《 其ノ六 菅原道真公 御昇神 千百年紀 『菅原伝授手習鑑』 》

平成14年4月大阪国立文楽劇場における人形浄瑠璃文楽公演は、“通し狂言”『菅原伝授手習鑑』である。しかも今回、「菅原道真 没後千百年」と銘打ってあるからは、大序から大詰までの正当な上演がなされるものと確信していたが、あろうことか、ここ数年の安易な軽量化路線をそのまま踏襲した、不完全な素通り狂言としての上演に甘んずることとなってしまったのである。これが如何に不心得なものであるかは、次の文章を以てしても明らかであろう。(なお、人間道真に焦点を当てたなどとする物言いは、「天拝山」は見せるということからみても詭弁に過ぎまい。人形劇のスペクタクルの見せ場という理由でのみ上演するとは、不敬も茲に極まれりと言うべきだろう。)

−たとえ不遇な最期を遂げられた魂も、のちのちまで丁重にお祀りすることにより、そのご神霊は愈あらたかになるという古代からの信仰にもとづいており、まさに日本人の神を敬う心そのものと申せましょう。−
−菅公を慕う天神信仰は、単に「学問の神様」にとどまらず、わが国の文化を生み出すエネルギー源となって千百年にわたり、日本人の心に脈々と受け継がれてきたのであります。−(「北野天満宮千百年大萬燈祭」パンフレットより)

思えば、かつて『忠臣蔵』を正月公演で出し「焼香場」で追い出した際に、「忠臣蔵とは何か」の著者丸谷才一氏に寄稿を頼んでまで、御霊信仰の意味をといて見せた国立文楽が、まさか今日このようなことになろうとは…。少なくとも当「音曲の司」においては、事の重大さに思いを馳せ、微力ながらその欠を補い、以てその血脈を今日まで伝えるべく、この《補完計画 其ノ六》を行うものである。

具体的には、現在遡ることができる真っ当な通し狂言、東京国立小劇場人形浄瑠璃文楽第22回公演(昭和47年5月)を参考に、今回省略された段々を、以下のような形で再現してみることとしたい。(本来ならば、国立側が当該VTRを広く公開すべきものである。)

附:東京国立においては、「大序・大内の段」を開演前にロビーでVTR上映することとなった。その英断に感服するとともに、文化面においても首都東京の格の違いを痛感した。
詞章本文

日本古典文学全集「浄瑠璃集」所収『菅原伝授手習鑑』を底本とし、前述の公演で実際に語り弾かれ遣われたところのものによって補訂した。
(なお前掲書には詳細な頭注および口語訳も附されてあるので参照されたい。)

(ふりがな)は煩雑になるのを避けるため、最小限にとどめた。

科白に当たるところは「 」で囲んだが、浄瑠璃でそれらすべてを詞としては語らないため(地・色等)、実際に詞として語られた部分だけを“ ”で囲んで示した。


注釈行に該当する詞章の先頭の文字を注釈記号の文字にして明確にした。

注釈行

実際の床や舞台を想像していただくのに必要最低限にとどめた。
よって厳密な正確さを追求したものではない。

印:浄瑠璃(太夫・三味線)に関するもの。
   (特徴的な表現や旋律についてのみ記述。)

印:人形に関するもの。
   (詞章から推測可能な人形の動きは省略。)

印:作品解釈や構成に関するもの。
   (当該一段の意味や一段を省略することによる弊害等。)
 


 

大序「大内」二段目「道行詞甘替」二段目「安井汐待」四段目「北嵯峨」五段目「大内天変」
 
 

皆さまには、どうかこの意のあるところをお酌み取りいただき、不十分なWebページながらもご覧いただきたく、御願い申し上げます。
 
 

【補完資料】「菅原伝授手習鑑」はいかにして上演されて来たか提供者:五郎兵衛さん(2002.03.06)