【FILE 33 吉田栄三自伝】

                       (2001.06.10)
                       (2023.03.15補訂)
 

吉田栄三 述 鴻池幸武 編

相模書房 昭和拾参年拾壱月拾五日発行

 
  デジタル化資料:
  参考
  沢の席から文楽まで
  舞台の経験が一番大切
  榮三最後の舞臺(大西重孝)
  花柳章太郎 吉田栄三聞書集

ルビは原本に従った。
語註の項で、見出し語を参照の便宜のため【 】内に補った。
23年5月版により序、年譜を補った
目次を冒頭に移動した
 
原本の正誤表

序 伊原青々園
序 高安吸江
はしがき 編者
一 御挨拶に代へて 1
 人形遣へ−師匠無しで−座頭−玉造さん−紋十郎さん−才治さん−辰五郎さんの阿能局−辰造さんのおみわとお里−兵吉さん−喜十郎さんと操のクドキ−金四さんの芸−初代玉助さん。
二 初舞台の年 11
 沢の席の柿葺落し−「弘法大師」の浄瑠璃−警察へ引張られる。
三 彦六座時代 18
 彦六座−初代柳適さん−彦六座の人気−負ひ人形−「五天竺」の早替り−眠い時代−コレラの流行−「三十三所」−散切頭の初め−苅萱の足−彦六座の火事−大和へ巡業−「壺坂」を知らぬ−「西郷隆盛」の浄瑠璃‐初午芝居−辰五郎さんの団七−本雨−l直伝記」−辰五郎さんの玉手。
四 神戸へ出勤と彦六座の没落 46
 神戸菊の亭へ−彦六座の休座−外国人の見物−栄三と改名−鹿造さん。
五 稲荷座時代 52
 稲荷座の旗揚げ−小浪のクドキ−小介の役−「勧進帳」の書卸し−清十郎さんの袖萩−組さんの「河庄」−京極内匠の代役−組さんの「大重」−宇駄右衛門の型−亀松さんの死−お妻の型。
六 東京へ独り旅と稲荷座の末路 66
 東京が見度い−新声館へ−栄造さんの御恩−大隅さんからの手紙−女郎衆に人形を−帰阪−団平さんの死−思惟の間の障子−稲荷座の没落
七 文楽座へ 74
 文築座−初日の朝の代役−玉造さんと右団治さん−忙しい舞台−「狐火」の七ツ拍子−又元の子役へ−紋十郎さんのお園−老け役。
八 借金の為明楽座へ 84
 文楽と明楽と掛持ち−清十郎さんの「道成寺」−梅玉さんと辰造さん−義平次−西川伊三郎さん−源蔵の代役と知盛−二人宙吊り−お初の代役−才三の型−白衣を著る−文築座へ。
九 文楽座へ復帰 97
 文築座の待遇−「布引」の三段目−紋十郎さんの時姫−骨膜炎の大煩ひ−パンの為に−定之進の足−おとくの型−「新薄雪」の『蔭腹』−初の老婆役−戦争当込み−津太夫さんの「酒屋」−「朝顔」の『一ツ家』−大隅さんの「佐太村」−「官兵衛砦」の写真−甚兵衛の型−紋十郎さんの初花−大隅さんの「鎌腹」−多為蔵さんの有明御前−梅川−夕しで出−多為蔵さんの伝兵衛と「河原」−板額の代役−初役のおかる−南座へ出勤と夕ぎり−楽屋と舞台−初役のおふで−「日蓮記」−植村さん最後の興行。
一〇 松竹さんになってから 121
 最初の早替り−初役の重兵衛−烈しい「泥場」−八重垣姫の代役−「ひばり山」のケレン−紋十郎さんの死−清水さんの死−お辻の型−「陣屋」の型−大掾さんの「沼津」−又平の型−孫右衛門の衣裳−お柳の足拍子−お染の代役−大掾さんの「謙杖館」−大掾さんの光秀−「中将姫」の道具−大掾さんの引退−楽屋の菅相丞−名古屋への旅−梅ヶ枝の型−「河庄」の出−平右衛門で工夫−多為蔵さんの死−原作の「紙治」−平右衛門で再工夫−初役の初右衛門−「狐火」の早替り−新富座へ−越路さんの「寺小屋」で初役の松王−人形の撮影−投げ頭巾−初役の景清−「阿漕」の文句−京都文楽座へ−不幸続き−四国へ巡業−歌舞伎座の大舞台−下の旅。
一一 御霊文楽座焼失と弁天座時代 175
 玉蔵さんの死−御霊文楽座の火事−道頓堀へ進出−文三さんの死と番附の改正−座頭になる−初役の由良之助−熊谷の解釈−新橋演舞場と明治座へ−「三番叟」を五回。
一二 四ツ橋の文楽座になつてから 188
 四ツ橋文楽座の開場−その勢−我々の覚悟−珍しい「鬼界ヶ島」−改訂「勧進帳」−大判事の出−秩父宮様御台覧−「御殿」の忠信−弁慶の解釈−音親の型−文楽の三勇士−花道を使ふ−官兵衛の息組−芸談を放送−博多の宿のお多福−岡山で風水害に−栄之助の死−手足を捥ぎ取られる−夜叉王の頭−骨膜炎の再発−初めて内科の病気に−古靱さんの「殿中」で初役の師直−演舞場廻り−四ツ橋へ復帰
一三 芸談  224
 述者対編者の一問一答。
一四 年譜   242 【昭和23年5月版により補訂】
一五 人形遣略系図 284
 
                    河竹繁俊
巻尾に
                    吉田栄三


 序
  
  
 浄瑠璃と其の作者の事を記したものは沢山ある。
また太夫と三味線弾きの事を記したものは、沢山とはいへないが、多少はある。只人形遣ひの事を記したものに至つては、皆無とはいへないまでも、極めて稀である。 人形芝居は歌舞伎と能楽と共に、日本に出来た三つの国劇であるのに、そういふ欠陥のために、其の討究が何れぐらゐ困難であるか分からない。 鴻池幸武君が吉田栄三の自伝を編輯されたは、以上の点において誠に意義ある事業といはねば成らぬ。蓋し栄三は現在の斯界に於ける代表的名手である。 その自伝によつて、人形遣ひは何ういふ芸術を、何ういふ風に苦心をして居るか、また何ういふ生活をして居るか、といふ事が永久に伝へられるであらう。それのみならず、栄三自身の誠実にして堅忍不抜の行動が編中の到る所に見えて居る事は、此の書がひとり芸術史の資料であるのみならず、立志修身の訓話としても襟を正して読むべきものが多い。 われ/\は鴻池君の努力によつて此の好著を得たることを悦ぶと同時に、かくの如き人格者が今の芸界に存在することを大いに愉快におもふ。
     昭和十三年十一月
  
              文学博士  伊原青々園
  
  
  
 鴻池さんが栄三の自伝を編纂せられました。 近来俳優の方で種々の自伝やそれに類した本が出来てゐるのに、人形浄瑠璃の方でも一ツ位あつてもよいではないかと云はれるのです。
 栄三が今の文楽の人形遣として代表的な一人であることには誰しも異論はありますまいが、其栄ある位置を獲るために、彼が過去五十余年に於て如何に苦心惨憺したかを知る人は少いでしやう。
 忌憚なく云へば今日人形浄瑠璃が甚だ衰微した時代であつて、悪くすると取返へしのつかぬ不祥事が起らぬとは限るまいなどゝ、或一部から悲観せられる位の危機にありますが、僅か三四十年前には太夫、三味線、人形の各方面、何れも皆多士済々で、近代に於ける絢爛期を形造つてをりました。
 栄三は此隆盛時代に生立ち、特に定つた師匠も無かつたので常に悪戦苦闘を続けるうちに、当時の名人等の中で揉まれ揉まれて鍛上げられたのですから、書中に彼が語る己の経歴は即ち此等諸名手が活躍振の実写であつて、近古人形浄瑠璃史の貴重なる資料に外ならず、其頃を知つて居る私などは、此れを読んで昔を憶ひ無量の感慨にうたれるのでした。
 編者鴻池氏は大阪で名高い旧家の出で、其家は古くから趣味家が輩出してゐました。
殊に先代などは盆景や押絵に至るまでも妙を極めてゐられたそうで、幸武氏はその令息として夙くから演芸方面の趣味に富み、数限りない其実演を年来親しく観賞する機会に恵まれてをられた。 さうした背景の中で生抜きの大阪子として、郷士芸術の人形浄瑠璃に関する記録を作らうとするのですから、此れ程誂向きの編者は他にあまりないでしやう。
 此点から見ても私は此書を斯道の研究者はもとより、一般趣味家の前へ推奨することが不当でないと固く信ずる次第であります。
  
昭和戊寅仲秋
  
高安 吸江

【昭和23年5月版では上の序に替わり、以下の序が掲載されている】
  序
 吉田栄三の自伝は故鴻池幸武君の処女作であつた。
 君はその豊富な趣味性を父君の先代善右衛門氏からうけ継いだ上に、特に人形浄るりの方面では、現代人の鋭い批判力と熱い研究欲とを兼ね備えていたが、当時二十五才の若さで既にこの道に関して、老巧な専門家に匹敵すべき立派な一隻眼をもつていた。
 私の病院と今橋の本邸とが近かつたせいもあつたか、君がまだ早稲田を出ない前からよくやつて来て、演芸談に朗かな半日を暮らしたのも再々であつたが、それがこの書の編修が始まつてからは一層繁くなり、時には栄三同道のこともあつた。
 骨膜炎の傷あとが、和やかな眉や眼のため却て愛きようになつた栄三の口もとから、尽きぬ泉のように、ボツ/\ではあるが興味深く語りつゞけられる、いわゆるトッ弁の雄弁というのがそれであつたが、その傍にひかえて敬謙な態度の君は、色は白い方でなかつたが、上品で女性に近いしとやかさで、しかも常に閉じられた口元には強い意志、やさしい眼の底には敏い理智のひらめきがうかゞわれた。
 いつも衣紋正しい和服姿の、そのえりをキチンと合はされたのが殊に印象的でこれは夜寝床の中でもそうであつたと聞いたが、万事を疎かにせず、徹底的に追究せねば承知出来ぬという君の気質の一端がこゝにも現れていたのである。
 それで原稿が少し出来るとその都度来院され、創作欲に燃えたエライ意気込で、これはどう彼処はいかゞと一々念をおし、微に入り細に入つての質問に、記憶のわるい私はいつもタジ/\の態であつた。
 こうして人形遣の名人栄三は君の麗筆によつて永遠に生命づけられ、同時にまた君の魂はこの名著とともにいつまでも生きて行くのであるが、たゞ残念なのはもと/\これが自家版で、その上戦争で多数焼亡したため、あまり多く世間に知られていないことであつた処、今回多少補修の上普及版として刊行されるようになつたのは実に我意を得たもので、私は心から歓喜してこの人形浄るりに関する貴重な文献を広く一般に推奨したいと思うのである。
  昭和二十二年八月
                高安六郎
 
 鴻池幸武さんは年歯僅か三十二の生涯を昭和二十年三月比島の戦野に閉ぢた。日本は一人の天才を失つたのである。青年の死はいたましいものだが、わけて若い天才の死ほどいたましい出来事はない。鴻池さんの死は今次大戦に於ける最大の損失の一つに数へらるべきである。といふ訳は、鴻池さんの義太夫節並びに操芝居に関する研究の深さと、観照の深さと、愛情の深さとのゆるぎなき三位一致が、全く我が国演劇研究史上に比類を見ない底のものであつたからである。
 その研究の深さは、未上梓の遺稿「続邦楽年表・義太夫節の部」の如き労作に見られる。此の記録的著述は今日の経済事情の下では、殆ど出版の可能性がないかのやうに思へるが、これはまことに遺憾の極みと云はねばならぬ。又、その観照の深さは、その書き残した幾多の評論を通じて覗ひ得る。真摯な演劇評論家の恒として、その論旨は多く古典劇の現状への憤懣を吐露したものであるため、一部の俗論家からは演劇への愛情が欠如したものとして非難されたことがある。鴻池さんの仕事を、生前この面に於て正しく評価したのは、故岡鬼太郎氏と私位ではなかつたらうか。事実岡氏はしばしば讃嘆の詞を洩らされたとのことである。私に至つては、私の今日の批評の態度が少しでも他と異つた主張を持つてゐるとするならば、その最も根本的な部分を鴻池さんに負つてゐることを告白せねばならない。
 その愛情の深さが、俗物共の思惑とは反対に、限りないものであつたことを、鴻池さんは死を以て私達に示してくれた。即ち鴻池さんはその「遺書」の中に唯文楽古典への愛情のみを書き残して逝つたのである。鴻池さんは恒に「私は死んでも家の事は何も心配しなくてもよいのだし、芸のことだけが気にかかるから、遺言の中にはそのことを書いておかうと思ふ」と言つてゐたが、その通り、遺書の中で家や肉身のことには一言もふれてゐない。今その全文を左に掲げる。
  文楽座人形浄瑠璃技芸者の芸道修業を怠らず、斯道の繁栄後続に専心せられんことを期せられたし
 本当に勿体ないことだと思ふ。鴻池さんは平常口を開けば文楽座芸人達の斯芸に対する自覚と反省と熱意との不足を嘆じ、罵つて居たのだが、それでも結局死に臨んで、この俗物共や下手糞共に満腔の希望と信頼とを寄せたのである。相手がどんな性悪女であるかを知つてゐて、尚且溺愛せずには居られなかつたのである。こんな深い愛情が世に又とあつたであらうか。この遺書が豊竹山城少掾に手交せられた時、山城少掾はそれを押し頂いて「もつとごつんとした烈しいことを書いておいて下さつたらよかつたのに」と嘆じた。あまりにも過分な期待を寄せられたことに対する、文楽の今日の顛落を痛感してゐる名人山城の、これは恐らく恐懼の言葉であつたのだらう。然しこの溺れるやうな愛情が結局鴻池さんの真骨頂なのだと私は思つた。さうしてこれでよいのだと思つた。勿論私の文楽芸人への憎しみ−−恐らくこの鴻池さんめ真情すら汲みとり得ないであらう彼等への憎しみは、山城少掾の嘆きと共に深まつた。然しそれへの愛も亦それ以上に深められたことであった。
 この書−−栄三自伝は、鴻池さんのこんな深い愛情と研究と観照との所産である。鴻池さんは「芸の判らぬ者に芸談はとれない」と云つてゐたが、この書こそ斯う断言出来る著者にして始めて可能な述作であると思ふ。尤も鴻池さんは「栄三自伝」を「栄三芸談」への筆馴らし乃至出発点と考へてゐた。然し鴻池さんの死と共に「栄三芸談」が葬り去られた今日となつては、これはこれで貴重なる文献であることを失はない。鴻池さんには「道八芸談」といふ古今の名著がある。これは明治以後の芸談物の最高峯を占めるものである。この円熟した境地に於て物される「栄三芸談」は如何に優れた作品となつたことであつたらうか。更に又「道八芸談」を出発点とする「団平研究」の著作の計画も、話に聞いただけで遂に永遠に埋り去られた。私は今更の如く戦争を恨むと共に、まだしも「栄三自伝」「道八芸談」の二名著の残されたことを、しみじみ幸福に感ずるのである。「道八芸談」は非売品の自家版として一部友人に配られたのみである。「栄三自伝」の如く一般公開の期の近からんことを切望しておく。
 栄三の偉大さについては今更述べ立てる必要は少しもない。昭和十七年頃、私が芸の判る二三の友人と、その時代の名人ベストテンを選んだことがあつた。まだ万三郎や新や延寿太夫などが健在の頃であつたが、その時第一位に選ばれたのが栄三で、而も一同の意見が栄三を第一位とすることに一致してゐた。この一事でも栄三の偉さが推察して貰へることと思ふ。
 この書の出版に際しては、栄三研究の大家大西重孝氏に一方ならぬ御面倒をおかけした。栄三の年譜も大西氏が全部補訂して下さつた。嘗て私が兵隊にとられてゐた時、私の著書「かりの翅」を編輯、出版してくれた鴻池さんへの恩返しとしても、私がせねばならなかつた仕事を、大西氏が全部やつて下さつたことになる。鴻池さんにも大西氏にも申訳ないことだと思つてゐる。深く謝意を表する次第である。
  昭和二十三年二月九日夜記す
               武智鉄二

 
はしがき
 近年、歌舞伎俳優の芸談や伝記が盛んに刊行されるやうになった。それを読んで見ると、表題は、個人の芸談なり伝記であるが、内容は、主人公を中心としたるその時代の演劇史が、座談風に物語られて居り、演劇史研究上極めて重要なる資料である事を感ずるのである。中でも、伊原青々園先生の編纂にかゝる「歌右衛門自伝」は、私には特にその感が深かつた。そして、私が、幼少の頃より溺愛して居る人形浄瑠璃にも、是非このやうな書が一柵でも欲しいと思つた。否、絶対的必要だと感じたのである。
 しかし、このやうな仕事は、その道の老大家に依つて成されて、初めて完璧な品物が出来るのであつて、私共の如き若輩者の手を出す仕事でないから、誰か大家に依つて完成されるのを只管待構へて居たのである。然るに、一向さういふ噂を聞かない、それどころか、そのやうな気色さへ窺はれない。そこで、もう待ち切れず、恥も外聞も打拾てゝ、自ら立たうと決心したのは、丁度、昨年の青葉薫る頃であつたかと思ふ。
 さて、衆知の如く、人形浄瑠璃は、太夫・三味線・人形の合成世帯の芸術であつて、その中何れの一つを欠いても、操(人形浄瑠璃)は成立しないのは勿論の事、三業の各には、その一つ一つに言ひ知れぬ優越なる芸妙が存在して居り、それを獲得する為に、各業の芸人は、夫々決死的な修業をして、その結果出来上つたものが、今日唯一つ遺された操の殿堂、大阪四ツ橋文楽座の月々の舞台である筈である。だから、茲に、芸談や伝記を纏めるに際しては、右三業の各の代表者の話を、同時に纏め上げる可き筋合のものであるが、それは、種々な都合上、今の私には到底不可能な仕事である。そこで色々考へた揚句、古来、多少記録的な材料の残つて居る太夫・三味線の方は、一時預かる事として、そのやうな材料の甚だ乏しい人形遣ひの話を編纂する事に定め、それには、現今生存して居る数十名の人形遣ひの中、芸格の上から見て最適任者であると信ずる文楽座の人形座頭吉田栄三丈に依頼し、話をして貰つてそれを纏めたのがこの冊子である。
 右のやうな訳で、この冊子の編纂に着手の為、栄三丈と私が、会見をし始めたのは、昨昭和十二年七月卅一日であつた。爾来一年間、丈は熱心にその思ひ出を物語つてくれたのであるが、その面白かつた事といつたら、筆記するのを思はず忘れる位であった。然るに出来上つた冊子聴き、耳と心を躍らせた当時のものに比較して、格段の差違のある事をつくづく感じるのであつて、この点、述者の栄三丈及び一般読者に申訳けのない事なのであるが、前にも申した如く、私が天性の不敏を顧みず柄にもない大仕事に手を染めた為と、この冊子が、私の全くの処女出版であるのとに免じ、どうか、それだけのハンデイキャップを附けて読んで頂きたいとお願ひする次第である。
 が、更に考へて見ると、私の拙文も、その源泉は、栄三丈が五十五年間、偏に芸妙を目標とし、苦しみに苦しんだ尊い修業談であるから、私の文章の中にも、その真髄が何処かに漂つて居るものと思ひ、必ずや操史研究の上に、何か貢献する所があるものと信ずる。この点が、この書を世へ送る所以であると同時に、此上ない私の喜びでもある。
 尚、丈が私に話した言葉は、全部大阪弁であつたけれど、一般読者の読み易いやうに、出来るだけ原話の風を壊さぬやうな用話や口吻で、標準語に直して書き、括弧の中の詞と、最後の、丈よりの希望による述者対編者の一問一答だけは、用語、口吻まで殆んど原話通りに写して、郷士の香りを漂はせることに努めた。
 終りに臨み、私のこの挙に賛し、起稿当時から、種々の御指導御鞭撻を頂いた上、序文及び跋を賜つた、伊原青々園、高安吸江、河竹繁俊の諸先生に対し、御厚礼を申上げます。
    昭和十三年十月十日
                 早稲田大学演劇博物館研究室にて
                          鴻池幸武
 
 
吉田栄三自伝
目次【冒頭に移動】
 
 写真目次
 一  初代吉田栄三近影
 二  吉田栄三筆短册 二葉
 三  初舞台の番附
 四  光栄より栄三と改名せし時の番附
 五  御霊文楽座へ出座せし時の番附
 六  「四季寿」の鷺娘
 七  「狭間合戦、官兵衛砦」の舞台面
 八  「市若初陣」の板額
 九  「長局」の尾上
 一○ 「夏祭、長町裏」の舞台面
 一一 「盛綱陣屋」の盛綱
 一二 「合邦庵室」の玉手御前
 一三 「桜丸切腹」の白太夫
 一四 「沼津」の舞台面
 一五 「御殿」の政岡
 一六 「重の井子別れ」の重の井
 一七 「国姓爺」の錦祥女
 一八 「羽織落し」の忠兵衛
 一九 「神崎揚屋」の梅ケ枝
 二○ 「河庄」の治兵衛
 二一 「狐火」の八重垣姫
 二二 「新薄雪物語、清水」の妻平
 二三  座頭になった時の番附
 二四 「霞ヶ関」の由良之助
 一五 「茶屋場」の由良之助
 二六 「寿司屋」の権太
 二七 「陣屋」の熊谷
 二八 「鬼界ヶ島」の俊寛
 二九 「勧進帳」の弁慶
 三○ 「川連館」の源九郎狐
 三一 「子別れ」の葛の葉
 三二  芸談を放送せし時の記念写真
 三三 「玉藻前」の金毛九毛狐
 三四 「直江館」の山本勘肋
 三五  吉田栄三筆お多福の掛軸
 三六  述者と編者の記念撮影

【昭和23年5月版】写真目次
一 楽屋に於ける初代吉田栄三
二 『冥途の飛脚』−羽織落しの忠兵衛
三 『夏祭浪花鑑』−長町裏の団七九郎兵衛
四 『菅原伝授手習鑑』−寺子屋の松王丸
五 『平家女護島』−鬼界ケ島の俊寛 (以上入江泰吉氏撮影)
六 『太平記忠臣講釈』−喜内住家の矢間重太郎
七 『良弁杉由来』−二月堂の良弁僧正
八 『加賀見山旧錦絵』−長局の尾上 (以上渡辺義雄氏撮影)
九 初舞台の番附−沢の席、明治十六年六月
一〇 光栄より栄三へ改名当時の番附−いなり彦六座、明治二十五年十一月
一一 明樂座より文楽座へ復帰当時の番附−御霊文楽座、明治三十五年九月
一二 座頭就任当時の番附−道頓堀弁天座、昭和二年三月
一三 四ツ橋文楽座出演最後の表看板−昭和二十年一月

 
 
 
一、御挨拶に代へて
 私は、本名を柳本栄次郎(やなぎもとえいじらう)と申しまして、明治五年四月二十九日に大阪東区濃堂(のど)町で生れました。どうした事か、戸長役場には明治三年生れとなつて居ますので、十九の年に兵隊の検査を受けてしまひました。
 父の名は栄助、母はあいと申しまして、下大和橋にお寿し屋を出して居た家の娘ですが、その家の姓が柳本ですから、父はその家を継いだ訳です。父の実家は橋本と申しました。
 私は、子供の時はだいたいおとなしい方で、近所の子供と喧嘩などしたり、叩いたり叩かれたりした事は一回もありませんでした。従つてそんな事の為に怪我をした事も全然なく、少し位悪口を言はれても黙つて堪へて居ました。ですから、よく言へば忍耐強いのですが、悪く言へば意気地なしでせう。
 父の商売は、おもちや人形を造る事でしたが、母方の叔母が、豊竹湊玉(みなぎよく)と言つて当時大阪で可なりの顔の(註一)女義太夫でありました関係上、自然小さな私にも義太夫節が耳馴れる様になつたのであります。その上、当時人形遣ひをして居た吉田栄寿さんといふ人と、叔母の湊玉とが縁を結びましたので、その栄寿さんの橋渡しで、十二歳の時初めて斯の道に入る事になりました。明治十六年六月、日本橋(につぽんばし)北詰の沢(さわ)の席といふ小屋に、光栄(みつえ)と名乗つて出ましたのが私の初舞台であります。
 それから今日迄五十余年の間、人形と共に、生活をして来ましたが、明治二十五午十一月に只今の名前に改め、三十五年九月に堀江の明楽座から御霊(ごりよう)文楽座へ入り今日に及んでゐるのでありますが、先に申した栄寿さんは私を単に斯の道に導いてくれた方で、芸道のお師匠様といふのではありません。そして、初舞台の時からも、どなたの所へ弟子入りしたといふのでなく、唯下働きとして勤めて居たのが其儘になつてしまつて、遂に今日迄定まつたお師匠さんなしで来ました。文楽に入つてからも、初代玉造さんや先代紋十郎さん達から色々御親切に言つて下さつたのですが、当時は私も、もう独立した積りで居ましたので、とう/\其儘になつてしまつたのです。その代り、今日迄一緒に舞台を勤めさせて頂いた先輩の方々は、誰彼なしに皆お師匠さんと思つて崇めて来たのですが、やはり、師弟関係といふものが無い為に、大分損をしたり、随分気を遣つたりして様々な苦労をしました。
 明治二十三年の頃と思ひますが、いなりの彦六座で、『玉藻前(たまものまえ)』が立つた時、私に周(しゆう)の雷震(らいしん)の役が附きました。これは、二段目の「太公望の釣」から「紂王御殿(ちゆうわうごてん)」にかけて出て来る西伯文王(せいはくぶんわう)の家来で、「御殿」の場では、鉞(まさかり)を持つて暴れたりする、丁度『大江山』の金時(きんとき)の様な役ですが、私としては、役らしい役の最初のものでした。そこで、当時彦六座の人形紋下であつた辰五郎さんの所へ、無い中からお菓子折を持つてお頼みに行きました所、「あゝよろしい、しつかりやんなはれ」と言うて頂きましたが、さてその役を手を取つて教へて頂くではなし、特に私を引上げて頂くといふ事もないのですからそんな事情の間で、私は、他人(ひと)一倍苦心をしました。それでも、一生懸命辛抱しまして、お蔭様で今日は座頭(ざがしら)をさせて頂いて居ります。それも、近年では、三代目玉蔵さんや文三(ぶんざ)さんの如き当然座頭になる可き方が居られたのに、色々の事情でとう/\座頭になられずして亡くなられましたので、後に残つた私が、順番だといふ事で座頭に座つたのでありますが、之は私の運もよかつたのでせうが、やはり、先輩の方々の御恩の賜物と、一日としてその御恩の有難さを感謝しない日は御座いません。又、名前も、これまで色々名人のお名前をつぐ様にとのお話しもありましたが、立派なお名前を穢しては申訳がないと思ひ、その都度御辞退して参り、もう一生栄三で通す積りで居ります。
 舞台で黙々と、手を使つて人形を踊らす商売の私が、口を使つてお話し申すのですから、定めしお聞き苦しい事と存じますが、暫くの御辛抱を願ひまして、今日迄の種々な私の苦心談をお聞き下さいませ。
 さて、私の初舞台からのお話を申上げる前に、当時有名であつた人形遣ひの方々のお話を一通り申上げませう。
 先づその頃、人形芝居の座は、只今の松島八千代座の辺に在つた文楽座を始めに、その外は、折に触れて道頓堀や、御霊(ごりよう)神社境内の土田の席、堀江、大江橋等の小屋に人形芝居が懸つて居ましたが、文楽座の人形遣ひで喧(やかま)しかつたのは、第一に初代吉田玉造さん(註二)、女形遣ひでは先代桐竹紋十郎さん(註三)で、このお二人は私が文楽へ入つてから一緒に舞台を勤めさせて頂いて居ましたから、後で追々お話しを致しますが、これに対抗して外の芝居では、少し古くなりますが、女形の名人吉田辰造さん(註四)、それに吉田兵吉さん(註五)、次いで吉田喜十郎さん(註六)、吉田金四さん(註七)等が有名で、これ等の方々は、私が初舞台を踏む一寸前に亡くなられました。それから、私が初舞台当時から古老の豊松東十郎さん(註八)吉田才治さん(註九)、この方は、私が人形遣ひになつてからは最古老で、一同集つた時などは何時も一番上座に座つて居られ、次に文楽の玉造さんが座つて居られました。彦六座の最初の人形紋下で、私も暫くの間、同じ舞台で勤めさせて頂いて居ましたが、何んな役でも遣つて居られました。此外、吉田辰五郎さん(註十)が居られました。此方は、私も彦六座で大分御厄介になりましたから、追々お話を致しますが、丁度私の生れた年の、明治五年の正月に、文楽が、稲荷境内から、松島の千代崎橋へ移転した時、辰五郎さんも一座の中に居られ、『太功記』の通しで、「高松城」の阿能局を遣つて居られたさうで、それがとてもよかつたといふ事を聞いて居ります。
 で、前に申しました私の初舞台以前に亡くなられました四人の方に就いて、私が聞いて居ます事を少し申しますと、先づ辰造さん、この方は、近世での女形遣ひで、『妹脊山』の「杉酒屋」のお三輪などは、今以て我々仲間で屡々噂する事があります。お三輪が酸漿(ほゝづき)を揉み/\帰つて来る形の可愛らしさといふたらなかつたさうです。又、「寿司屋」でお里(さと)のクドキの「父も聞えず母様も」の条、暖簾を覗いて、じり/\と後退りする振りが何とも言へぬよかつたといふことです。つまり、女形の中でも振袖ものが格別よかつたらしく、八重垣姫もよかつたと聞いて居ます。何時の頃か知りませんが、『廿四孝』の「奥庭」のみだれで、玉造さんと一緒に二人八重垣姫を勤められた事があると聞いて居ます。しかし、この方の芸風は、同じ女形の名人でも、先代の紋十郎さんのとは違ひ、うんと古風なものであつたさうです。
 次に兵吉さん、この方は、先年亡くなられた兵吉(五代目)さんのお師匠さんで、中々喧しい方であつたとの事ですが、不幸にしてこの方に関するお話を私は聞いて居りませんが、これは、もう一つ前の兵吉さん(註十一)の事かと思ひますが、清水町の兵吉さんといふ方は、道頓堀に人形芝居が懸つて居た時、楽屋入りをされるのに、お駕籠に乗つて来られたさうで、つまり今の自家用自動車です。そして、家へ帰ると玄関に百目蝋燭を点(とも)して、弟子達が「お帰り−」とお出迎へしたといふ事です。
 それから喜十郎さんは、随分古い方であつたとの事で、只今文楽の勾欄(てすり)(註十二)でも演ります「太十」で操(みさほ)のクドキの「現在母御を手にかけ−」で、竹鎗を持つ振りは、この方が初められたと聞いて居ます。そして、左遣ひの名人で、舞台の事をよく弁へて居られ、聞きに行きさへすれば何でも教へて居られたとの事で、この話は、三吾さんから聞きました。
 最後に金四さん、前に申しました三人の方は、だいたいは文楽の外に居られ、時折は文楽へも出て居られたさうですが、この方は、殆んど外の芝居許りだつたとの事で、荒事の名人で、芸に熱があって、殊に、「金四の早伐(はやぎ)り」とて早業がお得意で、「阿波十」の段切の十郎兵衛の屋根の上の立廻りは有名なものであつたと、先代の門造さんが言つて居られました。つまり、極り極りが物凄かつたのでせう。
 この外に、初代玉造さんの息子さんに、玉助(初代)さん(註十三)といふ方が居られ、親御さんにも優る腕を持つて居られたと言はれて居ますが、たしか、明治十九年でしたか、夏にコレラで亡くなられました。私は、その亡くなられる一寸前の或晩、彦六座を終つてから、栄寿さんと茨住吉の女義太夫の寄席の勾欄(てすり)を勤めに行きがけに松島の文楽座へ立寄り、戸外(そと)からでしたが、一寸玉助さんの舞台を拝見しました。たしか、『文覚上人』であつたと思つて居ますが、何分子供の時で、皆目頭に残つて居ません。
 〔註〕
 一 【顔】年功の事
 二 【初代吉田玉造】二代目吉田辰五郎の門弟、吉田徳造の次男にして、明治時代に於ける、人形遣ひの代表者也。殊に、早替りの工夫、狐等の動物を遣ふ事に秀でたり。明治五年一月、松島文楽座開場の時、紋下となり、同三十八年一月十二日歿。
 三 【先代桐竹紋十郎】二代目門造の門弟桐竹門十郎の息にて、幼名福太郎、明治初年は東京に修業し、同九年三月帰阪、松島文楽座に、父の名門十郎にて出勤、同九月、桐竹亀松と改名、同十年九月、桐竹紋十郎と再改名、前註玉造と共に、明治時代に於ける大立者也。おやまの名人と謳はれしも、立役にも秀でたる技を見せたり。同四十三年八月十五日歿。
 四 【吉田辰造】三代目なり。師系不詳(識者の御教示を乞ふ)なれども、二代目辰五郎の倅なる二代目辰造の門弟(或は弟弟子)ならん、明治初年に於けるおやま遣ひの第一人者なり。同十四年頃まで各芝居に出勤せしも、歿年未詳。
 五 【吉田兵吉】四代目なり。師は三代目兵吉にて、幼名藤太郎と言ひ、後小兵吉より四代目相続。後、文楽座始め、各芝居に出勤、同十年頃迄勤む、歿年未詳。
 六 【吉田喜十郎】二代目三吾の門弟にて、文政年中より出座、初め季十郎と名乗りしも、後喜十郎と改む。明治十三年中、七十余歳にて歿。明治初年に於ける最古老なり。
 七 【吉田金四】初代新吾門弟初代金四の門人にして、三代目也。幼名伊之助、改名して金之助となり、再改各猪造より再三改名三代目相続。明治十四年七月歿。
 八 【豊松東十郎】三代目なり。師は二代東十郎にて、天保初年より豊松音吉にて出勤、後豊松咲造と改め、明治元年三代目相続。同二十二年一月迄、彦六座に出勤、歿年不詳明治初年の古老也。
 九 【吉田才治】二代目新吾門弟にて、幼名虎造、天保元年より出座、後東京より地方を巡り、其間三代目三吾を襲ぎ、明治二年六月、東京米沢町操芝居にて四代目相続、後帰阪して彦六座の紋下となり、同二十一年迄勤め、後、北海道へ引籠り、彼地にて歿。明治初期の大立者にて、喜十郎歿後は最古参也。
 十 【吉田辰五郎】二代目吉川才治門弟にて初名小市、後吉川才三郎となり、更に三代目を相続、明治初年文楽座へ出勤せしも、後、彦六座に入り、同座の人形紋下となる、明治二十三年八月歿。
 十一 【一つ前の兵吉】三代目也。二代目千四の倅にて、幕末に於ける人形界の大花形にて、景事・ケレンに最も長じたりといふ。明治三年八月十九日歿。
 十二 【勾欄(てすり)】人形の舞台に於て、人形遣ひの下半身を隠す為の勾欄、転じて人形芝居の舞台の事を言ふ。
 十三 【初代吉田玉助】初代玉造の倅。元治元年より出座若年より優秀なる技を見せ、親玉造にも優ると言はれたり。明治十九年七月四日歿。
 
 二 初舞台の年
 私が初舞台を踏みました沢の席は、南区日本橋北詰、安井(やすゐ)稲荷さんのすぐ隣にありましたが、只今の四ツ橋文楽座よりもまだ小さい小屋で、松島の文楽座に対して、小文楽と呼ばれて居ました。私が始めて出座しましたのは、明治十六年六月で、此時が沢の席の柿葺(こけら)落(おと)しの時で、一座の顔触れは、染太夫(八代目)さん(註十四)、春子太夫(後の大隅)さん(註十五)、源太夫(先々代)さん、朝太夫さん、三味線では、広助(松葉屋)さん(註十六)、新左衛門(初代・註十七)さん、人形は、辰五郎(三代目)さん、東十郎さん、小辰造(後の三吾)さん、駒十郎(後四代目辰五郎)さん等で、狂言は、『太功記』に御祝儀『三番叟』、「布引の四段目」、切が景事でした。この時私も、光栄(みつえ)の名で番附の最下位に並びましたが、この光栄といふ名は、前に申した栄寿さんが師匠の光造さんの所へ入門された時の最初の名前で、つまり、私の光栄は二代目になる訳です。栄寿さんは只今私の弟子の光之助の実父で、終りには光造の名前を襲いで亡くなりました。この時一緒に出て居ました人々の中で、今残つて居る人は、三味線の新左衛門(当時松吉)さん、人形の徳三郎(当時徳丸)さんの二人だけです。
 今、この時の番附を見ますと、私の名前の上に、宗祇坊(そうぎばう)や三法師丸等の役が附いて居ますが、これは番附面の事だけで、どうして/\初舞台から役なんか附きません。役どころか、足も遣へません、唯下働きで、先づ蓮台(れんだい)(註十八)の出し入れ、横幕の開閉(あけし)め、舞台下駄を揃へたりするのがその役でした。丁度、五六日目の頃だつたと思ひますが、『式三番叟』で、東十郎さんが三番叟を遣つて居られ、最初は、四人上段に構へて居られ動きになつて船底(註十九)へ降りしな(其頃の舞台は、二重を張らず、最初から二段になつて居ました。)に、舞台下駄を履かれるのですが、その舞台下駄を揃へる役目を私がして居たのです。所が、うつかり右と左とを間違へて揃へました(舞台下駄はその先に右左の印しが附けてあります。)すると、いきなり船底に蹲(つくも)て居る私の向脛をぽーんと蹴られました。其頃の修業の厳しさ、今とは比べものになりませんでした。
 こんな苦しい修業をして、初舞台の興行は済んだのですが、御承知の如く、只今でも私は到つて小さい人間で、まして子供の時ですから極めてちんぴらだつたのです。人形遣ひといふものはやはり、相当常の恰幅(かつぷく)がある方が、何につけても得なのです。それで、この興行が終ると、頭取が私に、「お前みたいなちんぴらは間に合はへん、止めてしまひ。」と言はれたのを、手引をして呉れた栄寿さんに、「たつた一芝居で断るのもなんやさかい、まあもう一芝居使(つ)こたつとくなはれ。」と事訳をして貰つて、引続き勤める事になり、その儘今日迄続いてしまつたのです。
 そこで、次の興行は引続き沢の席で、狂言は『一の谷』と『夏祭』、前の染太夫さんと松葉屋広助さんは退座され、代りに組太夫さん(註二十)が入つて来られました。この時、「石屋の宝引」を語つて居た琴太夫さんといふのは、たしか、南地法善寺の「女夫(めうと)ぜんざい」を始めた人であつたと聞いて居ます。
 それから夏休みがあつて、十月に『筆海四風聞書(ふでのうみしこくきゝがき)』の通し、これは弘法大師さんの浄瑠璃で、中が『近江源氏』の八つ目、切に「鰻谷(うなぎだに)」で、駒太夫さん(註二十一)と重(しげ)太夫さん(註二十二)が入座せられ、夫々「紋下(もんした)」(註二十三)、「庵紋下(いほりもんした)」(註二十四)の位置に座られました。この駒太夫さんは、今の駒さんの先々代だと思ひますが、大きい身体でよい声でした。又、重太夫さんは、大物を得意として居られました。駒太夫さんの役場の「貧女一燈」の段は、数年前四ツ橋文楽座で、古靱さんが友治郎さんの絃(いと)で語つて居られたものと大体同じであつた様に思ひます。この外題は、通しで演ると早替りの場があつて、朝太夫さんの役場の「雨乞祈り」の段では、辰五郎さんが、廻り道具の真中へ祈り台の様なものを立てゝ、その両面で早替りをして居られました。又、朝の内にも早替りや宙乗りがあって「石槌山」の段では、二階桟敷の隅から、「大尽柱(だいぜんばしら)(註二十五)へ、場内の空(くう)を横切つて綱を引張り、上から、右腕に紐を括(くゝ)つてぶら下り、左で人形を遣ひ乍らする/\と降りて来られましたが、下の方に近附くと、お客さんの頭に辰五郎さんの足がすれすれになつて居ました。又、柱へどんとぶつかるので、柱に蒲団が巻き附けてあつた事を憶えて居ます。
 この興行が終るとすぐ、私に取つて一つの災難が起りました。それは、当時私は、まだ見習でしたので鑑札を持つて居なかつたのが悪かつたので、その頃、今の南地演舞場の前にあつた警察署へ引張られました。徳丸さんも一緒に呼出されましたが、なんだか暗い所へ連れて行かれ、大層怖かつた事を憶えて居ます。それでも、私は年少といふので、お目玉だけで帰して貰ひましたが、徳丸さんは、五十銭の罰金を取られました。
 十一月は、引続き『忠臣蔵』を打ちましたが、どうした事か沢の席の興行は之が最後でした。此時は、「松伐り」が掛合で、組さんの本蔵、春子さんの若狭之助で、大変な好評でした。沢の席は、其後も暫く寄席として続いて居ました。呂昇さんなんかも出て居たと思つて居ますが、私達の一座は、翌年のお正月から、博労町いなり境内の彦六座へ出る事になりました。
    〔註〕
 十四 【八代目染太夫】六代目竹本染太夫の門弟にて、五代目染太夫(越前大掾)の実子也。田穂と言へる素人の出。慶応三年太夫となり、津太夫(二代目)にて出座、後染子太夫と改名、明治三年に六代目竹本梶太夫を相続、次で同十二年三月、松島文楽座にて『廿四孝』三段目を語り、八代目を相続、同十七年六月十八日四十一歳にて歿。明治初期の大立物にして、越路太夫等の強敵なりき。
 十五 【春子太夫】五代目竹本春太夫の門人にて、明治五年より出座、後、二代豊澤団平の指導にて、竹本越路太夫(後の摂津大掾)と共に、明治期に於ける斯界の二大傑となる。明治十七年十一月三代目相続。大正二年七月三十日、六十歳を以て台南に歿す。
 十六 【広助(松葉屋)】三代目豊澤広助門弟にて、西京の出身、陸奥茂太夫の倅也。初名豊之助と言ひ、冨助より二代目猿糸となり、次で五代目相続、越路、津(法善寺)、染(八代目)等の合三味線にして、明治三十七年二月十八日歿。
 十七 【初代新左衛門】三代目広助の門人にて後、二代団平の預りとなる、初名松之助と言ふ。それより仙八と改名し安政三年三月、清水町濱芝居にて再改名豊澤新左衛門となる。初代也・春子太夫(後大隅)、初代柳適太夫等の合三味線なり。明治十九年一月七日、五十四歳にて歿。
 十八 【蓮台(れんだい)】人形の舞台で小道具万端を置く台。
 十九 【船底】人形の舞台は、二段になつて居て、その下の方。
 二十 【組太夫】五代目竹本春太夫の門人なれど、元は西京にて、玉吾といふ豆腐屋なりき。明治六年、五代目名跡を友子太夫より貰ひ受けて出座、初め主として文楽座に出勤せしも、後、多く彦六座系芝居に出勤、大隅太夫と位置を争ひし程の名人也。初代豊竹柳適太夫、初代豊竹呂太夫と共に明治期に於ける三大化物(素人より黒人になつた者)の一人也。同三十八年七月二十五日、五十九歳を以て東京に歿。
 二十一 【駒太夫】四代目豊竹巴太夫(六代目豊竹若太夫より四代目を相続せし人)の門弟にて、三国といふ素人出也。弘化の頃より豊竹冨司太夫と名乗り出座、慶応元年九月、五代目を相続、明治二十年七月十一日歿。
 二十二 【重太夫】三代目竹本津賀太夫の門弟にて、初名竹本蔦太夫と言ひ、安政年間より出座、後竹本阿蘇太夫と改名、慶応三年三月には六代目竹本むら太夫となり、明治十三年四代目相続、同十七年六月引退、その後、六代目竹本政太夫を襲名し、同十九年八月五日、六十二歳にて歿。
 二十三 【紋下(もんした)】一名「櫓下(やぐらした)」とも言ひ、一座のたばね、総座頭の事。人形芝居の表玄関、丁度櫓の下に当る中央に、欅の一枚板の看板がある故「櫓下」と言ひ、番附面では、座本の紋所の下にある故「紋下」と呼ばる。因に、明治年間に於ける、文楽座の歴代の紋下の名を記せば、太夫では、竹本染太夫(六代目)、豊竹湊太夫、竹本春太夫(五代目)、竹本実太夫(後四世長登太夫)、竹本越路太夫(後摂津大掾)、竹本津太夫(法善寺)三味線では、二代目豊澤団平、五代目豊澤広助、人形では吉田玉造なり。
 二十四 【庵紋下(いほりもんした)】番附本欄外、に設けたる別看板の事にて、紋下太夫及本欄内の太夫との関係は、場合に依つて一様ならず。明治時代、文楽座にては、竹本越路太夫の紋下に対し、竹本津太夫の「菴」なるがその一例(第九章に掲載の明治三十五年九月、文楽座番附参照)。
 二十五 【大尽柱(だいぜんばしら)】太夫の高座の向つて左側の柱。即ち舞台の横幕の向つて右側の柱。
 三、 彦六座時代
 彦六(ひころく)座は、明治十七年一月に博労町(ばくろまち)稲荷境内に出来た人形芝居の小屋で、お仕打は、寺井安四郎さんといつて、長堀中橋南詰に「灘屋」といふ駄売酒屋の旦那で、普通、灘安(なだやす)さんで通つて居ました。又、十八(とはち)といふ号で、広作(後の六代目広助)さんの素人弟子仲間の一人でした。
 その最初の興行は『菅原』の通しで、一座は、重太夫さん、春子太夫さん、組太夫さん、源太夫さん、朝太夫さん等に、新加入の柳適(りゆうてき)太夫(初代)さん、絃では新左衛門さん、勝七(二代目)さん、広作さん、人形は、辰五郎さん、東十郎さん、駒十郎さんなどでした。新加入の柳適さんは、先に巴太夫といふ名で松島文楽座へ出て居られたと聞いて居ましたが、元は、灘の「柳店(やなぎみせ)」といふ酒屋の旦那で、京都の友治郎(五代目)さん(註二十六)が稽古をして居られました。丁度、休み中だつたので、お仕打の寺井さんが、同業の好(よし)みから呼んで来られたのでせう。そして、柳適(りゆてき)太夫と改名して出られたのですが、この時は、もう次の巴太夫が出来て居ましたので、口上に「先(せん)巴太夫改め柳適太夫−」と、言つて居ました。口上は、数年前文楽で亡くなつた最年配者であった冠四(当時友造)さんが言つて居ました。役場は、二の切「相丞名残(しやうじようなごり)」でしたが、その語り振りといったら実に上品なもので、扇子を手に持つて膝の上に置いた儘で、見台へ手を懸ける様な事は殆んどありませんでした。それでも大きな声が出て居たのです。ほんとうの旦那衆の芸と言ふのでせう。それに面白い事には、妙な癖があつて、見台の前に紙縒(こより)が置いてあつて、時々耳をほじくつて居られました。又、湯呑の中へ指を入れて、耳たぶを湿して居られました。この芝居は、最初の興行で、道具、衣裳万端新調でしたのに大変な不入でした。そして、人形の辰五郎さんと駒十郎さんは、この時限りで退座されました。
 翌二月は、『先代萩』を立てゝ続けましたが、松葉屋の広助さんが入つて来て、三味線の紋下に座られました。又、人形では、才治さんと小辰造さんが入つて来られ、番附に初めて「いなり彦六座」と座名が揚りました。そして、この芝居からお客様が来出しました。
 三月には、松島文楽座から盲の住太夫さん(註二十七)が入座され、重太夫さんと各月交替で「紋(もん)下」と「庵(いほり)」とに座られる事になりました。その上、人形の才治さんが紋下に入り、太夫、三味線、人形と三人紋下が揃ひました。この時は、前が『八陣』の通しで、「正清本城」は重太夫さん、『白石噺』の「揚屋」が住さんでしたが、盲でもとてもよい声で、おのぶの出など、お客様をわあ/\喜ばして居られました。次が柳適さんの『日向島』でしたが、一日、この最中に北側の二階桟敷がぎーと落ちかけて来ました。大変な入りだつたので、お仕打さんは、すつかり調子に乗つて、次の五月、住さんの語られた「大文字屋」の端場(はゞ)の「清水坂」(源さんの役でした)の道具等、実に綺麗なもので舞台から客席の天井一ぱい桜の満開でした。
 七月の前狂言に、『加賀見山』が出て居て、岩藤は才治さん、お初は辰五郎さんでしたが、大詰の「奥庭」で、才治さんの岩藤が、客席まで逃げ出します。辰五郎さんのお初は追ひかけねばならず、とう/\舞台を空にして平場で岩藤とお初の立廻りが始まるといふ始末で、岩藤はますます逃げて、終ひには太夫の床へ上つてしまひましたが、お客様はわあ/\言つて喜んで居られきした。
 八月は、一月休んで其間に小屋の改築が行はれました。
 盆替りは、新築記念興行でしたが、二月以来こちらの大入続きの為、松島の文楽座の方が客足が悪くなつてしましたので、御霊神社(ごりよう)の土田の席を改築して、やはり、同じ九月が柿葺落(落(こけらおと)しでした。それに、今まで文楽で越路太夫(後の摂津大掾)(註二十八)さんを弾いて居られた団平(清水町)(註二十九)さんが、この時から彦六座へ加入して、『三番叟』を勤め、三味線紋下になられました。狂言は、『四天王寺伽藍鑑(てんわうじがらんかゞみ)』の通しに、『義仲勲功記(よしなかくんこうき)』の「地蔵経」、『大塔宮(おほとうのみや)』の「身替音頭」、切が『三十三間堂』で、春子さんの名前替へ、それに御祝儀の『三番叟』があつて、それが引抜て七段返しになりました。通しの『伽藍鑑(がらんかゞみ)』は、聖徳太子の芝居で、組さんの役場の「義光館」の段では、私が「負(お)ひ人形」といふのをしました。これは、段切で本田義光が、阿弥陀池−今日の堀江和光寺の中にある池です−の中から出た仏さんを脊負つて、信濃の善光寺様へ持つて行くといふ趣向になつて居て、私が頭から義光の人形を被(かむ)り、私の脚が義光の脚で、脚絆を附け、草鞋を履いて、段切に出孫(でまご)(註三十)と平場(ひらば)(註三十一)との間の通路を無言で引込むのです。これは脊の低い者でなければ出来ないので、私がしたのです。つまり、義光の人形の引込みの態で、当時のお客さんは、「人形が歩く/\。」と喜んで居られましたが、中には、私の足を触つて見て、「アツほんまの人間やがな。」と言ふて居たお客さんもありました。そして、鳥屋(とや)口(註三十二)まで来ると、人形遣ひが私を人形と一緒に葛籠(ぼて)の中へ放り込みますので。毎日頭を打つて居ました。又、大詰の「飛騨匠(ひだのたくみ)内」の段は、住さんの役場でしたが、之は、左甚五郎の親で天王寺の五重塔をこれから建てるといふ所で、その模型が家の押入の中に飾つてありました。そして、内匠の女房が盲目で、左甚五郎が聾、その妹の亀の井といふのが唖になつて居て、見ざる聞かざる言はざるの三匹猿の趣向になつて居ました。この興行で、小辰造さんが三吾を、小兵吉さんが兵吉を襲名されました。
 次の十一月は、前が『伊賀越』で、大序から八ツ目迄で、「カツタイ村」もあり、中が『国姓爺』の「千里ヶ竹」から「紅流し」まで、切に『桂川』の「六角堂」、「帯屋」、「道行」とあり、随分長い芝居でしたが、「千里ヶ竹」では、景物として、名前ははつきり憶えて居ませんが、若竹某とかいふ軽業師の一座から二三人呼んで、虎の軽業をして貰ひました。この段へ出る和藤内(わとうない)は、襟首の処へ天照皇大神宮様のお札箱を差して居て、それが、後の三段目になって、和藤内(わとうない)の母の監禁されて居る部屋に祀つてあつたと思ひます。今はそれをやりませんが、やはり、さうするのがほんとうかと思ひます。この時「獅子ケ城」の大隅さんは、始めて団平さんが相三味線になられた時で稽古が激しくて声を痛め、芝居では始終源さんが代りを勤めて居られました。又、「楼門」の朝さんは、この頃非常な人気で、その語り振りは大変粋なものでしたので、女太夫の仲間で「朝太夫節」と騒がれたものでした。それに切の組さんの「帯屋」が中々結構なものでした。この間亡くなった源さんの「帯屋」は、だいたい、この組さんの通りだと思ひます。組さんは、こんな物は中々よかったのですが、次に『躄』の「白瀧(しらたき)」を語られた時、これは初役と見え、奥の筆助の出の辺りで、えらくて白湯では辛抱し切れす、何時も「水や/\」と言うて居られました。
 
 さて、この当時一座の中で子供といふのは私一人限りだつたのです。ですから、舞台の下廻りの用事は勿論、走り使ひ迄私がせねばならず、朝早くから夜遅く迄、働き通しですから、その草臥れる事といふたらありませんでした。
 丁度、二月[明治18年?]だったと思ひます、大切に『娘道成寺』が出て居て、辰五郎さんの白拍子で、その左は亀松(二代目)さんと兵吉さんの交替、足が玉松(後の三代目玉造)さんで、私は、「差出(さしだ)し」を持つて出て居ましたが、御承知の通り、「差出(さしだ)し」は、その先に百匁の蝋燭が附いて居るので、重くて持ちにくいのです。その上、之が切狂言と来て居るので、今申す如く、身体はへと/\になつて居る頃で、半分居眠つて居る有様ですから、時々、先の蝋燭がコロリと逆様になり、それで何回叱られたかわかりません。只今では、余り「差出(さしだ)し」を使ひませんが、当時は、何か景事(けいごと)といふと必ず使つたものです。
 四月に、『蘆屋道満』が出て、「保名狂乱」で、私が再び「負ひ人形」をしました。この時の「保名狂乱」は、近頃出るのと少し違つて居て、悪右衛門が出て居ました。そして、その悪右衛門が段切に葛(くず)の葉(は)姫を脊負つて引込むのですが、それが体だけお姫様で、顔は狐の葛(くず)の葉(は)狐でした。つまり、悪右衛門が狐に騙されて居るといふ趣向になつて居ました。私は、その悪右衛門の人形を被(かぶ)つたので、狐と悪右衛門の二役は、辰五郎さんの早替りでした。
 翌五月には、『五天竺』が立ちましたが、御承知の如く、この外題は、宙乗り早替り等のケレン物の本尊の様なもので、辰五郎さんが、孫悟空(そんごくう)で盛んに宙乗り早替りをして居られましたが、越太夫(後の五代目住太夫)さんの役場の「釜煮の段」も宙乗り早替り場で、悟空(ごくう)が釜の中に入れられて蓋をすると、中から抜けて出て、二階桟敷の一角に拵へてある雲の道具から宙乗りで出る事になつて居ました。ところが、その介添をして居られた兵吉さんが、ある日、辰五郎さんの身体を宙乗りの綱に引懸ける時に、うつかり襦袢の襟も一緒に、連尺(れんじやく)(註三十三)の先の環(くわん)に引掛けてしまひました。所が、襦袢の襟は、はだけぬ様に糸で堅く縫ひ附けてあるので、それを後から吊り上げ[+た]のだから堪りません。辰五郎さんの首がだん/\締つて来て、三分位出た所で、バツタリ人形を落してしまつて、鼻を垂れ、目を白黒さして居られます。さあ大変な騒ぎで、お客様はざわめく、幕を引く、大騒動になりましたが、素早く手配したので、飛んだ首吊りも、幸ひ息を吹き返されましたが、それよりも介添の兵吉さんが真青になつて居られました。
 その六月に、住太夫さんの『和田合戦』の三段目「市若初陣」が出ました。今でこそ私は、この場の板額(はんがく)の役が大好きで、又、これは後で申しますが、御霊文楽座で先代紋十郎さんの代役で、初めてこの板額を勤めました時、大変好評を頂き、謂はゞ、この役が私の出世芸の様なものですが、何分当時は、未だ子供ですから、この難しい浄瑠璃が、結構の、好きだの処ではなく、唯、もう眠くて/\仕様がないので、ツメ人形(註三十四)が、其頃葛籠(つゞら)にかためて入れてありましたので、その中へ入つて眠つて居ました。舞台からは、「光こ/\/\」と呼んで居るのですが、人形の中へ潜つて居て見附からないのを幸に、そ知らぬ顔をして居ましたが、今から考へると、飛んでもない事です。この前の年の『法界坊』の時にも眠つた事がありました。この時は、引幕にくるまつて眠つて居たのですが、夢を見ました。何だか「綱をくれ/\」とか言つて居る様な気がしてびつくりして舞台へ飛出して叱られた事があります。兎に角、此頃は眠い時代でした。
 この年の暮頃に、朝太夫さんが追出しに「鈴ケ森」を語つて居られましたが、大変な人気でした。
 
 翌十九年の五月に団平さんのお内儀(かみ)さんの作で、団平さんの節付の『弥陀本願(みだほんがん)三信記(しんき)』の書卸しでした。これは、全二十三冊物で、大序から第十迄が親鸞(しんらん)上人の御伝記、第十一から第十六迄が蓮如(れんによ)上人の御伝記、第十七から第二十迄が顕如(けんによ)上人の御伝記で、これで丁度三信記になる訳です。この後も、彦六系の芝居で度々上演され、御霊文楽座でも十数年以前一度出ましたが、大抵、顕如(けんによ)上人の条がなく、二信記になつて居ました。この芝居は大入満員続きでしたが、暑くなり初めから市中にコレラが流行して来て、之が亦『三信記』の芝居以上の大流行で、遂に、興行停止のお達しが出ましたので、二十五日限りで休業してしまひました。
 前にも申した事ですが、文楽の初代玉造さんの息子の初代玉助さんは、たしか、この間にやはりコレラで亡くなられたのだと思つて居ます。そしてコレラは益々流行しましたので、盆替りも打てず、十月も休み、十一月になつてやつと一日に初日を出す事が出来ました。狂言は、引続き『三信記』で、附け物の柳適さんの「十種香」もそのまゝ、太夫、三味線、人形の配役、万事前の通りでした。
 翌二十年一月には、『先代萩』が立ち、「御殿」は柳適さんで、私は、鶴喜代(つるきよ)君を持たせて貰ひました。私が役らしい役を持つた初め位です。
 次の二月が、『三十三所花野山』の通しでした。有名な「壷坂寺」は、この中の一段で、団平さんのお内儀(かみ)さんの作で、団平さんの節附と言はれて居ますが、「壷坂寺」の書卸しはこの時でなく、明治十二年の秋頃に、当時大江橋に席があつて、其処で出たのが抑の最初で、役場は島太夫さん(註三十五)といふ方であつたと聞いて居ます。しかし、現今、皆が語る「壷坂寺」は、やはり、この彦六座の時のが元祖で、五行本も大隅さんの名前になつて居ます。又、現今、文楽でよく出ます「良弁杉」も、この中の一段にありました。この方は、明治十二年の時には、全然なかつたとの事で、この時が全く初演になります。やはり、只今上演される様に、四段から出来て居て、「志賀ノ里」が朝太夫さん、「桜宮」が若太夫さんなどの掛合で、「東大寺」が七五三(しめ)太夫さん、そして、「二月堂」が柳適さんでした。元々、この「二月堂」の段は、柳適さんの語り口にピツタリ合ふ様に、節なり文句なりが出来て居ますから、それは/\大変な好評でした。それに、人形の辰五郎さんの良弁大僧正も、実に結構なものでした。それから、この時、渚の方は、「二月堂」だけが才治さん、後は亀松さんでした。所が、亀松さんは其頃、まだ三十余りの若さでしたので、「志賀ノ里」の渚の方はよいが、それから三十年経過した「桜宮」の婆さんの頭(かしら)の渚の方が、どうも遣ひにくかつたのでせう。(その頃は、私は子供で何も解りませんでしたが、今考へて見ると、どうもさう思へます。)それで、「桜宮」の渚の方は、「ふけ女形(おやま)」(註三十六)の頭(かしら)を少し汚(よご)して遣つて居られました。
 その三月に、大隅さんが切狂言に『往古曾根崎村噂(むかし/\そねざきむらうわさ)』の「教興寺村(きようこうじむら)』を語られた時、『徳兵衛の辰五郎さんが、「喰はずに居れば、一年は暮らせる−。」の件るで、草履を片方脱いで、その裏で算盤を置く科をして居られた様に記憶して居ます。
 六月に当昇(としやう)といふ、源吉(後仙左衛門より三代目団平になつた方)さんの稽古して居られた素人の旦那が、此太夫と名乗つて、源吉さんの絃(いと)で出座、附け物に『融通大念仏(ゆうづうだいねんぶつ)』を語られました。此太夫さんは、何でも王造(たまつくり)辺の油屋の旦那だと聞いて居ましたが、芝居に出られる様になつてからは、難波新地にお茶屋をして居られました。そのお茶屋の名前は忘れましたが、亀松さんや、兵吉さんや、玉松さんのお伴をして、私も二三回行つた事がありました。
 その盆替りに、『三十三所花野山』の後篇が出ました。この中、大隅さんの語られた「吉原品川楼」の段で、辰五郎さんの役の谷豊永(たにとよなが)といふのが散切(ざんぎ)り頭でした。人形で散切り頭は、これが最初だと思ひます。頭(かしら)は源太(げんた)でしたが、何でも、下にシヤツを着て、飛白(かすり)の着物に兵児帯か何かを締めた書生上りの風でした。そして、その相方の花魁(おいらん)は盛紫(せいし)といつて、亀松さんの役でしたが、この方は、夕霧(ゆうぎり)の様な大時代の風をして居ました。何分古い事なのでよく憶えて居ませんが、二人の間の子供か何か、お春といふ娘が居て、之が非常に賢い子で、意見をする様な所があつたと思ひます。そのお春は、後の多為蔵さんが、金之助時代でしたが、東京から下つて来て、其頃一時、楢吉(ならきち)といふ名で出て、遣つて居られましたが、私はその足を遣つて居ました。
 その年の冬、『苅萱桑門(かるかやどうしん)』が立ちましたが、「高野山」は柳適さんで、辰五郎さん苅萱(かるかや)道心の足を持つて居ましたが、石童丸との名残りの間が二十分程掛り、芝居はあつても殆んど動きがありません。そして、その間、高下駄を履いた足をきつちり揃へて居なければならないので、これにはほと/\弱りました。一寸気を抜くと、すぐ跛(ちんば)なるので、動けない苦しさに毎日泣き通しました。こんな所は、お客様に見て頂けない人形遣ひの苦しさです。
 翌年[明治21年]、二月興行は、一月二十八日の初日で、『太平記忠臣講釈』の通しで、七ツ目が住さん、八ツ目が組さんに、中が『八陣』の「政清(まさきよ)本城」で柳適さんの役場、切が此さんの『吃又』に、「大津絵」の景事(けいごと)でしたが、忘れもしません、十二日目、二月八日の午後八時頃、丁度舞台は、「八陣本城」の政清(まさきよ)が血を吐いた所、舞台の南側の楽屋裏、お稲荷さんの本社の北裏手東へ寄つた方から火が出ました。誰言ふともなく、「火事や/\」の叫び声に、場内は忽ち大騒動となり、お客様はざわめく、子供は泣き出す、その中に火はます/\盛んになり、もう手が附けられぬ様になりましたが、この日、お仕打の寺井さんは、折悪しく、中の芝居か何処かへ見物に行つて留守中、それでも、お内儀(かみ)さんはもう帰つて居られ、流石に、お客が全部出てしまふ迄、帳場に座つて居られました。一方、私達は、火事となるより、先づ何よりも人形を出さねばなりません、私は、この時、舞台で玉松さんの主計之助(かずえのすけ)の足と、玉枝さんの大内義弘(おほうちよしひろ)の足とを持つて居ましたが、早速、人形を両手に抱へて、さしづめ境内の南側にある茶店へ運びました。そして、又引返へして人形を救ひ出します。それを、二回、三回、四回目に中へ入らうとした時、もう二階から火の粉が出ましたので、どうする事も出来ず、唯灰になつて行く小屋を茫然と眺めるだけでした。又、床(ゆか)の柳適さんは、すつかり周章てゝしまつて、肩衣を着けた儘、右手に湯呑一つを持つて、うろうろ/\/\して居られました。さうかうする中、火はすつかり小屋を包んでしまひ、舞台の金襖に火が附いてきら/\と燃え上り、吊(つる)し縄が切れてバタツと落ちる、その光景は今だに目の前にちらつく様です。火はそれから、東の方へ延び、其頃、心斎橋(しんさいばし)博労町(ばくろまち)辺にあった石原時計店辺まで行つて消えました。又、その、同じく働いて居た玉六(今の玉七)さんは、兄さんの玉七(後二代目玉助より二代目玉造)さんが、兵吉さんと義兄弟になるので、兵吉さんの荷物を片附け、私が加勢して捧荷にして、小屋から順慶町(じゆんけまち)佐野屋橋西、南側に蒲鉾屋をして居られた兵吉さんの知り合ひの家まで担いで行きましたが、翌日は、その荷物を二人ではどうしても持てませんでした。こんな事で、兵吉さんの荷物は、殆んど焼けませんでしたが、大した物は無かつたにせよ、私の持ち物はすつかり焼いてしまひました。それでも、兵吉さんが、大切の景事(けいごと)に遣つて居られた鯰押(なまずおさ)への人形など半焼けになつて居ました。
 この火事は、放火だとの事でしたが、お仕打さんは、直ぐ小屋の新築に取掛かられ、六月に出来上りました。しかし、後になつて考へて見ると、この火事が、彦六座の抑の運の尽きであつた様に思ひます。
 
 彦六座の普請の間、私達は旅に出ました。これは私に取つては始めての旅で、一座は、太夫では芳(よし)太夫さん達、人形は、兵吉さん、玉松さん、小才(後に卯三郎より助太郎)さん、玉六さんに私達の極めて小勢で、大和方面を巡りました。その頃は、まだ汽車もない時分で、天王寺の河堀口(こぼれぐち)から、国分峠の麓まで馬車があつて、其処から草鞋がけで峠を越えて、大和国に入るのでした。大和の高田に知り合の家があるので、一旦落附いて、其処から方々と巡りました。今でこそ、そんな不自由な事はありませんが、大和国は、海のない国ですから、魚が喰べられません。それで、巡業中もお膳に魚が附いた事がありませんでした。所で、場所は記憶しませんが、或時のお仕打が川魚問屋で、昼食のお膳に、鯉のお吸物が出ました。私共は、お魚に飢ゑて居た所でしたから、俗に阿呆の三杯汁と言ひますが、そのまだ上で、四杯も食べましたのには、我乍ら驚きました。賎しい事を言ふ様ですが、実際、此次には何時お魚が口へ入るかわからなかつたのです。もう一つお魚の話ですが、大和では紀州の熊野から一夜塩の鯖が来ます、大阪へ送るのには、もう一日掛かるので、よい手土産になつて居ました。それで、私も、十尾求めましたが、そんな事やら、色々とお金を使ひましたので、大阪へ帰つた時は、旅で儲けたお金は少しも残つて居ませんでした。
 又、この旅の最後が土佐町でした。土佐町と言へば、御承知の「壷坂」の中に出て来る町で、そこで、お仕打から、場所に因んで「壷坂」を語つて呉れとの注文が出ました。所が、今でこそ、「三つ違ひの兄さん」で誰知らね者のないこの浄瑠璃も、当時は、何分前年の二月に大隅さんが語られた許りですから、太夫衆でも、まだはつきりと憶えて居なかつたので、誠に面目次第もない事でしたが、注文に応ずる事が出来ませんでした。
 土佐町を終つて、又元の高田へ帰り、一日泊つて大阪へ立つ積りでしたが、高田へ著いたのがまだ昼一寸過ぎでしたので、若い我々の足なら大阪まで十分帰れるだらう、といふ事になつて其儘大阪まで直行する事にしました。丁度初夏で、野道をぶら/\歩くのはこの上もない愉快な事で、畔には青蛙がピヨン/\飛んで居ました。それを見て、誰がやり出すともなく、蛙を煙草で釣る悪戯(わるさ)を始めました。火の附いた煙草を紐の先に附けて、蛙の側へ持つて行くと、パクツと喰ひ附きます。それをヒヨイと向ふへ投げると、蛙が後足をシユツト延ばして死にます。それが無上に面白かつたので、そんな事をしながら、ぶら/\と歩く中、或る小川の辺へ来ると、犬と蛇とが喧嘩をして居ます。蛇が鎌首を立てると、犬が逃げ出します。附近に遊んで居る子供が犬に加勢するので、又かゝつて行きます。それを長い間見物したりして居ました。そんな事ばかりして居ましたので、国分峠へさしかゝつた時は、もうお日様が西に片向きかけて居ました。「こらえらいこつちや」と、大急ぎで峠を越して、天王寺行の馬車の出発所まで来ますと、馬車はもう出てしまつた後、高田を出る時は、馬車の時刻を計つて出たのに、途中遊び過ぎた為、こんな事になつたので、人力車はあるがそんな贅沢なものに乗るお金はないし、せん方なく大阪までとぼとぼ歩き出しましたが、がつかりした所為か、平野へ来た時は、もう歩けぬ様になりました。それから、重い足を引摺り乍ら、やつと夜の九時頃家へ辿り着きました。其頃、私は、下寺町生国魂(いくだま)神社の附近に住んで居ました。こんな事を思ふと、今の旅なんか楽なものです。私が、この次に大和方面を巡つた時には、亀の瀬まで汽車が開通して居ました。
 
 この旅から帰ると、すぐ彦六座の新築記念興行の稽古に取掛りました。『中心講釈』で焼けたのだから、『忠臣蔵』で開けようといふ事になつて、六月二十日初日でした。新靱さんの「殿中」、組さんの「扇(あふぎ)ヶ谷(やつ)」、柳適さんの「勘平切腹」、住さんの「山科」に、「茶屋場」は、柳適さんの由良之助に、住さんのおかる、組さんの平右衛門で、御祝儀の『三番叟』から引抜きが数段ありましたが、中に「老松(おいまつ)」といふ景事は、何でも松の精で、老松(おいまつ)太夫を亀松さんが遣ふて居られました。又、「龍宮城」といふ中々面白い景事がありました。正面の雛段に出囃子で、浦島は辰五郎さんで、乙姫が三吾さんで、私は、浦島の足を遣ひましたが、大体が踊りのものですので、丁度、お仕打の寺井さんのお妾さんが芸妓さんでしたので、その方に皆踊を習ひに行きました。
 盆替りは、『伊賀越』が立つて、「饅頭娘(まんじゆむすめ)」、私は、おのちを遣ひました。その頃は、ほんとうのお饅頭を使つて居て、舞台が済むと、おのちの役の私が貰ふ事になつて居ましたが、時々、皆が悪戯をしてお饅頭の中へ唐芥子なんかゞ入れてありました。
 次の十月、『逆巻浪夢之夜嵐(さいがうゆめものがたり)』といふ西郷隆盛の浄瑠璃が出ました。この時初めて、人形に洋服を着せたので、散髪は、前の『三十三所』の後篇の方にあり、今度は二回目ですが、洋服は、この時が最初です。
 
 翌二十二年正月は、『妹脊山』の通しで、私の役は、二段目に出る三作でした。これは、小鼓で万歳を舞ひますが その振りの事で辰五郎さんに大分喧しくお小言を頂戴しましたので、今でもよく憶えて居ます。この興行中に紋下の住太夫さんが亡くなられ、その後釜に座る適任者がないとかで、お仕打さんが、太夫元として紋下の所に座られました。
 二月に、『菅原』の通しの時、小太郎と、「配所」(註三十七)の童子を遣ひました。「配所」は、今ではちつとも出ませんし、原作にもなかつたものだと聞いて居ます。草刈籠を持つて笛を吹きながら出て来るのですが、前にも申しました様に、私は、師匠無しで、彦六座の旗揚げの最初から勤めて居りましたので、謂はゞ彦六座の生抜の子供で、丁度、文楽での玉助さんの様な生立(おひたち)だつたので、お仕打の寺井さん御夫婦には、非常に可愛がつて頂いて居ました。この時も、初めての出遣ひの御祝に、肩衣(かたぎぬ)を頂戴して、大辺嬉しかつた事を憶えて居ます。
 その月末に、一座の者共で「初午芝居」をやりました。狂言は、『雁金五人男(かりがねごにんをとこ)』、『先代萩対決』、『白石の明神森』、『曾我之対面』に『油屋十人斬』でした。私の役は『明神森』の志賀台蔵(しがだいざう)で、亀松さんの谷(たに)五郎(ろう)に斬られる所で、トンボを返りました。正雪は玉米さんで、此方は大体(だいたい)の恰幅(かつぷく)が立派で、顔も垂れ頬で、一寸先代の阪東寿三郎さんに似て居ると、大変な好評でした。一方亀松さんの方は痩せ形なので、立廻りに苦しく、ヒイ/\言ひながら「水や/\」と叫んで居られました。その外、面白かつたのは、『五人男』の此太夫さんの角兵衛で、元々太夫さんですから台詞(せりふ)はよいが、型が附かず、折角見得を切つても、足がなんば(註三十八)になつて居ました。又「対決」で、兵吉さんの原田甲斐(はらだかひ)は、顔が鼠の様だつたので、「鼠の原田や」と皆が言ひました。
 三月に、辰五郎さんの光秀の足を遣ひましたが、この頃は、少し呼吸が解つて来た頃で、血気に任せて力一杯遣ひましたので、辰五郎さんは、「そない引張つたらどんならん。」と言ふて居られました。
 その次は、辰五郎さんの阿古屋の足でしたが、阿古屋は、普通三枚袘(ふき)なのですが、この時は、四枚袘(ふき)であつたので、これにはとても遣ひ悪(にく)くて困りました。
 六月に、辰五郎さんが、団七を遣つて居られましたが、これは、全く絶妙でした。「泥場」で、義平次(ぎへいじ)を斬つて、釣瓶の下で正面向きに、刀の柄を両手で握り、肩に担つて入込んだ形は、何とも言へませんでした。これは、余り人形には無い形なのですが、私は、やはりこの時足を遣つて居て、よく見て置きましたので、及ばず乍ら、近頃役が附くとこの型をやります。又、「田島町」の「蚤取つた、徳兵衛何取つた」で、振り返る姿と、息組の物凄さは、実際口では申されません。今だに目に残つて居ります。それに此段の人形は、皆浴衣を著て居ます。元々、人形の姿といふものは、衣裳で形を造るので、厚い着物の時はよろしいが、着物が薄いと実に遣ひ悪い主(おも)遣ひは勿論の事、左も足る余程よく一致しないと、ふつくらしたよい形が出来ません。団七など、「泥場」も勿論難(むつか)しいのですが、この方は裸で丸胴(註三十九)を用ひますから、まだよろしいが、「田島町」は、普通の胴で浴衣一枚と来て居るので、実際苦心します。こんな所も、余りお客様に見て頂けなくて、遣ふ方ではとても苦しい所です。
 盆替りに、珍らしく『極彩色娘扇(ごくさいしきむすめあふぎ)』が立つて、「増井(ますゐ)兵助殺し」で、本雨を降らせました。段々濡れて来るに従つて、黒衣が顔にぺつたりくつついて目が見えなくなるので、目の所に窓をあけました。又、下から飛沫(しぶき)が跳ね返る所を見せる為、奈落(註四十)から吹き上げを出しましたので、それが股の中へ入つて困りました。それに、初めの中は、濡れるのは何ともありませんでしたが、中頃から少し寒くなつて来ました、が、それ以来本雨は用ひません。
 十月は、『加賀見山』が立つて、「又助住家」は、床が組さんと松太郎さん、又助が辰五郎さんで三人共実に結構なものでした。私は、この時カゲを打つて居ましたので、この時の又助の型はすつかり憶えて居ます。
 次は、おちか(清水町団平さんのお内儀)さんの作で、『妙法真伝記(めうほうしんでんき)』の書卸しでした。『日蓮記』を三段目まで通し、後はお弟子の日進(しん)、日親(しん)、日審(しん)上人の伝記でしたが、最後の日審(しん)上人の条は中々面白く、俗に「飴日審(あめにつしん)」と言ふて、何でも、絹屋清左衛門の娘が、家は日蓮宗であるのに、真宗の男と夫婦になつて妊娠します。所が、その娘に番頭か何かゞ惚れて居たが、靡かないので殺してしまふのが、最初の「十二坊土手」の段で、源さんの役場、次が「題目飴」で、越さんの役場でしたが、此処で殺された娘が、幽霊になつて飴を買ひに来ます。その飴で稚子(みづご)を育てゝ居ると言ふ筋になつて居ましたが、此段で題号(だいご)がありました。題号と言へば、「大文字屋」で伝九郎が唱へる有名なのがありますが、「大文字屋」は、当時では住さんがよかつた、でこの時は、そのお弟子の越さんが、師匠写しで語つて居られました。「妙法蓮華経、申すもおろかや『立本寺(りゆうほんじ)の壇中、絹屋清左衛門に娘あり、他宗の者と縁を組み、宝防在のその罪で、もちごもりにて死したりける。」とか言ふ題号だつたと思つて居ます。
 十一月に『安達ケ原』が立つて、三段目で辰五郎さんの貞任に、私がカゲを打ちましたが、打ち損ふと、何にもお小言は出ないが、翌日から其処の型が変るので、毎日々を気を揉み通しました。
 
 翌年[明治23年]の一月、大隅さんの「合邦(がつぽう)庵室」に、辰五郎さんの玉手御前(たまてごぜん)、私は、その足を遣ひましたが、「−つれないわいな−」で、浅香姫にこれ見よがしに、俊徳丸にべつたりくつつくので、浅香姫が十分芝居が出来る、それで嫉妬の乱行が大きくなるといふ段取で、それは実に凄いものでした。又、奥の「南無阿弥陀仏」で、鳩尾を切裂かうとするが苦しいので、ぐんにやりとなる、合邦(がつぽう)が、鐘をちんと打つと、ハツと気が附くといふ型で、合邦(がつぽう)の光造さんに、鐘の「間(ま)」を注文して居られました。
 その夏に、辰五郎さんは、『彦山』で、弥惣左衛門と六助、『白石噺』で宮城野(みやぎの)をお名残りに、夏休中に亡くなられました。又、この時、切が『千両幟』で、たしか、広作さんが大三味線を弾いて居られた様に思つて居ます。
 盆替りに、組さんが「志渡寺(しどうじ)」を語つて居られましたが、一般のお客様の評では、「源太左衛門が帰つてから後を、大隅が語つたら、申分ない『志渡寺(しどうじ)』やが、」との事でした。この芝居は、大変な不入で、僅か五六日しか打てず、すぐ狂言を替へて初日を出しましたが、狂言は『五天竺』で前に『国姓爺』の時やつた様に、軽業師を呼んで、今度は、猿の曲芸がありました。
 夏に、辰五郎さんが亡くなられてからは、三吾さんや兵吉さんも退座され、人形の一座が、大分寂しくなつて居ました。
   〔註〕
 二十六 【友治郎(五代目)】元三代目野澤喜八郎の門弟にて、初名野澤小庄と言ふ。文政十三年二代目鶴澤伝吉(後の四世友治郎)の内に入り、鶴澤庄次郎と改め、後三代目伝吉を襲ぎ、慶応二年十一月五代目を相続、又、明治十三年、故有つて五代目野澤喜八郎と襲名、直ちに元の友治郎に帰り、同二十八年八月四日、八十一歳にて歿。四代目竹本綱太夫、三代目豊竹巴太夫等を弾き、明治に入りては主に豊竹柳適太夫(五代目巴太夫時代)を弾く。
 二十七 【盲の住太夫さん】六代目竹本内匠太夫の門人にて、師の歿後三代目竹本長門太夫の預りとなる。初名竹本田喜太夫と言ひ、万延元年四代目を相続、後、彦六座の紋下となり、同二十二年一月二十二日歿。盲人なれども美音にして、明治初期の斯界の大立者にて、特に世話物の名人也。
 二十八 【越路太夫(後の摂津大掾)】五代目竹本春太夫の門弟、後竹本摂津大掾を受領せる、明治期の総帥なり。その名声余りにも有名なれば、茲に詳釈はせず。
 二十九 【団平(清水町)】二代目豊澤広助門人なれど、師の歿後三代目広助の預りとなる。幼名丑之助と言ひしも、当時より一際優れし才分は、中古の名人三代目竹本長門太夫に認められ、二十八歳にしてその相三味線を勤む。その後は、前記越路太夫と共に、有名なれば詳釈を略す。明治三十一年四月、稲荷座にて、大隅太夫の「志渡寺」を弾き乍ら歿す。斯道の神と仰がれたり。
 三十 【出孫(でまご)】劇場の両側本桟敷と、平場との間にある仮桟敷の一部、東京では「新高土間」と称す、上方にては、「出」、「新出」、「出孫」とあり。
 三十一 【平場(ひらば)】現在の劇場の一階椅子席に相当する場所、以前は桝が割つてあり、東京では「平土間」と称す。
 三十二 【鳥屋(とや)口】劇場花道の出口、現在歌舞伎で言ふ揚幕の所。
 三十三 【連尺(れんじやく)】人形遣ひや、役者が宙吊りをする場合身体に附ける具。背頚の処に環があり、それにて吊す。
 三十四 【ツメ人形】腰元、軍兵、町人、近習等に使用する一人遣ひの人形。
 三十五 【島太夫】五代目豊竹湊太夫の門人、初名豊竹千鳥太夫と言ふ、明治二年三代目を相続、同十七年二月、新潟にて歿。猫島といふ綽名あり。
 三十六 【ふけ女形(おやま)】眉を落した女形。「太十」の操、「陣屋」相模等に用ふ。
 三十七 【配所】明治三年一月、稲荷文楽座に「菅原」立ちし時、「時平館」と、「天拝山」の間に差挟みし、当時文楽主人の新作にて、越路(後摂津大掾)太夫の為に筆を執りしもの也。
 三十八 【なんば】舞踊で、手足の動作が普通と逆になる事(同じ側の手足が同時に動く事)、すじ違ひの意にて、この語の起りは、すじ違ひを治療する骨継屋が昔大阪の難波にありし所より始る。東京では、なんばんと訛る。
 三十九 【丸胴】衣裳を脱ぎ、裸体を見せる時に用ふる人形の肉附裸体胴。
 四十 【奈落】劇場舞台の地階。
 
 四、神戸へ出勤と彦六座の没落
 二十四年一月は、『廿四孝』と、『恋女房(こひにようぼ)』とで、私の役は、二段目の勝頼(かつより)と入江で、次の二月は、『太功記』が立つて、山三郎と力丸の役を貰つて居ましたが、一月興行が終ると、暫らく彦六座からお暇を貰つて、神戸へ出勤する事になりました。
 その頃、神戸の楠公さんは、未だ別格官幣社でなかつたので、境内にいろ/\娯楽機関がありその中に「菊の亭」といふ寄席がありました。それに、女義太夫がかゝり、人形は、文楽の玉五郎さんがシンで、外に、三吾さん、兵吉さん、玉米さん、栄寿さん、幸三郎(後の文三)さん、玉六さん、延次郎(今の小兵吉)さん等も時々出て居られ、私は、それへ加入したのでした。神戸へ行つたのが、丁度、一月の廿日で、それから約一ケ年間、その寄席の二階で起居して居ました。又そのお仕打の家もそこでした。
 一方、私の留守中の彦六座は、興行毎に芳ばしくなくて、十一月の末からは、兵庫の「村芝居」へ一座が引越して来て、『忠臣蔵』の通しでした。私は、菊の亭でこの事を聞き、昼間その楽屋を訪ね、久し振りで、仲間の者に逢ひましたが、たしか、朝太夫さんは、この時限りで上京されたのだと思つて居ます。又、この年の十月頃に、濃尾の大地震がありました。
 
 明る二十五年は、一月まで菊の亭で働きましたが、彦六座は、まだ休んで居ましたので、二月に、一座の人形遣ひが、京都四条北側の芝居へ出勤する事になり、私も、それに一座しました。床は、京都のお素人さん方で、『妹脊山』の通しに、何か忘れましたが、附け物がありました。
 三月四月は、引続き京都に居て、千本通の上(かみ)の方(はう)や、猪熊(ゐのくま)などの小屋に出ましたが、人形は、亀松さんが座頭(ざがしら)でした。それから、四月上旬に、大阪へ帰つて来ましたが、まだ彦六座が休んで居ましたので、再び、神戸の菊の亭へ行きました。この時も、やはり、女太夫で、人形は玉五郎さんの座頭(ざがしら)、今の文五郎さんが、巳之助時代で一緒に働いて居ました。そして、秋まで菊の亭に居ましたが、たしか、初夏の頃、一夕、前に申しました私の叔母の湊玉(みなぎよく)の弟子に、湊菊(みなぎく)といふ者が居て、原作の『佐倉宗五郎』の「子別れ」から、「渡し場」迄を語つて居ましたが、人形は、玉五郎さんの宗五郎に、幸三郎さんの喜右衛門、私のおさんでした。処が、前の方に西洋人が見に来て居て、だいたいの善人悪人位は解ると見え、宗五郎と喜右衛門の立廻りになると舞台際まで来て、喜右衛門の人形を蹴ります。そして私のおさんが出る、いきなり、手摺際(てすりぎは)(註四十一)まで来て、私の片手を握り、片手でポケットからお金を出して、私に握らせました。私も、あまり突飛な事と、びつくりしましたが、舞台はその儘に勤めて、部屋へ入つてから調べて見ると、当時のお金で三円程ありましたので、大笑ひして、部屋中御馳走をしました。
 
 神戸を十月に引揚げ、十一月から彦六座へ出勤する事になりました。この時、光栄(みつえ)から今の名前の栄三(えいざ)に改めたのです。之に就いて、少し申しますと、最初にも申しました如く、私は、師匠無しで来ましたが、光栄(みつえ)といふ名前は、度々申しましたが私を人形遣ひへ手引してくれた栄寿さんの前名で、当時、私は、もう二十一歳、色々と欲も出て来て、独立したいといふ気がありましたので、それには、光栄(みつえ)の名を栄寿さんに、お返しした方がよい、そして、自分は、本名の栄次郎から取つて、栄三郎と改め、一本立にならうと思ひ、お仕打さんにこの事を申しますと、予々(かね/\)可愛がつて頂いて居る事とて、色々と親切に言つて下され、「栄三郎の『郎』はいらへんがな、、栄三(えいざ)にしときなはれ、」と、番附もそのやうにしてしまはれたのが、今日までの仕来りになつてしまつたのです。この時の狂言は、『大江山』の通しに、『三日太平記』、切が『植木屋』で、私の役は、碓井貞光(うすゐさだみつ)と松下市作でした。
 
 次の年[明治26年]の一月、『一の谷』が立つた時、私は、「流し枝」の梶原(かぢはら)を遣ひました。この梶原(かぢはら)は、大きい人形で、追手に一寸出るだけですが、菊の前を遣つて居られた鹿造さんが、見て居られ、梶原の形がよく出来て居たと、賞(ほ)めて頂きました。
 又、三月、『狭間(はざま)合戦』の「官兵衛砦」で、玉米さんの役の、中の早打を一日代りをしました(私の本役は、初めの早打でした。)時も、鹿造さんに賞めて頂きました。鹿造さんは、中々舞台の喧しい方で、出来不出来を無遠慮に言ふ方でした。この中の早打は、とても長いもので、『三日太平記』の二段目に出る山熊太郎といふ早打と共に、型が定つて居るものです。又、この時、組さんが、『姫小松』の「嵒窟(がんくつ)」を語つて居られましたが、松太郎さんの絃と共に、その「間(ま)」が何とも言へませんでした。
 六月は、『太功記』の重次郎を初役で遣ひました。この時、切狂言に出て居た『皿屋敷』は、珍らしく「三平住家」もあつて、何でも、お菊が、子に迷ふて幽霊になつて出る所であつたと思ます。
 この頃、大隅さんは、団平さんと旅へ出て居られるし、万事無人で、座は非常に寂しいものでした。その上、お仕打の寺井さんは、逼塞(ひつそく)して土蔵の中に住んで居られました。その土蔵は、今でも長堀の中橋西入の濱側に残つて居ます。
 盆替りは、『八陣』と『極彩色(ごくさいしき)』とでしたが、恐ろしい不入で、一週間程より打てす、私達は、まだ次の月も続く事と許り思つて居ましたのに、遂に、その儘、彦六座は滅亡してしまひました。私は、又神戸の菊の亭へ行つて働くことになりました。
 
 〔註〕
 四十一 【手摺際(てすりぎは)】註十二に同じ。
 
 五、稲荷座時代
 彦六座が、二十六年の九月限り没落してしまひましたので、一座の者共は、ちり/\ばら/\になり、中には文楽座の方へ行つた人もありましたが、何とかして、もう一度旗揚げをしたい希望を持つて居ました。
 所が、翌二十七年の春になつて、その頃、博労町(ばくろまち)三休橋(さんきゆうばし)の北東角に在つた「花里楼(はなざとろう)」といふお料理屋の旦那が、彦六座の小屋を買込んで再挙する話が持ち上りました。名前は、始め「花里(はなざと)座」と附けるとか言つて居ましたが、「稲荷座(いなり)」といふ事になり、一座は、大体(だいたい)旧彦六座に居た者に、「櫓下(やぐらした)」(紋下)として、丁度、その頃芝居を休んで居られた堀江の大師匠−竹本弥太夫(五代目)さん(註四十二)が、久々出座される事になり、話はとん/\拍子に進み、二十七年三月二十六日初日で、目出度く開場する事になりました。
 一座の顔触れは、弥太夫さんの櫓下(やぐらした)に、巡業から久々帰阪された大隅さんの庵(いほり)、その他は、越さん、新靱さん、春子(二代目)さん、師匠と一緒に新加入の長子(後の六代目弥太夫)さん、伊達(今の土佐太夫)さん、源さん、七五三さん、生島(後の大島太夫)さんに、彦六座時代のお仕打の寺井安四郎さんは、十八(とはち)太夫と名乗り、今度は新たに芸人として出勤されました。三味線は、団平さんの櫓下(やぐらした)に、広作さん、松太郎さん、龍助さん、源吉さん、仙昇(後四代目広作)さん、吉弥(後の六代目吉兵衛)さん、友松(今の道八)さん、松三郎(今の新左衛門)さん、人形は、玉松さん、玉米さん、三吾さん、門造(先代)さんなどに、私も神戸から帰阪して一座に加はり、別に座頭格として、豊松清十郎さん(註四十三)といふ方が、新たに加入して来られました。この方は、当時の中々の古老でしたが、東海道辺りを旅廻りして居られたのを、今度大隅さんの紹介で入座されたものでした。そんなやうな訳でしたから、一座の者は一面識もなく、僅かに一座の古老の三吾さんだけが知り合ひであつたとの事でしたが、中々の格式で乗り込んで来られました。
 又、お仕打の華里(はなざと)幸(こう)次郎さんといふ方は、「花里楼」の御主人の弟さんで、お家が株で儲けられたとかで、お仕打となられたのですが、幸次郎さんは、名義だけで、兄さんの藤(とう)兵衛さんといふ方が、耳が少し遠かつたが浄瑠璃をやつて居られたので、万事の指図は、兄さんがして居られたといふ事でした。
 その最初の狂言は、前が『菅原』の通しで、越さんの「三段目切」、大隅さんの「寺小屋」、中が『お染久松』の「飯椀(めしわん)」、切が『三番叟』でしたが、「飯椀(めしわん)」は弥太夫さんの役場、この方は、御承知の如く木谷蓬吟さんのお父さんで、明治十九年頃迄文楽の芝居に出て居られたのですが、それ以来、ずつとお稽古をして居られたのが、今度久々出座された訳で、世話物の名人で、この「飯椀(めしわん)」なんか実に結構なものでした。
 その六月、『忠臣蔵』の通しで、私が初役で小浪を遣つた時、『九段目』で、戸無瀬の清十郎さんに、小浪の型を教へて頂きました。それは、クドキの「−案ぜうがとて隠さずと、懐妊(みもち)になつたら早速に知らせてくれとおつしやつたを−」で、立つて奥の襖をうかゞふ振りでした。これは只今では演(や)りませんが、昔でも小浪のクドキの中で、立つ型は人形では珍らしいものです。この芝居から、人形の駒十郎さんが入つて来られ、又、十八太夫さんは、二代目の柳適(りゆうてき)太夫の名跡を襲ぎ、「山科」の「雪転(ゆきころ)がし」でした。
 次の七月に私が又初役のおのぶの時、再び、宮城野(みやぎの)の清十郎さんに型を教はりました。これは、ネジ(註四十四)を遣ふ所が多い型でした。
 盆替りに、弥太夫さんが『四谷怪談』の「伊右衛門内」を語られた時、私に取つて、一つの事件が起りました。それは、初め役割の出た時には、私は、下男小介といふ事になつて居ましたのを弥太夫さんからダメが出て、小介を駒十郎さんに、私には直助権平(なほすけごんべい)と変へてしまはれたのです。
 理由も言はずに、変へられたのですから、私としても、よい気持はしませんが、ぐづ/\言つたところで、相手は紋下(もんした)ですからどうにもならないに定つて居ますから、虫を押へて、初日になつて、舞台で弥太夫さんの浄瑠璃を聴いて、ハツト気が附きました。成程、弥太夫さんからダメが出る筈だ、師匠は、小介を非常に大切に語つて居られ、主役同様に役が活きて居ます。未熟な私の小介を、駒十郎さんに振り変へられたのも尤もな事で、誰もが住々にして端役の様にぞんざいに演つて了ふ小介にも、あんなに演処(しどころ)があるのかと、つく/\感心しました。ほんとうに、私に取つては、結構な活きた御教訓であつたと、いつも『四谷』が出る度毎に、この事を思ひ出して居ります。この時、人形の金花さんが入つて来られましたが、この方は、駒十郎さんのお内儀さんのお父さんでした。
 暮に、大隅さんの『野崎』で、私は、初役のお染を遣ひましたが、大隅さんの『野崎』は、実に結構なもので、殊に、久作夫婦が格別面白い様に感じました。
 
 翌二十八年一月は、一座から離れて、又瀞戸の菊の亭へ行きましたが、二月の初日直前に帰りましたら、丁度『勧進帳』(鳴響安宅新関(なりひびくあたかのしんぜき))の書卸しの時でした。この『勧進帳』は、只今文楽でよく演るのとは少し違つて居て、坊主頭の弁慶で、舞台も関所で、富樫が真中に居ました。歌舞伎で中車さんが、よく出して居られた『安宅関』とだいたい一緒であつた様に思ひます。弁慶は生島さん、富樫が大隅さん、義経は伊達さんに、団平さんの三味線、人形は駒十郎さんの弁慶、玉松さんの富樫、玉米さんの義経で、振附は堀井仙助さんでした。所が、駒十郎さんが、中途で二日間休まれ、その代役が私に廻つて来ました。外に代りをする方も無い事はなかつたのでせうが、殊にこの時、私は、番附の出来上つてから神戸から帰つて来ましたので、名前も出て居なかつたのです。それでも、総稽古には出て居り、兎に角「演(や)れ」との事でしたので、私も、外ならぬ大役の事故、喜んでお受けしましたが、さて、舞台へ出て弁慶の人形を持つて出ました所、人形が格別大きい所へ、私が亦到つて小兵と来て居ますので、そのえらい事と言つたらなく、舞台が上下になつて居て、上に居る富樫へ向つて、勧進帳を読む間ツキアゲ(註四十五)を肩に乗せて遣ひましたが、その苦しかつた事は、お話しになりませんでした。
 その四月、「廿四孝』の勝頼(かつより)を初役で遣ひました。二段目の勝頼(かつより)は、前に一度遣ひましたが、「謙信館(けんしんやかた)」は、今度が初めてゞした。
 六月には、『安達ケ原』の立狂言で、清十郎さんが袖萩(そではぎ)を遣つて居られました。これに就いて、一寸面白い咄があります。それは、この清十郎さんといふ方は、右目がかんちでした。所が、或る日、彦六座の辰五郎さん時代から一座が御贔屓になつて居た堀江の増田さんといふお医者さんが、久々見に来られ、新加入の清十郎さんの袖萩を見て居られた所、袖萩(そではぎ)の居る場所の関係上、人形遣ひの顔の片面しか見えなかつたのです。そこで、増田さんが感心され、「清十郎といふ人形遣ひはよう凝つたもんや、盲目(めくら)を遣ふのやさかい、自分から目を瞑つて遣(つこ)てる。」と、早速、御祝儀が出ましたので、御礼に出られましたら、ほんとうに右目が無かつたので、大笑ひになりました。
 その秋、『猿(さる)ケ島(しま)敵討物語(あだうちものがたり)』といふ新作が出て、大切の「敵討」の段では、大勢出ますので、銘銘身体に人形を縛り附けて、花道から出で、舞台で立廻りをしました。私は、桃太郎を遣つて居ましたので、一番先頭に立つて出ました。
 次に『出世太平記』が立つて、私は、市作を二度目で遣ひました所、総稽古の日に、弥太夫さんが見て居られ、「嘉平次閑居(かへいじかんきよ)」の市作の入りで、「−親父さまは何処に御座る−」を言ふ時、中に居るさつきに目をつけて遣つて居ましたのを、我家でもあり、さつきは姉でありますが、未だ知らないのだから、奥へ向つて言ふ気持でなくてはならぬ、さつきに目が附いて居てはいけないと、弥太夫さんに注意されました。
 
 明けて二十九年の二月は、『玉藻前』の通しに、切に『妹脊山』の「山」が出ました。大判事は弥太夫さんで、実に結構なものでした。それに大隅さんの定高(さだか)、伊達さんの雛鳥(ひなどり)、春子さんの久我之助(こがのすけ)でしたが、春子さんの清舟(きよふね)が品が有つて良く、アノ一風変つた語り口がその人(にん)にありました。この興行は、随分寒い時でしたが、『玉藻前(たまものまへ)』の化物で大入でしたので、次も、その道具を利用する事になつて、『五天竺』が立ちました。
 それに、中狂言が『伊勢物語』で、「玉水ケ淵」の立廻りで、玉松さんの信夫(しのぶ)と、私の鐃(によう)八が大変受けました。
 この芝居も、亦大入でしたので、もう一回化物の狂言を出さうと言つて、次は『大江山』が立ち、『羅生門』の段で、蓑助さんと私が、一日交替で玉松さんの茨木童子のふきかへになつて、髪の縫ひぐるみを著て、山がら(註四十六)で宙返りをしながら引込みました。
 この頃から、お仕打の花里さんが、株で失敗をされたとかで、座の帳場の方が大分工合が悪い様で、詳しい事は知りませんが、十一月になって、方々の御贔屓の旦那方で、「大阪文芸株式会社」といふのが出来上り、その狂言が『忠臣蔵』で、組太夫さんが久々帰つて来られた時でした。丁度、役が平右衛門でしたので、紺足袋に、捩鼻緒(ねぢばなを)の草履を履いて、花道から出て、久々入座の挨拶を言ふて居られました。
 その翌月に、『河庄』が出ましたが、最初の役は弥太夫さんの所、組さんになり、丁度、文楽でも越路(後の摂津大掾)さんが語つて居られたので、競争になりました。私は、この時の越路さんのは知りませんが、組さんのも、中々結構な「茶屋場」でした。大体、大物を得意として居られるが、口が軽く、小春のクドキなど、無い声を上手に廻して居られ、善六太兵衛は、元よりお手のものだし、「−治兵衛涙の顔を上げ−」の情が乗り切つて居て、今だに耳に残つて居ります。
 
 三十年一月は、『彦山』が立ち、「小栗栖(をぐるす)村」は組さんで、実によく語つて居られました。人形は京極内匠(きようごくたくみ)が駒十郎さん、お園が亀松さんで、段切に、お園が内匠(たくみ)の裾を払ふと、瓢箪棚の上から飛び降りるのに、只今では、皆下手の横へ飛びますが、その頃は、正面へ飛んで居ました。所が正面へ飛ぶと、舟底(ふなぞこ)まで飛ばなければならないので、大分高く、とう/\中頃に駒十郭さんが怪我をされました。翌日は、代役で玉米さんでしたが、これも即日怪我をされ、その翌日の代りが私の所へ来ました。二人も続いて怪我をした後なので、皆が横へ飛ぶ様に注意してくれました。
 横へ飛ぶと、二重の上へ降りる事になりますので、舟底よりは、二重を張つた高さ(一尺二寸)だけ違ひますから、初めの日は横へ飛んで居ました所、床の一太夫さんから「栄三はん、あんた若いのになんや、前へ飛びなはらんかいな」と、ケシを掛けられ血気時代の私でしたから、翌日から正面へ飛び降りる事にしました。代りは三日程やりましたが、幸にして、怪我はしませんでした。『毛谷村』は、弥太夫さんで、大変結構でしたが、取り分け斧(をの)右衛門が面白いと思ひました。
 三月に、弥太夫さんが、「沼津」を語られた時、「今朝から一文も銭の顔を見ません。」の平作の詞が無類でした。平作の清十郎さんが、「長年たんと『沼津』を聴いたが、こんな平作は始めてや、」と賞めて居られました。又、八ツ目は組さんで、お谷の独り言の間が、何とも言へませんでした。そして、附け物に、大隅さんが「城木屋」を語つて居られましたが、「−扇パチ/\−」までの喜蔵の詞が格別で、丁度、私が喜蔵を遣つて居りました。
 次の四月は、『妹脊山』の通しで、珍らしく「南円堂」が出て居ました。この場は、何でも観音堂の前で、鱶(ふか)七が夢を見る所で、宙吊りや早替りが有つたと思つて居ます。
 五月には、越さんの五代目住太夫襲名披露で、『双蝶々』の「橋本」でした。中に、大隅さんの「長局」があつて、中々結構なものでしたが、次の組さんの『菊野殺し』の「大重」には、全く驚きました。初右衛門が、菊野遂抱へて、「サア言へ/\、」、「知らぬ/\、」、最後に二尺八寸を突き附けて、「言へツ、」と、その一言の物凄かつた事と言ふたら無く、菊野を遣つて居た私は、毎日思はず身震ひをしました。それから手摺にぶら下つて居る緋(ひ)扱帯(しごき)を見て、「−逃げて失せたな」まで語つたら、やれ/\と思ふ、と、組さんが言ふて居られました。この時追出しは、春子さんの「柳」で、「−声しほれ」からは、人形の足を踏んでくれるな、と、言つて居られました。之は尤な事で、私も、後に平太郎を度々遣ひましたが、こゝは決して踊りません。
 その翌月に、弥太夫さんの『大晏寺堤(だいあんじづゝみ)』が出て、春藤(しゆんどう)次郎右衛門は駒十郎さんでしたが、竹の火箸を刀に、松の枝を伐る科をして、「アイタ、タ、これではまさかの時に−」となる型がありましたのを、私が憶えて置いて、後に文楽で、二度許り春藤(しゆんどう)を遣つた時に演りました。この時、私は宇田(うだ)右衛門を遣つて居ましたが、「−御家来の内、何方なりとも何奴なりとも−」で、「侍合せ」が、あつて、私が、一言「馬鹿者、」と白を言つて、カンヌキ(註四十七)で下手へ歩いて来ました。これは、清十郎さんに教へて頂いた型で、今ではこれを演りません。人形遣ひが、白(せりふ)を言ふ事は時々ある事で『彦山』の「毛谷村」でも、「−女房さん御座んすかえ」で、六肋を遣つて居る者が「なし/\」と言ふと、「それで落付いた」となります。又、この時は、『大晏寺堤』の「落合(をちあひ)」(註四十八)も出て居て、私の宇田(うだ)右衛門が、剣術のお面を被(かぶ)つて出ました。これも、清十郎さんから、「昔の型や」と言うて教はつたものです。
 盆替りには、住さんの「大文字屋」で、私は、伝九郎を遣ひましたが、この時の舞大は、今と違つて、家の入口が正面向きで、前にずつと土間がありましたので、伝九郎が入口から中へ入りずつと上手まで行き、振り返つて下手を見、誰も居ぬかと確めて、題号(だいご)を唄ひ乍ら、又門の方へ帰り、「−彼の一物をせしめんための−」で、丁度門口迄来ました。
 十月に、団平さんが、『布引四段目』を弾いて居られましたが、この時の琵琶の音と言ふたら、実に物凄く大きいものでした。松三郎さんが、毎日の様に、「師匠えらい音さしはる」と感心して居ました。
 たしか、この月であつたと思ひますが、楽屋で、亀松さんの足の上へ障子が落ちて、その時は左程でもなかつたのが、後になつて段々悪くなつて来て、とう/\片足を切らねばならない事になり、片方義足になつて、楽屋へ来られた時は、皆泣きました。それから暫くして、翌年の一月に、直接の原因は、足ではなかつたやうですが、とう/\亡くなられました。亀松さんは、だいたい女形遣ひでしたが、何でも一通り遣ふて居られました。未だ四十一か二で、これからであるのにほんとうに惜しい事でした。
 暮に、大隅さんが「鰻谷」を語つて居られた時、お妻は清十郎さんで、母と弥兵衛とが奥へ入つて、子供に言ふて聴かす所で、下へ降りて、床几(しやうぎ)に腰を掛け、煙草盆で花火線香に火を点(つ)け、それであやし乍ら言ふ振りをして居られました。清十郎さんは、中々古い方で、知らぬ事は知らぬと言ふて居られましたが、記憶のよい方で、この花火線香を使ふのなども、きつと昔からある型だらうと思ひます。
 
    〔註〕
 四十二 【竹本弥太夫(五代目)】三代目竹本長門太夫の門弟にて、幼名小熊太夫、嘉永四年五月、竹本長子太夫と改名、後、明治元年十二月五代目相続、同十九年にて一度退座、二十七年より再出座にて稲荷座の紋下となる。同三十九年十月三十日歿、七十一歳。世話物の名人也。
 四十三 【豊松清十郎】二代目桐竹門造の門弟、桐竹哥六の門人にして、桐竹(後吉田)哥録と言ふ。主として、名古屋及東海方面に出勤、稲荷座創立に際し帰阪あつたれど、その経歴不詳なり。
 四十四 【ネジ】左片手で遣ふ型。
 四十五 【ツキアゲ】人形の肩(肩板といふ一枚板)の所から紐に結へて遊離してゐる竹の棒で、その先端は人形の体外に出て居る。人形の形を付ける為、又、重さを助ける為、種々巧みに使はれるもの。男人形には子役に到る迄、ツキアゲがあるが、女形にはなし。
 四十六 【山がら】景事等で、宙返り等の軽業の如き業をする時用ふる具。
 四十七 【カンヌキ】人形の正面向立姿にて大の字なりの型の事。
 四十八 【落合(をちあひ)】番附面には「跡(アト)」と記されてある所、「切」次の後つづまりの付くる所。
 
 六、 東京へ独り旅と稲荷座の末路
 さて、翌三十一年の一月も引続き稲荷座に出勤して居ましたが、その頃、私は、東京といふ所が一度見たくて堪らなかつたのです。聞けば彼地にも人形芝居の小屋があるとの事で、元、同じ舞台に働いて居た方も居るといふ事なので遂に決心して、父から五円貰ひ、一月の十五日の朝大阪を出立しました。途中、名古屋へ立寄り、白山神社の附近に懇意な者が居ますので、其処で一晩泊めて貰ひ、一つには少々の無心も言はうと思つて居ました。所が、その知人の家へ著いて見ると、生憎主人は留守で、私がまだ一度も逢つた事のないお内儀(かみ)さんが、独りで留守番をして居ました。さあ困つた事には、無心所か、泊めて貰ふ事も出来ず、漸く訳を話して、夕御飯だけ御馳走になり、その夜の六時頃の上り列車で名古屋を立つて、翌十六日朝の九時に新橋へ著きました。
 飛んだ予算の当外(あてはづ)れで、この時、財布の中は僅か二十銭、それでも、お腹が空いて居ましたので、御寿司屋へ入つて、十銭おすしを喰べ、その頃、今の小兵吉さんが、当時門治と言つて、浅草に住んで居られたのを頼つて行く事にして、新橋から鉄道馬車に乗りました。そして、尋ね尋ねて小兵吉さんのお家へ行きますと、お母さんが出て来られて、小兵吉さんは、もう神田の新声館といふ芝居へ行つた後でしたので、又すぐその足で、神田へ向ひました。もう懐には四銭しか残つて居ないのですが、神田へ行く途中で「サンライス」と言ふ三銭の煙草を買ひましたので、残りはたつた一銭、もう鉄道馬車に乗る事も出来ず、お腹は空いても食物屋に入る事が出来ず、折角見度いと思つて来た東京の街の見物所か、唯一生懸命に神田新声館へ急ぎ、やつと昼過ぎに辿り著きました。
 いや、飛んだ昔話の恥晒しで、恐れ入りますが、新声館で小兵吉さんに逢ひ、取り敢へず中へ入れて貰ふと、以前、彦六座で頭取をして居られた栄造さんも居られ、この方は、予々(かね/\)私を子供の様に可愛つって居られたので、私を見ると、「よう来たなあ」などゝ、色々親切に言つて下され、早速、お昼のお弁当を注文して頂きましたが、御馳走になると直ぐ、その儘黒衣を著て、舞台の用事をやり始めました。忘れもしません、その時の狂言は、前が『二十四孝』に、切が『日高川』で、人形は、大阪からの兵吉さんがシンでしたので、八重垣姫で、名人と言はれた東京の西川伊三郎さんの弟の吉田冠治さんの横蔵でした。この芝居は、昼席で、夜は、又別の席を廻りましたが、東京の絹太夫さんといふ方と、兵吉さんの中心で、その晩、私は、「酒屋」のお園を遣ひました。これは、たしか、小兵吉さんの役であつたのを、私が譲つて貰つたものですが、若い血気盛りの時代なればこそ、疲れもなく、こんな乱暴な働き方をしたので、今考へますと、随分無茶な事です。しかし、懐しい思ひ出です。
 その晩から私は、一座の栄造さんのお家に泊めて頂く事になりましたが、栄造さんは、私の行く十日程前に、兵吉さんのお世話で、新嫁さんを貰つて居られました。所が、このお嫁さんは、栄造さんのもう一つ気乗りのしなかつたお嫁さんで、其処へ私が押しかけて行つた様な訳で、栄造さんも、大阪の新町焼けで、高島座(今の新町演舞場)の向ひにあつた家をすつかり焼いて了つて、上京されたので、三人暮す程裕福でなかつたのです。そこで、栄造さんが、兵吉さんの所へ手紙を書いて、私も同道してお嫁さんに持たせてやられました。所が、それが離縁状だつたので、お嫁さんは、自分の離縁状と知らずに媒介人さんの所迄持つて行つた悲劇で、誠に滑稽な話ですが、私に取つては、実に有難い思召でした。
 栄造さんは、只今も申す如く、以前彦六座の頭取をして居られたので、その頃から、常に私を「師匠のない子」と言ふので、とても可愛がつて下され何かと引立てゝ頂いて居ました。彦六系の芝居に居る頃から、私が頭を抬げる事が出来たのは、全くこの方の御蔭です。
 その様な訳で、引続き栄造さんのお家に御厄介になつて、毎晩寄席へ出て居ましたが、やはり神田の新声館で、お素人の時、私が斯の道に入つて始めて『清水清玄(きよみずせいげん)』を働きました。役はありませんでしたが、清玄(せいげん)が兵吉さん、桜姫は憶えませんが、奴は玉米さんでした。斯くする内に、大阪の稲荷座の大隅さんから、私の事に就いて、栄造さんの所へ手紙が来ました。栄造さんが、私に言はれるには、「今、大隅さんから手紙が来て、お前もこれから頭を抬(あ)げんならんさかい、やつぱり大阪で修業した方がえゝ、帰んなはれ。」との事でした。何と申しても、人形浄瑠璃の本場は大阪ですから、私も心を翻して、直ぐ帰る用意をする事にして、丁度三月の二日に帰阪しました。帰阪する前には、浅草や亀戸天神さんなど見物しましたが、途中馬車鉄道で乗り違へたり、色々な失敗がありましたが、これも、帰阪の直ぐ前、二月の節季の日に、兵吉さんが受取つて、吉原の「大文字」といふ揚屋で、女郎衆に人形浄瑠璃を見せる事になりました。前にも申しました如く、丁度、小兵吉さんの家が浅草にありましたので、其処へ皆集つて、一口飲んで出掛けました。勿論、舞台なんか無く、座敷で演るのですが、『増補佐倉宗五郎』の「儀作(ぎさく)切腹」で、その頃、東京の人形遣ひの年長者の吉田文三郎さんが儀作(ぎさく)で、小兵吉さんのおさん、私の宗五郎でした。誠に尾籠なお話で、恐縮ですが、この文三郎さんは、もう大分のお老人で、便秘を病んで居られたので、小兵吉さんの家で下剤を飲んで来られたのが、浄瑠璃の最中に利(き)いて来て、急に玉米さんが代りをする、その玉米さんが気分を悪くして、吐くなど、滑稽な事がありました。
 
 さて、二月末に帰阪して、三月から、又稲荷座へ出る事になり『忠臣蔵』の通しが出て居ましたが、この時の「大序(だいじよ)」は、直義(たゞよし)が弥太夫さん、判官が組さん、顔世が大隅さん、若狭(わかさ)之助が伊達さん、師直(もろなほ)が住さんで、三味線は団平さんといふ、実に勿体ない様な「大序」でした。尤も、直義の弥太夫さんは、番附だけで、柳適さんが代りをして居られました。そして、人形も、何時もこの場は黒衣(くろご)で勤めるのを、出遣(でづか)ひで勤めました。この時、団平さんは、この外「茶屋場」と「九段目」も弾いて居られ、老いて益々盛んなのに皆驚いてしまひました。しかし、「茶屋場」だけは、中頃から源吉さんが代つて居られました。
 翌四月は、前が『恋女房(こひにようぼう)』で、「沓掛(くつかけ)村」が組さん、中が「帯屋」で弥太夫さんの役場、次が大隅さんの「志渡寺(しどうじ)」、切が春子さんの「伏見の里」で、相三味線の松三郎さんが、二代目の新左衛門襲名披露の出し物でした。この初日に、団平さんが「志渡寺(しどうじ)」を弾いて居られ、後、紙一枚といふ処で、撥(ばち)を落して卒倒されました。脳溢血で、舞台は直ぐ龍助さんが代り、友松さんなどが一生懸命介抱して居られましたが、病院へ連れて行く途中で亡くなられました。七十余だつたと思つて居ます。翌日からの代りは源吉さんで、隅栄太夫さんが口上を言ふて居られましたが、これは伊達さんの弟で、とても/\上手に口上を言つて、皆を泣かせました。
 これが、団平さんの最後でしたから、後で一層さう感じたのかは知りませんが、この初日の、お辻の祈りの処の「トチヽリ/\」の三味線など、全く神技でした。それに、先月は、『忠臣蔵』で「大序」を弾いて居られましたので、楽屋の中では、「団平さんは、三味線弾さんの最上位迄行きはつたのやが、又、元の『大序』(註四十九)へ帰つて、死にはつたんや。」と 皆で話し合ひました。
  次の五月は、『八陣』が立ち、政清(まさきよ)は駒十郎さん、私が主計之助(かずえのすけ)を遣ひましたが、「政清本城」でこれまでは、「−後に控へし鞠川玄蕃(まりかはげんば)、政清(まさきよ)やらぬとしつかと組む、」まで思惟(しゆひ)の間の障子を明けなかつたのですが、この時から、「真暗がり」で明ける事にしました。それは、「−スハ一大事とかけ寄る障子、蹴はなす別間は燈火も、消えてわからぬ真暗がり」とあり、「蹴はなす」といふ文句に対して、かう改めた訳で、主計之助(かずえのすけ)が縁側へ上つて、障子を外して上を見ると、政清(まさきよ)が両手で取手を押へて居るといふ事になり文句一杯(註五十)に行くやうになりました。
  六月は、『箱根霊験』が出て、「瀧」は組さんでしたが、今度は初役の時の様でなく、実に結構でした。中でも、瀧口の渋味がある中に、色気があつて何とも申されませんでした。この頃、稲荷座は、文芸株式会社になつて居ましたが、それも少し工合が悪くなつて来て居り小屋を抵当に入れて、金を借りて居たとかいふ事でした。しかし、丁度、夏休みにもなるので、休み中にすつかり整理して、小屋を借りて、盆替りを明ける心算であつた所、その金の出所が、稲荷座に取つては商売敵の、文楽といふ事が判明して、稲荷座は、遂にその儘興行が出来なくなりました。文楽としては、何しろ商売敵の事でもあり、稲荷座が無いに越した事はなく、色々と策略が有つたとの事でした。
  〔註〕
 四十九 【大序】一曲の浄瑠璃の最初の一章にして、概ね修業の第一歩を踏み出した芸人が勤める慣例からして茲では、その芸人の事を「大序の人」と言ふ。
 五十 【文句一杯】文句の通り、の意。
 
 七、文楽座へ
 三十一年の六月限りで、稲荷座は潰れて了ひましたので、私は、その盆替りから御霊(ごりよう)の文楽(ぶんらく)座へ出勤する事になりました。これは、その当時文楽座の頭取をして居られた三吾さんの手引でした。
 その頃の文楽座のお仕打は植村さんで、旦那は四代目の文楽さん(註五十一)でした。一座の顔触れは、越路(後の摂津大掾)さんの櫓下(やぐらした)に、津太夫(先代で俗に法善寺)さん(註五十二)の庵(いほり)を始めとして、呂太夫(ハラ/\屋)さん(註五十三)、染太夫(九代目)(註五十四)、七五三(しめ)太夫さん文字太夫(後の三代越路太夫)さん、源太夫(先々代)、むら太夫(八代目)さんなど三味線は、広助(松葉屋)さんが櫓下(やぐらした)に、吉兵衛(五代目)さん(註五十五)、勝鳳(しようはう)さん、才治(四代目、後の五代目竹澤権右衛門)さん、勝右衛門(四代目、後の六代目清七)さん、勇造(四代目)さんなど、人形は、名人の初代玉造さんが櫓下(やぐらした)で、私達は、この方を親玉と呼んで居りました。その他、先代紋十郎さん、玉治さん(註五十六)、玉助(二代目、後の二代目玉造)さん(註五十七)、金之助(後の多為蔵)さん、玉五郎さん、助太郎さん、それに、親玉さんの左遣ひの玉朝さん、紋十郎さんの左遣ひの玉亀(後の亀三郎)さんなどに、古老では、頭取の三吾さん、紋之助さんなどの大一座で、稲荷座と比べると、又、一層賑やかなものでした。
 所で、文楽さんでは、昔から芸人に限らず、一般の使用人でも、古参を非常に大切にする風習があつて、従つて、新参者は、非常に待遇が悪く、外では相当の役を持つて居た者でも、また元の一からやり直さねばならないのでした。私も、それを承知で、元の一から出直す決心をして、文楽座へ出勤する事にしたのでありますが、この盆替りの狂言は、前が『双蝶々(ふたつてふ/\)』、中が『三代記』、切が『紙治』でしたが、私の役は、平岡丹平(ひらをかたんペい)と、「入墨」の新左衛門でした。所が、その初日に、「相撲場」で、長吉を遣はれる金之助さんがトチリ(註五十八)ましたので、急にその代役が私に廻つて来ました。私が、文楽へ入つた最初の興行の初日の朝から代役を勤めた訳ですが、先づ無事に勤め、文楽のお内儀や、勘定場の方々に目を附けて頂きました。又、この外、私は、切で金之助さんの小春の足を遣つて居ました。
 次の十月は、『安達』が立ち、三段目切は津太夫さんでしたが、濱夕(はまゆふ)とおきみとのやりとりの間が、実に結構で、おきみの「申しおえさん−−、」の詞は、今に耳に残つて居ります。この時、貞任は親玉さんで、「端揚(はゞ)」の「矢の根」で、謙杖(けんじよう)に切腹を勧める「左様に思さねか、」の条、笏(しやく)を逆に突いて、だめを押す息組が、お公卿様のうんねりした中に、一物ありげに見え、何とも言はれませんでした。又、切になつて、段切の娘の情に曳かされる条等、実に結構なもので、ある日桟敷に右団治(後の斎入(さいにゆう))さんが見物に来て居られましたが、「−振かへり−」の条で思はずポンと手を打つて居られました。
 十一月に『箱根霊験』が立ちましたが、私の役は非人で、出遣ひでしたが、瀧口(たきぐち)の親玉さんから、「俺の足を遣へ、」と命令が来ましたので、非人で引込むと、大急ぎで黒衣と着替へ、もう障子の内に構えて居られる親玉さんの瀧口(たきぐち)の足を持ちに行きました。だいたい、人形を舞台へ持つて行くのは、足を遣ふ者の役目なのですが、この時だけは、間に合はねので、左を遣つて居た玉朝さんが、瀧口(たきぐち)の人形を持つて行きました。この外に、中の『梅忠(うめちゆう)』で、「淡路町」から「新口村」までの玉助さんの忠兵衛の足を遣ひ、切の「本蔵下屋敷」の三千歳姫(みちとせひめ)が私の本役で、ほんとうに忙しい思ひをしました。
 翌年[明治32年]の正月は、『廿四孝』の通しで、私は、勘助(かんすけ)の足と、四段目の勝頼(かつより)の足と、「奥庭」の乱(みだ)れの白の足(註五十九)とを遣ひ、本役は、二段目の勝頼(かつより)と入江(いりえ)でした。「奥庭」は、只今と違つて「落合(おちあひ)」(小手返し)があり、手弱女御前(たをやめごぜん)が出ます。で、只今では、「兜を守護する不思議の有様、諏訪の湖−、」となりますが、この時は、「不思議の有様」で浄瑠璃が止まり、「待合せ」になつて、お囃子が、ピーテン/\、ピーテン/\、ピーテン、ピーテン、ピー、テン、と七ツ拍子を打つて、その足拍子を踏んで、それから浄瑠璃もなしで、ドロ/\で八重垣姫が飛んで入りました。そして、「こなたの方には手弱女御前(たをやめごぜん)−」となるのでした。この七ツ拍子の引込みは、紋十郎さんの注文かと思つて居ますが、忘れもしません、総稽古の日に、この事に就いて、足を遣ふ私に、前以つてのお達しがなかつた。そして、出し抜けに「ピーテン/\」と来ましたから、私もびつくりしましたが、咄嗟に足を踏んで、先づ失敗せずに済ませましたので、紋十郎さんに大層お賞(ほ)めに預りました。又、この時は、狐は、親玉さんで早替りがあり、紋十郎さんは、八重垣姫の早替りだけでした。たしか、朝日新聞に、「玉造の狐だけでは勿体無い。」とかの評が出て居たやうに思つて居ます。
 二月に『阿波鳴門』が出て、私は、子役のおつるでした。稲荷座では、重次郎やお染等を遣つて居たのに、前申す如く、新参で元の一からやり直して居る為、こんな役が来た訳で、内心不服でしたが、その儘にして居ると、前興行打上げの翌日、植村の本家で衣裳割の時、玉助さんが旦那に、「栄三のおつるは一寸可愛想に思ひまんが、どないぞしたつとくなはれ。」と言つて下さいましたが、旦那は、「まあま今度は、越路太夫でもあり、お弓は紋十郎やさかい、その代りなんぞお土産でも附けたげよ、来月からもう子役は遣はさへんさかい。」と、この時からお給金が昇りました。所で、初日になつて、おつるの二度目の出で、出ようとして居ると、親玉さんが、「おい栄こ、そのおつる誰ぞ外の者に遣はしてお前は俺の足持ち、見とき/\、」とおつしやり、奥では親玉さんの十郎兵衛の足を遣ひました。この外、私は、前の『日吉丸』でお政の足と、切の『国姓爺』の甘輝(かんき)の足を遣ひ、外に自分の本役もあり、殆んど子役上りの者のやうに、一日中忙しく働かねばなりませんでしたが、末の事を思ひ、一生懸命に辛抱して居りました。
 次の四月は、『恋女房(こひにようぼ)』の通しで、前の月におつるの経緯(いきさつ)があつたので、今度は、三吉は私でなく、玉六さんでした。
 又、「能」の段は、堀井仙助さんの出囃子で、稽古は、前茶屋の二階でしました。定之進(さだのしん)は、勿論親玉さんで、左が玉助さんに、足は金之助さんで、総出遣ひでしたが、初日に、金之助さんがトチリましたので、私がその代りたしました。それから、四五年後に、また此段が出て、私は脇僧で、この時の代役が非常に役立ちました。この時は、中が『大文字屋』で、紋十郎さんの権八に、金之助さんの伝九郎で、題号(だいご)が済んで、権八が、「伝九郎来たか」と覗く時、二言三言伝九郎が返事をする迄、伝九郎の居る用水桶の方に目をやらず、外の方を見て居ましたが、この間の二人の息が何とも言へませんでした。
 六月に、『彦山』が立ち、紋十郎さんのお園(その)が実に立波なものでした。だいたい、この方は、御自身の恰幅(かつぷく)もあり、元は立役専問に遣つて居られたのが松島の文楽座へ出られるやうになつて主に女形を遣はれるやうになつたので、従つて女形の遣ひ方も昔とは異ひ、強い派出なテキパキした女形でした。それが亦、お園の柄にぴつたりと合ひ、別に大きい人形を拵へ、「瓢箪棚」で、内匠との立廻りも立派でしたし、「毛谷村」で、六肋に斬りかける処など、壮士芝居の様でした。
 その盆替りは、『一の谷』で、この時、広作さんが久々入座され、染さんの役場、二段目の「流し枝」を弾いて居られましたが、染さんは、大まかな浄瑠璃で、一二三の声が揃つて居て、この段切は特に結構でした。茶店の方の係をして居られた、文楽のお内儀はこの段切になると、毎日一番後の桟敷の戸を明けて聴いて居られました。この二段目は、前は、盲人の住太夫さんが結構でしたが、その後は、染さんがよかつたやうに思ひます。
 次の十月は、『白石噺』が立ち、私は、「逆井村」の七郎兵衛でした。之は、最初は親玉さんへ持つて行つたのですが、役割が出来て、勘定場の者が親玉さんへ相談に行くと、「昔からの番附をよう見て来い。」と、大変叱られたとかで、それが私の所へ来た訳です。この七郎兵衛といふのは、与茂作(よもさく)の女房の兄で、大変な老(ふ)け役でした。この時、私は、未だ二十八でしたのに、そんな老け役で、殊に、親玉さんがおのぶでしたから、大変気を揉みました。又、切狂言に、呂太夫さんの『皿屋敷』が出て居ましたが、この『皿屋敷』は、矢田七郎といふのが、お菊を井戸の釣瓶に吊して折檻をし、鉄山(てつさん)は、それを眺めて居るだけの、一寸変つたもので、私は初めてゞした。
  十二月には、『忠臣講釈』で、「疱瘡子(ほうそうご)」は津太夫さん、書置を読む間と言ひ、破れ扇で謡の間など、打つてつけで結構でした。又、附け物は、越路さんの「炬燵」で、治兵衛やおさんは勿論結構でしたが、品のよい浄瑠璃にも拘らず、三五郎が亦格別でした。「泣かんすない、」の前に、この方のは笑ひがありましたが、その笑ひが、ほんとうに少し足らぬ人間が笑つて居る様でした。
  〔註〕
 五十一 【文楽】文楽座といふ座名を掲げたのは明治五年一月であるが、その草創は、創立者植村文楽軒の上阪に遡る、その年代は詳でないが、寛政年間、高津橋西詰に「高津新地の席」として旗揚げをした。それから、「稲荷東の小屋」、「清水町濱芝居」、再度「稲荷境内」より、明治五年、松島千代崎橋に、「文楽座」と座名を揚げ、同十七年九月、「御霊文楽座」となつたもの、初代植村文楽軒は、高津新地の席から、文楽座の基礎を築いた人で、二代目は大蔵と言つて養子なりしも、傑物にして、文楽座をして盛名を羸ち獲させたのは、この大蔵の力なり。三代目は大蔵の子大助にて、人形浄瑠璃より外の趣味があり早世、四代目は大助の実子泰蔵か[が]相続したが、その器でなく、遂に明治四十二年その経営を松竹合名会社に譲渡す。
 五十二 【津太夫(先代で俗に法善寺)】竹本幡龍軒の倅にして、竹本山四郎の門弟なり。西京の住人にて、後大阪へ行き、文楽座へ入座の後は、よく堅忍持久し、摂津大掾の次位たる事久しく、明治四十一年十一月退座後、家に引籠り、七代目竹本綱太夫を相続、明治四十五年七月二十三日、七十四歳にして歿。
 五十三 【呂太夫(ハラ/\屋)】大阪天満の「ハラ/\屋」といふ薬屋の主人にして、素人出也。二代目呂篤と称し稽古せし所、明治七年出座、豊竹呂太夫と名乗る。久しく文楽座に出勤、明治四十年三月三十日、六十五歳にて歿。当時大一昔無双と称せられたり。
 五十四 【染太夫(九代目)】四代目竹本住太夫の門人にて、初名登勢太夫と称し、明治九年出座、同十一年九月、竹本谷太夫と改名、次で同三十年五月、九代目相続、大正二年四月引退、同五年二月十七日、六十四歳にて歿。
 五十五 【吉兵衛(五代目)】幼少より竹本泉太夫の養子となり、嘉永の頃、三代目野澤吉兵衛の門に入り、野澤吉次郎と称す。後、四代目吉兵衛の預りとなり、慶応三年五代目野澤吉弥を襲ぎ、五代目豊竹駒太夫の合三味線を勤む、その後、故有て一時野澤錦系と称せしも、再び吉弥に帰り、明治十六年十一月、五代目相続文楽座にては、摂津大掾、津太夫の相三味線を勤め、その音色は、金の鈴を振るが如し、と評せられたり。同三十七年十二月引退、同四十年九月、門人七代吉弥に、名跡の六代目を譲渡し、己は野澤繁造と改名し、同四十四年二月二十二日、七十一歳にて東京に歿す。
 五十六 【玉治】元、三代目吉田辰造の門弟にて、辰之介といふ、後、明治四年正月初代玉造の預りとなり、玉治と称す。おやぢ遣ひの名手也。同三十四年十月歿。
 五十七 【玉助(二代目、後の二代目玉造)】初め、初代吉田玉助門弟にて、明治七年春より源吉とて出座、同九年一月、吉田玉七と改名、師歿後、同二十二年二月、師名二代目を相続、同三十九年三月、二代目吉田玉造と相続、同四十年三月二十三日歿、四十二歳。初代玉造、紋十郎に次ぐ、文楽座に於ける人形の重鎮にして、特に若男役に秀でたり。
 五十八 【トチリ】舞台の失敗の総称。
 五十九 【白の足】此処では白衣裳の意。
 
 
 
 八、借金の為明楽座へ
 さて、このやうにして文楽座に働いて居ましたが、先年休座となつた稲荷座の者共で堀江の廓の中の「明楽(めいらく)座」に立籠つて、その年の秋から、花里さんのお仕打で、興行をして居りました。稲荷座時代の櫓下(やぐらした)の弥太夫さんは、引退せられ、一座は、大隅さん、組さん、伊達さん、住さん、春子さん、長子さんなどに、広作さん、小団二さん、濱右衛門さん、友松さん、新左衛門さん、仙昇さん、叶(後三代目清六)さん等の三味線に、人形は、清十郎さん、玉米さん、門蔵さん、蓑助さんなどでした。
 所が、三十二年の六月に、『彦山』が立つた時、お園を遣つて居られた玉米さんが、クドキの間に、舞台で脳溢血が起つて、急死されました。玉米さんは、まだ三十余りで、何でも遣ふ、到つて器用な人でしたから、明楽座としては、無人の折柄、大変な痛手(いたで)でした。そんな事情の上へ、私は、誠にお恥しい事乍ら、稲荷座時代から、お仕打に少々の借金がありましたので、文楽に居る私に、帰るやうに言つて来ました。しかし文楽の方では、私の体は、今、大変忙しいので、旦那は、「借金があるなら返してやらう」と仰言つて下され、私も、左様お願ひしようと思つて居りましたが、明楽座の方では、それを受入れません。明楽座としては、体が要るから金を借してある、との言分で、之も、道理至極な事でした。さうかうする中に、三十三年の一月興行には、文楽と明楽との両方に、私の役が出てしまひました。
 文楽の方は、前の『八陣』で、春姫(はるひめ)と柵(しがらみ)、中の越路さんの「酒屋」で半七、明楽の方は、前の『信長記(しんちようき)』で、信長(のぶなが)と十河軍平(そがはぐんぺい)、切に大隅さんの「質店」で久松でした。これには私もほと/\困りましたが、如何する事も出来す、文楽の方は三役共勤め、半七が終ると直ぐ、明楽座へ走つて行つて、久松だけを遣ひ、信長と軍平は、代りを頼まねばなりませんでした。
 所が、この頃、文楽の方は、芝居が大変流行(はや)つて居ましたので、月を持越して打つて居ましたが明楽座の方は、晦日に次の芝居の初日が出ました。狂言は、『忠臣蔵』の通しで、私の役は、小浪とおそのでしたので、この時もやはり、文楽の方、二役を勤めてから、大急ぎで明楽座へ来て、「道行」の小浪から勤めました。勿論、「松伐り」の小浪は、代りを頼んで居ましたが、日によると「道行」でさへトチツて、玉次郎さんに代りをして貰つて居ました。
 しかし、何時までもこんな事もして居られず、明楽座にはさういふ因縁もある事なので、借財の済む迄、文楽座の方はお暇を貰つて、三月から正式に明楽座で働く事になり、月々のお給金から、少し宛返却し、早く自由な身になる事に努力しましたが、この時の暗い気持は忘れられません。
 で、三月は、『大江山』の通しで、中に二回目の「戻り橋」がありました。この時も、大詰の「土蜘退治」は、金時の人形を体へ括(くゝ)り附けて、左遣ひだけで勤めました。
 この時、切に『娘道成寺』が掛合で出て居ました。この『道成寺』に就いて、私が予々(かね/\)聞いて居りますには、今でこそ、歌舞伎専門のものになつて居り、先頃、四ツ橋文楽座で、今の紋十郎さんが勤めた時も、踊の師匠に振附を頼んで居ましたが、昔は、人形の方にも立派なものがあつて、踊の師匠に振附を頼まなくてもよかつたのです。で、この時の白拍子は、清十郎さんでしたが、やはり、昔から伝つて居る人形の振りで、踊つて居られました。この時は、花道の出からあつて、其処は全然義太夫で、本舞台へかゝつてから、長唄の出囃子が主となつて居ました。
 花道の事が出ましたから、序に一寸茲で、お断り申して置き度い事があります。それは、先年、東京の歌舞伎座の引越興行で、『勧進帳』が出ました時、私が、弁慶の引込みで、花道を使ひました事に対して、東京の方々から、「人形が歌舞伎の真似をしてけしからん」とのお叱りがありましたが、私としましては、別に歌舞伎の真似をしたのではなく、人形でも花道を使ふ事は、大昔から幾度もあつたので、それに拠(よ)りましたので、現に、この時も清十郎さんといふ古老が花道を使はれたので、私は、それに習つて花道を使つたのでありまして、別に、歌舞伎の真似をしたのではない事を、茲で申上げて置きます。
 それから、もう一つ、「道成寺」に就いて、何時も、私が残念に思つて居る事があります。それは、大昔の辰造さん(註六十)といふ名人が、江戸で『道成寺』を遣つて居られたのを、丁度、その頃、江戸に居られた大阪の名優の梅玉さん(註六十一)が見物され、非常に感心せられました。そして、記念にと、白拍子の人形が、人形立に立てかけてある一幅の掛軸を贈られました。そして、その掛物は、代々辰造の名跡を襲名した方が承け継いで、明治初年に亡くなられた辰造さん迄伝はりました。所で、この辰造さんは、沢山のお弟子もあり、それに、数年前八十余歳で亡くなりました兵三さんといふのは、その甥に当るのですが、何かの都合で、辰造さんが亡くなられた時に、葬儀万端の介錯をする人が無かつたのです。そして、どんな関係か知りませんが、其頃、東玉さんといつて、女義太夫の頭取をして居た人の亭主が、万端の世話をしました。この人の名前は一寸忘れましたが、指影遣(ゆびかげづか)ひだつたと思つて居ます。従つて、辰造さんのお家にあつた例の掛物も、その人の手に渡つた訳で、後、その人は、東京へ行つて、彼地で人形遣ひか、指影遣(ゆびかげづか)ひか何か知りませんが、辰造の名跡を襲いで亡くなつたと聞いて居ります。所が、明治三十五年に、文楽の紋十郎さんや玉助さん、外に助太郎さんなんかゞ上京して、あちらの西川伊三郎さん等と共に、明治座で人形芝居を興行しました時に、その東玉さんが、未だ長生して居て、助太郎さんに例の掛軸を渡して、大阪で然る可き人があらば、之を伝へて辰造の名を襲がせて呉れと頼みましたので、助太郎さんは、兎に角、品物を預つて大阪へ帰り、私もその時、その掛軸を拝見しましたが、極く小さい物でした。所が、其後、辰造を襲ぐ然る可き人も無かつた為か、掛軸は、助太郎さんがその儘預つて持つて居ましたが、助太郎さんは、明治四十三年に、人形遣ひを廃(や)めて、朝鮮へ行つてしまつて、五六年前に七十余で亡くなつたと聞きました。例の掛軸は、助太郎さんと一緒に朝鮮へ行つた儘、其後どうなつたやら、由緒ある品物故、『道成寺』の話を聴く度毎に、いつも/\その事を思ひ出します。
 その五月に、『佐倉曙』の「子別れ」の段切で、又、花道を使ひ、七三で、宗五郎の玉松さんと喜右衛門の私とがすれ違ひました。この段切は、格別長く、本舞台だけでは、宗五郎が歩く余地がなく、花道を使ふに越した事はありませんでした。
 次の六月、切に『夏祭』の「三婦内(さぶうち)」と、「長町裏」で、「三婦内」で、幕開きに舟底を平舞台にして、当時大阪で有名な俄師(にわかし)の団九郎、外二三人を呼んで来て、大手燭を持つて出ると、内に並んで居る三婦やお次の人形から、「所望々々」といふ事になつて、一くさり俄がありました。追出しの「泥仕合」では、私は、初役の義平次で、初日前に文楽座の金之助さんの所へ教はりに行きましたら、義千次(ぎへいぢ)が「チキチン/\」で出て、九郎兵衛の「オーイ/\」の声が聞えると、「チキチン/\」が早間(ハヤマ)になる、その時の息組と、腰の恰好を非常に喧ましく言はれました。
 夏に、大隅さんの「鰻谷」で、八郎兵衛が、唄に連れて戻つて来る、「違ひない/\」の所が無類でした。又、私の役は弥兵衛で、弥兵衛も実によく語つて居られました。この時の前狂言が『廿四孝』で、兵之助といふ若手が、越名弾正を遣つて居ましたが、実によく遣つて居ました。兵之助は、私より十程年下で、有望な遣ひ手でしたのに、惜しい事に若死しました。
 その秋、東京から西川伊三郎さんが、弟の吉田冠二さんを左遣ひに、西川重三郎さんを足遣ひに連れ、三人で初めて下つて来られ、前の『伊賀越』の「新関」で、助平から引抜いて、「浮かれ座頭(ざとう)」を遣つて居られましたが、これは、伊三郎さんのお得意のもので、中々結構なものでした。又、中の『一の谷』(組打と陣屋)では、熊谷でしたが、伊三郎さんは、リューマチスで、始終竹の先にボンボリを附けたもので、足を叩いて居られ、熊谷も「陣屋」だけで、「組打」は、初日から冠二さんが代つて居られました。
 十一月は、前が『狭間合戦』で、新靱さんの「竹中砦」で、私は、中の早打を遣ひましたが、絃は今の吉兵衛さんで、その頃は、まだ兵市さんといつて居ましたが、中々達者に弾いて居られ、よく息が合ひました。中狂言に、大隅さんの「志渡寺(しどうじ)」があり、お辻は伊三郎さんで、祈りの処で、著物を脱ぐと、体に附けてある金毘羅様の御守を、ポイト前の杉の木に引懸け、それを目標に祈る型をして居られましたが、私は、初めて拝見した型で、後に、私が二回お辻を遣つた時に、この型を遣ひました。この時の切は、『阿古屋琴責』で、伊三郎さんが、東京から持つて来られた大人形を使ひましたが、岩永や榛沢(はんざわ)の衣裳が汚れて居るので、座摩前の古手屋で、歌舞伎に使ふ衣裳を買つて来て著せました。私の役は榛沢で、人形が大きいので、腰輪竹(註六十二)が二段に附けてありました。この「琴責」の三味線は、叶さんで、大隅さんの「志渡寺(しどうじ)」を弾いて、二役は実に達者な事でした。尚、伊三郎さんは、この二芝居限りで、又東京へ帰られました。
 
 翌年[明治34年]の正月、門蔵さんの『菅原』の源蔵を一日代役しました。この時の源蔵は、「首実験」で、片肌脱いで、後(うしろ)鉢巻をして居ましたので、私も、その通り遣ひましたが、後鉢巻をした源蔵は、初めて見たもので、門蔵さんは、淡路の出ですから、淡路の人形の型かと思つて居ます。
 三月は、『千本桜』の通しが出て、初役の知盛で、外に猪熊大之進(ゐのくまだいのしん)の役が来ましたが、どうも面白さうにないので断りました。その頃、一役といふのは、幕内で大分喧しかったので、頭取の兵三さんが、ぶつ/\言ふてられましたが、とう/\遣ひませんでした。この芝居は、大分役もめがあつて、兵吉さんが、畑違ひの静御前なんか遣つて居られました。
 五月に、『五天竺』が立つて、「一ツ家」で、二人宙吊りがありました。これは前にもあつたのですが、娘の芙蓉(ふよう)が蛇の化身で、孫悟空との立廻りで組伏せられて、悟空(ごくう)が馬乗りになると、蛇の姿になり、悟空の玉松さんは、蛇の玉五郎さんを連尺に懸けると、玉五郎さんは、蛇の体を畳(たゝ)んで了つて、頭だけを遣つて、その儘宙吊りになつて、場(ば)(見物席)の空(くう)をくる/\廻つて、二階桟敷へ引込むのでした。只今では、場へ出る事が喧しく、あまりやりませんが、こんなものは、場へ出た方がよく受けます。
 その盆替りに、『加賀見山』で、玉松さんのお初を、二三日代役しました。お初は、「尾上部屋」では、不吉な出来事の科があまり多過ぎるので、この時、私は、大分省いてやりましたら、お仕打から賞めて頂きました。しかし、今、やつて居るのでも、まだ多いと思ひます。
 暮に、初役の玉手御前を遣ひましたが、これは、前に彦六座で、辰五郎さんの足を遣つて居て、型を憶えて居ましたから、その通り遣つたのですが、とても/\難しいものでした。又、この時、外に『お駒才三』の才三を遣ひましたが、「−言ふて/\言ひまくらうか−」で、下駄を脱いで、ポーンと座敷へ飛上つて、「イヤ/\」となる手順は、清十郎さんに教へて頂いたものです。
 
 翌年[明治35年]の一月は、『忠臣蔵』の通しで、組さんの「六ツ目」は、勘平の死際が何とも言へませんでした。この時、私は、初役の平右衛門で、一生懸命に遣ひましたら、大隅さんから賞めて頂きました。それでも、太夫さんは組さんで、平右衛門は極附(きはめつき)ですから、どうしても、太夫さんに喰はれ勝ちでした.大隅さんは、由良之助で、「四条の橋から−」の唄が無類でした。
 二月に、組さんの「吃又」で、早打を遣ひました時に、私から組さんに、「もう少しゆつくり語つて頂き度う御座います。」とお頼みに行きましたら、あべこべに、「あこはな、重次郎みたいに遅うてはいかん、早うやらんならんとこだす。」と言はれました。
 次の三月に、「雪中行軍」の新作がありました。これは、道頓堀の朝日座で、壮士芝居(註六十三)が演つて大入を取つて居たのを、お仕打の思ひ附きで、上演する事になつたので、作曲は、仙左衛門さんであつたと思つて居ます。この場は、背景が雪で、真白な所へ、兵隊の洋服が皆黒で、我々が黒衣を著ますと、兵体[隊]の人形がは栄えないので、この時に限り、白衣を著て、目の所は窓を明けて遣ひました。
 五月に、『八陣』で、組さんが、「毒酒」から「御座船」をぶつ通しで勤められました。私は、初めて聴かせて頂いたもので、腹の強いのに驚いて居ましたが、道具方が、御座船の準備に困つて居ました。
 その次の芝居で、「本蔵下屋敷」の若様の若狭之助を遣ひました時、当時、岡崎銀行の社長であつた、岡崎栄二郎さんが、前々からの彦六通で、私をお呼びになり、大変賞めて頂きました。
 この興行は「三信記」で大変大入でしたのに早く打上げて太夫さん三味線さんは、素浄瑠璃で旅へ出て了ひました。そこで私はお仕打の花里さんの手代の赤松といふ方の所へ行き、「太夫さんや三味線弾さんは、素浄瑠璃で休暇中でも働けますが、私達は、その間ボンヤリと遊んでゐんなりまへん、就いては、先頃からの借財も、もう済んであり、お暇を頂きとうおます。」と、申しますと、「まあ/\旦那が旅から帰りはる迄−」との事で、その御返事を侍つ居る処へ、文楽の方から、又、三吾さんが迎へに来られましたので、渡しに船と、また/\文楽の方へ御厄介になる事になりました。
  〔註〕
 六十 【辰造】初代吉田辰五郎の倅にて、二代目吉田文三郎の末門なり、寛政十一年七月、道頓堀若太夫芝居にて、吉田虎造と改名、更に、文化三年、道頓堀大西芝居にて吉田辰造(初代)と改名、おやま立者となる。同十四年四月、稲荷文楽芝居にて、再三改名、父の名跡二代目を相続、それより文政、天保に到り座頭役を勤め、古今おやま遣ひの大立者となる。弘化元年五月二十七日歿。
 六十一 【梅玉】三代目中村歌右衛門の俳号にして、初代也。初代中村歌右衛門の実子、化政期に於ける上方の大名優なり。文化十二年中村芝翫(初代)となり、文政二年には狂言作者をも兼ね、金沢龍玉と名乗る。同八年、三代目を相続、更に、天保六年十一月、中村玉助と改名、同九年七月二十五日、六十一歳にて歿。
 六十二 【腰輪竹】人形の腰の廻りに装置せられたる輪竹にて、衣裳を着せし時、帯の恰好を保つものなり。
 六十三 【壮士芝居】現在の新派劇、その起原する所よりこの名あり、又、書生芝居とも言ふ。
 
 九、文楽座へ復帰
 明楽座(めいらく)の方を、三十五年の六月に、きつぱりお暇を頂いて、その盆替りから、文楽座へ出勤する事になりました。
 で、今度は、以前と違つて、文楽さんでは、私を大変鄭重に扱つて下され、帰参に就いて、お給金も、前の倍にして頂き、番附は、雨晒しでした。その初日前の衣裳割に行きますと、親玉さんから、「しつかりやれ」と、お言葉を頂戴し、私も、もう一生此処で修業しようと決心致しました。
 狂言は、前が『布引』で、私の役は小まんでした。「三段目」は呂太夫さんでしたので、従来は実盛(さねもり)の頭(かしら)は、大きい「検非違使(けんびいし)」(註六十四)であつたのを、この時は、親玉さんが「文(ぶん)七」(註六十五)で遣つて居られました。それで、この時から、実盛(さねもり)は「文(ぶん)七」になつてしまつて、近頃、私も、文七で遣つて居ます。勿論、親玉さんの実盛(さねもり)は、貫目が有つて、結構なものでしたが、その上、瀬尾(せのを)が紋十郎さん、九郎助は多為蔵さんで、「腕(かひな)」の端場が、お三人何れにも欠点(おち)がなく、それは/\結構なもので、これ以来、こんな「三段目」は、一寸ありませんでした。この時の切に『蝶花形(てふはながた)』の「八ツ目」があつて、私は、真弓でしたが、音親(をとちか)の多為蔵さんが、実によく遣つて居られました。
 次の十一月に、越路さんが『三代記』の「絹川村」を語つて居られましたが、越路さんが、「アスヲ」、と出られると、松葉屋の広助さんが、「ヨハ」と乗せて、「−カギリノ夫ノ命−」の所のお二人の「間(ま)」が何とも言へず、今だに耳に残つて居ます。この時は、「豆腐買」の端場もあつて、紋十郎さんの時姫は、お盆に豆腐をのせて、片手に徳利を持つて出たその姿に、実に天下のお姫様らしい貫目がありました。
 翌三十六年一月興行は、越路さんが六代目春太夫、文字さんが六代目越路太夫の名前替への披露興行で、春さんは「新口村』、越路さんは『長局』で、外に、前狂言は『八犬伝』と、景事の『四季寿(しきのことぶき)』がありました。「芳流閣」は津太夫さんで、とても面白う語つて居られ、又、「伴作(ばんさく)住家」は呂太夫さんの役場で、玉助さんの信乃(シノヲ)と、多為蔵さんの伴作の息組が何とも言へませんでした。それから、この時の『四季寿』は、只今よく文楽座で出るものですが、この時は、万歳が親玉さんと玉助さんの外、小町、海女(あま)、鷺娘(さぎむすめ)の三役は紋十郎でした。私は、海女と鷺娘の左を遣ひ、中々苦心しました。又、多為蔵さんの尾上の左も遣ひましたが、この尾上が中々結構なもので、動きが少いのに、多為蔵さんから色々とお小言を頂戴して、大分苦しみました。さうかうする内、私が骨膜炎で大患ひをしました。
 その一番最初は、前年の十二月に、名前は忘れましたが、神戸の相生町に、紅卯(べにう)といふ方が寄席を拵へて、その柿葺落(こけらおと)しに、呂太夫さん、文字さん、南部さん、文さんなどに、人形は、紋十  郎さん、多為蔵さんを除く外全部出ました。狂言は、毎晩替りでしたが、『式三(しきさん)』があつて、親玉さんが翁(おきな)を遣つて居られたと思つて居ます。私も、一座の中に入つて勤めて居ましたが、どうした事か、肩が凝つて仕方がありませんでした。そして、春になつて、始絡歯痛が起つて居ましたので、文楽の近くのお医者さんにかゝつて居ました。所が、二月六日になって、一晩中に右の頬が大変腫(は)れて来て、どうする事も出来なくなりましたので、八日に、当時、木綿屋橋角にあつた井上病院へ入院して、九日に手術を受けました。そして、二週間程養生して居ました所、副院長先生の御診断に依ると、歯肉(はじゝ)を切らねばならぬことになつて来ました。そこで、これはえらい事になつた、どうぞならんかなあと思ひ、その頃、三休橋(さんきうばし)北詰(きたづめ)にあつた深沢病院の院長先生と、三吾さんとが心易い間柄でありましたので、三吾さんに紹介して貰つて、こちらの方が少しは軽いお見立かと思つて、病気のまゝ入院し変へました。所が、意外な事には、此処の方が亦一層話がひどく、頬骨を半分取つてしまはないと、との事で一層びつくりしました。所で、その大手術をした結果、生命に別状はありませんでせうか、と院長先生に伺ひますと、傷の方は、皆が附いて居るから心配はないが、衰弱の為余病が出て、生命に及ぼすかは受合はん、との事です。さりとて、この儘にして置くと、骨は段々と腐るばかりなので、とう/\私も、せん方なく手術を受ける決心をしました。そして、衰弱の為、生命を失つても苦情は申さぬ、といふ証文まで作り、それに捺印すればよいばかりにして、証文を枕の下へ敷いて、二三日の熱の加減を見て手術をするといふ日を待つて居ました。
 ところで、茲に、私の妹の知人で、お稲荷様のお下りになる人がありました。これは、三吉(さんきち)稲荷様といつて、一度それに伺ひを立てる事になりました。すると、お稲荷様の仰言(おつしや)るには、「これはえらい事をした。わしでは助ける事が出来んから、河内の石切(いしきり)さんへ行け」との事でしたので、妹が石切(いしきり)さんへ参詣し、私は、病院から石切(いしきり)様へ御膳を献(あ)げて、手術をするかせんか、石切(いしきり)さんとお医者さんとの首引きになりました。ところが、三日立つても、五日立つても、一週間立つても、一向手術をする様子もなく、とう/\骨を一部分欠くだけで助かりました。そして、深沢病院には三週間、全部で五週間入院しました。又、退院後も病院通ひをして、すつかり全快するまで百日程掛りました。
 それで、次の三月一日初日の芝居は、二三日過ぎてから出勤しました、狂言は『廿四孝』で、濡衣(ぬれぎぬ)の役を貰つて居ましたが、まだ繃帯をして居ましたので「御殿」の出遣ひが出来ず、軽い役に替へ貰ひました。この芝居は、大変よくお客が来たのですが、当時は、千秋楽(らく)の日(ひ)が定まると、勘定場から親玉(おやだま)さんと紋十郎さんのお二人へ、報告に行く事になつて居て、この時は、大入でしたから、お二人共、もつと打つたらと言ふて居られたさうでしたが、次の五月興行は、紋下の春太夫さんが、兼々小松宮殿下から頂いておいでになつた摂津大掾(せつつだいぜう)のお名前を名乗られる事が定まつて居て、その準備や何かで、四月半ばに打上げて、五月は、一日初日で花々しい興行が明きました。
 狂言は、『妹脊山』の通しに、附け物が、久々入座の大隅さんの「壷坂」でした。染さんの「芝六(しばろく)住家」に、「山」の掛合は、大掾さんの定高に、越路さんの雛鳥(ひなどり)、津太夫さんの大判事に、染さんの久我之助(こがのすけ)で、「杉酒屋」は越路さん、「上使」が津太夫さんに、「竹雀(たけす)」は大掾さん、といふ申分のない役割でした。その上、丁度、大阪に第五回の博覧会があつた時で、大阪は賑はつて居る処へ、大掾さんの披露や、大隅さんの文楽入りなどで、断然人気が湧き、大入も大入、なんと五月一日から七月十五日まで、その中六月の節季一日休みで、七十五日間打ち通しました。それも、皆一現(いちげん)のお客様ばかりで、芸人から連中をするとか言ふて行つても、皆勘定場からお断りでした。私共五十余年の舞台生活を振り返つて見て、この時があらゆる点から言つて、一番豪華な興行でした。勿論、私も、この大一座の中で勤めて居たのですが、華々しい芝居の景気に引換へ、私は、病気上りで、繃帯は取れたものゝ、傷口のガーゼは依然取れず、それに、私の役が、著(めど)の方と求女(もとめ)と入鹿(いるか)で、殆んど出遣ひのものばかりでしたので、傷口のガーゼの上から、白い布でマスクのやうなものを拵へ、それを耳から耳へ顎吊(あごつ)りに懸けて、出遣ひを勤めました。と申すのは、誠にお恥しいお話し乍ら、思ひがけね大煩ひで高い入院料や、お薬代の為、僅かな身代を使ひ果し、全快しましたときは、丁度、私の分は勿論、親や妹の財産迄すつかり無くなつて居ました。その上、私独りで一家を支へて居たものですから、お客様には誠に見苦しい事でしたでせうが、そんな不恰好な顔をしてゞも、パンの為には舞台を勤めなければ、どうしてもやつて行けない、情ない状態に在つたのです。尚、この時から、番附は、私の雨晒(あまざら)しが止めになつて、本欄(ほんらん)へ入り、下四枚目に座りました。
 こんな訳で、私に取つては、この興行は実に苦しい思ひ出の興行でありましたが、芝居は、前申す通りの大入で、七月十五日に目出度く千秋楽となり、夏休みになりました。この休み中に、大隅さんがシンで、人形は、親玉さん、紋十郎さんなどに、私共四五人を除く外全部で、東京へ引越し興行がありました。小屋は何処であつたか忘れましたが、秋になつて、紋十郎さんの帰阪が遅れた為、盆替(ぼんがは)りの初日が大分延びて居ました。
 で、盆替りは、『恋女房(こひにようぼう)』の立狂言(たてきやうげん)で、『道成寺』は、定之進(さだのしん)が大掾さんで人形は親玉さん、私は、脇僧(わきそう)の役でしたが、親玉さんの命令で、役は政亀さんに渡して、定之進(さだのしん)の足を出遣ひで勤めました。又、この興行で、叶さんが三代目清六を襲名され、附け物の大隅さんの「帯屋」で披露されました。
 その十一月に『吃又(どもまた)』で、紋十郎さんの又平におとくを遣ひましたが、又平がおとくを蹴るところで、おとくがころ/\と三度転がり、起き上ると、今度は手で突かれて、三歩後退(あとしざ)りする型を、紋十郎さんから教はつて遣ひました。
 翌三十七年一月は、『新薄雪(しんうすゆき)物語』が立ち、「園部屋敷」は津太夫さんで、こんなものは、実に打つて附けで結構でした。それに、人形は親玉さんの兵衛に、紋十郎さんの伊賀守で、揃つて居ました。兵衛が、刎川(はねかは)の持つて来た刀の血(のり)を見た時の息組や、蔭腹(かげはら)の出なんか、実際堪りませんでした。それから、この時の伊賀守は、紋十郎さんの注文で、下手(しもて)に枝折戸をしつらへて、下(しも)から出て、座敷へ上る時、床に「待合せ」(註六十六)を拵へ、草履を脱ぐ息を遣つて居られました。これは、私も初めて拝見した型で、大体は、伊賀守も上から出て、草履を脱ぐ科(しぐさ)はなかつたもので前に彦六座で、才治さんの時もさうでしたが、かうすると、お梅の方が遣ひよくなります。
 二月は、『八陣』の立狂言(たてきやうげん)でしたが、親玉さんは、この頃から病気勝ちで、政清(まさきよ)は、たしか紋十郎さんが代つて居られたと思つて居ます。切に、『安達ヶ原』の「謙杖館(けんじやうやかた)」で、私は濱夕(はまいふ)で、初めての婆(ばゞ)役でした。随分遣ひにくかつたのですが、一生懸命勤めましたら、又、次の三月に、染さんの『阿漕(あこぎ)』で、千次の母の役が来て困りました。
 その時は、『伊賀越』の通しで、丁度、日露戦争中でしたので、「遠眼鏡(とほめがね)」の引抜きで、戦争当込(あてこ)みがありました。広作さんの作曲で、玉助さんのロシヤニーケル氏、紋十郎さんのターレクサ嬢といふ、ロシヤ人の駈落ちになつて居て、ちよつとしたクドキがありました。そして、「遠眼鏡」の段切(だんぎれ)にその頃の流行唄の、「ウテヨコロセヨ敵国を−、」の唄を、助平が唄ひながら引込みました。
 この年は、紋下の大掾さんが病気で休んで居られ、又、三味線紋下の松葉屋広助さんは、二月に亡くなられ、紋下は、大掾さんと玉蔵さんの二人になりました。
 その六月、津太夫さんが「酒屋」を語られましたが、病気も少し快方に向つて居られた大掾さんは、一日、お内儀(かみ)さんとお揃ひで、この「酒屋」を聴きに見えました。元々、「酒屋」は、その頃では大掾さんの語り物になつて居たのですが、この時の津太夫さんの「酒屋」は、又格別で、大掾さんのとは少し違つた行き方で、実に情の溢れた結構なものでした。
 九月は、『朝顔』の通しで、「一つ家(や)」も出て居ましたが、荒妙(あらたえ)は、久々帰参の多為蔵さん、深雲(みゆき)は紋十郎さんでしたが、かねて、このお二人は、常々から仲がよくなかつた方で、それが、其儘舞台にも現れて、両方とも寸分の隙もなく、責め場の息組など、実に物凄いものがありました。
 十一月に、『紙治』の通しが出て、私は、小春で「浮無瀬(うかむせ)」から「道行」まで出張(でつぱ)りでしたのに、まだ「炬燵」の端場の用事のない時は、ちよんがれ坊主の左を遣つて、少しも休みなしに働きました。
 翌年[明治38年]の初春興行は、『菅原』の通しで、「桜丸切腹」は大隅さん、これが実に/\結構なもので、白太夫(しらたゆふ)の軽さと言つたらなく、その内に、「−勘当をされ度いとな−」などで、得も言はれぬ情味が出て居て、大掾さんは、御簾内(みすうち)に聴いて居られ、「中々よう語つてる」と言つて居られました。この時、私の役は八重で、桜丸の懐剣を止めると、桜丸が振り切るを、猶も止めようとする処、八重を後向(うしろむ)けて、袘(ふき)を縁下(えんした)へ落して遣ひました。これは、彦六座の旗揚げ興行の時、『菅原』が出て居て、辰五郎さんが、このやうに遣つて居られたのを憶えて居たものですが、かうすると、白太夫の「南無阿弥陀々々」の長い間が持ち易くなります。
 この興行中一月十二日に、かねて病気中であつた親玉さんが亡くなられました。親玉さんは、文楽では一番古老で、幕末からずつと文楽生抜(はえぬ)きの方でしたから、大宝寺町佐野屋橋西入(にしいり)北側(きたがは)のお宅から出棺、一座の者は、皆白裃を著て、行列を整へ、植村の御本家の前を通つて、下寺町(したでらまち)の大蓮寺まで行きました。
 三月に、『千本桜』が立つて、静御前は紋十郎さんで、私は、「道行」でその足を遣ひましたが、この時の立三味線が勝鳳(しようはう)さんで、稽古の時にどうしても「間(ま)」が合はず、何回となく演り直しをしましたが、遂に、勝風さんは、紋十郎さんの部屋へ三味線を持つて、出張して来られました。
 四月は、『狭間合戦(はざまがつせん)』の通しで、「官兵衛砦(とりで)」で、玉助さんの官兵衛と、紋十郎さんの千里(ちさと)と、私の犬清(いぬきよ)の舞台写真が、朝日新聞に出ました。舞台の写真を撮(と)つたのは、前にもあつたかも知れませんが、人形の舞台面が新聞に出たのは、これが最初かと思ひます。
 その盆替りに、『双蝶々(ふたつてふ/\)』の「橋本」で、甚兵衛は多為蔵さんで、与治兵衛と治部衛門とのセリ合(あひ)を止める所で、草鞋(わらぢ)穿(ば)きの儘飛び上つて、暫くしてから気が附き、草鞋を脱ぐ型をして居られましたが、只今、私が甚兵衛を遣ひますと、この通り演(や)つて居ります。
 十一月は、『箱根霊験(はこねれいげん)』が立ち、七五三(しめ)さんの「筆介(ふですけ)住家」が中々結構でした。私の役は、勝五郎で、「瀧」では、初花(はつはな)が紋十郎さんであつた為、その威勢に押され、十一月といふに汗一杯で、殊に、幽霊の条で、勝五郎としては、別に科(しぐさ)もないのに、汗を拭く事も出来ぬ程、紋十郎さんの威圧を受けました。この時の切が、南部さん初の附物(つけもの)の「山名屋」で、多為蔵さんの彦六がとても面白く、二度目の出なんか,毎日見て居て、思はず吹き出しました。
 三十九年一月は、『先代萩』の通しで、病気で休んで居られた法善寺が久々出座され、「埴生(はにふ)村」を語つて居られましたが、実に結構なものでした。私は、毎日お囃子部屋で聴いて居て、何時(いつ)もホロリとしました。「御殿」は、勿論大掾さんで、結構な事は言はすもがな、「御殿」といふものは、大掾さんの為に出来たものか、と、皆が言つた位でした。切に、大隅さんの「鎌腹(かまばら)」で、これ亦お得意(はこ)のもので、七太夫を殺した後の「もう叶はぬ/\」など、実際悲壮そのものでした。で、この「鎌腹」といふ狂言は、外(そと)の芝居で書卸されたものださうで、文楽座での上演は、この時が最初で、従つて、玉助さんの弥作も初役でしたが、大隅さんの浄瑠璃に連れて、必死になつて遣つて居られました。それに、紋十郎さんの七太夫が、とても物凄いものでした。
 次の三月は、玉助さんが、三代目玉造を襲名され、『廿四孝』の八重垣姫で披露されました。この時、「下駄場」の景勝(かげかつ)は多為蔵さんで、実に貫目のある立派な景勝でした。切に、「帯屋」があつて、紋十郎さんの長吉とお半、玉造さんの長右衛門で、私が初役の儀兵衛で、一生懸命勤めましたら植村さんから賞めて頂きました。
 次の四月、『大江山』の通しが出て、吉野(よしの)の前(まへ)は紋十郎さん、有明御前(ありあけごぜん)は多為蔵さんで、八瀬の女の風をして出て来る時に、頭に物をのせて居るので、お尻をふり/\調子を取つて歩く恰好が何とも言へん面白いものでした。多為蔵さんは、この様な細心の注意を怠らない方で、つく/\感心しました。この時、中狂言(なかきやうげん)は『梅忠(うめちゆう)』で、「新町(しんまち)」は大隅さん、「新口村(にのくちむら)」が大掾さんで、私は、梅川を遣ひました。「新口村」で、梅川がお金を貰つてから、クドキになるまでの間、何するともなく、ジツと息を詰めて遣つて居ましたら、孫右衛門の紋十郎さんから、お賞めのお言葉を頂戴しました。
 六月に『伊賀趣』で、紋十郎さんの大内記(だいないき)の息組といふものは、全く凄いものでした。又、切に「宮守酒(ゐもりざけ)」の夕(ゆふ)しでを遣つて居られましたた、「月と雪との真中に−」の出が無類で、植村のお内儀(かみ)さんは、毎日感心して居られました。
 その盆替りに、「堀川」が出た時、「河原」で、多為蔵さんの伝兵衛と、私の官左衛門との立廻りを、「一つ面白うやりまひよか」といふ事になつて、伝兵衛が官左衛門の眉間(みけん)をボンと打つて、その儘極めて居ると、官左衛門は斜め向きで、眉間から血を出します。それを見て伝兵衛は、トントン/\/\と後へよろめき、後の柳の木迄行つて、刀を振り上げると、黒幕を落してメリヤス(註六十七)の力ヽリになる、といふ段取でしたが、伝兵衛が腰を抜かして刀を振り上げたその恰好といつたら、ほんとうに町人が度胆(どぎも)をぬかした時の恰好で、お客様に大変喜んで頂きましたが、官左衛門の眉間から血を出したのは、これが最初でした。又、『堀川』で、多為蔵さんの伝兵衛は、母のクドキの間、「−二人は何と詞さへ」迄、如何にも自分の事を言はれて居るといふ腹で、ジツと気を入れて遣つて居られるのに感心しました。このやうな事は、よくわかつて居ながら中々出来ないことです。
 十一月は、『布引』が立ち、実盛(さねもり)は多為蔵さん、瀬尾(せのを)は紋十郎さんでしたが、前に申した通り、このお二人が常々から一物のある中でしたので、実盛(さねもり)と瀬尾(せのを)との息組など、平常の気持が舞台に出て、実に物凄いものでした。前に、親玉さんの実盛の時も結構でしたが、この時の「腕(かひな)」も、実に結構なものでした。
 四十年の初春興行は、『日吉丸』が立ち、法善寺お得意の「小牧山(こまきやま)」、切に、越路さんの「市若(いちわか)初陣」がありました。この時、板額(はんがく)を遣つて居られた紋十郎さんが病気で休まれ、その代りを九日間勤めました。ところが、紋十郎さんは、前にも申す通り、御自分の恰幅(かつぷく)がある為、殊に、この板額(はんがく)などは、格別大きい人形を拵へて居られましたので、到つて小兵(こひやう)の私は、到底遣へさうにもなく、一旦はお断りしました。それに、だいたいの法式として、主遣(おもづか)ひが休んだ場合その代役はその左遣(ひだりづか)ひが勤めるもので、この時、私は、多為蔵さんの与市の左を遣つて居り、代りが来る筈はなかつたのですが、紋十郎さんの左を遣つて居たのは、亀三郎さんといつて左の専門、先づ左遣ひとしては、右に出る者がない程の名人でしたが、胴は遣へない、それで、どうしてもといふ事なので、遂にお受けしましたが、今申す大人形で、アノ長丁場を通す苦しさといつたらなく、途中で人形を捨てゝしまはうかと思つた位でした。しかし、私は、多為蔵さんの左を遣つて居る紋十郎さんの板額を見て置きましたのが役に立つて、苦しいながらも、一生懸命勤めましたら、勘定場の方々から賞めて頂き、朝日新聞の劇評に、「大物の代りとしては、案外の出来であつた」との好評が出ました。そんな次第で、この板額は、私に取つては、まあ出世芸といつた様なもので、兎に角因縁深い役です。それにしても、私達舞台を勤める人間は、代役が非常に大切です。それには、呉々も平常からの勉強を怠らず、先輩の方々の勤められるのを、よく見て置かねばなりません。
 三月に、久し振りで『忠臣蔵』が出ました。当時文楽は、大入続きでしたから、『忠臣蔵』でなくとも、お客様はどん/\来て下さいましたので、お仕打の方では、中々『忠臣蔵』を出さず、もうお客様が待ち切れなくなつた頃を見計つて、『忠臣蔵』を出すといふ策略でした。で、かねがね喧(やかま)しかつた大掾さんのおかるは、この時がお名残り、私が亦初役のおかるでしたが、今申す通り、久々の『忠臣蔵』ですから、私は、文楽へ入つてから初めてゞ、従つて、彦六座や稲荷座のおかるは、見て知つて居ましたが、文楽座のおかるは知りませんでした。それで、総稽古の日に、大掾さんの御注文で、紋十郎さんに総てを教はり、舞台を勤めました。この時も、朝日新聞に、酔ひざましの勾欄(てすり)に靠(もた)れた恰好が、傾城らしい姿であつた、と好評を頂きました。
 それから、「九段目」は、勿論、大掾さんでしたが、ほんとうに結構なものでした。大掾さんの語り口に一番合はないと思はれる本蔵のよさといつたらなく、笑ひのよかつた事には、全く感服しました。これに就いて、聞いて居ますには、大掾さんは、「九段目」をもう大分以前から語つて居られたとの事で、最初の頃は、戸無瀬や小浪、お石などは結構であつたが、本蔵がもう一つとかの評であつたさうでしたが、それは昔の事、もうこの頃の大掾さんの本蔵といふものは、どなたの本蔵よりも結構なものでした。これをつく/\考へますに、大掾さん位の名人になると、畑違ひであらうが、何でも一心に凝つた結果は、こんなに結構なものが出来上るのかと思ひますと、我々は、及ばずながらも、死ぬ迄一生懸命に勉強せねばなりません。この時、私は、多為蔵さんの本蔵の左を遣つて居ましたが、随分とお小言を頂戴しました。「手負やさかい、強い中にも弱い処がないといかん、本蔵と又助とは亦違ふ」との事でした。
 尚、この興行中、予々病気で休んで居られた二代目玉造さんが、遂に亡くなられました。まださしたる年配でもないのに、大切な方を失つて、誠に残念でした。二代目さんは、親玉さんが亡くなられて以来、紋十郎さんに対し、親玉さんの役処(やくどころ)を遣つて居られたのですが、殊に、重兵衛や治兵衛、菅相丞(くわんしようじやう)などといつたところが専門で、歌舞伎の方で言ふ二枚目です。私の方では、二枚目と言はず、ボケヤツシと申します。
 五月に、『三代記』が立つた時、多為蔵さんの高綱が、親玉さんそつくりで、何時も、越路さんが感心して居られました。又、切に、「琴責」があつて、私が榛沢(はんざは)で、用事のない間に、紋十郎さんの阿古屋の型をすつかり見て憶えて置きました。
 その夏に、京都の南座へ人形芝居が懸かり、私も一座に加はりました。尤も、以前は、文楽も毎年京都へ行つたさうでしたが、今度は久し振りで、先頃亡くなりました三味線の友之助さんの親の清水福太郎さんといふ、到つて浄瑠璃通が受取つて、お仕打は松竹さんでした、狂言は、『廿四孝』に、「壷坂」、切に『吉田屋』で、文楽からは、南部さん、叶(かなふ)さん、源さんに、三味線は寛治郎さんなど、堀江座からは、住さんに龍助(りようすけ)さん、人形は、紋十郎さん、門造さん、助太郎さん、玉五郎さん、玉次郎さんなどに私で、「吉田屋」では、紋十郎さんお得意の伊左衛門に、私の夕霧(ゆふぎり)でしたが、これは、紋十郎さんの名指しでした。ところが、私は、夕霧(ゆふぎり)が初役で、この時は随分苦しい目に遇ひました。丁度、三日間程といふものは、毎夜打上げ後、紋十郎さんにお部屋へ呼び附けられて、お小言頂戴です。「お前、伊左衛門といふ役は、夕霧(ゆうぎり)に遣はして貰ふ役やがな、それに、お前がそんなんでは、俺が遣へんがな」と、紋十郎さんは、裸で冷い飲物をやり乍ら、お弟子に扇がせて、「吉田屋」のお話です。誠に結構なのですが、私の方は、舞台の肩衣も脱がず、汗を拭く事も出来す、じつと承つて居る、その暑さ、苦しさには全く弱りました。しかしそのお蔭で、只今私の遣つて居る伊左衛門は、型だけは、全部紋十郎さんの通りです。
 盆替(ぼんがは)りは、大阪へ帰つて、前が『彦山(ひこさん)』、「毛谷村」で紋十郎さんのお園が、助太郎さんの六助に斬りつけるところで、助太郎さんが怪我をしましたが、紋十郎さんは、芸の上の怪我は仕方ない、と言つて居られました。この中狂言(なかきやうげん)が、「長局」で、紋十郎さんのお初に、私の尾上で、これも非常に苦しかつた舞台でした。と申すのは、言ふ迄もなく、尾上はお初の主人ですから、万事あゝせいかうせいと顎で使ふ心でよいのですが、そのお初が紋十郎さんで、平生楽屋では、逆に私が叱られて居るものですから、その楽屋の習慣が舞台に現はれて仕方がない。紋十郎さんは、「遠慮せんと遣ひ/\」と、わかり切つた事を言つて居られるのですが、どうも苦しみました。
 尚、この興行から、番附が変つて、助太郎さんと玉治郎さんと私が、三人中軸(なかぢく)(註六十八)になりました。
 それから、この秋に、家内のなかと結婚しました。実家は京都で、千家(け)下職(したじよく)の浄益(じやうえき)の一等職人の娘で、青木と言ひました。
 四十一年の一月に、『信長記』が立つて、紋十郎さんの乳母(うば)侍従(じゞゆう)が、助太郎さんのドスの喜蔵と、私のツブテの六とを相手にしての立廻りは、中々激しいものでした。
 四月は、『太功記』の通しに、附物(つけもの)が法善寺の「湊町」で、これが実に情味のある、何とも言へね『湊町』で、お真の出なんか格別に結構でした。何時も、「大徳寺」を済ませた染さんは、帰りがけに一寸横幕(よこまく)(註六十九)に立寄つて、感心して居られました。
 次の六月、『盛衰記』が立つた時、私は、初役のおふでを遣ひました。本来ならば
紋十郎さんの持役なのですが、この時は、「湯屋」も出て居て、紋十郎さんは、梅ヶ枝でしたから、私にお筆が来たのですが、総稽古の日、どうも不安で仕方がなかったので、「笹引」のお筆を、紋十郎さんにお頼みして、遣つて見せて頂きました。
 その暮に、『日蓮記』の通しが出ましたが、これに就いて、かね/\私が聞いて居りますには、世に、上人(しやうにん)御直筆(ごぢきひつ)の曼陀羅(まんだら)が三つあるうちその一つを、お仕打の植村さんが持つて居られ、大切の「本門寺」で、舞台を平舞台にして、正面にそれを掛ける事になつて居ましたが、そのやうな大切な品物ですから、植村家の手代の渡辺といふものが、二重箱に入れて持つて来て飾るので、絶対に他人に手を触れさせません。この曼陀羅の写真を、私も一枚持つて居たのですが、宗旨も違ふし、後に日蓮宗の信者に上げてしまひましたが、惜しい事をしたと思つて居ます。又、この時の上人は紋十郎さんで、「身延山」も出て居ましたから、珠数を使ひますが、その珠数も亦、植村家にやかましいものがあつて、紋十郎さんは、
それを舞台で使つて居られましたが、これも、絶対に人手に渡されません。ところで、この芝居中に、「頼三郎内」を語つて居られた津太夫さんが、ある日舞台半ばにして病気が起り、楽屋で寝て居られました。そこへ、舞台を済ませた紋十郎さんが 見舞に来られたのですが、例の珠数を片附ける暇がなく、他人に預ける事も出来ないので、首に掛けて出て来られましたので、皆の者が大変気にしました。で、津太夫さんは、舞台はこの時がお名残りでしたが、お家には、まだ暫く居られました。
 翌年[明治42年]の正月、初役の治兵衛を遣ひましたが、型は、二代目玉造さんの通りを遣ひました。その頃の「河庄」の舞台は、格子が正面向、上手にあり、孫右衛門と小春の間、治兵衛は、中央より少し上手寄りで遣つて居ました。
   〔註〕
 六十四 【検非違使(けんびいし)】盛綱、「謙杖館」の八幡太郎等に用ゆる頭。
 六十五 【文(ぶん)七】光秀、五右衛門、貞任、熊谷、等に用ゆる頭。
 六十六 【待合せ】床(ゆか)の浄瑠璃を待たせて、人形が科をする合間。
 六十七 【メリヤス】その起原には数説あれど、茲では、舞台の蔭で伴奏する三味線の曲を指して言ふ。
 六十八 【中軸(なかぢく)】番附の中央の位置、本章初めに掲載の明治三十五年九月、文楽の番附ならば、人形欄吉田多為蔵がそれ也。
 六十九 【横幕】人形の舞台の左右にある、人形が出入する口で、現今では竹本、豊竹両座の紋に附いた木綿の暖簾が下つて居る。
 
 
一〇、松竹さんになつてから
 四十二年の三月は、『菅原』の通しで、これが、植村さんの最後の興行でした。次の四月から松竹(しやうちく)さんになつたので、これは、前に京都の南座へ行つた時に、万事の介錯(かいしやく)をして居た清水福太郎さんが、植村さんの手代の渡辺に話して成り立つたものと聞いて居ますが、話は、非常に秘密裡に進められて居たので、勘定場から発表になる迄は、我々芸人は全然知りませんでした。しかし、この最後の興行は、楽屋内で色々とごた/\があつて、私は、極く些細な事で、紋十郎さんの御機嫌を損じて居ました。ところが、紋十郎さんは白太夫(しらたいふ)、私は梅王(うめわう)で「三段目の「−旅立ちの願ひは叶はぬ/\−」で座蒲団を投げつける処(ところ)髭は、ほんとうに怖いものでした。
 
 
 で、次の四月は、松竹さんの第一回興行で、前が『先代萩』、中が「堀川」、切が「吉田屋」でした。ところが紋十郎さんは、この初日前に、京都の南座近くの大和橋北詰で旅館をして居られたお家から火事を起し、小火(ぼや)でしたが、その後始末や、一つには、多少体の具合も悪かつたとみえ、総稽古の日に出て来られず、大掾さんの「御殿」の政岡(まさをか)は、この日、私が代りをしました。それでも、初日には出て来られましたが、「まだ少し体が頼りないさかい、栄三、お前衣裳附けて後に控えて居てんか、」との事でしたので、「御殿」の間、用意をして構えて居ましたが、代りはしませんでした。それから、この時の私の本役(ほんやく)は累(かさね)で、「土橋(とばし)」で、清水さんが早替りをして呉れとの注文でしたので、三婦(さぶ)と金五郎と累の三役を、早替りで勤めました。私の早替りは、これが最初でしたが、白井社長に大変喜んで頂き、清水さんも、「初めての早替りやのに中々上手やがな」と、お世辞でせうが、賞(ほ)めてくれました。これは、前に、彦六座で、辰五郎さんや玉松さんの早替りの介錯を度々したのが役立つたのです。尚、その興行に、津ばめさんが二代目の古靱太夫を襲名せられ、「竹の間」を語つて居られました。
 その次の興行に 初役の重兵衛を遣ひましたが、「平作内」で、従来は、「心に一物」、で一旦外へ出て振り返つて笠で隠して腰の印寵を家へ置き、一廻りして「荷物は先へ−」となつて居たのを、私が、つく/\考へますに、前に、「思案を極め」といふ文句もあり、わざとらしくせぬ為、家に居る間、「かねての願ひに書付も、此内に委しうござる」と、その金包に二人が目を附けて居る間に、印籠をそつと置いて行く事に改めました。しかし、重兵衛は、この時から、文楽では、私以外に誰も遣はず、これ以来、私は何遍遣つたかわかりません。
 六月は、久々で『夏祭』の通しで、私は初役の九郎兵衛に、紋十郎さんの義平次で、この時の「泥場(どろば)」程苦しかつた事はありませんでした。だいたい、前々から申す如く、紋十郎さんの舞台が激しい処へ、御自身は恰幅があるので、低い舞台下駄(註七十)を穿いて、人形は義平次で到つて軽く、私は、反対に御承知の如き小兵ですから、高い舞台下駄で、人形は丸胴(まるどう)の大物で、唯持つて居るだけでも、相当えらい上に例の「駕返せ/\」の義平次とのセリ合ひのえらかつた事は、全くお話にならず、ほんとうに油汗(あぶらあせ)をかき、頬の肉はこけ落ちてしまひました。今考へてもぞつとする程激しい舞台でした。それから、この時の私の左が玉次郎さんで、義平次の二度目の出、泥の中から出て来るのでも、紋十郎さん御自身から意地張つて居られますから、それを引張り出すのに、玉次郎さんが苦しんで居られました。又、殺してから、祭の太鼓のドンデンドンで止めをさし、もう一度ドンデンドンで頭を振り、最後にドン/\で後向きのネジを遣ひますがこの時の左遣ひの呼吸がとても/\難(むづか)しいのです。何しろ人形が丸胴の大人形ですから、女形などのネジとは違ひ、一寸でも隙(すき)があると人形の姿勢が崩れます。この型は、紋十郎さんに教へて頂いて遣つたものです。私の役は、この外に「鈴ヶ森」のお駒がありましたが、「泥仕合」の出を紋十郎さんと、二人で待つて居る間、紋十郎さんは私に、「栄三、お前、今度の二役が瀧足に出来たらもう座頭(ざがしら)(註七十一)やで、」と言はれました時は、苦しい舞台の事も忘れて、ほんとうに嬉しう御座いました。それに附けても、どんな役柄でも一心にならないといけません。歌舞伎の方では知りませんが、私達の方では、昔から座頭になられた方は、どんな役でも遣つて居られます。又、さうでないと座頭と申されません。
 この夏休み中に、天満の大火事があつたので、不入だらうと思つて、怖々(こは/\)盆替りの初日を出したのですが、どうした事か、大変大入でした。狂言は『廿四孝』に、「合邦」、「壷坂」で、紋十郎さんは、初日から病気で休んで居られたので、持役の八重垣姫は私に、玉手御前は三左衛門さんが代りをしました。三左衛門さんは、紋十郎さんのお妾さんで北の新地の若国(わかくに)といふ人の身内でした。そこで、私は、総稽古の日と、初日と、千秋楽(らく)の日と三度、役場(やくば)の大掾さんの御部屋へ御挨拶に出ましたら、向ふ様からも、御鄭重な御返事を頂き、恐縮してしまひました。この時、私の本役は勘助でしたので、大掾さんは私に、「あんた勘助遣(つこ)て、八重垣姫の代りしたら、丁度大宝寺町(初代玉造さんの事)やがな」と言つて居られました。この時の「狐火」も、清水さんの注文で、早替りを一回多くする事になり、狐の間に衣裳を肌いだのは、私が最初で、菊の垣を使つて早替りをしたのですが、これは、彦六座で、辰五郎さんが演つて居られたもので、狐の消えるのは、従来通り、三宝を使ひました。
 尚、この八重垣姫を代役で遣つて居る間に、左を遣つて貰つて居た、紋十郎さんの左を専門に遣つて居られた、亀三郎さんといふ左の名人から、主遣(おもづか)ひを助ける左遣ひの呼吸を、教へて頂きました。それは、口伝(くでん)ですから、口では申されませんが、誠に結構なお話で、私は、後で亀三郎さんの処へ、お菓子折を持つてお礼に行きました。この事は、私から今の玉蔵さんに伝へて置きました。
 次の十一月は、『忠臣蔵』の通しで、病気揚句の紋十郎さんは、「茶屋場」の由良之助だけで、部屋も、二階ではえらいと言ふので、階下(した)の私の部屋と交替しました。
 
 その暮の間に話があつて、春[明治43年1月]には『中将姫』が出る事となり「雪責」は、勿論大掾さんで、「ひばり山」は南部さんで、又清水さんからの注文で、「ひばり山」の岩根御前で、何かケレン(註七十二)を演(や)つてくれとのことでした。これは、ずつと以前に、文楽が京都へ行つた時に、親玉さんが、雷(らい)か何かを使つて早替りをして居られたのを、清水さんが憶(おぼ)えて居たので、今度は、別に文句を、朝日新聞の岡田さんに書添へて頂いて、その頃、南部さんの相三味線の猿糸(今の友治郎)さんの作曲で、丁度、南部さんの声に合ふ様な、高調子の一調べが出来上りましたので、清水さんと私は、当時、平野町に住んで居られた猿糸さんのお宅へ伺ひ下相談をして、いよ/\舞台へ懸ける事になりましたが、岩根御前と松井嘉藤太との立廻りの中へ雷が落ちると、すぐ雷の衣裳に替つて、面を被(かぶ)り、宙吊りになつて、岩根御前の人形を引上げ、それを中程から落すと、山がらを使つてくる/\と廻り、幕切れには逆立になつて、横に廻すといふ大ケレンをやりましたら、お蔭で大変受けて、四十日余りも続けました。尚、この月から番附が変つて私は、「書出(かきだ)し」(註七十三)になりましたが、座頭が紋十郎さんでしたので、その釣合上、私の右へ杜員の名が一つ挟(はさ)んでありました。
 次[明治43年2月]に、『千本桜』が立つた時、清水さんが私の処へ来て、「権太を遣ふか」と言つて居ましたが、権太は亦、先で遣へるだらうから、まだ遣つたことのない、小金吾を一度遣ふ事にしました。この時は、玉治さんが、四代目文三(ぶんざ)を襲名して、忠信(たゞのぶ)を遣つて居られた時でした。
 その四月は、珍らしく『釈迦如来誕生会(しやかによらいたんじやうえ)』で、これは、道行の「檀特山(だんどくせん)」の外は、だいたい『五天笠』の通りでしたが、「檀特山(だんどくせん)」だけは、「五天笠」のとすつかり違つて居て、何でも、三代目の吉兵衛さんが(註七十四)纏め上げられた曲ださうで、その方に因縁深い大掾さんが、出られる事となり、私の太子の役を、「檀特山」だけ紋十郎さんに持つて行き、その代りに、紋十郎さんの遣はれる筈の「阿波十」のお弓が、私のところへ来ました。
 紋十郎さんは、その年の夏中にとう/\亡(な)くなられ、盆替りは、久々で多為蔵(たゐざう)さんを迎へ、前(まへ)狂言(きやうげん)は、久し振りの『嬢景清(むすめかげきよ)』の通しに、「堀川」と「盛綱陣屋」に、切に「千両幟」がありましたが、越路さんの「盛綱陣屋」が実に結構なもので、立稽古(たちげいこ)の時、皆感心しました。私の役は徴妙(みめう)で、又、多為蔵さんの景清も五日程代りをしました。この月から、清水さんが伝染病で桃山病院へ入院して、遂にその儘亡くなりましたが、松竹さんの中で一番の浄瑠璃通でしたのに、僅か一年程より居ずして亡くなり、文楽座に取つて実に惜しい事でした。それに、私も、この方には格別可愛がつて頂いて居ました。そして、私の名前の事なども非常に心配して下され、丁度、以前『道成寺』のお話の序に申しました辰造さんの名跡が、その儘になつて居たところでしたから、清水さんは、私に辰造を襲(つ)がせようとの考もあつたらしく、私も「どうぞよろしくお願ひします。」とお頼みして居たのですが、こんな事になつてしまつて、私も、大変力を落しました。若し、清水さんがもつと長く居られたなら、辰造は襲名出来ないにしても、今日、何か違ふ名前になつて居たかも知れません。誠に、私に取つては大損失でした。清水さんの御命日も憶えて居ます、十月の十一日でした。
 で、次の興行は、清水さんが床(とこ)の中で拵へて置いた狂言で、前が『一の谷』、中が「志渡寺(しどうじ)」、切が『矢口』で、私の役は、お辻と相模で、両方共初役でした。お辻は、前に明楽座で西川伊三郎さんが遣つて居られた型を遣ひましたが、相模の方は「陣屋」で、従来は、「−御批判如何にと言上(ごんじやう)す」で、再び相模が駆け寄るのを、直実(なほざね)が制札で押(おさ)へる事になつて居ましたので、この時もその積りで出ましたら、見て居られた多為蔵さんが、「オイちよつと待ち、そこ、さうするとその間、藤の局がとうない手持無沙汰になり、前に『御台は我子と心も空、立寄り給へば首を覆ひ』といふ文句もあり、藤の局は首を見てえへんが、相模はもう見てるのやさかい、そこは藤の局が駈けよる事にして、相模はそれを止める事にして極(きま)つたら一人もテレる者なしに、文句一杯に行けへんか」と注意されました。成程、考へて見るとその通りで、斯う改めて大変よい舞台が出来上り、この時からは、私の相模は勿論、誰が相模を遣つても、この通り演(や)つて居ます。
 
 
 その翌年[明治44年]の春、以前彦六座のお仕打(しうち)で、後に二代目の柳適太夫となつて、当時東京で朝太夫さん等と寄席(よせ)を廻つて居られた灘安(なだやす)さんが、たま/\帰阪して来られましたので、大掾さんは、松竹さんの手代に推薦せられましたが、一日文楽へ訪(たづ)ねて見え、丁度、「合邦」で、私の玉手御前が出(で)を待つて居る処で、御目に掛かりましたので、御挨拶申上げましたら、私を、つく/\眺めて「えらい出世したなあ」と言つて居られました。前々からも申す如く、私が灘安さんに御厄介になつたのは、子供の時からで、しかも、中年迄ずつと御厄介になつて居たのですが、今では、及ばず乍らも、日本一の大掾さんの「合邦」でお辻を勤めさせて頂いて居りますので、このやうに言つて下さつた訳で、色々昔の事を思ひ出しました。灘安さんは、其後、暫くの間、北の堂島座の手代をして居られました。
 二月に『菅原』で、白太夫と源蔵の二つ共初役を遣ひました。白太夫は、前に紋十郎さんのを二回程見て居ましたから、型だけは其の通り遣ひましたが、未だ年齢も若かつたのですから、今考へますと、到底に品物に成つて居なかつたと思つて居ます。
 四月に、大掾さん初役の「沼津」がありました。元々、「沼津」のやうなものは、大掾さんのお口には合はぬもので、前々から松竹さんの度々のお勤めを辞退して居られたのですが、今度遂に語られる事になつて、初日前に
十日程研究する間が無いと、と言ふので、たしか,予定の初日より遅れて出ました。さて、その「沼津」では、大掾さんは、重兵衛に最も力を注いで居られたやうで、ほんとうに、「町人なれど、武士も及ばぬ丈夫の魂」の人間になつて居ました。私は、二度目の重兵衛で、一生懸命遣ひましたが、平作の家を出る時、草鞋を穿く為、少し早く出ましたら、大掾さんから、「ずい分無事で」迄は、家の中に居て呉れる様にとの御注意がありました。又この時、切(きり)に「吃又(どもまた)」があつて、初役の又平を遣ひましたが、前に紋十郎さんお得意の又平を、度々拝見して居ますし、又、おとくで、一緒に出ても居ましたので、その型を頂いて遣ひましたが、「−名は千金の絵師の家、今墨色を上げにけり」で、紋十郎さんは、上座の将監(しやうけん)に向つて扇子を持つてお辞儀をして居られましたが、この時は、多為蔵さんの御注意で、下手で、斜向きに、手水鉢の画とも、将監ともつかず、手で頂く振りをしました。こゝ一ヶ所だけで、後は全部紋十郎さんの型で行きました。
 その盆替りに、八重垣姫を初役で遣ひました。前に、紋十郎さんの代役で、一芝居ずつと遣つたことはお咄し致しましたが、今度は、本役でした。
 次の霜月興行に『紙治』で、私の治兵衛、多為蔵さんの孫右衛門が、「河庄」の段切(だんぎり)で、元の町人になつて、羽織と大小を担つて門口を出る時は、尻からげをすると、下に絹パツチを穿(は)いて居て、ほんとうに軽い町人の足取で出て行くといふ趣向でしたが、一日、見物に来て居られた成駒屋さんが、こゝでハタと手を打つて感心して居られました。多為蔵さんは、かういふ趣向を凝らすことが実に上手で、又、とても熱心なものでした。しかし、この絹パツチの孫右衛門は、この時一回限りで、これ以後は誰も演(や)りません。
 
 
 翌年[明治45年]の春は、大掾さんの「御殿」で、初役の政岡(まさをか)を遣ひました。前に、紋十郎さんが来られなかつた総稽古の日、代りをした事がありますが、今度は本役で、そして、かね/\やかましかつた大掾さんの「御殿」は、これがお名残りで、丁度、私に取つては、前の「茶屋場」のおかると同じ関係でした。
 その次に、『三十三間堂』のお柳を遣つた時、「−必ず草木成仏と−」などで、従来は、足を踏んで居たのですが、紋十郎さんは、平太郎が目を醒ます前であるからと、一切拍子を踏まずに遣(つか)つて居られましたから、私も、それに習つて、一つも足を踏みませんでした。しかし、人形の振りとしては、地味(ぢみ)過ぎて、足を踏む方が本当で、昔から伝はつて居るのですが、理窟に合はず、まして、今日のやうな理窟詰めの世の中に成つて来ては、さういふ事は出来ないと思ひます。
 その翌月は、『妹脊山』の通しで、大掾さんお得意の「竹雀(たけす)」は、今度がお名残り、私は初役のお三輪で、いつも、大掾さんとは斯の様な因縁深い事になります。又、この時は、雛鳥(ひなどり)も初役でした。
 この七月三十日に、畏れ多くも、 明治天皇がお崩(かく)れになり、大正の御代となりました。
 盆替りは、『恋女房』の通しに、重の井、切の『国姓爺』に、錦祥女(きんしやうじよ)の役でしたが、中狂言に、大掾さんが「質店」を出して居られ、お染は三左衛門さんでしたところ、初日際(ぎは)から病気で休み、下(した)の方(はう)の者に代役を持つて行く処が無かつたと見え、三左衛門さんは、私より年も若く、私より下位の書出し二枚目に居たのですから、私が、その代りを勤める筈はなかつたのですが、表から手代が来て、「因つて居ますから、文楽の為を思ふて遣つて下さい」と頼んで来ましたから、心よく引受けて、お染を勤めました。千秋楽(らく)の前になり、手代が包紙の御礼を持つて来ました。ところが、その中味が、人を馬鹿にして居る様な軽少でしたので、手代に、「元々この代役は、あんたも言ひなはつた通り、文楽の為に、下の者の代りを勤めてるやうな訳で、勿論、金銭問題で受合つたものやない、しかし、頂くのなら、やつぱり、今の私の位置並の事をして頂かんと、三左衛門はん並の事では、えらいつろおます」と返してやりました。しかし、表の方でも、一旦包んだもの故、どうにもならす、「どうか、取るだけ取つとくれやす」と、又持つて来ました。「絶対頂きまへん。若し、その始末に困つてなはんのやつたら、それで病気の三左衛門はんの日を消したげとくなはれ、私は、何としても頂きまへん」と、又撥附(はねつ)けました。で、私の方の態度があんまり強硬であつたので、手代も持余(もてあま)し、とう/\此事を白井社長のお耳に入れました。すると、社長が仰言(おつしや)るには、「こらえらい話が面白い。まあ兎に角、今度の包紙は引込めも出来へんさかい、栄三が取らんと言ふのなら、お内儀(かみ)さんにお菓子でも買つて上げる事として、その代り、この次からは、栄三の顔を立てるやうにするさかい」との事でしたので、私も、「そない仰言(おつしや)るのなら」と、一旦頂き、改めて、手代に、「此間から些細な事で度々御苦労さんでした。どうぞお俥代にでも」と、渡して事は済みました。ところが、その翌月からは、白井社長のお言葉通り、お給金を上げて頂きました。しかし、此事以来、今日迄、私は、金銭問題に関しては、一切口出しをしない事に定め、万事お仕打任せにしてあります。
 次の十月、『安達ヶ原』の通しで、「謙杖館(けんじやうやかた)」は大掾さん、私が文楽へ入つて初めて聴かせて頂くもので、役は袖萩(そではぎ)で、初役でしたが、謙杖の出の「−恥しさもまた先立つて、おほふ袖萩知らぬ父−」の文句を、「おほふ袖、萩知らぬ父」と区切り、掛文句(かけもんく)をハツキリと活かして語つて居られましたので、袖萩を遣ひながら、成程さうか、えらいお方やなあ、と感心すると共に、自然に、恥しさに袖で顔を覆ふ振りをせねばならねやうになつて来ました。
 この暮に、女太夫の呂昇さんの一座の手摺を、京都の明治座へ勤めに行き、その間に、春の狂言役割も定まりました所、「吉田屋」が出て居て、又、三左衛門さんが病気で出られぬ事になつたので、持役の夕霧の代りが問題になつて居ましたが、丁度、私が伊左衛門で、私の所へ相談に来ましたので、私の名指しで、玉五郎さんに遣つて貰ふやうにしました。
 
 
 そこで、春[大正2年1月]は、『太功記』が立つて、「尼ケ崎」は大掾さん、七十八歳のお年齢(とし)で、「十段目」を立派に語られたのには驚きました。それに光秀が唯大きいばかりでなく、その貫目といふたら、ほんとうに惟任(これたう)将軍と勅許を受けた上品さで、一寸真似手はないと思ひます。又、皐月も、実に結構なもので、「子は不便(ふびん)にはないか」など、無類でした。人形は、多為蔵さんの光秀で、鬘(かづら)(人形では「ぶせう」と言ひます)は、何時もの「揉上げ」(註七十五)でなく、忠度(たゞのり)のやうな、「撫下し」(註七十六)にして、出も、いつも上手へ引く道具を下手へ引き、上手(註七十七)の本手(註七十八)から出て、風呂の焚口の火で、鎗の穂先を炙り、風呂場から中へ入るといふ段取でした。
 次の二月は、『千本桜』の通しに、「寿(す)しや」の次に、大掾さんの「中将姫」があり、私の役は、静御前とお里と、中将姫で、三つ共初役でしたが、お里は、「情ないお情に預りました」で、維盛の膝を抓(つめ)る科(しぐさ)が、人形では昔から伝はつて居たのですが、もう、維盛の身分も判(わか)つて居り、「雲井に近き御方云々」の文句を、お里自身が言つて居るのに対し、どうも、行き過ぎた科であるといふ、前からの御注意がありましたので、この科(しぐさ)は初日から廃(や)めました。それから、中将姫も、初役につけて、これは、私から道具を注文しました。それは、「−梢の雪が一積り、背に打ちかゝればどうと伏し、起れば擲く割竹−」の文章に対し、中程に松の木をしつらへ、その枝に雪を盛つて置き、上手から出て、「雪が一積り」で、丁度その下へ来るやうにして、雪を落させて倒れ、起上ると奴が割竹で擲くといふ風に趣向しました。
 次の四月は、予て噂のあつた大掾さんの引退興行がありました。何しろ、三十余年の間、文楽の紋下に座つて居られた方の引退披露といふのに、会社から言つて来た飾り物や、特別の広告等派出な事は一切なしで、連中も全然なく、それでも、あのやうな大名人のお名残りの舞台といふので、五十一日間打ち、その中三十五六程大入が出ました(文楽で大入を出すやうになつたのは、松竹さんのお仕打(しうち)になつてからで、植村さん時代は大入といふものは出しませんでした)で語り物も、知らない中は、いづれお得意の「先代の御殿」か、「十種香」のやうなものだらうと、皆想像して居ました処、狂言の発表があつて見ると、『楠昔噺(くすのきむかしばなし)』の「三段目」とあるに、皆びつくりしてしまひました。何分七十八といふお年齢(とし)で、前月のお得意の「中将姫」で、高調子の処など少し外(はず)して居られたのに、それで『楠』などゝは、これはきつと途中で休んでしまはれるだらうと、皆心配しました。ところが、初日が出て見ると、なんの/\休む処か、声一つ枯らさず、あの大物(おほもの)の長丁場を五十一日間ぶつ通されたのには、私共二度びつくり、お客様は、「大掾は四十位の勢(いきほい)やがな」と感心される、楽屋では、「大掾はんといふ方は、今度これを語りはる為に前から声が残したつたんやろか」と感心し合ひました。
 この時、立狂言の『日吉丸』の三段目を語つて居られた染太夫さんも、これ限りで引退せられました。この方は前々からの予告も何もなく、千秋楽(らく)の日に皆の部屋へ挨拶に廻つて来られたゞけでしたが、染さんは、法善寺なき後は大掾さんの次位で、一二三の声の整つた誠に惜しい方でした。それから、この時の切狂言が、文楽で最初の『勧進帳』でしたが、只今演(や)るのとは違ひ、前に彦六で演(や)つたのと同じで、弁慶は坊主頭で、頭(かしら)は「団七」(註七十九)で、踊も少く、六法もありませんでしたが、お囃子方は、東京から四人呼んで来ました。処が、大掾さんの引退で、五十一日も打つので、「一体、文楽は何時迄行くんだい」と江戸ツ児がびつくりして居ました。
 又、この興行の時、私に初めて弟子が出来ました。植村さん時代から居る大木戸(註八十)の者からの申込で、北の新地の子でした。名前を栄之助と附けました。
 斯(こ)のやうにして、大掾さんの引退は賑々しい事でしたが、次の六月は、『忠臣講釈』と、南部さんの「阿波十」、越路さんの「盛綱陣屋」、古靱さんの「壷坂」でしたが、何しろ火の消えたやうな有様になつたので、大不入(おほふいり)で、芝居は倒れんばかりでした。
 その秋に、『加賀見山』のお初と、「酒屋」のお園とを、両方とも初役で遣ひました。お園は、「今頃は半七さん」で、昔から伝つて居る型としては、表へ出るのですが、この時、私は出ませんでした。それは、紋十郎さんのが、ずつと以前は知りませんが、私が拝見したのは、最初から表へ出ない型で、懐紙で行燈の油皿を拭ふ振りでしたので、私も、それに習ひました。
 
 
 翌三年の正月は『三代記』と『寿門松(ねびきのかどまつ)』と『吃又(どもまた)』でしたが、やはり、正月といふに大入一つ出(で)ず終(じま)ひでした。
 二月は、『菅原』の通しに、切が『廿四孝』の「御殿」で、新加入の伊達(今の土佐)さんの語り物で、絃は猿治郎(今の仙糸)さんで私は八重垣姫でしたが、「思はず一間を走り出で−」の処の、猿治郎さんの「間(ま)」がとてもよく、私は、よい気持で十分にお姫様が遣へました。この外の役は、菅相丞と千代とで、この二役は、交る/\殆んど続けざまに出るので、大変忙しく、その上、相丞様は、舞台以外の楽屋での用事が多く、部屋では荒菰を敷いてお祀(まつ)りをするのが、昔からの例で、殊に、私は初役でしたから、栄之助をつれて道明寺の天満宮へお詣り致しました。こゝで相丞様の人形のお話をちよつと申しますと、先づ、「伝授場」を済まし、「杖折檻(つゑせつかん)」の間に、楽屋風呂へ入ります。で、これは必ず新湯(さらゆ)でなければいけないのです。それから、「東天紅(とつてんかう)」の間に、衣裳を著て、祀つてある相丞様の人形にお燈明を上げ、お供物を供へ、お祈りをして、丁度、「相丞名残」となります。それが切れると、又、元のやうにお祀りをして、千代を遣つて居ると、「茶筅酒(ちやせんざけ)」に用事があり、引込んでから、「切腹」の間に、「天拝山(てつぱいざん)」の相丞様の人形の用意をして、「天拝山」が切れると、直ぐ、「狂(くる)ひ」で脱いだ肩を元通り著せます。これは、必ず直ぐやらないといけない事になつて居て、用事があるから後廻しといふ訳に行きません。すると、「寺子屋」の「首実験」が済んで、千代の出になるといふ順序で、ほんとうに御飯を頂く間もありません。
 ところで、この芝居中、ある日、御霊神社裏の塵拾場に、荒木造りの天神様の御神体が捨てゝあつたと、大道具の兵吉といふ者が見附け、私の部屋で一緒にお祀りしたらと持つて来て呉れましたので、一緒に拝んで居ましたら、或日の事、「天拝山」の「狂ひ」で、二度目の下手から飛んで出て、まん中の山へ登りしな(「天拝山」では、色々な型があつて、宙吊りや早替りをするのもありますが、私は演(や)りません)天井の上の吊し縄が切れて、道具が落ちて来ました。が、又丁度その日に限つて、私が、極(きま)り迄の足数を誤つて三足程多く踏んだ日で、怪我もせずに済みましたが、何時もの足数なれば、丁度私の頭の上へ、道具が落ちる所で、大怪我は免れぬところ、全く右の荒木の御神体の御加護と思つて居ります。この御神体は、暫くの間、私の家にお祀りしてありましたが、後に、別の事で易を見て貰つた時、易者に御神体を見せましたら、マスクを掛けて眺め、「これは中々あらたかなもので、私宅に祀つて、却つて勿体ない事でもあると、禍するさかい、御社(おやしろ)へ納めなはれ」との事でしたので、早速、天満の天神様へお湯を上げて納めました。
 五月に、伊達さんの「御殿」で、私は政岡(まさをか)、栄之助が鶴千代君で、初めての出遣ひでしたから私から裃を祝つてやりました。
 その夏休みに、久し振りの巡業で、名古屋の御園座へ行きました。一座は、越路さん、南部さん、古靱さん、源(先代)さんなどに、人形は、駒十郎さんと私がシンで、玉治郎さんや、頭取の三吾さんも一緒でした。
 この名古屋の興行は、素浄瑠璃では、越路さんなどが以前度々行つて居られたのですが、人形入りで、文楽座の名前を掲げて引越したのはこれが最初で、二三年前から度々話があつたと聞いて居ます。お仕打は、福岡楼といふお茶屋の旦那で、名前を角田(つのだ)さんと言ひ、越路さんの贔屓先でした。ところで、名古屋といふ土地は、昔から初日が大変肝腎な処で、初日に大入を取ると、その芝居中必ず大入といふ習慣のある処ださうで、文楽も、この時は大久々の為、初日から超満員で、なんと八月の日盛りに、木戸前は黒山の人で、私は楽屋入りの時に、この光景を見てびつくりしてしまひました。こんな訳でしたから、頭取(註八十一)の三吾さんから、私に、「名古屋は初めが大事だつさかい、序開の『三番叟』は、あんたが遣(つこ)とくなはれ」と言つて来られましたので、何時もは若い者が勤める御祝儀の浅黄幕の『三番叟』を、私が遣ひました。この三番叟を私が遣つたのは、後にも先にも、この時一回限りでした。
 ところが、この『三番叟』が亦大受けで、これですつかりけじめを取つてしまひました。で、この日は、南部さんは、たしか、「宿屋」で、私の深雪が、琴唄の条でお客さんにわあ/\と喜んで頂きました。又、越路さんは、「太十」であつたと思つて居ます。斯くして、一週間毎日みどりで、連日満員、目出度く打ち上げましたが、最後に、一つ大失敗をやりました。
 それは、この時の私の宿が、広小路の北の小西といふ三階建の大きい旅館でしたが、千秋楽(らく)の日、芝居から帰つて一風呂浴び、やれ/\と疲れた体を、弟子の栄之助と一つ蚊屋の中に横たへ、程なく寝入つてしまひましたが、翌朝目を醒ますと、前夜、枕元に置いておいた、金縁の眼鏡と、煙草入れと、時計と、紙入れのうち、眼鏡と紙入れが紛失して居ます。不審に思つて、方方探したり、思ひ違ひでなかつたかと考へたりしましたが、どうしても出て来ません。仕方なしに番頭を呼んで、調べさせましたが、一向に要領を得ず、終ひには、巡査が出て来るといふ騒ぎになりましたが、品物は見附からず、巡査はお役目柄、一応調べた事を手帳に書き入れて帰つてしまひましたが、困つた事には、紙入れを取られて居るので、旅館のお払ひが出来ないばかりか大阪へ帰る切符が紙入れに入れてあつたのです。そこで、せん方なく、別の宿に泊つて居られた頭取の三吾さんの処へ、事情を手紙に認め、持たせてやりましたところ、早速、お内儀(かみ)さんがお金を持つて来て下さいましたが、あれやこれやと、ごつた返して居る私の部屋へ、見舞に来られた玉治郎さんが、冗談半分に、「わてもなんぞ取られてるかも知れん」と、荷物を調べて見ると、絹の羽織が紛失して居るのが判りました。又、「私は何にも取られて居ないですよ」と、すまして居られた駒十郎さんは、大阪へ帰つてから、荷物を開けて見ると、これも兵児帯がなくなつて居たとの事でした。そして、これ等の紛失した品物は、遂に一つも出ず、久々の旅に大失敗を演じましたが、この事が、私に取つては一つの慎みとなり、この時以来、大金などは腹巻に入れて、風呂の時位より外は放しません。
 
 
 盆替りに、忠兵衛を初役で遣ひましたが、総稽古の日、「羽織落し」で、私の足を遣つて居た玉八が、「−冥途の、ヤ、トヽンノトン」の足拍子の「間(ま)」がとれず、多為蔵さんが、私の足を遣つてお手本を示されたことがありました。
 十一月は、『盛衰記』の通しに梅ヶ枝、「市若(いちわか)初陣」で板額(はんがく)、「帯屋」でお半と、三つ共初役でした。尤も、板額は、前に紋十郎さんの代役を九日間したのですが、梅ヶ枝は、紋十郎さんの型で行き、梅の木に靠(もた)れ、風鈴(ふうりん)を合の手に合はして鳴らす中、前に、お筆から、「たのむは妹」で貰つた懐剣をバツタリ落すと、ハツト気附いて、「ほんにそれよ、あの客殺して−」となるのです。この役は、前に、彦六座で辰五郎さんのも拝見しましたが、辰五郎さんのは、風鈴(ふうりん)を使はず、金の工面を何れかへ頼むといふ思入れで、手紙を書き、文筥(ふみばこ)に入れ、手を鳴らして仲居を呼んで持たせてやるといふ型でした。
 
 
 翌年[大正4年]の二月、『伊賀越』の「新関」の引抜きに、初めて「団子売」の踊をやりました。私の団子売に、新加入の玉蔵さんの女房で、床は南部さんシンの掛合でした。これは、近頃、文楽座でちよい/\出ますが、私の役の団子売の方は、細絃(ほそ)の「玉兎」を踊るので、先代玉治(文三さんの師匠)さんの娘さんで、杵屋おのぶさんといつて諏訪町北へ入つた東側に、踊の師匠をして居ら[+れ、]私は、「玉兎」をその方の処へ習ひに行きましたら、師匠が又余所から詳しく聴いて来て、私に教へて下さいました。尤も、この景事(けいごと)は、私がまだ文楽へ入らない前に、略〃同じものが一度、紋十郎さんと玉助(二代目玉造)さんの手摺、染さんなどの床で出た事があつたさうで、この時のを、紋三さんが見て憶えて居り、玉蔵さんの女房の方は紋三さんから聞いて居られました。尚、この芝居で、越路さんが「岡崎」を語つて紋下になられたのです。
 四月に、松竹さんになつてから二回目の「河庄」で、この時から、従来は格子が上手にあつたのを廃めて、歌舞伎のやうに下手に造り替へました。ところで、治兵衛の役は、二代目玉造さんが亡くなられて以来、私の持役になつて居たのですが、「河庄」の出は、下手から褄を取つて、トン/\と小走りに出、後を振り向いて行燈の火を消し、格子に寄懸かるのが、昔からの型になつて居ましたので、私も、この前の初役の時からそのやうに遣つて居ました。ところが、この時、或る新聞牡の方が見え、治兵衛の出の文句は、「魂ぬけてとぼ/\と−」とあるのに、小走りで出るのはどういふ意味か、とのお尋ねがありました。で、この時は、私は、別に深い考へもなしに、昔から伝はつた通りして居たので、「私の方では昔からかうなつて居ます」と、お答へしますと、人形の型かも知らんが、今日では文章に合はぬと可笑(をか)しい、との事でしたので、私も、或ひはさうかも知れんと思ひ、この興行では、中途からとぼ/\の足取りで出るやうに改めました。しかし、後から考へて見ますと、この解釈はどうも間違つて居るやうに思へてなりませんでした。なぜかと言ひますと、治兵衛が家を出る時は、成程とぼ/\の足取でなければいけないでせうが、煮売屋で、小春の沙汰を聞いてからは、やはり、一刻も早く小春に会ひ度い心で、走らねばならないと思ひます。ですから、とぼ/\の足取は、家と煮売屋との間で、煮売屋から河庄迄は走る方が正しいのではないかと思ひます。昔から人形の方の型として、走つて出る事になつて居るのは、この意味から来たのではないかと思ひ、次に治兵衛を遣つた時からは、やはり、元々通りに訂正して出ました。
 六月に、越路さん初役の「日向島」で、景清は多為蔵さん、稽古の時お二人は、二階の正面桟敷で、本を持つてしきりに研究して居られました。
 その秋、『忠臣蔵』の時、平右衛門で一つの工夫をしました。それは、「茶屋場」で三人侍が入つてから、後に一人残つた平右衛門が、仲居を呼んで、懐紙と枕と蒲団を取寄せ、枕に紙を覆ひ、由良之助の項(うなじ)を左手で持ち上げ、右手でそつと枕をあてがひ、蒲団を着せるといふのが、従来の型でしたのを、私は、取寄せた懐紙を手に持つた儘、懐紙越しに由良之助の項(うなじ)を持上げ、枕をあてがふといふ風に改めたのです。つまり、御家老に、足軽が直接手を触れないといふ、私の積りでありました。すると、これを見て居られた由良之助の多為蔵さんから、「考へたらどんな振りでも出来るもんやなあ」と言つて、賞めて頂きました。又、この時、新しい試みとして、八つ目の「道行」の中に、引抜きに、常磐津の「柱立万歳(はしらだてまんざい)」を入れました。これは、東京から毎月来られる 踊の師匠を越路さんのお内儀さんが心安く、文五郎さんと私は、人形を持つて越路さんのお宅で 四五日稽古して頂きましたが、「間(ま)」の勝手が違ふので、何遍も/\演り直し、二人共へと/\に なりました。又、太夫さん連は、これも越路さんのお宅に持つて居られる林中さんのレコードで 稽古して居られましたが、この林中さんの常磐津が実に結構なもので、その面白さは今でも耳に 残って居ります。この引抜きは、お客様に大変喜んで頂きましたが、「伊勢さんのお引合せ」の 次に入れたのです。
 
 
 五年の一月、『菅原』の通しで、松王は玉蔵さん、覚寿(かくじゆ)は多為蔵さんで、「二段目」が特に結購でした。玉蔵さんは、このやうな処が役所で、品がありました。又、覚寿も、貫目があり、幕切れの最後の別れに息を抜かず珠数を繰つて居られました。
 三月に、『妹脊山』の通しに、「杉酒屋」の次に、中狂言として、越路さんが「阿波十」を語つて居られましたが、通しの中を割つて、附け物を出す事は、中々喧しく、この時成駒屋さんが、「貴田(越路)はんなりやこそ、こんな事が出来んねんなあ」と感心して居られたとの事です。
 その六月、『極彩色(ごくざいしき)』の「天王寺村」が出て、多為蔵さんの兵助が、とても/\凄い芸で、今に目に残つて居ますが、これが多為蔵さんの最後で、秋に五十三で亡くなられました。多為蔵さんは、一番最初にお咄しした金四さんといふ方のお弟子で、俗受けはしませんでしたが、内輪では全く凄い腕との評判で、どんな役でも決して捨てるといふ事をせず、常に凝つて居られました。つまり、芸に熱があつたのです。晩年には、立役を主に遣つて居られましたが、一度、南部さんの「野崎」で、お染を遣はれた事があり、それが亦、実に可愛らしいお染で、何時も、古靱さんが、「器用な人やなあ」と感心して居られた事がありました。私も、この方(かた)には、手を取つて教へて頂いたものもあり、お小言も随分頂戴して、大変御恩があります。何しろ、もつと長生して頂きたかつた方でした。
 
 
 翌年[大正6年]の二月、珍らしく、古靱さんが「葛の葉子別れ」を語られました。これは、何でも、先代さん(註八十二)の四十回忌追善とかの意味であつたと聞いて居ます。私は、葛の葉で、この時、長らく中絶して居た葛の葉の早替りをしました。前に、よく紋十郎さんが遣つて居られましたが、この方のは早替りがありませんでした。
 次の三月は、近松さんの原作の『紙治』が出て、「河庄」は津太夫さん、「大和屋」は越路さん、「道行」は南部さんでした。「河庄」の文句は、常に演るものと大差はなかつたやうですが、衣裳 は皆元禄風で、孫右衛門の意見は、戸外になつて居ました。又この外題では、皆年齢が文句の中 に出て居て、それに依ると、治兵衛は二十八、小春は十九、おさんが二十四になつて居ました。この芝居中、私の持病の骨膜炎が再発しかけ、前には散々酷い目に遇つた経験もあるので、早速用心して芝居を休み、持役の治兵衛を玉治郎さんに代つて貰つて、家で養生して居ましたら、今度は、病院へも入らず、十日程寝た位で治りました。この病中に、成駒屋さんが見物に来られたとの事でした。
 十月の十九日に、先年文楽座を隠退して、須磨の別荘に余生を送つて居られた、摂津大掾さんが八十二歳の高齢で亡くなられました。で、死骸は、須磨から汽車で、夜に大阪へ著くやうに帰つて来られ、越路さんはじめ、一座は残らず、二見家の花菱の紋附を著て、駅に出迎へ、土佐堀のお宅迄送つて行きました。
 十一月は、又『忠臣蔵』で、私の役は、判官と戸無瀬と平右衛門でした。平右衛門は、以前に由良之助に枕をあてがふ処で工夫しましたが、もう一つ何か工夫出来んものかと思ひ、色々と考へましたところ、平右衛門の引込みの文句に「無理に押へて三人を、伴ふ一間は−」とありますので、平右衛門は三人侍と一緒に引込まなければならず、又、力弥の出の文句に、「正躰なき父が寝姿−」とあります。蒲団を著て、枕をして居ては、「正躰なき−」に合はず、これはどうしてもごろ寝でなくてはいかん、と考へて、三人侍の後へ残っつ、由良之助に蒲団や何かをあてがふ科(しぐさ)を全廃し、文句通りに、三人侍と一緒に入る事にしようと、由良之助の玉蔵さんにその事を申しますと、「どうぞ」との事なので、舞台に懸けましたら、平右衛門を語つて居られた、新加入の弥太夫さんに、「成程なあ」と、感心して貰ひました。つまり、何かしようと考へを廻(めぐら)して居る中、また元の白紙へ帰つて来た訳です。この後も、平右衛門は二度許り遣ひましたが、ずつとこのやうに遣ひました。
 
 
 七年の一月は、暮の中に文楽座内の修理が出来上り、これまでは、客席の上は天井が張つてなく、舞台の上、大前(おほまへ)の欄間の上が屋根に添つて三角になつて居り、その中に「睨(にら)み鯛」が一対あつて、お正月には、その真中へお注連縄を飾る様になつて居たのでした。で、この時から初めて格天井が出来て、その外も大分綺麗になり、これが、先年焼けた建物でした。で、初春狂言はまた『菅原』で、私は、覚寿の初役、相丞は玉蔵さんで、「相丞名残」は、出遣ひでしたので、ちらほら白髪の見える年上の玉蔵さんに対して、十程年下の私が、伯母御前(おばごぜ)といふので、とても、やり難い舞台でした。
 その四月、弥作を初めて遣ひましたが、鎌腹の条(くだり)で、よく神棚の榊を持つて来て、樒(しきび)の代りに立てたり、万事「扇(あふぎ)ヶ谷(やつ)」の判官切腹の真似をする科(しぐさ)を演(や)る型がありますが、私は何もしませんでした。
 六月に、珍らしく、津太夫さんが『五人伐(ごにんぎり)』の「大重(だいぢゆう)」を語られ、私は、初右衛門で、これも初役でした。これは、御承知の如く、初右衛門が菊野を殺して、仁三郎を探しに二階へ上り、今度降りて来ると暗闇(くらやみ)なので、自分が刳(えぐ)つた菊野の胴腹へ片足を突込む、抜かうとすると死体が一緒について上る、それを払つて抜くと、片足血で真赤になつて居て、それを返しの塀外の樋(とゆ)で洗ふといふ段取のもので中々惨酷なものでした。で、足が血みどろになるところは昔からいろ/\と仕掛があつたのですが、当節は、赤い靴下なんか出来て居た時代でしたから、それを応用してアラの見えね様に工夫して遣つて居ましたところ、暫くして、松竹さんから、此頃は警察が喧しいので、あんまり惨酷なのは止めてくれ、との注意が出ましたので、残念でしたが中止しました。それから、彦六座の時でしたか、「大重」が出て、亀松さんが初右衛門の時、忍び入りしなに、刀の鞘を割る科(しぐさ)をして居られましたが、これは、薩摩の鞘割とかいつて、薩摩武士は、一旦抜いた刀は、其儘では納めないといふ意味で、実際にやつたものださうでずが、私は、この科はやりませんでした。
 この年の十月十六日に 頭取の三吾さんが、八十歳の高齢で亡くなられました。人形遣ひの中では、珍らしい高齢で、勿論、当時の最古老でした。私は、前にも申しました如く、文楽へ入つたのはこの方の手引であり、それ以来、何かと随分と御厄介になつたので、色々と昔のお話も沢山聴かせて頂いた、大切な方でした。
 
 
 翌年[大正8年]の正月に 病気回復された南部さんが久々出勤され、「吉田屋」を語つて居られました。この時は、夕霧の入込(いりこみ)もあり、これは原作にはないのですが、南部さんは、だいたいがらくに出る声で、こんなものは格別よろしう御座いました。
 次の二月、「太十」を勤めて居られた越路さんが、中途から病気で休まれ、代役は、古靱さんでしたが、大変な好評で、その為、次には附物の「安達の三段目」を勤められ、私も、初役の貞任(さだたう)でした。
 その五月、『廿四孝』が立つて、「十種香」は南部さん、八重垣姫は私でしたが、この役は、紋十郎さんが亡くなられてからは、ずつと私の持役になつて居て、初役の時以来、その度毎にお仕打から、「狐火」で何か変つた趣向をせよとの事に、狐の間に肩衣遊替へたりして居ました。今度も亦何か変つた事をとの注文でしたが、度々の事でもあり、さう沢山に種もなく、色々考へた揚句、今度は、早替りのアラを出来る限りお客様に見せまいといふ事を立前にして、工夫を凝らしました。で、この時、私がやりました事を詳しく申しますと、先づ、舞台の前を池から下手にやつと青竹の勾欄を造り、その下にその高さの半分位の小菊をずつと植え、足遣ひも見えるやうにして、最初の出は、舞台本手のまん中少し下手寄りに巌附灯籠を拵へ、その後の地舞台に穴を明け、そこからセリ上るやうにしましたが、それも、大道具が灯籠をその位置へ持つて来る処を見せ、それ迄は穴を蓋して置き、琴唄の間に灯籠の中の障子を焼き、そろ/\穴から這ひ上つて狐の首を覗かせ、灯籠が巌と共に割れて遣つて出るといふ段取でした。それから、舞台の中央勾欄の際(きわ)に、また巌を拵へ、それを少し大きい目の、丸味のある厳にして、その内側の地舞台に又穴を明け、私が、厳の上で狐を遣つて居る間に、穴から介錯人を出して、厳の蔭で私の衣裳の糸を抜かせ、厳の正面に観音開きのぬけ道を造つて置いて、私が、穴を跨いで厳をぬけ出ると同時に、上の衣裳を穴に落す様にして、これが最初の早替り、それから狐の隠れるのは、上手の祭壇の上に祀つてある諏訪法性(すわほすしよう)の兜の毛を上へ揚げると、その中の穴へ入つて、毛は元々通りに下げ、裏で衣裳を変へ、下手の枝折戸(しをりど)から出ます。次に橋の上で兜を映(うつ)して居る間に、後(うしろ)の介錯人(かいしやくにん)に衣裳の糸を抜かせ、最後の一本は残して、介錯人をその儘足遣ひにして、足遣ひは這入らせ、まん中の巌の上へ来ます。足遣ひを帰らせたのは、足遣ひよりも、早替りの介錯をする方が修練を要する仕事であり、もう一回後に介錯する用事もあり、一つには、介錯人を後へ附けた儘舞台を歩くと、お客様に、一つ早替りの仕掛けをまざ/\と御覧に入れる事となるので、それを避ける為でした。三回目の早替りは、まん中の厳の後(うしろ)で、「疑ひなし」で、人形と、私と左遣ひと足遣ひと四つ同時に早替りをせねばならず、そこで足遣ひは、その瞬間、片手を足から放して、残して置いた最後の糸を抜き、私の衣裳を脱がせる、左遣ひは、私が体を交(かは)す時に。人形を取ると同時に、巌の内側の穴から出て居た新しい出遣ひの左遣ひと足遣ひが出て、持つて出た白衣裳の人形を私が受取つて、すぐ「狂ひ」になるといふ段取でした。この時、二階の南側のお客様に、巌の内側の仕掛けが見えないかと心配して、稽古の時人をやつたりして試験させました。兎に角、早替りを出来るだけ鮮(あざや)かに見て頂かうと思ひ、種々工夫して編み出したのが、この段取でした。まあ手品の種明かしのやうなものですが、お蔭様で、お客様には大変喜んで頂きました。
 
 
 六月は、かね/\天王寺の境内に建設中であつた摂津大掾さんの銅像が出来上り、芝居はその記念興行とあつて、永らく休んで居られた広助さん(註八十三)も出勤せられ、広助さんの作で、追善として昔見世物などで流行して居た「常矢(どんかちん)」の趣向で、大掾さんのお得意の語り物「中将姫」や「阿波十」などを一クサリ宛やる事になり、私は、「蔵前」のお染を一クサリ遣ひました。
 その夏に、初めて松竹さんの手で、文楽座の人形浄瑠璃が上京して、新富座(しんとみざ)で興行をしました。越路さん達(たち)が、素浄瑠璃で上京して居られたのは、殆んど毎年のやうでしたが、人形入(にんぎやういり)で行くのは、これが最初でした。そこで、出発前に、主任の吉野(よしの)さんが、私の処へ東京行に就いてのお給金を聞きに来ましたので、私は、「それは東京といふ所は、何と言ふてもお膝元であり、万事が物価も高い処で、余所(よそ)の旅と同じやうでは困りますが、お仕打が外でもない年中御厄介になつてる松竹さんだつさかい、そこの所はどうぞお任せします」と申しますと、東京行に就いては、そこ/\のお給金で行きましたが、その盆替りからは、別に私の方から何も言はなかつたのですが、これ迄に例のない位、お給金を上げて頂きました。
 それで、新富座の初日は、八月一日と定(き)まりましたが、初めは七月の積りであつたのを、丁度当時、丸の内の有楽座(いうらくざ)に、古靱さんがシンで、人形は駒十郎さん、文五郎さん、小兵吉さんなどの一座が、数年前から毎年夏に引越して来て居られたので、文楽の方と衝突する、それでは両方共損であるといふので、東京の古靱さんの御贔屓の杉山茂丸さんが、中に入(はい)られて、文楽の方は八月一日初日となつたのでありました。
 さて、七月末に大阪を発(た)つて行きましたが、東京は、前にお話しました如く、青年時代にふらふらと一人旅をして以来、実に二十二年振りで、昔とはすつかり変つて立派になつて居るのに驚きましたが、又、昔を思ひ出して懐しい気もしました。宿は、築地の六方館(ろつぽうかん)で、一座は、南部さん、伊達さん、弥太夫さん、駒さん、人形は、玉蔵さん、文三さん、玉五郎さん、玉次郎さんに私などでしたが、文三さんは、出発前に病気で行かれませんでした。芸題は、三回替り十五日間で、二日日延べをしました。第一回は、南部さんの「十種香」で、私の八重垣姫、これは、五月に大阪で演(や)つた通りで、それをするには、地舞台へ穴を明けねばならぬ、そこで、吉野さんを通じて、東京の社長へ交渉して貰ひました処、「それで鮮に出来るのならよろしい。」との事でしたので、万端大阪で演(や)つた通りにしましたら、東京のお客様には、一層喜んで頂きました。この時は、文五郎さんも居られず、立女形(たてをやま)の役は殆んど私が遣つて居りましたので、私が好評を頂いたのは、芸ばかりでなく、だいたい、女形といふものは得(とく)な役で、よく受ける性質であるが為であると思つて居ます。この外、二回目に、「吉田屋」が出て、私の伊左衛門が、入込(いりこ)みの条(くだん)で大変受けました。
 この上京中に、初めて、都新聞の伊原青々園先生にお目に掛りました。それは、四五年前から御懇意に願つて居た久松町の森ほのほさんの御紹介で、青山の御宅へ伺つて、二時間程お邪魔をしましたが、先生は、最初に、「人形では、立役と女形とは、どちらが難(むづか)しいのですか」とお尋ねになりましたので、私は、「難しい点では、どちらにも変りは御座いませんが、得な事は、女形の方が得で、立役は、余程よく遣ひませんと、お客様に受けて頂けません」とお答へしました。それから、数日後、先生は新富座へお越しになつて、新聞に大変賞めて書いて頂きました。
 又、或る日、森さんのお宅へ伺ひ、一口御馳走になりましたが、御座敷に小屏風があり、その絵は押絵で、歌舞伎の人形振りのお染でありました。実に美しく結構に出来て居りましたが、唯一つ、白足袋を履いて居ます。御承知の如く、女形の人形には足がなく、従つて、歌舞伎の人形振りでは、足を隠す為、裾と同じ赤の足袋を履く事になつて居り、それを申しますと、森さんは「成程々々」と、しきりに感心して居られました。
 
 
 その翌年[大正9年]の正月、『菅原』で松王丸を初役で遣ひました。「寺小屋」は越路さんで、奥(註八十四)の「−思ひ出さるゝ出さるゝと−」の条がよく、私も一生懸命に遣つて居ましたら、一日(あるひ)越路さんが私に、「栄三(えいざ)はん、奥のな、桜丸のとこ、あこ、わてほんまに楽しんで語つてまんねんで」と言つて居られました。松王は、首実験も勿論大事ですが、本当に遣ふのは奥です。三段目では、喧嘩をして居た桜丸の事が、子を殺して初めて不憫(ふびん)になつたので、越路さんは、此処が実に結構でした。太夫さんに上手に演(や)られると、人形も自然力を入れるやうになつて来ます。
 六月に、私を手引(てびき)してくれた栄寿さんの息子(むすこ)の光之助が、私の処へ弟子入りして来ましたので栄太郎と名前を附けました。これは、昨年の秋から、弟子に来て居た栄枝(えいし)といふのが都合で止めて、その代りに来たのでした。その頃は、私の足遣ひに、玉八といふのが居ましたが、これは、朝鮮へ行つた助太郎さんの弟子で、先年亡(な)くなりました扇太郎の弟でした。
 その夏に、又新富座へ行きましたが、今度は、人形は全部行きました。その次は震災の年に八日間行つたのですが、それは私は、都合で行かなかつたので、私が、新富座へ行つたのはこの年が最後でした。
 
 
 翌十年は、正月から紋下の越路さんが休みでしたので、役割などに大分変動があり、三月に、伊達さんと南部さんが、「長局」の尾上とお初の一日交替の掛合などがありました。これは、明治の初めに、初代の古靱さんと、越路さんが掛合で勤められた例に習つたものと聞いて居ます。この時の切狂言に、弥太夫さんが、「城木屋」を語つて居られましたが、こんなものは、師匠譲りで実に結構なものでした。
 五月に 古靱さんが初役で、「良弁杉二月堂(りやうべんすぎにぐわつどう)」を語つて居られましたが、この最初の時から、実に結構でした。「良弁杉」は、書卸し当事の事をお話し致しましたが、彦六座で出来たものだつたので、文楽座で出たのは、これが最初でした。
 その夏に、又上京して、今度は有楽座へ出勤しましたが、この興行中に松竹さんから話があつて、活動写真を撮ることになつて、一日、蒲田の撮影所へ出張して行きました。狂言は、丁度有楽座に出て居た『廿四孝』に、外に「妹脊山の道行」をやりました。道具は、有楽座から道具方を連れて行つて、すつくり本式に飾らせ、「十種香」はサハリだけで、古靱さんに先代清六さん、私の八重垣姫、「奥庭」は、趣登(こしと)さんであつたと思ひますが、活動の方の監督が二人程居て、遣(つか)つて居る間に、「そこはもう少しゆつくり」とか、「もつと早く」とか総て指図をしてくれるので、こつちはその通りになつて居ればよいので、早替りなども、活動写真の事故、少しも忙しくなく至極呑気(のんき)なものでしたが、強い電灯で照らされ、目が眩むのには大分閉口しました。「妹脊山」は玉蔵さんの求女、文五郎さんのお三輪、私の橘姫で、手踊りだけを演(や)りましたが、後で足遣ひなどのやゝこしい処も撮り度いと言ふので、撮影しましたが、「道行」は、大分何回も演り直しました。この外、文三(ぶんざ)さんも行つて居ましたが、これは舞台でなく、楽屋で勝頼の人形を造つて居られる処を撮りましたが、楽屋は、急造りの場所なので、楽屋らしくする為、私が暖簾なんかを持つて行きました。この時、たしか、歌舞伎の源之助さんが、『弁天小僧』を撮(うつ)しに来て居られたと思つて居ります。この活動は、秋になつて出来上り、明治座で一般のお客様に見せたとのことで、今の相生さんのお母さんなど見たと言つて居られましたが、大阪へも来るものと思つて楽しんで居ましたのに、遂に来ず、とう/\私達は見ず終ひで、其後どうなつたのかしらんと、いつも気にして居ります。
 
 
 翌年[大正11年]の正月は、一年間休んで居られた越路さんが出勤で、『和田合戦(わだがつせん)』の「市若(いちわか)初陣」を語られ、私は二度目の板額(はんがく)でした。弥太夫さんは、「貴田はん病気揚句やのに、もつと軽いもんにしとくとえゝのに、俺(わい)はやらへんけど、中々えらいもんや」と、よく風呂などで言つて居られました。しかし、流石に結構な「三段目」でした。そして、この時は、越路さんの注文で、皆黒衣(くろご)に投げ頭巾(づきん)(註八十五)にして勤めました。よく大昔の人形芝居の絵にあるもので、かうして舞台を勤めたのは、私はこれが最初でした。
 この興行中に、清六さんが亡くなられ、三月は、越路さんが初日前から病気で休場、四月の興行中に、『白石噺』の「揚屋」を元気に語つて居られた南部さんは、ある日家へ帰つてからお弟子の鶴尾(今の長尾)さんと、碁を打ちつゝ頓死されるなど、悪い事続きで、非常に寂しい気持になりました。
 尤も、四月には、古靱さんの相三味線として、新左衛門さんが初出座で、『腰越状』の「五斗」を語つて居られました。
 五月は、越路さんが病気回復で、「堀川」を語られる筈で、番附まで出たのに、又々病気再発で休みとなり、越路さんは、遂に其儘舞台へ出られませんでした。
 その秋に、近松さんの二百年紀念興行といふのがあつて、『釈迦如来誕生会(しやかによらいたんじやうえ)』、『聚楽(じゆらく)の栄華(えいぐわ)』、
『博多小女郎浪枕(はかたこぢよらうなみまくら)』と出ましたが、いつたい、近松さんのものは、時代が古い為か、文章は面白くて美しく、大変結構なものですが、実際の舞台には合ひにくゝ、『博多小女郎』の「宗七内」などでも、壁越しに物を取交す文句があつたりして、道具から、科からとてもやりにくいところがありました。
 
 
 翌十二年の正月、『嬢景清(むすめかげきよ)』の「日向島(ひうがじま)」で、初役の景清を遣ひました。これは、以前多為蔵さんの代りを五日間勤めましたので、初役とは言ひ条、多少憶えもあり、工夫も附きました。これからしても、代役が如何に大切であるかゞわかります。この景清の頭(かしら)は、この役一役限りのもので、縮緬張ですが、どなたが縮緬張(ちりめんばり)の工夫を考へ出されたか知りませんが、実によく考へられたもので、つく/\感心致します。縮緬張の頭(かしら)は、この外、『安達』の四段目の岩手(いはで)があり、「ばくや」といふ頭(かしら)です。で、この時の床(ゆか)は津太夫さんで、たしか初役であつたと思つて居ます。
 四月に三味線紋下の広助さんが、近衛公爵家より頂戴されたと有つて、名庭絃阿弥(なにはげんあみ)となられ『邯鄲(かんたん)の枕(まくら)』で披露されました。これは、玉蔵さんの役の露情(ろせい)(魯生)大尽といふのが、島原で手紙を枕にして寝ると、春夏秋冬の贅沢を極めた夢を見るといふ場で、私は、夏花といふ傾城の役に出て居ましたが、舞台を勤めて居る中に、ハツト気が附いた事がありました。それは、かね/\何の事を言ふたるのか知らんと解らずに今日迄来た「阿漕の平治」の中の、「思へば露情(ろせい)が夢の楽み、醒めて悔しき−」の文句の意味がハツキリと解りました。そして珍らしい外題は勤めねばならぬ、何か得る処があるわい、と、つく/\感じました。この時の絃阿弥さんのお咄では、この外題は、何でも八十年程以前に演(や)つた儘であるとの事でした。
 その夏は、彼の関東の大地震で、その為に盆替りは出せず、十月になつて、『忠臣蔵』の通しで明けましたら、案外な入りでした。
 次の十一月、京都の文楽座が出来上りました。新京極の中座といふのを改築したもので、太夫さんは、源さんや錣さんなど、人形は、文五郎さんと私が交る/\行く約束で、先づ私が、玉次郎さんなどゝ行きました。狂言は、『太功記』、「炬燵」に、切が「植木屋」で、私の役は、操とおさんと弥七でした。尤も、源さんが「尼ケ崎」で、私に重次郎を遣つて呉れとの注文したが、都合で操になりました。京都は久し振りの為、大変な人気で、十二月になつて、二の替りを出し、「戻り橋」の若菜を遣ひました。これは、その頃、毎年十一月に、堀江の演舞場で義太夫の温習会があつて、その大切だけは人形入で、文三(ぶんざ)さんや私が、よく遣ひに行つて居て、其処で四五年前に、この「戻り橋」が出て、文三さんの綱に、私が若菜を遣つた事があつたのです。その時は、若菜の踊の手を、名古屋から来て居られた西川お嘉儀(かぎ)さんといふ女師匠に稽古して貰つたので、この中座の時は、広告にその事が書いてありました。
 
 
 翌十三年は、文楽に取つて不幸が続いた年でした。三月の十八日に、永々病気の越路さんが亡くなられる。その翌日に絃阿弥さんも後を追はれる。五月は、津太夫さんの紋下披露がありましたが、六月は、三味線紋下になられる筈の吉兵衛さんと、弥太夫さんが、これ亦中一日置いて続いて亡(な)くなられる。一時はどうなる事かと、ほんとうに心細くなりました。
 丁度、この頃、私は京都の文楽座に出勤して居ましたが、京都では、若手の越登さんが出て居ました。この人は、とても美しい、可愛らしい声で、息も随分長く、「琴責」の阿古屋で、「去るにても我夫(つま)の−」の条(くだり)など、息の長い事といふたら、私は、阿古屋を遣つて居て何処まで行くのか知らんと思ひました。この時、丹波の亀岡の方の浄瑠璃通の御連中が見え「大阪まで行かんでもえゝ様になつて、えらい楽や、」と喜んで居られました。
 この夏休み中であつたと思ひますが、四国へ行きました。いつたい、私は船が大嫌ひで、ちよつとでも酔ひます。十四五の時に、一度沙魚(はぜ)釣りに連れて行かれた時に、大変酔つて、それ以来すつかり怖気(おぢけ)が附いてしまつて、船と言へば、八軒家から伏見迄の川蒸気位より乗つた事はなく、それでもよい気持はして居ませんでした。二三年前に松竹さんからの巡業で、神戸を打上げて、その儘船で高松へ渡つた時でも、皆と離れて、私だけは、宇野まで汽車で行つて、其処から僅か一時間程の連絡船で行つた位でした。この時は、文三(ぶんざ)さんが話を拵へて、私に是非行つてくれとの事でしたので、仕方なしに行く事にしたのです。太夫さんは、角さん、島(今の呂太夫)さんなど、人形は、小兵吉(こひやうきち)さんや門造さんが一緒だつたと思ひます。そこで、天保山(てんぱうざん)から怖(こ)は/\船に乗つたのですが、出来たての新しい船で、天気は此上ない静かな日和でしたので、この時はほんとうに意外で、船の中でビールなど呑んだり、御飯も普通に頂いて、無事小松島へ着きました。そして、その辺で興行を打つたところ、その頃は早魃(ひでり)続(つゞ)きだつたので、百姓のお客様が一寸も来ず、散々な不入の上、撫養(むや)へ行つた時、二回も大地震に遇つて、一行の者はすつかり胆(きも)を潰してしまひました。それから、徳島へ行つて、有名な盆踊りを見ましたが、芝居の方は、相変らず不入で、その中に文三さんが病気になる、お仕打とモメ出す、どうも唯ならぬ形勢になつて来ましたので、「これはどうも危(あぶ)ない、若しも持物を揃へて大阪へ帰れないやうな事になるといかん」と思ひ、角太夫さんなどにも薦(すゝ)め、衣裳や人形は、早くからすつかり荷造りをして、先きに大阪へ送つて置き、怪しまれるといけないから、持つて来た行李には外のものを詰めて、身体と、ほんの身の廻りの物だけにして置きました。すると、案に違はず、お仕打から色々と因縁を附けて来て、我々を動かせません。どうなる事かと心配して居ると、丁度、島太夫さんの兄さんが、土地でお茶屋をして居られ、その方が仲に入つて、やつとの事で話が附き、やれ/\と徳島から船に乗らうとすると、暴風で船が出ないと言ひます。重ね/\の災難続きで、船に弱い私は、他人(ひと)様一倍の心配をして居ましたが、夜になつて小松島から船が出るといふので、時間を待つ間、島さんの兄さんのお家で、一騒ぎして、小松島へ行つて見ると、船は、往きに乗つた新しい船で、風もすつかり凪(な)いで居ます。で、海路は再び珍らしく平穏で、無事に大阪へ帰つて来ました。
 その盆替りは、伊達さんの土佐太夫襲名披露があり、次の十一月は、神戸の道八(だうはち)さんが久々入座で、津太夫さんの相三味線として、『布引』の「離宮」を弾かれましたが、流石に、清水町(しみづまち)(二代目団平)直流で、行綱の出や、琵琶など、アノ小さな揆(ばち)[撥]で、実に立派なものでした。
 暮に、『恋女房』の慶政(けいまさ)を初役で遣ひました。これは、誰か他の方へ行く筈の行であつたらしいのですが、私の所へ来たので、「沓掛村(くつかけむら)」から「阪の下」へかけて、中々の役です。
 
 
 翌年[大正14年]は、二月からずつと京都に出て居て、松右衛門や与次郎や久作を初役で遣ひました。又、「帯屋」の時、無人であつたので、長吉とお半と二役遣つた事もありました。それから、「沼津」で、これも初役の平作を遣ひました。私が、「沼津」で、重兵衛の役を放(はな)れたのは、初役以来今日迄、この時一回限りです。又、「嫗山姥(しやべりやまうば)」の八重桐(やへぎり)も遣ひましたが、これは、前に堀江の温習会で遣つた事もありましたし、稲荷座で、豊松清十郎さんの遣つて居られたのを見て憶えて居ましたが、この時は、所々辰五郎さんに聴きました。
 四月になつて、初めて文三(ぶんざ)さんが京都へ来られ、一ケ月だけ一緒に働いて、五月に私は大阪へ帰り、それ限りで京都へ行きませんでした。
 
 
 その夏に 上京して、春に出来上つたばかりの歌舞伎座へ出勤しましたが、建物が立派なのにびつくりしました。それに
初出座といふので、連日満員で当り祝を貰つて帰りました。しかし何といつても、人形の舞台には大き過ぎて、両方から袖を出しても追附きません。『廿四孝』が出て居て、「奥庭」の狂ひなど困りました。やはり、大きければ、大きいなりで、無理からでも舞台一杯に遣はないと芸人の恥ですから、文楽で演(や)つて居る時とは、足数を変へねばなりません。重兵衛でもさうです。いつもは「−荷物もしやんと伴廻(ともまは)り」で出ますけれど、それでは間に合ひません。源蔵でも、いつもの通り、「立帰る源蔵」で出ると、門口へ後(おく)れます。
 
 
 秋から、初めて中国、九州方面を巡業しました。十二日間で、博多が六日、広島と岡山が六日宛でしたが、この方面へ人形入で行くのは全く最初でしたので、各地とも大入でした。ところが博多の千秋楽(らく)の日に、物凄い大風雨で、硝子が破(わ)れるやうな大騒ぎ、それはよいとして、我々は、翌日には広島の初日を開けねばならず、こんな事では関門連絡船が出るか、どうか判らないので、主任の吉野さんの処へ電話で聞くと、これも判らず、兎に角、明朝門司へ行つてくれとの事で、翌朝になつて門司へ行つて見ると、果して前夜船は出ず、その為にお客が溜つて居て、船は超満員でした。
 広島、岡山を打つて後、京都の南座へ一週間出勤し、それから十月二日初日で、道頓堀の中座へ初お目見得しました。演(だ)し物(もの)は、『三番叟』に、下(しも)の旅(たび)からずつと持つて廻つた居た『廿四孝』、「沼津」、それに、「河庄」と、切が「琴責」でした。
 
 
 
 〔註〕
 七十 【舞台下駄】人形の主遣ひが舞台で履く下駄。
 七十一 【座頭(ざがしら)】茲では人形遣ひの総帥、番附は、本欄内左端に位す。
 七十二 【ケレン】芸道の本格から聊か脱した機巧(カラクリ)的な演出、又は演技。
 七十三 【書出(かきだ)し】座頭の次位、第十二章中に掲載の昭和二年三月、文楽座番附に例をとれば、人形欄、右端の吉田玉次郎なり。尚、この場合、吉田文五郎は「別書出(べつがきだ)し」也。
 七十四 【三代目の吉兵衛】鶴沢文三の門弟にて、父は、初代鶴沢勝鳳とて三味線弾なりしも、後転業して初代竹本越路太夫となる。幼名鶴沢市次郎といひ、天保五年出座、同十一年二代目勝鳳となり、同十五年一月、三代目相続、越前大掾の相三味線を勤む、後、東京へ行き、五代春太夫を弾きしも、更に、門人の亀治郎を転業させ、春太夫の門弟とし、竹本南部太夫と命名、養成に専心す。之、後の摂津大掾也。文久二年七月三十八日東京にて歿、四十二歳。強腕にして世人「鬼吉兵衛」と呼ぶ。野沢家中興之祖。
 七十五 【揉上げ】鬢(びん)も髢(つと)も上へ上げた髪、実例を以て示せば、熊谷(写真参照)、正清(「八陣御座船」)、光秀等。
 七十六 【撫下し】総髪の事、撫(なで)附け。
 七十七 【上手】舞台の、見物席より向つて右手の方。
 七十八 【本手】二段になつて居る舞台の奥の方。
 七十九 【団七】ならず者に用ゆる頭(かしら)で、時代では宗任、世話では権太。
 八十 【大木戸】劇場の観客係り。
 八十一 【頭取】茲では、人形に関する総世話役。
 八十二 【先代古靱】幼少より豊竹豆太夫とて子供太夫に生立ち、初代豊竹靱太夫の門弟となり、明治三年、豊竹古靱太夫となる。明治初年、文楽座に出勤、越路太夫後の摂津大掾の最強敵として、名人の聞え高かりしも、惜むらくは、今十一年二月二十四日、御霊土田席にて「葛の葉」を語りて惨殺さる。五十二歳。
 八十三 【広助】五代目豊沢広助の門弟にて、幼名猿治郎、それより、龍助、仙糸となり、明治十六年一月三代目豊沢広作を襲名、師の歿後、同三十八年八月六代目を相続、大正十二年四月、近衛公爵家より名庭絃阿弥の名跡を貰ふ、同十三年三月十九日歿、 八十三歳。
 八十四 【奥】茲では、一段で浄瑠璃の終りに近き方の総称。
 八十五 【投げ頭巾(づきん)】人形遣ひの被つてゐる頭巾の顔面の部分を後へはね上げ、顔だけ出して遣ふ事。
 
 
 一一、御霊文楽座焼失と弁天座時代
 翌十五年の正月は、久々の友治郎さんが出勤され、演し物は、『四季寿(しきのことぶき)』で、これは文楽で二度目の上演でした。この時の振附けは先代の楳茂都(うめもと)(扇性(せんしやう))さんでした。
 二月に、久し振りで『新薄雪』が立つて、私は、初役の妻平を遣ひました。
 五月は、竹田五[出]雲の百七十回忌といふので、『菅原』の通しに、『千本桜』の「道行」が出ました。
 その夏も、昨年に引続いて、東京の歌舞伎座へ行きました。熊谷を遣つて居られた玉蔵さんは、「組打」が済むと、「熊谷はほんまにえらいわ、もうこんなんやつたら来年からよう来んわ」と、しきつて言つて居られましたが、これが知らせであつたとも言ひませうか、玉蔵さんは、盆替りの開く前に亡(な)くなられました。もう役も定(き)まつて居たので、『伊賀越』の政右衛門は文三さんへ、引抜きの団子売女房は文五郎さんへ、助平は玉松さんへ行きました。この時の中狂言が「堀川」で、吉三郎さんの七代目吉兵衛襲名の披露狂言でした。
 十一月は、我々に取つて忘れる事の出来ぬ悲しい月で、新作の『法然(ほふねん)上人』が出て、その千秋楽の翌朝に、御霊の文楽座が焼けたのでした。二十九日の午前十一時頃で、私は、朝御飯を頂いて居ると、家の向ひのお寺の人が、「柳本はん、なんや文楽の辺が火事やさうだつせ」と知らせて来て呉れました。兎に角、一度電話で聞いて見ようと、電話をかけたところが、いくらしてもかかりません。すると、交換手が、「あなたはいつたい何処へかけて居られるのですか」と言ひます。「文楽へかけてまんねん」と言ふと、「文楽は今火事です」と、聞いてびつくり、大急ぎでタクシーで駈附けたところ、小屋はもう手の附けられぬ位になつて居ましたが、大道具が二三人来て居る外、芸人は余り来て居ません。前の主任の吉野さんが来て居て、前茶屋(この前茶屋は、焼けずして今でも残つて居ます)から、灰になつて行く文楽座を、二人で眺めて居たのですが、「えらい事になつたなあ、今後はどないなるのやしらん」と話し合つて居ました。それから、火は、小屋を九分九厘まで焼いて、お昼前消えました。私の部屋などは、勿論跡形もなく焼け、僅かに文五郎さんの部屋が少し残つたと聞いて居ます。で私の部屋に入れてあつた旅行きの一行李は、すつかり焼けてしまつて居ると諦めて居ますと、意外にも、御霊神社内の南門の人力留場に、すつかり誰かゞ持つて行つてくれて居たので助かりました。さて、松竹の本社へ行つて見ると、多田さんが、「頭(かしら)はどうした/\」と、一生懸命に尋ねて居られましたが、よい頭(かしら)は、だいたいに於いて残つたのでした。と申すのは、十二月に広島から九州へ巡業の予定になつて居て、その方の荷物へ大分入れてあつた為と、一つには、演(だ)し物(もの)が『法然上人』といふ、余り頭(かしら)の種類の要(い)らない狂言であつたからでした。それでも、切狂言に「紙治」が出て居て、私の遣つて居た治兵衛の頭、「源太(げんた)」(註八十六)のいゝのを焼いてしまひました。この頭(かしら)は、ずつと昔から伝はつたもので親玉さん初め、二代目さんなどが使つて居られ、何とも言へぬよい品で、ほんとうに残念な事をしました。しかし、この頭の模(うつ)しを、数年前に私が拵へさせて置き、宅にしまつてありましたので、焼け残つたのは、まだしも不幸中の幸で、今日はそれを使つて居ます。その外、法然上人の人形を、坊さんにあげようと思つて造つて置いたものが焼けました。
 こんな訳で、よい頭(かしら)は大体残つたのですが、それでも、とても数は足らず、広島の初日は目前に迫つて居て、もう既にあちらへ行つて居る座員もあり、それ等は、皆号外で文楽の火事を知つてびつくりして居るといふ有様です。そこで、色々協議の結果、頭(かしら)の足らない分は、一座の玉徳さんが、家に少し頭を持つて居るので、それを借りて間に合はすことにして、又我々が舞台を勤めるに、なくてはならぬ舞台下駄も一足残らず焼いてしまつて、困つて居たのですが、これも、一座の伝之助さんが、御霊神社の近くの荒箱屋と懇意で、その店で五六足荒木の儘、急拵へして貰つて、広島の初日は、一日延ばして開ける事になりましたが、広島では、焼け出された文楽一座といふので、お客様方の御同情が寄り、大変な大入りでした。
  
  
 さて、翌年[昭和2年]の正月は、何処で開けるかといふのが第一の問題で、初めは南地(なんち)演舞場を借りて、開ける話もあつたやうですが、結局、昔は竹田芝居で、人形浄瑠璃に縁故もあり、その頃、大歌舞伎が余り懸(か)からなかつた弁天座へ出勤と定まりました。この事は、我々が、旧臘博多で興行して居る中に通知があつたのです。そこで、帰阪して直ぐ準備に掛かつたのですが、丁度、旧臘中、畏れ多くも、大正天皇が崩御遊ばされ、大晦日まで弁天座の前は、黒幕が張つてありました。
 初日は、一月一日で、前狂言が『太功記』、中が「吉田屋」、次が「合邦」に、切が「湊町」で、東京から久々加入の朝太夫さんと松太郎さんの演(だ)し物(もの)でしたが、何分場所が、盛り場の道頓堀でもあり、殊に、この興行から久しく打絶えて居た「切見(きりみ)」が出来たので、通り掛りのお客様も簡単に来られるといふ風で、大変な入りでした。多田さんが部屋へ来られて、「やつぱり場所や、通り掛(がゝ)りのお客もつかめるがな」と言ふて居られました。
 二月も、引続き弁天座で開ける事になりましたが、文三さんが病気で休んで居られたので、持役の政岡の外に、中狂言の津太夫さんの「逆櫓」の松右衛門が私に来ました。文三さんはとう/\この興行中に亡(な)くなられました。
 そこで、三月は、番附の改正をやる、と会社からのお達示がありました。これは、従来の番附では、別箱が沢山あつて混乱して居たのを整理するといふのが目的で、先づ、文五郎さんも本欄へ入る事になり、辰五郎さんは、前から病気で休んで居られたので、一旦、番附から退いて貰つて、全快して出勤せられるやうになつたら、又、何処かよい所へ座つて貰ふといふ会社の意向でしたので、玉次郎さんと文五郎さんと私と、三人で協議しましたところ、文五郎さんは、「私は『別書出し』で結構だす、玉次郎はんとの間を、ほんの少し明けといと貰(も)ろたら、そいでよろしおます」と言はれましたので、私が座頭(ざがしら)に座る事になつて、文五郎さんは「別書出(べつがきだ)し」、玉次郎さんが書出しで、中軸(なかぢく)は、古老の玉七さんと冠四さんと、だいたい現在の通りの番附にして、その下書を会社へ提出しましたところ、社長が御覧になつて、「これでよろしい」といふ事になりましたので、私が新しく出来た番附を持つて、大和の高田の眼科病院に入院して居られた辰五郎さんの所へ行き、色々と訳を咄しましたところ、辰五郎さんは、「それで結構です、私も、全快したら又何処かへ入れて貰ひませう、もう出られないと思ひます」と言ふて居られました。斯うした番附の改革に依つて、私が座頭(ざがしら)と定まりますと、方々の新聞社の方が宅に見え、新聞には、「当然の事である」との意味が出て居ました。しかし、人形の座頭(ざがしら)は、先代紋十郎さん以来で、紋十郎さんが亡くなられてからは、ずつと空座になつて居たのです。近年では、玉蔵さんと文三さんが、どちらが座頭(ざがしら)で、どちらが書出しとも区別が出来ず、張合つて居られ、遂にその儘お二人とも亡(な)くなられ、後に残つた私が、順序だとの事で、座頭(ざがしら)に座つた訳ですが、初舞台当時の沢の席時代や、彦六座の苦しい修業時代には、夢にも思はなかつた事で、一生懸命辛抱した、永年の努力を、社長が認めて下され、座頭(ざがしら)を許して頂いたので、自分としては、此上の喜びはないと、常に感謝して居ります。しかし、それと同時に、座頭(ざがしら)になると一座の責任を負はねばならず、これには大分心配もしましたが、今日迄十年余経(た)ち、その間先づ何事もなく円満に行つて居るのは、何よりも結構な事と思つて居ます。そこで、座頭になつたに就き、昔のやうに一座へ配り物をしようと思つて、新玉(しんたま)主任を通じ、就長に伺つて貰ひますと、「今文楽は引越し興行中ですから、新築が出来てから」との事でしたので、差控へました。
 そこで、三月興行は、新番附で、『廿四孝』の通しに、中が「紙治」、次が「弁慶上使」、切が「櫓のお七」で、私は、勘助と治兵衛でした。この芝居中、ある日、丁度「河庄」の最中、未だ治兵衛が中へ入らぬ前、善六太兵衛の出の一寸前位と思ひますが、奥丹後の地震がありました。相当激しかつたので、一時は浄瑠璃も止まり、私は、格子の所に居て、入るに入られず困りました。それから、「炬燵」の間でも、もう一回揺り返しが来ました。
 次の四月、初役の由良之助を遣ひました。由良之助は、随分と色々の方のを拝見し、おかるや平右衛門や判官などで、附合(つきあ)つたことはありますが、自分の手に取るのは今度が全く初めでした。「四段目」も難(むつか)しいのですが、何と言つても「茶屋場」です。「四段目」とは、文章も、節附けも、「間(ま)」も、「足取り」もすつかり違つて居ます。つまり、酒に酔ふて居て、酔ふて居ないので、「蛸肴(たこざかな)」の条(くだり)や、力弥の条(くだり)の本性のところと、外の酔つて居るところとの腹の遣ひ分けを芸に表さねばなりません。それが、とても困難です。おかるとのやり取りの間にもあります。「−どうれ金渡して来(こ)うわい」で、おかるがそつと顔を隠(かく)し、シヤンと細絃(ほそ)のカヽリになつて、おかるが上手へ向つて行く、そこで、キツと目を附けて、じーと縁下に目を移します。此処は本性です。又、暖簾に入りしなも、もう一回、おかると顔を合せて、かういふ息があり、また元の足取りで入ります。結局、皆を馬鹿にして掛からねばなりません。それから、「九つ楷子(ばしご)」が済んでから、それを九太夫の居る縁下に置くのは、先代紋十郎さんが演つて居られたのを、私は、おかるに出て居て、「えゝ型やなあ」と、見憶えて置いたものです。又、この時は、昼夜二部で、夜の権太も初役でした。
 六月には、熊谷の初役が来ました。こんな役を遣ふ事は、全く思つて居なかつたのが、立役遣ひの方々が皆死んでしまはれたので、止むを得ず私のところへ来た訳で、由良之助もえらかつたのですが、熊谷も大分苦しみました。「三段目」も勿論えらいのですが、私が、このやうな小兵(こひやう)ですから、「組打」のアノ大人形で、四十分程持つのがとても骨でした。それに、この場は、鎧で、一杯の「ウレヒ場」となつて居り、しかも独り舞台ですから堪(たま)りません。「ふり上げながら」の条(くだり)などのえらさと言つたらありません。又、「玉のやうな御装(おんよそほひ)−」の条(くだり)などは、左遣ひの最も苦心する所です。それから「曇りし声を張り上げて−」で、下手寄りの山に居る平山に敦盛の首を見せるのは、従来は、両手に持ち後向きで見せて居たので、私もその通り演(や)つて居ましたところ、時事新報の京極さんといふ方が見え、「あすこは、左の片手でやつた方が大きい事はないか」と注意して下さいました。考へて見ると、成程大きい事は確かなので、改めて今日もずつと片手で演つて居ます。
 「三段目」になつて、「昨日に変る雲井の空」や、「心に掛かるは母上が事」など、従来の型としては、皆藤の局に目を曳いて居て(註八十七)、泣く時でも、扇で藤の局に顔を隠(かく)して居たのですが、二三日程遣つて居る中に考へると、どうも工合が悪いやうに思へてならず、表向きは敦盛の事でも、実際は小次郎の事で、その母親が下手(しもて)に居るのですから、どうしても、相模の方に目を曳く方がよいと思ひました。これは、ひよつとすると、自分の考へ違ひかも知れないと思ひましたが、改めて遣つて見ましたところ、亡くなられた石割さんが、「サンデー毎日」に、非常にこの条(くだり)を賞(ほ)めて書いて下さいました。この「陣屋」では、初めの中、左を扇太郎に、足を市松に遣はして居ましたが、弟子の光之助や、栄三郎にも少し遣はさねばと思ひ、中途から光之助に左を、栄三郎に足を遣はせましたら、二三日は馴れないので困りました。栄三郎は、この時に、門造さんから頼まれて、私の処へ来た者で、備中の倉敷の産です。
  
  
 翌年[昭和3年]の七月、東京の新橋演舞場へ行く事になりましたが、その前月、弁天座で『忠臣蔵』の時、神経痛で二日休んだ後でしたから、身体を心配して居ましたところ、少し楽になつたので行くことになりました。
 演舞場へ出勤するのは、この時が最初でしたが、大きさが手頃で、人形には非常に工合がよい、と皆喜びました。太夫さん連も、声の籠りがよいと喜んで居られました。そして、廿日間の大入でしたので、五日間休んで、更にもう五日間明治座で、『忠臣蔵』の通しで開ける事になりました。この千秋楽(らく)の翌日に、横山大観さんからのお招きで、津太夫さん、友治郎さん、文五郎さんに私の四人、築地の「新喜楽(しんきらく)」で御馳走になりましたが、その席でも、「明治座は止めた方がよいのに、折角の演舞場の大入にケチを附けるやうになるといけないのに」と話し合つて居ました。
 ところが、初日が出て見ると、大入も大入、演舞場以上の入りで、当り振舞ひは出る、全く、意外でした。尤も、東京で、『忠臣蔵』の出たのは、文楽としては、この時が初めてゞした。それで初日の前日に、一座の者打揃つて、高輪泉岳寺の義士のお墓へ参詣し、記念撮影をしました。
  
  
 翌四年は、巡業の多い年で、弁天座へ出たのは、三月と五月の二回だけで、四月に、初めて天満の八千代座へ、『忠臣蔵』を持つて行きましたが、大変な不入でした。
 その十二月に、又、東京の新橋演舞場へ行きましたが、この時、大阪から多田さんが見え、私の部屋へ来られて言はれるには、「いよ/\四ツ橋の新文楽座も落成して、お正月から開ける事になつた。就いては、暮の二十六日に開場祝をして、沢山お客様を招待して『三番叟』をお目に掛けようと思ふが、お客様の数が大勢やので、五回に割らんならんさかい、『三番叟』を五回演(や)つとくなはれ」との事です。私は、「とても行けまへん、『三番叟』は、難(むつか)しい事はおまへんけれど、飛んだり跳ねたりして、とても身体のえらいもんだつすさかい、五回もやつたら、身体はへたばつてしまひます」と、お断りしますと、「そんな事言はんと、折角の開場式やさかい」との頼みです。そこで、文五郎さんを呼んで来ますと、文五郎さんも、「それは行けまへん」と言はれるのを、多田さんは、「と言ふて、このお客を二日に分けられへん、五回と言ふても、続けさまやないし、お客さんを入れ替へして、一献差し上げる間、かれこれ二時間程あるのやさかい、その間に休息して貰ふとして、是非演(や)つとくなはれ、若し行けなんだ時には、又、何とか代りを立てますさかいに」と、達つての懇望に、こちらも遂に折れ、「それなら兎に角、演(や)つて見まひよ、どうぞよろしう」と、話が纏まつて別れました。
  
 [註]
 八十六 【源太(げんた)】 色男役の頭(かしら)。時代では重次郎、三浦之助、世話では、治兵衛、忠兵衛等。
 八十七 【目を曳いて】 人形の眼玉を横へ寄するために、眼の動く仕掛けの糸を引く事。
  
 一二、四ツ橋の文楽座になつてから
  
 四ツ橋文楽座の開場、それは、私どもが夢幻(ゆめうゝつ)の中にも待ち焦(こが)れて居たことで、愈々昭和四年の暮に出来上り、十二月の二十六日に開場式と聴いた時の嬉しさは、とても口では申されません。大正十五年の十一月二十九日に、御霊の小屋が焼けてから、仮宅興行(かりたくこうぎやう)は、道頓堀の弁天座といふ事に定つて居たのですが、最初の興行は大入でも、さう続くものではなし、中には大変な不入の時もありましたので、一座は、ともすると巡業にやられ勝ちでした。その巡業の内に、大阪の名士や、文楽フアンの方々が、松竹さんへ、「文楽は何としても小屋を建てねばいかん」と、色々忠告されたと聞いて居りましたが、松竹さんも、「決して放(ほ)つては置きません」と言つて居られたさうで、その中に、旧近松座(註八十八)の建物を文楽に改築する為買収したとの話を、吉野前主任から聞きましたが、その頃は、ビルヂングになつて居て、中の人に出て貰ふのに大分隙が掛かつたやうでした。それが愈々竣功して、その開場式の『三番叟』を五回勤めるに就いて、多田さんがわざ/\上京して求られた事は、前に申しましたが、東京から帰阪して、出来上つた四ツ橋の新文楽座へ、始めて足を踏み入れた時の気持は、何と申してよいやら判りません。
 人形芝居として、こんな立派な小屋は初めてゞした。御霊の文楽座にしろ、彦六座にしろ、新築当時と言つても、昔の事であり、木造ですから知れて居ます。それが、今度は総てが最新式で結構を極めて居ます。こんな嬉しい事はない、と思ふと同時に、このやうな結構な家を建てゝ貰つたが、どうかしてこの家に永く住み度い、それには、何としてもお客様を一杯入れなければならない。我々は一生懸命勤めねばならない、と決心しました。これには大分頭を痛めましたが、これは私に限らず、一座の者残らずが考へた事でした。
 さて、開場式も無事に済んで、昭和五年の一月元旦に、新文楽の初日は開きましたが、その勢といつたらとても凄いもので、毎日補助椅子の出るのは勿論、前売のお客様にも帰つて頂かねばならず、誰一人として予想しなかつた三十四日間といふ、大掾さん引退興行以来の大入続きで打つた為、二月へかゝり、二月興行は七日が初日でしたから、一日も休まずして、直ぐ次の拵へに掛らねばならず、こんな状態が七月まで続きましたから、我々は、正月から七月まで、楽屋へ足を踏み入れない日はなく、芝居は、十二月まで一月も休みなしに打ちましたので、この年の打つた日数は三百幾日で、こんな事は、私の五十余年間の舞台生活の中に、後にも先にも全くなく、この年限りでした。会社も、こんなになるとは想像して居なかつたらしく、二月頃に、築地小劇場とかの一座が懸る咄があつたとの事でしたが、(新文楽座は、御霊とは違ひ、太夫の床が取除(とりの)けられるやうになつて居り、人形芝居以外のものも上演出来る装置になつて居ます)、そんな話は蹴飛ばしてしまつて、五月迄当り祝の続出で打ちました。
 そこで柿葺落(こけらおと)し興行は、この時から改まつた規則で、三時開演となり、前狂言は『先代萩』の「竹の間」から「床下」までゝ、「竹の間」は駒さんなどの掛合、「御殿」は土佐さん、御祝儀の『三番叟』を引抜いて「柱立万歳(はしらだてまんざこ[い])」、中が『双蝶々(ふたつてふ/\)』の「橋本」で、津太夫さんの役場(やくば)、次が古靱さんの古曲復興で、『平家女護島(へいけによごがしま)』の二段目「鬼界ケ島」、切が掛合の「吉田屋」といふ立て方でした。ところで、この「鬼界ケ島」は、久しく出なかつた外題で、今度の上演に当り、道具をどうすればよいかといふ問題に就いて、古靱さんが床本を持つて宅へ相談に見えました。これは、開場前の暮の事で、玉次郎さんと道具の棟梁の大新さんにも来て貰つて、文章を調べて見ると、四方八方が山といふ事になつて居て、其処へ都からの使者の舟が見える/\と言つて、船が来る訳です。さすれば水を出さねばならず、文章は山の中となつて居るし、歌舞伎と違つて廻り道具といふ事も出来ず、色々考へた揚句、青竹の手摺を造る事を、私が言ひ出しました。青竹の手摺であると、「能がゝり」になつて、写実を放れますから、水を出さずに済むし、万事の言ひ分けが出来ます。昔から、青竹の手摺を使つて居る「日向島」でもさうです。追善物といふ意味もあるのでせうが、写実から放れなければならない舞台の実際の必要から来て居るのだと、私は思ひます。即ち、アノ景清の出には二通りあります。幕が開いた時から、小屋の中に居るのと、下手の横幕を切つて出て来るのとで、これは、お供への花を採つて来たといふ思入れで、彦六座で先代の辰五郎さんが演(や)つて居られましたが、奥で、同じ下手から、佐治太夫と糸瀧を乗せた船が出ますから、実際の理窟に合ひません。その言ひ分けを青竹の手摺がして居るのです。で、今度の「鬼界ケ島」も青竹の手摺にする事に、四人で定(き)めて道具を造つて居ますと、社長がお見えになつて新聞に木谷蓬吟さんが、この青竹の手摺は、柿葺落(こけらおと)しに際して不吉(ふきち)である、と書いて居られるがどうか、とのお尋ねがありましたので、私が右の次第を詳しく申上げ、了解して頂きました。それと、もう一つ困つたのは、俊寛の頭(かしら)でした。俊寛は、文章に依ると鬼界ケ島に流されて居て、食(た)べ物(もの)も碌々採らず、痩せ衰へて居るのですが、出来合ひの頭(かしら)で、その条件に合ふ様なのは一つもありません。「日向島」の景清は、又、あれだけ別の頭(かしら)が出来て居るのですが、盲目ですからそれを使ふ訳にも行かず、さりとて急に拵へる事も出来ず、玉次郎さんと色々相談した結果、『菅原』の「天拝山(てツばいざん)」の菅相丞の、「狂(くる)ひ」になつてからの頭(かしら)を使ふ事にしました。この頭(かしら)は、立眉になつて居ますので、眉毛を止めて使ひました。
 次の二月、『勧進帳』が出ましたが、今度の『勧進帳』は、前に御霊時代に一回出たものと、節附も文章も少し違つて居ました。そこで、弁慶の役の附いた私が考へますには、以前の弁慶の頭(かしら)といふのは、御霊時代の二回は勿論、抑々稲荷座の初演当時から「団七(だんしち)」でありましたが、どうもこの頭(かしら)は少し色気に乏しい頭(かしら)で、今度は三味線の手数も込んで居るし、根が歌舞伎出のものでもあり、歌舞伎の似顔の色々の方のを見てる、どうしても「文七」で行つた方が、見た目がよいやうに思ひ、「文七」で拵へて見る事にしました。そして、振りはすつかり楳茂都陸平(うめもとろくへい)さんに附けて頂く事になり、一月興行を終つてから、二月の初日開く迄の僅かの間に、道八さんと二人で師匠のお宅へ行つて拵へに掛りましたが、「延年の舞」も多くし、段切(だんぎり)の六法はこの時新しく考案されたものでした。さて、初日が開いて見ると、大変な好評で、足を遣はせて居た栄三郎は、一座の方々から認められて、殊に社長からは、賞状と御褒美の時計を頂く、翌月から昇給といふ、此上ない面目を施しました。又、千秋楽(らく)の日に道八さんからは、左の扇太郎と、足の栄三郎の二人に、「毎日御苦労さんでした。大変結構でした」と、お喜びのお礼として反物を頂戴しましたが、私一門の誠に名誉な事と、今に喜んで居ります。尚、この時、私の役は、前狂言の『国姓爺(こくせんや)』の甘輝(かんき)と外に次の「合邦庵室」の合邦で、この役は、後から増(ふ)えた役でした。
 三月に、『妹脊山』の 「吉野川」が出て、私は二度目の大判事を遣ひました。初役は、弁天座時代で、その時から、従来、大判事が桜の枝を持つて出たのを止めて、素手で出ました。これは、端場の「花渡し」の中の文句に、「−得心すれば栄える花、背(そむ)くにおいては忽ちに、丸(まろ)が威勢の嵐に当て、真(まつ)此(この)通(とほ)りと欄(おばしま)にはつしと打折(うちをり)落花(らくくわ)微塵(みぢん)」とあり、花を持つて出る訳がない、と思つたから改めたので、この時もその通り遣(つか)つてゐましたところ、ある日、久我(こが)之助(すけ)を語つて居られた古靱さんが部屋へ見え「私の知人が、『以前の大判事は、花を持つて出たのに、今度は素手で出て居るのはどういふ訳か』とたづねて居られましたが」と言ふて来られましたので、私は「いつたい、アノ端場の『花渡し』といふ場の名前は、書卸しの時から附いたるもんだすか」、と質問しますと、古靱さんは、「いや、アノ場のほんとうの名は、『貞香(さだか)館』で、『花渡し』といふのは、ずつと後に誰かゞ勝手に附けたものらしいのです」と言はれますから、私は、「花渡し」の中の文句の事を申し、花を持つて出る訳がないと説明をしますと、古靱さんは、「成程々々」とよく納得して下さいました。そして切場(きりば)での、「−栄華を咲かす此の一枝−」では、「待合せ」を拵へて、側に咲いて居る桜の木の枝を一つ折つて使ひました。
 四月に、ある日楽屋入りをしてから急に神経痛が起つて来て、初めの役の光秀は、差詰め光之助に代らせ、お医者様に来て頂いて、注射をして寝て居ました。ところが、中狂言の「千本桜道行」では、文五郎さんと私が出揃はねばならず、殊にその日は、文五郎さんの連中の日になつて居ましたので、文五郎さんがとても心配して居られましたが、幸にして少し静まつて来たので、「道行」は無理をして出ました。それから、丁度この日に、先頃亡くなられた加藤享先生が、伏見町の岩倉先生と御一緒に見物に来て居られ、『太功記』で、私が出て居ないのを御覧になつて、尋ねて頂き、その時に岩倉先生を紹介して頂きました。それからといふものは、先生と格別御懇意に願ふやうになり、先生は文楽党(ぶんらくとう)になられる、私を初め、一座の者が病気になると、誰彼なしに御厄介になり、今日迄、幾人診て頂いて居るかわかりません。それも、診察も、お薬を頂くのも、みな無代(たゞ)でして頂いて居る始末であります。
 次の五月に、私が提案して、黒衣の生地(きぢ)を全部木綿に、紐は全部黒、そして、黒衣を著た時は黒パッチに紺足袋といふ事に改めました。これ迄は、黒衣の生地(きぢ)は、銘々思ひ/\で、彦六座で才治さんなどは紋縮緬(もんちりめん)を著て居られ、先頃の玉蔵さんなどは、冬になると天鵞絨(びろうど)で、文五郎さんも繻子(しゆす)か何かのを著て居られました、又、紐も、銘々勝手な色で、若い者は派出な色を附けて居ましたのを、今度、統一した訳です。
 この年は、前にも申した通り、年中興行でしたので、毎年夏に行く東京へも行かず、勿論余所(よそ)の巡業もなく、八月の興行を終つてから、五日間程京都南座へ行つた限(き)りでした。
  
  
 翌年[昭和6年]の春に、久し振りで『千本桜』の四段目「御殿」が出ました。古靱さんの語り物で、今度は、所謂「狐場」だけで、奥の覚範(かくはん)の条はありませんでした。ところが、この狐忠信の宙吊(ちうづ)りは「奥」にあるので、今度出る場には無いのを、古靱さんからの注文で、宙吊りをしてくれとのことでしたので、「そんなら、段切(だんぎり)にでも吊られまひよかい」といふ事になつて、宙吊りをしました。
 早替りは前からあつたのですが、この時のお咄を少し申しますと、最初の出は、下手に、小川弥三郎さんの鼓の出囃子(でばやし)がすんで、その置いて行つて鼓箱の中の鼓の皮を破つて出ます。これは古くからある型で、親玉さんなども演(や)つて居られましたが、彦六座の方ではありませんでした。そして、長袴の忠信に早替りをして、本手へ上ると、「遅かつた忠信殿‐」となり、鼓の折檻がすんで、船底へ降(お)りしなに、源氏車の衣裳に替ります。それから、鼓の物語がすんで、「−行くとなく、消ゆるともなき春霞」で、上手の桜の木のとこへ、霞を降(おろ)して隠れます。そして、義経の愁歎の内は、蔭で聴いて居るといふ思入れですが、私は、この間に体に連尺を附け、段切の宙吊りの用意をしました。それで、今度は、「姿を包む春霞晴れて形ちを−」で出るのは、下手に網代垣をしつらへ、それに霞を降(おろ)して、その後に綟(もじ)張(ば)りの仕込(しこみ)をして、初めは狐の姿をボーと写してから、それを破つて出ました。この霞を綟(もじ)張(ば)りにしたのは、私の工夫でした。それから、もう一回早替りをして、最後に狐の口に鼓を銜へて、宙吊りになつて、幕といふ順序です。
 その六月に「弁慶上使」の弁慶を初役(はつやく)で遣ひました。これは、大した難(むつか)しい役ではないのですが、少し考へました。それは、文章にもある通り、「太郎夫婦が居やらずぱ、泣くより泣かぬ苦しみは−」や、「−三十余年の溜め涙」といふのですから、どうしても「ウレヒ」に落さねばならぬと思ひました。それには、従来の型では、大分派出過ぎる所があり。「−一の谷へも押寄せ押寄せ−」などの条(くだり)で、昔は、大暴(おほあば)れに暴(あば)れたものです。又、「−こんな頬でも見せたらば−−」でも、これ迄の型としては、両頬をポン/\と叩くのでしたが、私は、唯指さすだけにしました。この後も、この弁慶を二三度遣ひましたが、その度毎に考へて居ます。現に、この間(昭和十三年七月)新橋演舞場で役が附いた時は、信夫の死顔に、頬ずりする事に改めました。何でもない役の割に、不思議と色々考へます。その夏は、南座と、二年振りの上京で、明治座へ出勤しました。八月は、四ツ橋で、若手の一座に古靱さんの上置で、語り物の「合邦」で、私は、前川さんとの約束で、合邦一役だけに出ました。
 この興行が十九日に終つて、翌二十日に、当時大阪へ御越しになつて居た秩父宮両殿下に、文楽を御覧に入れるといふ事になつて、殿下の御宿所である、大阪城内の「紀州御殿」へ伺侯するといふ、私共一世一代の光栄に浴しました。狂言は、「太功記十段目」で、床は、古靱さんに清六さん、人形は、玉松さんの重次郎、紋十郎さんの初菊、玉七さんの皐月、文五郎さんの操、扇太郎の久吉、に、私の光秀でした。御殿へ伺侯しましたのは、三時頃でしたが、その日殿下は方々御巡覧中で、未だ御帰館になつてゐらつしやらぬとの事で、暫くお待ち申上げ、五時頃から始まりましたが、両殿下は、人形浄瑠璃が大層お好きらしく、一番前へ御椅子を持ち出されての御熱心さには、恐縮してしまひました。そして、済んでから、文五郎さんと私に、「人形の説明をせよ」との仰せで御前近く推参致しましたが、何分、八月の暑い盛りで、舞台を済むと直ぐですから、汗を拭ふ暇(ひま)もなく、黒衣からその儘着物に改めたのですから、汗臭い体であるにも拘らず、両殿下の御熱心なるお尋ねにお答へせねばならず、こんな畏れ多い事は、初めてゞした。
 盆替りには、一座が二分して、文五郎さんや玉松さんは、古靱さん一座で東京の帝劇へ、残りの我々は、四ツ橋で勤めましたが、津太夫さんの相三味線として、綱造さんが久々出座で、『蝶花形(てふはながた)』の八ツ目「小阪部館(をさかべやかた)」が出て居て、私は、初役の音親(をとちか)を遣ひました。この音親(をとちか)は、御承知の如く、肉身の方の孫の松太郎に鈍刀を渡して、それが手を負ふのを、「謡鼓で紛らしても、肉骨を裂く苦しみ」といふ事になつて居るのですから、勝負をとても真正面(まとも)に見て居られぬといふ腹で、「−引手の肩先松太郎、切込まれてたぢ/\/\」の辺から、相引(あひゞき)に腰掛けながら、じり/\と後向きになるやうに遣ひました。それは、彦六座で才治さんが遣つて居られた型で、子供心に、よい型だなあと思つて、憶えて置いたのを遣つたのです。
 十一月に、実盛を遣つた時、又、神経痛で苦しみましたので、富田屋橋(とんだやばし)の神経痛専問の政山病院に来て居られた、洋行帰りの大橋先生に見て頂き、一週間に一度の注射を十一回しましたら、非常に楽になつて、十二月に上京しました時、もう東京へ帰つて居られた先生へ、宿からお礼の電話を掛けた事がありました。
  
  
 翌七年の正月、『四季寿(しきのことぶき)』の関寺小町(せきでらこまち)を遣ひましたが、振附(ふりつけ)は、山村おわかさんで、すつかり新しい振附で、小町の踊は、笠を使ひましたが、今年(昭和十三年)のお正月に、北陽(ほくやう)演舞場で遣つた時は、元々通りに改めました。
 三月に、「葛の葉」で、又早替りをしました。早替りの事に就いては、前にも度々申上げましたが、いつたい昔は、早替りの介錯人を麗々とお客様に見せて居たのですが、私が考へますには、それではどうも面白くない、成るべく仕掛を見せないやうにと、「葛の葉」では、童子(どうじ)の枕屏風を利用して、仕掛を見せないやうにしました。又、中狂言に「河庄」があつて、治兵衛を素足(すあし)にして出(だ)したのも、この時からでした。
 この興行中に、「来月、文楽で『肉弾三勇士』を上演する事になつて丁度、今角座で新派が演(や)つて居るから、一度見に行つて置いてくれ」と、会社からの注文がありましたので、皆で見に行きました。
 そこで、四月は、『忠臣蔵』と「三勇士」と定つて、食満(けま)南北(なんぼく)さんの作に、作曲は友治郎さん、ところで、噂によると、文章の上では、三勇士を選び出すのに、芝居と同じく、後に一少隊程沢山列んで居て、そこから選び出す事になつて居るらしいのです。それは、人形の方では出来ない事で、なぜかと言ひますと、人形は、御承知の如く、一つの人形に三人かゝらねばならず、文楽座の人形遣ひは、今三十余人しか居ないのですから、それだけ沢山の人形が出せない、又、仮りに、人形遣ひが沢山居たところで、文楽の小さい舞台では出来ない事です。で、「これは何とか考へて、早う訂正して貰らはんならんなあ」と思つて居る処へ、吉野さんと林さんが見えましたので、その咄をしますと、「それなら、これから直ぐ友治郎はんのお宅へ一緒に行とくなはれ」との事になり、自動車で駈附けると、丁度、二階で皆を集めて稽古最中でしたので、右の次第を詳しく話して、「沢山の兵隊さんは、蔭にして、要(い)るだけの人を呼び出すやうな事にでも、改めて貰へまへんか」と申しますと、「成程」といふ事になつて、文章を少し訂正し、食満(けま)さんにもお許しを得て、舞台へ懸けましたところ、大当りを取りました。それで、これを直ぐ東京へ持つて行くといふ話が纏つて、翌五月に、東京劇場へ行きました。それから引続き、神戸へも行きましたが、各地で大好評でありました。で、噂に聞きますと、「三勇士」は、何処の芝居でも演つたさうですが、一番最後にやつた文楽が、一番よかつたと、一般の批評であつたとの事でした。
 その翌年[昭和8年]の六月、苅萱(かるかや)を遣つた時、昔、彦六座で辰五郎さんの苅萱(かるかや)の足を私が遣つて苦しんだ通りの苦しみを、この時、足を遣はせて居た栄三郎が経験して、毎日泣いて居ました。又、胴を持つて居る私も、とてもえらい思ひをしました。立姿で、動きがないといふのが、人形で最も苦しい構へです。
 十二月に東京の歌舞伎座へ出勤しました時に、『勧進帳』を持つて行き、段切の六法で花道を使ひました。これは、最初道八さんから出た話で、東京の社長に伺ひますと、「よろしい」といふ事で、演(や)つたのですが、社長初め、お客様にとても喜んで頂きました。それに、お客様の中を行くのですから、初めて間近(まぢか)く御覧になつた方に、左遣ひや足遣ひにも、如何に苦心があるかといふ事が解つて頂きました。私も、後(うしろ)からでも人形がよく見えるやうに、肩衣を脱ぎ、袴だけで勤めました。この「勧進帳」は、第一回目の芸題に出て居たのですが、社長から、「あんまりよいので、人形をその儘残して置いてくれ」との注文で、遂に、お名残りの芸題の時再演しました。ところが、この花道を使つた事に対して、都下の新聞の評に、「人形が歌舞伎の真似をして怪しからん」といふ意味の事が出ました。これには、私も少し迷惑しましたが、その言訳(いひわけ)を茲で致しますと、東京で花道を使ふのは、私が知つてからは、今度が最初かと思ひますが、大阪では、以前に度々使つて居た事があり、前にも申したと思ひますが、堀江の明楽座で、『道成寺』の時、古老の豊松清十郎さんが、昔から伝はつて居る型だと言つて、花道から出て居られました。又、『佐倉宗五郎』で、玉蔵さんの宗五郎、私の喜右衛門で、花道の七三ですれ違つた事もあり、今度、花道を使つたのは、私が、独断で新しく歌舞伎の真似をしたのでなく、この辺をよく御了解願ひたいと思つて居ます。
  
  
 翌年[昭和9年]の正月は、津太夫さんの「官兵衛砦(くわんべゑとりで)」が出て、私は、初役の官兵衛でした。この役は、前に、稲荷座で亀松さんが遣つて居られ、注進受けがすんで、官兵衛が焦(あせ)つて鎧を附けようとする信長の出になつて、斬りかける、その息組がとてもよかつたのを、私が見て置いたので、その真似をしようと思つて、大分苦心をしました。この役の演所(しどこ)は、先づあすこだらうと思ひます。
 その五月に、先代紋十郎さんの追善といふので、今の紋十郎さんの八重垣姫に、私が、社長からの御依頼で、勝頼に出ました。
  
  
 この八月二十九日の夜に、私が、芸談を放送しました。これは、その頃、夏の夜の涼み咄しに放送局で、「名人会」とかいふ催しがあつて、各芸の方々が毎夕替つて一席お咄しされるので、文楽では、道八さんも放送して居られました。で、私が放送するに就ては、八月の初めに、東京の歌舞伎座へ行く前から、話があつて、三十分間やつてくれとの注文でした。ところが、御承知の如く、私共は、絶対無言の商売の上に、私が至つて口下手と来て居ますから、他人様の前で、たとへ自分の芸談にせよ、お咄する事は誠に困難な事で、まして、放送といふ この八月二十九日の夜に、私が、芸談を放送しました。これは、その頃、夏の夜の涼み咄しに放送局で、「名人会」とかいふ催しがあつて、各芸の方々が毎夕替つて一席お咄しされるので、文楽では、道八さんも放送して居られました。で、私が放送するに就ては、八月の初めに、東京の歌舞伎座へ行く前から、話があつて、三十分間やつてくれとの注文でした。ところが、御承知の如く、私共は、絶対無言の商売の上に、私が至つて口下手と来て居ますから、他人様の前で、たとへ自分の芸談にせよ、お咄する事は誠に困難な事で、まして、放送といふ事になれば、全国の方に聞えることになり、どうも自信がないやうでしたから、一旦はお断りしました。そのくせ四つ橋の新文楽座が出来て、座から中継で、初めて人形浄瑠璃と云ふものが、ラヂオを通じて全国の皆さんに放送された時、聞えるのは、浄瑠璃だけですから、なんとかして、人形の舞台も放送出来んものかな、と思つたのです。しかし、面(めん)と向つて、私に人形の咄をせよ、と御注文を受けると、やはり、たぢ/\の形でした。ところが、東京から帰ると、その事に就いて放送局の田中さんといふ方が、宅へ度々来られ、「必ず出来ると確信してお願ひしたのですから、是非出て下さい、万事の介錯は私が側に附いて致しますから」との事です。そこで私も、「そないおつしやるのなら、出来るか出来んかわかりまへんけれど、兎に角やらして貰ひまひよ、何分よろしう」と、お引受けしました。そして、その準備に掛つたのですが、最初は、お咄しする事を全部紙に書いて、それを見乍らやらうか、と思ひましたが、さうすると、手紙を読んで居るやうに聞えると、前に御注意がありましたので、結局、要点だけを覚え書きして置いて、それで稽古を始めました。それも、まことに尾籠なお咄で恐れ入りますが、私の習慣として御不浄が長いので、便所へ原稿と、時計を持つて入つて、やつて見ましたところ、全部すんでも、時計を見ると、中々三十分にならないのです。これには、私も非常に困つてしまひました。太夫さんが浄瑠璃を放送されるのなら、時間によつて、抜かすところを前から用意して置いて、その通りやればよいのですが、そんな訳には行かず、始終演説をやつて居られる方なればよいでせうが、私は、全くの初めですから、時間によつて延び縮ましする呼吸が出来ないのです。そんな事を色々心配して居る中いよいよ当夜になつて、早い目に放送局へ行つて見ると、一度テストをやるとの事で、やつて見ましたが、暑い最中で、咽喉が渇くのに、テーブルの上に置いてある水が飲めないのです。つまり、水を飲んで中休みすると、後が出なくなります。又、時間を計る時計が前に置いてあるのですが逆上(のぼ)せてしまつて居るので、時間が見えないのです。そこで、側に附いて居られる田中さんが、「私が最初椅子から立つたら、後十分だと思つて下さい、そして、も一回立つて来たら、五分前と思つて下さい」と言はれるので、さう願ふ事にして、愈々本格のをやり始めましたが、夢中でやつて居たので、何をしやべつたのか自分でわかりませんでしたが、とう/\終り迄漕ぎ附けて、二分前に終り、ホツとしましたが、実に近頃にない大心配でした。
 それに、この日は、二日前から、朝日会館で、女太夫の三蝶さんの会があつて、その勾欄を門造さんからの口次(くちつぎ)で頼まれて、勤めて居た最後の日で、この日の役が、「帯屋」の儀兵衛と、八重垣姫でしたが、放送の為、儀兵衛は遣へず、玉松さんに代りを頼み、八重垣姫だけを勤めたのですが、アノ「奥庭」の、いつも大汗になつてやる狂ひも、放送に比べると朝飯前で、殊にこの時は、大役が済んだ後で、気がせい/\して居ましたから、あつさりと演(や)つてのけましたのには、我ながら、馴れつこだなあ、と思ひました。それから、三蝶さんも、この日、たしか、何か放送があつて、朝日会館と掛持ちであつたと思つて居ますが、これは私の放送した後でした。そして前夜は、曾我廼家の五郎さんが放送して居られたと思つて居ます。
  
  
 九月に、九州方面を巡業しました時、博多の宿が、万来館といふ旅館で、私の部屋は十二畳敷位の広間で、一間の床の間に、間中(まなか)(三尺)程の墨絵のお多福の大幅が掛つて居ます。それが、実によく出来て居て、楽屋入り迄、徒然なるにつけ、眺めて居ると、今にも物を言ひ出しさうで、こちらを見てにこ/\笑つて居ます。其処で、これは面白い、筆数も少く描(か)き易(やす)さうであるから、と思ひ附いて、筆と紙を取り出し、習ひ初めました。もと/\、私が、こんな悪戯(てんご)を初めたのは、この前年位からで、それは、近年お客様方から、しきつて署名(サイン)せよ、とか、何か描(か)け、とかの御注文があるのに対して、誠にお恥しい事ながら、私共は、子供の時から舞台の方が忙しく筆を持つ稽古をする暇(ひま)など全然なかつたのです。そこで、俗に言ふほんとうの六十の手習で、丁度、木版摺の文楽人形絵を書いて居られた斎藤清二郎先生が、よく楽屋へ見えるので、何かやさしい物をとお願ひして、最初、「羽織落しの忠兵衛」を教へて頂いて描(か)いたのが、抑々(そも/\)の病附(やみつ)きでした。それから、二三稽古して、少し興味も出て来たのですが、大して難(むつか)しくないと思つて習ひ初めたお多福は、さて描(か)いて見ると、とても/\難(むつか)しく、紙を何枚費(つひや)したかわからず、滞在中四日間、描(か)き続けましたが、遂に、出来ず終ひで博多を立つてしまひました。
 この最後の日に、大博劇場へ楽屋入りをする時、少し腹痛を覚え「をかしいなあ」と思つて居ると、暫くして下痢をしました。ところが、この時の役は、中狂言の『勧進帳』の弁慶で、手軽に代役といふ訳にも行かす[ず]、大分苦しかつたのですが、無理から押して舞台へ出ました。ところが、段々と苦しくなつて来て、冷汗が出(で)だします。勧進帳を読む間は、やつとの事で勤めたのですが、もう倒れさうになつたので、余儀なく左の扇太郎に代りをさせて、引込みましたが、もう自分の部屋へ行く元気もなく、舞台裏の小道具部屋へ肩衣の儘パツタリ倒れてしまひました。それから大騒ぎになつたらしく、新玉主任などが心配して、お医者様を連れて来て、注射をして貰ひました。ところが、横になつて居る中に、傍の人が、「えらい日に倒れはつたなあ、今日は、高麗屋と松島屋が来てはるのに」と言つて居るのが聞えます。そこで、ハツト気を取直して、これは是非とも出んならん、芸人は舞台で倒れるのが本望といふから、自分もこの儘倒れて死んでもえゝ、と思ひ、「出まひよ」と言ふと、皆がびつくりして盛(さか)んに止めます。それを無理に我(が)を通して、起き上ると、舞台は、チヨンと拍子木(ひやうし)が入つて「返し」になつた処、身体(からだ)は、丁度注射のお薬が廻つた位の処でした。それで、延年の舞から再び出て、花道の六法も無我夢中で勤め果(おほ)せたのですが、近頃一寸ない苦しい舞台でした。後で、高麗屋さんから、御見舞のお詞を頂戴しましたが、高麗屋さんの一座は、この日博多へ乗込んで来られたのだと聞いて居ました。
 博多を打ち上げてから、熊本などを巡(まは)つて、直方(なほがた)に来ました時、十月に文楽は、元祖義太夫の二百五十回忌記念興行を浪花座で演(や)る事になつて、『玉藻前(たまものまへ)』の狐の早替りが定つたと言つて、その舞台装置に就き、松田さんが下絵を持つて相談に来られました。尤も、これは、巡業に出る前に、林さんが宅へ来て、「何か人形の珍しい物」といふ事だつたので、『孫悟空』か、『玉藻前』はどうだつしやろ」と言つて居たのが決定したものでした。
 それから、本州へ戻つて、広島の寿座で九月十九、二十日と二日間打つて、翌二十一日が岡山の乗打興行(のりうちこうぎやう)でこの時に、関西風水害に出遭(であ)つたのでした。
 それは、広島を二十日に打ち上げて、翌二十一日の朝、六時発の汽車で岡山へ乗込む事になつて居たのですが、広島では前夜から硝子など壊れる位の大雨風が、翌朝まで続いたので、皆は予定通り六時に立つといふのを、私だけもう少し様子を見るといつて、次の七時何分かの汽車に乗りました。すると、同じ汽車に錣さんが乗り合せて居たので、一緒に話をして居る中、車掌が来て「旭川の鉄橋が破壊したので、この汽車は岡山迄で打止めます」と言ひます。我々は岡山迄行くのだからよいが、大分水が出て居るらしい、それにしても、この汽車で岡山へ著いてもまだ少し早過ぎるから、途中、金光様へお詣りして行きませう、と相談が纏まり、荷物は錣さんのお弟子に頼んで(丁度岡山の旅館も、錣さんと一緒になつて居ました。)、途中下車して参詣をすませ、次の汽車で岡山の駅へ著いて見ると、何だか人がざわ/\と騒いで居ます。「火事かしらん」などゝ言つて居ましたが、どうも水らしい。駅前には自動車も何もなかつたので、そろ/\旅館の方へ歩いて行くと、向ふから玉松さんと鏡太夫さんが、尻からげをして来るのに逢ひました。そして私達を見ると、「あかん/\、えらい水や、芝居も出来へん、あんたの旅館の処(とこ)へも水が来てまつせ、私(わて)らは、これからもう帰(い)ぬのや」と言ひます。それはえらい事になつて来た。まあ兎に角行つて見ようと、旅館の前まで行くと、成程、前は水で一杯、上るどころではありません。
 仕方なく、又駅へ引返して来ましたが、朝早くに、広島の宿で御飯を喰べたなりでしたので、大分お腹(なか)が北山(きたやま)になつて来ました。と言つても、こんな際ですから、何処へ上らうとか、何処が美味(おい)しいとか、そんな事は言つて居られず、駅の近くの簡易食堂に入り、一口飲んでお寿司を注文しました。その間に考へて見ると、これは、この先どうなつて来るかわからん、こんな時には少し食量を余分に蓄へて置いた方がよい、又、他人にも上げられるから、と思つて、お寿司を余分に買つて、勘定を言ひますと、店が水で騒ぎ立つて居て、勘定どころではありません。それを無理やりに支払をすませて、又駅へ戻つて来ましたが、待合室で二時間程待つて居る間に、トラツクで市民が沢山避難して来ます。それは、駅前が少し高台になつて居るからなのですが、もうその駅前へも水が来て居て、さつきに食事をした店も、水に浸(つか)つて居ます。その中に軍隊が出動して来て、戦争に使ふ鉄の船を持ち出し、それを瞬く間に組立てましたが、その船がもう浮いて居るといふ有様です。間もなくして、駅長が出て其[来]て、「皆さん、今夜岡山でお泊りの方は、下(しも)へ戻つて下さい。岡山の旅館は、電気も点(つ)かず、食事も出来ませんから。上りの乗車券をお持ちの方は払戻しを致します」と触れて居ます。そこで、私も大阪行の切符を払戻して貰つて、さつき金光様へお詣りした時に、見て置いた金光駅前の旅館へ行かうと思つて、金光行の切符を求め、行つて見ると、其処(そこ)へは水は来て居なかつたのですが、電気はなく、蝋燭を点(とも)して居ます。大阪へ電報を打たうと思つても打てない。部屋が二階の表の間で、玄関の前で、青年団が岡山へ食量を送るとか言つて、夜中わあ/\と騒いで居るので、一寸も眠れないのに弱りました。
 翌朝になつて、宿の女将(おかみ)に、「大阪へ帰るのは、どうすればよいか」と尋ねると、「尾の道から船が一日に二回出ますが、こんな際ですから、臨時の船があると思ひます」と言ひます。船は、私に取つて大禁物ですが、そんな事は言つて居られず、兎に角行つて見ようと、尾の道に著いたのが十一時頃でした。そして、船著場(ふなつきば)へ行つて尋ねて見ると、「臨時なんか出ません。次の船は三時です」との事です。で、「大阪へは何時(なんじ)に著くのですか」と言ふと、「明朝の八時で、神戸へは夜明け頃です」と言ひます。これはとても叶はん、第一今から三時迄待つのが大変だ、しかし、汽車が不通とあれば仕方がない。それにしても、もう一度岡山へ帰つて見たら、未だ誰か残つて居るかも知れん。岡山へ帰らうか、船に乗らうか、どうしよう/\。丁度、「羽織落し」の忠兵衛張(ば)りで、思案しながら、船著場と駅の間をうろ/\して居ましたが、一つ占(うらな)つて見てやれと、小銭でやつて見ると、岡山へ帰る方が出ました。そこで、又、岡山迄の切符を買つて汽車に乗りましたが、車中で考へて見ると、岡山へ行つたところで、昼御飯に困る、これは何とかせねばいかん、と思ひ、又、金光で下車して、もう一度さつきの駅前の旅館で昼御飯を食べ、岡山へ向ひましたが、汽車が駅へ入らうとする時、何げなく左の方を眺めると、向ひ側のホームに『勧進帳』に連れて行つたお囃子の連中の顔が見えます。しめたツ、と思つて急いで降(お)りて、その方を見ますともう見えなくなつて居ます。すると、今度は、大隅さんが、お弟子を連れて階段を昇つて来られるのが見えましたので、大声で、「大隅さーん」と呼ぶと、聞えたらしく、手招きして、「こつちへおいなはれ−」と呼んでくれましたので、大喜びで向ひのホームヘ渡ると、前川さんが、「あんたどないしてなはつてん。探してましてんが、まあこれに乗りなはれ」と、其処に著いて居た汽車に乗つたのですが、一杯の人で、二等も三等もありません。が中には、新左衛門さんや道八さんの顔も見え、光之助と栄三郎とが、私の荷物を持つて乗つて居ます。これでやれ/\と思ひましたが、「いつたい、これは何処へ行きまんねん」と尋ねると、宇野から団体の為の特別仕立の船にお相伴させて貰ふとの事でした。
 斯くして、やつとの事で、しかも岡山の駅で何気なく左の方を眺めた為、一座の者と一緒になる事が出来、安堵の胸を撫で下ろしたのですが、宇野からの船といふのが、今申す臨時のもので船長が新米(しんまい)で、方角がハツキリわからずに、多分この位でよからうと言ふやうな事で、船が走つて居るのです。それに、三等室が上で、団体や、一座の下廻りの者で一杯で、階下の二等ががらがらですから、船が頭勝ちになつて居て、危い事此上なしです。又、この船中で、大阪が大風で天王寺の塔など倒れて、殆んど全滅とかの号外を見たのですが、この時分は、颱風の後の、極めて静かな天気で、よい月夜でした。それから、那波(なば)といふ小さな港へ著いて、港から汽車の駅迄連絡のバスが通つて、船のお客をすつかり運んでしまつてから、夜九時頃に那波の駅を汽車が出ました。そして、大阪へ著いたのが十二時五分です。家へ帰ると、汽車が不通で帰らぬものと思つて居たところでしたから、幽霊が帰つたのかと思つた、と家内が言つて居ました。
 後で聞くと、岡山劇場の興行は、二日間前売で満員になつて居たとの事でしたが、水の時間が早かつたので、災難を遁れた訳で、お客を入れてからだと大事になるところでした。栄三郎などが楽屋で用意をして居る内に、もう水が入つて来たので、荷物を全部二階へ上げたさうで、大事の頭(かしら)や衣裳も助かつたのですが、奈落へ落ちる水の勢は、実に凄いものだつたと言つて居ました。
 旅から帰つて、十月は、浪花座で元祖の年回の記念興行でしたが、風水害の後でしたから、初日が延びました。この時に、『玉藻前(たまものまえ)』の狐の早替りをやつたのですが、これは私が文楽へ入る前に、親玉さんがやられたなりで、一寸も出なかつたもので、今度は、四十年振りで、勿論、私も知りませんでしたが、文章を研究し、少し書き直して貰つたりして、花道のスツポン(註八十九)なども使つて勤めました。又、会社に親玉さんが使つて居られた狐の頭(かしら)が残つて居ましたので、それを門造さんの処の人形師の大江美之助(みのすけ)さんに修理したり、胴体を附けて貰つて、舞台で使ひました。
  
  
 その翌年[昭和10年]の三月、古靱さんの出し物で、『信州川中島合戦』の三段目「直江館(なほえやかた)」が出ました。これは、全く久々との事で、私共は皆、勿論初めてゞしたが、私の遣つて居る勘助の立廻りが、「文句立廻り」(註九十)になつて居るので、常に文句一杯に科(しぐさ)せねばならず、大分苦心をしました。それから、この時、もう一つ新作の『修善寺物語(しゆぜんじものがたり)』が出て、夜叉王(やしやわう)を遣ひました。床は駒さんでしたが、新作ですから前例がなく、頭(かしら)を定めるのは、下稽古の時、駒さんの語り口を聴き、又相談して、「正宗」(註九十一)にしました。
 六月に、又九州方面の旅があつて、博多の宿が、前の通り万来館で、この前描(か)けなかつたお多福を完成しようと思つて楽んで居ましたところ、この時は、その部屋が塞がつて居て入れず、その儘博多を立つてしまひましたのは、返す/\も残念でした。
 それから、翌七月に東京へ行き、その間から、八月に、在満同胞慰問興行の為、満洲巡業の話があり、大阪へ帰つてから、津太夫さんなどは、私にしきつて勤めて居られましたが、途中の船と、向ふでの食物の事を考へると、どうも行けさうにないので、誠に残念でしたがお断りしました。
 その暮に、再び九州巡業があつて、又、博多の万来館へ行きました処、今度は折よくお多福の掛物の部屋へ通されましたので、今度こそは、と思つて一生懸命に習ひましたら、稍形らしい物が出来上り、もうそれ以上根(こん)が続きませんので、それで出来た事にして置きました。誠にお恥しいものですけれど、御笑草に御覧願ひます。(写真参照)
  
  
 翌十一年の初春興行、『菅原』の時、弟子の栄之助が亡くなりました。この栄之助は、昭和五年の夏に入門して来た者で、丁度、前の栄之助が居なくなつて居ましたから、三代目をつがせたので、私の口から言ふと手前味噌になりますが、芸の筋はよい方で、あの儘行けばそこ/\になる代物(しろもの)でしたが、惜しい事をしました。お正月の初めから風邪を引いたと言つて休んで居たのですが、七日頃に出て来ましたので、「無理したらいかんで」と言つて居ましたのに、十日戎(とをかゑぴす)に、皆と一緒にお詣(まゐ)りして、風邪を引き直したのが致命傷で、十六日の朝、家へ電話が掛つて来たので、夫婦連れで行つて見たら、もう事切れた後でした。ところで、この栄之助が、私の処へ入門するに際して何時迄も子供でなし、検査まで家に預けると言ふなら弟子にする、といふ条件を附けました。尤も、これは、私も生きて居り、本人も続ける意志があつての上の事でしたが、本人もこれに賛成して、励んで居るやうでしたから、そこで、総てを私が監督する事になつて、芝居のお給金は、私の手から二度に割つて渡す事にし、その中、五円宛毎月母親の許へ持つて行つて居ました。そして、その残りは、芸名で郵便貯金をさせ、外に御祝儀などの収入は、本名で貯金させ、つまり通帳を二冊にしてその通帳も印も皆私が預つて、五年間経(た)つたのでありますが、丁度、貯金の額が、千三百円余になつて居ましたので、私が、栄之助の棺の前へ供へてやりましたら、皆の者がびつくりして居ました。それは、あの子も、この貯金を非常に楽しみにして居て、貯(たま)つて居た金額を親にも言はなかつたらしいのでした。いつたい、私の弟子の中で、かういふ事をさせたのはこの子が初めてゞ、それは、近来つく/\自分の経験から考へて、芸人は、稍もすれば締(しま)りのない生活に流れ勝ちで、二十歳になつて、女房を貰つても、がつちりした家も持てず、女房を貰へば子供が出来る勘定で、益々やつて行けないから、借金をするといふ段取になるので、今迄はそれでよかつたかも知れませんが、これからの時世ではそんな事は出来ないと思ひました。
そこで、今お話したやうな方法で、僅かでも金が纏れば、家も持ち、女房の内職として何か小商(こあきなひ)でもすれば、生活の足(たし)になると思ひましたから、栄之助に試(た)めさしたやうな訳なのですが、今後はさうでもしなければ、世間が通用しないと思ひます。まして、我子でなし、他人様の子供を預るのですから、どうでもよいといふ訳には行きません。あの子も、非常に楽しみにして、一生懸命励んで居たのですのに、丁度、約束の検査の年の正月、親の許へ返す今はの際(きは)で死んだのは、返す/\も残念でたまりません。この事は、朝日新聞に美談であるとかいつて、大きく出て居ましたが、私も、大分力を落しました。
  
  
 翌二月は、北陸から信州方面の巡業でしたが、松本の乗打の日は、丁度節分で、大雪の日でした。で、最初の錣さんの「白石揚屋」が始つたのですが、お客がたつた二十八人程より来て居らず、その日は、荷物が著かないと言つて帰つて頂きました。その朝、大阪から、扇太郎が死んだと言つて電報が来ました。扇太郎は、だいたいは玉五郎さんの弟子で、前名を玉作といつた者でしたが、玉五郎さんの歿後、ずつと私の処へ来て居て、弟子同然にして居り、最近では、大物(おほもの)の左(ひだり)は、ずつとこれに遣はせて居たのですが、先月に、漸く足遣ひが出来かけて来た栄之助に死なれ、又、左の扇太郎を失ひ、手と足をもぎ取られました。で、これも、私の口から言ひにくいのですが、扇太郎の死は、一座の者から非常に惜しまれて居ました。又、最近、東京の井上専務の目にも附いて居り、近々名前替へをする事になつて居たのでした。
 五月に、広島を巡業して居ました時から、奥歯が痛み出して、大阪へ帰つてから、阪大の弓倉先生に診(み)て頂いて居ましたが、持病の骨膜が再発しかけて居て、時機を見て悪い歯を抜かねばならぬとの事でしたが、芝居は、丁度、新作の「連獅子(れんじし)」が出て居て、その稽古があり、会社の方からは手術を待つてくれと言ふし、大分困りましたが、十一日目に歯を抜きましたら、後で、衰弱の為、身体がえらくて、仕方なく光之助に代りをさせて四日間休みました。
 次の七月は、無理して出れば出られぬ事はなかつたのですが、『夏祭』が出て居て、出れば団七を持たねばならず、殊に、今度は、「泥場」と、「田島町」もあるので、用心をして休みました。
  
  
 それから、翌年[昭和12年]の四月、又病気で芝居を休みましたが、今度は風邪を引いたのが重くなつたので、内科の病気で寝たのは、これが殆んど初めでした。
 そして、次の五月は、土佐さんと吉兵衛さんの引退興行で、その口上に出なければならない事になりましたが、病後でしたから、長くお辞儀をして居るのがとても骨でした。
 その引退興行を、早速東京へ持つて行くといふので、六月に上京して明治座へ出ましたが、この東京行は、お医者様は止めて居られたのでした。この時の最後の替りが、『忠臣蔵』で、初役の師直を遣ひました。これは、何時も『忠臣蔵』が出ると、由良之助と勘平の二役を持つ事になつて居たのですが、この二役は、替る/\に出て、ほんとうに御飯を頂く暇もない程忙しいので、病後でしたから、前以て断つて置いたのです。すると、師直が来たのですが、こんな役が来るとは夢にも思つて居なかつた全くの初役でした。だいたい、師直の頭(かしら)は「大粒(つぶ)の舅」と言つて、「盛綱陣屋」の時政などに使ふもので、この種の頭(かしら)を手にするさへ、全く初めてゞしたから、一旦は断りましたが、「今度は、『殿中』は古靱さんですから是非」との事であつたので、遣ひましたが前日に、古靱さんが部屋へ見えて、「今度は、要(い)らん入れ言(こと)は言はず、笑ひも少く致しますから、そのお積りで」と言つて居られました。そこで、私も、初役に附け、従来、中啓や何かで判官の身体に触つて居た科を全部廃め、判官には一切手を触れずに遣つて見ましたが、この時の古靱さんの「殿中」は、品(ひん)も貫目(くわんめ)も備(そな)はつた、近来に無い結構な「三段目」でした。
 その翌月は、帰阪して四ツ橋で演(や)りましたが、八月から文楽座は、日支事変のニユース映画を興行して居ましたから、我々の盆替りは名古屋で開け、その時、前川さんが、「十月は、大阪へ帰るが、四ツ橋ではニユースをやつて居るから、北陽演舞場へ出てくれ」と言つて来られました。我々として、自分専用の家が有りながら、それを映画に横取りされて、借家住ひするなど、誠に心苦しい思ひでしたが、外の事とは違ひ、事変の為なら致し方もない、と覚悟をしました。
 その後、京都の弥栄(やさか)会館や、新町演舞場へも出勤し、翌十三年のお正月にも帰れず、五月になつて久し振りで懐しの我家へ帰つた時は、ほんとうに嬉しう御座いました。
  
  
[註]
 八十八 【旧近松座】 現文楽座の位置にあり、人形浄瑠璃の劇場にて、旧彦六座系の人々に依り明治四十五年一月十三日開場されたものにて、大正四年には一時休座、同五年一年間は、首振り芝居を興行せしむ、同年十月瓦解。
  八十九 【スツポン】 劇場の舞台下より、機械仕掛けで、舞台上へせり上る穴。
  九十 【文句立廻り】 人形芝居の(歌舞伎も)、立廻りは、概ね、床の浄瑠璃を止めて、メリヤス(前述)にて演ずるものなれど、メリヤス無しに、床の浄瑠璃の文句に、立廻りの科が全部書かれて居て、それに合して立廻りする事。
  九十一 【正宗】 「新薄雪」の五郎政宗、合邦等に使用する頭。
 
 
 一三、芸談(述者対編者の一問一答)
 
 
問  これで、あなたの生涯の苦心談は、一通りすみましたが、終りに、「芸談」といふやうな方面のことを、もう少しして頂かんなりまへんが、これは、お望み通り私の方から尋ねさせて貰ふことにして、先づ、御趣味といふやうな所から、どうでつしやろ。
答 それは、昔からずつと続いたる趣味ちうもんはおまへんね。前に色々お話した中でゞも、おわかりやろと思ひまんが、子供の時から舞台の方の用事が忙しうて、所謂、星から星へ働いてましてんさかい、楽しみやとかへ手を出す隙が皆目おまへなんだ。それでまあ、四十過ぎてから碁を少し打つやうになりましたが、これは、玉次郎はんが、家へ来て教へて呉れはつたもので、むろん、他人さんの前で打てるやうなもんやおまへん。
 それから、絵の事は、前にも申しましたが、これも、眼鏡をかけてから教はつたもんだす。
 
問  上り物でお好きなもんは。
答 洋食、肉類は一切いけまへんねん。昔の純日本料理だんな、中でも天婦(ぷ)らが大好物で、東京へ旅に行た時でも、宿の関旅館で、二十日の内十八日程、注文して揚げて貰ひました。それでも身体はどないもおまへなんだ。同じ揚物でも、それがフライとなつて来ると、もう一寸工合が悪うおます。つまり、パタ臭いもんが禁物だんねん。
 それから、枝豆も大好物で、旬(しゆん)になると、毎日お膳に附けて貰ひます。晩酌は、芝居から帰つてから毎日やりますが、だいたいは、二食(じき)で、芝居中でも、楽屋では殆んど何も食べまへん。そやさかい、これ迄胃を壊(こは)した事は一回もおまへんし、その外、内科の病気を、殆んどした事がおまへん。外科では、骨膜を煩らうて酷い目に遇ひましたが、松竹さんになつてから、三十年程になりまんが、その間、二十日位しか休んだ事がおまへん。
 
問  調査みたいになりまつけど、御信仰の方は。
答 家の宗旨は浄土だすが、十年程前から、相生さんに連れられて、土佐堀の金光さんの玉水教会へお参りして居ります。それ迄は、唯、商売のみを一生懸命に励んで居て、何様にお縋りしたといふ事はおまへんなんだが、今では、商売の事も、大先生からお指図を受けて、お蔭を頂いて居ります。
 
問  さうすると、今度は芸のお話へ移つて、いつたい、どんな役が難(むつか)しおまんねん。
答 それは、だいたい私はな、御覧の通りのちんぴらで、非力だつさかい、今みたいな大物を持たんならんといふ事を考へてまへなんだ、他人様のを見ては居ましたけど、それが、万止む得ず、こないなつてしまうたんだす。さうなると、商売の事だすさかい、勉強せんなりまへん。そこで、好き嫌ひは別として、勤めて居て身体に応(こた)へるのは、「四段目」の判官、尾上、重兵衛、良弁、「道明寺」の相丞はん、「茶屋場」の由良之助、板額といふやうな所だす。殊に、尾上はとつてもえろおます。政岡も、政岡だけの役はおますけど、当てられます。尾上を当てたらお客さんに笑はれまんがな、この間も、東京で尾上を遣ふた時、左が栄三郎で、足を玉男に遣はしましたら、両人共初めてゞ、ふら/\になつて居ました。別に人形が重いといふ訳やおまへんけど、真(しら「ん」)からお腹(なか)に応(こた)へます。又さうせんといかん物だす。
 それから、重兵衛、これもえろおます。商人であつて、「武士も及ばぬ丈夫の魂」と文句におますさかい、性根が座(すわ)つてんといかず、総てが演(や)り憎(にく)い役だす。それに、いつたい、ぼけ和(やつ)し、歌舞伎の方でいを二枚目で、治兵衛、忠兵衛ちう処は、やんわりと行かんなりまへんが、下手に行くと女になつてしまひます。やつぱり、男は男だけの筋道を立てゝ、その上でうんねりと行かんならんのが、難(むつか)しおます。
 それと、この頃私の持役になつて居る熊谷、これは、私が非力やさかい、えらいのやろと思うて居ますが、取り分け「組打」がえろおます。具足(ぐそく)で、ウレヒといふのが、とても演りにくいところで、「三段目」とは、息がまたころつと違ひます。総じて、お客さんのよう目に附く役は、演りよいもんだす。
 それから、こら役と違ひまつけど、「人形を小さく拵へて、大きく遣へ」といふ事が、昔から私共の中で喧しい教へになつてますが、これが中々腕が出来て来んと遣へんことだす。
 
問  そんなら、お好きな役は。
答 「寺小屋」の源蔵、重兵衛、板額、尾上のやうな処だんな。
問  お嫌ひな役は。
答 えらい言ひにくうおまんな、そら商売の事やさかい、よう捨てまへんが、おます。大役処(どこ)では、「十段目」の光秀が嫌いだす。役が附けば、一生懸命に演(や)つては居ますが、非力の所為(せゐ)かどうも気乗りがして来まへん。同じ役処(どこ)でも、熊谷はそやおまへん。それから、「御所桜」の弁慶、「出立」の源蔵、あんまり好きまへんな。
 
問  それでは、まだ遣ひはつた事のない役で、遣ひ度いなあ、と思ひはる役は。
答 それは、第一に、「薄雪」の兵衛だす。あれを、一遍研究して見たいと思ふてまんねん。きつと皮肉な役に違ひおまへん。もうたいがい遣ひましたがなあ。
 
問  『忠臣蔵』の中で、遣ふて居はらへん役は。
答 定九郎に、顔世、本蔵もまだゞすわ。本蔵も、「九段目」だけなら遣ひとおまんな。
 
問  それから、『妹脊山』の定高もまだゞつしやろ、あれはどうだす。
答 定高の事は、これ迄あんまり考へた事がおまへんが、「山」の掛合の四役の中なら、久我之助(こがのすけ)が一番好きだんな、こら前にも遣ひましたが、何処を遣ふといふことやなしに、満開の桜で、渓河(たにがは)に面した亭(ちん)の中で、無量品(むりようぼん)を読んでるといふ、気分がよろしおますがな。それから、これも前に一回遣ひましたけど、「疱瘡子(はうさうご)」の重太郎もよろしな。
 
問  それから、動物を遣ひはんのは、何処が難しおますねん。
答 まあ動物といふても、主に狐だすな、狐は、何ちうても親玉はんが名人で、その為、道を歩いてはつても始終犬に目を附けて研究してはつたさうだす。今でこそ、動物園ちうもんがあつて、街中(まちなか)で狐を見られますけど、昔は動物園があらへんよつて狐が見られまへなんだ、そこで、犬で研究しやはつたと見えまんな。蹲(うづくま)つてる時の恰好や、もの喰べてる時、始終見てはつたと聞いてます。私は、不幸にして、親玉はんの狐は、『廿四孝』の「奥庭」だけより知りまへんね。私が、文楽へ入つてからは、『玉藻前』も出ず、『千本桜』でも、忠信は、もう二代目はん(二代目玉肋、後二代目玉造)が遣てはりました。しかし、何ちうても、狐の大将は『玉藻前(たまものまへ)』で、あれは、普通の狐と違(ちご)て、そつぽうも大(おつ)けえて、口も開(あ)く、金毛九尾の狐になつてます。それで、「梅壷」といふ場が、あの狐の身上で、それは、十作の娘の亀菊−安倍秦成の許嫁になつてまんねん−これが縛られてゝ、それを狐が喰ひ殺さうと思ふて飛びかゝつて行くが、傍に獅子王(しゝわう)之剣(つるぎ)が置いたつて、その威光で寄り附けまへんね、それをまたしても飛びかからうとする処が、とつても凄かつたさうだす。
 そこで、こんなんは別として、普通の狐で難しい処ちうのは、犬や猫と違ふて、キヨト/\してまつしやろ、其処に一寸苦心が要りまんな。
 
問  それでは、一寸方面を変へて、人形で演(や)る踊りとか、歌舞伎風のものに就いてのお考へは。
答 今では、歌舞伎で所作事が流行して居て、大がゝりな事を演(や)つてはりますれども、以前はそやおまへなんだ。まして、大阪には清元などなかつて、人形の方でも、文楽や彦六で、一流の長唄を呼んで来て、出囃子にして、その頃の歌舞伎位の事をしますと、お客さんは、「人形でようあれだけ出来たもんや」と、賞めて呉れはつたもんだすが、今では、もう追付きまへん。
「勧進帳」や、「連獅子(れんじし)」を、今文楽で演(や)るのは、亦別だすけれど、私も、もう所作物では大して凝(こ)る根気もおまへん。
 
問  いつたい、一人前の人形遣ひになるのは、何年位掛りまんねん。
答 それは、何芸に依らず、辛抱して、慎みに慎んで修業せんとあきまへん。それで、一人前の人形遣ひになるには、何年掛るかといふお尋ねは、誰方からもようあるお尋だですが、これは、だいたい、器用無器用に依ります。それと、身体の大きい小さに[い]とに、足遣ひは、小さい方がよろしおますが、左は、大きい方が便利だす。先年亡くなつた冠四さんといふ人は、六十頃まで足を遣ふて居はりました。又中々上手でした。また前にも申しました、先代紋十郎はんの左遣ひの亀三郎はんは、左の名人でした。親玉はんの左遣にも、玉朝(たまてう)はんといふ人が居はつて、中々よう遣ふて居はりました。こんな方々は、別だすけれど、やつぱり、役を遣はんといきまへん。それが、どの位で遣へるやうになるかは天性だす。まあ、足一つで、少くとも五六年は見とかんなりまへん。それに、景事の足が殊に難(むつか)しいて、これが一通り遣へたら、まあ足は卒業でんな、うちの栄三郎なんか、入つてからもう十年余になりまんが、次の栄之助が死んだりして、まだ足を遣ふてます。それに前にお話し申しました「勧進帳」の足で、あれが御褒美を貰たりしてまつさかい。「勧進帳」が出ると、弁慶の足は、いまだにずつとあれが遣ひます。すると、まあ十年は見とかんなりまへんな。
 
問  今度は、「人形の構へ」といふ事に就いて伺ひとおますな。
答 それは、第一に肱を脇腹へ附けたら、形が崩れます。これを最も注意せんといかんので、肱を後へ引くさかい。人形の上半身が前へ傾いて、恰好が悪くなります。しやんと張つてこそ若男(わかをとこ)になるので、弁慶でも、腰がかゞんでは丸でヌケてしまひます。それと、我々が楽屋で、腰が高いとか低いとか言ひやいをしてますが、座(すわ)つた時の腰の位置の事で、これが亦中々大事だす。腰が浮いてると、人形が強くどつしりと見えまへん、と言ふて、下過ぎると、へちやばつてもてどうもなりまへん、その中間を行かんならんのだす。それと、もう一つ、「ツキアゲ」といふもんが、中々人形の姿に関係して来ます。これを上手に使ふのは、中々修業が要ります。
それから、「チヨイ」と言ふて、これは頚を動す糸ですが、これの引き加減によつて、人形の魂が変つて来ます。力が入つて来ると、遂強う引張りとうなるもんだすが、これが亦、手頃やないと、人形が空向いてもて阿呆になつたりします。
 
問  人形の腹といふ事は。
答 それは、ちよつと口で言ひにくおますな、見た上でのお話でつさかい。しかし、兎に角自分が、その役の気持になり切らんと、腹が現れまへん。さうなると、ものに依つては、断然黒衣(くろご)やないと十分遣へんもんがおます。重兵衛がそれで、あれは、奥半分は、泣きたい位の腹で演(や)らんと品物になりまへん。黒衣(くろご)の時やと、奥は泣顔して遣(つこ)てますけど、出遣ひやと、顔が見えまつさかい、お客さんにさうをかしな顔も見せられしまへんがな、そこで、とうない行くにくおます。
 
問  さうすると、品(ひん)といふ事は。
答 これも口で言へまへんけど、だいたい、昔からの教へとして、一クサリに振りが十あるなら、八つにして遣へ、と言ふたります。まあ役に依りますけど、さうすると、大間(おほま)になつて来て、その辺から品(ひん)といふもんが出るのやおまへんやらか、お姫はんなど殊にさうだす。
 それから、チヤリ物、歌舞伎の方でいふ三枚目だんな、「帯屋」の儀兵衛、「大文字」の権八、「明烏」の彦六、「笑薬」の祐仙など、あれもあんまりこせ/\すると下品になります。つまり、役には品(ひん)が無うてもよろしおまんねんけど、芸に品が無いといきまへん。それには、殊にあんな役やと、遣ふもんが、逆にうんと真面目にならんといきまへん、遣てる方からふざけて掛つたら、とんと悪落ちがしてしまひます。私が、よう万歳を聴きに行つて感心しますが、あれ、面白い事許り言ふて、わあ/\笑はしてはりまつけど、演つてはる方は真面目で、一生懸命だんがな、其処で、ほんまに面白うなつて来るのんやと思ひまんな。
 
問  成程なあ。えらい難しい事許り尋ねまんが、貫目(くわんめ)はどうだつしやろ。
答 さあ、口でどう言ふたらよろしのやら、これは自分の力だけでは行きまへんわ、天然に備はつたる、と言ふもんか、心掛けと言ひまひよか、何れにしても、落附きが第一だす。太夫さんが、冒頭(まくら)一枚語りはる内に、大体その人の力量が解(わか)ると同じ様に、人形も、最初横幕切つて出た瞬間で、その人の値打がわかります。この時の足取なんかゞ肝腎だすな。
 
問  今度は、役の解釈に就いて伺ひまひよ。
答 それは、だいたいは、他人様から聴いたり、文章を調べてやるのだすが、近頃は、理窟詰めの世の中になつて、解釈がえらい喧(やかま)しなつて来ましたので、とうない演(や)りにくうおます。学生はんが見に来やはつても、それ相当の理窟を言ひはりまつさかい、叶ひまへんわ。いつたい昔から「狂言綺語(きやうげんきゞよう)」といふ事が伝はつて居ますさかい、理窟では、芝居がして行けまへん。中でも、斬り合ひやとか、クドキは、随分理窟に外れてます。早い話が「太十」の皐月(さつき)、あれでも考へて見たら、大分をかしな事で、あの白髪の婆さんが、横腹を鎗で突かれてるのに血気盛りの重次郎より長生きして、おまけに、「主を殺した天罰−」などの、若い達者な太夫さ[な]んぞ力一杯語りはつても、まだ息の続かんやうなえらい節が附いたるクドキだんがな、これなんかは、理窟も何も有つたもんやおまへん。そやけど、「太十」で受ける処は、一番に彼所(あこ)だんがな、あれを、理窟通りに、婆さんの今はの際(きは)の息で演(や)つたら、節附(ふしづ)けちうもんが皆目(かいもく)無いやうになつてしまひまんがな。そやさかい、あんまり理窟で責められると、芸当といふ事が出来んやうになります。
 それでも、中には只今では、昔からの型でどうしても行かんものもあり、色々と御注告を入れてるものもあります。それで、近頃、私が舞台で演つてるものゝ中で、昔のと大分違ふのがおます。一番に、与次郎だんな、あれはえらい変へて遣てますわ。又、あれを、昔の振り通り演(や)つたら、今の劇評家の先生方にどないボロクソに言はれるやらわかりまへん。その外、「御所桜」の弁慶、源蔵、熊谷、重兵衛など、ちよい/\変へてます。松王も、「首実験」の所、これ迄は、「相違なし」で、直ぐ首桶の蓋をしたもんだすが、さうすると玄蕃(げんば)から怪しまれる、と私が解釈を下して、「相違なし」と言ふたら、そのまゝにジーと玄蕃の方へ目を曳いて、同時に腹を遣ひ乍ら、玄蕃の「出かした/\」を聴いてから蓋をする事に改めました。これは、私の型でんね。
 
問  それでは、芸道に対するお心掛けを聴かせて頂きまひよか。
答 私等の方は、太夫さんの方と違ふて、書いたもんが一切おまへんさかい、色々な方の舞台を見といて、それを頭と胸に納める不断(ふだん)の心掛が専らだす。それに、我々が、芸をお客様なり、お仕打さんから認めて頂くのは、大概代役の時だつさかい、その代役を上手に勤めるにはやつぱり平生(へいぜい)よう見とかないきまへん。一にも二にも常々からの心掛けだんな。
 
問  お弟子へ対するお諭し言(ごと)を伺ひとおますな。
答 私達の若い修業時代とは、時世は違ふと雖も、修業と言ふ点には、今も昔も変りはおまへん。やつぱり、年の行つた者の言ふ事をよう聴く事が肝腎だすな。つまり、遣ふ教へと講釈をよう聴いとかんといきまへん。近頃は、それがどうやらすると、年寄を排斥するやうな風が見えますが、そんな事では、将来頭が上りまへん。何れは自分も年寄つて来まんが。それに、我々の方は、太夫さんの方と違つて、化物(ばけもの)が出来まへんさかい、猶更年功者が必要になつて来まんねん。この間、ラヂオで、大島伯鶴さんが、「大久保彦左衛門」の講釈をしはつて、年寄を大事にせんといかん、と言ふ事を言ふてはりましたが、あれは、ほんまにえゝ事を言ふてはりました。私の処の若い者に聴かしてやりたい、と思ひ乍ら、一入(ひとしほ)耳を傾けて聴いて居ました。
 しかし、考へて見ると無理もない事もおます。まあ仮りに、近頃よう楽屋へ、「写真を取りたい」と言ふてお越しになりますが、こつちも宣伝になると思ふもんやさかいに、舞台からやれやれと帰つて来た弟子に、汗を拭ふ暇(ひま)もやらずに、「おい一寸これ持ち」と言ふて、やらすのは、我が弟子と言ひ条、誠に気を遣ひます。それで、出来上つた写真に出てるのは、私の顔だけで、左や足遣ひなんぞは、縁下(えんした)の力持ちだすさかい、こんな勘定の合はん事はおまん。そら不平は、尤もだすけど、そこは、慎しんで、将来の為思ふて辛抱せんといきまへん。私も、それを何遍となくやつて来ましたんや、そら昔だつさかい写真は撮らしまへんけど、私に限らず、文五郎はんや、玉次郎はんも皆、この類の辛抱はして来はりましたんや、で、何れは、今の若い者も、順送りにさうなつて来まんのやさかい、その辺はよう考へんといきまへん。
 それから、弟子の役に就いて、私から会社へ口入れをするといふ事は、一切せん事にしてます。そら、私から頼んだら、役は呉れはりまつしやるけど、さうすると、その役は、弟子が、自分の腕で取つた役やないので、私の取つた役だんがな、と言ふて、私が、弟子の死ぬ迄附いてえしまへんさかい、結局、弟子の為に悪い事だす。自分の役は、自分の腕で取らんいきまへん。又会社も、腕が出来て居れば、認めて役を呉れる筈になつて居ます。現に、私が、師匠無しだしたさかい、その調子で今日迄来たのだす。で、弟子には、常に、「自分を見習へ」と言ふて聴かして居ります。
 それから、丁度、弟子の事を尋ねて頂きました幸(さひはひ)に、私の弟子の、光之助、栄三郎の事は、私が死にました後々も、あんさん何処(どうぞ)よろしうお願ひ致します。そら内輪の修業は、修業でせんなりまへんけど、又、御覧になつた上での御注意が、我々どもには薬だつさかい。
 
問   いや、こら恐れ入ります。
 若い者へ対するお考へ、一々頓と御尤だす。それでは、今度は、古来の名人の事に就いて、少しお話を。
答  世に、「上手は沢山あるけれど、名人は少い」といふ事が言ふてあります通り、名人は少いもんやと思ひます。それに、誰方(どなた)でも、人間である以上は、必ず長所短所がありまして、それは、私自分でよくわかつて居ります。して見ると、自分には気が附きまへんけど、私にも、仰山短所がある筈だつさかいに、その私の口から、他人様の芸を、とやかう言へまへんがな、で、これは、一切お客さんにお任せします。又、昔のえらい方は、太夫さんの方へ、よう小言を言ふて居やはりましたが、私は、自分に力がないと思つてまつさかい、それはしまへん。
 
問  成程、これも御尤だす。では、ちよつと方面を変へまして、楽屋の風習といふやうな事に就いて何か。
答  さあ、色々おまつけど、役に依つて人形をお祀(まつ)りするもんは、菅相丞(くわんしやうじよう)、宗五郎、お岩なんかで。お岩は、だいたい江戸のもんだつさかい、こつちではあんまりやかましい言ひまへんが、相丞はんは、一番厳にお祀(まつ)りして居ります。
 それから、舞台の方式としては、人形を舞台へ持つて行くのは足遣ひ、舞台下駄と、小物の責任は左遣ひになつて居ます。これは、舞台で、小物は万事左遣から取る所から来たもんだす。
 それから、主遣(おもづか)ひが休んだ時の代役は左遣ひで、相手役の所へ挨拶に行く事になつて居ます。これらは、今でも、きちんと実行して居ります。
 その外、服装の事で、私は知らん事だつけど、昔、女形を遣ふ者は、黒衣の下に、友禅模様の女の「裾避(すそよ)け」の様なものをして居たさうで、これは、三吾さんから聞いた話だす。それから、こら、私も知つてますけど、足遣ひが、「タツツケ」ちうもんを履いて居ました。それは、白の生木綿(きもめん)のズボン下とパツチとの合の子の様なもんで、膝から下は袷せで、脚絆の様になつて居て、合せ目は、鞐(こはぜ)のと紐のと二通りおまして、昔ようあった、パツチ屋に誂へて居ましたが中々凛々(りゝ)しい恰好のもんだした。
 次に、私共が毎日舞台で着てる黒衣(くろど[ご])、この生地の事は、前にお話したと思ひまんが、あの頭巾には二通りおまんねん、しゆうと後へ反(そ)つたろのを猫耳と言ひます。も一つ、ヅギリといふて、どういふ人がどつちを被(かぶ)るといふ事は定つてまへん。ヅギリの方は、女形を遣ふもんやとか、桐竹派とか言ひますけど、此間死にはつた兵吉さんは、立役で、吉田の正系やのにずつとヅギリを被(かぶ)つてはりました。
問  それでは、終りに、今後の文楽人形浄瑠璃に就いて、何か御意見を、
答 さあ、それは、私の方から皆さんに御意見を伺ひ度い位で、芸人の私から申し上げ兼ねまんな。まして松竹さんもおまんねんさかい。しかし、考へて見ると、この頃は時世が変つて来て、昔みたいな人気はおまへん。人気どころか、芳(かんば)しい成績の興行があんまりおまへん。それが、今日迄続いたるのは、やつぱり松竹さんといふ大会社なればこそだ。現に、御霊の小屋が焼けた時、あれ、植村はん時代やつたら、我々は浪人せんなりまへん、それが、仰山小屋を持つて御座るさかい、直ぐ弁天座へ入れて貰ふ事が定つて、我々は一寸も心配しまへんなんだ、それで、三年経(た)つて、立派な家を建て貰つたんだすが、あの時は、つく/\結構やなあ、と感謝しました。しかし、時世には叶ひまへんわ。そやけど、何しろ、二百年以上も続いて来たるとこを見ると、えゝとこがあるのやよつて、こない続いたるに違ひおまへんわ。それを、今日の文五郎はんなり、私なりの時代になつて、時世に遅れたるとか言ふて、この儘絶やしてしもては、私等が御先祖様へ対して、申訳がおまへん、で、何とかして、末長うこの芸が栄えて行くやうにと、毎日拝んで居る次第で、皆さんにも、どうぞよろしう御願ひ申上げます。
 
 一四、 年譜
 
 一五、人形遣略系図
 
 吉田栄三丈は、その伝記中にも言つて居る如く、初舞台当時より定つた師匠無しで、今日迄来た人であるから、その芸は、明治中期の初め頃より以降の、数名の名人の影響を恣に受けて居る訳で、次に、人形遣の略系図を記して、芸系の上で、丈と最も関係の深かつた人名を太字で現はし、この冊子を読まれる方の参考に供したいと思ふ。
 
 
 
 
 
 この書の成るに際して、私は三重の悦びを感じてゐる。
 その一つは、言ふまでもなく、文楽座の座頭吉田栄三丈の自叙伝がまとめられたこと。次は、これが鴻池幸武君の処女出版だといふこと。第三は此書の学芸界への寄与についてゞある。
 この両三年は一種の流行のやうに思はれるほど、劇壇関係者の自叙伝や芸談が公けにされたのに、上方の劇壇関係者としては、まだ一人もないといふ。それは上方の劇壇は一般に衰へを見せてゐるのかも知れないが、文楽座だけは上方に根ざしを持つ特殊な、日本唯一の存在である。その文楽座を代表する一人である栄三丈の自叙伝が、今度かういふやうに立派にまとめられたことは、上方劇壇のために大いに気を吐いたものであり、意を強くするものであらう。而も栄三丈は、六十七歳の今日まで五十五年間、一年も中座したことなく、地味な人形遣ひとして終始し、定まつた師匠もなく辛苦研究を重ね、独創的の工夫、演出をも試み、押しも押されもせぬ文楽座の座頭にまでなつた、当代随一の名手なのである。のみならず、この本の中で屡々見受けられるやうに、謙譲で謹直な人格者である。従つて時々、思はず襟を正さずにはをられないやうな人生教訓をも示唆されるほど、失礼ながら、感心な人物なのである。その栄三丈の自叙伝が人形劇界を代表し、上方劇壇を代表するやうな意味で今日刊行されたのは、いかにもふさはしいことで、私は衷心祝意と敬意を表したいのである。
 編者の鴻池君は大阪の名門に生れ、東西も弁へぬ頃から文楽座に親しんだので、早くから人形浄瑠璃の研究を意図し、早稲田大学の国文学専攻科に入り、斯道の権威石割松太郎氏の教へを受けた。昨年の春卒業の後は、私の預つてゐる演劇博物館の研究室で孜々として研究に没頭してゐる若い学徒である。惟ふに上方で育成された芸術には、上方人でなくては真に味到できないものがある筈だが、それには鴻池君は適格性を持つものと言ふべきである。無論同君の研究題目からすれば、栄三丈の芸談を引き出し、そいに整頓を与へたことは、必ずしも根幹的なものではない。寧ろ副産物でもあらう。けれども研究の基礎的事象の認識を深め、また確かめるには、比較的入り易く、また最も恰好した仕事で、礎石の一つと見なすことはできる。それが滞りなく据ゑられ、斯く刊行を見るに至つたことは、同君将来の研究大成を予約し激励するの効果をも期待し得るから、指導者側の一人として大いに悦ばしい次第なのである。
 次に考へて見たいのは、此書の意義である。元来人形浄瑠璃は太夫・三味線・人形遣ひの三者から成りたつてゐるのだが、前の二者については古くから可なり多くの人がいろいろの話を伝へてゐるのに、人形遣ひ諸君のことについては語られてゐる所が甚だ少ない。この本だけにまとまつたものは他に一冊もないのである。 そこに特異な意義と価値を見出したいと思ふ。
 名は栄三自伝である。 けれども其内容は、栄三丈の生涯を通じての芸談であり苦心談である。先輩同輩のことにも及び、太夫・三味線の回顧にも及んでゐる。 勿論明治・大正・昭和期の人形浄瑠璃劇側面史として重んぜられるべきものだが、側面史と呼ぶには勿体ないほどに貴い記録に満ちてゐて、優に人形遣ひといふもの全体を象徴したものだとさへ見られるのである。言はゞ、人形劇研究上の欠陥を補ふに足る有力な文献として推賞するに足ると思ふ。がそればかりではない。いつたい人形浄瑠璃と歌舞伎との間には、密接な相関々係があつた。今日でも文楽座の演出法、所謂型に暗示を得た俳優の芸、演出法は相当にある。さういふ人々に対して栄三丈の豊富なる芸談、新演出の苦心談が、どれだけ役立つことであらう。否、さういふ専門家ばかりでなく、一般の愛好家にとつても、どれだけよい鑑賞上の参考になるか測り知られない。則ち、ひろく学芸壇への寄与には、意外に大なるものゝあることを信じて疑はないものである。
 
 繰返して言ふ。 この本の出来るに当つて人形劇界の功労者吉田栄三丈の記念塔として、鴻池君の礎石的処女出版として、学芸壇に貢献する所多き好著として、私は三重の悦ぴを感じつゝ大方博雅に薦めるものである。
 
  昭和十三年十月二十七日
 
           河竹 繁俊
 
 
巻尾に
 
 十二の年に、日本橋北詰の沢の席で初舞台を踏んでから、今年で丁度満五十五年になるので御座りますが、昨年の夏、計らずも鴻池さんから、「話をせい」との御注文に預かりましたので、私も、話しさせて頂かうと思つたので御座りますが、何しろ私の方には、書いたものが一切なく、元より日記といふやうなもんは、付けて御座りまへんさかい、初めは、こら出来るか知ら、と思つて居りました。ところが、鴻池さんが、私の初舞台から今日までに到る出勤致しました番附を、殆んど全部お持ちになつて居り、それを一枚々々拝見し、年月を見、狂言を見て居る中に、昔の記憶を辿り、ポツポツとお話を聴いて頂いて、それをうまいこと文章にお綴りになつて出来ましたのが、この本で御座りまして、丸一年以上もかゝりました。
 で、これが新聞や雑誌に、切れ切れになつて出るのではなく、纏つた一冊の書物となるので御座りますから、私が死んだ後でも、永久に残る訳で、私として、此上ない有難い事やと思とります。それに、このやうな書物が出来ましたのは、大阪の劇壇では、私がトツプのやうに存じますが、これ亦、私は勿論、門弟一同大喜び致して居ります。
 それから、もう一つ私に取つて、非常に有難い事が御座ります。それは、丁度、今年が両親の年回に相当致しまして、父は三十七回忌、母は十三回忌で御座ります。このやうな因縁深い年に、私の一代記が出来上りましたのは、廻り廻つて、両親の恵みで御座りませう。丁度、来る十一月廿四日の父の祥月命日には仏前に、この本を供へさせて頂いて、地下の霊を悦ばさうと、それを何よりの楽しみに致して居ります。それでは終りに臨みまして、両親の法名を唱へ、泉下の霊を慰めさせて頂きます。
 
 
父 願応寿栄信士 明治卅五年十一月廿四日 行年五十一歳
母 願応妙寿信女 大正十五年四月三日   行年七十九歳
 
昭和十三年九月廿七日、東京明治座楽屋にて
 
初代吉田栄三
 

 
四ツ橋文楽座出演の最後となつた時の表看板・昭和二十年一月

 
 
                       提供者:山縣 元様