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330]
漆月
いよいよ夏。
しかしながらこの表現には今や危機感がある。
かつては期待感であったが。
線状降水帯や酷暑という文字が普通になりつつあるが、
降雨は干天の慈雨であり、
眩しい太陽光は輝く光でありたい。
勘定場 2023/07/01(Sat) 08:01
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329]
陸月
大雨か酷暑か。
これでは紫陽花の風情もあるまい。
そうなったのはもちろん人為。
異常気象の異常は正常に比しての物言いだから、
その異常が常となればもはや終末であろう。
人類の叡智が求められるところである。
勘定場 2023/06/01(Thu) 08:47
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328]
情報資料室更新
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勘定場 2023/05/28(Sun) 10:59
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327]
情報資料室更新
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いずれも貴重なものであります。
勘定場 2023/05/01(Mon) 09:10
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326]
伍月
薫風は快適なれども、
許しが出たなどと浮かれ出る軽挙妄動は不快。
一日も三日も五日も、
その存在意義とお上の有り様とを照らし合わせるとき、
緑樹は忽ち木下闇と化すことであろう。
勘定場 2023/05/01(Mon) 09:09
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325]
極上
千秋氏の劇評はますます磨きがかかり、
専門誌に掲載されて当然の内容かと存じます。
勘定場 2023/05/01(Mon) 09:07
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324]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その5
「山の段」の眼目は血とエロスの奔出による「美」の創造であり、「現実」を破壊する「美」の超越であろう。久我之助と雛鳥の悲恋が「可哀想」であり、大判事と定高の親子の情愛が示されたとて、それは核心部分では無い。この劇は人情悲劇では無いのだ。その様に矮小化するならば、弥藤次による百里照の目鏡の報告は入鹿を安心させるだろう。
此処で起こったのは、血とエロスによる「美」の現成であって、その力は爛漫たる「桜」となって噴き上がり、超越を目指すのである。似而非なる超越を目論む巨悪の首魁、つまりは「現実」の権化たる入鹿の百里照の目鏡は、「美」の噴出によって砕け散った。
そして見物、聴衆の目鏡さえ割れて、我々は確かな「美」を感じたのである。
今回の公演で、四人の太夫の個々の技量は先達に及ばぬにしても、血とエロスによって「目鏡を割る」という行為を成し遂げたのは、特筆大書すべきであろう。
そして「割る」所まで超越への浪を高めたのは、浄瑠璃のうねりを最高潮にまで迫り上げた呂太夫の力であるという事を、書き加えておきたい。
願わくは文楽が「近、現代」の濁った目鏡をも割らん事を。
以上
千秋 2023/04/27(Thu) 21:54
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323]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その4
今回、織の久我之助と呂勢の雛鳥は、その血とエロスを体現していた。
「‥言ふに嬉しさ雛鳥の、‥桜が中の立姿しどけ難所も‥」‥「『ナウ久我様かなつかしや』と言ふに思はず清舟も『雛鳥無事で』と顔と顔‥心ばかりが い だ き 合 ひ ‥」では、二人は川を隔てているものの、「心ばかり」は「抱き合って」強烈なエロスを発現させているのだが、それに加えて一輔の雛鳥と玉佳の視線は一途に結ばれて、エロスを現実化したのだった。
織と呂勢、一輔と玉佳が一体になった瞬間である。
また切腹した久我之助が「雛流し」の雛鳥の首を抱きかかえ、父の介錯により死ぬ場面では「血汐清舟」とは言え、隠された血の臭いが立ち籠めたのだった。
千秋 2023/04/27(Thu) 21:50
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322]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その3
それは何故か。
‥この「山の段」を聴くに当たり、極め付き、山城と綱のCDを五回程聴いた。山城の厳粛、綱の華麗、対峙する二人の水も漏らさぬ緊張感。一点の非の打ち所も無い巧緻な技巧。全てが的確でこの上無い浄瑠璃であった。
‥‥‥しかし徐々に自分の精神は鬱屈して来たのである。
それは何故か。
血とエロスの欠如。
森鷗外の「山椒大夫」を想い出してしまった。
周知の様に鷗外は説教節「さんせう太夫」を小説化した訳だが、それに当たって残酷な場面を殆ど割愛した。その結果説教節の持つ土俗的な血とエロスは払拭されて、白い骨格のみが残ったのである。「山椒大夫」を二度三度読んでも、骨格のみが標本として示されるだけなのだ。
鬱屈は此処に生じる。
‥‥血とエロスこそが「生」の原動力ではないのか。そして「美」を形成する力ではないのか。
梶井(基次郎)は「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と言うが、それは本当だ。現に今展開されている「山の段」の、吉野川の両岸に爛漫と咲き誇る桜花の下には、久我之助と雛鳥の死体があって、それ故にこそ桜花の「美」が確固として現れるのだ。
二人の血とエロスあってこその「美」。
「美」とは現代のプロジェクションマッピングの様に、表面的に添加されるものでは無くて、血とエロスによる、根源的な力の発現なのだ。
そしてその様な「美」は現実を超越する。
千秋 2023/04/27(Thu) 21:45
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321]
国立文楽劇場 令和五年四月公演(四月二十一日) その2
☆妹山背山の段
背山 久我之助‥織太夫 大判事‥呂太夫
妹山 雛鳥‥呂勢太夫 定高‥錣太夫
この四人の掛合の成果は素晴らしいもので、それによって、入鹿の百里照の目鏡は割れたのです。
織太夫
「‥駆けり行く」と承けた所から場面転換への動きが感じられ、「古の神代の昔‥」と展開される妹山背山の状況が、眼前に浮かぶや、幕が落ちて、吉野川を挟んで爛漫の桜。緩急自在、膨らみのある表現で見物を導きます。久我之助の、凛々しく端正で恋情を抑えながらも「雛鳥無事で」と声にする心情をよく表現していました。織太夫の表現の自在さのおかげで、久我之助の統制された理性の奥の感情が時に迸り、雛鳥の恋情と絡みあって大きなエネルギーを形成してこの劇を動かしたのです。織太夫の能力は大したものです。
呂勢太夫
「頃は弥生の‥」から流麗で桃の節句に相応しい美声。「‥ここまでは来たれども山と山とが領分の、‥」辺りは清治師の玉滴の様な絶妙の三味線と相俟って、雛鳥の若々しい至純の恋情が吐露されますが、あくまでも上品で美しく、その旋律は伸びやかです。唯の恋ではなく、天上へ。
呂太夫
荘重、謹厳さには乏しいものの、説得力があり、「御前を下るも一時‥一つなれども、」と「茨道」の表現には大判事の「袴の襞も角菱ある、」人格がよく表現されていました。それ故に、後の「‥涙一滴零さぬは武士の表。」の悲哀の詞が生きて来たのです。
この表と裏の反転を呂太夫は見事に表現し、そのダイナミズムを以って、超越へと逆巻くうねりを示したので、この「山の段」は成功したのですが、それに就いては後で詳しく述べる事にします。
錣太夫
背山の大判事に対して、妹山定高は流麗な中にも毅然とした品があって欲しいもの。錣はいつもの様に力演するものの、一本調子で「脇へかはして」も正面切ってしまい、「女子の未練な心からは、我子が可愛うてなりませぬ。」にも心の襞が感じられません。つまりはあるがままの単調さで、強弱、高低、旋律のうねりに乏しいので、ややもすると、この様に劇的な事件であるのに、ただの日常の続きの様に感じられます。流石に「‥必死と極まる娘の命、‥はらはら涙」は切迫しましたが。
総じて品格は人形の和生師がよく表現しており、特に幕切れの形姿は立派でした。
☆以上、「山の段」の掛合を振り返ったのだが、前述した様に、この四人の総合力は面白い化学反応を起こしたのであって、見物、聴衆は大きな拍手を送ったのである。
千秋 2023/04/27(Thu) 21:40
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