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[270] 「志渡寺」(その2)
 津太夫は豪放と言われますが、実は音楽的に、繊細、緻密であって、お辻の「至純」は清澄な旋律となって、現れ、隠れては流れます。しかもそれを破る、他者としての源太左衛門の凄まじい激突が、お辻を破壊するかと見えて、一転、超越への契機になるという、この一曲の転換を、「美」として表現したのには、心底驚きました。
 なんと言う名演。声といい、知性といい、感性、構想力といい、茫然自失。
 暴風の中に、屹立する「美」が現れたのです。勿論それは、お辻が求めた大権現。

 然るに音源が途中で切れているのは、何と言う事か。‥‥「神は死んだ」と言う他ない。「神の死」が齎したものこそ、現在この世を覆うこの惨状であるのだが。「神の死」によって人間は「受苦」という、存在の基本構造を忘れ、日常にべったり貼り付いたまま、堕ちて行くのだろう。
 しかしお辻は「神」を求めたのである。若太夫も津太夫も「神」を求めた。「神の死」を乗り超えて、「もう一度」と。

 今回、「浄曲窟」に於いて「もう一度」完全形態が示された。それ故に「神」が甦ったのである。
 大権現は己れを示現された。


 この二人の奏演をお聴きになって、稀有の体験をされん事を願っております。
        以上
千秋 2022/09/06(Tue) 21:29 | 返信 | 削除 |
[269] 「志渡寺」(その1)
 7・8月公演の「志渡寺」は残念ながら、拝見、拝聴する事が出来なかったので、「浄曲窟」の「志渡寺」(若太夫、津太夫)を聴く事にしました。

 仰天。二人ながら三味線も含めてとんでもない奏演で、平伏すばかり。

 若太夫は凄まじい程の破壊力で源太左衛門となって、坊太郎とお辻を痛めつけますが、彼は決して破滅的ではなく、お辻の心情を細やかに語っており、女声も見事です。そしてお辻の決死の行動に至るその激情が「負」ではなく、「正」のエネルギーである事も、よく表現しています。お辻の「死」へ向かう激情は、実は「正」即ち「生」のエネルギーの噴出なのです。そのエネルギーこそが、大権現を顕現させたのでしょう。若太夫の語りは、そのお辻のエネルギーを「現実」に解き放って、今、ここに大権現を顕現させるのです。故に聴いていると、眼前に大権現が過りました。
 三味線が又、大権現が必ず現れると言う確信を与えます。この確信を表現するのに、嘗て大団平は命を賭けたのでしょうか。
 若太夫はいつ玉の緒が切れるのかと思わせられる程。あり得ない事態。ただならぬ事態でした。
千秋 2022/09/06(Tue) 21:17 | 返信 | 削除 |
[268] 九月
上:数値がとんでもないことになったので、基準や枠を見直します。
下:それは見かけ上少なくするだけの誤魔化しだろう。
  十年以前の大事故の時も同じことをやっていたじゃないか。姑息姑息。  
上:とんでもない。何を隠そうさあこくそう、ただの泥縄ですよ。
下:……
勘定場 2022/09/01(Thu) 07:23 | 返信 | 削除 |
[267] 某国のかたち
足りないから手を出したんです。
え? かつて手を出して一大事件を引き起こしたことを忘れた?
まあ、盗人にも三分の理というヤツですよ。

こんな理屈が罷り通るようでは、
某国どころか亡国。
そんな国は葬り去られるに決まっている。
勘定場 2022/08/25(Thu) 12:09 | 返信 | 削除 |
[266] 触媒
治兵衛を当事者の片方として無批判に置くから、
お定まりの鑑賞ガイドが出来上がる。
それを、
触媒と捉えた視点はまさに神の視点で、
これでこそ浄瑠璃は歌舞伎を超越する存在となる。
要するに、
大に対する小そして脇筋の文楽という位置付けにおいては、
何を期待しても無駄ということである。
勘定場 2022/08/16(Tue) 10:34 | 返信 | 削除 |
[265] 国立文楽劇場 7・8月公演 (令和4年7月29日) その4
☆以上。
と言いたい所であるが‥‥。今回のこの「心中天網島」には根本的に疑念が残る。
 それは治兵衛の扱いである。
玉男の治兵衛は為す術もなく唯棒状である。これは強ち玉男ばかりの所為ではなく、解釈の趨勢上、動きようが無いのである。
 一般的解釈者は治兵衛が「紙屋」である事を忘れているのではないか。
 通常の、例えばプログラム鑑賞ガイドを読んでも、治兵衛は「魂を抜かれた」男であり、「縁を切ったはずの小春にまた」逢って、心中にまで行き着く男でしかない。いわば女の敵であって、こんな男の為に二人の女は不幸になったのだ、と言う事であろう。
 そうだろうか。その視点、その解釈を破却しないと「天網島」の本質は現れて来ないだろう。

この世に元来意味など無く、人間も無意味の闇に呑み込まれて行く。小春は湯女上がりの女郎で、泥水に塗れ、やがて泥水中に消えるだろう。おさんは倦きられた女房で、子供の世話や銭勘定に塗れて、生活の中に埋没するだろう。
そんな二人の女を、一方の小春を切なくも美しく、死をも厭わぬ一途な純情の女として、他方のおさんを献身と自己犠牲の貞女として、それぞれの本質を露わにしたのは、治兵衛なのだ。
治兵衛こそがこの二人の女の本質を引き出して、その存在に意味を与えたのであって、二人の女が治兵衛を愛するのは当然なのだ。治兵衛の存在こそが二人の女の可能性を拓いたのだから。
 即ち治兵衛はこの劇の中核であり、主導者であって、彼が縛られて蹴飛ばされようが、狂乱しようが、おさんを奪われようが、彼の存在は揺るぎはしない。人間の眼の方が揺らいでいるのだ。
 もう一度言おう。治兵衛は「紙屋」であると。「紙」は「祇」(くにつかみ)であり、遂には「神」である。
 神が二人の女の本質を顕わにし、意味付けているのだ。
 この視点が無いと、この劇は平凡平坦な「魂抜かれた」男の愚かな行状に過ぎなくなり、玉男はどうしていいか判らなくなる。然し治兵衛は「魂抜かれた」のではなく、「魂抜けて」いるのであって、その魂は小春を意味付けているのである。治兵衛の主導性、先導性。それ故に当然道行の「『この世でこそは‥』」の詞は小春ではなくて、治兵衛の詞であるべきなのだ。
 そして治兵衛の神性は原作の「生瓢風に揺らるゝ如くにて。」でも窺い知る事が出来る。「瓢」とは古来魂の容器。治兵衛の魂は死骸の中で揺れているのだ。然るに「道行」での治兵衛の吊し方は中途半端で揺れようが無い。揺れて永遠に魂を活性化させねばならないのだから、もっと高く。


玉男にはこの様な治兵衛の存在形態を理解して、萎縮せず自由自在に、道徳などに囚われず、神の恣意性は、人間世界では「色気」として現れると看破して、治兵衛を動かして欲しいものだ、と思いながら帰路につきました。
千秋 2022/08/08(Mon) 20:45 | 返信 | 削除 |
[264] 国立文楽劇場 7・8月公演 (令和4年7月29日) その3
☆大和屋の段
  切  咲太夫
「恋情け、‥」から既に情緒が漂い、悲劇へと向かう方向を予感させながらも、浄瑠璃の美しさを堪能させます。孫右衛門は町人らしく兄らしく、三五郎はたわけらしく、振幅が自在故に、大船に乗って揺られている様に音楽を味わっていると、遂に「『北へ行かうか』」「『南へか』」「西か東か行く末も‥」の極点に至り着くのです。この段の浄瑠璃全体を見渡して、流れを先導し、見物にこの極点を必然と認識させる、まさに太夫の真髄でしょう。


☆ 道行名残の橋づくし
 舞台装置の転換も面白く、また勿論勘十郎の小春の切なく美しい様子がそこに展開されるので、見物は堪能出来たと思います。
但し小春が「この世でこそは添はずとも、‥」と言うのは如何か。
何故なら原作では治兵衛が「道すがら言ふ通り今度の今度ずんど今度の先の世までも‥」と言っており、その道すがらの言葉が「此の世でこそは添はずとも。未来は言ふに及ばず今度の今度。‥」である事は確実だからです。小春に先導させたいのでしょうか。疑問が残ります。
 勘十郎の小春は哀切にして色気あり。しかも死に至る迄の様子には、残酷さの果てにある「魂きはる」悲痛な煌めきが有って、其処に勘十郎の魅力を感じました。然し見物はこの煌めきによって、残酷さが緩和されたと感じ、ほっとして家路についた事と思われます。けれども「魂きはる」煌めきは残酷さの極みにあるのであって、勘十郎は見物の反応に惑わされず、極みを求める自らの資質を今後も磨き上げて欲しいものです。
千秋 2022/08/08(Mon) 20:40 | 返信 | 削除 |
[263] 国立文楽劇場 7・8月公演 (令和4年7月29日) その2
☆天満紙屋内の段
  口 小住太夫
 素直な語りですが、平坦でした。然し旋律を作り出そうとする気持ちが感じられ、おさんの声も良い。全てもう少しでモノになる発展途上にあります。

  切 錣太夫
 今回の「天網島」で白眉となるのは、この人の語りでしょう。常々平板であるのが欠点で、力む割には心に響かないというところがありましたが、今回はそれを克服しました。
「あんまりぢや治兵衛殿。‥‥女房の懐には‥‥その涙が蜆川へ流れて‥‥」のおさんの口説きは切迫し、哀切を極めて絶妙です。旋律とリズムを表面的に見物に示すのではなく、錣太夫の不器用で素朴な、それ故の衷情が、完全におさんの衷情と重なり合って、内的な旋律とリズムを創り出しました。そしてそれは見物に不思議な体験をさせたのです。
着物尽くしは宗助の三味線の素晴らしさもあって、「黒羽二重の一張羅‥」辺り心に沁みて、その不思議な体験の気配がいや増しに増し、「アツアさうぢや、ハテ何とせう子供の乳母か、‥」で頂点に達します。
 その時何が起こったかと言うと‥‥。
 見物は和生師のおさんを見逃すまいと、背筋を伸ばし首を立てて、一心におさんを見ています。然しその右耳は不思議な事に、錣太夫の方に向かって開かれているのです。これを見物自身は意識していません。唯右耳が自ら聴こうとして、錣太夫の方に開いたのです。前方の座席の見物の右耳が揃って錣太夫に向かって開いているのが、確かに見えました。
 これは不思議な光景であって当の見物も自分に何が起こったのか、判らなかったと思われますが、実に錣太夫の浄瑠璃の力がそうさせたのです。耳へ。錣太夫は王道を示したのです。
 五左衛門の口振りも捻り方が的確で治兵衛とおさんを「二股竹」へと導く「にべのな」さがよく表現されていました。

錣太夫、渾身の語り。「切」になって大脱皮です。
千秋 2022/08/08(Mon) 20:34 | 返信 | 削除 |
[262] 国立文楽劇場 7・8月公演 (令和4年7月29日) その1
第2部「心中天網島」

 コロナ第7波の真っ只中、3回目ワクチン終了を頼みにして、劇場に入りましたが、同じ思いの人々が多かったのか、案外盛況で、特に前方の席は一杯でした。

☆北新地河庄の段
  中  睦太夫
 三味の音に「ひかれて立ち寄る」客の騒きの中での小春登場という、魅惑的な場面。
しかしながら、睦太夫はたどたどしい語りで、情趣が醸し出されません。説明的で流れがないので、見物も場面に入り込めないのが残念でした。唯語っているだけではなく、見物にどう聴こえているのか、自身も全身を耳にして聴く必要があります。
 太兵衛の詞はよく効いており、「口三味線」も納得出来ました。孫右衛門は難役ですが、それなりに。
 この人は所々よかったり、潰れたり、女聲に男聲が混じったり、一貫しないのが問題です。やはり先達によく学ぶ事が肝要でしょう。
  

  前  呂勢太夫
 清治師の柔らかく心地よい三味の音にのって、呂勢の語りは、旋律といい、リズムといい陶酔的ですが、押さえも効いて説得力があります。
「それを二人が最後日と、‥‥毎夜々々の死に覚悟。」、それ故に「魂抜けて」いる治兵衛の出が必然となるのです。
 但し玉男の治兵衛については、「天網島」全体に関わる大問題がありますが、後でまとめて述べる事にします。つまりは物足りぬ。
 呂勢にも町人が侍のふりをしているという孫右衛門は扱い難いようで、不安定でした。
 小春は「アゝ忝い有り難い。」以下の長い詞が美しく、「『いつそ死んでくれぬか』『アゝ死にましよ』」のくだりでは、死への収束が、この様な儚さの極みの上に成立するのか、と溜息を吐く程でした。
 狂乱ぶりは、太夫も人形も遠慮がちでした。
 勘十郎の小春のいじらしさ、切ない美しさは言う迄もなく抜群です。


  後  織太夫
 身すがら太兵衛のワルらしい雰囲気がよく出ていて、説得力がありました。この人は力演していても、見物がどう聴いているか、察知しているので、ピタリと極まる所が素晴らしい。然し真っ直ぐに攻める人なので、「口に言はれぬ心の礼」辺り、もう少し捻って心の裏を表現して欲しいものです。
千秋 2022/08/08(Mon) 20:24 | 返信 | 削除 |
[261] 八月
今月もまた酷という字を使わねばならぬ状況に、
来月も使用確定の事態が控えている。
この国もいよいよ××××と成り果てたか。
勘定場 2022/08/01(Mon) 06:27 | 返信 | 削除 |

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