大序「大内」約23分(津駒・緑・英・松香/叶太郎)

々たる姑射(こや)の松化(け)して〔女+卓〕約(しやくやく)の美人と顕はれ、珊々(さんさん)たる羅浮山の梅、夢に清麗の佳人と成る。皆是擬議して変化をなす。豈に誠の木精ならんや。唐土(もろこし)計りか日の本にも人を以て名付くるに、松と呼び、梅といひ、或ひは桜に准ふれば花にも情(こゝろ)天満(あまみつる)。大自在天神の御自愛有りし神詠、末世に伝へて、有りがたし。の神いまだ人臣にまします時、菅原の道真と申し奉り、文学に達し筆道の奥儀を極め給へば、才学智徳兼ね備はり右大臣に推任有り。権威にはびこる左大臣、藤原の平(ときひら)に座を列ね、菅丞相と敬はれ、君を守護し奉らる延喜の、御代ぞ豊かなる。かゝる所へ式部省の下司(げじ)、春藤玄番の允(ぜう)友景罷り出で庭上に頭をさげ、「“今度渤海国より来朝せし唐僧天蘭敬が願ひには、『唐土の僖宗(きそう)皇帝、当今の聖徳を伝へ聞き、何とぞ天顔を拝し奉り、御姿を画(ゑ)に写し帰国せよ。其の画を則ち日本の帝と思ひ対面せん』との望みに付き、数々の饋り物”、則ち是に候」と庭上に(かざ)らすれば、丞相聞き給ひ、「“ハ珍らか成る唐僧が願ひ。当今延喜の帝、聖王にてまします事隠れなく、御姿を拝せんと唐の帝の望みは、直(すぐ)に我国の誉れなれども”、折悪敷き天子(おおぎみ)の御脳有りの儘に云ひ聞かせ、音物も唐僧も唐土へ帰されんや。時平の了簡ましますか」と仰せに冠打ち振つて、「“そふでない道真。御病気と申し聞かしてもよも誠には思ふまじ。御形代を拵へ天皇(きみ)と偽つて、唐僧に拝さすれば何事なふ事はすむ。誰彼といはんより此の時平が代りを勤め”、袞竜(こんりやう)の御衣を着し、天子(きみ)に成つて対面せん」と一口に言ひ放す叛の萌しぞ恐ろしき。菅丞相とゞめ給ひ、「“時平の仰せは天下の為御形代とはさる事なれども、若しや彼の僧相人にて、君臣の相を能く見るならば、王孫にあらぬ臣下と知るべし”。其の時いかゞ仕らん」と、暫しの間御思案有り。「“所詮天子の御代り人臣は成りがたし。幸ひ御同腹の弟宮、斎世の親王を今日一日の天子と仰ぎ御姿画を唐土迄”伝へて恥ぢぬ御粧ほひ、此の義いかゞ」と、理に叶ふ、詞に違ふ時平が工み、口あんごりと明き居たる。垂れ深き、一間より、伊予の内侍立ち出で給ひ、「“両臣の御諍ひ我君委しく聞こし召され、『朕が代りは斎世の宮』と直々の勅諚にて”、只今御衣を召し替へ給ふ。『此の由申し伝へよ』との仰せにて候ふ」と内侍は奥に入り給ふ。玄番の允が案内にて、渤海国の僧天蘭敬、倭朝にかはる衣の衫(さん)、庭に覆ひて畏る。「“ムヽ唐土の僧天蘭敬とは汝よな。竜顔を写し奉らんとの願ひ、叶ふは汝が身の大慶有難く存じ奉れ”」と、時平が差図に警蹕の声諸共に高々と、(みす)巻き上ぐる其の内には、弟宮斎世の親王金巾子(きんこじ)の冠を正し、御衣さはやかに見へ給ふ実(げ)に王孫の印とて、唐僧始め座列の官人あつとひれ伏し敬へり。天蘭敬漸う頭を上げ、玉体をつく/\と拝し奉り、「“ハヽア天晴れ聖主候や。我国の僖宗皇帝慕はるゝも理なり”。三十二相備はつて言はん方なき御形。“勿体なくも僕(やつかれ)が筆に写し奉らん”」と、用意の画絹硯箱、檜の木の焼筆さら/\と、眉のかゝり額際見ては、写し、書いては拝し、御笏の持たせやう御衣の召しぶり違ひなく、即席書きの速やかさ顔輝が子孫か只ならぬ画筆の、妙を顕はせり。道真公仰せには、「重ねて奉禄賜びてんぞ旅館に帰れ」と下知を受け継ぐ春藤玄番、お暇(いとま)申させ唐僧を伴ひ、こそ退出す。帰るを待つて時平大臣玉座にかけ寄り、斎世の宮の肩先掴んで引きずり出し、御衣も冠もかなぐり/\、「“唐人が帰つたれば暫くも着せては置かれぬ。九位でもない無位無冠に、着せた装束此の冠穢れた同然。内裏(ごてん)に置かず我が預かる。今日の次第は右大臣奏問せられよ身は退出”。罷り帰る」と御衣冠奪ひ取つて行かんとす。道真立つて引取り給ひ、「聊爾なり時平。“勅もなき御衣冠私に持ち帰り、過つて謀反の名を取り給ふや”」と、何心なく身の為を言はるゝ身には胸に釘、頭ゆがめて閉口す。斎世の宮菅丞相に向はせ給ひ、「“子序(つい)での勅定には、『老少不定極まりなし。何時しらぬ世の中に名計り残すは其の身の為。道を残すは末世の為。妙を得たる筆の道伝ふべき惣領は、女子なれば是非に及ばず。幼ければ弟の菅秀才にも伝ふまじ。弟子数多有る菅丞相器量を、択みて”、筆道の奥儀を授け長き世の、宝とせよ』との御事」と、仰せの中に道真公、「こは有難き君の恵み。“我が筆法の大事には神代の文字を伝ふる故七日の斎(ものいみ)七座の幣。神道加持に唐倭、文字は何万何千にも”、我が筆道に、洩れしはなし。それ共知らず爰(ここ)かしこに手習ふ子供も皆我が弟子。“今日より私宅に閉ぢ籠り、択み出して器量の弟子に筆伝授け申すべし”」と、宣ふ詞は今の世に伝へて残る筆道の、道は御名に顕はれて、真(まこと)成るかななる君が、代こそ 豊かなれ。
開幕すると、全面屋台で舞台中央に階、屋台上手に時平、下手に菅丞相。黒衣。御簾内。通し狂言の大序はソナヱ(ドン、テン、トンと一、三、二の開放弦を弾き、トントン…以下定型の旋律。改まった荘重感がある)の後、荘重な序詞を以て始まる。「蒼々たる姑射の松〜御自愛有りし」まで、太夫は詞をズバッと語り、三味線は要所要所に鋭く一撥を入れてゆく。「〜美人と顕はれ」(ツン)「〜佳人と成る」(ツン)「〜変化をなす」(トン)等々。(『忠臣蔵』も同様−大阪国立第56回公演平成6年11月−だが、音を遣って語る場合−同第72回平成10年11月−もある。)
「御神詠」はイの産字(かなの母音を延ばして語る)。続いてヲロシという勇壮な旋律となり、「有りがたし」がイの産字で序詞全体を締めくくる。
「此の神」からノリ間でテンポよく運ぶ。
「時平」はここだけ「ときひら」(丸本ふりがな通り)と語られる。他は「しへい」。
 
 
 

「〜餝らすれば」まで津駒、「菅丞相聞き給ひ」から緑に交替。三味線は叶太郎一人で通し。
菅丞相の詞で下座の笛が入る。時平の詞も同様だが、幾分底に恐ろしさを含む音色。
 
 
 
 
 
 
 

「謀叛の萌しぞ恐ろしき」で時平は両袖を大きく広げて極まる。
 
 
 
 
 
 
 

「玉垂深き」から英に替わる。
 
 
 
 
 
 

正面の御簾上がると斎世親王が御衣御冠で着座している。天子の御姿ゆえ実に大きく見える。なお、唐僧退出後時平に奪い取られると対照的に小さくなる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「てこそ退出す」から松香に交替。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

斎世親王の詞でも下座の笛。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「誠なる」から段切りとなりウの産字、「君が(アの産字)、御代こそ」が大三重という大序を締めくくる重々しい旋律となり、オの産字で締めくくる。『忠臣蔵』「兜頭巾の、綻びぬ、国の、掟ぞ」も同じ旋律。
上手時平、中央斎世親王、下手菅丞相、三人ともに衣服を整える所作。屋台全面に御簾が下りる。次段「加茂堤」へ道具替り。

どう考えても、大序のない通し狂言は素通り狂言と称するより他はあるまい、とりわけ三大狂言においては。緊張感、統一感、臨場感等々、さあこれから壮大なドラマが展開するのだという、来るべきカタルシスをも予兆させる全身全霊からのゾクゾクする感覚を味わうことができない観客は、ほんとうにかわいそうだと心底思われるのである。

大序「大内」二段目「道行詞甘替」二段目「安井汐待」四段目「北嵯峨」五段目「大内天変」