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[260] 夏公演評
予想以上に筆が進んだのは、
良くも悪くも三業の成果ゆえである。
やはり劇場には通い続けなければ。
勘定場 2022/07/22(Fri) 16:45 | 返信 | 削除 |
[259] 寸評
寸評のアップ有難うございました。
楽しみに伺いたいと思います。!
伊賀 2022/07/17(Sun) 11:39 | 返信 | 削除 |
[258] 寸評
「鈴の音」…今再演改作であったならSDGs文楽に仕上げられたと思う。
「瓜子姫」…前半は浄瑠璃そのもので感心、後半はそもそも作に難がある。
「河庄」…口、太夫に関しては浄曲窟を聴いていただくと浄瑠璃の親和感と違和感がよくわかる。
     前、小春の美しき悲しみ・悲しい美しさが描出できた。他は…。
     後、太兵衛善六の件をサラリとやった絶妙、治兵衛にも工夫あり。他は…。
     端場とともに人形陣に支えられて完結できた。
「紙屋内」…中、客席を引きつけられたのは大したもの。
      切、五左衛門が抜群でおさんをめぐる心情も活写。
      端場とともに「紙屋内」>>「河庄」であった。
「大和屋」…綱弥七を覚えるほど聴き込んでもこの床に感動できる幸せ。
「道行」…原理主義者ではないが、やはり近松の意図までぶち壊すようでは改悪。
     劇場通いの皆さまには是非とも原作に目を通すことをおすすめする。
「志渡寺」…中、鮮やかとは行かないが立派な端場。中堅太夫陣は順位入れ替え競争も激しい。
      前、眼目の源太左衛門は太夫人形ともに上々と今ひとつのない交ぜであった。
      切、お辻が出来たから情を語る文楽として大成功かといえば…。
      浄曲窟来月はこの一段を用意するので是非とも聴き比べていただきたい。
「紅葉狩」…大場に仕上がっていて驚いた。シンの三味線次第という恐ろしさ。
      はじめて見直した三味線と人形一人ずつ、再見直しの太夫一名。
      今回ニヤニヤが出たのはこの一段のみであった。
 ※プログラム…番付と鑑賞ガイドに疑問点(誤りに近い)はあるが、読み物は充実。買うべし。
勘定場 2022/07/16(Sat) 22:34 | 返信 | 削除 |
[257] 「と」
この夏の演目なら、
「と、道徳末世に咲き匂ふ、花の上野の片辺り、古跡を残す石碑の、誉れは今に著し。」(花上野誉碑・志渡寺)
「と、門のロからあす待たぬ、治兵衛小春が土になる種蒔き散して帰りける。」(心中天網島・大和屋)
そう、
超越的視点を提示されることによって、
我々は一本の葦であると自覚することが可能となる。
「いま・ここ」は非「いま・ここ」との対比によってのみ、
「いま・ここ」となるのである。
真実から目を背け耳を閉ざす輩が、
義太夫節人形浄瑠璃文楽へ無関心であるのは、
至極当然のことなのである。
勘定場 2022/07/15(Fri) 12:23 | 返信 | 削除 |
[256] ト書きに非ず
「と」
歌舞伎芝居なら状況説明に他なるまい。
世界は眼前の存在であるのだから。
しかし、
義太夫節人形浄瑠璃の場合は違う。
小宇宙が大宇宙の歯車と噛み合い、
現在が過去として歴史の中に組み込まれ、
まさに物語として完結する瞬間。
それはまた、
存在は世界内の受苦たるものと認識することでもある。
勘定場 2022/07/15(Fri) 12:14 | 返信 | 削除 |
[255] 呂勢と越路の「と」  その5
 越路の「と」が神語の伝達を明示するものであり、人間世界への回転軸である事は明瞭である。
越路は「と」の威力を鋭く直感して、それを自覚的に把握し、的確に表現する事によって、魅力的な、それだけで聴衆を陶然とさせるような「と」を現成させたのである。

 以上、呂勢の「と」によって触発されて、越路の「と」を考察してみました。越路の「と」に対する偏愛から発した、初心の者の一考察に過ぎませんが。
千秋 2022/07/02(Sat) 10:36 | 返信 | 削除 |
[254] 呂勢と越路の「と」  その4
 されば越路の「と」は如何に。
 例えば、越路の「源平布引滝」の「実盛物語」に於ける「『‥主従三世の機縁ぞ』と仰せを」の「と」は、主君格の葵御前の詞である事を決然と示しており、いわば神語としての詞である事を「仰せ」と繋げて、越路は「場」に向けて展開しているのである。
 越路の「と」はこの様に自覚的である。

その自覚的な「と」を駆使しているのが「冥途の飛脚」の「封印切」である。印象深い「と」が多数あって、越路の「と」への理解が卓越しているのが判るのだが、
圧巻は「‥『舌を切ツても死にたい』と もだへ伏したる苦しみを。」
の「と」であろう。
 この「と」は梅川の切迫した「生」からの落下を受け止めて、「地」へと展開させる回転軸であって、越路の揺らぎ延ばした「と」の回転は恰も錐の様に「地」に突き刺さって、その場を共有する聴衆の肺腑を抉る事になる。
 また「『梅川に許してくださんせ』と 声をあげて泣きけるが」の長く響く「と」の哀切さは悲劇に向かってゆっくりと回転する軸の軋みであろう。
 梅川は「生」を放下しようとし、忠兵衛の行状を身に引き受けようとして、「詞」を発する。その「詞」は既に、生身の人間の発する言葉ではなくなっている。因みに、この時梅川は二階にいて、「‥死にたい」と言い、「梯子駈下り」て「許してくださんせ」と言うのである。上の世界から下の世界へ。ここで発せられた「詞」は、もはや神語であろう。
千秋 2022/07/02(Sat) 10:31 | 返信 | 削除 |
[253] 呂勢と越路の「と」  その3
 さて以上の折口の言説を踏まえて、「と」について分析してみよう。「‥‥‥‥と、言教へ給ひき。」を構造化すると、「(神)は『‥‥‥‥』と、言う」と表される。この時、「と」の意義が明確になる。即ち「と」は神言「‥‥‥‥」を話者(みこともち、ほかひ人)の「場」に展開させる役割を果たしているのだ。この「場」はあくまで現実に接近するので、「と」は即ち、「神言」を現実に繋ぐ、つまり神の世界から人間世界へと回転させる軸になるのである。そして鋭く回転する「と」は現実に深々と打ち込まれる錐となり、楔ともなるのだ。
 「現実」への回転軸であり、同時に錐とも楔ともなる。これが「と」の意義、役割であろう。
千秋 2022/07/02(Sat) 10:15 | 返信 | 削除 |
[252] 呂勢と越路の「と」  その2
抑も「と」とは何か。文法的に引用の格助詞であるのは、自明の事であるが、果たしてそれで事足れりと為せるのだろうか。越路の「と」を分析するには、違うアプローチが必要であろう。
 
 それ故折口信夫の「古代研究」に於ける「国文学の発生」「神道に現れた民族論理」の内容を援用して、「と」の内実を明らかにしてみたい。折口の論理は錯綜しているので、かなり強引に纏める事になるが。

 折口の言説
古代「みこともち」なる者が存在したが、それはお言葉を伝達する者であった。そのお言葉とは神のお言葉、即ち「神言」であり、神言の伝達者が「みこともち」なのである。この「みこともち」が神言を持って諸所に伝える時、やがて祝言が加わって「ほかひ人」となり、巡遊伶人の趣を呈する事になる。
 そしてその「神言」は神の呪言であって、秘密の伝承であった。「天(アマ)つのりとの太(フト)のりと言(ゴト)」がそれである。
 「‥‥‥‥と、言教へ給ひき。」の「‥‥‥‥」の部分が天つ祝詞、即ち神言であって、それは秘せられているのである。
千秋 2022/07/02(Sat) 10:08 | 返信 | 削除 |
[251] 呂勢と越路の「と」  その1
先つ頃NHK 放映の「義経千本桜」を視聴しましたが、中でも呂勢太夫の「八幡山崎」が素晴らしかつた。この人は美声で且つ発音が明確。それ故に1語1語が粒立ち、玉の転がる様な響きがあります。音楽的にも美しい浄瑠璃の流れ。殊に静の詞が絶妙でした。「‥まんがちな人ではある」「エゝあの人のぢやらぢやらとてんごうなことばつかり」などは、珠玉の転がるその音が、停まるかと思えば流れ落ち、落ちるかと思えば、ゆるゆると揺蕩って、絶妙の「間」を作るので、まさしく「何気も媚く詞」となって、聴き手を翻弄し、陶酔させました。
 抜群の才能が感じられます。またこの人の「と」の扱い方にも感心しました。「『静、心が付かざるか』と」の「と」は低いがきっぱりとした重々しさがあり、「『‥またこの仕儀はどうぞいの』と」の「と」もよく押さえが効いていて、恰も越路太夫の再来かと思える程です。
 それなら余計に喜ばしい。何故なら越路の「と」には越路の卓越したセンスが表れているからです。
千秋 2022/07/02(Sat) 10:02 | 返信 | 削除 |

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