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【 竹本豊竹浄瑠璃譜 】
竹本豊竹浄瑠璃譜
[近古文芸温知叢書 第四編] 解題
此書撰人詳かならす、太田蜀山大坂に于役せしとき、彼地に於てこれを獲、原題近事聞書往来とありしを、今題に更めしことは、其序言にいへるが如し、書中記する所は、貞享に起りて明和に至るまて凡八十年間、坂地竹豊二座浄瑠璃の盛衰を列叙す、而して其前後を欠くものは、微に遺憾なからずと雖とも、蓋し浄瑠璃の沿革は、主として此中間にあるを以て、其首尾は姑くこれを略するも不可なきが如し、或云、浄瑠璃の漸く盛んなりしは、元寛以後にありと雖とも、其最も熾んに行はれしは竹田近松が作出し以降のことなれは、此書の撰者、筆を竹田が座を建しときに起し、両座の廃するに至て止みしは、或は微意ありて然りしなるへし、其後継て興るものなきにはあらざれとも、これを往事に比すれは実に其髣髴を存するに過きす、而して江戸浄瑠璃の如きは、嘉永以降二座[薩摩結城]とも巳に廃絶し、世人の好尚は歌舞妓の一方に傾きたり、亦以て人事の世運とゝもに推移することを知るへし
(燕)(霞)「温知叢書」とも『宝暦十一年辛巳二月十四日芝居類焼にて』以下に錯簡あり
(霞)は『○大内裏大友真鳥 五段続』から『○御所桜堀川夜討 五段続此時竹本上総掾、播磨少掾と改名す。同十月十日初日』まで脱落
彩色版挿図は日本名著全集江戸文芸之部第七巻によった。
竹本豊竹浄瑠璃譜序
享和とあらたまりぬるとし、蘆がちる難波にありて、此書ふたまきを得たり。竹本豊竹ふたつの園にかたりものせし戯れ文の名を書つらねて、笠翁
※註伝記の種より偃師
※註舞木の態にいたるまで、見あつめ聞あつめて諸事聞書往来としるせり。今その名の雅ならざるを惜みて、あらためて竹本豊竹浄瑠璃譜と題す。世に浄瑠璃年代記
※註などいふものあれど、択びて精からず、語りて詳ならざりけらし。
諸事聞書往来[+上]
竹本芝居之部
名人の作者近松門左衛門、出生は近江国、高観音近松寺
※註御坊の尊にて出家をきらひ、京都にくらし居られしを、竹本筑後[+之]掾はじめ儀太夫と申し、摂州天王寺村の出生、井上播磨の浄瑠璃を好み所々を修行し、貞享二年乙丑二月始て道頓堀西の芝居にて、座元竹本儀太夫と浄瑠璃操りを興行ある。
貞享三[=二]年乙丑二月朔日初日
是京宇治加賀掾古浄瑠璃也。夫より同二[=三(燕)][=四(霞)]年丙寅二月四日初日にて
是近松門左衛門竹本儀太夫の新浄瑠璃の作はじめ也。此節近松氏京都に住居なし、後元禄三年庚午の正月京都より下り大坂住宅となる。はじめより
元禄拾年丁丑十月十三日初日
右浄瑠璃は京宇治加賀掾芝居にて、近松氏作りて、団扇曾我と申す外題なりしが、大入にて百日余りも勤る故、ゑんぎを以て団扇を百日曾我と改る。義太夫操り興行より近松が新浄瑠璃凡三十番にて、又是よりの新浄瑠璃数々あり。しかし此砌操り芝居はわづか五六十日目にて狂言を替しとの事也。
元禄十六年癸未の五月七日初日にて
前浄るり ○ 日本王代記
切浄るり ○ 曾根崎の心中
是近松門左衛門始て世話浄瑠璃の作意、古今の大あたり也。当四月改元あつて宝永と相改る。竹本儀太夫は此先年元禄十四年辛巳の歳受領あつて、竹本筑後掾藤原博教五十一歳勅許をかふむり、直浄瑠璃を出精なし、宝永元年甲申の秋其身座元をひき、是より竹田出雲掾竹本芝居の座元となり、人形衣裳道具迄りつぱになりし也。此時近松氏新浄瑠璃[+出]語り出づかひといふ事をはじめて思ひ付れける。右新浄瑠璃
大切 鐘入の段
太夫 竹本筑後掾
ワキ 竹本浪花
三絃 竹沢権右衛門
おやま人形 辰松八良兵衛
是出語り出づかひのはじめ也。
夫より時代浄瑠璃世話浄瑠璃さま/\新物を作せられしに、丹波与作
※註といふ浄るり、宝永四年丁亥六月廿四日初日にて大入せしを、また/\正徳二年壬辰のとし三月四日二度くり返し
前浄瑠璃
切浄瑠璃
此度若竹政太夫道頓堀芝居へはじめて出座、右丹波与作大序道中双六出語りにて相勤め、是より竹本政太夫と改名す。然るに竹本筑後之掾事正徳四年甲午八月中旬より病気にて、終に九月十日行年六拾四歳にて死去せられ、
法名は釈道喜、天王寺南門のほとりに石碑あり。
此人道頓堀にて芝居興行、貞享二年乙丑のとしより当正徳迄年数三十ヶ年が間、浄瑠璃九十四番を操りにかけて語られたり。作者は大半近松門左衛門也。
筑後掾死後はやつぱり[=引続て]芝居繁昌にて、浄瑠璃太夫。
陸奥茂太夫・竹本政太夫・同頼母・内匠理太夫・竹本浪花・同彦太夫・田川源太夫・長島重太夫。
右太夫入替に相勤ける。同筑後掾死去後、大当り浄瑠璃
〔頭書〕番附古板ニ十一月十五日ヨリト有之
初正徳五年乙未年十一月朔日より三年越十七ヶ月勤る。是昔より稀なる大入なり。
此[+より]はるか後[+年]宝暦の比、道頓堀東芝居にて豊竹越前座、祇園祭礼信仰記の浄瑠璃、三年越
※註に勤候得共年数はるかにおとる。
右国姓爺役割を爰に出す。
座元 竹田出雲掾
作者 近松門左衛門
初段 大序 竹本頼母
中 竹本浪花
切 竹本文太夫
貝尽し 竹本頼母
ツレ 豊竹万太夫
貳段目 口 竹本頼母
切 竹本浪花
三段目 口 内匠理太夫
切 竹本政太夫
道行 竹本文太夫
ワキ 竹本浪花
四段目 口 豊竹万太夫
切 竹本頼母
久仙山景事 ワキ 内匠理太夫
五段目 竹本政太夫
おやま人形辰松八良兵衛、立役人形津山助十郎・同金七、是等名人なれども、此砌多くさし込み弓手
※註とて、壱人してつかふが定りなり。此国姓爺の続き
享保二年丁酉二月十五日初日
此時舞台大幕の上に小幕
※註をはじめて引。三代前吉田文三郎
※註若年にてはじめて出勤。此新浄瑠璃国姓爺合戦とはちがひはなはだ不繁昌にて、切に曾根崎心中を附る。だん/\浄瑠璃相勤来り
享保九年甲辰正月十五日初日にて
右浄瑠璃一枚かんばん、京大文字山
※註のてい、四段目の道具奥をひらけば一面の山に大文字の道具建見事也。しかし大坂中大の字の焼るはゑんぎ悪しと申せしが、はたして当三月廿三[=一二]日南堀江橋通りより出火にて大坂残らず焼亡。是を大坂享保の大火事といふ。此年四月閏あり。同十一月廿二日近松門左衛門病死す。おしきかな/\。是より竹田出雲掾、近松門左衛門に伝授請られし余慶を以て浄瑠璃二三番作せられし内
享保十年乙巳九月十八日初日
是四段目兼道の身替り、古今の趣向とて大当り也/\。つゞいて享保十九年甲寅二月朔日初日
○ 応神天皇八白幡 五段続
作者 松田和吉事文耕堂
三好松洛
此時竹本政太夫、儀太夫と改名す。是より新浄瑠璃
業平河内通ひ・
蘆屋道満大内鑑抔は人形遣ひはなはだ上手となり、与勘平・弥勘平の人形は、足・左りを外人につかはし、人形の腹働くやうに拵そむる也。是を操り三人懸りの始
※註と云ふ。
享保廿一年丙辰二月朔日初日
右四段目本間入道の人形、三代前吉田文三郎つかひ、はじめて眉の働く事を細工す。此年
※註儀太夫事受領をなし竹本上総掾と勅許。
右祝儀として
竹本上総掾
三絃 鶴沢友次郎
同元文二年丁巳正月廿八日初日
此時竹本上総掾、播磨少掾と改名す。同十月十日初日
此浄瑠璃より合羽伊太夫事竹本美濃太夫と名乗り、道頓堀芝居へはじめて出勤。
同元文三年戊午正月廿五日初日
此節名人と呼れし竹本出水太夫死す。
同年八月十九日初日
作者 松田和吉
竹田出雲
此時竹本美濃太夫事此太夫と改名す。
同元文四年己未四月十一日初日
〔頭書〕此時吉田文三郎、巴御前・船頭松右衛門・梅が枝三役也。梅が枝の人形に長さし金
※註と云ふ事始る。後菅原四段目千代にも是を遣ふ
此時芋屋平右衛門事竹本島太夫と改名して始て出座。右浄瑠璃役割【年表1-132 寛保元秋以前】爰に識す。
ひらがな盛衰記 五段続
大序 竹本播磨少掾
初段 中 竹本文太夫
切 竹本此太夫
口 竹本内匠太夫
二段目 中 竹本百合太夫
切 竹本播磨少掾
道行 竹本内匠太夫
ツレ 竹本文太夫
三段目 口 竹本島太夫
中 竹本比太夫
切 竹本播磨少掾
口 竹本百合太夫
四段目 中 竹本内匠太夫
切 竹本播磨少掾
五段目 竹本文太夫
右の通の役割にて是よりだん/\出雲掾の作にて新浄瑠璃つゞき、
延享元年甲子三月六日初日
此浄瑠璃三段目を竹本播磨、床の内にて勤ながら中場にて死す。時に七月廿五日、行年五十四歳、おしいかな/\。
播磨少掾実名紅(モミ)屋長四郎、今も其筋、心斎橋清水町、補元丹煉薬店の南隣り、紅屋といふ家銘[名]乗れり。
寛保三年癸亥三度目
右浄瑠璃をくり返し相勤る。
爰にざこば魚棚に十兵衛といふ商人あり。此もの素人にて浄瑠璃を好き声柄杯[=抔]も播磨少掾に似たるとの評判故、播磨是を養子となし竹本政太夫と改名させ、右大友真鳥二段目を始て操りにかけ勤めさせしに、わかい播磨少掾なりと大坂中こぞつて評判す。後西口政太夫と云ふは是なり。斯て播磨少掾死去の後、ほうがく[=よりどころ]を失ふと云へども、猶一騎当千の若手の太夫是[=あまた]ある故、続て十一月十六日
※註より二度目
○ ひらがな盛衰記 五段続
播磨少掾追善
出語り太夫 竹本此太夫
竹本島太夫
竹本政太夫
竹本百合太夫
竹本紋太夫
竹本其太夫
三絃 鶴沢友次郎
鶴沢平五郎
右相勤。此時錦太夫・杣太夫出座し、是も出語り相動、はなはだ大入り也。
播磨少掾死去の後、浄瑠璃のれつを定め、初段の切錦太夫、貳の切政太夫、三の切此太夫、四の切島太夫、其外紋太夫・百合太夫・杣太夫・其太夫、いづれも浄瑠璃の高下にて役場を割、三絃は鶴沢友次郎・同平五郎、人形は、吉田文三郎・同才次・桐竹助三郎・同門三郎・山本伊平次、是らにて相勤たり
延享二年乙丑二月十三日初日
此新浄瑠璃も繁昌にて、同七月十六日より
○ 団七九郎兵衛/一寸徳兵衛/釣船三婦 夏祭浪花鑑 九冊物
是当芝居はじまりてより、世話もの九段続のはじめ也。比しも暑気の気をとり、四ツ目より八ツ目迄、始て人形衣裳帷子を着せる。是三代前吉田文三郎趣向にて、七冊目長町裏の段、本どろ
※註にて人形水をかくる事を思ひ付しは吉田文三郎也。此人あやつりにかけては人形を持出れば人の如く、右狂言にては、役団七九郎兵衛・一寸女房おたつを使ひ、おたつ姿は今に歌舞妓にても、桔梗帷子、黒繻子の前帯、浅黄のわたぼふしより外を着ればおたつのやうに見へぬもふしぎ、また団七九郎兵衛人形のわけ爰にしるす。
筑後はじまりてより、人形頭を打事名人にて、笹尾八兵衛と云ふ者あり。今も操りにてくろう人ども、能きかしらを八兵衛といふが楽屋のふちやふ也。此八兵衛一生の内国姓爺のかしら、安体神のかしら、日本振袖の始りそさのをの命の頭
※註、其外新浄瑠璃に寄てあまたかしらを作りし故、其狂言の名を以てしるす。大塔宮斎藤頭、鼎軍談にて孔明かしら、用明天皇けんびいし頭其外人形頭の異名数しれず。右夏祭団七の頭、国姓爺といふ敵役のかしらを糸鬢
※註となし、薄肉にぬらし、花色のぎん付の綿入、やげんの紋、三ツ目床の内より大鳥左賀右衛門の手をねぢ出る所新らしく甚妙也。六ッ目より茶のごばんじまを着せ、徳兵衛頭はそさのをのかしらを白ぬり厚びんにて、紺のごばんじまを着せし故、今に団七の狂言、此通の姿でなければ歌舞妓操りにても、団七、徳兵衛と見へず。旅芝居津々浦々唐土迄も、外の衣裳はやり付けになれど、此団七縞徳兵衛縞のうごかざるは三代前吉田文三郎名人といふべし。釣船の三ぶは安体神の頭を白髪となし、赤小豆色にぬり、照柿
※註のかたびら、竜の爪にて玉をつかんで居る紋所、しうと儀平次は斎藤のかしら、きひらの帷子、今に於て替らざるはじやう木(定規)を板に押たる如く也。
右団七の浄瑠璃役割左の通り
作者 竹田出雲掾
壱冊目 竹本此太夫
竹本百合太夫
竹本杣太夫
竹本其太夫
二冊目 竹本紋太夫
三冊目 竹本錦太夫
四冊目 竹本政太夫
五冊目 道行 竹本紋太夫
竹本杣太夫
跡 竹本百合太夫
六冊目 竹本島太夫
七冊目 かけ合竹本政太夫
竹本錦太夫
八冊目 竹本此太夫
九冊目 竹本島太夫
跡 竹本杣太夫
操り段々流行して歌舞妓は無が如し。芝居表は数百本ののぼり進物等数をしらず。東豊竹、西竹本と相撲の如く東西に別れ、町中近国ひいきをなし、操りのはんじやういはんかたなし。
延享三年丙寅八月廿一日初日、
此浄瑠璃古今の大入。別て吉田文三郎役、菅丞相・白太夫・千代、三役なり。菅丞相の装束、黒に梅鉢若松の縫、今に歌舞妓にも替らず。梅王・松王・桜丸三子とも惣髪にて、黄色大郡内縞八掛紅なければ、大坂を始、国々にても三ツ子と見ず。是吉田文三郎が仕初なり。今歌舞妓芝居にて松王を勤る役者、三段目時平公の諸太夫じやと云ふ姿
※註で出れども甚悪し。右菅原の役割
※註爰に出す。
○ 菅原伝授手習鑑 五段続
作者 竹田出雲
三好松楽
大序 竹本此太夫
初段 中 竹本百合太夫
切 竹本錦太夫
道行 竹本紋太夫
竹本杣太夫
二段目 口 竹本紋太夫
中 竹本島太夫
切 竹本政太夫
三段目 口 竹本百合太夫
切 竹本此太夫
口 竹本政太夫
四段目 奥 竹本錦太夫
切 竹本島太夫
五段目 カケ合 竹本紋太夫
竹本其太夫
竹本杣太夫
右浄るり五段目時平の人形桐竹助三郎、花王丸桐竹門三郎、女房八重山本伊平次相勤。道具を左右へ引明れば、天満宮の宮居正面に餝り、鳥居玉垣石燈篭も細工美を尽し、社の内には菅丞相の人形をかざり、竹本此太夫・竹本島太夫・竹本政太夫其外の太夫、神主の姿にてはい(拝)をなす故、あまたの見物ありがたく思ひ賽銭山の如く上しとなり。此砌の人物はなはだ正直なり。
吉田文三郎菅丞相の人形遣ふには、毎朝別火を食し水をあびて是を勤む。楽屋にて右人形は荒薦をしき御酒をさゝげ、神の如くに拝するかれいなり。大序勤むる太夫も初日より七日は吉田文三郎とおなじく慎む故、おのづと早朝より舞台厳重なり。此砌はあやつり役者上下五十人余も一度[=座]にありし故、物事自由なり。
我天明の頃、竹本芝居かれ/\なるを漸再建なし、姫小松子の日遊の浄瑠璃を
立春姫小松と増補し、今の塩町政太夫三段目にて勤しが、操り好きの我なれば、朝より見物に参りしに、甚だ不入とは云ながら、大序の人形ぶしやふづゝと人形立の短かいのにさし、足は折わげ、掛台
※註と云ふ物にのせ、人形の首の働きはせんにて留め、舞台に人形遣ひ壱人も不出。人形詞の時は、十二三の前髪、是をかいしやくにんと云ふ、後よりゆさぶる故、もの言ふやふに、少しの見物思ふかは知らねども、やはりからくりの方がまし也。右大序を勤る太夫、二代目の駒太夫弟子生駒太夫、はじめ信太夫といふ、此者ひじゆつを尽し大序語りけるに、場には少々見物もあれど舞台には壱人も人なし。みすの合より是を見て役場仕舞へば大いにいかり、楽屋にて大おん[=音][+に]頭取にいふやう、いかに我々がやうな太夫じや迚心を尽し節を附勤居るに、大序の人形壱人も楽屋より不出。皆々竹のつゝにさし、詞の時は後よりかいしやく人きてゆさぶり廻る、あれでも事が済か、ぐわつたりひしヨリハおとりなりと大に怒りけれども、尤なれば詞をいたす者もなし、頭取は後、豊松弥三郎
※註とて大のすいなり。生駒太夫をなだめて、なる程/\皆々尤なれば明日よりはていねいにいたすべし。しかし後よりゆさぶるを立ものゝ人形遣ひが持て居ると思ふたが能といへば、生駒太夫なぜにととふ。弥三郎はて東のたてもの若竹ゆ三ぶるじやと、若竹伊三郎
※註の事を思ひ出し大わらひにて済しが、夫より二十年計り立しにいよ/\操りじだらくとなり不景気なるも、右菅原の大序のまへと同事なれど立春の大序とは雲泥万里の相違なり。おそるべし/\。是は扨置菅原伝授大入りにて、続
延享四年丁卯八月廿三日初日
〔頭書〕此時吉田文三郎、島野勘左衛門の人形出遣ひにて、門を越す操りを思ひ付、はなはだ宜し
此時竹本文字太夫・同信濃太夫出勤する。竹本紋太夫退座にて豊竹へ出る。此新浄瑠璃不入にて、
同年十一月十六日より
作者 竹田出雲
三好松楽
〔頭書〕此時二代目文三、十八歳にて三段目の惟盛弥助を遣ふ。はなはだ宜しく、吉田冠蔵は漸猪熊大之進の役なり
此新浄瑠璃古今の大当りにて大入なり。
義経千本桜 五段続
大序 竹本此太夫
初段 中 竹本信濃太夫
切 竹本錦太夫
口 竹本百合太夫
貳段目 中 竹本文字太夫
切 竹本政太夫
三段目 口 竹本島太夫
切 竹本此太夫
道行 竹本杣太夫
ツレ竹本信濃太夫
四段目 奥 竹本百合太夫
口 竹本錦太夫
中 竹本政太夫
切 竹本島太夫
五段目 竹本杣太夫
ツレ 竹本文字太夫
此時吉田文三郎役、渡海屋銀平・鮓屋弥左衛門・佐藤忠信、三役なり。源九郎狐の人形、広袖にて、黒に源氏車の模様、だんだらの丸解、人形頭そさのをにて此時はじめて、耳の働く仕懸を思ひ付し也。源九郎故、源氏車の模様を付しにはあらず。此趣向最初より狐と見せざる事故玉の模様もつけられず、いろ/\に工夫をなし右狐場をつとむる政太夫の紋所源氏車故、源氏のゆかりにて源氏車の模様付し故、今も歌舞妓抔には長上下にてすれども、どこぞのはづみ[+に]ては此姿にならねば源九郎狐めかず。是も三代前吉田文三郎仕伺にて、何国にても此姿でなければ源九郎狐は出来ぬ/\。
年号改元あつて寛保元年戊酉[=寛延元年戊辰]八月十四日初日
作者 竹田出雲
三好松洛
〔頭書〕是古人近松門左衛門作の碁盤太平記より出せし浄瑠璃なり
初段 竹本此太夫
二冊目 竹本百合太夫
三冊目 口 竹本信濃太夫
奥 竹本錦太夫
四冊目 竹本政太夫
五冊目 竹本百合太夫
六冊目 口 竹本友太夫
切 竹本島太夫
七冊目 惣かけ合
八冊目 道行 竹本文太夫
竹本信濃太夫
九冊目 竹本此太夫
十冊目 口 竹本錦太夫
切 竹本政太夫
十一冊目 口 竹本文太夫
切 竹本政太夫
新浄瑠璃の折から古今の大入なれど、少し大もめありて
※註当十月より此太夫・島太夫・百合太夫・友太夫退座なし、東豊竹越前の芝居へ相住し故、立物の太夫多く出座せし事なれば是非に不及、替り役にて政太夫・錦太夫、東より入替りし千賀太夫・長門太夫、紋太夫事上総太夫と改名、内匠太夫事此冬大隅掾と受領し、此人数にて矢張忠臣蔵を同年十一月迄相勤、十月に閏有てやはり替り役にても繁昌せしはどだいの狂言が能故也。断りなるかな。此忠臣蔵歌舞妓にては大銀のどだいにて、三ヶの津立物の役者も由良之助が身上定
※註也。近在国々迄も忠臣蔵は幾度しても見あかず、しやう根抔といふ事はじまり、後には浄瑠璃の文句を打消し、大序より大切迄幕引ず抔といろ/\に仕れども、古いといひ/\見物も見るは忠臣蔵なり。是より後忠臣蔵の増補数々新浄瑠璃出れども、古元の仮名手本にまさりしはなし。扨々奇妙なる浄瑠璃也。同十一月廿二日初日にて
○ 蘆屋道満大内鑑、二番目くり返しにて相応に入はあれど、忠臣蔵にはいつかなかなはず、是も相休め、
寛延二年己巳四月十八日初日
作者 竹田出雲
三好松楽
大切出語り 竹本大隅掾
ワキ 竹本千賀太夫
三絃 鶴沢友次郎
〔頭書〕此時はけ太事竹本組太夫と改名、初て出る。是今道頓堀槌家先祖也。
此浄瑠璃はなはだ不入にて同年六月にて相休み、七月廿四日より初日
作者 竹田出雲
三好松楽
此浄瑠璃趣向は能けれど、夏祭りと同事、団七に徳兵衛を前髪にせしやうな狂言とはなはだ不入なり。此趣向歌舞妓にては長吉長五郎
※註とて大入をなし、今も歌舞妓の狂言となり操りには余りいたさず。此時三味線鶴沢友次郎死す。
同寛延二年十一月廿八日初日にて
序切錦太夫、二切上総太夫、此時病死す、三段目政太夫、四段目大隅掾にて、実盛の人形吉田文三郎人の如く見ゆる。吉田才次、瀬尾十郎・木曾よしかたの役勤られしに、二段目にてよしかたの人形に舞台にてゑぼしすほうを着せる趣向、是は昔沢村宗十郎が油斗の
※註伊勢新九郎の仕打を写されたれど、歌舞妓にては其人壱人、操りにては大勢懸り、黒き手をいだす故はなはだ見にくし。吉田才次名人なれど、文三郎にははるかにおとれり。
同三年午七月、
国姓爺合戦四度目、二段目の虎本皮にて張り、眼抔も働きをなし、久仙山大隅掾、ワキ千賀太夫、三味せん野沢喜八也。
同年十一月廿四日初日にて、
はなはだ不入。此時二代目の紋太夫始て出座。
寛延四年未二月朔日初日
〔頭書〕此時後の文三役与作にけい政を遣ふ、吉田冠蔵役鷲塚八平治也
右浄瑠璃五ツ目、吉田文三郎道成寺の所作。ワキ吉田甚五郎、太皷桐竹助三郎、笛吉田彦三郎、大皷吉田才次、小皷桐竹門三郎、是近年の大入也。(此時後の文三役与作にけい政を遣ふ、吉田冠蔵役鷲塚八平治也)。
右恋女房に古吉田文三郎の役、定之進・重の井二役を遣ふ。詮議場は楽屋に休足して居られけるに、舞台に人形多くならび、鷺坂左内八平治を庭へなげ落すところに、下より人形をとる者なき故、文三郎見兼、我此人形をとらんと、初日に思はず下へ落たる処、八平治の人形に袴の上をかづけ、くる/\舞ふてうづくまる思ひ入をしられしに、見物一やうにわつと云ふてほめにける。文三郎つひてんがうせられし事さへ、今に歌舞妓も八平治をする敵役此思ひ入をせぬはなし。いかさま文三郎は名人/\。右恋女房の浄瑠璃昔近松が作丹波与作の古浄瑠璃を増補なし、吉田文三郎事冠子あらかた作をせられしとの事、何かに付て名人也。
同年十月十七日
此時大隅掾大和掾と改名す。夫より浄瑠璃二三番不入にて、年号改元宝暦といふ。此三年酉年東より竹本春太夫・同陸太夫来り、同年五月五日
〔頭書〕此時吉田文三郎の役、にほてる姫・たそがれ御前・二条蔵人、三役を遣ひ大あたり/\
此浄瑠璃道行山の段、春太夫大当りにて是従名をあげる。舞台一面水船にて、道具はなはだ宜し夫より古浄瑠璃二三番あれ共宜からず。
宝暦四年甲戊[=戌]十月十三日初日
〔頭書〕此浄瑠璃二の口、近松半二始て作者となり是を書く
此時伝法屋源七事竹本染太夫、同家太夫はじめて出座。三の中染太夫、四の口家太夫、斯初床なれど新物にて役場をとるは、浄瑠璃稽古が能故、今の太夫にない事/\。右三の中、染太夫の三味線鶴沢長蔵と云しは、近比相はてし市山助五郎
※註是也。又古浄瑠璃[+新浄瑠璃]三[=拾]番余の内、
平惟茂凱陣紅葉・姫小松子日の遊・蛭ヶ小島武勇問答、操りの相撲あり。此浄瑠璃三番余大入りにて跡は不入也。此砌少々もめあつて
※註、大和掾吉田文三郎芝居を相休み。
宝暦六年丙子二月朔日初日
此時堺中浜会所理兵衛、竹本中太夫と改名出座す。
宝暦九年己卯二月朔日初日
評判能大入せしに、同五月四日芝居類焼して直さま仮り家を立、五月廿一日よりやはり
日高川四段目の切迄。
出語り 太夫 竹本政太夫
ワキ 竹本染太夫
人形 吉田文吾
右文吾とは二代目の吉田文三郎也。是迚も親に続く名人なり。此時操り繁昌なるは親吉田文三郎倅文吾其外の太夫をかたらひ、大西芝居
※註にて操り興行せんとたくみありし迚、座本より是をはびく。段々挨拶人ありて覚なき事と申せし故、吉田文三郎暫く京都の芝居を勤
※註、
倅文吾祖父の名をつぎ吉田三郎兵衛と改名す。
同年九月十六日初日
〔頭書〕住吉新家、丸屋文蔵竹本住太夫と改名。此時始て中場より出
此時竹本春太夫、尼ヶ崎より岬太夫始て出座。此浄瑠璃大入りにて兎角春太夫の評判だん/\宜しく、宝暦十年庚辰五月六日より五十日間播磨掾拾七回忌追善
ひらがな盛衰記相勤る。同年七月廿一日初日、
極彩色娘扇、帷子衣裳にて水狂言、続て大入也。是より新浄瑠璃古浄瑠璃入替/\出せ共不入にて、曾根崎新地芝居へ行、堺へ引越、奈良へも行。此間(平野屋嘉助事)綱太夫・(堺屋三右衛門事)咲太夫出勤
〔頭書〕是安達原の浄瑠璃二ノ口が初床なり
宝暦十一年辛巳十月廿一日より
冬籠浪花の梅、人形顔見世、吉田三郎兵衛吉田文三郎と改め、江戸へ行暇乞、夜の内十日勤候処是も大入り。此砌芝居/\は近比死去せられし竹田近江大掾
※註芝居銀主にて、竹田・出羽・中の芝居・竹本と四軒の仕打
※註也。此人段々ゑやふに長じ大坂中銀持貴人抔にも付合、同年十二月年忘れとて我下家敷
※註にて貴人を寄せ、一夜に四季の体を庭において
※註人々に見せ、はなはだおごりに長ぜし故、御公儀より御捕方にて近江大掾鉄屋何某田中氏なんど入牢となる。此時竹本浄瑠璃は
古戦場鐘懸松五段続、此節大坂町人へ、御上より五千両の用金
※註を家々へ申付られし故はなはだ物さはがしく、古戦場鐘懸松を五千両金借待と、誰いふとなく申せしもをかし。夫より程なく相済、皆々出牢す。また/\古浄瑠璃をいだし、漸宝暦十二年[+壬]午九月十日初日、
奥州安達原五段続、同十三年[+癸]未正月九日竹田芝居失火に付、竹本芝居にて
※註浄瑠璃操り子供狂言一切十文にて打込追出し、はなはだ大入なり。
同年四月十三日初日近江大掾趣向にて
作者 近松半二
竹本三郎兵衛
竹田出雲
三好松楽
右毎日入替一日替り、此時竹本生駒太夫始て出座。此浄瑠璃はなはだ不入りにて、同八月三日初日
前浄瑠璃
右は竹本豊竹の浄瑠璃を毎日々々三段宛組合、勝負を見る事相撲の趣向也。舞台の上やぐらを出し土俵を餝り、行司の人形出て、操りの古実をいふ。是より道具左右へ開けば、東西の操り始る。たとへて云はゞ西は国姓爺東は信仰記と、能き場を一段宛合毎日替りなり。此時竹本大和掾一世一代にて、三味線野沢喜八毎日替りを勤る。翌年申座中残らず江戸表へ引越し、留守中京都一座来り、
宝暦十四年甲申五月廿八日初日
〔頭書〕岡之屋敷中衆又兵衛
※註、京都竹本芝居にて修行し名人となり、此時初下り也
此時竹本岡太夫はじめて大坂へ来る。此浄瑠璃不入にて暫芝居休。同年十一月皆々一座江戸表より帰り、十一月十七日より
江戸花王愛敬曾我、顔見世狂言、夜五日昼拾日相勤。
同十二月廿五日三度目
竹本岡太夫九段目を始て勤る。
明和と改元ありて、二年乙酉二月九日初日、
蘭奢待新田系図。序切音太夫、二の口岡太夫、二の切染太夫、三の切政太夫、四の口綱太夫、二代吉田文三郎浮れ座頭を遣ふ。四の中岡[=音]太夫、三の口・四の切錦太夫也。同年六月十五日初日、
御祭礼棚閣車操。是大坂宮々の祭を浄瑠璃の寄物になし、或は難波祭は御所桜骨接揚、稲荷祭は千本狐場、天神祭は菅原三段目といふ趣向也。当七月十日政太夫死す。夫より芝居段々不繁昌にて、新浄瑠璃古浄瑠璃も当りめなく、竹本仲太夫出勤すれども、芝居所々へ行故、同年十二月仲太夫江戸へ行。明和三年丙戊[=戌]正月十四日初日新に太夫を抱、東より島太夫・鐘太夫出座にて、住太夫も京より帰り出勤。
本朝廿四孝五段続。序切住太夫、二の口綱太夫、二の切染太夫、三の口鐘太夫、三の中染太夫、三の切島太夫、四の口咲太夫、四の切鐘太夫にて、四段目見物場をはすに引割御殿をせり上げ古今の大道具、大入也。夫より古浄瑠璃新浄瑠璃には
小夜中山鐘由来。靱[=扨]神崎屋作五郎竹本組太夫と改名始て出座、此浄瑠璃も不入り。
同十月十六日初日
竹本三郎兵衛 杉田ばく
作者 近松半二 三好松洛
八民平七
是忠臣蔵にまさりしと大評判大入り也。
同四年丁亥五月五日初日、四天王寺稚木像、五段続、はなはだ不入り、同年六月十五日三度目、夏祭浪花鑑、是迚もはなはだ不入りにて、同八月四日初日、前、花軍寿永之春貳段目迄、後、関取千両幟相勤候処、新浄瑠璃ながらはなはだ不入。是非なく京都竹本儀太夫座と入替り、同年十月十四日京都一座、錦太夫・岡太夫・春太夫・千賀太夫にて
是歌舞妓作者並木正三の作
※註也。評判はなはだあしく京一座にげ帰る程の事也。是より皆々京都より帰る。
同年十二月十四日初日
○ 泉州小田居茶屋/摂州天下茶屋/三日太平記 九冊物
此時竹本中太夫政太夫と改名し、江戸より帰る。木々太夫・野太夫出座。住太夫江戸へ行。終に竹本儀太夫より筑後掾となり、貞享二年より明和四年八十三歳[=年]目に竹本芝居退転
※註せし事、世の盛衰とは云ながら是非もなや/\。
当十月より座本山下八百蔵といふ名前を上げ、是より歌舞妓芝居となりし事一両年なれども、追々太夫がすくなくなり、操り再建すれども中芝居となり、また歌舞妓となり、今では筑後芝居共大西芝居ともまぎらはしきは是非もなや/\。
蜀山人云、三日太平記名手目識矣 八十三年竹本戯場変為山下乎
文政己卯春日
諸事聞書往来 下
豊竹芝居之部
当流名人と呼れし豊竹越前少掾、出生は堂島豊後の家敷中衆
※註にて、河内屋勘右衛門と云ふ。貞享の頃より、井上播磨・宇治加賀・竹本筑後先師達の浄瑠璃を能悟り覚[=能覚悟し(燕)]、豊竹若太夫と改名し、国々を修行し、京都・堺・南都・紀州にては、自身芝居を興行せられ、其後元禄十五年壬午
※註より道頓堀立慶町にて始て操り浄瑠璃を興行、初め二三番は竹本井上宇治抔の古物[+□(燕)]。爰に紀の海音といふ作者、和州柿本寺の所化僧にて、俗となり大坂に住居す。是人はじめて豊竹座にて新浄瑠璃の作意をなす。
元禄十五年壬午三月十一日初日
同五月廿八日初日
前浄瑠璃
○ 源氏烏帽子折 三段目迄
切
是より新浄瑠璃数々差出すといへ共、竹本芝居作意宜敷、浄瑠璃外題も今に残りし正本ありといふは皆近松門左衛門が作意也。豊竹は新物多しといへども外題になじみなく、本抔を見あたらず。漸大入せしは井筒屋源六恋の寒晒
※註の世話浄瑠璃、元禄十六年癸未正月七日初日。是より奈良・紀州・堺、其外近国を多く廻り、享保三年迄凡十七八年が間漸く当り浄瑠璃は、新百人一首・増補佐々木大鏡・泉州枕物語・身替問答・増補日向景清・浄瑠璃古今序・男色加茂侍・富仁親玉[=王]嵯峨錦・小夜中山夜泣石・油屋おそめ袂白絞、わけてめづらしきは
此浄瑠璃は竹本芝居国姓爺合戦を世話物に取組、狂言筋は同じ事にて近松氏が作をなじりたる思ひ付也。是も不入りにて、京四条へ一座引越す。是よりおもはしき新浄瑠璃もなく数々出し内
享保三年戊戌正月二日初日、此時に座元若太夫事受領あつて、豊竹上総少掾藤原重勝となる。此節喜代太夫・万太夫・文太夫出勤す。同年八月朔日初日、傾城吉原雀・義経新高館・神功皇后三韓襲・伏見常盤昔物語・大友王子玉座靴・心中二ッ腹帯・建仁寺供養、是等の新浄瑠璃相応に大入。外不入の新浄瑠璃あまたあれど爰に略す。
享保九年甲辰二月朔日初日
此年四月閏あり。源太夫・鶴沢左内出勤す。当三月廿一日南堀江橋通より出火、大坂中残らず焼亡す。是を享保大坂の大火事と云。豊竹芝居も類焼に付、堺・南[+都]の芝居へ行き、亦曾根崎新地へ行、此秋伊勢古市の芝居へ引越、九月下旬に大坂へ帰り候内、今の東芝居屋敷地を求め芝居新に建、新造芝居にて、享保九年甲辰十月十六日初日
此砌より芝居大入いたし、作者、紀海音・西沢一鳳[=風]・安田蛙文・並木宗輔、若手の面々出て作意をなす故、今も残れる浄瑠璃の外題あり。昔米万石通・南北軍問答・身替弓張月・大仏殿万代礎、此新浄瑠璃相応に大入。
享保十一年丙午四月八日初日
右浄瑠璃は竹本にて近松門左衛門作、最明寺殿百人上臈増補にて、五段目雪の段は其侭なり。右役割爰に出す。
大序 豊竹上総少掾
初段 中 豊竹新太夫
切 豊竹源太夫
二段目 口 豊竹喜代太夫
切 豊竹出水太夫
道行 豊竹上野少掾
ワキ 豊竹源太夫
三段目 奥 豊竹喜代太夫
切 豊竹上野少掾
口 豊竹品[=鐘]太夫
しっと段 豊竹出水太夫
四段目 中ツレ 豊竹新太夫
切 豊竹出水太夫
雪の段 出語り出遣ひ
太夫 豊竹上野少掾
五段目 ワキ 豊竹出水太夫
三味線 野沢喜八
人形出づかひ藤井小八郎・同小三郎・豊松藤五郎・中村彦三郎也。此浄瑠璃古今の大入りにて
同十二年丁未二月十五日初日
五段目出語り
太夫 豊竹上野少掾
ワキ 豊竹出水太夫
ツレ 豊竹品太夫
三味線 野沢喜八
出遣ひ人形藤井小八郎・同小三郎・近本九八郎・中村彦三郎也。
同年八月十五日初日
大切あしかりの段 出語り出遣ひ
太夫 豊竹上野少掾
ワキ 豊竹出水太夫
三味線 野沢喜八
〔頭書〕此時入鹿大臣の人形口を明く細工を仕出す。八王丸の人形つかみ手迚五本の指動くを細工す。岩治の人形眼をふさぐ事を細工す。是等豊竹の工夫也。
出遣ひ人形藤井小三郎。此新浄瑠璃大入りにて。
同十三年戊申二月朔日初日
○ 南都十三鐘
是不入にて奈良・兵庫へ行。
享保十四年己酉正月二日初日、
切 出語り
太夫 豊竹上野少掾
ワキ 豊竹出水太夫
三絃 竹沢藤四郎
享保十五年庚戌正月廿日初日、
同年八月朔日初日、
此時近元九八、和田七の人形に眼の動く事を始る。夫より、
同年十月十六日初日
右新浄瑠璃に天満橋床三右衛門と云者、始て芝居の表へ幟進上す
※註。当九月廿日太夫元上野少掾事、豊竹越前少掾藤原重泰と改名す。祝儀出語り蓬莱山を相勤申す。是より
右世話物二三番大入りにて、
享保十九年甲寅正月二日初日、二度目
此時迄床は正面にありしを横へ
※註直す。今に其如くなり。
同年八月十三日初日
此新浄瑠璃大入りにて、享保二十年乙卯二月七日初日と書出す処右外題御上より御差留
※註あり。
直様かんばんを引。同二月十二日初日二度目
切 出語り
太夫 越前少掾
ワキ 河内太夫
ツレ 湊太夫
三味線 竹沢藤四郎
是より八月十五日初日
此時播磨屋弥三郎豊竹駒太夫と改名、はじめて出座。
同廿一年丙辰三月四日初日
〔頭書〕此時はんがくの人形藤井小八郎遣ふ。常のをやま人形よりは二さうばい大く別に作る
此浄瑠璃大入にて、此年々号改元あつて元文元年となる。
同二年巳七月廿一日初日
〔頭書〕右釜入五右衛門の人形段々色赤くなるやう数四番に拵る。人形役近本九八郎是を遣ふ
此時錦武事和佐太夫始て出座す。後錦太夫となる。此新浄瑠璃大入にて、
元文三年戊午四月八日初日
右浄瑠璃五月六日迄相勤候処、芝居大破に付是を建直し、普請成就まで曾根崎芝居へ一座こし、和田合戦に恋の緋花王を勤、芝居普請成就に付、同七月十五日より新造芝居にて、亦丹生山田を相勤る。切、新宅祝儀浄瑠璃古今序、太夫越前少掾、ワキ湊太夫・駒太夫、三絃竹沢藤四郎。
同十月八日初日
此時若竹東工郎
※註はじめて出座。此者出生は田島町はし子枕といふ、入歯医薬を商ふ松井藤右衛門といふ者の倅にて、幼時より操り人形を好み、三代前吉田文三郎をしんかうにて風俗を見ならひ、終に後、人形大達者となる。是より新浄瑠璃には
河内太夫事駿河太夫と改名。
同年九月十日初日
此時内匠太夫出勤。当冬より太夫元越前少掾・駒太夫暫く江戸豊竹肥前芝居へ行。同九[二]月寛保と改元。
同二年壬戌三月四日初日
切に宮島八景出語り
太夫 豊竹内匠太夫
ツレ 豊竹文字太夫
三絃 野沢喜八郎
同年八月十一日初日
此時越前少掾・駒太夫江戸より帰る。此浄瑠璃不入にて此間南都へ引越す。同三年癸亥八月朔日初日
是はなはだ大入にて、年号改元あつて延享元年甲子四月二日迄相勤る。右久米仙人五段目
※註は、市川海老蔵鳴神上人にて、尾上菊五郎雲のたへま相勤、はなはだ大入なせし故、右狂言操りに直し、久米の王子花増と増補なし、太夫元越前少掾・内匠太夫・駒太夫・和佐太夫、懸合にて相勤候故古今の大あたり也。続て四月十九日初日、
同九月十日初日、
此時春太夫出座。是より新浄瑠璃四五番あれどもはなはだ不入。
延享二年乙丑十一月三日初日 三度目
○ 北条時頼記 五段続
早朝式三番出遣ひ、豊松藤五郎・同弥三郎・若竹東工郎也。此時座本豊竹越前少掾行年六十五歳にて一世一代相勤る。此時内匠太夫事改名上野掾、雪の段のワキを語り、三味線野沢喜八郎人形出遣ひ藤井小八郎・同小三郎・若竹東工郎・中村勘四郎出遣ひ也。同三年十一月三日京都にて越前少掾一世一代相勤候浄瑠璃は、 ○久米仙人吉野桜也。
同年十二月九日、新浄瑠璃、
同年七月十五日初日
〔頭書〕此時作者紀の海音死す。石碑法寿寺とて上町紅葉のある法花寺にあり
此浄瑠璃四の切上総太夫相勤、操り人形にておやまおどり・雀踊あり。是若竹東工郎工夫にて、立役人形に屏風手といふ事をはじめる。右屏風手とは五本のゆびをならべており、皮にてつなぎ、てふつがひの如く、是を屏風手といふ。竹本豊竹ともにおやま人形には多くつかへども、立役には此度始て也。甚だ不かつかふなものにて、是を指先似たるとて数の子手といふ。其外人形どふぐし
※註、西は引ぜん
※註、東は小猿
※註迚違ひ、かた板
※註・突上げ
※註・丸どふ
※註・片腹
※註、みな/\東西の流あり。つかみ手
※註迚ゆび五本働くの[+も]あり。是も東はうで首動く、西はうでくび動かず。其外人形遣ひの黒がふ
※註、西は前のゑりやはり打合せ也。東は半合羽
※註の如く左右のかたにて懸ける。頭巾
※註も西にては耳ををれど、東は耳たてたる侭也。亦手袋迚ゆびにはめるめりやすの如きもの、舞台下駄
※註、みな/\東西にて替る也。人形かしらは竹本座笹尾八兵衛よりいろ/\名あるを細工し昔より伝はれども、豊竹は元禄年中よりはじまりし故、人形頭にも名細工あれども何の浄るりの何頭といふ事を聞ず。若竹東工郎出精より、西の頭を写し少々違ひ打[=写]されし故、此砌よりは人形の頭の名、当り浄瑠璃にしたがひしやう/\は申せし也。是は扨置
延享五年戊辰正月二日初日、
○ 昔歌舞妓の男達/今操りの女だて/容競出入の湊 九冊物 作者 並木丈助
此時桝太夫出座。是大入りにて歌舞妓黒船の狂言
※註を写せし新浄瑠璃也。同年七月十五日初日
此年太夫元、泉州堺にて一世一代相勤る。
○ 北条時頼記雪の段。
当年々号改元有て、寛延元年戊辰十一月十四日初日
此時竹本芝居より此太夫・島太夫・百合太夫、友太夫出勤。駒太夫江戸へ行、上総太夫・道太夫・元太夫・春太夫、竹本へ出勤。右新浄瑠璃役割
※註。
摂州渡辺橋供養 五段続
大序 豊竹島太夫
初段 中 豊竹鐘太夫
切 豊竹伊勢太夫
口 豊竹友太夫
二段目 中 豊竹桝太夫
切 豊竹百合太夫
口 豊竹阿曾太夫
三段目 切 豊竹此太夫
道行 豊竹鐘太夫
ツレ 豊竹桝太夫
四段目 奥 豊竹百合太夫
口 豊竹伊勢太夫
切 豊竹島太夫
五段目 豊竹狩太夫
同二年三月迄大入。爰に北の新地白人
※註かしくといふぜんせいの女郎ありしが、去家敷方の客にて[=根]引[+せられ]、八重と名を替へ、天満老松町辺に妾宅となる。此八重酒を呑ば前後を忘れ、しやうたいなきが病也。兄に絞りを結て渡世とする吉兵衛といふ者あり。此者正直ものにて折々妹にだじやくなる酒の事を異見せしに、或時言ひ上り兄妹喧嘩にて刃物ざんまいをなし、兄吉兵衛に手を負す。直さま入牢あつて言訳立がたく、寛延二年己巳三月[+十八日]大坂中引廻し、千日寺にて獄門となる。此時南新屋敷福島屋清兵衛
※註といふ方の女郎園といふ者、大宝寺町大工の丁稚上り六といふ者と西横堀にて心中をなす。此間中山無縁経
※註にて神崎に於て御駕篭の十右衛門といふ者、多くの馬士と口論なし手を負せる。是三月十八日十九日の事也。同廿日に外題看板を出す。
前浄瑠璃
○ 摂州渡辺橋供養 大序より二段目迄
切浄瑠璃
右新浄瑠璃かしくの趣向は、三月十八日十九日の事なりしを、廿日にかんば[+ん]いだし、廿六日初日、古今稀なる早き事と大坂中こぞつての評判也。是作者並木惣助
※註および惣太夫操り中、夜を日についでの出精、前代未聞の事共也と、大坂は言ふに及ばず、近国よりも大入をなせしとぞ。右かしくの役割
※註斯の通り。
○ 八重霞浪花浜荻 七冊物
かし坐敷の段
壱冊目 口 豊竹桝太夫
切 豊竹百合太夫
若林屋の段
貳冊目 豊竹此太夫
詮議の段
三冊目 口 豊竹阿曾太夫
切 豊竹伊勢太夫
四冊目 道行 豊竹鐘太夫
豊竹狩太夫
千日寺の段
五冊目 豊竹友太夫
新やしきの段
六冊目 豊竹島太夫
神崎の段
七冊目 カケ合 豊竹此太夫
豊竹百合太夫
豊竹友太夫
豊竹阿曾太夫
豊竹狩太夫
是近年の大入りにて七月十五日より、切に操り大踊り、雀黒羽おやま踊り・伊勢おんど
※註新作にて、道頓堀島の内、茶屋懸あんどう
※註そろへはなはだ宜しく。
同十一月[+十]四日初日
此時鞍屋佐吉八重太夫と改名、はじめて出座。駒太夫江戸より帰る。伊勢太夫江戸へ行。当九月此太夫事、勅許にて豊竹筑前少掾藤原為政と受領有。大切祝儀出語り座中不残。此時並木宗助死す
※註。
寛延三年庚午六月朔日初日、
同年八月七日、二度目、
此時豊竹嶋太夫若太夫と改名。
同四年未正月十五日初日、
二度目。切に操り大踊り。
同年十月十日初日、
此時百合太夫京へ行。是迄浄瑠璃二三番不入にて。年号改元あり、宝暦元年辛未十二月十二日初日
此時豊竹八重太夫時太夫と改名。後の此太夫是也。此新浄瑠璃古人並木宗輔三段目迄作置しを四段目をつゞり出す。
一谷嫩軍記 五段続
初段 中 豊竹信濃太夫
切 豊竹鐘太夫
口 豊竹時太夫
貳段目 奥 豊竹嶋[=若]太夫
中 豊竹友太夫
切 豊竹駒太夫
口 豊竹阿曾太夫
三段目 奥 豊竹友太夫
中 豊竹鐘太夫
切 豊竹筑前少掾
道行 豊竹鐘太夫
豊竹信濃太夫
四段目 口 豊竹駒太夫
中 豊竹阿曾太夫
切 豊竹若太夫
五段目 豊竹時太夫
此浄瑠璃古今の大入にて、翌年[+壬]申の盆より大切に操り踊りを附る。
宝暦二年十二月七日初日、
此時若竹東工郎蘭平の人形を遣ひ、頭思ひ付打せ候得共はなはだ悪しく、右浄瑠璃大入りにて、
同三年癸酉七月廿八日初日、
同十月朔日より、二度目、
此時豊竹十七太夫始て出座。
同四年戌二月廿一日初日、
序切鐘太夫、二の切駒太夫、三の切筑前少掾、四の切若太夫。これ大入にて、
同七月廿九日初日
前浄瑠璃
切浄瑠璃
右腰越状の新浄瑠璃は、享保の比御上より差留られし南蛮鉄後藤目貫を、頼朝時代に増補し、是を出す。
同十二月十五日初日、
この時伊勢太夫江戸より帰り、新太夫と改名。阿曾太夫江戸へ行。
宝暦五年乙亥四月廿一日初日、
同七月七日初日、
此浄瑠璃不入にて、一座堺へ引越す。
同年十一月朔日初日、二度目、
宝暦六年丙子三月十八日初日
序切鐘太夫、二の切駒太夫、三の切筑前少掾、四の切若太夫、大切は
藤井小八郎出づかい、座中不残出語り。
同年閏十一月朔日初日、
右新浄瑠璃大かたの入りにて、
同年八月朔日初日、
此時豊竹筑前少掾一世一代出語りを勤る。
山伏摂待の段
忠臣幡そろへ
太夫 豊竹筑前少掾
ワキ 豊竹鐘太夫
ツレ 豊竹時太夫
三味線 鶴沢寛治
人形出遣ひ藤井小八郎・同小三郎・豊松弥三郎・中村勘四郎也。此時時太夫事、豊竹此太夫と改名。此砌人形遣ひ立者は若竹東工郎・豊松東五郎・同弥三郎・藤井小八郎・同小三郎・若竹伊三郎・同新十郎・中村勘四郎・是等出精なし、みな/\名人の部也。
同年十二月五日初日にて、中村阿慶といふ人新浄瑠璃の作意。
挿図
祇園祭礼信仰記 五段続
大序 豊竹若太夫
初段 中 豊竹伊豆太夫
口 豊竹常太夫
切 豊竹此太夫
口 豊竹新太夫
貳段目 中 豊竹十七太夫
切 豊竹鐘太夫
道行 豊竹新太夫
豊竹常太夫
口 豊竹伊豆太夫
三段目 奥 豊竹駒太夫
中 豊竹鐘太夫
切 豊竹若太夫
口 豊竹此太夫
四段目 中 豊竹十七太夫
切 豊竹駒太夫
五段目 豊竹麓太夫
右浄瑠璃丁丑十二月五日より、寅卯三年越に勤る。此時若竹東工郎、織田信長・此下藤吉の役を遣ふ。右藤吉の人形頭、京高台寺太閤様の木像を細工人に写させ、此頭にてつかふ。若竹伊三郎、松永大膳の役、鬼のやうなる頭を打せつかへども、竹本人形の頭とは違ひさしでたる事もなし。此浄瑠璃の時鍋屋宗兵衛豊竹麓太夫と改名にて、漸五段目を相勤候得共段々出精なし、今は麓太夫にまさりしはなしといふも、能い太夫がなくなりわるい太夫がふへる故、麓太夫の目に立は、修行のかうにて尤也。
宝暦九年己卯三月三日初日
四ツ目駒太夫場、金時が遣ふ熊、びろうど張にて見事なれども、はなはだだ不入り。此節久米太夫・君太夫はじめて出座。豊竹十七太夫・人形ふじ井小八郎江戸肥前芝居へ行。
同年五月十四日初日、
世話浄瑠璃にて、帷子衣裳、表かんばん絹張のついたてにて花やかなれども、中入にて、当秋筑前少掾堺にて一世一代、一座引越。
同十二月七日初日、
此時豊竹十七太夫江戸より帰る。
宝暦十年庚辰三月十一日初日也。同年八月十五日、
同年十二月十一日、
此新浄瑠璃横曾根平太郎の熊野物語を取組し新浄瑠璃也。三段目柳の大木を車に乗せ、緑丸の小人形花道
※註をひくからくりにてはなはだ宜敷、是若太夫場也。殊の外大入せしに、宝暦十一年辛巳二月十四日芝居類焼
※註にて曾根崎新地芝居にて、
一[+之]谷三段目まで、切
八重霞にて豊竹筑後掾暫く助に出る。殊の外大入也。此間道頓堀豊竹芝居の表普請、進物の書付数しれず、大坂中を板行にて売あるく程の事也。同所にて
四月十九日より、
同年五月十八日初日、
此浄瑠璃はお初徳兵衛をどだいにて、此頃京都桂川にて、帯屋長右衛門三拾八歳、信濃屋おはん十四歳、そごはぬ心中ありしを右浄瑠璃に取組新浄瑠璃となす。
同年九月、新芝居普請成就し、道頓堀へ帰り、
九月十日より初日、
朝式三番叟、千歳・豊松元五郎、翁・豊松藤五郎、三番叟・若竹東工郎、太夫出語り、同次高砂の能人形出遣ひ、是趣向にて狂言の大序となる。
宝暦十二年壬午二月廿四日初日、
同年閏四月十八日初日、
此時和泉屋平兵衛事八重太夫と改名し始て出座。又枝芝居
※註迚、此太夫・加賀太夫・佐渡太夫・豊松豊五郎・同弥三郎・藤井小三郎、京石垣芝居
※註にて、洛陽ひさご念仏といふ新浄瑠璃を相勤る。鐘太夫跡よりのぼる。
宝暦十三年癸未正月四日初日、
当正月九日出羽の芝居より火出、芝居残らず類焼。普請の間一座を二ツにわかち、京・堺へ行、同年四月芝居普請成就し、式三番浄瑠璃をまぜ出遣ひ、
三十石夜船の始り、丸山の段・御殿の段、右歌舞妓狂言を浄瑠璃となし、切古浄るり身取にて語る
※註。
同年十二月八日初日、
此時駒太夫江戸へ行。
同十四年甲申四月十日初日、
当九月十三日、豊竹越前少掾死す、行年八十四歳。おしいかな/\。元禄の頃より芝居興行なし、爰に於て段々芝居不繁昌となる事、偏に柱を失ひしゆへ也。豊竹越前掾、八十四歳改[=法(燕、霞)]名一音院本覚隆信日寿居士、中寺町本経寺といふ法花寺に石碑あり。年号改元あつて、
明和元年申の十月廿一日初日越前掾追善として、
是は大仏殿万代礎といふ浄瑠璃の増補也。序切麓太夫、二の切十七太夫、三の口此太夫、三の切鐘太夫、四の切此太夫也。大切豊竹筑前少掾也。曾我かたみ送り出語り。若太夫島太夫となり西芝居へ出座。
同年閏十二月十七日初日、
此時駒太夫江戸より帰る。若竹東工郎・此太夫江戸へ行。
同二年乙酉三月十六日初日、
当八月晦日限りにて芝居相続なりがたく
※註、豊竹越前少掾若太夫の昔より相続せしも終にはたいてん[=退転]の
※註
[安政五戊午歳四月下浣流覧一校 活東子(霞)]
夏祭団七頭、始篠尾八兵衛、国姓爺合戦ノ和藤内ニ打シヨリ後調法シテ三代前ノ文三郎団七ニツカハレシヨリ是ヲ名ト[=ニ]ヨビ、大団七・小団七二通リアリ。近江源氏和田兵衛、妹背山鱶七ナゾニツカフ頭、是ナリ。 |
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同釣船三婦頭、細工人篠尾八兵衛。始国姓爺安体人[=神]ノ頭ナリ。ヒラガナ[=ひらがな盛衰記]ノ船頭権四郎抔ニモツカヒ、白クヌレバ布袋市右衛門※註ニモ遣ハルヽナリ。桐竹勘十郎遣フ。 |
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同三河屋儀兵衛次頭、細工人篠尾八兵衛。是大塔宮斎藤太郎左衛門ヨリ薄雪伊賀守・菅原ハジノ兵衛・忠臣蔵九太夫抔ニ遣フハ是ナリ。三河屋儀平治、桐竹門三郎遣フ。 |
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同一寸徳兵衛、細工人篠尾八兵衛。是日本振袖ノ始リ、ソサノヲノ尊ノ頭ナリ。雁金文七・千本桜ノ忠信・武部源蔵・二ツ胴※註梶原抔ニモツカフ。古吉田才次遣フ。 |
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大内裏大友真鳥五郎亦ノ頭、細工人篠尾八兵衛。是行平・此兵衛・御所桜藤弥太・夏祭伝八ナゾニツカヒハナハダ宜シ。恋女房八平次モ是ナリ。 |
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用明天皇ケンビイシ勝船頭、細工人篠尾八兵衛。是薄雪妻平・菅原梅王・千本銀平・布引実盛・近江源氏佐々木・妹背山芝六、スベテ世話時代ツカヒカタ沢山ナル頭ナリ。 |
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鼎軍談諸葛孔明ノ頭ナリ。細工人亀屋平助。此頭、薄雪葛木民部・近江源氏御酒ノ守・蘭奢台義貞ナゾニ遣フ。此外親父頭ニハ、勘作・寅王・白太夫・政宗・実盛・定之進・鬼一・敵役ニハ稀代樋口・李海坊・佐兵衛・月光・与勘平・大場カクハン・五郎頭、主[=立]役ニテハ若男トテイロ/\有。由良之助、六部、其外サマ/\有トモ、紙不足故、斯ニ略ス、 |
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祇園祭礼信仰記、此下東吉ノ頭、若竹東二郎思附ニテ是ヲ打ス、細工人亀屋利助、是、都高台寺、太閤様ノ木像ヲ写セシトナリ、目ハ玉眼ヲ入ル |
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同松永大膳ノ頭、細工人亀屋利助、是、二代前若竹伊三郎コノミニテ打セツカフ、今ハ松永ヲ白クヌリテ遣へドモ、四段目ハ宜シケレドモ、序ノ切ハ是ニテナケレバ、敵役ノヤウニナシ、伊三郎モヘタデハナカリシ、 |
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倭仮名在原系図、奴蘭平ノ頭、細工人亀屋利助、是、若竹東二郎ノ思附ニテ打セ、竹本座、団七頭ヲ少シ違テ打シケレドモ、ハナハダ悪シ、マダマダ豊竹座ニ名アル頭アレド、取〆ナキ故、爰ニ出サズ、 |
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浄瑠璃研究文献集成版 略註 | |
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笠翁・偃師 | (三三四)李笠翁は明末清初の文学者で、小説戯曲の述作に努め、戯曲「笠翁十種曲」が著名。偃師は周の人、人形を造つて穆王を驚かした。その故事より傀儡師を意味す。 |
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浄瑠璃年代記 | (三三四)宝暦十三年江戸で刊行された「古今浄瑠璃年代記」の事か。この書は「外題年鑑」の偽版であるが、江戸在住の蜀山人の眼に触れてゐたものと思はれる。 |
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甲子仲春幾望 | (三三四)文化元年二月十四日。 |
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杏花園主人 | (三三四)太田南畝の号。彼は本名は覃、十六七に及ぶ別号を持つてゐる。牛門といふのは、江戸牛込徒町に住んでゐたからである。人は彼を牛門先生とも称した。 |
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高観音近松寺 | (三三五)近松の出生地として誤りであることは定説となつてゐる。精しくは黒木勘藏「近松門左衛門」参照。 |
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丹波与作 | (三三七)この上演を「外題年鑑」も宝永四年とするも、内容から見て「重井筒」(宝永四年十一月作と推定)の後のものと思はれる。宝永五年頃。(黒木「浄瑠璃史」二五五頁) |
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番付古板云々 | (三三九)との書入れは蜀山人の筆である。これは文政庚寅(天保元年)に虎の絵の入つてゐる「国性爺合戦」の番付を複製して頒布した者があつたが、その番付に十五日よりとあるためである。但しこの番付の真偽は明かでない。 |
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三年越 | (三三九)宝暦七年十二月より九年春迄、正味十四五ケ月であらう。 |
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弓手 | (三四〇)人形の腕の曲げ伸しを鯨の歯で作つたばね仕掛けにして、紐で操作するやうにした手。一人遣ひ或ひは二人懸りの時に使用された。「戯場楽屋図会拾遺」参照。 |
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小幕 | (三四〇)水引幕。六六八頁参照。 |
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三代前吉田文三郎 | (三四〇)初代文三郎のこと。二代目文三郎は寛政二年に歿し、此書の成つた寛政の頃は三代目を名乗る文三郎はまだ現はれてゐないが、先々代といふ意味で遣つたもののやうである。 |
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大文字山 | (三四一)毎年七月十六日の夜魂祭りの送り火とて、東山大文字山の半腹で大といふ文字に篝火を焚いた。 |
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操り三人懸の始 | (三四二)三人掛りの工夫をしたのは近本九八郎。三人遣ひ発生の経緯については石割松太郎「人形三人遣ひの源流」(「近世演劇雑考」)参照。 |
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此年 | (三四二)享保二十年十一月二代目義太夫受領して竹本上総少掾。「天神記」はこの時の祝儀である。「外題年鑑」参照。 |
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長さし金 | (三四四)人形の腕を差し出す支へ棒。棒の左右についてゐる紐で指先を操る。三人遣ひの操法を十分に効果あらしめるために差金を長くしたものと思はれる。 |
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続て十一月十六日 | (三四六)延享元年。 |
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本どろ | (三四八)本物の泥。この時本泥。本水を使用した。 |
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そさのをの尊の頭 | (三四九)素盞嗚尊。後雁金文七に遣つてから文七の名に変つた。 |
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糸鬢 | (三四九)江戸中期の男の髪の結び方で、頂を広く剃下げ、両方の鬢を糸のやうに細く残して結つた髪。 |
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照柿 | (三四九)黄赤色に熟した柿色。 |
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布袋市右衛門 | (三五〇)雁金五人男の中の一人。 |
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二ツ胴梶原 | (三五一)「三浦大助紅梅靭」の梶原平三。この三の切が石切梶原の原作である。 |
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時平公の諸太夫じやといふ姿 | (三五三)歌舞伎では佐太村の場で、原作にはない「時平公の諸太夫松王播磨守といふ侍だぞ」といふセリフがあり、松王が裃姿で出ることがある。三つ子だから揃ひの扮装にすべきであつて、これは改悪だといふのである。諸太夫は公卿に仕へる官人のこと。今日ではこの演出は殆ど見られないが、昭和十六年三月歌舞伎座で中村吉右衛門が演じたことがある。 |
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菅原の役割 | (三五三)「邦楽年表」所載のものと相違す。 |
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掛台 | (三五五)今日の文楽で、床几や小道具等を置く時に用ひる蓮台の事であらうか。 |
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頭取は豊松彌三郎 | (三五五)人形遣ひの頭取は豊松彌三郎といふ苦労人。彼は安永七年頃は豊竹座の人形遣ひとして相当の位置にあつた。 |
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若竹伊三郎 | (三五六)延享−天明に活躍した人形遣ひの名手。若竹東工郎の門弟で、師に次ぐものとして豊竹座に主きをなしてゐた。 |
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千本桜の役割 | (三五七)・忠臣藏の役割(三五八)「邦楽年表」所載のものと相違す。 |
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大もめありて云々 | (三五九)九段目の山科の段の演出の事から吉田文三郎と櫓下太夫此太夫との間に争ひが起り、文三郎の人気を重んじた座本竹田出雲は結局此太夫を休ませ豊竹上野少掾を代演させた。この結果此太夫は、豊竹座に入つて座頭となり、島太夫等も之に従つた。反対に豊竹座の千賀太夫等は師上野少掾(竹本座に移つて大隅掾)に従つて竹本座へ移つた。こゝに東西両座の太夫の大入替が行はれたが、この事は両座の芸風を混乱させることゝなつた。(若月保治「人形浄瑠璃三百年史」) |
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身上定 | (三五九)由良之助の役の出来不出來によつて給金が決まるといふのであらう。 |
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長吉長五郎 | (三六一)放駒長吉・濡髪長五郎。一寸徳兵衛を前者に、団七九郎兵衛を後者に当てたのである。 |
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澤村宗十郎が油斗の云々 | (三六一),初代。江戸の俳優。二代目団十郎と覇を争ひ、和實を最も得意とした。寛保三年大阪へ上り大西芝居で「大門口鎧襲」を所演。「並木正「齋藤山城油はかりの狂言に二階座敷一面のせり上げ道具といふ事初む」とある。 |
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市山助五郎 | (三六四)二代目。明和・安永時代の立役。初め竹本座の三絃方をつとめ鶴澤長藏と称してゐた。後俳優に転じ、安永初年には中芝居の座本となつたが、同五年頃からその名が見られなくなつた。 |
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此砌少々もめあつて云々 | (三六四)次の宝暦六年「崇徳院」の項は上欄に追記されたもので、此砌は宝暦九年のこと。「外題年鑑」には「大和掾・吉田文三郎休」とあるが、文三郎はかねて竹田近江とよからず、宝暦八年十月に病と称して隠居してゐる。 |
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大西芝居 | (三六五)大西芝居といふのは筑後芝居即竹本座の事で、宝暦九年よりこの名になつた。独立を企てようとしたのは嵐吉三郎座。(「倒冠雑誌」) |
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吉田文三郎京都の芝居を勤む | (三六五)「倒冠雑誌」に京へ上り蟄居といつてゐるのが本当であらう。文三郎は翌宝暦十年正月病歿してゐる。文吾は九年九月三郎兵衛と改名して竹本座へ出勤した。 |
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近比死去せられし竹田近江大掾 | (三六六)大阪青蓮寺の墓碑によると、天明八年十月六日歿。(木谷蓬吟『浄瑠璃研究書』中の「竹田出雲一族の墓碑発見とその豪華生活」) |
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仕打 | (三六六)芝居の銀主。資本家。 |
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下屋敷 | (三六六)別宅。高津新地四丁目にあつた。 |
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一夜に四季の体を庭に置 | (三六六)「明和雑記」に「去る巳年田中屋卯左衛門、鉄屋庄右衛門など招請して振舞をいたし、雪月花の宴と言ひけるも思ひ出せり。其頃島之内名誉の芸子白人中居等も呼迎へ、門口には門松を立てしめを張り正月の体、先づ座付に雑煮出して、芸子春駒大黒舞引うたう、いづれも趣向ありし事也。障子開けば桜花の今を盛りと咲乱れし一興、やゝ時うつりて名月の趣あり。かくて更行くまゝ座敷の障子はら/\と降る音しければ、皆々立寄り障子を開けば、しめ/\として雪降り樹木庭石皆白妙となつて、其気色いはん方なし。平生かやうの細工を行とせし近江なれば其模様万事至つて流石に思ひやられしなり」云々。 |
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五千両の用金 | (三六六)徳川幕府は宝暦十一年十二月米価調節のため、大阪町人三百五人に対し百七十万三千両の御用金を申付けた。これが一人当り大体五千両位になる。 |
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竹本芝居にて云々
| (三六六)竹田竹本両座合併興行の狂言を参考のため挙げてみると、
第一 筑後あやつり 忠臣藏二ツ目・三ツ目・四ツ目
第二 竹田狂言 奥州安達原
第三 筑後あやつり 忠臣藏六ツ目・七ツ目
第四 竹田からくり 機関梅早咲
第五 筑後あやつり 忠臣藏道行・九ツ目
第六 竹田狂言 友全染
尚この際の口上については「浄瑠璃大鑑」(三六三頁)参照。 |
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又兵衛 | (三六八)初代竹本岡太夫のこと。播州豊島都岡町の産で、通称岡又とも呼ばれた。 |
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並木正三の作 | (三七〇)正本には友江子当證軒とある。 |
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竹本芝居退転 | (三七〇)明和四年十二月退転。跡を山下八百藏に譲つて離散したが、八百藏の芝居も思はしくなく二の替りで退いた。かくて翌五年六月近松門左衛門の名代で再興したが振はず、同八年正月近松半二の「妹背山」によつて人気を取戻したが、実質的にはこれが竹本座の終焉であつた。 |
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中衆 | (三七二)なかしゆ、仲仕。こゝは豊後家の藏の差配をする藏仲仕の意であらう。尚「竹豊故事」では越前少掾の出生を南船場としてゐる。 |
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元禄十五年壬午より云々 | (三七二)「外題年鑑」には五月二十八日初日で「心中涙の玉井」上場の由記してゐるが、これは十六年の誤り。豊竹座の創始も「操年代記」に云ふ如く、元禄十六年とするのが至当であらう。けいせい懐子(三七二)六七四頁参照。 |
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井筒屋源六恋寒晒 | (三七三)明和版「外題年鑑」に元禄十六年正月上場とあるため、「浄瑠璃譜」の著者が誤つたのであらう。正しくは享保八年七月六日上場。寛政版「外題年鑑」では訂正されてあり、又西沢一風の「当世栄花物語」にも明記されてゐる。 |
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西沢一鳳 | (三七三)「けいせい国性爺」の作者は紀海昔の誤り。 |
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始て芝居の表へ幟進上 | (三七八)「外題年鑑」によると同じ享保十六年の五月、竹本座の「国性爺合戦」の時、「天満の贔屓組より芝居の表に初て幟を立る」とある。 |
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正面の床を横へ | (三七九)竹本座では享保十年にこの改革が行はれてゐる。 |
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外題御差留 | (三七九)「南蛮鉄後藤目貫」は大阪落城を露骨に描写したため幕府の忌諱にふれて上演禁止となつた。出版も禁ぜられて写本で伝つてゐる。 |
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若竹東工郎 | (三八一)元文−明和時代の人形遣ひの名人。元文三年十月豊竹座に出勤、爾来次第に名を挙げ、宝暦八年「東西評林」には吉田文三郎の次に据ゑられて「当流の達人」の評を得た。 |
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久米仙人五段目 | (三八三)寛保二年正月、大阪佐渡島長五郎座三の替り「雷神不動北山桜」。この興行は大いに当つて百七十日打続けた。海老藏は二代目団十郎。菊五郎は元祖、上方の若女形であつた。 |
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潤色江戸紫 | (三八三)並木宗輔の作といふのは誤りで、為永太郎兵衛、浅田一高等の合作で、紀海音「八百屋お七恋緋桜」の増補。尚この初日は「邦楽年表」には四月五日、「外題年鑑」は二日となつてゐる。 |
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どうぐし | (三八五)胴串。人形のかしらの首の下についてゐる棒。(以下人形の構造については「戯場楽屋図会」及び宮尾しげを「文楽人形図譜」参照) |
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引せん・小ざる | (三八五)何れも胴串に附属した竹の板で、引せんは人形の頭を上下動させる紐、小ざるは眉・目・口等を動かす紐がついてゐる。 |
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かた板 | (三八五)人形の肩になる板。頭を止め、衣裳をかけ、足と手を吊る役目を受持つてゐる。 |
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突上げ | (三八五)人形の肩板に結付けてある一尺二寸余の竹の棒。人形遣ひが是を腕に当てゝ人形を支へるのである。 |
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丸胴 | (三八五)胴を見せなくてはならない時使用される胴の一つ。張子の一貫張りで、固い胴形をしてゐて、妹背山の鱶七などに使つてゐる。 |
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片腹 | (三八五)かけ腹のことか。着物は着てゐて胸の部分だけを見せるもの。「伊賀越」の沼津の平作等に用ふ。 |
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つかみ手 | (三八五)五本の指が一本々々動き、物をつかむ形の時に用ふ。これには色々の種類がある。 |
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黒がふ | (三八五)黒衣。人形遣ひ等が衣服の上に著る盲縞の上張り。 |
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半合羽 | (三八五)丈の短い合羽で、小身の武家などが用ひたもの。 |
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頭巾 | (三八五)人形遣ひの冠る黒い頭巾。現在では耳を折るのは吉田流、立てるのは桐竹流。 |
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舞台下駄 | (三八五)舞台で人形遣ひのはく下駄。高きは一尺二寸五分より低きは四寸迄、数種類の大さがある。 |
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歌舞伎黒船の狂言 | (三八六)享保十八年江戸中村座興行の「出入湊」を紛本としたものと云はれてゐる。 |
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白人 | (三八七)島の内、新地等の私娼の別称。 |
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播州渡辺橋の役割 | (三八七)・かしくの役割(三八八)「邦楽年表」所載のものと相異す。 |
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南新屋敷福島清兵衛云々 | (三八八)「三月十九日朝、介右衛門橋心中。男は生国和泉の者内町大工の弟子六三郎、女は道順堀新屋敷の女郎おその、助右衛門橋東詰の浜にて、相対死」(「摂播陽奇観」巻二十九) |
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中山無縁経云々 | (三八八)「御城代阿部伊勢守御手廻り宅平といふ者、紫雲山中山寺無縁経修行申代参の節、柿崎辺にて馬士共と口論有之、下向に及んで大喧嘩と相成り、宅平一人にて相手大勢に手疵負せ候へ共、馬士非分に相究り宅平無難に役儀を勤む」(向右)。その宅平を船越十右衛門と変へて脚色したといはれてゐる。 |
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作者並木惣助 | (三八八)作者は豊丈助・浅田一鳥等が正しい。 |
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伊勢音頭 | (三八九)伊勢古市の盆踊。享保頃古市の妓楼で行はれて以来、次第に座敷芸として発達し、諸国に伝つた。 |
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懸あんどう | (三九〇)家の入口、店先等に掛けておく行燈。,上方で用ひられる。「すべて芝居茶屋の店先の体にて万屋といふ提灯・かけ行燈」(「青楼詞合鏡」) |
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此時並木宗助死す | (三九〇)本文に依ると寛延二年九月頃になるが、浜松歌国の「劇場年鑑」は宝暦元年九月七日としてゐる。(「邦楽年表」) |
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一谷嫩軍記の役割 | (三九一)・祇園祭禮信仰記の役割(三九四)「邦樂年表」所載の分と相違。 |
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花道 | (三九九)操りで花道を何時から使用しはじめたか明かでないが、元禄末に京都の宇河加賀操座で使つて居り、寛政享和頃に存在してゐたごとは「戯場楽屋図会拾遺」によつても知られるが、何時頃取去られたかも明かに判らない。(若月保治「人形浄瑠璃三百年史」九一○頁) |
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十四日芝居類焼 | (三九九)流布本では「十四日芝居類焼……三番叟若竹東工郎」の」一葉が乱丁になつて、宝暦十三年四月芝居普請の次に続いてゐる。 |
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枝芝居 | (三九九)上方で場末の芝居をいふ。 |
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石垣芝居 | (三九九)石垣町は京都加茂川の東、大佛殿の北にある町名で、古くより男色及女色をひさぐ悪所であつた。その石垣町の芝居。「洛陽ひさご念佛」は邦楽年表によると宝暦十三年三月豊竹座で上場とあるが、本書に豊竹座は正月に類焼、一座を分つて京・堺に行くとあり、芝居普請は四月の事だから、その三月興行といふのは京都で行はれたと見るのが当であらう。 |
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古浄瑠璃身取にて語る | (四〇〇)古浄瑠璃の寄せ物。通し狂言でない、いくつもの違つた外題を並べたといふのである。身取は見取りの書誤りであらう。この時祝儀として出したものに「東鑑御狩巻」「北条時頼記」「女鉢木」等がある。 |
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芝居相続なりがたく | (四〇〇)座本豊竹越前少掾歿後倅甚六跡を受けたが振はず、明和二年八月晦日で退転となつた。あとは、十一月より妻川菊八が歌舞伎芝居を興行。明和四年正月一豊竹此吉座本となり、豊竹此太夫と共に北堀市の側に豊竹座を再興したが、真の豊竹座は明和二年に廃滅したと考へて良いであらう。 |
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たいてんの | (四〇〇)退転の浮目を見たりといふやうな文章で終つてゐるのであらうが、原本は続く紙葉を欠いてゐる。この処に豊芥子の藏書印が捺してある点から考へて、当時から落丁してゐたものと思はれる。 |
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提供者:山縣 元 様(2001.03.02)
(2014.09.06補訂)