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【 名作三十六佳撰メモ 】

(2020.11.04)
(2024.04.10補訂)
提供者:ね太郎
  
 金桜堂版『名作三十六佳撰』明治23年から発行され、増刷を繰り返し、明治39年頃まで16年近く販売されていた。

 「名作三十六佳撰(金櫻堂版) 明治廿三年から廿六年にかけて三十六巻、三十七篇を出し、引續き淨瑠璃全書と題して、廿六年から七年頃、三巻、三篇を追加して、三十九巻、四十篇となつてゐる。後、明治四十三年頃、大阪中川玉成堂から、『淨瑠璃丸本全書』と改題して、内容はそつくり其儘で、非常に俗惡な表紙を持つた叢書となつて出てゐるものがある。」(藤木秀吉「武藏屋本考」『武藏屋本考その他』pp.22-23)
 「その後二四-二六年にかけて三六巻三七篇が次々と刊行されたが表紙・裏表紙は色違い・絵変わり等一定でなくさまざまな形式がある。」(後藤静夫 「武蔵屋本私記」 『芸能史研究』161 2003.4 p74)

記号説明:
01-39:タイトル。発行順。 表2 印刷日・出版日一覧参照。
I-V:表紙意匠記号 表紙意匠はタイトルにより1種から5種ある。
 同一タイトルの諸本は発行順に「I」~「V」とした(01-V、05-IVなど)(表1 参照)。
A-Z:裏表紙意匠・広告は16種ほどある。これも発行順に「A」~「Z」とした。(表6 参照)。
a-d:奥付はタイトルにより1種から4種ある。発行順に「a」~「d」とした。( 表4 参照)。
 
0 国会図書館本 01 叢書名 02 タイトル 03 表紙 03-1 包紙 04 扉
04-1 内交印 05 口絵 06 序文 07 目次 08 本文ページ 08-1 ノンブル
08-2 小口柱 08-3 翻刻 09 奥付 09-1 印刷・出版年月日 09-2 第五版 09-3 発行者
09-4 印刷者・印刷所 09-5 奥付のタイトル名 10 裏表紙広告 11 その他の広告 12 販売期間 13 販売価格
14 表紙意匠の発行順 14-1 初刷 14-2 増刷 15 八十氏川 16 金桜堂 17 今古堂
18 藤木旧蔵本 19 浄瑠璃丸本全書
 
表1 表紙意匠一覧 表2 印刷日・出版日一覧 表3 扉一覧 表4 奥付一覧
表5 奥付分類一覧 表6 裏表紙意匠・広告一覧 表7 国会図書館本 裏表紙広告一覧 表8 その他の広告一覧
表9 表紙類似意匠一覧 表10 浄瑠璃丸本全書表紙一覧
 

0 国会図書館本
 国会図書館デジタルコレクションには名作三十六佳撰36冊・浄瑠璃全書3冊が登録されている。
 ただし、05本朝廿四孝、07妹背山婦女庭訓、25義経腰越状はインターネット公開されていない。
 表2にタイトル、国会図書館デジタルコレクションへのリンク、国会図書館本の出版日・表紙意匠・裏表紙意匠を示した。
 国会図書館本は東京図書館旧蔵の内務省からの交付本である。
 デジタルコレクションは黒白画像で掲載されているため、表紙意匠、扉、裏表紙意匠の色彩については確認できない。
 
01 叢書名
 「名作三十六佳撰」(36タイトル)および「浄瑠璃全書 名作三十六佳撰拾遺」(3タイトル)。
また、のちの広告では「名作卅六佳撰義太夫丸本」とも記載されている。
 
02 タイトル
 それぞれのタイトル名については表2参照。
 1冊1外題だが、25義経腰越状は「近頃河原達引」を収載していて、25-Iのタイトルは「義経腰越状」、増刷分(25-II)のタイトルは「義経腰越状・近頃河原達引」となっている。
 また、32関取千両幟は「八十氏川」を収載している。
 なお名作三十六佳撰の完成広告(K)の「敵討合邦辻」、浄瑠璃全書広告(i)の「楠賢女鑑」は未見。
 
03 表紙
表1 表紙意匠一覧
 表紙には叢書名、タイトル、作者名、発行元を記す。その書体は一定しない。
 叢書名は「名作三十六佳撰」あるいは「浄瑠璃全書 名作三十六佳撰拾遺 第○輯」とある。
 発行元は「金桜同梓」、「金桜堂蔵板」、「金桜堂蔵版」、「東京金桜堂」、「東京金桜堂発行」、「発行東京金桜堂」と表記されるが、金桜堂の記載のない表紙もある。
 「近頃河原達引」(25義経腰越状 所収)、「八十氏川」(32関取千両幟 所収)は表紙(25-I、32-I)、扉に示されていない。
 
 表紙意匠
 表紙意匠は表1のようにタイトルにより1種から5種ある。
 藤木秀吉は「武藏屋本考」の中で「同版異装本」と称している(pp.143-156)。
 表紙意匠の一部は収載外題内容と関連している。
  (絵本太閤記:瓢箪、生写朝顔日記:朝顔、仮名手本忠臣蔵:丸に鷹の羽・二つ巴紋、妹背山:雛人形、盛衰記:箙梅など)
 複数のタイトルで同様の意匠が使用される例があり、同じ時期の作成が推定される(表9 類似意匠一覧)。
 
 同一意匠で彩色の異なる表紙がある。
   伽羅先代萩(03-I、03-II、03-III)、菅原伝授手習鑑(06-Ii、06-Iii)。
 
 表紙意匠の前後関係については14 表紙意匠の発行順参照。
 
03-1 包紙
 無地の包紙の残るものがある。29傾城阿波の鳴門(裏広告K)
 
04 扉
表3 扉一覧 
 叢書名、タイトル、作者名、発行元を記す。
 扉の意匠は内容と関連したものとなっている。
 初期の刷(IとIIの一部)では色刷(一色)、後の刷では黒一色となる。
  Iだが扉が色刷でないタイトル:07-I、14-I、15-I、28-I、33-I、35-I、36-I。
   (02-I、05-Iは黒もあり。)
  I以外で扉が色刷のタイトル:01-II、02-II、04-II、08-II、08-III(奥付08a)、13-II、15-II、16-II、38-II
 (I、II、IIIは表紙意匠記号
 なお、01-I絵本太閤記は黒、黄の二色。02-I生写朝顔日記には木版刷のものもある。
 
01-I絵本太閤記 扉02-I生写朝顔日記 扉
 
 01-I絵本太閤記、03-I伽羅先代萩の扉の前に薄葉紙が挿入されている。
 
04-1 内交印
 国会図書館本の扉には「内交」印が押印されている。
 印は円形で中央に「圖」、周囲に年月日と「内交」となっている。
 「内交」印が扉以外の箇所に押印されている01、03、06、11、14、16、18、24、27、29のうち、扉があるのは16、27の2タイトルであり、その他のタイトルでは押印時に扉がなかった可能性も考えられる。
 「内交」すなわち内務省交付については以下の記事がある。
  「全國出版ノ圖書ハ必ズ其一部ヲ本館ニ交付スルノ制ヲ定ム後版權ノ事務内務省ニ移リ出版條例ハ屢〃改正ヲ經ルモ納本一部ヲ本館ニ受領スルノ制ハ一定變セズ」(東京図書館一覧 p2)
  「右増加書中ノ和漢書ハ主ニ内務省ノ交付ニ係リ全國新刊書ノ納本ト爲ル者各一部ヲ受領シタルモノナリ今之ヲ整頓陳列シテ公衆ノ閲覧ニ供スルハ本館ノ一大要務ニシテ即チ國内新版ノ圖書ヲ擧テ一所ニ集メ全國民ノ來觀ニ便スルモノナリ」(『東京図書館年報摘要』明治23年 p2)
 
05 口絵
 二頁にわたって黒一色で登場人物を描く。
 A.見開き二頁大。1図、前は小口で扉にのり付け、後は白紙。
  01-I~14-I、05-II~14-II、(07、08は全ての表紙意匠で)
  扉にのり付けされず、2ページ白紙の続く場合もある。
   (国会図書館本で扉欠の本では口絵前のページが白紙となっている。)
 B.見開き二頁大。上下罫線や絵が中央で中断している。前は扉にのり付け、後は白紙。
  15-I~33-I、01-III~03-III
 C.見開き左右ページに分割。
  34-I~39-I、第五版、その他A.B.に含まれないもの
 
 01~03の口絵の様式はA.→C.→B.→C.と替わっている。
 01 絵本太閤記の例
01-I (A)見開き1枚01-II(C)2ページ01-III(B)見開き1枚画面分割 01-V (C)2ページ
01-Iの見開き口絵(口絵)と
別丁足継ぎ(足)
01-IIIの見開き口絵(口絵)は
直接扉裏に貼り付け
 
 某古書店目録に「石版口絵」との記述があったが、鉛凸版か石版か未考。
 なお、初期の版である、01-I絵本太閤記は枠を黄色とし、02-I生写朝顔日記は多色刷である。
01-I絵本太閤記 口絵02-I生写朝顔日記 口絵
 
 第五版で左右別ページに印刷されている、右ページの裏は扉、左ページの裏は以下の広告などである。
   『速習算法』速習算法(M32.10.17) 02-V 03-IV 14-III 18-III 
   『易学秘伝』(M32.7.25) 05-IV 06-IV 09-III 
   挿絵 13-III 
   未確認 12-III 31-II
 
06 序文
 01絵本太閤記のみにある。
 口絵の次にあるが、01-Vでは口絵の前にある。
「繪本太功記序/文辞(ぶんじ)の妙(みやう)行文(こうぶん)之奇(き)を賞(しやう)するハ、只(たゞ)に艶麗(ゑんれい)なるのみならず、能(よ)く人情(にんじやう)を穿(うが)ち感(かん)に入(い)らしむるを以(もつ)て、尤(もつと)も優(まさ)れりとなす、正史(せいし)紀伝(きでん)世(よ)に出(いづ)る者(もの)無數(むすう)、傑作(けつさく)偉筆(いひつ)なきにしも有(あら)らずと雖(いへど)も、正史(せいし)紀伝(きでん)ハ事物(じぶつ)の外貌(ぐわいぼう)のみ、能(よ)く情性(じやうせい)を覺發(かくはつ)し、精粗(せいそ)妍媸(けんし)を辨(べん)ずる者(もの)ハ野乘(やじやう)稗史(はいし)に如くものなし、就中(なかんづく)雅俗(がぞく)を通曉(つうきやう)して、愛觀(あいくわん)を得(え)、尤(もつと)も精(くわ)しく、人情(にんじやう)を穿(うが)ちたるハ、院本(いんほん)を以(もつ)て大斗(たいと)となす、往時近松(ちかまつ)翁、筆(ふで)を此道(このみち)に探(と)りし以來(いらい)、名聲(めいせい)を後世(こうせい)に傳(つた)へ、竹田(たけだ)出雲(いづも)、三好松洛(みよししやうらく)氏(し)次(つい)で聲價(せいか)を博(はく)す、其事(そのこと)荒唐(こうとう)脚色(きやくしよく)演戯(ゑんぎ)に出(いづ)ると雖(いへど)も空中(くうちう)に此(こ)の大樓閣(だいろうかく)を畫(ゑが)き得(ゑ)たるの健筆(けんぴつ)ハ、作者(さくしや)諸氏(しよし)が多年(たねん)拮据(きつきよ)の効(こう)を著(あら)ハすに足(た)れり、實(げ)に人情(にんじやう)の表裏(ひやうり)を窺(うかゞ)ひ、風俗(ふうぞく)の微妙(びみやう)を知(し)らんと欲(ほつ)せバ、此書(このしよ)を捨(すて)て而(しか)して將(は)た何くに問(と)はんや、頃日(このごろ)内藤氏(ないとうし)、之(これ)が名作三十六番を撰(えら)び、順次之(これ)を刷出(さつしゆつ)せんとす先(ま)ず第一着として、繪本太功記(ゑほんたいかうき)の巻(かん)成る、來(きた)りて序を求む、余(よ)大(おほ)いに其(その)時好(じこう)に適(てき)するを賛し、聊(いささ)か贅言(ぜいげん)を記(しる)して、以て巻端(かんたん)を埋(うづ)むと爾云(しかいふ)
梅花笑を含んで南窓に埀るゝ頃
開花園主人記す」
  国会図書館本では「名作三十六佳撰内 繪本太功記序」と手書されている。
  開花園主人については未考。
 
07 目次
 02生写朝顔日記03伽羅先代萩第五版の02-V、03-IV、03-Vにはない)にのみ目次(2ページ分)がある。
 名作三十六佳撰の紙型を使用した浄瑠璃丸本全書では全タイトルで目次が追加されている。
 
08 本文ページ
 本文PDF 一覧
 参考:メモ 補
 
 08-1 ノンブル
  小口に漢数字(十方式)縦書き、ただし 仮名手本忠臣蔵のみ天小口に漢数字(一方式)右横書き
01絵本太閤記04仮名手本忠臣蔵
なお、両書とも小口に外題名がない(次項参照)
 
 08-2 小口柱
 小口柱に外題略記を表示するが、早期のタイトル、早い刷では小口柱に外題略記はない。
   I、II、III、IVは表紙意匠記号
 柱外題略記なし柱外題略記あり
01絵本太閤記~04仮名手本忠臣蔵全て
05本朝廿四孝 I~III IV但しp25-40は欠 
06菅原伝授手習鑑~10一谷嫩軍記
12蝶花形名歌島台、13彦山権現誓助剣 
III~
11壇浦兜軍記
14伊賀越道中双六~39碁太平記白石噺
全て
 
小口柱外題 例
11壇浦兜軍記
 
 08-3 翻刻
翻刻本文については未調査。
 
「何度讀み返したか知れぬ明治二十四年の金櫻堂版の活字ながら最も正確で、故岡さんさへあれなら活版本でも信用出來ると折紙をつけて戴いた…」(三宅周太郎 「「菅原伝授手習鑑」ノート」『歌舞伎ノート』 p63) 
 
「又、少し專門すぎるが、明治二十六年を中心に、日本橋にあつた金櫻堂といふ本屋から丸本物の「三十六佳撰」と題して、名作を一冊づゝ収めて出した四六版百二十頁内外の活版本がある。これは先きの「帝國文庫」以上に校訂が正しく、誤植も尠い。文字も木版の元の丸本によつてゐて、實に奥床しい本だ。例へば、悴といふ字を、古い丸本物では必ず「躮」と書いてせがれと讀ましてあるが、この金櫻堂の本には悴が躮になつてゐたりして風情に富む。簡單なさし繪も野趣があつて面白い。これは早く絶版で今ではどこにも見當らぬが珍重すべき書物である。又、この後明治四十三、四年に大阪の名倉昭文館から、この三十六佳撰を模した同じ様な體裁の、一作を一冊に収めた丸本の活版本が、やはり三、四十珊刊行せられた。が、この方は粗末ではあるが、珍しいものはある。これとて今もし見つかれば珍重すべき活版本といへる。 (三宅周太郎 『日本演劇考察』その二 人形淨瑠璃(人形芝居)の話 六 人形淨るりの見方  pp100-101)
 
 「武蔵屋本が適宜漢字をあてるのに対し、明治十四年の『近松著作全書』では丸本の文字使いのままの翻刻である。しかも「か」や「の」や「れ」を始めとして、平仮名の多くが丸本通りの所謂変体仮名の活字を用い、「こと」のような合字もそのまま活字化している。またこうした原本通りの翻刻であるという事から、『近松著作全書』の「けいせい反魂香」の底本が、八行六十丁本であることも知る事ができる。
 民治が武蔵屋本で採用した翻刻方針は、当時としては斬新なものであった。明治十年代の丸本の翻刻は「近松著作全書』にみるような原文通りの形が普通である。『大和文範』もそうであるが、金櫻堂から明治十六年から刊行された袖珍本の『絶入大和文範』も原文通りの翻刻であった。この形は明治二十年代にも受け継がれ、金櫻堂が武蔵屋本と競合するように刊行する浄瑠璃叢書『名作三十六佳撰』もこの翻刻方針に従う。
 但し茲にこれら翻刻に共通する興味深い特徴を見出すことができる。それはこの時期の翻刻が、節章について省略する基本的態度を持つにも関わらず、二つの節章に限ってこれを残すことである。その二つは「詞」と「〽」の二種であった。「詞」は丸本の記載に従い本文の右横に小さな活字で『詞』と入れられ、「〽」は活字の字間に『「』の記号を入れる。」(秋本鈴史 丸本から武蔵屋本へ-近松世話浄瑠璃二十四編制定の過程- 文林22 pp35-36 1987 ) 
 
 「その表記は丸本そのままであり節章は原則として「詞」と「〽」以外省略されることは秋本氏の指摘される通りであるが、架蔵の「三十六佳撰」本をやや仔細に見ると「三十六佳撰」本では「序詞」「ヲロシ」「狂言詞」などが翻刻されているものがあり「三重」「ヲクリ」等を表すと思われる「」 も一部に付されており(「小野道風青柳硯」「芦屋道満大内鑑」「御所桜堀川夜討」等)、その翻刻方針はやや揺れていると言えよう。」(後藤静夫 武蔵屋本私記 芸能史研究161 p74 2003.4)
 
09 奥付
表4 奥付一覧
表5 奥付分類一覧
 奥付が1種のみのタイトルは15~17、19~21、24、28、32~39。
 奥付が2種以上 1~14、18、22~23、25~27、29~31。
 奥付と表紙意匠の関連については表紙意匠の項参照。
 
 なお、奥付の内容が同一でも、刷次(表紙意匠の違い)により印面の違う例がある。
 
  伽羅先代萩奥付03a
 伽羅先代萩奥付03aでは、印刷・出版の項の「明」「治」とも二様活字が一致する。
従って、同じ原版もしくはそれに由来する紙型によると見做せるが、その印刷面は異なっている。
 (03-Iには緑色刷の扉の前に薄葉紙のあるものとないものがある。)
03-I薄葉紙あり03-I薄葉紙なし03-II03-III
 
09-1印刷・出版年月日 
 印刷日・出版日は同一タイトルでは刷次がことなってもそれぞれ同一年月日である。(例外については下記参照
   印刷・出版日を変更しないまま、増刷されている。
   (09-3 発行者の住所、10 裏表紙広告参照)
   金桜堂出版で、増刷に際し印刷出版年月日を変更しない例は他にもある。増刷時の印刷年月日・発行年月日
 
 表2に国会図書館本の印刷日・出版日を一覧で示した。
 
 印刷日 タイトル15~17は印刷日の日の欄が空白。
 出版日 タイトル05~10、15~17は出版日の日の欄が空白。
 「出版」 タイトル32~36、38~39は「発行」とする。
    37は「出版」だが、国会図書館本は手書で「発行」と修正
 
 印刷・出版日がM26.12以前となっていても、住所変更後の「三丁目十三番地」との奥付の本の実際の印刷・出版日はM26.12以後の発行といえる。
 01c、04b、07b、08b、09b、10b、11b、22b、23b、25b、26b、27b、29b、30b
 
○ 国会図書館本
 出版日がほとんどのタイトルで手書修正されている。
 これは当時の出版条例第三条「文書圖畫ヲ出版スルトキハ發行ノ日ヨリ到達スヘキ日數ヲ除キ十日前ニ製本三部ヲ添ヘ内務省ニ届出ヘシ」(『言論出版条例註釈』p51)に従うための措置と考えられる。
 また、03、04、06、08 では「編輯」が「翻刻」に手書きで修正されている。
 07妹背山婦女庭訓、09奥州安達原は奥付全て手書きである。
 
 同一タイトルで奥付の印刷日・出版日が異なる以下の例がある (第五版年月日は除く)。
  記号は奥付一覧参照 下線は第五版
01絵本太閤記印刷日01a M23.12.22≠1b M24.1.20≠01c M23.12.22≠01d M26.1.□
  出版日01a M23.12.23≠1b M24.1.21≠01c M23.12.20≠01d M26.1.□
02生写朝顔日記印刷日02a M24.1.15=02b M24.1.15=02c M24.1.15
  出版日02a M24.1.17≠02b M24.1.1602c M24.1.16
03伽羅先代萩印刷日03a M24.1.20≠03b M24.7.703c M24.1.20
  出版日03a M24.1.21≠03b M24.7.903c M24.1.21
05本朝廿四孝印刷日05a M24.4.13=05b M24.4.13
  出版日05a M24.4.□≠05b M24.4.17
13彦山権現誓助剣印刷日13a M24.9.12≠13b M24.4.13
  出版日13a M24.9.14≠13b M24.4.17
18花上野誉碑印刷日18a M24.12.19=18b M24.12.19≠18c M24.12.18d M24.12.
  出版日18a M24.12.日=18b M24.12.日≠18c M24.12.18d M24.12.
30花雲佐倉曙印刷日30a M26.1.□≠30b M23.12.22
  出版日30a M26.1.□≠30b M23.12.20
31祇園女御九重錦印刷日31a M26.3.5≠31b M24.4.13
  出版日31a M26.3.□ ≠31b M24.4.□
 
  ○取り違え
   藤木秀吉は「武藏屋本考」の中で「奥付誤付本」と称している(pp131-132)
   【01b】03aを01に使用:01bと03aは印刷・出版年月日も含め内容は同一。
01b 絵本太功記 03a 伽羅先代萩
 01bは国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベース掲載上田市立上田図書館花月文庫本デジタル画像。(2019.4.26承諾)
 
   【13b】05bを13に使用:05bと13bは印刷・出版年月日も含め同一版面。
       (05aの出版日は空白、05国会本は15日と手書。)
05b 本朝廿四孝 13b 彦山権現誓助剣
 
   【30b】01cを30に使用:01cと30bは印刷・出版年月日も含め同一で、30bには30aにある罫囲いのタイトルがない。
       (但し01cは四丁目四番地、30bは三丁目十三番地)
01c 絵本太功記 30b 花雲佐倉曙
 
   【31b】05bを31に使用:05bと31bは出版日以外は同一。出版日は5bが「十七」、31bが空白。
05b 本朝廿四孝 31b 祇園女御九重錦
 
 
09-2 第五版
 印刷日、出版日(発行日)に続き「仝 卅五年八月一日 第五版」とする奥付がある。
  02c 03c 05b 06b 09b 12b 13b 14b 18d 31b (表4 奥付一覧 参照
 
 編輯兼発行者:内藤加我、印刷者:田附平次郎、印刷所:今泉堂、発行所:金桜堂で、書式は同一である。
 印刷日、出版日は同一タイトルの初刷(a)の奥付のそれを踏襲している
 但し、05b 13b 18d 31bでは日付が異なる(前項参照)。
 第五版の奥付のある表紙意匠には類似のものが多い(表9)。
 裏表紙の完成広告も同一(Z)である(表6)。(但し、Yの例がある(表紙03-IV)。白紙を除く)
  01-Vは裏表紙白だが表紙意匠から第五版群に属すると思われる。奥付の体裁も独自。
 版次については他の奥付に「版」の表示はなく、「第五版」とした根拠は不明である。
 
 なお、金桜堂発行書籍で版表記のある出版物もある。
  (ネット上で検索できたもののみであり、版表記がM33年以前の書籍にはないとも言い切れない。)
黄薔薇美人の獄三遊落語集蜀山人
M21.6.1初版
M33.8.10発行第八版
版式は01d奥付と類似。
M23.8.25初版
M35.5.5 第二十版
M34.7.11初版
M38.5.19第八版
M34.12.5初版
M40.8.11. 第九版
 
 
09-3 発行者(編輯兼発行者、翻刻兼発行者)
 発行者の項は3種の表記法(初刷)がある。
  「編輯兼発行者」:01~08 国会図書館本03、04、06-08では手書で「翻刻」と修正
  「翻刻兼発行者」:09~38 国会図書館本28-38では「兼」を抹消
    奥付(b)の一部は「編輯兼発行者」:09b、10b、11b、23b、29b、30b
  「発行者」:39
   第五版では「編輯兼発行者」となっている。
  
 発行者の名義 内藤加我 発兌は金桜堂
 発行者、発兌の住所
  「日本橋区通四丁目四番地」 01a~37a 源平布引瀧(発行日 M26.11.24)まで。
  「日本橋区通三丁目十三番地」 38a 近江源氏先陣館(印刷日 M26.12.12)から。
    住所は金桜堂の他の出版物にでも、
    「四丁目四番地」 鬼蔦(発行日 M26.11.27)まで。
    「三丁目十三番地」 絵本赤穂義士銘々伝(印刷日 M26.12.12)から。
    となっている。
    ただし、内藤加我についての記事では明治二十七年十二月の移動とする。
  
 印刷・出版日がM26.12以前であって、住所が「三丁目十三番地」である以下の奥付は、住所変更後に、印刷・出版日が初刷のまま発行されたことになる。
 04b、07b、08b、09b、10b、11b、22b、23b、25b、26b、27b、29b、30b
 
編輯・翻刻の用字と住所との関係は以下の通り。奥付分類一覧参照。
四丁目四番地三丁目十三番地
編輯
戊[民治郎]
辛[第五版]
翻刻
丙[今古堂活版所]
己[今古堂活版所]
なし庚[今古堂活版所]
 甲:01a-08a 01b-03b 01c
 乙:09a-31a 18b 18c
 丙:32a-37a
 丁:07b-10b
 戊:04b 11b 23b 29b 30b 01d
 己 22b 25b 26b 27b 38a
 庚 39a
 辛 02c 03c 05b 06b 09c 12b 13b 14b 18d 31b
 
09-4 印刷者・印刷所
 印刷所名 「今古堂活版所」は32a関取千両幟(M26.5.18印刷)より表示される。
 印刷者名
   ・瀧川三代太郎が主
   ・瀧川民治郎:以下の奥付(表紙意匠)の印刷者となっている。
    1d(01-V)、4b(04-V)、11b(11-III)、23b(23-II)、29b(29-I,29-II)、30b(30-II)
    なお、瀧川民治郎はM27.12.11まで筒井民治郎と称していたので、この奥付はそれ以降の出版と考えられる。(今古堂の項参照
   ・田附平次郎:第五版奥付にのみ見られる。
    金桜堂出版物が「今古堂活版所 印刷者瀧川三代太郎」(M34.10.12発行『摺上川』は瀧川三代太郎)から
           「今泉堂 印刷者田附平次郎」に替わるのはM35.1.2発行の『江戸の花血染纏』以降である。
 
09-5 奥付のタイトル名
 22 箱根霊験仇討 以降では、上部の飾り枠内に外題がある。
 但し、28、31、32にはタイトル名はなく、22、25 は表紙意匠II(22b 25b)にのみある。
 また、30では30aのみで30bにタイトル名のない点については印刷・出版年月日の項参照。
 飾り罫の模様はタイトル毎に異なる。
 
 26と27では表紙意匠IとIIで奥付は版が異なり(26a 26b、27a 27b)、飾り罫も異なる。
26-I26-II27-I27-II
 
10 裏表紙広告
名作三十六佳撰の裏表紙の意匠・広告一覧 表6
裏表紙には、金桜堂の意匠(A、B)、名作三十六佳撰の広告(C-F,H-K,完成広告V-Z)、金桜堂の他の出版物の広告(G)が掲載されている。
A~K、V、Wは国会図書館本に使用されており、特にC-F、H-Kはその内容からも使用順が明らかである。(表7 国会図書館本 裏表紙広告一覧
V~Zの名作三十六佳撰完成広告は「義太夫丸本は一種宛其物語の始より終局に至る迄を掲げし者にて・・・高尚優美なる冊子也」の二行の有無、金桜堂の住所の有無、タイトル名の上の丸中黒の使用により5群に分類した。周囲の枠線の太さ、版の疵の状態により細分できる可能性はある。
 
完成広告の分類 画像一覧
住所2行説明文あり2行説明文なし
あり
なし
⦿なし 
 
V:国会図書館本で浄瑠璃全書の37源平布引瀧,38近江源氏先陣館の裏表紙。
W:国会図書館本で浄瑠璃全書の39碁太平記白石噺の裏表紙。
Y:08-III[平仮名盛衰記]にWとYがあり、YがWより後の発行。
色刷
住所四丁目四番地三丁目十三番地
Z:第五版の奥付本の裏表紙。
X:表紙意匠11-III[壇浦兜軍記]の1本にのみ見られるが、その本の奥付11bが移転後の住所(三丁目十三番地)であるのに、Xでは旧住所(四丁目四番地)が使用されて不整合となっている。『日清戦闘実記後編』(M27.12.26)でも奥付は三丁目十三番地だが、 広告は四丁目四番地となっている。
 
11 裏表紙以外の他の広告
表8 その他の広告一覧 
 奥付と裏表紙の間の広告は以下の種類がある。
a:小夜嵐物語-精神の機関
b:女宝-春ノ一枝
c:女宝指輪続倭文範合本
d 鎌倉三代記 (裏表紙広告GとH)
e:涙美人鬼車暗殺/かたみかはり後開榛名梅ヶ香河内山
f:作文錦嚢-女宝
g:作文錦嚢男女造化機論文章規範評林
h:大疑獄真暗日本六法全書民法俗解
i:浄瑠璃全書
 扉裏の広告は以下の種類がある。
j:易学秘伝
k:速習算法
l:挿絵(広告ではないが便宜上ここに置く)
 
12 販売期間(国立国会図書館デジタルコレクション資料による)
 再刷(再版)に際し、初版の印刷日、出版(発行)日が変更されなかったことから、23年から26年にかけての初版の販売のみで出版が終了したとされている。しかし、同一タイトルで表紙意匠が多種残っていることから長期に亘る販売が示唆される。
 さらに、第五版扉裏に『易学秘伝』(M32.7.25)および『速習算法』(M32.10.17)の広告があることでM32.10以降の、そして第五版奥付でM35.8.1の発行が裏付けられる。
 
 なお、書籍総目録によればM39.10まで販売されていたことになる。
 M26.7      東京書籍出版営業者組合員書籍総目録M26.7
           36冊のうち芦屋道満大内鑑、加賀見山旧錦絵、祇園祭礼信仰記の3冊の発行はM26.8以降である。
 M39.10     東京書籍商組合員図書総目録M39.10 碁太平記白石噺を除く38冊。
書籍総目録掲載 名作三十六佳撰
M26.7
M39.10
 
 全冊出版後、上記M39.10の書籍目録までの間も、金桜堂出版書籍中に名作三十六佳撰の広告は継続して掲載されていた。
[M23.12.2401 絵本太閤記 発行]
[M26.9.2436 祇園祭礼信仰記 発行]
[M27.5.839 碁太平記白石噺 発行 浄瑠璃全書]

掲載期間広告種広告掲載書[上限]広告掲載書[下限]広告中書籍[下限]
M28.5.31-M30.4.23侠客梅堀の巌松天竺徳兵衛百尺隄(M28.3.15)
M28.10.8- M31.1.2探偵眼大塩平八郎新撰活用祝文軌範(M28.7.18)
M29.1.2 -M33.4.19 大岡名誉政談. 冬の巻野路の花
M33.8.23 - M35.4.25春色辰巳園日本銀次誉讐討速習算法(M32.10.17)
[M35.8.1第五版 発行]
M37.6.3日本男児  
      
 
金桜堂発行書籍掲載 名作三十六佳撰 広告
M28.5-M30.4
M28.10-M31.1
M29.1-M33.4
M33.8-M35.4
M37.6
 
13 販売価格
1冊10錢 郵税2錢 (前項広告D)
  郵税共十二錢 (新版歌祭文 広告 M26.6.25)などと表記される。
但し、芦屋道満大内鑑奥付(M26.8.2)には十五錢と印刷されている。
 
14 表紙意匠の発行順
 表6に示したように、裏表紙広告によれば、内容から掲載時期、前後関係を推測できることから、表1では、裏表紙広告を参照して、表紙意匠を発行順に配列した。
 完成広告(V-Z)の前後関係については10 裏表紙参照。罫の種類、キズなどによる分別の可能性もある。なお、裏表紙が白紙のものも若干あった。
 
 「同版異装本が作られた動機はどうしたことであらうか。同じ初期の翻刻院本である金桜堂本(名作三十六佳撰)にも数種の同版異装本がある。いづれも初版で同じ日付の奥付を持つてゐるが、似ても似つかぬ全く異つた意匠の表紙が付けられて居つて 中に「一谷嫩軍記」の如き,三種迄の同版異装本が、家蔵中だけにも見出さるゝ。この叢書は、事実上の改版毎に、違つた装幀をされたのであらう。而してその発行者に、版歴といふ概念がなく、重版の際は、無造作に初版の通りの奥附を作って添付したものゝ様である。」(「武蔵屋本考」pp.152-153)
 
 同一版面の刊記を持ち表紙意匠の異なる例は、他の出版社でもみられる。 銀花堂版『絵本徳川十五代記』は「表紙絵の図柄は四点ともおなじである」とされるが、AとBでは最下段住所の印刷位置が異なり(黒が別版か?)、城の石垣・石垣の手前の土坡・兜(鍬形の角・眉庇)・囲い罫の葵などいずれもB・C・Dで異なり、少なくとも、ABとCとDとの3種の意匠となっている。(磯部敦「近代初期印刷史瞥見2 紙型と異本」(『書物学8』)p37 図版7 A-D )
 
表紙意匠と奥付
 奥付が変更されると表紙意匠は変更されている。
 しかし、同じ表紙意匠で別奥付の以下の6タイトルがある。
 01 絵本太閤記 01-II:01b 01c
 02 生写朝顔日記 02-II:02a 02b 出版日が02a(十七日)と02b(十六日)
    02-IIの発行中に02aから02bに変更になった可能性がある。
 03 伽羅先代萩 03-II:03a 03b
 08 平仮名盛衰記 08-III:08a 08b
 09 奥州安達原 09-III:09b 09c
 18 花上野誉碑 18-I:18a 18b
    印刷発行日の『十九』、『同』の位置が異なる。
 
14-1 初刷
 国会図書館本は内務省への納付本であるため初刷であるはずだが、出版日が手書で修正されるなど、市販本と異なる点がある。
 上述の所見より、初版初刷は以下の特徴を持つと推測される。
 表紙:I(表1
 扉:色刷(表3
 奥付:a (表4
 裏表紙意匠広告:表2裏表紙の項。最左列
  但し「無」と表示のあるタイトルについては、01:A、07:C、11:D、14:D、15:Eと推測する。
 
 06菅原伝授手習鑑Iの表紙は同意匠で彩色の異なる2種のうち、Iiが国会図書館本と類似しており、初刷と判断した。
 国会図書館本で表紙が表1のIと異なる4タイトルでは、15三日太平記表紙および20神霊矢口渡表紙は11-I、24玉藻前曦袂表紙は11-II、27鎌倉三代記表紙は25-Iと類似し、その流用が考えられる。
  【11-IIは初版ではないが、裏表紙広告が24と同じFで同時期に印刷されていたと考えられる。】
15国会図本 = 11-I
20国会図本 = 11-I
24国会図本 = 11-II
27国会図本 = 25-I
 
14-2 増刷
 表紙意匠・裏表紙広告・扉刷色の変更は増刷に際してなされたと判断される。
 36祇園祭礼信仰記以外の全タイトルで増刷が確認できる。
 特に増刷回数の多い例(8刷から10刷)を例示する。
(I~V:表紙意匠、A-Z:裏表紙意匠広告、黄茶黒:扉刷色、a~c:奥付)
12345678910
01 絵本太閤記I-A黄黒II-D黒b II-E黄c III-H黒 III-J黒 III-K黒 III-W黒 IV-W黒 V-*黒
02 生写朝顔日記I-A彩I-A黒II-D緑bII-F黒aIII-H黒III-J黒III-K黒III-W黒 III-Y黒 V-Z黒 
03 伽羅先代萩I-A緑II-D緑bII-F黒aIII-H黒III-J黒III-K黒IV-Y黒IV-Z黒V-Z黒
04 仮名手本忠臣蔵I-A臙脂II-D茶II-F茶II-J黒III-K黒III-W黒IV-W黒V-Y黒
05 本朝廿四孝I-B茶I-B黒II-F黒II-G黒II-K黒III-K黒III-Y黒IV-Z黒
11 壇浦兜軍記I-D緑II-F黒II-I黒II-K黒II-V黒II-W黒III-X黒III-Y黒
*は裏表紙白紙  赤字は「第五版」奥付本
02朝顔日記 扉・裏表紙広告ではII-D緑b、II-F黒aの順だが、奥付はa、bの順となる。
 
15 八十氏川
 32関取千両幟には柳塢亭寅彦「八十氏川」が併載されている。
「八十氏川」は明治25年3月23日今古堂発行、金桜堂発売の『武蔵野』第一編、その後、明治25年10月24日金桜堂・今古堂発兌の『深山木』に収載されているが、『名作三十六佳撰』掲載版も含め、いずれも同版と思われる。なお、『深山木』収載の「八十氏川」には挿画がある。
 
「花盗人序 柳塢亭寅彦先生嘗て言へることあり院本の作者古來竹田近松を始めとして其他世に名譽[ほまれ]を殘せし者ありしも近世に至り全く其遺跡[あと]と絶ちたれども實に日本文學上花として人の耳目を喜悦[よろこば]し人の心裡[こゝろ]を娯樂[たのしま]しむるハ院本にしくものなしと余此事を聞き轉[うた]た感歎に堪へず漫[そゞ]ろに院本の種類を蒐集[あつめ]もて之を閲讀するに文詞妙用字の適切等深く賞するに余れり是に於て余考ふるに斯く筆頭をして人情を寫し時代を求むるハ中々通常操觚の及ざる處なりと幾囘嘆息して止ず然るに先生未だ年若しと雖も院本の作者益煥んにして後ちハ近世にて云々[しか〴〵]と屈指を遂げんと欲し漸[やゝ]二三の院本を著作せられたり一を平家姫小松と号け一をバ八十宇治川と号く姫小松ハ既に印行して世に公けになせと八十宇治川ハ未だ刊行中なり是れ人の尤も高評を博することハ元より論を俣ず故に近日世に公けす……夢廼家の主人さむるになん」(『花盗人』M22.12.25出版 金桜堂)[下線は引用者による]
「篁村の弟分といっていい右田寅彦は、明治の末年には、新聞界から足を洗って、劇界の人となってしまうのであるが、この人がまた妙文家で、花柳記事に於ては、明治の新聞記者中の第一人者といってもよいのではあるまいかと思われる。尤もその記事に、署名などはないのであるが、少し注意をしたら、見当が附くのではないかと思われる。お前などに、柄にもないことといわれるかも知れないが、明治の新聞記者に、かような人があったということだけでも、紹介して置きたい気がしている。」(『九 明治の新聞』p186-187 森銑三『思い出すことども』中公文庫)  
 
 なお、『武蔵野』は樋口一葉が小説家としてはじめて作品を活字にした雑誌である。
「編集兼発行者は筒井民次郎(日本橋区新和泉町一番地)、印刷者は滝川三代太郎(日本橋区新和泉町一番地)。つまり編集、発行者と印刷者は同住所であり、発行所の今古堂(日本橋区新和泉町一番地)も同住所、発売所は金桜堂(日本橋区通四丁目四番地)。これは今古堂が編集、印刷関係をしきり、金桜堂が発売に力を尽くすという仕組みであったと思える。今古堂からは「俳諧叢書」も刊行されていたし、岡本可亭編の『女宝』や義太夫の丸本関係の『名作三十六佳撰』(「絵本太閤記」「生写朝顔日記」「仮名手本忠臣蔵」など)が刊行されていたし、金桜堂も春夢樓主人編『訂正増補通俗男女造化機論』なども出していた。」(『武蔵野』復刻版解説 pp4-5 雄松堂出版) 
 
 『名作三十六佳撰』はもちろん、『女宝』も金桜堂発行で、出版業としては今古堂に先行している。金桜堂、今古堂、今古堂活版所の関係が上記のようであったかどうかは未考。下記金桜堂17今古堂の項参照。
 
16 金桜堂 内藤加我
「稗史小説 書籍出版書 金桜堂 内藤加我」( 東京買物独案内 : 商人名家(M23.7.9))
「小説書林 金櫻堂 内藤加我 日本橋通り四ノ四 日本橋より南へ三半 」(『東京諸営業員録 : 一名・買物手引』(M27.12.1発行)新古書林の部 p691
「書肆 金櫻堂(日本橋區通四丁目)仇討又は武勇譚又は探偵譚等の如き趣味の低き小説出版販賣に有名なり。 」(『東京新繁昌記』(M30.12.24発行) 書肆 p229
 
金櫻堂 内藤加我 初代(萬延年十一月二十九日生)東京市京橋區銀座二丁目九番地 創業 明治十六年三月十八日[1]
生國ハ山梨縣中巨摩郡宮本村御嶽ニシテ、代々同山金櫻神社ノ神官タリシヨリ、後二開業ニ際シ神社名ヲ其マヽ金櫻堂ト號ス。明治十一年三月出京シ、翌年日本橋區本石町二丁目十三番地繪草紙店小宮山昇平ニ雇ハレ五ケ年勤續シ同十六年二月同家ヲ辭シ、翌月日本橋區通四丁目四番地ニ獨立開業シ『繪入倭文範』ヲ發行ス[2]二十七年十二月通三丁目十三番地ニ移リ[3]、四十年市區改正ノ爲メ同區本材木町二丁目ノ假營業所ニ移リ、翌年更ニ現在地ニ移轉ス。明治三十六年ヨリ同四十三年迄東京書籍商組合ノ評議員ニ當選シ、四十三年本組合ヨリ彰功セラル。」(『東京書籍商組合史及組合員概歷』(大正1.11.6発行) p182
   [1] 「忍月はおそらく明治十四年一月の金桜堂版『増補生写朝顔日記』によっているのであろう。」(千葉眞郎 『石橋忍月研究』2006.2 p140)とあるが、M24.1出版の名作三十六佳撰本を指すか?。
   [2] 金桜堂は他にも義太夫本を出版している。 (金桜堂の義太夫本参照)
   [3] 09-1 発行者、発兌の住所参照
 
 補足:「金桜堂」に言及した記事
 「午後読売新聞社へ廻り、尾崎紅葉君に逢い、戻りがけに仁科、小林、広告社等へ行き、金桜堂へ立寄り、山辰へ立寄りて帰宅。」(『鶯亭金升日記』p26 明治二十三年七月十一日)
 
 「この読みものは、起載間もなくからの好評により、翌年より金松[桜]堂(のち東光閣と改名)は、単行本にして出版し、大正十四年までに、新聞発表分を四六判九冊とした。」(中公文庫 『江戸から東京へ』(一)「解説」(朝倉治彦)p361)
 
 「宮武外骨著「百白半分」所載に、明治出版界の成功者(明治十年前後頃の人々)を挙げている中で、金桜堂、内藤加我が見える。また、小川菊松著「出版興亡五十年」に、金桜堂、日本橋区通り三丁目の角店で、小売店も兼営していた。昔は八銭から十銭程度の菊版(A5版)の講談本を出版したこともある…堂主の内藤氏は腰の低い親しみのある江戸前の商人型のよい御仁であった。と書かれている。」(川崎市蔵 「春色連理の梅・都民中・歌沢上音のこと(二)」『邦楽の友』180 p27, 1970.5)
 
 「大正初期の「パンテオン叢書」についてはこれまで適確にとりあげ、位置づけたものはなかったのではなかろうか。いわば放擲に近い存在であったといってもよかろう。松本苦味監修、発行者は内藤加我(京橋区南鞘町二十九番地)、発行所は金桜堂(発行者と同住所)。この金桜堂が一般にほとんど知られていなかったともいえるが、監修者として全体を眺め、みずからもそのメンバーに加わっていた松本苦味も、うっかりするとシェンケーヴイッチの『何処へ行く』や最初の『クォーヴァディス』などの翻訳者として著名な、早大出身の松本雲舟と間違われてしまいかねない。」(紅野敏郎 「大正期の文芸叢書(60)金桜堂の「パンテオン叢書」」 『日本古書通信』 62(2) (811) p11)
 
 
 (M17.8内藤加我発行)
 
 
17 今古堂 瀧川民治郎
「今古堂 瀧川民治郎 初代(明治二年十月十一日生)東京日本橋區馬喰町三丁目十四番地 創業 明治三十二年九月三日 生國ハ和歌山縣ニシテ、明治十二年出京獨逸學校ニ人學シ、在校五年、同十七年大學豫備門ニ入校ス。後チ或ル事情ノ爲メニ歸郷シタリシガ、再ビ出京、明治十九年十月活版印刷所ノ校正掛トナリ、次デ會計ヲ掌リ、印刷業ニ從事スルコト十三年、明治三十二年九月日本橋區葺屋町一番地ニ今古堂卜稱シ書店ヲ開始シ[1]、講談小説類ノ出版ヲナス、同三十六年始メテ文學書ノ出版ヲ企畫シ『聖人か盗賊か』ヲ出版ス。同年現在地ニ移轉シ、爾來各種ノ書籍ヲ出版シテ今日ニ及ブ。」(『東京書籍商組合史及組合員概歴』(大正1.11.6発行)pp159-160
「活版印刷 今古堂 瀧川三代太郎 新和泉町1 親父橋東詰を北へ半丁東へ二丁」( 東京諸営業員録 : 一名・買物手引(M27.12.1発行)p159-160)
今古堂 瀧川三代太郎 新和泉町1」 (東京書籍出版営業者組合書籍総目録M31.5 p277)
今古堂 瀧川民治郎 馬喰町3-14」 (東京書籍商組合員図書総目録M39.10)
 
  [1] 『豊臣島津九州征伐』奥付(M32.9.23)では、発行者瀧川民治郎、発行所今古堂分店(葺屋町一番地)、印刷者瀧川三代太郎、印刷所今古堂活版所(新和泉町一番地)となっている。
 
 筒井民治郎
 金桜堂または今古堂発行書奥付で「民治郎」とある書籍はM27.12.11までは筒井姓で、M29.3.15から瀧川姓であることから、同一人物と推定され、この場合、「瀧川民治郎」名義の奥付の『名作三十六佳撰』はM27.12.11以降の発行といえる。
M24.4.1 編輯兼発行者:筒井民治郎 印刷者:瀧川三代太郎 発行所:今古堂 (敵討毛谷村実記
    | 
M27.12.11 編輯兼発行者:筒井民治郎 印刷者:瀧川三代太郎 今古堂活版所 発兌:今古堂 (上野合戦
M29.3.15 著作兼発行者:瀧川民治郎 印刷者;瀧川三代太郎 今古堂活版所 発兌:金桜堂 (鐘供養
    | 
M30.4.13 瀧川民治郎 薫志堂 (市町村吏員議員警察吏員国民必携
 
18 藤木旧蔵本
 演劇博物館蔵名作三十六佳撰・浄瑠璃全書73冊(二06-62-1から二06-62-74(但し15は欠)は表紙裏に昭和15年5月22日付けの藤木氏寄贈印がある。
 「同じ初期の翻刻院本である金櫻堂本(名作三十六佳撰)にも數種の同版異装本がある。いづれも初版で同じ日付の奥付を持つてゐるが、似ても似つかぬ全く異つた意匠の表紙が付けられて居つて、」(藤木秀吉 「武藏屋本考」p152-153 )
 「更に見て行くと、終り頃になつて、何巻かの金櫻堂本の中から、近江源氏先陣館が出て來た。想像した如く、追刊の「名作卅六佳撰拾遺」「淨瑠璃全書、第二輯」となつてゐた。日付も「明・二六・一二・二五印刷、明・二七・一・一發行」で、「源平布引瀧」(明・二六・一一・一九)と、「碁太平記白石噺」(明・二七・四・二〇)との中間になつてゐる。卅六佳撰、三十九巻、四十篇中、唯この一巻のみを缺いでゐたものである。」(藤木秀吉「古本日記抄」『武藏屋本考その他』p333)
   演劇博物館藤木旧蔵書には源平布引瀧が欠けている。  
   祇園女御九重錦(二06-62-68)奥付(31-II 奥付31b)の印刷出版項の下に本朝廿四孝初版奥付、祇園女御九重錦奥付についての書き入れがある。
 
19 淨瑠璃丸本全書
 名作三十六佳撰は、浄瑠璃丸本全書として明治43年7月以降大阪、中川玉成堂から出版されている。
 「後、明治四十三年頃、大阪中川玉成堂から「浄瑠璃丸本全書」と改題して,内容はそつくり其儘で、非常に俗惡な表紙を持つた叢書となつて出てゐるものがある。」(藤木秀吉 「武藏屋本考」pp.22-23)
 
 「又、この後明治四十三、四年に大阪の名倉昭文館から、この三十六佳撰を模した同じ様な體裁の、一作を一冊に収めた丸本の活版本が、やはり三、四十册刊行せられた。が、この方は粗末ではあるが、珍しいものはある。これとて今もし見つかれば珍重すべき活版本といへる。」 (三宅周太郎 『日本演劇考察』その二 人形淨瑠璃(人形芝居)の話 六 人形淨るりの見方  p101) 
 
 名作三十六佳撰との異同 (タイトル番号は名作三十六佳撰の番号による)
   25義経腰越状・近頃河原達引はそれぞれ別タイトルとなっている。
  表紙:全て別意匠 表10 浄瑠璃丸本全書 表紙意匠・目次(以下架蔵本による。)
  浄瑠璃丸本全書案内2ページ:扉の前。全部百集
     掲載のタイトルの内名作三十六佳撰以外では摂州合邦辻、鬼一法眼三略巻、嫗山姥、心中天網島、恋女房染分手綱の発行が確認できる。
   :08の扉の図柄のみが名作三十六佳撰と異なる。25の扉は義経腰越状の図柄なので、25に収載されていて別本となった近頃河原達引の扉の図柄は新たに用意されたもの。 
  口絵:名作三十六佳撰と異なる口絵 01、02、03、06、08、25(近頃河原達引)、27。
     名作三十六佳撰以外の摂州合邦辻、鬼一法眼三略巻、嫗山姥を含め2ページ大の折り込み、裏は白紙。 
     他は名作三十六佳撰と同一だが、左右別ページに印刷。05 口絵参照。
  目次:口絵裏 (名作三十六佳撰では白紙のページ) 表10に目次PDFを掲載
     口絵が折り込みの場合は扉裏。
  広告:本文の前に2ページの広告があることが多い。 
  本文:同一。印面に若干の異同はある。また、追加タイトルの本文版面の体裁は名作三十六佳撰と異なる。
  奥付:異なる。発行日は以下の通り。(これも架蔵分のみ) 
   M43.7.20: 07 09 12 13 14 16 19 24 37
   M43.8.15: 01 02 03 06 08 11 15 17 18 22 23 25義 25近 27 29 30 31 32 34 35 36 38 39
   M43.10.5: 05 鬼一法眼三略巻 嫗山姥 摂州合邦辻
  包紙:包紙の残るものがある。 
 
 浄瑠璃丸本全書のうち以下のタイトルの影印が、『浄瑠璃丸本集』として、奥付を除いて、国立劇場から発行されている。
  玉藻前曦袂、恋女房染分手綱、祇園祭禮信仰記、太平記菊水之巻、花雲佐倉曙、箱根霊験躄仇討、祇園女御九重錦 : 卅三間堂棟由来
 
 なお、下記記述がある。下線部については、三十六佳撰本文印面に鉛版釘の使用が認められてり、紙型の使用が明らかである。また、三十六佳撰の印面は刷により異なる場合があり、丸本全書と「全く同一」とは言い切れない。紙型の移動は金桜堂での販売が確認できる明治39年以降であろう。
 「藤木氏によれば「三十六佳撰」は後に大阪・中川玉成堂に版権が移って「浄瑠璃丸本全書」となった、というが確かに両者は本文・見開き二ページにわたる挿絵に関してはまったく同一である。「丸本全書」ではわずかに挿絵裏の一ページの余白を利用して段名目次を付している点だけが「三十六佳撰」と異なる点である。ところで本文は「三十六佳撰」の版そのままを用いたものであることは活字の欠損・摩滅・ルビのズレの状態等がまったく同一であることで明らかである。
 「三十六佳撰」は「翻刻兼発行者・東京日本橋区通四丁目四番地 内藤加我/印刷者・東京日本橋区新和泉町壱番地 瀧川三代太郎」、「丸本全書」は「発行者・大阪市東区備後町四丁目十六番地【卅八番地】 中川清次郎/印刷者・大阪市南区末吉橋通四丁目十六番地 井下幸三郎」とあり、明らかに印刷所も大阪に移っている。新聞のような紙型を作成・使用する技術はまだ確立されていなかったと思われるので、素直に考えれば版に組んだ活字そのものを運搬したのであろう。木版と違い崩れやすく重量のある活版をあの時代にどのように東京大阪間を運搬したのであろうか? 東京-大阪間が鉄道で結ばれるのは明治二一年七月のことである。東京-大阪間は人の移動も船便が利用されることも多かった時代である、このような重量の有る荷物もあるいは船で運搬したのかもしれない。」(後藤静夫 「武蔵屋本私記」 『芸能史研究』161 2003.4 p74)
 
 
 ○ 15年まえに、ネットの記事(No.3)を読んで、神保町 五萬堂書店で「伊賀越道中双六」を入手したのが始まりでした。