君はもう十年師匠に月謝を払つてから来いと怒鳴られたそれと同じ意味が自分は三十年月謝となつて本誌上に現れたのである)。義憤を感ぜざる人の区別なく異口同音に「よく巧く書いた暴君をこらした感がある」と云つたり、樋口君五十議会に上京の時「江戸ツ子は弱きを援ける、然し武智といふ先生もよく書いたものだと」大いに同感の人が多かつたといふことを聞いて武智氏の文章の目的は近江氏を怒らせるのが目的とすれば成功したわいと思ってハハアこれは近江氏が斯界に引退するといひ出すわいと思つてゐたら案の定そうお出でになつた然しこゝに気の毒なのは樋口吾笑君で、一方東京派からは(東京派といつたつて東京全体でないことはよく巧く書いたといつてゐる人が多いのを見ても分る)樋口は怪しからぬ、太棹なんかは○○氏の原稿をにぎりつぶして出さなかつた見上げたものだ、自分が書いたものでなくとも他人の攻撃のものはにぎりつぶせばよいのにと云つてゐる人もあり、人のいゝ樋口氏、検事ならぬ近江氏の召喚を受けてノコノコ近江氏の邸へ行つたのは決して陳謝に行つた訳ではない、多年友情の後援者中沢巴氏が巧く中を纏めでやらうといつたのに対して行つたのである。若し樋口氏が雑誌屋一派の根性を出して陳謝したら次に述べる不買同盟などといふ非芸術家的の事は当然起らなかつたらう然し一方のいふ事を聞くから田中煙亭氏から麗々しく謝罪に行つたものであるとまるで被告扱ひにされたもので、その上広告料出たか出ないか知らぬが、写真版アートの巻頭に浄瑠璃雑誌不買同盟を麗々しく太棹に出されたり(文中斯くの如き未曾有の出来事を浄曲界に起したとあるが、その当の太棹も以前誰が書いたか知らぬが「シヒタケ耳」妹背山の「コガノスケ」問題で同じ苦しい経験があるから前評者の如く太棹など見上げたものだと云はれる為にはこんなものなどにぎりつぶした方がよかつたと思ふ九重会が不買同盟など、書くことは巳が愚を天下に示すより以外の何物でもないし、又浄曲界には何等影響のない問題である)樋口君は損をした様に見えてゐるが却つて一般に広く見ればこの問題があつて雑誌が非常に売れたかも知れぬ。雑誌の文章を膺らすのならば堂々文章を以て向ふべきで、そんなに悪い雑誌ならば一日も発行させて置くと害毒を流すので、不買同盟をしてその雑誌がつぶれるならよいが、そうでなければ何にもならぬ。
 私は近江氏も田中氏も知つてゐる者としてそれ等の方々の文章を芸術的に批判すれば次の如くである。
 (一) 誰が国宝であるない、それは国といふ字があるから政府が認めた官報に出た以外まだ国宝と決定した訳でないからその認定は個人の随意である、それ故近江氏が国宝と書いたものにヘタクエオ呼ばはりは悪罵毒筆ともいへぬし、近江氏の書いた通り観西翁の国宝であると押売りも出来ない、観西翁の如きも私は個人として知つてゐるがその芸を聴いたことがないから是非一度武智氏と共に拝聴させて頂けば或は私は国宝説に傾くかも知れぬ未定の問題である。又津太夫は国宝であるから批評出来ない、そんなことは断じて芸術家のいふことではない。又国宝には割引して批評しろといふそんな鉄則も批評界には断じてない、以後こんな論は愚の骨頂であるそれよりも所謂近江氏のいふ国宝といふ人々の芸に就いてドシ〳〵批評し合はうではないか。
 (二) 津太夫の「サンナク道」に浄瑠璃雑誌から「サムマク道」と改めてもらひたいと希望したとあるのに津太夫はその後ラヂオ放送で余りにも明に「サンナク」と語ったのはお歴々四先生の忠言もそれきりとは近頃の面子問題と太棹紙上田中氏は書いて居るが、この事は別に浄瑠璃雑誌といふものが文楽の諮問機関でないから勢力あるものとも思はれぬし又樋口君にしろ文楽の太夫と交際はあるだらうが故杉山茂丸氏の如き文句を勝手に訂正しても太夫が易々として従つたといふ何といふか金力(+)芸の威力といふものが芥子程もないからそれを用ひるのは個人の自由で少くとも私一人が腹の中で「ハハアまだ分らぬか」と笑つてゐればよいのである。ついでに私の「サンマクの道」の結論を書けばこれは「サムマク」が正しいと申して(サンナクも間違ひでない)云ふ理由は昔の三の発音は「サム」であるから「三位」を「サンニ」といはず「サムミ」といふ如く「サンマク」といふのはムであるから「マ、ミ、ム、メ、モ」の音に連声するので「南無阿弥」を「ナムマイ」といひ「ナンナイ」と云はぬと同じである。然るに後世、三をサンと発音する様になつたからナ、二、ヌ、ネ、ノに連声する、即ちサンナクといふのも間違ぴではないがほんとうは三マクが正しい、以上であるがそれを用ゐると否とは個人の自由で岡田が斯く教へてやつたのに津太夫がまだ用ゐぬから岡田の面子問題と田中先生あたりから言はれるかも知れぬがそんなことは少くとも私にとつては平気である、然し一応は単なる雑誌上の問題に過ぎず別に決議文をつきつけた訳でないが、然し文楽でこの事が雑誌に出たために其後会議を開いてやはり「三ナク」と決めましたと七代目広助師が私に語られたので一応は単なる雑誌上の問題も文楽で研究して下さつたことが分つてうれしい、たゞ間違ひでないからと思つて協議の結果やつてゐるに過ぎないので今後少くとも昔の語源を知つてゐる人には「三マク道」と語つてほしいと私は希望するのみである。
 (三) 津太夫を悪くいふのは古靱大夫をひいきにするからであるといふ人があるが、それは間違つでゐる、古靱大夫のレコードで練習することは津大夫を嫌ふことでないと同じである。それと同じく表面上武智、近江と問題になつてゐるから両人等を社会的にまで反対の様に見るのは間違つてゐる。そして武智君の来る座談会に出席すれば近江氏に反対の様に思はれるからと思つたりするのは、この問題の根本が分らないのである。「見る人の心こころに任せ置き」で私は私の道に進まう、樋口君を歓迎したり、鴻池、武智氏をお招きして東京で座談会をしたりすることが近江氏の為にするなど思ふ人があるが実に馬鹿々々しくて物が云へない、私は浄曲の為に正当に物を言つてゐるのであるから決して誤解のない様に願ひたい。又雑誌等の上に就いてどの雑誌にも敵であり味方であるといふ様なことはない。善悪邪正に従つてものを云ふ又書くのであると認めてもらひたい。(終)