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【 大西重孝 榮三最後の舞臺 】

(2019.12.09)
提供者:ね太郎
 
榮三最後の舞臺 大西重孝 PDF
 幕間 2(12)pp24-25 1947.12
 【東文研の「芸能三雑誌所載記事データベース」、「雑誌『幕間』総目次」 (近代歌舞伎の伝承に関する研究)に未採録】
 
 操り人形遣ひの名人・吉田榮三が逝つてから早くも二年の月日が經つた。
 をやまとやつし役とで賣出した榮三が文樂座人形部の座頭の地位に座つてから(昭和二年三月)をやまといへば、「加賀見山」の尾上と「子別れ」の狐葛の葉「志渡寺」のお辻ぐらゐのもので、他は殆んどすべてを文五郎と紋十郎とに讓つてしまつたかたちとなつて、專ら立役--しかも熊谷や横藏、樋口、光秀のやうな荒物などをも遣つて、文五郎の華麗な屈託のない藝に對して、手堅い、神經の行届いた、常に内面的な深さをもつた藝をみせて、操り史上に立派に榮三・文五郎時代を劃したものである。
 ところが今次の大戰中を七十餘歳の高齢を以て文字通り戰火の中を潜つて、あらゆる艱難に堪え忍んできたのであるが、惜しくも四ツ橋文樂座の復興の日を待たず、枯木の朽ちるやうにぽつくりと倒れたのは、昭和二十年の十二月九日のことであつた。
 彼の急逝により復興途上にある文樂人形淨るりの受けた損害がいかに甚大であるかは測り知れないものがある。文樂座の内と外とを問はずひとしく暗い翳を抱いたことはいふまでもない。彼の藝の價値についてはほかに語る人もあるであらうが、私はその後彼に關する二三の追憶記事を偶目するに及んで、案外彼の最後の舞臺を正しく傳へてゐるもののないことを遺憾に思ひ、近く和敬書店から上梓される鴻池幸武氏の「吉田榮三自傳」を補足するためにも、この機會に私の知る範圍のことを記しておきたい。
 大阪市街の天牛が烏有に歸した昭和二十年三月十四日の夜半から十五日の未明にかけて文樂座が炎上した。鰻谷にあつた榮三の自宅もその厄に逢つたのである。そのころ起居の不自由だつた榮三は炎と煙との中から危く身を以て難を免れた。そして後援者秋山久雄氏の庇護に縋つて傷心の身を大和小泉に運ばれ、平穏な田園の風光に包まれて療養に専念することが出來た。
 一方このあひだにも文樂復興の營みはつゞけられてゐて、つひにまだ戰塵のおさまらないその年の七月に至つて、朝日會館に復興第一回の公演の幟は揚げられた。しかしそのころ彼の健康はまだこの記念すべき公演に參加するまでには恢復してゐなかつた。そればかりではない。大和疎開の時から別居を餘儀なくされてゐた妻なか女(通稱うめ)が六月末、京都で逝去したので深い悲しみにとざされてゐたのである。
 第二回目の復興公演は八月五日から十日間、同じ會館に開かれた。彼は一月の四ッ橋興行以來七ヶ月振りにして漸く勾欄に立つことが出來た。役は「熊谷陣屋」の義經である。しかし彼の體力の衰へは甚しく、日ごろの端正な舞臺振りに慣れてゐた人々の目には、正に正視するに堪えないものがあつた。
 從つて九月一日からの京都南座の興行には第一回が「合邦」の俊德丸、第二回が「御殿」の榮御前などといふやうな全くの加役にしかすぎなかつた。ところが第三回には「堀川」が出て彼には永年の持ち役であつた與次郎が割られることとなつた。
 古靱太夫(現在の山城少掾)の「堀川」は語り崩された近年の習慣を院本に還元した定評のあるものである。特に與次郎の如きは從來の薄馬鹿ともみえる騒々しい人物でなく、律義者ではあるが非常な臆病者であるといふところに性根を摑んで、母を思ひ妹をかばふ眞實性に充ちた人間を語るのであるが、榮三の人格が之に共感を持つたのであらう、古靱太夫の意圖をがつしと受けとめた名譽の舞臺を見せたものである。
 この南座の興行も亦、「母を大事と油斷なき」の最初の出から以上の三回の役に見られなかつた確かさをみせて、下手で「與次郎はいそ/\」でお定まりの油屋といふ人形獨特の瓢逸味のある型が少しの危ツ氣もなくて、私には大きな安堵と樂しみとを抱かせてくれた。母の繰言に、またいつものことが始まつたといふ輕い表情を見せておいて、「そりやまア何を言はんすぞいの」と氣安めの嘘八百を列べるところは、古くから傳はる型のやうに騒々しさや下司張つたところがなく、母の氣持を測りながらの内輪な振りで、元気だつた以前と變りなく、「足らぬ節季の言譯をいふ下心やこれなるべし」で中味の乏しい財布を見て暗い心になるまで些の亂れもない確かな腕を示したのである。しかしこれは前半だけで、「薄き親子の」からは左手を遣つてゐた光造と代つて了つたのである。
 與次郎の役で彼の復活振りに目を瞳つた私は、同じ月の十九日から五日間、朝日會館に戻つて、古靱太夫の「新口村」で彼が孫右衞門を遣ふと決つた時、彼の健康も漸く軌道にのつたものかと少からず期待をかけたのであつた。ところがその初日の舞臺は却つて不安を抱かせるものがあつた。「孫右衞門は老足の」と下手から傘をかざしての出に、後から介添へがつくといふ始末で、屋體に入つてからもこの小振りの人形が支へきれないかして、後からつゝかひ棒をかましてゐるのである。與次郎の場合とはうつてかはつたこの有様に、私達の落膽は大きかつた。彼の「新口村」は段切に一工夫があつて、降りしきる雪の中に羽織を頭からかぶつてふるへるうちに幕になるのであるが、この時は勿論段切までは持ち切れず「佛に嘘がつかれうかとどうとひれ伏し」で後は玉市に任せて了つた。
 京都で脛に灸を据へたところが化膿して歩行が困難となり、一層身體の衰弱が加はつたのである。それでも彼はこの苦痛を押して四日間を兎も角も無事に勤めたのであるが、つひに千秋樂當日である二十三日にはもう全然榮三の姿を見ることが出來なかつた。
 彼は再び大和小泉に引籠つて只管健康の恢復に備へた。四ツ橋の元の位置に工を起した文樂座の復興が延び/\になつていよ/\翌年早々竣功するといふので總帥古靱太夫が彼に送つた見舞ひと激勵の書翰に對して彼はその晴れの舞臺をもう一度踏みたいと答へて來たといふ。
 十二月九日は會館に於ける第六回目の公演の最終日であつたが、私は彼の門弟である光造に師匠の近況を尋ねたところ、元氣も餘程取りもどして、天氣の好い日には孫の墓參をするまでになつた由を聞かされた。そして私は八月の最初の出演に同じこの樂屋で榮三に逢つた時、重なる不幸にうちひしがれて、話相手の顔さへ正視することが出來ず、孫右衞門に用ひるやうな黑縁の眼鏡のつるの一方が折れて、紐で代用させてゐるために頬の肉がじかに硝子にふれてゐるのを餘りに傷々しく思ふとともに、女達が立混つて身の廻りの世話をしてどこか華やかさを見せてゐる文五郎と對照して、彼をとりまく空氣の暗い冷いものを感じたのであるが、右の光造の話を聞くとすぐ、私の腦裡にあつた傷ましい姿が壮んだつた昔のやうに小ざつぱりとした衣服に着替へて、野草を手に麗らかな日射しを浴びて孫の墓に詣でる榮三らしい清澄な姿にとりかへられた心地がして、私には何ともいへない心樂しいものが感じられたのである。
 ところがどうであらう。その九日といふ日の夜、にはかに病勢が革まつて榮三は七十四年の生涯を閉ぢたのである。戰爭がもたらした大きな犠牲、この戰爭さへなければ榮三もこのやうな惨めな死に方はしなかつたであらう。
 思へば九月廿二日、朝日會館で「新口村」の孫右衞門を勤めたのが彼の最後の舞臺であつたのだ。與次郎に示した彼の舞臺ぶりは燈火の將に消えんとして最後の一瞬に見せる輝きであつたのかも知れない。否、復興公演に勤めた數種の役は六十三年に亘る人形遣ひとしての彼の生涯が勾欄につないだ最後の執着の現はれと見るべきであらう。
 私はこゝで名人榮三として彼の眞價を發揮した舞臺の最後を附加へておかねばならない。それはその年の初めに遡つて文樂座の一月興行に古靱太夫の「寺子屋」で遣つた松王丸であつた。彼の年配としては少々派手とも思はれる納戸色の羽二重の熨斗目の着付に小紋の裃をつけた舞臺姿が、骨膜炎の痕跡の殘つたあの特徴のある顔に一抹の若さと氣魂とを添へて、松王の人形がいかに立派に生々と遣はれたことであらう。「奥にはばつたり首討つ音」でへな/\と腰を落して、靜かに掌で額を打つてゐる間の懊惱、首實檢の豪快、ジツと玄蕃の方へ引目をしてゐる氣味合ひ、後になつての泣き笑ひに至つては古靱と毛筋一本の亂れもない呼吸の合つた名技であつた。それもその筈である。文樂座がいつ燒落ちるとも知れない急迫した一日一日を無量の感懷をこめて語る古靱獨壇場の「寺子屋」であつたと同じやうに、榮三も亦一代の演技を殘すべく迫つてくる體力の衰へと戰ひながら懸命に勤めた松王であつたからである。床と勾欄とが混然と融け合つた藝の三昧境といふものはさう度々味へるものではない。山城少掾の「寺子屋」を語る度毎に忘れられない榮三の松王である。
 榮三の藝脈を繼ぐ唯一のホープであつた郎は師匠の三週忌を俟たずして逝つた。榮三を追懷するの情切なるものがある。