発行者の項は3種の表記法(初刷)がある。
「編輯兼発行者」:01~08 国会図書館本03、04、06-08では手書で「翻刻」と修正
「翻刻兼発行者」:09~38 国会図書館本28-38では「兼」を抹消
奥付(b)の一部は「編輯兼発行者」:09b、10b、11b、23b、29b、30b
「発行者」:39
第五版では「編輯兼発行者」となっている。
「日本橋区通四丁目四番地」 01a~37a 源平布引瀧(発行日 M26.11.24)まで。
「日本橋区通三丁目十三番地」 38a 近江源氏先陣館(印刷日 M26.12.12)から。
住所は金桜堂の他の出版物にでも、
「四丁目四番地」
鬼蔦(発行日 M26.11.27)まで。
となっている。
印刷・出版日がM26.12以前であって、住所が「三丁目十三番地」である以下の奥付は、住所変更後に、印刷・出版日が初刷のまま発行されたことになる。
04b、07b、08b、09b、10b、11b、22b、23b、25b、26b、27b、29b、30b
編輯・翻刻の用字と住所との関係は以下の通り。
奥付分類一覧参照。
| 四丁目四番地 | 三丁目十三番地 |
編輯 | 甲 | 丁 戊[民治郎] 辛[第五版] |
翻刻 | 乙 丙[今古堂活版所] | 己[今古堂活版所] |
なし | | 庚[今古堂活版所] |
甲:01a-08a 01b-03b 01c
乙:09a-31a 18b 18c
丙:32a-37a
丁:07b-10b
戊:04b 11b 23b 29b 30b 01d
己 22b 25b 26b 27b 38a
庚 39a
辛 02c 03c 05b 06b 09c 12b 13b 14b 18d 31b
印刷所名 「今古堂活版所」は32a関取千両幟(M26.5.18印刷)より表示される。
印刷者名
・瀧川三代太郎が主
・瀧川民治郎:以下の奥付(表紙意匠)の印刷者となっている。
1d(01-V)、4b(04-V)、11b(11-III)、23b(23-II)、29b(29-I,29-II)、30b(30-II)
なお、瀧川民治郎はM27.12.11まで筒井民治郎と称していたので、この奥付はそれ以降の出版と考えられる。(
今古堂の項参照)
・田附平次郎:第五版奥付にのみ見られる。
金桜堂出版物が「今古堂活版所 印刷者瀧川三代太郎」(M34.10.12発行
『摺上川』は瀧川三代太郎)から
「今泉堂 印刷者田附平次郎」に替わるのはM35.1.2発行の
『江戸の花血染纏』以降である。
22 箱根霊験仇討 以降では、上部の飾り枠内に外題がある。
但し、28、31、32にはタイトル名はなく、22、25 は表紙意匠II(22b 25b)にのみある。
飾り罫の模様はタイトル毎に異なる。
26と27では表紙意匠IとIIで奥付は版が異なり(26a 26b、27a 27b)、飾り罫も異なる。
裏表紙には、金桜堂の意匠(A、B)、名作三十六佳撰の広告(C-F,H-K,完成広告V-Z)、金桜堂の他の出版物の広告(G)が掲載されている。
V~Zの名作三十六佳撰完成広告は「義太夫丸本は一種宛其物語の始より終局に至る迄を掲げし者にて・・・高尚優美なる冊子也」の二行の有無、金桜堂の住所の有無、タイトル名の上の丸中黒の使用により5群に分類した。周囲の枠線の太さ、版の疵の状態により細分できる可能性はある。
丸 | 住所 | 2行説明文あり | 2行説明文なし |
● | あり | V | X |
なし | W | Y |
⦿ | なし | Z | |
V:国会図書館本で浄瑠璃全書の37源平布引瀧,38近江源氏先陣館の裏表紙。
W:国会図書館本で浄瑠璃全書の39碁太平記白石噺の裏表紙。
Y:08-III[平仮名盛衰記]にWとYがあり、YがWより後の発行。
Z:第五版の奥付本の裏表紙。
X:表紙意匠11-III[壇浦兜軍記]の1本にのみ見られるが、その本の奥付11bが移転後の住所(三丁目十三番地)であるのに、Xでは旧住所(四丁目四番地)が使用されて不整合となっている。『日清戦闘実記後編』(M27.12.26)でも
奥付は三丁目十三番地だが、
広告は四丁目四番地となっている。
奥付と裏表紙の間の広告は以下の種類がある。
a:小夜嵐物語-精神の機関
b:女宝-春ノ一枝
c:女宝指輪続倭文範合本
d 鎌倉三代記 (裏表紙広告GとH)
e:涙美人鬼車暗殺/かたみかはり後開榛名梅ヶ香河内山
f:作文錦嚢-女宝
g:作文錦嚢男女造化機論文章規範評林
h:大疑獄真暗日本六法全書民法俗解
i:浄瑠璃全書
扉裏の広告は以下の種類がある。
j:易学秘伝
k:速習算法
l:挿絵(広告ではないが便宜上ここに置く)
再刷(再版)に際し、初版の印刷日、出版(発行)日が変更されなかったことから、23年から26年にかけての初版の販売のみで出版が終了したとされている。しかし、同一タイトルで表紙意匠が多種残っていることから長期に亘る販売が示唆される。
なお、書籍総目録によればM39.10まで販売されていたことになる。
36冊のうち芦屋道満大内鑑、加賀見山旧錦絵、祇園祭礼信仰記の3冊の発行はM26.8以降である。
書籍総目録掲載 名作三十六佳撰 |
|
|
M26.7 |
M39.10 |
全冊出版後、上記M39.10の書籍目録までの間も、金桜堂出版書籍中に名作三十六佳撰の広告は継続して掲載されていた。
金桜堂発行書籍掲載 名作三十六佳撰 広告 |
A |
B |
C |
D |
E |
|
|
|
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|
M28.5-M30.4 |
M28.10-M31.1 |
M29.1-M33.4 |
M33.8-M35.4 |
M37.6 |
1冊10錢 郵税2錢 (前項広告D)
但し、芦屋道満大内鑑奥付(M26.8.2)には十五錢と印刷されている。
表6に示したように、裏表紙広告によれば、内容から掲載時期、前後関係を推測できることから、
表1では、裏表紙広告を参照して、表紙意匠を発行順に配列した。
完成広告(V-Z)の前後関係については
10 裏表紙参照。罫の種類、キズなどによる分別の可能性もある。なお、裏表紙が白紙のものも若干あった。
「同版異装本が作られた動機はどうしたことであらうか。同じ初期の翻刻院本である金桜堂本(名作三十六佳撰)にも数種の同版異装本がある。いづれも初版で同じ日付の奥付を持つてゐるが、似ても似つかぬ全く異つた意匠の表紙が付けられて居つて 中に「一谷嫩軍記」の如き,三種迄の同版異装本が、家蔵中だけにも見出さるゝ。この叢書は、事実上の改版毎に、違つた装幀をされたのであらう。而してその発行者に、版歴といふ概念がなく、重版の際は、無造作に初版の通りの奥附を作って添付したものゝ様である。」(
「武蔵屋本考」pp.152-153)
同一版面の刊記を持ち表紙意匠の異なる例は、他の出版社でもみられる。 銀花堂版『絵本徳川十五代記』は「表紙絵の図柄は四点ともおなじである」とされるが、AとBでは最下段住所の印刷位置が異なり(黒が別版か?)、城の石垣・石垣の手前の土坡・兜(鍬形の角・眉庇)・囲い罫の葵などいずれもB・C・Dで異なり、少なくとも、ABとCとDとの3種の意匠となっている。(磯部敦「近代初期印刷史瞥見2 紙型と異本」(『書物学8』)p37 図版7 A-D )
表紙意匠と奥付
奥付が変更されると表紙意匠は変更されている。
しかし、同じ表紙意匠で別奥付の以下の6タイトルがある。
01 絵本太閤記 01-II:01b 01c
02 生写朝顔日記 02-II:02a 02b 出版日が02a(十七日)と02b(十六日)
02-IIの発行中に02aから02bに変更になった可能性がある。
03 伽羅先代萩 03-II:03a 03b
08 平仮名盛衰記 08-III:08a 08b
09 奥州安達原 09-III:09b 09c
18 花上野誉碑 18-I:18a 18b
印刷発行日の『十九』、『同』の位置が異なる。
国会図書館本は内務省への納付本であるため初刷であるはずだが、出版日が手書で修正されるなど、市販本と異なる点がある。
上述の所見より、初版初刷は以下の特徴を持つと推測される。
但し「無」と表示のあるタイトルについては、01:A、07:C、11:D、14:D、15:Eと推測する。
06菅原伝授手習鑑Iの表紙は同意匠で彩色の異なる2種のうち、Iiが国会図書館本と類似しており、初刷と判断した。
国会図書館本で表紙が表1のIと異なる4タイトルでは、15三日太平記表紙および20神霊矢口渡表紙は11-I、24玉藻前曦袂表紙は11-II、27鎌倉三代記表紙は25-Iと類似し、その流用が考えられる。
【11-IIは初版ではないが、裏表紙広告が24と同じFで同時期に印刷されていたと考えられる。】
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15国会図本 = 11-I |
20国会図本 = 11-I |
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24国会図本 = 11-II |
27国会図本 = 25-I |
表紙意匠・裏表紙広告・扉刷色の変更は増刷に際してなされたと判断される。
36祇園祭礼信仰記以外の全タイトルで増刷が確認できる。
特に増刷回数の多い例(8刷から10刷)を例示する。
(I~V:表紙意匠、A-Z:裏表紙意匠広告、黄茶黒:扉刷色、a~c:奥付)
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
01 絵本太閤記 | I-A黄黒 | II-D黒b | II-E黄c | III-H黒 | III-J黒 | III-K黒 | III-W黒 | IV-W黒 | V-*黒 | |
02 生写朝顔日記 | I-A彩 | I-A黒 | II-D緑b | II-F黒a | III-H黒 | III-J黒 | III-K黒 | III-W黒 | III-Y黒 | V-Z黒 |
03 伽羅先代萩 | I-A緑 | II-D緑b | II-F黒a | III-H黒 | III-J黒 | III-K黒 | IV-Y黒 | IV-Z黒 | V-Z黒 | |
04 仮名手本忠臣蔵 | I-A臙脂 | II-D茶 | II-F茶 | II-J黒 | III-K黒 | III-W黒 | IV-W黒 | V-Y黒 | | |
05 本朝廿四孝 | I-B茶 | I-B黒 | II-F黒 | II-G黒 | II-K黒 | III-K黒 | III-Y黒 | IV-Z黒 | | |
11 壇浦兜軍記 | I-D緑 | II-F黒 | II-I黒 | II-K黒 | II-V黒 | II-W黒 | III-X黒 | III-Y黒 | | |
*は裏表紙白紙 赤字は「第五版」奥付本 |
02朝顔日記 扉・裏表紙広告ではII-D緑b、II-F黒aの順だが、奥付はa、bの順となる。 |
32関取千両幟には柳塢亭寅彦「八十氏川」が併載されている。
「八十氏川」は明治25年3月23日今古堂発行、金桜堂発売の『武蔵野』第一編、その後、明治25年10月24日金桜堂・今古堂発兌の『深山木』に収載されているが、『名作三十六佳撰』掲載版も含め、いずれも同版と思われる。なお、『深山木』収載の「八十氏川」には挿画がある。
「花盗人序 柳塢亭寅彦先生嘗て言へることあり院本の作者古來竹田近松を始めとして其他世に名譽[ほまれ]を殘せし者ありしも近世に至り全く其遺跡[あと]と絶ちたれども實に日本文學上花として人の耳目を喜悦[よろこば]し人の心裡[こゝろ]を娯樂[たのしま]しむるハ院本にしくものなしと余此事を聞き轉[うた]た感歎に堪へず漫[そゞ]ろに院本の種類を蒐集[あつめ]もて之を閲讀するに文詞妙用字の適切等深く賞するに余れり是に於て余考ふるに斯く筆頭をして人情を寫し時代を求むるハ中々通常操觚の及ざる處なりと幾囘嘆息して止ず然るに先生未だ年若しと雖も院本の作者益煥んにして後ちハ近世にて云々[しか〴〵]と屈指を遂げんと欲し漸[やゝ]二三の院本を著作せられたり一を平家姫小松と号け一をバ八十宇治川と号く姫小松ハ既に印行して世に公けになせと
八十宇治川ハ未だ刊行中なり是れ人の尤も高評を博することハ元より論を俣ず故に近日世に公けす……夢廼家の主人さむるになん」(
『花盗人』M22.12.25出版 金桜堂)[下線は引用者による]
「篁村の弟分といっていい右田寅彦は、明治の末年には、新聞界から足を洗って、劇界の人となってしまうのであるが、この人がまた妙文家で、花柳記事に於ては、明治の新聞記者中の第一人者といってもよいのではあるまいかと思われる。尤もその記事に、署名などはないのであるが、少し注意をしたら、見当が附くのではないかと思われる。お前などに、柄にもないことといわれるかも知れないが、明治の新聞記者に、かような人があったということだけでも、紹介して置きたい気がしている。」(『九 明治の新聞』p186-187 森銑三『思い出すことども』中公文庫)
なお、『武蔵野』は樋口一葉が小説家としてはじめて作品を活字にした雑誌である。
「編集兼発行者は筒井民次郎(日本橋区新和泉町一番地)、印刷者は滝川三代太郎(日本橋区新和泉町一番地)。つまり編集、発行者と印刷者は同住所であり、発行所の今古堂(日本橋区新和泉町一番地)も同住所、発売所は金桜堂(日本橋区通四丁目四番地)。これは今古堂が編集、印刷関係をしきり、金桜堂が発売に力を尽くすという仕組みであったと思える。今古堂からは「俳諧叢書」も刊行されていたし、岡本可亭編の
『女宝』や義太夫の丸本関係の『名作三十六佳撰』(「絵本太閤記」「生写朝顔日記」「仮名手本忠臣蔵」など)が刊行されていたし、金桜堂も春夢樓主人編『訂正増補通俗男女造化機論』なども出していた。」(『武蔵野』復刻版解説 pp4-5 雄松堂出版)
『名作三十六佳撰』はもちろん、『女宝』も金桜堂発行で、出版業としては今古堂に先行している。金桜堂、今古堂、今古堂活版所の関係が上記のようであったかどうかは未考。下記
金桜堂、
17今古堂の項参照。
「
金櫻堂 内藤加我 初代(萬延年十一月二十九日生)東京市京橋區銀座二丁目九番地 創業 明治十六年三月十八日
[1]
生國ハ山梨縣中巨摩郡宮本村御嶽ニシテ、代々同山
金櫻神社ノ神官タリシヨリ、後二開業ニ際シ神社名ヲ其マヽ金櫻堂ト號ス。明治十一年三月出京シ、翌年日本橋區本石町二丁目十三番地繪草紙店小宮山昇平ニ雇ハレ五ケ年勤續シ同十六年二月同家ヲ辭シ、翌月日本橋區通四丁目四番地ニ獨立開業シ
『繪入倭文範』ヲ發行ス
[2]。
二十七年十二月通三丁目十三番地ニ移リ
[3]、四十年市區改正ノ爲メ同區本材木町二丁目ノ假營業所ニ移リ、翌年更ニ現在地ニ移轉ス。明治三十六年ヨリ同四十三年迄東京書籍商組合ノ評議員ニ當選シ、四十三年本組合ヨリ彰功セラル。」(
『東京書籍商組合史及組合員概歷』(大正1.11.6発行) p182 )
[1] 「忍月はおそらく明治十四年一月の金桜堂版『増補生写朝顔日記』によっているのであろう。」(千葉眞郎 『石橋忍月研究』2006.2 p140)とあるが、M24.1出版の名作三十六佳撰本を指すか?。
補足:「金桜堂」に言及した記事
「午後読売新聞社へ廻り、尾崎紅葉君に逢い、戻りがけに仁科、小林、広告社等へ行き、金桜堂へ立寄り、山辰へ立寄りて帰宅。」(『鶯亭金升日記』p26 明治二十三年七月十一日)
「この読みものは、起載間もなくからの好評により、翌年より金松[桜]堂(のち東光閣と改名)は、単行本にして出版し、大正十四年までに、新聞発表分を四六判九冊とした。」(中公文庫 『江戸から東京へ』(一)「解説」(朝倉治彦)p361)
「宮武外骨著「百白半分」所載に、明治出版界の成功者(明治十年前後頃の人々)を挙げている中で、金桜堂、内藤加我が見える。また、小川菊松著「出版興亡五十年」に、金桜堂、日本橋区通り三丁目の角店で、小売店も兼営していた。昔は八銭から十銭程度の菊版(A5版)の講談本を出版したこともある…堂主の内藤氏は腰の低い親しみのある江戸前の商人型のよい御仁であった。と書かれている。」(川崎市蔵 「春色連理の梅・都民中・歌沢上音のこと(二)」『邦楽の友』180 p27, 1970.5)
「大正初期の「パンテオン叢書」についてはこれまで適確にとりあげ、位置づけたものはなかったのではなかろうか。いわば放擲に近い存在であったといってもよかろう。松本苦味監修、発行者は内藤加我(京橋区南鞘町二十九番地)、発行所は金桜堂(発行者と同住所)。この金桜堂が一般にほとんど知られていなかったともいえるが、監修者として全体を眺め、みずからもそのメンバーに加わっていた松本苦味も、うっかりするとシェンケーヴイッチの『何処へ行く』や最初の『クォーヴァディス』などの翻訳者として著名な、早大出身の松本雲舟と間違われてしまいかねない。」(紅野敏郎 「大正期の文芸叢書(60)金桜堂の「パンテオン叢書」」 『日本古書通信』 62(2) (811) p11)
(M17.8内藤加我発行)
「今古堂
瀧川民治郎 初代(明治二年十月十一日生)東京日本橋區馬喰町三丁目十四番地 創業 明治三十二年九月三日 生國ハ和歌山縣ニシテ、明治十二年出京獨逸學校ニ人學シ、在校五年、同十七年大學豫備門ニ入校ス。後チ或ル事情ノ爲メニ歸郷シタリシガ、再ビ出京、明治十九年十月活版印刷所ノ校正掛トナリ、次デ會計ヲ掌リ、印刷業ニ從事スルコト十三年、明治三十二年九月日本橋區葺屋町一番地ニ今古堂卜稱シ書店ヲ開始シ
[1]、講談小説類ノ出版ヲナス、同三十六年始メテ文學書ノ出版ヲ企畫シ
『聖人か盗賊か』ヲ出版ス。同年現在地ニ移轉シ、爾來各種ノ書籍ヲ出版シテ今日ニ及ブ。」(
『東京書籍商組合史及組合員概歴』(大正1.11.6発行)pp159-160)
金桜堂または今古堂発行書奥付で「民治郎」とある書籍はM27.12.11までは筒井姓で、M29.3.15から瀧川姓であることから、同一人物と推定され、この場合、「瀧川民治郎」名義の奥付の『名作三十六佳撰』はM27.12.11以降の発行といえる。
M24.4.1 編輯兼発行者:筒井民治郎 印刷者:瀧川三代太郎 発行所:今古堂 (
敵討毛谷村実記)
|
M27.12.11 編輯兼発行者:筒井民治郎 印刷者:瀧川三代太郎 今古堂活版所 発兌:今古堂 (
上野合戦)
M29.3.15 著作兼発行者:瀧川民治郎 印刷者;瀧川三代太郎 今古堂活版所 発兌:金桜堂 (
鐘供養)
|
演劇博物館蔵名作三十六佳撰・浄瑠璃全書73冊(二06-62-1から二06-62-74(但し15は欠)は表紙裏に昭和15年5月22日付けの藤木氏寄贈印がある。
「同じ初期の翻刻院本である金櫻堂本(名作三十六佳撰)にも數種の同版異装本がある。いづれも初版で同じ日付の奥付を持つてゐるが、似ても似つかぬ全く異つた意匠の表紙が付けられて居つて、」(藤木秀吉
「武藏屋本考」p152-153 )
「更に見て行くと、終り頃になつて、何巻かの金櫻堂本の中から、近江源氏先陣館が出て來た。想像した如く、追刊の「名作卅六佳撰拾遺」「淨瑠璃全書、第二輯」となつてゐた。日付も「明・二六・一二・二五印刷、明・二七・一・一發行」で、「源平布引瀧」(明・二六・一一・一九)と、「碁太平記白石噺」(明・二七・四・二〇)との中間になつてゐる。卅六佳撰、三十九巻、四十篇中、唯この一巻のみを缺いでゐたものである。」(藤木秀吉
「古本日記抄」『武藏屋本考その他』p333)
演劇博物館藤木旧蔵書には源平布引瀧が欠けている。
名作三十六佳撰は、浄瑠璃丸本全書として明治43年7月以降大阪、中川玉成堂から出版されている。
「後、明治四十三年頃、大阪中川玉成堂から「浄瑠璃丸本全書」と改題して,内容はそつくり其儘で、非常に俗惡な表紙を持つた叢書となつて出てゐるものがある。」(藤木秀吉
「武藏屋本考」pp.22-23)
「又、この後明治四十三、四年に大阪の名倉昭文館から、この三十六佳撰を模した同じ様な體裁の、一作を一冊に収めた丸本の活版本が、やはり三、四十册刊行せられた。が、この方は粗末ではあるが、珍しいものはある。これとて今もし見つかれば珍重すべき活版本といへる。」 (三宅周太郎
『日本演劇考察』その二 人形淨瑠璃(人形芝居)の話 六 人形淨るりの見方 p101)
名作三十六佳撰との異同 (タイトル番号は名作三十六佳撰の番号による)
25義経腰越状・近頃河原達引はそれぞれ別タイトルとなっている。
掲載のタイトルの内名作三十六佳撰以外では摂州合邦辻、鬼一法眼三略巻、嫗山姥、心中天網島、恋女房染分手綱の発行が確認できる。
扉 :08の扉の図柄のみが名作三十六佳撰と異なる。25の扉は義経腰越状の図柄なので、25に収載されていて別本となった近頃河原達引の扉の図柄は新たに用意されたもの。
口絵:名作三十六佳撰と異なる口絵 01、02、03、06、08、25(近頃河原達引)、27。
名作三十六佳撰以外の摂州合邦辻、鬼一法眼三略巻、嫗山姥を含め2ページ大の折り込み、裏は白紙。
他は名作三十六佳撰と同一だが、左右別ページに印刷。
05 口絵参照。
口絵が折り込みの場合は扉裏。
本文:同一。印面に若干の異同はある。また、追加タイトルの本文版面の体裁は名作三十六佳撰と異なる。
奥付:異なる。発行日は以下の通り。(これも架蔵分のみ)
M43.7.20: 07 09 12 13 14 16 19 24 37
M43.8.15: 01 02 03 06 08 11 15 17 18 22 23 25義 25近 27 29 30 31 32 34 35 36 38 39
M43.10.5: 05 鬼一法眼三略巻 嫗山姥 摂州合邦辻
浄瑠璃丸本全書のうち以下のタイトルの影印が、『浄瑠璃丸本集』として、奥付を除いて、国立劇場から発行されている。
玉藻前曦袂、
恋女房染分手綱、祇園祭禮信仰記、太平記菊水之巻、花雲佐倉曙、箱根霊験躄仇討、祇園女御九重錦 : 卅三間堂棟由来
なお、下記記述がある。下線部については、三十六佳撰本文印面に鉛版釘の使用が認められてり、紙型の使用が明らかである。また、三十六佳撰の印面は刷により異なる場合があり、丸本全書と「全く同一」とは言い切れない。紙型の移動は金桜堂での販売が確認できる明治39年以降であろう。
「藤木氏によれば「三十六佳撰」は後に大阪・中川玉成堂に版権が移って「浄瑠璃丸本全書」となった、というが確かに両者は本文・見開き二ページにわたる挿絵に関してはまったく同一である。「丸本全書」ではわずかに挿絵裏の一ページの余白を利用して段名目次を付している点だけが「三十六佳撰」と異なる点である。ところで本文は「三十六佳撰」の版そのままを用いたものであることは活字の欠損・摩滅・ルビのズレの状態等がまったく同一であることで明らかである。
「三十六佳撰」は「翻刻兼発行者・東京日本橋区通四丁目四番地 内藤加我/印刷者・東京日本橋区新和泉町壱番地 瀧川三代太郎」、「丸本全書」は「発行者・大阪市東区備後町四丁目十六番地【卅八番地】 中川清次郎/印刷者・大阪市南区末吉橋通四丁目十六番地 井下幸三郎」とあり、明らかに印刷所も大阪に移っている。新聞のような紙型を作成・使用する技術はまだ確立されていなかったと思われるので、素直に考えれば版に組んだ活字そのものを運搬したのであろう。木版と違い崩れやすく重量のある活版をあの時代にどのように東京大阪間を運搬したのであろうか? 東京-大阪間が鉄道で結ばれるのは明治二一年七月のことである。東京-大阪間は人の移動も船便が利用されることも多かった時代である、このような重量の有る荷物もあるいは船で運搬したのかもしれない。」(後藤静夫 「武蔵屋本私記」 『芸能史研究』161 2003.4 p74)