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[371] 情報資料室
『2024年4月30日 「国立国会図書館デジタルコレクション」収録の図書、雑誌等約26万点を新たに図書館向け/個人向けの送信対象資料としました』
これに伴い、
人形浄瑠璃関連の図書のリストがjouhou12.htmに掲載され、
Jouhou12のリストへのリンクの追加も行われました。

トップページのリンクからご確認ください。
勘定場 2024/05/03(Fri) 14:51 | 返信 | 削除 |
[370] 皐月
薫風爽快にして、
袖の香になつかしさを感じる、
それも今は昔。
冬と夏の二分法では、
初夏は暑夏の露払いとしか思われまい。
勘定場 2024/05/01(Wed) 08:07 | 返信 | 削除 |
[369] 心眼
本筋を見通した劇評、
とりわけ板額と市若の考察には目を覚まされるばかりです。
勘定場 2024/04/20(Sat) 17:36 | 返信 | 削除 |
[368] 令和六年四月公演(四月十二日) その4
「釣女」
    芳穂 小住 聖 南都
    錦糸 清馗 友之助 燕   
     二郎
 「和田合戦」が終わって、余韻に浸っていると、「今更『釣女』か‥」と言う訳でしょうか、隣の男性客の姿は見えなくなりました。さもありなん。
 ‥‥と思っていると、これがなかなか良い出来でした。
 先ず錦糸に先導された三味線がイキイキしており、それに応じて太郎冠者の芳穂が水を得た魚の如く、晴れやかにして、且つ軽薄に堕さず、間やリズムも的確で、観客を気持ち良く笑わせます。
「汝もまどろめ」「畏まつてござる」の大名との会話の間も絶妙で、自在感があり、楽しいのです。唯小住の大名は品格の点で所々物足らなかったのですが。
 全体として美女と醜女というあざとい趣向にむやみに陥らず、純粋に祝祭的な喜びが、三味線、太夫、人形から発せられたので、気持ちよく笑い、楽しむ事が出来ました。 「美女」と「醜女」が、唯の記号であって、「豊漁」即ち「豊饒」こそが真に価値あるものだという事を「醜女」の赤い頬が示したのです。
 襲名披露の祝祭感に資する所大でした。

         以上
千秋 2024/04/20(Sat) 12:54 | 返信 | 削除 |
[367] 令和六年四月公演(四月十二日) その3
☆「和田合戦女舞鶴」と先代若太夫
  市若切腹(前)呂・綱造
  市若切腹(後)若・重造
      「浄曲窟」による
 先ず「板額門破り」を「音曲の司 情報資料室」に拠る丸本より新漢字に替えて引用してみよう。
 「‥揺り立つたる槻門。四十五間の高塀も共に揺られてゆつさゆつさ。瓦ははらはら屋根はふはふは。」「うんと一押し金剛力。礎土を掘返し。門も塀も一時にめりめりぐわたりぴつしやりと。圧しに打たれて死ぬる人。コハ叶はじと逃ぐる人。‥」
 これが板額の門破りの様子であり、剰え敵の藤沢入道親子の「首引抜かん」とまでするのである。
 人間とも思われぬ金剛力の大女房。
 即ち板額はもともと神話的世界の住人であり、神的領域の人であって、その様な神的存在が頽落して板額という女になったのである。
 それ故板額の言辞には厳然たる圧力があって、綱手に対して「誠口ほど健気なら公暁を刺し殺し、その身も自害したがよい、」とまで言い放つのである。
 又、尼君に対しても「急ぎ首討ちお渡しあらば‥」と迫るのだ。この辺り、先代若太夫は豪放な語り口にメリハリを効かせて、圧をかけ、有無をを言わせぬ気迫があった。つまり先代の語りには板額の背後に神の存在が感じられたのである。
 然るに「神」であった筈の板額は既にして人間世界に頽落し、矮小化した為に我が子が愛しくて仕方がない愚かな母となつている。「神」の恣意性は、板額に於いては我が子への無垢で直情的な情愛の発出となるのである。「そなたに手柄させいで誰にさそう。」
 しかし忍びの緒が切れたのは市若に身代わりとして死ぬ事を求める夫からの暗示だった。
 身代わりとして我が子を自らが殺す事は到底出来ない板額は謀を巡らせて市若に自害をさせるという愚かな策を執ってしまう。愛し子を我が手で殺す事は出来ぬという、無垢と直情の心がこの無惨な方策を考えつかせたのだ。無垢と直情を現世に於ける神の残映とする板額には、この様な愚かな方策が頽落した神としての限界であった。 
 しかしこの愚かな板額の無垢と直情は市若に死を超えた真実の喜びを与えたのである。騙された事を恨むのでは無く、「本ぼんの子」である事を確認し得た喜びを。
 子供の心は常に不安定である。誰の子か実は判らぬという懐疑は誰しもあり、果ては「捨て子」かと思い詰める事もあるのだ。多くの子供はそのまま封印して成長し、それらしい人生を送るのだが、「誰の子か」と言う実存的不安は失われはしない。
 市若は愚かとも言える母の無垢と直情によって「本ぼんの子」という真理を抱いて死んだのである。頽落した神である板額の無垢と直情こそが、身代わりの死の悲惨さを、実存の根底を把握したという喜びに転換させたのである。
板額には神の残映がある。背後に神がいる。そうでなければ、このような転換が起こる筈がないのだ。
 勿論その様な板額を現成させたのは、先代若太夫の剛力である。特に「本ぼんの子」に於ける板額の無垢と直情の現出はこの世を砕けさせた。

 先代若太夫の浄瑠璃には、声、旋律、間に神が宿っている。外への豪放さと内への真摯さは鬩ぎあってこの世を逸脱する。それ故に板額の神の強度は自在に展開し、金剛力からしおらしい女房、愚かな母として立ち現れる。そしてそのダイナミズムは破れ鐘を思わせる声とあい相俟って、既存の秩序を揺るがせる力を有する事になる。故に先代若太夫を聴くと、いつもこの世に罅が入り、揺らぐのを感じるのだ。
 浮薄な表象が砕け散って「実在」が現成する事を確信するのだ。
 
 願わくば、新若太夫も既存の世界の「門破り」を試みて欲しいものだ。
千秋 2024/04/20(Sat) 12:49 | 返信 | 削除 |
[366] 令和六年四月公演(四月十二日) その2

 若太夫  清介
「時を移すうち‥‥」の詞が既に感慨深く、時の流れ、即ち十代目若太夫から十一代目若太夫への流れがひしひしと感じられて、「新若太夫によるこの劇の展開は如何に」と期待が高まりました。
 市若の人形は可愛い大将人形が動いている様で、母板額が愛おしがるのも無理は無いのです。若太夫は母親としての板額と子の市若の会話を情感溢れ、且つ説得力ある語りで活写します。「‥待ち兼ねました‥よう来たことぢや」「‥逢ひたかつた」。溺愛です。然るに「忍びの緒、ふつつと切れて落ちたるは、心ありげに見えにける」。ここから若太夫による細密な言い回しが光ります。「‥浪の哀れや打紐の、切れしを後の思ひとも、知らで‥」。つまりは時間感覚の妙です。新若太夫の特長は「時間」の中に人間が揺蕩っていると言う意識がある事で、過去と現在が絡まりあって暗黒の未来を招き寄せると言う事をを予知させる所が見事でした。
 若太夫は女声が綺麗で、情感溢れる上に人物毎の語り分けが自然で素晴らしい。殊に尼君の「子細何にも言はぬよの。」からの長い詞の上品さと間のとり方は流石です。旋律の美しい表現が説得力を高めます。
 優しさ、繊細さ、情感、緻密な表現、滑らかな旋律。これが新若太夫の魅力でしょう。
 唯それ故に、板額の、子を思う情愛はよく表現されても、裏面の厳然たる圧力の表現は叶いませんでした。平太を騙っての一人芝居。「声に角立て」に凄みなく、「何と言ふ平太。‥どつこいさうは」の長い詞に圧力が無い。この圧力の無さはこの場を持て余す演者の無意識のなせる業か、将又若太夫の優しさの現れででしょうか。先代若太夫はこの場に正面から立ち向かっているのですが。
 ともあれ観客にとっては無惨な謀に加担せずに済むので、却って良かったのかもしれません。よって観客は「本ぼんの子ぢやわいなう。」に一気に持って行かれ、ここを先途と力演する新若太夫に拍手を送るのです。
 若太夫の襲名披露公演として、新若太夫の得意とする表現の達成が見られ、観客は満足のうちに段切りを味わったのでした。
 勘十郎師の板額は凛々しくも優美、市若を抱く様にして館に入る様子はとりわけ愛しさ溢れんばかりで見惚れました。三味線の清介はこの劇に重厚さを加えんと心しています。襲名を支えようとする二人の気迫が漲っていました。
 
 しかし「板額門破り」があればこの浄瑠璃が如何に難曲であるかが判り、「板額」が一筋縄ではいかない存在である事が見えてきます。それ故に新若太夫が親子の情愛を美しく纏め上げたのとは異なる別次元の世界がある事を示すことになるのですが。
 
 先代若太夫なら「和田合戦」はどの様に表現されるのか、探ってみたいものです。
千秋 2024/04/20(Sat) 12:43 | 返信 | 削除 |
[365] 令和六年四月公演(四月十二日) その1
第二部
 十一代目豊竹若太夫襲名とあって、館内は和服姿の方々も多く、華やいだ雰囲気でした。2階劇場入り口では若太夫直々の出迎えを受け、めでたく喜ばしい気持ちになりました。「和田合戦」がどうなるのか、楽しみです。

「団子売」
   藤太夫 靖太夫 咲寿太夫
   織栄太夫
   清志郎 寛太郎 清允
   藤之亮
 襲名を言祝ぐとあって、三味線、太夫陣とも伸び伸びと晴れやかで、こちらの気分も開放されました。一輔のお臼は登場するや舞台が華やぎ、観客の気持ちが高揚するのが判ります。ニコニコしながら見てしまう。
 「さうだよ高砂‥」辺りの三味線と太夫、人形、一体となってのリズミカルな奏演は襲名披露の幕開けとして相応しいものでした。特に咲寿の声は隅々までまでよくコントロールされており、太夫陣の指標となるものでした。


   襲名披露公演
「和田合戦女舞鶴」

☆市若初陣の段  
  中
   希太夫  清公
 「至つて用捨は御身にかかり、‥‥訝しき」と始めても、希太夫の頭に情景が浮かんでいないので、当然聴衆の頭の中に情景が浮かんで来る筈も無いのは、困ったものです。全般的にその傾向が強いので、先ずこの人は自らの頭の中で情景を設定するイメージトレーニングが必要でしょう。そうすれば表現の仕方、声の高低、大小、間の取り方もコントロール出来るのではないでしょうか。
 今の表現方法では必然性が無いので音が耳を通過するだけです。
 特に「板額門破り」省略の本公演では、板額の人物表現として、「誠口ほど健気なら‥刺し殺し、自害した方がよい、‥」の厳しさを強く述べるべき所なのに平坦。「思いは親の因果かや」はこれからの板額親子の運命が仄めかされる重要な箇所であるのに、思い入れもありません。
 これからの事件の導入部であるとは言え、もう少し自らの力で展望を開いて欲しいものです。
千秋 2024/04/20(Sat) 12:38 | 返信 | 削除 |
[364] 逸早く
劇評をアップロードした次第
勘定場 2024/04/08(Mon) 18:28 | 返信 | 削除 |
[363] 卯月
冬来たりなば春遠からじ。
いよいよ万物がはえるとは喜びであるが、
それも順調に寒さが経過すればであって、
凸凹の具合如何では、
到来もまた穏やかには迎えられないのである。
勘定場 2024/04/01(Mon) 16:10 | 返信 | 削除 |
[362] 弥生
冬来たりなば春遠からじ。
いよいよ万物がはえるとは喜びであるが、
それも順調に経過すればであって、
寒暖凸凹甚だしきに至っては、
到来もまた穏やかには迎えられないのである。
勘定場 2024/03/01(Fri) 08:59 | 返信 | 削除 |

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