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[376] 情報資料室
「『中座・道頓堀』裏表紙 レート白粉広告」
http://www.ongyoku.com/E4/j159/jouhou159_lait.htm
この広告に触れた文章は見当たらず、また、自然も変わり、人も変わって、
月次絵の残照のようなこうした広告が今後出ることはないと思えます。
勘定場 2024/08/25(Sun) 12:44 | 返信 | 削除 |
[375] 葉月
風鈴
井戸水
西瓜
これで十分涼めたのはいつの頃までだったか。
過ぎし世の面影は熱中症の幻惑に取って代わられたのである。
勘定場 2024/08/01(Thu) 17:04 | 返信 | 削除 |
[374] 七・八月公演劇評
最速なれば最拙なるをも厭わず。
勘定場 2024/07/21(Sun) 18:51 | 返信 | 削除 |
[373] 文月
六日も常の夜には似ず。
七夕への思いを見事に詠んでいる。
文月七日例年の水を新井に繰り返す釣瓶の綱も三輪の里、
これは嘉例の井戸替である。
すべては旧暦によってこその営みである。
勘定場 2024/07/01(Mon) 17:12 | 返信 | 削除 |
[372] 水無月
梅雨にして水無月とは。
もちろん旧暦と新暦の差から生じるものである。
月遅れという風習がいかに的を射たものか。
暦をこよみと呼ぶならば、
それは旧暦にこそ似つかわしい。
勘定場 2024/06/01(Sat) 10:12 | 返信 | 削除 |
[371] 情報資料室
『2024年4月30日 「国立国会図書館デジタルコレクション」収録の図書、雑誌等約26万点を新たに図書館向け/個人向けの送信対象資料としました』
これに伴い、
人形浄瑠璃関連の図書のリストがjouhou12.htmに掲載され、
Jouhou12のリストへのリンクの追加も行われました。

トップページのリンクからご確認ください。
勘定場 2024/05/03(Fri) 14:51 | 返信 | 削除 |
[370] 皐月
薫風爽快にして、
袖の香になつかしさを感じる、
それも今は昔。
冬と夏の二分法では、
初夏は暑夏の露払いとしか思われまい。
勘定場 2024/05/01(Wed) 08:07 | 返信 | 削除 |
[369] 心眼
本筋を見通した劇評、
とりわけ板額と市若の考察には目を覚まされるばかりです。
勘定場 2024/04/20(Sat) 17:36 | 返信 | 削除 |
[368] 令和六年四月公演(四月十二日) その4
「釣女」
    芳穂 小住 聖 南都
    錦糸 清馗 友之助 燕   
     二郎
 「和田合戦」が終わって、余韻に浸っていると、「今更『釣女』か‥」と言う訳でしょうか、隣の男性客の姿は見えなくなりました。さもありなん。
 ‥‥と思っていると、これがなかなか良い出来でした。
 先ず錦糸に先導された三味線がイキイキしており、それに応じて太郎冠者の芳穂が水を得た魚の如く、晴れやかにして、且つ軽薄に堕さず、間やリズムも的確で、観客を気持ち良く笑わせます。
「汝もまどろめ」「畏まつてござる」の大名との会話の間も絶妙で、自在感があり、楽しいのです。唯小住の大名は品格の点で所々物足らなかったのですが。
 全体として美女と醜女というあざとい趣向にむやみに陥らず、純粋に祝祭的な喜びが、三味線、太夫、人形から発せられたので、気持ちよく笑い、楽しむ事が出来ました。 「美女」と「醜女」が、唯の記号であって、「豊漁」即ち「豊饒」こそが真に価値あるものだという事を「醜女」の赤い頬が示したのです。
 襲名披露の祝祭感に資する所大でした。

         以上
千秋 2024/04/20(Sat) 12:54 | 返信 | 削除 |
[367] 令和六年四月公演(四月十二日) その3
☆「和田合戦女舞鶴」と先代若太夫
  市若切腹(前)呂・綱造
  市若切腹(後)若・重造
      「浄曲窟」による
 先ず「板額門破り」を「音曲の司 情報資料室」に拠る丸本より新漢字に替えて引用してみよう。
 「‥揺り立つたる槻門。四十五間の高塀も共に揺られてゆつさゆつさ。瓦ははらはら屋根はふはふは。」「うんと一押し金剛力。礎土を掘返し。門も塀も一時にめりめりぐわたりぴつしやりと。圧しに打たれて死ぬる人。コハ叶はじと逃ぐる人。‥」
 これが板額の門破りの様子であり、剰え敵の藤沢入道親子の「首引抜かん」とまでするのである。
 人間とも思われぬ金剛力の大女房。
 即ち板額はもともと神話的世界の住人であり、神的領域の人であって、その様な神的存在が頽落して板額という女になったのである。
 それ故板額の言辞には厳然たる圧力があって、綱手に対して「誠口ほど健気なら公暁を刺し殺し、その身も自害したがよい、」とまで言い放つのである。
 又、尼君に対しても「急ぎ首討ちお渡しあらば‥」と迫るのだ。この辺り、先代若太夫は豪放な語り口にメリハリを効かせて、圧をかけ、有無をを言わせぬ気迫があった。つまり先代の語りには板額の背後に神の存在が感じられたのである。
 然るに「神」であった筈の板額は既にして人間世界に頽落し、矮小化した為に我が子が愛しくて仕方がない愚かな母となつている。「神」の恣意性は、板額に於いては我が子への無垢で直情的な情愛の発出となるのである。「そなたに手柄させいで誰にさそう。」
 しかし忍びの緒が切れたのは市若に身代わりとして死ぬ事を求める夫からの暗示だった。
 身代わりとして我が子を自らが殺す事は到底出来ない板額は謀を巡らせて市若に自害をさせるという愚かな策を執ってしまう。愛し子を我が手で殺す事は出来ぬという、無垢と直情の心がこの無惨な方策を考えつかせたのだ。無垢と直情を現世に於ける神の残映とする板額には、この様な愚かな方策が頽落した神としての限界であった。 
 しかしこの愚かな板額の無垢と直情は市若に死を超えた真実の喜びを与えたのである。騙された事を恨むのでは無く、「本ぼんの子」である事を確認し得た喜びを。
 子供の心は常に不安定である。誰の子か実は判らぬという懐疑は誰しもあり、果ては「捨て子」かと思い詰める事もあるのだ。多くの子供はそのまま封印して成長し、それらしい人生を送るのだが、「誰の子か」と言う実存的不安は失われはしない。
 市若は愚かとも言える母の無垢と直情によって「本ぼんの子」という真理を抱いて死んだのである。頽落した神である板額の無垢と直情こそが、身代わりの死の悲惨さを、実存の根底を把握したという喜びに転換させたのである。
板額には神の残映がある。背後に神がいる。そうでなければ、このような転換が起こる筈がないのだ。
 勿論その様な板額を現成させたのは、先代若太夫の剛力である。特に「本ぼんの子」に於ける板額の無垢と直情の現出はこの世を砕けさせた。

 先代若太夫の浄瑠璃には、声、旋律、間に神が宿っている。外への豪放さと内への真摯さは鬩ぎあってこの世を逸脱する。それ故に板額の神の強度は自在に展開し、金剛力からしおらしい女房、愚かな母として立ち現れる。そしてそのダイナミズムは破れ鐘を思わせる声とあい相俟って、既存の秩序を揺るがせる力を有する事になる。故に先代若太夫を聴くと、いつもこの世に罅が入り、揺らぐのを感じるのだ。
 浮薄な表象が砕け散って「実在」が現成する事を確信するのだ。
 
 願わくば、新若太夫も既存の世界の「門破り」を試みて欲しいものだ。
千秋 2024/04/20(Sat) 12:49 | 返信 | 削除 |

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