此外題は宝永の頃、大近松作にて、「お夏清十郎笠物狂ひ」に始まり、尚ほ同作にて、お夏清十郎の二十五回忌を当込み、「お夏清十郎歌念仏」を書いて、竹本座に上演し、後年明和の頃に至り、北堀江市の側に、豊竹座を始め、安永七年に此外題を焼直して、切狂言に「夏浴衣清十郎染」と云ふを上演し、又寛政の頃、同座にて「お夏清十郎花楓都模様」を上演し、尚ほ江戸新太夫座にても、作者森羅万象や、双木千齋などが筆を取つて、「お夏清十郎」と云ふ外題を書き、天明元年丑七月に上演したのである。而して此連理の松は、三代目此太夫が八重太夫より時太夫に改名する時の語物と聞く。この時太夫が即ち三代目此太夫になつたのであるから、多分宝暦の末年頃の事と思ふ。即ち大正十五年を距る百六十年前後の上演ならんと思はるゝ。上場の座は分らぬが、五行本にも豊竹時太夫、鶴沢勝造と銘を打つてあるから、北堀江市の側に、豊竹座を拵へた三代目此太夫の語り物には相違ないと、ヤツト穿鑿し出したのである。左すれば筑前掾の語り物を主として、語り残した人と云ふ事が分る。作は則はち大近松物を、誰か継ぎ剥ぎした物と思ふ。夫かあらぬか、此銭屋此太夫と云ふ人は、真世話物の上手で、「半太夫」と云ふ節が大好物と見ゆる。名高い語り物の中、元文年間、同名の伊豆平八重太夫の語つた、堀川猿廻しにも、「半太夫」と云ふ節がある。又銭屋此太夫の「桂川連理の柵、お半長右衛門帯屋の段」にも、チヤンと「半太夫」の手が付けてある。此「寿連理の松」の、お夏の「サワリ」にも、又チヤンと「半太夫」の手が付けてある。此銭屋此太夫の真世話風を、最も好く其心持を語つた人は、彼盲人の住太夫であつて、庵主が今紹介する此段の朱章は、彼盲人住太夫の伝ヘた風である。其後チヨイ/\此段を語る太夫もあるが、魂を据へて聞いて見ると、語り朱も、三味線の朱も、正しくない。斯る由緒ある外題を、此侭に捨てゝ置くは、故人に相済まぬと思ひ、往年松屋町広助、即ち名庭絃阿弥師に、懇々と此事を咄して、其朱章を正し、其上此段が名前替の時の付物で、役下げの為め、段切が甚だ淋しい故、素浄瑠璃の真打が語れるやうに庵主が二三枚目出たい段切を書足して遣つて、広助に朱譜を付けさせたら、広助は非常に苦心をして、態々鶴沢清六を京都まで遣つて、花売節と云ふ譜を調べて、之に付けて呉れた。庵主は之を女義太夫の竹本素女に教へて置いたら、去る大正十四年二月六日に、博多の大博劇場に於て、故広助への報恩として此段を語つたとの事。当日は大入満員で、内外大入袋を出して祝つたとの事である。元来此段は他の物と違ひ、一滴の血の気も見ぬ悲劇である上に、お夏は清十郎と夫婦になり、許嫁のお梅は、清十郎の妾となり、お夏の兄の徳次郎は、愛妓小半と夫婦になり、お夏の父の徳左衛門も大安堵をなし、清十郎の父の佐次兵衛も、大仕合となり、お梅の母のお兼も大満足をなし、小半の抱主たる、土佐屋半六は徳左衛門から小半の身代金全部の支払を受けて喜び、悪者の太左衛門までが、お梅の貞節を聞いて発起し、鬼に法衣の得道をして旭蓮社へ出家したので、残る八人の者が、喜び祝ひの余り、暖廉の花色手拭を冠つて、
一同連節で花売節と云ふ歌を謳つて、総立で踊り収めると云ふのが段切である。
先づ枕には、引出の譜もあるが、 「三重」の方が好いと思ふ。『往昔は綸旨の紙も和泉路や』の「ハルフシ」は何も大時代に、最も古浄瑠璃の風で語る事。『湊の町に幾年か』から、世話に砕けて運ぶのである。「十日戒」の歌は太左衛門と云ふ悪者が、徳次郎と小半とが、此清十郎の家に潜伏して居るのを探偵する為め、酔つた真似をして「十日戎」の歌を謡つて、小半の履物を盗んで行く所故、此歌を謡ふ中は、声の高低や、足取も其心で謡ふ事。お梅に向つて清十郎が『アヽヽ……ひどふ痃癖がつかへた、コレお梅チト掴んでたもらぬか』と云ふと、お梅は許嫁ではあり、且つ惚れ抜いて居る清十郎の事故、嬉しさの余り、飛付くやうに、『アイナア』と云つて見たが、忽ちに身を控へた、夫は此頃清十郎父子が、主人徳次郎と其相方の小半を潜伏ひ、其小半の身代銀に屈托をして居るから、清十郎父子に愛想尽かしを云つて、自身身を売つて、其所用の金を父子に与へやうと思つて居るから、直に気をかへて、『ヱゝ私こそ縫物で肩が痛い、掴んで欲しくば按摩取を呼んで来たがよいわいナア』と云ふ、其心持が尤もスゲナキ中に無限の情合を含まする事。『ヱヽモ阿房らしいと云ひ捨てゝ、ばたくさ納戸へ走り行く』と語る時、『納戸へ』「チン」「ハーア」と云ふ時、名残惜しさと悲しさとで「ウレイ」の情を含んで『シイイ、リイイ』「ツントン」『ユーウウ、クー―ーウ』と心で泣いて、「フシ」を語る事、夫からお夏の出の『遠山颪』から『湊の町にさしかゝり』までは「ハルフシガヽリ」「半中」等、総て道行の心持で訳なく澱みなく面白く語る事。『内を見やれば清十郎』は「ギンユリ」にて落付いて語る。『シヨンぼりとした立姿』と「フシ」に語つて、尤も好き間で「テン」を消して弾く、夫に乗つて『見るより思はず走り寄り』と「マクレヌ」やうに語る事。お夏の「地中ガヽり」からは筆では書く事が出来ぬ。師に就いて修業する事。『跡は詞も泣沈む』の「スヱテ」から「チン」になる。此からが「半太夫ガヽリ」になる。之も師に就いて習得する事。名高き『お医者様でも神様でも惚れた病はなほりやせぬ』と云ふ、大近松の名文を乙女心を破らぬやうに語る事。夫からお梅の書置を、お夏が読む時に満場の涙を絞らせねば、比段の精神を破る者である。『兎にも、角にも、世の中に、あじきなきは、此身、斗りと、あきらめ、おしき、筆とめ、まいらせ候』と、モウ耐へ得られぬやうに泣いて読む事。夫から父徳右衛門が出て来て、万事愉快に解決して、八人揃いにて踊る「連れ引」にて段切となる事。