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387]
令和七年一月公演(一月二十日) その3
☆総じて、太夫陣(靖、睦、千歳、藤)の語りは大音にも拘らず、実際には内に閉ざされでいるので、聴衆の耳に響いていないのである。自分の音声の行方を自ら追う事が出来ないので、勿論聴衆にどう聴こえているのかも分かっていない。故に自己満足に陥っているのだ。
その結果聴衆の耳には大声だけが残り、舞台では人形がバタバタしているのである。
この閉じたサイクルを打破せぬ限り、太夫陣は大音を発する置物に過ぎない。もっと聴衆の耳の奥底にまで浸透し、心を揺り動かして、現実世界をこじ開け、別世界まで連れて行かねばならないのに残念であった。
☆但し三味線陣は素晴らしかった。何をどの様に弾いているのかを、自らの耳で確認し、よく分析して統御しているので、的確で最高の音を聴衆に届けていた。この姿勢が太夫陣にも欲しいものである。
清治師と呂勢の化学的相乗効果も美しかったが、富助がしっとりと、又冷静に千歳を抑え、落ち着かせているのが、印象に残った。
又藤太夫が後半『アアコレコレ』『イイエイナ』と、戸無瀬とお石が掛け合っての躍動感を表現すべきところ、不発で、流れに変化が無いのを、燕三が全力でカバーしていた。何をどう表現すべきか、自己の耳で確認しながら弾いているので、聴衆に向かって開かれた三味の音になったのだ。故に聴衆の心は揺さぶられて陶酔する。
太夫陣にはこれら三味線陣の開かれた音色をよく聴いて、自らの浄瑠璃を聴衆の耳と心に届く開かれたものにして欲しいと切に願う。
しかも浄瑠璃は目の前の聴衆を超えて行かねばならないのだ。
以上
千秋 2025/01/29(Wed) 21:50
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386]
令和七年一月公演(一月二十日) その2
九段目
☆「雪転しの段」
睦太夫 清丈
この人は大音で明晰なのだが、終始一貫それだけなのだった。前半「詞もしどろ、足取りもしどろに見ゆる酒機嫌」と語っても、「しどろ」の内実は醸し出せず、平坦。つまり由良助の内面を映し出す事が出来ないのである。人物把握が表面的なので、メリハリも緩急も表現出来ず、故に音楽的な流れも形成出来ない。流れが無いので、人形の動きにも連繋が感じられず、舞台には一体感が無かった。
☆「山科閑居の段」
切 千歳太夫 富助
「『娘ここへ』と呼び出せば谷の戸あけて鶯の‥」と情感溢れる詞章を千歳は滑らかに説得力を以って語って行くが、「‥移り変はるは世の習ひ。変らぬは親心、‥」辺りから徐々に単調となり、大音と力みばかりが目立つようになった。
戸無瀬とお石の対決は唯の女同士の意地の張り合いでは無くて、両者の退っ引きならぬ論理は、また観客、聴衆の抱く、この婚姻への疑念が集約されたものである。故に戸無瀬は賢しく、お石はキッパリ「他行。」と対立軸を明確にさせねばならない。対立軸が露わになって行く過程がスリリングで、論理の火花が散る状況を、太夫は聴衆に向かって十分に展開せねはならないのだが、千歳には何の戦略もなかった。
それ故にに人形が、唯ドタバタと騒いでいるだけで、知的な論理のせめぎ合いは全く感じられなかった。
何を聴衆に伝えるべきか、よくよく思考して、分析し構成しなければ、大音と力みで聴衆は驚くかもしれないが、結局は退屈なのだ。
後 藤太夫 燕三
この人も大音で力演であった。しかしそれで良いのか、疑問が残る。感情が高揚してうねりとなるのではなく、唯大音なのである。内的必然性が無いので、「『ハハハハいやはや、‥』」と三方を踏み砕いても凄みが感じられない。色々な行動が説明されるだけで、バラバラに分断されるので、流れも切迫も緊張も無い。あるがままになっている。『思へば貴殿の身の上は‥』と述べる本蔵の論理は切実で、聴衆の心に訴える筈であるが、何と言う事もない。
唯勘十郎師の本蔵だけが内向きに陥らず、大きく観客に開かれており、虚無僧姿の出から三方を足で踏み砕くまで、緊張感があり、女達の論理を自らの首を賭けた超論理で吹き飛ばす勢いが爽快であった。
比べて玉男師の大石は内向きで小さく、本蔵を包含する器量の程を示せなかった。
お石は一輔にとって重荷だったかもしれないが、お石の怜悧さがよく表現されており、しかも「言はぬ心のいぢらしさ」辺りのいじらしさへと深みを見せて行く様子が優れていた。流れを把握しているのである。
千秋 2025/01/29(Wed) 21:43
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385]
令和七年一月公演(一月二十日) その1
第二部 「仮名手本忠臣蔵」
新春を寿ぐと同時に吉田和生師の文化功労者顕彰記念とあって、客席も前方はほぼ満席でした。餅花も華やか、舞台上の睨み鯛もめでたく、その中央に大石神社宮司の揮毫された「巳」の字が掲げられており、場内の「気」を引き締めてめていました。
さて私事ではありますが、昨年は自身の体調不良に身内の不幸が重なり、止むなく2度休載となりました。今年は心機一転して再開しましたので、何卒よろしくお願い申し上げます。
八段目
☆「道行旅路の嫁入」
呂勢太夫 靖太夫 ‥
清治 ‥‥
「浮世とは誰が言ひ初めて‥」清治師の三味線にのっての、朗々たる呂勢の語りが、不安はあってもひたむきに力弥を求める戸無瀬、小浪の心をよく表現していた。やはり「道行」とは道中の地霊を身に付けて自らを活性化して行くものなのである。不安に沈みがちな小浪の心も地霊の力で活性化された筈だ。
それに応ずるように、清治師の先導する三味線の華やかなツレ弾きは、地霊の響となってよく聴衆の心を弾ませ、太夫陣のユニゾンと相俟って、新春らしい伸びやかさがあり、十分楽しめた。ウキウキしたのである。
しかし人形に存在感がなく、唯ちまちまと所作を為すだけであるのが残念であった。
千秋 2025/01/29(Wed) 21:29
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384]
一月公演評
公演評と称するには浅薄であるが、
正直なところを書き綴ってみた。
短い中に言わんとする真実を読み取っていただきたい。
勘定場 2025/01/04(Sat) 18:35
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383]
一月
謹賀新年。
新たな年は果たして如何なるものになるか。
天候気象をとってみても重要である。
順調な季節の巡り、
それは何物にも代え難いのであるから。
勘定場 2025/01/01(Wed) 08:22
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382]
師走
師も走らねばならぬ、
とは今や季節感にとどまることではない。
国立劇場の建て替えが暗礁に乗り上げている。
入札の不調を一般的な外部要因に帰するのではなく、
自国の一大事と捉える姿勢が欠如していることが問題なのである。
勘定場 2024/12/01(Sun) 09:48
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381]
十一月公演評
早々にお目に掛けます。
遅巧には至りませんので。
なお、
「三業晴雨表」は形骸化・形式化しておりますので以後休止といたします。
勘定場 2024/11/04(Mon) 16:47
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380]
霜月
旧暦と新暦のずれはそれとして、
十一月ともなれば晩秋であるはずが、
地球温暖化はそれを遠くに押し去り、
紅葉のもの字も感じさせぬものとしてしまった。
季節の順調な推移がただ懐かしく思い起こされる。
勘定場 2024/11/01(Fri) 07:56
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379]
情報資料室
FILE5が「45.8〜89.1 昭和の義太夫放送一覧(稿)」として、
大幅改訂されました。
義太夫年表昭和篇では放送一覧の索引がないので、
その代用になるかと存じます。
当時の状況や前後の関係なども見えて参りましょう。
大変有益かつ有効な情報ですので、
是非ともトップページのリンクからご覧ください。
勘定場 2024/10/01(Tue) 16:14
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378]
神無月
神無月とは神有月の対であるが、
神はこれまで坐しましていたのかどうか。
この国の有り様は人事自然ともに、
神も見放し給うほどではなかったか。
出雲の国にお伺いを立ててみたいものである。
勘定場 2024/10/01(Tue) 07:47
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