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【 吉田栄三 沢の席から文樂まで 】

(2019.12.09)
提供者:ね太郎
苦闘時代を語る(6)澤の席から文樂まで 文樂座 吉田榮三
 演劇界3(1) pp32-35
 
 先輩の苦闘に比べたら、わたくしどもの修業は、物の數ではないと存じますが、今の人たちから見ましたら可成りつらいものだつたに違ひございません。
 私が人形の世界へ入り、人形と一緒に暮しはじめましたのは十二の年でございましたが、外の方と違つて、誰といふお師匠さんは取りませんで、たゞ榮壽さんといふ方の紹介で入つた譯でした。それは明治十六年の六月でして、場所は日本橋北詰にあつた、澤の席といふ小さい小屋が、新築落成してコケラ落しの興行でございました。名前は光榮と申しましたが、これは榮壽さんの若い時の名でございます。
 初舞臺の事ですから勿論人形を使ふことなどは出來ません。先輩に命じられて、幕を開けたり閉めたり、舞臺下駄(人影遣ひの穿いてゐる大きな下駄)を揃へたり、連臺(小道具を載せる臺)を出し入れしたりするに過ぎません。この時は「三番叟」に「太功記」の通しが出まして、豐松東十郎さんといふ方が三番叟を遣つて居られましたが、私がその舞臺下駄を揃へる役で、ところが或る日ぼんやりして、ウツカリ右と左を取違へて揃へたものですから、いきなりその舞臺下駄で向う脛をポンと蹴られました。舞臺下駄は可成り大きいから隨分痛うございました。いまだに忘れません。そんなやり損なひがあつた爲でせう、私はその一興行で、直ぐお拂ひ箱になりかけたのですが、榮壽さんが執成して下すつたので、そのまゝ首がつながりました。この時よしてゐたら、わたくしも外の商賣になつてしまつたでせうが、引續き勤めたおかげで、七十三歳の今日まで、人形を遣ひ通した次第でございます。
 明治十七年の正月には、博勞町稻荷境内に彦六座が出來ましたので、わたくしどもの一座はそつちへ出ることになりました。創立者は柳適太夫といふ方で、澤の席もこの方が拵へたのですが、今度彦六座を新築したについて、御自分も太夫として出られましたが、お得意が『彦山權現』の六つ目であつたので、彦六座と名けられたのでございます。二回目から非常な大入りになり、九月には御存じの團平さんも入座されて三味線の紋下となられ、一座はなか/\充實して參りましたが、その時の狂言が「四天王寺伽藍鑑」といふ佛教傳來の物語でございまして、わたくしの役は「負ひ人形」でございました。名の通り、人形を脊中におぶつて歩く役で−本田義光館の段といふのがございまして、今もある阿彌陀ヶ池の中から出た佛さんを、本田義光が脊負つて信濃へ持つてゆく。これを安置したのが善光寺だといふ、由來を見せるくだりでございます。なか/\面白い狂言でございますが、どうしてあゝいふものを今出さないのでせうな。
 わたくしは幕切れに、佛さまをしよつた善光の人形を頭からかぶります。わたくしの足が善光の足になるのですから、チヤンと脚絆をつけて草鞋を穿き、段切れに、土間の間の通ひ路を歩いて引込むのでございます。わたくしは子供の上に、人一倍小さいはうでございましたから、とんと人形が歩くやうに見えますので、お客さんは大喜びでございますが、揚幕へ參りますと人形遣ひが、いきなり善光の人形と一緒にわたくしを掴んで、ボテ(人形を入れる葛籠)の中へ抛り込みますので、そのたんびに頭を打たれるのが、隨分つらうございました。その時分の草臥れることといつたら、お話しになりません。なにしろ彦六座には、子供がわたくし一人しか居りませんでしたので、舞臺の上の小廻りの仕事は無論のこと、先輩のいひつけで走り使ひも何やかや勤めなくてはなりません。それも只今のやうな時間なら知れたものでございますが、時間に制限のない頃でございますから、朝は起きぬけに小屋へゆき、夜はおそくまで勤めるので、子供には無理もないのですが、そんなことに勿論會釋はありません。或る時、切に「道成寺」が出てゐて、吉田辰五郎さんが白拍子を使ひましたが、わたくしは「差出し」(長い竿の先に百目蝋燭を灯した一種の照明器具)を使ふ役です。ところが何しろ一日勤めたあとで、體は綿のやうになつてゐますから、使ひ損じて毎日のやうに蝋燭が逆さまになる。そのたびごとに舞臺で怒鳴りつけられます。毎日のやうに叱られ通しでございました。
 併しその頃の名人たちの舞臺をしつかりと見て覺えて置きましたのが、只今になるとどれほど役に立つかわかりません。當今とはいろ/\な點で、隨分相違して居りますが、一例を申しますと、その時分は人形にも大變ケレンが流行つたものでございまして、「國性爺」の千里ヶ竹が出ますと、早竹虎吉を呼んで來て虎の輕業を見せたり、「筆海四國の聞書」といふ弘法大師の一代記が出ますと、「石槌山の段」では、二階棧敷の隅から舞臺へ綱が引ッ張つてあつて、吉田辰五郎さんが人形を遣ひながら、スル/\と辷り落ちて來たり、「守敏雨乞の段」では、祈り臺の兩面で早替りをしたり、いろ/\と趣向を立てたものでございましたが、中でも、「五天竺」とくるとこれは釋迦八相記に西遊記を加ヘたものでございまして、幕毎に何か目先の變つた工夫がございました。孫悟空が釜の中へ入れられる「釜煮の段」などは、辰五郎さんの最も鮮かな手際でして、悟空で釜の中へ入りますと、直ぐに抜けて、二階棧敷の隅に雲の作り物が出來て居ります、その中からスウッと宙乘りで出ますので、目の覺めるやうな早替りでございましたが、或る時、介錯をしてゐる兵吉さんが、間違へて宙乘りのコを襟へ引つかけてしまつたので、辰五郎さんは宙で首をしめられ、大騒動になりました。これは間もなく無事に濟みましたけれど、ケレンには時々斯ういふ危險があるものでございます。
 そのうち足を遣はせて頂くやうになり、幾分づゝか人形の呼吸も解つて參りまして、明治二十年一月に「先代萩」が出た時などは、鶴喜代丸を持たされましたが、これがどうやら役らしいものゝ肘いた初めでございます。併し大抵は足でして、この又足遣ひのむづかしさと苦しさは、遣つた人でなければとてもわかるものではございません。「苅萱」の山の段で、辰五郎さんの苅萱の足を遣つた時などは、ヂツと立つたぎり少つとも動きがございませんので、二十分ほどの間といふものは、舞臺下駄を穿いた足を、キツチリと揃へたまゝ、ヂツと動かずにゐる辛さは別段てございました。今でも身に浸みてよく覺えて居ります。
 あくる二十一年の二月に「八陣」が中に挟まつて、その十二日目、本城が明いてゐる最中に、樂屋裏から火事が出ました。こんなとき何より先に持ち出すのは人形でございます。わたくしは三度まで人形を抱へ出して、境内の茶見世へ運び込みましたが、もう四度目には一面の火で、どうしても入れませんでした。その時、吊してあつた金襖に火ついて、燃え落ちた時の物凄さは、今もつて忘れることが出來ません。
 彦六座は直ぐ普請にかゝりましたけれど、出來るまで遊んでゐる譯にも參りませんので、小人數の一座で奈良を中心に、大和を方々と巡業いたしましたが、これがわたくしの旅の經驗でこざいました。旅と申しても只今のやうな、呑氣な譯には參りません。何しろ汽車も電車も無いのでございます。僅かに天王寺から國分峠の下まで馬車が通つてゐるばかりで、跡は草鞋がけで歩くので、それでも方々と廻りましたが、最後の興行が壺坂でおなじみの土佐町で、爰では壺坂を注文されましたが、その頃は壺坂の淨瑠璃がまだ出來たばかりで、誰も知らなかつたために演れませんでしたのは、今から考へるとおかしな話でございます。この歸りは馬車にも乘りはぐれ、たうとう高田から大坂まで歩いてしまひましたが、今の若い方はとてもこの味は御存じないことです。
 その頃から少しづゝ本役もつき始めまして、「廿四孝」が出れば桔梗ヶ原の入江ぐらゐは頂くやうになりましたが、それから一年ばかり、神戸の楠公さんの境内にあつた菊の席といふ寄席へ、修行のため出勤しまして、いろ/\な役を遣はせてもらひましたが、この間も決して宿屋に泊つてゐた譯ではございません。一年の間、その寄席の二階に住んで居りましたのです。太夫は大抵女でしたが、忘れもしません明治二十五年の夏、「佐倉宗吾」が出て女房を遣つてゐますと、見物に來てゐた西洋人が、いきなり舞臺際へ來て私の手へお金を握らせました。隨分驚きましたが、引込んでから見ると三圓あつたので、樂屋中へ振舞ひをした事があります。
 それから又彦六座へ再勤いたしましたが、この時から本名の榮次郎をとつて、榮三と改めたのでございます。お師匠さんを取らない代り、名前もわたくしが初代で、後には先輩のいゝ名を襲ぐやうに度々お勸めを頂いた事もこざいましたけれど、たうとう榮三で今まで通してしまひました。
 彦六座は明治二十六年の九月に、沒落してしまひましたが、翌年にはお仕打が變つて稻荷座と改め、彌太夫さんと團平さんの紋下で開場しました。この頃にはどうやら「白石噺」が出ると信夫、「忠臣藏」が出ると小浪ぐらゐの役が附くやうになつたのでございます。併し「四谷怪談」が出た時、下男小助を振られ、これはいゝ役ですから喜んで居りますと、彌太夫さんから、小助は榮三では駄目だから駒十郎にしろとの命令で、わたくしは直助權兵衞の役に變へられてしまつたのでございます。歌舞伎のはうでもさうでございませうが、あの男には出來ないからといつて役を持つてゆかれるのは隨分不愉快なことで−−わたくしもムツと致しましたけれど、何しも紋下に對して詞を返すことなどはとても出來ません。我慢して直助權兵衞の役を遣つて居りますうち、彌太夫さんの義太夫を聽いて、成程と合點がゆきました。彌太夫さんは小助を非常に大切に語つて居られるのです。丸本の上から申しますと、小助はお岩よリズツと惡い役なのですが、それを彌太夫さんが語るとグツと活きて來て、馬鹿にいゝ役になつてしまひます。成程これでは小助を若輩なわたくしなどに遣はせてくれない筈だと、身に浸みて解つたのでございます。本當にいゝ教訓だつたと思つて今に忘れません。
 明治三十一年の正月でしたが、たつた一ト月東京へ來たことがございます。別に稻荷座をしくじつた譯ではなく、東京から招かれたのでもございません。たゞモウ若氣の至り、一度東京が見たくつて堪らなかつたのでございます。そこでお父さんからお金を五圓もらつて出かけたのでございますが、新橋へ着きました時は、懷にたつた二十錢しか殘つて居りません。お腹が空いたので十錢のお壽司を食べたら、あと十錢になりました。ョるところは淺草にゐる吉田小兵吉さんの内なのです。そこで鐵道馬車へ乘つて小兵吉さんを訪ねますと、いま神田の新聲館へ出てゐるといふので、その足ですぐそこへ參りましたが、その時はいよ/\懷中に一錢しかなく、馬車へ乘ることも出來ず、歩いて新聲館までヤツと着きました。行つて見ると小兵吉さんの外に、その以前彦六座の頭取をしてゐた榮造さんも居られまして、よく來たと深切に云つて下され、そこでお晝のお辨當を頂いてヤツと生き返り、すぐに黒衣を着て舞臺を手傳ひ、夜になると「酒屋」のお園を小兵吉さんの代りに遣つたのですが、今から考へると隨分亂暴なお恥かしい話でございます。そのまゝ榮造さんの内へ泊めて頂き、引續いて寄席へ出てゐたのでございますが、この榮造さんは全くわたくしの恩人と申してもよろしいので、わたくしが師匠のない所を不便がつて、彦六座の頭取時代から非常に目をかけて下され、役のつくやうにして下すつたのも全くこの榮造さんのおかげなのでございます。
 一ト月たつと稻荷座から手紙が參りましたので又歸坂いたしましたが、それから當分は苦難時代でございました。と申しますのは、稻荷座も立ちゆかなくなつて、たうとう潰れてしまひましたので、わたしは三十一年の七月から、御靈の文樂座へ出る事になつたので、ございます。これは頭取をしてゐた三吾さんといふ方の紹介に依つたのですが、文樂の方は越路さんの紋下の外、法善寺の津太夫さん、呂太夫さん、染太夫さん、七五三太夫さん、文字太夫さん、三味線は松葉屋の廣助さんの紋下に、吉兵衞さん勝鳳さん才治さん、人形は親玉の玉造さんの紋下に、紋十郎さん玉冶さん玉助さんといふ顔揃ひで、順からいつてもわたくしなどは、下であるばかりでなく、文樂座といふところは長年の傳統で、古參を非常に大切にする習慣がございますから、外から入つた者などは、例へいゝ役を持つてゐたにしても、初めからやり直しをしなければならない譯でした。元よりわたくしもそれを覺悟で入りましたので、入り早々「双蝶々」の平岡丹平といふ惡い役が參りましても、さのみ驚きませんでした。ところが初日に、金之助さん(後の多爲藏)の遣はれてゐた放駒長吉がやり損ひをしましたので、わたくしが急に長吉の代りをする事になりました。これがどうやら無事に勤まりましたので、文樂のお内儀さんにも、目をつけて頂くやうになつたのでございます。併し、さうふといつて役はなか/\附きません。「箱根」が出れば乞食、「鳴門」ならお鶴といふ譯で、極くいゝ所が「本藏下屋敷」の三手歳姫、その外は足ばかりでございます。實を申すと若氣の至り、腹の中では不滿で堪らないのですが、爰で辛抱しなければ駄目だと思つて、一生懸命に我慢してゐたのでございます。
 お休みになつた稻荷座のはうは、堀江の廓の中へ引越しまして、明樂座の名で興行して居りました。わたくしは稻荷座時代に借りたお金が、まだ殘つて居りましたので、そちらから呼びに來られ、行かなければなりませんでした。お金を返しても濟まないのでございます。體が要るから金を貸してあるのだといふ譯で、三十三年の正月には、たうとう兩方へわたくしの名前が出てしまひました。よんどころなく初めは駈持ちを致して居りましたが、いつまでそれも出來ませんので、文樂のはうは少しお暇を頂きまして、明樂座ばかりを勤めることになりました。この方では役がつきます。いろ/\ないゝ役を何れも初めて遣はして頂きましたが、三十五年の七月から又元の文樂座へ歸りまして、それきり今日まで勤めさせて頂いて居ります。復歸以來お給金も先の倍にして下され、大變優待して下すつたのでございます。その後での苦難は、頬の所の骨膜炎をわづらひまして、深澤病院といふのへ入院致しましたが、初めは頬骨を削つてしまつて、生命にもかゝはるといふ事でしたが、河内の石切様へ妹が願がけをしてくれたおかげで、大變輕くすみ、五週間で退院いたしましたが、それでも芝居は三月以上休んだのでございます。癒つてからでも繃帶をしてゐる間は出遣ひに出られず、繃帶はとれても底口のガーゼが取れず、本當に困りましたが、何しろ入院料で内の財産をすつかり使ひなくしてしまひましたので、休む譯にはゆかなかつたのでございます。丁度大坂に博覧會があり、芝居は攝津大掾さんの改名披露で七十五日打ち通した「妹脊山」實に華やかな興行でございましたが、わたくしにとつては實に苦しい思ひ出の芝居でございました。
 明治四十年の初春興行に「和田合戦」が出まして、越路さんの市若初陣で、板額は紋十郎さんの役てございます。ところが途中紋十郎さんが病氣になられまして、代り役がわたくしの所へ廻つて來たのでございます。いつたい代り役は、その人形の左遣ひをしてゐる者へ廻るのが規則で、この時は龜三郎さんといふ、左遣ひの名人が遣つて居られ、當然この方に廻るべきなのですが、どうしても胴は遣へないといふので、わたくしへ荷が下りたのです。ところが紋十郎さんといふ方は、實に立派な體格をしてゐらつしやるので、板額の人形は特別誂への大きい人形なのでございます。とても柄の小さいわたくしには遣へさうにもございませんから、一旦はおことわりしたのですが、どうしてもといふおョみなので、わたくしは多爲藏さんの淺利與市の左を遺つて毎日よく見て置きましたから、たうとうお引受けしてやつて見たのでございますが、サア遣つて見ると、想像してゐたどころの騒ぎではなく、とても重い/\もので、それであの長不場をやり通す苦しさといつたら、なんと譬へやうもありません。全く死ぬ苦しみでございました。途中で何度人形を捨てゝしまはうかと思うたか知れません。併し爰が辛抱どころだと思つて、死んだ氣になつて一生懸命に勤めました。たつた九日間でしたがおかげとこれが好評で、勘定場の方々からも大變お褒めのお詞を頂き、朝日新聞の劇評でも「大物の代りとしては案外の出來」と賞され、わたくしとしての出世藝になりました。そんな譯でわたくしは、この板額の役が大好きなのでございます。何しろ舞臺をつとめる人にとって、代役ぐらゐ大切なものはございません。大抵の方はこれが出世のキツカケになります。併しそれとても、ふだんから勉強を怠つてゐては勿論駄目なので、人形遣ひとしては、先輩の勤められるやり方を、よく見てよく覺えるのが何より大切な事なのでございます。
 その次に「忠臣藏」が出まして、わたくしはお輕を遣はして頂き、また九段目の本藏は多爲藏さんで、その左でございましたが、この左では毎日叱られ通しでした。「本藏は又助と違ふのだ。強い中にも手負ひだから弱い所がなければならぬ」とよく云はれました。九段目は攝津大掾さんの持ち場でございますが、御承知の通り大掾さんは、艶語りときては無類の方でありましたが、それでゐてこの本藏が實に結構なものでした。尤も、大掾さんとて初めからさうでは決してなかつたので、その前に演られた時は、戸無Pやお石のはうがズツとよかつたのださうでありますが、この時の本藏のよさは衆口一致でございました。これは全く勉強研究の結果で、一心に凝れば、畑違ひでもなんでも、これ程までの名品が出來上がるのかと思ひますと、つく/\藝人は死ぬまで修業だ、死ぬまで勉強しなければならないと感じた次第でございます。
 その年、京都で「吉田屋」が出まして、わたくしは初役で夕霧を使ひましたが、この時も身にしみたことがございます。伊左衞門は紋十郎さんで、お名ざしで夕霧がわたくしになつたのでございますが、丁度三日ばかりといふものゝ毎晩打出したあとぞ、紋十郎さんのお部屋から呼び出しがあります參りますと、その度ごとにお小言です。「私の伊佐衞門といふ役は土臺が夕霧に使はせてもらふ役なのだ。それに夕霧のお前があんなでは、おれはとても使へない」と叱られます。丁度暑い最中でございまして、紋十郎さんは裸になりお弟子に團扇であふがせながら、冷たいものを召上がりつゝのお小言です。わたくしのはうは、まだ舞臺の肩衣をつけたまゝで、汗を拭くことも出來ません。それでヂツと承つてゐる苦しさは格別でした。後輩としては當然なことですが、苦しさは身にしみて覺えてゐます。併しそれだけに、伊左衞門はよく覺えまして、只今でもわたくしの使ひます伊佐衞門は、全部紋十郎さんの型通りにやつて居ります。なんでも苦しまなければいけません。次に「鏡山」で、わたくしの尾上に紋十郎さんのお初でしたが、樂屋で叱られつけてゐるのが、どうしても舞臺へ出て、なか/\主人になり切れません。うつかりすると、此方がお初になつてしまひさうです。この時も隨分お小言をもらひました。
 明治四十二年の四月から、文樂座は松竹さんの經營となりました。この話は極く内々で進められたと見えまして、發表までわたくしどもは全然存じませんでした。その頃、わたくしが大苦しみをしたのは、六月の「夏祭」で初役の團七を遣つた時でございます。泥場は名にしおふ紋十郎さんの義平次で、恰幅があるから低い舞臺下駄で、輕い義平次の人形を遣つて烈しいセリ合ひです。小兵なわたくしは高い下駄で、團七の重い丸胴を遣ふのてすから、そのえらい事は全くお話になりません。ちよつとでも隙が出來たら忽ち形が崩れます。この時は本當に油汗をかき、頬の肉も落ちる位でございました。切には「白木屋」のお駒を遣つて居りましたが、或る日紋十郎さんから「お前が今度の二役を滿足に遣ヘたら、もう座頭だ」と云はれた時には、本當に嬉しうございました。長生きいたしましたわたくしが、世間様から何とか仰しやつて頂けるやうになりましたのも、全く先輩の方々から嚴しく仕込んで頂いたおかげて、本當にわたくしは仕合せだつたと思つて居ります。