文楽 3巻2号 p38-42 1948年2月
参照:義太夫レコード談義 『上方』 義太夫レコード談義 『文楽芸術』 放送文化財ライブラリー保存目録 義太夫
鶴沢清八師は曽て私に云つた。浄瑠璃が好きになる事は極道と同じ事です。入つたら仲々止められません。私も一生抜けられませんでしたと。成程その通りかも知れない。文楽の人々が一生床で終つて苦にしないのもその土地であらう。素人義太夫でも、研究家でも深く入つてみる人は驚く程の執着を持つてゐる。かく申す私も義太夫レコードを集め出して二十余年になるが今だに中止する様な考へは毛頭持つてゐない。全く極道であらう。
何事も同じ事であらうが蒐集と云ふ仕事は根気だ。最近のレコード集めは根気がなくては出来ぬ。もう集らぬ事と諦めてゐると、ひよつくり珍盤が手に入る。又面白くなつて続けてゐると行き詰る。投げずに探してゐると又これはと云ふものが出て来る。此処数年間は之れを繰返し、繰返して何百枚かを手に入れて来た。然し最近は月に一枚、三月に二枚と云ふ様な遅々たる状態になつて了つた。一方昨今は義太夫レコードの如き売足の鈍いものは、流行唄と違つて出物があつても潰しに出される方が多い様だから益々以て手に入り難くなつて来た。殊に空襲と云ふ大破壊に遭つて貴重なレコードが相当大量滅失してゐる事と思ふから、古盤には戸籍調べが必要になつて来るかも知れぬ。一二の例を挙げれば五世住太夫、二世龍助の酒屋がその一つ。之れは東京の画家九里四郎氏の処に十枚揃つてゐるとか。同氏は幸ひに疎開しておかれた相であるから多分無事、今一つは大阪某氏の許にあつたが之れはその人も家と共に不幸に遭はれたから恐らく滅失してゐる事と思ふ。私の処には十枚の内九枚丈しかないが、幸ひに私の家は罹災しないので残つた。三世大隅太夫、三世清六の鰻谷は十一面続きのものであるが、所在の判明してゐたのは之亦東京画家大山一経氏の許に揃つてゐない数面、私の処に六面、その外は判らない。法善寺津太夫の白石噺二面は大阪高安博士の許にあつたが惜しい事には空襲で滅失して了つた。
摂津大掾、六世廣助の十種香は名盤とは云へないが貴重なレコードである事に間違ひない。此のレコードに関しては毀誉相半してゐるが、大掾の真面目が充分表はれてゐないものゝその妙芸は随所に窺はれる。結局大掾としては試験的に吹込んだもので、その出来工合には或は不満足であつたものに違ひあるまい。吹込後特に希望者のみに頒布すると云ふ条件が附けられたのは此の為めと思はる。然しそれかと云つて悪い演奏では決してない。大掾の妙芸は之れ以上のものであると云ふ事を念頭に置いて聴けば正しい評価が出来ると云ふ観方が正しいと思ふ。此のレコードは相当沢山発売されたからまだ市中に相当残つてゐるものと思ふ。
三世大隅太夫と三世清六の鰻谷十一面、壷阪七面、熊谷陣屋七面、鮓屋四面は明治三十九年二月と摘[推]定するが、之亦大隅の真価は充分に表れてゐない。却つて大隅としては不出来のものと観る方が当つてゐる様に思はれる。文楽古老に聞けば鰻谷の「鐘諸共に忍び出で」の「忍び」は実演はもつと凄いものであつたとか云ふ事、又実演で好かつた銀八がレコードでは縺れてゐる。然しその反面「跡打見やり女房は」とか「徒髪に留伽羅の」とか「ヤァきりきりな切殺し」などは感嘆措く能はざる名演である。東京某氏の許にあつたレコードであつたが譲り受けの交渉には一年半かゝつた。好意を深く感謝してゐる。壷阪は大阪で発見した、レーベルに何も書いてなく十二吋盤であつたので珍らしさうものと云はれてゐたので聴いて見ると紛れもなき大隅である。早速譲り渡して貰ひ、持帰る時満員貝電車に押潰される事を心配して態々帰り時間を延し、空いた頃を見てオーバーに包んで持帰つた事を覚えてゐる。中江兆民氏が感激した「夢が浮世か」は申すに及ばず、沢市の「面目ないわいのう」や「どうぞ花が咲かせたひなあ」等は妙技神に入ると云はうか、大隅が沢市の気持になり切つてゐると云はうか、至芸の極である。それよりも特筆したき事はお里のクドキである。大低[抵]「三つ違ひの」になると聴かせ処と気張る処であるが、大隅の語り口を聞くと少しもそこに一線がない。丁度落語の名人が枕から本文へ何時入つたか判らない様に話すあの自然さがある。云はゞ物語りに一寸節をつけたと云つた感じある。之れは私の持つてゐる旧コロンビヤ七面のレコードで始めて味へるので、大隅の壺阪にはワシ印吹込(三味線団平)のものもあるが之れは「父さんや母さんに」から始つてゐるので此の自然さが充分に感得出来ない。大隅の壷阪はワシ印吹込みの四面丈しかないと信ぜられてゐるが、実は外に今言つた旧コロンビヤの七面(十二吋盤)がある事を明にしておく。
法善寺津太夫(糸猿糸ツレ猿作、猿糸は今の六世友次郎)の猿廻しも大阪で発見した。之亦レーベルに何にも書いてなかつたが裏に津、猿廻しとコツピー鉛筆で書いたレーベルが貼つてあるので、兼々探して居た法善寺の津太夫に相違ないと思つて其の場で聞きもしないで買つた。五面続き物であるが惜しい事に最初の一面がなかつたので私の手許には四面丈しかない。買つた時からもう七年になるが未だに最初の一面が手に入らないで半端になつてゐる。其の後東京で第三・四・五面の三面を古道具屋で見附けたので重複を厭はず買求めた。法善寺津太夫には此の外前に書いた白石噺と外に沼津東路の五面がある。沼津は一枚丈持つてゐる。之も東京のレコード店が電報で報せて呉れたのですぐに返電して買求めておいた。レコーディングは極めて悪いが、古老に聞いて貰ふと法善寺の語り振が目の前に浮ぶ様 との事である。此の堀川は古靱太夫が邦楽同好会で数回に亘つて電気再生を試みられた様だが成功はしてゐないらしい。津太夫のレコードで思ひ出したが、大正十四年の頃であつたかと思ふ、銀座の天賞堂が名人レコードとして大掾の十種香、大隅の鮓屋と陣屋、津太夫の堀川等を売出した事があつた、当時私は大掾や大隅のレコードは持つてゐたので買ふ気はなかつたが、津太夫の堀川猿廻しに注意を惹かされた。が当時法善寺が吹込んだものがある事を少しも知らなかつたので之れはてつきり三世津太夫(三味線が猿糸即ち今の友次郎である為め)とのみ思ひ込んで見送つた。其の後之れが法善寺のものである事が判つて早速天賞堂へ注文したがもう売切れてないとの返事。実に残念でならなかつた。其の後此のレコードを尋ね探す事十余年、或る夏の暑い夜大阪の古レコード店で之れを見出した時の喜びは口にも何にも出せない程であつてレコード蒐集の面白味をつく/”\味つたものである・今一つ津太夫レコードに就いての話。それは沼津である。元来旧コロンビヤ盤の続き物はレコード番号は一本でABC……に依つて盤数を追ふ様に出来てゐる。例へば大隅の鮓屋は四面であるが、番号は二八七四Aが第一面、二八七四Bが第二面、第三面は同番のC、第四面は同番のDと云ふ風になつてゐる。津太夫の沼津は五面で番号は二八九五であるから二八む九五のA−Eとなつてゐる筈である。処が手に入れた沼津の一枚は「アイタ/\/\それ見やきつい事をしたの」以下でレコード番号は二九一二Aとなつてゐた。すると前言つた二八九五とは別の沼津であるのではないか、即ち津太夫の沼津は二種あるのではないか。も一つ疑問を起せば沼津に東路と、平作内との二種があるのではないか。今迄調べた処では東路丈で平作内は吹込まれてゐない事が確かであるが、或はその調査が粗漏であつたのではないかと云ふ疑問が生じたのである。それから後一生懸命になつて津太夫の吹込を調べて見たが、平作内の吹込まれてゐない事は判つた。すると二八九五番と二九一二番と二種の番号をどう解するかである。処が神戸の或る古本屋で天賞堂のレコード型録を見出した。それに依ると津太夫の沼津に三面と二面と二つに分けて書いてある。すると東路五面の内最初の三面が二八九五A、BC、終りの二面が二九一二A、Bと解せば私の持つてゐる一枚が五面の続きの第四枚目に当ると云ふ推定が出来る。之れで多分間違ひないと思つてゐるが此れ丈の調べに数ケ年を要した事もあつた。
次に九世染太夫、三味線四世廣作のレコード。何吋[時]であつたか此の廣作を弦阿彌廣助であると放送された事があつた。成程弦阿彌廣助は染太夫を弾いてゐた事がある。然しレコードの吹込まれた年代を調べればこんな間違ひは決して起らない。此の廣作は仙昇と云つてゐた廣作で四代目である。同じ様な間違ひは大掾の十種香の三味線廣助を五世廣助即ち松葉屋廣助と云つてゐる人があるのと同様である。之れは六世廣助即ち之れが弦阿彌廣助で松葉屋廣助では決してない事も吹込年月を調べれば明かである。此の染太夫と廣作のレコードには太十が四種、旧コロンビヤ盤に堀川鳥辺山、合邦等の十二吋盤、ライロホンに寺子屋、宿屋、八陣、組打等がある。堀川鳥辺山は四面であるが最初の二面丈しか持つて居ず、而も此の二面の内の一面はダブツて手に入れる事が出来たが後の二面は其の後十年程になるが未だ手に入らない。もう恐らく入手出来ないものと諦めてゐる。又ライロホンの八陣は二枚(四面)であるが之亦第二枚目許り手に入つて第一枚目がどうしても手に入らぬ。妙な事があるものと思つてゐる。太十は旧コロンビヤに十吋と十二吋の二種、ライロホンに一種、ミカドに一種と都合四種あるがライロホンの分はパーロホンで電気再生したので音は大きい。然し出来の好いのは何と云つても旧コロンビヤ盤の十吋盤十一面である。十二吋盤十枚の方は染太夫が吹込時に夢中になつて了ふので一面の終りになると合図に頭を拳固で叩いて貰ひ乍ら吹込んだと云ふ面白い挿話のあるレコードである。ひどいのはミカドレコードの四枚(八面)である。ミカドレコードは複写盤が多いからこれもどれからか複写したものと思はれるが未だにその原盤が分らない。各面の初めに「イタラレコー」と云ふ妙な合図言葉−−勿論染太夫の声ではない−−があるが何の意味か分らない。極めて拙劣な吹込みで回転にもムラあり、御両人にとつては誠に気の毒千万な代物である。
三世南部太天のレコードではワシ印の寺子屋(三味線猿糸即ち今の六世友次郎)が一番知られてゐるが、此の外旧コロンビヤに三味線鶴沢鶴太郎即ち今の二世鶴沢清八で寺子屋と堀川と野崎がある。堀川の語り口は古老に云はすと摂津大掾そつくりとの事であるからその意味で貴重品と云へやう。十二吋二面であるが私の処には其一の一面丈しかない。之も第二面はもう入手不能であらう。野崎村も十二吋二面であるが其二が一面しかなく第一面はどうしても手に入らない。
其他初代七五三太夫、春子太夫、朝太夫等のレコードもあるが型録式になつて興呼[味]も尠いと思はれるから省略する。
三世津太夫が文太夫時代に吹込んだレコードも数面ある。三十五六歳頃と思はれるが津太夫の声はその頃から嗄れてゐた。之れに反して今の古靱太夫がつばめ太夫と云つてゐた時代のレコードを聞くと今と全く違つて朗々とした美声である。
三世津太夫、三味線六世友次郎のレコードではワシ印の河庄三枚(六面)が好きである、あの難声で小春の色気は何とも云へない情趣に満ちてゐる。結局義太夫は話術である。声の善悪は第二義的のものである事を此のレコードでつく/”\と成得した。発売当時はこんな嗄れ声のレコードはと非常に不評であつたとか云ふ。情ない話だ。電気吹込になつてからはコロンビヤで発売した沼津十二枚(二四面)が圧巻だ。義太夫レコードの最高峰であると断言して置く。義太夫レコードとして何が好いかと聞かれる時は躊躇なく此のレコードを推奨してゐる。ポリドールからも吹込の依頼があつたが実現に至らなかつた。キングからは堀川猿廻しと御所桜の二種しか発売されてゐないが沼津も吹込まれたのにどう云ふものか遂に出なかつた。
六世土佐太夫はワシに十二種吹込んだが発売されたのは紙治、酒屋、壷阪、先代萩、柳の五種に過ぎなかつた。キングには電気吹込で柳、酒屋、朝顔、壺阪の四種があるが此の酒屋が一番好いと思つてゐる。土佐太夫はレコードより実際の方が数等好い。レコードで聞き劣りのする損な方だ。
古靱太夫は非常に沢山な吹込をしてゐる。つばめ太夫時代から相当な数である。好いと思ふのは三世清六の糸でニットーへ入れた堀川である。之れは古靱も張り切つてゐるし、それに清六の三味線が実に素晴らしい。数多い堀川のレコードの内の第一であるが惜しい事に旧吹込の為め太夫も三味線も充分に音が録音されてゐない。電気吹込になつてからは寺子屋が文部大臣賞を授けられた丈あつて立派な出来、殊に源藏戻りの処は絶妙であるが惜しい事は終りの方に省略のある事である。もう一枚増せば完全となるものに惜しい事をしたものである。然し私の好みからすれば寺子屋より合邦の方を採る。どうも此の方が古靱の真価がよく出てゐる様に思ふ。此の外吹込んで発売されなかつたものに良弁杉、三味線重造、邦楽レコードの十一枚、岡崎、三味線四世清六ニツトーレコードの十三枚、野崎村、三味線二世新左衛門ニツトーレコード十三枚があるが之れは一般に知られてゐない。良弁杉は古靱師及ニツトーレコードの森下氏の手許に珍蔵されてゐたが惜しい事に原盤と共に空襲で滅失して了つたらしい。又岡崎と野崎は大阪川島清藏氏の許にあつたが之亦空襲で焼けて了つたと思ふ。何れも数組プレスした丈であるから殆んどなくなつて了つてゐるであらう。櫓下記念に熊谷陣屋を一段完全に吹込んで貰らうと思つてゐたが邦楽同好会も焼けて了つたので未だ果さずに居る。時間を計つて見たら十六枚(三十二面)と云ふ大物となる。此の古靱のレコードの内-三世清六の三味線で入れた加賀見山又助内に珍らしいミスがある、と云つて古靱、清六のミスゆではないレコード会社のミスである。と云ふのはこうだ。第三枚目の表即ち第五面はレコード番号が三三七Aに当る。然るにレコード面にもレーベルにも三三七Aとあり乍らその実第二枚目の表即ち三三六Aがプレスされてゐるレコードがある。レーベルの番号違ひと云ふ事は印刷の間違ひである事もあらうがレコードに迄番号違ひがあるとは驚いた。余り例のない手落ちである。だから第三面と第五面即ち二枚目の表と三枚目の表が同じ物がプレスされてゐるのである。而もレコード番号は追番になつてゐる。
間違ひと云へばレーベルの印刷違ひは甚だ多い。大隅太夫が隅太夫に。春子太夫の三味線に豊沢団平と云ふのがある。之れは珍らしいと思つて試聴して見たら矢張り新左衛門であつた、題は鈴ケ森。錣太夫、吉作の鈴ケ森ヒコーキレコードのレーベルは第二枚目が表裏反対、源太夫の逆櫓に三味線が豊沢仙松、仙松が源太夫の三味線を弾いた事があるのかと不思議に思つて調べて見たら野沢吉松の誤り。源太夫のレコードには三味線名の落ちてゐるのが多い。旧吹込では阿古屋の琴責オリエントレコードは竹沢団六(今の三世寛治郎)又コロンビヤの三十三間堂及太十は豊沢仙糸であるが之れ等は何れも三味線が書いてない。一本箸で飯を喰べる様な気がする。呂昇のレコードにヒコーキ印壷阪で妙なのがある。と云ふのはヒコーキ印は随分色々なレコード会社が使用してゐるが旧吹込のヒコーキ印壷阪は番号一〇六五と云ふのがある。同じくヒコーキ印ではあるが電気吹込の壼阪が同じ様に番号一〇六五、偶然の一致と云へやう。呂昇は仲々宣伝家、旧コロンビヤの先代萩の第三面の終りに「私は呂昇で御座ります。どうも御退屈さま」と。旧ビクターの壷阪第二面の終りは二十五秒程無音の処あり、又同じく旧ビクター十二吋紙治の最初十秒程は吹込の時回転が落ちた為めか嫌に声が高くなつて暫らくすると元の音に戻つてゐる。こんな失敗盤をよく平気で売出したものだと呆れる。
どのレコードを見ても書いてない事だが、吹込年月丈は是非はつきり記入して貰ひ度いものと思ふ。尤も販売政策上出来ないのかも知れないが、後々に非常に困る事がある。津太夫とか古靱太夫とか長年に亘つて吹込みしてゐる人になると年代に依りて芸の変化が生ずるのは必然でそれはレコードに吹込年月があれば其の点を調べるに非常に役立つ。又同年代の吹込者を比較する時はその時代の芸風が略見当附く。之れはレコードに吹込年月日が記入してあれば容易に調べられるがないので調べるのが容易でない。番附、太夫と三味線、レコード番号等を比較対照して漸く推定を下す訳だが、レコードに吹込年月日が記入してあれば此の労力が大いに助かる。之れを実行してゐるのは邦楽同好会のみ。平面盤としてのレコードの最初の吹込は明治三十四年、爾来今日迄約四十五年、此の間時代に依り語り風に相違がある事を発見した事はレコード蒐集に依つて得た一つの収穫であつた。
私は義太夫レコードを集め初めてから約二十年余になるが今手許には約二千枚程になつた。自分の蒐集癖からであるが然し私の念願は今の文楽の人々なり、愛好者の方々に利用、研究して頂き度い事である。然し貸与する事は困る。それは散逸と破損を憂へるからである。もうかへ替のないレコードが相当あるのであるから出来る丈大切に使用したい。それには使用する蓄音機も一定にしてサウンドボックスとレコード面の角度を常に一定にして溝に無理を与へない位注意してゐるのであるから成るべく門戸を出さぬ様にしてゐる。それ故来て聞いて頂く分に幾ら御聞き下さつても構はぬが、持出して勝手に聞かれる事は絶対に断つてゐる。尤も私が持つて行つてかけるのなら何時でも応じる積りでゐる。その時は私自身が相当な注意を払つてかけるからである。
今度は義太夫レコードの総型録と云ふか、総調べと云ふか、兎に角玄人、素人を問はず義太夫レコードと名の附くものを全声部一覧表に作り上げてゐる。過去現在に亘つたものの内九割迄略調べ上つたものと確信してゐるがレコード会社の型録が手に入らなくて全部を尽してゐないレコードが二三ある。蓄音機店でも古い型録は大低棄てゝ了つてゐるので仲々調査し難い。之亦レコード蒐集と同様根気仕事になつて来てゐる。三世津太夫、三味線友次郎のワシ印吹込逆櫓は私が調べたワシ印型録のどれにも見当らなかつた。或る人から此のレコードがあると云ふ事丈を聞いてゐたのでそれを便りに此処数年間探してゐたら最近漸くそれを入手する事が出来た。ワシ印の如く相当型録が多く残つてゐるものさへ此の様な状態である。又ワシ印の型録の何時発行の分だか忘れたが津太夫吹込として御所桜二枚あつた。珍らしいと思つて番号を頼つて物色してみたら之れは型録の誤り本物は源太夫の吹込みで明かにミスプリントであつた。此の為め津太夫の御所桜を一年許り探しあぐんだ経験もある。以上で略予定の紙数も尽きた。此の上名人の吹込レコードの個々に関する解説もしたかつたが、それをしてゐると本稿の幾倍否十数倍になると思ふので之れは他日に譲る事とする。が義太夫レコードに関する事は何時でも御照会願ひたい。そしてお亘[互]ひに調査、研究を交換して益々深く探り下げたいと思つてゐる。私の住所は神戸市須磨区行幸町二丁目一一七である。
(義太夫年表大正編にも大半が転載されているp101-113)