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[354] 令和六年一月公演(一月十二日) 第二部「伽羅先代萩」 その1
新年を寿ぐべきところ、元日に能登半島地震、2日に羽田空港で飛行機事故と立て続けに事が起こり暗然としました。今は被災地の皆様のご無事を祈るばかりです。
 しかしこの様な時に於いてこそ祝祭は必要なのであって、下降する龍をもう一度上昇させるべく、文楽の力を発揮して欲しいものです。
 客席はほぼ満席で「先代萩」への期待が感じられました。

☆竹の間の段
  芳穂太夫     錦糸
 前回聴いた「矢の根」の段が進境著しく面白く聴けたので、今回も期待が高まりました。
「制すべき身の制せられ、」と沈痛な滑り出しが、この場を予兆させて、劇中に惹きこまれます。
 しかし残念ながらこの人は詞のハラが決まらないので、何を言っても平坦、単調。誰の詞でも声調が同じなのでただスルスルと進むだけで、対話が形成されない。故に盛り上がる筈もない。
 「そんならもう、飯を食べても‥」に空腹の思い無く、曲者は人が良過ぎ、政岡に威厳無く、八汐に凄み無し。
 登場人物の人格を把握しての対話(からみ)が無ければ、劇は成立しないという事が、此処に於いて実に判然としました。
 芳穂には地における状況把握力を、詞にも活かして、その場の対話的緊張を保ち続ける術を会得して欲しいものです。

☆御殿の段
  千歳太夫     富助
 越路太夫の「御殿」を何度も聴き、「飯炊き」すら緊迫感ある素晴らしさを堪能したので、弟子たる千歳は如何にと期待が膨らみました。
 「跡見送りて政岡が、‥」辺りは越路を彷彿とさせ、後半の「‥たとへ賤しい下々でも、」には越路が現れて、流石と思わせられましたが、「湯の試みを千松に‥」は気持ちが弛緩し、説得力も無くなって「骨も砕くる思ひなり」が全く聴衆に訴えて来なかったのは、どうした事でしょう。
 師の越路は的確に要所要所を極めて、階段を登るように聴衆を高みに連れて行きますが、千歳にそんな戦略は無く、出たとこ勝負なのです。純真。そう言えば千松の詞「お腹が空いても、ひもじうない、」の頑是なさは逸品。鶴喜代の「あの狆になりたい」も素直で好ましい。
 しかし純真さだけでは「御殿」は語れないので、師匠の戦略をよく学ぶ事が必要でしょう。
 この人は熱演するのですが、自分の声を聞いていない。故に聴衆に自分の声がどの様に聴こえているのかが判っていない。その為無駄に力が入って疲れて要所を外しでしまう。
 今後はその段全体をよく把握して声を統御し、聴衆を高みへと導いて欲しいものです。
千秋 2024/01/18(Thu) 20:59 | 返信 | 削除 |
[353] 一月公演評
いかなる鯉でも早々に登れば龍になるかと。
勘定場 2024/01/06(Sat) 17:30 | 返信 | 削除 |
[352] 睦月
本年は旧暦の呼称を新暦の別名として用いる

謹賀新年
恭賀新春
則ち
賀とは言祝ぐこと
況んや語り物に於いてをや
勘定場 2023/12/31(Sun) 23:59 | 返信 | 削除 |
[351] 拾弐月
師走というより紅葉の続きという季節感である。
ところが店頭など早くも聖夜商戦なるがゆえに、
錦もかすむという次第である。
照り映えるのではなく、
イルミネーションによる明るさに他ならない。
勘定場 2023/12/01(Fri) 11:54 | 返信 | 削除 |
[350] 深謝
これだけの内容あるがゆえに、
当方も安心して筆に任せられるというものです。
当方の耳目や筆の及ばなかったところにまで行き届いて、
やはりこれなくしてはもはや劇評は立ち行かないと思われます。

とりわけ錣の分析に関しては、
これまで誰一人としてなしえなかったものであり、
古靱ならびにニーチェの引用とともに、
画期的かつ厳とした存在感のあるものとして、
立ち現れております。
勘定場 2023/11/18(Sat) 10:28 | 返信 | 削除 |
[349] 令和五年十一月公演(十一月十日) 第二部「奥州安達原」 三段目 その3
☆とはいえ‥‥帰途につきながら、つらつら考えるに‥やはりこれでは、この「貞任物語の段」は全て想定内の事に過ぎないのではないかと。

 限界突破が必要なのである。錣太夫にはその責務を果たして貰いたいものだ。
 錣の弱点はその語りに律動が無い事だろう。律動が無いから、無理な大声と力みによって疲弊し、此処という所で極める事が出来無いのだ。「折しも」が弱くて場面を変えられず、よって宗任の怖さが出て来ない。「曲者待て」から「‥日本国中を放ち飼ひ」との義家の詞も秩序の恐ろしさが判り難い。又「氷を踏んで‥別れ行く」の間の切れが悪いので「底の善悪」が見えて来ない。
 強弱、緩急、高低、皆律動が基本なのだが。

 古靭の「袖萩祭文」をCDで聴くと全編律動に満ち溢れているのが判る。その律動が聴衆の律動と共鳴して、大きな感動へと繋がって行くのだ。
 何故なら律動とは生命の根源。自己組織化寸前と言われる「ベローゾフ・ジャボチンスキー反応」を見ると、それはまさしく律動であって、「これが生命の始まりなのだ」と明確に認識させてくれる。そして細胞の律動、心臓の拍動へと繋がって行く。この生命の根本に即応する事こそが重要なのだ。
 しかも古靭はその律動にシンコペーション的な欠落を嵌めてぞっとさせるのである。つまりは心臓の期外収縮、そして死の影。「間」となっては殆ど死そのもの。古靭の浄瑠璃には生と死が既に包含されているのだ。聴衆は死の恐怖と再生の喜びを常に感じて陶酔する事になる。

 錣太夫がその律動を体得するならば、この「貞任物語」の世界は大きく変化して、「一体何事が起こったのか」と聴衆は驚き、人形陣も既成の枠組みを破って新しい世界を展開する事になるだろう。

☆それではどんな世界か。
 東と西の「力への意志」のダイナミズムの世界である。貞任、宗任は東の野生の「力への意志」を、義家は西の秩序への「力への意志」を。その間で袖萩の「美」と{仗の「義」が閃くのだ。その一瞬を観客は愛惜する事となる。

 ニーチェの概念「力への意志」は彼の発狂の為、未完成であるが、「ディオニソス」的な力動を整備し社会化しようとしたのであろうと考えられる。

 このダイナミズム、力動の世界は内的な律動の増幅によってのみ表現され、伝達されるのであって、急な大声では聴衆は共振出来ないのである。又東の野生の暴戻の恐怖は「死」によって裏打ちされるのであるから、「貞任無念の髪逆立て」は「死」という異物が取り憑いて「エエ口惜しやなあ。」と「太刀に手を掛け」てこそ、秩序の義家は受けて立つ事が出来るのである。
 それ故、この辺りの表現は生死を包含する律動の神秘に身を挺してこそ成し遂げられるのであって、その結果観客聴衆は畏怖、恐怖を感じ、日常の安穏な世界が破れて現れたものに慄然とするのだ。

 慄然。世界は「生」「死」が渦巻く坩堝であり、その結果は慄然たる有様なのである。しかしそこから「美」が現れても来る。
 想定内から生まれるものはニヒリズムでしか無い。錣太夫には自己の内なる律動を鋭く剔抉して、その生と死の真髄を浄瑠璃として表現してほしいものだ。
 ニヒリズムの克服の為に。
千秋 2023/11/17(Fri) 19:23 | 返信 | 削除 |
[348] 令和五年十一月公演(十一月十日) 第二部「奥州安達原」 三段目 その2
☆袖萩祭文の段
  呂勢太夫    清治
「たださへ曇る雪空に、」から呂勢の繰り出す微妙な揺れある旋律に、早くも心が動かされ、「一間に直す白梅も無常を急ぐ‥」情景に陰翳が差して来ます。故に袖萩の出が必然と思われ、待たれるのです。「娘お君に手を引かれ‥走らんとすれど、」に清治の三味線が絶妙に入り、呂勢の抑揚、間に絡みつつ、「この垣一重が鉄の」を哀切極まりないものとします。
 しかも美しい。汚辱の中で袖萩は美しい。 
 「琴の組とは引きかへて、」などは玉が零れるような美しさで、呂勢の語りは悲惨にして無惨な「これはまたあんまりきつい落ち果てやう、」の袖萩を浄瑠璃の珠玉の流れの中で磨き、輝かせている様です。まことに袖萩とはそういう存在なのです。屈辱と汚濁の底から一転して「美」に変化する存在。呂勢と清治師はそこを極めようとしているのでしょう。
 後で述べる様に袖萩とは東西のダイナミズムの間に翻弄されて死んだとはいえ、「袖萩祭文」で見事に甦るのです。甦りを「美」として実現するのは呂勢と清治師。
 観客にとってはその「美」は想定外だったかも知れませんが。
 その想定外こそX次元への道なのです。
 但し{仗の厳格、浜夕の滋味は呂勢には表現し難かった様です。

 呂勢の素晴らしい「間」と「間」に滴る珠玉の様な清治師の三味線を堪能した段でした。


☆貞任物語の段
  錣太夫     宗助
 錣太夫は大車輪の奮闘振りで、特に{仗、浜夕がニンに合い、「そんなよい孫産んだ娘、」と浜夕が慈しみの心が溢れるのを抑えながら言う詞は胸に響きました。「折しも」は少し弱かったのですが、宗任の出現、義家登場をよく整理し観客に印象付けました。女声も巧みで、「かうなり果てた身の上、‥」は切実です。
 そして終盤、貞任、宗任、義家の勢揃い。其々の詞を力強く語って、玉男師、玉助、玉佳の人形をしっかり支え、観客に満足を与えました。
 人形の出来栄えが良く、浜夕の傘姿は寂しく美しく(簑二郎)、玉男師の則氏は「鐘の声」まであくまで端正、一転しての貞任の荒々しさが見事です。かてて加えて、娘お君はたかが子役とあなどる勿れ、出色の出来。可愛くいじらしく、「さする背中も釘氷、」辺りの、袖萩をさする手つきには心が締め付けられました。勘次郎、新しい才能の出現です。
 錣は熱演で声を振り絞り、舞台を盛り上げるので、観客は見応えがあったと大いに満足した事と思います。
千秋 2023/11/17(Fri) 19:14 | 返信 | 削除 |
[347] 令和五年十一月公演(十一月十日) 第二部「奥州安達原」 三段目 その1
11月になっても暑い日が続いて爽やかな気候とは言えず、体調も不安定になりがちです。開演前になっても空席が目立ち、シニアの健康が心配されましたが、直前には前方席はほぼ満席となりました。新人間国宝玉男師を初め、和生師、清治師御三方の揃い踏みとあって、期待が高まったのでしょう。



☆朱雀堤の段
  藤太夫     清志郎
 「さればにや少将は‥」から滑かに始まり、三味線も美しく、さあこれからと期待が膨らみました。しかし全体的に滑か過ぎて平板になりメリハリに乏しく、淡々と進むばかりで、六などの男達の野卑にリアルさはあるものの、袖萩の「行き先を思ひ廻せば夜の目も合はず、」は深みがありません。瓜割のワル振りも普通、{仗と袖萩の出会いもあっさり。
 つまりは人物描写が甘く、これからの展開に資する力が弱いのが残念でした。 
 但し登場人物が多く、語り分けが大変な中で、よく整理して観客を混乱させなかったのは、手腕の一つでしょう。


☆敷妙使者の段
  希太夫    清丈
 {仗直方とその妻浜夕という老夫婦の会話は「奥歯、漏れくるまばら声」である筈なのですが、無駄な高音と大声で、老人とはとても思えない。その上旋律流れず、リズム無しときては、折角の劇的な場面もただ説明となり、肩透かしとなりました。{仗は「元来それがしは平家、‥」と述べる通り、論理的でその分自己に厳しく、苦しみも一入なのですが、希太夫はその論理に同調せず、どこか他人事です。
 「八幡太郎参上」に重み無く、声か大きくなるだけで、「‥時しもあれ」と言っても、その「時」
は終に出現しませんでした。


☆矢の根の段
  芳穂太夫    錦糸
 三味線はリズム良く澄み切った音色で浄瑠璃を先導します。芳穂は「娘は立って行く」だけで新しい局面を開き、聴衆の展望を明るくしました。ここに至ってやっと劇中人物が立ち上がってきたのです。
 「中納言則氏卿、」と言う声と共に、厳かにしずしずと登場する則氏は、流石玉男師の遣う人形だけあって、堂々たる格式の高さが感じられ、大きく見えて立派でした。その顔も端正にして申し分無く、あたりを払う威厳がある中に、何処か下心が漂うあたり玉男師の、表現への精進振りが示されます。
 芳穂はこの段を切り開こうという気概があるので、思い切りよし、口跡よしで、「これはまた思ひがけもない、‥」にはリズムもあって、それが「‥白々しさ」という裏をかえって明白に示します。南兵衛、則氏、義家の絡みも緊迫して面白く、則氏が「さこそあらん。」と{仗を責め立てる梅の論理の決めつけ方も、逃れ難い締め付け感があって、説得力がありました。
 つまりこの段は芳穂と錦糸の三味線が相俟って、丸本の二次元から三次元の劇へと進んだのであって、やがては四次、五次‥X次と高次の劇が立ち現れる可能性を示したのです。
千秋 2023/11/17(Fri) 19:08 | 返信 | 削除 |
[346] 十一月公演評
気候なり体調なりで、
この程度の仕上がりとなりました。
拙遅だけは避けたつもりです。
勘定場 2023/11/08(Wed) 17:16 | 返信 | 削除 |
[345] 拾壱月
穏やかではあるが、
天候の激変は否めない。
今後は暖秋で推移し、、
そして急転直下冬に突入するのではなかろうか。
地球温暖化は常なるものとなったようである。
勘定場 2023/11/01(Wed) 16:11 | 返信 | 削除 |

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