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 【 摂陽奇観抄 浄瑠璃関連記事 】

ね太郎(2014.10.21)
 
摂陽奇観1~6(浪速叢書1~6)中の浄瑠璃関連項目を抄出した
nn-mmm: nnは摂陽奇観の巻、mmmはページを示す
【年表 n-mmm】: 義太夫年表近世篇のうち、興行その他、義太夫年表に立項されている関連事項のnは巻、mmmはページを示した
【 】内は抄出に際しての凸版影印の翻刻などの補記 □、×は浪速叢書編者による伏せ字
 
抄出項目一覧
 
摂陽奇観 巻之一
     大坂之部
01-032
    戯詩選   浪華風
浪華城郭映江河 橋跨縦横道似過 千坊比屋武門少
万戸垂牌商家多 男女忽々顧左右 老壮孜々励切瑳
沐雨櫛風馳遠近 坐花対月競吟哦 北浜遊賈売言去
南堀戯場買笑過 白頭緩歩唱巴曲 黄口急走和里歌
美酒嘉殽易衣服 仏堂神社為酔酡 無恒産業如流水
不定談論似奔波 瓦文礫語能研砕 金字玉章誰琢磨
古今沙汰辰旦物 朝夕出入日本艖 穀価貴廉於此躍
能分六十余州科 
或院本に
〽難波の町を絵に書ば扇のなりに末広き地紙のはゞの三ツの郷西にかなめの海をうけ生駒の月を懐に雲をかくさぬ詠のたね云々
 
01-038
色里夢想鏡ニ云 貞享四卯年上木
       ○ 風景一覧
新町橋より東順慶町筋心齋橋まで三町が間商売人のともし火夜景すてがたき所地盛売のそば打出しの麺るいことに焼まんちうは所の名物天目酒にとうふの田楽うなぎのかばやきはお定り紋付の焼もちさもしけれど食物ことかゝず刻みたばこの新田屋今様の煙草入の商売数多浮世扇屋ひん付見世小間銀替る銭しやうばい闇の夜の提ケ挑灯軒に声あるこあげかご四季折々の枝おり花夏は螢の集め売鈴むし松むし声あるむしの商ひ浄瑠璃本の常見世に草紙物屋好色本辻打の上るり語り辻山伏の手の筋見疝気ぐすり嫁入紙養父にも功の薬うり時花哥の読売役者物まね太平記よみ手がひしやみせんの世渡り其他異形異類の商売珍しき小間物道具花を錺る商ひ此処より売初めざるはなし酉の刻より亥の下刻まで商売人市を飾り往来人引もちぎらず四季諸共に立込はさながら法会のごとく也夜るの風景不見しられずくはしくは走廻のおり御らんとのこしまいらせ候
 
01-043
        〇 四橋
摂陽群談ニ四ツ橋西横堀ト長堀川東西ノ流ニ南北横流スルノ陌ナリ 上ツナギ橋 下ツナギ 吉野屋橋 炭屋橋 世ニ四橋ト称ス河水四隅ニ湍リ船ハ二流ニ漕違ヒ道行人ハ四方ニ渉リ賑アヘル光景亦類ヒナシ一橋一名ヨリ四橋ノ一名其名高シ
色里夢想鏡ニ 橋本佐七が難波の四つばしは人しらぬ月の名所水にうかへて月は五ツ名は四ツはしかぞへてあまる月もかな色里に近き名所云々
遊君三世相ニ 難波の秋の西横堀水行川の蜘手なれは橋を四ツ渡せるも恋を通はす天の川ながれの里も程近く云
 
     淀川之部
01-056
       ○ 淀川すはひ女
 元禄の頃は淀川の船へ都のすはひ女小舟に棹さし来り小間もの画草紙の類を商ひしと見えて宇治加賀掾の院本雁金文七といふものに清川の道行のぼり船の文中に
   〽渚にのこる水鳥と声くらべて商はさながら京のすあひらしめせ/\めされや手のごい腰帯旅ゆがけ針や白粉揚枝さしに寒紅粉かうがい針さしはさみ毛ぬきに櫛手箱御影堂や祐仙が直筆扇奈良団かるたこきりこびんさゝら独り笑ひのでつこのぼうわかい子達のお手の道具きはやみかけ香やたきもの小田原うゐらう墨筆雁金の文七や曽根崎のお初が心中絵ざうし空直ござせぬサア/\めせ/\買んせぬかと売声はきやしやではすはでしやんとして云々
 或人元禄九年出板の道中記を蔵スその中に淀川の条に伏見下り船賃十文とあり其頃を推量せば万事かくのごとし
 
摂陽奇観 巻之二
     武庫郡
01-094
       ○ 百太夫祠
 西宮の北に小祠あり内におさむる像は三歳ばかりなる小児の座したる人形也これ神にあらず毎年正月に白粉を以て厚サ三四歩ばかり顔に塗置也此辺に其年生れたる小児宮参りをなすとき此人形の顔を撫てその白粉を小児の顔に塗也これ疱瘡悪病を除くといふ又云これ日本人形の初めにして此人形あるを以て西宮に笠井氏といふ人形芝居の株あり
    此人形百(モヽ)太夫と称する其由縁にて浄留理をかたるもの太夫と呼ひあやつり芝居の株も此所より得たる歟
 
     矢田辺郡
01-098
       ○ 箙の梅
 生田の社辺に梶原が箙の梅鏡の井あり
 長門本の平家物語一の谷合戦の段ニ云
    源太梅の花のさかりなるを一枝折て箙にさして敵の中へはせ入てたゝかふ時も引時も梅は風に吹れてさつと散ければ敵も味方もこれを見て感じける所に城の内より本三位中将殿の御使にて候梅をさゝせ給ひて候に申せと候
     こちなくもみゆるもの哉さくら狩
  と申もはてぬに源太馬より飛おりてしばし御返事申候はんとて
     いけとりとらんためとおもへは
  と申されけるとあり
 按ずるにこの連哥のこちなくもみゆるもの哉といふ句は無骨にも見ゆるもの哉といふ心成へし骨なくと書て無骨とよむ故也
 謡曲のえひらニ云
   〽惣而この生田の森は平家十万余騎のおほて成しに梶原平三景時源太景末一の木戸きつて落し分捕高名目を驚かす処に景末何とか思ひけん此梅花の枝を手折て箙にさす此花笠しるしと成て高名いちしるく名をあげたりしによつて景末却て此花を礼し則八幡えゐかんの神木と敬せしより名将の古跡の花なればとて箙の梅とは申也
 老人雑話ニ云 箙にさす矢の数は多は二十四也此内一ツは矢がらみの結びにて鎧にからみ付る也二十三は射はらひて跡に一ツ残さねば箙くづるゝ也これゆへに是非一ツは残す也平家物語橘合戦の段に二十四さしたる矢にて敵二人射をとし十一人に手を負せたれは籙(ヱヒラ)に一ツぞ残りたりとあるはこれ也其後箙もとひて捨てけりとぞ残りし矢も射はらひ籙がくづれて働きのさはりに成ゆへに解すてたる也梶原が箙の梅もまたく風流にあらず矢を皆射はらひて梅の枝をさして箙をかためたる成へし
    箙の事釈名に矢を盛る器也とあリ
    秋艸ニ 逆頬箙 葛箙 柳箙 蜻蛉えびらなど有てさま/\の説をあけたり
       ○
 梶原景時二度の懸といふ所は生田の森より五丁程西に当て城か口村といふ在所也とぞ
 
01-107
       ○ 敦盛塔
 矢田部郡西須磨村にある敦盛の塚は往昔彼太夫敦盛の霊魂再び現れ出て此石塔を建といへり高サ一丈壹尺墓石方四尺あり
   大夫敦盛童顔璘荘大居士
と銘ス
 東行筆記云 敦盛の石塔とてあり平家物語に修理太夫常盛のおとこ太夫敦盛とて十七歳になりしか沖なる船に目をかけ馬を海へ打入五六たんおよかせられしに熊谷次郎直実追かけ扇をあけて招ければ取てかへし波打際にて組て計れ玉ひぬ首を包んとて鎧ひたゝれを解てみれは錦のふくろに入られたる笛をそ腰に指れたるあないとおし此暁城の内にて管絃したまひつるは此人々にておはしけるやさしかりける物をとて大将軍の見参に入たりけるよし詳に見ゆ但盛衰記には敦盛の尸骸を父のもとに直実送り遣しける事見へたれはこゝに埋るに非るへし今須磨寺に敦盛の笛とて伝へたれとも笛も送り返せし事見へたれはあらぬ贋物にそ有へき
 
 
摂陽奇観 巻之五
南水雑志 巻の一
01-247
       ○ 島の内通称
おのれが仮初に住ぬる処を島之内といひて浪花の色里新町の廓に劣らぬ妓館多くまた道頓堀江を隔てゝ歌舞妓あやつりの劇場有てたゞ浮世のうかれどころなれば風流の名をとゞめぬる跡もすくなからず其うへ此地は三津の浦とて和歌にも詠て名古の浦高津の海も遠からねばそこらあたりの隅々を尋ね求めて旧事なんど浪花の三津のみつよつふたつと思ひ出るまゝをかいつけ見んとまつ草をおこしぬ此地を島の内といふは古図に上難波島は今のばくろう町仁徳天皇の地下難波は今の難波村牛頭天皇の地にて道頓堀より西南は都て下難波といふみな島々にてありし難波島の内なるゆへ難波を略して島の内とのみいひならはし浄瑠璃の戯文にこゝもながれの島の内と書るもよく利に叶へり      難波人見やはとかめぬ浦の春 昌琢
 
01-260
○嶹陽英華
南郭先生著/嶹陽英華/玉臂舘
花之美多則多矣不若花街花之美且情桃李雖然美不言不語牡丹海棠雖然艶不笑不歌此花也不唯能言語笑歌其色一過目則奪精蕩魂其香一触鼻則飛心断膓加旃霜露不凋風雨不摧取之無禁用之不尽春秋昼夜莫時不芳菲奚為与草木花同栄枯哉艸木花猶且賞之況於此花乎嶹陽之遊鳴呼楽夫因以序
嶹陽英華
是年六月之既望泛舟遊浪速陽此地也泉甘而流緩肥而妓白故納涼遊客不知其幾千万也清風瀰江水光潔膚有先吾而浮者有後吾而乗者或誘瞽者或携妓女有冶童之在有幇閑之在飄々乎縦其所如而散艫之紅靴爛熳摸高雄龍田之紅葉映浪金扇閃々疑都蓬莱之珠耀矣浄瑠璃也物真似也謳也拳也擾々焉紛々焉時歌時笑坐頭摸三線則江魚躍芸子操謳曲則河伯側有掉一葦之軽舟而沂流者有扣楼船之舷而沿水者其交知己者麾吾々亦挑彼風流怡目佳境飛魂伸肘濯盃乃 浪促三遅之宴亀背吹竈乃煙射篙子之鼻徐横流至岸則水主奴輩引維渡板既而履磴就熟路則 往来絡繹自他并肩摩袖十二街中如隘遂日幽晷落而千日之烟擁鼻.無常之響透耳蹉跎歎於鴫起澤之 秋思浦笘屋之夕転行屡歩娼家星聯仏燈日輝五歩一楼十歩一閣立錐之地募千金容膝之館 唱今様排襖簾則無道路之人飲白湯則伝鄭衞之音婦之亭不無客妍合之家不憚人越人立多音頭 上床机翳扇而躍寖闌也臨此隊者雖縉紳之貴処女之艶跣歩襪踏有武士有商賈有妓有郎或被手 拭或服浴衣若着花笠若戴塗笠拍手励声振尻股貴賎男女交手蹂足也半酔半醒茫洋 不知日之往候之遷実夢中之戯乎抑無何有之郷乎皓々粉々践雪瓢々颯々信風矣行々重行々則突 兀芝居高聳往来繁行人坐也熒々明者掛挑灯也雷霆之忽驚櫓太鼓之頻也誠箇夜此顔見幾世 年成此栄焉木戸叫賓客行提灯高張燈燭盆夥渥然丹者為紋所夥然黒者為姓名或鋪毛氈或担 行厨或踞半畳上仮庋附也口上也造次必愼顛沛必敬綾羅錦繍于斯粧于期刷紫之帽子奪朱翠之前髪 添情於是時乎沙弥断歯老僧流涎少焉析鳴事終入起衆出有高卑有老有少走東西往南北 年々歳々入多歳々年々花弥美眼花心恍杳不知所以然也芳野之曙人丸之視雲江南之夕世人之尽 娯故貴介公侯不思而歩不期而適優入茶店則全家巧言令色陪婢之前垂則紅於紅葉之紅孟郎悦 孟郎噪時又一段勝素君至宛転双蛾不春還於楊柳之春嬋娟両鬢不秋競於芙蓉之秋矣振袖之長 也掻頭之照也輝銀燭奪壹鬱朱唇花顔馥郁余光梅遠薫桃近侍加之約肘黥者春宵千金不足当 剪指盟者一人三千不為過千態万貌甘哉々々鳴呼夫齲歯之咲如梨花之綻雨折腰之歩如柳條之靡 風蓋憶初春之初音之古于今感無定富士之烟之咏于茲至求其属則有新娃皓歯阿妓短袂及一見馴 染掉与会之別矣掃者係男所掃者関女曰肝胆曰附会終夜相共酌酌席和而喧言簡而淡青州 之酒松江之鱸即盛即進盃盤狼藉焉献則抑兮飲則間兮酩酊沈酔転歌暗喚不知手之舞足之踏夜尤最 闌而御沓退燈火幽而各就寝席則鴛鴦帳暖而不知東方之既白
  名寄之部 【原本の各家の紋は摂陽奇観では示されていない】 
福田屋伊兵衞  市弥 みち
杉本屋彦三郎  金弥
京屋次右衞門  菊元 わかな 舞鶴
桔梗屋勘兵衞  玉木
木瓜屋五兵衞  きんこ
加賀屋友十郎  むらじ
多田屋栄林   大吉 あさ せう
大黒風呂右衞門 うたの しけ いく なる
柴屋勘十郎   こう そよ
竹屋九兵衞   小らん 花よ 小むめ 小まつ 小きく
丁子風呂清兵衞 なミへ 大はし いくよ まきの まつ井
伏見屋源十郎  かしく 小いそ ながと ゑもん 
松屋忠兵衞   いく 小つる    
足代屋利兵衞  小さん まきの みやこ いその 小いさ
銭屋平五郎   わかの たミ 染きく つる
貝塚屋弥太郎  くの
木幡屋平兵衞  小かん しう しやう たか いつミ
木本屋源兵衞  みとり ひて
大和屋まつ   小ゆり 瀬川
一文字屋茂兵衞 せかハ
松屋庄助    ミち 小いと せう
大村権右衞門  みやこ いと うた とみ そよ いつミ をり
[大村屋にて名高きいとあり]
芳野屋弥平次  まんよ 井つゝ あさ 小かん 小幸 小きん 小すへ うのは いろか きんや 金さん おぎ
三原屋吉右衞門 せう ともへ ひて あや 梅かえ
大坂屋徳次郎  長門 ひて いそ さんこ
扇風呂安兵衞  はな きん つね うた しめの ミくに 萩 さミ
大磯屋平四郎  小まち いそ 小とら
橘屋権兵衞   をの川 小花 小まつ
薬師風呂善兵衞 はなよ すま
俵屋幸助    小さん ゆか こん
大和屋八兵衞  さよ ひて
金屋半兵衞   しのふ かほる さくら 小さこ 大吉 いわ
堺屋佐兵衞   あつま きく きやう
近江屋けん   いろか くに もと
扇屋伝兵衞   ふさ菊 玉つま ひな鶴 ひさ
槌屋茂兵衞   小つま くら
塩屋弥兵衞   花さき いくよ あさか みやこ 小てう 大吉
銭屋忠兵衞   源氏 よせ はるの 大はし 小すゑ
菊屋忠兵衞   金さく まさこ かな
兜屋清五郎   さよ ミうら
塩風呂仁右衞門 ちよ 乙 舛 さき つま木 つね
新屋吉右衞門  ミわ みち
大竹屋吉右衞門 いつゝ
吉文字屋喜四郎 とみ その
額風呂喜兵衞  小さん 小さよ まさ 小よし さゝや 小とよ
 [額風呂ニ小さんアリ通称カ]
姫路屋太兵衞  あや
大和屋長兵衞  花その うた木 もなか さとよ
大坂屋才助   井つゝ まつかえ
土佐屋長左衞門 かしわ いはほ うた つね 大すみ 松うら
魦屋庄助    小むめ ふしえ いくよ
柳風呂次郎兵衞 小てん ゑん ひさ 左源
大黒屋清兵衞  とみ ミつ
三扇屋喜兵衞  大吉
福島屋喜兵衞  はな 梶 れん ぬい まさ 岩代
長崎屋六三郎  さき
八幡屋多吉   ふしえ 小さん 小きち
大塚屋重右衞門 三国 若まつ 梅かえ もと
若狭屋佐兵衞  小にし いつミ しつか 井つゝ ミやこ 小いさ なを
鯛屋伊兵衞   つま木 らん
蝋燭風呂弥兵衞 へん いつミ
備前屋庄兵衞  若な
綿屋治右衞門  金山 出雲 なには 川つま
河内屋勘兵衞  りう しやう 若まつ
柾木屋源右衞門 やえ 岩はし
堺屋作十郎   はや ふしえ
桔梗風呂佐七  岩はし いくの をの 小てん
春木屋伊兵衞  はるえ 梅かへ きてう きん山
大和屋清兵衞  をの川
綿屋新兵衞   きくえ 小なミ いくよ 小いそ きんこ さき ぬい
桜風呂長兵衞  きく ふしえ かしハ
淡路屋嘉右衞門 道のく いはの はや てん
戎風呂源四郎  小らん とえ 小弁 とミの
大和屋三右衞門 さき あさち 小ふち
伝風呂     ひなつる
笹風呂     うた木 ちさと 小弁 うらは 大よど とみ きんご

  茶屋之分
地田屋庄五郎  岩井屋長兵衞
貝田屋市兵衞  丁字屋又七
竹屋新助    堺屋嘉兵衞
大小屋喜兵衞  京屋治兵衞
大和屋七兵衞  松田屋武兵衞
貝塚屋弥太郎  貝塚屋半兵衞
堺屋吉十郎   近江屋弥兵衞
岩田屋善兵衞  井筒屋勘助
大和屋太兵衞  松田屋忠七
福島屋喜兵衞  長崎屋六三郎
舛屋三郎兵衞  扇屋きよ
鶴屋喜兵衞   立花屋嘉兵衞
大和屋次兵衞  津村屋幸助
駿河屋喜兵衞  鍋屋彦四郎
豊島屋三右衞門 京屋七兵衞
河内屋作兵衞  大和屋伊兵衞
紀伊国屋伊八  柾木屋吉郎兵衞
足代屋長左衞門 立花屋市右衞門
鯉屋仁兵衞   平野屋作兵衞
島屋九郎兵衞  篠屋久兵衞
薩摩屋勘十郎  若江屋吉郎兵衞
竹屋伝兵衞   梶屋平兵衞
醍醐屋九兵衞  虎屋佐兵衞
綿屋庄右衞門  岩井屋七郎兵衞
若江屋久右衞門 富田屋市右衞門
秋田屋五郎兵衞 足代屋長右衞門
長崎屋佐右衞門 吉野屋宇兵衞
福島屋平兵衞  大和屋八兵衞
住吉屋助三郎  丸屋藤兵衞
堺屋清兵衞   大津屋かん
天満屋弥介   京屋三右衞門
深江屋平兵衞  桔梗屋清兵衞
備後屋庄兵衞  播磨屋吉兵衞
竹川屋佐兵衞  大和屋権兵衞
亀屋さよ    豊島屋六兵衞
葛籠屋佐兵衞  竹川屋七郎次
桜井屋重太郎  京屋八郎兵衞
島台屋吉兵衞  津村屋久右衞門
海老屋九郎兵衞 榎並屋忠兵衞
山口屋忠兵衞  河内屋吉郎兵衞
阿波屋次兵衞  天王寺屋長左衞門
平野屋権七   堺屋九兵衞
富田屋七兵衞  平野屋伝右衞門
河内屋六左衞門 伊丹屋長兵衞
柏屋栄吉    平島屋弥吉
大坂屋才助   伏見屋武兵衞
   右之外いろは茶屋有四十八軒略之

   大コ之分
梶忠兵衞    森田利助
袴屋兵七    豊竹絹太夫
浜松新太夫   豊竹森太夫
宮古路政太夫  冨澤小八
本屋清七    宮古路家鼠
宮古路姫路太夫 都茂七
  右毎月改
   [這書は宝暦明和年間の名寄にして当時は断絶の家も多し]
【   もん日
正月  朔日より二月朔日まで
二月  十五日 二十二日 ひがん七日とも はつむま
三月  三日 四日 廿一日
四月  朔日 八日 十七日
五月  五日 六日 廿八日
六月  朔日 七日 十日 十一日 十三日 十四日 十六日 十七日 廿日
    廿一日 廿二日 廿四日 廿五日 廿七日 廿八日 廿九日 卅日
七月  七日 十日 十五日 十六日 廿四日
八月  朔日 十四日 十五日 十六日 ひがん七日とも
九月  九日 十日 十三日 十四日 十五日 十六日 廿日 廿一日
    廿二日 廿四日 廿五日 廿六日 廿七日 廿八日 廿九日 卅日
十月  十二日 十三日 十四日 十五日 廿日
十一月 八日 廿四日
十二月 朔日 十三日
     此外 いのこ せつぶん かうしん
嶹陽英華終
献笑一覧 嗣出  (洒落本大成3により追補)】
 
01-275
       ○ 額風呂
図 難波鶴 額風呂 難波鶴 額風呂
島の内に名高かりし額風呂は家号綿屋治郎左衞門といふ延宝の頃は籠屋町にあり元禄年中島之内御前町へ移ル 古老云額風呂は御前町当時網彦といふ川魚屋の所也 其頃は市中の風呂屋に垢すりの湯女ありしよし難波雀 難波鶴に見えたり 此二書は延宝□年出板
風呂屋十四軒湯屋廿二軒とありて風呂屋と唱へるは垢すり女ありまた湯屋といふは一通りの銭屋なるへし当代は市中に限らず色里の風呂も名のみにて垢すり女は風呂屋株に添たる伯人をさしていふ難波鶴垢すり女の図上ニ出ス
額風呂 籠屋町     治郎左衞門
難波  伊勢屋町    蔦之介
伊勢  立うり堀
丁子  渡辺すし    彦右衞門
戎   道修町     六兵衞
笹   淡路町     太右衞門
大黒  天満八丁目   又兵衞
扇   天満五丁目   五郎右衞門
桜   すげた町 
塩風呂 長ほりこんや町 
蝋燭  道頓ほり六間丁 小左衞門
柳   道頓ほり六間丁 善兵衞
桔梗  下博労町
薬師  上平野町
年寄 市左衞門 肝煎人 七左衞門

元禄九年出板難波丸に大坂風呂屋 肝煎 七左衞門
扇風呂 天満五丁目     五郎右衞門  額風呂 道頓ほり御前丁 治郎左衞門
難波  さこば       弥五太夫   伊勢  浮世小路    治郎左衞門
桔梗  下さこば安土町出店 九郎左衞門  蝋燭  道頓ほり六間丁 小左衞門
大黒  道頓堀六間丁    又兵衞    塩   こんや丁    市兵衞
薬師  内平の丁      清右衞門   桜   舟越丁     清兵衞
柳   道頓ほり御前町          笹   あはち町    太右衞門
夷   道修町       六兵衞    丁子  道頓ほり    彦右衞門
同  湯屋合廿軒 年寄 市左衞門
新地湯風呂之分
竹 新地うら丁  井筒屋利兵衞  伝 新川北二丁目 塩屋孫兵衞
湯 新地中一丁目 塩津屋新右衞門 湯 新堀二丁目  姫路屋市郎兵衞
湯 新川南二丁目 なからや治兵衞
延享寛延年間改正難波丸に
湯風呂屋 湯屋株合弐拾弐 年寄玉屋町 扇屋源兵衞 但し湯屋名目は持主勝手に付ル也
風呂屋之分
堂島新地株三ツ 道頓堀株拾六 但年交変有之
 扇風呂   額……  難波…… 伊勢…… 桜風呂 桔梗…… 蝋燭…… 大黒…… 塩…… 柳……
 薬師……  丁子……  笹……  竹……  伝…… 夷……
かくのごとく湯風呂屋とあるは常の銭湯にて風呂屋と斗りは垢すり女の株也
 
01-277
       ○ 額の小三の伝
小さんは額風呂の垢すり女の通り名にして代々あれども金屋金五郎の唱歌に其名高き小さんは元禄中也事実は其頃の院本金屋金五郎 難波役者評判トモ云 に委し島之内御前町額風呂綿屋治郎左衞門方の抱也 元禄年間の小冊風流文車に額の小三か垢する所の図あり
松の落葉に大坂茶屋名よせ
   〽つらい勤めが身にしみ/\とはやり小歌の其一トふしも聞てなり共月日を松屋額の小三は綿屋の勤め恋がござればつとめのさはり 云々
釣行燈の唱歌ニ
   〽付合にのむさゝ風呂もついに綿屋にはりもつて又はそばからはやす額風呂の 云々
金屋金五郎身まかりし後額の小さんは京都へ仕替られしよし傾城禁短気に見ゆ
   額の小さんは綿屋の勤め夫から京へ上り今神風を吹さるゝに誰か古しといひ手もなく難波入江のあしからぬ評ばんとかく商見せは所を替ず古きがよし勤女は所を替て顔のあらたまるがよいに極れり
 
01-279
       ○ かな屋金五郎 正本(難波役者評判)【京都宇治加賀掾】
図 難波役者評判 
【宇治加賀掾院本難波役者評判と題せし金屋金五郎を仕組し戯文に「がくの小さんは心からふろ屋の……」同書綿屋金五郎道行に「身はかげろふのありやなし情ひとつを……」当時世に流布する金屋金五郎の唱歌は此院本と国太夫ぶしの忘れ草といふものゝ文句をこゝかしこ綴り合せて作りしものか道行の奥下の巻の文段に「かくとは知らず金五郎綿屋の門に……」絃曲の唱歌には師走二十日の暁とあれど此院本には霜月二十日の朝嵐に消ると書り道行は霜月二日に文段にて十八日過て死たりと覚ゆ。宮古路梅園に云浮名のはやり唄がくの小三金五郎忘れ草/嵐三右衞門座/太夫 松本沢太夫/ワキ 松本吟太夫/三味せん 竹沢六十郎「くるふとも思はで狂ふ姿こそ恋にやつれし金五郎は……」『南水漫遊』】 
図 かな屋金五郎(難波役者評判)一丁 かな屋金五郎一丁
【ミきときく/\なもことハりや秋風のふけども/\さらに身にハさむからじことハりやしらぎくの/\きせわた をあたゝめてさけをいざやくまふよまれ人も御らんぜよ月ほしハくまもなしところハしんやうの江のうちのさかもりしやう/\まひをまハうよあしのはのふえをふきなミのつゞミどうとうちこゑすミわたるうら風の秋にしらべやのこるらんあたらよざけのつけざしもふけゆく】月をともとして。たがさしめをもあらためずあひといふじを取ちがへ。てうしかゆるもにくてらし。さけのかはむくくせとして。一つうけては付ざしの。思ひざしのときをもたすうそかまことかそりやしんじつか。こちの。によらいのめぐみもあろに。恋の思ひをのりかけ馬にはなれがたなき。わが思ひ。思ふがゆへに。其いろを。つゝむにあまることのはを。人やきくらんはづかしのもりてわがなは命げにくひしめられてよしあしの恋と思ひをやれかけて見るかくの小三はなあしやちどりあしはぎのうはかぜそよ/\/\と。ふくにつけてもかの人に。あはんと思ふ一念はよもつきじ/\。よろづよしなきこよひのねざけ。つげ共つきずのめ共かはらぬ。秋のよのさかづき。かげもかたふく入江にかれ立あしもとはよろ/\よは/\よはよなか。しばしねよかと手をひかれとある一まに〽やすみけりすでに其よも。ふけすぎて。下てら町のかねのこゑ。ねみゝにいればねいられず。むかしがたりや身のうへの。はなしにつれてさけのえひまされば大じんせつながり。まくらをさげよあしをひやせ。しほちやもてこいきんたいししせつはないかとわけもなく。ねるよりはやくたかいびきさらにしやうねはなかのけり。小三はそばをはなれずお心あしうはこざせぬか。きつい又おえひじやは。わし斗ではかいほうならじたそおじやゝよはまだわかいにうちとのしゆはねてさうな。はあなんどきじやしらぬまでや。そこにねてゐさんすは。 [金五郎はかふき投者にて小さんの間夫也 大尽小さんをつれ金五郎もたいこにつれて他所行の処] 金五郎さんではないか。こなんはなにのためにきてぞいの。きやくさんさけによはんしてづゝながつてゐさんすゆへ。わしはさきからあつかふぞゑ。たいこをもつはこんなときのさはいじやに。こゝへきておせなかでもさすらふといふきはなうて。なんじやおなじやうにたしなまんせといひければ。金五郎めをすり/\なんじやだんなはさけにえはれたか。そんならえひさますおくすりをしんぜふと。立んとすれば小三袖をひかへ。いやなふまたんせいかひでも大じない。わしがくすりをしんぜてからたはいもなうねさんした。あれあのいびきがきこえぬかゑ。たゞしつんぼにならんしたか。しやほに二日あはねばあひたうて。きやくにかこつけ身あがりし[此文にて戯子分明也] しばゐへいてはこなさんのやくのうちは此かほをわきめもふらず見てゐるを。よも見さんせぬことあるまいが。よう見にきたといふせりふ一どもきかずさりとては。きつようむまれつかんしたなふ。おとゝひもあのきやくがあじろやからよびにこし。やがてくにへ下る也。ほかに思はくないならばつかんでいておく様に。してやらふといはんすをいやとはいはれずどうなりと。お心まかせといひたれどこなさんをさしをいて。なんのほかへゆかれふぞ。たゞしいかふかやりたいか。まことにこよひの大ざけもあのきやくをあのごとく。えはしてねさせ其すきに。つもる思ひをかたらんと心にそまぬしやう/\まひねはこなさんにあひたさのあまり/\てせわにいふ。ひんのぬすみに恋のうた。よしなやきやくにかはしてをいて思ふおとこにあふことは。まおとこよりなをつみふかゝらんと思ふ心の下よりも。はやわき出る恋のふち。そこはゆるして給はれときやくの方に手を合。是なふそなさんの思はくはどうぞいのいふて見て。わしが心をおちつかしてくだんせぬかと。ひざにうちふししのびなき。金五郎聞もあへずこりや先とうじや見ぐるしい。あふたびことにめろ/\と。そち斗せわやいてをれはくにせぬと思ふさうなの。ひるのやくさへかしらがみ。あたまのさらが三万程にわるゝ時にもきやく衆につれられてよをあかし。まはるをよいきと思やるか。どうぞね引のかねのをに取ついたらば身うけさせ。金屋がおくにそなへ小三といふなをおさんとかへ。心まゝにさせふぞとねてもさめても思ふのに。なんぞやまつしやをすればとて二せとむすびしおぬしをば。きやくにあはしてうろ/\とはひつくばふてゆびのまた。ひろげてわつとのみ給へこゝは拙者がのみこんだ。ならずのもりのほとゝぎすとびまはりつゝほうげたの。くひちがふほどしやべるうちきやくがそちの手を引て。床のうちなるさゝめごと聞ばぐら/\、身がもゆれど。思ひかへしてよしなやな。とかくをれはいんぐはもの。人をうらむるはづなしと。此ごろからとくだうしとこ入まへにさけにえひ。ざしきをかへてきかぬがほとけこよひとても其かくご。今しばしぞやまたいてねや。はやいてねやいのどうでもをれは。いきてゐられず。ぜひなやと。うらまぬやうにてうらみなき。こさんもうれしなみだにて。なふ今といふ今うたがひしむねのくもりははれあした。ねびきのうはさ有とてもあちらこちらへへらつかひ。うちのしゆびをもつくろはんもういふこともしまひ/\。こさんせぬよとよりそへばヲヽよいしゆびじやこゝがそこがといふところに。大じんうんとねかへれば。はつとおどろき二人のものまくらもとにかしこまり。いんのこ/\/\とたゝきつけ手をはなにあて。わな/\ふゐひてゐたりしが。され共こさんきをしづめなふ金五郎さん。是はたがひにひけうぞゑ。たとへまさかを見付られいか成うきめにあへばとて。思ひまふけし恋ならずやとかくかまはずござんせと。手をとればふりはなし。エヽ此とし月ねずみにもしらせぬ中あらはしてはたがひのじやま。かさねてしゆびも有へきにこよひはぜひ共をきやといふ。はてそんならばどうなり共とはいひながらどうしてやら。こよひはぜひにあひたさのなをしましくる物思ひ。おりさへよくはあひづぞとおびとおびとをむすびつぎ。はしを二人かこしにつけ。ひくをあひづにあふべしと。わざとねどころとをのきて。ねいらじとすれどえひくたびれ。とろり/\とゆめ心。きやくはねみゝに聞すまし。扨はきやつらがくさりあひふぎをはたらくしたづくろひ。しらぬかほするならばなをふみ付てあなどらん。思へばにくし身銭をだしよいことさするもきつくはい也。何とぞはぢをあたへんとしばらくしあんし出し。しらぬかほにてなをたかいびき小さんはそつとまくらをあげ。月かげなり共いやならんににくやともしびかゝやきて。ありのはふさへ見ゆる也とつぞけさんとはひ出て。たばこをのむふりをしてわざと打けしハァひよんなことしたといへ共きやくはわざとをとせねば。うれしやよくもねいつてしやとあひづのおびを引けるまに。大じんむかふへそろりとまはりじつとひけばそつとよる。小さんは金五郎と心えおびをつたひ小こゑにて。さぞまちかねてゞござんせふけれ共とくときやくをねいらせてと思ひ。心せけ共今になりずんどたはいはござんせぬ心おちつけねさんせと。いへども返事あらざれば。アヽしんきうらみくぜつも時による。こんな時はいはぬがすい。あのうんつくがおきてからはなんにもものはないはいな。これとうぞいの/\とおびを引よせうらむにぞ。金五郎めをさましやうすを聞てきをまはし。扨はこさんめが又よのおとことくるひ。まさしくあふにきはまつた。をのれぞんぶんとぐへしとそろりそろりとさしあしし。さはるとひとしく両人をとつてをさへ。やいこゝなあくしやうものゝちくしやうめ。だんなやをれがめをかすめまぶのおとこを引入て。はてけつかうなどしやうぼねの。おとこめは何ものじやいきづら見てしやう有。やれひをともせ/\とよばはれはていしゆふうふしもおとこ。てしよくあんどうともしつれかけ出見れば金五郎。きやくとこさんををさへたりはつとおどろき金五郎。こさんもけうさめうろたへてにげんとすれどおびとおび。両方へつながれてあなたこなたへ引ころび。すみにかゞんてゐたりしはせうしやらおかしいやらあきれもやらぬしわざ也。大じんさはかぬていにてそれ先こさんがおやかたよべ。是々ていしゆふうふやうすをきけ。もとより我はゐなかものなればいろざとかつてふあんない。され共いかなるきえんにや。こさんに思はく有ゆへにほかの女にあふことなく。なるゝほどふびんまし身うけのさうだんまでせしか共。もはやあいさうつきたれば今日只今やめ申。尤つとめの身なれ共かへば其日は女ばうどうぜん。又金五郎めはざしきをとりもちよろづのさはいさするゆへ。いふくをとらせ其うへにおり/\金銀とらするに付だんな/\とあがむるからは是も下人とおなじこと。さうしたからだをもちながらそれがしがめをかすめ。こさんとふぎをしたび/\あふた事共を。のこらず聞ばかんにんならず。あたまからつまさきまできざんでもはらゐね共。所もわろしなもはづかししよせんりをまげかんにんする。ぞくしやういやしきうりものと。又へつらふてよをわたるつらのかはのあつでなる。ならぬたいこのをときけとさん/\にちやうちやくし。どうぼねのおるゝ程ふんだりけたり見るもなか/\はらたちや。それ引出せといひすてゝおくをさしていりけるはにが/\。しくもせうしなり。おやかたこさんを引たてこりや/\金五郎。そちがふさほうのかげにてこさんが身うけをへんがへせられた。其かはりに此女をえぞまつまへゝうつてやる。をのれにぞんふん山々なれどこよひはわざとゆるしをく。あしもとのあかいうちいにくされ追出せと。下女下男取まいてかど口迄つき出せと。一ごんかへす詞なく道理々々と涙ぐみ。しほ/\として立帰るは無念。さうにも〽哀なれ
 
01-285
       ○ 綿や金五郎道行
図 綿や金五郎道行 一丁 綿や金五郎道行
【身ハかげろふのありやなしなさけひとつをわすれかね。しばしあはぬもつらけれどすぎつるしゆびをおもひやりわれとひかへしこゝろのこまフシヲクリいまハ〽はなれてゆくあしのなにながまちの一やどりたびやのうちもゆめむすぶころしもしも月二日のよ月かげよりもしらゆきのふりつむみちをたかあしだつえからかさをたゞたのめ我よに】ありし身なりせば。かゝるうきめはよもあらじ。まことにこさんと我中はあのほりづめのふたつゐど。どちらを見てもふかけれど。きやくのさはりとおやかたがせいて。ふつ/\あはせねばはじめのほどはまちがたの。きやくとつれだちかよひつゝおりにふれてはあひしかど。のちはおやかた其手もくはず。いまはせんかたなみだのあめやかぜの。ふくよもゆきふるよはも。かぶとづきんで。かほかくし。あふよあはぬよさだめなき。こよひのしゆびをいのらんと。高津のみやをふしおがみ。千日すぢのはしのうへ [金五郎は角の芝居加茂川のしほ座の住役者也] かどのしばゐは我すみしながれも。きよきかも川の。のしをに身をばまかせつゝ。やがてかほ見せあるはづと。かたらばさぞやよろこばんと。思ふ心のそこふかき。いけだやまではきたじまやたとへいかなるみはらやに。ならばそれからそれまでと思ふ思ひを。するがやと千々に心も。くらはしや。我もしうきよを。さるならば。あとにのこりしかの人の。すがたをかへてすみぞめの。あまがさきやで身はぬれごろも。いろがくろけりや大こくやじやと。人がなたつりやすこしはわくや。わくかわかぬかゐつゝやの。ざしきによねを。つみてみなとやいざこぎよせんこひのさうばのとりやりに。まけかちのないいろどころかりましよ。かろといふこゑはみゝをこすりてかし。ましく。きやうやふしみやさつま屋のかどをすぎこし見やりつゝ [綿やは太左衞門ばしすち也] こさんがすみしわた屋なる。むかふののきにたちとまりしばらくやうすを三重うかゞひける。げに恋草も。しもがれて。人の心もしめりゆく。ながれのさとの入こみに。たがもえくゐをたき付て。ほむらのけふりむせかへる。[此文段にては ふろやのつとめと山衆の品かはれり] がくのこさんは。心からふろやのつとめ引かへて。おなじうき身もしなかはるちや屋の山しゆのなかま入。わたやといへるおやかたの。きがねもよしやかの人の。ためと思へばうらみなし。いづれせつなき中なれど。とりつめたるおとこには。ほかのつとめもそこ/\に。田もやろ。あぜもやりばなししなば。それからそれ迄と。思ひつめたる恋おとこ。かの金五郎になれそめて。うきなの立にしたがひてきやくもしだいにおちばふく風のをとつれ聞ことも。ましてあふことならざかや。この手あの手をつくせ共おやかた下女がきを付てあはぬつらさをかたるのも。あまたはうばい有中に。とめふさふたり恋しりの。身におぼえ有すいとすい。きやくをしまふておもてのま。火ばちのそばにみつがなわ三人はなをつきあはせ。ふさ小こゑにてなんと思はんすおとさん。こよひのきやくの其中にあの八さんはしゆもちとや。おほかたしれたきうぶんでわしを女はうにもつてから。なかゐこしもと下女おとこ心のまゝにつかはせふと。くるたびごとにいはんすがあれでせつきのさんようが。あはふとは思はれず。わしはいやてならね共アわんざくれそれからそれまでよ。そこがつとめのやくしやものと思へどくされきのどくで。なりあせぬはいのとなみだぐむ。とめ聞もあへずいやなふ。其八様ンは上のきやくいの。わしにとつたよしもりは。ことし七十五じやげながまごひこ持てごくらくの。道へかたあしむけながらくるよりはやくほうずりに。ほつとあきはていやなれどくはしやさんのいはんすは。せつきにちやうのきゆるのはよしもり様ンばつかりじや。すいふんまはりやといはんすゆへ。むしををさへてかんにんをするがつとめと思はんせ。いやなきやくにもあふえんにひかれて思ふおとこにあふ。こゝがつとめのくでん也とかくむかしを打わすれ。いやな人にもあはんせとかうのいつたるはなしを聞。こさんもすこしわらひがほほんにそれはさうじやはいの。此ごろわしにあひにくるきやくはやくしやでこざんすげな。しらねばぜひにおよばねどしつてはあはれぬしゆびじやげな。いやなふこさんさん。ちや屋のつとめはさうでない。はな代だにょうすめばさりきらひはないはいの。こさんさうとはしつたれ共金五郎にたつるゆへ。やくしやとしつてあふことは扨もつれなきつとめやと。思へばむねにせきくるなみだゑりにかくしてなげきける。かゝる所へどれしゆ共わたやがかどに立ふさがり。がくのこさんはこゝにゐるなんときやくになるまいか。是はよしのといふこゑも。あとやさきやにばら/\とおくの。ざしきに三重〽入にけるかくとしらず。金五郎わたやのかどに立よりて。内をのぞきかうしに立せんかたなさに思ひ付さかた [此文段みな其比の立者役者也]  藤十すぎ山勘左扨は玉川半太夫其外の口まねし我をしらする心のうち。あはれなりける恋ぢ也。こさんはそれと聞よりも心にこたへうれしくてきもたましひもうか/\と。きやくのきげんをうかがひおもてのかうしにはしり出。見ればかなしやふるゆきの。其なかにしよんぼりと。立にめもくれ心きえ小こゑになつて是かねさんではないかいのムヽさむからふにようござんしたなふ。きかんすごとく。わしが身も。そなさんにあふたといふ其にくしみにかうしたつとめ。ハァおとつひのよかな。をとゝごの八十郎さんに聞たれば。おきあひけなといはんしたがまあなんとしたおきあひぞゑ。おしよくはつねの通りかへ。おくすりはどのおいしやぞつかへにははりがよい。其せきにひえさんしたらなをわるからふにさあ。先はいつてあがらんせと。ことばしどろに身をもがきかほにちをあげふるひこゑ。よそにきくさへふびん也。金五郎なみだをながし。まことにせつなる心ざしつらいなかにもわがことを。わすれもやらでさま/\と。心にかけてたもるのは。すくせいかなるえんなるぞ我はそなたにあひたさにすがたをかへふりをかへ。よるひるとなくこゝにきて。おもかげなりとこゑなりと聞てなり共たのしまんと。十日斗此かどをとほらぬよはもなかりしが。先はぶじなるかほを見て。うれしいやらいとしいやらいへばなみだもはてしなし。それがしがきしよくのこと少も。きづかひせらるゝな。らいねんのありつきもかも川のしをへかゝへられ。近日よりのかほ見せ也。是をしらせてよろこばせんと思ふ斗に此さむいに。きたのはなんのいんぐはぞや是斗はおんにきや。扨又つとめをそりやくにせばおやかたりつふくつよからふ。しゆとやまひにかたれぬもの是をかたらんため斗又其内にと出ければ。こさんはゑりに手をかけてもういなんすか今しばしかたりたいことも有。先々まつてくだんせと涙をながしとめける時。こさんさんおくへかりませふ。にかいへちよつとかりませふとすぎがよぶこゑみゝをつきぬけ。ぜひも涙をたもとにつゝみ。のちにま一どちよつとござんせかたらてかなはぬことが有。いやもういなふまめてつとめや。わつらやんなさらば/\のなきわかれあはれと。いふも三重〽をろかなり。よはなん時ぞ・八つのころ人のゆきゝもなき折から。六尺斗の大男大わきざしのおとしざし。三人一所に立ならび金五郎を待ていにて。大道に立はぢかつてさきなるおとこ。やあそちは金五郎ではないか。こりや  [小野山宇治右衞門も敵やく役者也] 小野山宇治右衞門あらためいふはくだなれ共。すねんがくのこさんにれんぼし年々のきうきんにばいをかけてつかへ共。なびかぬこそことはり其方とくさりあひ。やくしや中間をせいたとな。外のやくしやはかくべつ此男はかんにんせず。こさんとあいさつきるかきらぬか今こゝではき出せ。せひきることがかなはずはそれがし今迄つかふた銀。みゝをそろへてきつとかへせ。返事がわるいとぜつたいぜつめいかくごせよと。あたまがちなるぶたいのりきみばうじやくぶじんにつつかゝる。金五郎少もさはがすこはなにごとかと思ひしに。すいににあはぬせんぎこさんはなんぞつとめの身じやな289いか。おぬしとても我とてもべちにへだてのあらふやうなしそれはとほらぬわるりきみ。金銀出してかふからはたれにおそれふへちまのかは。のかふ共のくまい共此金五郎はえ申さず。つかはれし銀おしくはこさんがおやかたとあひたいし。かへすならばうけとられよそれがししらふやうはなし。こゝはしはゐのぶたいでない其きやうけんは取をいて。たゞじつことにしかへられよとから/\とわらひける。あとにひかへし二人の男金五郎が手を取て。こりや。岸右衞門伴右衞門じやが見しつたか。をの山に頼まれしよじ取もたでかなはぬわざ。きのたゝぬうちこさんをのき宇治右衞門にあはせいさ。さすればたがひにいひぶんなしそれでも聞わけないなれば。中間の一ぶんたゝずものはれうけんするがよい。さあおつといふてくれまいかなんと/\とよる所を。両人共につきはなし。尤あいさつはぐはぶんなれ共是斗はゆるしてくれ。ことにをの山がいひぶんきにいらず。比うへはどなたのぎよいでものかぬならぬいやじやアサ。あつたら口に風ひかすなとかくご。きはめしきしよく也。宇治右衞門はらをたてこりや/\両人ぐめんづくはつねのことさあ是でものくまいかと。三人一所にするりとぬきうつてかゝれば金五郎とびしさりぬきはなしめくらうちにぞ三重〽うちあひける。こさんはそれときくよりもなふおとこ衆はゐやらぬか。あれ/\おもてにけんくわがある出あへ/\といふこゑに。うちのおとこきんじよのものぼう引さげてかけ出。かけ出させぬ/\とさゆるまに。金五郎はゆきがたのいづく共なくうせてげり。其中に三人はわざとそしらぬかほをして。いづれも是は何事ぞ。見らるゝ通我々はかたきやくのことなれば。じぶんがらのかんこゑつかひたがひにせりふを身ふりにうつし。てうしがすこしたかいとてまことのけんくはと思はるゝか。ねふたからふに御くらうと。さも有さうにいひなしてどつとわらふて三重〽帰りけるよる/\かよふ。恋のさと。月夜がらすのなくこゑも身にしみ/\と聞つらく。じんでうのかね聞ていくあかつきかすご/\と。かへればねやのもの思ひ。あはれなるかな金五郎。せつなき恋に身をやつし。ゆきしもあられあめのよも。風もいとはずゆきかよふ。思ひかさなるやまふのとこ。今はまくらもあがらねはしだい/\にあさがほの。日かげまつまのうき命つゐにむなしくなりければ。しるもしらぬもをしなへて扨々おしやげいざかり。あつたらことのなむあみたといはぬ〽ものこそなかりけれこゝに [片岡仁左衞門古今新左衞門其比の大立者也] 片岡仁左衞門かゝえ子共を引つれて。ほりかはを来る所へ古今新左衞門ゆきあひや。仁左殿。此ごろはあひませぬがかはつたこともござらぬか。ちと見まはふと思へ共。もはやはるのきやうげんの下だんかうによりあへば。存じながらのぶさた先つゝがなくたうねんも。たがひにぶじてつとめまんぞくいたすとよろこへば。ヲヽいはるゝ通こちとうは。ときは木といのる身なればかはらぬがめでたい。あはぬをじよさいと思やるな。をれは座本のことなれば諸事に付いそがしく。さりとてはひまがないよしそれはどうあらふと。いざ此中にあじろやが岩井やへよりあひて。としわすれと出申さふ是がうきよのたのしみじや。それはそれ金五郎はあまり久しうもわづらはでけさあけがたにわうじやうしたがおしいことではないかといへばさればいの。をれもさうときくよりはやうかけつけていたれ共。もはやしにきればみなとりみだしやくたいはなかつたが。をとゝの八十郎がさぞとはうもなうかなしからふ。ふひんなことじやともろ共になみだを。うかへかたりしが。仁左衞門いふやうは。そなたもさだめてきゝやつつらふ。がくのこさんと金五郎はふかいけいやくしたげなが。しんだと聞てかけ出るをおやかたつよくせつかんして。しにめにさへもあはせぬよし。扨もむごいりやうけんのないにくいやつではないかいの。さうもさだめておつつけならん是よりすぐにをくりつゝ。せめてゑかうをいたすべしもつともといふところへ。はたてんがいはちをつき。千日へじやと人はしればいざ/\てらにてまたんとて。うちつれ立し人ごとにさだめ。なかりし三重〽うきよかなはや千日の。てらになればがんをだうのえんにかきすへすでにねんぶつはじまる所へ何とかしのび出たりけんこさんはかみもすがたをも。とりみだしはだしにていきをはかりにかけ来り。其まゝこしにいだき付こゑもおしまずなきゐしが。やゝあつておきあがり。扨なさけなやあさましきつとめの身とむまれきて。二せとかねたるなかなれば一夜あはぬもつらかりしにしにめにさへえあはぬはなふ是はいかなるあくえんぞやとふししづみつゝなげきしが。思へば/\いとをしや。我ゆへに人にうきなをたてられせめて思ふやうなるか。しのびてかよふかひもなく。しゆびあしければことばさへかはさでかへせし其思ひが。つもり/\て死し給ふがなふ/\みなさん。せめてこしのふたをあけ。かほばせなりとも今一度見せさせたべときえいり/\なきいり/\なげくにぞ。をくりの人々もろ共に。こさんが心をさつしつゝみな/\そでをぞぬらしける。こさん今は思ひきりしよせんあとにとゞまりて。ながらへ何のせんもなしみらいひとつはちすにて。ちぎらんにまち給へとそでよりかみそり取出し。すでにじがいと見えけるををの/\さはぎをしとゞめもつともことはりさりながら。たゞいましがいあられてはまうじやのためあしからん。ぜひ/\思ひつめらればおやかたのねんのほどしゆびよくつとめ其後にすがたをもかへなき人の。ぼだいをとはゞくさのかげにてよろこびじやうぶつせられんぞひらに/\ととゞめられ。とゞまりがたきをとゝまるも是又つまのためながら。もはやうきよはたてられずちぎりくちせぬしるしぞと。たけなるかみをふつつときり。せめてみらいの共しらが身にそひ給へなむあみだ。なむあみた仏と云こゑも袖も袂も涙のつゆ。 [今の唱歌にしはす廿日うたへとも霜月廿日に死たるよし] 霜月廿日のあさあらし金やがうき命でんくはう。てうろ石の火のあだにはかなきうきよかな。かゝる所へ [水島四耶兵衞口上役の名人也] 水島四郎兵衞かけ来り。いづれもなげきはことはりなれ共。又めてたきことの有金五郎すゑのをとゝ市太郎と申者。ようせうより江戸に在しが。ふしぎにけさほど上りつゝ。此事を聞つけさぞ大夫本のことかきならんやくにこそ立まいけれ。金五郎身ぶりしよさ大かたはおぼえて有。かつうは金五郎ついぜんのため。かほ見せをつとめたきと申に付。ちやうじやうのことゝ存じさつそく申来りしが。いづれもいかゞといひければ。大夫本をはじめ一座のもの。是はめでたし/\とうちつれだちそれよりもわがやをさしてかへりけるなげきのなかのよろこびといさみ。すゝみてかへりけり。めでたかり共中々申斗はなかりけれ〔編者曰ク原本コノ項ハ当時板行ノママヲ拾壹丁ニ亘ツテ貼付ケアリ茲ニハ其ノ第一丁ノミヲ凸版ニセリ〕
 
01-294
       ○ 金屋金五郎がくの小さんわすれぐさ
図 金屋金五郎がくの小さんわすれぐさ 金屋金五郎がくの小さんわすれぐさ
れは又。きへぬ恋ぢにふみまよふ。もはやよあけのかねのこゑ。さてはまかせぬうきつとめこよひのあふせは。かなはぬな。かの。ふかくさのしやうせうは九十九やめにこがれじに。われは三百六十よごかんの。ふゆのよさむさにあてられたりしゆへやらん。かるきまくらもあかりえぬたのみ。すくなきょの人の。うはさをきけば。むねせまり。此みがまゝになるならば。あさ夕そはにつきそひて。くすりのみづのにごりなき。こゝろひとつのかんびやうをせめて一日。はん日の此てがしはのふたおもひ。いせや八わたやおたがのやしろ扨はかうづのにつしん様に。たのみをかけしだいもくの。一まんべんのくりきにて。つまの金五郎命をばせめてわたしが此里の。ねんのあくまで此世のきづな。つなぎたいぞやかねのをに。いのるしるしはでうもんの。がくのこさんとかき付してうちんの火のほそ/\と。しんもしだいにしめり行。めいどの道にふたつなきついに。はかなく成にけり
 
01-299
       ○ 金五郎ぶし
宇治加賀掾の院本鞍馬山師弟杉 清水 三郎兵衞作
上の巻大津本陣浜松屋へ伊勢ノ三郎夜盗にて窺ふ条に金五郎フシとあるを見たり
  〽行ては帰り帰りては一ツ二ツとさゝやく内に犬が啼声身につきぬけは女房それ聞よりも
弦曲金屋金五郎の調にや
 
01-300
       ○ 鯛屋菓子店
 島の内太左衞門橋筋八幡筋南へ入所に鯛の看板を出シたる菓子店あり鯛屋忠七といふ由縁齋貞柳の舎弟貞峩の息貞風也 貞峩は戯文の作者紀海音老也摂陽年鑑寛保二年条ニ著ス
 
01-300
       ○ 於妻格子
 島の内中橋筋玉屋町に於妻格子といふあり 中橋筋八幡すじ北へ入東がわ当時榎並屋といふ醤油屋の所 享保の頃此処に丹波屋おつまといふ伯人あり古手屋八郎兵衞といふもの恋路の意恨にて格子の外面より白刃を閃かしてお妻を殺害せしよりその軒の格子を於妻格子と綽号ス
    松の落葉に八郎兵衞といふ唱歌ありて元祖嵐三右衞門作のよし然れ共古手屋八郎兵衞は享保二年の事のよし元祖嵐三右衞門は元緑三年午十月十八日ニ没ス享保二年は卅八年後なれは八郎兵衞の事実天和貞享の頃にや詳ならず当時かぶき狂言の文月恨切子は明和元年申七月下旬坂町若野といへる妓婦千日法善寺の細間にて殺されしを作者並木永輔中の芝居三桝座盆狂言の切付ケに八月一日より出せし一夜付ケにて大当りせしより今とても度々切狂言の出す右外題は享保年間の古外題のよし 享保弐 七月 日 古手屋八郎兵衞 石塔 下寺町 金台寺
  按ルに八郎兵衞のおつまを殺害せしは前文のごとく天和貞享中の事なるを享保の初めにおもひ出て文月恨切子といふ新狂言を仕組たる成へし
 
01-302
       ○ 北条庫
 浄瑠璃太夫豊竹越前の宅は島之内太左衞門橋筋也享保十一年豊竹座の新上るり北条時頼記大ひニ評よく午四月八目より翌未閏正月まで十一ケ月の間大入繁昌に及ふ其利徳にて越前倉庫を建たるゆへ世俗北条庫と呼ぶ [明和四年北堀江市の側豊竹此太夫芝居にて新作染模様妹脊門松大当りしてお染くら立たるも同じ委しくは摂陽年鑑明和元年ノ条ニ著ス] 狂歌机の塵に 越前の雪の段を聞いて
      越前は大上手也雪の段聞人ことにかんしこそいれ 油烟斎
 
01-304
       〇 六軒町
 古老云島の内塗屋町を六軒町といふは妓館六軒在し故也元文頃の町並は六軒町の置屋は
   さかゐ屋   桔更風呂    重井筒屋藤十郎
   美濃屋    春木屋伊右衞門 河内屋勘兵衞
 呼屋は
   桝屋三右衞門 駿河屋喜兵衞  橘屋嘉兵衞
   京屋七兵衞  豊島屋三右衞門 大和屋次兵衞
   大和屋伊兵衞 津村屋幸介   松原屋源介
 外商売は
   平野屋茂兵衞 烟草屋看板に仙人の木像を出ス依て仙人たばこト云其名斗りは今ニ伝ふ
   住吉屋    新町の廓中より来ル
   安田蛙文   戯文の作者国学和歌ノ達人
   鯛屋長兵衞  三津寺筋少シ西 川魚屋 後年今宮ニ居住ス
   茨木屋蟄居  三津寺筋少シ南 東側享保中幸齋御裁許有之其後親族こゝに蟄居ス
 
01-305
       ○ 小夜格子
      [院本置土産今織上布中の巻二紙治内ニて
     〽うたゝねの顔に扇の小夜格子まだ曽根崎を忘れすかと云々 北の新地の妓家にも小夜格子ありしにや]
 小夜格子とは六軒町の倡家に二階の窓を竹格子に造れるをいふ戯文重井筒中の巻の枕に
   〽月ははやわたり初めし中橋や六軒町の小夜格子
 と書り此辺後世衰へて宝暦の頃は妓家二三軒に成たり夫さへ今は跡絶て名に高かりし小夜格子も当時は纔にたゞ一軒俳優家坂東氏 [中橋筋三津寺筋南へ入東側此所重井筒屋の遺跡ならん] の二階竹格子に製造して古風を残す  [船場鉄屋庄左衞門万能か卅三枚継の摺物とて名高き其中に 歳徳や豹尾黄幡小夜格子]
   因ニ云元禄宝永の頃の妓婦今の俚言にお茶挽といへるごとく其夜の約束もなくまた呼出しにも来らざる時は外面に出てそこらを歩行を格子いはひといひしよし重井筒中の巻におふさがいふ
    〽あんまり余処が賑やかさに格子祝ひに出ました
 近世布袋町俳優家嵐璃寛の居宅に表通り小やかなる丸太を以て格子を造りしかば其頃の流行歌に畳屋町のまるた格子とは世に諷ひしかど坂東氏の竹格子は六軒町の小夜格子といふ遺風なることを知るものなきこそ意恨なれ
 
01-306
       ○ 重井筒屋
 六軒町重井筒屋といへる妓館の名は近松氏の銘文追善重井筒の院本にて諸人よく知れり此家の抱女郎おふさ紺屋徳兵衞といへる男と高津大仏勧進所にて相対死をせしは宝永元年申十二月十五日夜の事也此心中の前年元禄十六未四月おはつ徳兵衞曽根崎の心中を近松氏戯作にてこれ世上に世話浄瑠理の始めとして竹本氏古今の大当り也 [この事実は摂陽年鑑元禄十六年条ニ著ス] 夫ゆへ重井づゝの文中にお初天神記道行知死期の霜の文句をもまた書出し一奇とす
 重井筒道行 血汐の朧染に
   〽いとゞ思ひに呉竹のふしをならひししやうるりも余所の事よとなぐさみしが今身のうへにふる霜の一足ツゝに消失て死に行身のあぢきなや云々
 同書中のまきに
   〽屋根伝ひにうらへぬけ樽屋町の門へおり宗門なれは日しん様の御門で死て下さんせ 中略 今ぞ冥途の門出と是を限りの立酒や樽屋町にぞ迷ひ行
 其頃樽屋町といひしは今の酒辺町也重井筒屋は中ばし筋の東側にて東の町難波ばし筋酒辺町の門の処へ屋根つたひに抜たるよし
 元禄の末より宝永の頃は世上に心中多かりしゆへ心中大全または心中恋の塊り男女名寄などいへる艸紙も出たるよしまた重井筒道行の文中に
   〽つゝむ袂のひだのぜうふたつづかひの手妻にもかゝるなりふりうつす共此思ひをばよもしらし去年のおしまの心中のその井筒屋に我が今かさね井筒と篠塚にいはれ岩井の半四郎うれいせりふのあやめ草 [篠つか岩井あやめ其頃名人の戯子也]
 因二云
 元禄の頃より心中と名付し相対死專ら流行ス古く并命といひ [命をならへる] 唐山にては鬼伴といふ [鬼をともなふ] 或書ニ心中といふは欲を離れ義を守り貞を尽して死を望をばいへり今時の心中は三勝を初めとして其外あほう共山吹色に憎れた同士の死物狂ひこれはみな犬死なれは心中ではなふて禽獣じやと南岳悦山和尚のことば左もありなん
 御公儀元文年中の御定にも
 男女申合相果死骸不及吊取捨一方は存命ニ候はゝ解死人双方存命ニ候はゝ三日晒シ非人之手下ニ申付主人と下人申合相果主人存命ニ候はゝ不及解死人非人之手下ニ申付
 摂陽年鑑寛政五年条ニ
 二月十九日 坂町心中千日ニ於てさらす此婦陰門の毛多かりしゆへ毛の心中といひふらす其評判高く見物群集せしゆへ其後心中の男女をさらす事止ム
    同月廿一日より角の芝居切狂言 東西々々今朝の噂といふ一夜付ケに右の心中を取組候へ共御差留被仰付以後一夜付心中狂言世上噂事等一切仕間敷よし厳敷被仰渡候
 
01-308
       ○色駕籠
島の内の妓は送迎を駕籠に乗るを此里の全盛とす
月花余情ニ
  送迎必乗駕籠如馴染而逢者不俟駕行
ひなふりの唱歌ニ
  〽恋の重荷のナ島の内送り迎ひ舁かこの 云々
粋弁当 二編 粋やら不粋やらニ
  〽鳥鐘をひち里の迎ひ駕籠別れは愚痴の始りか何が粋やら不粋やら
送迎の駕籠を色駕籠といふ事重井筒道行ニ
  〽送り迎ひの色駕籠もしばしとたへば何国にも馴染々々の寝入ばな 云々
また何れの色里にても茶屋駕のいさましきは正月の十日えひすと廿五日の初天神は松位天職伯人歌妓等が昿心いはん方なし
  戎駕十かへりもする松の内
因ニ云遊客の里通ひに乗れる駕籠にもさま/\の異名あり
遊駕籠
  元緑の頃船場浮世小路に多し遊びかごといふ 小路駕籠共
大尽のいきなし駕籠
  色里夢想観【?鏡】ニ新町はし西へ行ば此間に小路あり平のうらといふ出駕籠おろせ男あり土佐屋佐兵衞大尽のいきなしかご茶屋の組也
しのび駕籠
  傾城禁短気云 お池の久左衞門がしのび駕籠のりかゝつてとめとなく
勘当箱
  色道大鑑ニ 四手駕 異名勘当箱
傾城禁短気に江戸吉原薄雲の条に薄雲太夫下男の作介が脊中に負はれ帰る図あり時めく全盛が負はれたるさま古雅なれども寝みだれ髪の姿を隠す色駕籠の送迎こそ能けれ
傾城禁短気江戸吉原の薄雲の条ニ 
  江戸紫の染分の上がへのつま風にひらめき浮雲様の御迎ひに作介か参れはひらりと脊中へ乗うつらせ給ふ粧ひ云々
  図のことく傾城の送迎に下男の脊に負て行も古風也
図 傾城の送迎 
 
01-312
       ○ 小野屋膏薬
 道頓堀中橋北詰北へ入西かは三軒目に小野屋膏薬とて正徳享保の頃浪花市中へかうやくを売歩行諸人專らもてはやせし老人あり名は作兵衞といふ
 院本昔米万石通上の巻ニ
   〽小野屋かうやく呼れて頃も六十余りねばりつよなる堅親仁箱ふりかたげ立よれば 中略
   小野屋かうやくめんやうなかうやく此膏薬の奇妙にはなんでもかでも一ト付てすつへり直ると思はんせ取わけねぶとやはれ物や打疵や切り疵ようてうやけんべきひゞやあかぎれ松の木のはだへのやうに幾つも切れても小野屋かうやくを小よりのやうに細めてちよぎやちよんとこそぐれは児や女郎や十六七の娘御のはだへのやうにすべりつくめんよふな膏薬
 箇様にいひて売歩行しよし又此親仁を放駒長吉の実父とし大宝寺町の搗米屋丸屋仁右衞門方へ養子ニ遣はす仕組あり此万石通は双蝶々曲輪日記の原本なり中の巻米屋の段に
   〽大宝寺町に住居して営む業は搗米屋丸屋仁右衞門と人にもしられ年は六十三年米妻は子種の不作ゆへ二人リのこ米やしなふて末の飯米拵も兄の長吉外を家妹のお長十三の年より智恵のひね米屋 云々
 院本双蝶々曲輪日記は享保中難波うらにて服部惣左衞門といふ侍を殺し城州八幡に隠れ潜みし荒石長五郎といふ角力取の事実と [摂陽年鑑享保年間の条ニぬれ髪の話委し] 寛保中の放駒の事を昔万米通の長吉にとりなし彼是合して作文せし大当りの趣向は世俗よく知れり放駒の事実は武摂双蝶秘録に見えたり
         武州江戸金杉八丁目布袋屋文右衞門借家
                   傘屋与兵衞悴
                      放駒四郎兵衞
  一 中脊太肉髭青く色白く眉ニ入墨あり
  一 萌黄繻子の小袖 浅黄絹の下着 浅黄天鵞絨の羽折を着シ朱鞘の脇差を帯し候もの年の頃は三十余歳
 右四郎兵衞義天下御法度の幻術を以て多くの金銀を奪ひ其上人を殺害シ立退相候間見付次第訴出可申万一隠し置後日露顕するに於ては本人同罪たるへき者也
      寛保二年正月十五日
 放駒は力量強く飽まで肝曲の者ニて若年より親の家業を嫌ひ昼夜博奕大酒淫乱に長じ生得角力を好みて其名三都に知らるゝ終に盗賊と成て旧悪多く武州上山下御門内堀田相模守殿屋敷へ忍び入て召捕るゝ寛保三年七月下旬鈴ケ森にて刑せらるゝ年三十六歳
      名乗上よ東の方や放駒西のみだどのサアござれ取ろ
 
01-313
       ○ 新屋舗
 八重霞浪花の浜荻新作せし寛延の頃は錆たる遊里にて若林屋の段に花めつらしき新屋敷と書り然れ共宝暦の色八卦頃より安永の今八卦に至りてすこし賑はしく成たる趣也此文中に西の行当りの柳のある所に大門口を構へてなどゝいふは金屋浜の古木の柳かまた外に大木の柳ありしにや
 粋弁当ニ 南の柳
  〽都島原出口の柳浪花新町柳がなふて南の柳出口へ引てかそやれ/\此柳サアサかそやれ此やなぎ
 一 米市 現銀店と呼ふ寛政の頃を権輿とするか摂陽年鑑元文中江戸堀の条ニ委シ
   浪花色八卦ニ云
    新屋敷 女郎は一段おとりたれど段々花やか也近き頃までは呼屋置屋もそこ/\に有しに次第に賑やか成るによりて其隣の豆腐屋又となりの灸屋も仲間入りして軒に掛行燈をつらね千歳屋松本屋などめかしかけて終に一トかたまりの色里と成りそれ相応に芸子たいこ持も涌て出て遊所の道具皆備りたり女郎は堀江の落塩町の仕替など往来し近き南方の在郷を引うけ木津難波のふし達入り込つつこんで遊びかけ間夫の立引退状のせりふまだ日の暮切らぬ内から筑後の紋の付た手拭頬かぶりにして久兵衞や七兵衞と呼びつどひぞうり下駄かまびすし中にも素人藪入などいふて一段わひしき呼屋もあの婆様どふじやといふて這入ると誰でも近付のあいさつして置屋へ呼びに走るついでに肴もいふてくる女郎めんふく仕出しに紫紬の帯 焼桐の引ずりぐわらつかせ若きはビイドロに綿糸の入たかんざしやうのもの天窓に錺り座について八文粉くゆらせ手荒ふない客と見ればお前がたはこんな所へほんの気で来やなさらぬとおかしい所でのぼしかける手管は相応ニ覚たり素人といふもの折にはあり近頃けしからす色里めきて繁昌の所也
 
   浪花今八卦ニ云 新屋敷此処は前体むかしはウキスといふて船方の客入込し所大ひに繁昌せしが中頃とんと錆渡りたりしを近頃又店付を初め万事はり込みしより又立直り近来は女郎芸子も花やかに衣裳は坂町に掛合ひ素人出といふ物は何れの里にも少き物なれど此所には黒人の素人といふもの折々あり囲れて居た女郎の客に離れ親の内にまい/\して居るうち素人同前に成りマア三月キ出て見やうといふやうなもあの又世帯破りの仲居などくろき中の素人これを黒肉といふて味みのある事也爰らの考へ遊ふべし芸子といふものは中々長哥ではとんと間に合ぬ事園八ぶしといふものあたり浄るりなれば奴の道行と芦苅と二番覚えて居れは当時恥はかゝず芸子三味せん持と右や左りの長者様とメリヤス諷ふと客も心得扇さつと押ひらき中役者の物まね騒ぎ胴中へ夜啼のうどん屋呼込ムもおかしとかく近年は女郎大きに花やか相応のぜんせい賑ふ事也此所の置屋の大将は吉野屋女郎数多あり続て播新さつま屋よきしろものを出す何ても今一段はやらそふならば此通り筋の町幅をモウ五六間ン広うして西の浜のつき当テ柳のある所に出口の門をこしらへ東のすだれ屋のある所に同じく門を拵らへ御堂筋から道頓堀へ渡るやうに橋をかけ女郎にも禿を付ケ日傘を男にさしかけさせて送るり込み新町のうつしを仕たいと此所に年古ひ分別がいわるゝ故成程それは能らふが先ツ引舟禿引つれては夫程の人数のはいる広い呼屋が有まいといへばイヤ/\禿やかさ持の男は表の店に腰かけさして置とある藪医か山伏の供のやうでおかしかろといへばイヤまだかんじんの事を忘れたやり手に跡から蒔絵の竹の筒にせんかう入れて持たすとやつはり新屋敷か離れいでおかし近頃めつきり花やか段々繁昌すへし
 
    秘事真告ニ云
     新屋敷といふ発生の所ありナンチと同じ勢ひの大尽方にて絞りの浴衣に単帯の騒客(ゾメキ)多く酒肴貸座敷の行燈に目をつくごとくうむどん屋にはのつへいを仕出しとする冬の鍋やき夏のかばやき往来の舌を動かす事言語に絶たり 中略 しかし此里に堀出した事もある也曽根さき島の内の誥(ケツ)な女郎衆勘定にかけて三座づめ三座づめと極めほつかりと思ひつかす仕かけをする也これらは自前のなぐれ当座商ひとて銭廻りよひを蓍じやと悪口なものゝ寄合咄シ此相も捨られぬ所あり穴賢々々
 
摂陽奇観 巻之六
南水雑志 巻之二
01-331
       ○ 浄国寺 西寺町
寺記略ス
阿弥陀四十八ケ所巡第四十六番霊場本尊慈覚作当寺の東手閑情にして青葉の頃は杜鵠を聞によし
徳本上人石墳 文政の初めニ建
夕霧墳 摂陽年鑑延宝六年ノ条ニ著ス
      此塚は柳なくても哀也    鬼つら
      哀れさよ昔のいろけはなかりけりいつても同し秋の夕きり
   毎年春秋二季の彼岸中当寺ニて夕霧在世に着たる襠をみする
松の江太夫石塔 摂陽年鑑文化二年ノ条ニ著ス
蕪嫗寄進の唐戸
  浪華青楼志ニ云
    蕪嫗の宅地は木村屋又次郎が遺跡の西隣り当時は大竹屋某住居の地をいふ蕪嫗は寛文の頃新屋清春といひし尼なりしが家貧くして元朝雑煮の餅の代りに蕪を入れて祝賀をなし其後家富栄えても蕪嫗と呼ぶ名高かりしかど其末今は亡たリ此清春の石碑下寺町浄国寺にあリ本堂の唐戸は則蕪嫗の寄進にて新屋清春と誌あり
当寺に木村屋又次郎其外新町扇子屋一類の石碑多し
  南隣の称念寺に新靱八百屋半兵衞の石碑あり
 
01-336
       ○ 道頓堀
坂栄録ニ云
元和御治世の初めの頃は今の島の内荒野にて三津八幡も小宮にて三津寺も幽なる小庵のよし東横堀より長堀西横堀今の道頓堀の辺まで四百五十間余四方をば松平下総守殿より家建之義今の惣年寄安井九兵衞先祖へ仰付られ町割等安井九兵衞致され候今の道頓ほり東堀詰より木津川口まで荒地の処すなはち安井氏拝領致され川を堀て南堀と名つけ [前巻梅ケ辻の条に著ス此辺上古より小川ありて今の梅の橋の下流也此川を安井氏広く堀らせしよし] 両側へ建家をして芝居町と申候其後此芝居を南側へ引移され道頓堀と改め可申よし仰付られ候其外の惣年寄衆先祖の持地等所々に在之よし此義も安井底の書物ニ有之尤其節の安井氏道頓と号せしゆへ依て名とす
延宝六年午冬出板大坂道しるヘニ
道頓堀橋の分
 東より
     大和はし中橋これや日本はし南のかわそ芝居なりけり
     太左衞門西はえひすになんは橋さて其すゑはえつた村也
同書に 長堀より南丁名よせ
 北より
     うなぎ谷大ほうしせきだすわう殿もめん三津寺はては道頓
大和はし日本橋の間ニ中橋といふ一橋ありしが天和貞享中破壊して今の中はし [相合橋と云] 元禄中に架 [中はしの条ニ著ス] 雪踏町とは今の清水町筋也 [此辺に麗泉涌出して清水町と名付ク] 木綿屋橋は今八幡筋と呼ぶ
     名の堀に来つゝ三河や杜若 岸水
 
01-337
       ○ 新中橋
摂陽群談ニ 相合橋貞享中架ルとあれども按るに宝永の初め上町紺屋徳兵衞重井筒屋おふさと心中の戯文追善重井筒新作の頃に架りたるやう文中に見えたり中の巻の枕に 〽月はやわたりぞめして中ばしやとありまた主の詞に〽なんと中橋かけたのらんかんわたすばつかり春はちやうしゆわたり初と書るを勘考すべし相合橋とは後年にあらためしと覚ゆこゝに一条の奇話あり此橋相合の名あれば恋の部にも入べく相合がさ相合かこなどは男女の媒ともなるもの成に世俗縁切橋と呼びて此橋を男女連だち渡ればかならず縁切るゝといひ伝へ嫁入縁談其外世事の掛合相対にも此橋を渡れば不成就のよしいかなる故にや是も一奇とす
 
01-338
       ○ 太左衞門橋
道頓堀立慶町角の芝居の名代大坂太左衞門 福永氏 といふ其芝居の筋に架ルゆへ太左衞門橋といふ
   島の内ニて此通りを太左衞門はし筋といへども往古は笠屋町筋といふ金五郎の唱歌にかさや町すぢ千度もと書るにても知るべし
 
01-338
       ○ 恵比寿橋
住吉海道の通路にて正南は今宮の恵比須の社にあたれは恵比須橋と名付ケ一名あやつり橋といふは豊竹座のあやつり芝居に近けれはかく呼ふにやまた一名猿ばしといふ其故未考 [文政中新造の時より橋上正中の欄干に磁石の形をして東西南北を彫付ケ近辺の見物所の方角をしるす]
例年正月九日十日戎橋の南詰にて西宮えびすの御影を弘める事近来の事にはあらず貞柳の家集ニ
   西宮戎の札を道頓堀戎橋辺へ持来りて披露なすを見て
     渡りかぬる人をたすけん為にとて西の宮より来た戎はし
窓のすさみニ云
今時恵比須の像とて絵にも書木にも刻みぬるは広田の神主の像也神功皇后筑紫より帰洛の時西宮広田大明神の祠廃れて神主釣をいとなみとしてやう/\神に仕へけるが鯛を釣て捧しかは褒美有て由緒を尋ね聞給ひのぞみ有やと尋られしに外に所望は候はず神社再興を願ひ奉ると申せしかは頓て造立ありしとかや此神主の名を夷三郎といひける此神主が功にて中興せしかは末社に崇め祭りけるとぞ後世に至つて堺の商家此宮を信し月詣せしが有福に成しかば神の恵みとて殊に渇仰しけり老後にははや月詣も成がたく候何とそ居所に神影を勧請し朝暮拝し申度と望みけれは神体はうつすべき形もなけれはかの夷三郎が皇后へ上るとて鯛を釣て持行所を絵にうつして与へけるが世上に弘こりたるとぞ
 
01-347
       ○ 癇癖談 くせものかたり共云 
むかし、をとこ友どちかいつらねて、住よしのこほり、住吉のさと、住よしのやしろにまうでけり、霜月のはじめごろにて、ゆふさりがたのそら霜をれて、うみふく風の、汐しみて、いとさむし、生駒山を見れば、冬がれのところ/\、赤はげて、西にいる日のかげにあらはにて、あいなく、見る/\さむげなり、今宮むらを北によこをれくれば、長町の南がしらなり、むつかしげ [むつかしげなるはむさきといふ義也] なるいへども、ひし/\と立ならびたる中に、はたごやのところ得がほながら、時ならねは、ゐなか人のやどりも、まれ/\にて、火おこさぬ夏のすびつの、 [火おこさぬ夏のすびつの心ちして人もすさめずすざましの世や] とうちながめて過るに、青物菓物あきなふ家は、よし簀たてかこひて、たはね薪、はかり炭、それこれと賑はし、塩うをなにやかや、しひら目黒の切うり、ほしいわしのいさゝか皿にもりたる、また何とかいふ魚のあぶりもの、鮪のおほうをいまはしげに、きりさいなみたるに、にしんのしたゝるげに煮こゝらせし、唐きびもち、あかむしの切目だかなるにも、おほろのつちかぜやかづくらむ、香のもの、くきづけのにほひ花やぎたるが中に、芋むす湯煙ぞあたゝかげなる、日は西にしづみはてゝ、風いとゝあらぶきだち、あつこみて着たるさへ、ゆふしめり身にしみて覚ゆ、此ほとりにやどりとるとて、あさましげなる物等、たちつゞきてかへりきたるを見れば、老さらぼへる目くらの、竹杖のかた手には、十一二なるわらはにひかせて、ゆくゆくうちたをるべくあゆみ来る、このあたりにては、米をよばねど、声をしあけば、聞しりたらんものぞ、垢じみたるものに、つらおしつゝみたるうばらの、手にかぶら菜二かぶはかりくゝりさげて、もの得たりかほにゆくもあり、ゐざり法師の、かしら髪おどろにあひのびて、つゞれの肩のひまより、こほれる肌のあらはれたるが、なに事やらむひとりごとしつゝ、ゐさり行くは、今日の寒さをかこつなるべし、はやくやどれるは、一銭がしほ二銭がもち、これかれもとめありく、此あきなふ家も、こゝにとし月住ふりたるは、さるものらも、いふせういやしめず、それめすか、これそよかめるなど、こゝろよげなり、此きたる中に紺ぞめのしりたかくからげ、はりの木染のきやはんしめはきつゝ、しんちう鐔の長剣さしこはらしたるが、やどりいそぐに、さうし紙のおほ鳥毛、さびしげにふりかたげたるに、つれだちて、辻だちの歌舞妓芸者の、紅粉おしろいまだらにけはひたる若ものと、むつまじげに、打ものがたりしつゝゆくは、あるが中にもいさぎよげなれど、さすがにおとふるふ鼻のさき、太脛など、鮪いうにこゞえてさむげ也、またあやしのをとこの、目ばかり見えて、手には、鳥かごのおしつぶれたるに朽たる簀のこ板、もちそへて、こよひのたき火のれう得たりとや、うれしげにはしりゆく、辻ぎみ五六人ひきゝあしだの音、こぽ/\とひゞかせ、髪はぬれ/\とあけて、白きもの衿にうつらふまで、きは/\、しくぬりたて、色あひたしかならぬものひきかさね着て、から/\と、物たからかにいひつゝ、北さまにあゆみゆく、さらに/\なさけしくこそあらね、彼もまた、かなしういひかはしたる男もあるべし、また、親をとこのために、我身はあるものともせず、よひ/\出たつもありとや、あはれのみさをや、わりなのまことや、とうちながめらるゝ、やう/\道頓堀に来れば、たちまち異国にいたりしかとおほゆ、夜芝居のまうけあすの夜よりと、やくらまく翩々とひるかへれる、此ふく風は、さき/\のにはあらぬにや、とおもふも、うつりやすの人ごゝろや、
 
01-352 【年表 1-159】
       ○ 長町裏舅殺事実
 延享元年の冬泉州堺の魚うり博奕の出入にて長町の悪混を長町うらにて殺害す折節其年は雪深く殊に其頃は当世のごとく人家もなき野原なれば死骸を雪に埋み置しゆへ此事誰あつて知るものもなかりしが翌年の春雪解て右の死骸出たれ共日数経し事なれば誰か所為共相知れざりしか天網遁れがたくいさゝかの事より露顕に及び召捕れて死罪に行はれし此事実を竹本座の浄瑠璃作者並木千柳筆作して旧冬の雪中の事を転じて時候を夏とし其年の秋芝居に夏祭浪花鑑と題し堺の魚うり団七九郎兵衞に聟舅の義理をからみて長町うらの段は高津祭の宵宮にて俄御輿に紛れ込みて札の辻八丁目へ帰る趣向はこれ作者の発明といふべし
  延享二年七月竹本座にて夏祭浪花鑑の新浄留理大当り別して今度人形ニ帷子衣裳を着せ初めて目新らしく其年の冬までも大入せり中にも吉田文三郎団七九郎兵衞の人形第一の大当り原来人形の頭の好みよく今に団七の頭を用ひて惣名丸目といふまた団七の人形の着たる帷子衣装柿色の大格子めきたるを其時より団七しまと呼び藍色の方を一寸の人形着たるゆへ徳兵衞島といひならはせて二色とも大きに流行ス
  同年冬中之芝居嵐三右衞門座の顔見世後右狂言をかふきにて初めて出スまた同時ニ角の芝居市山介五郎座にても同狂言を出シ双方共大当りまた翌年卯ノ十月にも同座にて大当り
 
01-359
       〇二階庭ノ旧地
歌舞妓狂言作者の名人並木正三は世俗よく知れる秀才にて芝居狂言の外にもさま/\の趣向あり宝暦十年の頃居宅は吉左衞町にて親正兵衞に孝心深く 此夏剃髪して法名正朔と云 隠居の座敷をしつらひ又は二階へ庭をつき植込飛石などををき井戸をすへて下の板木の窓とし釣瓶をおろせば酒さかな烟草盆まで汲上るやうに仕かけ料理茶屋を企て活気なる親の心をいさめしもおかし
    古老云 此二階庭の座敷にて夏の頃夜明しの客ありてまだ東雲のほのぐらきに皆々寝むたき目をこらへ居る折からかの庭の井戸よリ螢あまた飛出てみな/\の目を覚させたる趣向など当意即妙といひつべし 【並木正三が家参照】
 
01-360
       ○逆倒座敷
浪花今八卦 島の内并坂町の条に
女郎芸子のいきこみ客の粋がりやう亭主花車仲居のもやう天地黒白とかわるが世のありさまかわり行こそ興あれしくじつたけれど名八が逆さま座敷古人正三がからくり庭も皆新しきを求るゆへ也
 
01-361
       ○矢倉屋鋪
道頓堀太左衞門橋南詰西角浜づらの家を矢倉屋敷とは往古よりいひ伝へて今にかく呼べり古老云太左衞門橋西の浜地は北浜淀屋某買取て千日墓所の地面とせしゆへ今に聖六坊の持地也往古は千日へ来る葬送大方は船にて此浜へ着たり夫ゆへ此所の岸木に来迎仏の石の地蔵尊ありて矢倉地藏といふ
浪花石地藏巡五十ケ所中の部に
  三十一番 やぐら地藏 太左衞門橋浜川ばた
宝暦十辰七月森下某施印にあり然れ共度々の焼火にかゝりて今は地藏もなし
並木正三狂言攫ニ云
二の替りは三十石艠始古今の大々当り文七故大五郎始ての出合はな/\しく大切に砂ふたい共一面の廻り道具を工夫し芝居は極月上旬より 宝暦八年寅の冬也 下屋を堀ての大仕かけ法善寺床の前なるたら/\おり又浜千日角のたら/\おりまで皆此土にて平地となし破風口の大臣柱を取置に差図して序の御殿の引道具切の淀の大廻りは誰しも舌をまきたる手段云々
 
01-363
       ○ 道頓堀秋田屋ノ水
 難波丸ニ云 秋田屋之水
 道頓堀川の茶屋に有井水也千日寺傍にして水性を同じくす家蔵の浪華茶里八景の図中にあり
 戯文 夏衣裳雁染 浜茶屋のだん
   思ひを明す娘気の真身の涙秋田屋の井戸の水かさ増るらん
 安永の頃までは雨後道頓堀の川水濁れば近隣のもの此水を汲たりしが元来酒を醸するによく合ゆへ今は造酒家より価を出して此水を買切置ば猥りに汲ことを免さず
 
摂陽奇観 巻之七
南水雑志 巻之三
01-375
       ○ 七軒茶屋
 享保改正の大坂の図ニ千日竹林寺前東側に七軒茶屋といふあり院本寛延二年巳三月豊竹座八重霞浪花浜荻道行妹脊鳥ニ
   〽色のかほりや無常のけふり煩悩すなはち菩提ぞと生死の坂町打過て六ツのちまたに急ぐなる七軒茶屋にぞ休らひぬ
 
芦分船 大坂鑑 延宝三年出板
01-378
       ○ 道頓堀
おさヘ/\よろこひあれや天下泰平にして国富民栄へ里の長も万歳をうたふ歌舞妓若衆の小歌の声には道頓堀江の魚もをとり引三味線のかはの流れさつ/\たる琴の音には芝居の軒端けた梁の塵もうごき出れはしひりを切らす見物の貴賎目はつかしき四条五条は物の数かは唐土までも聞えわたりし日本橋のはしのうへ老若男女袖をつらねくびすをついて朝にはとうから/\の太鼓の音を聞たか/\の狂言尽が初りと申といふやいなやに昔見し人爰にきたりてぺたりと逢たり扨も其後久しう見なんたして上留りには何をかたるそ是に説経そこには舞あり孔雀鸚鵡に種々の唐鳥銭はもどりじや元通くによし虎のいけとり竹田がからくり時計の車の砂道石道めぐりありきてあなたへざらりこなたへざらりと遊び戯れしばしかほと千日寺に立より足を休めてそこらの人の爰かしこに集りをのがさま/\物かたりするを聞侍りしに昔々寛永のはじめつかた此里よりも辰巳に当つて久宝寺の安井の何某平野道頓といひし坊主のおつとり鍬にて土をうごかしそめしゆへをのづから所の名として道頓堀とそいふ也下略
また難波艶江なには色江とも呼ふ棠大門屋敷ニ
    津国難波艶江といへるは浪花津の江南東は高津の森にそびへうしろは今宮広田の杜なんばの森に続きて無縁寺の松しげみて青々たる中に八ツの櫓をあげたり歌舞妓はくれなひあやつりは紺地の幕入違し嵐にそひきへんぼんと前なる川にうつれはひとへに錦を流すがことし其詠メ異なるとて無縁寺のもりを気色の杜となん名つくあてやかなる美童を集て男色女色の俤を作りて今様を歌舞す去によつて此堀を難波色江と呼ぶ
 
01-386 【年表 1-306 1-327】
       ○ 大坂三郷芝居櫓開発
   道頓堀定櫓株合   九ツ
    但シ内壹ツ上り櫓也
   安治川助成櫓    二ツ
   堀江橘通      三ツ
   曽根崎新地     二ツ
   都合拾五株
  道頓堀定芝居株
 一 立慶町  伊藤出羽掾
 右開発安井道頓より取次元和年中より開基にて道頓堀芝居の始也元録年中より柳沢出羽守様受領差かまひニ付信濃掾と改ル手妻受領山本河内掾同飛弾掾伊藤之掾在之当時櫓名代は石井宇兵衞
 一 立慶町 大坂太左衞門櫓名代 角の芝居也
     但シ座本 荒木与次兵衞
 道頓堀歌舞妓の始り慶安年中東福門院様御取立御赦免也
 一 吉左衞門町 竹本筑後掾芝居
 右開発は貞享三乙丑年二月より竹本義太夫興行ニて元録十四年筑後掾藤原博教矢倉名代は天王寺屋五郎兵衞尤最初之開基は井上大和掾藤原安泰古播磨掾事也座本竹田出雲掾宝永弐年より太夫本当時家主竹田新四郎鵜殿出雲守様受領差構ひ候ゆへ宝暦十二壬午年六月ニ和泉掾と改ム
 一 吉左衞門町 松本名左衞門矢倉大西芝居と云
 右芝居主久宝寺屋新左衞門中古は高津屋理右衞門宝暦九己卯年五月四日の出火より中絶当時櫓は竹田近江預り
 一 九郎右衞門町 台頭亦太夫矢倉
 右矢倉は先年上り矢倉と成ル
 一 吉左衞門町 塩屋九郎右衞門矢倉中の芝居也
 右矢倉は泉州筑野六右衞門持ニて出火已後は竹田近江差配也
 一 立慶町 浜側 竹田近江掾芝居
 右芝居矢倉は大和屋甚兵衞地主は佃野也此芝居浜側ニ有之候得共宝暦中竹田居宅へ引明和五子三月竹田近江芝居中歌舞妓二相成ル
 一 同町 浜側 亀谷肥後大掾芝居
 右芝居櫓名代は虎屋源太夫芝居主は扇屋立慶開基は二井彦太夫其後中絶延享年中に小倉数馬稲田黙読子興行当時亀屋平介豊後掾と仮り受領ニて興行 直持
 一 同町 豊竹越前少掾芝居
 右芝居櫓は塩屋九左衞門名代ニて永々歌舞妓興行座本嵐三右衞門相続元録十五壬申年より豊竹若太夫を上野少掾と改メ相続 直持
 一 助成櫓御免株
 安治川上壹町目矢倉株は河村瑞見新堀開基之節茶屋株五ツ共に御赦免□□町致拝領興行仕候其後四拾年余致中絶宝暦二申年生玉境内蓮池ニて晴天六十日之聞名代山本弥三郎ニて小倉数馬興行之時 御城代酒井讃岐守様御町奉行中山遠江守様小浜周防守様御赦免地方御役人金井塚与市右衞門様 其後中絶当時座摩社内にて興行名代は和泉屋五兵衞宝暦十辰年十月ニ御赦免御城代松平周防守様御町奉行岡部対馬守様興津能登守様地方御役人田坂直右衞門様開発人家名不知
  右之書この未闕たり
 
01-388
       ○ 享保年間大坂之図
図 享保年間大坂之図 享保年間大坂之図
 千日の墓所に三かつはか聖六坊をひしとト記ス
 自安寺いまだ見えず 竹林寺の前に水茶屋七間あり世俗七軒茶やと呼ぶ
 道頓堀櫓数当時は六ツを定芝居とす然れ共此図を見れは浄瑠璃四芝居歌舞妓四芝居浜に竹田からくり芝居ありて以上九ツありまた元禄年中には櫓数七ツありしと見えて戯文重井筒道行血汐の朧染に 近松氏作
    〽なごり尽せぬ浜がはのこゝは竹田か夜は何時ぞ五ツ六ツ四ツ千日寺の鐘も八ツか七ツの芝居ふたりがうはさ世話狂言のしぐみのたねと成ならば我をこん屋の片岡に 下略
 延享年間改正難波丸網目ニ
 道頓堀芝居之分
   歌舞妓芝居名代
 塩屋九郎右衞門 此名代主 道頓堀九郎右衞門町 杉村屋藤八
 塩屋九左衞門  此名代主 高津新地川原    和泉屋治郎右衞門
 松本名左衞門  此名代主 吉左衞門町     久宝寺屋新左衞門
 大和屋甚兵衞  此名代主 炭屋町       伏見屋武兵衞
 大坂太左衞門  此名代主 長町三丁目     福永宇左衞門
         〆五株
 小芝居株 壹       立慶町       竹田近江
   浄留理太夫名代
 竹本義太夫  此名代主  長町二丁目   天王寺屋五郎兵衞
 伊藤出羽   此名代主  元相生町    石河屋嘉兵衞借家直持
 豊竹越前   此名代主  立慶町     直持
 虎屋源太夫  此名代主  同町      銭屋市左衞門
 大坂次郎兵衞 此名代主  吉左衞門町   久宝寺屋新左衞門
 宇兵衞    此名代主  高津五右衞門町 紀伊国屋安右衞門
        〆六株
   説経名代
 与七郎    此名代主  周防町     人形屋三郎兵衞
 七太夫    此名代主無之
        〆二株
   舞太夫名代
 又太夫    此名代主無之
 兵太夫    此名代主  周防町     三原屋市左衞門
 市太夫    此名代主無之
 金太夫    此名代主無之
        〆四株
    芝居名代合拾八軒
   芝居主
 立慶町    紙屋市左衞門   淡路町一丁目 小西角兵衞
 長町三丁目  福永宇左衞門   九郎右衞門町 杉村屋藤八
 吉左衞門丁  久宝寺屋新左衞門 立慶町    竹田近江
 吉左衞門丁  竹田くら     立慶町    豊竹越前
      当時名代之事
   角の芝居 大坂 太左衞門  竹田  大和屋小三郎
   中の芝居 塩屋九郎右衞門  角丸  大和屋甚兵衞
   大西芝居 松本名左衞門   若太夫 塩屋九左衞門
     宮地芝居からくり細工人
   稲荷 竹田外記 座摩  竹田伊織
   御霊 竹田左内 天満社 亀谷登左
  北堀江市の側 同荒木芝居 曽根崎新地
 
01-399
       ○ 法善寺
当寺は寛永中和州より移ス本尊あみだ如来弘法作 子安地藏は小野篁の作 縁記あり金毘羅大権現は近世の勧請なれ共諸人信心して詣人平日に絶ず
往古は当寺を無縁寺と呼び此辺木立茂りたる森ありしにや棠大門屋敷ニ
   今宮広田の杜なんばの森に続きて無縁寺の松しげみて青々たる中に八ツの櫓をあげたり中略 其詠め異なるとて無縁寺のもりを気色の杜となん名付く
 
01-401
       ○ 法善寺墓参
 難波鑑云 七月朔日
 千日寺のたゝきかね諸行無常の響きあり歌舞妓若衆の花のかほばせもつゐに必衰をあらはせりさればあしたには紅顔ありて世路におこる人も夕べには此墓所に来りて白骨となりて朽るまことにけふは人のうへあすの我身を知らず思へば/\はかなきあたしのゝ露よりもろき世の中に誰ありて残るへき鳥部山の煙たちさらてのみ住はつるならひならばいかに物のあはれもなからんといへるまことなんと思ひやられて心細く侍る抑此法善寺と申せしは寛永年中の頃ほひより千日の念仏をとりたてしより人こぞりて千日寺といへり夫より続て今は不断念仏の道場となれりいつの頃よりか此寺の墓参りとて七月一日より其月の暮るゝまで毎夕大坂の男女老若貴賎に寄らず此寺に詣で来たるありさまいふも中々くた/\し予も一夕残暑の堪がたかりし折から納涼の陰を求んと爰に来りて堂の椽に端居して人々の心をうかゞひ見るに予がごときの人おほくて実に参人稀にして若き人々は色にそみ或は酒宴などを催しされめき遊ふ人がちにして或は勢ひ猛にのゝしりはては喧嘩して法場を穢す人ありかゝることを見るにつけてもいよ/\我身を顧み受かたき人界に生を得て有がたき御法を受るよろこびを忘れ後の世のくるしみをまふけむ事思へば/\あさましく侍るかゝる事をしても物詣といふべきや恐るべし慎むべし
 奇縁氷人石 文政四年ニ建 摂陽年鑑に委シ
 三勝半七追善石塔 摂陽年鑑元禄八年条ニ著ス
 義童勘太郎碑 延宝五年殉死ス明和六年当寺に石碑立 文政二年新調 事実は摂陽年鑑延宝五年条ニ著ス
 南無三宝正三墓 摂陽年鑑安永二年条ニ著ス
 大村屋いと墓 安永三年六月相対死翌年石碑立 摂陽年鑑ニくはし
 雷死三女墓 摂陽年鑑天明五年条ニくはし
 吉田文三郎墓
 男徳齋墓
01-402
図 法善寺 法善寺 難波鑑法善寺墓参挿図 難波鑑法善寺墓参
 
01-408
       ○ 才太郎畑
千日火屋の東の畑をいふにや松の落葉三かつ心中の文中に 蔦山四郎兵衞作
   〽いざや最期を急がふといふて火屋の東のさいたら畑露か時雨か身をしる雨か笠屋三勝ふくさを出してつまとく/\をしつかとくゝる男なみだをはらりと流し
元緑八年十二月三勝半七此辺にて心中せしよし今は東手の墓地と成たり
愚俗の云才たら畑は極楽のまだ先をいふ風俗文選聖霊ノ祭文ニ 聖霊達/\今年は殊に穗づるもよし地獄極楽の亡者達才太郎畑のいき過までさそひ合せて御出あるべし六日飛脚の頓死をきゝたて一紙の祭文は御免を蒙らんと仍テ謹ミ如斯
   聖霊よ蓮にあまらは芋はたけ
世俗死んで花実が咲くならば千日寺は花盛りといふは此辺のことなるべし
 
01-418
       ○ 吉田屋ノ庭
富貴自在
  難波新地の吉田屋は庭に春秋をたくみ在の溜池堤も気はかはりてよけれ
此趣向は歌舞妓狂言作者奈河亀介の指図にて遊人群をなして安永の頃は繁昌せしかど天明の初衰ふたり其後天明五年の春此処にて唐の開帳といふものを興行す委しくは摂陽年鑑に著ス
     異国産物啓発趣意
 抑唐の開帳と名づけ御覧に入奉るは当吉善亭の主吉田屋卯兵衞奈河亀介の両人厚キ懇意なるが近来払底不仕合の由来を尋るに先年中の芝居興行の続き此所に店を開き春の花盛り夏は螢の光りつよく秋も燈籠赫々として日毎夜ごとに繁昌成りしか冬枯の時なるかな重き病に臥長々心神悩乱して渡世難出来奈河共ニ内談の狂言底を擲いて相談の折しも去々年の火災に奈河が家屋敷焼失によつて互に印形押かはせし中々に段々の難渋かさなり両人此所に逼塞の同行と成て今更損ふいはん方なくゑんぶてんぶに祈誓をかけしに御贔屓の老翁借金横寝の枕神に立せ給ひ庭木の桜の厚皮を削り利銀口銭を空しくする事なかれ時に繁昌なきにしもあらずと墨ぐろに書付給ふと見て夢覚ぬ不思儀なるかな其日に当ツて諸方の名高き雅先生より当時難渋をあはれみ給ひ異国外国の産物数品あつけてのたまはく汝等やせ顔はる事なかれ身上からの開長を顕はし御見物の他力を受なば家業繁昌御ひいきの種ならんと憐愍の御告ニ依て諸方の御所持御秘藏の品々或は借り受或は貰ひ預りものは半分の主と御大切の物ながらしばらく我か物にして富貴ひつてんに任せ扨こそ唐の開長と名付て披露の趣あら/\如斯御座候恐々
    追段
 奈河の住所永長堂建立吉田聚螢庵大破ニ及ひ新宅座敷も金の敵に質どうたらん身上破損修覆の為の開長でムり升ス両方御執立と思召此上ながら四方の雅君御所持御秘藏の雅物珍物暫らく御かし被下升ふならバ追々番付に書記シ御ひいき御恵ミにて唐物段々ふえまするやうひとへに奉希候
                      吉田聚螢庵
                      奈河永長堂
雅物一百余種あり目録年鑑に載たれはこゝに略す其後秋は松茸狩などを催せしかどいつしか退転に及ひ寛政の初め野はづれに四季の茶屋を建夫よりさつき茶屋といふも出来れは近くは日暮し茶屋なんども皆々吉田屋の遺風也此地近來大繁昌にて山吹飯まりこのとろx汁もよく仕にせたり遙に雑品なれ共叶橋の雪花汁なども粋客が宿酒には一目に野面を見渡してむかひ酒の一興とす
 
01-424 【年表 1-211】
       ○ 楊柳堤
 入堀川は新川と名高けれど此堤を楊柳堤といふ事知れる人希也楊柳堤とは難波村の東の口に柳の清水といふ名水あるゆへかく名付けん 院本夏楓連理枕 [寛延三年午六月豊竹座の新浄るり道行楊柳堤と題して百間堀より難波の鉄眼門前までの文段に]
  〽炭屋町浜を南へ見渡せば破軍の星か剣先船もかゝる二人が難波ばし堤伝ひに行のべに四ひらの花や夏菊に露か螢かちら/\/\我なきたまの数そへて無常のけふり立迷ひ心細けな犬の声身にも清水か柳さへ爰で死とや松の露木影にしばしたどり行
 
01-425
       ○ 松の堤
 幸町三丁目より南へ住吉海道の堤を松の堤といふ
    東を柳の堤といふは柳の清水ある辺なるゆへかしかし此名は知る人なし西を松の堤といふは海辺の松数株続く住吉の海道ゆへにや
 此堤に稲荷明神の祠あり玉重大明神竹島大明神長五郎大明神といふ中にも赤手拭の長五郎名高し 請願成就して御礼の詣人紅木綿の手水手拭を奉納するゆへ赤手拭の名高し
 角額嫉蛇柳 豊竹和哥三座 明和八年五月御影参り同年
 第三難波堤のたんニ
    〽難波津に隣つて文字も同じ成る難波村松の堤に小女郎稲荷といひふらし歩みを運ぶ願かける 中略 此女郎稲荷様はずつと前方此堤にござつた赤手拭の長五郎稲荷様の孫御じやげなそれで今度官上りなされ其悦ひに諸人の願成就するとて此参詣
 
01-450
       ○ 並木千柳閑居
歌舞妓狂言作者並木翁輔は江戸大坂に俳徊して俳諧大安売といふ聯を出して点者をせし風流人也後年師匠正三の先祖なれは千柳と改名して今宮に閑居す
 
01-450
       ○ 並木亭酒店
寛政の頃合宮村住吉街道筋に並木といふ酒店あり歌舞妓狂言作者並木五瓶の出店にてごまめの金平やうの肴を手 汐皿に盛て出し小売の酒を商ふたり当世流行する五文屋といへるものゝ権輿ならん歟しかし並木の酒店は少時にて止みたり其跡堀江の蓬亭より茶店を出せしかど是また少時にて止ぬ今は広田の森の萩の茶屋繁昌して殊に花盛りの頃は所からとて秋の夜の虫の音に閑情深し
 
摂陽奇観 巻之八
01-453
       ○ 江南気色ノ森
 津国難波艶江といへるは。浪花の津の江南。東は高津の森にそびへ。うしろは今宮誉田の杜。[誉田の杜 広田の誤字か] なんばの森に続て。無縁寺の松しげみて。青々たる中に。八つの櫓をあげたり。哥舞妓は紅あやつりは。紺地の幕 [此頃は八芝居ありやぐら幕の弁別巻にしるす] 入違し嵐にそひきへんぽんと前なる川にうつれば。ひとへに錦を流すがことし。其なかめ異なるとて。無縁寺のもりを気色の杜となん名付。あてやか成美童を集て。男色女色の俤を作りて。今様を哥舞す去によつて。此堀を難波色江と呼。嵐がやつせば半四郎 [此頃の岩井半四郎は大坂の座本立役也] が実をこなす。荒木が所作をつくせば。村山が頂[項]羽勢をなす。音羽が時代事をしてなかすれば。片岡が世話事をして見物の心をとる。藤十郎が傾城買はそなはつての男。朝夕の飯米をえらすも。もし飯に石やありなんとの用心。尤身うこきもせずに六百両の給銀。歯一枚が何程にあたらふもしれず。山下が奥家老。茶瓶の様なあたまなれど。せいたいにこふんをませて。毎日彩色鬢かづらかけて。出れば四十にたらぬ男素襖事させて一疋古今の上手すきつる物語に見物をなかす事妙なり。小佐川はさなからの武士彦右衞門もさらなり。又四郎が手代事。悉書つゝれは役者評判に似てうたて。いつれ此地の舞台をふんて。一枚看板にのるに壹人もあたなるはなし。あやめはさかり少過たれと。愛らしい芸の仕様。さりとては上手也。辰之助は無礼過ると云てしかる人あれど。舞台の手に入た故なり吉三郎は末たのもし千弥が功者さ。野塩はさながらのいたづら女よき人のおしへたゆへか。一さし舞ふ所によいところ有。瀧三は人のほれる芸の仕様。千代之助は京の山本掃部によく似たり。芸に心を付たらばきついものになるべし。浄瑠璃は筑後。播磨大夫死後上るりもあるまいとおもへば。またきついものが出たり。殊更ふし付が上手なり。.虎が石の上るりに。戻子(もし)手摺といふ事を仕出し。人形つかひやうを見せ素語(すかたり)といふ事をはしめたり。あやつり芝居に舞台を付る事此ときをはしめとす。からくり細工はおやま五郎兵衞其子山本弥三五郎。是を伝て無双の名人となる。一筋の糸をもつて大山をうこかせ。小刀一本を以て形ある物を作りて。是をはたらかしむ。別而水学の術を得。水中に入て水中より出るに。衣服をぬらさず。纔なるはさみ箱にふねを仕込。川水に浮て用を達す。此儀ゑいふんに達し禁庭におゐて。細工の術をゑいらんに備。則細工人に仰付られ。山本飛騨掾源清賢と。受領し。翌年雨龍の細工をさしあげ。河内掾に重官任せらるせんまいとけいからくりは竹田近江掾鳥を作て空中をとはす。はさみ箱より乗物を出し人をのせて人形にかゝす事をなす。よろづ今比にくらべて。昔をおもへはあま茶な事なり。多門庄左衞門作弥九兵衞か六法はすあたまにかま髯。白き衣装に七羽烏。黒き衣装にされかうへなんとを付て。大島の下袴にはつぱの大小をくはんぬきさしにさし。うめく様な哥を謡ひ長々としたるつらねをやつたるを。今の六法にくらへておもへば。あたこびやくらいハツハいやなこんては有ぞな寛文年中の [寛文年中より宝永の頃まては四十余年を経たり] 姿は。最早各別にかはれり。荒木与次兵衞か有馬の口論。藤田小平次か。神崎茂右衞門物語。此時分は大小も大刀作りに。衣装ものしめ花色。縮緬。羽織も。羅紗小倉島に天鵞絨の半襟かける様になり。かつらも立髪撫付かづらになりぬ。袴も金入に衣装も切付といふ事を仕出し。六法も羽織にいろ有袴を着しもゝ立はき高く取なし袴の腰は羽織の馬乗を括り袴の腰紋は金のやき付大小も生の金拵本身のいらぬ計。六法の内皆所作事に仕立。出端も次第が神楽つしま三味線も手替りを引かけ。鳴物に乗て出れば見物の心もうきたち。切の六法斗て札銭はおしからしと。三番続の不出来なるも是て見直し大分の入を引事親嵐か。永々江戸の舞台を勤。丹前といふ事をよくのみこんだるゆへなり。去によつて六法は嵐実事は藤田小平次と。此二役はいづれのやくしやが勤るも。是をぢはんにすといへり。誉なる哉小平次。一生顔を紅粉にぬらす。裸にならず。不断撫付かづらに上下か羽織をはづさす。年中姿をかへす実事をして見物にいやといはれず。おもへは/\上手也。俤は音羽次郎三郎に残りて。むかししのばし。小平次いまた諸芸時にあはずつめかしらなんとを勤る時節。藤田靱負(ゆきゑ)といへる抱子有。俗性賎からす。親は中国方に武門を勤。出頭甚御機嫌に。預りし身なれども。高き木は風にやふられ。忠ある武士は必朋友のねたみ有ならひ。同役のさゝへによつて。住馴し国を立退。いにしへ召つかひぬる下部をしるへに大坂に影をかくし。年月をおくる。されどもいとなみて世渡るべき道をしらす。武具馬具を代なし時を待間の月影を。不幸の窓に見残しふうふともに前後に浮世を捨て。浄き国にいそきぬ。下部の男かひ/\敷。其跡を取かくし。稚けれとも主人の子なれは捨へきにもあらず我方に引とり十一歳まては育ぬれと。家貧しけれは人となすへき便もなく小平次に預けぬ。一子なけれは小平次が妻室不便かりて実子のことくそたて。色江の水に洗粉をそゝきて是をみかくに。金玉をのつから光出て。みつからきよしといへるかことく京にも江戸にも又たくひなき俤。十六の正月二日より初而の舞台勤。女はにきひの種をまきて。恋草に露をうるをす。男は念力の刃に指切腕引もゝをついておもひの血しほをなかす与茂九此美君に泥で若契(しやくけい)のちなみふかし。夜毎の通路に金をつむ事あたら塵砂のことし。高麗橋にも伊丹屋太平次とて。女色をにくみて男色の道にふかく。靱負に馴染て全盛の色諍与茂九は太平次が上にたゝん事をおもふ。太平次は与茂九が下にたゝしと。内心に遺恨をふくむ。つゝまる所は小平次一家の繁昌となす。頃は極月中の五日すさましき物とかや。師走の月夜ことには八つ過よりの雪暮に。晴わたりていと白/\くと庭木の梢に花をさかせ。吉野をこゝへ取寄たるおもひ色江の雪はいかにや床しとおもふ折ふし炉路の扉を音づるゝ人声いふかしと林齋とはせぬれは。雪打はらひて君が彳与茂九走出てこはおもひよらすの御出。今もいまとて其元の雪を恋て頓而(やがて)とおもふ折ふし珍しやと問よれは。されは夜毎の御通路。つもり/\て情の恩かへしにもなるへきかと。駕籠をやめて是まあ此つめたさを見てくだんせ。日比我ゆへの御通路といかふ恩にきせ給ひしか。今夜一よさて御恩をすつきりかへしますると。つめたい手を。懐へ。さしもの与茂九もきゆるほど嬉しかりて。先は火燵へゆきけしの酒かんをはつたりと。挽ための茶は拙者か手前是たけが今宵の御馳走。御かへりには自身おくりて。雪の曙はとうなりと御望次第とすゑは火燵のさしむかひ。しめやかなる物かたり詞もつきぬ物かは。其夜太平次雪見を催し友とする人四五人さそひ。駕籠を続て橘屋市右衞門方へ入ぬ。外の手あいは誰々誰々と。靱負方へ人をはしらす。御留守のよしにてつかひはかへりぬ。太平次興覚て其行方をとはすれば。北へとばかり聞にも及ばぬ。扨は与茂九が取寄ての雪見。にくさもにくしと取てかへして。高麗橋筋東横堀より西横堀迄の。夜番に一角つゝの夜食代をはづんて。今宵夜更て若衆をつれ。五六人南へ通らん必々いか程いふともとをしてくれなと。丁おくりに是を頼は。半月斗油銭をは寝ながら取事。殊に夜更て門をあけぬは。かれらがすきなり。畏て閂ゑび錠しつとゝおろし。壹歩を握て高鼾。かく共しらす与茂九郎。靱負が手を引たいこまじくら主従六人。ひよりよき時だにあゆまぬ道を。恋ゆへ雪の高あしだ。あゆみくるしと道筋をかそへ。高麗橋へ出ぬ。淀屋橋筋の門を閉たり爰ははやたゝくにも及はす。壹丁さかれは爰も通さす。とてもまはらば心齋橋よと。かしこへ行ともこゝもとをさず。たゝけとあけず何事なんめりとおもひながら段々にさかりて。西横堀へまはりぬ。此事翌日かくと聞ゆ。与茂九も立腹のあまり。明れは極月十七日より。来正月の礼駕籠。大坂中の出駕籠迄を三ケ日三歩つゝにて借切。金子を渡して手形をとれば。外へ借べき様なし。太平次此事夢にもしらず。いつものごとく。浮世小路玉子の長兵衞方へ。あたらし駕籠の三枚肩例年のごとく。明七ツにといふてやれとも。小路かご壹丁もなし。やれといふて道頓堀へ人をはしらせぬれども。三ケ日の内は壹丁もこれなきよし。是はといふて町駕籠をさがせど。右之通太平次大きに肝をつふし。医者かたをさがせどいしや方の男はいづれも三ケ日が養父入。これも叶はす。是非なく歩行にて礼を勤ぬ。此事終にかくれもあらす。両方いよ/\はりあひとなつて。金銀のしのぎをけづる。与茂九郎内々靱負が先祖までしるほとの中。つゐには千両の金を積て。さかりの藤田を根引に仕たり。後にはこの家の忠臣となつて。主人をいさめ内をおさむる事をむねとす
図 江南気色ノ森 江南気色ノ森 江南気色ノ森
 
01-474
       ○ 近松半二名言
 或人北条時頼記の戯文道行くまがへ笠に老母と兄弟の娘三人つれの道行に虚無僧に打扮しを難じていふ虚無僧は二人の外同行に相成らざる法令なるに此作者はこれを知らざるにやと笑ふ時に竹田出雲
    〽しのび音をいつしらべたる事もなき親子三人跡やさき三ツの哥口吹揃ふ
 とかくのことく親子三人跡や先と書たる文段にて三人同行には相成すと答られたるよし又近松半二敵討襤褸錦といふ戯文を書たる時道行対の花鰄の文段に
    〽備後の国はや立出て行先はあてども浪の吉井川 中略 急げはまはる車坂いそがぬ顔でふら/\とのほる兄坂弟坂親の敵を持し身は
 と綴れるを執筆のものかの国の案内をよく知りたれは兄坂弟坂といへる所ありや我はしらざるよしいへり半二いふいかにも兄坂弟坂といふ地名今までにはなしもしやこの戯文発行なさば後世に至りて其名を呼ぶ坂も出来なんとぞこれ名言也道行の文段地名を委しく探るには及ばすたゞ聞とり安く風情ある名をおもひ寄りて綴べき事作者道の秘密也
 
01-480
       ○ 通り札
 図 通り札 通り札
此通り札は宝暦明和年間中の芝居三桝大五郎座の連中へ配りたる札なるよし中古までは芝居の連中とても嚴重にかくのごとく通り札を持参して木戸口を通りたりしが今は猥に成行ぬ
延宝年間道頓堀花道といふ発句集に
     配り札や伽羅は鶯の初芝居 岑野惟舟
     顔みせや安堵の御割くはり札 宗先
元禄中の院本かりがね文七の戯文の中に安治川橋芝居顔見せの足揃の条に配り札の事見えたり 
     〽五人仲間が手を揃へ付ておりてとぼして進ぜふそのたいには配り札を沢山にくだされ云々 
 
01-486
       ○役者給金
 歌舞妓役者の給金当時ほど高給に成たる事聞も不及昔和事の開山と呼れて海内に其名高き坂田藤十郎の給金六百両に不過寛保年中道頓堀大西芝居佐渡島長五郎座へ江戸市川海老藏相談有し時給金弐千両にて手付金五百両との事也 [年鑑ニくはし] 一ケ年に弐千両の給金を取たるもの古今になし中古初代の中山文七花かたにて時めきし時さへ五百金のよし寛政七卯年の顔見世より嵐小六 [玉と呼ぶ] 一芝居の給金 [二ケ月を一芝居と云] 百八十両と定めしをけしからぬ事のやうにいひあへ其頃の色立役二代目の中山文七 [びん付屋文七ト云] 一筆の役者なれ共給金は漸八十両なりしが寛政九年巳の冬中の芝居市川団三郎座の仕うちシウチとは芝居銀主をいふ堂島の米商人にて名高かりし加島林出金致されしとき中山文七は書出し [カキ出しとは一筆をいふ] の役者にて諸見物の花とする身を八十金なんどいふ端金は渡しかたしとて百両の給金と定めて壹包の金子を勘定場手代に持たせ遣しけれは文七いふいまだ百金を申受る程に堪能の芸道に至らざれは身分に応じ候八十金より受取申まじと固く辞して廿金を差戻しけれ共加島林もまた受取らずして当年より百金の役者と定む其節一座の給金左ニ記す
  一金百両   立役   中山文七
  一金五十五両 同    同兵太郎
  一金廿二両  立役   浅尾奥次郎
  一金廿六両  同    中山文藏
  一金卅五両  実敵   三升松五郎
  一金七拾五両 立役   姉川新四郎
  一金廿八両  敵やく  嵐音八
  一金三拾両  同    中村歌右衞門
  一金五十両  実敵   浅尾工左衞門
  一金百廿五両 実悪   浅尾為十郎
  一金百四十両 立役   市川団藏
  一金九十両  若女かた 山下八百藏
  一金三十五両 同    中山一徳
  一金廿二両  若女かた 嵐若松
  一金八十五両 同    藤川友吉
  一金八十両  同    山下金作
  一金四十五両 狂言作者 辰岡万作
  一金百五十二両中女かた
         中通り  其外いろいろ
         はやし方
         小道具 
   〆千百九十五両
       ○
 歌舞妓の給金大抵これに准じて定例として芝居相続せしに享和文化の頃より芝居は次第に不繁昌に相成たれ共楽屋の身上は [身上とは役者の給金をいふ] 格別に昇進せり当時にては一ケ年ニ千両内外の給金を取る役者は多くありて立ものゝ部はいづれも千両役者也
 作者の給金往古より並木正三の安永の頃迄は高給を取たるなし
  近松氏戯文の作料壹ケ年に銀壹貫目のよし
 並木正三同時の作者福田氏寵松軒 [高砂屋平左衞門といふ島之内宗右衞門町年寄つとむ家業菓子屋] 一とせ狂言不出来なりしかば
      狂言を廿両とは高砂屋正三がこいた平左衞門かも
 此歌にて見れば一狂言の給金廿両と見えたり当時のごとく高給に相成りしは並木五瓶より初ム江戸表へ三百両にて下る
 
01-488
       ○立巡
古老云 諸芸いづれも昔に劣りたれ共当世上達せしものは軽業品玉芝居の立廻りなりとぞいかさま軽業の初め麒麟太夫の綱渡りは小高き処に綱を二筋引渡して是を渡る太夫手綱を離さずして向ふに至りしさへ見物肝をひやして驚嘆せしに当世は紙わたり元結渡りに手綱を用ひず唯壹本の傘を身体の楫として綱の中途に至りさま/\の曲あるのみか小児を負ひ木履をはきなど目ざましき事いふはかりなしまた品玉もヲテヽコテンのむかし飯籮を伏て山猫に転する類ひは三歳の小児も見向もやらず芝居の立廻りといふものも昔は荒事師の大太刀に大勢一同に倒れしものなりしか今はたても大形に相成り四人詰八人詰の大たてを専としこれに数種の名目あり宙返り手這猿返り杉だちギバ跡返りむな返り釣舟やなぎ五段返りあごつき詰よせ天地ひざ詰そつ首落し千鳥引廻シなといろ/\ある中に立師の銘々得手あり此立廻りの目ざましく成るたるは安永の頃敵役三升杢五郎配合蘭駄宙返りに妙を得て見物の目を驚し其後天明元年丑ノ十月角の芝居にて中村富十郎中村のしほ上京の暇乞狂言絵馬揃四季筆勢に藤川鐘九郎跡返りといふ事を仕初めて大ひに評よく夫より追々軽業師も及びがたき程の曲をなす事とは成ぬ [江戸にてはカケをツケ打といふ] また昔の狂言は当時のことく少シの見えにもかけを打といふ事なし龍をつかふか又は鬼神などの出には物の蔭より打しゆへかけと呼び太刀打などには打事なかりしが次第に立廻り大形に成りて今は蔭とても両三人添蔭といふ事を仕初め拍子木二三挺にて打立るのみか舞台先へ蔭台といふものをいかめしく出すやうに成りて蔭といふ本意を失へり後見すら其心得なし並木正三あやつり舞台の趣向のとき黒の着付上下にて出られしはかく有べき事也
 
 
摂陽奇観 巻之九
01-515
  口宣案
 上卿中御門大納言
  慶長十八年正月十五日
         宣旨
   藤原吉次
   宜任 河内目
           奉
    藏人頭左大弁藤原孝房

正徳年中京都に於て名代御改帳ニ
一        浄留理 河内
慶長十八年正月十五日 口宣頂戴右河内掾と申
名代甥山本弥三五郎と申者ニ譲り申度旨元禄十
五午年十一月廿六日名代主妙印と申者奉願 駿
河守様番所ニて願之通御赦免被成候其後正徳元
卯年六月三日駿河守様御番所ニて右弥三五郎弟
勘左衞門ニ譲り申度旨奉願願之通御赦免被威候
 
01-516
図 浄瑠璃諸流略系譜 浄瑠璃諸流略系譜
 
 
01-517
       ○ 石川五右衞門辞世
石川や浜のまさこはつきるともといふ此歌世俗盗賊の張本石川五右衞門の辞世なりと思ふも多し亦小文才者は釜淵双級巴の戯文の作者並木宗輔か読たる歌といふ左ニあらず此うたは近松門左衞門の作文傾城吉岡染といふ院本五たん目釜烹の段にあり [本文次ニあり] 並木宗輔此文段をとりて辞世の歌世に盗人の種は尽せしとあるを尽まじと俗に近き手爾葉に添削せしは並木氏の発明也また石川五右衞門の戯文の権輿は松本治太夫座の浄瑠璃に石川五右衞門といふあり松の落葉集浄瑠璃の部にあり [本文奥に出ス]
日本国に古今ふ双の盗賊なれ共。たくんで是をしはじめず。我人ぬすみのはじまりは。しぜんとさきからもつてきてぬすめといはぬ斗な物。其かんにんが仏の手引そこをこらへずぬすみ取ル。それこそ天まの道引なれ。楠の大木も二ばの時はわらんべにもつみとられ。をのがまゝにしげつて後は石と成。ぬすみとても其ごとく。はじめに思ひとまらねばしだい/\に増長し。とめん/\と思へ共くだる車をおふごとく。車ははやく心はあと。悪にをひつく善心なき。是人がいのならひ也。我ぬすみはもと主君の為師匠の為と思ひしが。ぬすまれた人々も主の物師匠の物むくひつもつて油ぜめ。我身斗か主師匠の子を同罪にいりつくる。是程ちかきはぢりしやう有としらざる石川が。ぐちと云やまひよりはぢをさらす浅ましやと。鬼の様成眼より涙を。ながすぞあはれ成。エヽよしなき長口上そろ/\油へ火もまはる。てんとうのたはことゝ笑はれんもはつかしく。去ながら世上の人不用心からぬすみにあふ。ぬす人はにくき人用心せぬはたはけ人。人にちがひはなけれ共皆一心のなす所。五右衞門がじせいの一首のうたをきけやとて。石川やはまのまさごはつくる共世にぬす人のたねはつきせじ。火坑変成池なむあみだ仏。皆々念仏頼みますと首引ふし其跡へをさなき者はかほ出しあつい/\と泣わめく。母はいきたる心もなくなふ久吉かいとしやなふ。十悪五逆のとが人さへじひの上にはたすかる物。西も東もしらぬ子が何のとがしてあのせめぞや。諸万人のかた/\命をもらふて下されと。こゑをあげて
01-518
       ○ 石川五右衞門
浮世の世話に申なる貧の盗みに恋のうた今石川が身の上にて思ひしられてはづかしや是非に及はず五右衞門も女房には深く隠し内よりは駕のかせぎに打みせて弥之介かたらひたゞ二人ほう髭作りさまをかえ大小をぼつかふて長刀提て明暮と安部のゝ堤で追剥して往来の者共を切取剥取あばるゝゆへ夫より下道につけかはり堺住吉天下茶屋大坂までの道の用心よろしく成次第に安部野は淋しくなる 下略
釜烹りといふは往昔より関白大臣将軍すら憚り有と言伝ふ然るに文緑四年の頃石川五右衞門といふ者は奥州石川のものにて度々の罪人にて後には京都に登り猶又諸人を苦しめける秀吉公諸司代に下知をして彼石川五右衞門を生捕る五右衞門が母并に同類廿四人まで三条川原にて烹殺し給ふ是だに世に秀吉公の憚りを知らぬ事を嘲けるまた奥州会津領蒲生家の時すこしの科あれば毎度釜烹りに行れけるよし中興武家盛衰記に見へたりまた鶴毛衣蒲生家の条に 台徳公御代に石川五右衞門といふ賊の張本を釜薫りに被仰付たりしとあり左あれは元和寛永の頃石川五右衞門といふ盗賊ありしを奥州蒲生家にて刑罰せしを文禄の頃豊臣家の事実のやらに附会せしにや [石川次郎左衞門か 頼政の世界せいらく 河州石川の事 後世附会の事 忍術など金門五三相より世界大きし]
同書ニ齋藤山城守政利土岐の領国を押領し入道道三と号ス斯て国政を取行ふに奢侈を究め小過の輩をも牛裂にし或は釜煎にして其霊の火を罪人の妻子兄弟ニ焼せ又柱を科人にいだかせ焙殺せしとかや
 
01-519
 遊君三世相ニ [近松門左衞門作貞享三年五月]
 けいせいに誠なしと世の人の申せ共それは皆ひがことわけしらずの詞ぞや誠もうそももと一つたとへば命なげうちいかに誠を尽しても男の方より便なく遠ざかる其時は心やたけに思ひてもかうした身なれば儘ならずをのづから思はぬ花の根引にあひかけし誓ひも啌となる又初めより偽りの勤め斗りに逢人も絶ず重ぬる色衣つゐのよるべとなる時は初めの啌もみな誠とかく只恋路には偽りもなく誠もなし縁の有のが誠ぞやあふ事かなはぬ男をば思ひ/\て思ひが積り思ひざめにもさむるものつらやじよさいとうらむらん
 
01-520
図 【『曾根崎心中』(六行本)竹本筑後掾序】 曽根崎心中序1 曽根崎心中序1 曽根崎心中序1
【物の数ならぬ僕が浄瑠璃人の
もて興せさせ給ふ事の折にあへる
身の幸も一向世のめぐミと明暮に
をろそかならずそれがあまり花柳
の都に山本九兵衞梅芦の難波に
山本九右衞門此正本屋ハはやくより
等閑なくなれむつびしまゝ予が
浄瑠璃本はいつとても草書の内
より直にかれにゆるしてうつさしめ
ふし博士章句切までこまやかに
校合して梓に彫付れば露た
がふ事侍らずかくある中にも章
の長短上下甲乙厚薄にいさゝか
たがひめある本のまじハりながるゝハ
又異木にうつしうつすつぎ木の桜が
版にて伝写のあやまりなるべし
ひたすら山本が版にハあらずかし此
ことハりを此はしに我に書てよ序にせんと
いへる其のぞミに応じ侍るのミ
 元禄二八のほし初秋すゑの八日
            竹本筑後掾】
 
01-523
図 【『曾根崎心中』(六行本)近松門左衞門序】 曽根崎心中序2 曽根崎心中序2
【黒胡麻のこぼれたるは上り下り
の章にまがひ毛抜にもれ
てちりし髭はゆりふしとも見え
つべしまして転伝の模写落
墨かすり墨にしたがひて魚
魯のたがひなくてやは山本が正
本は加賀掾土佐掾などよりうち
つゞき今筑後掾まて直の本を
うつしあまたゝび校合せる折から野夫
も居合て愚見せし事も侍りき
それをもこゝにかけよとの求辞する
に及ぬものしかなり
中秋上旬九日 近松序】
 
01-525 【年表 1-254 宝暦五】
かゑり花(豊竹応律祝いの言葉)
 青葉は紅葉と照り露結んで為霜(しもとなる)の折から做戯場の破損するを工匠に命て修理するの暇泉溟(いづみのさかひ)に趣て和田後三年の両曲を興行しけるに彼湊は愚父越前掾弱冠の砌りより贔屓を給ふの御方多く弓も引かたの諺射たりや/\と当能く後三年の戦に大勝利を得たり斯て難波の花とかんはしき御贔屓の方より飛札到来して内普請も成就ス早く故郷に帰りて奥州の軍記を始よと催促頻なりければ彼湊の御名残も惜けれ共いなみかたくて望日故郷へ帰れは作文の諸子各々奇を釣花をきそひ新作区(まち/\)して帰一の論なく所詮冬枯の玩物となさんよりは長く幾春の花となすへしと贔屓を給ふ御方の任 仰偶人戯具(にんぎやうどうぐ)を改賎のおた巻操返し物を御覧に入候畢惟則温故知新の謂歟
                     千簬荘応律拝稿
    かゑり花咲やこのはな後三年
 
01-525
奈河の流れ【伊賀越乗掛合羽 第一丁 早稲田浄瑠璃画像データベース イ14-00002-034 】
 御室上野の桜及ひ難波の梅のさかりにも憎からぬあらし七三郎といへる植木屋ありてさま/\の草花の種をおろし花檀をしつらい伊賀越乗懸合羽の雨覆ひ日にまた霜にいとひなく雪深き梢の冬より福寿の春をむかへ一刻千金の大儲け羨ましさのまゝ乞受ん由男舎柳の二子に語りしかは培ひ虫を振ひかゝる名花を造り成せる奈河の流れ五十五の清水灑きかけ乗懸合羽の雨覆ひまて譲与られしも道の因の実なるをや于時安永第六丁酉弥生の末の六日より咲そめて夏深見草の富貴自在徳ありて冥加あらせたまへとしかいふ
    名の菊を植かへてまた日の恵み
 
01-526
音曲商売往来序 【参考:音曲商売往来 
    [京名所のふし付もあり、宝暦十二壬午歳四月]
 それ音曲の道は輪に入て輪にいらす輪を離れてはなれさらめれふしに節なし心に節あるはいと面白しとや古人のいひおける六芸の中にすくれたるは宮商の声なりあるは月待日待にもなにとなき人の耳を悦しめ千歳の思ひを延なんされは浄瑠璃の作は文にあらす言葉にあらすおしのつかひの節は其さまによるへきものを凡商売往来は世上に持扱文字をつゝる集なるに可なるかな此人章をうちし事其身の稽古にもならむとてや自然と幼稚の玩て初学の便ともならむもの歟
                     浪花某
 
01-527
     音曲商売往来 竹本染太夫章
図 音曲商売往来
 【生涯往来凡商売持扱文字員数取遣の日記證文注文請取質入算用帳目目録仕切の覚なり先両替の金子大判小判壹歩弐朱金の位品多く所謂南鐐上銀子丁豆板灰吹等】 贋と本手を考へ。貫目分厘毛払迄。天秤をもつて分銅相違なく割符。売買せしむべくなり。雑穀粳。糯早稲晩 稲。古米新米麦大豆小豆大角豆。蕎麦粟黍稗胡麻荏菜種廻船。数艘積登せ。問屋の蔵に入置。直段相場を聞合残 らず。売払ふにおいては。運賃水揚口銭差引相究都合。利潤の。程を考へ。出入の損失あらば。是を弁ふべし。 譬者。味噌酒酢醤油。麹油蝋燭紙墨。筆等此外絹布の類。金襴繻子緞子紗綾縮緬。綸子。羽二重北絹生絹。天 鵝絨羅紗猩々緋。羅背板毛氈兜羅綿端物。麁物仕立物古手真綿。摘綿木綿麻苧紬肩衣袴羽織。同紐袷単物。帷子 夜着蒲団蚊帳。浴衣風呂敷手拭。帛紗帯頭巾踏皮并染色紺花色。檜皮色紫鬱金木賊。浅黄茶染萌黄蘇枋茜紅粉。 処々染入紋縫散。籬の菊。立浪雪折笹水車。御所車沢潟地扇菱。輪違九曜。四目結。菊桐柏藤巴蔦唐草。女 童の好模様。恰合心得へし。武士の用具。其品多しといへども荒増の分。弓矢鉄炮鑓長刀鉾鎧兜鞍鐙。泥障 切付轡。手綱腹帯。鞦鞍覆鞭指縄。扨又刀脇差の拵。目貫鮫縁柄頭。鐺鞘切羽鵐目。鍔其好随ひ。赤銅 眞鍮滅金素銅鉄。象眼居紋。雕の細工猶国所時の風俗に応へきなり。唐物和物の家財珊瑚瑠璃。硨馬瑙琥珀 瑇瑁水晶青貝卓。青磁の香炉堆朱の香合。香盆。蒔画。梨子地の硯箱。文庫文台筆架硯屏。文鎭磁石南京石。 目鏡印籠巾着。次雑具葛籠挾箱。長持櫃戸棚箪笥。屏風衝立襖障子簾。縵幕。椀折敷。湯桶切立弁当食籠。重 箱提重行器皿鉢。盃間鍋徳利錫包丁生膾箸燭台行燈。挑燈短檠薬罐罐子。茶碗。茶柄杓盥楾。掻器。碓 礭箕飯銅編笠傘。木履高直下直。時所見合。売買たるべきなり。薬種香具の事。伽羅麝香。龍脳樟脳沈香人参。 黄蓍甘草肉桂丁子。川芎白檀。黄蓮当皈巴豆。蓮肉柴胡。紫苑茴香陳皮桂枝。三稜莪述。牽午子兎糸子貝母。半 夏。天南星細辛独活硫黄続髄子。藿香大戟。枳殻白芷石斛阿膠羌活。大黄檳榔子。杏仁桃仁。阿仙薬。硫黄明礬 焔硝緑青辰砂。練薬粉薬散薬。膏薬。全以贋の薬種。用ひず量入。これなきやう正直。第一也。其外山海の魚 鳥鶴雁鴨雉子鶉。雲雀白鳥鷺鶫鳩鴫。鯛鯉鮒。王余魚鱠残魚鱧鯵。魴鮑。鱒鯖。烏賊辛螺栄螺蛸海月。海 老牡蠣蛤馬刀。蜆鮎鱜鮭塩引干鱈煎海鼠。鯨。百尋鰑塩鰤。鰹節。鰯鯷等也。諸国名物際限なきによつて。 是を略せしめおわんぬ。右品々前後混乱たりといへども。唯初学の童。平生取扱べき文字迄。思ひ出るに任 せ粗筆を馳也。抑。商売の家に生るゝ輩。幼稚の時より。先手跡算術の執行。肝要たるへき腋一撃たるへ者也。然而歌。 連哥俳諧立花蹴鞠茶湯。謡舞。鼓太鼓笛琵琶。琴。稽古の儀は家業余力有。折々心掛相嗜べし或るは。碁将棋双 六小歌。三絃線。酒宴遊興に長し。或は分限におほぜす。衣服家宅を錺。泉水築山樹木草花の楽而巳。金銭を費 事。無益の至り。惣て見世棚奇麗に。挨拶。応答。饗応。柔和たるべし。大に高利を貪人の目を掠。天の罪を 蒙らば重て。問来る人稀なるべし。天道の働きを恐輩は。終に富貴繁昌子孫栄花の瑞相也。倍々利潤疑ひなし仍 而。如件
 
01-530
浄留理物まね音曲賊 呉調綴之
図 浄留理物まね音曲賊
【〔シテ〕罷出たる物は此のあたりの藻のでござる。それがし多年音曲に好いろ/\と修行いたせ共いまだ浄るりの秘曲をしらず。爰に順四軒と申て心安ういたす人に播磨掾より伝つたる秘曲書を所持いたさるゝによりそれがし兼て所望いたせ共今に此書を見せられぬによりこよひ密にかの方へ参リ】案内なしにそろりとかつて参うと存る。先急で参う。歌しのゝ細道かきわけ行は。虫の声々おもしろや。イヤ何かといふうちはやこれじや。折節あたりに人もない先おくへ通う。扨も/\おびたゞしい書物しや此うちにかの秘書が有はよいか〔アト〕ヤイ/\おくの座敷に人音トかするたそ通うつたか。誰も通らぬ。フウそれなれは盗人トであらふ。うらへもおもてへも人を廻せ。爰は身共がふせくそ松明を出せ/\〔シテ〕南無三宝見つけられてはなるまいちやつとかくれう〔アト〕おのれ一ト打にしてくれう。ハヽヽ本だんすのかげにかくれおつた。扨々おろかな盗人かな。あのかげにかくれたらすがたか見へまいとおもふそふな。扨々おろかなやつしや。此書を望やつならは定メて音曲にふけるやつで有ふ。いろ/\となぶつてやろうと存ル。ハア、盗人かとおもふたがアリヤ、盗人ではないわいやい。〔シテ〕盗人でないといふはまづは心安い〔アト〕あれはたしかに竹本春太夫じやか。〔シテ〕フウ身共かかたちが与兵衞に見ゆるかしらぬ〔アト〕春太夫ならは何ぞ一ふしきゝたい物じやか〔シテ〕フウ夫ならは与兵衞のかたで一ふし語らずは成まい(春太夫妹背山) 頃はやよひのはじめつかた。こなたのていには雛鳥のきをなぐさめの雛まつり〔アト〕ハヽヽヽされはこそ春太夫をやりおつたイヤこれは中々おもしろいイヤ/\よふ見れは春太夫てはない〔シテ〕春太夫てはないと言おる〔アト〕アリヤ平右衞門じやか但し盗人かしらぬ盗人ならは一打にしてくれう〔シテ〕イヤ嶋太場を一口やらすはなるまい (島太夫) てい主清兵衞あくびましくら。園はあけでごんす〔アト〕されはこそ平右衞門ハヽヽヽイヤ/\平右衞門てもないアリヤ駒太夫じや〔シテ〕駒太夫じやといふこれも一ふしやらずはなるまい (駒太夫一ノ谷) いたゞく右の片袖は右キのかいなをおちかたの。軍に打死にしたまいし。後のあはれとしられたり〔アト〕ハヽヽヽされはこそ八まんすしをくり出しおつた是は中々よいなくさみじやイヤ又よう見れは筑前じやはいやい〔シテ〕身共か委か合羽に見ゆるかしらぬこれも一口やつてくれう(筑前 物くさ)芦屋釜の下ゑをかき。ろめいをつなきくらされし〔アト〕ハヽヽヽされはこそ筑前じやイヤよふ見れは筑前でもないひら嘉じや〔シテ〕これも一ふしやらすはなるまい(綱太夫 近江源氏)おまへばかりの子かいな。わたしがためにも子しやはいなハ〔アト〕ハヽヽヽ是は中々よいなぐさみじや。アリヤ綱太夫てもない喜代太夫じやか。但し盗人かしらぬ〔シテ〕コリヤ喜兵衞を一口やらすはなるまい (喜代太夫鉢ノ木) やどりもがなといふかほのそれにはあらぬこいへの軒。たるきまはらにかたふきし雪折たけの上ケすとや〔アト〕まんまと喜兵衞をやりおつた。是は中々自由なこへじや。ずいぶんむつかしいものをくり出してくれう。ア喜代太でもないアリヤ綿武じや〔シテ〕これも一ふしやらずは成まい (錦太夫役行者) につこり笑ふおさな子の。いかにくわんせかないとても〔アト〕イヤ/\錦じやないアリヤ政太夫じや〔シテ〕またさこばてやらすはなるまい (政太夫菅原) 身はあらいその。島守と。くちはつる後のよ迄かたみとおぼしめされよと〔アト〕されはこそ十兵衞をやりおつた。イヤまたよう見ればあれは大和じや〔シテ〕是も一ふしやろふ (大和三かつ) たとへていわはみやま木と都の花〔アト〕ハヽヽヽいや/\大和にはちとうけとられぬ。あれは岡太夫じや〔シテ〕是も一つやつてくれろ (岡太夫 絹川) まよふてきましたあいじやくの。きつなに引れてきたわいなと〔アト〕いや/\又兵衞てはないアリヤよこぼりの源七じや〔シテ〕コリや染太はを一トくちやらすはなるまい (染太夫大塔宮) 此あけほのはしてのやま。さそ父こひし母こひし恋し/\となくはめいどの鳥かへ〔アト〕ハヽヽヽヽ尤らしうやりおつたイヤヨウ見れはやつぱり鐘太夫じや〔シテ〕是も一ふしやらう (鐘太夫雁金) 身の言わけをするてまではよふ行のかはたらきしやと〔アト〕イヤ中々かね太夫じやない君太夫じやそふな〔シテ〕嘉七じやといふ是も一口やろう (君太夫お染) 出もせぬ谷の鶯や。なくねしのびて声さへもしやうしのほねみくたくるおもひ。見ぬふりするも又しんみ〔アト〕まんまと嘉七をやりおつたイヤ咲太夫じやはいやい〔シテ〕三右衞門ばを一つかたらすはなるまい (咲太夫道念) イヤまた有ル々々道念かたくはつに出た時。とうれ/\と言すにたんと入るか。何か扨々〔アト〕イヤ/\咲太夫はあのやうな声てはないあれは筆太夫じやはいやい〔シテ〕筆太夫じやといふか佐介はちとやりにくいか (筆太夫妹背山) 千ねんも万ねんもかわらぬちきりとおつしやつた。そのやくそくは偽か。うきよのわけもわきまへぬ在所育のわたしでもいゝかはした事わすれはせぬ。あんまりむごいと取付て涙さきたつうらみこと〔アト〕さてしつぽりとやりおつたイヤ筆太夫てもないアリヤ此太夫じや〔シテ〕さま/\の事をいゝおるこれも一ふしかたらずはなるまい (此太夫信長記) 国のおきてに一引つゝみせしめとして給るかせめては少のつみほろぼし〔アト〕扨々こと/\く面白うかたりおつた。ヤイ/\そちは源四郎てはないか。〔シテ〕めんほくもこさりませぬ〔アト〕イヤ/\ゆるす/\今の小あみのしやうねをきいたうへは此秘書をそちにつたゑるそ〔シテ〕すりやわたくしにくたさるゝか〔アト〕中々〔シテ〕是はありがたふござります〔アト〕家内の者の見とかめぬうちはやかへれ〔シテ〕かしこまつてこさるいさめてたう浄るり万歳をかたつてかへらふ まんさい 万ざいとありがたかりける御たま物一本の柱は。いこくへ渡りし国性爺。二本のはしらは日本振袖。三本のはしらは三荘太夫。四本の柱はしのはらかつせん。五本のはしらは五畿内安全。八重。九重のうち迄も納りひく君か代の千代にやちよを。さゝれ石のいわい寿納ける。
 
〔編者曰クコノ一項ハ当時板行ノママヲ原本五丁ニ亘リテ貼付ケシモノニテ、最初ノ紙ニおどけ浄瑠理は竹本男徳齋妙を得て数種の戯作世に行はるまた其後松平耳鳥齋と云 妙也ト原本ニハ書入レアリ〕
〔編者曰ク次ノ項ハ原本ニハ当時板行ノママヲ二丁ニ亘ツテ貼付ケアリ 而シテ最初ノ所ニ石井飛騨人形ノコト年鑑見合包ム袂のひだの掾ふたつづかひの手妻にもかゝるなりふりうつすとも此思ひをはよもしらじ」ト原本ニ書入アリ
 
01-534
番付 日本五山建仁寺供養 日本五山建仁寺供養
【座本 石井飛騨掾
細工方 伊藤出羽掾
浄留利 竹本民太夫
さみせん 鶴沢利三
浄るり竹本三津太夫
さミせん たけ沢伊六
浄るり 竹本嶺太夫
同 竹本音太夫
三味線 鶴沢藤三】
 
01-536
番付 花𩬿勢曽我 花𩬿勢曽我
【浄留利 豊竹三木太夫
三味線 鶴沢京治郎
浄るり 竹本萩太夫
さみせん 鶴沢京次郎】
 
01-548
津国女夫池 津国女夫池題簽
【絵入狂言本 八文字屋八左衞門 享保6 岩波近松全集17巻 54③】
国会図書館デジタルライブラリに影印あり、但し後刷本(54④)
図挿絵 6津国女夫池挿絵6 5津国女夫池挿絵5 4津国女夫池挿絵4 3津国女夫池挿絵3 2津国女夫池挿絵2 1津国女夫池挿絵1 見返し津国女夫池見返し
 
後太平記 四十八巻目 津国女夫池 色座敷大あたり  名代都万太夫 作者近松門左衞門 座本澤村長十良
第一 [序詞]笑を買ふ木のもと花すでに老たり。まゆをゑがくまどの前月猶残れり。ゆうゑんくはんしよのたのしみ君おだやかに民やすく。国伝へます秋津御代おゝき町の御宇。あしかゞ十三代の武将左大臣源のあそんよしてる公。のうそ高氏公のききうをつぎ。国家の政道四悪をしりぞけ。洛陽二条室町に殿造[ヲロシ]五美を尊給ひけり。みだい所は大宮の大納言秋忠卿の御娘。こぞの冬より御くわいにん。永録七年二月中旬御着帯の御祝義とて。在京の諸太名我も/\と出仕有。御れん中ば巻上君御出の所ニ御しうと秋忠卿ちよくしに御らいりんと申上れは。三好長慶がちやくしあはぢの守国長。御れんに向ひ。いつもの通君も御座を下らせ給ひ。御たいめんといへ共返答なければ。国長せいて御れん引のくれば。君の御しやていよしあき武将の御出立。是何ンじやにせ将ぐんのばけぞこないと。御手を取て引おろせば。人々あきれゐる所へ。一つのおりをかきすへ。ちよくし上座ニつき給へば。浅川左京藤たかつゝしんて。よしてる公夜前より風しやの御しよろうニよつて。よしあき名代としてちよくしをむかい奉ると。しゆびをつくろふ詞に付て。せんじを奉して兄よしてるニ申聞せ候はんとぞのべ給ふ。秋忠しやく取なをし。此度江州かたゝの魚人。一身両頭の亀をつり得て。朝庭ニさゝげ奉る。ふしぎの亀の出現以上六か度。年号を霊亀神亀と改元迄有しかど。両頭の出たる其れいなし。うらべのかん文善悪分明ならす。武家の評義とのちよくでうとのべ給へば。藤たかおりをひらけば一体ニ二つの頭。ゑを諍くいあふ有様。よしあきよこ手を打。ふがくのあら武士評定おそれ有。秋忠聞召よしてる御所らうなれば。追てちょくたう有べしと。座を立給へば申門迄送り。御座ニ入らんとし給へば。国長御手を取引すへ。なふ弟君米は人の性命をやしなふ宝なれ共。わらはくつわらんぢと成ふみにじらる。米とわらとは同根なれ共。米のまねのならぬが天地の定り。御舎弟なればとて将軍の出立はむほんよな。両頭亀は兄弟天下諍の印。サアお立と引立る。所ニ御めのと子海上太郎やりとけはなしおどり出。国長をひつつかんでどうどなげ。身が殿を逆心と云口引さかんとせりあふを。よしあき海上をおししづめ。君をまなび上段ニ座したるゆへ。むほんと見たるは尤。折しも両頭の亀出現。返答口をつぐむ斗ぞと。さしそべぬいて角びたい。みどりの御ぐしふつと切。エゝ浅ましや兄よしてる公天まの見入か。九条の遊女町へおとゝひよりお出今日のことふぎ人ばしかくれ共。ゑいふし御正気なしとの便。はやかた/\は出仕。みだい所と相談にて此出立。兄の御はぢ云ちらし。一時も御てんにあしはとめぬヤィ海上供せばかん当。藤たかニしたがい忠節をわするゝなと。つつと寄亀のかたくびずつはと切。サア此上は諍べき者もなく天下太平とちよくとうせよ。我は是より三がい坊。此亀は申請池ニはなち。成仏ノ縁むすはんと。すでに出んとし給ふ所へ。門住所の方よりなふ若君申々と。父しゆりの入道長慶御前ニひれふし涙をうかめ。我らとつく出仕せば御ぐしは切せまし。藤たか殿海上太郎。なせとめてくれられぬ。不忠成せがれゆへ。六十ニあまる入道が数年の忠義無に成し。是へ参れ国長。はつと父が前へさぐる頭を打おとし。たふさつかんでさし上る。よしあきふりかへり。我所存有てのほつ心。国長づれにあたつて切かみニあらずと。見かへりもせず立出て。すぐに又入法の道。ひじりの道も国民の治る道ぞ。[三重]思ふこと。みだい所の御とぎは君のお手かけ梅がへ初ぎく初雪を。ねたみなく。きとくほうしニ顔つゝみ。いづれをそれと。人の見しりも嵐吹。柳が枝ともつれ合。かちをひろひもお身ごなし。やしき預り四五右衞門にげきたり。三好の家老松永だん正殿。私をころさふとなさるゝゆへ。にげるも君の御奉公。みだい聞召。きどくぼうしきせ女の中へかくし給ふ。所へだん正来り。四五右衞門めがみだい様へ心かけ。つれはしらふと。おなんど金取しと云ば。みだいけでんし。引出し給へば。藤たかのけらいみきの進来りかゝり。中へ入あつかへば。せうこはふところに文有と云。ぜひなふ取出すをみれば。みきの進より。おく女中きよ瀧への文。其まゝかくすを。だん正は。清瀧が親岩成力之介が申は。娘が不義のおつと有。せんぎを頼むと申ゆへよ。扨は四五右衞門取持みきの進不義のがれまいと云ば。みきの進清たきをよび出し。文取出しかくごのてい。みだいごらんじ。はてさいはいじや。清たきをやる女房にもちや。おれがゆるす上は不義ではないぞ。二人はあいぼれ悦べば。だん正清たきニ恋有ば。はら立共せふ事なく。あたまをかいてかしこへ入。みきの進つゝしんで。主人藤たか申越候は。よしてる公御てうあいのけいせい大よどゝ申女。三好入道が九条の町を請出し。かれが娘ニし。今暮御所へ入。是をとゞむる事みだひ様の力ならで叶ひがたし。早々御所へ御供申せと主人が口上。お手かけ衆清たき迄。入レては大事と。みだい所たき付られてもゆる火の。お顔もあけのめに涙。道をはやめて。[三重]立帰る。かい上太郎ち兄弟のよしあき公御ほつ心の。御行ゑ尋んと思ひ立。主君の御てん御いとまごいと。むろ町の御門見渡せば。高でうちん立ならべ。新みだい様御こし入。岩成ちから。馬ふち団入御こしぞへ。はしりかゝつてのり物ノぼうひつつかみ。室町殿御所があげや入かと。戸をけやぶればよしてる公。跡ニつゞいて大よど出る。武将それぶちふせよ。上意成と声をかけさん/\にぶたせ。大よどが手を引入給へば。御門はたとさす。上意と云天下のゐせいぜひもなしと。はがみをなす所へ。桜の枝づたひ。へいこしたをみれば見だい所。御くはいたいの御身いざ御供。いや/\ない名立られてはむねんと。行ゑしらず落給ふ、、かい上も御祝の石を参らせんと。立石うんとなげ付れば。けやきの戸びら打ぬく。やぶれより団八くびさし出すをひつつかみ。ふつつとねぢ切是今晩の進上と。やかたの前ニかつはとなげすて。うらみを残してかへりけり
第二 君が代につく共つきじ米麦の。都ニ通ふとばなはて。藤たか長慶給はつたる。馬草かりばの領ざかい。さいめのまん中ニ女のしがい。つらのかははぎ。くはいたいのはら帯。内ニこめたる御さんの守。願主よしてると有しゆへ。みだい所とだん正云共。みきの進ふしん残して帰りける。なつ冬しらぬ室町の。御所ぞ栄花のおく御てん。大よどがきげんなをしに。手かけ三人が首打だいにのせ。岩成ちから御前へ上れば。よしてる公。なんと大よど面白かとの給ふ所へ。いつぞやとばにてみだい様をころしたとが人成と。だん正めしうとしらすへ引せける。長慶藤たか立合せんぎせよと有、めしうと見上お久しやコレ殿。昔は君が打露に。命ヲつなぎし。きり/\すの佐伝。たいこ持こそいたせ。命はかねて売たもの。申さぬ/\と。名さゝぬ斗に君をみる眼。長慶しれた/\。だん正首はねよ。藤たかおさへ。白状させず打んとは。なぞかけるやうにぬかさず共まつすくニ申せヲヽ頼手は殿様。大判五十枚と。大よとみだいに成たら。大名ニせふと有印と云へば。君御身もふるひみへければ。長慶白状の上ぜひニ及ず。御しうと秋忠卿へあやまり證文。御ゐんきよの御しあん。それだん正首うて。藤たか重てまて/\/\。につくいうそつきめ。どうるいのちやうほん有。せうこを以てせんぎせん。みきの遅参れ。畏つてのり物ゑん先にかきすへさせ。戸をひらけば。おなかにやゝをもち月の。山のは出るみだい所。よしてる公けでん顔。入道がしぶい顔。だん正めしうとの首打ば。藤高は。そこつのせいばい長慶の云付か。入道涙はら/\とながし。ちやくし国長が首討程の長慶偽りは申さず。みだい所ノみつつう男おびき出し。かくし置と承り。こつじきの。はらみ女ころしたれば。御有所あらはれしは。某が思ふつぼ。長慶おちどニ極らば切腹と刀ニ手かくれば。アヽはやまるな汝ニいさゝかあやまりなし。一こんくんで気をはらさんと。つれてをくへ入給へば。ふぢたかは是みきの進。汝と清たき夫婦のけいやく有と聞。みだい所を清たきがつぼねニしのばせよ。承るとかしこへしのび入。所ニ大よど藤たか様と尋る声。一太刀ぐつとさしのりかゝり。人をころすをこのみもせじ。入道に頼れむほんのかたうどな。アヽお名よんで来るは其事申さん為。御所中の侍皆入道に一み也。わしが悪人に成。ゐけん云人に打あけんと。一人殿の手ニかけさせ。につと笑た心の内くるしみ。只ただ殿の事/\をと斗にていきたへたり。所ニぐん兵四五十ぎ。追手の御門時のこゑ。みきの進みだい所の御手を引。清たき刀さし立のけば父ちからやりひつさげ追かくる。清たきは。親子は内證。主従はせけん相手に成ぞ。ヤァふかうのめらうと。付やりをはねて入。普討おとし親なければ。主とおつとニまかせし命と。打つれ落てげり。長慶大声上。一子の首切誠を見せ。色をすゝめ気をうばいしぞ。よしてる殿切腹々々と。入みだれたゝかふたりだん正よしてるの首太刀につらぬき。二つ引りやうのはた権平太ニかたげさせ出る。かい上太郎追かけ権平太がわだがみつかんで大地へなげころし御はたをうばひ。主君のあたをうつ迄と御所一時のけふりにまぎれ落給ふ。
第三 [道行]山のおくにぞしかぞなく成と。みきの進が父文次兵衞。福島にかんきよをしめ。妻はとせいにつむわたの。たもとの下のふじの雪。みきの進たん生の若君を。清たきにいだかせ。みだい所をかいはうし則是が父が宅。行義づよきかた気。清瀧と我らみつつうの夫婦と聞れたら。かん当はたしか。はないきにも出すまいぞと云所へ。文次外より帰り。ムヽみきの進な。君の大へん御用ニ立んと思ひしニ。京上郎つれ何用有。是は忝くもよしてる公のみだい所。道にて若君御たん生と云ば。ヤレこゑ高し先是へと。内へ入奉れば。母そんきよし奉るみだい所も御涙。劔の山をのかれしもみきの進のはたらき。頼むは親子夫婦ぞや。文次聞。正しき若君ましませば。追付御代に出し奉らんと。一まのおくへみだい所清たき諸共入給ふ。母立田ナゥ聞ば清瀧と云は。長慶が家老岩成が娘義を守親迄討たと云。文次聞。あやうきをせざるはぐん法の第一。是へよび出しあいさつする中。一刀ニ切てのけよと云。清たき母ニさそはれ来れば。そなたは岩成しんじつの娘か。イヤ私はもとすて子。ゑりにぬい付有しとて。くれられし守本尊一寸八分ノふどう様。つゝみしふくさニ書判すへ年号月日。本の親のかたみとはだをはなさす。則こゝにと取出す。父母おどろき見れば見る程覚有。なふそもじをうんだは此かゝ。家重代の御本尊。此判の筆者も是しんじつのとゝ様。二度娘悦んだ。コレ三木そなたの妹。アレ兄じやくらうしつらんかはいやと。夫婦引よせ/\なげゝば。うろ/\夢見しごとく。みきの進猶ぎやうてん。なぜすてゝくだんしたと。うらみなけゝばヲヽ尤々。三木が三つのとし。おぬしが生れらうにんで。ちのみ子二人よういく成かたく。女はくはほうも有物と。すつる妹。すてぬ兄。くび討と。あぶないかけんとなでさすれば。扨は三木様かいのハアとより外詞なく。兄はてんどう五たいニあせ。父母悦おくへ入。妻こふねこの二疋づれ。もつれ合。かけひふみはづし庭の古井へ。二疋つれ落しゝにけり。是ちく生のじがいの手本と。三木飛行ば妹はなれじとまとい行。こゝ天神の池。こちらにも池。上着を木ニ打かけ/\。ヤァ人来る。とあしの中ニかくれゐる。所へ文次夫婦みだいの御手引。てうちんの光りにて。枝にかけし二人が小袖。文吹みて我心のぶ念ゆへ。二人の子を池のもくづとなしはてた。元来三木と清瀧は。たね腹かくべつ。まんざらの他人。夫婦と成ニさはりなし三木が誠の父は。我らとは古はうばい。駒形一学と云武士。母は三木をうみ落し七夜の内ニ相果。間もなく我らが今の此女房十七歳。子のよういくとてよびむかへ後づれの妻。ある夜一かく何者共しれず討てのきし。廿ニたらでみなし子かゝへさまよふ女。十五ニならば敵を尋討せてと頼れ。かく夫婦と成清たきまうけしが。兄は大望有ゆへ。水子の娘捨そだてしに藤高公より召出され時めくを見。敵打やくそくたがへ。人のかはきた狐のさいごと池へ飛入。あしおしわけ兄弟かけ出引上れば。ヤアいきてゐたかうれしや。女房悦べ。駒形一学を討たるは此の文次兵衞。もとのおこりはあの女房。一家中ニさた有艶色恋せしを。一かくよび取ゆへ。手もなく討て夫婦と成し。今月今日一生のさんげ。サァうてみきの進。討れしも親討たるも親と大小をなげ出す。母立上り刀ぬき。夫の敵穴次兵衞うらみの刀と切付。きつ先くはへ池へだんぶと飛入。文次兵衞もならびの池へどうど飛込。ゆん手のかいな三木の進しつかと取ば。おのれがせわは見たい若君両人忠義忘るゝなと我うで切てはなし。どうは水そこ。名はながき世のめうと池。語りつたへて残りける
第四 心ぞゑんに引れ行。よしあき入道けいがくの御庵へ。藤高みだいにめぐりあひ。若君を三木夫婦ニかいはうさせ。海上太郎諸共庵へ立入。げんそくなされ長慶ほろぼし給へと有共。せういんなければ。かい上たん気者。其こん性としらいで無用の口ニ風引せた。けらいでない隙取は。主でなければおそれもないと。つくゑおつ取。道しらずのづくにうめとさん/\打。藤高引とめさま/\頼給へば。けいがく聞はけげんぞくせふが。あしかゝの家ノ宝。小袖と云よろいかぶと持参せしか。さん候敵入道御所やき討ニぐはいぢんと成しや。しれずと云ば物をも云ずをくへ人給ふ。かい上気のどくがりおくへ入。なふ御坊はゐ給はぬ。ヤレ追かけと人々は。あしをはやめて。[三重]すてゝもめぐる世の中や。都ゆかしくけいがくは。昔の御所の跡みれば。草より草ニふきとぢ。ヤ暮まじき日のくれ。廿あまりの若男。御とまりあれ御僧と。いざなはれ行ば御所の御門に。入にける。昔のいらか其まゝに。しやうじ明れば小袖と名付しようひかぶと。上段ニ立られたり。夢かうつゝか。[謡]庭には金銀のいさごをしき。色の山情の谷の戸を出て。鶯やどす梅がゑ。ませの白ぎく露ながら。手おればまがふ袖のはつ雪。御酒のきげんもよしてる公。夢のいびきは大よどの松のひゞきか。手かけは三つの車。くるり/\と追廻り。青黄赤白四色の玉こくうにされば。義兄のよしてると。有つる姿よろいとへんじ給へば。取上出る色座敷。梅花ひらけば。菊の花咲。雪もふり四きの御所。皆きへもとの草村ニ。けいがくはねふりの夢はさめニけり
第五 藤高海上三木の進。かせいのぐん兵引ぐし。長けい入道。松永だん正討取。あしかゞの家引おこしつきせぬ御代こそ久しけれ
八もんじや
八左衞門板
 
摂陽奇観 巻之十
御治世見聞録 摂陽年鑑
元和二 丙辰年
02-013
一 三月五日 小野於通死
 文録の頃より世に行ハれて今專ら流布なす浄瑠璃作文の祖也 小野於通一代記云
 織田信長公の侍女阿通といへる女源牛若丸と矢矧の長者の女浄瑠璃姫の事を戯文に著し長生殿十二段と号スこれ薬師の十二神に表シ十二因縁の道理をさとすゆへ十二段とはなしぬ [十二段の本文こゝに略ス] 此草紙に岩橋検校 [瀧野澤角両検校共] 節譜してかたり初しより音曲の一芸なれり阿通自筆の十二段の巻は大坂内本町島田某といへる人持伝えしかと元録の始に焼失ス惜むべき事也此於通は織田家の乱を避てより摂津国長柄に幽なる艸庵を結びて住けるが元来和哥を好みて数首の秀哥あり
つれ/\とふりにし跡を思ふにも袖こそぬるれ五月雨の空
此歌世に聞えたり書もまた拙からず於通の手鑑といふ書物世に流布すれど信じ難し河州観心寺の内中院の什物に自筆の文あり元和二年三月五日行年五十八歳にて此庵室に終ル其旧地は長柄村より西の畑の中に一木の松あり里人於通の松と呼びしかど正徳の頃朽たりしとぞ
 
当流なぞ歌せん 西鶴撰
  此書は豊臣家の時代よりこのかた都鄙に名高き婦女の俳譜を集めて歌仙とすそが中に津宇女を載たり次ニ図を出す其余難波の辺の婦女の分を因ニ抜萃ス
図 津宇女 津宇女
 
      蝶暮
   難波女也秀吉公にめしつかハれしが姿もすぐれてやさしく明暮哥書に心をうつして月をあたに見す花をあハれみ春をしらせる鳥に今朝のけしきを梅の御殿にて
     籠耳にはつねはもれし春の鳥
      弁女
   津の池田の里の女也五歳より筆道覚へて七歳にして四書読て世の人目を覚しぬともし火の影に二十一代集くりて哥道にもいとまなく俳諧も作者也折ふし春雨の夜ねみたれ髪におもひあハせて
     雨ふりの柳の髪や水油
      栄春
   難波にすみし女也俳道に心さし深くて立圃三吟集にも見えし也大坂俳仙にも入ぬさま替て月の入方おもひやられし秋こそ西に海山のあけぼのに名残
     月こくういる所をやしらま弓
      松安妻
   泉州堺の女也俳道かしこく世々の古筆も見分侍る慶友成安にもましへて座会をせし人也つきぬ言のはは此浜の貝つくしそかし
     海か山になるためしにや桜貝
      方女
   難波なる女也此里に女の俳諧するは希なる時より名をうさぎはいかいニもあらハし大坂古歌仙にも見えわたり侍る大手鑑にも加筆せし作者也
     軒の妻もはれかたひらか花あやめ
此余にも猶あるべけれど下の巻闕本にて見えず津宇女はかゝる婦女の中にても此歌仙第二の右に出たれハ其高名思ひやるべし
 
元和三 丁巳年
02-018
一 五月一日 あられ降ル
一 逢坂合法ケ辻に閻魔王の石像立
古老云 合法ケ辻の閻魔の石像は野中にによつほりとして在し処万治の頃にや加州にて唱几といへる修行者に打扮しもの兄の敵を打し事ありしに当地道頓堀荒木与次兵衞芝居にて右の趣意を摂州合法ケ辻と声の同じきを趣向の種として狂言に取組大当りせし故其冥加のため合法ケ辻閻魔の石像ニ雨露の覆ひに小堂を建立せしとぞ [修行者唱几の役を勤メし荒木与次兵衞は非人敵打の元祖ニ而尤名人なりしよし]
願懸垂宝記云 合法が辻閻魔王の石像へ頭痛を患る人参詣して白紙にて閻魔の頭にはちまきをさせ何卒頭痛平愈なさしめ給へと立願すれハ忽チ頭痛を忘るゝ御礼には絵馬を奉納すべし
 
元和年中 年月未詳之分追考
02-047
一 立慶町 伊藤出羽掾芝居立
 右開発安井道頓より取次道頓掘芝居の始元禄年中 柳沢出羽守様受領差構ひニ付信濃掾と改ル手妻人形興行
 
摂陽奇観 巻之十一
寛永十九 壬午
02-101
一 十月廿三日夜瓦屋橋西詰角大和島太郎兵衞家内にてお虎岩松心中
   浪花の芦といふ写本に大和国法隆寺院中宝仙院法庭へ両人の死骸を葬り今に石碑有りとぞ
   後年あやつりの戯文に名をあらためてお染久松と呼しよりの少女美童の面影思ひやらるゝ作者の発明也中寺町隆泉寺にお虎の墓あるよし不詳
 
寛永年間
02-103
一 天下茶屋村ニ津田氏宗本 和中散の薬店を開クぜさいと云 江州梅の木の事奥ニ著す
 
02-106
一 和中散薬店本家ぜさいの事
 江州梅木 [本名六地蔵村といふ] こゝに和中散の薬店三軒はかりあり是齋を本家といふ [ 香需散 宗奭云 作圃種香需 時珍云 香需乃夏月解表ノ薬ト 近来在家ハ和中散枇杷葉湯ニ奪れたり]
 元和の頃梅の木ありて其木蔭にて和中散を製し旅人にあきなふ本家をぜさいといふ其初は織田氏と号して元和元年医師半井ト養が女を娶て和中散小児薬の奇妙丸等の薬方会授り永く此家に商ふ庭中に奇石奇樹玲瑯として往来の諸侯多く爰に駕をとゝむ参宮及び吾妻上下の旅客も足をとどめさせて薬を立て散湯を恵む薬店の側に古松あり枝垂るにより梅の木の下り松といふ
 
02-116
一 大坂歌舞妓紀原
 哥舞妓事始云 大坂道頓堀歌舞妓芝居は寛永年段介といふもの京都より下りて下難波領にて蔵人といふ女太夫を仕立て傾城共多く踊りをさせたり世俗これを太夫蔵人といひ又お国かぶきといへり其後女芸を禁じ給ひけれバ塩屋九郎右衞門同九左衞門大和屋甚兵衞河内屋与八郎松本名左衞門大坂太左衞門京都にて申合大坂表へ下り芝居興行仕度願ひによつて御赦免有各室町家の御扶持人也右之者共多く浜側に而小芝居を初めたり夫より次等ニ人数を加へ若衆子供五十人ほど入代て踊らせたり其頃は太夫本芝居名代も極りなく勝手になせし事也然るに慶安五年に至りて左の通り名代共改りたり
一 大坂名代道頓堀吉左衞門町中之芝居 塩屋九郎右衞門
一 同 立慶町角之芝居        大坂太左衞門
   [寛保二年の頃角芝居福永ともいふ]
一 同 吉左衞門町大西芝居      松本名左衞門
   [名左衞門芝居戎はし角ニ在シゆへ大西といふ当世は竹本筑後芝居を大西と云]
同年 [承応ト改元] 六月朔日塩屋九郎右衞門芝居に而口論ありしより其後芝居中へ無銭にて見物入申間敷御制法の御書付出たり [今芝居の内にある箇條書是也]
同年七月故障の義有之惣かぶき芝居御停止被仰付
承応弐巳年右かぶき太夫本難渋ニ付狂言尽之御願奉申上候所 物真似狂言尽といふ名目にて御赦免ありしは塩屋九郎右衞門同九左衞門大和屋甚兵衞三人也夫より少シ程ありて松本名左衞門御免あり大坂太左衞門は其頃江戸に在り年あつて登り御願ひ申上御赦免を蒙りしと也
往古は芝居木戸口の上に象戯の駒のごとく成ル札ニ物まねと書たり是矢倉免許の札にして外芝居に上ル事不叶物まねとは声色を似するにあらす老若男女貴賎僧俗夫々の物を真に似せるをいへり
  真似はまねぶといふことを略したる語にて学の字なり源氏物語品定の所に
    さてありぬべきかたをバつくろひてまねび出すにそれしかあらじとそらにいかゞはおしはかりおもひくたさん
  とありこのまねびを出すといふ詞もまねして聞すといふこと也俗ニ真似と書は後の世におしあてたる字也
往古の芝居は仮家建にて万事手軽く表も櫓の下ニ鼠木戸二所ありて見物は鼠の穴へ入るかごとく肩脊を屈曲て越る故ニ鼠木戸といふ当代は一ケ所ニ成れり哥舞妓事始云 北野の人桝の時陣中の出入に相言葉を以て通路なすゆへ相言葉口といふ此所より見物を入し其余風なるよし
又木戸といふもの往古乗物木戸と呼ふ事正徳中江戸山村座の事実を著述せし風流色芝居云
    物さハがしき中に取交へて櫓太鼓のひゞきすさまじく木戸の外にはあらおのこ共諸はだぬぎになりてわれへと何やらんのゝしりよバふその中を押わけかの山伏小太郎を伴ひのり物木戸あけさせ誰恐るゝけしきなく小太郎さしきへのぼりツヽ
 
摂陽奇観 巻之十三
慶安年間
02-141
一道頓堀 角の芝居御赦免
 立慶町大坂太左衞門櫓名代座本荒木与次兵衞
 右道頓堀歌舞妓の始り 東福門院様御取立御赦免也
 
摂陽奇観 巻之十四
承応元 壬辰
02-145
一 道頓堀かぶき芝居名代御定 寛永年間ニ著ス
 
02-145
一 六月一日 道頓堀芝居ニ而口論有之其後芝居中へ無銭ニ而見物入申間敷御制法之御書付出ル [今芝居の内ニあるケ條書是也] 【02-116に同文あり】
 
02-145
一 七月 惣かぶき芝居故障之義有之御停止ニ成ル
 
承応二 癸巳
02-148
一 道頓堀かぶき芝居 物まね狂言尽名目ニ而御免有之 事ハ寛永年間ニ著ス
 
摂陽奇観 巻之十六
万治年間
02-178
一 新町籬ふし
 昔のうたひものは朗詠変じて今様となり又はしをり萩といへるものなどありて白拍子遊女などこれをうたひ舞かなでけるとなん夫よりはるか後さま/\と作り唱哥出けり中興泉州沙界に日蓮宗の僧隆達其妙を得て こゝは山中森の下蔭月夜烏はいつも啼といふ文句をみづから作りうたひ出しけるより又大ひはやり花柳は勿論町方ニても是を翫ひ他国までも隠れなかりしとかやされバ俳諧の発句に其文句を立入れて趣向に迄なしたり
     秋はものゝ月夜烏はいつも啼    伊丹 鬼貫
 明暦年中都島原ニ而投ふし江戸吉原ニ而つぎぶしといへるもの大きに流行けり万治年中大坂新町まがきといへる女郎一風流のうたひものを作りミづから節を付てこれを行ふ此女郎生得妙なる音声にて一曲なしけれハ誠に梁の塵を払ひけるとなん廓中は勿論諸所町々にても是を諷ハぬものはなかりしよし是を世に新町の籬ふしといふ元禄宝永の頃まで是を相伝して有しに正徳年中より中絶して古しへの程は行ハれず成りにき今も当津廓の内に此唱哥に妙を得たるものありそれに聞侍りしに都島原の投ふしと江戸半太夫ふしとの間の物にて幽玄にて面白き歌也されハ都島原の投ふし江戸吉原のつきぶし大坂新町の籬ふしとてこれを廓三名物とす
 廓中一覧 云笆節曲 承応明暦時代のはやり哥也寛文十二子ノ年扇屋夕霧京より当所にくだり船中の佳景を時花曲となさしむ其ふしは今の都半太夫といふ曲に彷彿今は絶たり
 
摂陽奇観 巻之十七
寛文二 壬寅
02-185
一 浪花名物 竹田機捩(カラクリ)初ム
 からくり物真似子供狂言名代竹田近江は万治元戌年十二月一日 口宣頂戴して竹田出雲掾といふ寛文二寅年大坂にて始たり又享保十一午年五月五日名を竹田近江と相改度願ヒ則御免あり右近江享保十四酉年壬九月十九日病死して悴三四郎へ譲り受同年十一月京都にて御免ありて改名ス夫より寛保二戌年九月二日右近江清英病死ニ付弟平介譲り受寛保三亥年二月京都にて御免あり近江と成り相続右三代の間は種々のからくり新製の工夫ありて都鄙の遊客の目を驚かし浪花壮観のひとつと成たりからくり芝居表錺りに図のごとく二本の大竹を立て竹田の目じるしとし数百里を隔ツ遠国迄も隠れなく又竹田襖とて舞台一面青紙の襖を用ゆるこれ往古造物なき頃の芝居の遺風なれども竹田襖と呼ひならハせり
 
図 竹田のめじるし 竹田のめじるし
 
 加茂眞淵文集に曰
   偶人にかゝしめたる雪花の字記
西の国いにしへの帝の国体(クニカタ)みし給ふにはおはさてあつまのいまのこらの宮の朝廷まゐりしたまひける時 御饗のついてに偃師工にはあらぬ竹田伎人(テヒト)になんめさせ給ひける則彼もこれも木と衣と青土(アヲニ)赭土(ソホニ)とをもてするわさなりけりかれかかたへのひとに目をくはせけん現身の有意(コヽロシラヒ)は物にもあらて此人形は 御庭に座にゐて奉れゝハやかてうるハしく敬禮(イケ)たちて左見右見(トミカウミ)ふるまひツヽ筆をとりてかミのへに書やるにもめも顕然いきほひたへなる鳥のあとなめり然あれハかけまくも畏き 大御前にしもかの紙奉らしめて親王のおまへにふたひらまいらせられしを花雪てふ文字あるをは後に大僧都になんあかちたまはりぬ夫たかきもいやしきもいたれるわさしあれハかならず天地に伊隠れぬことハりにしてあるは国つちの極ミふるゆきなす敷わたり或はあまくものうへまてもさく花のことほめあけらるゝ事はそらミつ大和の国に石上ふるきあとなん多かりけるさるか中にも鳥のあとをしもあやつるものは猶なんめつらかなりけるをまして此賜ハれる おほん訳をしりまつれは僧都のために辱きかもよたふときかもよ
    延享ひのとの卯冬上野青龍院大僧都もとめらるゝにまかせてしるす
 延宝中の難波鑑に竹田芝居の図あり
    道頓堀太左衞門橋東へ入浜側ニあり宝暦中竹田近江居宅の地面へ引其頃は大坂道頓堀に而浜芝居と唱へる子供役者三座也
角丸芝居のむかひ 竹田近江大掾座
相合はし南    石井飛騨掾 出羽と云
つめ東へ入所   亀谷豊後掾座
   年々栄へる竹田の枝葉ハ千代に八千代にさゝれ石井の繁昌万代かけて亀谷の賑ひは難波の三津の浜芝居浜の眞砂と尽せじ
     宝暦十三年末正月九日芝居類焼の後新建の東竹田を世俗ヤケタ芝居ト云
図 竹田の芝居 竹田の芝居
 
02-188
図 竹田機捩の番付その1 竹田機捩の番付その1愛護稚名歌鬨
 愛護稚名歌鬨
【 細工人竹田近江大掾藤原清宗
浄留利 竹本三津太夫
上るり 竹本音太夫
さみせん 大西源三郎
浄留り 竹本喜太夫
三味せん 冨沢庄次郎】
 
02-190
図 竹田機捩の番付その2 竹田機捩の番付その2時代世話新うすゆき物語
 時代世話新うすゆき物語
【細工人竹田近江大掾藤原清宗
浄瑠利 竹本初太夫
三味線 鶴沢仁三郎
浄留り 竹本三津太夫
さミせん 大西源次郎】
 
02-192【安永3.1.26 演劇研究21:117 古今操便覧
図 福寿草植込島台  福寿草植込島台 福寿草植込島台
 
02-195
     或人云 竹田のからくりは都鄙の見物奇妙也ともて興ず二尺三寸の大脇差を二尺五寸の箱の内で独り抜ます則箱を改めてお目に掛ケ升二重底入子底勿論蓋にもしつらひなしたゞ今箱へ脇差を入升首尾よふ抜升れハおなぐさみソレ太鼓打たりカチ/\/\サア抜ました時の仕合セざつと不調法なる義をお目に掛ました御評判/\是をさへ後世の見物は気をつけて鞘が割鞘なる事を呑込ミけるどふで何ぞ仕掛なふては叶ハぬ筈なれ共扨々六ケ敷見物とは成行ぬ
 
元祖竹田近江八ケ年の間工夫を凝せし永代時計といふ奇物あり
  下の台 ケヤキ厚サ五寸斗り幅二尺五寸斗り
      長サ三尺五寸斗り
  車ノ輪 大小九ツ有 大ノ輪サシワタシ八尺斗り
      小ノ輪三尺斗り 其余各次第あり
      鎮り四所但シ大小あり
右時計惣高サ凡九尺木は惣体ケヤキを以て造り車のキザツグ也右九ツの車は自然に巡りて昼夜の時を打事平常の時計に同じ正中の前に少キ鐘ありて打之扨九ツの輪の内大の輪の天地に日月の玉を金銀を以て分チ其余の車は二十八宿各銀の星を以て其座々々に備へ輪の巡るに随ひて春夏秋冬五星の主ル所に顕ハれ冬至夏至彼岸日月の蝕に至る迄委ク車のまハるに随ひて昼夜の長短まで具に見ゆる也毎朝鎭りの緒をさへ引ケバ百歳を経る共毛頭違ハず四季月々日夜の廻りの速かに知るゝ事誠に万代の大時計と称じ凡俗の才ならず 全図略ス
 子孫大黒柱云 浪花の四ツ橋に大文字屋八兵衞といふ挽粉屋あり此仕事場を深く囲ひて親類限つて他人に是を見せず何様床しき事也臼挽人手大勢かけずして大分の粉を挽出して次第に分限に成りて世に隠レなし或年地震して世間並に人々騒ぎ迯出けるが程なく鎭りて世直しの万歳を諷ひける其折からに常々心がけし男見出して大文字屋が粉を挽ク臼の仕かけを学ひける六人懸りの挽臼を三ツ並べて是に水車を仕かけ水の代りに一人して此車の羽を碓踏やうにひたと踏落し/\けるに其車の廻るに随ひおのづから粉を挽事六人懸るよりハ早ししかも挽粉こまかにしてふるふに糟すくなし十八人してする事を一人しての仕事是を三車仕懸て三人にて五十四人の働キをして家富けりこれも竹田の水からくりより工夫せしもの也とぞ 編者云 船場四軒町山本善兵衞といふものこれも同じく竹田の水からくりより思ひ寄りて火災を防ぐ龍吐水といふ水てつぽうを仕初たり
 
02-196
図 四ツ橋の粉挽屋  四ツ橋の粉挽屋
 
02-197
 新選百首の中に散楽戯場機関の和歌あり
    機関 五井蘭洲
    見るかうちに人も草木も波のうへに棹さゝぬ舟の行まかふ也
     川井桂山
     めくハせもまねくも人にたかハねはいかりし君もむへならすやは
    加藤竹里
     きさみなすたくみはあやしいけること牛おふ舎人めくる小車
       世話辞五十首ニ竹田からくり     一好
     浄留理に人形身ふり合せ物ハはなれもの也竹田からくり
 
02-198
図 竹田出雲の手紙 竹田出雲の手紙
竹田出雲自筆にて正本屋九右衞門方へ遣はしたる書札也
此花悪敷候へ共 進上申上候 □中 淋しく罷在候 御用 無之候ハゝ御出 御所持之便蒙
見申度候御借 可枝下候右申上候如此御座候 四月十一日 
尚々書入宜候哉 見申度候也
 
02-200
一 大坂あやつり芝居名代御免
 大坂あやつりの最初は京都より左内宮内といふ浄留理太夫折々当地へ下り定日五日ツヽ興行なし勝手よき時は日延をして勤めしが其後浄瑠璃太夫段々多く相成りあやつり芝居繁昌ニ及びしゆへあやつり定芝居の名代を御免ありしは承応二年かぶき芝居名目狂言尽と改りしより十ケ年後也夫より操り昌んなる宝暦明和の頃迄は夜七ツ頃より見物詰懸ケ明六ツ時に大序を開き五段の浄瑠璃昼の八ツ頃には打出せしが不繁昌ニ成行に付ては次第々々に初り遅きゆへをのづから打出しも夜ニ入やうに成たり
 
 
寛文十二 壬子
02-229
一 廓中全盛扇屋夕霧太夫今年京師島原より大坂へ下ル
 
△寛文年間
02-230
一 廓中 富士屋吾妻身受
 浪華青楼志云 佐渡島町富士屋某抱の太夫吾妻は全盛の聞え高く其頃当国川辺郡山本の里坂上与次右衞門といふ大庄屋三百両の価を以て身受せらるゝ是当地の身受の権輿にして其頃は甚貴とし今に至つて芝居狂言にも身受の金は三百両に過ず河辺郡山本村に一宇の菴室ありて山本常念仏とて則与次右衞門吾妻が二像を安置ス与次右衞門が遺跡 [当時西本願寺の門下の道場西宗寺と成] 旧宅の中門今に在り
 吾妻が自書の一軸ありて表着にて座し居る体にて其讃ニ
     身はなには心はみやこ名はあつまのほりつめたる山本の里
吾妻は寛文の頃の松位にして与次右衞門は九軒町の揚屋井筒屋太郎右衞門宅に遊び井太郎の音を仮借して青苔楼を製造して金具の文には定紋三ツ柏を用ひ花清宮の契りをなせし其楼も今は焼亡せり [戯文には与次兵衞ニ作ルまた山サキ与五郎]
 松の落葉 山崎与次兵衞踊 本調子
     あづまうけ出ス山崎与次兵衞請出ス/\山崎与次兵衞今は思ひの下紐とけて曲輪住居のうさつらさをば聞も中々恨めしや/\聞も中々恨めしやせうがの/\コレ/\/\/\しませうがのそつこでうけ出せ三百両二口合せて六百両すつとしよてんびんはり口ちんからり
因ニ云 寛政十二年九月廿五日京都東山双林寺ニおゐて烟花書画展覧あり其中に
 一 藤屋吾妻ノ文        京師山本真平二係嗣姉小路氏所藏
 一 茨木屋幸齋之鴿(ハト)杖  同 柳巷 桔更屋所藏
 一 吉野高尾夕霧三夕ノ色紙   同 小林氏所蔵
      其余略ス
 
02-231
一 廓中 蕪嫗の事
 廓中一覧云 蕪嫗の宅地は木村屋又次郎が遺跡の西隣り当時大竹屋某住居の地をいふ蕪嫗は寛文の頃新屋清春と云し尼なりしが家貧くして元朝雑煮の餅の代りに蕪を入れて祝賀をなし其後家富栄えても蕪嫗と呼ぶ名高かりしかど其末今は亡たり此清春の石碑も下寺町浄国寺ニあり本堂の唐戸ハ則蕪嫗の寄進にて新屋清春と誌あり
 
摂陽奇観 巻之十八
延宝六 戊午
02-267
一 延宝の頃名高き町浄留璃 難波雀ニ出ル
播磨風
 とんどバ      すけた町はき    すゝや町まとり  近江町
  三郎兵衛      長兵衛       惣兵衛      粉屋佐兵衛
 内本町       内大工町 
  魚屋小左衛門    勘兵衛
文弥風
 ときハ町      南谷町       弥兵衛町
  たはこや三右衛門  かせや吉兵衛    八百屋三右衛門  八郎兵衛
           北谷町       同町
  おかた市兵衛    小間物や九郎三郎  権四郎
二郎兵衛風
 すけいた町     同町
  めいや六兵衛    塚本又左衛門
本出羽風
 谷町
  ときや四郎兵衛
だうけ
 北かハや町二丁メ            五ろま      北新町三丁メ
  理兵衛       ひよろま      小兵衛      ばゝの庄兵衛
  兵内
 当世のごとく義太夫ぶしの一流ならざれバ其師の流々にて何風々々と風義を呼たり
 
 
延宝年間
02-254
一 正月六日 新町金盛扇屋夕霧太夫病死
   別巻ニ委ク著ス
 
摂陽奇観 巻之二十
貞享元 甲子
02-296
一 十二月 椀久死
 浪花に其名高かりし船場堺筋椀屋久右衞門が一子久兵衞後世に椀久といふ或説にその家は追手筋なりしといへど旧跡詳ならホ椀久そのはじめ老実にして曽て花街の地をふまず同庶の社友これをあざけり強て青楼に誘ひはづかしめんとす椀久が母はやくこの事を聞て心うくや思ひけん俄に文したゝめて新町の名妓松山にしか/\の事をつげて椀久の事をたのむ椀久はこれをしらず母に辞別して花街に趣んとす母の云商の人利に走るハつねの事ながら廓などに遊ひてはわきて心を見らるゝものぞとよわれ聞松山は全盛たぐひなくその心ミやびたりと御身花街にゆかハかならず彼をよべといふ椀久母の命を得て遂にその友と共に楼に登る友人等おのれ/\がしれる妓を呼迎へ椀久一人熟妓なきをあざけり笑んとす椀久母の教を守りて松山を呼ぶ松山来りて一別の会話をのぶること久しく相識れるがごとしミな/\思ふに違ひて驚き羞枕久もいぶかしく思ひながらよき程にあしらひつさて房に入ていへりけるはわれ元より御身をしらずしかるを先のごとくもてなし給ふこそ心得ねされど御身が情にて今宵のはづかしめを免れたりと篤くこれを謝す松山うち笑τあなおかしこれミな母君のいつくしミ深きにありとしか/\の事を語る椀久はじめて母の慈愛深きを感じ且松山が情あるをよろこびて終に家を失ふに至りけるとなん椀久松山に馴染て産を破り後年剃髪して上塩町の草庵に住し心狂ひて宿をも定めずうかりありき我と我身のうへをたハことのやうにいひ御存の坊主はち/\浮世じやナアはち/\昔じやナアはち/\とつぶやきけり貞享元年子十二月行年三十三歳にて安治川に水死ス墓は八丁目寺町実相寺本堂東南の方にあり宗達の墓としるせり一説没年延宝年中ともいふ又椀久が奇布せし石の手水鉢難波御堂の書院の庭にあり正保三年十二月九日椀屋久右衞門寄進の数ケ字を刻す今猶存せり椀久が紋は扇車なりしにやその事由三味線に見えたり又元禄宝永の頃ひやうたんかしくといふ弱法師仏説を俗談して人を興じ或は河原にたち或は市中を俳徊せしことあり歌舞伎狂言に椀久とこのへうたんかしくを附会して作りし也伊勢の風流後の三巻愛敬昔好色(ヲトコ)といふ冊子の三の巻にへうたんかしくの図あり
図 愛敬昔好色 愛敬昔好色
 
また
 曲三味線 巻之二
    この津に名を残せし椀久昔の姿そのまゝにむしやくしや天窓に立島の布子丸ぐけのひとへ帯革巾着のあきがらふところに伊勢天目吸口なしのきせるとろめんの沓足袋細緒の奈良ざうりかハらぬものは扇車の紋所今も智恵ハなさそうな顔して坐せり 下略
 この曲三味線に書し椀久が打扮はへうたんかしくが模様ともきこゆ近世俗談に名高きはへうたんかしくと江戸志道軒也とぞ
 成書にかしく坊の伝あり 元禄宝永の頃かしく坊とて異風なる道心者ありをたまきといふ俳書に
    笹の葉の乱れやすしや雪の暮
 此句はかしく坊と也元は相州の産なりしが風来人と成て東海道金谷の駅に小沢佐七といふ者の家に寄宿する事年久し手跡拙からず乱舞俳譜三弦に至る迄我物と自在して人の興を催す或時佐七がいふ平常に其方の行ひを見るに物に泥す心安らかにして争ハず貪らずいかさま出家の気質なれバ剃髪して世を我儘に過せよかしといふに大きによろこび即座に手づから剃りこぼちてあら心安や元結油の苦界を遁れたりと笑ふ佐七も笑ひて我は戒師たれバ法名を授んとて其日よりかしく/\と呼ぶ其後数月を送りて行脚の望ミありとて立出ついに浪花に来り狂哥を諷し唄を諷ひ町々を袖乞してかしく坊とてもてはやさる又年々駿河の府まで海道の門々を狂哥を詠じ小うたを諷ひて来るに金谷の駅は剃髪の因ミある所なれば知音数多ありて袖乞せず共食とぼしからず知る人もあれハ門に立事を止めよといへ共元来人に媚諛ハぬ生得なれハ我ハたゞ富士の風景のミ楽しみ也とて袖を払ふて去ル宝永の頃駿府法喜庵の裏門に菰をかぶりたる非人行倒れて死ス枕辺に矢立畳紙あり辞世と見えて
    富士の雪とけて硯の墨ころもかしくは筆の終り成けり
 此哥を寺の上人に見せけれバ感激の余り寺中へ葬り給ひしと也扨こそ此かしく坊不二を愛して生涯を楽しミけると知られたり
 澪標云 元日金歳越 [享保十八年竹本座 【年表 1-105】] といへる浄瑠璃文句に作たるありさまを見れバ節分の夜升に壹歩豆板を入れて揚屋の座敷にて蒔く事ありこれハ元禄中大坂玉屋庄七といひし人越後町茨木屋長左衞門 後名幸齋 方にて除夜の遊ひを致されたる事也また其頃有徳人の果にて残髪に十徳を着し竹の杖に瓢箪をくゝり付門々に立軽口をいひて物を乞しへうたんかしくといひし隠者有けり夫と二品を一ツにして作りたるは作者の発明也なを椀久の事実を作せし院本は
  椀久熊谷盃 豊竹座 椀久狂乱笠 宇治加賀 澪標浪花筏 豊竹座
 また椀久が事を小曲に作りしは昵近竹といふ冊子にのせたる椀久道行これはじめ也今の唱哥はミなこれより出たり
    わん久道行 三上り 一中ぶし
   上略
    ほさぬ涙の露しぼりくちなバ袖よ今の身はせいしがのべの思ひ艸むくらのやどに只ひとりとこはなれ行あかつきの其きぬ/\の俤をとへどこたへもしよんぼりときのふはけふのむかしにてほふし/\は木のはしと思ふはやぼかわけしらぬ心の花のかほりをバしらせたいぞやアヽはち/\此十徳も過し頃法師が一ふしにちえもきりやうもしんだいもミなあハ雪と消うせてかハせしことのかハる共はなれまいぞの君こはく我は塵かや身につもる心のあくた胸にみちそれがこうしたもの狂ひ 下略
 或人椀久の賛に
    契りきな十徳の袖をしほりツヽ末のまつ山あハれ椀久
 
貞享二 乙丑
02-301
一 須磨寺宝物江府より送ル
 西須磨上野山祥福寺世に須磨寺といふ当山の宝物は今年江府芝宝藏寺よりこゝに貽納むと寺説ニあり数品あれ共大概を記ス
   一 敦盛赤旗名号 法然上人筆
     爲敦盛空顔隣清菩提書之 源空
     音寿丸世にこそすまてたへいりて弥陀の蓮にともに生るゝ
   一 保呂衣名号 蓮生法師筆
     法の水すみと硯て書をくも心行具足阿弥陀仏力
   一 敦盛幼少手跡
       題庭の雪 音寿丸
     よしやたゝとハれても又なくさまんおのれ跡なき庭の白雪
       寄松祝言 音寿丸
     みとりなる松に千とせの色ミせて久しかれとや軒の山風
   一 敦盛書影 熊谷直実筆
   一 同鎧     一 高麗笛 学祐僧正作
   一 青葉笛 弘法大師作
     ふかねとも音に聞えて笛竹のよゝのむかしを思ひこそやれ
 東行筆記云 今須磨寺に敦盛の笛とて伝へたれ共笛も父経基の方へ送り返しける事盛衰記に見へたればあらぬ贋物にぞ有べきと也都て寺院にて此類ひ多し
   一 若木桜制札 弁慶筆
     須磨寺桜
     此華江南所無也一枝於折盗之輩者任天永紅葉之例伐一枝者可剪一指
     寿永三年二月日
 此花江南とハ梅の制札也詩話云在江南寄梅花一枝詣長安 又云江南何所在聊贈一枝春 又云北人江北望不見隴頭梅
 然る時は此制札箙梅などにありたし若木桜の制札といふは弁慶の大ひなる麁なるべし又所無も所務なり弁慶は三塔にての博識たる人には似合ざるべし
 
02-309
一 二月 竹本義太夫芝居立
図 義太夫芝居立つ 義太夫芝居立つ
地こん紋文字子持筋は白上け 始メ紋鞠バサミの中ニ九枚笹也 後年此ごとく改ム
 
 二月朔日初日 世継曽我竹本義太夫芝居を初め後ニ筑後掾と受領ス元禄年中竹田出雲竹本氏の座本と成リ人形道具に至る迄美を尽しけれハ芝居の繁昌百倍スこれ道頓堀筑後芝居の開発也 今大西といふ
 
02-310
一 浄瑠璃稽古本大字八行初ム
 外題年鑑云 前ニハ不葉流成浄るりハ板本にも成らざるよし勿論井上氏山本氏の時代には絵入細字の読本斗りにて稽古本といふは曽てなし貞享二乙丑年に七ツ伊呂波の浄るり五段を大字八行に板行させ宇治加賀掾節章を指し直の正本と号して出さるこれ稽古本の最初也
    宇治嘉太夫は紀州和哥山宇治といふ所の人也元来謡曲に妙を得たり後伊勢島の弟子と成て浄瑠璃の道に入て名人の聞え高し貞享の頃芝居を興行ス受領して宇治加賀掾藤原好澄と号ス大字の正本に謡本のごとく節を加えて初めて是を出ス夫より九くだり六くたり今大字五行の床本を用ゆ中頃住太夫此太夫浄瑠璃ふし付の小本を出ス
 古老云 昔は五行床本六くだり稽古本といふ物もなく此一曲を学バんと思ふ輩は文段を自分に書写して師にたよりて節付を乞得しが此道日毎に繁昌せしより正本といへる板行出来て太夫の節頌(シシヤウ)墨譜(フシハカセ)奥書ニ青赤の二印を加えて直伝とし人の心をなぐさむる業と成りて七本骨の拍子扇貴人の御手にもふれ給ひ末々迄も月待日待小風呂のうちにて此一ふしの止ことなく若きものはいふもさら也歯抜ケ親仁も老楽ニ何をがなと思へ共鞠に足弱く揚弓に眼さだまらず時に一口の浄瑠璃を語りて興を催しけるそが中に佐々木藤戸の先陣待宵しぐれの道行 [活玉集ニ 道行売 白水 玉ほこの道ゆく人の道艸も道行うりの声にひかれて] 
    おもひ川ほさぬたもとにゆくみつのうき名ながさんはづかしや人ははたちの花ざかり恋にくちなはおしからぬちりのあくたの身をしれバ
 此文段の口眞似をせざるはなかりし此時より道行のふし事大きに流行に及ひ道行のぬき本とて正本の出板無之うちに魁して市中を売たりしが近世は道行を稽古する人稀なるやうに成行ぬ
 
摂陽奇観 巻之二十一
元禄二 己巳
02-325
一 梅渋吉兵衞の積悪
新著聞集第十四 殃禍篇
 大坂聚楽町に梅渋吉兵衞といふもの胡椒頭巾といふ事を始て仕出す程の大悪党也大坂中の両替屋の手代小者の親兄弟在所の荒増をもよく覚えたり皆これ盗の方便にてありし丁銀板を両替屋へ持行子銀にかへ今一度見せよとて丁銀を手に取ると思ヘハ摺替る事神変を得て両替屋ごとに両三度是に逢ざるはなし因て異名を板替の吉兵衞とて恐れしが博奕の事につき牢舎せし元禄二年四月十九日の大赦に獄を出てその五月十九日天王寺や久左衞門小者長吉金子百両替に行を何としてか知りたりけん途にて長吉を呼かけ其方在所より親来りたり云度事あるにより早く逢たきよしいざ来よとて誘なふ長吉聞我は大切の用事なれハ参るまじ心得てたまへ扨汝は誰ぞと問其方在所の者にて親とは入魂する也当地に久しく住て其方は我を見しらねど我はよく見しりたり是非来よ左なくハ親恨ミなんと云けれハ然らハ立ながら参らんと吉兵衞がもとに行ける吉兵衞が妻に小梅とて十五六の年増のを博奕の上手ゆへ妻にせしそれに云置て長吉が後より蒲団を打かぶせけれハヤレ人殺しよと声を立し所を吉兵衞さし殺してげり隣の者壁の破れより窺ひミれハ早脇差の血を洗し外の相借屋かれこれ出合家主与次右衞門にかくといヘハ以の外なる事をいふ人々かなあれは夫婦いさかひ也麁相なる沙汰あらせなと各を帰しけり吉兵衞其金を奪ひ新地堂じま北野にて茶屋をせんとて借宅し用意せし頃小梅が弟三右衞門いかなる故にか妻を離別しけるに其女天王寺屋に落し文して長吉は梅渋吉兵衞夫婦して殺し死骸は三右衞門捨しとそ書たりしかハ頓て公儀へ訴へしに寄騎同心を数多新地に遣したまふ吉兵衞は新町曲輪へ行けれハ六月十九日の夜なりしが〆出しにて吉兵衞を捕ふ小梅三右衞門与次右衞門相借屋召出されしに相借屋はしか/\の断り悉く演て別義なかりき余入は閉口してけれハ獄舎しけり扨死骸ハと尋給ヘハ小初瀬の辺の古井に捨しといひしを頓てさがさせ給ふに色も変せずありし金の御穿鑿ありしに取合セ八十両ばかり出し扨科極りて吉兵衞は磔にかゝり余の三人は大坂追放侍りしに与次右衞門ハ古宇都にかくれ居たりしを訴人ありて首を刎られし小梅は其後子殺しをして磔にかゝりし也
    或人云 天王寺屋久左衞門小者長吉の死骸を葬りし墓は谷町筋寺町久本寺にて今に石塔あるよし扨亦梅渋吉兵衞か仕出したる胡椒頭巾といふものは紙袋に胡椒を入れて往来人の油断を窺ひこれを被かせ右の胡椒にむせてはいまうする隙に腰の巾着懐の物などを奪ふ事を工夫して專ら其頃かゝる悪行をなす者多く殊更船場南本町 [世俗米屋町と呼ふ] 難波橋辺東側は土藏にて片側町の物淋しき所にて多く有し事きそ戯文茜染野中の隠井戸 [元文三年十月豊竹座作者原田良介] といふは此梅渋吉兵衞か小者長吉を殺せし悪事を初めて院本に仕組吉兵衞の吉の字によしといふ声あれハ梅の由兵衞とせしは作者の発明也
 
元禄六 癸酉
02-364
一 八月十日 俳士松寿軒西鶴死 行年五十二歳
 西鶴置土産云
   辞世 人間五十年の究りそれさへ我にはあまりたるにましてや
   浮世の月見過しにけり末二年
     追善
   月に尽ぬ世かたりや二万三千句  如貞
   念仏きく常さへ秋はあハれ也   幸方
   秋の日の道の記作れ死出の旅   万海
   世の露や筆の命の置所      信徳
   残いたか見はつる月を筆の隈   言水
   泣や此礫は折れす秋の風     才麻呂
   力なや松をはなるゝ蔦かつら   団水
 俳家奇人傳云 井原西鶴ハ梅翁の門下にして大坂檀林の一人なり一日佳吉の社頭に於て独吟二万三千句を吐く
夫より二万堂又二万翁とも称せらる松寿軒と号す
   我恋のまつ島もさそ初霞
   平樽や手なく生るゝ花見酒
   長持に春かくれゆく衣かへ
   鯛は花は見ぬ里もありけふの月
   大晦日定なき世の定かな
 此人また国学を以て鳴る其文章人意の外に出るとなん著す所の草紙後世に行ハる
 俳諧うしろ紐云 一年芭蕉翁桃青東武より上りて西鶴に会しける時に
   難波津に只一ト本の紅葉哉 はせを
 とせられけれは
    それはあいさつ武藏野ゝ月
 と脇をせられしと也
  因云 西沢一風の戯文昔米万石通上の巻の枕に
    〽西鶴法師が筆の跡女郎のよれる見世さきには
      たけき虎もかうべをうなたれ
 なとゝ書出して西鶴はよく人情に通じ浮世艸紙の作数種ありまた絃曲春日野は此翁の作なるよし
    春日野・若紫の摺衣しのぶの乱れかきり知られぬ我思ひ置露ハしづ心なき秋風にうつろふ人の濃紫花むらさきの萩がえに乱れ乱るゝ心のつらさ其くりことのまたの夜に君ならでよん/\余所にはサアヱ色はうつさしサァヱ紫の色に心はあらね共深くぞ人を思ひ初めかひも渚に我袖しぼる人目々々忍ぶの我通ひ路を船に打のりおてき達はこぬかのよせつ幾度思ふ宿の首尾とハ思へ共たゞ一筋に此わけしらぬ人ならバたとへ万にいみじきとても玉の盃手にふれよしやんとさせそこはいよ/\しられぬか君に逢夜は待乳山手に摘ていつしかもみん紫のねに通ひ行うたゝ寝の君の/\おほせは実ツとは見へぬヱしんぞ此身ハ/\涙もろふてういぞつらいぞヱ枕もうく斗りヱわけの/\よいにはいよほださるゝヱしんぞ此身はしんぞ此身は涙もろふてういぞつらいぞへ枕もうく斗りヱ
 
元禄七 甲戌 八十年
02-368
一 当夏六月廿四日より十月迄洛東真如堂にて信州善光寺如来開長有之夫より大坂へ御下向ニ而四天王寺ニ於て開帳これ善光寺如来大坂初ての開長ニ付参詣群集ス
   因云 世に角太夫ぶしといふ浄瑠璃あり元祖角太夫受領して山本土佐掾といふあやつり芝居凡仏道の霊験ある事を戯作ス 天親菩薩、伝教大師記、女人往生記、天王寺彼岸中日、一心二河白道、因幡堂開長、四十八願記、善光寺、等也、信州善光寺如来京都または大坂へ出開長之節は必ズ角太夫の芝居其辺りにて興行に及ぶ其節の絵本次ニあり
 
02-369
絵本 信濃の国 ぜんかうじ御りしやう記 上 【翻刻(370-372)略】
図 善光寺御利生記 上 善光寺御利生記 上
02-373
絵本 しなののくに ぜんかうじ御利生記 下 【翻刻(374-376)略】
図 善光寺御利生記 下 善光寺御利生記 下
02-377
図 善光寺絵番付   三善光寺絵番付 二善光寺絵番付 一善光寺絵番付題簽
図 六善光寺絵番付 五善光寺絵番付 四善光寺絵番付
山本平太夫 山本角太夫 山本源太夫
 
摂陽奇観 巻二十二
元禄八 乙亥
02-427
一 十二月七日 三勝半七千日にて心中
 公へ訴状并ニ両人之書置其余因ミある事を集め別巻ニ著ス
 
元禄九 丙子
02-437
一 曽根崎村より上福島の間片原町の新地と成ル
 其頃の世俗新色里といひて賑ハふ色茶屋の光景又は茶代物日身あがりなどの権輿を知らんか為其證とする引書元禄の末に出板ス
  色茶屋諸分車
   ▲山衆大名寄         新地中町筋
  ○新地蜆川之部        ○法花やしきより西
 大和屋内  くめ  小かん  丸屋内   とめ   すま
 あさや内  あさ  ちよ   天王寺や内 つや   げん
 はりまや内 すが  くら   笹屋内   はぎ   長
 いとや内  小ぎん いさ   万屋内   きわ   よつ
 京屋内   くら  かね   柏屋内   九よ   げん
 しほや内  ひさ  いさ   京屋内   さの   はや
 さゝや内  とよ  ぬい   天満や内  げん   きよ
 こいや内  きく  さの   ゑびすや内 きよ   わさ
 淡路屋内  ゆか  ちよ   河内屋内  いう   らん
 ひしや内  くら  さわ   おか山や内 しほ   るい
 浜松や内  ゆり  いさ   福島や内  こしゆん 長
 中島や内  いさ  しな   あふミや内 おぎ   ふさ
 まるや内  あさ  小せん  大黒や内  はや   おぎ
 ゑびすや内 小ぎん ぬい   天まや内  らん   小しゆん
 松坂屋内  おぎ  さよ   松や内   梅がえ  もなか
 丹波屋内  やま  わさ   丸や内   せき   あさ
 若松屋内  むら  げん   さかいや内 ぬい   さよ
 大黒屋内  きし  まさ   井筒や内  りし   さが
 大文字や内 ふじ  小しゆん ふくずミや内 もなか こまさき
 京まるや内 きよ  こぎく  京もつからや内 つね しほ
 大坂や内  つま  つね   京や内   しも   いち
    [諸分車ハ元禄十六 天まやお初心中の後ニ出板 其比の色茶屋坐敷の風情を知らせんため文中をこゝに抜萃ス]
 
02-439
  同書ニ 昔々の山衆の咄茶や一軒に壹人リと定客五人三人ないしふたりひとりにも壹人の女を座敷のまん中に取まハしめつたのミの酒あばれ喰の肴しよばせい/\の方ハ物かハ床入のおかしさ立かハり入かハり振鬮もミ鬮を取て□□を損といどミあふ是目前間男の振り売しつ〔此ノ所七字抹消〕仕るがことしされバ濡れにもろき客も恋を残す事なけれバ茶屋念仏講と沙汰してをのづから此里淋しく次第に傾国俳徊し色道の上もり成し事相方を定め意気地よきから也其後色茶屋にかしこいやつが思案の眉をひそめ茶立女の数をならべ客の相方を究め少しは意気地を立殊ニ半切紙たやさずまめにござんすか御息才なか此里も替らず無事で勤ましてのおかしからざるのと折節の届ケ文見るに見まねに隣りの向ひの横まちうらの町の山衆共其気ニ成りおのれ/\が智恵競して逢るゝより十露盤はぢく客酒すき遊び好なる大臣騒ぎ出られ大黒屋のきしめは器量よく若松屋のいさは床がようてそんじよ何屋の誰はしやミを引そいつは酒あいがようてどうでかうでと題目すゝめるごとくケ様に申がいつわりなら三匁損すると思ひ是非今宵いて見よとそゝなかされ下地は好也御意はよし十度いて卅匁儘よといふ 無分別を先に立初めて茶屋の座敷にあがり酒のんで肴くて吸物すうて床入は新町のやうにすんとせずべつたりとしために逢され誠ニ下直の色遊び此うへ何かあらんと大かた是にじゆほうすれバ此目色を見てかしこい山衆別れのかね言にかんまへて外の悪所へ往て下さんすな 客「何のいかふぞ 山「然らバ誓ひを立さんせと〔此ノ所七字抹消〕傾国より茶国ニ至る迄よくたもつやいなや南無にうぼうれんげ経と口を□□□帰せバもとより愚かなうつじん立頭を八千八度ふつてびやくらいたまる物でない誰ゆけ我ゆけ今日只今より傾国やめ申と去とはきつい御しんたくかうしたことより色茶屋繁栄し次第々々に御もつたいが付てざしきの品作さかあい口舌のせりふも作者殿が引廻さるゝかしてつまり/\のおとしよく少は意気地の面白ふ成りしハ相方を極めるから也右ハ茶代二寸五分なりしを近年三寸に直打上られしはおミきのあがりから也なれ共日々に繁昌する事茶や衆の仕合山衆達のよろこび
  扨近年山衆物日勤らるゝ事傾国ニ替らず何の為にや腹すぢが宿替する程おかし雁が飛へば石亀もじだんだとやら五体不具にしては仏には成がたしつく/\是をかんがみるに茶屋次第に繁昌し傾国日々に衰ふ是よりして諸国の傾城町より十露盤に合ぬ女郎など道頓堀ほり江蜆川へ奉公に出せバ廓にて門より外ミぬ女郎何がなかこ付て芝居物参りを心がけまたい客には天王寺参りがしたい事じやと一日を五度の客代三五の十五匁と定メ親方手前埒明下女ひとり供につれあるきたい所を歩行て戻れバつらい勤も晴渡る空の景色詠めやる嬉しさ今からいきたい所のあらバ客衆そゝなかしていたがよい廓にて物日勤るは籠の中のなぐさミ行々かうした事の例になれかし中宿拵へまゝに逢れぬ恋男間夫しかけにて逢れそふな物と傍輩鼻付合し談合すれバ山衆といふ山衆に恋のない山衆もなけれバ皆其気にうつり我も/\と客をだまし芝居からそん所何屋の誰がもとで夕飯さしてといふ談合茶屋には酒のまれず肴喰れず畳の表そこねぬも徳と親方門トを並べて談合きハめ今日より傾国のごとく物日には傍輩残らず売切候へ昼の内十五匁よる十五匁と定けるにぞ浮気な山衆前後の思案なく嬉しや星をくらハしたと智恵ない親方に智恵を付ケ買人有時は大きな顔して見らるれど必ズ心宛当が違ふては過分が悪ひといふては身揚りし外町を是見よがしに歩行バァリャ山衆じや何と水際の立た物ではないか何所やらがはすハでげびた物じやとよしない名を立られニ歩行がごとし其うへ傍輩と張合親方の手前など思ひ身揚りして物日勤る事無分別也物日勤めず見世ざらしに成ても客は有ものよろつかんにんして此里のくげんを早くのがれ給へ [此文段は天満屋の見世にてお初存生の時のもやう也] 過つる夜年の頃六十余りの禅門茶縮緬の引返し小紋小米島の襂に麻の丸頭巾花色繻子の丸 粋帯に一ツ印籠腰は二重に撞木杖つれ二人は若いお衆いつれも賎しからぬ風俗此禅門悪性の先達にやいづれも爰にて遊バん是々女郎身が手を引て座敷の案内めされといへど誰か引んといふ人なし見兼てわしお初の詞也傍に寄りお案内申ませうと手を取そろ/\歩む片手にいやらしいわしが手を〆くさつてハテ扨そなたはやさしい今宵の枕はそもじしやとあたまから老にほれたかぬれ詞いかにもお心任せといふを幸ひわしが膝を枕とし夫々酒はじめとの給ふ所へ傍輩方三四人出さんして車座に直れバ此親父紙入より目鏡を出し女郎衆の顔ひとり/\詠めて廻りいづれも見事な器量じや扨お名ハと尋ね硯取よせ手帳にしるし盃つらりと廻ツてから印籠の口をひらき豆板一ツヽ肴にはさめバ女郎さん方は見向もせず同じ事であんすといはれ心志の肴殊ニ正味じや次第不同は各々方の肩じや大かた壹分五厘より壹分迄の銀なれバ足らいで五厘ちいそうていやかも知らねど二ツ宛は大義な心よく取られといへ共いかな事手を出すものなし爰な女中はかねがきらいか然は是をとけし人形を出せバ爰へもかしこへもと思ひ/\に一ツ二ツづゝ取勝手へ迯ればそち達を遊バせん為大事の人形取らせたるに皆呼んで来ひもしうせずんバ取返せと怒らるゝ安い物何じやほしくバ進ぜませうシタが女郎さん方はどれを呼んすハテ皆呼べといふにイヤそうした事ではござんせぬ皆さんの相方今の内では何れに被成ますといふ事ムヽ聞へた我々が望ミを呼べといふ事か是々若い衆めずき次第酒の相手を取られよ身は此はつに極めて置たとあざにぎつたやうにして居る憎さ然らバ誰々と指図を極め相方座敷へ直りて盃まハるや廻らぬ内はつさまかりませうヲイといふて座敷を立暫して帰ると又しまさまかりませうヲイといふて勝手に出れば禅門にが/\しき顔してそち達は何をかしに行事ぞいまだ酒一へん廻らぬ内三人の女ぼう尻のすはる間なくかりませよに隙取事凡半時斗りこちとらはなぐさミに来たぞやそち達がかしかりのあいさつには来ぬぞ余ツ程にたわけを尽せといふになんじや素人らしい能年をしてこなさまより若ひお衆さへ知らぬ顔して居さんすにちと了簡もさんせといへばさらば若ひ衆は御の字の付たたハけで三匁の銀遣ひながらかりませよ/\を肴に酒ばかりのんで戻らるゝさうなこちとらは成ませぬそして肴も是でよいかさらバ算用して見んと懐より小サイ十露盤出シ惣輪台に何々かまぼこ一枚二分五厘蛸の足壹本五厘焼玉子三分みづからが壹分ひやし物白瓜わかね壹分五厘酒三度替たを見れば四合もあらん壹匁二分酒にして五分が物吸物は小さい鱸一きれツヽ三人に片身は入まい何か打込んでしゆらい弐匁三人の茶代九匁取れバ七匁残る山衆の骨折代が七匁には高い新町の□□げちとは二分がた見にくい其内はつは一匁四五分づゝと見ゆる是をならし壹匁づゝとして三匁は古かね買が見ても直打がある残る四匁がついへなかね物は談合床入なしに帰らふが四匁まけ五匁の茶代でいなして呉まいかといふ憎さ三人口を揃へ夫程大義なら来ぬがよいけたいの悪ひ客じやと座敷を立それこそ幸ひ然らバ帰らん誰秤と五匁懸て渡せバ勝手から料理人の七兵衞罷出秤目が違ひましたかして四匁軽うござりますといば親仁ぬからぬ顔して其筈/\四匁はかりましよ/\代に引たと思ひも寄らぬ返答七兵衞腹を立三人の茶代に五匁取た例しがない殊にかりましよ代に引とは茶屋始つてない事をめさる殿の御馬もかれバ三日何ぞ此方一軒にする事か井の内の蛙大海を知らず今宵が色茶屋の初めか返答次第に取まいと座を打てわめけバ禅門少もひるまずヤイ男人にはつかふ詞あり理非をも不聞天窓からおろすハ誤で有ふ誰にもせよ此里へ来る人酒肴珍らしうては来ぬぞや色といふ字にこそ引れて廻れ今宵しばしのうち誰かろ人かろと呼び立るに間なけれバ床に入て物一ツ語る事なし尤所全盛にて跡客段々お出に付相方を呼び立商内させん為のかりましよで有ふけれどあんまりかりましよ沢山で遊ぶ心がせぬ床を振る合点からハ茶代をいふ程はやられまい夫でもほしくば取て見よと小間銀二三合出せバ花車走り出成程御尤ニ存じます此座敷へお上り被成ますれバ酒まいりませいでも床入なふても三匁はお払ひ被成ます又女をかりませうと申は追々お客が見へますゆへ御馳走の為其相方を呼びあげましてから本座へ戻しますかやうの事御了簡なくては茶屋は何所で立ませう是程申ても聞分ケなふ銀を掛直して遣ハされねバ是非に及びませぬといへ共禅門かぶりをふり是々花車殿皆迄いやるな其手はくわぬ只今男がいふには殿の馬も借れバ三日といふあハれかつて戻さずバ五匁は扨置五リンも払ハぬ分別尤そなたの断り知らぬではなし見らるゝごとく六十に余り此里へ来るからはよつほどの老ぼれじや其客に成て十度かりませうを聞た然れバ客を十口めされたで有ふ外に座敷有かも知らねど見へ渡りたる座敷なれバ客あるないハ知れた事前後に一口ならで客の声を不聞惣じて遊バんと思ふ客は相方出ずと上リそふな物也山衆の顔見て上るをのら作といふぞや最前より酒のむ間なく床は存じもよらず遊山には参らいできうめいに来たそうな人は兎もあれかうした御馳走にありべかゝりの銀払ふた事なしケ様にいふがきつくわいなら公事ミやでもめされ拙者がまけたら九百目やろう五匁にも高い物じやと掛直スべき景色なけれバ勝手より亭主花車を呼び此親仁たゞものならずなま中利屈をいふて後日に迷惑せんより五匁取ていなせといふより尤とうなづき唯今亭主帰られ様子を承り段々御尤ニ存じますいか様共お心任せに被成ませいと申ますといわれ夫は亭主のよい合点然らバ帰ると五匁払ひさらバ/\あんまり繁昌を鼻に当テ客に我まゝめされたら身の為あしかるべしといなせりふしていなれました何と珍らしい客ではござんせぬかとわざ/\しらせまいらせ候かしく はつより
      とく様まいる
 古本難波丸 元禄九子年上木
   新地茶屋合五十軒 外ニ煮売茶屋廿一軒 三所ニ有り 堂島新地北町 同裏町 福島新堀一丁目 二丁目 新川北一丁目より三丁目まで 同南一丁目より四丁目まで
 元禄中大坂之図ニ 新川とあるは則チ今の蜆川ニ而此頃は蜆橋もなし其下ニ古橋といふあり曽根崎橋 桜橋緑橋もなく梅田橋あり 元禄十六年四月おはつ徳兵衞心中の道行の文ニ
      〽北斗はさえて影うつる星の妹背の銀河梅田の橋をかさゝぎのはしと契りていつ迄も運云々
浄正橋なし汐津橋あり堂島小橋なし此下大川に至るとあり其後享保年間紙治小はる心中の道行橋つくしの文段にはもはや当代のごとく悉く橋の名ありて纔廿年の間に小橋繁く架りたるも土地繁昌なす故也此地浜納屋裏町残らず十余町人家建続き安永の頃は曽根崎新地壹丁目二丁目三丁目ニ茶屋株五十八軒堂島新地ニ茶屋株六十三軒ありしが当時は堂島に住治のミ一家残りて曽根嵜新地の娼家繁昌ニ及ぶ
 浪華色八卦 [宝暦六年上木]
    蜆川曽根崎新地は万物発生の所にして其女郎の風俗は新町と京の祇園町を合法して夫より一段拙き位也強き共なくやすらかなる趣ゆへ拙からず蜆川北側呼屋一丁目より初て三丁目四丁目迄透間もなく座敷の工合庭のとりかた皆同じ行かた也南へ渡つては大茶屋鯉新鯉作松坂屋菱屋名高し
此変卦に中町といへるハ格別ことかわりたりいかなるゆゑんにやうちかけしての店つき [此辺の女郎往古よりうちかけを着ルお初天神記天満屋の段ニお初が襠の裾へ徳兵衞を隠ス事あるにても知るべし奥ニ画図あり]  一体現銀立の所にて遊ぶへき客を見立て引込ミ木戸といふ下女さだめのこときわめて奥座敷へ客を通す欄干付の椽ニ庭は泉水に蘇鉄きりしまあしらひ痩枯た石台の蘭小便箱の傍にすへ手拭かけ嚴也奈良の木辻のもやう思ひ出らるゝ盃か出ると店にありたけの女郎どや/\と出て来て百万遍くるやうに居ならヘバどれ是と指図して其夜の君を定る也取肴やうのもの硯蓋きつしくに取合せ薄平たい大鉢に花のある物をかい敷して作り身を歌かるた程に切り立蛇の鱗のやうに並へて伏見焼の摺鉢にした小皿へ盛り分て指出し床の段に成ても置屋ての遊ひなれバセりふ口舌もなし
    こつほり町ハ蜆川の東ニ続ひてはるかに品くだりたる所他店つきをなして局めきたるも見へたり
 浪華今八卦 安永二年上木
    色八卦の時代に少もかハらず女郎芸子のいきぢも前に替る事なし蜆川北かわ東の始より西の果迄茶屋の間々にある刻多葉粉屋袋物屋惣体もやうのいきごミ寸分前ニ違ハずかわりたるは南側の菱屋鯉屋松坂屋面影なきこそ変卦也此変卦に中町といへるは色八卦時代より甚おとろへて今はやう/\二三軒残る
    山崎といふ所是も近来のわき物其はじめは料理屋田楽屋ニおこり花火の見物所なりしか今は色線香を焚て一ト切二タ切の定めと成り這入たがさいご外へ抜る所なく是を号て鼠袋町といふ屏風の極楽落しにかゝる事疑ひなし
    同色八卦の時代になかりし猶村屋敷梅が枝新地大経寺前新屋敷といふはお初天神よりいなり山の近辺菜種御殿といへる右五ケ所大かた同時ニ涌出せし所也
 
図 女夫星浮名天神 女夫星浮名天神
 
元禄十四 辛巳
02-466
一 五月 竹本義太夫勅許受領
 筑後掾藤原博教と号ス 今年五十一歳
 
元禄十五 壬午
02-472
一 同(正月) 十四日 赤穂義士萱野三平自殺
【以下略】
 
02-474
一 五月 道頓堀ニ豊竹若太夫常芝居興行始
五月廿八日よリ
  前 浄瑠璃 末広十二段
  切 心中涙の玉の井      此浄るりにや不詳
 先年元禄十二年三月若太夫芝居興行初メ今年より常芝居と成ル
 
02-475
一 八月十五日 矢頭長助教照卒
  【以下略】
 
02-476
一 八月廿六日 五人男獄門
 浪花の五人男はもと無頼のあぶれ者也元禄十四年六月六日ノ夜大坂南久宝寺町四丁目河内屋五兵衞が雇人喜兵衞といふもの同町三木屋勘兵衞下人五郎といふ者と西横堀の浜側に納涼し家に帰らんとて北久太郎町の浜側を過ける特上難波町に住ム木挽庚申ノ勘兵衞同町板屋三右衞門が下人市兵衞といふ者喜兵衞五郎に喧嘩を仕かけ互ニつかみ合ふ所へ博労町のあぶれもの庵ノ平兵衞来かゝりて懐剣を以て喜兵衞が(アバラ)を突やぶり立去ける是より事りて翌年八月廿六日さしも虎狼のごとく人もおそれたる五人男等終に法場に屍をさらせり雁金文七を七組の頭とす又此外にかいたてノ吉右衞門喧嘩屋五郎右衞門とんび勘右衞門からくり六兵衞なんどいふあぶれもの川船水手の飛乗して半侠半賊の悪徒なりしがこれも同時に路傍の霜と消ぬ又讃岐屋町道具屋与兵衞といふ者異名を親仁の三郎(サブ)といふ元あぶれ者にあらね共彼等ニ脇差を貸て是をさゝせ其恩をもて群集の場所のうしろ楯とせしゆへ追放仰付らるゝ
        巳六月十九日入牢二度入
                    奈良屋町雁金屋七兵衞後家同家悴
        元禄十五年午八月廿六日
            死罪獄門         雁金文七
                           生所大坂年十八
        巳六月廿二日入牢
                    立売堀中之町今津屋七兵衞借家 極印屋正三郎悴
        元禄十五年八月廿六日
            死罪獄門         極印ノ千右衞門
                           生所大坂年廿三
                    博労町河内屋吉右衞門借屋
            同断           菴ノ平兵衞
                           年三十歳
                    坂本町加島屋太兵衞借家
            同断           雷ノ庄九郎
                           年三十一歳
        午六月廿二日入牢二度入
            死罪獄門 宿なし     ほてノ市右衞門
                           年廿九歳
 [ほての市右衞門ハ天満六丁目七兵衞悴といふ、劇場にて布袋と変名ス]
        巳十二月廿二日牢死 西笹町槌屋吉右衞門借屋中仕吉左衞門 同家の弟
                         かいたてノ吉右衞門
        巳十二月三日牢死         喧嘩屋五郎右衞門
                           年卅七歳
                  衽町増田屋長右衞門借家 次兵衞後家悴
        午八月廿日牢死          とんび勘右衞門
                           年廿四歳
        午四月廿九日牢死 宿なし     からくり六兵衞
        元禄十六年末七月八日
                  讃岐屋町播磨屋市兵衞借屋 六兵衞養子
        摂河両国御追放
                         親仁ノ与兵衞
                           年廿七歳
雁金文七極印ノ千右衞門の墓高津正法寺境内ニ有
        元禄十五壬午八月廿六日 台石に
          法受院順亮日随         かりかねや
             俗名 こくいや千右衞門
          薩達磨円志霊
           妙法経力 元禄十五壬午天
           即身成仏 八月廿六日
 千日墓所には五人男の俗名斗り彫したる石碑雷神木の東なる石碑の中にあり
 天王寺の塔中に雁金文七が奉納せし八島合戦の絵馬ありしが [寿永忠度の画共いふ] 近頃伽藍回禄の時うせて今はなし或人云薬師堂にあり貞享五年奉納とあり左あれハ雁金文七十三四の頃也
 廓中一覧云 佐渡島町備前屋某抱の女郎清川は五人男の魁主雁金文七より名を発ス実は清瀧といふ卑品の妓也 [名を作り替て芝居きやうげんに用ゆ] 元禄中の妓也
 宇治加賀掾の院本 雁金文七第二に初めて清川と書たり
    〽恋の山情の海の深うして全盛の船こき寄する浮気の湊すがたの市智あるも愚成けるも色の手ならひいきかたをよねのしなんによる糸の結びとゞめて其人の粋になさぬはなかりけりほだしの里や四筋町夜店の燈シくらくとも心の光り清川とてながれにじつをかけ渡す端女郎の中にても恋といふ字は有明のつき出しよりも文七とかはるまいとの誓紙まで書たる文もいたづらに 下略
同書 清川道行
  上略
    〽渚に残る水鳥と声をくらべて商ふはさながら京のすあひらし召セ/\めされや手のごひ腰帯旅ゆがけ針や白粉楊枝さしに塞紅粉かうがい針さしはさミ毛ぬきに櫛手箱御影堂や祐仙が直筆扇奈良団かるたこきりこびんざゝらひとり笑ひのでつこのぼうわかいこたちのお手の道具きハずミかけがうやたき物小田原うゐらう墨筆雁金の文七や曽根崎のお初が心中画ざうし空直ござせぬサア/\めせ/\買んセぬかと売声はきやしやではすハでしやんとして扨さすが都の詞と思ひながらもうるさきは文七様と売声の耳につらぬき気も消て涙いやます斗り也 下略
 此文中のもやうにては都のすはひ女船にて小間もの画艸紙などを商ひ登り船に付たるよし
 其角が句に 文七にふまるな庭のかたつふり
  此句は寂蓮法師の哥の上の五文字をかへて俳諧の句となしたる也
    牛の子にふまるな庭のかたつふり角ありとても身をハたのまし
 人多くはこれを鴈金文七と思へり左にあらず是は元結屋の文七也彼が製する元ゆひは強うして切るゝことなし世に名高きもの也今に文七元結とて其名残れり其角が著す北の窓といふ書に我棲北隣には芦荻しげく生で笹阿めなる地あり茅場町といふ名にふれて昔は海辺なりしを今は栄行家作して山王権現の御旅所とさだめ薬師仏たち給ふ下略北隣の空地はもとゆひこく所となりたる事此文にあり雁金文七ハ後の世雑劇に作りて五人男などゝ称すれ共侠客にはあらであバれもの也彼は大坂奈良屋町雁金屋七兵衞寡婦同家の悴也市中をあばれ行往来の人に手疵負せるゆへ元禄十二年卯四月廿三日父母の願ひにて牢舎いたし置けるに其内父大切に煩ひて五月十五日身空しくなりぬ其母一子の愛情ふかく六月廿七日赦免を願ひ牢を出す然るに悪事猶つのりて遂に刑罰にあたりて死せり其角が頃にハかゝる悪棍(ワルモノ)を句にむすびこむべからず
 廓中一覧云 瓢箪町通不立端午幟由來故伝諸説有て未決姑置而不論
 世俗云 五人男新町の廓にて召捕るゝ節端午の節句にて門々に小幟を餝りありしが其竿によぢのぼり屋上を迯歩行たる事ありし故今は通筋に幟を立ざるよしこれ妄説也五人男は六月に召捕られ八月に死罪に及べり廓中は御用地ゆへ通り筋に正月の門松を立ず瓢箪町筋斗りの故実とす横町其余隣町ハ構なし端午の幟も門松に準じて通り筋男子ある家々は居宅の裏に立る也
 雄世五双伝云 丹波国船井郡園部小出信濃守殿家士用人小林右膳三百石仲間文平といふもの主家より暇出て其後大坂阿波座ニ住居し鴈金屋文右衞門と呼て紺かきを業とす其子を鴈金屋文七といふ丹州千ケ畑法常寺末寺法求寺に五人男の石碑有よし虚実は知らず
 
摂陽奇観 巻二十三
元禄十六 癸未
02-483
一 四月七日夜 おはつ徳兵衞梅田ニ而心中
               内本町橋詰 平野屋手代
                  徳兵衞
 曽根崎の森棕櫚の樹下ニ而死ス
               新地新茶屋町 天満屋女郎
                  おはつ
 おはつの墓は梅田墓所火屋の南手水鉢の辺ニあり石塔の図左ニ著ス南面ニ追善の歌あり
図 天満屋おはつの墓 天満屋おはつの墓
    おしやさてさかりの花に風そひて
      しての山路へはやくちりゆく
 浄瑠璃外題年鑑云 此心中四月廿三日の事也と記せ共石面ニ四月七日と彫付あれハ是を證とす同年五月七日よりおはつ徳兵衞曽根崎の心中おはつ天神記といへる浄瑠璃を出し同年十一月迄竹本氏古今の大当り作者近松門左衞門世話浄瑠璃の権輿とす夫より追々源五兵衞おまん薩摩哥おふさ徳兵衞心中重井筒おなつ清十郎笠物狂など作り出して大当りを取れり此頃世間に男女の相対死心中といへる事多く有之故今年心中恋の塊りといふ草紙出板ス目録奥ニ著ス此さうしにはおはつ年廿一徳兵衞廿五とあれ共お初天神記の戯文道行知死期の霜の文段には
  〽まことにことしハこなさまも廿五さいのやくのとしわしも十九のやくとしとて思ひあふたるやくだゝり
 とあれハお初は十九歳にて有しにや
 
色茶屋諸分車云 【年表 1-030】
  ○町中客サマ方へ〽天まや内より
 さて皆様へお断りを申あけます恥しながら私は身をしやれ貝とつらねし蜆川思ひと恋の中町情を商売にして夕ァ/\の枕に残し起臥のうつり香をひとりにのこさず飛鳥川の淵瀬にかハりやすきうきふしの身どなたにも御存の女郎天まやのはつ様と申ハ私が姉女郎おいとしやはつ様の事は過つる元禄十に六つあまる卯月そね崎の森にて平徳様といふ客と心中してゆふべの露きへて跡なき悌又見ることもなく/\本伝寺久誠寺様に名のミ残し石塔の文字さへうとく妙姓りやうかと昔にかハる粧ひ雨にうたれ風に吹れ小僧同宿が題目の声を江戸さんがいに聞かへしん/\たる虫のこゑほう/\たる草をしとねに思へば人界の有様ほどあぢきなき物はなかりき当世女郎さん方の心中ミち/\たりといへ共はつ様の御事ハかねての心バせにかハらず御さいごもいさぎよく誠に恋する人の手本にも成べしと其名を四方に高やぐらかぶきはさら也殊ニ竹本氏此一曲をかなでしに老たるも若きも此一ふしをもてはやせば豊竹氏は其後日遊女誠草といふを語出し西は長崎おらんだ南京のちんぶんかん迄かぶりをふりどうで女房にやもちやさんすまいを語るもおかし其外賎の女しづのを迄是とく様をしらぬ人なく東国迄にみち今江戸にては半太夫殿迄かたらんす勿論京にてはおやぢ方の加賀掾しらがあたまをふつて子細の有ほどこねまハしてさへ見ぬミやこ人袖をしぼらぬはなし在々にても此心中を知らねバ村の付合がないとはあんまりなる風聞諷ふも舞ふも法の声はつとく様は此世からの生仏さだめしよい所へ生れさんしよと嬉しかなしく涙かハくひまなし 下略
 お初天神記の院本に竹本筑後掾近松氏の序文あり浄るりの序文もこれを権輿とするか
 
02-486
  心中恋の塊り 并ニ名寄鹿子
    目録
廿三夜待の恋     春の彼岸ニいたるかのきし 二人が血汐は恋のかたまり
あいぼれハ末の老松  殿さまは小性びいき奥様はこしもとびいきそれて二人が恋のかたまり
評判の紋所      おちやのよいのは亭主の馳走 それて客衆の恋のかたまり
留主事の有台所    さし合をおくりておゐて それて跡は恋のかたまり
世に色酒は銭銀次第  内ニひとりが命がけあふない事も恋のかたまり
夫婦の縁旅は道づれ  ねやのはなしはお江戸さんがい それて戻るも恋のかたまり
若後家二人姉妹    あるじの貞女は乙の仕合吉三日かけ落恋のかたまり
取違へたる蚊屋の内  夢かうつゝかしらぬか仏 けさのおかしさ恋のかたまり
かぶき芝居恋の中立  下女からなづく包みがね のぼる二階が恋のかたまり
加茂川血汐の水盃   口舌が過た男なき涙の種は恋のかたまり

  京大板堺心中がのこ 名寄所付
内蔵の剣       久太郎町三丁目丸屋娘お梅 年十七 男ハ内の手代五兵衛 年廿七
松本芝居のうしろ   新町通筋一丁目播磨屋局すみの江 年廿七 男ハ内本町上三丁大和屋九兵衛 廿八
曽根崎の松      新地新茶屋町天満やお山おはつ 年廿一 男ハ内本町橋詰平のや手代徳兵衛 廿五
陰干の合羽      油町茶碗屋かるもとは木や天神出羽手かけもの 年卅一歳 同弟喜兵衛も相果 男ハ南久宝寺町升や権兵衛 年卅二歳
生玉馬場崎      堀江南浜川明石屋おつね 年十九 男長堀平野や手代治兵衛 年廿五
願教寺堀女敵     さつまや下女中ゐおたま 年廿四 男ハ同久三名ハ七兵衞 年二十九 かたきハ同手代嘉兵衞 年廿七
二階は男部屋     安堂寺町堺すじ平野やうば 年卅一歳 同立町いしやの下男七兵衛 年三十歳
北野神明の前     中の島わんや内およし 年十九 男ハ大工町けんかく内六尺半平 廿四
加茂川の末      さハら木町堀川西へ入 八百屋娘おしゆん 廿一 男ハ小川通戎川上ル 米屋庄兵衛 廿四
黒谷の帰り花     男寺町竹や内長太郎 年十六 女同町となり娘おりん とし十五
天王寺元尼寺     堀江茶や山衆きよ 廿一歳 男ハ侍杢兵衛 年卅一歳
天王寺庚申堂     堀江御池通天満やおきよ 年十九 男いかりや又兵衞 年廿六
坪の内は飛石     堀江御池筋けまやきてう 年廿二元ハ新町女郎 男ばくろう町らくかんや七郎右衛門 年廿六
堀江の座敷      茶屋扇やかゝえ女おきよ 年十九 男ハむすこ清太郎前かみ とし十七
清水舞台下      新町通筋一丁目ひろしまや松坂 首しめ心中 男ハかわら町せつたや七兵衛 身投心中
和州八木村      百姓の子午之介 年十七 女ハ其辺のつとめ者 しのふ廿二 女の方よりしかけ心中
唐崎一ツ心中     間の町戎川おふさ 年廿四 男ハ丸田町東洞院屏風や忠兵衛廿七
堺の浦波       材木町ひしや娘おはつ 年十六 井戸へ身なげ心中 男は内手代久兵衛 年廿五 二人か心ふかい中

  此外珍敷心中出来次第跡より書加え追々出し申候方々所々に名のなき心中数多有之候得共爰ニ略ス
跋
  恋といふ字ハ男女の中荷ひ勿体なくもふたはしらの御神を息つえにして朝も晩も夜も夜半もかせきまハりつまる所ハみしかいうき世と心中死所一枚の絵草紙の噂にのるとかく此一筋ハ死なさやむまいこのおもひ
    元禄十六癸末年七月吉日   万屋彦太郎板
 
02-513
色里夢想鏡
色里夢想鏡4 3色里夢想鏡3 2色里夢想鏡2 1色里夢想鏡1
色里夢想鏡8 7色里夢想鏡7 6色里夢想鏡6 5色里夢想鏡5
12色里夢想鏡12 11色里夢想鏡11 10色里夢想鏡10 9色里夢想鏡9
16色里夢想鏡16 15色里夢想鏡15 14色里夢想鏡14 13色里夢想鏡13
20色里夢想鏡20 19色里夢想鏡19 18色里夢想鏡18 17色里夢想鏡17
 
 
摂陽奇観 巻二十四ノ上
宝永二 乙酉
03-004 【年表 1-032】
一 閏四月 おかげ参り
 当月末つかたより伊勢太神宮御利生の事ありとて京大坂より童男童女七八歳を初め十四五歳の子供ぬけ参宮致シ有福の人々米銭旅中の調度を思ひ/\に持出て参詣人にあたへ江州膳所の城主よりほうしや船を出され又伊勢路の所々には貧しき参詣人の為にいたハりの宿はたご有七八月に至れバ遠国よりの参詣夥し是をおかげ参りといひあへり
    乙女織ニ云 錦文流作
 元禄の年号目出たく宝永にかハりぬ有難や伊勢太神宮詫しての玉ハく粟万石の数ほど氏子を御覧あるへき神勅家々の軒におはらへ降る事偏ニ雨のごとくあられのごとく誰告るとなけれ共東国の方より参り初て程なく都にうつり来て大坂へわたり西国におしひろまり神風南北に吹つたへ老若男女貴賎わきて六七歳以上のわらハ共路銀も持たず旅の用意もなく飛出々々夢にも知らぬ神路山へと心ざし其身其まゝ歩行はだしにて参る事ねくらを出る群雀朝日にむかふに似たりま事にかゝる事は古き書にも見えず古老の伝話にも聞ず云々
    伊勢太神宮続神異記云
 閏四月廿一日の朝より大坂中七八十四五の子共家並に二人三人ツヽ逸参しけるを親仁方節句前いそがハしき時分なれハ堅く制すれども不用朝より暮まて逸参の子共一万余とも聞へしこれハ八間屋の者ものかたり也其外初舞初瀬ごへ京海道かちにて参るもの幾らといふ事を不知其翌日雨ふりけれとも夫もいとハず我も/\と町々より崩かゝりまくれ出尺地錐を立る処もなし其うへ八間屋への逸参見物人入乱れ歩行やはだしの体比すべきやうそなかりける廿二日三日の逸参り凡七万余とも申あへり此故に町々の有徳人所々へ逸参の助成を出し或は銭団扇手拭赤袋杖わらんす薬鼻紙又ハ銀を壹ツづゝ出すもあり思ひ/\こゝろ/\に饗応筆にもつくされず爰に日本橋の助成の出店の者とも口論を仕出し双方既になんぎに及バんとする処に忝も其中へ御祓ふり給ふ両方の喧嘩はいふに不及町々是を聞てほどこしを大事と催しむ也
一 閏四月七八日の比より逸参権輿(はじまり)京洛中洛外壹軒より二三人ツヽのつもりより過たり凡逸参り人数の覚此内少ツヽの多少ハ同上と書
一 閏四月九日 二三千人 十日  同上   十一日 二三万人  十二日 三四万人
    十三日 十万人  十四日 十万余  十五日 同上    十六日 同上
    十七日 三四万人 十八日 同上   十九日 同上     廿日 同上
    廿一日 同上   廿二日 同上   廿三日 同上    廿四日 同上
    廿五日 同上   廿六日 五六万人 廿七日 八九万人  廿八日 十二三万人
    廿九日 同上
右七八九日比より大坂逸参りあり
   五月朔日 七八万人  二日 四五万人  三日 十二三万人  四日 同上
     五日 同上    六日 同上    七日 同上     八日 十四五万人
     九日 同上    十日 同上   十一日 十七八万人 十二日 十万人
    十三日 同上   十四日 同上   十五日 十五六万人 十六日 廿二三万人
    十七日 七八万人 十八日 同上   十九日 五六万人   廿日 同上
    廿一日 四五万人 廿二日 二三万人 廿三日 同上    廿四日 一二万人
    廿五日 一万人  廿六日 同上   廿七日 同上    廿八日 同上
 
右御影参りの御利生を竹本義太夫あやつり芝居にて神詫粟万石といふ新浄瑠理興行ス
 
03-015 【年表 1-032】
一 三月 竹本筑後掾芝居竹田出雲掾座本と成人形衣装道具花美ニ相改ム三月二日より
 用明天皇職人鑑
今度よりおやま人形長松八郎兵衞鐘入の段出つかひを初ム
  あやつり芝居ニ而女の人形をおやまといふは往古小山次郎三郎といふもの女の人形をよくつかひまことに生るがごとくあのしより名つく近世吉田文三郎妙を得たり往古の出つかひといふは手摺を離れ長上下を着して人形をつかひ又手妻など勤し也中頃伊藤弥八がなしたる手妻人形水がらくりの類ひ也しが近世は出づかひの早替のとてニ役三を勤メまたは水中の早がハりなどゝといふ事をも初たり
因云 人形芝居ニてハ大坂石井飛弾(騨)といへるを尊ミ可申事也其故はあやつり人形はこゝに図するごとく… [図中の幕は顔隠しといふ今の本手也] 首ばかりにて着物をうち着セ手も足も遣ひ人の手ニ而仕たる事にて子供の翫ひニデコノボウといへるもの是也 [此図ハ人倫訓蒙図彙ヲ模写ス] 石井氏おとなの手を人形の袖へさし込ミ遣ふ事を甚見とむなしと工夫して人形に手を拵へて付初にり夫より是に準じて足を付ケ或は手のゆびを働かし眼をつかひ眉を動かすなとさま/\自由をなせり
図 あやつり芝居 あやつり芝居 【『人倫訓蒙図彙』】
 
外題年鑑云 松松本治太夫座 源氏烏帽子折ニ藤九郎盛長渋谷金王丸ニツの人形ニ初而足を付たり
宇治加賀座 世継曽我ニ朝比奈の人形ニ足を付る是より諸流ともに立もの人形に足を付る
豊竹座 楠正成軍法実録 享保十五年八月 和田七の人形眼のうごく事を初ム
竹本座 芦屋道満大内鑑享保十九年十月 与勘平の人形腹ふくるゝやうニ仕初ム
豊竹座 武烈天皇艤 元文五年九月 佐手彦の人形眉毛うごく事を仕初ム
竹本座 夏祭浪花鑑 延享二年七月 人形ニ惟子衣裳着セ初ム
豊竹座 悪源太平治合戦 同四年七月 あやつりニて踊を仕初ム 其外工夫仕初し事数種あれ共くだ/\しけれバ爰ニ略ス
 
宝永四 丁亥
03-022
一 二月 稽古浄瑠璃初ル
今年大坂生玉の社内にて竹本豊竹の稽古場発起ス其後座摩稲荷又は北埜のお初天神社内等ニ稽古場をしつらひ大夫に成らんと思ふものは先ツ稽古揚へ出て修行なす其中に評判よきは両座の内より呼出シ又一座太夫の内より吹挙する共一座の太夫人形つかひ迄打寄先目見へを聞キ能ハ抱へ悪敷ハかゝえず抱へるに於ては鼻紙代として金子十両と定め役場は序中や勤させたり其頃は卒爾ニ出動する事難成かりしが近来は甚心安く先見ならひと名付て至而初心なるは役場なし勿論無給銀ニ而出勤する太夫多しかゝる時節ゆへ稽古揚も名のミにして修行の為ならぬなぐさミ場と成り席銭を出して語たり聞たりなどいへる事を初め殺風景の族金太郎とか呼なすもの多く出来て其中には桶がたり仁王がたり田葉粉がたりなどゝて曲語りといふ法外の戯れをなし出語には唇も動かざりしといふ故人の風義を失ふ事とは成ぬ誠ニ後世恐るべきは義太夫ぶしの行末ぞかし
 
宝永五 戊子
03-024
一 初代竹田近江死
からくりの名人竹田近江の秀才は世人よく知りたる事ながら今年宝永通宝の大銭通用被仰付候事を早くも知りて竹田芝居十銭の木戸札代を九文として程なく大銭不用の事を察セしも名智也
 
宝永七 庚寅
03-077 【年表 1-042】
一 院本 大字七行正本始
外題年鑑序云 其後宝永七庚寅の年竹本筑後掾の語られし吉野都女楠の時よりも大字七行と成し始メ是より前々の当り浄るり共をも改め七行に再板せられし也
 
03-077
一 十二月五日 千日にて亀屋忠兵衞死刑 当寅廿五歳
大和国増田忠左衞門実子大坂淡路町三度飛脚商売亀屋方へ養子に参り新町槌屋梅川に通ふ事は好色入子枕に見えたり 正徳元出板
  此頃は好色本流行なしまた浄瑠璃の戯文とても当時のごとく制禁あらされハ名苗氏を憚からず白地にあらハし実説多し翌正徳元年竹本座にて 梅川忠兵衞冥途飛脚 近松門左衞門作の新浄るり大当り
  正徳三年十月 曽根崎新地 竹座ニ而 傾城三度笠 紀海音作
 図 好色入小枕 好色入小枕
 【好色入小枕翻刻 03-080 ~ 03-091】
 
摂陽奇観 巻二十四ノ下
正徳三 癸巳
03-117
一 十二月 京大坂名代帳面御改
  哥舞妓 物真似尽 舞 からくり 浄るり 説経
 
正徳四 甲午
03-119
一 九月十日竹本筑後掾死
  法名 釈道喜 行年六十四歳
   墓は天王寺南門土塔寺超願寺にあり土塔御坊といふ
操年代記云 竹本義太夫は摂州天王寺村の百性五郎兵衞といふ農夫にて今に子孫相続ス生得声がら世人に勝レ大丈夫にしてさハやか也井上氏の浄留璃を会得ス
  井上氏は浪花の人也浄るりに妙を得て一流を語り出して芝居を興行ス後に播磨掾藤原要栄と受領して其名世ニ高し
また清水の流を習ひ [清水ハ井上播磨の弟子也] 宇治加賀掾ニ秘術を受て一流をかたり出ス [加賀掾ハ伊勢島の弟子也] 改名して竹本義太夫といふ貞享二年丑二月より道頓堀にて芝居興行有之最初ハ宇治加賀掾の古物世継曽我、藍染川、いろは物語、井上播磨掾の古もの賢女手習鑑、頼朝七騎落、以上五替り同三年寅ノ春より近松門左衞門京都より新物を作り越され其第一は出世景清これ近松氏義太夫の浄るり作の初とす元禄十四年巳五月義太夫 勅許受領して竹本筑後掾藤原博教と号ス貞享の初より歿年迄三十年の間ニ古浄るり五十番余新作百番余を操り二かけて勤られたり
夫浄瑠璃といふは何にても文に節ある音曲の惣名なれども今浪花の人浄留璃といへば義太夫ぶしに限りたるやうに覚ゆるも此地を根元とする名物なれハ成へし
  訛らぬか国の手形か義太夫節何所へ出しても大坂のもの
      三ヶ津浄瑠璃名目
土佐ふし 江戸 土佐少掾  外記ぶし  江戸 薩摩外記
栄閑ふし 同  虎屋栄閑  半太夫ふし
喜元ふし 同  同 喜元  文弥ふし     岡本出羽掾
角太夫ふし   山本土佐掾 嘉太夫ふし 京  宇治加賀掾
治太夫ぶし   松本治太夫 市郎太夫ぶし   大森一郎太夫
一中ぶし    都太夫一仲 道具屋ぶし    道具屋吉左衞門
表具ぶし    表具又四郎
其余数種あれ共くだ/\しけれハ略ス世俗いふ土佐上下に外記袴半太羽折に義太股引と義太夫ぶしを賎しむれ共よく五音に通じ貴賤老若男女の言語を分チ夫々の人情を語り分るゆへ後世猶栄んに行ハる一日琉球談を閲するに彼国にても義太夫ふしを翫ふよし
 又日本の猿楽をも伝へ舞囃子などをも興行す義太夫節を甚好ミ芦苅などの節事を能覚へて語ると也
浄瑠璃古今ノ序云
筑後の掾の世話事は哀れて伊達てしつぼりと光源氏の脇息に打もたれツヽ好色の品定ある有様もかくやと我はおもほゆる夫よ古哥にも梅が香を桜の花ににほハせて柳が枝に咲したる上品上手の手だれには近付ならぬ尼嚊の声音も似セて目に見へぬ鬼幽霊の気をうつし猛き武道の詰メ開キ忠義に心かハしまの妹脊の中をしらめあふ心中景事やつし事代々にいひつぎ語りつぎ正木のかづらながく伝ハり烏の跡なを正本に絶ずとうから/\と櫓太鼓も君が代も治る国の風俗と万民是をもてはやす
 
正徳五 乙未
03-166
一 十一月 竹本座国性爺大当り
近松氏作文多き中にも元禄十年七月十三日より宇治加賀座ニおゐて団扇曽我といふ新作大当りにて百日ヶ間勤めし故外題を百日曽我と改ム其頃は百日と勤る事は希也しか世人今に翫ひて近松宇治生涯の秀作といひ伝ふ国性爺合戦は正徳五年十一月より三年越シ十七ヶ月相勤めたり其後幾度となく興行するにいつとても大当りならざるはなしこれ全く近松氏の文段古今の人情に通ずる故にこそ我朝のミか唐土へも此戯文渡れりといふは崎陽の訳司周文ニ右衞門なる人国性爺第三回楼門の文段を訳して唐山へ送れり
  右訳文別巻ニ蔵ス
  古老云 門左衞門国性爺を作り大当りの後猶珍らしき世界もかなと精神をこらせしに芝居主竹田近江いふ作者の穿チ尤にはあれどかく妙境の出たる跡はたゞさら/\したるものよし比うへは其うへをと趣向に趣向や重ぬたらバ果は我業も尽ぬべしと申せしは一道の格言也
 
03-167
一 あやつり芝居 ノロマ人形の事
正徳の頃まではあやつり芝居五段の浄留理短キ故間の物にのろま人形の道外或はからくりなど勤しが正徳五年竹本座国性爺の時より此事なく豊竹座にも止たり
  編者云 のろま人形といふは能の間語りのごとくなる物ゆへ能の真似人形といひ初しをいつしかノとロと通シ真似を下略してノロマ人形といひならハせしか我も知らず
  或人云 世俗痴なるものをさしてノロマといふは往古には野呂松勘兵衞といふもの天窓ひらき色青黒く其かたちはなハだいやしき人形をつかふ是を野田間人形といふノロマのら松同意にて当代ニ而は丁見のほん太などの類ひ成ベし
 
摂陽奇観 巻二十五ノ上
享保二 丁酉
03-186
一 二月芝居水引幕の権輿
竹本座のあやつり芝居国性爺日合戦二月十五日初日より大幕の上ニ小幕を引初ム夫より歌舞妓芝居用ひて水
引幕と号く
 
03-187
一 七月古手屋八郎兵衞人殺シ 南水雑志二著ス
 
享保三 戊戌
 
03-192
一 九月三日 新町茨木屋幸齋入牢
翁草云 浪華新町傾城屋茨木屋幸齋事身の程しらぬ奢を究め己が居間は金襖水晶の障子輝きわたり宛も宮殿の如く朝夕掛盤にて饗膳の式に等しく日々に献立を以テ料理を伺ひ庖丁人山海の珍味を整て之を饗すあまた抱の傾城襲姿にて配膳給仕す己が心に叶ハざる料理をハ足を以膳を蹴返し身には錦繍を衣とし蝋虎の敷皮梨子地の曲彔その過奢高位の人にも超其頃八文字屋自笑が出せし艸紙にも傾城竈将軍と題せし五冊ものに其侈りを書り我家の裏に公儀地の有しに夫へ能舞台を建て常に猿楽を翫ぶか様の類重々超過して享保三年に 庁所へ召呼るゝ処に虚病を構て出ず仍先手錠を懸け所え御預けに成幸齋家内を改らるゝ処に金銀財宝の高ハ未考傾城の抱太夫卅七人引舟卅七入禿卅七人天神四十二人禿四十二人其外局女郎など大勢有之凡家内の人数五百人計也同九月三日幸齋并悴多助牢舎仰付られ御穿議の上大坂三郷御払ひニ成り而メ幸齋ハ京師島原に来て娘の名前にて暫く潜居しけるが大坂にての奢の事喧く人口に在て京にても粗御沙汰有ルくらゐなれハ島原にも住がたく跡を匿して去りぬ悴治助は親の奢に懲りて自らを愼ミ島原へ来て揚屋町之者共に之を歎き己がたつぎを此地にて始ん事を頼む彼が生質心ざま優にして風月を翫び俳名呑鯨と号すまた産業の道にかしこく一廓の者に睦ぶ事類ひなし故ニ廓中一統に贔屓して桔梗屋といふ潰株を興させ渡世を初させけるに日を追て繁栄し島原にて名を得し上林一文字屋の類ひの女郎屋ハ皆衰へ絶果て桔梗屋のミ栄え呑鯨ハ寛延の始に世を去り甥呑獅之を嗣で今にてハ一廓凡呑獅が有となるがごとく家内式百人暮しにて時めきける呑鯨か兄弟是亦後年ニ至り家号を改め大坂屋彦三郎とて新町にて傾城屋を再興し今に彼地ニ在り
 
03-191
図 新町茨木屋 新町茨木屋
【  能番組
   大きな       せんざい
            さん/\さう
  しんだい爰に極る
   難波
            一もんの意見を
             聞ず座頭
  身のはて何と
   正尊
            初めハ手錠今ハ
             縄なひ
  行末御意を
   枩風
            つゐに籠屋へ
             入間川
  あとニ欠所に
   あをひの上
            悪事四方に
             名取川
  流罪ならバ
   浮舟
            家内の者は
             ゐくび
  いばら木や
   みたれ

  浪華青楼志云 幸齋宅附丘宅
吉原町大西 [佐渡島町茨木屋四郎三郎十字街吉原町行当入口有] に有能舞台はや少々東に有 [別ニ入口有] 是より西行当りまて仮丘なるか故に山やしきと呼ぶ庭中佳景任侵康楽屐口不及談目不及瞬仮丘の景最美なり
  山椒太夫吉原雀 享保三年 豊竹座院本
 此戯文は幸齋の行状を山椒太夫に擬して作ル 外題年鑑に云 傾城吉原雀と記ス 【年表 1-065】
 
図 新町茨木屋 新町茨木屋
 
03-193
一 今年 道頓堀大坂太左衞門芝居ニ而浄るり間之狂言に物真似興行 名代 浄るり太夫 木屋七太夫

一浄るり   都太夫一中
一ワキ    岡三中
一ワキ    虎屋喜元
一三味線   難波利三
一間ノ物真似 守口屡次右衞門
一同     板屋喜右衞門
一間ノ物真似 板屋彦右衞門
一同     京 よし川三郎兵衞
一浄るり   木屋七太夫
一ワキ    表具和三郎
一三味    村井吉左衞門
 表錺りに此通り之表附を張襖壹枚に書記シ舞台廻り揚幕引まくなし張ふすまを立テ坐敷之体にしつらひ舞台先キ人留メをせばめ前に白砂を蒔キ飛石をすえ本石にて手水鉢植木をあしらひ浄るりの間に水を打チ狂言物まね勤候節素面衣類等も常体の通りニ而勤ム
 
03-193
一 正月 豊竹若太夫受領 上野少掾藤原重勝
 
享保五年 庚子
03-199 【年表 1-338】
一 歌舞妓芝居贔屓手打 笹瀬連開発
 船場の好人笹屋小兵衞瀬戸物屋伝兵衞ヒイキ手うち連といふ一群をかたらひ両人魁首と相成り笹屋瀬戸物屋の頭字を用ひて笹瀬と号く
 今年笹瀬連開発せしより同廿年大手連はじまり明和七年藤石連寛政中ニ絶たり 安永四年ニ花王連これを大かぶき四連中といふ年毎に顔見せの夜は手うちの新曲珍らしき一趣向ありて浪花壮観のひとつと成たり然れ共往古の手打連は黒き金巾木綿の着附に帯は白絖いさゝか金糸の縫箔を交へし頭巾は緋の毛羽ニ 大手などゝ切付して甚麁なる物なりしかど其頃の諸見物目ざましき事にいひあへり宝暦十三の冬豊竹座の新浄瑠璃番場忠太紅梅箙四の切【75丁ウ76丁オ】ニ笹瀬大手の手打連の形勢を取組たれバ此ころ専ら盛んなりしと見えたり
     〽早入来る番場の忠太当貫たいこ末社も一様に後に背負し紅梅箙笹せ大手の手打組面々揃への弓張挑燈縁先に並べ置きサア打ませうヨイ/\最一ツセいヨイ/\ソレ/\チヨン/\ヨイチヨン/\/\/\/\返しませうチヨチヨン/\/\ヨイチヨン/\/\/\きまつてはハァヨイ梶原さま当りました/\と口々にそやし立られ中略 〽跡に付添ふ以前の連中左右ニ並ぶ染頭巾笹瀬大手の紋しるし揃への腹巻かい/\敷義経公の味方といふ印に付た笹りんどう清和源氏の世の字をすぐに合印生田の大手の二度のかけ景季様の高名をすぐに付たる紅梅箙 下略
 天明の末寛政の頃より手打の曲に合打といふ事を初めしより近世は舞台へ種々の造り物をセリ出し又は花木の釣もの遠見などゝ仰山ニ成行その趣向に応じて撃客の衣装ニ引糸の仕かけなどおのづから花麗なる事共也
   因云 笹瀬大手連は享保中より以来本舞台の大幕并東西桟敷の高欄幕を毎年早春二の替りの節新調して角中両座へ送るを例とし世俗これを女夫連中と呼び都鄙の見物笹瀬大手引分ケの大幕なくては大坂の歌舞妓大芝居とはいわざるやうに成たり其外堂島大れん中よりは毎年顔見世座付之節舞台に一座の役者名苗氏定紋付たる水引挑燈を送り乗込の夜は楽家の大部屋にて大判成りの盃といふ義式ありざこバ連よりは茜染の櫓まく舞台楷懸りの切まく顔見世表錺りの大釣挑燈など送る例あり其余ヒイキ連多し
 
享保七 壬寅
03-205 【年表 1-070】
一 十月十四日夜 紙治小春心中
大坂天満紙屋治兵衞曽根崎新地紀伊国屋小春といふ女郎を連て網島大長寺に来ル折から十夜回向参詣の群集に紛れ終夜法座につらなり晨鐘の頃境内の傍ニ左の一紙を懐にして空しく成る治兵衞年廿八歳小春年十九
 
今宵ありかたき御おしへにあつかり忝奉存候私共浅間敷身の果未来の程もおぼつかなく存候何とそなきあとの御とむらい被成被下候ハゝ忝奉存候
これのミ御頼申上度書残申候以上
  十月十四日
    治兵衞
   小はる
 大長寺様
編者云 元禄中おはつ徳兵衞北埜にて心中ありしよめ近松門左衞門世話上るりといふものを作文して大ひニ流行に及ひ夫より追々心中浄留璃の戯文あり享保中紙治小春心中の翌朝市中に其噂とり/\成しかハ道頓掘の芝居主亦々右の実説をあやつりに取組んとて其よし早建近松氏へ告んとする其日平安堂は住吉へ参詣あつて留主なるゆへ使を以て右の様子を住吉へ申遣ハせける門左衞門は新家にて酒飯したゝめ居られ頓て帰りて趣向を案すべしまづ/\外題はうかミ出たりとて矢立の筆もて心中天網島と鼻紙にかいつけ使を帰し其身は早駕にて帰宅の道すがら道行の枕文句を得たり駕を走らする内思ひ出せし文段とて
  〽はしりかき謡の本は近衞流野郎帽子は若紫悪所狂ひの身の果は云々
と綴りたり此作文今に翫ひて戯文のミならす絃曲の唱哥として世人よく知れりまあt道行の文段の末に
  〽南無あみ島の大長寺救ひとらせたび給へと薮の外面のいさゝ川ながれ身投し樋の上に爰ぞ夫婦か最期場と終にはかなく成にけり
かくあれバ大長寺の外面なる井地の小川に身を投じて死たりと見えたりまた橋尽しの文中に
  〽此世の住居秋の日よ十九と廿八年のけふの今宵限りにてふたり命の捨所
すべて此頃は実説のまゝ書たれは虚は少し
 
図 小春治兵衞と大長寺 小春治兵衞と大長寺 小春治兵衞と大長寺 小春治兵衞と大長寺
 
03-211
一 四月五日 八百屋半兵衞お千代心中
宵庚申の夜生玉馬場先南都東大寺大仏勧進所ニ而死ス
   法名 露秋禅定門 八百屋半兵衞 廿七歳
      風覚冷薫信女 同女房千代
    辞世二首
  いにしへを捨はや義理も思ふまし朽てもきえぬ名こそおしけれ
  はる/\と浜松風にもまれ来てなミたにしつむさゝんさのこゑ
近松氏の戯文心中宵庚申 紀海音の心中ふたつ腹帯 かぶき狂言八百屋献立などにて世俗よく知れり新うつぼ油懸町の八百屋今に相続ス墓は八百屋伊右衞門旦那寺下寺町称念寺ニあり
 
享保九 甲辰
03-214
一 三月廿一日 大坂大火
南堀江橘通三丁目金屋喜兵衞祖母尼妙智宅より午ノ上刻出火翌廿二日午之刻に火鎮ル西は阿弥陀ケ池和光寺門前筋宍喰屋橋東かハ裏限り夫より艮へやけ江戸堀一丁目南かハ迄夫より中之島東ノ方へ天満不残上町は谷町辺まで南は高津道頓堀千日寺東側迄焼ル
一 町数四百八丁
  内     百六拾三丁 北組      百七拾五丁 南組        七十丁 天満組
一 家数壹万千七百六十五軒
  内   四千三百廿八軒 北組   四千九百六十八軒 南組   二千四百六十九軒 天満組
一 竈数六万弐百九十弐軒
  内   二万六百七拾軒 北組  二万七千百六十九軒 南組 一万二千四百五十三軒 天満組
  【中略】
一 道頓堀芝居 若太夫座 津川万太夫座 嵐三右衞門座 出羽座 竹田座
  但シ松島兵太郎座 榊山小四郎座 残ル
一 傾城丁不残
右之名書之外御代官領焼高多ク候へ共爰ニ不記
  北は長柄村へ飛火して国分寺消失其外近在へ飛火有之
一 御城代酒井讃岐守様より三郷中え御救米壹万石被下置御仁恵之程難有頂戴ス
 
03-221
一 十一月廿二日 日近松門左衞門死
姓ハ杉森名は信盛平安堂巣林子と号ス越前の人 [一説ニ三州ノ人トモ云] 肥前唐津近松寺に遊学し後洛に住シ劇場の戯文を作して世に鳴ル京師の学医岡本一法子の兄也墳墓ハ谷町筋寺町法妙寺にありまた久々知広済寺の過去帳に法名あり
    阿耨院穆矣日一具足居士 寿七十歳
この戒名は近松在世より設をきたるとぞ辞世二首詠艸中に見ゆ
    それ辞世去程扨も其後に残るさくらか花し匂ハゝ
    残るとは思ふももおろか埋火のけぬまあになる朽木書して
翁艸云 八文字屋自笑か浮世艸紙の編者江島其磧は能世の情をのふ筆勢おさ/\近松に並ふ所謂曲三味線色三味せん傾城禁短気はた諸々の容儀るいなどは今の世の人も是を翫ふされども浄るりを書事はならず近松はまた双紙を作る事を得す其差別をいかにといふに其磧か作文にては人形の働き薄く近松草紙を綴れバ文勢過て人情くハしからずおのれ/\が得たる処古今もつて同じ後の南嶺は其磧を欺く斗りに作意巧なれども其情□しうて其磧か上に立ん事かたしそれより下つかた挙ていふへき作者なし
或人云 あやつりを見るには当世にしくはなし本を読て楽しむには近松が作よろし云々近松が戯文道行のつゞけからは伊勢源氏の悌をうつししかも俗間の流言をおかしくつらね佳言妙伺多し近松文段に精神を入られし事を聞に浄瑠璃は木偶にかゝるを第一とすれハ外の草紙とは違ひて文句ミな働きを肝要とす正根なき木偶にさま/\の情をもたせて見物の感をとらんとする事なれは大かたにては妙作といひがたし某わかき時大内の草紙を見るに節会の折ふし雪いたう降積りけるに衞士におほせて橘の雪払ハせられけれは傍なる松の枝もたハゝなるが恨めしげにはね返りてと書り是心なき草木を開眼したる筆勢也其ゆへは橘の雪を払ハせらるゝを松がうらやミておのれと枝をはね返してたハゝなる雪をはね落して恨ミたるけしきさながら活て働く心地ならずやこれを作例として戯文を綴れりとぞ
古老云 近松の佳作多き中にも最明寺殿百人上﨟 [元禄十六年未三月四日初日後年北条時頼記女はちの木ノ原本] といへる院本おほけなくも 霊元法皇叡覧ましまし其頃哥人の聞えある公卿を召させ給ひいつれも秀才なりといへども近松とやらん作者には劣れりとてかの院本を取出給ひ最明寺時頼入道が雪の旅路の道行ぶりに
  〽蝶の翼のおしろいを草にこぼして梢には鶴の霜毛をぬぎかくる雪より花おほき云々
と書り是なん円機活法雪の部に鶴毛蝶粉といふ四字を出して書る処石曼卿が雪を詠ぜし詩に
  蝶遺粉翼軽難拾 鶴墜霜毛散未転
といへる句を和語にうつせし也かゝる才智をもつて和歌を詠なば秀逸あまた有べしと御叡感ありしとなん
この法皇は万乗の御身として下賎のうへをもくハしくしろしめされ [清十郎聞け夏か来て啼くほとゝきす早稲中手晩稲かるたの一二三] かゝる玉句も遊ハされしとそ
浪華金屋橋熊野屋某の家に近松氏の墨迹二幅あり一は美人の画賛一は辞世の詠艸也
狂言作者近松半二故人門左衞門が遣ところの硯を伝ふその硯の蓋に漆して
    事取凡近而義発勧懲
九字をしるすこれは笠翁伝奇玉掻頭の序に
    昔人之作伝奇也事取凡近而
といふ語をとれり近松氏小説に心をよせし事是にてしらるこの人は実に本邦の李笠翁也
近松が一周忌に由縁齋貞柳がよめる夷曲
    察するに今は安楽国性爺扨も其後びんぎなければ
息は京師ニ住て左門といふ表具を家職として戯文の作を不聞
続近世崎人伝云
岸玄知は出雲国侯の茶道にて和哥を好めりとぞ 中略 又国侯上途のついで陪従の臣間暇あれバ名所旧跡を操り神社仏閣に詣つるを玄知はかつて出遊バす一日同寮につげて少間を乞ひ金壹方を包ミ近松門左衞門が宅に至り名刺を通じ対面をこふ門左衞門出迎へたれハ彼一封を贈り熟(ツラ/\)其面貌を見て早帰らんといへば主こハいかに何ぞとひ給ふことの有て来り給ふにはあらずやといぶかれハ玄知さしてとふべきことハなけれど足下は浄瑠理の作に妙にして児女といへども名をしらざるはなし依てわれ其面はいかならんと思ひて頻りに見んことをほりせしが今正しくまミゆることをえたれハ他に用もなしとて去る
 
享保十一 丙午
03-228
一 四月 豊竹座北条時頼記大当り
当四月八日初日ニ而翌来年閏正月迄大入繁昌ス夫故太夫上野掾居宅太左衞門橋筋八幡筋乾角屋敷の裏に土蔵を建て北条ぐらといふ箇程ニ利徳を得たる浄るり也
  大切女鉢の木雪の段は最明寺殿百人上﨟とて 恐れ多も霊験法皇右院本ぞ叡覧あつて近松門左衞門を感称ましませし右之戯文の三段目を其儘大切ニ用ひ此時より女鉢の木世に名高く成たるゆへ却而近松氏の秀作なる事を知らざる人世に多し
 
03-228
一 五月五日 竹田出雲事近江大掾と受領相改ム 是より竹田近江といふ名は海内に聞えたり
 
享保十三 戊申
03-231 【年表 1-086 1-099】
一 五月 竹本座正面の床を横へ直ス
往古のあやつり芝居太夫座は人倫訓蒙図彙に図するごとく楽屋に小高き床をかまへて太夫座とす夫ゆへこれを床と名付ク其後 官家より御簾を賜り舞台の正面に床を設けて太夫座とせしがあやつりの造物さま/\の趣向を工夫なすゆへ今年加賀国篠原合戦の時より当代のごとく太夫座の床上ミ手の横へ直ス豊竹座ニてハ享保十九年寅十月北条時頼記の節也
因云 浄瑠璃出かたりといへるは名ある太夫始て出動するか又ハ遠国へ出て久々にて帰国なし目見得として出語する或は追善祝義事都而諸客へ礼を厚くする為なれバ行義正しくすべき事也昔有隣大和掾椀久ゆかりの十徳又は河内通振分髪邯鄲など出語せしに口も動かざりしは行義正敷誠ニかく有ベき事と諸見物感称せり又西口政太夫用明天皇鐘入之段を出語せしに首少シ右へ傾キけれハ見物の評判大和二劣りしといひあへりわづかに頭少シ傾きてさへ斯のごとし然るに当世はニ段目三段目四段自の差別もなく出語にて勤めあやつりの太夫座といふもの床に御簾を懸る故実ありて芝居の規模なり近世のごとく出語りをよき事とすれパ後々には床も無用のものと成り京都の首振り芝居同然に成行んかと歎かハしく覚へぬ
図 竹本座の床 竹本座の床
 
享保十四 己酉
03-242
一 壬九月十九日 初代竹田近江大掾死
 
摂陽奇観 巻二十五ノ下
享保十六 辛亥
03-251 【年表 1-091】
一 五月 芝居ヒイキ幟の事
 当年五月五日道頓堀竹本座三度目国性爺合戦の初日天満贔負組より芝居の表へ初て幟を立しより今に至りてあやつりかぶきヒイキ組より幟を送る事とは成りぬ近世ニては勧進相撲にも幟を立て景気を賑ハしうなせり
 
03-251
一 十月 豊竹若太夫受領ス
外題年鑑云 当九月卅日太夫本 勅許受領 越前少掾藤原重泰 祝義出語蓬莱山をつとむ
今度 天満ばし三右衞門といふ人初而幟壹本進上ス
 
03-252
一 十一月 道頓堀木戸茶屋株願上
      乍恐以口上書御願奉申上候
一私共仲間近年打続殊之外困窮仕渡世難仕迷惑至極仕候芝居等も不繁昌ニ付先年よりは木戸之歩銭段々減シ漸鳥目弐三拾銭より十弐三銭ならてハ一日ニ割符不仕候尤明芝居は歩壹銭も無御座候然は少々水茶屋商売仕候得共時節柄茶呑等も無御座弥以及難儀ニ申候ニ付何とそ私共相応之儀御願申上度奉存候へ共外ニ存知寄も無御座候ニ付乍恐私共拾弐人之者共へ茶屋株壹人ニ壹株宛被為 下置候様ニ御願奉申上候哀御慈悲之上右之通被為 聞召上私共願之通被為 仰付被下候は御慈悲難有仕合奉存候以上
              盗賊御改方御用ニ罷出候
享保拾六年亥十一月十七日      木戸之者拾式人
                久宝寺屋新左衞門芝居付
                    平兵衞  印 
                同
                    源兵衞  印
                竹田新四郎芝居付
                    又右衞門 印
                杉村屋弥七芝居付
                    小兵衞  印
                同
                    喜兵衞  印
                福永屋六三郎芝居付
                    佐兵衞  印
                同
                    忠兵衞  印
                竹田近江芝居付
                    徳兵衞  印
                伊藤信濃芝居村
                    長兵衞  印
                豊竹越前芝居付
                    勘兵衞  印
                同
                    七兵衞  印
                銭屋清兵衞芝居付
                    藤兵衞  印
         御奉行様
 
享保十八 癸丑
03-259
一 六月 道頓堀芝居茶屋不残焼ル
 
03-259
一 二月 豊竹座芝居へ要太夫初て出座二付芝居の表に初て進物を錺ル
 
享保十九 甲寅
03-269
一 正月 豊竹座正面の床を横へ直ス 享保十三年竹本座之条ニ委シ
 
03-269 【年表 1-099】
一 二月 竹本政太夫義太夫と改名
狂歌糸の錦ニ
     竹本政太夫義太夫に成ける時              百子
   声も節も政に親仁とはやされて竹のふたよをつき(義)太夫哉
政太夫は音曲に妙あるのミならず和哥を好めり或人自筆の和哥を所蔵す書もまた拙なからし
    秋の七種の草をたいして乞巧奠につたなきことの葉をさゝけてかくなん  文嘯
    瞿麦
  天の川長き契りの秋待て星に手向のやまとなてしこ
    女郎花
  久堅のあまの河辺の女郎花下行水の色しふかめて
    蘭
  幾秋のゆかりの色の藤はかまけふうちとくる星合の空
    尾花
  天の川逢瀬の浪の花すゝきほに出そめてまねきやハする
    朝顔
  七夕の今ハいかに朝顔もそのきぬ/\の心してさけ
    葛
  明行は袂露けき葛のはのうらみてかへる天の川なミ
    萩
  織女は五百機たてゝいと萩の花色ころもかさねきつらし
 
享保廿 乙卯
03-283 【年表 1-106】
一 十一月二代目竹本義太夫受領
 勅許受領竹本上総少掾藤原喜教 [元文二巳正月播磨少掾ニ変名ス] 今度受領の祝義ニ進物を芝居の表ニ錺リ初ム
 
03-283
一 当冬顔見世より 大手連中開発
 上町追手筋河内屋孫兵衞大和屋八郎兵衞といふ両人より初る故ニ大手連と号く
 
享保年間
03-284 【年表 1-107】
一 手車うり
 近世畸人伝云 手車翁
 享保のはじめ京に手車といふものをうる翁あり糸もてまハして是は誰かのじやといへはこれはおれかのしやと答て童べ買てもてあそふされハ此人いでくれバ童つどひて喜ふことなりし後はまた難波に往て売こと京のごとくして終にとある家の軒の下に端坐して死す傍に小き卒都婆を建て
     小車のめくり/\て今こゝにたてたるそとハこれハおれかのしや
と書付たりいかなる人の世を翫ひてかゝりけんとその時をしる人かたりぬ
  享保廿一年辰三月豊竹座の新浄瑠璃 和田合戦女舞鶴第二齣鶴ケ岡の条に此手車うりを取組たりこれらにても其奇とセしことを知るべし
    【こりや誰が手車。長殿の手車。誰がのじやい。おれがのしや。誰がのじやい俺がのじや。チヤござりませ早ふ/\】
 
 
03-287 【年表 1-206】
一 関取 濡紙長五郎の話
 武摂双蝶秘録ニ云
 上州沼田城主土岐丹後守殿 [享保中大坂御城代也] 江戸家来岩村長右衞門といふもの故あつて浪人して城州八幡に蟄居し都倉与惣兵衞と改名して手跡の指南を業とす其子長五郎生得角力を好ミ同所荒石斧右衞門といふ角力取の養子と相成り荒石長五郎と名乗りけり [八幡荒石斧右衞門ハ其頃角力仲間の親仁分のよし] 此長五郎ハ若気の血気に喧嘩口論を好ミ平常に紙を水にて浸し頭を手拭にて捲く尤これ用意の宜き也濡たる紙は刃物とても通る事なし異国にては紙具足とて水にて数枚の紙を身に張りけるよし此利を以て長五郎も常に濡紙を額にあつる故に荒石といふ名乗はあれ共諸人ぬれかミ/\とぞ呼ひける 濡髪にあらずぬれ紙也土岐丹後守殿大坂御城代の節濡紙長五郎難波裏にて服部惣左衞門といへる侍と喧嘩をなしつゐに右惣左衞門を殺して親里八幡に身を潜ミけれども天網遁れがたく入牢に及ぶこれ享保中の事也しを寛延二年巳七月竹本座のあやつりにて双蝶々曲輪日記といふ戯文に取組たり
  放駒長吉の伝は南水雑志一之巻島之内小野屋かうやくの条ニ著す相撲大全ニ摂津国出産名高き関取の部に濡髪といふ名乗も見えたれともこれハ別人也長五郎角力の名乗は荒石といへり
 
03-295
一 大内烟艸之事
 佐渡島町二丁目北横町ニたばこ屋源七といふ者瓢箪町弐丁目辻の辺に小店を構へて匂入のたバこを商ふ元来葉色よく金線縷のごとくなるゆへ世人大内煙艸と呼びて其ころ発行す大坂中大内たバこの権輿也享保の末元文の初まで当所に住居せしが諸方に大内たばこを売やうに成し故にや廓中を退きて其後の住宅を知らずとぞ
   近松氏の戯文嫗山姥に坂田藏人時行なる者たばこ屋源七と呼びて岩倉大納言の館へ来る文段世俗よく知たり此源七といへるは大内たばこの源七を取組しと見えて其頃名高かりしを思ひやるべしまた荻野屋の八重桐といふ紙子姿の傾城は若女形の名人荻野八重桐の名を仮借セしならん
 
 
摂陽奇観 巻二十六
元文元 丙辰
03-315
一 二月 竹本義太夫座芝居の表ニ受領祝義の進物を夥敷彩敷錺鋳ルこれ芝居ヒイキ積物之権輿歟
 
03-315 【年表 1-108】
一 三月 豊竹座ニてチヤリ場を始ム
おどけたる浄瑠璃をチヤリ場といふは今年豊竹座の新作 和田合戦女舞鶴四の口河内太夫の場にて鶴ケ岡の別当阿闍梨手負の真似して藤沢入道の家来を欺く其文節配りおかしく大当りせしより阿闍梨場々々と称じ其後阿の字を略してジヤリ場/\といひしをいつしかチヤリ場と転ズ
 
元文二 丁巳
03-320
一 七月 北の新地五人斬
七月八日夜被切殺人
          曽根崎新地三丁目京屋忠兵衞借屋
             大和屋重兵衞
                当已四十八歳
             同 女房 とめ
                五十一歳
             同 下女 くら
                十七歳
             同    きよ
                十二歳
          同町桜風呂有馬屋喜兵衞抱
                  菊野
                当已廿二歳
右切殺人段々御吟味有之処薩州松平大隅守様家来早田八右衞門と申者なるよし及露顕早速入牢被仰付翌年午二月十六日千日ニ於而獄門ニ相成候捨札の写
              武家方家来
                  早田八右衞門
此もの義去年七月八日之夜曽根崎新地三丁目大和屋重兵衞方ニ而同所桜風呂有馬屋喜兵衞抱之髪洗女菊野切殺し剰自分之科を為可隠十兵衞夫婦并同人下女弐人迄切殺シ候段重々不届至極ニ付獄門ニかくるもの也
  二月
右一件あやつり芝居ニ而は初嵐元文噺国訛詢音頭歌舞妓にては置土産今織上布五大力恋緘など世俗よく知れり
 
03-322 【年表 1-110】
一 正月 竹本上総掾 播磨少掾に変名ス
 
摂陽奇観 巻二十七
寛保元 辛酉
03-371
一 七月十四日 コハイロ物真似芝居差構出訴
七月十二日道頓堀名代塩屋九郎右衞門明キ芝居にてもの真似仕鶴井京七と申者座本仕太鼓櫓に萌黄白之色替之幕を張り数鑓梵天を立テ大外題并道行かんばん太夫看板八枚之看板惣表付之かんばんを出シ表を錺り其上いろは茶屋中へ番付を配り畢竟哥舞妓芝居同格ニて当十六日より八月十五日迄日数三十日ノ間興行ニ付哥舞妓役者惣寄合之上差構之義申立出訴仕候願入座本佐野川花妻中村富十郎東御町奉行松浦河内守様双方御糺之上京七義芝居興行御差留ニ相成候此一件委細は別巻(373-388)に書記ス
 
寛保二 壬戌
03-393 【年表 1-145】
一 正月より七月迄江戸市川海老藏雷神大当り
寛保元酉年十一月朔日より翌戌ノ年顔見世道頓堀戎橋ノ角大西芝居佐渡島長五郎座へ江戸市川海老藏罷上り顔見せ目見え狂言を勤ム 役者附奥に模写ス
    万国太平記 [此狂言斗リにて悴市川団十郎江戸へ帰ル]
十二月十二日より
    八的勢曽我
戌正月十六日より七月六日迄凡半年古今未曽有の大当り
    雷神不動北山桜
一粂寺弾正 市川海老藏 一鳴神上人 市川海老藏 一不動明王 市川海老藏
一雲の絶間 尾上菊五郎 一奴伝内  山本京四郎
七月十六日より
    星合栄景清 [面打の役七めん頬にて奇妙をあらわす]
八月廿六日より、
    土佐次郎妹脊鑑
九月十六日より
    東山殿旭扇 大切けい事名残狂言関羽の役を勤ム
妓家全書云 佐渡島長五郎江戸在住の時市川海老藏いふやう其許太夫本を致さるゝならバいつにても登るべしといひける事の有しゆへ一年大坂表道頓堀にて座本の時栢莚を相談に書状下せし時返状に給金弐千両にて手付金五百両被下べしと申来るかぶき芝居初りて以来給金弐千両取たる役者聞も不及稀なる事を申越れしと甚面白く手付金五百両調達して差下シたりあの方にもよもやと思ひしやら大坂へ来りて其うつり挨拶をせられしに長五郎答に弐千両の給金取らるゝ役者古今になし夫を押出して申越るゝゆへ定て夫程に格別の事有べしと存也と申けり扨々物数寄也と思ふのミ顔見せはうゐらう売のせりふ先珍らしく大入にて二の替り曽我を出せし処散々不当にて子息団十郎病気を幸ひ十日余りにて相休ミ扨三ノ替の相談何をがなと楽屋表とも彼是申合けれ共思案に落ず時に栢莚申けるは此次は鳴神を出さんといへり鳴神なれバ狂言案じるにも不及と古キ狂言を序へ継合せて綴り四番目にて鳴神上人を奴伝内役の山本京四郎が殺スといふ仕組にて詰ニ鳴神の亡霊雲の絶間に付したひがいこつの所作を思ひ付たり然れ共栢莚生得狂言に切殺さるゝ事を忌て勤めず是をさせんとて四番目のがいこつの処影法師にて長五郎勤べしといひけれバ左候ハゞ殺さるべしと相談出来て稽古いひ合済て初日出せし所に粂寺弾正といふ侍と成り使者に来りての仕内遖誠の武士と見えたり外に此真似をする人なしと大坂中の評判扨々上手也と感心し四番目は二役鳴神上人の段家の芸なれバ手に入たる仕うち鳴神の響き近国は申ニ不及遠国よりもいざ海老藏が鳴神見物せんと態々大坂へ来る人数を知らず押も分られぬ大評判大入にて京の好人は大坂にて見物したる人多し然共終に京都へ出勤なく是のミ残心也顔に芸あるは奇妙なる生得にていづれ妙の字は遁れがたし併シかぶき役者の殺さるゝ役を嫌ふも如何成事にや是迚も妙なるべし
  鳴神は元祖団十郎工夫の狂言にて貞享元年江戸堺町中村座にて門松四天王といふ名題にて初て勤る栢莚これを受得て猶万国に響かし大坂にても古今の大当りをなせりされば此仕内を大坂豊竹座にて為永千蝶作にて粂仙人吉野桜といふ戯文に仕組その誉を残ス扨また此仕内をやつし女鳴神とて女形の芸とするは元禄年中市村座にて弘徴殿后諍といふ狂言に袖岡政之介といふ名代の女かた初めて勤めし也抑この伎芸ハ元祖市川団十郎本国下総国成田山新成寺の不動尊に祈りて栢莚をまうけぬよつて栢莚九歳の昔より信心ふかく開運を祈りしにはたして上手名人と呼バれ諸人に秀し稀者と成るされバ尊前に奉納せし神鏡今にありとぞ故に家名も成田屋十兵衞と号し一世の内不動の役数度の勤めに一々大当りならずといふ事なしこれ他の役者の及ざる所いさゝか仕内もなくして見物を悦バす事誠に妙なるべしこれひとへに明王の加護ならん誠の尊像に見まがひ眼中すがうしてひとみをすゆる事時を移ス正に精といひつへし這狂言本別巻ニアリ
宝暦八年九月廿四日死ス享年七十一辞世の歌ニいふ
    終にゆく道とはかねて芝海老のはからせ給へ極楽の升
    法号 法誉栢莚随性信士と称ス
東武にて異様なる葬式あり 管見雑志ニ記ス
 
○鳴神上人物語
【本文略】
 
03-403 【年表 1-141】
一 九月二日二代目竹田近江死 委クハ寛文二年ノ条下ニアリ
 
03-403 
一 十月四日紀海音死 行年八十歳
紀海音は近松氏に劣らぬ浄瑠璃の作文に其名高し姓は榎竝貞峩と呼ぶ俗称は喜右衞門後善八と改ム。初メ黄檗山悦山和尚に属して僧と成高節夫よの医道を業とし契沖翁の門に遊びて契因鳥路観と號し浄瑠璃の作名紀海音といふ。元文元年辰の夏法橋に叙ス。委くハ貞柳傳にあり。墓は八丁目寺町寳樹寺ニ有。台石にたいや忠七とあり。忠七は貞峩の息貞風といへり。道頓堀太左衞門橋筋八幡筋にて鯛の看板を出し菓子を製して業とす
図 紀海音の墓 紀海音の墓
狂歌机の塵ニ
      中納言水無瀬卿御月竝の末席にて腰折よみけるつひてに 海音堂貞峩
    敷島の道は神より佛よりお公家さまこそたふとかりけれ
柳翁狂哥集の中に
      鳥路観貞峩より年頭の禮に團扇をこしけれハ
    物すきにていかよけれハ夏のものを春にもっかふうちはゆへなり
同書ニ   鳥路観七十賀に
    十はかり千世の余りの吾におほきつらなる枝は花も身もあり
      [色里今八卦曲中の条ニ古人はい人の貞峩杖にすかりて亀菊太夫に夜毎かよひしも此所なれば也]
 
院本東山殿室町合戦 [享保七寅十一月一日初日豊竹越前芝居] といへる紀海音戯作第齣座敷八景のふし事の文段に貞柳翁の狂歌を文中に綴れるを見あたりぬかく兄弟共に風流の道に秀で其名高し
      東山殿室町合戦  作者  紀海音
    第四
王元之が竹楼も是れんけつの余樂とかやされバ細川勝元は繁榮日々に弥増て何思ふこと夏もくれ秋をもてなす下やしき西の京に地を転じ遊亭閑所とり/\に奇石をたゝむ築山ハ諸木こもって枝をたれ月をむかへる池水はおしかも所得がほにて風をふくめるぶどう棚すゝ波よするごさく也頃しも盛りの百日紅花にえいずる書院先キ障子開かせ勝元は近臣諸共汲酒に肴は千倉検校がしらべ妙なる物の音は荻の葉わたる風よりも身にしミ増る斗の也勝元ほとんど興に入あっはれ手だれの音曲に此間のうつ病もやゝ忘られて面白ししかし朗詠平家など耳ふれて氣が替らす當世めきたる一ふしを所望也とすゝむれバハァ何をがな申たらお心に入候ハんヱヽ幸ひかな/\樂人達の戯れに座敷廻りの道具をバ八景に準らへ一々狂哥によまれしを某ふし付ケ仕る憚ながら御聞と拍子をとりて語りける
 
    ざしき八けい
 げに海山の風情をも爰にうつせバをのづから座敷に浮ふ八景の中にかゝやく名どころはまづ鏡台の秋の月蒔画に見ゆる松の枝にくもらぬ影はまん丸ござる/\十五夜の月の輪のごとくいつも最中の詠め也次に扇の晴嵐をたとへもよしや暑き日の光りもやがてうす物の扇にゑがく山かぜは音たかさごや相生の妹脊も遠く待宵に聞ケバせはしき時計こそ恋しらぬ身やつくり初けんいづれ逢瀬は秋ざれも短き夏のよるの霜おもりの糸のむすぼれず時計の晩鐘響く也扨又台子のよるの雨ふりミふらずミ定めなき身にし昔を思ひ出す大黒庵もよるの雨台子の習ひ音にこそきくされバ高きも賎しきも交りむすぶ中立は雪の口切春雨の花より色も香も濃茶しな有て又和らかに人附合も綿ぞとはいざ白雪のかきくれて払へど袖に塗桶の暮雪と是を申べき明暮きやしやな手にふれて聞や琴柱の落雁は詠めし歌も優美也ふきといふも草葉の露の玉琴を手ならす袖にミやうがあらせ給へ吟じ返せバかうバしき梅が枝ぐミや須磨明石君が引手に誘ハれて時しもわかぬ酒のかんあい/\/\の長返事遊び過して花の枝に入日を残す行燈のかげ夕照とおしまるゝ緑樹かげ沈んでは魚木にのぼる景色ありしやくに梢を汲上てさつとたばしる手水鉢風のかけたる手拭は丸にやの字の帆が見ゆるひたす絞りの文字が關入江も爰にほの/\と手拭かけの蹄帆ぞと三十一もじを浄るりへ途り三重引まぜてつゞり寄たる八景とさも有々と述けれバ勝元を初めとし皆々興に入たまふ
 
    鏡台の蒔絵ニみゆる松のうへにくもらぬ月のかけハまん丸
    暑き日の光りもやかてうす物の扇やゑかく松風の聲
    むつ言もまたつきなくに打時計恋しらぬ身やつくり初けん
    釜のにへ聞ハさなからよるの雨大黒庵の昔をそ思ふ
    綿そとハいさしら雪のゆふへ哉はらへと袖につもるけしきハ
    ふきといふも草ハの露の玉ことを手ならす袖に冥加あらせ給へ
    花の枝にかけて詠めんくれおしき夕日を残すあんとんのかけ
    手水ハち風のかけたる手拭ハ丸にやの字のほのみゆる哉
  右八景の歌は由縁齋貞柳ノ詠也
〔編者曰ク原本ニハ此ノ八景ノ歌ヲさじき八景ノ文中ノ頭書トナシアリ〕
 
摂陽奇観 巻之二十八
延享元 甲子
03-416 【年表 1-155】
一 七月廿五日 竹本播磨掾死 行年五十四歳
天王寺ニ石碑あり
    不聞院乾外孤雲居士
【 竹本播磨少掾碑 天王寺西門墓地
翁名喜教。字長右衞門。幼名長四郎。号政太夫。又号文正翁。藤姓。小原氏。大阪人。生有才情。長嗜歌曲。遊芸圃。而師竹本氏。迺所謂筑後掾。立一家之曲者也。翁為其高弟。究其閫奥。遂継其緒。冒竹本氏。襲号義太夫。皆由於其遺言云。享保乙卯歳。拝任播磨少掾。英名盛行。延伝播中華。姑蘇人沈草亭氏寓長崎。而遙聞翁之声誉。藺慕不置。手写其曲帖。深嘆其妙技。亦謂小道可観之比耶。世之弄詞曲者。率從以執矩。及其門者。不可勝計。而親受口授者僅数十人。各勒其名具于趺。皆執弟子之礼。愛敬親戴。殆使視者感嗟其竹本播磨少掾浮図制行。非孚于人豈能然哉。業伍扮戯。而躬不屑与歯。踽々涼々。木訥自守。剪徹厓幅不事粧飾。相其貌。則厖々然野人。蓋天賦之所使然。可身想見其為人也。延享改元甲子年七月廿五日疾卒于家。享年五十有四。葬于安住寺之塋次。継嗣喜治及門人等。経紀喪事。復就天王寺竟上。択清潔之地建浮図。以擬墓誌。因系以銘曰。
執芸孔卑。如成名何。維翁□室。久而有華。
延享甲子年九月十四日
穗積以貫伊助甫
孝子喜治 建
門弟子等 大阪訪碑録】
 
03-416 【年表 1-152】
一 十一月十六日より竹本座に而追善
    八曲筐掛絵
      此太夫 政太夫 百合太夫 杣太夫 島太夫 錦太夫 紋太夫 其太夫 出語ニて勤ム
抑此掛物揃の節事といつは井上播磨掾に始り竹本筑後掾ニ盛にして竹本播磨少掾に伝りぬ先師廿五周忌の折柄掛物揃の出語いと殊勝なりしが今は早其人の事と成ぬ比人初床の時傾城掛物揃の浄るり成けれバ夫に始めこれかれ語置しフシ節掛物に画き八幅一ツ対の新成節事八曲筐の掛絵と号く八功徳池の縁に寄八人の出語仕候亡人の外聞ニ而御座候間御見物ニ御出奉頼候已上
此八曲のふし事は乃亡人竹本播磨の少掾か妙音の曲を綴る豈故井上播磨の掾か掛もの揃のすかたを模のミならんや 編者 竹田小出雲
右ふし事の戯文出板ス此本文の枕に
   〽笙哥遙に聞ゆ弧雲の上なれや聖衆来迎す落日の前とかや
と法号の文字を以て述たり
図 八曲筐掛絵 八曲筐掛絵
 
延享二 乙丑
03-422 【年表 1-175 1-196】
一 十一月 豊竹越前少掾一世一代
北条時頼記雪の段出語ニ而勤ム 六十五歳同三年寅ノ秋京都ニ而一世一代粂仙人吉野桜同五年辰十月堺ニ而一世一代東鑑御牧狩 悪源太平治合戦目出度相勤ム
 
延享三 丙寅
03-424
一 八月八日 朝比奈宗兵衞死
    法名 釈玄俊
千日竹林寺ニ墓あり宝暦中立ル
浪花雑傑集ニ云
大坂新靱に朝比奈の宗兵衞といふ者有しがいか成宿業にや若き時湿を煩らひ聾と成りて一向通ぜすといへ共筆談仕形等にて事を弁ずるに通せずといふことなし生得大丈夫にて義を立る事凡俗には珍らしく爰を以ていかなる無頼の者も其趣意に任セ恐怖なしける中略扨又此藤兵衞が実子六七歳の頃近所の子供と遊び居けるが干鰯俵高く積ミ重ねありし上へ子供弐三人のぼりしに八歳に成しもの宗兵衞が一子を突落しけるが危所を打たるにや気絶いたしける爰において大きに騒き立宗兵衞夫婦并ニつき落せし者の両親も狂気のごとくに相成り先宗兵衞が子をよひいけ気つけなど吹込ミけれは漸人心地はつきけれ共かよハき小児の痛手なれバ程なく死たり母親は大きに悲しミ泣くどきけれハ宗兵衞申やう歎きはさら/\無理ならねども過去の宿縁にて是までの定業なるべしまことに逆さまことながら香花を取て得させよと斗りいひて頓て野送りを致しける然るにつき落せしものゝ父母其子を連來りて申やう子供の所為とは申ながら其元の小児の敵は此悴也解死人にとりて御存分に被成べし打殺し叩きころしなぶり殺しに被成候共我々少しも恨ミはなし嘸御夫婦の歎きを思ひやられて骨身も砕ける心の苦しミ此悴を解死人となし給ハゞ少しは心のくつろぎならんと真実見へて申ける宗兵衞は先刻より手をこまぬきもくねんとして居たりしが完爾と笑ひて申やういかにも御尤のいひ分には候へども其子を解死人になしたれバとて此方の悴が蘇生も致スまじ殊に何の弁へもなき幼少なれハ元来たくみたる事にもあらざれハさのミ恨ミとも存ぜすしかし此方も俄に淋しく成たる事なれハ我は厭ひ申さねども妻は女心にくよ/\と思ふべし所詮解死人となしても恨ミもなく申分もなしとて連来られし事なれハあの子は有てなきもの也悴が代りに此方へ申受夫婦の中の子とすべし実子よりも大切に致し成長なさバ老の楽ミと致さん此義いかゞと申けれバかの夫婦は天にもあがる心地して大きによろこび有がた涙にむせびしばらく言句も出ざりしが良あつて爺親は手を合せ此うへは何事も申まじ則預り置し子を御受取被下よと指出し證文の義は如何様共御好ミに任すべしといそ/\として立帰りける誠に侠夫につき添ふ宗兵衞が女房とてさつぱりと思ひあきらめ死せし子よりもいつくしミ深く大切に育てけると也
この侠気往古赤穗の家臣大石氏幼年の行状ニ彷彿たりまたこれに類ふ一条あり
武家義理物語巻之二云 丹後の切戸の文珠に廿五日のあけほのより国中うつして参詣す爰に大代伝三郎一子に伝之介十五歳に成しが小者一人召つれて詣てけるかゝる折ふし同し家中に新座者七尾久八郎といへる人の子に八十郎と申せしは今年十三歳なりしが是も草履取壹人つれて此所初めてなれハ浦めつらしく天の橋立の松の葉こしに月夕影にうつるまてあなたこなたを詠め廻りて立帰る折ふし伝之介に袖すれて互に鞘とがめして指(ヌキ)合せ花やかに切むすひ八十郎首尾よく伝之介を打とめ前後を見合立のきける両方の小ものは相打して空しく成ぬ伝之介親これを聞つけ其所に行てせんさくするに相手の行方知れず小者も夜中なれハ見分かたく先伝之介死骸を取かくしける八十郎は屋敷に帰り親に初めを語れハ是迄帰る所にあらず最期の覚期仕れと書状添て八十郎を乗ものにて伝三郎方へつかハし此者それにて何やうにも御心まかせと申入伝三郎請取先座敷に置バ八十郎が敵とよろこび母親長刀をつとりかけ寄るを伝三郎押へあれより見事に遣しけるをむだ/\と打へき子細なし殊に我子は十五歳これは十三にて武道も格別に勝れハ申受て此家継にすへしこれ同心ならすハ其方離別といはれて男にしたかふ女心伝三郎よろこひ段々御願ひ申上れハ例なき仕かた大望にまかせ八十郎を伝三郎にたまハり親子の結ひをなせハ母にも孝を尽しまことの親には二たひ面を見合す事もなく伝之介と名もあらためて日毎に武の道に心さし深く成人の後伝三郎娘とあハせ昔の恨ミなくて母もこれに不便をかけて大代の家を継て名を残しぬ
 
宝暦中新清水増井の辺にて盲人の殺されたる事あり其頃竹本座新浄留理極彩色娘扇に取組延享の頃名高かりし朝比奈宗兵衞か事とし戯文にハ藤兵衞とす渠は生涯異風に打扮しよし
    〽靱の立者といはねどしれた男ぶり江戸流のかぶせの巻キ立当世茶の帷子に髪も形も一様の我子を先キに押立て単羽折を肩に引かけ我家へ帰る朝比奈藤兵衞 下略
 
延享四 丁卯
03-431 【年表 1-188 1-195】
一 同(三月)十七日 人形吉田三郎兵衞死
 
摂陽奇観 巻之二十九
寛延元 戊辰
03-434 【年表 1-193】
一 八月十四日 竹本座に於て仮名手本忠臣蔵を出ス 作者竹田出雲 宗介改並木千柳
大序  竹本文字太夫      一ツ目 竹本島太夫
三ツ目 竹本信濃太夫      四ツ目 竹本政太夫
    竹本百合太夫
五ツ目 竹本百合太夫      六ツ目 竹本島太夫
七ツ目 かけ合 此太夫  百合太夫 友太夫
        信濃太夫 文字太夫 政太夫
八ツ目
 道行 竹本文字太夫      九つ目 竹本此太夫
    竹本友太夫
十段目 竹本友太夫        大切 竹本島太夫
    竹本政太夫           竹本信濃太夫
 
    文三郎         源助       才治  大星力弥  文吾

塩治判官        おかる      高師直 清次郎 加古川本蔵 門三郎
天川ヤ義平 助三郎   おその 伊平次  十太郎     斧九太夫
与一兵衞

母となせ  小八    娘小浪 甚六   さき坂 甚九郎 斧定九郎  彦三郎
                     はん内

薬師寺
次郎左衞門 千蔵    てつち 文十郎  了竹  太四郎 郷右衞門  源十郎
            伊吾
喜多八   市十郎
 
大切敵討惣座中不残相勤ム
右狂言半途にて太夫同士もめ出来ニ付此太夫島太夫其外百合太夫友太夫退座なし大和掾上総太夫此両人入替りてしばらく勤るといへ共自分の節付せし程にもあらねばおのづから勢ひ薄く成て思ひの外不評判ゆへ十一月中旬に替の浄瑠璃芦屋道満大内鑑に成しかど元来名狂言ゆへ後世かぶきあやつり狂言の冠たり
翌寛延二巳年江戸森田座へ山本京四郎俳名可中此狂言大星由良之介にて大ひに当りしが始也其以前古沢村宗十郎後助高ヤ高助といふ大岸右内にて此仕内ありて京にても此人此狂言を出せし也其仕内をよく覚え大坂操芝居竹本座にて人形に名を得し古吉田文三郎 [俳名冠子] 此忠臣蔵をつゞらせ彼助高屋の姿をよくうつし遣ひしとは芝居好人のよく覚え褒美せし事也くハしくはいろは評林にあり
 
寛延二 己巳
03-436
一 法眼春卜戯画半百人一句
予相識れる好古家に珍藏ス法眼春トの画巻もの半百人一句と題し延宝天和の頃より延享寛延までの浪花の異入を撰ミて五十句の発句を添たり [各画図あれともこゝに略ス]
      序
  古今のかうかつ成ものをあつめて発句を加へ半百人一句と名付侍ル七十歳之異人前後せるは始に業ある者を出し次に牢人のたくひ次に出家坊主勧化の類ひ次に町々の門に立或は人寄の場所にとこ筵をかまへ辻打の類ひ迄も書のせ侍るこんさつはわきまへ見るへき也
    寛延二己巳年八月廿五日    法眼春卜翁書
      春之部
椀久      松山を引そこなひも子日哉
源六      わらんすは堺か安し春の風
はゝき売    霞くミ売物てはく見せの端
順気丸     綿あそふ小児のはらのうらゝかに
かちや作兵衞  はみかきに物まねそへて梅の花
兼やす     ぬく太刀に人をあつめて燕のす
伊勢神楽兵太夫 あちらから守りありくや若菜つミ
くハいてつ   青柳に小西つのかミ一味いれ
塩屋長次郎   からきよや塩うる為にのむ白馬
勅使川原源内  見物をしかるか花のすミれかな
三佐ぶし    江戸なけを名に付男何桜
独舞      牙は風にうこくほと出し古柳
      夏之部
大平記     楠は米になりよしあふち陰
道昌かうこう  大つかみはゑかうのちかふ衣かへ
代待      かうしんのねぬ夜を蝉のいひき哉
手筋の勘倉   夏山のきやう場もしらすそみかくた
すた/\坊   納涼やとこへはたかの代参り
はくろ山かけ出 たゝかねとひるの水鶏やほらの貝
ちこくのゑとき こくねつや陰へ地こくの所かへ
鐘鋳奉加    絵のかねの鳴らぬ間を瓜のつる
淡島代参    紙ひなやかさるてもなし土用干
西の川原    六道の辻主や汗の入所
日暮林清    よき声のしまんを余花の墨衣
万六      口笛やこれもさいとのけし坊主
開山      ほうへんの太夫すかたや桜の実
      秋之部
とうその坊   人音と萩の葉をとはとうその坊
傀儡師     山ねこやそつと野分の門の口
竹田甚右衞門  こらうしませ雲のあしもと月の顔
女祭文     生玉やおそめをそしる女郎花
一ツ綱粂女之介 夕がほの花のすミかや縄のうへ
はしこさし   星にかすすかたやはしこ雲の下
万歳勘七    すり出せはかしかもわらふさゝら哉
間の山     ふし付て夕あしたのかせき哉
江辺守     守名つくいつも無射くしやあたま哉
万能五郎兵衞  品玉やへたのミなかみ下りやな
今わん久    網笠の銭をしやん/\くつわ虫
八人座頭    いろ/\の音を鳴虫や草ふたい
鉄輪      ひつミあり輪には手めあり后月
オテヽコ    ミそこしのはれする場所や芋の月
      冬之部
鼻ノ下九市郎  よいにくゑ寒さはしめやうまいもの
舞太郎     坊主ても太郎と名乗る帰り花
塩くミ老人   ふり袖のなりをしはすの月夜哉
荷作七右衞門  荷作りか昔かたりを仏の名
阿波座鳥    追出されやハりをとるやこうり鮒
してこい嚊   雲わたをしようくハんセるやかゝか声
毛唐人     からに似て唐にもあらぬ納豆汁
銀の竿指    庭さきに下女をまねくやつハの花
三本足おミつ  ミつ足の火鉢を思ふ夜寒かな
米沢彦八    かほミせは年のはなしの冬籠
一文ニ三ツ奴  寒こもりまけぬ寒さや大相撲
    うや/\敷も小倉黄門百人一首になそらへ五十員の発句をならへ半百人一句と名付るはお月さまにすほんをくらふるたくひ恐れ多かれといやしきも高位にましハるは和哥の徳なれはゆるしとやあらん俳諧ほくの野語を面にして哥にいひ残せることの葉をひろふたくひともなしたらんや是に図をすさみて童蒙の目をよろこハしめふる事のかたり草とも成ねかしと麁筆に書なかしつれは
      寛延己巳年秋九月上旬になりぬ
右画まきものゝ人物に三ツ四ツふたつ編者の考あり
葉箒売親仁之事
諺略雑記 [一名それ/\草 三冊 芭蕉翁門人乙州選 享保四己亥年上木大和絵師川島叙清図アリ]
難波の葉箒売は常に酒をこのミて瓢や腰につけツヽ長日箒をうりありきけるが懐より土の人形ふたつ取出し太郎兵衞新兵衞と名を呼び酒の相手にしてたのしむ或人面白き曲者と覚て酒のませんとてよび入けれバ箒売あざ笑て我汝等を相手にしてたのしむ心曽てなしこなたの新兵太郎兵我心に随ひ来り我心に随ひのミ我心に随ひ皈る也と唯一口にいひ捨行しと也這老翁が心ばせはかの今宮の来山が道にておやま人形を求めて生涯愛セられ
    折ことも高根の花や見たはかり
と口号ミありしと同日の論ならんかし
かゝる奇人なるゆへ其行紙そあやつりに摸したるは世人よく知れる戯文義経腰越状 [享保廿年乙卯二月七日初日南蛮鉄後藤目貫豊竹座の新上るりを最初とす] 三段目に目貫師五斗兵衞に打扮木偶これ也その文段を諺略雑記に合セ見るべし
   〽酒といふ世のくせものにうかされて軍師も今はちりほこりほうきのさきに二升樽くゝりつけヤアヱイ/\ヤア ヱイ/\目抜師がななんでもせ箒/\と売たる親仁店のはしにもしバしは休め土の人形や肴をよせてニツ三ツ四ツ五ツも六ヲもたベつ押へつあいしよとおしやる脇より人が見るならバかろまた/\おかしかろまたけなりかろ云々
塩の長次郎事 其頃名高き品玉とり也
椀久松山元日金年越中の巻ニ
    〽サヽなくハないで退てござれ此嘉左衞門ハ塩の長二郎ない物を目の前へ出して見せう云々
竹田甚右衞門の事 狂哥糸の錦ニ
      竹田口上甚右衞門死去の時       花輔
きのふ迄働し身の糸切れてしやても浮世は放れ物哉
 
03-446
上 おそめ心中白しぼり 【※註
図 おそめ心中白しぼり
うやまつて申奉るよほゝ こひにうきなをながすなる所ハミやこのひがしぼりきいてきもんのかどやしきかハらばしとやあぶらやのひとり娘におそめとて心もはなの色ざかりとしハ二八のほそまゆに内のこがいの久松が□□□□□□□□□□と観たち夢にもしらしぼり一もんなかの山がやへよめにとろ/\べにかねも付てよめりハいつ/\ともらひかけられふた親ハふゆとしたのミを取やりしはやよめ入とていそがしくいしやうのもやうひいながたきぬまき物と観たちハさま/\よういなされけるあらいたハしや此娘三心にそまぬゑんぐミのとやせんかくやあらまじとあんじわづらひゐたりける心の内こそあハれ也はやくハいたいの身となれバなをも心はちるさくら花のすがたもしほ/\と涙にくるゝたそがれやくらきこかげに久松ハ人めをしのびそはによりなふおそめ様よめ入ハ十七日なりやほどちかしこなたよめ入□□□□□わしハいきてもしんでもじやせましき物ハミやづかひものゝだうりをしるならバたとへどのよにいハしやろとまことがあらバゑんづきハなされぬはつの事なれどわかれにかへておしきのハ命抱けりミづくさき心いれじやといゝけれバおそめハかほにちるもミぢさハ去ながらきいてたも此よめ入をミづからがすいてのばんですることかしりやるとをりに我が身ハはや此月でいつゝきの此ミもちにてよめ入が成ものかいのはづかしやたとへかくしていたとてもミもちなことがかくさりよかぢんのこぐちハのがれても此道斗ハのがれぬとつね/\ば様のいハんしたいてもいたづらゆかいでもいたづらものゝなハのかぬ
 
03-448
下 おそめ涙のはらおび 【※註
それにまだ/\かなしきハゆふべのふろのあがりばて此はらおびをかゝ様のミつけさんしてこりやおそめそのはらをびハ何ごとゝ色々とハせ給ひしをさま/\うそを月も日もせつなき此身のあまりにもそなたのことハかた時もわするゝひまもなき物となげきかなしむ有様をミるに久松手をあハせゆるさせ給へとなく斗その日ハやうちせちびとてかの山がやへゆかるれどきあひけなとて久松ハきゆる思ひのたねぐらへひとりくよ/\物思ひかゝるあハれの中々へおそめハひとりぬけもどりこゝにいやるか久松といへどたハいもなく斗。是なふ久松何として物あんじをバしやるぞやおれさへひとりなんぎすりやわがミハべつぎハないハいの是きづかひをしやんなと□をかこふしんじつの心ざしこそくハぶんなるわしハふんべつきハめたりおんミハ跡にながらへて何とぞおやごへわびことしよめ入をして給ハれやさらバでござんすそめ様とすでにあやうきかミそりをおそめハやがてもぎ取てなふ又しても/\どうよくなこといふ人じやわがミはしんでおれひとり跡に残りてよめれとハそりやどの口からたがいふたしにやらば□□を手にかけてそのゝちしにやいの久松と身をもたへてぞなきしづむ久松しごくにつまりつゝもつたいないこと何としておしう様をバわしが手にかけられましよといひけれバおそめ涙にくれながらなんのわがミのころしやろぞ跡を頼むといふこゑもなむあミだ仏と諸共についにしがいしはてにけり是ハ/\と久松ハ涙と共にこゑをあげかゝるかくごとしらずしてうらミしことのはづかしやながきミらいでそいましよとうへのたるきにおびさげてあつと斗にくびしめて同じ道にとしゝてゆく是ハ此ごろゑざうしにうる本たねの物語只よの哀ハ是也とうやまつて申
 
03-450
上 夕ぎりなごりの正月 【※註
図 夕ぎりなごりの正月
うやまつて申奉るよほゝ なにハ色ざという男すいの名とりといハはしのよるのちぎりやさとかよひあくるわひしきかつらきのかミ子大じんさむそらの其恋風やあふぎやに名ハ立のほる夕ぎりといふてくらゐも松のえだそれにもつれてのかぬ中ふぢやのよつき伊左衞門くるハにかねをハつかひすて親のかんどううけぬればわが身をまもるうふすなのかミ子ひとへもたのミなし夕ぎりかくと聞よりもよにもかなしく思ひぐさ恋しゆかしの藤様と是がきやミにならしばのゆふべにおもりあしたにハ身にこそよハりくるハにてならふかたなき太夫しよくそれで親方さま/\といしやよくすりとあつかへどやまひの日かず長ばをりいしやもさしをやすてぬらん恋に思ひをこむらさき心もまるゝ藤かつら伊左衞門こそ夕霧と同し思ひのゆかしさに何とぞ二たひあふぎやにこきうのこゑもほそ/\とさゝらする手にめをぞする涙ながらのあいの山夕べあしたのかねのこゑじやくめついらくとひゞけ共聞てなおどろく人もなしのべよりあなたの友とてハけちミやくひとつにしゆず一れん是がなめいどの友となるあふぎや親かた立いでゝなふこれ今のあいの山おくへきこへて夕ぎりのきのなぐさミにきゝたいといふてこれへじやあいの山きかしてたもと有ければあいとこたへて伊左衞門あミがさすこしかたふけておくを見やれば夕きりハ花のすかたもおとろへて今そきれゆくいきつかひ男ハミるにめもくれてもるゝ涙を夕きりもそれと見るより気もミたれふとんのうへにふしまろひせきたくるこそあハれなれ
 
03-452
下 夕ぎり伊左衞門 涙のあいの山 【※註
そハよりさあこれあいの山はやう/\といひければあいと涙の玉ざゝらこきうのつるもなほそきこゑ夕べあしたのうきつとめ花一ときのながめとハしれ共まよふぞはかなさよのべよりあなたの友とてハしきミな一えた一ゑづく是がめいどの友となるしるべとなれや此ことばゑかう共なれかたミ共思ひをこめし一七に親かたなさけふかくして是なふこなたハ聞およふ伊左衞門どのそふなるがしのぶことをも時にょる娘と思ふ夕ぎりが今りんじうのいとまごひあふてたんのふさせてたへかたじけないと伊左衞門はしりよりつつなふ太夫これ又あひにきたハいの夕ぎり涙もろ共になふこれわしハしにまするよふかほミせてくだんしたあゝうれしやとなきしつむおもきまくらに手をあハせなふだんな様今迄もおんせハに成ミつからハごおんもおくらずしにまする是さへかなしうごさんすにいとしひ男になへごりとてあハせてくだんす此うヘハもふわしや仏でござんするとてものことに藤様の手にてまつこの水をたへ水を/\といふこへもうちへ/\とひく斗男ハしきミの水をもち是なふ夕ぎり人がいハミなさうあくのしやハせかいわけてながれの身のうヘハなをつミとがのあるぞかし此水こそハごくらくの八くとくちの水也と思ひて是をのむ時は九ほんのしやうどにわうしやうしミらいハ一れんたくしやうの半さをわけてまたれよやふうふは二世のたむけ水さらハ/\と夕きりハはやめも見へす手をいだし男にすかる身もひへておしやかハいと夕きりの名に立かハる夕がすミきへにけれ共名ハのこるたく世のあハれハ是也とうやまつて
 
03-453
上 八百屋お七 哥さいもん 【※註
図 八百屋お七 哥さいもん
うやまつて申奉るのほゝ ふえにょるねのあきのしかつまゆへ身をばこかす成五人女の三のふでいろもかハりてゑどざくらさかりの花をちらしたるやをやのむすめお七こそ恋ぢのやミのくらがりによしなきことをし出して代くハん所へ申あけすぐにごせんへ引出す時に代くハん仰にハとしはもゆかぬ女にてかゝる大じをしけるそやとがのしだいを有やうに申あげよと仰けるお七なく/\申やういつぞやるいくハにあひしとき親子もろ共立のきてふしんじやうじゆいたす迄だんな寺にてかりすまひゑんハいなもの此寺の小性吉三とミづからが親にかくして二世迄とこゆびを切てちをしぼりきしやうをかいて取かハし□□□□□□□その内にやづくりじやうじゆ仕りなごりをしくもそれよりももとのほんごにかへれ共二世とかねたる吉三にハいきてわかるゝかなしさハふミのたよりもならざれバねてゐてしあんいたするに又もやいへをやくならばつまの吉三にゆる/\とあふてかたらんうれしやと思ひさだめて夕ぐれに一わのわらに火をつゝミほをりあげたる斗にてもゆるしさいハ候ハずもはやかさねていたすまし只おんじひに此たびは何とぞたすけ給ハれとあどなきことばさりとてハあハれしごくのいゝわけとそバに有あふ心なきやつこのかく内かく介もひけハなミだでながしけりされどかなハぬとがゆへについにお七を引出しひつじのあゆミ是ぞ此せハしきこまのすゞのもり我とわがミにたきつけの恋のもへくゐ今ぞげにきゆるあハれやいろゆへに身をバこがするなつのむしとんで火にいるよのたとへ今此お七が身のうへとうやまつて申
 
03-455
下 お七こひのもえくゐ 【※註
奉るのさればちくるいつばさまでおやこのわかれかなしめバいはんや人のおやとしてなげくことこそだうりなれやをやお七の親たちハけふぞきハまるさいご日ときくにかなしく気心もせきくる涙もろ共にさいご所へかけ来りそのまゝお七にすがりつきなくよりほかのことぞなきはゝハ涙のひまよりもさほと吉三に□□たくハ我にひそかにしらせなばぜひ共おしやうに申うけ。行すへながくそハせふにかゝる大じをし出して親にうきめを見すること子にてハあらでかたきかや花の娘をさきにたて跡にのこりて何かせん共にきへんとなげかるゝお七涙にくれながらちゝうへ様やはゝ様のなげき給ふもたうり也しのゑんむりやうぞ何事もさだまることゝおほしめし思ひあきらめ給ふべし雪をれ竹にあらね共よハさかさまのことながら跡とふらふて給ハれとすへのことハゝなき涙かゝるあハれのその中へ寺の吉三ハかけ来り人めもはちずすかり付只さめ/\となげきけるお七涙ともろ共に扨も□□□□吉三様命ハあきのしかとかやこハあらね共つまゆへに命をすつるならひ有さいごのおんめにかゝることよにもうれしく思ふ也今か此よのわかれじやにこゝへこざんせ□□□□と吉三が両の手を取て此うつくしきおすがたに何の命をおしむべき我をふびんとおぼすなら出家に成てなき跡をとふて給ハれ吉三様此よのゑんハうすく共ながきらいせでそひましよとたがいになげきゐたりしがじこくうつれバそれ/\とおやこ吉三を引わけてお七ひとりにしばをつミほのふさかんにもへあがるあハれ成かなお七こそ十六歳を一ごとしついにけふりと成はつるなさけのまこと是ぞ此ぼんのふすなハちそくほだいさとれバちかしそのまゝにまよひもはれて吉三郎すぐに出家の身と成てお七ほたいをとハれけるとふもかたるも一むかし只よのあハれハ是也とうやまつて申
 
03-457
島原こてう心中 【※註
図 島原こてう心中
うやまつて申奉るよほゝ 人のこゝろハはなぞめのまよひやすきハいろのミちこひとかひたる一しにハ十かいこゝにあらハれてミやこしゆしやかのいろざとハこれひんかくのとこばしらながれのによしよく□□□□るかうのまくらにやかれてハきんぎんいふくもゆきしものあさひにきゆるがごとくなり二かいざしきでひくしやミの三すじのまちのいとすゝきよれてもつれてミだれたるふじやのうちにかくれなきそのなこてうと申たるつぼねぢよらうをさしころしおとこもすぐにはらをきりしゝたといふはまことかやなるほどそれハうそでなししまばらがたの女郎にかうぐあきなひいたすゆへやうすこまかにぞんじたりかたり申さんきゝ給へじたいおとこハミのゝくにわたのといやでありしとやじんのぜうとてかくれなきミやこかよひのあきなひにしうのかねをばつかひすてそれゆへくにへもかへられず此ありさまを女郎にかたりきかせてもろ共にこてうとふたり心中してしなバうらミハなけれ共たのミずくなきゆふ女のそこいつめたきあだまくらなか/\がてんいたすまじとかくだましてさしころしわれもしなんと思ひきりむねのそろばんはじきすぎさんようしらずのかねつかひのちハたれしもかくあらんさてそのゝちにじんのぜうつぼねにきたりあそべ共なりふうぞくもかほのいろつねにかはりてミへければこてふハはやく見てとりてたまのおいでゝ候へどけふハかなハぬようのありあすのごげんといひすてゝおもてへいづればじんのぜうじせつハいまとわきざしをぬけバぢよらうハおどろきてにげてゆくとてとなりなるつぼねのしきにけつまづきまろぶところをきりたをしかへすかたなではらをきりついにむなしく成にけりあらむざんのものがたりこてうハいまだしにきらずたへ入いきの下よりもさてもくるしやなさけなやながれゆうぢよハちくしやうかいにおちてうかまぬものじやといふにましてわが身ハやいばにかゝりしゝてミらいハなにとせんかゝることゝハゆめにもしらでくるハへうられて十ねんのねんきてがたもことしぎりはやふねんがくれたならとやせんかくと思ひしにしゝたあとにてミづからがまきゑのくしとひんのかミくにゝましますはゝ様にかたミといふてミせてたべ七十両のきんすをバちゝうへ様にやりてたべあね女郎やほうばいしゆもはやさらばてござるぞといふそのこゑもミつのあハきへしうきミのものがたりうやまつて申
 
03-460
大きやうし哥さいもん 【※註
図 大きやうし哥さいもん
うやまつて申奉るのほゝ これハミやこの大きやうじおさん茂兵衞の物かたりせつなき恋の中立や玉もいかゞと思へ共わかきハたれもあるならひてんほまゝよの心して心やすかれ茂兵衞殿何とぞ取もち申さんとふミをうけ取くハいちうししゆびをうかゞひゐたりけりおさんハかくとしらいとのミたれがミしてきやらこめて玉にすかしてともしひのかげにさひしき其ふせいよき折からと思ひつゝけふおつかひに参るとて道にて此ふミひろひたりわしハ一じもよめませぬ何とかいてましますとくだんのふミをぞ出しけるおさんハよしをきゝ給ひふミをおとせしつかいめハさぞしかられんかハひやと取あげ見れハうハがきにおもハくこよミとかいて有扨もかハりしうハかきとやかてひらいて見給へハたま/\たよりうれしさにこよミまさりにかくふミを大おんによませ給ふなよ もしもや人のきこ日で是こそふぎとあやむ日ざいきやうにおよびなバさいせつせられんうたてさよ君を恋しく思ひねをふじのたかねにます思ひつもる天一天上のごすい八せんま日もなし。かゝる心のちう日を。せめてごげんにくどかんといろ/\かん日めぐらせてたま/\あふよハかのへさる天火らうしやく心火たいくハもゆる思ひのくゑ日にされ共是ハむめがかのさくらの花ににほハせてやなぎのえだにさかせてハならぬ恋じや思ひきられぬいや思ひきられじと八十八や此かたハちゞに心がせつがハりさいハい今ハこんしんのとがむる方もあきの方ゑどにましますことなれバ人めのせきもましまさじ一よ斗の御□□□いかでか人もしらいとのミだれ心をとい給へ花のおさんの君参る茂兵衞よりとかきとゞむおさんハはつとせきめんし見まじき物をあたふミをかゝるつかいをする物かたしなめ玉よとしからるゝ玉ハ此よしきくよりも御はら立ハもつ共也さハ去ながら茂兵衞ハ此御へんじのよしあしでけふかあすかの其内にくびをくゝりてしなんとの思ひ切にてましませバ男一人たすくるハ是そくどくのうミふかく何とぞ思ひなをされて□□□□□□□□□□□おさん此よしきゝ給ひさすが女のおろかさハしなんといふかまことかとさほど思ふことならハ何とぞこ□□□□□□□□□□といひすてゝつねのふしとに人給ふ玉ハ此よしきくよりもかくとかたれバ茂兵衞ハ□□□□□□□□□□□□□□□□たる□□□□□□□□□□□はれ/\とはやしのゝめもあかねさす茂兵衞申けるやうハまことに君が□□□恋ぢのやみもはれわたるさハ去ながら道ならぬ□□□□□をかすめつゝミらいのつミもおそろしや是をぼだいのたねとしてかミをもおろし衣をきつミをバのかれ申さんとなミたなからに申さるゝおさんハきいておろか也〔此ノ所九字抹消ス〕をもいとへうきなたつなミ二てうのゆミをひくも人めに□□□□□□□□□□かへおゝてやうつら/\としのひて今ハ二百十日ぞ□□□□□されバ女のやくなれバおさんも今ハにうばいの□□□□□□□身の□□□つゆをふくめるあさがほのいとふくらかに見へけるハうとましかりけるしだい也今ハいへにもたまられずあたご参にことよせて三人もろ共いへを出おちていくのゝ道とをくたん/\たんはで□□□□□此ことよもにかくれなくゑどへひきやくを立けれバいしゆんハいそぎはせのぼりくに/\ざい/\さかしつゝこゝにてたつね大江山やをつくごとくつれのぼりあらいたハしやおさんこそ扨まつだいのミせしめと京町/\を引わたしふぎにきハまる□□□□のはてハうきめにあハた口けあけのミづてとゞめをく姿ハくちてなハのこる京でおさんとかうしよくの五人女の一のふてよの口すさミ一むかしかゝるあハれハ又もよにたぐひまれなる物かたりれんほのやミぢハ是也とうやまつて申
 
03-464
上 京北野心中ふり袖めおと 【※註
図 京北野心中ふり袖めおと
うやまつて申奉るよほゝ こひハミやこの花とちるなミたに袖もぬれぎぬをきたのゝもりの下つゆときへし心中ハむろ町の八のじやといふごふくしよのひとり娘ておさんとてとしハ十五のふり袖よ扨又男ハむすめごをそだてあけたるうばが子で六三郎とて十六のまたふり袖の丸びたいきりやうよしなりやごふくしよの小しやうぶんにてやうしやうよりはゝといつしよに此内につとめゐるこそうたてやななにがふたりハちきやうだいのそんなことなだあるまいと思ひ□□□□□□□□□いつそのころよりなれそめて□□□□□□を人しらすうばハ其いろさとりつゝあるよわが子の六三をばかるものぐらの其内へやうじありとてつれ行ておや子の中で此ことハいふにいハれぬことのはもいはねばすまのうらめしやおのれハきばしちかふたかおさん様をばわがためにたれと思ふぞごしゆじんよことに此ごろたのミ取やがてゑんづきあるはつよそれを□□□□□□なるぞ。もしもあらハれたる時ハ大じのひとり娘こに一だいあくミやうつくのミかおいへの名迄くだしつゝしさいにあいて此はゝにうきめを見せうといふことか今よりふつゝと此ことを思ひきりしと今こゝでせいもんたてよ六三郎そちハけなものかしこいものとうばハ子ゆへのやミちにまよふすれど六三ハどふ思ふてかへんじもさらになく斗うばハはら立よい此うヘハそこでゆるりとふんべつせよとくらのとまへにゑびぢやうをうしつねの□□へぞ立かへる是が心中のもとだてよ
 
03-466
下 お三六三郎花のふり袖 【※註
おさんハかくと聞よりもやたけ心のあづさゆミいるにもいられざりければくらのかぎをばぬすミ取かるものぐらの戸をひらき六三/\と小ごゑにてよべばうちよりはしり出かほと/\を見あハせてなふこれ何としませうと心ハちゞにくだけ共とにかくこゝをしのび出しのよりほかハあるまいとおさんうハぎを高へいのしのびがへしに打かけてつバさの鳥か高へいをなんなくむかふへのりこへてしらぬうら丁におりにけるあとよりおつてのくるやとてふたり手を取あしはやめしのぶすがたやふり袖をかざすたもとハかくれがさきたのゝもりにつきにけり涙なからにさをくミてわきざしぬきもちおさん様今が此よのなごり也かくごなされと申にぞおさん涙にくれながらかくこせよとハこれ六三どふせうぞいのとなく斗はて手をあハしてねんぶつをとなへ給へとすゝむれバねん仏申せバミらいにてそハるゝかいのなむあミだなむあミだぶつといひけれバ六三ハわきざしなけすてゝ扨もあどなきおんことばげにだうり也十五にてわらべのうちといふなるになさけにすつるうき命花のつぼミをあへなくもちらすることのいたハしやわしもつぼめる花の身のとしはもゆかぬわれ/\がかくいたつらに身をはたじおやになけきをかくることミらいのつミこそをそろしと思ひつゞけてなくうちにもりのこがらしこちふけばねぐらのからすあさもよいしなぬさきよりこゑたてゝかハい/\となきわたる今ぞさいごとさしちがへきへにけれ共名ハのこる只よのあハれは是也とうやまつて申
 
03-467
上 山下宇源太さいご物語 【※註
図 山下宇源太さいご物語
うやまつて申奉るよほゝ 人の命ハあぢきなや水のうきくささためなきならひなミたをもよふしてなけき山下宇源太ハしも月すへの九日のあさの霜ゆききへて行ほんに京とやなにハにてかくれなかりし女がたきりやうハあまたのかぶき子の中にすぐれてうつくしくうヘミぬわしの山下のらむうけん太を引かへてなむ宇源太とゑかうしておしまぬ人こそなかりけりじたい。なにハがなしミにて町中ごひいき布けるにこぞのふゆより京のぼり都のぶたいハはじめにてしよげいもとやかくきあつかひいつ共なしにやミつきも日もほどすぎて神な月大坂嵐のしばいよりぜひ下れとのつかひをばよにもうれしくかへれ共しだいに心よハりつゝざもと嵐の三ゑもん山下又四郎打つれてびやうかにミまひくるまざに取まハしつゝどふぞいのはやかほミせちか付ハはやく本ぶくめされつゝでられよかしといひければ宇源太おもきまくらをバやう/\あげてもなじミとてやまひづきたるそれがしをかゝへ給ハるうれしさにじたいもせずにかへれ共此ていならバでられまじ又四郎様をたのミをくなじミごひいきのごけんぶつへわがわづらひをひろうしてげんきいたさハはるよりもおんめミへをバいたすべしもしあいはてなバごゑかうをはハかりながらたのミしといふてたべやとかきくどく母ハわが子のうき命。もしものことの有ならハ跡に残りてどふなろとあんじをきしてなけかるゝ
 
03-469
下 宇源太雪のふり袖 【※註
いもとおくめハ兄うへの命ごひとて神参りくすりせんじてやさしくもかい/\しげにあつかへどさらにげんきハ有あけのともしのひかりたのミなしかゝる折ふしけハしけにかごをおもてにをろさせてはしり来れるこむすめをミれは京との四でうにてさるいろぢや屋の娘也おすまといふて宇源太といつしかふかくいひかハしすヘハ女ぼにもともたりよかハるまひぞとふかい中なふ宇源太様此ほどハすこしあハねば百年もあハぬやうにてなつかしくたよりもがなとこがれしにおもきやまひの取ざたをきいて都にゐられふか親の内をばしのびいであいにきました宇源太様やつれ給へど色さめぬそのうつくしきおすがたに大坂ハなをか京とでもいく万人のひめごせの思ひこがれし一ねんで身をなやまするかうらめしやはやく本ぶくあれかしといへばうげん太よハ/\と。今ぞくるしきこハねにてやくしやづとめのぜひなくもふたりか中を引わかれなじミの大坂にかへれ共そなたのかほをミまひかと是か心にかゝりしに又あふ事のうれしやなもはや命もかきりそやふうふハ二世と聞なればうてなをわけてまつべきぞ母様さらバいもふともさらバ/\といふこゑが此よのなごりと成にけり母やいもとハすがり付きやうきのごとくなげかるゝおすまも心ミだれつゝひごろたしなむひめごせのゐすがたくづれしどもなくなけど其かいあらバこそをしや今さく花ちりてあハれぞつもる山下が今ぞゑかうをうけん太ときへにけれ共なハ残る只よの哀ハ是也とうやまつて
 
 
03-470
上 さいのかハら涙のつみ石 【※註
図 さいのかハら涙のつみ石
はらひきよんめ奉るノホヽ しもにしたいの天わうなりこゝにあハれをとゞめしハしやばとめいとのさかいなるさいのかハらてとゝめたり一ツや二ツ三ツや四ツ十ヲよりうちのなミとり子がひろきかハらにあつまりてかいてのやうなる手をひろけいさこをよせてはつかとつくこいしをひろいたうとつむ一ちうつんてハちゝのため二ちうつんてははゝのため三ちうつんでハきやうり兄弟わが身のためとゑかうなしいつれなかよくあはひしか花その山にはひあがりいろよきはなをあつめけるをりとる花はなに/\そほたんしやくやくゆりの花ききやうかるかやおミなめしにほひよきとてしきミをはおさな子ともかちそふする日もせいさんにかたふけばもちし花をはふりすてゝにしをむいてハちゝこひしひかしなかめてはゝこひしあつとなけくそのこゑにたにゝこたまかひゝくればちゝかよふかと心へていはらこのはをかきわけてたにへ/\とよひさかるたにゝさかりてミてあればちゝといふしもさらになしはゝといふ字もあらばこそこひしゆかしのちゝはゝハそのまゝそこにたをれふしりうていこかれなきさけぶしよしのあハれともつともそれしやきこへけりあゝらかなしやなさけなやけさよりつミしこいしをハたちまちあつきかひきくつしなぜにつまぬそたうつめと大のまなこにかどをたてねつてつほうをひつさけておさあひものをおひまハしせめさいなミしありさまはめもあてられぬしたいなりさいのかハらのありさまはたとへていハんかたもなしとうやまつて申
 
03-472
下 さいのかハら ミどり子のなけき 【※註
はらひきよめ奉るノホヽ さいのかハらの御のうけぢざうぼさつはこらんしてすこしたすけてゑさせんとかうのころもにかうのけさすいしやうの御じゆす御しやくちやうミてにほうしゆをすへ給ひゆるき出させ給ひつゝこんづめんつに打むかひ此子になにのとがやあるゆるしゑさせとの給へば此子に三ツのとかゝありまつ一はんのそのとかハおやのたいないにやとるとて月のさハりか日のさハりまい月七たひのくハすいとなり来りやないにをけばかうしんのたゝりありしきよりそとへいたすれはてんとうのおそれありミつにてすゝぐそのときはすいじんちしんのとかめあり八まんならく火のあめとふり来る是ハとかにてあるまいかつミやなをせとせめらるゝしよしのあハれをとゝめたりむさんなるかなミどり子ハしごくのだうりにつめられてぢさうぼさつに打むかひくどきごとこそあハれなれいかなるてうるいちくるいもちゝやはゝかありけるにわれらがちゝはゝとこにあるあハせてたへとすかりつきたゞさめ/\とそなきさけぶちざうぼさつは御らんじてなにをなげくそミどり子よいかほとなけきしづむともなんちがちゝはゝしやばにあるめいとのちゝはゝわれぞかしこなたへこよとの給ひておんしやくちやうをのべ給ひひとつ所にかきあつめよるのころもをひききせてぜんざいなれとの給へばすくににうミとなりにけるそのよハそこであかしけるさいのかハらのものかたりちさうほさつのこりやくに来るまひそのあつくんぐるしのさいなんはたゝりをなすともごきねんとうやまつて申ス
 
【※註:国会図書館デジタルコレクションに影印あり】 
 
歌祭文の奥書 歌祭文の奥書
 
03-474
歌祭文の事
生玉の境内賑ハしかりし頃はこゝに名代の歌祭文とて葭簀囲ひのうちに床を設ケ一人は錫杖をふり一人は三絃を鳴らして祭文を語ル中にも名人と聞えしは
   香具十次郎   難波清治郎
   山本八重郎
図 歌祭文の名手 歌祭文の名手
恋すてふ祭文て名は立にけり人しれすこそおそめ成しか
 祭文外題の荒増
  おさん六三郎花のふり袖  金屋金五郎小さん浮名の額
  樽屋おせん恋のかうし花  島原小蝶心中
  道具屋おかめ余兵衞心中  同下の巻心中梅田堤
  夕ぎり歌祭文 上 名残の正月 下 泪の相の山
  油屋おそめ久松心中 上 白絞り 下 泪の腹帯
  山下宇源太歌祭文 上 さいご物がたり 下 霜のふり袖
  おむめ粂之介高野心中 上 紙屋女人堂 下 心中万年艸
  京おしゆん伝兵衞心中 上 堀川後家の娘 下 京の町尽名残の水盃
  お露歌祭文
浪華色八卦云 六万だいしよまん此所煮売といふものを立にして内に呼ひ物のあるも見へ又外からもつれてくる尼寺のてらしなれと折に少まさりたる有り皆此あたりはしろとめかさず心いつはい女郎めかし艸双紙屋が作つてわたして門々へ諷ふて来る国太夫ぶしせめてかたけの精進をといふ反吐の出る文句を覚へさても能ウこける声じやと思へば爰は祭文かたりの住所なれは其ひゞきなるべしなじみ紋日の沙汰もあつて粗応の花をやる也
 
03-475
林清の事
今音曲に林清といふ節あり浄瑠璃秘曲抄にたとヘハ文七の呉服の段に
図 林清節 林清節
【去るほどに。おぐりどの。照天の姫と御祝言。三〃九度の盃に。毒酒をすゝめもりころす。よこ山一家が悪心。夢にもしろしめされいて。引請/\のミ玉ふ】
 
03-476
傀儡師の事
西宮に道薫といふ人御神の御こゝろをなぐさめけるに是より海上波風静にして猟舟多くの魚を得る事久し時ニ道薫しばらくいたみて身まかりけれバまた風おこり波高ふして猶更猟もなかりしかバ百太夫といふ人人形を作りて神の御まへなる箱のかたハらに身をひそめ人形を以て我は道薫也尊の御機嫌や窺ハん為まいりたりとて御心をなぐさめける是よりまた波しづまりて猟もありけると也其後時の 帝此事をきこしめされ禁庭の政に出勤ずべきよし 勅諚ありけれハ百太夫都にのぼめて此義をつとむ依之
    大日本者神国故以慰神慮者為諸伎芸首
かくのごとき号を下され諸国諸社神いさめの事 勅免ありしより胸に箱をかけ人形を以て神をいさめし也これ傀儡師の権輿とぞ
      傀儡師唱歌
  伊吹山おろしサア不破の関寺内ハンヤ戸さゝぬ御代こそ目出度けれ 恋しきヤレ 思ひサアふるさと近づきハンヤ山城の井出の里ハアゴサレ/\たうからゴザレ朝の嵐に誘ハれござれサンヤぼんちはくゞりやうてくゞるかたく門やはたそかれ時にハア脊戸は八重垣大戸はくゞりあけてたもれバ寐屋もる月よハア五郎左衞門が心が心うかれてくる/\やヒヨツクリヒヨツクリヒヨイトサンテ目出度イナ
百太夫は諸国をめぐりて淡州三原郡に着き三条村にて身まかりけるに何某の四人百太夫に傀儡を習ひて此後傀儡のわざをなせりこれ淡路座操りのはじめ也右淡路座のあやつり凡四十ニ余れり当時諸国に聞えて名高きは上村日向掾を魁首とす往来帯刀御免にして芝居の表口に 大日本諸芸首といふ額を懸る此義淡路座の秘書にあり扨又西宮太神宮の後に百太夫の社ありて近世寛延宝暦の頃まで西宮より傀儡師来りしが今は絶て見えず狂哥種ふくへニ 昔から西の宮より出この坊おかしいものは今にやま猫 嘉ゆう
           [中頃首かけ芝居といふものあり是も傀儡師の余風にや]
因云 歌道には遊女をさして傀儡といへり是を思ふに往古の遊女は客人の席にいたりて哥をうたひ舞をよくし人形ぞつかひなどせしといふ故ニ俺備の名ぞ呼もの成ベしまた唐土にて傀儡棚といふは日本の糸あやつり也よつて此事を南京あやつりともいへり
代神楽の事
  中頃故障之義有之大坂へ来る事を禁ぜらると也 [古老云 代神楽越後獅子公事ニ及び大坂は越後獅子来りて京師へ入る事不能代神楽ハ京ニあり寛延後の事にや] 
地こくのえとき
 猿筑波ニ            百子堂
   地獄代一百三十六七文せめ取て僧もくけんのかれる
03-478
 
図 傀儡師 傀儡師
 【いつも春の比ハ都の町をはいくはい方二尺の箱を負ひ中にちいさき人形を入て家〃に来りあやなき一ふしにてこれをまわしいとなみとす 出所ハ摂州西の宮より来るとそ 世にあやつりと名付て人形をつかふことこれよりはじまれりといふ】
 
03-480
一 三月十八日新屋敷油屋かしく死罪 本名八重
北埜法清寺ニ石碑あり故ニ世俗此寺をかしく寺と呼ぶ
  本具妙暁信女 墓石の正面ニかしく墓とあり
    人ことに恋しく思ふ八重さくら散てはかなき名は残りけり
施主万屋とめ油屋喜兵衞
願懸重宝記云 労痎を治するには此墓の手向水や受帰り其水ニ而薬を煎じ病人に服さすべし忽平癒す又悪しき癖ある酔狂人の酒を止んにはその本人の知らざるやうに手向水を飲せバ酒を嫌ふやうに成りといひ伝ふ
 
03-480 【年表 1-201】
一 三月廿六日より豊竹座ニて浄留理大当り
右趣向は当十八日かしく死罪ニ相成候翌十九日朝大工の弟子心中同日神崎の大喧嘩宅平を船越十右衞門とす爰かしこの噂事や一部の戯文とし即刻廿日ニ左の通りの外題看板を出し纔ニ五六日の間に作者並木丈介はいふニ不及一座の働き前代未聞殊に作文章句もよろしく出来其節の大当りのミならず今に浄留理の好人翫ふ事世に知る所也
 
03-481 【年表 1-210】
一 六月 三絃名人鶴沢友次郎死
 
03-481 【年表 1-210】
一 九月 此太夫事受領筑前少掾藤原為政
 
03-483 【年表 1-211】
一 三月 北埜心中
 同月廿三日より道頓堀大西芝居ニて一夜付ケ去年のかしく追善の狂言と唱へて 若緑むすぶの権現松
 
 
摂陽奇観 巻之三十
宝暦元 辛未
03-492 【年表 1-228】
一 作者 並木宗輔死
並木氏の元祖にて千柳と号ス是より作者の苗氏ニ多ク用ゆ 紀海音 千前軒 文耕堂 千柳
右四人浄瑠璃作者の四天王なるよし戯財録ニ記ス今年一谷嫩軍記三齣を生涯の絶筆として惜ムベし黄泉の旅客と成れり
 
03-492 【年表 1-227】
一 北堀江あみだヶ池門前にあやつり新芝居初
今年よりあやつりを木戸銭十文にて見せ十七太夫淀太夫信濃太夫など出勤是より浄瑠璃の風義衰へ初ム
 
宝暦三 癸酉
03-498
一 四月 河堀口心中
 同廿三日より角の芝居三升座ニ而一夜付ケの切狂言にして大当り
     おわさ茂兵衞冥途一里塚 作者並木正三
 
03-498
一 当冬 疫病の咒張札
 大坂市中家並ニ キノニノヤノハノモノ さゝら三八宿 といふ事を書て門戸ニ張る [一名とんころりと云ふらす文政中ヲツトセロロリ三日ころりなどいふニ同し]
並木正三一代噺
  同暮疫病の咒に門々に張札せしキノニノヤノハノモノといふ事を思ひより二のかハりけいセい天羽衣といふ狂言を出セしが宝暦四年戌ノ春大西芝居座本三条定介正三一代名をあげし根本にして大切に三間四方のせり上を工夫仕出し大坂町中を悦バセしも全クおさなき時より竹田のからくりつもり物の糸どり万端見覚置し発明ならん尤其以前寛保三年癸亥年のくれ大西故中村十藏座へ江戸より故沢村宗十郎登り後ニ助高ヤ高介と云齋藤山城にて油計りの狂言の時二階座敷を一面にせり上しは故並木永助作りし狂言なれ共これも元祖宗介弟子也其時のせりあげハ幕明より錺付の二階にて前通り椽側の高欄の両方へ摺柱を拵へ上へに立しは故宗十郎斗重サはいつも下家より一人前のせり上ケニ椽がわ高欄付し同然今度キノニノせり上は錺付ケの揚屋の道具を引て取リ奥より三間四方の板ぶき屋根を突出し上にて故中山新九郎大勢と立有て追込ミ一人ン残る所へ中山文七松島喜代崎出て故新九郎をいさめ腹を切リ自害する内これなりニ三人一所にせり上ケる下の家体に故十藏哥右衞門定助故四郎五郎立ならびて定助へ文七喜代崎が流れ落る血汐を呑し瘖(ヲシ)を直ス趣向なれバ此七人をせり上ル前には大ゼい屋根での立テ故宗十郎一人が長袴のすつくり立を椽がハ斗り上ケしとは何ほどおもさ違ふ事ぞや大工棟梁のさんだんも有ふなれとも正三ならずして万力の仕かけ真綱の取やう此工夫が付べきや凡人の及ぶ所にあらず此時春正月中の上り銀高を書顕ハし楽屋の鎭守の絵馬に上しハ前代未聞といひし事也此狂げん戌の四月迄大入なす
 
宝暦四 甲戌
03-501 【年表 1-247】
一 十月 竹本染太夫初て出座
小野道風青柳硯 三ノ中ト道行ツレ勤ム
 
宝暦六 丙子
03-506
一 十二月廿二日夜 亀屋芝居喧嘩
 宝暦雑録云 宝暦六年井上河内守殿大坂御城代被仰付御城入あり然るに大坂清水谷ニ御城代代々付渡りの御足軽あり是は御城御門役所の番をなし中屋敷の御門辻番所を受取相勤ゆへ同心衆の格に似たり其内に六役といふ者あり是は欠所金方米方普請方盗賊方目付を六人にて相勤何事ニ不寄大坂中の事を日々書記し直に御城代へ書上をなすゆへ軽き格なれ共役義重きゆへおのづから威勢強く人も恐れ敬ひて六役衆と持なし町方在方へも名高き役人となり代々相勤メ来りし所河内守殿御目付役大石十兵衞下目付田口茂介と相談之上清水谷六人の役義を取上ケ田口茂介一人にて諸役を引受大坂町々ニ於て下眼といふものを拵へける其ものには陣笠鉄刀を赦シ昼夜案内人として召連常芝居能相撲寺社の開帳回向場其外人立多キ所へは右の下眼立派に出立諸噂珍事を聞出し木戸垣外を押退ケ面々手柄に註進せんと己が身の悪事をハ不顧他の難義を悦び帳面に記し纔の事を大行に書上る是等を猿と号る者共は天道八郎兵衞 仁木宗兵衞 ごもくの久兵衞 京屋弥七 坊主多七 鬢ノ佐兵衞 久宝寺屋仁兵衞 岩国屋庄右衞門 古金宇兵衞 難波市兵衞 加賀佐兵衞 昆布屋吉兵衞 竹屋六兵衞 日野屋伊兵衞 馬久四郎 平野屋久兵衞 花屋仁兵衞 何れも此陣笠に成りし者共也多く博奕うちこそ屋叉は薬商売定めなきもの共己が悪事を隠し半被陣笠鉄刀を以て役柄に驕り身の程しらぬこそうたてけれ中にも谷町三丁目久宝寺屋仁兵衞といふもの大酒にふけり下限を功に着て町方にて我儘をいひ芝居などを手紙等にて桟敷高場をゆ すり取る事日々繁く当十二月亀谷豊後掾芝居替り狂言
    軍法富士見西行    おそめ久松袂のしらしぼり    大門口鎧襲
十二月廿三日初日にて廿二日の夜足揃の所へ久宝寺や仁兵衞例の酒機嫌にて見物セんと大勢を押分ケ我意を振舞処に内木戸の弥太郎といふもの仁兵衞が脇差の柄へ袖の掛りしを殊之外咎めしかバ当時御城代の下限の事なれハ段々詫言して宥めけれ共聞入れず猶いひ募りて木戸弥太郎ニ手を負セけるゆへ大騒動ニ成り仁兵衞其儘召捕れ入牢被仰付候所翌廿三日御城代下目付田口茂介宅へ道頓ほり木戸中不残呼付ケ朝六ツ時より暮此迄釣付置事二三日ニ及ふゆへ年寄竹田近江并ニ亀屋豊後木戸中終日釣付らるゝ事難義ニ思ひ段々詫言を致しけるに田口茂介申やう仁兵衞事町人とはいひながら此方の案内人の事家来同前に思召なれハ譬へ人をあやめしとても其方共が捕らへ入牢さすべき義ニあらず今明日ニ仁兵衞を出牢致さすべしと嚴敷我儘をいひ付けれハ竹田近江申けるは段々出牢の義御町奉行様へ御願華申上候所足揃への義は芝居掛りの者共内分の稽古なれハ見物は致ス間敷候所役義を権にかけ理不尽に見物致シ剰へ人をあやめ騒動させし科人なれハ急度罪科遁れ難しと被仰出候へ共猶も願申上出牢有之やうに仕べしとのいひ分ニ而漸木戸田口茂介の掛り合は相済ける扨仁兵衞は御吟味の所鼻紙袋ニ竹の内流の兵法柔術の一巻有之御語義ニ成り内本町金屋新九郎此流義指南仕ける此仁兵衞彼が弟子ニ成り印一ツ取ける其巻物を所持しける故師匠新九郎も召出され町人の身分にて兵術の師範致ス事御咎にて御預ニ成り其後五十日程立て仁兵衞故なく出牢師匠新九郎も御赦免ニて相済けり
 宝暦年中小谷宝泉寺の借屋ニ鬢ノ左兵衞といふもの陣笠の役揚りし後は御内々の御用承ハると偽り我意を振舞芝居の淺敷など自由に取らせ内證ニ而是を売し事度々なれバ知ル人も少からず堀江相撲の時大入にて先約多かりし所を鬢ノ左兵衞よき金もうけせんと御城代青山因幡守様御用也とて桟敷を取り直売せしに御城代御役人方も毎日御出の事なれバ其事露顕に及び左兵衞召捕られ御吟味有之所此度ニ不限度々桟敷を取り売し事迄一々白状ニ及けるゆへ重々不届と有て獄門ニ掛られぬ同じく陣笠一組平野町加賀屋佐兵衞新町海老屋新兵衞両人申合セ角力似セ札を夥しく拵へ売し事顕れ召捕られ御吟味之上海老屋新兵衞廿四ケ国加賀屋佐兵衞十二ケ国御構ひ追放被仰付札を売候者共御預ケ等御免有之相済候
 
宝暦七 丁丑
03-515 【年表 1-276】
一 八月 豊竹筑前掾一世一代
清和源氏十五段山伏摂待出語りニて勤ム
 
03-518 【年表 1-279】
一 十二月 豊竹座大当り
祇園祭礼信仰記 始ハ信長記といふ故あつて外題を改ム
四段目金閣三重のセリ上ゲセリ下ゲ大道具の工夫目ざましく其うへ一部の戯文大当りにて当丑ノ十二月五日より寅卯年迄三年越ニ相勤メ先年当座の時頼記竹本座の国性爺ニ劣らぬ大繁昌也 此節 麓太夫初て出座
 
03-518
一 十一月 角の芝居ニ而三座子供打寄顔見世興行
    竹田座
      鬼一法眼三略巻 二の切 おはつ徳兵衞浮名曽根崎 淀屋橋のだん
    亀谷座
      御所桜堀川夜討 四の切 恋女房染分手綱 勘当 源平布引瀧 二の切
03-567
一 人形名人吉田文三郎死
淡州操家之秘書蓮薫坊由来書ニ云 あやつり芝居は西の宮道薫坊より発て神道を司ル故に洛東吉田家の流をしたひて吉田氏と号するとぞ
 
03-568
      倒冠雑誌 宝暦九年卯七月出板
古老云 延享の頃大坂ニ名高き相人ありしが或とき吉田冠子その宅へ行き人相を見せしむるに大におとろき足下は平日面を隠して生業とすれ共其名は海内にかくれなしもしや当時詮義きびしき日本左衞門といへるにはあらざるやといふ冠子我等はあやつり人形をつかふ吉田文三郎と申ものといふ相者はたと手や打て扨こそ足子は黒子とかいふものにて面を隠せ共其名隠れなしと冠子が芸道を賞すれハ冠子ハ相者の奇妙を賞じて別れぬ
図 倒冠雑誌序 4倒冠雑誌序4 3倒冠雑誌序3 2倒冠雑誌序2  1倒冠雑誌序1
倒冠雑誌
【大和浄(じやう)るりは作者(さくしや)の心を種(たね)として。万(よろづ)の慰(なぐさミ)とそなれりける。花に跡(あと)とふ芸子(げいこ)。水に浮(うか)む伽(とぎ)やろふの一トふし。いづれか出来文句(できもんく)をかたらざりける。たよりをもいれずして妼(こしもと)をもなびかし。目の見えぬ者(もの)にハ三弦(さミせん)と言(いふ)渡世(とせい)をあてがひ。悪口(わるくち)言(いひ)の穴(けつ)どもも。心をなぐさむるは是(これ)也。此浄るりも義(ぎ)太夫ぶしは凡(およそ)大坂のはじめよりはやりにけり。しかハあれど世(よ)に伝(つた)はる事ハ竹田出雲(たけだいづも)に始(はじま)り、当(あた)り浄るりにしてハ国性爺(こくせんや)よりぞおこりにける。世話事(せわごと)は天満やお初(はつ)のかな本(ぼん)そはしめ也。朝比奈(あさひな)・弁慶(べんけい)の人形(にんぎやう)は子(こ)達(たち)の持遊(もてあそ)びにもうりて、此二色(いろ)ハ本屋・御堂(みたう)の前(まへ)[人形店]の口過(くちすぎ)にもしける。元祖(ぐハんそ)筑後(ちくご)ハ浄るりの精(せい)也。又井上播磨と言(いふ)人あり。嘉(か)太夫ハ名人(めいじん)なり。嘉(か)太夫ハはりまが上にたゝん事かたく、筑後(ちくご)ハはりまが下にたゝん事かたしとかや。ちかき世にも聞(きこ)えける大和彦(ひこ)太夫[初世・竹本大和大夫]は。大音(をん)にして四段目語(かたり)の上手(じやうず)なれども誠(まこと)すくなし。たとヘバ看板(かんばん)斗(ばかり)を見ていたづらに作(さく)の評判(ひやうばん)をするがごとし。和泉太夫はふし事の名人(めいじん)なり。節事(ふしこと)を聞(きく)人は淋(さび)しき腹(はら)へ弁当(べんたう)を得(え)たるがことし。播磨掾[竹本播磨少掾。初世政太夫・二世義太夫]ハ古今(こゝん)の妙音(めうをん)にて語出(かたりだ)したしかたらず。のち程(ほど)おもしろきハ。ならびなき娘子(むすめご)の新枕(にゐまくら)とも言べし。又今の政太夫[二世]は。浄るりハよく語(かたり)ても前(まへ)の政太夫と一ト口にはいはれず。いはゞ田舎(いなか)から来(き)た養子(やうし)の身代(しんだい)をよくかたむるがごとし。今の大和(やまと)[竹本大和掾]はむかしの頼母(たのも)[竹本]のながれ也。ふし事あまりて地(ぢ)事いかず。いはゝ鼻歌(はなうた)で女をふづくるに同じ。錦(にしき)太夫[初世竹本]は其(その)さまいやし。地(ち)もよくかたれどもちやりとやらにて当(あたり)を取りぬ。いはゞ顔(かほ)のこハひかけ乞(こひ)の子供(こども)に菓子(くハし)やるがごとしとかや。花(はな)も過(すぎ)、夏(なつ)の間(あいだ)は祭(まつり)にわかに夜(よ)を明(あか)し。目(め)にたつなぐさみもあれど。おとりさへなくなりて八重(やゑ)むぐらの宿(やど)にいにしへをあをぎ。いま聞伝(きゝつた)ふるにまかせ。あら/\筆(ふで)を取ルものにかも。 】
図 倒冠雑誌本文  倒冠雑誌本文 
芝居(しばゐ)いまだ興行(こうぎやう)ならざる昔(むかし)、声(こゑ)よく清(きよ)きものハ床(ゆか)に昇(あが)りて太夫と成、こゑなく上手(じやうず)成ものハ手すりに懸(かゝ)りて操(あやつり)と成。筑後(ちくご)・近松(ちかまつ)の両人より竹田出雲(いづも)を座本(ざもと)として宝永(ほうゑい)二年乙酉三月よりはじまり、益(ます/\)繁昌(はんじやう)して類(たぐひ)まれ成妙(めう)芝居(しばゐ)也。抑(そも/\)義太夫、天王寺五郎兵衞と言(いひ)し時(とき)、初而(はしめて)やぐらを揚(あげ)しハ貞享三年丑のとし(丑は貞享二年。義太夫旗上げは貞享元年とされる)にて、いまだ竹田のしばゐにあらず。ワキ竹本頼母(たのも)・多川(たがハ)源太夫などにて興行(こうぎやう)ありしか、此時分(じぶん)より、よし田三郎兵衞・辰松(たつまつ)八郎兵衞とて名人(めいじん)の人形(にんけう)有しが、才智発明(さいちはつめい)にして両人共頭取役(とうどりやく)を 
【以下本文略 FILE43参照 】
 
摂陽奇観 巻之三十一
宝暦九年 己卯
04-002 【年表 1-290 1-292 1-296】
一 五月四日 道頓堀火
 朝卯之中刻吉左衞門丁より出火芝居三軒浜納屋ひがしハ太左衞門橋西角西は恵比須橋東角迄やけ午刻ニ火鎭ル竃数六十軒余焼失 火元若江屋久右衞門
 古老云 六十三年以前元禄十年丑五月朔日にも此若江屋久右衞門方より出火して道頓堀南側不残焼失せり然るに此度も五月に同じく同人方より出火してかく大火に成り吉左衞門町不磯焼たるも不思義といふべき歟六十三年以前元禄十年焼失後此地日々に繁昌しけれハ此度も益繁昌せん事疑ひなしと語りぬ此度之火事ニ殊の外働きて火を消たる者共五月七日御月番御町奉行興津能登守殿へ被召出銘々に褒美を給りける
   鳥目壹〆文 久左衞門町丁代庄兵衞 同断 長町二丁目丁代伊介
   同断    上塩町 天満屋何某  同断 難波新地 福島屋妻下女へ
   鳥目弐貫文 火消人足町より出候内六人
   焚出シ候米代并銀拾五匁 道頓堀立慶町下人共へ
 右出火之節 公儀惣人足大きニ働キ候而空腹ニ相成候ゆへ立慶町丁人共へ被仰付俄ニ食を焼出シ可申様御下知有之早速たき出シ 公儀諸役人其外惣火消人足へ配りて飢を助り候段寄特ニ被思召左少之銀子ながら銘々へ割合根渡候様被仰渡候也誠ニ賞罰の直なる御政道と皆人感じあへり
  因云
   竹本座あやつり日高川入相花王狂言半端にて芝居焼失夫より仮家芝居にて用明天皇職人鑑鐘入のたん大当り右院本の端書に仮家芝居の進物を運ぶ図あり
       乍憚口上
   此度当芝居焼失仕候処 町中様御ひいきの御力を以て人形衣裳小選具迄恙なく殊ニ芝居普請の立具等下シ給ハり候ニよつて早速仮家芝居成就仕候事難有奉存候右御礼の為且は御ひいきの厚キ次第を遠国迄も風聴仕度候ニ付仮家芝居興行之図を爰ニしるし申候猶御心かわりなく打続き繁昌仕候やうに奉頼上候以上
       用明天皇 鐘入のだん
   此ふし事は元祖竹本筑後当芝居興行の時語り置れ其後竹本播磨相勤此度門人竹本政太夫人形吉田文吾相勤申候浄瑠璃人形共ニ前々とははるかに劣り候へ共仮家芝居興行のしるし昔のまねびと思召御見物ニ御来駕奉希候以上
       宝暦九年卯五月
 
摂陽奇観巻之三十一
宝暦十 庚辰
04-024 【年表 1-306】
一 七月 天王寺曲帯塚建
 天王寺西門納骨堂の後ニ故人竹本播磨少掾文正翁曲帯塚を立ル 銘左ニ記ス
  北正面        東面
   奉納大乗妙典     宿坊法憧院恩顧
  南面         西面
   故師竹本播磨少掾   文正翁曲帯塚
  僕成童ノ頃ヨリ翁ノ浮瑠離音曲ノ奇ナルヲ慕ヒ門ニ入テ嗜メリ寛保癸亥ノ秋芸閣皇入テ此曲ヲ続ンコトヲ示ス予微曲ナリト言トモ師命辱ク其意ニ随ヒ且政太夫ノ曲名ヲ載ク翌甲子ノ秋老師病間芸床ノ儘終焉ニ至マテ纏ヒシ肌帯ハ翁ノ沢物亡後ニ請テ記念ト拝ス今ニ於テ師跡ニ止ルコト全此名帯ノ余誠ナリ今年翁ノ十七回忌ニ予寸悃ヲ発シテ此霊場ニ大乗妙典ヲ奉脩シテ其追善ヲ仰ク又被綿帯ヲ附藏シ陰ニ翁ノ曲帯塚ト唱フ是師恩ノ厚キコトヲ後世ニ止メント欲スル而巳
     宝暦十庚辰七月廿五日
                 拝主薩摩屋十兵衞有保謹誌
 
04-026 【年表 1-306】
一 当春狐が三疋尾が七ツの流行哥
 古老云 豊竹座の人形遣ひ若竹藤九郎 [戯文表徳笛躬] 友を誘ひ上京して帰る日彼地ニ而若狭小鯛十枚福井みす屋針祇園の香煎など土産ものを調へ帰るさに伏見街道稲荷前ニ而土焼の狐三匹求め伏見より下り船ニ而夜寒の余り小竹筒を出し調へ帰りし小鯛を一枚肴として山崎辺まで下りし頃何とかしけん苫のうらにくゝり付置たる土焼の狐ひもちぎれ落て尾は七ツに割けるを友人是は一興と砕たる狐を取上れバ笛躬も土産の小鯛も不足也といふ野沢喜八きせるを取直して口三味線にて声はりあげ
     こんどのぼらバ祇園香せんみすや針若狭小鯛が九ツ狐が三疋尾が七ツ
 と諷ひけれハミな/\笑弾して同音にうたひけるを夫より世上に専ら諷ひ流行せたり
 
04-028 【年表 1-301】
一 十一月 千日竹林寺ニ朝比奈宗兵衞石碑立
 事ハ延享三年の条ニ著ス当七月竹本座にて極彩色娘扇新浄留理大当り
 
04-028 【年表 1-306】
一 十月 座摩社内芝居櫓之事
 貞享中安治川上壹丁目ニ而助成櫓御免其後四十年余致中絶宝暦二申年右之櫓株ニて生玉境内蓮池にて晴天六十日之間興行其後亦々中絶今年右之櫓株ニて当社芝居名代は和泉屋五兵衞開発人家名不知委しくは南水雑志ニアリ
 
宝暦十一 辛巳
04-029 【年表 1-304 1-316】
一 二月十四日夜 道頓堀火
 若太夫あやつりにて去冬十二月十一日より祇園女御九重錦といふ新浄瑠璃興行中当芝居より出火
   江南の里俗 祇園女御九重錦 若太夫出火 日高川入相花王 筑後類火 今に此狂言を出せバかならず火災ありといひ伝ふ
 
04-038
一 当春 角之芝居霧太郎大当り
 北新狂言も作者並木正三の工夫にて道具立見物の目を驚せり大切惣二階座敷の引道具後には舞台を突出し又大廻り道具なと彼是此場は道具動キ詰にして新九郎霧太郎の天狗姿にて場のうへを飛行させるなど珍らしゝ
 
 
04-039 【年表 1-313】
一 十月廿一日より 竹本座ニ而あやつり顔見世夜芝居十日つとむ
    冬籠難波梅 【浄瑠璃譜参照
 吉田三郎兵衞事吉田文三郎と改名して江戸下旬暇乞出遣ひつとむ
 
 
宝暦十三 癸未
04-045 【年表 1-341】
一 正月九日夜 道頓堀火
夜九ツ時道頓ほり出羽芝居より出火西は太左衞門橋角の芝居東となり迄東は日本橋通り西側まで浜側とも残らず焼ケ 竹田 出羽 亀谷 豊竹座 芝居四軒焼る
 
04-046 【年表 1-335】
一 八月三日より竹本大和掾一世一代
御前懸浄瑠璃相撲つとむ
 
04-50
一 当年 亀谷町御霊社内ニかぶき芝居立
 座本谷村楯八は初メ亀谷竹八とい当年改名して座本を勤ム番付前ニあり浜芝居にて其頃松竹梅とて三人の名人の壹人にて評書の位付 奇妙上上吉とす今年御所桜堀川夜討藤弥太大当り此節座摩稲荷の社内にもちう芝居繁昌せしが天明寛政の頃度々道頓堀大かぶきより指留之義御願奉申上これをケイドウといふ夫ゆへ当時は竹田亀谷などのからくり名目ニ而子供狂言斗りつとむ
 
宝暦年間
04-052
一 宝暦中浪花名人芸十人
 難波の骨継   吉田永休鞠    岡崎勾当三弦   半時庵淡々俳諧 亀屋孫兵衞鼓弓
 福島万兵衞将棊 竹本播磨浄瑠璃  吉田文三人形   和泉屋錦紋切  ヲテヽコテンの品玉
同 やくたい芸十人
 必東先生手跡  河内屋太郎左衞門めつさう      永瀬酒ノ拳   万々が棒振舞
 森田幸介が犬  雀踊       石場惣介口笛   橋本横着    今ノ烏勘左衞門
 非人源太ノ身振
同 やくたい芸自慢
 必東先生詩作  由井佐右衞門鞠  鴻池喜右衞門智恵 豊岡勾当三弦  落野喜齋茶
 阿波ノ留主居粋 岩井屋佐右衞門能 伊勢屋久兵衞鼓  若狭与市詠歌  穗積先生作
 新興肉平浄留理
 
04-053
一 素人浄瑠璃之事
宝暦の末明和安永の頃までは大坂ニ素人浄瑠璃を語る人は
ウツボ南金 堂島 髭久 順慶町 平介 今はし 塚五 ひら八
纔ニ五六輩ニ過ざるゆへ至極珍らしく人も用ひしが近世は素人浄るり盛んニは成たれ共その行状は甚拙シ
 
04-057
一 生玉社地盛衰之事
此地ハ元禄の頃より宝暦中は詣人常に絶えず繁昌なりしが明和の頃より漸に衰へ初めて天明中にハ名代の祭文小坊主の万歳も止たり往古繁昌セしより宝永四年にハ社地ニ浄留理の稽古場初り其外見世ものなど多し活玉集ニ
      生玉社内能         貞堂
    シテワキも鼓太鼓も人すくな能いそかしき小はやしかた哉
      哥祭文           白水
    立よれハサツテモとろり油屋のおそめ祭文ヨホヽよい声
      踊万歳           元信
    世渡りを床几代にて踊もの久しかりけり生玉の万歳
      曲手鞠           寛水
    自慢くさう芸しやううゐの曲手鞠床代の銭をそよや集めん
      稽古浄瑠理         永常
    気延しに爰をさらすに聞人ハアヽ極楽よみたの浄瑠理
      揚弓場           友房
    揚弓のつかの間もなくちりゝんの音にあたりの人もよりくる
      軍書講尺          可由
    講尺の啌八百もつく銭を敵かせしめる四百よきかな
      田楽屋招人         冬之
    田楽を焼やほの/\穗に出て尾花てはなけれと人は招かな
      荷売張幕          同
    香炉峯の雪とはいはし夏なれハ荷売の幕を上て納涼
      弁天蓮           和人
    紅蓮をそゝき出せる弁天は地水火風の水のたかふり
浪花茶里八景 生玉の帰帆
 一ツの境内でんがくの名物社内にてハ綿屋川崎や藤屋数しらず八満んの内にて宇多屋弁天にて花徳料理茶や吉田や大和や彼岸参りのていねい息子参会の名代手代大喰イの自慢から果は張あげて拳角力入相の鳴迄遊ひ過し驚きあハてゝ遊びたんのうしたる体にて尻に帆かけて帰路をいそぐを景色の一ツしかし荷葉飯(カヨウハン)の時分には居続の粋が幇間たつた独りつれて朝めし喰ひに来るぞ
      蓮の葉や此田楽の帆かけ船
 
04-059
一 浪華色八卦出板
 宝暦六年也其後十八年を過て嫡子備四軒なる人其頃は遊里の客も外山翁の色八卦とは大に相違セしゆへ今八卦 を著し安永二年出板スまた其後寛政の初め頃今々八卦といふト一書出たれとも故あつて絶板セしゆへ近世此書を 見当らず
図 浪華色八卦  浪花色八卦 浪花色八卦 浪花色八卦序2 浪花色八卦序1
【浪花色八卦 外山翁:松田和吉、蘇生庵麦鱗  三都洒落本105-140 浪速叢書14:273-302 洒落本大成2:339-357】
【なにはのや名にふる芦をめとに折てうかれ遊ふ里/\の情遊妓の吉凶をトして蕩士の風俗をわかつ夫易に五の名あり日と月をもて易となすは相惚の夜昼思ひて忘れず河図出て倡家に価定り後天といへるは太夫天神𡛳の名をおこし繋辞は其悪醜と詞の伊達を備へ(丁付なしオ)十翼の伝は世に鳴る艶を称に歌に作り糸にのせてうたひ流すの義也猶意味の深きは[髟/廾](かんさし)のさん木によつて文意をさとすへし
     外山翁述作
桔梗卦
桔梗は嶋の内井坂町の卦也○活気の人多く来ル○万花麗を好ム【中略】
外里の幇間はむしやうに拍子つき檀尻芸を見るごとく鳥さしも仕かねぬいきおひこれは幇間の下品也此所は幇間の水上にして仕うちばたつかずせりふに穴なくそれ/\の客の気にあてがひ森田幸介をはじめ平助喜六宗助与八松治音太夫伊勢太夫其外数もしらす利八隠居して日養坊となりたるも興也繁花第一の地なれは勢ひ強く二人リ三人請出してもそれには曽而おとろかずぢゞむさき身請などは却而客の名をくだし生涯のの恥となる也よく/\慎ムへししばらくもけだいなく通ひて黄白をまき遊ひの仕うちよきをもつて
名を上る所也茶屋もめい/\伊達を専とし中にも品のよきは貝半大七さかなつ。てうしのはづみたるは川作大才又近江屋井筒屋。おとなしきは大治豊三足代伊長吉。橘嘉天吉ていねい。落つきたるは足代太若吉。富市綿庄は茶屋柄を作り。島九竹伝賑きやか也其外岩長岩善長喜河庄あぐるにいとまなし又坂町の盧路の内によしやといふ呼屋ありて此地の黒がり所にてさま/\の獣集る也御はらひのうちはとり分ケ芝居側住九より角ト丸迄の間俄の本ン舞台にして数万のてうちんをつらねて夜のあくるをしらす此灯の影に出張してのらの面を照らすべし此卦六月は大切の月なれは昼夜わかたす心身を尽して遊ふへし
竜胆卦
竜胆は蜆川曽根崎新地の卦也○朝迎遅し○比言中○幇間のけんかまひすし此卦も万物発生の所にして其女郎の風俗は新町ト京の祇園町を合法してそれより一段つたなき位也強きともなくやすらかなるおもむきゆへつたなからす牙婆トいへるすさましき女郎も此地へ来ルとにつちやりと見へて手を取らす事多しかりかしの定りなけれど女郎のきまりゆるやかなればひとへ帯のなりでちよつと来てちよんの間をうたせこまかなる客をよろこばしむ𡛳より中ウといひ丸花ととなへ新造ばやりのする所にて出かわりめきたるも多く出す也しかもよき判官あまた入リ込み近年よほど飛んた仕うちも見ゆれど一躰ぽつとりと遊ばせる所なり其ゆへか在所から十一の年さる問屋へ丁稚ニ来て酢にもたこにも遣われ店番する間も銭ざしをなひ難行苦行して親方の眼にとまり元服しても茶屋といふ物は牢屋の如く恐れ折に土樋口かつまると現銀買にさらへ。飯喰ふた箸は三度つゝ礼拝する手代今は番頭となつて銀も自由なれどにきりつめ。ある日梅田へ葬礼に往た時わるい連レに引すられちよつと此所へふんごみ味を覚へよろつうちばなる所ゆへ人に知られぬを調法がり二度行五度通ひ見るほとの事新しくするほどの事嬉しく四十有余ニなつて漸極楽の道に入リ宿這入銀の成仏うたかひなし。こそ/\と大銀つかふ親父客の多き所也舞子座敷芸のたぐひは新町の道具なりしを今は此所ほど繁昌するはなし金らんの着もの着たこびつちよに地をする芸者共か大勢付いて最初が芦かり。玉豊のしつと。奴の道行には此女の子にふんとしかゝせ尻をクイトからげるがはねになつてよだれを流す客もあり所の風俗はかわつたものでよほどきようといとは思へど此所て遊べはごばん人形もしばらくは見て居らるゝ物也芸子もやわ/\と。つとめたいこ持はけんを第一の芸としてはげむゆへおしならして此所強しはやりうたはやり言の遅きも女郎の知らずに居るはかへつて心床し折には廿日卅日南の歌舞妓此所の芝居へ来ると女郎もはじめはこたへていれど役者珍らしくかへ名を覚へて楽屋付合ついにはほころびてそれにもこれにも持て参り地女のぞけたやうになるもよほど笑止なもの色事好きの役者はそれを給銀のかわりにして行げなと法界りんきする人のいわれしも尤也小茶屋のうちには居続すると。きもつぶすもあり亭主が出て兎角細長う御出下されませと染んだあいさつもおかし蜆川北側呼屋一丁目より初て三丁目四丁目迄すき間もなく座敷の工合庭のとり方皆同し行かた也南へわたつては大茶屋鯉新鯉作松坂屋中にも菱屋善五郎といふうがちがしら客とともに遊んてぴらをいわすてつ水といふ誹名の通りたる茶屋は浪花に是ばかり也此地の妙は𡛳人に二人リか三人外にもなきほどの飛切を出す所也容常ニ油断なく通ひて福ヲうる卦也
此変卦に中町といへるは格別事かわりたりいかなるゆゑんにやうちかけしての店つき一躰現銀立テの所にて遊ふへき客を見立て引込み木戸トいふ下女さだめのこときわめて奥座敷へ客を通す欄干つきの椽に庭は泉水に蘇鉄きりしまあしらひやせかれた石台の蘭小便箱の傍にすへ手ぬぐいかけおごそか也奈良の木辻のもやう思ひ出らる盃か出ると店にありたけの女郎どや/\と出て来て百万べんくるやうに居ならへばどれこれとさし図して其夜の君をさたむる也取肴やうのもの硯蓋きつしくに取合はせうす平ラたい大鉢に花のある物をかいしきして作り身を歌かるた程に切り立蛇の鱗のやうに並へてふしみ焼の摺鉢にした小皿へもりわけでさし出せは扨もからしかきいたと客があたまかゝ へれば酌する女童が盃とり上ケて其口へ一ツ上れとしみついたあいさつ床の段になりても置屋ての遊ひなれはせりふくぜつもなく只一儀終ると去ぬるとがいつとき寐る事一へんの客は四つより泊りを取て伯母の所に寐るやうに酒ものまずに扉風に入りゆつくりとやるもおかし此所も必残すべからず
こつほり町は蜆川の東につゞいてはるか品くだりたる所也店つきをなして局めきたるも見へたり多くちかき在郷の人の楽しみ所七八年前にはやりし桐の木の印籠南草入レそれをはやらぬ先きから持ているわろ達が多く此所をはいくわいし綿初穂のわたくし新麦のぬけものが銭と化して皆此淵へ捨たる也泥亀やの戻り足爰に夜を明かすもありそれ相応の意気地も有るへし 【中略】
【鶴菱卦
鶴菱は高津新地六万台勝曼此卦に属す高津新地は相生橋二三丁の聞を上品とすなんは新地の女郎に堀江の強あるものなりまへも爰より島の内へ出て鳴たる芸子多し【中略】
六万だいしよまん此所煮売といふものを立にして内に呼ひ物のあるも見へ又外からもつれてくる尼寺のてうしなれと折に少まさりたる有り皆此あたりはしろとめかさず心いつはい女郎めかし草双紙屋か作ツてわたして門〃へ諷ふて来る国太夫ぶしせめてかたけの精進をといふ反吐の出る文ン句を覚へさでも能ウこける声じやと思へは爰は祭文かたりの住所なれは其ひゞきなるへしなじみ紋日の沙汰もあって相応の花をやる也】
花菱卦
花菱の卦は 安治川 霊符 八軒茶屋 編笠茶屋 真田山 北野 梅畑
右皆此卦に属ス安治川留島新地堀江のかたありて女郎は汐風にもまれてしやれを専とし緋鹿子のじばんの襟おしくつろけ引すり下駄なやしかけて呼屋入リ客もさま/\のていある中にこゝ大臣と見へて空色つむぎに江戸ぶとりの帯羽織は着ぬも着たるも打まじりて碇をおろし初よりゑびすの絵のある大盃て呑みかけヤアラめでたの若松様とてつぺいから声を出してうたひ女郎よんだ客はてんま舟のことく腰元ニひきつけゆふへ松屋の門てあふたのにヨウ見ぬ顔でまぎつたナァとひぞりかゝればソンナ太郎丸いふておくれなトレ其酒瀬ごししやうかと助ケてやる又酌に出た小女童とらへてぬしめはたしかにあら屋じやおれがゑぶ付てをこと手を握は此はつさいもまけて居すヲツトあたつてくれなんすなあま貝しやといふはそんじものじやといふ事か陸では聞なれぬ隠し詞て遊ふ所へ亭主がそとから戻つて是は/\ありかたひ重荷かとれた富士見客に浪くゞりなんぞ珍らしひ吸ものをはしらかして参リましよと台所へ立て一座のかぢをとればこれから遊びに足かいつて屏風へ入津の段をたのしみ曙の追風に目をさまして戻り道迄をねまきなから送り状文のかね言も偽ならぬ住よしの神かけて只無事着をいのるのみ也九条島は又はるかおとりたれば其品をしるすに及はす芝居はせねど櫓もあつて遠国入込み繁昌の地なり船おろしによばれた戻りか鯊釣リのついでによつて此卦のおもむきを見給ふべし
北野 梅畑 此あたりは表へあらわれずしてよほどふるき所也素人といふは楯にしてよび所も外商売をかねひるの焼餅店夜るは其生餅屋となり又畑近き井地のほとりひしかきの格子の家寺子屋かと思へは内には菅笠風呂敷包なと取ちらしかうかい髷のほつとり風俗二三人藪入あるいは出かわりと見せて大かたまつ黒なるしろもの也すぐれたるは曽根崎一丁目の素人出の位也能ク目利して遊ふべし
真田山此所の婦人霊符の格にしてちかごろさびて又かわりたり狐の穴深くほのぐらきのうれんから一重帯の尾を見せかしらは四ぶ一のかんざしニ水牛の角く櫛安おしろいの厚化粧藻をかづくやうに身仕廻して顔も鼠色ニ化けちかき在郷の若ものにのりうつるまたぐみたの長兵へ八坂の三六など異名て呼ふ客多く入リ込隠し詞も一段おちてさんせうをつみ色なじみのわけありてたてひき強く春は相応に賑わひわなにかゝる人多し
あみ笠茶屋こゝも素人を表にして大かたくろし雀ずしの名所なれば百迄の巾着銭にて楽しませ折にまこと素人あるは皆はぐれた伊勢まいりのやうな風俗毎日風呂へ入りやるかときれい好きする客がとふて見るほどの事也つとめなれたるは相応にゑたいをかざる折にはみめよきしろ人出る事あれとも甚まれなり其時を能考へてもらすべからす
霊符此所はこばん屋町より這入ル門あつてそれより細き辻子にのうれんをつらね婦人は曽て素人めかさずずいぶんくろがり菊野さくらなど大名をよびなじみの義理あいかたのせりふもかわることなしこしをのすとあたまうつ二階を座敷にも寐間にもつかひ床の段になるとあるじのかゝがさくらさんソコ味よふしてへといひてはしご下りれは合点して江戸絵と山水の天狗とはつてある二枚屏風をひきまわしひぜん湯のやうな嗅のするふとんに木枕二つ紙くず籠も枕元に近し寐なから多葉粉のんで逢ふ事をひつはりおまへ御なじみがあろなとぞつとするほどおかし血気の若ものはもつたいなくも朝参のついで空腹て遊ふもあり爰も好色の修行所也
八軒茶屋此所は霊符と品かわりておじやれの躰なり店には蛸の天蓋鳥貝の高もりを置いて前たれがけにて人をうなづき客は多く武家の奴ッこらさを初として近比多く入込み繁昌す遊はんと思ははずつと這入て座につき是をと思ふやつをうなづいてきせるか茶か乞へばはやわれじやと合点して前垂はづし閨中の事に及ふ也かゝる所には看板の首といふものありてよい顔を門口のきつはしへ出してまねかすればそれを目当にして這入りこめろ呼んでさし図すればアレは内の娘御じやとれぞ外のになさんせといへばぜひなくどうみやくをつかむ事あり能〃見さだめて遊ふへし
蔦菱卦
蔦菱は 上塩 野堂町 馬場先新地皆此卦に属也【中略】
檜扇卦
檜扇はなんば新地の卦也【中略】
三味せんつぎ国太夫の道行よいもん句な所を中程から諷ひ出して古ルけれどよいかげんに山にそつきにけりサアこれで祝義はおさまつた其馬びしやくの酒助ケふかと胸を叩イてゑら呑みけんもよツほどじまんでゆひをそらし パマ リウ サンカ よいやなあと角力身になりこれを悦ふ客は六月の土用の中でもまんざいをひかせて聞たがりさかなばしで傍にある茶碗たゝいて拍子取りしつほりとたのんますぞとしんそこからおもしろがり此やうなあばれ芸子を奴トいふ異名つけて称美すれは【中略】
新屋敷是も右之卦に属して女郎は一段おとりたれとだん/\はなやか也ちかき比までは呼屋置屋もそこ/\にありしに次第に賑やかなるによりて其隣の豆腐屋又となりの灸屋も仲間入りして軒にかけあんどうをつらね千とせ屋松もとやなどめかしかけて終に一トかたまりの色里となりそれ相応に芸子たいこ持も涌て出て遊所の道具皆備りたり女郎は堀江のおち塩町の仕かへなど往来しちかき南方の在郷を引うけ木津なんばのふし達入り込つつこんで遊びかけ間夫の立引のき状のせりふまだ日のくれきらぬうちからちくごのもんのついた手ぬぐひ頬かぶりにして久兵衞や七兵衞やと呼つどひぞうり下駄かまびすし中にも素人薮入などいふて一段わひしき呼屋もあり婆様どふじやといふて這入るとたれでもちかつきのあいさつして置屋へ呼に走るついでに肴もいふてくる女郎めんふく仕出しにむらさきつむぎの帯焼桐の引ずりぐわらつかせ若きはびいとろに綿糸の入つたかんざしやうのものあたまにかざり座について八文粉くゆらせ手あらふない客と見ればおまへがたはこんな所へほんの気で来やなさらぬとおかしひ所でのぼしかける手くだは相応に覚へたり素人とゝいふもの折にはあり近比けしからず色里めきて繁昌の所也
宝結卦
宝結は堀江の卦也○衆人入リ来ル事しげし○迎イ甚性急也○ [大前髪と色を諍ふべからすかならず力強し] 此所船手を請て近来繁昌の地にして活気の遊ある所也本茶屋といふ名目ありて此宿へはいくわいする女郎を上品ンとしそれより下ニ至て羅生門柳小路らんまとり町ありあい町の類多し大路地は此所の古地にて濫觴の所なれと今はさびたり阿弥陀池前は京北野七本松同格也上品といへとも一座二座のわかちありて新造娘出時ニよつて景物多し又芸子の器量は浪花におゐて此所にまされるはなし此芸子の色事にて活気陽気のよき客いり込はなやかなる遊ひも出来る也此里に限らずいづくてもむかしは女郎より芸子をひき廻したるものを今はうらはらとなつて女郎から芸子にひらをいひしたかふ様になりたりとりわけ爰の芸子器量すぐれたれど衣裳のもの好ミものゝいひはなしつよくいやしきは残リ多しかり初にも芸子会といふ事有て座敷の噺にもきのふの会には南から鶴山さんと政島さんと見へたと一向宗か門跡様の御傍へ出たほどに有がたかりあつたら能イ器量に三寸二ふの大ばちシヤにかまへ浮寐の鳥か湖照姫(にをてるひめ)と道行をやりかけ浄るり三味せんを専とし皷弓尺八までを持あるひてつとめたいこ持の古老は曽部子梶忠今は後生一へんに取入リたるよし夫より後の若ばへの幇間数多ありて拳と打て置けとで座をくろめて賑きやか也隣座敷て強そふナ客の咄ニ七めが此中卯月八日に爰へ来てゑらうさやしおつた一日に拾七貫手放したと銭ざん用もをかし何やら市といふ座頭をよへは思ひもよらぬ年寄リにて比言はきび獅子にぼたんをいまだに宙で覚て居て大事の物じやけれどひとつ旦那へ上ケませうと有馬の小間もの売がいふ様なしみついたあいさつしてひき出すを聞ば青ものつくしの宇治川の先陣中程から中居にふき込んて止めて囉へはまだ上戸と下戸とのせり合の浄るりがござりますとへらず口是もいつそ興となる此所の呼屋の景物遠きものはさだめで音にも聞つらん天にとゞろく関取はなやかなる客入込詩人書家俳諧師茶人画工乱舞がた様/\の獣此所へ行かぬもなし此地は南ニまけまひとする活気あれば先此芸子を手に入れ女郎のたぱね買たいこ持の大よせと出かけ肩をはつて名を鳴らさは日〃いせい強き卦也
桐薹卦
桐薹は新町の卦也○日夜諸国より待人入リ来ル事速也○かりかし有て毎夜心のまゝ也○婦人門ヲ出るには障りあり○太皷ならは事を定むへし【中略】
陽気一へんの判官(たいじん)弁慶(たいこ)揚屋入りの高調子ヤツアコりヤ/\/\ナントカナアと門口からなりこめは花車中居きよろりとした顔でていねいなあいさつ此拍子には合わぬ所也それにもこりす座についてものまね身術軽転(たてぎば)と出かけれは南てするやうな事なはると中居か興をさますたいこ持は大かた菊太夫須磨太夫と正風躰な名をついて座しき浄るり宿替へする程本をもつて来て只今小栗の三の詰をかたりますとていねいなあいさつして真顔てかたれはうれいの所になつて一座の女郎中居ほろりとした顔腹をかゝへる事也【以下略】
 
04-074
図 浪花今八卦  浪花今八卦序2 浪花今八卦序1 浪花今八卦題簽
【浪花今八卦  浪速叢書14:303-332 洒落本大成6:21-41 】
【浪花今八卦序
亡父外山翁在世の昔浪花遊里の情を尽さんと江南大才亭の庭なる厠隠しの萩垣を蓍に折考終つて色八卦の一書成る今此書を考るに爻変じて前卦のこときは十が一也子として此変を正さすんは孝心空しと清浄閑情の地を求るにひんがしの山下に貴得の一亭あり此大屋根の物ほしに昇り天地四方を礼拝し二軒茶屋の串を筮竹となし考るに父か色八卦の一字をのぞき浪花今八卦既に成る卦意の明らかなる事よみ得て知るべし
    浪花外山翁嫡子
        備四軒】
桔梗卦
嶋の内并坂町の卦也○活気の人多く来リ万花麗を好ミ色事時〃かわりて久しからす此所八卦の中にてさかんなる事の第一也と父外山翁色八卦の最初に書しるしたる大意はかわらねど其細キに至女良芸子のいきこみ客の粋がりやうていしゆ花車中居のもやう天地黒白とかわるが世界のありさまかわり行こそ興あれしくじつたれど名八が逆様座敷古人正三がからくり庭も皆新しきを求るゆへ也茄子畑は料理屋の亭にふさがれ川のまん中にお山屋の出来るこしらへ夜番かへつて丁代を噛といふ時節兎角古ルいは興なし天王寺といふより天長寺といふが当世也といふも理窟がなふておかし・・・・此地ははなやかを表にしたる所ゆへ客には上中下色〃品ありてつかひかた甚不同あり奈良じまの客があぶない物でもなく上布の客が当になる物でもなしなりのきたない客にも目利してぐつと遊ばすといふ亭主の肝は此江南より外になし茶屋のはなやかはいふにも不及中居の切レル事爰に極り茶やも段/\あらたなるはなやか茶屋出来るもやめるも早く是皆繁昌のするどき物也古き名代にてはのつとり貝半てつしり大七はんなり川作わつさり井筒しつとり富市若江島九どつこい大藤は気丈もの山がたのせ春てし六堺市堺清丸庄角ト丸も能く通り其外島の内道頓堀側数もかぎらぬはなやか茶屋いち/\言ふにも及はず芝居側で能くも売れたるは八百六扨近年ちくごの芝居の向ひ浜茶屋に堺屋三右衞門といふ芝居茶や出来たり遊ばふと云へばなんでも呼にやり此あるじは竹本咲太夫也此茶屋女房と支配の人に渡してあるじは決て茶屋のていしゆならずさん用きかず客あしらわず年中ちやり浄るりの趣向斗を工夫して芝居見にくる客もあそひに来る客もわが音曲の徳をしたふてくると覚へ客の座敷へ折にはゆかたがけで提きせるで出てわが浄るりの当ツたはなしいふて仕舞ふとツィと座をたつ客とめて酒一ツといへば酒は嫌ひじやともぎどうなこたへ誠に芝居かゝりには珍らしひ変物也兎角人は名の売れるといふが肝心粋にも株のあるものでたとへ少労へても粋株を持たるは今に用られる事で南でも誓曳うなづけばそれをよしとし東南ほむれば人なるほどゝ同意する前曽道といひし株持近年八幡山と名をかへ弓矢八幡粋を止メず此むれに色〃株持ありたれど今は小むつかしい人になつているもあり是らは粋草臥といふものにて橙のおとろえなるべし又年古き株持に里とうといへるあり諸芸つたなからずして何をして当うといふ工なく富もせずまづしくもあらず只物にこらぬ遊ひ好真の野等といふは此人にてついにあしき評判なく能イ噂もなく嫌ひなく誰にも付合ふといふ名物売買にすると是らは取わけ高い株しや近年は頭も半白となりかけたれは衣裳万たんはでを止め同行かしらかといふやうな只の親父風俗なればいまた勝手知らぬわかはうぐわん喰イかけて見て跡へも先きへもゆかずツィに降参して三略の大事を聞く事也此人の人柄甚こうとうなるゆへさる方の番頭申スは此方の若旦那の事万事貴公様をお頼申スとあれは里とうこたへて大船にのつたやうにおもわしやれと請合ひ段/\此息子を引廻はされしか大船に乗たやうにと請合ふたも道理随分太長い帆柱ほどな趣向を立させ遊ひの沖へこぎ出させ水の音に引かれてとふ/\粋に仕立一ツの株持にしてやられた兎角粋のみばへを守り立て血脈のたえぬやうに骨を折る浪花の一物也一能あるものは用られずといふ事なく足を能巻ものは則巻足と時の帝より官名を給ひ是又一ツの株を得るはうぐわんに又粋株ありて粋甲と世に鳴りし跡今名をついでさかん也李の郷に住める助松はうぐわん近年高名又爰に浪花の眼なる町に鉄といふはうくわんあり替名はクワク/\といひてクワクは靍の字か只千年経ても心の替らぬといふ事此人一躰見えを取ル事ときこへにぜいをする事は甚嫌ひにてばたつかずうわつかず気の高い所此はうぐわんにならぶものなし浪花江南におゐて名を求んと欲するものは先ツ遊亭を撰事なるに此人一ツ反ちなみたる人を捨ず人知らぬ福新といふ茶屋を引立堺清を捨ず自身は諷ふ事も好まねど長うた好キにて法師続イて芸子のさらへかうなど随分のとやかなる遊ひしかも下戸にして座しらけず近来の妙物也左右の人には越左桐烏其外弁慶かぶもてうしにのつて顔をかへる事か嫌ひ甚よき捌といふ所也近年ふと竹本綱太夫に出合ひ甚気に入り懇望せらるゝ扨此綱太といふはアノ小音にして見物の耳をゆかへ引付ヶこれを能聞かすといふ名人浄るりのかたり打におゐては今の世の上手此人に及ふものなしちいさいなりして座中を腰に付ヶる筈也かゝる上手ある太夫なれば人の気に入ル事もはやく是ら太夫中の粋にてそのむかしは俄に名を取り愛のある事此やうな太夫もなし此綱太右のクワクはうくわんにはじめて逢し時クワクより送り物有しがある日クワクはうぐわんの宅へ綱太夫まいりあないして中戸前へ通りしが綱太が跡に日雇とおぼしき男二人付キ来たり中庭を鋤鍬にてめつたにほりかける店の手代中仕おどろき是は何をするのじやととがむる綱太夫しばしと押とめ是には段〃様子がこさりますお目長う御ろうして下さりませといふうちクワク大尽内より出是は太夫どの何事かと申さるゝ間にはや中庭幅一尺底へ二尺斗件の日雇ほり込ミけれは綱太夫日雇をひかへさせ扨旦那様へ申上ます先日は身にあまりましたる御音物ありかたふそんしますがお礼のおじぎを致しますのがどふでも頭が高うござりますゆへお庭を是程堀らせましたと右のほり込だる所へ頭をつつこんで一礼をなしたりクワクもあきれ是は/\いたみ入と手をたゝき子共よソレかなだらいに湯を取て太夫殿のあたまをあろふてしんぜいといわれた綱太は日雇にそれ/\と知らせば山土二荷になひ込ミ右の穴元トのことくにうづめて扨おいとまと綱太夫は帰りけり兎角はうくわんは仕似せが大事にて金つかひながら弁慶のやうに見ゆるはうぐわんあるものふと台所酒のみ付ると其くせがつくものじや糞仕のわるい客は茶屋にもめいわくする事也油屋三蝶世にあられし比ぬるいのなんのといふたけれと又是程のはうぐわんもめつたにはないもの此人のはうぐわんかぶ其跡が遊んである望ある人此株を譲り請て相続すへし岩二も古人となられたよし此所の卦は強気はなやかにして此所近きに住む人には僧も医者も粋をつかふ別て此所にて療治近年大ウはやり英才の良医あり病家へいても病の見立のよい上に粋をつかはるゝゆへに病論の外のはなしに病人も気をはらし今しかゝつた頭痛もツィ忘るゝゆへ此人の徳を名茶になぞらへ一チ森さま/\とはやる也世の物好といふものかけ合ふとかけあわぬがある事なるに近年の中居の前だれのひもめつたにけつかうがよいと心得大峰大先達のゆるし袈裟見るやうな裂を尻に巻立よつほど気の毒千万な物中居の魂魄が前だれの紐にとゞまつてある事也下タぐゝりをあらわしてするも太夫といふ場にはない事兎にかく小女童小奴にいたる迄肝のヱラィ所かごの者の尻のふりやう迄が外の里より伊達にて強気はなやかの卦別て六七月大事よく卦意を信じて力を入れて通ふべし
此所をはじめ牽頭の事を出さぬは
牽頭素鑑
右の書近日出し候ゆへ沙汰に不及候
竜胆卦 
硯川曽根崎新地の卦也外山翁卦の面に新町に京の祇園町をくわへし所とありふしぎなるは此父が色八卦の時代に少もかわらず女良芸子のいきぢも前にかわる事なく女郎は所/\の仕かへも流れも入込ムど爰の風俗におしうつるゆへぼいやりとなるほうにてかどはなけれども一ツ躰ぬるし其かわりに下作にはならぬほう也蜆川北かわ東のはじめより西の果迄茶屋の間/\にある刻多葉粉屋ふくろ物や惣躰もやうのいきごみ寸分前に違はずかわりたるは南かわの菱屋鯉屋松坂屋面影なきこそ変卦也あふみ宇平治といふたいこモウ七八十でもあろふがやつはりケンの強ひ自慢しているげな前躰浜手の客は老若にかぎらず遊びかたのいつでもかわらぬものにて一躰此所てうしのくるわぬ卦也
此変卦に中町といへるは色八卦時代より甚おとろえて今はやう/\二三軒残り客ていはやはり蔵やしきの下役外記左門たん平など其外存もよらぬ年寄客しかもいんつう沢なるがなんぞ外の用のやうな顔してずつと内へはいり裏座敷てあいかたをよび元トより下戸なれば酒は禁じ河内やへ卅ニ文ののつペい二ツいふてやつて女郎と鼻つき合はして是を喰ひ床へ入ての其長さ味よふつとめるとひぢりめんの下ぐゝりぐらひは請合ふて去ヌる是等爰のふところ客也
又こつほり町は蜆川の東に続きはるか品くたりたり是も色八卦時代とは相違して今は近き町のはたらき人あるひは在郷人打ましりむせうにくろがる皆いくたり来ても色せりふにて扨/\あつかまし女郎はかへ詞のせんぼうあがくは扨置きさんせう迄いみそんなじやナイといふ事をいまだにいふて居る所也爰の露地を行ぬける時扨さたないのもある物じやと思ふて立ている事かならず無用りんきする男がうしろから足かいてこかすもの也恐るべし/\
やまさきといふ所是も近来のわき物其はしめは料理屋田楽屋におこり花火の見物所なりしか今は色線香を焚て一ト切ニタ切の定メとなり能肥たらんちうもあれば素人出の三曲もありはいつたがさいご外へぬける所なく是を号て鼠袋町といふ屏風の極楽おとしにかゝる事疑なし
同色八卦の時代になかりしなら村屋敷梅が枝新地大経寺前新屋敷といふはおはつ天神よりいなり山の近辺菜種御殿といへる右五ケ所大かた同時に涌出せし所にでむせうにめかしかけ客も園八ぷし専やりかけ鍬遣ふ人は少はね付るやうのいきほひもおかし爰等皆むせうにすいがり南のはやり詞をすうきを以て聞付け覚へ自慢もおもしろし
鶴菱卦
高津新地 六万台 勝曼 尼寺此卦にあたる此高津新地は色八卦時代も世上の請あしく淋しかりしが年/\におとろへかけ行燈もまだらにてらせつりがね筋はやつはり在所者を引倒しみぞのかわは家ぬしよりちか頃普請ありて家居あらたに向ウの大みぞも掃治しただけ当分は嗅みもうすしタロの祈祷者おろし薬やなど浪花のはきだめ所となり遊所の姿はなしどふぞして持直しは有ルまいか日〃此所にて商売にかゝるは惣嫁問屋斗也【中略】
檜扇卦
なんは新地の卦也此所の女郎芸子は新町にも堀江にもかまはず近き島の内を敵として是にはげみ合ふ心ありてかへつて力む事強し【中略】
新屋敷是も此卦にそくす此所は前躰むかしはうきすといふて船かたの客入り込し所大イに繁昌せしが中比とんとさび渡りたりしをちか比又みせつきをはじめ万事はり込ミしより又立なをり近来は女郎芸子もはなやかに衣裳は坂町にかけ合ひしろと出といふ物はいづれのさとにもすくなきものなれと此所にはくろとのしろとといふもの折〃ありかこわれていた女郎のきやくにはなれ親のうちにまい/\しているうちしろと同前になりマア三月出て見やうといふやうなもあり又せたいやぶりの中居などくろき中のしろうと是を黒肉といふてうまみのある事也爰らを考へあそぶべし芸子といふものは中/\長歌ではとんと間にあはぬ事園八ぶしといふ物あたり浄るりなればやつこの道行あしかりと二はん覚へていれば恥はかゝすげいこ三味せんもつと右や左りの長者さまとめりやすうたふと客も心得扇さつと押ひらき中役者の物まねさわぎどう中ヘ夜なきのうどん屋呼込ムもおかし兎角近年は女良大キにはなやか相応のぜんせい賑はふ事也此所の置屋の大将はよしのや女郎数多あり続て播新さつまやよきしろものを出すなんでも今一段はやらそふならば此通り筋の町幅をもう五六間ン広うして西の浜のつき当柳のある所に出口の門をこしらへ東のすだれやのある所に同じく門ンをこしらへ御堂筋から道頓堀へわたるやうに橋をかけ女郎にもかぶろを付け日傘を男にさしかけさせておくりこみ新町のうつしを仕たいと此所にとし古ルい分別者がいわるゝゆへなるほどそれはよかろふが先ツ引船かふろ引つれてはそれ程の人数のはいる広い呼屋があるまいといへばイヤ/\かぶろやかさもちの男はおもてのみせにこしかけさしておくとあるやぶいか山ぶしの供のやうでおかしかろといへばイヤまだかんじんの事をわすれたやり手に跡から蒔絵の竹の筒にせんかう入れて持たすとやつはり新屋敷がはなれいでおかし近比めつきりはなやか段〃はんぜうすべし【中略】
黒船新地 ひげそり近年のわき物ひけそりもかけあんどうにてめかす事也うちまけのてんがうしが卅日女房を出すなどひやうしがなをると銀立てつれていぬるなどこれらしろと出にて折にはあれど兎角出入せわしき卦顔のかはる事早し
なんばおくら堤近比新たち家ありてこそのていのものやりかけたれどはか/\しからずなんちの野かわ七けんの将門茶やといへるみせ付のるい出来れども格別の事もなし
宝結卦
堀江の卦也衆人入リ来り迎甚性急也と外山翁前卦に申されし通此所其時より格別かはらず少いやしみあれど器量よき芸子を出す所にして女良げいこのかね付袖つめなどはなやかに賑はしき場所銀つかひといふものでなく銭つかひといふものゝ多ク入込む卦也
桐薹卦
新町の卦也此所は万代不易の容なれど時〃のなりゆきにて外山翁時代とは相違せりかはらぬものは道中八文字揚屋入のすがたと女良のかりかし門ン/\のかため太鼓のさため也いつの比よりかあわざに別のみせ付キ此物ずきはとんと新町けをはなれてみせのかざりもあやつりの四段めとおぼしき道具にて此さま少おとりたれど先ツ賑やかなが一興其外横町/\鹿州茶やもそなへよくなり別て此ろくじうといふ物近年のはやりにて天神をあやまらすほどのいきほひじやといふて僧正坊といふ也【中略】
竹本芝居の三絃に鶴沢文蔵といへるあり浄るり三絃のどてんぜう扨人柄は公家のおとし子かとも見へすがた詞にも三味せん引らしい事少もなく一入上手にぞ思はるれ兎角片いぢは下手のはじめある人かぶき役者の評判に芸に少のくせなく丸うするは粂太郎也といへば傍に居る片意智先生の曰イヤ/\久米太郎にもやはりくせがあるムヽどふしでくせがこさりますと押て問へは件のいぢ先生曰其丸うするのがかれがくせじやといわれた栢がなつて有ても木は椎の木じやといふやつにはのいて通すがよし新町の風俗はくせのない所が一段高上な場時/\のはやり詞を禁じはやり染を着ず万事此ていゆへぬかつて見ゆれど是くせのない上品也【以下略】 
 
摂陽奇観 巻之三十二
明和元 甲申
 
04-083
一 正月 朝鮮人来朝
  鈴木伝蔵信使崔天宗を殺す
 
04-102
一 五月十八日より 大相撲 勧進元 大島勝兵衞
【中略】
今年竹本座のあやつりニ而岩川鉄ヶ嶽関取千雨幟といふ新浄留理を出スも此節花かたの稲川の事を取組たり
去年大坂相撲の後千田川稲川の取組無之故余人之取組勝負略ス 委しくハ桿握記ニアリ
 
04-105 【年表 1-360】
一 九月十三日 豊竹越前死
    法号 一音院真覚隆信日重居士
 豊竹越前は大坂南船場の産也井上竹本の流を学びて浄瑠璃の達人と成り十八歳の頃竹本采女といひ後竹本若太夫と改名す暫らく竹本同座なれ共其後道頓堀にて芝居興行して豊竹上野掾より再転して越前少掾と受領スこれ若太夫芝居の開発也
 外題年鑑云 大坂道頓掘にて芝居興行の初は元禄十二年の頃井上宇治竹本等の先師達の浄瑠璃や語り傾城懐内子これ新作の初め也京都堺紀州南都にても芝居を興行セられ其後元禄十五壬午年より道頓掘にて定芝居興行ニ及び享保九年辰三月廿一日大坂大火類焼の後今の芝居地面や買求メ同年十月十六日より新造の芝居にて興行其後享保十六年亥九月勅許受領 越前少掾藤原繁泰 [重泰共アリ] 延享二年丑十一月六十五歳にて一世一代相勤ム北条時頼記雪之段 [新作より三度目] 翌三年寅秋京都にて一世一代粂仙人吉野桜延享五年辰十月堺ニ而一世一代東鑑ト悪源太を勤めて目出度舞台納メ有て其後明和元年九月十三日行年八十四歳にて歿ス墓は天王寺西門納骨堂の後ニあり
 狂哥机の塵ニ 越前の雪の段を聞て 油烟齋貞柳
   越前ハ大上手也雪の段聞人ことにかんしこそいれ
 因ニ云 島之内三津八幡宮の隠宅に井筒ありけるこれは上古和州在原寺にありし井筒なるよし中古伊丹稲寺屋某とて富ル人家宅は勿論庭前の樹木までも風流を好ミて頻りに珍石奇樹を聚メ其頃和州在原寺の僧に約して彼寺内なる井筒を白銀四百枚に換て稲寺屋の庭に移ス此井筒は伊勢物語につゝゐつゝ井筒にかけしと詠たる時の井筒なるを無位無官の身として所望せし麁忽とやいはん心ある人は眉をしハめ非謗せしが程なくかの稲寺屋身上不如意に相成り家屋敷も売払ひて井筒は茂りたる艸むらに残りしが其後三十年余りも誰問ふ人もなく空敷打捨ありしに近曽豊竹越前これを望ミて黄金二十両に換て島之内八幡筋の隠宅に移せしが程なく彼宅も亡びて又候や井筒のミ残れり惜むべし/\稲寺屋なくんば井筒も在原寺に止りて人もこれを賞すべきに白銀黄金の媒に空しく名を失ひ塵芥に埋れしは実に双袖を浸に堪たり
     豪家辰鴻録ニ 大和国紀有常が庭に在し井つゝ業平髫髦(ウナイコ)遊びの井戸側泉州唐金屋ニ秘藏せしを吉野屋町辰巳屋へ送り後年天満砂原鴻池の別荘へ譲りしよし見えたれ共虚実は知らず
 
 
明和二 乙酉
04-123 【年表 1-369】
一 七月十日 竹本政太夫死
 
04-123 【年表 1-370】
一 十一月 若太夫芝居かぶきニ成ル
豊竹越前あやつの芝居年々興行仕今年七局廿五日新浄瑠璃 内助手柄淵 初日差出し八月晦日切にて相続相成がたく同年十一月姉川菊八座かぶき芝居と成り顔見世興行
 
明和三 丙戌
04-126 【年表 1-378】
一 今年 北堀江市の側豊竹此太夫新芝居建
 
04-126 【年表 1-377】
一 十一月 竹本大和掾死
   法号 大誉宗和貫碩禅定門
高津自性院ニ石碑アリ
 
明和四 丁亥
04-127 【年表 1-379 1-388】
一 正月 道頓堀豊竹若太夫座再興 同四月より古浄瑠璃一段ツヽ札銭十文追出シ芝居と成ル
 
04-134
一 十一月 角の芝居顔見世之事
     中山来助座子之年顔見世 源平藤橘 男女相性鑑
      当顔ミせは座付の役者に縁引の綱を取らせ引合し立役女形の相生にて善悪を定メ直に取組御覧に入申候
                    作者  並木正三
 
04-134 【年表 1-387】
一 同十五日より 堀江豊竹此太夫座ニ而
    染模様妹脊門松
 新浄るり大当り此利徳ニ而太夫本芝居の裏に土蔵を建ル世にお染くらト云
    因云 当芝居の鎮守稲荷大明神は前髪の美男ある狂言や好ミ給ひいつ迚も大入繁昌ス
 
明和五 戊子
04-158 【年表 1-396】
一 九月 亀谷浜芝居跡ニ而浄留璃操興行
                   座本 並木正吉
                   作者 並木正三
      新舞台連管の三番叟
  右ハ出づかひにて秘曲もの
      おとけ浄るり 寿館狐馬
  右ハ浜芝居の縁を取御なぐさミもの
      島村蟹小田蛙容競唐土噺 初段後段
  右ハ歌舞妓仕組ニて二のかハりもの
      おはつ徳兵衞当世模様浮名楓 上巻下巻
  右ハ浄るり仕込ニて二切もの
      秋津島鬼ヶ嶽関取二代勝負附 口まく奥詰
  右ハ中芝居仕立にて二段もの
 
04-159
一 三月 竹田近江芝居中歌舞妓役者ニ相成ル
 
摂陽奇観 巻之三十三
明和六 己丑
04-168
一 今年中 角の芝居にてあやつり興行
一 同 筑後芝居竹本豊竹打込之一座ニ而興行
 
04-171
一 当冬 道頓堀樋ノ上松永忠藏といふ売薬店ニ飼置たる熊の子主シ忠藏を喰殺ス
 翌年中之芝居中山座の二の替りけいせい𠺕吧文字(じやがたらもじ)といふ新狂言に取組坂東岩五郎つとむ 根本藏ス
 
明和七 庚寅
04-177
一 十二月八日 道頓堀火
遁頓堀南側出羽芝居の辺より出火太左衞門橋筋法善寺前迄焼東は豊竹芝居隣り迄やける
 
04-178 【年表 1-242】
一 当春 中之芝居中山与三郎座ニの替り新狂言
      けいせい咬𠺕吧恋文
  右之外題 公より御差留被仰付文字相改
      けいせい咬𠺕吧恋文
咬𠺕吧ぶミの外題御差留之趣意は先年寛永十三丙子之年かとよ蛮人の子孫長崎に在しを 公より吟味ありて二百八十七人阿媽港に遠流せらる血脈父を本として母にはかまひなしたとへハ母日本の種子にて父蛮人の血脈なれハ勿論也父日本にて母蛮人の血脈なれハ則母のミ遣して子は留む或は父放されて子ハ留り或は子放たれて母とゞまり母放されて子留る兄行て弟留り弟行て兄止まる夫妻相分れ姉妹相離るゝ有様町々戸々の悲しミいかなるむくつけきあら夷も袖しぼらぬはなかりし仮初の旅路の別れをだに石と成し歎きもあるに今をかぎりの別路夜もすがら手を取かハし顔をさしあてゝ物もいひあへずまして船に引乗らるゝきハゝ夢か現か我か人かとそゞろごと聞えて中々絶も果なんとするもあれど命だにあらバ又 公のゆるし有んも定めなき世を頼ミてよと人々のいさむるに又たどる心地にて船底に伏沈て折から風だにつれなき追手にて島かくれ行しこそあハれなれ 又寛永十六年己卯の事にや紅毛国も蛮国に類ひせし水土なれハその種子日本の種子に混雑すべからずとて則平戸長崎に在し紅毛血脈の輩十一人咬𠺕吧へ放流せらる [長崎より三千四百里] 此時よりジヤガタラへも紅毛人住居ありて平戸へ年毎に船つかハしぬ此故に紅毛の子孫ミなジヤガタラへ遠流也此十一人も皆長崎より帰帆の紅毛船に乗て放チ遣ハさる是は蛮人の種子とは違ひ紅毛船は日本へ停止にもあらねハ年毎に来れる紅毛船又は唐船も往来あるゆへに故郷のしたしきほど或は友だちなどへ文つかハし送り物など品々ありし其中に長崎何れの町の女人 [はる女] 父は紅毛人にて母方のよしミあるが本に養ハれ居たるに此年十四歳なるを咬𠺕吧へ流されたり此女顔かたちいとうるハしく手習ひ常に艸紙など習ひてさかしき心ばへなりしがかゝる所に放たれツヽ何のゆかりもなき程にて明暮故郷へ帰らんことを神に仏に祈りツヽ年月を送りしがかくてひとりあり果ぬべき便なけれバ命の露のよるべ求めて唐土人の妻と成て子なとありて日本へ度々文おこせたり元禄九年の頃迄ながらへ七十六七歳にて死せしよしたよりに聞え侍りぬ其後子なるが文おこせしかど 公より止させ給ひて後はいかゞ成行けんしらずじやがたら文長文なれバ爰ニ略ス管見日記に載ス
外題の文字差構ひ之義被仰付候事度々有り
宝暦四戌年 豊竹座  将軍太郎東文談  改 相馬太郎みばえ文談
同 七丑年 同座   祇園祭礼信長記  改 祇園祭礼信仰記
安永六年  中の芝居 けいせい周防 改 けいせい素袍
 
04-179
一 二月 角の芝居二の替り新狂言東山殿女狩
 大切ニガンドウといふ大道具を初ム狂言作者並木正三の工夫也ガントウの図は安永二年正三の条を見るべし此大道具小児の翫ひもの箱天神の仕掛に似たるゆへ箱天神共いふ秋葉権現廻船噺大切にも用ひたり
 
04-180 【年表 1-410】
一 五月 竹田新松座あやつり
    近江源氏太平頭鍪飾 五月廿二日初日
六月十六日差留メ被仰付候夫故正本不出 後年 鎌倉三代記といふ古浄瑠璃の外題を用ひ今に翫ふ都而此世界は差構有之南蛮鉄後藤目貫を義経腰越状とする類ひ多し
 
04-180
一 当夏 角の芝居夏かほみせ興行
   藤松山十郎座
蚊追店 てんが茶屋の敵討 催馬楽踊始(すみよしおどりおどりのはじまり)
壬六月十二日より常の通りに相始め式参夏衣装にて座付を勤メ大切天下茶屋の場にて座中不残風流大おどり場のうへに大団を釣りて見物をあをぐ仕かけ此一興も並木正三の趣向也
 
04-180 【年表 1-418】
一 十一月十五日より 吉田文三郎江戸登り故人冠子十三廻忌追善を勤ム出遣ひ所作事
わん久松山 由縁の十徳
 
 
明和年間
 
04-215
一 女髪ゆひノ事
 院本敵討未刻太鼓享保十二年未正月下の巻になんぼ大坂じやといふて姫ごぜの髪ゆひと男のとりあげばゝはこさんセぬと書たりしは享保の末なるにはや明和の初めより女髪ゆひといふもの出来て近世は猶盛んに成たり院本源平鵯鳥越明和七年寅九月四ノ口に女中の髪を由井の浜お花といふて当世にもてはやされて閙しき襷襗(タスキ)蔽膝(まへだれ)かけまくもちよこ/\走りの向ふより乱れし髩の後れをもツイ撫付にヲヽお花様お前の内へ行処云々と書りまた富貴地座位とて安永中の小冊三都の名物を評せし書に
      未刻太鼓といへる狂言の頃まては極てなかりしものなるに今は遊所はもとより町々にも群て住町の女は遊処めきて心ときめかし或は長町とまりの旅人の珍らしがりて茜裏ながらつむり斗りの土地に馴たるも鵺をや思ひ出ていとおそろしげ也
  交合雑記ニ云
 南涼院殿家儒奈波道円に尋給ふハ女の子を育るにはいかやうに幼少より教立たるがよきぞと仰有ける道円承ハりて御前にはいかゞ思召させられ候や尊意を承たく存し奉るよし申けれハ頼宣卿女は貞信の道第一の事なれハ此義を幼少より合点させとかく聖賢の道を説聞するを專らと教ゆべき事にあらずやと仰けれハ道円いや左様にてハ御座なく候まつ女の子にハ幼少より髪を自身ゆひ習ハせ扨把針(はりしこと)を致し習ハする事是第一の義にて御座候大身の者の女の子ハ幼少より終にさやうの事をセず髪上ケ物縫とて打わたし置候上にも御存し遊ハさるゝごとく事けハしき時には御大名の奥方とても家女をたのミにして何と成へき事にあらす左様の時乱髪にては見苦しくてふがいせうに相見へ候把針達者に候ヘハ何やうに破れ損したる所も速につくろひ申候間御大名の御姫とても此義猶以て第一の事に存候貞信の道女ハ第一にて候へ共是は教にも及ハず候いか成匹夫の女とても密夫を仕りてあらハに申ス者ハ無之候へハ悪しき事と存る事ハおのれもよく存じて罷在候その家法正しく仕置致し候へハ左様の義は自然と貞信に成申候只教へたる斗りにてならハし悪しく候ヘハ不義なる根性の者ハ中々用に立不申候ものにて候箇様に申上候とて聖賢の教をしらせまじきにてはなく候まづ右の通りをよく習ハせ候を第一にして其上に教へ可申事にて候と申けれハ頼宣卿深く御感歎有て御女子方へは自身髪をゆひ給ふ様に把針の事かたのことく御営有るやうにと教訓し給ひけると也
 
摂陽奇観 巻之三十四
安永元 壬辰
04-225
一 九月廿日 京都近江屋次郎右衞門死 千日自安寺ニ墓あり 秋松院一峯信士
     誰か気にもよくもあふミやあふミやともてるたいこの世に鳴し人
  戯文太平記忠臣講釈の茶屋場に取組しうがのみたまの治郎右衞門なり
 
安永二 癸巳
04-240 【年表 1-459】
一 二月十六日夜 歌舞妓狂言作者並木正三急死
  並木正三狂言攫ニ云 難波の江南に育チよしあしのまさな事を書集る妓芸(ワサヲキ)の作文をあらハせし中にも古今に独歩して此道の流れを汲る輩は孫子呉子が肺肝に入しかとうたかひ諸葛亮がいさほし共おもほゆるほど功名を遂し並木正三は古今の俳諧哥史記の滑稽にひとしき作意をまた当世に滑稽せし妙手にして浄瑠璃に門左衞門哥舞妓に正三とならべいふ共恥しからず其父はもと雲州の仕官にて聊仕へを辞する事ありて大坂堀江に漂泊し諸木或は艸花金石などより油を取法南蛮の秘伝を鍛練しいやしからぬ家業をいとなミ正兵衞と呼れ暮せし内 [奴正兵衞とて人のしりたる男也] 道とんぼり元堺町扇子屋方の遊客と成しも然るべき値遇にや扇子屋の娘に契り正三をもふけ幼名を久太と呼ぶむつきの内より櫓太鼓の響を友とし竹馬の頃は哥舞妓の楽家に遊びまたは操芝居へ入込ゼンマイつもり物の糸取を見覚十四五歳の時若水千歳狐といふ手妻からくりの水船の仕かけを工夫し其後元服して正三と改メ生涯の戯作七十余番に及ふ時に明和安永の頃は時として胸痛ミの病症おこり惜むべし安永三年癸巳二月十六日の夜八ツ時に俄に心痛取つめしにや大喝一声南無三宝と一句を残しこと葉の花筆の林のしげ/\なる並木の主も痰火のせり上にせまりふさぎしまぶたも廻り道具と目くるめき四十四歳の春秋を一期の夢の幕と成南無三宝正三の墓と法善寺にしるしを残せり
【 並木正三墓
(南無三宝正三墓)
(趺石)播磨屋甚七
並木正三。其父曰正作。雲州人破産提家移大阪。正三幼穎悟。長有経世之才。屡貧不応器度。是以随作劇者流並木宗助広其業。原夫劇曲自古有焉。申楽一変為幸若。又一変為浄瑠璃。浄瑠璃美人之名也。賦之為十二齣者。織田右府史女小野氏阿通云。声師鶴澤者。上三線玩以奏。為三線者。有鶴澤氏為此也。当今劇本。以紀海音近松平安堂等為権輿。以降寥々無聞。及宗助大其伎則□如東西浄瑠璃勾欄劇本不翅。至正三則俳優院本之諸櫓及場上。機関結構。其妙計奇策。出人意之外。而旦末浄丑如示指掌者。一正三之力也。正三病向死大小劇子相集者。病惜不可救。当是日劇長中村歌七。告之曰。亡之命矣。請覚焉。正三歎曰南無三宝南無三宝。乃唱歌一首而終。南無三宝猶周易所謂既済也。不独正三既濟。而満場劇子亦既済故誌曰。
不死之爾散果不似希流。
        笹瀬散人撰
        大手道人書
安永二癸巳二月十七日  大阪訪碑録】
04-242 【】
図 劇場せり上ゲ道具の始 劇場せり上ゲ道具の始
【東山殿女巻狩 大坂 道とん堀かどのしばゐ松前三十郎座二の替りとらの二月二日初日大当り切りにかわりどうぐせりあげせりおろし古今めづらしき事これ迄いろ/\のどうぐあれ共此度のどうぐの有りさまをとくと見るに天地いんよふのりじゆんに叶ひ誠に大坂はんじやうのきざしあらわれ諸あきんど諸しよく人高下に寄りてばい/\のもふけ出世の運をひらく事此とうぐのすがたにあり一ツ/\の名ハ絵の表に書付候心をとめて見るべしまず何せうばいの人にてもあがるとさがると此二ツの道によつてのるといふ事めでたき事也物ののるといふハふゑる事なり十ばい百ばいにも金銀をもふけふゑる増スといふ事此どうぐのすがた大坂のはんじやうをしらしめんがためしばゐへ此の理を申とり入りとくとどうぐのあじわひを見 これをひろめるなり 並木正三作】
 
戯財録云
   並木正三 法名 当誉正三居士
  道頓堀和泉屋正朔悴幼名久太郎と云作道を好て寛延二年和泉屋正三と改メ作者と成て哥舞妓へ出勤夫より並木宗介千柳が子ぶんと成り操にても出作する元来かぶき作者を好ミ出勤せしより元来舞台の大尽柱を取場の中の柱も取て見物の目障なきやうにしてセリ上ケセリ下ケ廻り道具三段返りのガンドウ其外数々の道具を工夫仕出し顔見せ狂言の序に化物を出して見物の目を覚させし始メ作者にてもまねきの前看板出す始メ不出来芝居を取立役者を見立つかふ事を鍛練して外題の頓作見物の目を驚かし威勢は古今独歩にて座頭をも呼捨にし誠ニかぶきの作者鏡共すべき人物正三一代の当狂言其外所の賑ひを工夫仕出し英名海内に響し事人よく知る所也委しくは並木正三一代噺といふ小冊あれバ爰に略ス其頃粋名に名高き内山枝柄筆作にて道頓堀法善寺石碑の銘に著ス其比の噂に作は近松門左衞門に並木正三才智は梅田宗庵竹田近江並木正三右三人有ゆへ大坂中おそるゝよし評ス正三高才によつて並木千柳子分と成りて並木氏の本家とす安永二年二月十六日卒ス行年四十四歳中寺町法音寺に葬ル
  紋所は
  かへ紋
  九本ノ摺子木 
  当正軒ともいふ
図 
  並木正三の居宅は左衞門町にて親正兵衞に孝心深く [剃髪して法名正朔といふ] 隠居の座敷をしつらひ又は二階へ庭を築き植込ミ飛石などを置キ井戸をすへて下の板元の窓とし釣瓶を颪せバ酒さかな南艸盆まで汲上るやうに仕かけ料理屋を企て活気なる親の心をなぐさめたり其後亦々相合橋南詰東へ入亀谷浜芝居の向ひへ新宅の茶屋を組立二階に植ごミ中庭を拵へ大きに端手成ル仕かけ成しがたもちがたく止ぬ夫より難波へ引籠り又島之内布袋町へ宅替なし此所にて卒ス
 
04-245 【年表 1-452】
一 七月 並木正三追善
北堀江此太夫芝居にて
南無三宝正三追善極楽往来蓮寄初 豊竹綱太夫つとむ
 
04-248
一 同年間の替り仮名手本忠臣蔵大当り
十二月三日より翌午年四月三日迄大入
同初日より午三月廿二日迄日数九十五日之間桟敷売高 一万四千九十五間半
 
04-249
一 並木正三狂言攫 天明五年出板 【並木正三一代噺】
図 並木正三狂言攫序 並木正三狂言攫序 並木正三狂言攫序 並木正三狂言攫序
【日本庶民文化史料集成6歌舞伎553-561】 
【序
今年、如月中の七日は当正軒正三か十三回にして、わなみも共に庭神楽の寄合。金毘羅講の文弥ふしになつミ、席キにすゝミし交りの深きをもて、何を泉下の手向にとハ思ほゆれど、生キ世の風流に導れなから、今更何の観念もなく、ほゐならぬ折柄、何人の著作にや、友なりける人、幸イに此草を得させしかバ、机上に閲しするに、其ぬし戯場に勤仕のはしめより、終焉を異にせざるの操ほ、篤実にあやしからす。物くるおしからぬさへのたくましきを、そこはかとなくねもころにあかせしは、くきやうの追薦、月日にハおくれなから、殊更ニ此桜木にものしなバ、古しえをこゐさらめかものいれ首、強力体の作意の数を四方にふれんは、牌前の下緒納めにまさりなんと、書肆のもとめに応ずるも、大きなる酒落にして、根に加へる花の塵塚、はき捨る箒目にもれぬ言くさ、かき集めし狂言攫と号せし趣き、爰に断り侍らんと、あめあきらけきいつゝの年、皐月雨のつれ/\に、我茅屋にふり込られ。 題入我園主人(花押)】
 
並木正三狂言攫
鳴呼おしいかなおしむべしおしてる難波の江南に育ちよしあしのまさな事を書集る妓芸の作文を顕ハせし中にも古今に独歩して此道の流れを汲る輩ハ孫子呉子が肺肝に入しかとうたがひ諸葛亮がいさおしともおもほゆるほと功名をとけ身まかりし正三といへるハおふけなくも往昔慶長御治国の恵を蒙りたてまつり名左衞門太左衞門抔櫓を道頓堀へ御赦免あり下し置れし已來多くの狂言作者にも事かわり一流の誉れをのこしあまねく古今の俳諧哥史記の滑稽にひとしき作意を又当世に滑稽せし妙手とやいわん浄留利に門左衞門哥舞妓に正三とならべいふとも恥しからず
 其父元は雲州の仕官にていさゝか仕へを辞することはべりて大坂堀江へ漂泊し諸木あるひハ艸花金石などより油を取法南蛮の秘伝を鍛煉しいやしからぬ家業をいとなみ正兵衞と呼れくらせし内 [奴正兵衞とて人の知たる男なり] 道頓堀元堺町扇子や方の遊客と成しもしかるべき値遇にや扇子やの娘に契り正三をもふけ幼名を久太と呼しにそのゝち故ありて正兵衞右扇子や娘のいもふといづみやといへる芝居茶やへ入贅して連子の久太を養育せしゆへ襁褓の内より櫓太鼓の響を友とし竹馬のころハ哥舞妓の楽やをあそび所又は操芝居へ入込介錯のたすけと成からくり芝居の下屋へ這入ぜんまいつもり物の糸どりを見おぼへ其節親正兵衞出羽の芝居世話セし時 [今の角丸芝居の向ひに有りし] 若水千歳狐といふ手づまからくりの水船のしかけハ久太十四五歳の工夫なりと聞およびぬ夫より後元服して正三と改めはたちにたらすして大西の芝居にて [今の筑後の西大長あたりに芝居ありし也] 中村喜代十郎といへる女形中ウ芝居を興行せし時中橋筋大宝寺町西がハ柺子屋の隣鍛冶やの娘手をおひし噂を三番続の狂言に取組
寛延元年辰ノ八月右喜代十郎芝居へ出せしが正三哥舞伎狂言の書はじめ也則其時狂言作者泉屋正三と名まへを出し同年霜月角の芝居坂東豊三郎座へ出て冬籠妻乞軍(ふゆごもりつまごひいくさ)の顔見世狂言おもしろく二のかわりハ其節の噂ものかしくをとり組恋淵絞染(こひのふちちしほのしほりぞめ)といふきやうげん笛十(ふゑと)と共にこしらへ [これ高田端庵といふ医師也] 
巳の春中大入をとり四月がハりの与作の作りかヘハ笛十斗のよし評判たぎらず同七月にハ正三男作養老瀧(おとこたてやうらふのたき)といふ水狂言を出し黒船忠吉放駒長吉を故三枡大五郎獄門の庄兵衞野手の庄兵衞を哥右衞門にて [今の哥七事此本ニてハ始終哥右衞門といふ也] 此両人の早がわりに又はんじものゝ喜兵衞を親仁にて豊三郎にさせし事ども大キにあたり巳の霜月より大西三枡大五郎座ニ而寿黄金勝軍(ことぶきこがねのかちいくさ)といふ顔見世狂言故岩井半四郎江戸よりのぼりて評判よく二のかハりに大和国井手下紐(やまとのくにゐでのしたひも)是又大キにはづミ
午【寛延3】の四月迄大入そのつぎに若翠結権現松(わかみどりむすぶのこんけんまつ)これハ檜皮(まへはた)や心中の一チ夜づけ也 [何によらず急に仕組て初日を出すを一夜つけといふ楽やことばなり] これもたいがい入をとり其跡がくりかへしもの同じく七月より作りかへの薄雪遊撰染(うすゆきゆうぜんそめ)水狂言にて猶も評よく其内芝居相休当暮より浄留利作故並木宗助の門弟と成 [これあまねく並木苗字の元祖ニ而一名千柳] 此人に随身して豊竹操座へかゝへられし所
未【宝暦1】の七月より中村哥右衞門座角の芝居へ豊竹より正三をスケに借受則 [早川又兵衞 蝦夷之新介 鹿ノ土左衞門]三人組染貫模様(さんにんくみそめぬきもやう)のきやうげんあたり其後おりく十兵衞の一夜づけ雨防紅莞蓙(あまやとりくれないのはなござ)大キに評判よく九月がハりハ藤川平九郎京より江戸へ行暇乞に三十日のスケに来り織田軍記紅葉簦(おだぐんきもみちのきぬがさ)これ又大入 然るに宗助当十一月中旬一谷嫩軍記の三だんめを書ながら病死いたし師の遺命によつて
申のとし【宝暦2】ハ豊竹をはなれず同年霜月【年表2-235】心にそまぬ事ありしや角の芝居故三桝大五郎座へ住並木正三と姓を改め藤川平九郎江戸よりのぼり名護屋織雛鶴錦(なごやおりひなづるにしき)の顔見世よろしく二のかハり三河国照田姫昔物語(みかはのくにてるたひめむかしものがたり)おもハしからず酉年二月より高台橋烏(たかやしきちぶみからす)らいでん源八喧嘩のきやうげん大キにはづミ四月には西東合見台(にしひがしあはせけんだい)これハ竹田の三切ものをうつせし趣向にて舞台道具を寄麗に仕立はり込しゆへこれも請よく跡へ河堀口の心中冥途一里塚(しんぢうめいとのいちりづか)とて又切きやうけんをつけしより六月迄持越七月替りに金比羅御利生幼稚子敵討(こんひらこりせうおさなごのかたきうち)雛助故他人子役の姉弟にて豊三郎をたのミ故大五郎を力にかたき平九郎をねらふ狂言嵐小六の仕内なとミな/\大々あたりにて跡ハくりかへしもの
酉の霜月大西三条定助座へ行顔見世泰平木曽譜(たいへいきそものがたり)故中村十蔵 [後ニ吉右衞門といふ] 能登守にて気違水こぼさずのつかひ方大キによく同暮疫病の咒に門/\に張札せしキノニノヤノハノモノといふ事をおもひより二のかハりけいせい天羽衣(あまのはころも)といふ狂言を出せしが正三一代名をあげし根本にして大切リに三間ン四方のせり上を工夫仕出し大坂町中を悦バせしも全くおさなき時より竹田のからくりつもり物の糸どり万端見おぼへ置し発明ならん
尤其以前寛保三年癸亥年の暮大西故中村十藏座へ江戸より故沢村宗十郎登り [後ニ助高や高助といふ] 齋藤山城にて油計(あふらはかり)のきやうげんの時二階ざしきを一めんにせり上しハ故並木永助作りしきやうげんなれ共 [これも元祖宗介弟子也] 其時のせり上ケハ幕明よりかざり付の二階にて前どふり椽がハかうらんの両方へ摺柱をこしらへ上へに立しは故宗十郎斗おもさハいつも下家より一人前のせり上ケに椽がハかうらんつけし同然今度キノニノせり上ハかざり付ケの揚やの道具を引て取リ奥より三間ン四方の板ぶき屋根を突出し上にて故中山新九郎大勢と立有て追込一人ン残る所へ中山文七松島喜代崎出て故新九郎をいさめ腹を切リ自害する内これなりに三人一ツ所にせり上ケる下タの家体に故十藏哥右衞門定助故四郎五郎立チならびて定助へ文七喜代崎が流れ落る血汐を呑し瘖(おし)をなをす趣向なれバ此七人をせり上る前にハ大勢屋根での立(たて)故宗十郎一人が長袴のすつくり立チを椽がハばかり上ケしとハ何ほど重さ違ふ事ぞや大工棟梁のさんだんも有ふなれとも正三ならすして万力の仕かけ真綱の取やう此工夫が付べきや凡人の及ぶ所にあらす此時春正月中の上り銀高を書顕ハし楽屋の鎭守の絵馬にあけしハ前代未聞といひし事也此狂言戌の四月迄大入し其跡へ 三荘太夫愛護稚小栗苅萱隅田川 を一ツにして五せつきやうといふかんばんだし狂言本出来(しゆつたい)せしに [後に此書をうつし取正三死期に新狂言として京都ニ而出す] 其時故有て不出其跡へ七条川原茶湯の釜入と外題して [これは後に浄るりに出されし事末ニしるす] 看板出しかど是も初日不出座中もめ合くりかへし物に成それより五月に中の芝居故嵐三右衞門座へうつり丹波国助太郎館(たんばのくにすけたろうやしき) [今年東の芝居にて女大学と出したるハこれ也] 此狂言も故あやめ平九郎大キに出来され其内又角の座本故大五郎親友にて無据たのまれ奥州遊行柳(みちのべゆきやうやなぎ)の四九次郎場を仕組遣し七月替りハ此一ト場で大入をとらせ九月に中の芝居にて一休ばなしを出し下福しまの人殺しを持込で大にあたり此時の上り銀を以て亥【宝暦5】の霜月顔見世を銀主より取立て同芝居故三右衞門座本にて天照太神岩戸曙(てんせうだいじんいはとのあけほの)と神代の顔見世きやうげん評ばんよけれどはねめなく二のかハり道中千貫樋(どうちうせんくはんどゆ)故十藏平九郎の出合めづらしく螺貝わりの場受よく勿論切リには大道具見へもよろしくそれより芝居伊勢へ行亥ノ五月より皆/\かへりておそめ久まつ恋の盂蘭盆七月よりハくりかへし物
子【宝暦6】ノ霜月よりやはり中にて坂東豊三郎座本顔見世時代世話黄金栄(しだいせはこがねのさかへ)といふ狂言座附終りに盛衰記の役割を役者に富にてつかせとんつな役にて仕込し顔見世甚大入尤此年ハ一ツ方の作者の立者永助と正三同座にて二のかハりには定めて目ざましき趣向有べしとミな/\こぞり居たる所鳥辺山の心中に茨木や幸才を取組村烏廓音鼙(むらからすさとのねじめ)といふ二のかハりを出し大キに評判あしく冬の内三四日相勤
正月初芝居よりもめ出し一向出来かね三月をまたず座中伊勢へ行し也正三も四月中比より思ひ立チ参宮して念頃成中なれバ故三右衞門部屋に逗留の内故三右衞門淫性の傷寒を煩ひ付他事なく正三介抱すれども次第におもり五六日の内に死去いたし泣/\其跡取置遣し五月の末に正三大坂へ立帰り其七月は角姉川大吉座をスケ草津小女郎の水きやうげん跡ハ古物宝暦六子年霜月より大西芝居を取り立切かハつた座本の名前大松百助寿六法(たんぜんろつほう)と顔見世きやうげん大キにあたり二のかハり天竺徳兵衞聞書往来(きゝがきわうらい)極月廿八日に大いれの惣稽古して
丑【宝暦7】ノ正月二日より初日是又大入大評判故新九郎文七共にあたりを取リ同年四月より四天王寺伽藍鑑(してんわうじがらんかゞみ)此狂言ハ新浄るりに取リ組ミ舞台に手すりを操り同然にこしらへしゆへ又々町中の気を取ツて大キに評判よくはじめて大字七くだりの正本ンを出し七月迄も持こしたるに芝居出来かね残念に其年を送りし内京都扇子や孫八芝居より抱へに来り丑の霜月京都へ登り大社納結三番続(おほやしろむすぶのさんはんつゞき)此顔見世大あたり則染松松次郎座本にてあいの物ハ其比豊竹の新浄るり祇園祭礼信仰記(ぎをんさいれいしんかうき)これ又請よく三月より二のかわりけいせい飯綱八文字(いつなはちもんし)正二月前びろに仕組の手つかひよく故十蔵大五郎豊三郎嵐小六雛助など大にあたり五月かわりハ西陣織物やの心中一チ夜づけ夏紅葉血汐紅(ちしほのくれない)といふあかいづくしの外題を出し入リを取七月かハり業平東下向(なりひらあつまくだり)大入其跡ハくりかへしもの其霜月大坂へ帰り豊竹より角芝居を取立中山文七座本にて稀藤原系図(ありかたふしはらけいつ)の顔見世狂言を出し文七川太郎に成大吉とかけ合の口合せりふ大キに人をよろこバせ板にほりて町中を売たる事隠れなしそのうへ故中村喜代三郎江戸より登りて受よく二のかハりハ三十石艠始(よふねはしまり)古今の大々当り文七故大五郎始ての出合はな/\しく大切に砂ふたい共一面の廻り道具を工夫し芝居ハ極月上旬より下屋をほりての大仕かけ法善寺床の前なるたら/\おり又浜千日角のたら/\おり迄皆此土にて平地となし破風口の大臣柱を取置に差図して序の御殿の引道具切の淀の大廻りハ誰しも舌を巻たる手段此時も銀主大キにたんのふして其跡くりかへしの信仰記夏替りに銭屋の噂を持込で伊勢や日向の物がたりめづらしき地獄のせりふには腸をよぢらせ八朔からが大坂神事揃(まつりぞろへ)文七故大五郎の取合よく無筆の女房が書置を稚子におぼへさせ死後にいわせる趣向あたらしくうれい見物によくこたへこつずいの涙を流させ九月より大吉故喜代三が暇乞是又評よく卯【宝暦9】の霜月よりやはり文七座本にて中村富十郎市川升藏江戸より登り顔見世ハ福源氏寿之巻(さいわいげんじちやうきうのまき)大入にて二のかハり九州釣鐘岬(きうしうかねがみさき)の狂言文七鯨突灘八にて鉄炮をひらい耳をふさぐ幕にて気をとり升藏が死骸の腹なるがんかうの印を取出す趣向おもしろく大切にハ富十郎娘道成寺の所作事つゞいてぶたいを破風ともに東西へ引わけ山門を突出し故大五郎文七たての内よりせり上て目を驚かせしに
辰【宝暦10】の年正月十日頃迄ハさのミ入もなかりしか十二三日頃より大入リして後にハぶたいに桟敷をかける程の大当り尤富十郎久しぶりの所作事ゆへとは云ながら狂言わるくてハ中/\もてる物にあらず正三手がらハいふも更なり四月ノ頃迄大入リしてあと富十郎吉三金作お七にて恋の緋桜のくりかへし七月替リハ楽屋より注文有て江戸風の曽我の狂言これはおもわしからず八月より恋女房のくりかへし大キによく顔見世まへ迄つゞき霜月も又文七座生如来金顔見世(いきによらいこがねのかほみせ)大ていにて二のかハり急に出来かね漸
巳【宝暦11】の正月十五日より霧太郎天狗酒醼(きりたらうてんぐさかもり)の狂言是も大キにあたり切に惣二階座敷の引道具後にハ舞台を突出して又大まハり道具かれこれ此場ハ道具うごきづめにして富十郎彦四郎道行も請よく故新九郎きり太郎の仕内に我おらせたるも此人の遣ひ方著作に秀でし故の事也其砌居宅ハ吉左衞門町にて親正兵衞に孝心深く [此夏剃髪して法名正朔といふ] 隠居の座敷をしつらい又ハ二階へ庭をつきうへ込飛石などを置井戸をすへて下の板本の窓とし釣瓶をおろせバ酒肴たばこ盆までくミ上る様に仕かけ料理茶屋を企て活気なる親の心をいさめ芝居の銀主をすゝて夏祭の折からハ役者中をねり物に出させ所を賑ハし其七月より富十郎くずのは又は文七故大五郎二人の奴見事なりとてます/\大入秋の末江戸より市村亀藏上方見物に来りしを頼ミスケさせおはつ徳兵衞富十郎と出合にて切ハ亀藏所作事あまりたきらず其跡もくりかへし物宝暦十一年巳ノ霜月同文七座惣追補使鎌倉鑑(そうついふしかまくらかゞみ)にハ故新九郎を顔見世より謀反人ンに遣ひ二のかハりハ泰平いろは行列中村吉右衞門 [故十蔵事なり] 由良之助にて忠臣藏の作りかへ次の女鳴髪にハひつぱら艸をくらひて人間ン馬と成おかしミ七月にハ竹箆太郎怪談記(しつへいたらうくわいだん)不けいきにて次に国性爺のくりかへし切が板屋ばし噂の一チ夜づけを大経寺に取直せし此仕組の評判よく跡ハくりかへしものにて午【宝暦12】の霜月京都へ登り顔見世ハ川太郎のくりかへし二のかハりハけいせい花城山(はなのしろやま)七人の片袖を一チ度に引ちぎる序の幕よろしく狂言も花やかに大入リしてそれよりハ大坂の古物をくりかへして余り新物聞及バず
癸未【宝暦13】のとし子分ン松之丞を座本にして顔見世源平通宝丸(げんぺいつうほうまる)二のかハりに所作事させ則けいせい熊野山(みつのやま)の狂言大キにあたり跡ハ又くりかへしもの或は敵討仙台訛(かたきうちせんだいなまり)などにて入を取申の霜月ハ尾上紋太郎座其後祇園林(そのゝちぎをんはやし)の心ン中の一チ夜づけより松之丞病気にとりかゝり程なく死去せしより大坂へ立帰り
酉【明和2】の正月より竹田芝居へ出ておどけ狂言曽我贔屓恵方果報(そがびいきゑほうくはほう)とて七福神と矢の根五郎の出合に腹をかゝへさせ外にけいせい十三鐘関取二代鑑(がねせきとりにたいかゞみ)の三切リ物故三升他人己之助の立合イの引ぱりよく酉の七月にハ浦島天上返(びつくりうらしまてんじやうかへり)のおどけ狂言そんてんびるのせりふをはやらせ外にハ小栗と月山の肝取いづれも故他人巳之助の仕内に合より趣向を立て出来させ同年ン八月竹本芝居にて投頭巾北浜育(なげづきんきたはまそだち)といふ浄瑠璃の外題出しかどさハり有てかんばんを引急に新浄留利の取組を頼まれ正三永介其外の浄留利作者打込に相談して姻袖鏡(こんれいそでかゝみ)を拵へとも/\書立達者をあらハし同年霜月中芝居にて二座本 [中村哥右衞門故三升大五郎] 隔晩の顔見世の内三枡座の方にて娶しのだ妻の狂言を当それよりハくりかへし物数々出て北へも行
戌【明和3】ノ四月より惟喬親王魔術冠(これたかしんわうまじゆつのかんむり)を出し是二座打込に成り道具も大形にて大てい七月より男作後日帷(おとこだてこにちかたびら)五郎八と瀧川の行末を故吉右衞門小六にてうれいの仕組評判よくそれより又古物出て戌の霜月より角の芝居雛動座へ住ミ往古/\大坂村在所由来(むかし/\おほさかというさいしよのゆらい)此顔見世大当り其次ハ合の物
亥【明和4】ノ年春の二のかハり世話料理鱸包丁看板(せはりやうりすゝきほうてうかんばん)出るから噂よく初日二日目ハ大入人の山をなせしがさハり有て相やめそれより義経蝦夷語(よしつねゑぞものがたり)を出しけれ共つゞかず芝居も有なしにて漸八月より大坂日記塩の長次郎をいだし十月にハ竹本へスケに出て石川五右衞門一代噺を出し [是先年かんばん出せし七条川原湯釜入也] 亥ノ年霜月角にて中山来助座の顔見世男女相生鑑(なんによあいしやうかゞみ)座付の跡にて縁引の役割定けいきよく合の物干本桜故芳沢あやめ [はじめの名崎之助是三代めのあやめなり] 忠信の受よく
明和五子年春ハ京都中山文七より頼まれスケに登り二のかハりけいせい桃山錦(もゝやまにしき)を出し秋ハ大坂へ下り竹田芝居にて宿無団七時雨傘(やとなしたんしちしくれのからかさ)其頃の噂いわ井風呂の一夜づけ尤大入九月に亀谷浜芝居跡にて [相合橋南つめ東へ入ル所ニ有し也] 浄留利操を取立子分ン正吉名前にて連管三番叟(れんくはんのさんばさう)寿館狐馬懸(めつほうやかたきつねのむまかけ)姿競唐土噺(すかたくらへもろこしばなし)関取二代勝負附(せきとりにたいのしやうふつけ)其外古物合して六切の浄留利を出し太夫三弦操り方の一座をかゝへそれのミならず芝居の向ひへ新宅の茶屋を組立妻に勝手をはからハせ二階座敷に又々うへ込中庭拵へ大キに端手なる仕かけ成しがたもちがたく芝居とともにたちぎへして丑【明和6】とし夏より思ひ立菱屋といへるに内談して座摩の一座を阿波へ引こさせ其身も弟分ン三勝 [今の新平也] 其外昵近の者引キ連て阿州へ立越看板に大坂哥舞妓芝居惣頭取と英名をあげ又々故頼助雛介其外の役者を呼下し秋の末に立帰りそれより父が吉左衞門町に居て丑の暮より角芝居にて富士松山十郎 [今ハ三保木儀左衞門也] 座を取立顔見世遅けれバ納めの庚申待と外題して暫くはしめ寅【明和7】の二月上旬より二のかハり阿波土産の心ニて東山殿女狩(ひがしやまどのおんなまきがり)大キに町中評判して夏迄つゞき其跡正徳年中淀屋橋喧嘩(よどやはしのけんくわ)を出し此時分より難波へ引こもり居て富士松座の七月に夕涼蚊追店(ゆふすゞみかおふみせ)とて夏衣裳(なついしやう)の座付をさせ同霜月より中の芝居小川吉太郎座へ(まいちもんじさきがけひやうばん)の顔見世難波にてのおもいつき骨つぎのおかしミあたりそれより又布袋町へ宅替して小川座二のかハりが桑名屋徳藏入船物語(くはなやとくぞういりふねものがたり)切に面影六哥仙(おもかげろくかせん)とて故中村粂太郎所作事迄古今にすぐれ入つめ跡ハ追々くりかへし物卯【明和8】霜月ハやはり中にて市山助五郎座顔見世中睦妖龍宮島台(てもむつまじやりうぐうしまだい)哥右衞門猩々の役これもおかしく二のかハり三千世界商往来(さんぜんせかいやりくりわうらい)三月末より近江源氏𨉷講釈(あふみげんじしかたこうしやく)皆々大当りにて辰【安永1】の秋頃より正三胸痛ミの病症時々おこりけれ共たじろかずまへ広に江戸表へ人をつかハし来ル顔見世に故尾上菊五郎の相談成よし通達有て中の芝居へ中村歌右衞門名前を上故菊五郎前かんばん出せし所俄にへんがへ故かゝりの者共大キに廃亡し術計尽たるに病中ながらちつ共ひるまず頓智の外題をおもひ付尾上菊五郎不登噺(のぼらぬばなし)と顔見世狂言のかんはんを出し坂田半五郎を呼よせ出来にくき難義の所をわかやがし思ひの外大入して合の物新うすゆきも相応に入たる内胸痛日々に増長し此比ハ腹中にてやぶれ鼓を打ごとき音を出し昵近の内に医心有ル輩もあれバ養生に如才なく病気の内にも二のかハり狂言に心をつかヘバ次第に重るといふ迚もかるふハならず時々ハ堺の医家へ導引の療治にかよひ打臥とハなしにぶら/\せし内漸二のかハりの時候世界をおもひよりそれから日もつまりあればせり付て三ツ目四ツ目を相定め序二ツ目もあらかたにきハまりし時惟(これ)
安永二年癸巳二月十六日いつにかハりて甚病気こゝろよしとて昵近の者をよせ四方山の咄しの内にうかミしや日本第一和布刈神事(につほんだいいちめかりのしんじ)と外題をしたゝめ脇付迄もこま/\と書付病気もいとハず座本中村哥右衞門方へ持行けれども折ふし冨市方にて [道頓ほり名代のりやうり茶や也] 御屋敷方の振舞の座へ立チ越しと留主の様子を聞明日迄も延されぬ急成家業づくなれば杖にすがり冨市のかつてへ行 [是使にても事済べきなれ共大事の外題の内談なれハ直にゆきしなり] 哥右衞門を呼出し密に外題を見せたりしに大キに気に入けれバ看板あつらへの手つがいまで其座にて内談しこゝろよげに立帰り寝たりしが其夜八ツ時分に俄に心痛取詰たりしや妻をおこして水を乞によりうちおどろきて親正朔七三郎共に [三勝元服して七三郎後ニ新平と改名] 近ン所の知音ヘしらせし内いせや又右衞門大村屋九八中村哥右衞門市山助五郎皆々多年の親友なれバ早速かけ付医師もかれこれ其外昵近の輩迄思ひ/\に介抱すれ共相叶わずさのミくつうのてい共見へず大喝一声南無三宝と一句を残しねむるがごとく息たへ畢ぬアゝ此夜いかなる時ぞや凡三十年来道頓堀京都に及んで狂言戯作の誉たかく一生の述作七十余ばん其外浜中ウ芝居の作文又ハ一夜づけ顔見世など数多ければもれもやすらん剰京都の出勤伊勢鄙のさき/\にも急成かハりに望んでハ見捨る事なく筆作に助られし端本なども多かンめれど是を記すにいとまあらずことばの花筆の林のしげ/\成並木の主も痰火のせり上にせまりふさぎしまぶたも廻り道具と目くるめき四十四歳の春秋におしまれ一期の夢の幕をさらりと引とりしかバこれをつたへ聞役者ハもとよりかの遮羅双林に仏をうしのふ涅槃会より間もなければ女がたも立役も羅漢のごとく取まハし天のたすけの薬ハふれども中のりしかけの針かねに引かゝりて此座にいたらす釣かんばんの人形も俄雨にあふたるごとく木戸手代場廻りハ極楽の通り切手をさゝげ半畳うりハ蓮台の丈夫なをぎんミし世を宇治山のうり子どもミづからをけまんにむすんでもちはこび日頃大入大あたりをさせられし恩どくをしたひし月日も立やすくむかしを乞ふるおもかげハ法善寺の石碑に朽ざる机(おしまつき)唯おしむべし/\
      緒を断て手向とせはやいとさくら
【時】 天明乙巳年二月十七日
【 天明五乙巳年霜月吉日出来
         心斎橋順慶町
             越前屋平兵衞板
   大坂書林  同 塩町角
             正本屋清兵衞板】
04-246
図 並木正三が家【並木正三狂言攫挿図】 並木正三が家 【〇二階庭ノ旧地参照】
 
摂陽奇観 巻之三十四
安永三 甲午
04-263
一 当春 網島大長寺開長
   当寺にて紙治小春の書置を諸人に見せ板行に模写して出ス 追善狂歌二首大長寺当住 進名誉
     皆人の南無あミ島の手向艸紙や仏の縁に引れて
     十月の小春のむかし思ひ出てミな心中に回向あれかし
 
安永四 乙未
04-266 【年表 1-472】
一 三月十日より 豊竹島太夫一世一代
豊竹和哥三芝居ニ而菅原を勤ム此後和哥三座断絶ス
 
04-267 【年表 1-486】
一 (当冬の次項)豊竹鐘太夫死 
 
安永五 丙申
04-270 【年表 1-497】
一 (四月?)豊竹綱太夫死
 
 
摂陽奇観 巻之三十五
安永六 丁酉
04-299
一 正月 名妓扇屋夕霧百回忌
下寺町浄国寺ニて法筵あり 施主新町西ノ扇屋養甚蔵
      白の字に一さしかけて松の花 下物
      百々春や寔に目出たふ侍ひける 亀亭
 
 
04-299 【年表 1-504】
一 当春 伊賀越大当り
 中之芝居嵐七三郎座ニ而去冬十二月二日より伊賀越乗掛合羽といふ新狂言四月十八日迄大入翌日四月十九日竹田芝居ニ右狂言之看板出し同日ニ初日是又大入に而六月廿五日迄勤ム
一 政右衞門 竹藏 一又五郎 伊太郎 一丹右衞門 孫八 他藏
  浪花名物富貴自在ニ云
     心地よけなる物は吉田一保講尺唐も倭も今も昔も此人の見ぬ軍はあらしともとて読切のよみさしに昼寝の夢もいさみて見るいとまなくも実に戦ひに汗をひたさし嵐座のはやるも此弁舌よりしはやらした
    伊賀髷 伊賀鬢 伊賀小紋
などもにくげながらも浪花の癖とて
図 伊賀越の将棊駒 伊賀越の将棊駒
 
04-300
浪花名物富貴地座位 【富貴地座位 下 】
浪花名物富貴地座位2 一浪花名物富貴地座位1
浪花名物富貴地座位4 三浪花名物富貴地座位3
浪花名物富貴地座位6 五浪花名物富貴地座位5
浪花名物富貴地座位8 七浪花名物富貴地座位7
浪花名物富貴地座位9
【浪花名物富貴地座位
   いつの比か尼寺のあたりに清少庵といへるいほりに在る尼あり.此尼生得好色人にて三衣を結へ共春画をこのみて十二番ひの軸を集め置たりとや.老といへるに拠なくいつ歟見飽て.其巻物の裏に我思ふありさまを随筆せるとて伝手をもとめて.夫を写し置るを爰に序す
 按るに此人時代しれがたけれども.文中を思ひ合せバ.もしや伊賀の敵討の比にもやとも
 春の曙やう/\しろくなりゆく山際少し明りて紫だちたる生駒の雲間に抜参りの心動き.初夏ハよる月の比ハ更也.闇も猶恋風の吹さそふ晒の長手拭に顔忍バして.ちよんの間の手の引合ひもよそ眼におかし.秋ハ夕くれ夕日はなやかにさして海際いとちかく成たる.しらさ海老につらるゝ魚も下手なからみつよつふたつなどハ手まハれど.ひまなく上る釣竿の(壹オ)せわしき連に恥るすがたなんどいと哀れなり.冬ハ雪のふりつもるハたま/\ながら.霜なんどにいとしろく役者の軒端につみたるかざり炭山の姿に所せきて.素人眼ハおどろかせ共四歩六歩のやり戻しに黒き内証沙汰のいぶせく.すへて四時とも次第にことのせちかしこくなりぬるこそわろし
 比ハ正月三月四六月七月八九月十月十二月すべて折につけつゝせハしく二光ハ費やせ共天象ハ只かるたの名のみに春過俄ハ和泉屋の借物代に追ハれ.裸がちにて汗の香と供に見るめしのび得ず.踊ハぐた/\と二三年ときめきて古風をしたへ共娘のわるく成たる噂とおかげ参りめきたるにぎり飯の施行に隣町に負ぬ気出てはやくも消へ.出雲の大社の神集めに帳付のないさきを立廻るむすび合多く付込にこまらせ給ふけるとなん.抑なにハの里の 梅ハ
〇八軒梅○梅のやくしもふるされ是ぞとさして見るべき所さへなきハけうさめがち也.余の事も是になそらへ知る思ひふかくへ山ハ(壹ウ)
○茶臼山○浪よけ山○丸山ハ姫松につゝきて高きがゆへに貴からずの語を守れども打こして見ゆるかつらき山しの山などに心を晴らし〇二子山○生駒山○泉原山〇六ツのかぶと山なんどハ二日灸の眼によろこバしく 海ハ
○名古○朴津(ゑなつ)○敷津○浦の初島ハ名のみ芳ハしく 家ハ
 今橋の辺り専らながら鴻池の軒端目だゝぬに幾世経ぬらんの思ひをかさね.大江の橋の南詰舛亭の掛屋敷ハいく年歟天満祭にうらやまれ.裏川筋の屋敷/\の塀の白妙も漢客来朝の度毎に際立.長堀あたりなる吹屋の煙ハ民の竃のせわしさの外をたち大名めきて心ゆるやか也.近き頃瓢箪丁も通り筋の二階建多くなりしも鬱としく 渡ハ
〇九条島○寺島など一しほ棹の音いとまあらずも○川崎○源八などハ夘の花月中の七日ハ人を砂の(弐オ)ことくにも盛りてかよひにいとあやふげなり
 湯ハ○今宮○なんば○上塩町○大仁はひぜん瘡のために煙をたて.折にふれてハ龍神の筧も但馬の酒樽も南に北にちらしをちらめかして
  注 是より作者のこゝろに次第を極たると見へたり
 あてなるものは
    ○米の立チ相場 堂島
真に無類の極り所なれバ国〃の守/\の懐も極り価に導かれ侍れバ先此土地の惣巻頭として
    ○初天神の竹輿(かご)
舁人のせわしさハ橋の上にてあらハるれど蒲団の裏に朱をうばひ合し千〃の立ならびに遊女の曠心に天満宮の庭さへせバしとハ公界の中の又公界ながらも
    ○虎屋の小倉野
味ひハわすれかねつも下戸の舌打にひゞかした唐高麗橋とも(弐ウ)
    ○揚屋の座敷
一ト目千畳の青畳ハ湖の色をとも思ひ付く事に源氏などのちらめかす実に曲輪気質と見へてにくげなれともこれらの品の土地に富たるこそいとめでたくも
 打明たる風情ある物ハ
    ○和泉屋のうどんそば
砂場/\とうたハれていさましげ也賑ハしきを風味として
    ○藍染絞
藍より出て猶花やかに色外にあらハしたる水のうつり
    ○月岡の春画
たちまち心をうごかし侍りて罪共なれば
    〇四ツ橋きせる
源蔵をもと知りつゝも隣/\も所の名に富てともに器用をあらハせど見るめせわしく
    ○なんばの骨継
南蛮の一流も所の名に似通ひて相合たり近き(三ナ)比本家といへるハ女の手わざのあらくれ事はげしきものと見へっゝもにこりともせぬ顔の又いと殊勝にも思ひ待て
 こゝちよげなるものは
    ○材木屋或は石屋
国〃より呑込て国/\へも吐きながら帆柱なんどの売買の直なりの手もふとしき立て神風の添へ物こそめでたく見へながら灘屋の浜などの石の有さまハ又もろこしめきたりとも
 酒ハ 油はともにむさし野にかよふを凡此地を専らとすれと余の郷の名代つよけれバ其最上夫とも名さし得す又此たぐひの品も多けれバ是になぞらへき侍る
    ○さらし蝋
是も実ハ他の国に育てどうつきつとさす水のもてなしにうまれたちよりよくあらひし美女の素顔のことくにも見えて又(三ウ)番匠のもてあつかふ道具こそ皆此地より出る中にも
    ○亀の鑿        ○雁金の手斧
    ○金近利右衞門鋸    ○花菱の鉋
    ○極又の曲尺   猶名に光りまさりていづれともいとするどなる事をおもひ合せり
    ○弁喜の蒲鉾 しらが町
彼さらしの色つやふかく色又いと白うして江戸迄もあぢハひの損じなきを
    ○島和尚の胡弓
巣籠りなんどにいつとなく聞く人の眼もうるみて
    ○吉田一保の講尺
唐も倭も今もむかしも此人の見ぬ軍ハあらしともとて読切のよみさしに昼寐の夢もいさみて
見るいとまなくも実に戦に汗をひたさし嵐座のはやるも此弁舌よりしこらして ○伊賀髷 ○伊賀鬢 ○伊賀越小紋 などもにくげながら(四オ)浪花の癖とて
 器用げなるものは
    ○道明寺屋の漬もの   尼崎町
    ○坪井屋のみかん酒   ほり江
香気も味ハひもともに水ももらさずして
    ○王露堂(きよくろたう)の左り絵扇
甚五郎細工にもおとらしと風の思ひも筆さきより
    ○小山屋の厚焼玉子 天神の社内
さも腎薬らしげに思ハせて名高くも其余ハ或ハ ○羽二重餅 八百屋町 ○絹ごし豆腐 〇七郎平が鋏細工なんども器用過ていとにくし
 薬は
    ○泉明の薬酒 東口   ○入残の目薬 同
    ○御堂の後の龍虎円   ○質屋練薬 島内
    ○白龍香 かごや町   ○小川屋の黒丸子 大手筋
    ○板屋の乳薬 安堂寺町 ○(四ウ)
    ○紅粉屋紅粉入香 天満 ○吉野丸ハ紀州源蔵とやらんの
身に劔を立ても見せて奇妙過たるも
 冨てせわしきものは
    ○虎屋の饅頭切手
店の出入ハ櫛の歯をひくぞとも見へながら番付の冨の札めきたるも物にくし今で又銭のやすきを悔む有さまもおもへば
    ○竹田のからくり
道者の眼のやくそくハはつさね共遠国へ聞へし程ハ動き足らぬ近き世のせわしさも
    ○女の髪結
未刻太鼓(おやつのたいこ)といへる狂言の比までハ極てなかりし物なるに今ハ遊所ハもとより町〃にも群て住町の女ハ遊所めきて心ときめかしあるひハ長町とまりの旅人のめつらしかりて茜裏ながらつぶりバかりの土地になれたるも鵺をや思ひ出ていとおそろしげなり(五オ)
    ○大正のうなぎ 道頓堀
和らかみにわすれかたき風情あり此にほひにこたへかねる鼻いつとなく木の葉天狗の芽出しにもなりなんとて夏のくれ猶一ト間をせきたつ
    ○長町の傘或は団
なんとハ諸国の雨風を引受藤こしらへもいとせわしく此辺りに多く出せる看板に ○はじき ○けいと なんどゝありともに傘に用ることくなんされども耳立ていとおかしげなりとてさてハ又
    ○天満のおやま紅粉   ○黒門の春風
    ○玉造りの唐弓の弦   ○庚申こんぶ
    ○下寺町の白酒 なんどハいつの間に仕にせし事やらん伊勢道に書出せるにおどろけり
 さかしく見ゆるものは
    ○高津の黒焼屋
造化の物/\をかたちの儘にてこのみを欠さすいもりも(五ウ)もとよりつるみなどの黒/\と
    ○伏見町道具の入札会
一丁に限つての持参りに冨たる人の家/\に集る落札のふれ声ハ難波新地の新艘ふるゝにも似通ひ侍れ共
    ○贋水前寺海苔
こんにゃく玉ハ鼠とり薬にも成とやらん聞しかども又
    ○雀すし 福島
眼にハさやかに見へね共折しり顔の新米をはらみし泥身の江鮒も
    ○馬場先細工の遣ひ人形
今の子供の心までをよくかんがへてぬけめなききめとてされバこそ
○面の餅屋ハ天満煮売屋と成り ○なんば新地の吉田屋ハ庭に春秋をたくみ在の溜池堤も気ハかはりてよけれ共麦飯のかけんハ今すこしありたきものともすべて天王寺の玉やの(六オ)そばと粉屋までさがす心の魁こそにくらしけれど小堀口のいつとなく消しも地をかへる姿ならめとて
○本庄茄子 ○天満大根 ○難波のにんしん ○市岡新田の西瓜
 なんど土地よりさかしきをあらハせるこそいとうれしけなり
○尼寺の土器投 ○道頓堀の楽焼 ○梅田の墓の粧ひなんど負ぬ
 すがたも土地の思ひによく入てさかしき風情いと心よくも
 むかし忘れぬものは
    ○うかむせ
幾瀬よりのみ上て貝のうちの漣に鄙びたる武士こゝろも和らげて幾世経ぬらんの松までを一ト目になせる新座敷も益建増て
    ○京の祇園会の神輿舁
今宮難波木津の古き例も殊勝さいとゞしく
    ○東口の米饅頭(六ウ)
むかしの婆ハ人形の姿にうつせど頭の雪ハ手ぬぐひにかくして味ハひハ前に越たりとも
    ○吉助の牡丹芍薬 高津
おらんだ人も今にさそハれ侍れハ
○秋田屋の水 道頓堀   ○菩薩が筆 堺筋
○大江橋岩起し      ○鉄槌せんべい 長池
○天王寺の葩𤋎(はせ) ○樋の上こんぶ 道頓堀
○牢の前の焼餅      ○東口の桐の箱
○横堀の辻君       ○才兵衞薬
なんどいよ/\古風を守りしよそほひ
 新町より元日の愛染参りもいつの比やら絶しとなん聞しに十とせバかり此かた凝りて今猶襲の裾高く青きを踏初るなんど古きをしたふ姿うれしげなり
 末でよろこぶものハ
    ○惣体北の気質
後ヘハよらぬたのもしさハはんじ物がおく病を見かねたるに(七オ)いさませて
    ○勝間の土
吹屋の心のたしかなるに素人こゝろともとりかためて
    ○越鳥斎の軽画き
あるひハ古き糸瓜の中へ逃込し鼠又ハ川を流るゝ破れ肴籠の其やぶれし間より江鮒などの飛上る風情などに心動かし松風村雨のしほじみたる姿に後の世の功ならハことのこひしく
 草は
○天瑞寺の萩も金岡が馬をや待がほにて
 木は
○宝樹寺の紅葉ハ源氏絵の姿をしたひ.姉川が糸さくらハ次第に
 姿芳しく.天王寺のさくらの千本に俳諧師の名をや求食(あさ)れりとも見へたれど精舎の賑ハひに栄を待心もともに
 一ト癖あり顔なるものハ(七ウ)
    ○泉原松茸 北山
同じ香をもちながら稲荷山に負しと思ふも浪花に出心
    ○天王寺かぶら
近江の味の雲上めきしを下司近う立廻て
    ○高原の草ほうき
酒屋の男と念比にして枯ても枝葉の猶茂きを
    ○寂称のそば切
よのつねとハ少し心をもたして新蕎麦の早きしらせも近き比茶心にこのみ深く
    ○天満の檀尻
前年木の和らかさに辻のまハりもいつの間にやら
○大黒屋のてつへきまんちう今橋
○銭屋まんぢうの片意地形道頓堀
始の方ハ名のみおかしく仕にせ後の方ハ只虎屋めかささるもにくけれども
    ○番場の上燗(八ナ)
貴賎ともに引受て傘の下の仮の舎に盃の月を見てもじたんだふまぬ石亀の味ひもわびたる風情を三杯きげんにも声高ならずしも
    ○麦婆のばゝ 袴屋新田
竹の筒吹そらして掛り舟への風呂をしらせ麦飯の仕にせも塩物菜の意地を立しをおもしろがりて近き比ハ鯊つり舟の奢ともなりて
 心のたしかなるものは
    ○権吉碇 ばくろのいせや
舟人の落付をたのみなるものなれハいとゞ
    ○本町下駄
歯のぬけぬ受合ハ老の心もいためすして
 渡辺氏の異物あつめなんど又ハ蒹葭堂の唐好もともに同うして万物に事をかゝずありなんとも
又友どちの誘ひ合にハ(八ウ)
○南ハ西照庵 ○浮瀬 ○北ハ播宇 ○田楽生玉を専とし ○湯豆腐ハ高津の上なくもし下戸ならハ 〇九条の松原屋のあづき餅とも ○住吉もどりの鯉万 ○真田山の鯲汁
なんど懐銭にて酔をまハらせハいと気たしかにぞ思ふらめ 大師めぐりハかきりなくはやり侍りて左専堂は少し古されぬる歟只栄枯地をかへる事の有こそむかしの京ともとて猶めてたくも見へつゝあれハ
 いやましに思ふもの
    ○大光寺のをし鳥 西寺町
張皮籠のホト/\に餌をしたひよるにハ龍安寺の島かくれにしにまさつて年毎に数の羽音に代のかハりし墨衣も早馴初て
    ○鳥屋町
公冶長をなぶりちらすも今猶めつらしきもの多く
 扨此題にして此地の巻軸となす物(九オ)
    ○天満祭りの船
抑鉾流しの神事とやらん流れし鉾今の戎島にとまりて御旅所となれりとや其程の所せきて大船の場取ハ宵の日に居ならひてもとより天神水尾ハ水無月の恒例となり近松か書たる千世界の千日月も此夜の闇を覚さるにやあらん歟網舟の立廻り一人乗りの抜歩行通ひ船の自由さも他の郷の斯斗に賑ハしきハ儲る事専ら也是又船屋料理屋ともに其意ハはつれねど費を魁し思ひハ是にまさりしやあらんとて土地の姿猶顕ハせりとも迎ひ舟のいさましさに巻尾の粧ひいとゝしく
  安永六年丁酉四月吉日
  日本              繁栄堂梓】
 
 
安永七 庚戌
 
04-312 【年表 1-521】
一 十一月十日より 堀江豊竹此太夫芝居ニ而あやつり顔見せ
    妹脊結町家仙人
 
安永八 己亥
04-320
一 エレキテル 日本にて新製して諸人ニ見する東都平賀源内の工夫のよしこの人火浣布を製ス
風来山人と号しまた幅内鬼外とて戯文ニ妙あり神霊矢口渡実生源氏金王桜忠臣伊呂波実記などの作者也
  大坂大江宇兵衞工夫のエレキテル難波新地にて当夏の涼ニ出ス同年紅毛へ渡ス
 
安永年間
04-350
一 茄子田楽の串之事
  古老云 茄子田楽を焼に中古までは串一本指たるゆへやゝともすれハ打返りて焼やう悪かりしに今のこどく串二本さして便利なるやうに成たるは安永中也
  花襷会稽褐布染道行の文中に
      〽茄子田楽にあらねども鬢にとろりと油ぬり二本さしたる身なりしが
  此戯文 [安永三年午八月] 其頃までは鬢はけにて油を塗る事を知らず割鋏につぎ切をはさみで油を塗たる也都ての所行かくのごとく世智かしこく成れり
 
04-353 
一 笛籟(フエフキ)坊主 [思ひ川恋川坊主といふを大井川坊主と呼ふ東海道大井川の駅騨にて非業に死たる旅人の再生也と附会の説アリ]
 融大臣塩竃桜花第四ノ口ニ云
    〽裾に短ひ破れ衣浅黄頭巾も煤けた顔鼻筋赤い笛籟坊主鉦の拍子もそゝくさと南無あミた仏/\ヨイサ/\此所行も通ふも思ひ川恋川仕業をするも恋の道商ひするも恋の道一切此娑婆にてする事なす事残らす此道恋の道南無あミた/\ヨイサ/\神のミわたり仏のミわたり或は上々様方の法事たる共コレ此音楽より上の回向はあらさるや其理はいかに必ず信を持て此音を聞給へ南無あミた/\ヨイサ/\向ふの岸まで明日/\ヒイと吹たる一文笛は報謝の礼か回向かと云々
 
04-353 
一 吉田一保講尺 安永六年条富貴自在ニ出
 
摂陽奇観 巻三十六ノ七
天明元 辛丑
04-355 【年表 1-582】
一 同(三)月十三日夜 道頓堀火
 
天明二 壬寅
04-361
一 九月 立役名人中山文七一世一代名残狂言
 角の芝居藤川山吾座にて勤ム
   九月九日より十月二日マテ
        物艸太郎    物艸
        福在原景図   蘭平
   十月六日より十一月二日マテ
        けいせい転多織 島ノ小平次
        紅葉一世寿   平惟茂
  右狂言古今希有の大入大当り日数五十一日の間興行 桟敷売高 一万千九百廿九軒
  中山由男一代狂言録云 文七は故中山新九郎一蝶子にて実は松屋来助といふ狂言作者の子を養ふ幼名与三郎といふ元文二巳とし大坂子役にて妹脊の舞扇におつうの役懐にだかれて出られしが初ぶたい延享元子年より色子の部同四卯年市川龍藏座にて若女形と成り寛延元辰年京嵐座へのぼり角前髪にて中山文七と改メ同四未年都座にて元服なし宝暦五亥年大坂大西の初座本を勤メ [年来の芸評長文ゆへ略ス] 今年は大坂も中の芝居は休ミ角も不繁昌にて有かなしのやうにめいりし所へ九月九日より一世一代狂言の看板出しかバ京大坂はいふに不及近国他国鳴り渡りての評判見事な摺物が出るやら盃を配るやら前狂言は物艸太郎大切は蘭平にて初日から崩るゝ斗りの大入日に増シ夜にましての大評判蘭平ハ毎度の事ながら一入手に入たる大出来にてとかう申に不及物艸の二の口姿いやしく心雲上なる仕こなし屋形物がたりなどは皮肉のはれた事三の口のめつたぜりふ山下金作スケとして出勤かづらきの役両人共に拍子有てそゝらず三の切の上使やく囲ひの内にて姿をかへ千の利休と名のる姿の古びいかにも大徳寺に姿を残せし木像といふ所あり切の愁ひ金作と二人無言の仕内誉るに詞足らず大切の蘭平大丈夫の仕様外に眞似するものなし後日狂言転多織に小平次やく我弟に異見の段また尋常ならぬ所が有て見るに胸ふさがるゝ雷場の立入大切の雀おどり最早箇様の姿は見る事あたハず先物艸ハ作りあほう利休に成ての向上体のしうたん蘭平は大丈夫のむほんがゝりもぎたうなる似セ物狂ひ小平治は世話事の実儀芸扨惟茂の所作の雲上なる濡事の和らかさはげしき立入に二挺つゞミの手に入たる武道の忠臣所作しうたんやつし道外男作時代の向上世話事の仕向まで夫々に別れたる縦横自在妓家の一大家天然の上手といはむに憚有べからず凡かぶきあやつりにて一世一代と申事宝永五年子十月京榊山芝居にて坂田藤十郎一世一代と看板を出セしは藤屋伊左衞門の芸の一世一代なりし延享三寅年大坂市山助五郎座にて榊山小四郎釣舟三ぶ一世一代と申て五六日勤めて休ため又豊竹越前一世一代の女鉢の木延享二年丑の十一月より出し大入なれバ又なき事にもてはやせしも声がらも老年に及びしゆへ人の惜む心も薄かりし宝暦七丑の年豊竹筑前一世一代籏揃をかたりしも格別の評なかりし安永五申五月大坂中の芝居にて嵐小六一世一代山姥の狂言勤めたれ共日数少しの間也同未の年豊竹島太夫一世一代を勤しも所々にてかたりしゆへ何角と人の噂もありし同京にて加太夫ぶしの大和も一世一代をかたれ共久しい物といひふらしけゐ明和九年辰九月故中山新九郎一世一代大入にて名残狂言の親玉ならんと思ひしが此度のやうなるは昔も今も双びなしいか様仕内も男ぶりも今を盛んに人の惜める年配といひ書ハよし文才もあり実に文七が一世一代芝居冥加に叶ふたる道の名誉なれバ妓道をつとむる末々迄文七が終りにあやかりたきもの也
  中山由男一世一代首尾よく相勤めて後洛東岡崎村に浮世を遁れ住て老を楽しみ浄光といふ文化十酉年七月廿三日寂ス法号は
     鮮明院巧誉弁釈浄光居士 行年八十二歳
   中山文七は清白肥大音声爽にして実を捌く時はよく喜ばしめ恩愛節義に沈んではよく哀(カナシマ)しめ怒る時は猛虎も恐れ笑ム時は嬰女もよくなつき慕ふはた兵術角力の所業をなせば見るもの左袒(ヒダリカタヌギ)毛髪をそらにす復タ俳優談笑の戯におゐては万人膓を蕩かして大笑すさは此業に妙を得たる堪能の一人にしていまだ知命の寿を残し功成名遂身退きぬしかりといへどもその英名後世の口碑にとゞまるのみならず俳優の立廻りに文七
と呼ぶ名目あり [文七といふ見へは両足を揃たる立チ身をいふ] またあやつり方の人形の頭も文七といふあり [是は男達雁金文七の頭にや] 桐竹門藏といへる人形つかひ由男の身ぶりをよくうつす毎々大当たりを取たり浪花松屋町に艸紙鬼吉といふもの文七の見へ似面画を初めて世に弘む
図 中山由男似顔 中山由男似顔
  壬寅 舞台納の吟 雪圭斎画
花鳥も化粧ひそみちて秋の山 由男
【参考:中山文七一代狂言紀  】
 
天明四 甲辰
04-408
一 堀江名物の歌はやる
  〽揚弓大ろうじ此太夫あやつり市の側しぐれの湯ぬれかける芸子やおやまはしやんなしやな角力取はヨヤマカセ笹婆はヤレあつい富田屋橋を西へ行荒木の芝居に出世薬師抹香線香七郎平三好にあみだ池茶店でお烟艸ヤレ/\お百度参りじやへ
 
摂陽奇観 巻之三十八
天明五 乙巳
04-418
一 三月二十六日より 難波新地にて唐の開帳
   歌舞妓狂言作者奈河長永堂亀介色々の作文を加えて因縁を述ル 四月廿四日類焼ニ而止ム
     異國産物啓発趣意
 抑唐の開帳と名づけ御覧ニ入奉るは当吉善亭の主シ吉田屋卯兵衞奈河亀介の両人厚キ懇意なるが近来払底不仕合の由来を尋るに先年中の芝居興行の続キ此所に店を開き春の花盛り夏は螢の光りつよく秋も燈籠赫々として日毎夜ごとに繁昌成りしが冬枯の時なる哉重キ病に臥長々心神悩乱して渡世難出来奈河共に内談の狂言底を擲いて相談の折しも去々年の火災に奈河が家屋敷焼失ニよつて互ひニ印形押かはせし中々に段々の難渋かさなり両人此所にひつそくの同行と成て今更損ふいはん方なくしんぶてんぶに祈誓をかけしに御贔屓の老翁借金横寝の枕上に立せ給ひ庭木の桜の厚皮を削り利銀口銭の空しくする事なかれ時に繁昌なきにしもあらずと墨ぐろに書付給ふと見て夢覚ぬ不思儀なるかな其日に当ツて諸方の名高き雅先生より当時難渋をあハれミ給ひ異国外国の産物数品あつけてのたまハく汝等やせ顔はる事なかれ身上からの開帳を顕ハし御見物の他力を受なハ家業繁昌御ひいきの種ならんと憐愍の御告によつて諸方の御所持御秘藏の品々或は借り受或は貰ひ預りものは半分の主と御大切の物ながら暫らく我か物にして富貴ひつてんに任せ扨こそ唐の開帳と名付て披露の趣あら/\如斯御座候恐々
    追段
 奈河の住所永長堂建立吉田聚螢庵大破ニ及び新宅座敷も金の敵に質どうたらん身上破損修覆の為の開帳でムり升ス両方御執立と思召此上ながら四方の雅君御所持御秘藏の雅物珍物暫らく御貸し被下升ふならは追々番付に書記シ御ひいき御恵みにて唐物段々ふえまするやうひとへに奉希候
                      吉田聚螢庵
                      奈河永長堂
04-420
雅会目録  雅会目録4 雅会目録3 雅会目録2 雅会目録1
 
04-423
一 二月 故人並木正三追善歌舞妓作者打寄本読会といふ事を興行ス
図 並木正三追善本読番組 並木正三追善本読番組
其裏ニ
 ○ 弔
   並木正三之十三回
       父に別れてのくり言また乾かさる間にはや 浅尾正三
     指折はあらまた若よ草に露
       朋友のしたしさ思ひ出る事のあまたゝひに 加賀屋歌七
     琴の緒も梳や返さんかつら艸
       年回をくり返しつゝも          奈河亀助
     道そ法ぬるむに甲斐ものほり舟
                           吉田屋宇兵衞
     つく/\と弔ふや顔鳥かほよ鳥
                  当時追善
                     亭主
                       □ □
因云 本よみ会の権輿は宝暦十二年午之春東武の作者堀越菜陽浅艸の寺内ニ於て興行ス其後明和四年亥ノ秋深川汐浜ニて興行大坂にては天明の初メ奈河亀介かぶき講尺と名付て本よみをなす
天明四辰年 思花街容性よみ本画入の根本出板スしかし画は造物斗りニ而当世のごとく俳優の繍像なし似顔の人物を交へたるは寛政中浮世画師松好齋半兵衞
 
04-427 【年表 1-621】
一 四月十一日 竹本染太夫死
     法号 釈義道遁
 下寺町遊行寺ニ墓あり
 
04-428 【年表 1-621】
一 四月廿三日 道頓堀火
 子上刻角之芝居より出火翌廿四日巳上刻鎭火
  家数 八拾弐軒 竈数 八百四軒
  芝居 四ツ   土藏 三箇所
  穴藏 二箇所  寺  壹箇寺
    東西広サ弐百三拾八間
    南北 壹百弐拾壹間
    町数 九町 此内難波新地弐丁有
 
摂陽奇観 巻之三十九
天明六 丙午
04-453
一 五月 御用金間三匁之御触書
  一高百石ニ付 銀廿五匁宛
  一間別一間ニ付 銀三匁宛
 今度御用ニ付借用被 御出候条但シ来ル末年より辰年迄十箇年之間毎年五月中ニ取集メ其役所へ可指出也尤拾箇年相済候而利分相添夫々返済可被下者也
 右之通御領は御代官奉行有之候所は奉行所私領は領主寺社領御代官領主地頭相集メ御用金懸り江戸大坂三井組上田組へ可差出者也
      午五月
 関東之大老田沼主殿頭殿国政ニよつて諸株諸運上等新矩ニ被仰出就中間三匁之御用金より市中騒しき事明和之家質銀運上ニ倍ス
 田沼立身録云 家譜略伝
    人皇一百二十代御宇ニ当ツて武将家治公寵臣
            遠州榛原郡相良城主田沼主殿頭意次 五万七千石
  【中略】
 八月廿七日大老井伊掃部頭其外老中列座して左之通被仰渡
                           田沼主殿頭意次
    其方義
 上様 思召違を以老中職被仰付置候所不正之義有之候ニ付此節御役御免願之通雁之間席ニ被仰付也神田橋御仮屋敷之義明廿八日午上刻より明渡シ可申由申渡ス主殿頭病気ニ付西尾隠岐守承之也
    此節雑談落首戯作文など多けれどくた/\しければ誌さず漸その一弐を著ス
      御文
    ソレ田沼ノ不忠ナル。ハカラヒヲカムズルニ。凡ヵネナキ大名小名ハスタレモノ。マボロシノゴトク。一ゴナラサレバ万両ノ金モチナル人ハ早クヤクツケテ一生スキヤスシ。役上リヌレハ今日ニ至ルマデ百文ノ小遣ヲ持ヤルモノナシ。役タル人ハワレモヲシミ人モヲシム。ヤシキアカルァトハ本ノシヅクスヱノ露ヨリモシゲシト言ヘリ。サレバアシタニサイキヨ有テユウベニハ切腹ノミトナレリ。スデニ公義ノ使者来リヌレハ。スナワチフタツノ屋鋪タチマチ戸ジメラレ。一門ノ知行永ク上リヌレバ運上事ムナシク変ジテ当家ノヨソホイヲウシナイヌル時ハ一家中ヨリ集りテナゲキヵナシメトモ。サラニソノカイナシ。サテシモァルベキコトナラネバトテ世上ノサタトナシヌレバ。只マチノナノミ残レリ。諸役人ノハヵナキコトハ。老中不定ノサカヒナレバ。誰ノ人モ早ク諸運上ヲ止テ御役ヲ全クツトムベキモノナリ穴カシコ/\
  【中略】
    愛護若道行見立文句
  逢事は猶かた糸の     親玉の薨御
  よるとなく昼共わかぬ   自身番所
  寐てもさめても      江戸のうハさ
  枕ひとつの床のうち    立君の不繁昌
  過しけいばの折からに   田沼龍助
  いふてわかれて      間口三匁
  やかたを出て       田沼家家老 井上伊織
  いとゞ思ひのまさり艸   佐野善左衞門
  せめて夢にも見まほしと  同  後家
  かた手枕のうつゝにも   田沼家中
  たづねまよふぞ      弐朱銀の噂
  世の人のそしりもなんの  田沼蔵屋敷
  手に取よふに思はれて   中井仁左衞門
  しばしとてこそ      木村道之介
  うつす姿は我ながら    火事装束の自身番
  ミやこのふじと      四文銭くづれ
  わがとりなりの      此節のおやまノ衣装
  かり装束の        やとい番の袴
  りん/\しやん/\    鳥井伊賀守
  とんと夫から音づれも   天秤の株
  ないてさわれる      夜なきのうどん
  アノかりがねも      諸屋敷
  さりとはしんきな     茶屋町
  ひとりとぼ/\      老松町歯いしや
  アヽどふなりとなろぞいな 普請方
  あゆミなやむぞわりなけれ 原田宗兵衞江戸行
   【以下略】
 
天明八 戊申
04-514 【年表 1-638】
一 十月十九日より 北の新地坂東岩吉座ニ而歌舞妓あやつり一座にて顔見せ興行 座組は歌舞妓大成ニあり
    難有神徳烏帽子折
 
04-533 【年表 1-641】
一 五月 チンコ首振り狂言初ム
 首ふり狂言といふ事京都にては先年より興行致ス事ニ而是を肉アヤツリ共いへり今年竹本政太夫思ひ立て歌舞妓役者の子供十歳前後を聚め堀江此太夫芝居にて興行なし大当り同七月道頓堀東の芝居へ引越ス夫より追々首ふり芝居繁昌にて座摩稲荷の宮地ニて打続キ興行シ大坂にてはチンコ芝居といふ委しくは評書を次ニ出ス
   近世にては中ウちんこ豆ちんこなとゝ年の甲乙ニ依てその群れ分れり
 
摂陽奇観 巻之四十
寛政元 己酉
05-043 【年表 2-008】
一 八月 堀江此太夫芝居ニ而新浄瑠璃有職鎌倉山大当リ
    此戯文は田沼主殿頭大老職御免有之雁の間被仰付松平越中守老中上座補佐有て仁政を行ひ給ふゆへに万民安堵の思ひをなす折から先年佐野善左衞門宿意有之田沼山城守を殿中ニ於て刃傷ニ及ぶ其一件を北条時頼の治世三浦泰村同荒次郎秋田城之介佐野源左衞門の世界として初日より見物大群集
 
寛政二 庚戌
05-051 【年表 2-028】
一 十二月四日 二代目吉田文三郎死 行年五十九歳
    法号
     前冠子嗣吉田文三郎
     栄元院名誉顕道居士
 千日法善寺に墓あり
 吉田文三郎ハ幼名八之介とて実父の稚名を継きて栴檀はふたハより芳バしと初ぶたいより名人の聞えありて明和安永天明の頃は歌舞妓役者慶子梅幸由男眠子などの上達のものも此人の形を取りて相勤めしとあれハ誠にあやつりの中興開山也
    古老云 手袋といふものハ冠子より初ム木偶の胴串に小サキ釘を打て是に如図絹きれの袋に葛粉を包ミ置キ手の汗を去ゆへ首をつかふに自由也三弦方にてハ昔より大母指の根もとへ振る葛袋を用ゆ手粉と称ズ
 
摂陽奇観 巻之四十一
寛政三 辛亥
05-117
一 三月十二日 道頓堀火
  当月十日中之芝居新狂言敵討非人の実録初日出候処十二日夜当芝居より出火ニ付北の新地芝居へ引こし右外題実録の仮名を下より読バクロツチと成るゆへ出火せしといひふらせしゆへ敵討郡山染と替たり
 
05-119 【年表 2-037】
一 十月十日 伏見屋四郎兵衞町出火
 九日の夜宵より西北の隅ニ稲光り常ニ異也雷吹第ニ強く鳴り折節大風吹出て雨はなし八ツ時分南堀江伏見屋四郎兵衞町三井次郎右衞門借屋松屋清七といふ紺染物屋より出火初メ西北風強く段々東北へ焼行東は幸橋より橘通不残西横堀まで北は瓶橋迄やけ夫より北堀江へ火移り御池通四丁目へやけ夫よりあミだ池南門前筋東へ焼行同三丁目を長堀迄やけ其火四ツ橋辺まで一面ニ焼抜ル四ツ橋の火うなぎ谷堺筋へ飛火在之所々之火口一所ニ相成り東堀西浜側まで焼ぬけ同十一日朝卯之下刻ニ火鎭ル和光寺別条なし越後町茨木屋へ飛火早速打消ス十日夜は時々小雨降て風強シ
  一 町数 八十七丁    一 家数 二千十軒  一 竈数 壹万三千三百八十軒余
  一 土藏 二百七十七箇所 一 穴藏 廿四箇所  一 三津八幡宮
  一 三津寺 大木之楠焼ル 一 道場 九箇寺   一 京極登岐守殿蔵屋敷
  一 納家 百九十四箇所  一 北堀江此太夫芝居 一 橋 四ツ日吉はし 隆平はし 堀江はし 木綿はし
    東西長サ 千四百弐間但し町ニ直し廿三丁廿二間
    南北長サ 三百七間但し丁ニ直し五丁七間
図 伏見屋四郎兵衞町出火 伏見屋四郎兵衞町出火
 
寛政四 壬子
05-172 【年表 2-056】
一 五月 北堀江市の側東側ニ新芝居建
 其後文化元年子の冬芝居を町家とす今年より十三筒年間芝居相続
 
摂陽奇観 巻之四十二
寛政七 乙卯
05-191 【年表 1-130】
一 八月 大坂の市中井の内におきく虫といひて女子の縄目にかゝりたる形なす異虫多く生ズ
図 おきくむし歌だいご おきくむし歌だいご
お菊むし
ふしぎなるかなうハさをきく。其むかし。ある村に。ひんじやの老母ありけるが。一子ありしが。女子にして。孝心あつく。父母に。おさなき時より貞女けん女の。女の道を習請。せいじんまちし時来り。年ハ十七。ようがんびれに。諸事ハりはつで。名ハお菊。播州ほとりのさるかたへ。ほうこうつとめしが。父ハすぎ行一人の母へ孝をなし。ご主人大事と心得し。こしもと菊に。心なく。老若共に。ふかく恋慕。するといへ共。聞入ず。召つかいし者なれバ。夜毎くにくどけ共。風に木の葉のちるごとく。比ハ水無月大しよ時。風のとおりし所にと。きくハかつてに針しごと。御かいりなりと供まハり。下座なしへやにぞ入にける。それときくハぬい物の。針をとめしも心せき。かミのわげめへさし置て。御膳うかゞひかつてへ出。其まゝこしらへもちはこび。御まへにぞさし出し。はるか下つて。給仕する。ざしきのへだて。夏のうれん。かよひし程ハたぐり上。いかゞやしけん。ずりおちて顔にかゝりし其時に。わげめの針に心つき。手を上見れバ。針ハなく。さがしさがせど落てなし。運の尽しか。此針主人のうつハにあるゆへ。何がな恋のいしゆなれバ。にくさもにくしときくがたぶさを引つかミおのれ主をがいせんと。誰にたのまれ大罪。ゆるしおかじといかるこへ。身にハひやあせなミだと共に手を合せ。詫るをきかずくゝり上。こけつた重る古井戸へ多くのへびを入置て。釣おろし。あまたのへび。かの菊を。くらわんと腹へくいつき首にまといしありさまハ。あわれぢごくの苦しミもよもやと。おもひくゐしさに。延び上るを鑓にてつく。さてハぢごくの有様も。かくやとこそは見へにける。きくもいまハにこへを上。からだは土になるとても。こんぱく此どにとゞまりて。うらミをはらさで。おくべきと。よばハるこへも物すごく。うらミのもう火。天をこかし。其身ハ忽ゐぎやうのむしとへんじしハ。もゝとせあまりの事さへも。うらみのねんぞおそろしき。ゑかうのために。
図 お菊むし お菊むし
   世俗おきく虫といふは漢名を蛹といひて髯虫などの蝶にならんとする前にかくのごとく変ス蠶もこれに同じ何国にも多きもの也必ズ迷ふべからず蠶化して蛹と成り蛹化して蛾と成と字書にも見えたりお菊むしの説は元文六年七月豊竹座の浄瑠璃播州皿屋鋪といへるに出て古くいひ伝ふ妄語也
 
 
寛政十二 庚申
05-242 【年表 2-111】
一 五月十九日 男徳齋死 
    法号 大光覚照信士
  千日法善寺ニ墓あり
【増補浄瑠璃大系図 暫らく休足有内病気にて終に黄泉へ赴かれたり時に寛政九年丁巳閏七月十日 法名 釈宗円
図 竹本染太夫墓 竹本男徳齋墓 】
 
摂陽奇観 巻之四十三
享和元 辛酉
05-251
一 同(二)月 千日法善寺にて三勝半七百回忌追善
 
05-254 【年表 2-178】
一 八月二日 一モクレン
 今日巳の刻頃より大風吹出シ寺島江之子島の岡に有之大船二間斗動キ江戸堀阿波殿橋の人家やねを吹払中之島筑前蔵屋敷備後藏やしきの御殿大ひニ損じ北の新地芝居くづれ北在吹田村人家八九間も崩れ怪我人十五六人も有り都而坤の方より艮の方へ風筋強ク所々を損じ未の刻に鎭ル世俗龍の昇天セしといふもあれば地まひ風といふもありイチモクレンといふものなるよし
 或書に勢州桑名に一目連といふ山あり但 [是山の龍片眼のよし依て一目龍と可謂土俗一目連と呼ひ来れり] 此山より曇出る時は必暴風迅雨甚シ先年此山の片目龍おこつて尾州熱田に来て民家数百軒大石を以て累卵を圧がごとく潰れたり熱田明神の一華表ハ太サニ囲ほどあつて地中へ六七尺埋め十文字ニ貫を通したるゆへ幾万人にても揺(ウゴカ)し難きに此時其鳥居を引抜き遙の野へ持行たり斯る凌兢(スザマシ)きものなれば此辺の者は何にても疾く倒るゝ事を一目連といふ尾州勢州の郷談也世俗一もくさんに走るなどいへるも一目連のいひ誤りならんか [勢州多度神社の社説奥ニ著ス] 
 或家の日記之中ニ酉八月二日未之刻龍のやうなるもの上天致シ騒動之道筋は先寺島辺より発り長堀行当り少シ北兵庫屋といふ解船板紙商内致候此屋根裏借屋共瓦悉ク空へ巻上ク東の方へ川を越シ吹散り又は川中へ落候
 
05-262
一 十二月四日夜八ツ時 四天王寺焼失
  其夜小雨降り雷鳴出シ雷火大塔の三重目坤の間に落夫より金堂にうつり諸堂三十七棟回録ス翌五日朝四ヅ時頃火鎮ル
  【中略】
     四天王寺再建 忠臣蔵九段目見立
    唐土の豫譲日本の大星   あわ太郎
    嘸本望で御座らふの    寺中惣坊
    幸ひけふは日柄もよし   諸堂入仏
    お尋にあづかりお恥しい  紙子仏
    爰を仕切てかうせめて   回廊
    昔より今に至る迄     石の鳥井
    手負なからもぬからぬ本藏 元三大師
    ほんに世話でござらふの  角の芝居寄進
    つくり立しは大星か    金堂
    御計略のねんぐハんとゞき 二王門
    相手かハつてえんやどの  薬師堂
    一別以来めづらし     妙見堂
    コリや聞ところお石さん  若太夫寄進
    風雅でもなく酒落でなく  骨堂地藏
    義心といゝ計略といゝ   引導鐘
    正直をもとゝするお心   西門
    行義といゝ器量といゝ   惣輪塔
    下地はおなじ桐枕     釘なし堂
    うつりかハるは世のならひ 新古二王
    出行足も立とまり     手水車
    谷の戸明て鶯の      十五社
    すこしは心やすまりて   文珠堂
    抜たる刀さやにおさめ   講堂
    格別の沙汰も有べきに   六時堂
    人の心の奥ふかく     太子堂
    あのことくいつちして   寄進皆納
    大竹も雪のおもさに    五重大塔
    ハヽアしたり/\     石の舞台
    声掛られて思ハずも    猫ノ門
    こつては思案にあたハずと 東門
    つゝかゝらんず其けしき  牛神
    様子を窺ふ        鏡ノ井戸
    閨の契りはひとよぎり   安居天神
    倶にひつそと       万代ケ池
    いかにひげなされうとて  合法ケ辻ゑんま
    回向念仏は恋無常     念仏堂
    雪にたハむは弓同前    庚申堂
    酒がほたへる雪こかし   愛染堂
    兎や角と聞合セ      在々の寄進
    底意を明て見せ申さん   亀井の水
図 天王寺五重塔再建寄進頼み口上 天王寺五重塔再建寄進頼み口上
 
享和二 壬戌
05-277
一 七月 同社ニ而京祇園町より少女の女義太夫来り大当り
 
享和三 癸亥
05-293
一 三月 座摩社内ニ而江戸浄留璃女太夫芝ノお伝出勤大当リ
 
05-297
一 麻疹流行
【中略】
       はしかおどけ忠臣藏見立つくし
    取ちらすものかたつけて   御医者様お見舞
    馬鹿つくすなと       はしか除ケの薬
    尋て爰へ来ル人は      奉公人親
    是は短気なマア待てと    若女夫の不養生
    打絶ました         搗米屋
    かゝるまいかあるまいか   はねかへり
    お聞及びの今の身のうへ   肴屋
    コリや聞所じやおゐしや様  毒いミ
    お前なりわたし也      置屋呼び屋
    仕様もやうもないわいのふ  外料
    釣合ぬは不縁のもと     見立違ひ
    親子はハア/\       寺子屋
    ほしがる所は山々      やとひ人
    嘸本望でござらふノウ    町かみゆひ
    わしやいや/\と      たべもの
    ほしをさいたる       五月節季
    そんなら何か御所望     介抱人
    ミなばた/\        呉服店
    価の高い          きんかんト梨
    のびるはンア        藪ゐしや
    箇程の家来を持ながら    呉服店あるじ
    手おひながらもぬからぬ   ちんこ芝居
    ミな違ふてから       敗毒散
    こふいふ事がいやさに    風呂屋
    胴欲ナ事おつしやり升    竹の子うり
    はづかしいやらかなしいやら 娘ざかり
    日本一のあほうのかゞ見   惣嫁買ふて死だ咄
    といふて先キに合点せにや  はしかの大妙薬
    どれへなりと外々へ     ゐしや殿の二の足
    およそにしたかと思ハれては 再発の介抱人
    斯あらんと思ひ       薬種屋中
 
新撰軽口麻疹噺序
  こたび三月下旬より麻疹流行して万民是に愁ふ五月下旬に至て既に止ぬ是肺より入病なり肺はもと金なり其金をとろかすは火也其火ハ南方より来て心火に属す又元の金水に帰る故に春の土用より発起すると見えたり然れハ天地の間に生するもの一切有情非情に至る迄ものがれがたくたとへは蝕の廻り合するに似たり左すれハ重きもあり又軽口噺になるもあり是を拾ひ集て四巻につゞりはしかの余毒を去にハ笑ひにしかじと輕口はしか噺と題すといふもやつはりねつにうかされてゐるかアヽ御茶ひとつおくれ                玉路堂
 何が今年の麻疹にて梨の直段ことの外あがりて壹ツが三百五十文と札付してあれは長吉是を見てどうぞほしい物と思ひどふやらかうやら三百五十文工面して梨を買けれ共直の高きものゆへ世間をはゞかりさすが門中でも得喰ハすひそかに内へ持てかへり隠しをき其夜寐所でそつと出しかぶり/\喰けれハ旦那此音に目を覚しヤイ長吉よ何をくふて居るぞと尋られけれハ長吉ハイ何も喰は致レませぬ旦那イヤ/\喰ふて居るであろあらがふたら隙をやるときびしく申されけれハ長吉おそれ入てこれは白状せねはならぬしかし旦那は謡好キゆへ謡にて返答せんとおもひ  〽三輪の山本道もなし と謡ひけれハ旦那聞取てそれで合点がい夜るは喰へどもひるミえず
 善之丞といふ孝子有けるがはしかにてなくなりけれハ家内おどろき呼生ケけれハ二時斗りして気が付キ申けるは扨々こわい夢を見ましたくらがりから広い河原へ出ると思ふと地藏さまが出給ひ汝はまだ此所へ来るものにあらずしかし地獄の体を見て帰るべしと仰られけるゆへ御衣にすがりけれハ紫の雲に乗せたまひ雲のうへより地ごくを見れハ閻魔大王が冠を着ながら飯をたく三途川のうバが薬をせんじる見ゐ目も目を煩らひかぐ鼻も鼻血を出してゐる鬼ははしかで苦しんで居るやら地獄は乱騒ぎ也と申けれハ聞人扨々珍らしいはなしを聞ましたしかし鬼までもはしかはしそむないものじやといへばイヤ鬼も十八でござりますもの
 何と太郎兵衞さん夜前はしかの神を送りましたが御らうじましたか太郎兵衞成ほど音は聞ましたが気味が悪さに見ませなんだハテ私もはしかゞまだでござれハ其通りじやがけふはてつきり川原に捨て有であろ見に参りますまいかといへハホンニ仰の通りけふは抜がらで気味の悪ひ事ハないと行て見る所が鬼のやうなるものが捨てあるコレハ風の神と同じ事じやはしかの神はどこぞが違ひさうなものと傍へ寄て見たれハ胴体が麦わらで有た
 麻疹ことの外流行せしゆへ江戸駿河町に大丸の現銀店のやうなる薬店を出しけれハ薬の買人とだへなく私ハねつがきつう出ましたれどはしかゞ出ませぬそのお薬を下されといヘハ手代声をあげて小供衆と呼ぶ丁稚ハイ引敗毒散持てこいといふ其次へ私は麻疹の跡がさつぱりと致しませぬといヘハ手代又声はり上小供衆とよふ丁稚ハイ引小柴胡湯持てこい又こちらの方には折介が身共ははしかの跡でつき返しさうでどうもならねい胸がわるくつて今にもかえしさうだがよきくすりは有めへかといふ手代又こゑをあげて子供衆丁稚ハイ引ソレはんぞうもつてこい
 今年ハ珍らしい事じや東寺の塔が麻疹をしたと申けれハミな/\大笑ひして何ぼ流行ものじやてゝ塔が麻疹をする物かといへは其様に疑ハしかござれミせんと連行て塔へ上り是ミやしやれはしかゞあるといへばホンニ是は不思義と二重目へ上りミれハ又麻疹が有夫より三重目へ上りミれハ爰にもあり是は妙じやとあきれながら四重目へ上らんとすれハイヤもふ上らずと置しやれ麻疹ハ三ぢうより上にはない
 元庵様是は私が手細工に張ました屏風でござります何成り共御書被成て下さりませといへば元庵老早速筆を取て
   班疹交流行没金良医以主剤則愈
   巽風漸々来北止麦秋収既保安全
   はしかこそ人をおかするものなれと麦の収るころはさるらん
かく書をハわけれハ亭主是ハ何の事を詩哥に被成ましたと問バ元庵これハはしかの事を申たといへば奥の間の麻疹やミがハアくつさめ
 麻疹明神参詣の道すがら名所古跡くハしくチト頭痛ねつ/\と申聞せませう山の取付にほとをり姫の石像是は世間一とう三らいの作又古哥にある きのふハけふのはしか川一度はわたらねハ叶ハぬ所爰に力石三ツあり軽きを藪いし重きを乗物いし坪なりの石は清政庵にてこかしたる朝鮮のこけいし右手にちり神の社古井半藏がはなぢの井戸段々のぼれハ六日峠七日峠此かたわきに白糸の瀧高梨の水金山寺金柑寺一ツさん門あり見舞の人を兼平夜ときかけ松あり北はぬらくらうなぎ谷のながれ大毒にて古哥あり高野の玉川に似たり
    わすれても喰ハ死らんやミ人の高直の毒の川々のうを
是を過て又何でも毒じやいそふな大池ありばいやく山敗毒さん此間より高い斗りあぶなげのないかつこん塔の九りんの半分四リン五も見ゆる一の鳥居はすたらぬ橋のまへにありこはいほど広いがはしかの馬場古金あめの鳥井はしか明神御本社ははしかゞ高氏公の建立其後はねかへりさいかうははしかないこう久吉公喰でん菜一ツしきは海北要雪の筆本地は大ねつ如来コレ/\御案内者方角はどつちにあたりますハイミな身に当ります
 大坂から面白ひ麻疹の狂哥が出たが聞しやつたかイヤまだ聞ませぬ何といふのでござる
    世の中のなをるはしかや家々にまくらならべてくハほう寐てまつ
といへは夫は面白いが古い哥じや廿八年前の麻疹の時に出たのじやといへばサアそれがはね返つたのじや
 喜介殿どつちへお出じや定めて角力見に御出か与兵衞殿何をいはれるやら此麻疹の流行最中に何の角力が出来る物ぞイや出来るげなけふが四日目五日目と門トをいふてあるきますエヽ夫は麻疹の事てござるイヱ/\夫でもきのふからせきが出ると申ました
 京の田舎の片辺りに正直正六といふ百姓の悴に麦松といふて当年廿八歳ニ成けるが三月廿一日に麦畑へ行しに何国より共なく白髪の老人薬袋紙の衣を着しいかに麦松我廿八年以前汝生れながらに麻疹いたし両親かなしミ居たりしを我まじないにてたすけたり其歌に
    麦どのは生れながらにはしかしてかせての後は我身也けり
此守の徳にて其方も又諸人も助りたり其事さだかに聞覚えつらんさすれハ大恩をミせたる我也今年又はしかをやらすに付て我斗りでハ手廻り難し汝われに随ひ来るべしといやおふいはせず引立て何国共なくつれ行けるかゝる事とは両親夢にも知らず麦松が帰らざるゆへ東寺の弘法大師様は麦の始りなれハ麦まつ帰りますやうにと通夜をして願ひけれハ御戸帳の内より微妙の御声にて生れつきかたき麦松なれハ在所の衆を頼んで随分とよばせ/\
   はしか御伽 いたこぶし
一度はするもの
 〽今年弥生の初めの頃にはしか流行て若いしゆが果報を待歟家毎に枕並べて寐やしやんす七日八日の峠をハ越たら食事がすゝみ出し力づく也心地よくすつパりきれいにかせやした是からさつパり病ひなし
心得て居るもの
 〽頭痛するのはソリヤはしか前鼻血が出るも構ひなし腹のくだるも大事ない食事が行ぬは峠也湯水を急ぐハ為ならず風にもあたらぬやうにせよ追々本ぷく御養生さつパり気ぶんが能なつた風呂にはめつたに入まいぞ
愼しむもの
 〽えらい毒なら先ツ色董客はねつから来てくれぬ格子淋しきろくぢ店済ぬ顔してしよがない夕べも女郎衆がお茶挽た今度のはしかはたをしもの追々客衆のぜんくハいを色里廓に待やした惣嫁で死んだら笑ひもの
毒ナもの
 〽酢蛸うなぎは扨大毒よぼらにするめに海老鯰こゐ鮒どじやうにすぢがつほすゞき鯨にこちかますもろこ太刀うをはえさハらこのしろ田にしにぶりさゞいかれかにしいらにいかめばるあかゑに鮓をいミやした鳥類竹の子くやんなや
毒でないもの
 〽まびき大こん長芋うこぎ氷豆腐にしそかだめふき湯葉こんぶに葉にんじん高い物なら近江梨ずいきもくずだき玉子とぢ牛房も喰ふたらせいがつこ段々すくない金柑を方々さがしに遣りやした小豆ほうきゞはぢき豆
大芝居役者のはしかしたもの
 〽叶ミんしに松本よね三藤川八甫に勝次郎団三とく今のしほ浅尾奥次郎芳沢の円次郎加賀屋の歌右衞門市藏団八友藏や尾上の新七団之介さつハりこれらはやミやしたちうでも若手は被成ます
皮薄で出やすいもの
 〽ちんこ役者は皆一時に小市歌介巳之介に京とら三甫藏中とらや大谷友蔵仁三郎いな徳哥六に他之介や鶴藏音吉浜九郎平五郎吉弥留次郎楯九郎福松東四郎市川十太はさんすまい
流行なんだもの
 〽野崎無縁経扨床コ風呂屋惣嫁ぞめきもとんとなし小茶屋のほんかり借りに来ぬ芸子おやまもゐん気也鮓屋が変じて味曽を売りうなぎ屋夜店に搗米屋げくハゐしやすかじやとごうわかし按摩がましじやとけなりがるねつから売れぬははしか除ケ
流行たもの
 〽医者と薬屋大金まふけ駕籠は立派に気ハ勇ミこつそり俗医がゑらはやりなめた顔してあるかんす権兵衞も俄にかごをかき赤いゑのばゝ嚊雇ハれ人追々すくだつ病ミ上りさつぱり貸本かりやした見立の番付たんと出た
刎たもの
 〽今年はねたはまづ玉造今宮ゑひすの正遷宮京の黒谷鞍馬山茨住吉よふ成た竹田のからくり高野山角丸新もの珍らしい子供の浄るり柳吉が馬て刎られ一さんにはしかは迯ていにやした是からよい事続きます
 
05-315 【年表 2-193】
一 近世浪華市中流行
絵本太閤記        都名所図会
逢坂の清水        大長寺の茶店
三段針かねノ髩上ケ    唐銀のかんざし
婦女衿うら返し      婦女尻叩キ帯
おだれ突抜キ看板     大戸ノセリ上グセリ下ゲ
町娘の三味線稽古     奉納ノ生花
腰提グの鏡袋       縫箔の衿掛ケ
妙見朝参り        金毘羅の御百度
出シ店の人相見      橋上の豆茶店
娘の広袖         生ぬきの奴
芥子妨主の稚好髷     女子のおぼこ仕立
李冠仕立の着物      細ぐゝりの袖口
浄瑠璃ノ出語リ      夕時ノ太功記
アゴノ太トかんざし    錫の道具で立派ナ砂糖水
絹ぱつちの尻からげ    おやまの絹足袋
鎧合羽          竹先ノ提ゲ挑灯
黒天の女帯        黒縮面の江戸帽子
右京柄          中払節季なし
太夫の町名で誉ル     役者を家名で誉ル
羽織ノ引掛ケ紐      長じゆバん代りのこしまき
重荷持の倒(サカサマ)儒伴 けたまたげノ股引
じんを増ス練薬      請合ノしつくすり
孟宗ノ竹の子       幟立た砂糖店
古手物ノ夜見世      瀬戸物の焼つぎ
有難屋ノ菜籠       切手ノ茶の子物
革の早道         堂島下駄
吉原仕立ノ紙入      一文字ノ上下
やたらに看板掛た薬取次店 酒屋の門口のにうり屋
役者ノ似顔画       おやま芸子の顔似せ絵
立派ナのぞきかんバん   夜啼うどん屋ノ大行燈
切芝居ノ座ふとん     ふぐ汁屋
長羽織          雲州髷
大師巡り         名物おいしいの
鹿子ノ髷くゝり      古下駄の夜見世
男ノ綿ぼうし       笛ふいてあるく按摩
女ノ羽折         書出し医者
淀屋橋の腰さげ      栗ノ岩おこし
徳用油          にしん昆布まき
女夫肴 
 
摂陽奇観 巻之四十四
文化元 甲子
05-325
一 絵本太閤記 [法橋玉山画寛政九丁巳秋初篇出板七篇ニ至ル江戸表より絶板被仰付] 其趣意は右之本江戸にても流行致シ往昔源平の武者を評せしごとく婦女小児迄夫々の名紋所など覚候様二相成一枚絵七枚つゞき或は三枚続きを爰は何国の戦ひなど申様ニ相成候所浮世絵師哥麿と申もの右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候
  [戯文絵本太閤記といふ外題も本書絶板ゆへ当時ニ而ハ絵合太閤記と号ス]
    太閤御前へ石田児ニて目見への図に手を取り居給ふ所長柄の侍女袖を覆ひゐるてい
    清正酒えん甲冑の前に朝鮮の婦人三弦ひき舞ゐるてい其外さま/\の戯画あり
 右の錦絵 公聴に達し御咎ニ而絵屋は板行御取上ケ絵師哥麿入牢被仰付其上天正已来之武者絵紋所性名など顕し候義不相成趣御触流シ有之猶亦大坂表ニ而出板之絵本太閤記も同様ニ絶板ニ相成候初篇開板已来七篇迄御許容有之候処かゝる戯れたる紅摺絵にうつし本書迄絶板ニ及ぶ事憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり
 
 
05-346
一 奴小万之伝
 摂州西成郡難波村に三好氏正慶といふ婦女あり産ハ大坂島の内うなぎ谷にて木津屋五兵衞といふ薬種商人の女也幼年の頃より平常の行状男子に勝りし侠気ありけるゆへ雪女といへる名は呼ハずして奴の小万と綽号せり破瓜の頃如月彼岸の天王寺へ詣んとて下女一人召つれて西寺町を下寺町ともいふ南へたどり口縄坂の辺へさしかゝりしとき巾着切二人これを見て少女とあなどり頭の錺りのさしものを抜とらんとせしに雪女すこしも動せずかの両人を左右へ投のけさあらぬ体にて荒陵の方へあゆミ行彼岸詣の諸人このふるまひを見て恐怖なしとり/\に其噂をなしけるより誰いふとなく世俗奴の小万と呼びなしぬ厥後寛延元年の春道頓堀豊竹座のあやつりに奴の小万の事を取組ミ容競出入湊といふ戯文大当りをなせしより其名いよゝ高く成り今に此狂言はあやつりはいふに及ハず歌舞妓芝居にても相勤めて世人よく知れりこの婦女平常にいふ我家系は足利家の長臣三好修理太夫長慶の子孫なりと慢じ法号を正慶と附しと見えたり生涯の奇話多くあれどその一二をこゝに著す [寛延元年中の芝居市川座盆かハり女尺八出入湊黒船忠右衞門当世姿戯文の出入湊をかふきにて興行す] 
 豊臣関白秀次公三百年正当のとき難波材端龍禅寺にてその遠忌を訪ハんと管弦法事を営む
 この婦女若かりし頃より慢気はなハだしく我終身をまかせ良人と頼まんもの由井正雪の再来せハ嫁せんとのゝしり平日着用の小袖は黒羽二重に菊水の紋を付たりしかるに宿世の縁にや其頃風流に名高かりし柳里恭 [和州郡山家士柳沢権左衞門也] か妾となりまた俳優家嵐里環に初代の嵐吉三郎といふ立役也人しれずかたらひて妊身せし事もありけるにや宝暦中の酒落本にもそのことを著せり
聖遊郭二編列仙伝 [先賢卜子夓著宝暦癸未冬日]
 〽長兵衞 おなじミの 〽伊津や雪でござります別而お断り申まするは雪義当年仕廻芝居にかとり姫の役勤めまして怪我をいたし面体に疵つきましたゆへ膏薬をはります見ぐるしうござるゆへおことハり申上まつる 雪 顔見せの御礼をずいと申上ますほんに前年おなご立の狂言を仕りまして町中御ひいきの評判高く夫より段々さま/\の狂言御ひいきつよくわたくしがやうなものを極上々吉じや吉じや吉じや/\と御評判をなし下され其節は〽柳里様といふお客から竹の画ののぼりなと下されしも皆御ひいきゆへいよ/\おなごだての狂言のえんを引てなにはで顔を立通ふしますやうにずういと頼上ます [木津屋を伊津やと転ス]
【〽長兵へ 立役女形のこらず御目見へ仕りました続イで浄るり歌はやしかた迄不残御礼を申上ます浄るり竹本双紙太夫でごさります此太夫事は竹本大和門弟にて廿年このかたの修行にてこざれどもいづれの芝居もつとめませず一音も聞たものがござりませぬけい古斗に心をゆだね居られましたゆへ名を双紙太夫と申ます [双紙太夫] いよ/\御ひいきを頼上ます〽長兵へ次キ歌かた〽あらつな三蔵でごさります当地にて久しき御ひいきの三蔵儀でござりますが年まかりよりましたれど声のつやもうすくなり定めて御きゝづらふござりませふ 三味線〽玉田連治 笛〽末原太助〽鼓加賀太市〽太皷定野林十郎〽振付女村義六〽同板や眼吉〽狂言作者山又ぼう慶〽頭取うりう又別而御断申上まするは此両人の浄るり太夫
     高宮中太夫
     西尾春太夫
大切リに至りまして一世一代をかたらせます中太夫は盛衰記の松右ヱ門場春太夫は盛衰記の笹場を相つとめます各〃祝言千秋万歳楽と引合せ終ると後のほうに謡方のかしら〽萩六之丞声はり上ヶて謡四海波しづかや国もおさまる時津風枝をならさぬ御代なるかあいにあいおひは松こそめでたけりかな
見物同音にさほになれ/\の声につれて座中しぎしてはしがゞりの幕へはいる追付三社の出てくる時分にまん中の桟敷子路すより六人の粋達へ一書来ル
只今此さん敷へ魯の国の早飛脚韋駄や天兵衞より一通到来野子連中の顔淵あの方ニ而此間大ウ居つゞけ少吐血の気味ニ而候間急ぎ帰るべしと先生孔子より申まいりたり大立の御馳走甚近来の興に入候へどもちよと今晩かへり申候間狂言はまたの夜御のばし可被下候いそき
かしこ ゆうより
むつ様
座中がくや不残ひらき見てすぐに見物へ断リの口上なりのこしておくも楽しみといふもありまことにざんねんびんしけんじやとふるひ口合まじりにはて太ことん/\/\/\東すでに白し
宝元気曾我上中下
右之狂言近日後編に御目ニかけ申候 (洒落本大成3:211-228)】
この文中に柳里より竹の画の幟を送りしとは里環の胤をやどして男子を設けし端午の初節句の事を書入たる也厥後雲は正慶尼と呼びて難波村に住せしが或とき程近き瑞龍禅寺に法会ありて老若男女の参詣群集せしに折節俄雨しきりに降りて本堂のかげ門の辺り民家の軒にたゝずみて晴間を待ほどに難義するもの夥し正慶尼ももこゝに詣でゝこの有さまを見るよりやがて下男に申つけ程遠からぬ長町より数百本の傘を取寄させ知るしらぬのわかちなく無縁の参詣にからかさをあたへける此一事にても生涯の活気を知るべし
 前にもいへるごとく勇気烈しき生質なるゆへ年老ても岩畳なり原来異様なる事を好む癖ありて平常他行するには樫の棒を杖とはすれどこれを力と頼むにもあらずまた夜中にはがんどうちやうちんを照すなど見る人奇とす
 老後病に臥あらかしめ死を悟りて草庵に貯たる家財調度の類ひを残らず同村月江禅院へ送りて快しとす [此婦つねに禅宗を信ぜしと見えてかくのごとく家財一品ものこらす月江禅院へ送りしを旦那寺木津村願泉寺の住職此よしを聞て彼是故障をいひつれ共いさゝかも心頭にかけざる大丈夫なり]
 この婦女和哥狂歌はいかいの発句を好ミ手跡もまた拙からず書捨のもの世に多し文化元子年の春難波村北の口苅屋幸介といふ薬湯家の座敷にて新年を迎ふ
一 正月 難波村正慶死 綽号 奴ノ小万
   此年亥極月思よし有て難波苅谷何かしの許住る所より方能往新年迎へんとす然るに廿七八日より病伏廿九日は大に悩亭主繁女かいほうをこそかならねとくるしさたへかたし暮に及て夜更て丑満の比にや繁女そうにを祝給へとさま/\祝義すゝめ給と難喰時いかにと問寅の後と有され共悩事甚成は頓て身まかりもやすらん此家の思わく気のとくなから無是非観念せる内鳥の音鐘ひゝくなと聞るに早としもたち行さま成ともかく有身なれハ
      鳥鐘の声もをしまぬ年の丈
 明近きに冷寒共に募るくるしさを凌そのまゝに寐入もやせし歟いかゝ夢成るへし広野に至つて晴々と見渡す今迄の苦さもなくあれは扨は死けるぞと嬉しく従是何方往へしと思ふ内幼少なるわらんへ共声さま/\と聞ゆるに是以何と頭上見るに東の窓より太陽赫々と指入給ふにていまた死ぬと心付本意なさいはんかたなし
      未来歟と思や難波の初日影
 既に齢は七十の六も重ねし老か身の又存命もものうきたゝ命終をのミ奉念につたなき運命宿業あしく罪浅からぬそかなし娑婆の因縁難尽最悲しかるや
      うしや世に又存命て何歟せん己か身ながら我に恥かし
      子正月               行年七十六
                         三好氏老婆正慶愼白
 私云寛延の初め戯文出入湊より奴の小万の名高く聞ゆれど其已前元文四末年芳沢あやめ座盆かハり
     被の小万
             懸重荷昔白浪
     奴の小万
といふ歌舞妓狂言あるよし外題帳に記せ共その狂言本をいまだ見されハ雪女の事実にや別人にやしらす都て芝居狂言の役名に小万と呼なすものいつれも勇烈也恋女房染分手綱に関ノ小万源平布引瀧に小万といへる者ありまた実説にしては慶長中豊臣家の時大坂の城中にとらハれありし奥方姫君あり其夫都の清水にありと聞出し小万女といへるはした女かひ/\しくも城中の水門より抜出しまいらせ途にて野武士を切伏せし事とも続近世畸人伝に見えたり
 
文化二 乙丑
05-371 【年表 2-216】
一 九月廿九日夜 道頓堀火
 角の芝居より出火東は日本橋西角迄 [東角倒ス] 北は川切南は坂町うら天神前迄西は角の芝居角迄
 
 
文化三 丙寅
05-384 【年表 2-220】
一 四月 御霊社内あやつり芝居玉藻前大当り
右新浄瑠璃は玉もの前の絵本出板ありし夫を聞かけとはいへ共朝吉大明神守らせ給ふといひ触らす
 
05-384 【年表 2-234】
一 同(七月) 廿九日夜 道頓堀火
夜八時ノ時中の芝居より出火南は法善寺西ハ大西芝居東隣東は千日前西角ニ而火鎮ル
 
文化四 丁卯
05-391 【年表 2-241】
一 七月六日より 竹田近江大掾百回忌追善
角の芝居ニ於て三日ノ間 中ウ芝居二日 あやつり一日 入替り相勤申候かぶき芝居は名前斗ニ而出勤無之
【元祖竹本義太夫百廻忌追善浄瑠璃 道頓堀於角芝居来ル五月5日より相勤申候 
  おおもとなる竹田近江か百とせの忌にあたるに祖父出雲か言残せし発句・・・ 日本庶民文化史料集成14-747】
 
05-391
一 同(七月) 廿五日 狂言作者二代目並木正三死
 
05-405 【年表 2-256】
一 十月三日 三弦名人鶴沢文造死
    法号 令聞無終信士
 船場塩町住児島屋と云
 闇の礫云 鶴津文蔵
近代の元祖鶴沢文藏丈此人鶴沢友治丈門人にて幼年の頃より竹本義太夫芝居へ御出勤次第の上り目先三味の音色さのミ飛ぬけたと申程の事なけれど只何となく大きく音に品ン有てきれいに手は左右共に打揃ふた達者どこに一ツ申分なき大立者弾方はきつすいの西流なれ共才芸なれバ自己の抗義を調合しての弾あんばいどふ聞ても希代の妙手殊ニ手を付る事奇妙にて其うへ歌の方にも委しきや全体地の間などにも哥の弾方まゝ有ていよ/\艶に何を聞ても穴といふ事なしおはつ徳兵衞上の巻かゝりの道行の間門口へかゝる迄只夢共なくうつゝ共なき手の付あんばい自由な物也縫物の間のメリヤスひやうしぬけのした様なる弾方は性根奥のサハリなども撥はなれの奇麗さ全体此人のサハリの切やうは誰も得合点いたさぬ一をつまらせて二のさえた所は三味線屋も不思義なとの事其外の弾かたヲクリ返しから余人のとは裏はら皆品を分ての一流似セとふても似セられぬすねた弾方
 或人云おはつ徳兵衞教興寺の段にて
    〽わがみちよつと針当て仕立やうを教へてたもと突付られても里育チ知らぬ縫針手に取は今がお初といふ事を但しは知つての探りかと胸に針持斗りにて立途もわかぬ案じ顔
是より詞の間のメリヤスひやうしを抜て救ひ撥多シ生得文藏の三弦に救ひ撥曽てなし然れども此場の間にすくひ撥を專らとするは都て女郎などは縫針の道に疎く手筒の女の縫ものは究めて救針にするゆへとぞ
 文藏平生ニ云やう浄留理の詞の間も三弦は弾心ニ而棹を握り居るもの也離せバ休メ握れハ弾也と心得べしと也然るに国性爺後日合戦相生参宮に
    〽伊勢の国ふとしき立て宮柱和光の塵のかやの家根棋千木のかたそぎ忝くも御恵ミふる雨の国土を潤すことくにて天照すおほん神とは申也相どのハたちからを
 此文段のおほん神とは申也といふ三ツユリよりコハリへ掛る間にてちよつと三弦を下に置事口伝とす 天皇太神宮を心中にて遙拝せん為也とそまた赤松円心緑陣幕壇風の祈りの段ニ
    〽踊り上り飛上ツて肝胆を砕ひて祈りける
 此三重返しの間息を、詰たり左なくては肝胆を砕く一心の祈りに成らずといへり文藏の三弦にはかゝる秘伝
多し中にも秘曲の三幅対とするは凱陣紅葉の曲水用明天皇の鐘入 わん久ゆかりの十徳物狂ひ
 当時三弦の皮の縁を裁ざるは文藏出勤の節より仕初ムゆへに今も文藏張といふ 一名乞食張とも
 浪華今八卦【桐薹卦】ニ云
   竹本芝居の三絃に鶴沢文藏といへるあり浄るり三絃のどてんぜう扨人がらハ公家のおとし子か共見へ姿詞にも三味せん引らしい事少もなく一入上手にぞ思ハるれ
 
文化五 戊辰
05-411
一 二月二日 狂言作者並木五瓶 東武ニ而死去
      彩嶽英藻信士
 天王寺西門納骨堂の側ニ墓あり
 
05-420 【年表 2-262:2-276】
一 大当不当見立勝負付
かち      まけ         かち     まけ
座摩正遷宮   新川の筏乗り     高津おどけ開長 泉岳寺開帳
あミだ池ノ尼  喜光寺開長      石薬師砂持   四天王寺地築
三津八幡正遷宮 稲荷正遷宮      角丸ノ五右衞門 竹田自来也
友吉最期物語  関三最期物語     御霊ノ人魚   稲荷ノ人魚
角丸ノがんりう 竹田ノ茡源氏 谷村楯八    坂東重太郎
御霊うとふ   大西信仰記      大西うとふ   若太夫紙治
かしく寺妙見  北野天神正遷宮    三軒家ノ護摩  目神八幡正遷宮
鳥屋町石釣物  諸方石ノ釣物     法善寺土弓   法善寺ひやうたん鯰
稲荷ノ相馬太郎 座摩ノ柳吉      座摩ノ女力持  稲荷ノ珍物
高津天神正遷宮 法善寺珍木      泉屋堀抜キ井戸 天満市之側堀ぬけん井戸
鳥尽ねり物   島之内ねりもの    役者みこし太鼓 俄囃子
市の側芝居   荒木芝居  
 
文化六 己巳
05-422 【年表 2-292】
一 同(五)月 角之芝居ニ而竹本義太夫百回忌追善浄留理興行
 
05-426
一 六月 相撲取九十六(イチジク)喧嘩 西方前頭 大関より四十五枚目
         東方
             中ノ三
     関脇 玉垣額之介 石火矢庄吉 一文字吉五郎
              柵 文吉  駒嵐卯之介
         西方
     大関 柏戸宗五郎 関脇 鬼面山与一右衞門 前頭一荒馬源弥
             中之三
              柏木平吉  鹿子木辰之介
 日本橋通壹丁目宿屋へ九十六参り刃傷ニ及び大騒動竹田芝居ニ而一夜付ケの新狂言ニ出ス
 
文化七 庚午
05-427
一 同(八月) 廿三日 狂言作者近松徳三死 行年六十歳
       一如院亮体日相信士
 
05-428
一 (当冬) 浄瑠璃曲語り大伊軒死
 船場上人町ニ住シ苧商人平常篤実の人也二王がたり桶語り烟草がたり其外さま/\の曲語りを仕初ム音曲金太郎也
 
文化八 辛未
05-438【年表 2-317】
一 ばくろ町稲荷境内あやつり芝居文楽小屋興行始 年々不絶相続して繁昌ス
 
摂陽奇観 巻之四十五
文化十 癸酉
05-465
一 同(三月) 十六日 朝かた 道頓堀火
 竹田芝居むかひ東大庄より出火東は日本橋南迄西は中橋迄両側焼ル
 
05-466
一 九月二日夜 道頓堀火
 中の芝居前茶屋より出火東は太左衞門橋詰迄南は千日前角限り西は九郎右衞門町御堂筋辻より南へ焼ぬけ難波新地大半やける
 
05-504
なぞとき坊主[江戸登り春雪解安]
図 江戸登り春雪解安 江戸登り春雪解安

ろんごよみろんごしらずとかけて   いしのまくらトかけて
  よし原のけんくわととく       ふかいなじみトとく
心ハこうしハみじんだ        心ハいつもあいたい

嵐吉三郎が□□□□トかけて     むまの□□トかけて
  べつこうのくしこうがいトとく    どうらくむすこトとく
心ハ女中が□□□がる        心ハ手にあまる

川なかのひるねトかけて       きくのはなトかけて
  ざとうのめうとトとく        □□□のしんぞうトとく
心ハみづにねる           心ハ手をいれてさかせる

はるごまトかけて          あの娘をもらいたいトかけて
  まうぞうトとく           おちやづけをあがれトとく
心ハゆめに□□□□よいとや申    心ハいゝなづけがある

中村鶴助の道成寺トかけて      なぞときほうずトかけて
  忠臣藏五段めの与市兵衞トとく    目がねのめきゝトとく
心ハかねニうらみがごさる      心ハかけてごろうじませ

もめんいとトかけて         天ぐの玉子トかけて
  小栗のはんぐわんトとく       あほうニつけるくすりトとく
心ハくるまからひきだす       心ハあつたら高かろう

かけたすゞりトかけて        うぐいすトかけてとく
  宇治川のせんじんトとく       そうれいのともトとく
心ハする墨がながれる        心ハむらにきてなく

ひゑいざんトかけて         さかづきのざしきトかけて
  しまばらのあそびトとく       やまばちトとく
心ハおやまがたかい         心ハさゝれながらもおさへてみたい
見物思ひ/\になぞの難題を書記して渡せバ即座に答へて一興とし見物群集スもし此難題を解キ得ざる時に傘一本過料として進上せんといへ共いか様の難題にてもこぢ付ケに解池此者江戸にて流行せし春雪にあらず贋ものなるよししかし難題を解ことは奇妙也初めて荒木芝居ニ而興行夫より座摩社内所々の涼ミ床にても勤る
 
文化年間
05-529
一 窕譚(ナガハナシ)会
 催主は歌舞妓狂言あやつり戯文の作者芝屋司叟なるもの唐山の稗史赤縄奇縁月下清談などを趣向の種として自作を交へ一夜の茶話としながばなしといふ其題号ハ

  花魁  雉子  錦木  梵字  太刀
  昆布  鴛鴦  栢毬  朝顔  狗
  雲   浪   狸   瓢   賊
  楠   燕   水   禿   櫛
  油
 荒増如此この窕譚の中にも櫛油朝顔などハよく人口に膾炙しまた劇場の狂言にも取組て毎々大当りなせり
 
05-549
一 世上流行
復讐小説出板     寺社名目の取退キ掛銀  うふ湯辺ニ桃植ル
寺屋縫物屋の野がけ  土弓の店        絵本の通りノ芝居狂言
宮寺ニ桜植ル     自安寺妙見       婦女ノ紫衿
羽折ノ下ニ半てん着ル 生花ノ稽古       歌舞の稽古
神社仏閣へ所書書張事 貸シ傘に施主の名を書事 生壁色
小倉しま       小道具干店       颪並のせんべい店
江戸髷        野送りの礼墓所でいふ事 絹真田帯じめ
羽折ノ紐の短ひの   少女の赤帯       大小の柄ニ紫縮面ノ袋
花美成ル薬店     江戸産物店       床代三文の浄留理
同 櫛やうじ     長イ羽折        すびつの箱火鉢
辻けんノ人相     角力ニ見立た一枚すり  子供ノおほこかづら
よろひ合羽      元祖巡         引まハし
北浜すゞみ      家相方位        素人芝居
女の髪ゆひ      俗人ノ茶之湯      売薬ノ赤かんばん
川魚生洲       網ふね         せんべい店
鰒汁         おかしい名の風薬    色付なしの普請
鮓店         座禅豆店        三田焼
長楽寺小紋      雲州髷         大津湯
切売さかな五十五文店 粟田焼         生姜ねり
男の茶うら      紀州そバ        呑酒ノ五文屋
ひら打銀ノかんざし  かすてら焼       杢摺ノ合羽
宣徳焼        うづら形小紋      上布
金花山        ごろう覆輪       てつなんど色
ワナびろうど     浅黄ぼうし       唐奥島
婦女のゆひ輪     鍋島うちわ       白米五合入
山なり炭       酒えん盆        ぶせう箱
箱根細工       駿河細工        男ノ日傘
自来也脇差ノさや   江戸色のし紙      絵半切
懐中手汐皿      ばせを布暖簾      紙入ノ外人
扇掛ケ        橋々の豆茶店      役者似顔ノ摺もの
男ノ色わたほうかふり 江戸歯磨        茶之子虎屋饅頭切手
漆紙こし張      涼ミあんま       薬法書ノ施印
子供の花火店     大安うりノちらし    公長風ノ書
子供ノ独楽店     さめざやノ烟管筒    素人手妻
作り身ノおろし醤油  物真似会        にしんノ丸だき
五徳ボンボリ     ぼうだら        大根あらだき
清正公        徳本念仏        神道講尺
町うちノ講尺場    書出しの俗医      くき屋
横ニ張るかしや    猿の茶店        伊勢講
中払なし       稲荷穴めぐり      三味セん代けいこ
角力取進上大のぼり  座摩社内女太夫     手紙ノ筆工
同 舞ざらヘ     丁稚代り町小使     丁稚生洲
          セんへい店ニ
肉色ノ市松人形    にしき絵ノあんどう   錦絵ノ日傘
 
摂陽奇観 巻之四十六
文政元 戊寅
06-001
一 二月十九日夜 道頓堀火
中之芝居より出火東は千日前西側西は夷橋角まで大西芝居類焼南は芝居裏北側
 
06-002
一 同(五)月 道頓堀かハ大西芝居焼跡ニ而勧進相撲興行 勧進元 時津浪事生島幸五郎
  番付次ニあり
 
06-007
一 十一月廿五日より  角の芝居ニ而四天王寺寄進浄瑠璃十日間興行
栄連 東堀 福寿連 千歳連 南連
 
文政二 己卯
 
06-024
一 四月 道頓堀大西焼跡ニ而大鱶見せもの
 
06-026
一 同月 ばくろう町稲荷社内小家ニ而説経芝居興行
  此度蒙 御免蝉丸宮配下之者共打寄座組興行仕候間初日より賑々敷御見物ニ御出可被下候
                             説教名代
                              中山雛松
 図 説経芝居免許額 説経芝居免許額
日本諸芸祖神
免許 説経讃語   名代
関清水大明神     中山雛松
                     如此額ヲあげたり
 右之芝居願上之儀は十三歳以下之子供ニ而説教蝉麻呂一代記と申狂言相勤右狂言斗りにては古風ニ御座候ゆへ前芸風流おどりニ世間噂事相交申度との申上ケ道頓堀櫓年寄御呼出シにて右之趣御申聞有之候処十三歳已下ニ御座候へは不苦候旨承知印判差上候ニ付早速御免有之候然ル所市川重太郎花桐岩吉など年かさの者にて座組いたし壬四月廿五日初日指出シ候ニ付早速右之趣道頓堀より願上候故同廿八日説教方明六ツ時道頓堀四ツ時之御召ニ而双方御糺之上和談致シ相続可仕様御申渡し被遊候ニ付道頓堀方へ即刻一札を取り相済申候此日稲荷芝居ハ休ム
 右一札之文言左之通
      一札
一 我等説経名代ヲ以座組興行仕候処召抱候説経者之内年長シ候者有之候而は各方差支ニ可相成ニ仍而被願上処下ニ而対談可仕様被仰渡候ニ付則対談仕相済申候然ル上は以来ニ而も我等 蒙御免候通り拾三歳以下之説経者ニ而興行致候段相違無御座候依而一札如件
      文政二卯年                         説経名代主  中山雛松
    壬四月                             右名代後見  松島万五郎
   道頓堀
    芝居主衆中
同廿九日より座組差かへ興行仕候所表方もめ合も有之其上役者給銀最初之応対とは相違仕候而座払千七百貫余ニ相成り蝉丸宮名目冥加銀壹貫目日立テ弐貫文宛差出ス事ゆへ初日より七拾五貫文余ツヽ揚り高ニ而先ツ芝居は繁昌之体ニ相見へ候へ共何分小家せバく座払日立払物等之勘定悪しく当時半芝居分之払ひニ而日数十五日はいまだ興行不仕候へ共節季之払出来兼候故節季節句相休ミ彼是内もめ有之五月六日もらひ芝居にて先々相止候様之噂ニ御座候右一件銀主ハ難波新地河義金百弐廿両余之損のよし其外座摩社内御霊社内以上三箇所御免許 [但シ御霊小屋ハ当春焼火ニ付興行不仕]
図 文政二年四月説経芝居番付 文政二年四月説経芝居番付
 
06-031
一 同(五)月 道頓堀大西芝居跡ニ而大さつき作り花
 
06-046
一 七月 地蔵会献燈
    当年見聞謎づくし
  籠細工の釈迦   トかけて 堂島の親仁ぶん トとく 心は 北で立られる
  鬼娘の噂          文弥のおやま         出る/\といふはうそ
  跡の月の地震        竹田のからくり        近江はえらかつた
  姫魚            女房の好キな         おつとせコロリ
  嵐吉の龍興         日がらの頼ミ状        あらかた承知
  片岡の秋津島        籠細工の釈迦         大きな物じや
  北条むし          娘道成寺の口合        家根のうらには数々ござる
  来芝の景事         蛸のなまだき         足一本で当つた
  島之内のねりもの      後家の×××         久しう出さずに居た
  角の芝居の二のかハり    籠細工            大和ばしがえらい
  冠は団八のえとき      とやして居る×××××××  きづの開帳
  中村歌右衞門        四月頃の男の子        のぼりを待て居る
  若太夫の芝居から天王寺への上ケもの 銭つかわぬ息子    音なしいといふ評じや
  駒よせおだれの取払ひ    勘当のゆりた息子       門トが広なつた
  古手屋中の上ケもの     順慶町の座禅豆        達磨がたんとある
  カピタム船         痳病やミの×××       ちよつはしから××が見へる
  南無大師          隠者もの           涼ミにや出ぬ
  日の内見せぬビイドロ細工の近江八景   はやりうた    大事の/\よるのもの
  那智山の開帳        ××のよいおやま       ××××で得心さした
  中村松江のまねき      摂待の茶           かど中に出てある
  新町のさくらに太夫の道中  天狗の参会          はなくらべじや
  籠庄の細工         丹波与作のうた        江戸三界へ行んした
  今年の座摩祭り       あきがらの菓子盆       むまがなふて淋しい
  玉造りの正遷宮       借銭の多ひ内         檀尻がつかへてある
  いなり祭          色町のニワカ         たいこがたんと出る
  大西の芝居         秋津しま           立ぬ/\
  涼ミの高野山        忠臣蔵大序のまくあけ     大もんが見事じや
  さつきの作り花       えらい怪我人         難波も叶ハぬ
  大西の浜かハ        太子様の開帳         馬がかけ出した
  島の内のねりもの      三上山百足の所為       乙女が病気じや
  天王寺の上ケもの      菜たねばたけ         町々がうかれる
  今年の角力         子供の遊ひごと        ちうで取つてくれふ
  天神の涼ミ上るり      気違ひの利屈         聞人がない
  百村門九郎の祖母さん    玉芸子の紋日の売高      百よりうへじや
 
06-050 【年表 2-528】
一 同月(十月) 竹本土佐太夫事播磨大掾藤原秀冨ト受領
 
 
文政三 庚辰
06-076 【年表 2-533】
一 同(正月)廿四日より 角丸芝居ニ而竹本播磨大掾出勤
 竹本弥太夫事竹本清住軒ト改
 
   妹脊山三段目 かけ合 清住軒
              播磨大掾
 尾州名古屋吉田伝七初て出勤御霊芝居ト掛持ニ而四段目 お三輪 切付ケ嫗山姥八重桐大評ばん
 
06-079
一 同(三)月 荒木芝居ニて素人上るり [寺儀東六] 女あやつり人形方女八人其外はあやつり方下巡ニ而つとむ
 其後御霊社内へ引越シ番付次ニあり
 
06-080
 図 御霊境内素人浄瑠璃番付 御霊境内素人浄瑠璃番付
 辰の三付二十六日より御霊境内ニ而
 太夫元 芳谷常女
 白石噺 田うへ ろ一 吉原 里木
 昔八丈 城木や 口 三四 切 一土   しろうと確認
 鳴戸 じゆんれい 口 三四 切 寺 
 姫小松三 口 ろ一 切 丹
 壇浦兜軍記 琴責の段 寺儀 一土 丹 
 三味線 広作 猪之助 弥治郎 里吉 伝七
 三味線 力造
 床頭取 三四
 人形頭取 芳谷福右衞門
 
06-088 【年表 2-553】
一 同(六)月 竹本清住軒死 【五月十三日】
 
摂陽奇観 巻之四十八
文政五 壬午
06-177
一 同(六月) 十日 十一日 角の芝居ニ而谷町藤棚和勝院内金毘羅堂寄進浄留理 南連中
 
06-193 【年表 2-590】
一 同(六)月 豊竹麓太夫死 行年 【五月六日】
 
摂陽奇観 巻之四十九
文政六 癸未
 
06-227
一 三月 若太夫芝居ニ而
  ギヤマム細工大からくり大まんだら極楽の図
  表かんばん当麻中将姫蓮の糸
  子供狂言 𪋞山姫捨松
 
06-234 【年表 2-598】
図 文政六年五月興行稲荷社内浄瑠璃番付 文政六年五月興行稲荷社内浄瑠璃番付
未五月五日より いなり社内ニて 日吉丸稚桜 宿無団七時雨傘
 
06-239 【年表 2-617】
一 同(七)月 人形名人 吉田新吾死
 
06-241
一 八月 天満天神社ニ而
 淡路座あやつり六太夫興行
 
06-242
一 十月 御霊社内ニて女義太夫興行
      祇園新地井筒屋 芝丈  宮川町池升屋  八重吉
      同 京井づゝ屋 住吉  祇園新池花菱屋 待吉
      同 井上屋   久吉  同 井筒屋   豊吉
      同 近江屋   正吉
 
06-245 【年表 2-617】
一 同(十一)月廿二日 近松門左衞門百回忌正当
 久々知広済寺ニ而法筵あり
 
06-247
図 近松門左衞門略伝 六近松門左衞門略伝6 五近松門左衞門略伝5 四近松門左衞門略伝4 三 近松門左衞門略伝3 二近松門左衞門略伝2 一近松門左衞門略伝1
【文政六癸未年十一月廿二日 百廻忌正当 大坂難波橋筋唐物町北入 和泉屋理助売弘所
浄瑠璃作中祖 近松門左衞門略伝
洛東 門左衞門外裔 近松春屋軒繊月謹述
浄瑠璃作者中興の祖 [先祖ハ則小野小通也] 近松門左衞門信盛本姓杉森氏毛利家の臣にして長州萩藩に産れ長府に成人す故有て京師に登て雲上家に仕官し雑掌を勤む兄ハ上京相国寺にて宗長老とて碩学の禅師也舎弟則岡本一抱子といふ名医にて妹は錦江といふて誹師浪花ニ住て名家也兄弟いづれも人ニ知れて天下に卓絶し門左衞門元禄の比仕官を退き東山に閑居し曽て博学広識の余り教戒の志厚く法華経普門品ニ云一心称名観世音菩薩即時観其音声皆得解脱ト云又云妙音観世音梵音海潮音勝彼世間音是故須常念々勿生疑観世音浄聖於苦悩死厄能為作依怙具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故応頂礼と説給へる釈尊の大慈に随ひ則狂言綺語を以て児女子ニ勧善懲悪(ひとたる)の理を諭すハ浄るりニ如ずと門左衞門知覚発明し京師都万太夫宇治加賀掾等の浄瑠理を新作し後竹本義太夫 [筑後掾] に招かれ浪花に至り則貞享三年丙子二月四日始て○出世景清といふ時代浄留理を新作し出す又元禄十六年癸未五月十七日おはつ徳兵衞曽根崎心中といふ新浄留里を作り竹本文太夫古今の大当を取し是世話浄瑠璃の始り也続て新浄留理百余晩を作出す中にも正徳五年乙未十一月朔日より三年越十七ケ月○国性爺合戦作り出して大当を取し [三段目政太夫] こと/\に玄妙を顕ハしことし百年のけふに至ても人〃其美作を甘んす実に作者の中祖とす老年ミづから平安堂菓林子と号し享保九甲辰十一月廿二日行年七十二歳浪華の北に卒す生前曽て一代記を次作し其奥に
  もし辞世ととふ人あらば
それ辞世さる程にさても其後〃残る桜のはなし匂はは
門左衞門事蹟(おこない)妙作の事ハ諸書に挙たれはこゝに略ス委ハ本書を見給へかし則摂州河辺郡久々知村 [かんざきより十八丁北] 広済寺に葬る [妙見宮寺内也] 石碑あり [自然の青小石也] 法名に曰
阿耨院穆矣日一具足居士
当山什物ニ法華経廿八品和歌の一軸有 [慈鎮和尚詠哥大納言実藤卿筆] 元禄癸酉六月日奉納近松門左衞門と自筆の奥書有○門左衞門遊女の自画賛并辞世の一軸浪花金屋橋熊野屋某ニ所持○門左衞門七十二才の春認めし書翰浪花富田屋某ニ所持○門左衞門木像京建仁寺町某に所持○竹本文太夫の略伝○三絃の由来○其外草稿の遺書など羽若干近松春屋軒所持ス
▲抑門左衞門近松と称するハ叔家(はゝかた)の氏ニして浪士(らうにん)の砌より是を名乗る叔家の子孫芸州沼田郡府中村近松龍左衞門とて今なを連綿として代々村正を勤む予ハ又門左衞門の家より出シ女の子孫ニ而則又叔家の跡を続て近年(ちかごろ)近松ヲ以て氏とす不侫(およはす)なから門左衞門より遺志を続て則浄瑠理を筆作し東山ニ閑居して世を楽しむ当文政六癸未年すでに百廻に正当なるがゆへに此略記を著して菓林翁が誉名を弥増に薫さんがため拙き毫をこゝに止む
 追福のこゝろを
さま/\に作りし枝の面白や古ふなる程根あがりの松
 文政癸未六年九月日 洛東 門左衞門 外裔 近松春屋軒繊月】
 
文政七 甲申
06-256
一 正月三日夜 御霊火
子刻頃亀井町御霊社内芝居より大師堂焼失淡路町筋角まで御霊筋不残焼ぬけ七ツ頃火鎮ル
 
06-288 【年表 2-629】
図 文政七年八月荒木座浄瑠璃番付 文政七年八月荒木座浄瑠璃番付
申八月八日より あら木芝居ニて
加々見山廓写本 国言詢音頭
 
摂陽奇観 巻之五十
文政八 乙酉
06-301 【年表 2-652】
一 二月 角丸芝居あやつり座ニ而吉田千四 十三ばけ所作事出つかひ勤ム前狂言 酒呑童子話 大切 花競踊十三変化
 
06-327 【年表 2-673】
一 同(八)月十七日 竹本中太夫死 行年五十七歳
 
摂陽奇観 巻之五十二
文政拾 丁亥
06-356 【年表 2-753】
一 同 二月五日 夜戌の上刻道頓堀角の芝居中村以上座楽屋二階より火東北風列敷東ハ角丸 [休座] 芝居より若太夫西隣まで南ハ坂町同裏自安寺の北塀際迄同所釣鐘堂焼ル本堂無難ニ残ル北ハ東ニ而中橋筋西角浜側より西ハ九郎右衞門町浜大与之東隣土藏迄西ハ戎橋筋東角大兵ト申両替屋より南へ入込中程より西側九郎右衞門町裏通西へ壹丁半斗り焼行夫より南へ角力場能舞台際より東へ焼込又々南へ野側日暮ト申茶店庭先迄入込戎橋筋ニ而は名物山吹茶漬四季茶屋丸子麦飯借馬植木屋抔皆悉類焼法善寺表裏門金比羅其外末社石塔余程類焼候事
      火事方御役人様御見分人数竃数覚
    安東丈之助様 永田道之助様 小泉厚太郎様
           仮
    寺西文八郎様 牧野権次郎様
      此御見分御休息所宗右衞門町河作座敷仮請相用候処御見分相済御締帰り之序ニ日本橋より御舟を戻シ又々河作ニ而見分酒宴御座候ニ付一同不首尾ニ相成暫時差扣へ被仰付以後出役先ニ而酒飯専決而相用申間敷旨御叱り語座候由気之毒千万之義御座候
図 道頓堀の火事 道頓堀の火事
火元 角ノ芝居 中村以上
   名代   大和屋弥三郎
 
立慶町    家数 六軒  竃数 五十軒   明借屋 九軒   火入土藏 壹箇所
芝居櫓       弐軒
吉左衞門町  家数 八軒  竃数 七十一軒  明借屋 無之   芝居櫓  弐軒
元伏見坂町  家数 拾壹軒 竈数 七十軒   明借屋 五軒
本堺町    家数 拾六軒 竈数 九十弐軒  明借屋 八軒
本京橋町   家数 拾壹軒 竈数 百五軒   明借屋 十二軒
本相生町   家数 拾五軒 竈数 百三十三軒 明借屋 十五軒
浪華新地壹丁目 家数 四軒 竈数 九十七軒  明借屋 弐十七軒
同弐丁目   家数 拾弐軒 竈数 三百拾壹軒 明借屋 三十一軒 火入土藏 壹箇所
九郎右衞門町 家数 十五軒 竈数 五十五軒  明借屋 三十軒
難波村領 新祇園町 新戎町辺
       家数 五十弐軒 竈数 三百廿八軒 明借屋 百弐軒 見せ物小屋 弐軒
同村生玉社領之内 家数 八軒 竈数 八十二軒 
御城より未申ノ方 東西長サ弐百四十壹間 南北長サ三百廿弐間半余
右出火之節大西芝居ニ而見物人ヲ留メ木戸口ニ而混雑ニ及候故即死怪我人等夥敷事ニ御座候依之木戸番元〆頭立候者東 御番所様へ被為召見物人ニ怪我為致候事全木戸番之者心掛悪敷故与其手続御吟味ニ相成大勢入牢之上宿下ケニ相成丁内へ御預ケ被仰付二月火事後より閏六月迄御預ケ同十八一同御免ニ相成頭立候もの共四人右過代二三十日手錠被仰付七月十八日弥落着
    東盗賊方大塩平八郎様御懸り
 図 道頓堀の火事 道頓堀の火事
 
06-360
一 同(二) 十三日 右出火之砌大西芝居見物人を助ケ船ニ乗せ遣し或は連出助遣し候段御聞聴ニ達し奇特之取計ニ付夫々御褒美被下置候左之通
                             宗右衞門町堺屋平藏借屋
                                     紀伊国屋儀兵衞
                                 右儀兵衞方ニ滞船泉州貝塚ト半境内南ノ町木屋瀬七渡海船
                                船頭     庄七
鳥目弐拾貫文被下                        加子     弥七
                                同      利兵衞
【以下略】