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[189] 操り
狂歌が現実化するようでは、
もはや二の句が継げません。

差し金を遣うのは左遣い。
ではカシラを自在に動かす主遣いの正体は…
勘定場 2021/10/01(Fri) 20:06 | 返信 | 削除 |
[188] 差し金
侘しさはその人としもなかりけり次立つ者も秋の夕暮
勘定場 2021/09/03(Fri) 18:04 | 返信 | 削除 |
[187] 九月
この世界的状況下の二大競技会、
非日常とするならまだ救いはあるが、
日常の必然的結果だと平気でいれば、
虚栄の市は滅びるしかあるまい。
勘定場 2021/09/01(Wed) 05:58 | 返信 | 削除 |
[186] 複眼視
千秋氏の劇評投稿により、
複眼視が実現されました。
十分に味わっていただければと存じます。
勘定場 2021/08/08(Sun) 09:36 | 返信 | 削除 |
[185] 国立文楽劇場 七・八月公演(七月三十日) その3
「宿屋」
 千歳太夫、この人は声も姿もいかにも浄瑠璃語りと言う雰囲気で、しかも越路を師としているのだから、と思って聴くと確かに越路を彷彿とさせる所も多々あって、そこはなかなかよいのです。しかし師と決定的に異なる所。越路は初期設定が頗る厳密でそれをもとに浄瑠璃世界が構築されていくのに対し、千歳には初期設定の概念そのものが無い。故に越路に沿って語る時は良いが、時々行く手を見失なってしまう。その時その時の目先の判断で語るからでしょう。越路はいわば百メートル先を見据えて語っているのですが。
 故に此処と言う決定的な状況に対応出来無い。
「むざんなるかな」「露のひぬ間の」「もののあいろも水鳥の」‥絶唱となるべき所を取り逃がす。そしてそれを埋め合わせる為に他所で力を無駄に使ってしまう。それ故に力演すれども聴衆は高揚せず、不完全燃焼に終わってしまうのです。
 師に学んで、「一」は「全」、「全」は「一」を踏まえ、初期設定を徹底しておこなって欲しいものです。
「薬売り」「大井川」も同じです。

 勘十郎の人形は流石に説得力があるのですが、勘十郎と人形との間にある因果関係は払拭出来ませんでした。


 今回の白眉となるのはやはり呂太夫の「浜松小屋」で、落涙寸前の心で帰途につくと浅香の赤心の声「みゆきさま」が響き、優しい白い手が閃くのでした。
        以上
千秋 2021/08/05(Thu) 16:07 | 返信 | 削除 |
[184] 国立文楽劇場 七・八月公演(七月三十日) その2
 「浜松小屋の段」
 呂太夫が素晴らしかった。
 この人は初期設定が頭の中にきっちり組み立てられているのに、見物(聴衆)には察知させないと言う点で「老獪」の域に達しています。
 穏やかで優しい調子ではありますが、実は組み立てが綿密になされており、個々の言葉の重要性がよく認識されているので、その発音は恰も銘打たるるが如く心に刻まれて美しい。殊に「みゆきさま」の発音は音に乗じて、眼前の「むざん」な深雪ではなく、浅香にとっての美しいお嬢様の姿が立ち現れて来る程です。
 主従関係と言うと、古いと切り捨てられそうですが、「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と言うのは、生物学的本能の介在する前二者に対して主従関係の特殊な精神性を表しているのでしょう。
 唯意志だけの、精神だけの堅い結び付き。これは「自然のうつろひ」の中に強固に打ち込まれた楔なのです。一旦打ち込まれたら三世続く精神と精神の合体の結晶。
 そんなものが、何処に。
 呂太夫はそれを見せてくれたのです。
 「叱ってたもるな謝った」「オオ何のマァ叱りませうぞいな。」この二人の魂のやり取りとなる会話を呂太夫は美しい声で、深雪と乳母浅香を語り別けながら遂に一つに収斂させるのです。ここに現れたのは二つの精神(心)が一つに融合したと言う事実で、我々はそれに直面して日常の不明を恥じるのです。
 呂太夫は「あら尊 導き給へ観音寺」と順礼歌を唄うのですが、この歌が、来世を頼み、濁世を越える契機となって行くのは見事です。
 それ故深雪を浅香が抱きしめ、その背をさする(人形の)手が恰も観音の手となるのです。(勘彌の素晴らしさ)
 最早浅香はこの世の人では無い。
 呂太夫はこの世を裏返して見せると言う至難の業を成し遂げていると感じ入りました。つまりこれは現世に対する裏切りでしょう。一般の見物がどう思ったかはわかりませんが。

 「嶋田宿笑ひ薬の段」
 咲太夫は笑いもせず、見物を掌上で転がしています。故に見物はそのまま転がっていればよいのです。至芸でしょう。
千秋 2021/08/05(Thu) 16:06 | 返信 | 削除 |
[183] 国立文楽劇場 七・八月公演(七月三十日) その1
デルタ株蔓延寸前、ワクチン二回目を終えて、なんとか劇場に辿り着きました。
 第二部は豪華布陣なので期待していました。

  「生写朝顔話」
「明石浦船別れの段」
 呂勢太夫は声美しく、端正で口跡もよく、旋律が明確で、見物(聴衆)は唯流れに乗って行けば儚い別れに至り着き、溜息をつく事になるのです。この流麗さは確かな軌跡を描く呂勢の語りに基づくのでしょう。この人は全曲を畳み込んで「一」とし、初期設定を緻密に整えて角度を決めて、「全」に向けて発射するので、彼の意識は先に軌跡を描き、彼の声は確信を持って軌跡を追うので、揺るぎない明確さを以て全曲を語れるのです。「全」は「一」、「一」は「全」。
 しかしこれで満足出来るかと言うと、そうは言え無い。例えば深雪と阿曾次郎の会話は予定調和的で不安が無い。これは「全」に向けての予想が先走っているからなのでしょう。
 呂勢に必要なのは、「裏切り」です。聴衆が彼と共に軌跡に従って来るのを、体よく裏切ること。聴衆を呆然とさせる事が必要なのです。
 その為には自己を裏切らねばならない。先行する意識の軌跡を自ら断ち切らねばならない。律儀な呂勢にとっては、痛恨の行為です。しかしこれをやらなければ芸は深まら無いでしょう。
 清治師はその裏切りを三味線で促しています。例えばNHK放映の「野崎村」では、「問はれてやうやう」と「顔を上げ」の間に三味の音が入る。呂勢の先行する意識の流れを断ち切る三味の音は玉滴となって天界から落ちてくる。呂勢にとっては先方への意識が途切れる契機。ここで起こる軌跡の乱れこそが聴衆を揺さぶるのです。
 呂勢の理性では肯定出来無い「裏切り」を「無垢の裏切り」と化するこの玉滴こそ、清治師の愛情なのです。
 呂勢の限界突破はここから始まるのでしょう。
千秋 2021/08/05(Thu) 16:02 | 返信 | 削除 |
[182] 八月
七月に書いた通りとなりました。

予言者が常に迫害されるのは、
人間の醜悪な精神が漂白されない限り、
ギリシャ神話の昔から変わりません。
すなわち、
永遠に繰り返されるわけです。
勘定場 2021/08/01(Sun) 06:02 | 返信 | 削除 |
[181] 七・八月公演評
寸評を書かなかったのは、
公演評の早期提示を見込んでいたためです。
今日ならば許されるかと。

なお、
祐仙の足遣いが誰かご教示いただきましたので、
その分の評価記号を追加いたしました。
勘定場 2021/07/23(Fri) 16:24 | 返信 | 削除 |
[180] 七月
敢えて予想は書き込まず、
八月に評価をいたしましょう。
先が見えるというのは悲しみの裏返しでもあります。
勘定場 2021/07/03(Sat) 06:29 | 返信 | 削除 |

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