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364]
逸早く
劇評をアップロードした次第
勘定場 2024/04/08(Mon) 18:28
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363]
卯月
冬来たりなば春遠からじ。
いよいよ万物がはえるとは喜びであるが、
それも順調に寒さが経過すればであって、
凸凹の具合如何では、
到来もまた穏やかには迎えられないのである。
勘定場 2024/04/01(Mon) 16:10
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362]
弥生
冬来たりなば春遠からじ。
いよいよ万物がはえるとは喜びであるが、
それも順調に経過すればであって、
寒暖凸凹甚だしきに至っては、
到来もまた穏やかには迎えられないのである。
勘定場 2024/03/01(Fri) 08:59
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361]
山城少掾聞書
勘定場 2024/02/18(Sun) 22:48
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360]
贈 紋下
勘定場 2024/02/04(Sun) 15:07
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359]
如月
暖冬とは、
寒暖差の激しいことの謂いらしい。
心身に堪えること甚だしく、
あの異常な夏は冬の異常をもまた呼び込んだ。
なほいや増さる憂き思ひとはまさにこの限りである。
勘定場 2024/02/01(Thu) 10:18
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358]
普遍
千秋氏の劇評、
とりわけ「聖なるサクリファイス」論は、
個別の作品論や演者論を超えた普遍的所論として読むべきでありましょう。
もちろん玉男論として秀逸であるのは至極当然のことです。
勘定場 2024/01/18(Thu) 22:21
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357]
令和六年一月公演(一月十二日) 第二部「伽羅先代萩」 その4
‥‥政岡はこの様な「聖なるもの」を凝視しているのである。
「聖なるもの」の世界で政岡の前に展開されているのは、千松が嬲り殺しにされているのではなくて、聖なるサクリファイス(生贄)の儀式であり、供犠なのだった。
供犠とは「存在」の内奥にある生命の沸騰に送られる人間からの贈与であって、定期的に繰り返す事が必要なのだ。当然「聖なるもの」に近いものが選ばれる。
「お腹が空いても、ひもじうない」と言う千松は、直接体験を概念化する回路が未完成である故に、「聖なるもの」と親密性を持ち、「聖なるもの」に送り(贈り)返されるのだった。
政岡は既にその供犠の儀式を司る巫女なのだ。
そう言えば「飯炊き」、即ち茶道具で飯を炊くという様式化は一点の穢れも許さぬ供犠への捧げ物を作る神聖な儀式を表現しているのだった。
千松は人間存在が「聖なるもの」と融合する為の聖なる「生贄」であるのだから、巫女である政岡が「でかしやつたでかしやつた」と叫ぶのは当然なのである。
玉男は「政岡忠義」を徹底し、観客を涙させながら、この様な人間存在の原初的な、血と暴力に充ちた生命の奔流を露わにしている。つまり分節不可能の「聖なるもの」が、無理矢理分節され、言語化され、概念化されて、気息奄々となっているのを隠蔽している近・現代の虚偽的様相を打破して、「存在」の真の姿を現成させているのだ。
故に観客は「政岡忠義」の真相を見て、震撼することになる。
そして前述した後ろ振りを含めた政岡のクドキは愁嘆場でありながら、打ち掛けを脱いだその姿は艶やかで、官能の迸りがどうしようもなく煌めいている。惨殺された千松に対して「凝り固まりし鉄石心、さすが女の愚に返り」「死骸にひつしと抱き付」いているにも拘らず。
ここに噴出する政岡のエロスは巫女、即ち神の嫁のエロスなのである。
千松の死は供犠であり、巫女としての政岡は供犠の儀式を通じて「聖なるもの」と一体化する事に官能的な悦びを感じているのである。官能性への逸脱と見えたものは、実は「聖なるもの」への回帰だったのである。
ここで観客は惨殺された我が子への悲嘆と苦痛、苦悶に狂う政岡に、あろう事かエロスの悦びを感じてしまうのである。あり得ない事に観客の日常の倫理も規範も崩れ去る。
こうして観客は今現在、「政岡忠義」を見て、歴史的過去の「政岡忠義」に搦め捕られながら、古代の原初的な、歴史以前の人間が直面する「聖なるもの」の出現を見てしまうのである。
その暴力性、不吉さ、生命の沸騰、エロスの奔流を。且つ「聖なるもの」と一体化する事によって、苦痛と苦悶が歓びへと変わる瞬間を。
眩惑。
玉男にはさもしく小賢しい底意など無い。唯「政岡忠義」を徹底しただけである。
人形がこの様に動いたのだ。
玉男は選ばれた媒介者であった。
恐ろしい事ではある。
以上
千秋 2024/01/18(Thu) 21:18
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356]
令和六年一月公演(一月十二日) 第二部「伽羅先代萩」 その3
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先代吉田玉男の「政岡」
「御殿」録画 越路太夫 清治
嶋太夫 道八
☆‥‥ところで先般、先代玉男の「御殿」を観たのだが、あまりの事に唯茫然としてしまった。
其処に展開されているのは、確かに「飯炊き」であり「政岡忠義」であって、政岡のどの形姿をどの瞬間で切り取っても完璧な「美」。後ろ振りの極め方も空間を凝縮する様な力があり、動きのリズムも極めて的確。‥‥しかし眼前にはそれに留まらず謎めいた逸脱が繰り広げられ、完全に幻惑されてしまった。
逸脱と言えば、この官能性は何なのか。「屏風にひしと身を寄せて奥を憚る忍び泣き」の後ろ振りや、千松が殺されて悲嘆にくれるその姿の艶やかさ。特に「千年万年待つたとて何の便があろぞいの、」と極めた後ろ振りには官能の悦びさえあるのだ。
「忠義」の政岡に何故エロスが揺蕩うのか、このエロスは何処から来て何処へいくのか。
‥‥この謎を解くカギは「眼差し」にある。
千松が嬲り殺しにされている最中、栄御前の探査する眼差しとはいっさい交錯せず、「御成敗はお家の為」と端然と坐して、やや俯き加減に前を見る政岡の「眼差し」。
その凝視する先にあるものは、栄御前には見えぬ「聖なるもの」なのである。
そしてこの「眼差し」が「政岡忠義」の世界を「聖なるもの」の世界へと転換するのだ。
☆それでは、この「聖なるもの」とはなにか。
フランスの思想家、G.バタイユは「宗教の理論」で次の様に述べる。
・「聖なるものはこのように生命の惜しげもない沸騰である」
・「聖なるものは内在的であり、人間と世界との動物的な内奥性=親密性を基点として与えられている。」
・「原初的には、神的なものは内奥性から発して捕捉されたものだった(つまり激しい暴力性から、叫びから、盲目的で知的理解をうけつけない、噴出状態にある存在から発して、また黒い、不吉な聖なるものから発して捕捉されたものだった)。
・「聖なるものは、それ自身二つに分割されている。すなわち黒く、不吉な聖性が、白い、吉なる聖性に対立して」いる。
千秋 2024/01/18(Thu) 21:12
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355]
令和六年一月公演(一月十二日) 第二部「伽羅先代萩」 その2
☆政岡忠義の段
呂勢太夫 清治
呂勢は声質からしても、政岡の威厳や八汐の悪辣さの表現は困難でしたが、浄瑠璃の表現方法にはそれ以上に音楽的要素が多々あるという事が、よく示された一段でした。「御成敗はお家の為」の切実、「後には一人政岡が‥せき上げ嘆きしが」の切迫は鋭く身に迫り、聴衆の心を搏つのですが、それにも増して清治師の三味線に導かれる呂勢の浄瑠璃の旋律の流麗さが、リズム、間、緩急、強弱と相俟って琴線に触れて来ます。
それ故に「そなたの命は‥所存の臍を固めさす真に国の礎ぞや。‥死ぬるを忠義と‥」迄の長い詞、それも内容は「なぶり殺し」を含むものであるのに、そこに「美」を感じてしまう。
これは意味理解の理性とは別の「感性」が働いてしまったのでしょう。
この部分、呂勢は意味として極めるところは極めながら、音楽としての浄瑠璃を自在に語ったので、感性を揺さぶられた聴衆は徐々に高揚して行き、遂に「きらめきわたる」で盆が回る時には大きな拍手が湧き起こったのでした。
☆床下の段
小住太夫 團吾
床下のセットは面白く、突然の節之助登場、大鼠あり、スモークあり、貝田勘解由迫り上がりと盛り沢山。小住太夫は力強く語り、何かありそうなのですが、瞬時に終了。
後ろの席からは「最後の段、よう分からんかった。」の声。
さもありなん。
☆人形
勿論和生師の政岡が全てを主導していたのです。和生師は「政岡」の「忠義」を、詞章を旨として正確に素描し、骨格を作り上げました。これなくしては今回の「先代萩」は成立しなかったでしょう。但し後ろ振りにせよ立ち姿にせよ、もう少し極めて空間を支配する力を強めて欲しいものです。
先代玉男ならどうであっただろうか。
先代玉男は「選ばれし人」だったのだが。
千秋 2024/01/18(Thu) 21:05
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