江上吟 李白 (唐詩選)
木蘭之婉沙棠舟
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<参考>向島吟(かうとうのぎん) 太田南畝
紫檀之棹華梨舟
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送儲謠之武昌 李白 (唐詩選)
黄鶴西楼月
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「上田村」の綱大夫に「切」の字がついていないのはなぜですか。 提供者:司馬伊さん(1999.11.17)
たとえ切語りが語ってもそこが切場でない場合は切の字はつけない。これが標準的な回答です。
例えば新春大阪公演で「組打」を住大夫が語ります(!!!)が、ここは二段目の立端場(切場は「林住家」)ですので切の字は付きません。
逆に切場でも切語りの大夫でない場合は切は付けられずに奥とか前・後などと表記します。
例えば今月の大阪「柳」は咲大夫で奥、「盛綱陣屋」の呂大夫は後ですね。
ところが世話物の場合はその切場自体がはっきりしません。
例えば近松の上中下三巻に分かれるものの場合、下の巻(『宵庚申』なら「八百屋」)が切場であるとは言えません。(「上田村」は中の巻)
『天網島』の場合は中の巻「紙屋内」が切場ですし、上の巻「河庄」も切場扱いです。
『冥途の飛脚』も中の巻「封印切」が切場ですが、下の巻「新口村」(現行は改作)も切場です。
作品の質からしても「上田村」<「八百屋」とは言えないでしょうし(むしろ逆)…
ちなみに国立文楽劇場現制作担当後藤静夫氏が国立劇場演出室にご在勤当時執筆されたものには、
「世話物は通常、上中下三巻で構成されるが、形式や場の性格から考えると、
時代物の三段目を独立させ、三巻で起承転結をつけたものともいえよう。」(『文楽ハンドブック』「演目の構成」)とありました。
文楽の開幕といえば、「人形シャギリ(砂切)」です。
ミドリの演目建てなら演目が替わる毎に、お馴染みの「人形シャギリ」が演奏され、
のどかなうちにも「これから文楽が始まるで」という雰囲気が盛り上がります。
今月の第二部「鎌倉三代記」の場合なら、「チョンチョン」という二丁の柝の後、最初にこの「人形シャギリ」が30秒ほど演奏されます。
再び「チョンチョン」と柝が付き直されてから、
(最初の「入墨の段」は陣中の場面ですから)戦場の緊迫感を伝える「遠寄せ」の鳴物で幕が開きます。
聞けばこれは文楽にしかないシャギリとのこと。
普段文楽を担当していないお囃子連中が、地方などで文楽の鳴物を担当する場合、改めて稽古をしてから本番に臨むそうです。
(演目が替わる毎に、と言えば、朝日座の頃は舞台下手に外題名を書いた「狂言札」が掲げられていましたが、
国立文楽になってからは廃止されました…)
まず……チョンチョン、二丁入れます(「直す」)。そうするとお囃子さんが「人形車切」にかかります。
その間に太夫、三味線、人形、それぞれが定位置につく。それを見許らって知らせの一丁を入れる。
するとお囃子さんが鳴物を切り上げます。続けて開幕の柝、二丁を入れます。
今度はその幕に相応しい鳴物――海辺ですと波音、池や川なら水音、神社だったら神社、御殿の場だったら御殿、
それぞれの場に合った鳴物が入りますね。それをひとくさり聞いて柝を刻み始めます。
はじめ大間に打って、だんだん間を縮めていきますと幕がスーッと走り出します。
……次第に柝の音を小さくしていきますが、完全に消してしまわず余韻を残して引いていく――音を干すわけです。
それに合わせて鳴物も終わっていきます。上がったところで「止め柝」といって一丁チョン。
これで完全に幕が開きました。で、口上にかかるわけです
……
「松羽目もの」(能様式)のときの開け方もまた違います。二丁、直しますと「片車切」にかかります。
知らせの合図で鳴物が上がると析を入れずにそのままスーッと幕が開くんです(「素幕」)。
……
キマリヘ一丁、柝の頭を入れてあと浄瑠璃イッパイに刻み、演奏が終わると止め柝を一丁入れまして「車切」となります。
幕引きは柝の音に合わせて引いていくわけですから、浄瑠璃が終わったところで幕が閉め切れるよう、
うまく刻み込んでいかなければなりません。(文楽のかげのお話 文楽5号)
いわゆる「鉄砲渡しの段」は、オクリからして紛れもない「駒太夫風」です。
ただ、駒太夫は豊竹座の人ですから、勿論「本朝廿四孝」の初演時(明和3年)には参加しておらず、当時は江戸に下っておりました。
「鉄砲渡し」というかいわゆる「謙信館・前半」は、初演では初代住太夫の持ち場の筈です(十種香は鐘太夫)。
住太夫は「志度寺」「長局」「岡崎」等に、
駒太夫は「上燗屋」「爪先鼠」「流しの枝」等にそれぞれの「風」が残るとされているので、かなり芸風が異なります。
「鉄砲渡し」の前の「景勝上使」は割に詞が多く緊迫した雰囲気を出しますが、
後半の「十種香〜狐火」はご存知のようにはんなりした曲風。
その間を繋ぐ「鉄砲渡し」は本来は厳しい曲風だったのでしょうが、
いつしか駒太夫の風にすることで違和感のないように「十種香」に繋げることになったのだろうと想像します。
駒太夫風といっても徹底したものではなく、オクリとフシ尻をやや派手に音を遣って、ちょっと遊ぶような感じです。
これは余談ですが、住太夫風とされる「長局」は「後見送りて襖の蔭」、「志度寺」は「後見送つて菅の谷は」で始まり、
駒太夫風とされる「爪先鼠」は「後見送つて大膳が」で始まります。「鉄砲渡し」は「後見送つて関兵衛は」で始まりますので、
その昔、この段を与えられた太夫さんが、何度も「後見送つて」と語っている内にふと駒太夫の音遣いを思いつき、
舞台でやってみたら案外評判が良かった、なんてことなのかも知れません。
二十年以上前の話になりますが、「八陣守護城」が久しぶりに上演された時、
「毒酒の段・中」を語った太夫さんがここは駒太夫でやってみようかと思った、という話をうかがいました。
東風四段目の音遣いが基調にあること、「毒酒の段」がいわゆる御殿物なので「鉄砲渡し」に相当する箇所であること、
丸本に「ウ」の文字譜が多いことなどをその理由に挙げられていました。
稽古でやってみたそうですが、普通では語りにくかった所もすんなり行ったそうです。
ただ「奥」が「十種香」のような曲ではなかったので、断念したそうです。
『浄瑠璃素人講釈』なんて本を読むと、二代目団平が改曲したなどという話が出ていますが、
幕末から明治初めにかけては、よくそんなことがよくあったのかも知れません。
大阪の正月公演で、「寿連理の松」に出てくる「親徳右衛門」の役名を「親徳左衛門」に変更する旨の掲示がロビーに小さく出ていました。
プログラムの役名だけではなく付録の床本集(あの大判のヤツ)にも「徳右衛門」となっていたので、
何のことだろうと思って聞いていましたが、嶋大夫氏の語りはあきらかに「徳左衛門」。十年前の越路大夫氏の語りも「徳左衛門」でした。
文楽劇場の上演資料集第14集(昭和61年1月)にあるように、
この作品は、菅専助の「夏浴衣清十郎染」(今回のプログラム「鑑賞ガイド」で「夏浴衣」を「夏小袖」としているのは疑問?)
という作品の下の巻を、若干の設定を変えてほとんどそのまま使ったもの。
「夏浴衣」でのこの役は「九左衛門」、読みは九十郎(くじゅうろう)の父親ですからおそらく「くざえもん」でしょう。
したがって作品の成り立ちから言えば「徳左衛門」が正解と思われます。
『義太夫年表近世篇』によれば「寿連理の松」の題で初めて上演した時の番付も「徳左衛門」です。
いつの間にか「徳右衛門」になってしまい(たまたま目にした昭和7年2月の四ツ橋文楽座の番付も「徳右衛門」)、
そのまま21世紀に至ってしまったようです。今回ようやくこの誤りが正されたこと、さすがは国立文楽劇場と感心すると同時に、
そんなことにはお構いなしにあくまでも「徳左衛門」と語って来た義太夫節の伝承の確かさ、重みを感じざるを得ません。
ただ文楽劇場さんも折角「床本集」をお作りになるなら、せめて前回のテープ位お聞きになればこんな恥をかかんで済んだものを・・・と思った次第。