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323]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その4
今回、織の久我之助と呂勢の雛鳥は、その血とエロスを体現していた。
「‥言ふに嬉しさ雛鳥の、‥桜が中の立姿しどけ難所も‥」‥「『ナウ久我様かなつかしや』と言ふに思はず清舟も『雛鳥無事で』と顔と顔‥心ばかりが い だ き 合 ひ ‥」では、二人は川を隔てているものの、「心ばかり」は「抱き合って」強烈なエロスを発現させているのだが、それに加えて一輔の雛鳥と玉佳の視線は一途に結ばれて、エロスを現実化したのだった。
織と呂勢、一輔と玉佳が一体になった瞬間である。
また切腹した久我之助が「雛流し」の雛鳥の首を抱きかかえ、父の介錯により死ぬ場面では「血汐清舟」とは言え、隠された血の臭いが立ち籠めたのだった。
千秋 2023/04/27(Thu) 21:50
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322]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その3
それは何故か。
‥この「山の段」を聴くに当たり、極め付き、山城と綱のCDを五回程聴いた。山城の厳粛、綱の華麗、対峙する二人の水も漏らさぬ緊張感。一点の非の打ち所も無い巧緻な技巧。全てが的確でこの上無い浄瑠璃であった。
‥‥‥しかし徐々に自分の精神は鬱屈して来たのである。
それは何故か。
血とエロスの欠如。
森鷗外の「山椒大夫」を想い出してしまった。
周知の様に鷗外は説教節「さんせう太夫」を小説化した訳だが、それに当たって残酷な場面を殆ど割愛した。その結果説教節の持つ土俗的な血とエロスは払拭されて、白い骨格のみが残ったのである。「山椒大夫」を二度三度読んでも、骨格のみが標本として示されるだけなのだ。
鬱屈は此処に生じる。
‥‥血とエロスこそが「生」の原動力ではないのか。そして「美」を形成する力ではないのか。
梶井(基次郎)は「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と言うが、それは本当だ。現に今展開されている「山の段」の、吉野川の両岸に爛漫と咲き誇る桜花の下には、久我之助と雛鳥の死体があって、それ故にこそ桜花の「美」が確固として現れるのだ。
二人の血とエロスあってこその「美」。
「美」とは現代のプロジェクションマッピングの様に、表面的に添加されるものでは無くて、血とエロスによる、根源的な力の発現なのだ。
そしてその様な「美」は現実を超越する。
千秋 2023/04/27(Thu) 21:45
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321]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その2
☆妹山背山の段
背山 久我之助‥織太夫 大判事‥呂太夫
妹山 雛鳥‥呂勢太夫 定高‥錣太夫
この四人の掛合の成果は素晴らしいもので、それによって、入鹿の百里照の目鏡は割れたのです。
織太夫
「‥駆けり行く」と承けた所から場面転換への動きが感じられ、「古の神代の昔‥」と展開される妹山背山の状況が、眼前に浮かぶや、幕が落ちて、吉野川を挟んで爛漫の桜。緩急自在、膨らみのある表現で見物を導きます。久我之助の、凛々しく端正で恋情を抑えながらも「雛鳥無事で」と声にする心情をよく表現していました。織太夫の表現の自在さのおかげで、久我之助の統制された理性の奥の感情が時に迸り、雛鳥の恋情と絡みあって大きなエネルギーを形成してこの劇を動かしたのです。織太夫の能力は大したものです。
呂勢太夫
「頃は弥生の‥」から流麗で桃の節句に相応しい美声。「‥ここまでは来たれども山と山とが領分の、‥」辺りは清治師の玉滴の様な絶妙の三味線と相俟って、雛鳥の若々しい至純の恋情が吐露されますが、あくまでも上品で美しく、その旋律は伸びやかです。唯の恋ではなく、天上へ。
呂太夫
荘重、謹厳さには乏しいものの、説得力があり、「御前を下るも一時‥一つなれども、」と「茨道」の表現には大判事の「袴の襞も角菱ある、」人格がよく表現されていました。それ故に、後の「‥涙一滴零さぬは武士の表。」の悲哀の詞が生きて来たのです。
この表と裏の反転を呂太夫は見事に表現し、そのダイナミズムを以って、超越へと逆巻くうねりを示したので、この「山の段」は成功したのですが、それに就いては後で詳しく述べる事にします。
錣太夫
背山の大判事に対して、妹山定高は流麗な中にも毅然とした品があって欲しいもの。錣はいつもの様に力演するものの、一本調子で「脇へかはして」も正面切ってしまい、「女子の未練な心からは、我子が可愛うてなりませぬ。」にも心の襞が感じられません。つまりはあるがままの単調さで、強弱、高低、旋律のうねりに乏しいので、ややもすると、この様に劇的な事件であるのに、ただの日常の続きの様に感じられます。流石に「‥必死と極まる娘の命、‥はらはら涙」は切迫しましたが。
総じて品格は人形の和生師がよく表現しており、特に幕切れの形姿は立派でした。
☆以上、「山の段」の掛合を振り返ったのだが、前述した様に、この四人の総合力は面白い化学反応を起こしたのであって、見物、聴衆は大きな拍手を送ったのである。
千秋 2023/04/27(Thu) 21:40
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320]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その1
第二部「妹背山婦女庭訓」 三段目
コロナ禍も漸く下火となり、街にも活気が戻って来ました。劇場も前方には物馴れた見巧者、聴き巧者が戻って来られた様で、期待感があり、柝の音が待たれました。
☆太宰館の段
睦太夫
「奈良の都の八重九重‥」は久々に安定しており、ほっとしました。この人は大音強声で、聴きやすく迫力もあるので、「太宰館」の入鹿の詞など期待出来るのです。
しかし大判事と定高の対峙は詞の明快さはあるものの、緊迫感無く平板で、やがて詞と地の区別も曖昧になって行きました。全て旋律が無く、リズムも弱いので、大判事と定高の区別も消えてしまいます。折角期待していた入鹿も「ヤアとぼけな。」に畏怖を感じさせるだけの凄味が無く、平凡でした。
但し「ハハハハイヤ巧んだり拵へたり。」には渾身の力が籠り、睦太夫の聴かせ所となって、やはりほっとしました。しかし見物聴衆が「ほっとする」ようでは困るのであって、今後は聴衆を浄瑠璃の波に乗せる事が出来るように、自身の声を自らよく聴いて、コントロールして欲しいものです。しかしその前に浄瑠璃の波に自らが乗らねばならないのですが。
勝平の三味線は睦を「波」に乗せようと、奮闘していました。
人形について言えば、舞台は広く、人形は小さかった。巨悪を具現する入鹿は「現実」の空間を完全掌握する程大なる存在である筈なのですが。
さて「ヤアヤア弥藤次‥百里照の目鏡をもつて‥きつと遠見を仕れ。」と言う入鹿の詞は、次の「山の段」を規定する重要な詞なのですが、睦は判っていたでしょうか。
千秋 2023/04/27(Thu) 21:34
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319]
四月公演評
巧遅にはならぬが故に拙速を良とす。
勘定場 2023/04/11(Tue) 18:17
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318]
補完計画増補
《 其ノ百 日本学術振興会 科学研究助成費交付研究 成果公表等論文 》
「美声家竹本越登太夫の義太夫節レコード ―「サワリレコード」と「鴻池依嘱盤」の分析から―」
(『演劇学論叢』第二十二号(二〇二三・三))
勘定場 2023/04/04(Tue) 16:34
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317]
情報資料室更新
トップページのリンクから。
いずれも立ち止まって読み続けられるものと存じます。
勘定場 2023/04/01(Sat) 18:21
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316]
肆月
爛漫の春も早散り初め、
この後は落花微塵となるのみであるが、
それも桜であると鷹揚に空の波を仰ぐことこそ肝要。
秋の心を春にも重ねてみたくなるのは、
自然の勢いであるのだから。
勘定場 2023/04/01(Sat) 18:20
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315]
続々・増補
『太棹』との確執を詳細に【研究】で辿っております。
これにて全容がより明確に理解いただけると存じます。
勘定場 2023/03/03(Fri) 22:09
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314]
『鴻池幸武文楽批評集成』続・増補
備考に大幅な増補をいたしました。
PDFや画像へのリンクも加え、
参照に便宜を図っております。
勘定場 2023/03/03(Fri) 11:57
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