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【竹本長尾太夫 睦佳詩野志雄里 (昔之枝折)】

(2016.07.02)
(2018.03.28補訂)
提供者:ね太郎
 
竹本長尾太夫(元天王寺村庄屋井川与三左衛門) 睦佳詩野志雄里 淨瑠璃雜誌 89〜98號
      (一) (二) (三) (四) (五) (六) (七) (八) (九) (十)  
 
 木谷蓬吟 文楽史に一部轉載
 付:参考資料
 
 
故長尾太夫自記傳(一) 浄瑠璃雑誌 89號 pp4-10 明治43.10.10
 
 初代長尾太夫が自ら筆を執つて遺したる同太夫の斯道一代誌は名けて之を睦佳詩野志雄里と稱へ其子鱗糸に教訓として傳へたるを當代春子大夫が三味線彈たるの時代則ち小鱗と稱して鱗糸とは師弟の縁故(此の關係に就ては本誌第五十六號及第五十七號に詳記しあれば參看あるべし)よりして此の一巻を譲り受け大切に保存し居るが徒らに之を筐底に秘し置も何等益する所なければ斯界の參考にもならんかとて今回弊社へ寄贈し來りたり繙いて之を閲するに上は幕末時代の政治の状態より下は同大夫が素人より起つて大夫となりし辛酸困苦に至る迄一読當時の現状を窺ふに足るものあり、勿論文章の巧拙良否は問ふ所にあらず、只だ此の自傳が確かに後進の見て以て倣ふべき價値ありと信じ、茲にその原文の儘を抄出し弘く読者に紹介す(吾笑述)
 
 睦佳詩野志雄里
 自序
 夫人之身の大切なるは素性なり。況や生國を退去して他の國に住居すれば我氏素性を明細に知らずんば後難あらん事はかりがたしと。ある翁のいひつる事を聞て熟々[つらつら]思ふに我悴鱗糸は幼稚のころに古郷を連て出たれば素性筋目をしるべきやうなし是をしらせ置ずんば有べからずと風[ふ]と思ひよりて昔之枝折と表題して此一括の本となしたり又筆の序に過にし我喜怒苦樂のあらましを告しらせんとするに世の譬への如く恥をいはねば元がしれぬと隠せし事の幾條をも書顯はしたり。是は所謂懺悔物語りなれば若他見の人もあらば笑ふことなかれ。
 又言 若輩の悴よみやすきやうにカナを附たり且は文字違ひもあらん歟推讀有べし
  當時藝名 竹本長尾太夫
  同 實名 米井屋洗平
  後に   井川洗平と改む
 
 一我生家と云ふは攝州天王寺久保町桑野氏米屋治郎兵衛迚數第連綿たる質屋商賣之舊家是なり舎兄治良三郎は家督を續弟之我幼名辨次郎と呼れ庄官井川家の養子相續人となる抑々井川家之由緒と申は往昔四天王寺聖コ皇太子之御家臣井川主計[かずへ]也。後に至つて四天王寺領千四百石餘、天領五千七百石餘と分地之砌井川先祖いかなる故にや、天科[てんれう]之庄官となれり、數百年の星霜過ぎて一旦斷絶の所組下[くみした]百姓より辨次郎を以て家名再興す。末世の辨次郎代となりても四天p5」王寺御用出勤の時は昔之格式熨斗目帶刀なり又天科[てんれう]御用出勤の節は袴帶釼上訴の家ネ則御代官嶋田采女殿より辨次郎十五歳[文政6]の時見習ひ役申付られたり。其頃は天王寺庄官松本藤左衛門次ぎは青木孫三郎末席は井川辨次郎此三役なり。後年に町奉行組与力大鹽平八郎の爲に松本青木兩人とも一時に退役す。是によつて辨次郎廿三歳[天保2]の夏井川與三左衛門[よさゞゑもん]と改名して本役に直り五千七百石の大村[たいそん]一人勤と相成威勢倍せり。其折柄實家の親類大阪安堂寺町五丁目河内屋平右衛門の媒介にて島の内宗右衛門町榎並屋仁兵衛といふ質屋の娘梶女を妻に娶る(此梶女は政之介當時藝名鶴澤鱗糸の實母なり)其後實父治郎兵衛死去して兄次良三郎跡目相續人となりてより井川家附の古借[こしやく]濟方[すみかた]の助力なりがたく扨又薄禄の井川なれば段々と新借金相増といへども與三左衛門若輩の跡先なく日夜遊藝に遊ぶ。
 其遊藝の始りは先第一に謠なり江戸觀世三十良[らう]誓約の門人と成り京都井上次郎右衛門の取立大阪葭井八郎兵衛の稽古なり、太皷は大阪梅原篤十郎の門人、狂言は泉流にて師は大塚半太夫と申て相役松本氏の遊客なり。馬は天王寺綿屋町に閑居せし紀州の浪士中尾一の門人なり。生花は京都の池之坊花方の役人林々齋の門人なり。歌道は大阪船越町村田春門の門人なり。茶道は京都千家表流にて四天王寺松濤庵の高弟なり。其外大弓半弖揚弓歌舞伎狂言に戯れ遊び其上新町堀江島の内阪町なんどの茶屋遊びに通ひ名有る藝子に大金を費せし事過分なり。是等の遊藝は世間晴てなしたり。爰に役ネの身分故に密に忍び/\に稽古せし遊藝あり是則淨瑠璃道なり十八歳の頃[文政9]より天王寺に花澤秀輔といふ稽古屋ありて此方へ風[ふ]と淨瑠璃の稽古に行きて始めけるが初床[はつゆか]より評判よくて人に讃らるゝが嬉しさに乘がきて淨瑠璃が第一の熱心[しうしん]となりいつの間にやら世p6」間へ知たるも搆ず語り散らし頓て大阪嶋の内鶴澤平三[へいざう]方へ弟子入する(此平三事は今江戸にて花澤伊左衛門三糸の事なり)夫より大阪の稽古屋日の常[つね]、豆丑、餝仙[かざりせん]、堀江の大介(此人は豊澤仙糸の親なり)、又は竹本千賀太夫(此人は豊澤團平の親なり)、斯の如く遠方の厭ひなく數軒の稽古屋へ駈廻り追々淨瑠璃道上達によつて俳名を蕪玉[ぶぎよく]と名乘る、是は名産天王寺蕪の蕪といふ字をとりて蕪玉とせしなり、友達の連中には松若[せうじやく](鴻池善右衛門の事なり) 蔵王(三臓圓吉野五運なり) ろ十 (手うち連笹瀬のろ十の事なり)東司[とうし](藍玉の組太夫なり)燕士(此人は靭太夫なり)此餘は略す。相三味線は天王寺河堀口[こぼれぐち]箱熊の息子卯之助後に鶴澤九造となり又後に二代目鶴澤勝右衛門と改名す此餘は略す。干時[ときに]天保十四年卯の四月同所若松屋傳兵衛藝名竹本長門太夫殿の内實の門弟となる素人といへども淨瑠璃道熱心によつて長尾太夫と名免状[なめんぜう]を申受け因講に加入す(此大夫名を貰ひ因講に加入するにつけてはむつかしき譯あれども略す)其時分には浪花に素人淨瑠璃の好者[すきしや]名高き語り衆數百人も有るが故に大番附南北二枚に別る、南の大番附大關に天王寺長尾と摺りいだして世上へ顯れたるにつき益々自慢天狗となれり。
 此三ヶ年以前より松本の悴源之助青木の悴藤三郎又新規の庄屋に健次郎(後に大浦五郎兵衛となる)右三人の見習ひ庄屋出勤す、此新規の衆に代勤させて此方は日々夜々唯淨瑠璃のみに氣を奪はれ大切の御用にあらねば出勤せず。去によつて長尾といふ名四方に響きて既にもつて御役所にても與三左衛門と呼ず長尾々々と俳名を見[めさ]れたる程なり。然るに井川の古家[ふるや]大破に及び雨もり壁落ち柱廻り腐り門塀崩れかゝりて荒たる故普請の手當金迚はなけねども時の勢ひに乘じて古屋敷を取拂ひ新に大造[おほづくり]なる家宅に建替たり(此屋p7」敷今は天王寺の總會所となる當會議所是なり)
   記者曰く歳月の過ぎ移ると共に變遷幾回を經たれば當時の俤の偲ぶべきものなしと雖ども地形を案ずるに此屋敷は恰かも舊阿倍野街道と平野街道との接觸點則ち角屋敷なりしと思ふ之を現時の町名にて示せば谷町筋天王寺大道筋[だいだうすぢ]東南角と云ふべきなり尚記す今は谷町筋の新道開通して一直線となり居れども昔は谷町筋を西に迂回して天王寺を避け居たるは未だ世人の記憶に存するなるべし、只だ僅かに舊時の名殘を留むるは西側の金蓮寺[こんれんじ]のみにて現住職は大浦惠暢師と云へり
 此普請門塀立派に玄關廣間書院座敷廻り十分手廣に建つらね居間の二階よりは北手に伽藍を見て音樂を聞き東は生駒葛城山の遠見四季ともに見晴しよく又七疊半の茶の間は松濤庵の好にて建たり。扨三八の日を釜日[かまび]と定めその當日には朝より茶友の客來り出入方の茶道具や四人宛手傳ひに來る程の多客にて酒飯を出す時は恰も料理屋の如き臺所廻り混雜なり。妻の梶女は子供の世話多く客の饗應ぶり行き届かず是を呵りちらす短氣の我儘に妻女大に困りて後にはお竹といふ娘を腰元に召抱へ茶の間の用を引受させたるが此娘を妾になしたるより釜日來客の節妻女は一苦逃れたり。右普請は皆他借金を以て成就したるが故に元よりの古借新借の上へ普請の他借相嵩みて凡千両餘りの大借[たいしやく]となりて漸く始めて氣か付驚き惘然たり。
 夫より種々無量に金繰の工夫懇丹を廻らしたるが有時幸ひの金設[かねまうけ]の蔓にたま/\有付といへども其圖をはづして大望ならず。此金設といふは河内大地[おほち]村の百姓茂右衛門と大阪本町四丁目の質屋ふじや如實との死跡[しせき]出入の公事を茂右衛門の親類天王寺治良右衛門より此方へョれたり尤此出入一旦金二十両の遺物[いぶつ]にて相濟たる所親類承知せず是によつて此p8」方相掛り二十両を差戻し東奉行所へ死跡御糺[おんたゞし]出入を出訴に及びし所此方の願書[ねがひしよ]理に當り御取上に相成寺社方御役所の御吟味となり相手方ふじや如實急束[きふそく]の御召出しに相成といへども七十歳以上の老尼故本人出る事叶はず相手方大難澁となつたりそこへ付込嚴敷對談に及び遺物代[かたみだい]銀二百貫目金[かね]に直して三千両餘なり是を取つて願ひを下げ出入落着したり始め二十両にて濟たる出入此方引起し三千両餘の大金を當然の理を以て茂右衛門に取つて渡したる事抜群の手ネなり、しかも日數七日の對談速に勝果[かちおほ]せたり。右之内千両は此方へ謝禮として受取べく段茂右衛門と堅く内約を致し置たる所茂右衛門悪慾起つて約定[やくぜう]違變に及び三百両を謝禮に持來りて手の裏を返したる如き不實の致し方言語同斷なれども内約の事なれば表立[おもてだち]應對もならず殊更公事の腰押は御法度の事なれば強ひてもいはれず身分重き故泣寝入に濟せたり。此出入約定違はず千両此方へ入金に成らば井川家永續すべし鳴呼かゝる大功を立ても事のならざるは如何にと終には心底に匙を投たり。後年に至りて長尾は淨瑠璃故に身代を潰したりと專ら世間で噂すれども中々以て淨瑠璃では譬へ薄禄たりとも潰れる事にあらず恐るべきは茶道なり恐るべし/\。
 扨心に匙は投るといへども因縁有つて一旦井川の相續人と成たるからは粉骨碎身しても永續の基を立度[たてたく]。所詮薄禄の爰に安閑と居ては願望叶はず他稼[たかせぎ]をせばやと思へども悴三人とも未幼年なり又同役三人とも若輩にて此方出頭の重役なれば猥りに退身なりがたくいかゞせんと晝夜是而巳を思ふ所に不思議の縁有つて泉州堺櫻の町大道鐵砲や松本卯左衛門の舎弟十八歳に相成猶二郎といふ者百両の持參金を以て養子に來れり全く是は由緒有家を規模なり則ち實家米屋治郎兵衛の娘ひさを貰ひ請て婚禮さて直様猶二郎を見習ひp9」役に出勤させたり。爰に大阪長堀富田屋橋北詰に高津屋[かうづや]重兵衛と云ふ材木問屋あり此人年來操り芝居の金主[きんしゆ]にて此内に江戸より來りし他三郎といふ手代あり此他三郎何れにて聞たりけん我淨瑠璃を深く執心せら有時手筋を以て此方へ江戸出勤を申來る折節此方金子上納の手尻不足にて色々と才覺すれども調達出來ず實に僅かの金子故既に役向にかゝはるべき手詰必至の難儀の時なり悴猶二郎の代勤有れば他稼の時節到來せりと思ひ。日光拜禮の願ひ百日の御暇[おいとま]の願書差上たる所御聞届けに相成夫れより彼の高津屋重兵衛に對談致し日數百日百両の給金諸雜費先方引受の應對出來たり。皆金[かいきん]百両受取り上納深[すま]し先心配を逃れ我太夫名を貰ひ置たるこそ幸ひ則竹本長尾太夫と名乘り門弟壽太夫(此人壽聲と申素人よりの我弟子なり)鶴澤九造(今の勝右衛門なり二枚目引[まいめびき]に連行く)(記者曰く後に五代目清七となりしは之れなり則ち當六代目清七の先代なり)江戸案内他三郎(此人は今出世して歌舞伎芝居の金主あこや親方の事なり)高津屋重兵衛の手代桝重その外荷持二人都合七人連れ三月廿一日[弘化4.3.21]發足して東海道を下る、此方三十九歳の時なり(此方留主中庄屋四人勤めなれども年かさに付大浦五郎兵衛頭[かしら]どる)程なく江戸石町[こくてう]四丁目假宅へ安着して四月十五日[弘化4.4.15]より両國の席へ出勤三味線は鶴澤市太郎なり夫より江戸所々の寄塲[よせば]へ出勤の所藝運に叶ひ段々と評判よく五月節句より益々大入繁昌し、盆に至りては巴太夫、勤[うつぼ]太夫同格の大入となる、是は全くの所鶴澤市太郎引立故なり江戸その時大番附に大關豊竹巴太夫、豊竹靱太夫、關脇竹本長尾太夫、竹本中太夫此餘は略す斯く迄に江戸評判上首尾金主も藏入[くらいれ]出來て滿足せられたり(以下次號)
 記事白く、是より因講から出動差止談に移るp10」
 
伝記 故長尾大夫自記傳(二) 浄瑠璃雜誌 90號 pp4-11 明治43.11.18
 
 然る處因講より呼に來り、早朝に行司宅へ罷出たる所江戸古老中老衆連座なり、其人々には竹本越大夫 竹本津賀大夫竹本咲大夫竹本伊勢大夫、竹本富大夫等なり、津賀大夫發言して言ふ様、大阪竹本長門大夫殿より此書状來る、早々見よと一通の状を投出したり、此方開き見る其文に曰く、此度其御地へ罷下り候長尾大夫事は、内實の門弟にて家業にする者にあらず此方へは江戸淺草御藏米納[べいのう]御用に付發足と申て暇乞に來り、跡にて聞ば金主附き添罷下り御地寄塲を働く爲のよし、此者は井川與三左衛門と申て當村庄屋の筆頭にて、家業には決て仕らぬ堅き誓約を立て門弟としたり、然るに御役所表は日光拜禮と偽り師匠へは米納[こめをさめ]御用と欺き罷越候段重々の不届故此書状着次第出席御差留下さるべし、との文言なれば恟り仰天して閉口する、其時咲大夫進み出、我れは長門大夫の高弟にて大阪門弟衆中へ年八の文通するに未だ長尾大夫といふ名は聞ず、扨は汝[うぬ]餘他者[よたもの]か、素人の分際で此大江戸へ來て語る抔とは大膽者、今日より出席無用とさも横ネに喚く、短氣の我れ忽ち心中怒ると雖も、差當り金主へ氣の毒と心附き疎忽に返答せず暫らく無言なり
 此咲大夫は師匠の弟子にて先年大阪にては序切を勤め、由良大夫と云ひし人なり、此人を始め江戸中の大夫我席の大入を偏執[へんねし]の所へ、師匠よりかゝる状の來るを以て勿怪[もつけ]の幸ひとして無禮の雜言なり、此人後年大阪へ戻りけるに、大阪に咲大夫有る故に名を改め、出雲大夫となり、若大夫の芝居に於て師匠座頭にて、佐倉宗五郎の新物興行の節、淺草の塲を勤む、[嘉永5.9]此時大入にて見物山の如く這入、出雲大夫は小音[せうおん]にて聞へず、見物よりゑらカスに就き中途にて幕をしめたる程の恥p4」をかき引込、翌日より利大夫[としたいふ]變り勤む、其後何れよりも抱へる人なく新町にて死去す。扨此方申には,師匠より差留の書状來りし上は仰の通相休申べし、併しながら、左様にしては金主へ誠に申譯けなし、今晩書状相認め明日より四日切りの早便りにて飛脚を出し候間、再度師匠より返状の來る迄出席御免下さるべし、其上是非とも相ならぬ書状なれば其節金方[きんなた]へ斷り申入相休み候とも少々は申譯も有る道理に候といふに、伊勢大夫、富大夫兩人詞を揃へ是は尤もなり本人は格別金主の迷惑なり再度の返事來る迄大目に見てよからうと挨拶すれば越太夫取敢ず承知したり早く飛脚を出さるべしと古老の捌きに其塲は納る
 此伊勢太夫も後年大阪へ戻り、天滿の芝居へ出勤して評判よく姫路にて死去す、富大夫も後年大阪へ戻り若大夫となり又近頃巴太夫となりて油掛町にて死去す
 我は其夜半紙十枚計りに井川借財濟方[なしかた]の爲めに是非なく他稼の次第又暇乞ひに參り候節打明かして申度口迄は出たれども餘り赤面の譯合[わけあひ]故米納[べいのう]御用と偽り候段用捨下さるべしと細々と書認め四日切[かぎり]の書状を出す、手代桝重此由を聞て申すには最早蔵入[くらいれ]相濟み跡の日數は皆利コなれば再度差留に氷るならば夫れ切りに止めて歸國すべしさのみ心配に及ばぬ事といはるゝ傍から他三郎腕まくりして、ナニ江戸の粕大夫めら大阪から何をいふて來ても百三十里も隔つてあれば出席して居ても恐れる事じや子エ、あいつらこつちの席の大入を偏執[へんねし]から意地悪くぬかしやがるのだ、搆ふ事は子エ家業づくだ、ぶんなぐつても休やし子エべらぼうめと早江戸ッ子の喧嘩腰、桝重手を上げてヤレ手荒い事はお赦し。大阪の仕打はちいさい了簡ではなし。長尾様をよた者とぬかす咲太夫こそ片腹痛し淨瑠璃の源[みなもと]三都第一の大阪の鏡にかけた藝なればこそ旦那が大金を出しp5」て抱へられたり。聞覺への藝とは憚りながら譯が違ふと銘々我を贔負の肩持詞ぞ有がたし、且又日數十四五日過ぎて大阪より返書來る、此度は因講へ一通、此方[こなた]へ一通來る、急ぎ披見するに井川家借財濟方[なしかた]の爲とは更に存ぜず疎略の段眞平用捨あるべし、又元來家業には決してせぬ約定あれども最非なし、此上は表向赦すべし、猶又身怪き者近來太夫に相成といへども昔は歴々の衆が太夫になつたる事なれば恥辱にもあらず、此上は當時江戸に居合す太夫の首悉く引提て歸國あるべしと勵ます文段皆々踊り上つて勇み勇んで大悦する事大方ならず、其翌朝因講より朝太夫來り大阪の返事が來て濟みました、勝手に出席あるべしと告げ來り事濟なしたり、
 干時[ときに]天王寺の御支配は代官竹垣三右衛門殿江戸御屋敷両國橋東通り本所にあり、此御屋敷の御留主居役人五輩あつて筆頭の元〆を石賀漣平といふ、或る日此石賀氏より呼びに來る故罷出たる所、玄關の次ぎ使者の間へ通し程なく石賀漣平殿立出敷居を隔て上座に座す、尤初對面なり石賀我れを急度見て其方事は當御支配天王寺の名主井川與三右衛門といふ者なるよし、その噂先達て此方の聽[きゝ]に達し心得ざる故早速大阪役所へ尋ね合はしたる所相違なく、尤日光拜禮の願ひを上て來たる由、一村の名主として數百人を預り政道を取捌く身柄を以て寄塲[よりば]へ出て木戸銭を取り河原者の業躰をなす段不届なり、自今相止早々歸國すべしと大音にて呵り付たり、ハツト恐れ入平伏せしが心靜に答る様恐ながら私の舊家借財相嵩既に斷絶にも及ばんと手詰の難儀によつて此段大阪御役所、御引受元締宮部潤八郎様へ内々委細を申上即ち宮部様より殿様へ内密仰上られ御聞濟有て日光拜禮の願書を差上表を錺り内實は御當地へ他稼に罷出たる段毛頭相違之なく疑敷ば今一度大阪へ御問合下さるべしと言上す、石賀重て云ふ、譬へ内實聞濟有たにもせよ歸國の上は元p6」の名主ならずや、然らば其身柄を以て河原者の行跡不埓なり、我れ江戸留守居役を蒙り支配下[しはいした]不行跡の者眼前赦しがたしと居丈け高に云ふ、此方少しも憶せず、河原者の業体は決した仕らず何を以て河原者と仰らるるや、石賀彌[いよ/\]怒つて河原者の証據を云聞さん、汝知らずや歌舞伎芝居の番附を見よ淨瑠璃竹本何太夫と書顯してあり、其方も淨瑠璃の太夫ならば河原者にあらずや、否夫れは譯柄を御存知なき故に河原者と思し召すも御尤もなり、歌舞伎芝居の淨瑠璃太夫はチヨボと申て我淨瑠璃太夫の仲間の外なり、彼等我輩[わがともがら]の仲間に加はらんとする時は足洗ひと申事を致さねば近寄る事も叶はず、併し是等の論は無益なり明白なる證據を申上ん、近頃御改革御趣意の節大阪町奉行所に於て御吟味有つて、歌舞伎役者共は道頓堀川八町限りの住宅、亦淨瑠璃太夫は市中住宅勝手たるべと事極る、是を以て淨瑠璃太夫三味線彈は河原者にあらざる事御賢察下さるべしと云ふ、是を聞て石賀はムーと思案の躰なりしが、如何様御當地にても役者共は猿若町へ退き淨瑠璃太夫三味線彈は御府内の住宅なり、然らば淨瑠璃太夫は河原者にあらざる事聞届たり、去ながら三味線に合せ語るからは、畢竟女童の慰み物にて新内豊後節に等しく譯も無き戯[たわむれ]事ならん馬鹿々々しい、手前抔のする事でなし、早く止めてしまへと憎てい口、其時我れ居直りて答へる様、私し若輩の頃より身持惰弱故に多分の借財を拵へ其爲に今の有様御呵りを蒙り恐入る是は自業自得にて今更悔んで返らず、自今相止め申ては百日百両に賣切りたる身の上なれば金主へ申譯なく候、扨淨瑠璃は世の戯れ事と仰られたる御一言聞捨に仕りては先祖の大夫衆へ相濟ず、長々敷物語なれども其荒ましを申上度何卒御聞届下されたしと相述れば、石賀驚き顔にて、ナニ百日百両の給金とや、新規の其方でさへ夫れなれば上の大夫は如何程取る、サテp7」/\淨瑠璃と云ふ物は高給を取るものかな、未だ給金中なれば今以て止難しとは是尤もなり、且亦淨瑠璃の譯道[わけみち]を申とかイザ委敷[くはしく]云へ逐一是にて聞んと詰かけたり、然らば御免下さるべしと両手を膝に置喝吹[しはぶき]して云ひ出る様。
 抑淨瑠璃道の濫觴と申は人皇百七代正親町の院の御宇豊臣秀吉公の侍女に小野小通と云へる秀才の女有つて淨瑠璃姫と牛若丸と契り給へる古事を文作して長生殿十二段淨瑠璃物語と題號して差上られたり此淨瑠璃姫は其父矢矧の長者峯の藥師瑠璃光如來に立願して儲けたる娘故に淨瑠璃姫と號く爰に禁中の岩橋撿校琵琶にて此淨瑠璃物語りに節を付けしなり、亦永禄五年に泉州堺へ琉球國より虵皮弦[じやひせん]渡りけるに虎澤撿校此虵皮弦を以て節を付る、然るに京都琵琶琴の細工人龜屋市郎左衛門石村、此虵皮弦の寸法を摸[かたど]り猫の皮を張[はり]調工[てうこう]して三味線と號く、角澤撿校亦此三味線にて淨瑠璃十二段に節をつけ曲節をあみ語り始めけるに、天子殊更に叡感まし/\夫れより上方御殿向の御慰みものとなりしが、天正年中泉州堺の住人薩摩治郎右衛門と云へる人、角澤撿校より此淨瑠璃物語を習ひ傳へけるより下々へ弘まり是を例として種々の物語の文作を拵へ音曲と唱へ語る名人國々に出來て淨瑠璃世上に流行せり常時此江戸にては清元富本抔を淨瑠璃と云ひ淨瑠璃を義太夫節と云ふ其謂は、貞享の頃攝州天王寺堀越町に五郎兵衛と申御高三十石餘所持仕り御撿地請[ごけんちうけ]の百姓あり、此五郎兵衛生れ付きの大名音なれば淨瑠璃道を好み耕作に出て鋤鍬を持ても心中に學び、音節の秘術を執行[しつげう]して肺肝を碎き鍛練を盡し竹本義大夫と名乘り、諸國の大夫銘々思ひ/\に一流を立て語る節を一段の淨瑠璃に集め寄せて惣名義大夫節とせり、去るに依て此江戸にては淨瑠璃を義大夫節と云へり、扨義大夫事は、竹本筑後掾藤原博教と受領し、勅免を蒙り大阪道頓堀芝居へ出勤す、此芝居を筑後と名號今にp8」あり(記者の附言當浪花座の事なり)、此義大夫を淨瑠璃道の中興開起と古今尊みたり、此人の門人多き中に竹本采女と云へる者分家して豊竹と云ふ名家を始めて名乘り、則豊竹若大夫となる、元禄十五年に豊竹越前少掾藤原重泰を受領して同じく道頓堀芝居へ出勤す、此芝居を若大夫と名號[なづけ]今にあり(記者の附言今の辨天朝日兩座の間にありしが今はなし)、筑後を西風、若太夫を東風と云ふ、扨亦其頃近松門左衛門と云ふ名譽の作者世に顯はれ出たり、此人は京都の産にてさる堂上の御殿に仕へ本姓は松本[すぎもと]氏と申由緒有る人なりしが、故有て浪人し作者となる(記者曰く近松の事は事實少し相違する様なれど原文の儘)、博學多才なれば勸善懲悪を元として~祇釈教幽玄戀慕哀傷兵戈君臣父子兄弟朋友等の五綸の道を正敷[たゞしく]書たる文作なり是所謂小學に近く教道の端とも成るが故に淨瑠璃芝居興行御免なり猶又昔の太夫は名音美聲の輩多くて音曲と云ふ今の世は悪聲の大夫多く成るが故に人情を本意に語る、されば故人越前掾の歌に「淨瑠璃は人情をこそ語るべし聲をば語る物と思ふな」かゝる教への道歌あり、抑人々の情愛を語り分ける事誠に以てむつかしく能く鍛練せねば勤まり難し、先つ恐れ多くも上[かみ]は、天子將軍を始め奉り下萬民非人盗賊に至る迄男女老若の意味詞クセを我躰に引受て語り述べ、其眞實通じたる時は聽衆或は笑ひ或は怒り或は泣感心するに至り喜怒哀樂を一段の中に顯はす事容易ならざる藝なり、其人情の根元は詞の稽古が第一なり、節は其文に就て模様どりをする縫箔なり、譬へば威義を堂々として不辨にては事ネ辨じ難し、聲ネ能くて下手な太夫を金持の安房[あはう]と云へり、又悪聲にて上手な太夫を貧乏人の利口と云へり願はくば金持の利口な太夫が欲しいと古人は云はれしとなり、淨瑠璃は元[もと]御殿向の御慰み物なりし故下々へさがりても翠簾[みす]は矢張御免になりて昔の太夫は皆翠簾p9」の内に語る此翠簾は御殿亦は~前の翠簾同様なり是れ正に太夫と云ふ官有る故なり、末世に至つて都一中と云ひし人本願寺の役僧なりしが退去して太夫となり此人惣髪となり紋紗の十コに白練の長袴蒔絵の短刀を帶して出語りす、此時大本[おほゞん]へ五行に書節の朱は謠本の朱を眞似びける是れ出語り并*に大本の始めなり、近年は人情を語るが本意と成たる故に自然顔姿に情を顯さずは語り難き迚切の太夫は何れも出語りに定まる。
 近年にては藍玉の組大夫計りは翠簾内にて語る是も後に出語になる
 當世芝居に掛たる翠簾は略して半翠簾なり、古への翠簾の有がたき種を失ふ事歎かはしき事なり、右等の由來を以て新内祭文豊後清元の類と雲泥に違ふ事と知るべし、前段々申通り淨瑠璃道の中興開起の先祖は天王寺の百姓五郎兵衛ならずや、其由縁[ゆ江ん]に依てか亦天王寺に近世名譽の竹本長門大夫出て次に身不肖なれども長尾大夫此道をしたひ執心する所なりと我れを忘れて[口+昏][しやべ]つたり、石賀漣平は小首を傾け聞居たりしが溜息を突扨々恐れ入たる淨瑠璃の由來天王寺の百姓が開起とは弓も引方此方迚も大慶なり、我未だ淨瑠璃と云ふ物を聞たる事無き故に疎忽を申たり、いで今晩寄塲[よせば]へ行て聽聞すべし、否寄塲へ御出御無用鶴澤市太郎は三段目の時代物を嫌ひいつ迚も世話ものを語らせ兎角婦女子の好むもの多くて旦那の御耳にはふれ難し彌御聞なされ度は御座敷へ罷出語るべしと云ふ時次の間より三十計りの人躰賎しからぬ男立出、此方へ一禮して申様先刻よりの御物語を聞一ツコを得ました、拙者方家内共は皆々御飯よりも淨瑠璃が大好[おほすき]なり當家の旦那は堅い計りで世上の流行物を御存知なし明晩拙宅にて催し申べし御入來有て御聞なさるべしと、聞て石賀夫れは一段の事なり、然らば長尾明晩間違なく來て語り聞せよ、ハツ畏り奉る、シテ尊宅は、ツイ御屋敷の向ひp10」の武藏屋庄兵衛と申油問屋なり、夕方より御出下さるべし、是は難有し先づ今日はお暇と禮答して立歸る。
 記者曰く、是より石賀堅藏淨瑠璃好きに成る一段なれと餘り長く成るから次號に譲るp11」
 
故長尾太夫自記傳(三) 浄瑠璃雜誌 91號 pp4-10 明治43.12.20
 
 斯くて宿に戻り、石賀との問答の始末を一同へ咄しすれば、皆々大笑ひ、扨明晩の語りものは景清にして壽キ太夫は花菱屋を語るべし、我は日向島を語るとすべし、此淨瑠璃は江戸にては知るまい、併し石賀は學者の偏屈者と見へて淨瑠璃を賤しい藝と侮り嘲る様子なれば並の淨瑠璃にては詮なし、景清で彼奴[きやつ]が肝魂を挫[ひじい]でやらんと云へば、桝重他三郎も夫れは一段の思ひ付なり我等も御供して聽聞したし、明晩は席を相休み、二段とも九造勤めらるべしと手筈をなしたり。
 當日[弘化4]薄暮より皆々打連れ両國橋東通り本所竹垣の屋敷の向ひ武蔵屋に至りて見れば土藏造の大家なり、主人出迎ひ手代の案内にて奥へ通りけるに、臺所は大混雜の躰に見へ大座敷二間ありて正面に出語り臺を拵へ毛氈を掛け燭臺數多照らし其設け立派なり、前栽の廊下を通ひ小座敷へ通る、此間は樂屋なるよしを聞き銘々安座して休息す。頓て石賀氏を始め御屋敷の男女大勢入來る、跡より當家の親類方 隣家亦は遠近の知るべの男女どや/\入來り、さしも廣き座敷に詰つたり。大奉書二枚つぎに、娘景清八島日記花菱屋の段壽キ太夫三味線九造、同日向島の段長尾太夫三味線九造と大文字に飛[び]らを書いて座敷へ張出す。
 主人の知らせに依て壽p4」キ太夫九造出て語り始める、尤石賀の意地を云含てあれば壽キ太夫も一生懸命の聲を出し情愛に愁を含んで語りこなす、此方横手より覗き見れば女中客早目をふいて泣かゝるにぞ、しめた/\と小踊りして樂屋に戻る、壽キ太夫段切に聽衆どつと讃たり。九造暫らく休息して此方出て語り中途に至つて景清程の勇士も我子の恩愛に迫つたる處、學者の石賀なれば別して其文作の意味を能辨別するが故にや落涙に及ぶ躰を高座より尻目に見附愈哀傷を専一に語り景清の大泣に大音上て責迫れば石賀の涙、はら/\と袴へ落るを手にて拭く躰心地よく、思ふ儘に樂んで語り、段切になると座敷の男女賞讃の聲暫しは止ざりけり、
 主人は石賀の傍へ行き、旦那面白ふござりませふがなとくり返して云ふ石賀愁ひ顔で扨々淨瑠璃を始めて聞き涙が出た馬鹿馬鹿しいと云つゝ樂屋へ來り、やれ/\御苦労/\誠に骨の折たもの感心/\、なんと其本二冊とも貸て貰ひたい熟覧が仕たいとの注文、夫れは何より心安しと本を渡せば元の座敷へ持てゆく、跡見送りて皆々舌を出して一笑せり。間もなく大座敷にて酒宴始まり石賀も同席にて馳走に成る、所へ主人金二千疋の封金[ふうきん]を謝禮として差出す、此方戴いて座前[ざまえ]に置くを石賀見て恟り顔するを見て心をかしくて酒の興を添へたり、實に石賀氏は江戸に居ても世間を知らず廉直の人なり、深更に及び戻る。是を縁として石賀は淨瑠璃好者となり寄塲へ度々聞に來る、其頃両國の贔負集り長鶴連と名附一連を組けるに石賀も此連中へ加入したり、亦竹垣様の御妹におるち様と云へるが病身故未だ嫁入りもせず若後家の如くにて遊び暮しの御方有り、御殿女中の風俗にて至つての美人、此おるち様の格別の御贔負に相なり羽織著類抔數々頂戴したり、好こそ物の上手なりと世の流言宜哉かな我は未だ上手には至らねども淨瑠璃に執心深く人に勝れて此道の好者なる故か、慰にせp5」し素人の遊藝が、今巴太夫靭太夫同格の太夫なりと江戸にて賞讃せらるゝ事は偏に好の道に叶へるものなり
 我語る物多き中に一番の大當りは四ッ谷怪談なり、此淨瑠璃殊更に流行して、先づ巴太夫の薄腹、靱太夫の質店、長尾太夫の四ッ谷と江戸中の大評判となる、此四ッ谷を語る日は看板に四ッ谷お岩稻荷の由來伊左衛門内の段と書 何れの席にても四ッ谷稻荷へ其朝席亭より參詣する、此淨瑠璃見物大入して人氣立時は、はたして見物に喧嘩があるか、樂屋に口論出來るか何れにも障りがある、既に鎗屋町大丸と云ふ夜席にて四ッ谷を出したる所暮前より見物詰かけ、二枚目の伊達太夫出る迄に四百餘の大入りゆゑ木戸口をさしかため客止めの大札を表へ出し置、此方出て中程迄語る所に、板倉公の御奥の御坊主三人連れにて來り木戸口の戸を荒々敷敲くにぞ、内より客止めなりと云ふにも搆はす敲き立るより事起り大喧嘩となり終に戸を敲き破り亂入し大坊主三人ともに刀を抜放し席亭と下足の男二人へ手疵を負せければ、山の如き見物人立騒ぎ淨瑠璃も止めて上を下へと混雜する折ネ隣家の鳶の若い衆四五人早速に駈來り刀を擲き落し矢庭に三人共荒繩にて縛り上げ見物人に怪我させぬ様に出しやる、此御坊主酒狂とは雖も翌日暇出て席の疵人へは御屋敷より金子下され事濟はしたれども三日の休となりたり、かゝる障りの出來ぬ様に恐れて席亭は四ッ谷稻荷へ參詣をするなり。秋の中頃此方風邪に引籠り服藥養生して居たりしが竹垣御屋敷おるち様よりの使者中澤常右衛門と云ふ奥用人入來して御見舞の品々を下され、扨此度の病氣は全く四ッ谷お岩稻荷の崇りに違ひなし早く門弟衆を代參すべし、亦本人も全快次第參詣していつ/\迄も信心せよ急度御利生有て藝道出世する事疑ひなしと呉々も仰下さるに依て、遠方故翌早朝より家内の者かはる/\に日參したり、日數二十日程にして病氣全快p6」したれば、是より此方も折々參詣して~札を受戴き信心致したり、今に至つて毎朝拜する事懈怠[たいまん]なし。其後七日[弘化4]の御停止にて休となり是幸ひと皆々連れ立日光へ參詣す。程なく戻りて亦興行し漸々百日の日數相濟十五日禮勤して九月三十日千穐樂。十月二日両國の學加屋[そうかや]と云ふ料理屋で御名殘の大會をする贔負連集會して餞別夥敷申受五日の朝江戸發足して東海道を事なく戻り同月十九日歸宅す。
 十月二十日[弘化4.10.20]悴猶二郎を以て歸國の届書を御役所へ出す所日數延引の段御呵なり(是は表向の大法なり)四五日休足して出勤せばやと思ふ所御用人市川全介殿より書状を以て仰越れけるは江戸表餘り高評に就き此儘出勤致し萬一町奉行より察當[さつと]有る時は是迄の勤功も水の泡と相成る故最早悴猶二郎も御用に立候間本役讓り隠居致し候方宜敷からんと殿様よりの御内意なりとの文体此方は望む所渡りに船と内悦して即ち隠居願ひを上たる所御聞濟有て猶二郎へ本役仰付られたり[弘化5.1.29]、此由金主高津屋重兵衛方へ聞へ正月二日より道頓堀若太夫芝居へ出勤の事を申來ると雖も師匠長門太夫得心なく、大阪は大切の出勤なり急ぎて仕損じては取返しのならぬ事當分大阪出勤は無用此上矢張江戸へ行藝道鍛錬すべし宜敷時分に迎ひに遣すべしとの嚴命、尤もと亦々春早々江戸行の用意にかゝる。
 明れば我四十歳の春なり、此度は金方[きんかた]なく自前の江戸下り門弟美の太夫竝に鶴澤松之助(二枚目の用意)荷持壱人都合四人連れ正月十一日[弘化5.1.11]出立中仙道木曾路より善光寺へ參詣して同月二十九日に江戸安着す、小網町弐丁目上州屋清兵衛と云ふ船問屋あり此人前年よりの贔負故に此方の裏手に借宅[しやくや]あれば爰に座敷借りをして上州屋より諸式諸道具夜具萬事買求め、其外米薪炭醤油鹽一切入用の品々持運び何に不自由はなし。此度の三味線は鶴澤勇造殿悴鬼一にて出席の所前年より倍増の大入繁昌なれば喜悦斜ならず、尤も上州屋は慾半p7」分の世話故に座敷料も高く送り來る品々代金に月々高利かゝり、其上門弟追々出來家内男計り八人暮しに就き日々暮し方諸雜費過分に相掛ると雖も晝夜の寄塲大入に付雜費ぐらひ何の頓着もせず五月中旬[嘉永1.5]に金百両古郷井川宅へ差送り此勢ひにて追々送り金も出來井川家相續の根堅め成就すべしと心勇み働き候處、存知よらず家業差止めの大難出來たり、
 其譯と申は元來江戸寄塲の儀は、軍書講釋、昔噺等は御免なり、淨瑠璃を始め都て鳴物の入たるものは表立ぬ内證ものなり、然るに小船町山本と云ふ席にて歌舞伎狂言を興行致し市中風儀猥りに相成上猿若町本座より願出候故、ある夜[嘉永1.9.16]狂言最中へ御役人出張席亭は更なり役者共皆々御召捕に相成大變にて此一件より寄塲一同に御差留に相成る、講釋噺は程なく御免に相成ると雖も、淨瑠璃其外鳴物の入りたるものは決して御免にならず存外の難澁に付因講太夫三味線彈寄塲仲間一同度々集會して評議の上奉行所へ歎願に出、亦は手筋を求め内願すれども御取上なく却て入用過分に掛り難儀の上ぬり故十方[とほう]に暮詮方なく大阪へ戻る者もあり旅へ行者も有て離散せり、此方は未だ歸阪には早く絶躰絶命に就き門弟衆皆々膝を出し上州屋の狹き宅へ引移り雇ひ婆々一人を召遣ひ暮し方は質素儉約を致し居たり。爰に吉原角海老屋亦は深川木塲の太田屋コ九郎同所雜賀屋善右衛門両國名倉彌次兵衛其外角力關取釼山 鏡岩 小柳或は御屋敷方等贔屓連にて度々座敷會が出來、四季の衣類は彼の竹垣のおるち様より貰ひ、先以て衣食住小遣ひ萬端には苦勞は更になくと雖も一年半餘も家業休み、上州屋の取替品々代金高利加へれば月々に嵩み元利積りて四百兩餘の借金となり如何ともする事叶はず難儀なればなか/\天王寺宅送り金出來ず心ならずも捨置たり、
 扨一ケ年半[嘉永2後半?]も過ぎて夜分丈け寄塲へ出看板も出さず扇子拍子を以て淨瑠璃をそろ/\と始めかけp8」たるに見物も内々ぼつ/\來りいつの間にやら三味線も彈せ看版も出し興行するに御咎もなく全く御見逃しに相成る噂を聞安堵して元の如く晝夜ともに出席致したる所なが/\中絶の淨瑠璃開けたる故、待兼たる見物どつと來り大入なれば仲間一統恰も蘇生[よみかへり]たる心地して喜ぶ事大方ならず、天王寺井川の宅へは先頃より家業差止めに成たる次第度々委細に申遣はせども遠方の事故實地を知らず兎角疑念をかけたる所、悴猶二郎若氣の誤りに上納金三十両私用せしを重役の大浦五郎兵衛見附出し針程の事棒に申立、夫れを越度にして猶二郎を實家へ退身させたり、扨相役の松本青木は若輩の間抜者に就き大浦一人の取計ひの段堺より早飛脚を以て申越したり、亦娘ひさも病死なしたる由家内より告來る、誠に古郷の悪報計りを聞て辛苦彌増たり、時に亦大浦五郎兵衛より妻梶女を呼寄申聞せけるは、長尾殿事江戸吉原の藝子を女房にして子迄出來たる由御屋敷より慥に聞く、左様の事がある故に金子の來らぬ筈此儘に捨置がたし子供衆を連れて早々江戸へ御越なくては御身分立まじと佞辨を以てお爲ごかしの讒言を梶女元より江戸の事を疑念かけたる折ネなれば一圖に大浦の深切と思ひ込夫より親類相談の上井川の宅を大浦に頼み置き悴辨次郎次男爲次郎末子政之介と出入の肴屋の悴久吉外に荷持一人召連れ寒氣の道中厭ひなく東海道を下り十二月十三日[嘉永2.12.13?]に江戸へ着したり、尤も先知らせもなく出し抜に來る故此方思ひがけなく恟りへすれば、前述の如く大浦五郎兵衛の差圖にて來りたる由梶女の物語り此方も當地離澁の次第荒まし云聞せければ梶女漸々大浦に欺されたりと心附立腹すれど詮方なく、扨皆々我宅を見れば裏家の隅の狹き宅にて雇ひ婆々一人と只二人暮しなり殊更此節は冬枯にて家業もなく實に難澁に暮しの躰を見て吉原の藝子を女房にして榮花の暮し抔と跡方もなき大浦の啌偽りを益す々怒りp9」却て此方の躰を氣の毒に思ふ様子なり、去りながら先づ夫婦親子久々にて無事の對面を喜び道中の草臥も忘るゝ計りなり、妻は路用の外に五拾両の金子用意して持來ければ翌日早速に元の廣き宅へ引移り其冬は却てよろしき年の暮をして春を迎へたり。
 是より長門太夫江戸下りより大喧嘩に相成る一條は明晩の前講否明春の初摺りに御覧に入るp10」
 
故長尾太夫自記傳(四)浄瑠璃雜誌 92號 pp3-12 明治44.1.9
 
 此前月に大阪より鶴澤清吉來る、是は鶴澤清八の門弟にて若輩なれども適[あつぱ]れの藝故、師匠長門太夫殿より撰みて差越れたり、江戸の氣風に吐[かな]ふ三味線彈なり、
 此清吉矢倉太皷の曲彈、阿古屋三曲、堀川猿廻し抔出したる時は大入せざるなし、併し大酒呑にて身持惡しく、上州屋に宿泊して過分の借金をこしらへ、此方にも餘程の損をかけ、後年大阪に戻り若死す年明て正月二日[嘉永3.1.2?]より右清吉にて出勤す、且又此方家内p3」多人數に相成りたれば、晝席は上州屋納め、夜席は此方自前と應對出來て、心を勵して勤めたり、
 久吉を久尾太夫と改め口語りに出勤させたり、亦大阪湊太夫殿門弟音の太夫夫婦江戸來りければ、此方門弟にして三枚目に出勤させたり、猶亦美の太夫松之介は歸國す。
 然る所師匠長門太夫殿より書状來り、即ち披見するに大浦五郎兵衛事、井川猶二郎を親元へ退身させ、又た妻子は江戸追やり、終には井川庄屋の株を押領して井川の宅を、天王寺一躰の惣會所になしたり、是は大浦が兼ての謀計[はかりごと]なる事、皆人の知る所、其悪計を憎み或は名家の斷絶を歎き惜みて、とり/\の噂なる趣を委細に告來る文体[ぶんてい]なれば、儕[をのれ]五郎兵衛若年の節遠き田舎より大浦養子に來り、見習に出勤せし健治郎と云ひし頃より此方が引立遺[つか]はし、諸御用を教授せし師兄同然の我家に、何恨有て仇をするや、相役の松本青木如何に馬鹿なれば迚、五郎兵衛を制度せざるやと、逸徹短慮の我怒り心頭より起ると雖も、遠方に居て、自由ならざれば甲斐なく日を送る所に、亦々井川組年寄連名の書状到來す、是を熟覧するに、大浦五郎兵衛段段と威勢蔓り一村を我儘に致し、既に此の度井川南組を押領して、古來よりの惣會所を取拂ひ、井川の宅を惣會塲としたり、夫れ故に南組の百姓騒動に及ばんとせし所、井川の借財銀七十貰目計りを、天王寺惣高五千七百石割掛けの仕法相立て、七ケ年に皆濟[かいさい]に及ぶ段、此仕法を大浦が組立て、惣村の爲に井川宅を惣會所とするが故に一統得心して、井川の借財を、惣高割に相掛る、細々より出銀して借財相濟、證文殘らず差戻し我等中へ預り置候、右の通り井川借財落着致し貸方損失なく相濟候上は歸國の節故障御座なく候間、安心あるべし此段申達し候との文面にて、組年寄、須谷久兵衛、藤内勘三郎、井上次郎右衛門、小塲孫兵衛p4」扇伊兵衛、綿谷吉兵衛の六人連名なり、此の書状を見て熟々[つら/\]思ふに、さすれば我家を千両餘に賣たるも同然なり、土地の人に損難を掛けずば歸國の節障りなし、且は此上は天王寺へ贈り金に及ばず、此後は我爲の金設けなりと、安堵して脊負し重荷を卸したる心地なしたり。其後實家の兄米屋治郎兵衛方より早飛脚來り、大浦五郎兵衛事、數ケ條の隠惡此度露顯致し、御召捕に相成り入牢仰付られたりとの知らせの状、此注進を聞て無念晴れて喜悦せり。
 天王寺庄屋大浦は牢行き、松本は家出し、青木一人になり、又布施忠左衛門といふ新庄屋出來たるよし此年も暮亦新玉の春[嘉永4.1]となる、木塲の材木屋倉田庄介といへる人、我添書を以て師匠長門太夫殿を迎ひに、大金持參して上阪す。時に復津久井勘七といへる人、咲太夫の添書を以て長門太夫殿を迎ひに上阪す。倉田の使ひ九兵衛、津久井の使ひ定七、此兩人同じ頃に大阪え着致し、天王寺河堀口[かわほりくち]長門太夫殿方へ両人同日に行兩者より書状を出す、其時長門太夫殿は、咲太夫、長尾太夫兩門弟の書状を一時に披見せられ、誠に迷惑致されしなり、兩人共大阪に滞在して、毎日/\師匠宅え行、懸合に及ぶ所、長尾太夫添状の倉田方は皆金二百両持參なり、亦咲太夫添書の津久井方は手附金三十両持參して跡金は江戸にて渡すとの手ぬるい引合故、師匠承知なく、倉田方へ應對出來たり、此由六日限りの書状を以て此方へ申來り、早速倉田知らせければ茅塲町藥師開帳に附き、此の境内へ倉田の芝居小家を建る、前狂言は妹脊山、中狂言平假名盛衰記三段目長門太夫、次狂言薄雪三段目巴太夫、切狂言阿古屋なり妹脊山二段目切と、雛鳥、切の岩永、この三役長尾太夫、大判事巴太夫、定高と、竹雀、切の阿古屋の三役は春太夫、久我之助、鱶七上使、重忠、三役伊勢太夫この餘は略す、人形吉田國五郎、豊松傳七、吉田文三p5」その他は略す、右の看版を出しければ、音に聞きし長門太夫故、町中の大評判になつて初日を待つ、然るに長門太夫延着に就き、巴太夫より初日の催促度々なれば、是非なく先づ四月十五日[嘉永4.4.15]に初日を出すと雖も、長門太夫末着なれば見物來らず四歩の入りなり、
 此頃自分は晝芝居へ出勤して、夜は両國の橘屋と云ふ席へ出勤致し居たる所、有る夜咲太夫門人沖太夫といふ者席へ來り我を呼出す、自分は何心なく表へ出れば、両國橋の中程へ連れ行と五六人ばら/\と出來りて自分を追取巻、人形遣ひ吉田冠二聲を張上げ、ヤイ此才六め今度櫓主結城孫三郎殿より、長門太夫迎ひに遣はすに就き、咲太夫に添状を申付け、定七といふものを上方へ遣し應對に及ぶ所、手前倉田庄助の方へ添状しやがつて邪魔をさらした故に、長門太夫は倉田の手へ下りこつちは鼻明だ、太夫家業の身を以て、矢倉主の邪魔をして、素人の手へ下る様になぜ仕やがつた、了簡ならねへと、倍高[かさだか]なる權ネ押、自分は恟りして答る様は如何にも倉田庄介殿にョまれ、添状は致せども、只一と通りの文躰にて他の引合の邪魔を致せし覺へは決してなし、と半分云はせず、コリヤ能い口ぬかすな、大阪より定七が状を差越[さしこさ]して、長尾太夫が邪魔をしてこつちの應對は出來ねへといふてよこしたわい、夫れは迷惑千萬なり、然らば其定七とやらんが歸國次第に面會致し、邪魔をしたかせぬか其節屹度明りを立て申べし、暫らく御待下さるべし、といふをも聞ず、後からエー搆ふ事はねい、川へぶち込と聲高に匈x[の〃しる]、折ネ西の方より劔山關取弟子衆を引連れ戻りかゝり、斯くと見るより群集を押分け、長尾大夫じやねいかどうしたのだ、と聲掛られ地獄で佛、向ふは皆々跡ひざり、冠二様々腰を屈め、ナニ關取畢竟[つまり]譯けのねい仲間同士の一寸した咄し合でござります、といふ時、常山ぬつと出、なんだか知らないが、川へ打込[ぶちこめ]とぬかしやがつたp6」誰をぶち込のだ、此とんちき野郎め、長尾に指でも差やがつたら了簡しねへといふ中、跡の角力取二人が、ぶつてやれと飛かゝれば、向ふの奴原見物を押退突退無二無三東をさして逃散たり、此時席亭始め樂屋の者皆々駈付、關取衆え禮を述べ、自分に怪我の無きを祝し、けちな晩だから席は休むが能[の]からうと一同の決議劔山[つるぎさん]が今夜は自[おら]が内へ來て寝*るが能いとの詞に就き、それは難有しと音の太夫一人召連れ、深川扇橋劔山の宅同道して馳走になりて泊る、誠に關取の助に依て危難を遁るゝを得たり、是全く信心する御利益なり、
 此一件始めは津久井より、冠二咲大夫が頼まれたる事なれど、師匠を倉田の方へ取られたるを無念に思ひ、矢倉主の威勢をかり、倉田の興行を邪魔せんとする下拵へに我に難題を謂ひかけしなり。
 其翌日扇橋劔山方より歸りかけ咲太夫方へ立寄り、面會して師匠を其元よりの迎ひの邪魔を仕た事は一切是無き由詞を盡していひ譯すれど、咲太夫のいふには此方は結城孫三郎殿より謂ひ付られて添状をしたり、何は兎もあれ師匠が御出の上譯[わか]るで有うと申て頓着なければ致し方なく立歸る、所に師匠は中仙道を下り來る二十七日江戸着と書状來りければ、其由倉田へ告たり、倉田申には、芝居は代り役を餘人にさせる間其元は道迄迎ひに行れたしと小遣ひ金二両渡されける故其用意をなしたり、巴太夫此由を聞、迎ひは誰にてもよし、芝居は代り役相成らずと意地惡の申分なれは仕方なく、登和太夫を名代に遣す事にして、同人の役は他の者に申付け其用意せる其夜咲太夫方より使ひ來り、御師匠様は何日御着で御ざりますと尋に來る、此方は正直に明二十七日仲仙道より御着なりと知らせければ使は急ぎ立歸、明れば四月二十七日[嘉永4.4.27]、早朝に登和太夫板橋へ向け出て行、自分は内の掃除させ酒肴の用意し、深川へ送る屋根船を雇ひ置き、夜席を休み待受たp7」り、
 初更の頃登和太夫大汗に成て駈戻り、曰くに私板橋行[ゆく]所道にて、咲太夫門弟沖太夫品太夫兩人に出合、何方へ行と問かけられ、師匠を迎ひに行と申せばそれは幸ひ我々も迎ひに行同道せんと、三人連れにて板橋を過ぎて行く、向ふより師匠は田舎道者[だうしや]の躰にて利太夫、中太夫小熊太夫(これ五代目彌太夫の事)外に二人御供して來りけるに、沖太夫品太夫は師匠を知らず行過る、私し立留つて待所、師匠笠の内より私しを見て、登和太夫か太儀と御聲かゝりハットいふ中、沖品兩人引返し向ふへ廻つて立ふさがり、私共は咲太夫よりの御迎ひの者、御道仲御無事の御着[おんちやく]目出度し、併し此儘江戸へ御越は御無用、既に矢倉主より長尾太夫の家業差留る程の大變起つて有れば_うかつに御出成難し、先々私共の御案内仕る方へ御出下さるべし、と申て師匠を脇道へ連れて這入りました、と泣聲にて申にぞ皆々驚き、太儀ながら其足にて倉田へ其旨注進せいと、いふ間も待ず登和太夫深川へ走り行、音の太夫足摺りして私しが御迎ひに出たら能かつた、沖太夫でも品太夫でも打のめしても師匠はこつちへ御供するにやれ/\殘念、といふ所へ、上州屋清兵衛來り川市の親方と若松屋喜三郎とを呼にやれども、あやにく二人共他行、いかゞせばやと相談最中、倉田庄介芝居表方大勢どや/\と入來り、混難[こんざつ]する計りにて評議まち/\なり、時に四ッ過頃、旅姿の男一人馳來り、私は小熊太夫の親利八と申者(これ木谷家の先代なり)御師匠様は、只今咲太夫宅へ御着でござります、此段御しらせ申ますと云捨て急ぎ行、扨は咲太夫方引込しか、さらば我々行きて迎ふて來んと、表方の者共立騒くを、上州屋是を留[とゞ]め、今御前方が向ふへ行ば忽ち大喧嘩になるは知れたこと、大變が出來ては興行の邪魔となるべし、夜も更たれば明朝の事と制せらるるに、倉田も成程と得心し、御在所[おんありか]が知れてあれば明p8」朝行ても遲かるまじ、と血氣の若者共をいろ/\と宥めて引取ける、
 跡にて自分は音の太夫に、今より咲太夫の門口行、内の様子を立聞すべしと申含め、闇の夜を幸ひと泉橋へ行、咲太夫の門の戸の透間、又は窓の破れより内を窺ひ見れば、燭臺を照し、床の間の正面に師匠座し、後に利太夫中太夫小熊太夫附き随ふ、向ふ側には結城孫三郎次に吉田冠二咲太夫沖太夫品太夫座す、只今皆揃ふたる所にて、初對面の挨拶それそれ濟酒肴の出たる躰に見へ、咲太夫の嬶コ利を持酌をせんとするを、師匠盃を取らず申されけるは、此度御當地茅塲町藥師開帳に付き操り芝居興行に依て、木塲倉田庄介殿より召抱に來り、應對出來たる故に拙者罷下り、今日倉田方着せんとする途中に待受、夫れなる沖太夫品太夫とやら、某を外道[ほかみち]へ連れ廻り、當宅へ伴ひ來り、先方へやらじとせらるゝは如何なる譯ぞ承りたしと述られければ、結城孫三郎答へて、其元未た知らずや、當地は古來より上方の太夫下向の節は先づ本座の矢倉芝居へ出勤の濟ざる中は、他へ出勤決して相ならぬ掟なり、と申時吉田冠二詞を強め、手前事は人形遣ひなれ共、近頃御上様[おんかみさま]より江戸惣頭取を仰付られたれば、役ネに依て申なり、扨是迄大阪より達者衆[たてものしゆう]初下りの節は、是非共猿若町本座興行の上は兎も角も、矢倉芝居出勤の濟ぬ前は外へ顔出し相ならぬが江戸の定法なり、況んや貴殿は當時日本無双の太夫ならずや、本座猿若町出勤もせぬ前に、開帳法會の筵小屋出勤致されては、其身の位ゐを失ふ計りならず、江戸の古例を破る道理なり、是故に猿若町え出勤濟ぬ中は藥師え出勤は相成らぬと心得らるべし、と權ネに申たり、其時長門殿答へけるは、猿若町芝居え出勤とあれば、譬へ千金積るとも拙者決して下り申さず、猿若町の儀は歌舞伎芝居に混じ、是が爲に邪魔せられ、操り芝居見物來らぬ事は遠く隔る大阪に居てp9」も能く知りて在るなり、茅塲町は御當地市中の眞中にて、殊に歌舞伎へ隔り有て、塲所ネ随一と知つて下りたり、如何成る名譽の太夫と雖も惡敷塲所は力及ばず不入の惡名を殘しては末代までの恥なり、去りながら是非猿若町出勤せずば叶ひ難き譯なれば、明日引返し大阪歸國すべし、此方は倉田金子を差戻して歸國するは何より以て心安し、然れ共一と通り所存を申述ん、譬へ開帳法會の筵小家にても御上様より御免なくては興行出來まじ、御免の上は本座も同格にてさのみ太夫の位ゐに拘はる事にあらず、且又倉田庄介殿願ひを上げ、御免を蒙りて芝居興行を致さるゝに付き大金を以て召抱へたる拙者を、横合から利不盡に引込、剰[あまつさ]へ願濟の興行を邪魔せんと目論見、矢倉の權威を表に立て、猿若町にて我儘に拙者を遣はんとせらるゝ段其意を得ず、併し古例を破るも氣の毒なり、明日は歸國致すべし、やれ/\草臥た利太夫中太夫、いざ馬喰町の宿屋行べしと立かゝる、咲太夫驚きてアヽ申今晩は私方にて御泊り下さるべし、先づ麁末な御酒なれど一献召上れと酌せんとすれば、頭を左右に振り、イヤ/\酒も呑ぬ止宿もせぬ、コリヤ由良太夫(咲太夫の事なり)十年餘も逢ぬ久々の對面なるに、師匠の道中草臥の推察もなく、よけいの道をうろつかせ、心配させるが弟子たる身の本意なるか不届千萬な奴、其方當地に久敷居て、因講古老の列に有れば、如何様の事有るとも、我着以前に取捌をして置き、師匠に心配をさせぬが弟子の役なり、先刻道にて沖太夫とやらがいふには、長尾太夫が邪魔をしたるが故に、矢倉主の方へ某が來らぬ迚、それを落度にして家業を差留たるとの噂を聞たり、是如何なる事や、定七が方は手附金纔三十兩持參致し、跡金は江戸にて渡すとの引合、此方昔より金のさかりをくらひ旅行したる例なし、又倉田の方は皆金二百兩持參せしに依て倉田の方へ手を打p10」たり、是當然の理にして長尾太夫が知る事にあらず、それを邪魔せしとは、どの理を以ていふや、科無者[とがなきもの]の家業を差留るとは言語同斷、非道とやいはん、無道とやいはん、元來家業を差留る事は輕からぬ事なり、矢倉主より差留るとも因講に於て實否を糺したる上取計ふべき筈なり、と顔色變[へんじ]ての立腹に、吉田冠二俄に氣を替低頭し、親仁様/\御立腹は御尤も是には譯の有る事にて、咲太夫の知らぬ事、又折角江戸御越有て直様[すぐさま]御歸國とは餘り/\御短慮なり、何事も明日のこと今晩は御休息、當宅思召に叶はずば、宜敷[よろしき]宿へ御案内致すべし、ソレ沖太夫平野屋え申付い、早く/\と氣をあせれば、沖太夫尻引からげて駈出す、家内の者は燈灯よ履ものよと周章[あわて]さがし狼狽すれば、師匠を始め付添[つきそふ]人々、足元ちんから/\と門へ出ると、咲太夫冠二先に立て案内する、自分は横町へ隠れ忍びてやり過し、亦跡より見へ隠れについて行、
 頓て馬喰町平野屋に至れば、早七ツ立の客大勢有る躰にて火を照し、下女ども膳部を運ぶさま誠に幸ひの夜なり、沖太夫が知らせに依て亭主迎ひに出、座敷へ案内する、其時利太夫は冠二と咲太夫との袂を引、師匠殊の外機嫌が損じたれば、各々方御同席にては我々誠に迷惑なれば、宿屋の事は此方の氣儘にさせて下さるべし、と斷りをいふに、冠二點頭[うなづき]て成程是は尤も、然らば我々は引取べし、おめへをョむなりと云置て、皆々手持無沙汰に引返す、是れは能き折ネと、此方両人入替り内這入れば、家内の者ヲヤ長尾様だと不審顔、コレ/\只今御出の御客様は竹本長門太夫なり、宵に御着[おつき]なれども仔細有て未だ御膳も上らず、嘸々御空腹ならん、早く御膳も御酒も肴は有る丈け出さるべしと頓智の差圖に主じの嬶ホヽと笑ひ、此節御評判の高い大阪の太夫様か、幸ひ今朝は早立の御客が有て温[あた〃か]な御飯も出來てありと景氣能く立騒ぐ、斯くて此方両人座敷へ通る、師p11」匠を始め皆々へ久々の對面、互に無事を悦ぶ所へ、早酒肴膳部等追々下女が持參るに、利太夫は是は/\早速氣轉の御差圖何寄りも有難し、實の所は昨日晝飯の儘なれば餘程の空腹と滿悦の躰、師匠と中太夫はいきなりに酒にかゝる、其外は飯と實に火事塲で食事をする如く、下女共は給仕に追れる、此方は師匠の盃を戴き音の太夫廻し、先刻より門口にて立聞し御對談理の當然を感心致したる段申にぞ、師匠自笑して、引返し歸國とやつた所味[うま]からう、江戸ッ子に一番困らせてやる積りと小聲に申され、早酒飯一時に滿腹してそろ/\寝*ぶりかゝると夜も白々と明渡りければ暇申て立歸りける、所へ倉田を始め芝居表方、川市の親方若松喜三郎詰かけたり、此方昨夜立聞せし始末を語り師匠は今寝*たる所なれば晝時分迄は御越見合下されたしと申せば、更らば晝後參るべしと皆々引取ける、此方両人酷手枕の儘能く寝*入たり。
 芝居は此日限りにて節季休み五月節句初日となる。是より長尾太夫因講より家業差止一件より追々佳興に入る一段なれども餘り永くなるから次號の御樂み此長尾大夫自記傳を本誌に掲けたる所、大喝采に迎へられ好評を賜り、定めて故人も滿足に思はれん、然るに本誌の餘り好評なるに隨ひ眞似して出さんとする者出來たり、併し本編は本誌が終りを告る迄は本社の手元にあり、依て眞似せんとすれば、本誌を抜翠するより道なし、抜翠して出すも本社は故人の爲に喜ぶのである、依て讀者に報告致し置く。(記者)p12」
 
故長尾大夫自記傳(五) 浄瑠璃雜誌 93號 pp8-12 明治44.2.28
 
 其朝四ッ時分に、朝太夫來り因講今朝俄の集會にて其許を呼びに叅[まゐ]つたり、早々御出有るべしと枕元でいふ聲耳に入つて目を覺し、其は定めて此方が家業を留る事ならん、即刻參るべしと朝太夫を先へ返す。引續き支度をして朝太夫宅へ行、見渡す所奥の間の上座に竹本大隅太夫豊竹巴太夫同岡太夫竹本越太夫同津賀太夫同伊勢太夫豊竹富太夫等列座なり、此方奥へ通り何の御用と尋れば、岡太夫発言して、今朝俄の集會は昨日矢倉主結城孫三郎殿より、其許家業差留の廻状來りけるに依ての事なり、仔細は知らね共矢倉主より申來る上は氣の毒ながら今日より家業相成申さず、此段心得らるべしといふ時、大隅聲掛岡様暫らく/\、今朝承れば河堀様(長門太夫の事なり)昨晩當着有りし由p8」然らば師匠へ一應相達し候上が宜しからんといへば、巴太夫打消いや/\河堀様御出有つても、郷に入ては郷に随へと矢倉主へ對し彼是とは申されまじ、猶豫しては矢倉主相濟ずと、灰吹擲てこね廻せば、越太夫扇子遣[あふぎづかひ]を止め、去りながら眼前師匠が來たる事を知りつゝ申入れもせず、其弟子の家業を留ては後日に古老の我々不念と相成べし、津賀太夫失詞の尾に就き、左様左様是は矢張長門太夫殿達した上かよからうと評議最中、表から薩摩座の矢倉主、薩摩治郎右衛門の名代治助つか/\と入來り奥通るや、怒氣を含んで臂を張り、おめへ達は結城座計りを矢倉主と思つて居るか箆棒め、諸事の事は薩摩座結城座両矢倉主の連判の廻文でなけねや成ら無い筈だ、それに何んぞや結城計りの廻文を取り上長尾太夫の家業を留る杯とは馬鹿馬鹿しい事だ、サア留られるなら留て見ろ、留た奴等は自[をら]が相手だと、云様田葉粉盆を取て投付れば、恟り仰天大隅巴岡太夫一番に椽先逃出し庭飛下り、切戸を押明隣りと走り行ば、殘りの皆々門へ逃出す、伊勢太夫踏止つて、治助を色々宥め居る故、此方も長居は無益と表飛出し逃歸る。
 両矢倉主は平常すれあひ居るに、今度結城座が咲太夫の腰を押故に、薩摩座が亦此方の腰を押に至る。
 鶴澤清七殿は一夜遲れて、板橋着の所、江戸に居合す門弟鶴澤泰造迎ひに出で、平野屋案内して來る、供は鶴澤泰次郎同泰吉、荷持一人なり。
 此泰造は咲太夫の三味線彈故師匠の平野屋に居る事を能く知つて案内せしなり。
 ★[因會集会 染p272]二十八日[嘉永4.4.28]晝後平野屋集會する人々は、向ふ方結城孫孫三郎、吉田冠二、津久井勘七、咲太夫、沖太夫、品太夫等なり、此方は薩摩座名代治介、倉田庄介、若松喜三郎、長尾太夫、音の太夫、登和太夫等なり、座敷に向ひ合ひ連座する、正面には長門太夫、清七、竝び居p9」る、後に利太夫、中太夫、賀太夫、小熊太夫、利八、泰造、泰次郎、泰吉隨ひ座す、眞中に川市の親方座し次の間に芝居表方の者十人計り居る、右川市の親方は小網町船頭の親分にて、百人餘も子分有る男達の顔役なり、今日は上洲屋清兵衛より申付られ、仲人[ちうにん]に這入先刻より双方を段々と申宥めければ、鶴の一聲誰れか違背に及ぶ者なく、是に依て日數百日と定め、上五十日は倉田、下五十日は津久井興行と落合、則両金主より、結城座薩摩座運上金相納め、五月節句より茅塲町藥師長門太夫出勤と決定致し、人形遣ひの立者三人も有る上、吉田冠二同弟藤九郎同悴西川伊三郎の三人も抱る事に相成り、依て冠二大悦び致し、双方得心して無事に相濟む、折しも酒肴出で下女共酌をとり暫らく酒宴となる所に、師匠申には長尾太夫の家業を差留る由昨日噂有りしが、此儀は如何相成りしやと尋られたるに、薩摩座の治介申には、其事でござる、大阪の因講と違ひ、江戸の因講は取締が有りやせん、都て何事にても、結城薩摩両矢倉主連判を以て廻文を差出すが仕來りの所、長尾太夫家業差留の一件は此方沙汰なく、結城座の廻文計りを取上げ、事の善惡も糺さず、今朝古老中老集會の上、本人を呼寄既に家業を差留んとせし所、我等踏込不當の廉をひどく責てやり込めたれば、皆逃て仕舞ました、此廻文は反古でござりやすと、懷中より取出し投やれども、結城孫三郎は閉口して一言も出さず、沖大夫冷笑[あざわら]ひして、扨々長尾大夫は仕合[しあはせ]者だと嘲弄仕掛るを、音の大夫聞咎め、何が仕合だ、爪の垢程も家業を留めらるゝ筋はないのだとけんつくをかますと、品大夫横合から、コレサ手前達の口を出す塲所ぢやねい引込で居ろ、ナニ引込で居る奴が有者か、師匠の事に就ては遠慮はしねへとやり込むれば、若松喜三郎詞を添、ソリヤあたりまへだ、此間の晩長尾の師匠を兩國橋へ釣出しやがp10」つて、難題を云かけ弱い者窘[いじ]め、併し手前達は逃足の早い腰抜だから命を助かつた奴さ、惡くまごついて居るとの、劔山の關取に川打込れる所だ、其時見物衆が大笑だ、ちつと人間らしく恥を知るがいゝと、そろそろ亙ひに喧嘩腰と成りかゝるを、川市の親方呵り付肝心の元が納つて有るに、枝葉のごて/\を今更いふにや及ばねい、わつさりと酒を呑がよいと、双方を制し外の雜談と成て盃を廻す程に、吸物を出し燭臺を照す頃、川市の親方が云ふには、何んと皆の衆最[も]う酒も此邊でよからう、一番手を打うぢや有るめいか、と聞て冠二盃を下に置いて、如何様御互に咄しの納る上は、大じめに目出度しめて貰ひやせう、鶴澤清七餘程醉たる躰にて、成程先づ物事納まつて重疊/\、サア御一同に手を揃へて打ませうと、自分から打かゝる、其手を押て長門太夫、是はしたり清七殿先づ待れよそれは何故、ハテ疎忽千萬と叱り付られ、是は不調法と跡へ寄る、其時長門太夫座を改めて申様、川市の親方の御取扱ひを以て、上五十日は倉田様、下五十日は津久井様と決定の上は、津久井様より金二百両只今請取べし、倉田様方は早先達て大阪にて二百両受取たり一方は請取一方は受取らずしては、下の五十日は空談にて決定せざる所なり、とずつかり云へば、川市の親分膝を打て是は尤もなり、咄しは極ても肝心の取引が濟ずば手は打[うて]まい、コレサ冠二早く津久井から二百両出させるがいゝと持せかけられ、冠二はうろ/\顔でグット詰りしが答へる様、承知は致せしが爰には持參致さず、明朝迄に相渡し申べし、とにいやりした云方然らば明朝金子受取候上にて手を打べしと、長門太夫の挨拶に其座しらけて、皆々退散せり。
 此津久井勘七と云ふ人は、日本橋の酒屋にて大家[たいけ]にあらず、冠二咲太夫に勸められ、百両もあれば長門p11」太夫を呼下り出來る様に、手輕く思ひて取掛りたるよし、定七と申者三十両と、路用五両と受取、大阪往[いつ]た限[き]り未だ歸らず、一夜の中に二百両の金、才覺せねば顔立ず、依て家主の株又は酒屋の道具其外品々を質物に入れ、漸々と翌朝二百両調達出來たり。二十九日の朝、津久井勘七冠二咲太夫同道にて、二百両持參せり、川市の親方も來り、金子取引相濟手を打て事濟したり、それより師匠の連中一同と、川市の親方同伴にて我宅入來あり、尤も座敷狹き故に表の上州屋の奥座敷にて酒肴を出し、晝飯萬事成丈け馳走の餐應[もてなし]に、師匠を始め清七殿其外門弟中大喜び致さる、扨師匠江戸滞在中の後楯は川市の親方、諸方出勤の付人出方[でかた]は、若松喜三郎と定る、七ッ時分に屋根舟にて深川送る。倉田庄助方にては、居宅の向ひに新座敷あれば、爰を師匠一統の住宅と定め、馳走充分に用意して待設けたり、夕方に着船して、又着祝[つきいはひ]の大酒宴となり、初更頃此方の連中皆々舟にて戻る。
 咲太夫の連中は宿屋限りにて引取、藥師の芝居出勤をョみに來ると雖も、役塲なき故斷りたり。(以下次號)p12」
 
故長尾太夫自記傳 (六) 浄瑠璃雜誌 94號 pp9-14 明治44.4.13
 
 茅塲町藥師芝居、以前の狂言の中へ平假名三段目長門太夫五月節句[嘉永4.5.5]より出勤の評判高く初日早朝より四方の見物詰かけて山の如き大入にて帳塲上つたり、然るに爰に一條の障り出來たりと云ふは、先達て師匠方へ此方より添状致し呉れ候様に倉田庄介ョみ來り候節申すには、その元添状によつて此度我等の手へ長門太夫是非共下向之れある様格別に認め取計ひの段偏にョみ入る、勿論芝居初日には給金の外に骨折代として二十両謝禮致す可くと堅く約定あるによつて其心得にて萬事取計ひ致し既に咲太夫方より危難を受候所迄踏込み候故に倉田望の通り師匠出動に相成大入繁昌致せども約定の謝金來らず初日過ぎて日數經ちても沙汰なく催促すれども捨置き全く此方を欺きしと心付き最早堪忍辛p9」抱なりがたく十五日[嘉永4.5.15]の朝今日は出勤せずと芝居へ斷遣し候所師匠方へ聞へ利太夫を以て何故出勤せぬと尋られたるにより右の次第を申入れ又勘定塲より度々呼び使來れ共出勤せず、それが爲め晝過る迄も二段目の幕開かず、大入の見物喧しく芝居大差支となつたる所八ッ時分に二段目幕開けの拍子木チヨン/\と師匠の樂屋へ聞へければ師匠不思議に思はれ則ち利太夫走り行きて頭取に尋る所、竹本湊太夫代り役にて幕を只今開けるといふ、利太夫驚き夫れはけしからぬ、先づ先づ待てと止め置きて此由を師匠へ告げたり、師匠顔色變じて其太夫連れて來よと氣をいらつ、利太夫馳せ行き軈て湊太夫を連れ來れば師匠其男を急度見て、其方何者なれば湊太夫抔と昔の尊名を猥りに名乘り、此芝居へ飛び入して理不盡に二段目の大切の塲を勤めんとは言語同斷なり、長尾太夫病氣にあらず、故障あつて出勤せず然るに長尾太夫へ届け引きもせず、汝仲間の法を知らぬか不届なりと呵り付くれば其者恐れ入つて低頭平身し私は何も存ぜず先刻吉田冠二殿自分直々に來て長尾太夫差支出來たり早々來て代り役をせいと申付け無体に只今引連れて見へし所なりと云ふ、鶴澤清七傍より、シテ三味線は誰が彈く筈なりやと問ふ、イヤ三味線は誰とも未だ聞かず何分俄かの事にて親仁様へ御無禮仕候段眞平御免下さるべしと申捨て逃げ歸る折しも鶴澤勝七來り樂屋の三味線彈誰にても代り役相成らずと只今一同へ申付ましたと云ふ。此由勘定塲へ聞へて扨は代り役はならぬとあれば一大事なり、手代コ介此金子を持行き長尾太夫を同伴して來れと倉田が申付ける所迄、始終を見届け登和太夫此方の宅へ注進に來る、さもあるべしと相待つ所へ手代コ介馳來り二十両差出して段々謝り口上を聞き夫れより此方悠々と出勤して二段目の幕を開きたり、今日二幕程も延刻せし故巴太夫殊の外立腹すれども仕方なく夜に入り、四ッ過頃の打出しに相成る
 吉田冠二未だ遺恨を含み、此方の邪魔をせんとすれp10」ども師匠の威光を以て其事叶はず誠に有がたきは師匠の恩なり江戸の人情短氣にして正直の中にも興行心の有る人は別なり、殊に倉田庄介は元大阪の人に付き、江戸ッ子の性[たち]とは違ひて欲に懸つては義理人情を捨、我れを欺んとすれども却て今日幕を引張見物の人氣を失ふ、されども千秋樂の末迄大入にて廣大の儲けを致されたり[嘉永4.7.15]七月十五日より津久井勘七の芝居となる。塲所は赤城と申て西北手にあたつて、山手[やまて]の邊鄙なり、此邊は御旗本衆御家人衆の屋敷計りの土地にて、此度は屋敷の見物を受る見込と見へたり、狂言は忠臣藏にて、九段目と茶屋塲由良之助長門大夫、六ッ目と平右衛門咲大夫、四段目と大切累土橋巻大夫(今の越大夫)おかる利太夫、九大夫中大夫、判内賀大夫、此餘は略す(藥師にて咲大夫を斷りたる故に此芝居には此方を遣はず)人形吉田冠二、同藤九郎、西川伊三郎、此餘は略す扨初日出したる所暑中といひ塲所惡敷殊に大夫人形不座なるが故に見物三歩通より上は來らず、甚だ淋しく不入の上に、金主津久井勘七病死す、又引續き矢倉主結城孫三郎も死去す、此芝居日數二十日計り辛抱すれども不入にて相休み、殘りの日數は寄塲へ出勤致され漸々と相濟む、右両方の金方[きんかた]手放れの上は寄塲、所々へ師匠自前の出勤、誠に寄塲の大入古來稀なりとの噂なり、それ故越年[をつねん]致され益々大入、三月中旬[嘉永5.3]に至り實父傳右衛門大病の由天王寺より早便を以て知らせ來るに就き、俄に江戸發足有て皆々無事に歸國致されたり師匠歸國後は其餘光を以て、我席も益々繁昌致し上州屋の借金も段々と減じける故家内の者も安心せり、
 翌年四月上旬[嘉永6.4]師匠より書状來りて當秋大阪出勤宜しき時節なれば、金方高津屋重兵衛と萬端相談致し三味線は豊澤團平にて、道頓堀若大夫の芝居興行と治定致し候間歸國の用意あるべしと委細に申來りければ、飛立如く一同の喜び大方ならず、然れども上州屋の借金未だ殘りあれば此儀に當惑して掛合に及びたる所、皆金[かいきん]p11」濟ねば歸國させぬと手強き申分に困り川市親方へョむ川市親方上州屋へ應對致し呉れられ、先づ御當地御名殘りと明日より晝夜の席へ別看板を出し、晝夜の上り高を上州屋へ納め、成丈け入金致し出立の節殘り高を見て取計ひ致すべき由返答に就き、差圖に任せ翌日よりは兩席共に納めたり、猶又御名殘りの看板を出しけるに長々の贔負の町中、ヤレ長尾は上方ヘモウ歸るか惜しい/\と評判して大入、常席に倍せり。然る所六月朔日[嘉永6.6.1]の朝品川冲へ雲霧晴れると異國の大船顯れ出たり[異国船来航は嘉永6年6月3日]是を見る者仰天せざるはなし、時刻移さず浦がの番所より御役人早船にて追々漕付、異國船へ飛乘尋問有る所、此船は亞米利加船にて日本の諸品交易を願ふ、若し聞濟無くば一戰に及ぶとの言上[げんじやう]に就き、此旨御本丸へ早打の注進、櫛の齒を引如くにて大騒動となりたり其昔し~君の御遺命には、若し異國船渡海有れば、吟味をとげ難風の爲に流船したるならば隨分勞り遣はすべし、萬一害心あらば討拂へとの御事なるよし。同九日の朝江戸中の名主の宅へ家主町人殘らず呼出し、來る十二日交易の願ひ相ならざる段、異國船へ御返答有る筈なり、聞濟なくば一戰に及ぶとの言上なれば誠に油斷ならず、尤も此船打拂ふは安けれども、雲霧に隠れ追々押寄來るとも計り難し、去るに依て老人女子供は遠方へ早く退け、十五歳以上の男は明日より呉服橋の御門内へ相詰よとの嚴命なり、是を聞てそりや軍[いくさ]ぢやと町中の諸人上を下へと騒動に及ぶ、此日の夕方上州屋より我を呼びに來り曰く、當地は軍にて中々淨瑠璃所ぢやない、殘金百五十両計りは後年下つて勤めらるべし、東海道へは行けまい用意出來次第仲仙道へ廻り勝手に歸國致さるべしとの申渡しなれば、是は難有しと急ぎ歸り、先づ/\上州屋の方は身分抜たり、去りながら未だ大阪より迎ひ金も來らず、又當地の贔屓よりせめて幟の二三本も貰はねば疎忽に歸國出來難しp12」軍[いくさ]に成やら何共解り難く、周章[あはて]てはならず、併し眼前の所爰に居ては浮雲[あぶない]、藝人は軍に用なし、今晩木塲へ逃去るべしと俄に所持の品々を取集め、銘々手分して携へ、又音の大夫は一荷の荷物を擔ひ、我は子供の手を引永代橋を渡り深川へと逃行、四ッ過頃木塲材木問屋雜賀屋善右衞門様方至れば、ヤレ能う來た爰に居れば氣遣ひなし、裏の離れへ案内せよと主人の仰に、下女が知るべして離れ座敷に通りければ、御酒御膳を下されて家内皆々安堵して休息致したり、同十二日曉天より先陣細川二陣毛利三陣薩摩を始め當時御在府の大小名並に諸役人方品川繰出し、浦賀役人異國船乘移り、交易の願ひ御取上け是なく候間、早々退船有れと申渡すに、異國人ども御威勢に恐れたるや、始め一戰に及ぶと言上せしにも似ず、然らば其旨歸國して帝王へ申達すべしと案外穏かなる申方故に、品々御餞別を下され即刻出帆して忽ち船は見へずなりけり。同十三日品川より諸軍勢御凱陣有るに依て、諸人安堵の思ひをなしたれども、逃行し老人女子供を遠方より呼戻すやら、諸道具を運び戻るやら火事塲の如く、中中商賣所でなし、我等も木塲より戻り最早出勤はやめ、大阪高津屋重兵衛方へ何時にても歸國の出來る段書状を出し、是より日々所々の贔負先へ暇乞に行くが其日/\の用なり、去る程に江戸贔負先より餞別數々給はつたる中、先づ第一は吉原角海老の女郎衆より寶船の大幕、小網町より大幟、兩國品川より大幟、木塲淺草深川本所四ッ谷芝より中幟、都合大幕一張、幟九本。
 江戸大丸より大阪大丸直送りにて便利よし
 右の外は御屋敷方又は町家より目録を貰ふ金高三十両計り誠に花の大江戸の贔負強き事他國の及ぶ所にあらず。かゝる所に六月二十二日大阪高津屋重兵衛方より迎ひ金百両飛脚を以て差越し、道頓堀若太夫の芝居九p13」月節句初日治定と申來る、右に就き餞別を給はつたる先々禮廻りにて毎日繁多なり。
 爰に殘念なるは久吉改め久尾太夫事、去年死去して此度の歸國に洩れたり。我等夫婦悴辨治郎、爲治郎、政之助、音の大夫夫婦、荷持權兵衛上下八人七月五日[嘉永6.7.5]五ケ年ぶりにて江戸を出立す。誠に籠鳥[かごのとり]の大空に出て羽をのばすの思ひなり。上州屋清兵衛方百五十兩計り殘金の儀は後年若松屋喜三郎上阪して應對に來り、五十兩餘用捨に預り殘り正に百両日數百日の出勤、又道中往復並に江戸滞在中諸入費[しよにふひ]先方賄ひの對談出來、我等音の太夫鶴尾太夫三人下りて相勤め、三味線は鶴澤鬼勇と申者にて滞りなく相濟す、尤も上方芝居繁多なれば自前の出勤はせず歸國す。此下向共三度の江戸下りせしが長談なれば略す。
 記者曰く、是より大阪へ乘込み初舞臺の談に移る筈なれど餘り長きに亘るを以て次號の御樂みとすp14」
 
故長尾太夫自記傳(七) 浄瑠璃雜誌 95號 pp11-14 明治44.5.15
 竹本春子太夫寄稿
 
 偖此度は女共[をんなども]同道故木曽街道へ出る板橋宿にて江戸見立の人々と酒盛をして立別れ夫より甲州街道へ出富士の裾野を迫[まは]り箱根の裏番所を通り東海道沼津へ出たp11」り。大井川三日の川留にて嶋田の宿に滞留、四日目の朝川の口明けたれば大水を無事に渡り金谷宿にて祝の酒盛を致し此所より音の太夫一人先立つて歸國す。此譯は某天王寺へ向け歸國するもいかゞなれば大阪芝居の近邊にて宅をかまへ置く爲めに早足の達者ゆゑ音の太夫急ぎたり、七人はわざと道中をゆる/\して見附宿より又田舎道へ這入荒井の番所の抜道より豊岡稻荷へ出又東海道へ出たり暑中の道中なれども歸國の嬉しさに暑さのあたりもなくて安々と大津より伏見へ出晝船に乘り淀川の景色を見て一盃呑だる時のこゝちよさに長の辛勞もうち忘れつゝ
 つらかりし旅の暑さも流したり風が下すか淀の川舟斯んな口づさみて嬉ぶも宜なる哉越鳥南枝に巣をくひ胡馬北風に嘶くと忘れがたきは古郷の空なり況んや我は遠き旅に出てもしらぬ人の中に立交りて身の危き時且は秋の月を見し折から或は素雪の寒きあしたなんどは殊更に古郷を慕れしにけふかえるさの有がたさは譬ん方なし、あかねさす日影も西に落て苫吹風の涼しさに船中まとゐの人々が四方の雜談を聞て樂しむ内早櫻の宮に來りぬ。此所の景色こそ隅田川のみめぐり稻荷にさも似たり。頓て八軒家も過たりければ
 淀川やよとまぬ舟の旅衣たちかへりたるけふのうれしさ
 東堀を下し行[ゆく]船中より見ればけふは是七月廿四日地藏祭りの賑ひ左右の岸に建ならびたる家倉浪花の繁榮いかでか江戸の町に劣るべき、程なく道頓堀の舟宿川六の岸に着船すれば音の太夫眞先に出迎ひ若太夫芝居の表方十人計り銘々長鶴の紋、紅摺の提灯を携へ川岸[かし]に立ならびて聲々に歸國を祝したり。日本橋より諸人群集[くんじゆ]して船より上るを見られたる晴やかさ、偖住宅は鍛治屋町金屋といふ大家の隠居座敷なるよしなれば爰へ行道すがら芝居表方前後に付添ければ両側の家々より立出[たちいで]長尾が戻つた/\とさゞめく嬉しさ是は初舞臺の人氣引立の爲に音の太夫長鶴の提灯を俄に拵へ乘込を景氣能[よく]したる頓智の働きなり、鍛冶屋町の假宅は本家[ほんたく]と軒並びにて座敷二間有て勝手住ゐも十分に致し有ばp12」家内は嬉びける。此宅へ着ば表方皆々引取音の太夫の家内皆々待儲け居て用意の酒飯を出し歸國を祝し其夜は酒宴に明したり、翌朝まだきより金主高津屋重兵衛同手代他三郎同桝重樂や頭取竹本多滿太夫操り方末廣菊治郎三味線豊澤團平入來有ば早盃を出し江戸の話やら、何やかやとさゞめく所に高津屋申には江戸の大丸より先日幕幟が來まして拜見して恐れ入ました別て吉原の大幕寳船のうつくしさ女郎の名前を帆に書顯はし立派な幕早う芝居へかけ幟も道頓堀へ建て恟りさしてやりたいと皆々申ますと滿悦の顔なり、末廣の申には摺物は富士の畫のつもり前茶屋の暖簾も富士に長鶴又表方のそろひは長鶴と鷹の羽のちりし小紋是等は私方へ引受立派に致させませうといふ、多滿太夫が申すには先豊竹三光齋にて前狂言を立、河堀様と長尾様とは附物の筈と各々嬉しがつての酒盛中へ追々悦び來る客が立替り入替り料理屋の如くけふは終日酒びたしになりて草臥夕方に前後もしらず寝入たり、其翌日は此方音の太夫權兵衛に土産物を持せ天王寺師匠方へ行面會して厚禮を述、偖江戸の話しを色々する内、酒飯出で馳走になり夫より實家米屋治郎兵衛方へ行兄弟親族久々の對面一同に悦び又酒を出し七ッ時分に米治郎方を立出ける、今日天王寺通行するに家々より立出、井川様御歸りと挨拶する人もあり又長尾様目出度御歸國といふ人もありて群集する在所の親切胸に涙の突かくる計りなり、井川の借金ふらちならばかやうに大手をふつては往來も成るまじと心中に喜悦せり、
 芝居初日は九月節句の治定にて八月朔日より師匠は京都四條北側芝居へ出勤、此興行は京都の竹本津賀太夫殿山城椽と受領改名有て其弘めの芝居なり此興行廿日相濟師匠歸阪の上此方興行仕[つかまつる]筈の處長の御停止[嘉永6.7.26-]に付京都興行延引に相成故此方興行も大延引に相成萬端手筈間違ひちから抜たり誠に此停止の日數御免に相成を一日三秋の思ひにて相待所漸々と鳴物御免に相成京都初日十月二日[嘉永6.10.2]治定にて師匠上京致されたり、然る所師匠歸阪迄安閑と待つては居られずと高津屋重兵衛より引合則師匠承知有るに依り堺の芝居にて興行相成最[もつとも]p13」十月二日[嘉永6.10.2]の初日と治定する、此堺表の儀は我れ素人の時分花會座敷會等に度々出勤して格別に贔負に相成りし此方藝道生立[おひたち]の土地故に金方の思ひ付なり、狂言は伊賀越にて序切は千賀太夫二切圓覺寺と岡崎の口と二役富士太夫(今の駒太夫なり)沼津の段八重太夫岡崎の段は此方、大切お染油屋の段多滿太夫なり、芝居は江戸の大幕を張堺連中より床の翠簾又水引幕を掛る、表は江戸の大幟を建ならべ景氣よく興行日數十五日なり、偖七ケ年ぶりにて出勤の事故大入繁昌に付初舞臺手始めよしと一同に大悦す、
 人形は吉田新吾、吉田才治、吉田冠十郎、桐竹門十郎外略す
 ○京都興行相濟師匠歸阪に就き道頓堀若太夫芝居興行と定る所爰に一條の故障起りたり
 記者曰く、此の故障と申すは素人より太夫に成りたる初興行の語り塲に就き因講より故障起りしなり委敷[くわしき]は次號に讓るp14」
 
長尾太夫自記傳(八) 浄瑠璃雜誌 96號 pp10-14 明治44.6.30
 竹本春子太夫寄稿
 
 其譯と申すは昔から素人の太夫附物[つきもの]を勤る初舞臺は三興行の間大切追出しを語るが仲間の掟てなるよし右三興行の内に評判の善惡又は本人の辛抱出けるや否哉をためすなり、追出しを語るには何れ刻限遲く見物人大方酒に醉て高聲になり又前茶屋より道具をあげに來て塲棧處[さんじきが]騒々敷てならぬ所を評判よく靜らせ一段首尾能[よく]仕果せるか又見物人中途にて立ていぬか其次第によつて太夫の株に有付か又止めて引込か一ッ二ッの六ケ敷所なり、かるが故に是迄素人より出たる太夫有といへども多くは止めて引込者多く、出抜る者は少なし、但し是は一足飛の太夫故素人から太夫が出ると仲間で化物といふ、大序から段々と口を語りて辛抱せし太夫衆は又別段にて右の如くとは違へり、此度我れは大阪初舞臺の化物なれば追出しを語る役が順當なり此儀は兼て師匠より聞て覚悟の所なり、然るに金主高津屋重兵衛殿申すには此度の芝居は長尾太夫一天張の興行にて肝心の花方につかふ目當の太夫に追出しの塲は決して勤させる事成がたし、既に先年の藍玉、靱太夫、三光齋皆化物なれども追出しには遣はず、是金主より花に遣ふ故なり、去るによつて此芝居も餘人に追出しを勤めさせいと云ふ、則頭取多滿太夫より櫓下座頭長門太夫え引合に及ぶ所長門太夫返答には以前の餘人[よにん]の事は此方の知らぬ事、我門弟より仲間の掟は破[こは]す事は決して成がたし、是非共追出しを勤めさせいと物堅き氣p10」質故中々承知是なく、又金方も強情に云募り然らば興行は止めるといふにぞ、頭取大ゐに難澁して因講へ申し出る、是によつて因講古老中老行司事衆集会有つて評定の所、仲間の掟は有れども金主の申す所も最至極なり、金主の申し分を反古にして閉口させては此後興行の邪魔と成つて一同の迷惑と成るべし、殊に長尾太夫は江戸表にて修行致し妹脊山二段目の切を勤め則河堀又巴太夫も一座の番附あり然る上は大阪這出[はい〃で]の化物とは格別なり、さすれば、此芝居の番附表江戸登り長尾太夫と書顯すれば宜しからんと、評議一決に付師匠も承知致されたり
  此儀師匠は元よりかくするつもり故に江戸へ修行にゆけと先年申されしなり、然れども今は頭からさうすると萬一本人仲間より憎まれては惡く、夫ゆゑわざとむつかしくいひ出し、外よりかくいはする様に致されたりと後にしれたり
 右事濟に付若太夫芝居看板出る、前狂言は鎌倉三代記八つ目迄重立[おもたつ]太夫衆には、千賀太夫、富士太夫、中太夫、多滿太夫、八重太夫、三光齋、次附物鬼一の三段目長門太夫、跡附物出世大平記九ッ目長尾太夫、大切粂の仙人山の段かけ合、八重太夫、中太夫、富士太夫、多滿太夫、四人にて人形總出づかひなり、人形は吉田新吾、吉田辰造『故人辰造なりいなりとかけもち〉桐竹門藏、吉田冠十郎(今の辰造なり)吉田才治この餘は略す、芝居表通りは日本橋と中橋との間へ、江戸の大幟中幟又大阪の中幟小幟十六本を建ならべ天王寺より米俵割木の積物安治川より炭俵の積物等にて大層なる景氣、水引幕は堺のヒイキ連よりかけ、又上町豊島屋[とよしまや]よりも大水引幕、又上町龜屋より膝隠しの幕をかけ、都て芝居内外の飾り附け十分なり、抑此芝居九月節句初日の筈段々と延引して霜月朔日と相成、道頓堀冬枯の淋敷時節になりての興行故、いかゞ有るべきやと芝居がゝりの衆皆覺束なく思ひ心配せり、況や本人の我は百倍の心痛此程は實に寝食も心能くせず、若又藝運に叶ひ譬へ評判は能くても不入の節は初舞臺晴に立たず、自然やりそこのふたら何面目有つて大阪に安居せんや、又復[また/\]江戸へp11」歸るべしと心に覚悟極めたり、十月晦日總稽古なれば此方晝時分に出勤して一座衆の樂や三階において中音にて語り、復晝後に人形にかけて舞臺にて語り又夜に入り吉田辰造の樂やにて語る、此辰造昔の重太夫の風に節をいぢり直すといへども、中々即座に語り直す事叶はず、俄の難儀なり、其時豊澤團平よいかげんに挨拶して切上、よう/\と辰造の樂やを退き我部屋に戻る、團平小聲に申すには辰造意地惡にて節を直す段片腹痛し、人形遣のしる事ならず一切頓着なく、覺へた通り勝手氣儘に御語り有べしとちからを付ていふに、少しは落付たり、稽古濟で歸宅致し初更過なれども天王寺茶臼山正祐寺へ參詣して祈念をなし四つ半頃に歸宅する所、家内は初日の拵へにて何くれとなく混雜なしたり。
 干時[ときに]嘉永七年丑年十一月朔日[嘉永6.11.1]、東の空しらむころ若太夫の芝居の矢倉太皷枕に響き聞へたれば、胸轟きて起上り、先朝清めをして祈念する折しも、朝日座敷へ照込けふは風も吹ず晴天にて雀の聲も吉瑞を告るかと思ふ計り、此期に及び何か思はんと、清心涼しく時を待たり、頓て大序の幕明たりと知らせ來りければ、五つ時頃に樂や入をする、四つ時分には樂や皆々打揃ふ所に、晝過頃頭取いそ/\として二階へ上り來り、師匠と小聲で何か話しをして、互いに手を打て笑ひけるが、又多滿太夫我を招き舞臺へ連行[つれゆき]幕の内より見物人を覗き見せるに、偖まあいつの間にやら塲も棧敷も一ぱいの大入、是は/\とぞつと身震が出たり、八つ時分には帳塲上つて見物山をなしたり、是はけしからぬ事、譬へ旬のよき芝居にても、初日より帳塲の上つたる例なしと手の舞、足の踏所をしらず樂や一同に踊り上つて大喜びす、此大入に譯ありよく/\聞ば、此頃角の芝居尾上多見藏座頭にて興行最中の所前の日より勘定塲と多見藏と何か爭論出來て有りしが、今朝に至つて双方共強情にいひ募り終には三幕目切にて輿行中止と相成り見物を打出す、此見物若太夫の芝居へどつと一時に這入り、偖こそ帳塲上つたり、誠に此方の芝居不時の幸ひといひつべし、偖前狂言段々と濟て、三光齋のp12」八つ目も、師匠の菊畑もすみて、此方の幕明になる頃は初夜過なり、數百の見物にて塲も棧敷も誠に騒々敷く角力塲の如し、大阪初舞臺初聲を上る我爲には見物多過ると心憶したり、爰に有りがたきは、此方の役塲の間[ま]は見物人は元より、前茶屋の女共の行通ひを留る是をとほさん塲といふなり、又表方の若イ者出語り臺の下、或は花道ぎは、通ひ道又は末塲[すゑば]の邊り、あちこちへ手別して這入居て、萬一酒に醉たる見物、惡ぞめきする者有ば制度し、聞き入れざる者は表へ引ずり出す、爲に勘定塲より申し付けられたり、斯迄に此方の塲を大切になし下さる段有りがたき事なり、程なく幕明きて口玉椿の段利太夫相濟、此方と團平と出ると、見物鯨[とき]の聲を上て、人形遣ひ吉田淺右衛門上下にて出長口上をいふといへども中々聞く所でなし、逆上[のぼせ]る程やかましく、其時豊澤團平納り返つて、靜にヲクリ返しを大撥に彈て段々と、見物をしづめ、程よい時分になりて、此方の心もしづまり、ゆたかに發聲出來て、身震もとまり、音力[をんりき]慥に語り出しければ、塲棧敷[ばさんじき]しんとして靜まりかへつて聽き居る、餘り見物靜なれば若しや氣にいらぬかと又案じながら語りけるに、嘉平次の大笑になつて見物一同にどつと讃る、やれしてやつたと心勇み、夫れからは一生懸命、死に物狂ひ、力一倍大音を上げ、重次郎の愁になつて、見物むちくちやに讃るに乘て語る、團平も常に倍して彈まくり、段切になり大山の崩る如く塲淺敷一時に聲を上げ拍子能く幕しまつたり、やれ嬉しやと氣抜の如くになりしも、最初日の今が大切なり、師匠は早く歸宅致さるゝ、是は我爲なり師匠が樂やに聞て居ると思ふと夫が氣になつて邪魔と成る事を推察有つて、わざと早く歸宅せらるゝ、其外の衆中は皆々目出たし/\と祝す、此方は其後人形遣の樂屋へ禮廻りし我部屋に戻り、一ぷく呑だる心地よさ何に譬へん方もなし、程なく大切山の段幕明き、此塲別して面白きかけ合にて四時半頃の打出しになり、矢倉太皷の音四方に響きていさましし、夫より音の太夫權兵衛を召連れ茶屋表口へ出れば表方の衆二人若太夫としるしたる提灯を携へ、往來のp13」先き拂ひして宅迄送り來る、宅へ戻りて見れば町内又は近邊の懇意の衆、芝居見物の戻りがけに寄集り、悦びの酒盛最中なれば、殊更嬉しくて矢庭に數盃をかたむけ、今夜こそ酒飯も心よく咽をとほり大醉にて休む(以下次號)p14」
 
故長尾太夫自記傳(九) 浄瑠璃雜誌 97號 pp7-11 明治44.8.15
 竹本春子太夫寄稿
 
 偖又初日より大入にて帳塲上つたりと大評判、世間へ鳴響き、二日三日と十三日目迄、塲、棧敷賣切れ押かけにいては見物成りがたく前の日より前茶屋へョに來らすば塲棧敷とも取がたき傳説弘まり、毎朝大序より見物大入なり、是は強ち我淨瑠璃を聽にくる計りではなし、天王寺の庄屋の井川が芝居へ出たと珍らしがり町々はいふも更なり、在所が多分にて、此頃は攝河播p7泉の村々の庄屋衆貢物上納の時にて、上町の御宿[おんやど]に滞留の輩數百人なれば此群[このむれ]にても多過なり、其内にも西の宮より須磨邊迄灘目筋は昔しの別懇の同役多かりし故樂屋へ近物[びら]の送り物夥しく、此故に芝居の人氣相立、此方の塲表二枚札にて繁榮す、右は全く井川の名高きコといゝつべし、先祖へは申し譯もなき次第とは思へども、眼前の譽れなり、二日目も朝早く樂屋入りしたる所、床人形の頭取口上、道具方、はやし、床山、戸家番[とやばん]、中賣、前茶屋、表方、塲廻り、公邊掛[こうへんがゝ]り、手代衆に至るまで、立替り入替り皆々此方へ禮に來る、何かはしらねど禮答致し置、跡にて聞ば、金主高津屋より、我名前にて夫々へ祝儀を遣されたる禮のよし、始め土産の摺物から、揃へ、祝儀萬端高津屋より宜敷取り計らひ致し下されたり、かやうの事自分手元の賄ひなれば忽ち藝の邪魔と成べし、既に是迄素人這出の太夫有ども慥成金主の後立[うしろだて]がなく、初出勤の入用萬事は自前の持出し故、悉皆[こと/\く]行届かず洩る事有つて尻を受け、小言を聞惡口譏らるゝ障り出來、給金所が氣減[きがへ]る様に金が出るにつけ、是に氣を痛め、自然肝心の藝の評判を失ひ、不首尾となりし惡例まゝ有る事なり、世の譬に名を捕ふよりコを捕[とれ]、といへども藝人はコを捕ふよう名を捕[とろ]が専一と思はねば日本に名譽の太夫とは成りがたし、と古人の教訓有りしと聞けり、我は元より其勘定の氣質にて頓と利コを得ることに疎くましてや、此度は、一足飛に達者[たてもの]の株に有り付く事故諸費は家業の敷金と思ふべし、是は後年出世の上取り返す事安し、去るによつて、今日の出物は人任せにて何んにもしらず、只九つ目一段の外は他念なし、第五日目の早朝師匠長門太夫殿拙宅へ入來有つて、評判上首尾なれば最早安堵たるべし、との挨拶に付、眞實に滿足せり、其日は師匠役濟の上、樂屋にゆつくりと長座[ながざ]して大勢を集め、酒宴を催ふされ、我が役塲熟練したる所を聽れたり、且又先年我を江戸表へ伴ひし他三郎桝重の兩人當芝居給金の外に勘定塲から毎日五貫文宛、長尾因縁物と唱へ、餘内を取る、當興行日數廿日の所十二日目に藏入[くらいれ]出來高津屋重兵衛殿過分の設[まを]けとp8」成つたるよし、霜枯*の時分にしては上々の芝居なり、
 此芝居相濟、一座兵庫[嘉永6.11]へ引越したれども略す、翌年春三月[嘉永7.3]清水町にて住宅をかまへ、惣領辨次郎元服して米井屋[よねゐや]吉兵衛と改め、紙店を出し、次男爲次郎は呉服物商賣見習ひの爲、他家へ遣はし置、末子政之助は幼年の坊主子なれども、鶴澤清七殿門弟となして、小清と改め、三味線を稽古させたり、
  後に鶴澤燕三郎門弟となり、燕勝[んしやう]と改め、又後に今の清七殿門弟となり、最藝道引立の師匠豊澤猿糸殿差圖を以て、當時鶴澤鱗糸と改名す、年來の望を達し、大坂を仕果せ、續いて京都も何の苦もなく相濟ませ、三都上首尾成るが故に、諸國の招待に相成り、達者と呼れ、星霜を經たり
  此後の事は長々しき事に付略す
 干時[ときに]文久三亥年[文久3]の頃は我古郷天王寺の庄屋大浦五郎兵衛は未[いまだ]押込閉門なれば、青木丈三郎、布施安右衛門此両人して相勤る所、年々の私欲露顯に及び、既に御役所の御吟味に相ならんとするに恐れ、両人一時に逐電して行衛しれず、是によつてさしもの大村[おほむら]無役人となつたれは、片時も捨置かれず惣村年寄頭百姓小前一統流連判定願書を以て、御支配御代官、鈴木町内海他次郎殿御役所へ長尾太夫身分引戻しの御願に罷出る、則願書御留置に相成り明日罷出る様仰付られたるよし。
 此儀其夜早速に此方へ内々告しらす者有つて、いさいに聞へたり、偖は下方[しもかた]にて引合ては迚も此方承知せざると思ひ願ひに出たりと推察して御上の様子をうかゞひけり翌日一同罷出たる所、仰渡[おほせわたさ]れには當時大坂清水町に罷在候竹本長尾太夫と申す者は、元其村の庄屋井川與三左衛門と申せし者にて、謹功も是有し者に付、此度同人身分引戻しの願ひ、御役所において評定是有る所、一旦淨瑠璃太夫と相成り候身分に付、今更庄屋役は申し付けがたし、然れども此者なくては眼前村方納りがたく御用にも差支候事故、急ぎ新規庄屋を見立て、其新庄屋共の後見を右與三左衛門に申し付べし、後見役なれば苦しからず候間、早々庄屋を見立て願ひ出づべp9」しとの事なり、此段御最[ごもつとも]の儀に付皆々引取り、夫れより一村[そん]日々惣寄り合をして評議まちまちなるよし(此儀も此方へ聞へたり)
 斯て日數を經て新庄屋を撰び見立てたり、先づ南組西組を一組にして枝郷[だごう]天下茶屋柴谷利介、又北組は春田平次郎、東組は關根源次郎、中組は田中久左衛門、右四人の庄屋を見立願ひ出たる所、早速に御聞届に相成候得共、右の者共百姓又は商人、或は儒者醫者等の者に付何の用にも立ぬ者共にて、一日も村方納りがたく故、彼の與三左衛門へ後見を申し付べし、併ながら下方にて其方共より再應引合候上、達つて歸付せずば當役所より町奉行所へ懸合、本人を召出し、是非とも後見を勤めさすべしとの仰渡しに付、皆々引取ける、
  此儀も其後此方へ聞へたり、
 右に付或る日重年寄[おもとしより]の惣代として、治郎左衛門、新左衛門、喜八郎、彌八郎、此方宅へ來り、御役所の御威光を表に立て後見役の儀を段々と相ョみ且は先年井川家我等の借財七十貫目を惣百姓へ引受たる恩誼も有れば、是非共立戻り村方を納め呉よと手詰の對談誠に黙止がたく思へども、此節京都山城様より五月芝居に上京致し呉と是も據なく申し來る折ネに付、先々両方とも跡より返答致すべく旨申延し置き、後にて熟々[つら/\]と考へ思ふに、惣領の辨次郎か又次男の爲次郎が存命にて有るならば、此方の悴を以て、井川南組庄屋を勤させ呉れなば我等惣後見を致すべし、と返答すれば否む事なりがたく、一同承知有るは必定にて、實に井川家再興の時節到來の所なれども、いかにせん両人の悴共死去致し、末子政之助一人となり、三味線のみを教へて、算筆を教へ置かねば今の間にはあはず、されども五千七百石此方一人勤ならば、今より晝夜かゝつて成りとも政之助に算筆を仕込、諸御用を教へるに其甲斐あり、五人勤めとなれば常の村の庄屋にて役コ少なし纔南組丈の庄屋ならば家督の田畑なくては永續なりがたし、最早我等老年に及び家督を求める事覺束なし又今の姿ならば我等は太夫の家業にて何の不足なく日を送り、悴政之助も藝道追々上達すれば、三味線彈、p10」渡世にて氣樂に暮す時節に逢べし、さすれば親子ともに是を止め末の見へぬ井川家相績させるは甚以て不安心なり、爰をもつて能く思へば迚も/\井川家を引起す事容易ならざる事なり、今得がたき時來つて、天王寺庄屋後見を勤る所に至つても、井川家を再興する事叶ひがたきは猶々殘念千萬と、両三日は寝食を忘れて勘考すれども、ちから及ばず、然らば先祖への申し譯に、せめては後見役を勤め、當座の恥辱を雪ぐべしと心一決して、京都出勤は斷りを申し遣はし、天王寺へ後見承知の返答をしたり、此返答によつて以前の年寄衆取敢ず出來り、後見承知の禮を述るに、此方申すには、我等事太夫の家業長くは休みがたし、天王寺の後見實に止事[やむこと]を得ざるに付、既に此度の京都出勤は斷りを申したり、是によつて當年限の後見と承知致さるべし、最も給金取りの雇人同様なれば、いか程謝礼を致され候やと尋る處、其儀は我等へ任せ置き下さるべし、程能取り計らひ仕るべし、後見承知有る上は一日も早く御役所へ御出下され後見役御免を御蒙り下さるベしと、日限を定めて引取りける。(以下次號)p11」
 
故長尾大夫自記傳(十) 浄瑠璃雜誌 98號 pp10-16 明治44.9.30
 竹本春子大夫寄稿
 
 五月七日[文久3.5.7]庄屋柴谷利介、春田平次郎、關根源次郎、田中久左衛門、并*に此方其外年寄、頭[かしら]百姓殘らず御役所罷出たる所、此方を前召出され、元天王寺庄屋與三左衛門、其方事以前在勤中惡事私慾もなく勤功是れ有りし段委細御聽に達したる處、元々の通り庄屋仰付らるべくなれ共、當時淨瑠璃太夫の身分と相成罷有に付其儀に及ばす、此度新庄屋共の後見役を申付る所なり、自今庄屋共へ、御用、村用[むらよう]、萬事誠心を以て教授致し遣はすべし、又庄屋共一同は與三左衛門相願諸事同人の差圖を受て實体に勤役[きんき]致すべしと仰渡され一同畏り奉ると御受申上て引取ける、翌八日朝庄屋四人と年寄両人と出來り、後見の禮として百両の封金に庄屋四人連名して差出す、續いて年寄懐中より書附を差出すに、披見すれば惣村一同より後見の禮としてp11」白米五石但し五斗三升入十俵の目録並に別封を開き見れば、先年惣村より濟方致し呉れたる井川家借財の古證文數通なり、是を見て此方ハット低頭して押戴きける、其時年寄新左衛門、目録の白米十俵車にて尊宅へ運ばせ申べくやと問ふ、此方答へてイヤ/\宅は手挾なれば郷藏[ごうくら]に預り置下さるべし、入用宛取寄せ申べしと、金子目録古證文を受納して盃を出し酒飯を馳走致し、彌々明日より出勤致すべしと治定致し何れも歸宅致されける、
 五月九日早天より天王寺の惣會所へ出勤す、此惣會所は我舊宅なり、玄關より通りて見るに先年松濤庵の好みにて普請せし七疊半の茶の間は取拂ひ物書部家[ものかきべや]と變り、又八疊の佛間も取拂ひ、二間新に建添て、吟味塲と勘定塲とに相成り、二階と書院二間並に居間臺所内玄關表玄關同次の間是等は昔の在來の儘なり、鳴呼我宅へ日々出勤する事其心苦しさ是如何なる因縁にやと獨り歎息するのみ、庄屋上席柴谷利介は綿商人、次席春田平次郎は近頃大阪より來りし儒者なり、三席目の關根源次郎は醫者、末席田中久左衛門は百姓なり、何れも年頃は三十歳似上の勤め盛りと見へたれ共、庄屋役は眞の素人なり、右四人の庄屋と年寄惣代、治郎右衛門、新左衛門、治左衛門、彌八郎勘三郎、喜左衛門、此六人日々出勤して教へを受けんと申、先づ今日は終日酒盛をして四方山の雜談に日を暮して歸宅す、翌日早朝より一同立會、先づ金銀出入目安一件は町々物書役[ものかきやく]町代共能く心得罷有れば此者共に任す、不時の御撿使用、溺死、縊死、殺害、自害手疵、喧嘩、其外火付、盗賊、都て非常用を始めとして、寺社の取扱ひから雨乞の一件等迄、具[つぶさ]に伝授し、其跡は、耕地の廉[かど]、地方[ぢかた]の算法、を在來の古帳[ふるちやう]を以て一點毎に心得させ、御年貢取立方、米納[べいなふ]、大豆納[だいづなふ]は江戸淺草、京都二條、大阪難波、右三ヶ所の御藏納[をくらおさめ]の諸用向、銀納[ぎんなふ]は御懸屋[おかけや]納め、右の外臨時用、出火駆付塲所、他領入交りの節引合方[ひきあはせかた]、萬事委[こと/\]く八月中旬頃迄に連日段々に教授したり、右の衆は流石撰出されたる程の人故案外早く事ネを辨へ覺へたり、
 抑天王寺を無双の大村と申所ネを、荒まし申そうならば、第一大阪市p12」中に人家入交り、軒竝びにて在町立ち別れたり、北手の町は生玉の鳥居前より梅ケ辻邊迄、北東手の耕地は山小橋[やまをばし]、産湯の稻荷邊限り、眞東の耕地は、御勝山[おかちやま]より、大和街道幸津[かうづ]邊迄、東南の耕地は、阿部野街道小町塚邊限り、扨又村中[むらなか]の中通りは、北の端生玉鳥居前より、南へ谷町筋駒ケ池尼寺、佐々木の抜道より、四天王寺伽藍の大鳥居前筋南へ入る人家はづれ一里塚阿部野街道へ續く、亦大鳥居より西は、逢阪玉手の水、合邦ケ辻通り、西下手中街道北の端人家堀留より、御藏跡下寺町[しもてらまち]通り勝曼阪下へ續く、復其西は長町筋通り南毘沙門表門より、今宮を中に隔て、南住吉街道筋枝郷天下茶屋限り、中街道南の端は、岸の姫松限り、此岸通りは古への大江の岸の古跡なり、今は岸通りに聖天山、丸山、茶臼山、一心寺、天神山、増井、新清水寺毘沙門山等續きて、住吉街道より東に見へて、秋は殊更紅葉の絶景類ひなし、天王寺の家數凡そ二萬餘り、三歩通りは百姓、後はあらゆる商家計り、其内に浪花第一の名高き、浮瀬、福屋、西照庵と云ふ料理茶屋三軒あり(京の丸山にひとしき大阪の參會塲なり)又馬塲先、尼寺勝曼と土地の名を唱へたる女郎屋塲所三ケ所あり寺院三十八ケ寺、氏神の社頭七ケ所あり、佛法最初の四天王寺大伽藍へ諸國より參詣の旅人絶へざるが故に、旅屋[やどや]軒を並べ、湯屋、髪結床も數軒あり、又樂人町には笙篳篥の音聞へ、四民入り混じ、末に至つては、歌舞伎役者、諸藝人も住居致し、惡黨者、無宿者なんども隠住して、難用を引起し役人繁多の所なり、其昔御代官池田岩之亟様御役人相澤時之進殿申されるに、奥州に五千石計りの大村有れども、邊鄙にて山林多く、人家耕地少分なるが故に村高と相應ぜず、貢物纔なり、此天王寺は名にしおふ日本の大湊なる、大阪の地續きにて、村高人家人別耕地相應ぜし繁榮の土地、無双の大村なりと仰せられたり、
 扨此方日々天王寺惣會所へ出勤の道すがら、行逢ふ人々に叮嚀に頓首し、又庄屋年寄多人數集會の節、此方上座にて一同尊敬する事昔に變らず、後見と難も威コ失はず、今の身に取りては實に難有し、九月中旬には耕地御檢見の御用一件、是は庄p13」屋役第一の御用也、村役一同立合にて、田畑豊凶を下見し、上々、上中下、下々、此五段の毛揃へ算法は秘密として上役より中々容易に教へぬ用なれ共、初心の輩へ秘傳を授ける事甚だ以て大儀なり、則ち田畑内見帳面仕上げ、御役所へ差上げ御勘定方役人御改めに相成る所一點も算法違はず帳面納まりければ、庄屋年寄、頭百姓、皆々申すには、井川氏長々中絶なれども流石に若年の頃より數年來胸にたゝみ込みて有りし算法故に其功正に現れたり、近年は帳面表算法違ひありて御勘定方より御直しを受け、両三日も帳面納まらず、それ故御檢見延引に相成無益の費がかゝりて難澁せしが、當年は御直しもなく帳面即刻速に納りたるを以て井川氏の熟練しれたり、此人なくば今年の御檢見如何相成べきや扨々危き事かなと一同感心せり、九月十八日[文久3]田畑御檢見として御代官内海他次郎殿其外地方御役人衆御附添にて御出張あり、終日耕地御見分の上惣會所にて御休息の節此方召出され、元當所庄屋與三左衛門此度は後見役大儀なりと、内海公御直々の御挨拶有て六諭と表題御本を御褒美に下され、面目を施したり。
  此六諭と云ふ本後年新作淨瑠璃の文作に用ひたる事度々なり。
 其後貢物其取立の勘定にかゝり十二月二十日限り上納皆濟[かいさい]に及び、後見役勤め終りたり。
  両三年は庄屋中折々尋ね合の用有り其後は沙汰なし
 斯の如く天王寺へ出勤するに就けては、四天王寺御山内舎利職寺院方、又奉行職秋野坊竝に役僧役人樂人衆方へも罷出疎意なく懇意を結び、茶道現師松濤庵釜日にも往つて薄茶を喫して遊び、何所も昔の如く、身分の差別なく、心安きは後見に出でたるコなり、師匠長門太夫殿、又高弟湊太夫殿存命の中に四天王寺境内へ石塔を建立致し置度願望此方へ折入つてのョみ默止難く、早速一舎利へ内願致せし所、一山御評定有りて、願人井川は山内に由緒有る者迚、御聞届に相成り、北の御門内の空地を廣く下され地代金纔か寺納して、石塔建立成就したり、時に此方思ふには、迚もの事に石塔供養の節、音樂の法事を勤め度思ふに付、此段樂人の一老岡美濃p14」守殿へ内願致せし所、古來より石塔供養法事抔に音樂の先例なしと雖も、外ならぬ井川の願ひ故に仲間へ評議せんとの返答、又一舎利へも此願ひを立て、聞濟の上樂人方へも御引合下され、餘儀なき事迚、樂所に於ても承知有り、依て石塔供養當日には四天王寺、一舎利、二舎利年預[ねんによ]共、外殘らず竝に樂人方一同に出勤有て、音樂の御法事、石塔供養には前代未聞なり、世話方の我れ、本人の長門太夫、湊太夫、此三人は麻裃親類中は袴羽織、其外男女の參詣群集せり、實に音樂の法事殊勝なれば、諸人浦山ぬはなし、新規に斯の如くせしは我功にて全く師恩を送る心底、湊太夫は能き相伴と云ひつべし。
  此後嵐璃寛より大金を出して地面を貰ひ石塔を建て其供養に音樂の法事を願ひ出たる所、四天王寺亦は樂人衆中一同大ゐに怒て河原者の身分を以て音樂の法事を願ふと云ふは不届なりと御呵り有て聞濟なく笑止千萬の事なり。
 前段天王寺庄屋後見一條、此本に顯はす事いらざる事なれ共、井川家相續の事に就ては、無量の事共を盡せども其甲斐なく、大願ならざる事は巻中にあり、然れ共我舊家の斷絶を搆はず、好んで大夫に成たる様に噂する人も有るが故に、其申譯の爲め、且は又昔在役中に一點の悪事なかりし故に後見役を仰付られたる我身の潔白を知らせ置かん爲めにくだ/\しけれども認めたり。
 誠や水の流と人の行末と云ふも宜[むべ]なり、我は天王寺質屋の息子と生れ十五歳より他家に出で、一旦は一村の司をなし、又淨瑠璃太夫となり、故郷を離散して、思ひきや鳥が啼く吾妻の旅寝に暮し、又は芦が散る浪花に住居し、今は九重の都人となれり、斯[かく]なん三都に住宅なしたるは、扨も/\珍ら敷流れ渡りたり、我六十の星霜を積たれば、最早古郷の天王寺へ歸りて我宅を搆へんと思はゞ、風景の能き邊りにて物好みの風流なる美宅に安住して、釜を友に連日樂み暮さん事自由なり、されども後年に至りて家族共と遠く離れて居ては家業不便利ならんと推察して古郷へ歸らず、亦一つにp15」は老ては子に隨ふの心なり
 扨此本ゆくりなくも菅の根の、長々敷物語りとなりぬれば、ようやくけふなん窓の元に筆を止め侍りぬ
 登り來し老の坂より見かへれば
   むかしはながき山路なりけり干時明治三庚午仲秋
     花都東山麓元町 矢野氏於閑居書之
   竹本長尾太夫 藤原久富書判
 記者曰く此自記傳も始めより十回の長きに渡り、長尾大夫一代の一斑を書終り、本號を以て大團圓とす茲に寄稿者春子大夫の好意を謝すp16」
 

附:関連資料
[嘉永五年]閏二月一二日 初世竹本長尾太夫書状、三世竹本長門太夫宛
巻紙一紙 【近松研究所紀要 第八・第九合併号p207-209】
(端裏に、長門註記) 「我等江戸/帰国後長尾殿より/到来状」
以手紙得貴意候、然者、御隠居様御病気御大切ニ付、俄ニ御出立ニ相成、驚入、十方ニ暮候得共、何共致し方も無之、乍併、御道中益御機嫌能、最早其御地エ御安着被成候と奉察上、恐悦ニ奉存候、扨御病人様如何御座候哉、節角と御案じ申上候得共、何分遠方之事故、不任存意ニ、乍御面倒、否哉被仰下候様奉願上候、嘸々御心配奉察上候、
当秋此迄ハ御滞留も被成候由、薄々承知仕居候処、思ひかけなく御引払ひニ付、一同奉驚入候、乍去、当地市中之噂益々御高評ニ相成、惜まぬ者壱人も無之、御名人之御高名者、末代迄当地ニとゞまり、数ならぬ私共迄、大慶至極ニ奉存候、冠二・若松抔ハ口をあいた計、アキレ果罷在、気毒やらをかしいやら、其外之むほん人連中、甚ヱイ気味ニ御座候、乍併、寛々御暇乞も不仕、残念千万、私之心中御憐察可被下候、
一 私事、昨年、師命を蒙り而より、いよ/\当年帰国と治定ハ致し居候得共、何分ニも借財之ある身分ニ付、兎や角心配而已仕、先ツ大坂表迎ひ金之儀、何程下し呉候哉、其金高を聞て之上、又々勘考も可仕と存知、初春年始状遣し候節、別紙を以、升屋寿兵衛殿迄尋遣し候所、早速ニ高津屋様とも内談之上、返書遣し呉、披見仕候所、迎ひ金七十両、何時ニ而も下し呉候趣、尤是ハ当分ヲキスヱ之かしニ而、大坂出勤給金ハ応対之上、可相渡よし、併、初出勤給金之内ニ而、表方揃へ・前茶屋のふれん、都而、初出勤入用ハ、其節引可申越被申越候、先年承り候ニ者、迎ひ金并初出勤入用、此二口ハ当分ヲキスヱニ而、給金ハ皆済、相渡し呉候様ニ承り居候所、此度之返書ニ而ハ、少々相違之様ニ存知候得共、何分にも未熟之私を、格別の贔屓なればこそ、時節柄ニ、七十金も下し被呉候事ハ、実以難有存知罷在、強而相違之廉も申入レがたく哉ニ奉存候、
右七十金を以、土産もの・道中入用ハ不及申ニ、当地借財をすまし可申事、甚六ケ敷、未慥ニ勘定づめハ不仕候得共、何とやらたらぬ様ニ思ひ、甚心細く、勿論、内実之所、少々之用意之たくわへも仕置不申候而ハ、うかつに帰国も難成、手元之困窮不自由ニ而ハ、中/\、第一之芸道之障りと相成、当地之有様ニて、こり/\仕候、右ニ付、帰国之上ハ、内証ニ少々之用意之たくわへ仕置不申候而ハ、すわといふ時、差詰り、赤面之時ニ逢候事も難計ニ付、帰国之上ハ、表ハ格別、内々ニ者、難議せぬ手当が第一と奉存候故、七十金を以、当地借財之残り、并、土産もの・道中入用を引、其跡残りハ、格別之事も有之間敷と存知申候、
兼而之存意ニハ、当地之事ハすつぱり当地働キニてすまし、大坂迎ひ金ハ其儘用意ニ持帰り度存望ニ候得共、未其所ヘハ不行、勿論、六月迄働キ、借財向減少ハ可致と存知候得共、迚も、迎ひ金ニ手をつけぬ様ニハ行届キかたく案し、夫故、七十金ニ而ハ、何共心細く候間、百両丈下し金とキマリ被呉候様、亦々、過日、書状を以申遣し候、此返答ハ、当月末ニ善悪とも否哉相わかり申候、
且又、家内共一昨年当地へ引越之儘、内ニすつこみ有之、いまだ外出不仕、右ニ付、弥当年帰国ならば、節角遠方を来り、江戸を一寸も見物せぬも残念故、春之内ニ、あちこち見物させて呉と段々申聞候得共、勘心之家内之着類品々、あたま之道具迄不残、質物へ差入有之候ニ付、決而外出なりかたく、併、私之質物ハ、成行ニより、受出し不申とも不苦候得共、家内之品丈ハ、是悲共受出して、帰国せねば難叶義理あい故、遅イか早イか、どの道受ねばならぬ品故、迚もの事なら、春之内ニ受出して、あちこち見物もさせ度、三月節句時分ニハ、上野花見抔ニてざわ/\致し候故、せめて其時分ニ、着類受出し遣し度と存知候得共、差当り、手当無之ニ付、升重殿方迄、右之由内々申遣し、江戸下し金百両と定メ、右之内金子拾五両丈、当月晦日迄ニ下し被呉候様頼遣し申候、承知之有無ハ此末ニ相分り申候、残金ハ、六月中、両国橘屋ニて、御名残り興行仕、七月中旬出立之積りニ付、其節御下し被下候様と申遣し置候、夫迄ニ成丈工夫勘考廻らし、大坂迎ひ金、成丈其儘用意金ニ持帰り候様仕度、心掛居候、
一 右迎ひ金七十両之返答、〈早速ニ申〉早速ニ有之候得共、当秋竹田座組之所、大坂金方思わくニハ、師匠様ハ江戸ニ而御流行之事ニ付、当年も来年も御帰国無之噂、尤、巴様・大隅様ハ此夏比帰国之噂有之故、私初出勤之座組、師匠様間ニあひ不申候見込ニ而、少々覚束なき躰ニも相見へ候故、右七十金之返答之次第、御面談ニ而委敷申上、御帰国之比も、実々之所承り、其上ニて、弥之所、大坂へ返書可差出心得ニ者候得共、御互ニ遠方へわかれ出勤ニて、頓と/\御面会の折も無之、勿論、差急ク訣ニも無之故、うか/\仕候内、御発足ニ相成、驚入、跡辺ニ相成候得共、右之段無拠、以書中申上候義ニ御座候、
扨升重殿一同、師匠様御帰国之上ハ、座組も慥ニ相成、秋之興行勢ひ能、私ニも弥帰国と一決仕申候故、定メ而、迎ひ金之事も承知有之哉と奉存候、且又、先日より、水戸よせより、私引合ニ参り、応対も行届、当廿日比、迎ひニ来り候筈ニ御座候、若弥迎ひニ来り候て、彼地へ罷越、帰国の上、御名残り興行仕度、是迚も、迎ひニ来り候上ならでは、慥成事難申上候得共、筆の序に任せ申上候、
御師匠様御帰国之上ハ、必定、末広兼治郎殿被罷出、迎ひ金之事抔も被申上候半と奉存候、前書御内々申上候段、御含意可被下候、先年御師匠様より御引合被下候簾[廉]と相違之筋も有之候ハヽ、何卒/\宜敷御引合被成下候様奉願上候、何分、素人之事ニ而、甚不勝手之上、手元困窮ニ而帰国之事、どき/\治定難出来故、弥々愚昧と相成、我事ハ我手ニわかり不申、此段御賢察被成下、不行届之段ハ幾重ニも御了簡被成下、何卒当年都合能、帰国出来、当九月、竹田エ御一座ニて出勤出来候様、御執成之程一入奉願上候、
一 竹垣様御扇子、早速御画御染筆被成下、千万難有奉存候、早速差出し候所、殊之外御悦びニ而、私迄も大慶仕候、書外ハ後便ニ亦々可得貴意候、先者御安着御伺、其方御隠居様御病気御見舞やら、前文之始末内々申上度、繁多中認メ、文段前後、乱書甚失敬奉存候得共、得御意度、如斯御座候、以上、
閏二月十二日
長尾太夫拝
御師匠様
尚々、乍末筆、御内家様御一同エ宜敷御伝言奉願上候、乍恐、別封書状御届被下度奉願上候、
 

参考資料
木谷蓬吟 文楽史抜粋 木谷蓬吟 五世竹本彌太夫 藝の生涯 義太夫年表明治篇 長尾太夫略伝 長尾太夫 年譜・興行記録
 嘉永元年浄瑠理太夫三味線師第細見記
 長尾太夫旧居(天王寺村総会所)
 大坂代官 竹垣三右衛門直道 竹垣家族 竹垣三右衛門屋敷 (附:下谷和泉橋通竹垣三右衛門日記抜粋 天王寺村・天王寺
 関連資料(東京市史稿 市街篇・大阪市史・藤岡屋日記など)
 その他の店名・人名 松若(鴻池善右衛門の事なり) 蔵王(三臓圓吉野五運なり) ろ十 手うち連笹瀬 倉田庄助 上州屋清兵衛 學加屋(そうかや) 吉原角海老屋 太田屋徳九郎 雜賀屋善右衛門 名倉彌次兵衛 劔山谷右衛門 小柳常吉 鏡岩濱之助
 江戸の寄席名資料 嘉平次の笑い ヲクリ返し
 小泉家親類遠類書 岡本韋庵資料 諸向地面取調書
 染太夫一代記 江戸関連記事抜粋(別ファイル)
 藤岡屋日記1:487− 小南市郎兵衛記事
 

木谷蓬吟 文楽史 一 畸人長尾太夫(初代) 天王寺村の名村長
 浄瑠璃といふ一藝術の爲めに、天王寺村の長として七千五百石といふ名譽の家柄を弊履の如く捨て、顧みなかつた長尾太夫には、可なり波瀾に富んだ生涯がある。晩年彼れは子孫の爲めにといふので、自叙傳『睦佳誌野志雄里』を綴つてゐるが、此一書は當時の斯道の状況を知るのに都合がいゝばかりでなく、人情風俗習慣など時代の風潮を如實に描いてゐる點に於て小説的興味も繋がるものである。併し限りある紙數では到底全部を抄出することは許されないから、彼の片影を記すかはりに此自叙傳から一部を抽き出して置くことにする。長文ではあるが達者な筆でなかなか面白く描いてゐる。事實と風流と綯ひ交ぜの妙寫生文は、ちよつと得難い筆力を見せてゐる。
    (睦佳詩野志雄里 引用)
 自家の系圖から始めて浄瑠璃道に入る道程を書き、二人稱をもつて、與三左衞門若輩の跡先なく、などと己れを批評して書いてゐるところ、なかなかおもしろい。八方の遊藝に手を出しもてゐるところは、なかなか多藝多能の人であつたと見える。軈て長尾は多額の借財の爲め長門太夫から貰つた長尾太夫の太夫名をもつて、大阪長堀富田屋橋北詰高津屋重兵衛といふ材木問屋で、太夫の金方をしてゐる人の周旋で江戸へ旅稼きに出ることになつた。さうして長尾は江戸で隆々の名を擧げることになり、安政元年の春師匠の長門太夫から大阪出勤を勸められて、始めて道頓堀の舞臺へ出る可く歸阪してくる。その前後の状況は、これまた自叙傳は當時の在りのまゝを手に取る如く記してゐるから、ひとり淨瑠璃史料ばかりでなく、政治、社會、風俗、郷土史料としても、容易に得られぬ參考秘録だと信じる。
    (睦佳詩野志雄里 引用)
 以上の記述、さすがに天王寺村七千五百石の大村長だけ、一見識を持ち學才の程も偲ばれる。 殊に長門太夫との師弟の情誼の濃やかさ、一面熱情家としての面目の躍如たるものが窺へよう。

木谷蓬吟 五世竹本彌太夫 藝の生涯 だいたい長門太夫は多數の門人を持つて居るが、めつたに長の字だけは與へなかつた、それ程自分の藝名を尊重した人が、まだ十五歳の小童に長の一字を與へたのは、まことに破格の特例に屬するもので、當時幕内の話柄とされた。
 尤もこれより先きに、たゞ一人長尾太夫と云ふのがあつた。この人は一廉の名人でもあつたが、もとは天王寺村の長として七千五百石を領した大庄屋であつた、名譽ある家柄を惜氣もなく棄て淨瑠璃界に身を投じた人である。謂はゞ長門の領主様であり、稀な有識者でもあつたから、力を入れて修行を積ませ、遂に此人だけには長の字を許したのであつた。

義太夫年表明治篇 太夫略傳 p804-805
長尾太夫(初代竹本)
@本名 井川扇助、井川與[三]左衛門
B出生地 摂津東成郡天王寺村の庄屋をつとめる
C師匠 三代竹本長門太夫
FG 芸歴 嘉永六年師と共に東京から帰阪、十月道頓堀若太夫芝居に招看板を出し團平の絃で「松下住家」の切を語る、二年七月四条北側芝居に出[近代歌舞伎年表京都篇1の六月吉日よりの興行か?]、五年十月四条道場では「忠臣蔵七つ目」に由良之助をつとめ「山科の段」切を語る、十二年一月稲荷北門芝居で初めて櫓下となり[?]「楠昔噺三段目」切を語る、十二年冬東京の門弟豊島太夫に名跡を譲り自らは長鳳太夫となり老を楽しみ暮すH十七年四月三日、七十五才、洗垢淨照法韻居士、京都市上京区智恵光院

 
長尾太夫 年譜・興行記録
睦佳詩:睦佳詩野志雄里 竹垣日記:竹垣直道日記 弥太夫:芸の生涯 弥太夫日記 染太夫:染太夫一代記
義太夫年表 近:近世篇3上、3下、補:補訂篇 明:明治篇 京:近代歌舞伎年表京都篇 1 
東大秋葉:東京大学総合図書館 秋葉文庫 画像一覧 のうち 100010405操浄瑠璃役割番附/明治年間/京阪各座/竹本山四郎関係 100010406操淨瑠璃役割番附/明治年間/文楽座他 100010412役割番附/操淨瑠璃/堀江市の側/竹田若大夫芝居他/嘉永六‐明治四
 
年月日典拠事項/興行場所外題など
文化6(1809)睦佳詩辨次郎誕生[『明れば我四十歳の春なり』を弘化5として逆算] 
文政1.9.27(1818)天王寺古文書庄屋 松本藤左衛門/井川与三左衛門[先代]/大浦五郎兵衛[先代]/青木九郎兵衛
文政6(1823)睦佳詩御代官嶋田采女殿より辨次郎十五歳の時[庄屋]見習ひ役申付られたり。[島田は文政5年2月に浅川代官となる]
文政9(1826)睦佳詩辨次郎十八歳の頃より天王寺に花澤秀輔といふ稽古屋ありて此方へ風[ふ]と淨瑠璃の稽古に行きて始めけるが
天保2(1831)睦佳詩是によつて辨次郎廿三歳の夏井川與三左衛門[よさゞゑもん]と改名して本役に直り五千七百石の大村[たいそん]一人勤と相成
天保7-11睦佳詩其昔御代官池田岩之亟様御役人相澤時之進殿申されるに、
天保11(1840)睦佳詩此三ヶ年以前より松本の悴源之助青木の悴藤三郎又新規の庄屋に健次郎(後に大浦五郎兵衛となる)右三人の見習ひ庄屋出勤す、
天保12.11.6(1841)竹垣日記同六日 曇夕雨/……/一 夜五ッ時過天王寺村庄屋与[三]左衛門罷出申立ル者、……(日記1:154)((渡邊忠司 幕末期大坂近郊の村方騒動とその行方−摂津東成群天王寺村の惣代庄屋と小前百姓−16 大阪の歴史52号) 翻字に若干異同あり)
天保12.11.12竹垣日記同十二日 晴/一夜中五郎兵衛忰堅二郎内訴いたす(日記1:156)
天保12.11.13竹垣日記同十三日 晴/一夜中五郎兵衛忰堅次郎、又三郎宅へ罷越色々相糺ス、八ッ時過迄懸ル(日記1:156)
天保14.4(1843)睦佳詩干時[ときに]天保十四年卯の四月同所若松屋傳兵衛藝名竹本長門太夫殿の内實の門弟となる素人といへども淨瑠璃道熱心によつて長尾太夫と名免状[なめんぜう]を申受け因講に加入す
弘化1.12.24(1844)藤岡屋日記弘化元辰年十二月廿四日、江戸中元之如く勝手次第御免ニ相成、尤神道・講談・軍書講釈・浮世咄し之外ハ相ならず由ニて、寄席出来致し処、たちまち年之内ニ六十軒程 藤岡屋日記3:231
弘化2.3.10竹垣日記同十日 晴/一 坂本より昨日之返書御沙汰書戻ル/天王寺村/庄屋 与三左衞門/庄屋後見 孫三郎 (日記3:31)
弘化2.5.11竹垣日記同十一日……○天王寺村南門通往還屋敷新開願場所見分、間数等取調尚可申置旨申渡、庄屋与三左衛門・丈三郎・後見孫三郎罷出ル  (日記3:66)
弘化2.9.3竹垣日記同三日……摂州天王寺村/(中略)/急度叱 庄屋 与三左衞門/ 右博奕其外不届之取斗いたし候一件落着申渡 (日記3:116)
弘化3.1.29竹垣日記同廿九日……一支配所摂州天王寺村之もの共、不筋之願相企、同村庄屋五郎兵衛方宅打毀候一件水野若狭守方ニ而落着申渡候趣、如左 /摂州東成郡/天王寺村/……/過料三貫文ツヽ/庄屋 五郎兵衛/庄屋 四人 (日記3:178)
弘化3.7.18竹垣日記同十八日摂州天王寺村/ 庄屋 与三左衞門/ 見習 猶二郎/ 庄屋 丈三郎/ 後見 孫三郎/ 庄屋 賢二郎/ 同 藤次郎/北平野町/ 庄屋 庄左衞門 (中略) /右逢候上、上下一具ツヽ遣ス (日記3:237)
弘化3藤岡屋日記同三丙午年ニハ浄るり太夫も三味線なしにて扇拍子ニ致し、そろ/\と出かけ、或ハ手妻・うつし画・八人芸の類ひも、太皷の代りに小桶様のものをたゝき、芸道致し候処、少〃宛手前よりゆるめて、最早御趣意ハ弛ミ候抔と申触し、初之内ハ義太夫も忠孝物語扇子拍子被号、浄るり太夫語り候処、 (藤岡屋日記3:232
弘化4.3.19竹垣日記同十九日 一 去暮龍太郎元服ニ付、祝義申呉贈物等銘々いたし候ニ付、今日昼後左之もの共呼寄、酒肴振舞遣ス /天王寺村後見 源三郎/ 庄屋 丈三郎/ 同 五郎兵衞/ 同見習 猶次郎 (日記4:25)
弘化4.3.21(1847)睦佳詩三月廿一日發足して東海道を下る、此方[長尾]三十九歳の時なり [倉田は嘉永2年とする]
弘化4.4.15(1847)睦佳詩[長尾]四月十五日より両國の席へ出勤三味線は鶴澤市太郎なり夫より江戸所々の寄塲[よせば]へ出勤の所藝運に叶ひ段々と評判よく五月節句より益々大入繁昌し、盆に至りては巴太夫、勤[うつぼ]太夫同格の大入となる、
弘化4睦佳詩當日薄暮より皆々打連れ両國橋東通り本所竹垣の屋敷の向ひ武蔵屋に……娘景清八島日記〔花菱屋の段〕壽キ太夫三味線九造、同〔日向島の段〕長尾太夫三味線九造(近3上620)
弘化4睦佳詩我語る物多き中に一番の大當りは四ッ谷怪談なり、……長尾太夫の四ッ谷と江戸中の大評判となる……何れの席にても……鎗屋町大丸と云ふ夜席にて (近3上620)
弘化4睦佳詩其後七日の御停止にて休となり[長尾]是幸ひと皆々連れ立日光へ參詣す。[弘化4.8.29-か 觸五七四二]
弘化4.9.30睦佳詩[長尾]亦興行し漸々百日の日數相濟十五日禮勤して九月三十日千穐樂。
弘化4.10.5睦佳詩[長尾]五日の朝江戸發足して
弘化4.10.19睦佳詩[長尾]東海道を事なく戻り同月十九日に歸宅す
弘化4.10.20睦佳詩[長尾]十月二十日悴猶二郎を以て歸國の届書を御役所へ出す所日數延引の段御呵なり
弘化5.1近3下003若太夫芝居本朝廿四孝 姫小松子の日遊 大経師昔暦
弘化5.1.11(1848)睦佳詩明れば我[長尾]四十歳の春なり、…正月十一日[大坂]出立
弘化5.1.29睦佳詩[長尾]同月二十九日に江戸安着す
弘化5.1.29竹垣日記同廿九日 晴……一 天王寺村庄屋見習猶二郎、庄屋申付親与三左衛門、後見承届ル (日記4:134) (睦佳詩:御聞濟有て猶二郎へ本役仰付られたり
弘化年間?神津武男吉田伝治郎座三ツ浜 長尾 千本通 長尾 (神津武男:新出資料・吉田伝治郎座『二名島女天神記』興行番付についての報告−その他淡路人形協会新収番付についての報告− 演劇研究センター紀要 VII:早稲田大学21世紀COEプログラム 123-132 2006.1)
嘉永1.5睦佳詩[長尾]此度の三味線は鶴澤勇造殿悴鬼一にて出席の所前年より倍増の大入繁昌……晝夜の寄塲大入に付雜費ぐらひ何の頓着もせず五月中旬に金百両古郷井川宅へ差送り
嘉永1.9.16睦佳詩然るに小船町山本と云ふ席にて歌舞伎狂言を興行致し市中風儀猥りに相成上猿若町本座より願出候故、ある夜狂言最中へ御役人出張席亭は更なり役者共皆々御召捕に相成大變にて此一件より寄塲一同に御差留に相成る、(藤岡屋日記3・天言筆記五)(参考:染太夫一代記 梶太夫憂ひの噺)
嘉永1.染太夫またある時、ところの名主衆浄瑠璃寄場の事に付き御公儀へ呼ばれし事あつて、何事の御用ともわからず、帰り道に鍛冶ばし御門へ戻りし道、末広といふ寄場に長尾太夫出勤せしが、(染太夫一代記p289)(近3下022)
嘉永1.近3下038竹本長尾太夫 長門太夫門人弘化未年始而当地下り殊之外評判よろしく間もなく上阪し又々当新下りニて評判よく時ニ合人登の人ト称す(近3下038 浄瑠理太夫三味線師第細見記 )
嘉永2.1.2近3下041猿若町弐丁目 結城・猿若座お岩稻荷四ッ谷怪談〔羽宮伊右衛門内〕長尾 鶴澤市太郎
嘉永2.1.2染太夫一、来る正月二日より猿若丁芝居において下り太夫衆中にて操り興行仕候間、則当極月壱日芝居にて顔寄候間、御入来候べく候。以上。 /竹本梶太夫様/鶴沢寛治様/竹本長尾太夫様(中略) 年行司 吉田運四/豊竹富太夫 二代巴門人い太夫事(染太夫一代記p275)(近3下041)
 
嘉永2.閏4.24近3下053東兩國仮名手本忠臣藏〔扇ヶ谷〕・〔山科切〕 長尾清六 一日替りニ相勤申候 〔一力〕:由良之助長尾清三郎
一 回向院、於竹大日如来開帳中、興行操人形芝居ハ、其後深川六間堀神明境内江引ル也。(藤岡屋日記3:491)
 
嘉永2.後半?睦佳詩一ケ年半も過ぎて夜分丈け寄塲へ出看板も出さず扇子拍子を以て淨瑠璃をそろ/\と始めかけたるに見物も内々ぼつ/\來りいつの間にやら三味線も彈せ看版も出し興行するに御咎もなく全く御見逃しに相成る噂を聞安堵して元の如く晝夜ともに[長尾]出席致したる所なが/\中絶の淨瑠璃開けたる故、待兼たる見物どつと來り大入なれば仲間一統恰も蘇生[よみかへり]たる心地して喜ぶ事大方ならず、
 
嘉永2.12.25近3下100猿若町薩摩座取崩し許可
嘉永2.12.13?睦佳詩[長尾妻梶女]悴辨次郎次男爲次郎末子政之介と出入の肴屋の悴久吉外に荷持一人召連れ寒氣の道中厭ひなく東海道を下り十二月十三日に江戸へ着したり、
嘉永3.1.2?睦佳詩此前月に大阪より鶴澤清吉來る、是は鶴澤清八の門弟にて若輩なれども適[あつぱ]れの藝故、師匠長門太夫殿より撰みて差越れたり、……年明て正月二日より右清吉にて出勤す、
嘉永3.?睦佳詩久吉を久尾太夫と改め口語りに出勤させたり、亦大阪湊太夫殿門弟音の太夫夫婦江戸來りければ、此方門弟にして三枚目に出勤させたり、猶亦美の太夫松之介は歸國す。
[嘉永1.]3.16近3下007京橋さの松嬢景清八島日記〔花菱屋〕〔下り〕音の太夫照太夫 〔日向島口〕〔下り〕鶴尾太夫 〔日向島切〕〔下り〕長尾太夫 [義太夫年表は嘉永元年とするが、前項音の太夫の江戸下向以降か?]
嘉永3.5.22藤岡屋日記鳴物御停止中、咄し興行致し、颯と有之候一件(藤岡屋日記4:129)
嘉永3.仲夏高名時華三幅対高名時華三幅対 カウジ丁竹本長尾太夫 出語 カウジ丁 竹本長尾太夫
 
嘉永3.12-4.1睦佳詩天王寺庄屋大浦は牢行き、松本は家出し、青木一人になり、又布施忠左衛門といふ新庄屋出來たるよし此年も暮亦新玉の春となる、
[旦又私共儀ハ村惣代庄屋被為仰付有之候得共、相庄屋忠右衛門儀新俊之儀ニ付御用向・村用不心得故、万事忠右 衛門村用其外御役所へ差出シ候様五郎兵衛より仕成、然ル上者壱人立我侭之取計不仕哉ニ乍恐奉存候、(渡邊忠司 幕末期大坂近郊の村方騒動とその行方−摂津東成群天王寺村の惣代庄屋と小前百姓−13 大阪の歴史52号)]
 
嘉永4.4.15近3下109茅場町薬師境内妹背山婦女庭訓〔芝六住家切〕長尾・〔山かけ合〕長尾 番付:「亥四月十七日より
嘉永4.4.27睦佳詩長門太夫江戸着
嘉永4.4.28睦佳詩二十八日晝後平野屋集會する人々は、……向ふ方結城孫孫三郎、吉田冠二、……此方は薩摩座名代治介、倉田庄介、若松喜三郎、長尾太夫、……正面には長門太夫、清七、(近3下114)
 
嘉永4.5.5睦佳詩茅塲町藥師芝居、以前の狂言の中へ平假名三段目長門太夫五月節句より出勤
 番付:五月四日より(近3下113) 壇浦兜軍記〔阿古屋琴責〕:岩永長尾 鬼市 ひらがな盛衰記〔さかろ〕 長門清七 
乍揮口上/ 一御町中様益御機嫌克被遊御座恐悦至極ニ奉存候随而私義兼 日光山江参詣仕度心願 ニ而此度御当地江罷下り候処幸ひ御当所御開帳ニ付御境内繰り人形興行有之去ル御ひ ゐき様方より御進メニ候得共れき/\衆中江差加り未熟不調法なる芸道を以花の大江 戸御客様方御耳に達し候段奉恐入候得ども達而之御進メに任せ御目見旁相勤候間大都 会の御ひゐき御取立之御余慶を以初日より永当/\御来駕の程偏ニ奉希上候以上  / 竹本長門太夫
 
嘉永4.5.15睦佳詩[長尾]十五日の朝今日は出勤せずと芝居へ斷遣し候所師匠方へ聞へ利太夫を以て何故出勤せぬと尋られたる(近3下114)
嘉永4.6.6藤岡屋日記猿若町結城坐伊賀越道中双六 〔円覚寺切〕長尾鬼市 〔岡崎切〕 長門清七(藤岡屋日記4:407)
嘉永4.7頃近3下117猿若丁二丁目結城座吃又平名筆長尾鬼市 伊賀越〔岡崎雪ふり〕 長門清七(弥太夫日記(一)p183)
嘉永4.7.15睦佳詩
七月十五日より津久井勘七の芝居となる。塲所は赤城と申て西北手にあたつて、山手[やまて]の邊鄙なり、此邊は御旗本衆御家人衆の屋敷計りの土地にて、此度は屋敷の見物を受る見込と見へたり、狂言は忠臣藏にて、〔九段目〕と〔茶屋塲〕由良之助長門大夫、〔六ッ目〕と平右衛門咲大夫、〔四段目〕と〔大切累土橋〕巻大夫(今の越大夫)おかる利太夫、九大夫中大夫、判内賀大夫、此餘は略す
 
嘉永4.8.16藤岡屋日記八月十六日より 牛込赤城神社境内ニ於て操人形芝居興行 仮名手本忠臣蔵 大序より十一段目迄 竹本長尾太夫/竹本伊勢太夫/竹本咲太夫/竹本越太夫/竹本喜佐太夫/竹本長門太夫/人形/吉田国五郎/吉田文四/吉田冠二/西川伊三郎(藤岡屋日記4:455 )
(近3下121は弥太夫日記により立項)
嘉永4.10.2藤岡屋日記牛込赤城神社境内操人形芝居興行 四ッ谷怪談 長尾太夫(藤岡屋日記4:491)
嘉永4近補247江戸太夫三味線人形娘浄瑠璃 見立番付
 江戸太夫三味線人形娘浄瑠璃見立  長尾太夫大当り
嘉永5.閏2.12 長登太夫宛長尾太夫書状
嘉永5.3睦佳詩寄塲、所々へ師匠[長登太夫]自前の出勤、誠に寄塲の大入古來稀なりとの噂なり、それ故越年[をつねん]致され益々大入、三月中旬に至り實父傳右衛門大病の由天王寺より早便を以て知らせ來るに就き、俄に江戸發足有て皆々無事に歸國致されたり
嘉永5.9近3下144道頓堀竹田芝居花雲佐倉曙〔淺草〕出茂
嘉永6.1[江戸すなこ]細撰記江戸すなこ細選記 豊竹本儀太夫 豊竹本儀太夫 たけもと長尾 [早大本:江戸明治流行細見記(太平文庫27)に云うC本]
嘉永6.4睦佳詩翌年四月上旬師匠より書状來りて[長尾]當秋大阪出勤宜しき時節なれば、金方高津屋重兵衛と萬端相談致し三味線は豊澤團平にて、道頓堀若大夫の芝居興行と治定致し候間歸國の用意あるべしと委細に申來りければ、
嘉永6.6.1睦佳詩六月朔日の朝品川冲へ雲霧晴れると異國の大船顯れ出たり[異国船来航は嘉永6.6.3]
嘉永6.7.5睦佳詩[長尾]七月五日五ケ年ぶりにて江戸を出立す。
嘉永6.7.26睦佳詩長の御停止 [觸五九七五参照]
嘉永6.10.2睦佳詩芝居初日は九月節句の治定にて八月朔日より師匠は京都四條北側芝居へ出勤、此興行は京都の竹本津賀太夫殿山城椽と受領改名有て其弘めの芝居なり此興行廿日相濟師匠歸阪の上此方興行仕[つかまつる]筈の處長の御停止に付京都興行延引に相成故此方興行も大延引に相成萬端手筈間違ひちから抜たり誠に此停止の日數御免に相成を一日三秋の思ひにて相待所漸々と鳴物御免に相成京都初日十月二日治定にて師匠上京致されたり、
  番付:嘉永六年丑ノ九月 四条北側大芝居 八陣守護城〔舟の段かけ合〕:なか登 布引滝〔四段目御殿〕 なか登(近3下171)
嘉永6.10.2睦佳詩堺の芝居にて興行相成最[もつとも]十月二日の初日と治定する、番付:九月吉日より堺新地南芝居 伊賀越道中双六 〔岡崎切〕(近3下174)
 
嘉永6.11.1睦佳詩若太夫芝居看板出る、前狂言は鎌倉三代記八つ目迄…干時[ときに]嘉永七年丑年十一月朔日、東の空しらむころ若太夫の芝居の矢倉太皷枕に響き聞へたれば、番付:十月吉日 道頓堀若太夫芝居 出世太平記〔嘉平治住家〕長尾団平 (近3下175)彌太夫日記 東大秋葉
乍憚口上
存候扨今般門弟長尾太夫義従関東帰坂仕候処御旦那様方より早速目見江為致候やう御 仰被下候へ共元来不調法之長尾太夫初舞台迚も出勤致間敷候得共一応当入江申聞候所 出勤抔とは不存寄両三年も修行仕候上ニ面一座之端へ相加り候はゞ大慶之至り候得共 只今稽古中脇外へ出勤仕候も無覚束存候義与達面相断候へ共熟不熟ニかゝわらず一旦 当所へ御目見江致し置其後余処ニ而執行致し候が本意ニ候筈当所目見江不致候而は不 敬ニ相当り候段分而御進め被下僚ニ付御厚志之思召もだしがたく押而出勤為致候へ共 決而御耳に止り候義者無御座候只御目見江のみ為致候義と御推察被成被下何卒あしき 所御差図も為遣操のみ御一覧被遊候与思召御取立之余慶ニ而初日より賑々しく御見物 ニ御出之程偏ニ奉希上候以上
             太夫 竹本長登太夫
                竹本長尾太夫
嘉永6.11近3下182兵庫定芝居出世太平記〔嘉平治住家〕長尾団平
乍憚口上
嘉永7.3睦佳詩翌年春三月清水町にて住宅をかまへ、惣領辨次郎元服して米井屋[よねゐや]吉兵衛と改め、
嘉永7.3近3下191道頓堀竹田芝居妹背山婦女庭訓〔山〕久我之助:長尾 大判事:長登 清七 嬢景清八島日記〔日向島〕長尾団平
嘉永7.4近3下192道頓堀竹田芝居花上野譽碑〔志渡寺切〕長尾団平
嘉永7.6.5近3下197天神新門角夏祭浪花鑑〔釣舟三婦内〕長尾団平 〔長町裏かけ合〕長尾源吉
嘉永7.7近3下198天神新門角花雲佐倉曙〔淺草〕長尾団平
嘉永7.閏7.2野原浩一廻状に天王寺村 大浦五郎兵衛 の名
嘉永7.閏7.26近3下199天満天神境内新席国言詢音頭〔北新地大重切〕長尾団平
嘉永7.8近3下203天満天神境内新席仮名手本忠臣藏〔勘平住家〕長尾団平 〔一力:九太夫〕長尾 〔山科〕口長尾泰次郎 〔切〕長登団平
嘉永7.10.8近3下205天神境内新門西北角小家日蓮聖人御法海〔土牢切〕長尾団平 〔勘作住家口〕長尾泰次郎 〔勘作住家切〕長門団平
嘉永7.11.1近3下208天神境内新門西北角天網島〔茶屋塲切〕長尾団平
安政2.1近3下216天満裏門常小屋競伊勢物語〔小よし住家〕長尾団平 粂仙人吉野桜粂〔かけ合王子〕 長尾 燕二
安政2.2近3下218天満社地表門小家攝津国長柄人柱〔鎌足館切〕長尾団平 〔信田森:道満〕長尾 燕二
安政2.3近3下220天満境内裏門小家娘景清八島日記〔日向島切〕長尾団平
安政2.4近3下222京四条北側大芝居出世太平記〔嘉平治住家切〕長尾
安政2.5近3下224京四条北側大芝居幼稚子敵討〔志渡寺切〕長尾
安政2.8.7近3下226稲荷社内東小家妹脊山婦女庭訓〔芝六住家中〕長尾 東海道四谷怪談〔羽宮伊右衛門内切〕長尾 豊吉
安政2.9近3下228稻荷社内東門小家仮名手本忠臣藏〔勘平住家切〕長尾 〔一力〕平右衛門:長尾
安政2.10.中旬近3下232奈良芝居仮名手本忠臣藏〔扇ヶ谷切〕長尾 〔一力かけ合〕長尾
安政2.10近3下233道頓堀竹田芝居木下蔭狭間合戦〔竹中砦切〕長尾
安政3.1近3下239いなり東小家八陣守護城〔船かけ合〕長尾 〔此村やしき切〕長尾
安政3.2近3下240堺新地南芝居ひらかな盛衰記〔宇治川物語源太勘当かけ合〕長尾 競伊勢物語〔春日村切〕長尾
安政3.10近3下248新築地清水町浜日蓮聖人御法海〔弥源治住家〕長尾
安政3.11近3下249新築地清水町浜仮名手本忠臣藏〔一力:後由〕長尾 〔天川屋切〕長尾
安政4.9.9近3下263四条寺町道塲北新席競伊勢物語〔小よし住家切
安政4.9.24近3下263四条寺町道塲北新席かか見山又助内長尾
安政4.11.2近3下265竹田芝居加賀見山〔又助住家切〕長尾文駄
安政4.12近3下269御公儀様より浄るり太夫並びに人形ども召し寄せられ、市中繁栄のため、社地にて浄るり座本芝居御免仰せ渡されける。(染太夫一代記p160)
安政6.11.19渡邊天王寺村では、安政六年から万延元年にも争論が起こった。当事者は惣代庄屋五郎兵衛で、同年十二月二十六日に代官所に呼び出され、数々の吟味があるとの理由で入牢を申し付けられた。(p18)。五郎兵衛は安政六年十一月十九日、鈴木町代官屋代増之助に呼び出されたが、これが万延元年(一八六〇)十一月まで続く、五郎兵衛の入牢と吟味の日々の始まりでもあった。(p13)(渡邊忠司 幕末期大坂近郊の村方騒動とその行方−摂津東成群天王寺村の惣代庄屋と小前百姓−大阪の歴史52号)]
万延1.7近3下338あみた池寺内伊賀越〔岡崎切〕長尾
万延1.8近3下340座摩社内雪月花吾妻双紙〔牢屋〕長尾
万延1.9近3下343座摩社内大江山酒呑童子〔人味御供〕長尾
万延1.11.4近3下345座摩社内融通大念仏鉦由来〔待太夫住家切〕長尾
万延1.11.19近3下347座摩社内出世太平記〔嘉平次住家切〕長尾
万延2.1近3下350四条北側大芝居花雲佐倉曙〔牢屋切〕長尾仙糸 妹脊山婦女庭訓 〔山:久我之介〕長尾 東大秋葉[C]
万延2.1.28近3下369四条北側大芝居新薄雪物語 秋月大膳長尾
万延2.2近3下352四条北側大芝居仮名手本忠臣藏〔勘平住家切〕長尾仙糸 〔一力かけ合〕長尾  東大秋葉[B]
文久1.3近3下355座摩社内妹脊山婦女庭訓〔吉野山:久我之介〕長尾 傾城倭荘子〔郡次兵衞住家切〕長尾仙糸 東大秋葉
文久1.3近3下356座摩社内御堂前敵討〔桔梗や切〕長尾 東大秋葉
文久1.5近3下358座摩社内播州皿屋鋪〔三平住家〕長尾 東大秋葉
文久1.7近3下360座摩社内生写朝顔話〔摩耶が嶽切〕長尾
文久1.9近3下363堺南芝居妹脊山婦女庭訓〔吉野川かけ合〕長尾 三日太平記〔嘉平次住家切〕長尾
文久1.10近3下365四条北側大芝居日蓮聖人御法海〔弥三郎住家〕長尾
文久1.11近3下368道頓堀東竹田芝居伊賀越〔政右衞門やしき切〕長尾
文久2.1近3下373天神様御社内桂川連理柵〔帶屋〕長尾 
文久2.1近3下376四条南側大芝居競伊勢物語〔小吉住家切〕長尾
文久2.2.17近3下404四条南側大芝居壇浦兜軍記〔琴責:庄司重忠〕長尾三国奴請状〔関所:真柴久吉〕長尾
文久2.3近3下379道頓堀東竹田芝居義経千本桜〔すしや切〕長尾  芦屋道満大内鑑〔安部の堤:道満〕長尾 東大秋葉
文久2.3近3下381座摩裏門奥州安達原〔袖萩祭文中〕長尾 競伊勢物語〔小よし住家切〕長尾
文久2.5近3下384座摩裏門加々見山旧錦絵〔又助住家切〕長尾
文久2.8近3下388座摩社内うら門八陣守護城〔船の段かけ合〕長尾〔佐々木住家切〕長尾 東大秋葉
文久2.9近3下393座摩うら門木下蔭狭間合戦〔壬生村切〕長尾
文久2.10近3下397堺大寺摂州合邦辻〔合邦内切〕長尾
文久2.11近3下400松坂愛宕町薬師境内長尾
文久3.1近3下407座摩うら門小家義経千本桜〔椎の木〕長尾 娘景清八島日記〔島の段切〕長尾
文久3.3近3下412座摩うら門絵本太功記〔五段目中〕長尾 摂州渡邊橋供養〔庵室切〕長尾
文久3.3近3下413座摩うら門菅原伝授手習鑑〔東天紅〕長尾 〔桜丸切腹切〕長尾
文久3睦佳詩干時[ときに]文久三亥年の頃は我古郷天王寺の庄屋大浦五郎兵衛は未[いまだ]押込閉門なれば、青木丈三郎、布施安右衛門此両人して相勤る所、年々の私欲露顯に及び、既に御役所の御吟味に相ならんとするに恐れ、両人一時に逐電して行衛しれず、是によつてさしもの大村[おほむら]無役人となつたれは、片時も捨置かれず惣村年寄頭百姓小前一統流連判定願書を以て、御支配御代官、鈴木町内海他次郎殿御役所へ長尾太夫身分引戻しの御願に罷出る、
文久3.5.7睦佳詩五月七日……元天王寺庄屋與三左衛門、……、元々の通り庄屋仰付らるべくなれ共、當時淨瑠璃太夫の身分と相成罷有に付其儀に及ばす、此度新庄屋共の後見役を申付る所なり、
文久3.9.18睦佳詩九月十八日田畑御檢見として御代官内海他次郎殿其外地方御役人衆御附添にて御出張あり、終日耕地御見分の上惣會所にて御休息の節此方召出され、元當所庄屋與三左衛門此度は後見役大儀なりと、内海公御直々の御挨拶有て六諭と表題御本を御褒美に下され、面目を施したり。 【一朝出前庄屋市郎兵衛・藤右衛門呼出六諭衍義大意壱冊ツヽ差遣し、一体之趣意并教導方申諭遣ス、受印取之竹垣日記 天保13.4.8】
文久3.12.20睦佳詩貢物其取立の勘定にかゝり…上納皆済、後見役勤め終りたり。
文久4.1.29近3下435京和泉式部北向娘景清八島日記〔日向島〕長尾吉左衞門
元治1.4.20近3下441天満天神社内戎門合邦辻〔下の巻切〕長尾 堀川〔猿廻しかけ合〕長尾
元治1.5.25近3下442天満戎門伊賀越道中双六〔岡崎〕長尾
元治1.6近3下443天満戎門仮名手本忠臣藏〔一力:由良之介〕長尾 〔山科切〕長尾
元治1.7近3下444天満戎門生写朝顔話〔摩耶が嶽切〕長尾
元治1.8.26近3下447天満戎門競伊勢物語〔小よし住家切〕長尾
元治1.9.6近3下447天満戎門娘景清八島日記〔日向島切〕長尾
元治1.9.18近3下447天満戎門箱根霊験躄仇討〔滝切〕長尾
元治1.10.11近3下451天満戎門日蓮聖人御法海〔勘作住家切〕長尾
元治1.11.1近3下455天満戎門ひらかな盛衰記〔松右衞門内切〕長尾
元治1.11.20近3下455天満戎門小家倭双紙〔軍次兵へ内切〕長尾
元治2.2近3下470四条南側大芝居妹脊山婦女庭訓〔山:久我之介〕長尾 〔浪花浦〕長尾
元治2.3.23近3下471四条道場北ノ小家伊勢物語〔三段目〕長尾吉左衞門
慶応1.5.5近3下477四条道場北の小家仮名手本忠臣藏〔勸平住家切〕長尾吉左衞門 〔一力:平右衞門〕長尾
慶応1.閏5.近3下479四条道場北ノ小家生写朝顔話〔大磯揚屋:駒澤〕長尾 〔島田宿や切〕長尾吉左衞門
慶応1.6.20近3下480四条道場北ノ小家三日太平記〔九つ目〕長尾吉左衞門
慶応1.6近3下481四条道場北の小家桂川連理柵〔帶や〕長尾吉左衞門
慶応1.7.近3下482四条道場北□箱根霊験躄仇討〔九十九新左衞門やしき切〕長尾吉左衞門
慶応1.8.11近3下482四条道場北ノ小家名筆吃亦平〔将監住家切〕長尾吉左衞門 義臣伝読切講釈〔植木や:杢右衞門〕長尾 庄次郎
慶応1.9.9近3下483伏見ほうき町芝居名筆〔吃又平〕長尾吉左衞門
慶応1.10.22近3下487四条道場北ノ小家ひらかな盛衰記〔先陣物語:源太〕長尾 庄次郎 〔松右衞門住家切〕長尾吉左衞門
慶応2.1.2近3下493四条道場北ノ小家祇園祭礼信仰記〔殿下茶や切〕長尾吉左衞門 〔爪先鼠:久吉・直信〕長尾 庄次郎
慶応2.2.5近3下497四条道場北ノ小家菅原伝授手習鑑〔桜丸切腹切〕長尾吉左衞門 妹脊山婦女庭訓〔山:定高〕長尾 庄次郎
慶応2.3.3近3下499四条道場北ノ小家けいせい大和草紙〔軍次兵衞内切〕長尾吉左衞門
慶応2.3.23近3下501四条道場北ノ小家花上野〔志渡寺〕長尾吉左衞門
慶応2.4.20近3下508四条道場北ノ小家伊賀越道中双六〔岡崎切〕長尾吉左衞門 男作五雁金〔安治川橋:提角左衞門〕長尾吉左衞門
慶応2.5.19近3下511四条道場北ノ小家仮名手本忠臣藏〔一力茶や:平右衞門〕長尾吉左衛門 〔山科隠家切〕長尾吉左衛門
慶応2.6.18近3下512四条北側大芝居四谷怪談〔伊右衞門内〕長尾吉左衞門
慶応2.8近3下516座摩社内雪月花吾妻双紙〔詮議〕長尾
慶応2.9近3下517座摩社内箱根霊験躄仇討〔鶴が岡奥〕長尾 競伊勢物語〔春日村切〕長尾 /三味線 万八改鱗糸
慶応2.11近3下520座摩社内伊賀越〔岡崎切〕長尾
慶応2.12.2近3下521大坂花雲佐倉曙〔牢や〕長尾鱗糸 (弥太夫日記)
慶応3.1近3下524天満芝居妹脊山婦女庭訓〔芝六住家切〕長尾 名筆吃又平〔将監閑居切〕長尾
慶応3.5.5近3下532四条道場北ノ小家楠昔噺〔三段目〕長尾鱗糸
慶応3.6近3下538四条道場芝居木下蔭狭間合戦〔来作住家切〕長尾 〔壬生村切〕長尾 (津賀と1日替リ) 〔勅使饗応かけ合〕長尾
慶応3.7.23近3下539四条道場北ノ小家朝顔日記〔摩耶ヶ嶽〕長尾鱗糸
慶応3.8.22近3下542四条道場北ノ小家仮名手本忠臣藏〔扇ヶ谷切〕長尾鱗糸 〔茶屋場:由良之介〕長尾 吉兵衛 〔光明寺奥殿:大星由由良介〕長尾 庄次郎
慶応3.10.2近3下544四条道場北ノ小家日蓮聖人御法海〔弥三郎住家切〕長尾鱗糸
慶応3.12.8近3下548四条北側芝居盛衰記〔松右衞門内〕長尾鱗糸 檀浦兜軍記〔かけ合:岩永〕長尾 豊吉
慶応4.1.2近3下551四条北側大芝居盛衰記〔三段目〕長尾鱗糸
慶応4.2近3下552四条道場北ノ小家妹脊山婦女庭訓〔芝六住家〕長尾鱗糸 〔浪花浦〕長尾鱗糸
慶応4.2近補137四条北側大芝居仮名手本忠臣蔵 〔扇ヶ谷:大星〕長尾 〔一力:千崎〕長尾
慶応4.3近3下554四条道場北ノ小家義経千本桜〔嵯峨庵室〕 長尾鱗糸 国文研
慶応4.4近3下555四条道場北ノ小家伊賀越〔政右衞門やしき〕長尾鱗糸
慶応4.5.5近3下557四条道場北ノ小家夏祭浪花鑑〔釣舟三ぶ内切〕長尾鱗糸 伽羅先代萩〔対決:柴田外記〕長尾 庄次郎
慶応4.7近3下559四条道場北ノ小家近江源氏先陣館〔四斗兵衞住家〕長尾鱗糸 〔盛綱陣屋〕長尾鱗糸
慶応4.8.28近3下560四条道場北ノ小家阿漕ヶ浦 長尾鱗糸
慶応4.9.27近3下562四条道場北ノ小家妹背の門松〔質店〕 長尾鱗糸
明治1.12.6近3下565四条北側芝居加賀見山〔又介住家〕 長尾鱗糸
明治2.1.2京1026道場北の小家紙子仕立両国鑑〔大文じや切〕長尾
明治2.2.6京1027道場北ノ小家八陣守護城〔船カケ合〕長尾 庄次郎〔佐々木住家切〕長尾鱗糸
明治2.4京1031道場北の小家東海道四谷怪談〔羽宮伊右衛門内切〕長尾鱗糸
明治2.5.5京1032道場北ノ小家生写朝顔話〔大磯揚屋:駒沢〕長尾 〔摩耶ゲだけ切〕長尾鱗糸
明治2.6京1035道場北ノ小家絵本太功記〔大徳寺焼香切〕長尾
明治2.8.1京1038どうじやうきたのこや継合義士誉〔大星出立切〕長尾鱗糸 植木屋〔菊畑:杢右衛門〕長尾 庄次郎
明治2.9.9京1040道場北ノ小家鬼一法眼三略巻〔大蔵館常盤御前楊弓切〕長尾鱗糸 安宅関所〔勧進帳:富樫〕長尾 庄次郎
明治2.10.11京1044四条道場ノ北の小家布引瀧〔四段目〕長尾鱗糸 東大秋葉
明治2.12.10京1047北側大芝居布引〔四段め〕長尾 伊賀越〔岡崎〕長尾
明治3.1.2京1050四条道場ノ北の小家妹脊山婦女庭訓〔芝六住家切〕長尾 〔山:大判事〕長尾 東大秋葉
明治3.2京1053道場北ノ小家祇園祭礼信仰記〔小田別荘切〕長尾東大秋葉
明治3.3.3京1054道場北ノ小家盛衰記〔三段目〕 長尾鱗糸
明治3.6京1059道場芝居本朝廿四孝〔信玄やかた切〕 長尾 娘景清八嶋日記〔日向島切〕長尾鱗糸
明治3.7.23京1060道場北の小や仮名手本忠臣蔵〔茶屋場:由良介〕 長尾 〔山科切〕長尾鱗糸
明治3.10.2京1061和泉式部北向芝居加賀見山〔長局切〕長尾鱗糸
明治3.仲秋睦佳詩『睦佳詩野志雄里』
明治4.1.2京1070道場北ノ小家妹背山婦女庭訓〔芝六住家中〕長尾 〔浪花の浦〕長尾鱗糸
明治4.2.16京1073道場北の小家仮名手本忠臣蔵〔喜内住家切〕長尾 〔祇園町茶屋場浦:平右衛門〕長尾
明治4.3京1077北側大芝居〔政右衛門やしきより大広間〕長尾鱗糸
明治4.5京1079和泉式部芝居布引〔四段目〕長尾鱗糸
明治5.9明506ほりへ芝居仮名手本忠臣藏〔一力:由良之介〕長尾 〔山科〕長尾鱗糸
明治5.10京1110四条道場芝居仮名手本忠臣蔵〔一力:由良之介〕長尾 〔山科隠家切〕長尾 東大秋葉
明治6.5明506道頓堀若太夫芝居浪花大汐譚〔靱油かけ丁更紗や内〕長尾
明治6.9明508道頓堀竹田芝居平仮名盛衰記〔松右ヱ門住家切〕長尾
明治6.10明508道頓堀竹田芝居大江山酒呑童子〔保昌やしき切〕長尾
明治6.11明510道頓堀竹田芝居伊賀越乗掛合羽〔政右ヱ門やしき〕長尾 〔幸兵へ内〕長尾
明治7.1明510道頓堀竹田芝居妹脊山婦女庭訓〔吉野川:定高〕長尾 〔浪花浦〕長尾 東大秋葉
明治7.2京1140南側実伝演劇八陣守護城〔此村やしき〕長尾 〔船:加藤〕長尾
明治7.3明512道頓堀竹田芝居木下蔭狭間合戦〔大仏餅や〕長尾
明治7.4明512道頓堀竹田芝居仮名手本忠臣藏〔扇ヶ谷切〕長尾
明治7.6明514堀江芝居菅原伝授手習鑑〔道明寺切〕長尾
明治7.7明514堀江芝居生寫朝顔話〔摩耶ヶ嶽切〕長尾
明治7.10明516堀江芝居出世太平記〔嘉平治住家切〕長尾
明治7.11明516堀江芝居日蓮聖人御法海〔弥三郎住家切〕長尾 〔御難かけ合〕長尾
明治8.4京1163新京極東ノ席 亀廼家仮名手本忠臣蔵〔扇ヶ谷切〕長尾 〔一力茶や:平右衛門〕長尾
明治11.2※明540いなり北門小家菅原伝授手習鑑〔道明寺切〕長尾 壽式三番叟:翁長尾
明治11.3※明542いなり北門小家伊賀越〔政右衞門やしき切〕長尾
明治11.5※明546いなり北門小家いろは藏武士鑑〔内藏之介仮宅〕長尾
明治12.1明550ばくろ町いなり北門小家楠昔噺〔コ太夫住家〕長尾 「先年江戸にても評判よかりし長尾太夫が七十餘歳にて一世一代をやり」(繪入東京新聞明治12.1.10
義太夫年表明治篇 明治11年以降の4興行(※)は番付紋下に長尾太夫とあるが、人名索引では、二代目(前豊島太夫)とする。人名略傳二代長尾大夫の項には「十二年二代竹本長尾太夫となる」とある。いなり北門小家番付(義太夫年表明治篇より)
明治17.4.3太夫略伝死亡
 

 
嘉永元年浄瑠理太夫三味線師第細見記 義太夫年表近世篇 3下p38 ,補p241影印
 
浄瑠理太夫三味線師第細見記 此外太夫三味線共門人數多有トいへ共紙数限追々出板仕候
竹本越太夫京都之人ト故人上町巴太夫養子六才の頃より此道に熟し幼名巴子太夫ト云中頃頼太夫ト改追々評判よく尤節シ合ニ委敷段々出情して浄留理功者な人当時若手の利物ト称す今本石町四丁目ニ住す 竹本淀太夫/竹本芳太夫/竹本松江太夫
豊竹靱太夫大坂新うつぼ之人始燕子ト云二代目巴太夫門人トなり地名を名乗初而出勤殊之外大当ス夫より引つゞき追々評判よく今三都の大達ものなり当時浪花町二住ス 豊竹小靱太夫/豊竹靱木太夫/豊竹高太夫
竹本伊勢太夫染太夫門人始吾妻太夫ト云年来江戸ニ住居し芸道長練するが故追々評判よく当時之利物ニして第一達者の人ト称ス今日本橋宿屋町ニ住ス 竹本内海太夫/竹本千代太夫
竹本是太夫故人土佐太夫門人始土磨太夫ト云中頃轡太夫ト改評判よくにし口達者の語り人ト称ス今本所相生町二住ス
竹本谷太夫越太夫門人ニして新下り也殊之外評判宜遖一かトのの大将にも成べき人ト頼母敷思ひます
竹本春太夫故人氏太夫門人始さの太夫ト云中頃文字太夫ト改評判宜敷上阪して猶々評判よく当時若手の売出し利ものト称ス 竹本春尾太夫
竹本越路太夫故人蟻鳳門人始勝鳳ト云中比より故人土佐太夫門人ト成古兵もの也此度当地へ下り評判ます/\よろしく今茅場町ニ住ス
竹本土佐太夫故人播磨大掾門人始三輪太夫ト云江戸江下リ暫中絶其後又々出勤名改シて殊之外評判よく音声殊ニうるわしくひゐき強き人ト称す 竹本三輪太夫
豊竹岡太夫故人春太夫門人始八十太夫といふ江戸江下り岡太夫ト改年来住居シ売出し之盛り上坂して播又之家名相続し豊竹ト改ム名音ニして殊更芸道に功をつむの人也当時三都の大達ものト称ス 豊竹住戸太夫/豊竹百合太夫/豊竹美の太夫
竹本浪太夫故人浪太夫門人始美名太夫ト云当時若手の功者ものにして評判よく売口能人ト称ス 竹本美名太夫/竹本浪花太夫
竹本長尾太夫長門太夫門人弘化未年始而当地下り殊之外評判よろしく間もなく上阪し又々当新下りニて評判よく時ニ合人登の人ト称す
 三味線師弟細見記
竹本咲太夫長門太夫門人始由良太夫ト云天保之始江戸江下り大当此人其始より操座ニ芸道生立執行練満之人故誠ニ調法之太夫門人数多其教得実ニして古今之達者ものト称ス今日本橋箔屋町ニ住ス 竹本菊太夫/竹本品太夫/竹本乙太夫
竹本二葉太夫播磨太夫門人始戸和太夫ト云美声にして殊ニあざやか也故ニ日ニ増評判よく出世目の前ニ見ゆト称ス今浪花町新道ニ住ス
竹本氏戸太夫故人氏太夫門人始増太夫ト云先年師匠共ニ江戸へ下り其折柄より頼母敷思ひましたが此節ニ至リ殊外評判宜今堺町ニ住ス
竹本梶太夫染太夫門人始実太夫ト云先年江戸江下リ評判よく中登して大ニ芸道執行を励み評判日々ニよろしく師匠其侭の正写し尤浄留理古今達者の人也当三ケ津の大達者ト称ス 竹本梶当太夫/竹本梶尾太夫/竹本梶戸太夫
豊竹富太夫二代目巴太夫門人始い太夫ト云久敷江戸住居して相かはらす評判よく殊ニ美声ニして立派の芸ト称ス今霊岸島 豊竹巴志太夫/豊竹光太夫
竹本津賀太夫故人津賀太夫門人始曽賀太夫ト云年来当地ニ住し日増ニ評判よく追々出情し師名を相続す当時の達者也希代の手柄者ト称ス今本所一ツ目弁天屋敷ニ住 竹本曽賀太夫/竹本津多太夫
竹本播磨太夫鶴沢三二門人始元祖伊左衛門ト云其後蟻鳳ト改又蟻保ト号福寿斎共云古今三味線名誉之人ニ而其名海内ニ弘む文政之頃より太夫ト成て又古今上手ト称せらる長寿ニして殊ニ得実之人也実に希代之一寄未曽有之人物ト称ス今浅草並木町ニ住ス 竹本柴磨太夫/竹本伊磨太夫
佐賀太夫改竹本吾妻太夫染太夫門人日増ニ評判宜敷今売出し最中の人也今日本橋佐内町ニ住
竹本筆見太夫津太夫門人富士太夫ト云上阪して筆太夫門人ト成追々評判宜売出し最中之人也浅草北馬道町住
竹本湊太夫故人津賀太夫門人始志渡太夫ト云当時売出し評判殊ニ宜出世近きニ有人ト称ス
竹本巻太夫淡路座ニ執行丹練之人故人麓太夫取立古今達者もの評判日々ニ宜
竹本中太夫故人中太夫門人始政子太夫ト云年来上坂して芸道執行し評判宜終ニ師名相続して下ル今三都之達ものニして江戸根生には珍らしき上手也ト称ス旅行 竹本政子太夫
豊竹君太夫岡太夫門人始岡戸太夫ト云評判宜売出し最中ひゐき沢山之人ト称ス
竹本大江太夫大住太夫門人評判宜若手の売出しはやり者ト称ス
豊竹八十太夫岡太夫門人追々評判よろしく今ニ出世之人也
竹本雛太夫故人筆太夫門人今咲太夫門人ト成若手之売出し評判よろしく出世近キニ有人也
竹本力太夫故人津賀太夫門人評判よろしく大達者ものト称ス
竹本内匠太夫染太夫門人始森太夫ト云先年中登リし殊之外評判宜当時若人□売出し遖の利物ト称ス
竹本朝太夫始語蝶ト云此人年来之功ニ依床頭取を勤芸道深□人也
竹本肥後大掾大坂ニて始楠香軒と云名高き人故人住太夫門人ト成賀太夫ト改受領して下リ大ニ評判よく古功之上手也ト称ス
竹本美代太夫故人重太夫門人始鹿太夫ト云改日出太夫年来当地住立声ニして評判宜今浅草馬道町ニ住
竹本入太夫京都之人始竹義ト云て評判宜故ニ故人筆太夫門人ト也改名先年新下リ之節大ニ評判よく此度迚も同様達者の人ト称ス今猿若町ニ住
竹本鯉万太夫京之人茶理かたり也人愛厚古今おかしき人なり
竹本宮戸太夫初魚生ト云二代目宮戸太夫亡後名前を続評判よろしく
竹本紋太夫故人綱太夫門人始浜太夫云門太夫ト改古今古功之達者三都の達もの親仁株の人ト称今麻布芋洗坂ニ住 竹本浜太夫/竹本糸太夫
竹本高麗太夫大坂之人始いづ五ト云故人住太夫門人ト成名改元より評判よく古功之人ト称ス今河島中坂ニ住
三味線之部
鶴沢勝七故人清七門人幼名安次郎ト云氏太夫共ニ江戸へ下り大当中登して評判益能当時三都之達者ト称ス
鶴沢泰造清七門人始佐吉ト云日増ニ評判宜若手之売出し当時之利物ト称ス今両国矢発ニ住ス 鶴沢佐吉
野沢吉兵衛越路太夫実子文三門人ニて始市次郎ト云勝鳳ト改遖若手之誉物売口山々の大利物ト称ス茅場町ニ住ス 野沢勝鳳
鶴沢百造清糸門人幼名銀次郎ト云又清之助改評判日増宜若手之達者ものト称ス本所原□町ニ住
鶴沢市太郎二代目伊左衛門門人幼名宗吉ト云花沢咲治ト改其名遠近ニ聞ゆ当時希代之名曲三ヶ津之大達もの也今日本橋佐内町ニ住
富八門人野沢富助/勘五郎門人鶴沢勘六
野沢語助故人庄次郎門人幼名勝太郎ト云芸道丹練人愛殊ニ勝れ門人数多取立其名遠近ニ聞ゆ近世江戸根生之大達ものト称ス桶町不動新道ニ住 野沢語吉
鶴沢文蔵故人文蔵実子幼名来蔵又染助ト云文教ト改江戸へ下り評判よく名人之胤成か自然ト其功相顕れます今日本橋音羽町ニ住 鶴沢伝三/鶴沢文四
豊沢仙五郎故人広助門人始小猿と云又猿之助ト改幼年之砌より評判よく末頼母敷思ひましたが如先見若手の利物ト称ス今長谷川町住
鶴沢勇造故人松雨請門人幼名寅造ト云幼年之砌より評判宜其名遠近ニ響古今無双之達者豪傑ト云へし当時三都之大達ものト称ス類焼ニて茅場町ニ仮宅 鶴沢勇三郎
大西東造故人東造門人源蔵又重三郎ト改名芸道無他念評判能終ニ師名相続す手柄者ト称ス浅草竹門ニ住 大西東三郎/大西東吉
鶴沢鬼市勇造門人ニ而勇四ト云芸道丹練之若者故師匠之養子ト成当時若手之売出し利物ト称す今茅場町住
野沢語市語助門人当時之利ものにして評判弥増よく功の者と称ス
花沢伊左衛門先伊左衛門門人始平三ト云先年新下り之節大当りし引つゞき評判宜遖一かどの達物ト称す今浪花町ニ住 花沢安太郎
鶴沢吉次郎駿府之人先名良助ト云先年江戸へ出府つゞゐて評判よろしく功者の人ト称す今深川さが町住
花沢伊八伊左衛門門人始虎助トいふ日増ニ評判よく若手の利物ト称す今
鶴沢勘五郎故人勘五郎門人始徳次郎ト云幼年之節より遖之達人故師家相続す誉れの人ト称ス今元すきや町二丁目住 鶴沢縫治郎/鶴沢勘作/鶴沢子之吉
鶴沢才治故人文蔵門人始清五郎ト云故人重太夫実子也先年新下り之節格別大当り引つゝき評判能今三都若手の達ものト称ス神田明神□ □
鶴沢咲治市太郎門人始市作と云当時若手之利物売出し之真盛りト称ス
野沢富八故人勘五郎門人勘十[ ]寅次郎ト改古功之人ニて芸道節にして能門人を取立其道を弁ふ故に[  ]続頼もしき人ト称ス浅草三間川ニ住 野沢勘十郎/野沢登喜三郎
鶴沢清六故人清七門人始清太郎ト云幼年より評判宜能芸道を弁へ遖三都若手之達ものト称ス今浪花町住 鶴沢清三郎/鶴沢清十郎
豊沢仙助故人広助門人始竹松ト云評判よく当時若手の売出しト称ス
野沢寅次郎富八門人始登志蔵ト云今売出し之最中末頼母敷若物ト称ス
鶴沢福造故人文蔵門人始卯之介ト云年来当地ニ住居して評判よく一かどの達ものニして殊たつしや成事俗に鬼腕ト称ス浅草駒かた川岸住
鶴沢□□郎故人勇二門人幼年之砌より芸道ニ励み盲人之[ ]上阪し淡路座執行[]中国筋迄辺暦ス誠ニ[ ]深切之人ト称ス今北鞘町住
野沢粂五郎故人粂五郎門人始粂七ト云幼年より評判宜[ ]相続ス遖手柄者ト□ス今外神田山本町代地住
鶴沢清左衛門清糸門人始徳之介ト云幼年より評判よろしく遖のたつしやもの也
鶴沢吾八勘五郎門人始亀吉又勘[ ]云功者の芸にして評[ ]今浅草馬道町ニ住
鶴沢寛治故人寛治門人幼名富蔵ト云文吾ト改是[ ]引続て評判宜古今之達[ ]時三ケ津之大達もの[ ] 鶴沢□蔵/鶴沢寛十郎
故人粂五郎門人野沢粂造/野沢粂次郎
 

長尾太夫旧居 (天王寺村総会所
天王寺大道郵便局四天王寺周辺地図天王寺村総会所
長尾太夫住宅の跡(現在天王寺大道郵便局の地
(文楽今昔譚 103)
四天王寺南門前路に電車開通以前の附近地圖
(上方1巻3号口絵)
天王寺村總會所 文久3年 増補改正國寶大坂全圖
 

大坂代官一覧(安永以降)
代官所 谷町 鈴木町
大坂代官所地図
御代官 谷町 鈴木町 改正増補國宝大阪全圖 文久3年
 谷町代官
大屋正巳(四郎兵衛) 安永6 − 寛政1
竹垣直温(三右衛門) 寛政1.5.8 − |寛政5.7.10 関東代官
鈴木正義(新吉) 寛政5.1.29 − 寛政6.10.23
池田但季(仙九郎)寛政7.3.11 − |享和3.1.21 五条
木村光休(周蔵) 文化1.8.23 − |文化9.12.25 関東代官
塩谷惟寅(大四郎) 文化9.12.25 − 文化13.閏8.29 日田
島田政美(帯刀) 文化13.閏8.28 − |文政5.2.28 淺川
辻守眉(富次郎) 文政5. − |文政11.7.29死去
辻富次郎 文政12.2.8 − |天保4.2.10 塙
添田彭章(一郎次) 天保4.2.10 − 天保7 柴橋
池田季秀(岩之丞) 天保7 − 天保11 駿府
竹垣直道(三右衛門) 天保11 − |嘉永1.10.28 関東代官
川上充成(金吾助) 嘉永1.12.22− |安政2.3.29 川俣
白石島岡(忠太夫) 安政2.3.26−|安政6.2.2 外国奉行組頭
羽田正見(十左衛門) 安政6.4.26− |元治1.4.8 勘定吟味役
斉藤英督(六蔵) 元治1.5.10 − 明治1
 
 鈴木町代官
青木糺明(楠五郎) 安永6 (南)− |天明7.12.24
羽倉秘救(弥三郎) 天明8.3.3 (南)− |寛政5.6 日田
鈴木正義(新吉) 寛政2.7.19(北) −| 寛政5.1.29 谷町
篠山景義(七十郎) 寛政5.7.10(北) ー|文化6.3.23 江戸廻
岩佐茂高(子之吉) 寛政5.10.18(南)− 寛政9.1.23 10.11.16 川浦
木村光休 寛政10(南)−|文化1.8.23 谷町
大岡忠辰(久之丞) 文化6.3.23−文化13 
重田信征(又兵衛)文化1(南)−文化10
岸本荘美(十輔) 文化13.閏8.29 − |天保2.5.27 駿府
矢島藤蔵 天保2 − |天保3 関東代官
大原左近 天保3.12.5 − |天保6.3.16 中之条
根本玄之(善左衛門) 天保6.3.16 (北)− 天保9.4.8 勘定吟味役
築山茂左衛門 天保9.4.11 − 弘化1
設楽能潜(八三郎) 弘化1 −| 嘉永6.6.23 川俣
増田頼興(作右衛門) 嘉永6 − |安政5.2.16 関東代官
森田清行 安政4.10.12 − |安政5.1.27 勘定組頭
屋代忠良(増之助) 安政5.2.16 − |文久2.1.13 日田
加藤余十郎 文久2.2.26(北)−|文久3.1.29 甲府
内海利貞(多次郎) 文久3.4.19(北) − 明治1
     (堤奉行名一覧(村田路人 近世広域支配の研究175−)・徳川幕府全代官人名辞典 による)
 

 
竹垣三右衛門直道 竹垣家族 竹垣三右衛門江戸屋敷 竹垣日記抜粋
 
竹垣三右衛門直道[大坂谷町代官]
天保十一年九月一日着任、嘉永元年(一八四八)十月二十八日に関東代官、(日光今市御蔵掛)、同二年六月九日に関東在々取締掛を兼帯する
  大坂代官 竹垣直道日記 (一) (二)(三),(四) なにわ・大阪文化遺産學叢書2,5,10,15 (2007-2010)
  西沢淳男:史料紹介「関東代官竹垣直道日記」(1), (2)(3)(4)(5) 地域政策研究 15〜18 2013〜2015
 竹垣家臣
石賀漣平(連平、蓮平) 御代官竹垣三右衛門手附御普請役格 高拾五俵壱人半扶持 (嘉永1.12.24
 石賀漣平拝領屋敷 青山五十人町 松平安藝守上地 百坪 から 本所林町五丁目横町 七拾弐坪 へ 相對替 (嘉永1.12.24) 
宮部潤八郎(潤八、順八郎) 御代官鈴木大太郎手附御普請役格 (嘉永3.2.3
      御普請役元〆進退御普請役格 (万延1.12.23
 

 
竹垣家族
竹垣家系図(部分)「関東代官竹垣直道日記」(1)による
竹垣家系図
 
竹垣三右衛門(直清)[養父] 代官(関東−中泉−尾花沢−出雲崎)
  贈正五位竹垣三右衛門氏事蹟一斑(江戸6巻1−2(21−22)号)
 「書家 柳塘 亀澤町 竹垣三右衞門」(江戸方角分)
亀沢文庫印亀沢文庫印(柳塘) 太田南畝識語友人竹垣柳塘子(太田南畝識語)(柳塘旧蔵「志道軒伝」 志道軒全書 )
 
岸本荘美 [実父] 勘定(代官勤向) (藤岡−大坂(鈴木町)−駿府)
勝安兵衛 [義父] 小普請組、小普請組山口内匠支配 高四百拾四俵弐人扶持(弘化4.12.29) 徳永伊予守支配(嘉永5.3.14) 父 勝桓兵衛 実子惣領 権一郎(嘉永5.7.24
  【勝桓兵衛:西丸御膳奉行−御本丸御膳奉行−勘定吟味役−西丸先手弓頭−佐渡奉行−御普請奉行−御鎗奉行(柳営補任)】
竹垣おるち[竹垣娘] 大奥女中 右筆 [大坂代官 竹垣直道日記では「おゐち」]
竹垣龍太郎(直好)[竹垣息子] 号 成蹊 
   天保15.3.28 大坂西町奉行所で久須美(杉浦)正一郎らとカピタンを見る[久須美(祐明(大坂西町奉行)、正一郎)・竹垣(三右衛門、龍太郎)の交流については日記4:255−「竹垣直道の出会った人びと」参照]
   弘化3.12.27 元服
   安政2.9.6 杉浦梅潭[杉浦正一郎] 経年紀略に「此年前後五六年頻ニ往来スルモノ」として竹垣の名あり
   安政3.11.6 講武所第六小隊 指令士 世話心得
   安政6.7 御小姓組 「村松備中支配」(貼紙下)「戸田隼人正組」(従兄弟小泉久太郎親類書
   安政7.3.3 中村円太と『奇雪を墨陀堤に賞す』
      『旗本の士なれ共、自ら能(く)洋学の非を悔て更ニ師友を求め喬木ニ遷(る)の志あり』(中村円太)
   伊庭想太郎 [諸向地面取調書]道場で稽古。
   文久2 池田謙齋にGrammatica(Grammatica of Nederduitsche spraakkunst)(和蘭文典)を教える。
   文久2.8−9 池田謙齋を緒方洪庵に紹介する。
   文久3 杉原心齋・成島柳北邸に寄寓していた岡本韋庵の志を感じて羽倉鋼三郎[実父:林鶴梁・養父:羽倉簡堂]と之を助成し、箱館奉行支配組頭平山謙二郎に宛てた添書を渡す
   文久3.4.24 講武所奉行支配取締役
   文久3.8.9 小南[鉉か]・羽倉[鋼三郎か]・伊澤らと成島柳北を訪問
    【小南鉉:小十人格奥詰 小南鉉次郎 大番格奥詰小南市郎兵衛養子鉉次郎(天保12.11.29)】
   文久3.8.13 講武所頭取
元治武鑑竹垣龍太郎 (元治武鑑)調物頭取
   元治1.9.4 御役御免
   元治1.9.17 病死(杉浦梅潭 経年紀略)

      「吉田源次郎義娘養女竹垣竜太郎妻ニ而」(林鶴梁日記)
    【御台所広敷番之頭吉田源次郎喜代姫君の用人となる(続徳川実紀2:854)】
 
 

竹垣三右衛門屋敷 本所亀沢町 のち 下谷和泉橋通東横町。勝桓兵衛[御府内往還其外沿革図書 十四 ]、安兵衛−権一郎(近吾堂版外~田下谷邊繪圖 嘉永6)屋敷あと。亀沢町屋敷は勝権一郎屋敷となる。
 
本所亀沢町屋敷 下谷和泉橋通東横町屋敷

亀沢町絵図
 和泉橋通絵図
南本所竪川辺之地圖 近吾堂嘉永4☆  外神田下谷辺絵図 近吾堂嘉永6★
赤枠部分拡大  赤枠部分拡大
亀沢町竹垣三右衛門屋敷亀沢町勝桓一郎屋敷 和泉橋通勝桓一郎屋敷和泉橋通竹垣三右衛門屋敷
☆ 近吾堂版本所繪圖 尾張屋安政2 ★ 近吾堂版 東都下谷絵図 尾張屋版文久2
 

下谷和泉橋通 竹垣屋敷近隣 練塀小路 二丁町(以下[ ]内の数字は下谷和泉橋通屋敷地図に対応)
○ 和泉橋通東横町屋敷は醫學所旧種痘所)に隣接。
緒方洪庵先生が醫學所の頭取になつて、大阪から來られて、丁度竹垣のすぐ隣に住むで居られたものだから・・・
醫學所に就ては少し話して置くことがある。抑も緒方先生が、まだこゝの頭取に成られぬ以前には、大槻俊齋が頭取であつて、一番最初に顧問のやうに成つて居たのが伊藤玄朴であつた。池田謙斎:囘顧録
 ○ 伊東玄朴:同[天保]四年下谷御徒町和泉橋通に轉居[03]す、表口廿四間奥行三十間許名けて象先堂と云ふ大槻磐渓の選にして間部詮勝(下總守)の筆なり、家は西に向ひ北角にして西は道を隔てて劒客伊庭軍兵衞[想太郎]の道場[61]に對し北は幕臣加藤平内[01]と境を爲す。居宅は玄關構表門高塀を繞らし裡に土藏二棟あり、玄關正面に象先堂の額を掲げ診察所調藥所及醫學蘭學門弟寄宿の室あり其間に通路を設け奥坐敷に達す、構造一棟にして室多く來客の道を誤るもの多かりしと云ふ、設計全く玄朴と木匠遠州屋周藏との考案に成り鴨居下寸壁を設けず總て障子を以て界とし是を取外せば一大講堂となるの構造なり。
 玄朴[03]の宅は和泉橋通りの御徒町表口二十間許奥行も三十間許あつ て中々大きな長屋門構の屋敷で其長屋の二階には常に書生の八九 十名も寄宿して居ました、屋敷の向ふが彼の星亨を殺した伊庭惣 太郎の先代軍兵衞の家[61]で擊劔の道場です又和泉橋寄の隣は幕府の御祐筆組頭北隅十郎兵衞[文久2年図では21の位置だが]、伊東の向ふが馬醫の落合十三郎[60]、又北方 の角は五千石の幕臣加藤某[01]と云ふ何でも大きい屋敷でした初め~ 田小川町で幕府から拜領地を下された處が長く御徒町に居住して 人によく知られて居る爲め是と替地を願つて改めて御徒町を拜領 したのでありました。(池田玄泰氏談)(伊東玄朴伝:43
 ○ 大槻俊齋:下谷練塀小路の大槻俊齋先生の塾[71]に朋友があつて私は其時鐵砲洲に居たが、其朋友の處へ話に行て夜になつて練塀小路を出掛けて、和泉橋の處に來ると雨が降出した、(福翁自伝:424
 
 ○ 成島柳北 竹垣龍太郎と往来あり。
投閑日録 文久3.8.9硯北日録 安政7.閏3.18  
柳北投閑日記柳北硯北日録
小南・竹垣・羽倉・伊澤等來吊竹垣氏邸後厰二更失火訪山岡氏[31?]頓熄
 
○ 羽倉簡堂 :[諸向地面取調書] 羽倉三代[秘救・簡堂・鋼三郎]と竹垣四代[直温・直清・直道・直好]の間に往来あり。
秘救−直温:同時期に大坂代官(谷町・鈴木町)直道日記天保15.8.2記事参照
外記−直清:一、羽倉外記入来、終日碁。(直清日記 文政1.7.18)一、羽倉外記入来、妻離之事ニ付、談合。(同.8.12)
   代官羽倉外記。竹垣庄藏は。遠江国下吉田村へ唐船漂着のをり。彼是奉はりしにより時服黄金を賜ふ。(文政9.12.23 文恭院殿御實紀巻61 續徳川實紀2:658)
外記−直道:羽倉江文通、母病死之よし朦中見舞、菓子一折遣ス、返書来ル(竹垣日記2:66)等天保14.8外記の生野銀山視察の期間に記事あり)
鋼三郎−直好:投閑日録 文久3.8.9 岡本韋庵資料
大槻[71]も伊東[03]も下谷御徒町であるから近所の羽倉先生[41]の所に寄寓して湯藥を用ふる事三ヶ月許り、遂に眼病は全癒した成程伊東は名醫だと此時初めて感心した。丁度嘉永七八年余が二十三四歳、松本奎堂が不都合をやつて聖堂を放逐され羽倉の塾頭の時であった。(岡千仞氏談)(伊東玄朴伝:61
 
下谷和泉橋通屋敷地図
和泉橋通屋敷地図 19:竹垣三右衛門★(←勝 権一郎
種痘所 10:山本嘉兵衛 17:安井甚右衛門
西洋医学所(種痘所より改称+(←11: 忠内鉄五郎(←各務兵次郎))   12:正木助次郎 18:鳥居彦太郎 (←勝安兵衛))

01:
加藤宜次郎(平内)←内藤伝十郎) 02:水野福次郎

03:伊東玄朴 (←小俣稻太郎 安田益太郎 高橋藤之助) 04:小俣稲太郎 05:菊池新三郎[近嘉6] 06:中村泰次郎(御納戸) 07:矢部木弥一衛門 08:石川堂之助(←伊庭想太郎) 09:益田遇所(喜連川左馬頭家臣(皇朝印史62))[嘉6]   13:河島重五郎←依田甚一郎) 14:依田甚一郎 15:杉浦雄次郎(西丸御納戸同心) 16:今井八太郎   

21:北角十郎兵衛[文2](← 河尻式部少輔) 22:星野一郎兵衞(←高柳小三郎) 23:戸田嘉十郎★ 24:佐々木信濃守(←添田一郎次) 25:添田一郎次★ 26:岡田忠兵衛 27:福田所左衞門★(←土屋長三郎) 28:松田多助[嘉2] 29:福田八郎右衛門(←服部隼人) 30:成瀬藤右衛門 31:山岡仁右衛門(山岡宗右衛門←筒井権左衞門 山崎宗安)

41:羽倉外記(簡堂)★ 42:青山金左衛門(←羽倉外記) 43:添田玄春 (山谷勾当) 44:甲斐静庵 45:成島甲子太郎 50:杉本忠達 51:森田金吾 52:平野雄三郎 54:深川永機(柳原和泉橋 八兵衛湯向(江戸方角分)) 57:大原門兵衛 58:染木佐太郎 60:落合十三郎

61:伊庭軍平(想太郎)[嘉2] [嘉6では08+09]

71:大槻俊齋 72:中根長十郎 (← 岡本近江守(成 花亭)
※「門を対して移り住む詩壇の豪」「両家の梅は並んで茅閣に傍う」「佐久間町の祝融にて玉池精舎烏有となり、……練屏小路花亭翁の小屋の売すへを買てこれに移し、先生ふたゝび剃髪す。」(清水礫川「有耶無耶」)(大森林造 大窪詩仏ノート引用)
 
A:海保漁村(嘉永1.5.8「自久保街移焉」(漁村海保府君年譜)) B:坂田鴎客 C:萩原秋巖 D:片岡東岳
 御府内往還其外沿革図書 十四(和泉橋通 練塀小路)、 諸向地面取調書(安政3)、東京市史稿 市街篇、 切絵図 (近吾堂版 嘉永2[嘉2] 嘉永6[嘉6] 尾張屋版 嘉永4[嘉4] 文久2[文2])による。 屋敷界は復元江戸情報地図を改変せずに流用した。 ○は下谷文人絵図掲載人名 但し屋敷位置が不確実なものはとした。★:代官
 
余、江都長者巷ニ生マル。聞ク、舎西、旧、市川寛斎宅有リ。米庵・雪潭、皆、茲ニ生マルト。又、巷中、山崎美成ノ居有リ。余、皆、知ルニ及バザル也。余ノ幼キヤ、其ノ舎、相沢石湖ニ隣ル。石湖、写山翁ノ門人。画、北宗ヲ主トス。余、日々ニ、就イテ游ブ焉。其ノ丹青ヲ好ム。実ニ此ニ縁由ス。巷北、湯川安道有リ。巷南、辻元ッ庵有リ。共ニ儒医。著書数巻有リ。
 長者巷ノ東、御徒巷為り。成堂・稼堂居ル焉。御徒巷ノ南、練塀巷ニ接スル処。萩原秋巌[C]居ル焉。又、南、三四家ヲ隔テ。大窪詩仏ノ故居[72]有リ。対門、海保漁邨[A]為リ。巷尽キテ東折。和泉巷ニ出ズ。其ノ西北ノ角、羽倉簡堂[41]為リ。津侯邸ニ対ス。後、稼堂、居ヲ其ノ北ニ移ス[45]。又、北ニ百余歩、善哉庵永機[54]為リ。対門、益田遇所[9]居ル焉。東、菊池五山[5]ト相接ス。是ヨリ北、二三百歩。関雪江ノ家為リ。南楼翁ヨリ以来。久シク此ニ宅スト云ウ。
 雪江、後、屡々、家ヲ移ス。然シテ竟ニ下谷ヲ去ラズ。後年、安井息軒、雪江故宅ノ南ニ住ス。其ノ北、二三百歩。右折、芳野金陵宅有リ。左折、藤森弘庵宅有リ。金陵、茅場巷ヨリ。弘庵、三線溝ヨリ、此ニ徙ル。弘庵ノ居ル所。即チ長者巷。湯川安道ノ北百歩二在リ。
 余、本姓曽根。幼齢、出デテ、中根氏ニ養ワル。家、御徒巷ニ在リ。成童ニ比リ。家君、巷北三昧橋畔ニ移居ス。其ノ南隣、則チ大沼枕山也。又、南、高斎単山為リ。当時、晴湖・春涛ノ諸人。未ダ此ニ家セザル也。橋東一路、即チ和泉巷。前田夏蔭ト長谷川雪隄ト。街ヲ挟ンデ居ル焉。後、塩谷宕陰、巷ノ極北ニ住ス。橋ノ北百歩。鈴木鵞湖居ル焉。荊妻、少時、其ノ北隣ニ住ス。故ニ善ク鵞湖ヲ識ル。余、並ク、同郷諸賢ノ居ル処ヲ叙ス。是ノ若シ。然シテ其ノ間、自カラ、年代ヲ同ジウセザル者有リ焉。余、幼時。石湖、先ズ没ス。後、数年、五山・ッ庵・漁邨・簡堂、相尋イデ歿ス。弘庵ノ如キ。居ヲ移シテ二三年。事ニ因ツテ北総ニ謫居シ。幾バクモ無クシテ、遂ニ歿ス。息軒・金陵・宕陰ノ卜居。皆、其ノ後ニ在リ。又、数年ヲ経テ。三子、安道・鵞湖等ト。前後シテ淪謝ス。雪江、最後、山下ニ住シ。居ルコト数年。亦、世ヲ下ル。独リ、枕山先生、詞壇ノ老将。今尚健在。誠ニ貴ブ可キ也。之ヲ要スルニ、諸賢ノ故宅。已ニ屡々、主ヲ易エ。面目一新。人ノ得テ之ヲ知ル無シ也。嗟乎。召伯ノ棠。朽枯、已ニ久シト雖モ。後ノ学者。其ノ詩ニ由ツテ、以テ其ノ人ヲ想ウ。我ノ此ヲ叙スルモ。亦、未ダ此ニ意 莫キニアラザル也。 (中根香亭「香亭雅談」(斉田作楽による訓読 太平文庫9東京詞 附録 下谷文人絵図 のち改稿して太平詩文2))
 

竹垣三右衛門日記抜粋 (「大坂代官竹垣直道日記」)
天保12.11.6同六日 曇夕雨/……/一 夜五ッ時過天王寺村庄屋与[三]左衛門罷出申立ル者、当丑御取箇相増候ニ付為相續銀五拾貫目拝借いたし度段小前之もの村役人江申立、其段可願出旨願書取調、昨五日門前亀や喜兵衛方迄罷出候処庄屋五郎兵衛不参いたし難差出、夕刻帰村いたし途中江小前之もの共 右願書差出方有無可承心得之由ニ而多人数罷出居、右願書差出方之儀承候間右之趣申聞候處、一同引取立別候後小前之もの共大勢五郎兵衛方江罷越及乱法候よし相聞候ニ付、役人共一同罷越候處、最早不残引取候得共右五郎兵衛宅見分之儀相願候段申立ル/○右ニ付天王寺村江向又三郎・清次郎・藤三郎・夜五ッ時過差遣ス/○築山江文通、天王寺村之一条一ト通申遣ス(竹垣日記1:154)(渡邊論文p16 翻字に若干異同あり)
 
 既ニ天保十二巳年十一月六日竹垣三右衛門様御役所江村小前百姓借屋人ニ至迄、押掛候儀ハ九郎兵衛并同人親孫 三郎・與三郎三人頭取、年寄・百姓代江相談、夫より小前へ通シ、大変ニ相成、私父五郎兵衛相談、不承知申立候 ハヽ五郎兵衛方江多人数押寄門戸・壁相破り居宅江取掛リ、諸色・諸道具・立具等ニ至迄不残打砕クダキ、是迚 も前庄屋共之差図ヲ受、小前之者共ニ為致、御奉行所より御吟味之節ハ小前之内之口聞ト申者頭取之約定いたし其 場ヲ品触遁レ、落着之節ハ役宅狼藉之廉ヲ以十五人重追放、頭取候者九郎兵衛組字町藤右衛門死罪ニ相成、右追 放之者庄屋江歎キ、不残餞別トして壱人ニ金三拾両宛相渡、家宅・田畑欠所之品御払代銀迄相渡、右入用金ハ村 入用ニ相掛ヶ、五郎兵衛組ハ罪ニ落候者壱人も無之、其節当町五郎兵衛事賢次郎と申庄屋見舞役ニ罷出居、父五 郎兵衛ハ御奉行所ニおゐて御代官様ト申合、高免取計致候抔ト被仰、村預ヶ被為 仰付、((五郎兵衛 『内胸中記・乍恐奉内願候』(渡邊忠司 幕末期大坂近郊の村方騒動とその行方−摂津東成群天王寺村の惣代庄屋と小前百姓−16 大阪の歴史52号))
 
[谷町代官竹垣三右衛門支配の東成郡天王寺村(天王寺区・阿倍野区・中央区)では、天保十三[二]年十一月五日、年貢増徴を契機に庄屋宅が打ちこわされた。この騒ぎは、年貢増徴 に耐えかねた小前百姓が相続銀五〇貫目の拝借を代官所に願い出るよう村役人に要請したが、庄屋が出願を 拒否したために打ちこわしが発生したものであった(藤田覚「天保十四年御料所改革について」)。(新修大阪市史4:452)]
 
天保12.11.7同七日 晴/一 今朝又三郎・藤三郎罷帰ル
  天王寺村百姓/新右衛門/喜兵衛/武兵衛/弥左衛門
 右之もの共乱法およひ候由相聞候ニ付召捕来ル、一ト通吟味之上、入牢申付ル
 ○清次郎者残置会処ニ罷在候段又三郎申聞ル
一 夕刻より天王寺村江為取締、誠一遣ス 五ッ時過帰ル、八蔵者外東成村々江夜廻り為致候 (竹垣日記1:154)
天保12.11.8同八日 晴/一 又三郎早朝より天王寺村江遣し乱法一件穿鑿方申付ル、入牢人共も牢屋ニおゐて吟味為致ル、作助儀又三郎方江遣し、清次郎与引替ル(竹垣日記1:155)
天保12.11.12同十二日 晴/一 天王寺村一件入牢人共呼出有之ニ付帰牢申付ル/一 夜中五郎兵衛忰堅二郎内訴いたす(竹垣日記1:156)
天保12.11.13同十三日 晴/一夜中五郎兵衛忰堅次郎、又三郎宅へ罷越色々相糺ス、八ッ時過迄懸ル(竹垣日記1:156)
天保12.11.17同十七日 半晴/一 天王寺村一件徳山石見守江差出ス
   百姓/新右衛門/喜兵衛/武兵衛/弥左衛門/〆
 右之もの共出牢申付ル
   百姓/作右衛門/嘉兵衛/伊兵衛
 右之もの共村預差免ス
 右之もの共書取相添作助を以出ス、懸与力荻野七左衛門受取候よし
 ○天王寺村一件去ル十七日差出候儀御届書遣ス(竹垣日記1:158)
天保14.5.25同廿五日 晴/一 摂州天王寺村之もの共及乱妨候一件之儀尓付申上候書付ニ書状相添、奉行衆連名ニ而壱封(竹垣日記2:57)
天保14.6.27同廿七日 晴/一 今朝羽倉外記着ニ付漣平江手紙為持遣ス、福田所左衛門・逸見市太郎其外江モ遣ス(竹垣日記2:64)
天保14.7.2同二日 雨……/羽倉江文通、母病死之よし朦中見舞、菓子一折遣ス、返書来ル(竹垣日記2:66)(下谷叢話 第二十二に簡堂日記の引用あり)
天保14.7.18同十八日 晴/一 夕刻より久須美江罷越逢、夜六ッ半時過帰宅/○天王寺村一件之儀及内話又三郎口書并吟味ニ及義、書付共二通預り置(竹垣日記2:72)
天保15.3.28同廿八日 晴/一 阿蘭陀人カヒタン久須美江参ニ付龍太郎見物ニ参ル、昼前門前通ル物見より一覧致ス(竹垣日記2:192)[大阪西町奉行所 久須美正一郎等と] 
天保15.8.2同二日 曇四ッ時過より小雨、夕大雨……夫より夕七ッ半時過寺中槙本院江着、泊/寺僧代ル々出逢/○寺僧江示談什物一覧/○青貝乗鞍/惣躰青貝菊の紋を付ル/正成所持与云傳/  此箱并鞍の袋者寛政度羽倉并直温君御寄附之箱ニ而箱の裏ニ左之如く記有之『寛政五丑年正月寄附/羽倉秘救/竹垣直温』(竹垣日記2:252)
弘化1.12.27同廿七日 朝雨昼後収 一 尾形幸庵[緒方洪庵]、坂本より世話ニ而来ル、診察為致、お可世をも為見ル(竹垣日記2:319)
弘化2.3.10同十日 晴/一 坂本より昨日之返書御沙汰書戻ル
   天王寺村 /庄屋 /与三左衛門 /庄屋後見 /孫三郎
   南平野町 /庄屋 /庄左衛門
   東高津村 /庄屋 /源助
 右呼出、貯穀之儀ニ付心得方申諭ス
   江口村 /庄屋 /善左衛門
   下新庄村 /同 /助左衛門
   三番村 /黒田傳右衛門
 右前同断(竹垣日記3:31)
弘化2.5.11同十一日 昨夜大雨朝同様昼後より収曇
一 朝五ッ半時過出立、大和川・石川堤方廻村、懸両人侍連吉・次平太召連ル、自分駕籠鎗草履斗
○天王寺村南門通往還屋敷新開願場所見分、間数等取調尚可申置旨申渡、庄屋与三左衛門・丈三郎・後見孫三郎罷出ル(竹垣日記3:65)
弘化2.9.3同三日 晴雲立有之昼後風
摂州天王寺村/ 重助借家/源助
    中追放
        右家主/重助 /庄屋/与三左衛門
    急度叱
        年寄見習 /治三郎
    叱
右博奕其外不届之取斗いたし候一件落着申渡(竹垣日記3:116)
弘化3.1.28同廿八日 快晴夕刻より雨
一 八ッ時過水野若狭守・永井能登守より文通、相達義有之候間、明廿九日四ッ半時若狭守役所江可罷越、病氣差合等ニ候ハヽ名代可差出旨申越、及返書
 此義、明日天王寺村一件落着申渡 ニ付、自分江奉行衆より之御印状可渡候 取斗与相聞、然ル上者右御印状、両町奉行より 取次相渡候迄之義ニ候得者、手代呼出 相渡候歟、文通相添差越候とも可然 哉与申諭候儀ニ候ハハ、猶更之儀殊ニ 相達義等之文段都而之文格、旦名代 等之申分、悉く相当不致取斗与 相見候得共、右等之引合致候も不隠 都而当地之引合者右ニ限り候事ニも無之旨 只承知之旨一通ニ受候文段ニ而及返書(竹垣日記3:176)
弘化3.1.29同廿九日 晴
一支配所摂州天王寺村之もの共、不筋之願相企、同村庄屋五郎兵衛方打毀候一件水野若狭守方ニ而落着申渡候趣、如左
  摂州東成郡 天王寺村/百姓/ 病死 藤左衛門    存命ニ候ハヽ死罪           宮町/百姓/忠右衛門         北竹屋町/同/孫四郎         竹屋町/同/藤兵衛         土塔町/同/弥左衛門         同町/同/新兵衛         南竹屋町/同/久左衛門         油屋町/同/和助         小川町/同/久兵衛         同町/同/庄右衛門         光堂町/同/武兵衛         堀越町/同/又右衛門         久保町/同/庄三郎         〆十二人    重追放 御構場所 武蔵 相模 上野 下野 安房 上総 下総 常陸 山城 摂津 和泉 紀伊 大和  肥前 甲斐 駿河 東海道筋 木曽路筋 河内         同村/北竹屋町/同/忠次郎事/忠兵衛   重追放                                  同町/同/善右衛門               病死 同/惣兵衛   中追放    同村 庄屋 五郎兵衛       庄屋 四人    過料三貫文ツヽ (竹垣日記3:178)
弘化3.7.18同十八日 半晴雨 四ッ半時比より雨/西南風強く/八ッ時比収
摂州天王寺村 /庄屋 与三左衛門 /見習 猶二郎 /庄屋 丈三郎 /後見 孫三郎 /庄屋 賢二郎 /同 藤次郎
北平野町 /庄屋 庄左衛門
南平野町 /庄屋 伊右衛門代 /見習 万三郎
東高津村 /庄屋 源兵衛
本庄村  /庄屋 藤左衛門
江口村  /庄屋 善左衛門 孫右衛門
下新庄村 /庄屋 助左衛門
三番村  /黒田傳右衛門
 右逢候上、上下一具ツヽ遣ス(竹垣日記3:267)
弘化3.12.27同廿七日 半晴夕より雨/一吉辰ニ付龍太郎元服為到ル、九ツ時過自分前髪採遣し、髪者栗田連吉ニ為結ル、規式目出度相済(竹垣日記3:293)
弘化4.3.19同十九日 折々雨 一去暮龍太郎元服ニ付、祝義申呉贈物等銘々いたし候ニ付、今日昼後左之もの共呼寄、酒肴振舞遣ス
  江口村庄屋 ○田中善左衛門 /同 ○  孫右衛門
  三番村 傳右衛門忰○黒田善右衛門
  下新庄村 ○ 助左衛門
  三番村 ○ 勘左衛門
  天王寺村後見 ○ 源三郎 /庄屋 ○ 丈三郎/同 ○ 五郎兵衛/同見習 ○ 猶次郎
  北平野町庄屋 ○ 庄左衛門
  南平野町同見習 ○  万三郎
  東高津村 ○  源兵衛
  今津村 ○ 仁左衛門 源左衛門
  鳴尾村 ○ 藤右衛門 市郎兵衛
右八ッ半時比より呼寄自分共父子逢遣し酒肴振舞、夕七ッ半時過相済、一同退散
  椎堂村 ○  太郎右衛門
  守口町 ○  六兵衛
  今津村 ○  弥十郎
  南寺方村 ○  庄左衛門
  門真三番村 ○  五郎兵衛
  七番村 ○  利右衛門
  西橋波村 ○  久右衛門
  大枝村  ○  藤兵衛(竹垣日記4:25)
弘化5.1.29同廿九日 晴……/一天王寺村庄屋見習猶二郎、庄屋申付  親与三左衛門、後見承届ル(竹垣日記4:134)
 

天王寺村
当時の東成郡天王寺村(天王寺区・阿部野区・中央区)は村高七二〇九石余の大村であるが、そのうち一四九〇石が四 天王寺領で、秋野房が支配していた。ほかは鈴木町代官所支配の幕領で、元四天王寺政所職をつとめた松 本・井河両人と他三人を加えた五人が圧屋で、西門前南の惣会所がその執務役所であった。(新修大阪市史4p552)
 
天王寺村は村高7209石の大村であり,そのうち1177石が朱印地として四天王寺に下されていた。
幕領(北組・南組・中組・西組)寺領からなる。
天王寺村には庄屋が存在していたが,各町にはそれぞれ年寄が存在していた。(山崎竜洋:近世四天王寺における寺院社会構造, 都市文化研究14:42-54, 2012
寛政2 文化7 高槻藩預所 
天王寺村庄屋
文政1.9.28庄屋 松本藤左衛門/井川与三左衛門[先代]/大浦五郎兵衛[先代]/青木九郎兵衛
文政7松本藤左衛門 青木孫三郎  井川辨次郎[見習]
天保2井川與三左衛門[辨次郎] 一人勤
此三ヶ年以前より井川與三左衛門 松本の悴源之助[見習] 青木の悴藤三郎[見習い] 新規の庄屋に健次郎(後に大浦五郎兵衛となる)[見習い]
弘化2.3 三左衛門・[青木]丈三郎・後見[青木]孫三郎
弘化3.7庄屋 与三左衞門/ 見習 猶二郎/ 庄屋 [青木]丈三郎/ 後見 孫三郎/ 庄屋 [大浦]賢二郎/ 同 藤次郎
弘化4大浦五郎兵衛頭 他三人[うち猶二郎[見習]]
弘化4.3天王寺村後見 [松本?]源三郎/ 庄屋 丈三郎/ 同 五郎兵衞/ 同見習 猶次郎 
弘化4.10猶二郎 庄屋本役 
嘉永3青木 布施忠左衛門[新庄屋] 大浦入牢 松本は家出し
文久3大浦五郎兵衛は未[いまだ]押込閉門なれば、青木丈三郎、布施安右衛門年々の私欲露顯に及び、既に御役所の御吟味に相ならんとするに恐れ、両人一時に逐電して行衛しれず
文久3.5.7南組西組 柴谷利介 北組 春田平次郎 東組 關根源次郎、中組 田中久左衛門 後見 井川与三左衛門
 内胸中記 申 万延1?嘉永1 
 
 天王寺組織
@「一舎利・二舎利」,A「年預」は衆徒十二院の中から,[受戒の順序にもとづく]臈次の秩序によって勤めており,主に法要が職分
@「一舎利・二舎利」は衆徒十二院の一臈・二臈であり,諸法会の導師などを勤めるとともに,大坂城代・大坂町奉行に対する年礼を勤めるとしている。また,諸事について年預・秋野に対して指示を出す存在であった。ここから一舎利・二舎利が四天王寺を統括する立場にあったことがわかる。
A「年預」は衆徒の三臈以下の僧である。幕府への願い出や法要を勤め,「末寺并山内清僧役」の支配については年預1名が勤めていた。ここで注目したいのは,「妻帯之者」「俗役人」「寺領百姓」については衆徒と秋野坊の両支配であったことである。また,年貢収納など金銭出納に関する事柄は秋野坊の職分であったが,年預が悉く立ち会い連印していた。
B「秋野坊」は元和元年(1616)に天海から四天王寺に下された条目で妻帯を免除された存在で,「賄方役人」を命じられ,その後「公文所秋野」と唱えていた。一切法要には関わらず,収納・諸勘定などを勤めることを職分としていた。しかし,「年預」の記述の中にもあるように,これらには年預が立ち会い,「俗役人」「寺領百姓」などの支配も衆徒・秋野坊の両支配という形になっていた。また,法要に関係のない願届などについては年預・秋野坊の両名が勤めていた。
ここから秋野坊は法要には関係せず,四天王寺の年貢収納や諸勘定などの「賄方」を主な職分としていたことがわかる。
楽人は四天王寺独自の存在であり,主に法会での舞楽を担当していた。
(山崎竜洋:近世四天王寺における寺院社会構造, 都市文化研究14:42-54, 2012
 

 
関連資料 藤岡屋日記,東京市史稿 市街篇,大阪市史 など
享和3.3.5五日雨 焉馬とともに、本庄亀沢町なる竹垣氏の別業に酒くみかはせり。けふは何屋の何がしのもとに、む かへんといひしが、さはる事ありて、この別業に来れる也。(細推物理 南畝全集8:358)
 
享和3.3.15十五日 竹垣氏が亀沢町の別荘にゆかんとす。けふは馬蘭亭・東海堂のあるじをも約せしが、さはる事あり てゆかず。窪俊満がやどりをとふに、萩の屋の翁にあへり。二人ともにともなひて、もと柳橋のも とより舟出して、亀沢町にゆく。半道にして、一盃をすゝめんとて、米沢町竹明といへる酒楼にむ かへて、酒をすゝむ。二人の客はこゝよりかへれり。烏亭焉馬はとくより別荘にして、北斎をもよ びて席画あり。(細推物理 南畝全集8:359)
 
文政1.9.28 同[文政元年九月]廿七日
一、御聖忌御寄附物為御頼、一舎利法印御口上書を以御地役方・御破損・御弓・御鉄炮・御具足・御金御蔵御代官岸本武十郎殿へ歓了指出候処、各取次中江頼置、書附相渡引取候旨申出候事
 但口上書去ル七月廿二日御城内御組頭中江之文言之通ニ候也


同[文政元年九月]廿八日
一、御料村方世話人常空休兵衛・九右衛門案内ニ而、東 蔵同道庄屋年寄中為頼込指遣ス
 庄屋 /松本藤左衛門/井川与三左衛門/大浦五郎兵衛/青木九郎兵衛
 油屋町年寄 /治郎左衛門/伊兵衛
 北竹屋町/嘉兵衛
 南堀越町/清兵衛/平兵衛/久左衛門
 光堂町/長左衛門
 立町/清右衛門
 西小儀町/治兵衛/伊兵衛
 宮町年寄/源左衛門
 小川町 同/長兵衛/庄兵衛
 南竹屋町 同/新右衛門/久兵衛
 西久保町 同/吉左衛門/伊兵衛
 北堀越町/甚右衛門/新左衛門
 今道町/九兵衛/庄兵衛
 中小路町/清兵衛/弥七
 東久保町/利兵衛
 東小儀町/治郎兵衛門/佐右衛門
 右庄屋中殿中形扇子五本包年寄中扇子三本包、但大浦
五郎兵衛慎中ニ付差扣心得ニ候処、同列中より心添も有 之音物差贈方可然様子故、差出相済也 (天王寺古文書2 皇太子千二百回御忌御開帳記録 壱 p68)
 
文政1.12.3十二月三日[○文政元年○中略。]金五枚。時服三。 小普請奉行大河内肥前守[○政長。]/金五枚。時服二。 御目付 羽太左京[○正榮。]/同斷 御勘定吟味役勝桓兵衞[○。正朝]
上野大猷院様嚴有院様浚明院様御靈屋御修復御用相勤候ニ付被下之。右於芙蓉間、老中列座、加賀守[○大久保忠眞。]申渡之。若年寄中侍座。東京市史稿 市街篇35:92)
  )
 
天保2.2.18○ 卯年正月十八日
一 近年町家之内、定見世同様ニ而女浄留理と申候義相催、町家之娘 共五七人宛相集り、床料を取、浄留理を語り、見物之内好ミ之品有之候 得ば、別段料物請取、其好ニ応じ候由、右は乞食非人同様之義ニ而、御 府内町人之身分ニ而、親共ハ不及申、当人共恥可申義ニ□、宮□又ハ人 集候場所へ小屋掛、葭簀張り補理相催候女浄留理之義ハ、乞食非人之類 ニ可有之候処、只今以町家之子供抔取交らせ候類も有之由、一向恥を不 存之所業ニ有之、中ニハ売女同様之働致し候も有之趣相聞候間、向後町 内ニ而定見世ハ勿論、仮令今日限と□メ候而も、女浄留理之義、一切致 間敷候、小屋掛葭簀張等致し相催候場所へも町家之女子共罷出候類有之 候ハヾ、町役人より相改メ早〃可申出候。
 右之趣相背候ハヾ、急度可為曲事候、其段不洩様可申渡候。
 右之趣、文化四丑年申渡置候所、程経候事ニ而心得違之者有之哉、近 ハ又〃右躰成所行之族も有之哉ニ相聞候、殊ニ花かるた・花合、又ハ歌 舞妓役者紋尽し抔と唱へ、めくり札ニ紛敷品種〃拵売捌候者有之由、不 埒之義ニ候条、以来右売買ハ竪ク為相止、定見世と唱、女浄留理等之義 も早〃相止させ候様可致、此上心得違之者有之、改方等閑ニ致し置候ハ ヾ町役人共迄も急度可及沙汰候。 (藤岡屋日記1:455)=( 【天保集成廿三】日本財政経済史料 3:1157)
 卯二月十八日
  但、女浄留理相催候定見世、早〃為相止メ并右躰之席江罷出候女 子共、是又取調、右之義は其当人ハ勿論、親共より請印取置候様可致 候、且又花かるた・花合・歌舞妓役者紋尽し抔ととなへ、めくり札 ニ紛敷品も同断之事。
右之通、町奉行榊原主計頭申渡之。(藤岡屋日記1:455)
 
天保2.10.町々へ寄席を設け座敷浄瑠璃人形遣を催し席料を徴収する等を禁ずる  天保二年辛卯十月 日
町觸
 近年町々素人家に而、寄場と唱、見物人を集め座料を取、座敷浄璃理又は人形等取交、渡世致し候者 數多有之候由、右體之儀は、古來より操芝居に限り候儀に候處、市中に而猥に相催し候段不埒之至 に候。軍書講談昔咄し等之儀は格別、以來人形遣ひを交候儀者勿論、たとひ淨璃理語而已にても相 雇、座料を取候儀は、曾而不相成事に候間、早々相止め可申候、若見逃し聞流し候はゞ、町役人迄 も可爲曲事候
右之通町々不洩様可觸知もの也 【天保集成廿三】(日本財政経済史料 3:1158)(東京市史稿 市街篇 37:475)
 
染太夫一代記 参照(第四の巻) 
天保10.11.22 〔附記、二〕寄場申禁
 近年町々素人家ニて、寄場と唱、見物人を集め、座料を取、座敷浄璃理又は人形等取交、渡世いたし 候もの數多有之候由。右體之義は、古來より操芝居ニ限り候義ニ候處、市中ニて猥ニ相催候段、不埒 之至り候。軍書講釋昔咄等之儀は格別、已來人形遣を交候儀は勿論、たとへ浄璃理語而已ニ候共、相 雇、座料を取候義は、曾て不相成事ニ候間、早々相止可申候。若見遁し聞流し候ハ候、町役人迄 も可爲曲事候。
 右之趣、去ル卯年[○天保二年。]十月觸置候處、近頃猥ニ相成、往來辻々又は湯屋髪結床等ニ、大道具大仕掛 け抔と申張紙差出し、或は看板等家前ニ懸置、操芝居ニ似寄候仕方之致家業候もの有之候旨相聞、 不埒之至り候。依之猶又此度相觸候間、早々差止、向後違失無之様、堅可相守候。若此上相背候 もの於有之は、其者共は不及申、町役人共迄も急度可申付候。此旨町中不洩様可觸知者也。
 亥[○天保十年。]十一月
 右之通從町御奉行所被仰渡候間、町中不洩様、入念早々可相觸候。
十一月廿二日[○天保十年] (東京市史稿 市街篇39:62
十一月廿二日町触、町々に近年寄場と唱へ見物人を集め、坐敷浄るり人形を催す事相止可申、軍書講談昔噺ハ格別云々とあり、(きゝのまにまに 未刊随筆百種6:137)
 
天保11.10同年十月下旬
江戸中、寄と唱し、女浄瑠理・同男浄瑠理、此度は急度不相成候趣被仰渡、尤江戸中、寄場之者共、厳敷印形差出し停止被仰出之。(藤岡屋日記2:148)
 
天保11.10.18 同十八日、御触、(町人素人家ニ而寄セと唱、見物人を集座料を取、女浄瑠理又は浄瑠理大夫・人形を取交渡世致候者も有之、右体之義ハ、操芝居ニ限り、市中ニ而は軍書講釈・昔咄等ハ格別、人形遣等差交候義は勿論、仮令浄瑠理御ニ而も相催座料を取候義ハ、不相成旨前々相触、既去亥十一月中猶又相触候処、其砌相守候様相聞候所、追々猥ニ相成、浄瑠理太夫・人形遣等取交、或は凌ひと名付、女浄瑠理差出し渡世致候趣相聞、町役人共不埒之至ニて、右体度々御触を背不等埒ニ候、取調可及沙汰処、右は風聞迄之義ニも可有之間、今般は先令宥免、吟味之不及沙汰候、向後女浄瑠理并人形遣等取交.渡世致候義は、決して不相成峡間、其旨厚相心得、前々相触置候趣相守、組合内并隣組迄ニ相互ニ右家業之者相改、早々店為引払可申候、若其儘ニ致候ハヽ、町役人迄も急度可申付候、(続泰平年表1:98))
 
天保12.11.6十一月六日
 諸向達御触
 於在〃、神事祭礼之節、或は作物虫送り・風祭り抔と名付、芝居・見世 物同様之事を催し、衣装道具等をも拵、見物を集、金銀を費し候義有之 由相聞、不埒之事ニ候、右様之義企、渡世致候者は勿論、其外ニも風義 悪敷旅商人或は河原者抔、決而村〃江立入せ申間敷候、遊興惰弱よから ぬ事を見習、自然と耕作等も怠候よりして、荒地も多く困窮之至、終ニ 其果ハ離散の基とも相成候事故、右之次第を能〃相弁へ候様可心掛候、 依之自今以後遊芸・哥舞妓・浄瑠璃・躍之類、惣而芝居同様に人集堅可 為制禁候、今度右之通相触候上ニも、若於不相止は、無用捨、急度咎可 申付候事。(藤岡屋日記2:225)
 
天保12.11 ○天保十二丑年十一月
三芝居江被仰渡候条
   堺町、専助店/狂言座 勘三郎/同、抱役者/座頭 彦三郎
   葺屋町、新六店/狂言座 羽左衛門/同抱役者/座頭、歌右衛門煩ニ付/代頭取 橘十郎
   木挽町、伊三郎店/狂言座 権之助/同、抱役者/座頭 訥升煩ニ付/代頭取 鯛助
 此度市中風俗改候様御趣意有之候処、近年役者共芝居近辺ニ住居致し、 町家之者同様立交り、殊ニ三芝居共狂言仕組甚猥ニ相成、右ニ付自然市 中江風俗押移り、近年別而野鄙ニ相成、又ハ流行之事抔多くハ芝居より起 候義ニ付、依而往古ハ兎も角も当時御城下市中ニ差置候而は御趣意ニも 相戻り候、一躰役者共義は身分之差別有之候処、いつとなく隔も無之様 ニ相成候ハ不取締之事ニ付、此節堺町・葺屋町両狂言座并操芝居、其外 右ニ携候町屋之分不残引払被仰付、乍併弐百年来居付之地相離候者、品 〃難義之筋も可有之ニ付、相応手当可被下、替地之義は取調、追而可及 沙汰、木挽町芝居之義は追而類焼又ハ普請大破ニ及候節、是又引払可申 付候間、兼而其旨可存、尤権之助狂言座之義は来春興行相始侯共、仕組 方役者共猥ニ素人ニ不立交候様、取締之議も厚く心得可申事。(藤岡屋日記2:228 )
 
天保12.11.26十一月廿六日
江戸中ニて女浄るり召捕、家主ハ手鎖、席主女子共入牢、其後家主ハ 預ケ、翌寅年三月落着。
席、江戸払・家財闕所也。
浄るり語、女子供咎メ手鎖。
三月十六日、右之者共三味線取上ゲ、御番所ニて打こわし焼捨ニ相成候。(藤岡屋日記2:231)
○ 十一月廿七日
遠山左衛門尉組之者江召捕ニ相成候娘浄瑠理名前、左之通り。
……
右追〃召捕ニ相成候。
都合四十二人 内三十六人女 内七人寄宿男 (藤岡屋日記2:229)
 
天保12.11.29○廿九日 大番格奥詰小南市郎兵衛養子鉉次郎めし出され槍技の事を命ぜられ。小十人格奥詰となり禄百苞を下さる。(慎徳院殿御實紀5:216 徳川実紀 續 第3篇

 
天保12.12.18 ○同日[十二月十八日]水野越前守殿より町奉行江御渡、御書付
  芝居取払一件
 此度都而御改革被仰出候ニ付而は、市中風俗之義迄も改候様ニとの御 趣意ニ有之候処、近来狂言役者共、芝居近辺ニ住居致し、町家之者共同 様立交り、殊に三芝居共狂言仕組甚猥ニ相成、右ニ付而は自然と市中江 も風俗押移り、近来別而野鄙ニ相成、又は時〃流行之事柄、多くは芝居 より起り候義ニ付、依之往古ハ兎も角も、当時ハ御城近き市中ニ差置候而 ハ御趣意にも相戻り候事ニ候、一体役者共之義ハ身分差別も有之候処、 いつとなく其隔も無之様ニ相成候ハ不取締之事ニ付、此節堺町・葺屋町 両芝居狂言座、并操芝居、其外右ニ携候町家之分、不残引払被仰出候、 乍然二百年来古着之地相離候ニ付而ハ品〃難義之筋も可有之哉ニ付、相 応之御手当ニ可被下、替地之義も浅草今戸聖天町近辺ニ而可成丈ケ一纏 ニ可相成場所取調、可被相伺候、尤木挽町芝居之儀も追而類焼致候哉、 普請大破ニ及候節、為引払候間、其心得を以替地取調可被申聞候、且又 芝居ニ携り候町家之義も入替致候積り、地坪并御手当金之義取調可被申 聞候、尤何れ之場所ニ而も取締不行届ニ而は、猶又市中風俗ニも移り候 義ニ付、引移候上は、狂言仕組并役者、素人ニ不立交様取締之義取調可 被申聞候。
  丑十二月
 右之通、町奉行遠山左衛門尉於御役所申渡置之。
    堺町、専助店/狂言座 勘三郎/同人抱役者、座頭/ 彦三郎
    葺屋町、新六店/狂言座 羽左衛門/同人抱役者、座頭/ 歌右衛門/煩ニ付、代頭取橘十郎
    木挽町五丁目、伊三郎店/狂言座 権之助/同人抱役者、座頭/ 訥升/煩ニ付、代頭取鯛助
 此度市中風俗改候様ニとの御趣意ニ有之候処、近来役者共、芝居近辺 ニ住居致、町家之者同様立交、殊ニ三芝居共狂言仕組甚猥ニ相成、右ニ 付而ハ自然と市中江風俗押移り、近来別而野鄙ニ相成、又ハ時〃流行之 事抔、多くハ芝居より事起候義ニ付、依之往古ハ兎も角も当時御城下市中 ニ差置候而は御趣意ニも相戻り候事ニ候、一体役者之義は身分差別も有 之候処、いつとなく其隔無之様ニ相成候は不取締之事ニ付、此節堺町・ 葺屋町両狂言座、并操座其外右ニ携り候町家之分は不残引払被仰出候、 乍然二百年来古着之地相離候ニ付而ハ、品〃難義之筋も可有之哉ニ付、 相当之御手当可被下候、替地之儀は取調、追而可及御沙汰候、木挽町芝 居之義も追而類焼致し候哉、普請大破ニ及候節ハ是又引払可申付候間、 兼而其旨可存候、尤権之助狂言座之来春興行相始候ハヾ、狂言仕組方、 役者共猥ニ素人江不立交様、取締之義厚可相心得候。
 但、寅ノ正月十一日ニ至。
    堺町、専助店/狂言座 勘三郎/申渡       外拾六人江
 今般堺町・葺屋町両狂言座、并操芝居其外右ニ携り候町家之分、不残 引払被仰出候、替地之儀は浅草聖天町・山之宿町西裏ニ在之候小出伊勢 守下屋敷、坪数壱万七十八坪之地所被下候間、右江引移可申候、尤先達 而申渡候通、為御手当金五千両被下候間、難有可奉存候。
  但、此時小出伊勢守江ハ銀三百枚被下之。
  寅二月朔日ニ至り、真田信濃守殿より町奉行江御渡、御書付
 最前堺町・葦屋町両芝居并操芝居引払候ニ付、為替地渋草山之宿町小 出伊勢守下屋敷壱万七十八坪被下候処、改出之分千四百廿二坪余有之候 ニ付、右之分も被下候間、芝居携り候者共一纏ニ致差置候様可致候、尤 右御普請奉行江可申談候。(藤岡屋日記2:238)
 
○去年十二月十八日、三芝居者共へ所替之義被仰渡、 浅草山宿に替地被下、町名を猿若町と云、小出之屋敷跡也、内ニハ山あり池あり、山ハ昔の一里塚、池ハ姥が池是なりと云り、池を埋みて小祠を立、土ハ三谷堀を掘て聖天町河岸へ舟ニて運送す、芝居役者共、此三町の外住居する事を禁じ、往来するにハ編笠を著せしむ、正月二日御手当金被下置、金五千五百両也、去年所替被仰付たる砌、人形町源氏茶漬の亭主とか、芝居古来之事を申立、御慈悲を以当処に被差置被下候様願出、不埒之事ニて手鎖にニて町内へ御預と成、落書、もとよりもきのないものを引こすハ力落たる猿若の町、焼出され御救小屋に這入から見れば人にはました猿若、木挽町芝居ハ当冬顔みせ興行中、命有て猿若町三丁目に引移るべき由ニて、翌卯年之秋普請出来て、芝居懸之者共不残移る、引越ハまだゆるやかなつもりにてまつかくいそく猿の尻舞、(きゝのまにまに 未刊随筆百種6:140)
 
天保13.2.12〔附記、二〕寄場十五所  市中寄場渡世いたし候者共、近來夥數軒數相増、殊ニ度々之申渡を背、女淨瑠理等相催候者有之候ニ付、 此度召捕令吟味候。就てハ右渡世相始候年號之次第を以、已來拾五ケ所限 其方共え寄場渡世差免候 間、神道講釋或は心學軍書講釋昔咄之四業之外餘業之者差出義は勿論、右場所へ茶汲其外女商人等都て 婦人を差出、且咄之内え鳴物を取交候義は、堅不相成候。若於相背は、聊無用捨召捕、寄せ場は 取拂、嚴重之咎可申付候間、其旨可存。
   市中取締掛り 名主共
 右拾五ケ所之外寄場渡世いたし候儀は不相成候間、其餘之寄場は、早々渡世爲相止其段可訴候。 右之通被仰渡、奉畏候。仍如件。
天保十三寅年二月十二日
三田實相寺門前 家主甚助/麹町龍眼寺門前傳兵衞店 吉兵衞/青物町善助店 藤兵衞/南本町元町喜兵衞店 五郎兵衞/ 本所相生町五丁目五郎兵衞店 正藏/兩國橋際役船小頭共出水之節人足湯呑小屋番人 忠七/ 右忠七差添人 庄三郎/ 湯島天~社地門前文藏店 七左衞門/ 深川永代寺門前町五人組持店 藤藏/ 江戸橋藏屋敷佐太郎店より後見 榮次郎/ 麹町五丁目元善國寺谷火除明地植木屋共拝借地地守 嘉兵衞/ 櫻木町家主 榮助/ 麹町平川町三丁目彌吉店 長兵衞/ 神田小柳町一丁目七郎右衞門店 此右衞門/ 二葉町伊兵衞店 幸次郎/ 下谷金杉上町五人組持店 與助/ 右五人組名主 一同 印/ 市中取締月番桜田和泉町名主 勘助/芝松元町同 清左衞門/ 麻布谷町同 太一郎/麻布善福寺門前 傳四郎
右之通、遠山左衞門尉様[○景元、]御白州ニ被御渡候。 −撰要永久録 (東京市史稿 市街篇39:669

天保十三年壬寅二月十二日
延享二丑年より 三田實相寺門前 家主勘助/寶暦頃より 麹町龍眼寺門前 傳兵衞店 吉兵衞/明和年中より 元四日市町江戸橋廣小路之内 青物町善助店 持主 藤兵衞/天明年中より 兩國橋東廣小路之内 南本町元町喜兵衞店 持主 五郎兵衞/天明度より 兩國橋西廣小路之内 本所相生町五丁目 五郎兵衞店 持主 正藏/寛政中より 兩國橋際役船小頭共出水之節、人足湯呑小屋 番人 忠七/寛政年中より 湯島天~社地門前 文藏店 七左衞門/寛政年中より 深川永代寺門前町 五人組持店 藤藏/寛政十午年より 江戸橋藏屋敷 佐太郎店より後見 榮次郎/享和元酉年より 麹町五丁目元善國寺谷火除明地植木屋共拝借地 嘉兵衞/文化元子年より 櫻木町 家主 榮助/同三寅年より 麹町平河町三丁目 彌吉店 長兵衞/同六巳年より 神田小柳町壱丁目 七郎右衞門店 此右衞門/同七午年より 二葉町 伊兵衞店 幸次郎/同斷   下谷金杉上町 五人組持店 與助
 市中寄場渡世致し候もの共、近來夥數軒數相増、殊に度々之申渡を背、女淨瑠理等相催候もの有之 候に付、此度召捕令吟味候、就而は右渡世相始候年號之次第を以、以來拾五ケ所にかぎり、其方共 へ右寄場渡世差免す間、神道講釋或は心學軍書講談昔噺之四業之外、餘業之もの差出儀は勿論、右 場所へ茶汲女其外女商人等、都て婦人を差出し、且噺し之内へ鳴物を取交候儀は堅不相成候、若相 背においては、聊無用捨召捕、寄場は取拂、嚴重之咎可申付候間、其旨可存
   市中取締掛名主共
 右拾五ケ所之外、寄場渡世いたし候儀は不相成候間、其餘之寄場は、早々渡世爲相止其段可訴 出候
 二月
 右於町奉行遠山左衞門尉御役宅申渡之 【壬寅雜綴】(日本財政経済史料 8:465
 
天保13.2.14〇一 二月十四日より寄場・講釈場御禁制なり、江戸中二百十三軒之内 十五軒御免ニ成、三十五年以前之寄ハ残し、三十四年以後ハ取潰ス也、 但し、女浄瑠理ハ不及申、鳴物音曲ハ不相成、軍書講談・昔噺し計、十 一日ニ江戸組〃取締懸名主御呼出ニ而、遠山左衛門尉様御番所ニて申渡 之。
 但し、三十五ケ年以前之寄場相残り候分、十五軒之者共名前、左之 通り。
 神道講釈、或ハ心学・軍書講談・昔噺し四業之外、余業之義ハ差出事 不成候。
三田実相寺門前、家主  甚助/麹町龍眼寺門前、伝兵衛店  吉兵衛/日本橋青物町、吉助店  藤兵衛/南本所元町、喜兵衛店  五郎兵衛/本所相生町五丁目、五郎兵衛店  庄蔵/両国橋際役舟小頭共出水之節人足湯呑小屋番人  忠七/湯嶋天神社地門、千蔵店  七右衛門/深川永代寺門前、五人組持店  藤蔵/麹町五丁目元善国寺谷火除明地、植木屋共拝借地〃守  嘉兵衛/江戸橋蔵屋敷、佐兵衛店より後見  栄蔵/音羽町・桜木町、家主  栄助/麹町平川町三丁目、弥吉店  長兵衛/神田小柳町一丁目、七右衛門店  此右衛門/芝口二葉町、伊兵衛店  幸治郎/下谷金杉上町、五人組持店  与助
 右は若キ女茶汲ニ出し候事、不相成候。(藤岡屋日記2:245)
 
天保13.2天保十三年壬寅二月 日
一. 近來淨瑠璃會、又は三絃會と號し、摺物を配り、無益の事に人を集、右祝儀と唱へ、金銀等受 用候族有之趣相聞、いかゞの事候、以來右體之儀決て無之様可致候、若心得違を以等閑にいた し候もの於有之は、町役人は勿論、組合のもの共迄、急度可申付候 【公程御觸記十二】 (日本財政経済史料 8:467
 
天保13.3.15天保十三年寅三月十五日
〔附記、三〕女師匠 市中取締掛り 名主共
一、 町中女、武士町人え唄淨瑠理三味線抔教、其中ニは猥ケ間敷風聞有之、如何敷儀ニ候。男ハ男ニ おしへ候者も可有之候間、別て刀を帶候筋へは、女師匠之者、決て弟子ニ取申間敷候。…… (東京市史稿 市街篇39:683
 
天保13.4.16大阪寺社境内での歌舞伎、見世物など禁止(近3上465)
達二〇二四 同 日 衣類・髪之飾・小間物・舞浚・淨るり會・見世物・芝居・公事人下宿・開帳・葬式等之儀ニ付、町人男女夫〃心得方之事、
  口達
 近年世上奢侈ニ押移候ニ付、質素倹約之儀、享保寛政之度ニ復候様、去丑七月相觸置[○觸五四三六を見よ 其後御制禁之品〃當寅年より停止之儀、江戸表より被御下候趣、同年十一月相觸置[○觸五四四八を見よ]候付、 追〃質素倹約ニ復候趣ニ候得共、未奢侈不相改、衣類を始分限不相應之品致取扱候ものも有之 由、不埒之事ニ候、右躰相觸候上ハ、當寅年より急度可相改ハ勿論之義ニ付、右停止之品〃、以 來賣買致間敷候、町人共儀、家持借屋人共外渡世向之身分高下を量、分限を弁、他見を不厭、専 質素倹約を相守可申候、着用衣類等ハ、譬金入ニ無之共、縫物・并西錦織物・高直之唐物之類ハ勿 論、其余花美目立候絹布之類、軽キ者共ハ娘子供迄も、絹縮緬類ハ、譬襟掛ケ・裾除・前垂等之小きれニ而も、用ひ申間敷候、尤右着用之もの其外共、銘〃分限より成丈内輪ニいたし、倹約専 可相守候[○補達六三二を見よ]
(中略)
一 舞さらへ淨瑠理等、師家之者宅ニ而、稽古同様子共を集、興行いたし候義ハ格別、料理屋茶 屋等借り請、座敷料等取相催候儀和魂[○二二一〇及補達六八六を見よ]
一 町家ニおゐて小見せ物同様、淨瑠理又は軍書講釈噺し等之類、奉行所江無斷、座料を取、人集 致候儀、
一 寺社境内其外ニ而、小見せ者等男女人交催候儀、或ハ曲馬と唱女馬乗等いたし、哥舞妓狂言同 様之催いたし候儀、
(以下略) (大阪市史4下:1517
 
天保13.4.28○同十三年四月廿八日
 町名之義、堺町ハ猿屋町壱丁目、葺屋町ハ二丁目、木挽町ハ追而引移 之上、三丁目と相唱可申旨、両町月行事へ被申渡之。
 但、此時狂言役者共他行之節は編笠冠り、素人と不粉糠可致旨申渡 之。(藤岡屋日記2:239)
 
天保13.5.12 太夫三味線・人形 家屋敷の所有など禁止。(近3上466)
觸五四七九 同 日 武家之家来之由申偽、芝居小見世物等無銭ニ而見物致間敷事、歌舞妓役 者・浄瑠理かたり・三味線引・其外鳴物渡世・又ハ人形遣之類、町在田畑家屋鋪致所 持候儀差止、并吉凶平日共羽織ハ格別、上下袴抔着用致間敷事、
 右之通前〃より度〃相觸有之處相弛、近頃武家方家來之由申偽[○中略]全銘〃身爲ニも有 之間、其旨相心得、木戸番之者江ハ興行主より得と申聞、觸書之趣無違失可相守旨、文政四巳年 も相觸、其後も同様之義町〃江申渡置[○觸四九七四を見よ。]候得共、近來又〃相弛、兎角ニ無錢見 物人等之儀ニ付、及混雜候義、間〃有之由相聞候得共、其所より訴出候事も無之、兼而之申渡を 不相用筋ニ當、不埒之至ニ付、此度御城内向・町奉行所・其外地役人中間小者ニ至迄、猶又堅相示 置候、於町〃も先前觸渡之趣無違失相守、尋常之取斗可致候、自然此後も等閑ニ相心得候様子 相聞おゐてハ、急度可及沙汰候[○觸五五〇四及達二六二〇を見よ]
 一 大坂哥舞妓役者共慎方等之儀、元禄年中以來追〃申渡置[○觸三八一・三八二等を見よ、]候趣有之處、何となく相弛、 見物人之贔負ニ預り候儀ニ乘し、身分をも不弁、町在之ものへ對、不遠慮之振舞およひ、且芝 居外之義ハ素人同様ニいたし、少ニ而も花美之風躰ニ而往來致間敷旨、兼而申渡[○達一一八六を見よ、]有之 趣をも不相用、平日美服を着餝、往來致し、或ハ町在ニ田畑家屋敷等買持、身分不相應之歡樂 を極候付、町方年若之輩抔ハ其儀を羨ミ、態〃彼等ニ懇意を結ひ、倶〃奢侈及超過候族も不少 由相聞、以之外之事ニ候、元來右役者共河原ものと申本意を忘、正業之町人共等ニ相混候より、 右躰惰弱之風俗ニ押移候儀ニ付、此後右投者共は勿論、芝居掛り之淨瑠理かたり・三味線・其外 鳴物渡世又ハ人形遣ひ之類、町在ニおゐて田畑家屋敷等所持いたし候儀差止、芝居外ニ而ハ吉 凶平日共羽織ハ格別、上下袴抔着用いたし候儀不相成候間、其旨を存、銘〃身分を顧、彌〔此上〕 可相慎候[達二〇五一を見よ] 
右之通三郷町中可觸知もの也、
寅五月 /石見/遠江(大阪市史4下:1534

天保13.5.21江戸寺社境内寄場浄瑠璃禁止(近3上466)
市中寄場渡世致し候者、近來夥數軒數相増[○下略。撰要永久録ニ略同ジ。]
是迄江戸中寄場所々ニ五百軒餘も有之候所、以來十五軒限りニ相成、右書名前之人計是迄之寄せ渡 世被仰付、嚴敷事ニ御座候。
一、寺社境内貸家ニおいて、寄場と唱、女浄瑠理又ハ浄瑠理太夫人形を取交、其餘種々之藝人共相雇 差出候由。此度厚被仰出候御趣意も有之候ニ付、以来寄場之箇所淺草寺境内え三ケ処、其外芝神 明、三田神宮寺、市ケ谷八幡、牛込赤城明神、増上寺外境内、幸橋稲荷、飯田町世継稲荷、夫々境内 え一ケ所つゝ、都合九ケ所ニ限、其餘ハ不殘差止ニ相成候間、右御差免有之候寄場ニおいて、神 道講釋或ハ心學軍學講談昔噺は格別、右四業之外餘業之もの差出候儀は勿論、右場所へ茶汲女又は女 商人都て婦人を差出、且噺之中へ鳴物等取交候儀は、堅いたす間敷段、被仰渡候。
一、同境内ニおゐて、香具見世と唱、賣藥弘之ため、操又は子供仕方物眞似等之儀、前々より相催候 分、中ニは先年之願済とハ引違、歌舞妓ニ紛敷取計ニおよび候趣入御聽、如何之事ニ候。是又御差止 被成候間、有來の場所は、早々取拂、當時中絶疊置分も、向後再興いたす間敷候段被仰渡候。
一、同境内楊弓場え、(この項下略)
右被仰渡之趣、一同奉承知候。若相背候ハゝ、嚴重之御沙汰有之間、兼て其旨相心得、遺失無 之様、夫々渡世之もの共へ、不洩様可申渡段被仰渡、是又奉承知候。依て御受書差上申所如件。
天保十三寅年五月廿一日            金剛院
 −天保雜記 (東京市史稿 市街篇39:671

同廿一日、町触、(寺社境内貸家ニおひて寄場と唱、女浄瑠理又ハ浄窮理太夫人形を取交、其外種々之芸人共相雇、見物之人を集、座料を取、相催之者有之候処、今般厚被仰出候御趣意も有之候ニ付、以来寄場之ケ所、浅草観音境内三ケ所、其外芝神明・三田神宮寺・市ケ谷八幡・牛込赤城明神・増上寺外境内幸稲荷・飯田町世継稲荷、夫々境内ニ一ケ所ツヽ、都合九ケ所限、其余は不残差止候間、寄場ニおゐて軍書講談、或は心学・軍書講釈・昔咄等ハ格別.右四業之外、余業之者共差出候義は勿論、茶汲女又は女商人、都而婦人を差出、鳴物等取交候義は堅致間敷候、)(続泰平年表1:145)
○同廿一日町触
寺社境内於貸家ニ寄場と唱、女浄瑠理又ハ浄瑠理太夫人形を取交、其 外種〃之芸人共相雇、見物之人を集、座料を取、相催候者有之候処、今 般厚被仰出候御趣意も有之候ニ付、以来寄場之ケ処、浅草観音境内一ケ 処、其外芝神明・三田神宮寺・市ケ谷八幡・牛込赤城明神・増上寺外境 内幸稲荷・飯田町世継稲荷、夫〃境内江一ケ処ヅヽ都合九ケ所限、其余 ハ不残差上候間、右差免候於寄場ニ神道講釈或ハ心学・軍談講釈・昔咄 等ハ格別、右四業之外余業之者共差出候義ハ勿論、右場処江茶汲女又ハ 商人、都而婦人を差出、鳴物等取交候義ハ堅致間敷候。
一 右於境内香具見世と唱、売薬為弘又ハ子供仕方物真似之義、前〃 より相催候分、中ニも先年之願済とは引違、哥舞妓ニ紛敷及取計候趣相聞、 如何之事ニ付、是又差止侯間、有来之場処は早〃取払、当時中絶差置候 分も向後再輿致間敷侯。
一 右境内土弓場江形容取餝り候婦人を差出、自然不取締之義有之哉 ニ候、以来右場所江婦人差出候義不相成候。 (藤岡屋日記2:269)
 
天保13.6.27觸五四九四   六月廿七日 金銀貸付并口入、其外流弊弐拾五箇條取締之事、 大坂表之儀、専金銀融通いたし、繁昌之塲所ニ付、自ラ遊民多、無商賣ニ而其日を送り候もの 不少趣相聞候、元來人之天性之職分相務候故、四民之唱も有之處、無商賣罷在候段、全其身を 怠、奢侈之基ニ而、風俗之ため不宜候、以來右躰之者ハ親類所之者等より申諭、何成とも身分相 應之商賣爲相營可申候、
(中略)
一 女ニ而男江唄・淨瑠理・三味線抔教江、其中ニハ猥ケ間敷風聞も有之、如何敷義ニ候、男ハ男に而 教候もの可有之、女師匠江男之稽古ハ無用ニ可致候、且又師匠よりハ金子さへ出候得ハ、藝之善 惡、幼年之無差別、藝名差出候ニ付、追年名取之もの多、尤名弘等差留候筋ニハ無之候得共、摺 物又ハ口上書江品物を添、相配候ものも有之哉ニ相聞、右ハ花會ニ紛敷仕方、不埒之至ニ候、以 來前書之趣堅致間敷候、尤座頭瞽女ハ、男女共弟子ニ取候儀不苦候[○補達六八六を見よ、] (大阪市史4下:1554
 
天保13.7.4  同年七月四日、於北御番所被仰渡、
三芝居 歌舞妓
 役者共
 三芝居狂言座取締方の義、寛政六寅年規定證文差出し、 文政十亥年以来度々申渡置候処、近来風儀悪敷、給金の 外、加役、よなひ抔と唱へ、増金を望み、断受候得ば、 病気と申立、興行差支へさせ候に付、無拠給金等相渡候 故、追々増長いたし、立者、座頭と唱候者一人に付、千 五百両程受取候者も有之、右に付、身分をも不顧不相 応の奢に長じ候趣相聞、不埒の至に候、向後他所住居は 不相成候間、一同猿若町え引移、途中往来いたし候節 は、暑寒とも編笠相用ひ、惣て素人え立交候義は難相 成候、且給金の義は、座頭の者一ケ年五百両を限り、其 余の役者共は、右に准じ、夫々割合を相立、惣て町役人 申付、座元よりの申談を違背致間敷候、尤京、大坂等も 同様申渡有之筈、其外三都の外、遠国城下、在町等え 罷越、狂言致し候義は不相成候、其段国々えも御触有 之候間、其旨を存、湯治、神仏参詣抔と号し、猥りに 他国え参り候義は致間敷候、若此上聊にても申渡の趣相 背候はゞ、厳重の咎可申付間、心得違致間敷候、
   狂言座
   座元共
 三芝居狂言座取締方の義、寛政六寅年規定證文差出し、 文政十亥年以来度々申渡置候処、追々相弛み、歌舞妓役 者共え、給金の外、加役、よなひ抔と唱へ、増金等相渡、 右芝居上り高より給金高多、興行差支に相成候趣相聞、 畢竟役者共身分不相応の奢に長じ、右体過分の給金受取 候段、不埒に候得共、座元共義も、右古来よりの規定を 崩し、互に給金せり上候段、是又不束の事に候、向後、 立者、座頭と唱候者、一ケ年給金五百両に取極、其余の 者共は、右に准じ、割合相渡、以後給金、増金等致間敷 候、尤役者共義、過不足無之、三座え割合、一ケ年限 り代り/\相抱、一ケ所え居付不申様いたし、せり合 抱入候義は不相成候、且近来大入の節は、桟敷、鋪物 代等引上候由相聞、右は不繁昌を招候義にて、向後桟敷、 鋪物代とも、古来の直段より一切引上不申様、狂言仕 組等、猥成義無之様可致候、 但、役者共え取締方申渡候上は、給金渡し方遅滞無 之様いたし遣し、惣て座元の権威を以、押付候取計致間敷候、
操座元
浄瑠理語
人形遣
操座の儀、近来浄瑠理語、人形遣等、花美の衣類、上下等著用いたし、早代り抔と唱へ、人形遣の働を見せ、追追給金せり上げ、又は道具、仕掛等、諸入用相掛り候故、不引合にて休座勝に相成候趣相聞、右は一己の利徳名聞に拘り、渡世の衰微をも不顧、心得違の至に候、惣て狂言座取締申渡候趣に准じ、浄瑠理語、人形遣ひ給金等、相当に引下げ、両座え代々罷出候様いたし、出語、出遣ひ、通例の上下は格別、花美の衣裳等は向後可相止尤座元の者共も、給金波方遅滞無之様致し可遣、但、人形遣ひは猿若町え可引移、(天保新政録 未刊随筆百種12:58)
 
天保13.7.13一 猿若町一丁目操人形大薩摩坐、第一番ニ普請出来也。 市村坐も建也、七月十六日ニ看板上ル也。(藤岡屋日記2:283)
 
天保13.7.17觸五五〇二 七月一八日 國〃城下社地ニおいて、江戸・京・大坂より旅稼ニ出候歌舞妓役者共を抱、芝居狂言等相催間敷事[○觸三六九及達二〇五一を見よ、](大阪市史4下1565
 
天保13.7.25三都以外の芝居興行禁止、花美の衣類にて出語り出遣い禁止その他芝居に対する取締令発布。(近3上467)
達二〇五一 七月[廿五日]道頓堀其外諸芝居、歌舞妓役者操芝居・浄瑠理語・人形遣ひ・名代・座元・芝居主・櫓主・茶屋共等、取締箇條之事、 芝居抅りへ之達書写
   道頓堀其外諸芝居
   歌舞妓役者共
 道頓堀其外諸芝居歌舞妓役者取締方之儀、元禄年中以來、追〃申渡置候處、近來相弛、別而風 儀惡敷、一般ニ高給を貪、右ニ付身分をも不顧、不相應之奢長し候趣相聞、不埒之至ニ付取締 方等之儀、當五月嚴重申渡置[○觸五四七九を見よ、]候、然ル處銘〃給金之外、加役余内抔と唱、其外品〃名 目を附、増金を望、斷請候得者、病氣等申立、興行差支さセ候ニ付、無據増金等相渡候故、追 〃増長いたし、立もの座頭抔と唱候もの、壱人ニ付年分格別之高金請取候ものも有之、畢竟右 等之塲合より、奢侈及超過候之儀は相聞候間、已來一統彌身分相慎、途中致往來候節編笠相用、 總而素人江立交候之儀者不相成候、且給金之儀は、立もの座頭と唱候もの、壱ケ年五百兩を限 り、其餘之者共ハ右ニ准し、夫〃割合相立、都而町役人申附ハ勿論、芝居興行元或座本等より之 申談を違背致間敷候、尤江戸京も同様申渡有之筈ニて、三都之外遠國城下町在等へ罷越、狂言 いたし候儀ニ付而は、兼而申渡[○觸五五〇二を見よ、]有之通、彌以不相成、其段國〃江も御觸有之候間、其 旨を存、湯治~佛參詣抔と号シ、猥りニ他國へ參り候儀ハ致間敷候、其外取締方之義ハ、當五 月相觸候通堅相守可申候、若此上聊ニ而も申渡之趣相背候ハゝ、嚴重之咎可申附候間、心得違 無之様可致候、但、一同住所之儀、古來より道頓堀に限有之候ニ付、巳來も唯今迄之通相心得、 市中所〃ニ立別住居致間鋪候[觸五六〇二を見よ]
   操芝居
   浄瑠理語
   人形遣ひ
 大坂操座之儀、狂言座興行相休候芝居ニおゐてハ、其節限操座座元名前差出、興行致来、兼而操座と相極候芝居無之上は、規定之儀も狂言座へ准可申筋ニて、既浄瑠理語人形遣ひ等之類、取締方等之儀、當五月厳重申渡置候、然ル處近來花美之衣類、上下等着用いたし、早代り抔と唱、人形遣ひ之働を見せ、追々給金せり上ケ、又は道具仕懸ケ等ニ諸入用多相掛候故、不引合ニて操座興行間遠ニ相成候様ニ相聞候、右者一己之利徳名聞ニ抅り、渡世之衰微を不顧段、心得違之至ニ付、總而狂言座取締方申渡候趣ニ准シ、浄瑠理語人形遣ひ給金等相當ニ引下ケ、狂言座と塲處糴合不申様いたし、先繰ニ休座之芝居江代り/\罷出、興行いたし、出語出遣ひハ、通例之上下着用いたし候儀は格別、花美之衣類等向後可相止候、
 但、人形遣ハ歌舞妓役者同様、道頓堀ニ限可致住居候[觸五六〇二を見よ]
  道頓堀其外諸芝居 / 名代/ 座元/ 芝居主/ 櫓主  (中略) (大阪市史4下:1576

右の法令[觸五四七九]を訂し、太夫家屋敷所有を認められる。『系』竹 本筆太夫の条は次のごとく記す。(近世3上466)
爰に天保十三年壬寅天下一統御改格仰出され社寺芝居小家の義取払ひ相成候其節の御触には諸芸人浄瑠璃はやし方の類町方にて家持又は田地田畑等買求候義不相成との御布告是有其頃筆太夫は勢州古市へ興行に参留守中成しが帰坂有て承り早速我住居町年寄へ罷越右家持御差止の義如何成事に候哉我々浄瑠璃語の義は昔より受領頂戴或は家屋敷田畑等求是有候事故是は下々にて取方の相違も是有んかも知れず依て今一応御窺ひ下され度と段々頼みし処無拠其時の町年寄綿屋平三郎殿右の趣を惣年寄へ御尋申上候処仰には昔より浄瑠璃語渡世の者は一身二名にて町人同様の事と仰にて此由直様仲間中申達する也同七月二十五日浄瑠璃太夫人形遣ひ歌舞妓役者芝居仕打残らず御召出しにて西御奉行阿部遠江守御前にて御申渡しには歌舞妓役者の者道頓堀八丁町の内住居に限人形遣ひ同様の事浄瑠璃語りの義は是迄通り家屋敷田地田畑等買求候共差構ひ是なき由申渡に付難有存直様往古より仲間家持の衆聞調自筆にて書置かれしを爰に写し出す(増補浄瑠璃大系図428)
 
染太夫一代記 社地人形芝居御差留め興行場所三都芝居に極まる事(天保十三年七月十五日
 
天保13.7.26○ 同廿六日 異国船之義御書付(藤岡屋日記2:284)
 
天保13.8○ 猿若町普請追々出来、人形芝居結城座ハ八月より、羽左衛門ハ九月廿四日頃、勘三郎ハ九月六日頃より興行之由、(きゝのまにまに 未刊随筆百種6:146 )
 
天保13.8.27觸五五一六 八月廿七日 家持之町人・借家人・同居人・下人・下女・御用掛・諸家用達立入之者・寺社 家・醫師・儒者・山伏・座頭・瞽目・能役者・食盛女・歌舞妓役者・人形遣い等、分限相應之衣類 ケ條書之事
(中略)
一 歌舞妓役者人形遣ひ等ハ、兼而取締申渡置[達二〇五一を見よ、]候通可相心得事、(大阪市史4下:1599
 
天保13.11.28達二〇七三 十一月十八日 夜見世ニて刃物類之賣買、男女入交之物貰、毛綿屋其手を盡し候毛綿類を、見世先へ飾置候儀、并高價なる凧、博奕ニ似寄之遊事、明地面又ハ請 負地等ニ而、小見世物と唱、四業之外餘業差出候儀、致間敷事、
 十一月廿八日、宗旨組頭町〃年寄被召寄、惣御年寄より被御渡候演舌書左之通、 近来町〃道端等江夜見せ差出、小商ひ致來候場所ハ、是迄之通相心得、別而火之元入念可申旨、 當九月口達觸[○達二〇六一を見よ]差出置候、然ル處惡黨共、右夜見世ニ刃物類差出有之を見當候より、猶又 惡念を生、右を買取、強盗相働候族も有之、市中取締ニ抅候付、以來夜見せニ拵付刀・脇差・懐劒 等ハ勿論、たとへ身斗ニ候共、都而右様之刃物類差出、賣買致間敷候、 (中略)
一 近頃町家明地面又ハ所〃受負地等ニ而、小見せ物と唱、葭簀張小屋取補理、種〃之藝人共を相 雇、歌舞妓ニ紛敷及取斗、見物人を集、座料を取候者も有之趣相聞、市中取締ニ抅候間、以來 右躰之場所ニおゐてハ、神道講釋或は心學・軍書講談・昔噺之四業之外、余業差出候儀は勿論、右 場所江茶汲女共外女商人、都而婦人を差出シ、且噺之内江鳴物を取交候儀等堅不相成候、尤右 四業相催候共、先達而相觸候通、其度毎奉行所江可斷出候、若相背候もの有之候ハゝ、聊無用 捨召捕、嚴重可申付候[○達二〇八六二一三五二一五〇・及補達六六三を見よ]
右之通三郷町中并所〃請負地之者共江も、其方共より可申通候、
 寅十一月(大阪市史4下:1625
 
天保13.12.28達二〇八六 同 日 難波新地續野側并西横堀流末新築地、右弐ケ所ニ限、四業之外、類業相催候儀差免候事、
 町家明地面并所〃請負地等ニ而、神道講釋又ハ心學・軍書講釋・昔噺之四業之外、餘業差出候儀不 相成、其外取締向之義、去月中申渡置[○達二〇七三を見よ]候處、右場所之内、難波新地續野側并西横堀流 末新築地之義ハ、地味惡敷、作物生立不宜、或ハ家建等自力及兼、追〃小見世もの小屋等ニ地 所貸渡、助成ニ致し來候趣等聞候間、以來右弐ケ所ニ限り、前書四業之外、類業相催候儀不苦 候、尤右ニ事寄、歌舞妓ニ紛敷致所作候儀ハ勿論、婦人等差出候儀、堅不相成候間、諸事最前 申渡候趣相守、其度毎奉行所江可斷出候、若相背候もの有之候ハゝ、聊無用捨召捕、嚴重ニ可 申付候
右之通三郷町中并所〃請負地之者共江も可申通候[○達二一三五を見よ]
寅十二月○南組惣年寄の副書日付は廿八日なり(大阪市史4下:1644
 
天保14.閏9.23同廿三日
御納戸頭御勘定吟味役兼帯 羽倉外記
高二百三十俵、下谷和泉橋通藤堂西門前角
其方儀、御役筋之儀ニ付、如何之儀相聞、不埒之至ニ候、依之御役被
召放、御切米之内四十俵被召上ゲ、小普請入、逼塞被仰付候。(藤岡屋日記2:378)
 
天保14.10.4觸五五九八 同 日 道頓堀立慶町外三町旅籠屋之分は、芝居茶屋一向ニ商賣替可致、其余三 ヶ所一同旅籠屋之名目相止、泊茶屋と唱替、抱女も食焼女と可相唱候事(本文略)(大阪市史4下:1711
 
天保14.10.25○ 十月廿五日 申渡之覚
     御広敷御用人格 奥儒者 成島図書頭 /名代北角十郎兵衛
其方儀、思召有之候ニ付、奥儒者彼召放、隠居被仰付、慎可罷在候。
     図書頭養子 西丸奥儒者 成島恒之助 /名代 小南源治郎
其方儀、思召有之候ニ付、西丸奥儒者被成御免候。
     同人
養父図書頭義、思召有之候ニ付、奥儒者被召放、隠居被仰付、慎可罷在旨被仰付候間、家督之儀は無相違其方江被下之。
右於本庄安芸守宅、若年寄出座、同人申渡之、御目付久須美六郎左衛門・遠山半左衛門相越ス。
但、恒之助江申渡候節は西丸若年寄中侍座。(藤岡屋日記2:400) 。
 
天保14.11.2觸五六〇二 同 日 歌舞妓役者人形遣ひ等之住所、以來元伏見坂町難波新地壱丁目ニ限り可申、且又能無臺之儀ハ壱ケ所ニ限り、勸進相撲興行之儀ハ壱ケ年壱度ニ限り可申事、
 大坂歌舞妓役者共住之儀、前〃より道頓堀ニ限有之、既ニ去寅七月諸芝居取締相立候節も、彌 古來之通相守、外場所住居不相成旨等、申渡有之[○達二〇五一を見よ]候へ共、場廣之儀、其上道頓堀之儀 ハ芝居稼重モ之場所ニ付、此度相改、立慶町・吉左衛門町・并右裏手元伏見坂町・難波新地壱丁目 旅籠屋之分、芝居茶屋一ト向ニ商賣替致し候儀ハ格別、賣女屋同然之渡世差止申渡[○觸五五九八を見よ]候ニ付而は、立慶町吉左衛門町ニハ、當時芝居五ケ所有之候付、賣女屋差止申付候而も、地所取 續可相成候得共、元伏見坂町難波新地壱丁目之儀ハ極場末ニ而、何れ之通筋と申ニも無之、迚 も尋常之商賣難相成場所ニ相聞候上ハ、旁以來元伏見坂町難波新地壱丁目ニ限り、役者共人形 遣ひ等之住所ニ相定、一纏ニ差置候間、一統其旨を存、此後明家等出來次第、右兩町并道頓堀 町〃所役人共、厚世話いたし、追〃爲引移、其段方角之惣年寄共江可相届候、
 但、右元伏見坂町難波新地壱丁目元旅籠屋之分、此度申渡候通、芝居茶屋ニ商賣替いたし候 義ハ、勝手次第ニ候得共、追〃右兩町江引移來候役者共并人形遣ひ等、芝居茶屋相兼候儀は 堅不相成候、
(以下略)
右之趣三郷町中不洩様可觸知者也[○觸六一四二を見よ] (大阪市史4下:1714
 
天保14.11.17○ 十一月十七日
市中取締掛り
名主共
 俗盲人共之内、浄璃理三味線弾渡世徴候者、於宅浚相催、糸代之名 目ニ而座料を受用致度趣、今般惣録方より伺出、右は寄場ニ紛敷義無之 様、取締方之義、夫〃及差図ニ候ニ付、其方共義も心付方伺出候趣、 可相糺候処、惣録方ニ而取締致候は勿論ニ候得共、素より町方住居候者 共之義故、都而今般惣録江及差図候通り相心得、全ク通例ニ而稽古浚 ニ而、弟子同業之者等集、浚之義、心次第を以挨拶候義は格別、糸代 と名目ニ而座料を取、無縁之者迄為立入、大行之浚相催候義は不宣間、 寄場ニ紛敷義無之様、町役人共も無油断心付、若相背候者於有之ハ、 急度可及沙汰ニ間、其旨此者共より組〃不洩様可申通候。
 右之通被仰渡、奉畏候、為後日御請書奉差上候、仍如件。
 十一月十七日
    堀江町名主  熊井理左衛門/新材木町名主  石塚三九郎/長谷川町名主  鈴木市郎右衛門
○同廿一日
 俗盲人惣代八人之者より操座休之節、弟子并同業之者へ三味線為聞、少 〃之糸代申請候様仕度旨、惣録方より奉伺候ニ付、座法ニ振候義無之候ハ ヾ可然、尤糸代等申受、寄場ニ紛敷義致間敷旨被仰渡候ニ付、市中之義 も右之趣一統心付可申旨被仰渡候処、右惣録より奉伺候義は、不被及御沙 汰ニ旨、改被仰渡候ニ付、町〃之義も俗盲人共浚と唱、紛敷義不催様心 付可申、町〃一統可申通旨被仰渡、奉畏候、依之御請書奉差上候、以 上。
 十一月廿一日
堀江町名主  熊井理左衛門/新材木町名主  石塚三九郎/長谷川町名主  鈴木市郎右衛門 (藤岡屋日記2:404)
 
天保15.3.28天保十五年三月二十八日長崎のオランダ商館長ピーテル・アルベルト・ビクが、江戸参府の帰途、大坂西町奉行所を訪問した。…
 奉行の謁見と食事は、大書院の間で行なわれたが、隣接した弓の間に特別見物席ともいうべきものが、設けられた。奉行所のお白州には、与力の行なう吟味を奉行が観察できるように「町奉行透見の間」というものがあった。これを応用して「外人接待透見の間」を設けたのである。…こうして設営された特別見物席に、正一郎[久須美 後 杉浦梅潭]は胸をときめかせて坐っていた。彼にとって外人に接するのは、生涯初めてである。見物を許されて席にいたのは、杉浦の父祐義と坂本絃之助(砲術家、大塩平八郎の乱を鎮圧して功をあげた)、竹垣龍太郎らであった。(田口英爾『最後の函館奉行』p61)
一在宿調物○今朝四時頃阿蘭陀かひたん[ぴいとるあるへるとびつき歳四十六[Pieter Albert Bik]]・役人[かるれゆあすてきすとる歳二十八]・大通詞中山作三郎・小通詞植村作七郎。同末席植村作五郎・[宿銅座役人]為川住之助同道ニテ来ル。・・・・○弓ノ間ト地役ノ間境ひ、平日ハ障子ニ候をみす障子ニ建替、後ロへ屏風を建、地役ノ間雨戸をも〆くらくいたし、且弓ノ間末之方も平日襖ニ候をみす障子ニ建替、地役ノ間へ奥向弓ノ間・末胴ノ間へ家中之妻子差置、透見為致候仕来之由ニ付、今日も同様ニ取斗、地役ノ間ニおゐて順三郎・正一郎始内々見物相願候分、坂本鉄之助・竹垣竜太郎・兵三郎忰比留間熊之助・同国之助・同鎌助・庄太夫忰池田亀太郎并飛弾地役人沢田孫之丞・住裕二等ニ透見為致候事
 
西町奉行所弓ノ間(大坂西町奉行久須美祐明日記264)
弘化1.5.7補達六八六 同 日 浚講又は男女入交之稽古致間敷事、
さらへ講と唱、他江持出し、又は男女入交り、平生とも稽古いたし候も有之由、右様之儀有之 候而、如何之事ニ付、御觸通不致忘却、兼而指南いたしたし候もの等江諭置可申事○觸五四九四・達二〇二四・及二二一〇を見よ 辰五月七日 (大阪市史4下:1728
 
弘化1.6.1達二一三五 同 日 町〃明地面・請負地・亦は町家ニおいて、素人共俄狂言ニ紛敷催致間敷事、并四業取締之事、
〔口達〕
 近頃町〃明地面并ニ所〃請負地、又は町家おゐても、素人共打寄、昔噺等ニ事寄、ニハカ狂言 ニ紛敷催いたし、噺之内ニ鳴もの抔取交、見物人を集、茶代其外品〃名目を附、徳用取候もの も有之哉ニ粗相聞、以之外之事ニ候、昔噺・或神道講釋・心學道話・軍書講釋、右四業差出候儀は、 前書明地面請負地等ニ限有之、猥ニ町家おゐて、右様之催いたし候儀不相成は勿論、當地ニハ カ狂言之儀ハ、哥舞妓ニ准候品ニ付ニハカ師ども身分取締方之儀ニ付而は、先達而巳來追〃 相觸[○達二〇七四を見よ]候趣も有之上ハ、其段無違失相守、町家おゐて猥成催いたし、コ用取候儀不相成候、且右明地面受負地等之儀ハ、兼而申渡置[○達二〇七三を見よ]候通、四業之外餘業差出候儀ハ勿論、右 場所江婦人を差出、噺之内江鳴ものを取交候儀抔、是又堅木相成候、尤四業相催候共、先前振 合之通、度毎奉行所江可斷出候、若相背候者有之趣相聞候ハ候、早速召捕嚴格可申付候、
一 難波新地續野側并西横堀川流末新築地之儀、地所惡敷、作もの生立不宜、或建家等自力及兼候 付、追〃小見世物小屋等ニ地所貸渡、助成に致來候譯を以、右二ケ所ニ限り、四業之外類業相 催候儀、勝手次第之旨、先達而申渡置[○達二〇八六を見よ]候得とも、右二ヶ所おゐて前書四業相催候節、 取締方之儀ハ外同様ニ相心得可申候、若相背候者有之候ハ候、是又急度可申付候、
右之通三郷町中并ニ所〃請負地之者江、不洩様可申通事[○達二一五〇及二三〇〇を見よ]
  辰五月[○前の二令と共に、町中家持の承知判形日付は六月朔日なり、] (大阪市史4下:1729
 
弘化1.12.24〔附記一〕寄場
一、 年番 名主共 市中取締懸 名主共
市中寄場渡世之者共、度々之申渡を相背、女淨瑠理等相催候もの有之ニ付、十五ヶ所ニ限り、其餘 は不殘取拂申付候處、軒數之定メ有之故、株式同様ニ相成、辻又は明地等ニて、軍書講釋昔噺等相 催、人集いたし候者も不絶有之哉ニ相聞、却而不取締ニ付、以來右十五ヶ所ニ不限、何方ニても 勝手次第右渡世差免間、彌以先達而申渡置候通り、神道講釋心學軍書講釋昔噺し四業に限り、茶汲女 其外女商人等都て婦人を差出、噺しの内え鳴物を取交候儀は、堅致間敷候。相背候者は、召捕嚴重之 咎可申付間、其旨能々申合、不取締之儀無之様可
右之通被仰渡奉畏候。爲後日仍如件。
辰[○弘化元年。]十二月廿四日 年番本石町名主 孫兵衛 外廿壱人/市中取締掛小網町名主 伊兵衛 外弐拾人
右之通、能登守様[○跡部良弼。]於御白州被仰渡候旨通達。 −撰要永久録   (東京市史稿 市街篇 41:335) (同 産業篇 56:927)
 
弘化1.12弘化元年辰十二月中市中軍談昔咄神道講釈等之寄場御免、但、鳴物入不相成候。 (東京市史稿 市街篇39:671
 
弘化2.1.19達二一五〇 正月十九日 昔噺・神道講釈・心學道話・軍書講釈、右四業之者已來何方ニ而も勝手次第渡世差免候事、
  口達
 昔噺・神道講釈・心學道話・軍書講釈、右四業差出候儀者、町〃明地面請負地所[等]ニ限、其餘者不相 成旨等之儀、去〃寅年十一月其後も追〃爲達置[○達二〇七三二一三五を見よ、]候處、右ニ事寄、町〃明地而等建 家等等閑ニ相成、却而不取締ニ付、已来右地所ニ不限、何方ニ而も勝手[次第]右渡世差免候間、 彌以先達而申渡置候通、度毎奉行所江可斷出、勿論前書四業ニ限、其餘等差出候儀、并ニ茶汲 女其外女商人等、都而婦人を差出、噺之内江鳴ものを取交候儀者、堅爲致間敷候、若相背者於 有之者召捕、嚴重咎可申付候、
右之通三郷町中并ニ所〃請負地之者江も不洩様可申通事、
巳正月[○南組惣年寄の副書日付は十九日なり](大阪市史4下:1758
 
弘化2.3 ○当三月中より両国橋東諸夜発出、又所々辻講釈諸軍談昔はなし出、よせ場も始る、定なければ勝手次第、已前より数多し、されど続くはなくて、やがて休む、よせにて音曲も三味せんハ不相成、浄るり素語也、(きゝのまにまに 未刊随筆百種6:151 近3下p586)
 
弘化2.5○ 五月四日  外神田新地山本町代地、伊勢本と言へる寄場、御免より新キニ出来致し、 落し噺し・講釈、其外色/\出候得共、一向ニ入無之処、五月始の頃よ り表を格子作りニ致し、野沢佐野八と言表札を懸、浄瑠璃稽古さらいと 言挑灯を出し、素人太夫出て糸代三十六文宛ニて、大入大繁昌なり。(藤岡屋日記2:522)
 
弘化2.5 ○ 此節、御趣意も段〃ゆるみて、人形身振咄し吉田千四、松永町へ出 ル、講談咄し扇拍子、西川伊三郎、竹本連中、上野広小路三橋亭江出ル 也。(藤岡屋日記2:524)
 
弘化2.7.27 達二一六四 同 日 家持之町人・借屋人・同居人・下人・下女・御用掛・諸家用達立入之者・寺社家・醫 師・儒者・山伏・座頭・瞽目・能役者・泊茶屋抱え女・歌舞妓役者・人形遣等、分限相應之衣類 ケ條書之事、 三郷年番町之 年寄共 町人衣類之儀、去ル寅年八月段等を以申渡置[○觸五五一六を見よ]候處、同十二月右之者共衣類、絹・紬・木綿綿・ 麻布之外、・・・
(中略)
一 哥舞妓役者人形遣ひ等云々[觸五五一六の第九項に同じ](大阪市史4下:1777
 
弘化2.12.20[弘化二年十二月]○二十日…小姓組勝桓兵衛徒士頭となる(慎徳院殿御實紀巻九 418)
 
弘化2.12.22[弘化二年十二月]廿二日……徒士頭勝桓兵衛布衣の士に加へられる。(慎徳院殿御實紀巻十一 418)
 
弘化3.7○弘化三丙午年七月
新板伊予節葉うた
両国橋夜見世八景
△これは両国盛り場の名寄、咄講釈、浄るりや万作踊ニ子供芝居や 操り人形、軽業師や子供新内、たま遊び、楊弓茶見世ニ花火船、つゞ いてかげ芝居、さっても賑ふタすゞみ、江戸の花。 (藤岡屋日記3:76)
 
弘化4.2.14〔附記、一〕寄場取締申達
撰要永久録左ノ如ク記ス。
一、二月十四日[○弘化四年。]北御番所え市中取締懸一組壱人宛被召出、市中寄場之儀ニ付被仰渡候義、左 之通達。今十四日[○弘化四年二月。]北御番所え取締懸壱人宛被召呼、市中寄場之義、追い々相弛ミ、別而此節は歌舞伎狂 言ニ紛敷義相催候趣、今般入御聽、早々相止候様御沙汰之段、市中取締御掛方より被仰聞候間、町 々寄場渡世之者とも被召呼、右御演説之趣厚御申諭、以来歌舞伎之義は勿論、其外兼而被仰渡之 通、相守可申様、急速御申渡、受印御取寄可被成候。此段御達申候。以上。
但、両國橋東西廣場香具商人芝居ニ紛敷儀は、弐番組十六番組十八番組より御取計可被成候。二月 十四日[○弘化四年] 月 番 (東京市稿 市街篇 42:146
 
弘化4.3−5 ○此間小網町名主普勝伊兵衛役義被召放、悴へ御役被 仰付、共故ハ伊兵衛浄るりを好み、自ら寄場へ出て語り し御咎とぞ、(きゝのまにまに 未刊随筆百種6:158)
 
弘化4.3.28諭告 一、去丑年[天保十二年。]中、町人風俗質素守方之事。 一、 寄渡世、四業之外差止候事。 但、昔咄え鳴物入候義不相成候事。 未[○弘化四年。]三月廿八日 申合 一、 寄渡世之者、四業之外決而不相成旨、明日[○弘化四年三月晦日。]中行届候様、嚴敷可申談事。 未[○弘化四年。]三月廿九日 一、 寄場料超過不致様、談合いたし候。 未[○弘化四年。]五月 (東京市稿 市街篇 42:169
 
弘化4.7.4[弘化四年七月]四日七夕の御祝として。日光門主使して二種一荷をまいらせる。御側岡野出羽守子中奥小姓大學頭。……徒士頭勝桓兵衛子安兵衛はじめ。父死して家つぐもの十二人。(慎徳院殿御實紀巻十一 477)
 
弘化4.8.29觸五七四二 八月廿九日 徳川昌丸殿就逝去、鳴物停止之事 [体裁觸三八八六に同じ 尚觸五七三五を見よ] (大阪市史4下:1830
 
弘化4.12.5達二二一〇 十二月五日 舞浚淨瑠璃等師家之者之宅ニ而可相催事、并宿屋渡世之者、三ケ所泊茶屋ニ紛敷渡世致間敷事、
口達
舞さらへ淨瑠璃等、師家之もの宅ニ而、稽古同様弟子共を集め、興行いたし候儀は格別、料理屋茶屋等借り請、座料を取相催候義不相成段、去ル寅年相觸置[○達二〇二四を見よ、]候處、近頃又〃猥之風義ニ相成候而已ならす、夜會ニ長し候哉ニも相聞、以之外之事ニ候、已來も右觸面之趣無違失相心得、師家之者宅ニ而可相催、右師家之もの宅差支等有之時は、是迄之通弟子内之宅借受、相催候儀ハ無據譯ニ候得とも、何れにも料理屋茶屋等ニ而ハ、縦弟子内ニ候とも、右之宅借受、座料を取相催候義彌以不相成、勿論夜會ニ長し申間敷候[○達二三四四・補達六八六・及七五七を見よ、]
一 去ル寅年茶屋止、商賣替申渡[○觸五五〇九を見よ、]候ヶ所之内、近來表口江ハ宿屋渡世目印之懸ケ行燈差出、内實三ケ所泊茶屋紛敷渡世致し候輩も有之哉ニ粗相聞、是亦以之外之事ニ候、已來右躰如何之身過いたす間敷候、早〃正路之渡世可相改候[○觸五五九八・達二二八八・及補達七三五を見よ、]
右之條〃其余ニも、都而御改革之御趣意無違失相守可申候、自然此後心得違之もの相聞候ハゝ、嚴重可及沙汰候條、此旨を存、其節後悔致間敷候
右之通三郷町中端〃迄も不洩様可申通事、 未十二月[○町中持家の承知判形日付は五日なり、] (大阪市史4下:1842
 
弘化4.12.29未[○弘化四年。]十二月廿九日/山城守殿[戸田忠温]
勝安兵衛拝領屋敷 柳原元誓願寺前五百坪之内 弐百三拾壱坪 小普請組大島丹波守支配 池田啓之助え 高三拾俵弐人扶持
宇津木與一郎拝領屋敷 青山百人町 百三拾 弐百三拾壱坪 小普請組山口内匠支配 勝安兵衛え 高四百拾四俵弐人扶持
右願之通、屋敷相對替被仰付候。(東京市稿 市街篇 42:342
 
嘉永1.春去春中、江戸市中席ニて歌舞妓・人形浄るり太夫大行ニ 致し、大景物抔とていかさまのぶつたくれ致し候故ニ、上より御手入ニ相 成、江戸中席ニて鳴物音曲一切御差留ニて、軍書講釈昔シ咄し計ニて、 其外之芸事一向相ならず、右ニ付諸芸人等、江戸ニて暮し方致シ難き故 ニ、(藤岡屋日記3:453)
 
嘉永1.4−6[前項 四月廿一日、次項 六月十二日]○湯島の宮芝居休にて両国東ニて興行す、又人形芝居も同所にて、人形遣ひ国五郎か出て、何れも見物群集(きゝのまにまに 未刊随筆百種6:159)
 
嘉永1.9.16 [嘉永元年]九月十六日市中寄場にて歌舞妓狂言大形に致し、御手入あり、又々、音曲鳴物御差留にて、噺し講釈ばかりになる、
 抑、市中浄瑠理の始まりは、享和の頃にて、段々流行し、一旦御差留になりしが、文化の中頃、竹染之助、母親養育の為とて願を出し、稚潜るり竹染之助九歳、と云看板を出し、若衆にて上下を着し、出語なり、是、女太夫出語中興の祖なり、これより女浄瑠理又々流行し、天保年間に至り、益流行、中には猥箇間敷義も相聞候に付、天保十一年十月十五日、御触出づ、町々素人家にて、寄せと唱、見物を集め、座料を取、女浄瑠理又は浄瑠理太夫、人形と取交、渡世致候者有之、右体之義は、操芝居に限り候故、市中にて不相成旨、前々より相触、既に去亥年十一月、猶又相触候節、其砌は相守候様に相見へ候処、追々猥に相成、女浄るり等出候由相聞候、町役人共迄、甚不埒之至候得共、此度は取調之沙汰に不及、令宥免候間、向後、右渡世決て不相成候間、右家業之者は、早々店引払せ可申候、若其儘に置候はゞ、吟味之上、町役人共迄急度可申付候、と南御奉行所にて被仰渡、其後も度々此の如き御触出でたれど、当座ばかりにて、直に相始候に付、同十二年十一月廿六日の夜、御府内寄場席にて、浄るり語り居候処被召捕、御吟味中、家主は手鎖、席亭、女太夫は入牢也、翌日より御呼出し、雪降候処を出候姿あはれなり、其後、家主は町内預、席亭、女子供は縄手鎖になり、同十三年三月、家主叱り、席は江戸払、女共は咎手鎖に相成、三味線は、御番所にて打こぼち、焼捨に相成候、此時、江戸中席亭御改になり、三十年来新規之分御取潰しに相成、三十年以前より有之候古き席ばかり、十五軒取立おかる、よりて、此の十五軒の株頗高価となり、当時、地獄で仏、十五軒の寄場などいひ、人々うらやみたり、弘化元年十二月廿四日、江戸中元の如く、寄場勝手次第御免に相成、尤、神道講釈、軍書講談、浮世咄しの外は相ならず由にて、忽数百軒の寄場出来たり、其頃の川柳に、
  よせ/\といふ内もとの様になり
 同三年頃に至りては、浄るり太夫も、三味線なしにて扇拍子に致し、そろ/\と出かけ、或は、手品、うつし画、八人芸の類も、太鼓の代りに小桶様のものをたゝき、最早御趣意は弛み候など申触し、始の内は、義太夫も、忠孝物語扇子拍子と号け、浄るり語り候処、同四年大火後、春より夏まで鳴物相慎みしが、秋頃より又、鳴物、三味線を入れ、冬に至りては太夫出語り、歌舞妓芝居等大形になり、嘉永元年に至りては、益、音曲、浄るり、歌舞妓、操人形等盛になり、猿若町の芝居、これが為めに立行難きまでに至る、依之、市中寄場御手入有之、同年九月十六日夜、小舟町二丁目新道は、組鳶頭七郎兵衛の場にて、昔噺し立茶番と号し、両国垢離場の歌舞妓役者璃鶴が、お半長右衛門道行之段を演ぜる真最中、町方同心小林藤太郎、見物人の中より跳り出でゝ、お半を召捕、あらめ橋の番所へ預け、席主、役者共、一夜仮牢入、三十日手鎖、落着過料三貫文づゝ、
 小林の朝比奈ならで藤太郎おつとめならで出来ぬ狂言
 桂川かゝる騒ぎになつたとはお半とられて怪我をしたのか
 あらめ橋お半わられて預けられ
 按に、今度の御手入、強ちに、芝居、音曲を六つ箇敷いふにあらず、当夏頃より、大景物と号し、下駄、足駄、傘、蛇目、醤油樽、炭だはら、反物の類、ちりめん、米俵、其外共に大形に致し、かね目のものは鼻ばりへ落し、いかさまを致し、大入に付、名主より度々差留候得共、不聞入よりて、御手入ありしなり、((天言筆記[藤岡屋由蔵日記抄本]巻五 新燕石十種1:256−2577)
嘉永元年江戸噺し
……爰に同じき小舟町、橋を渡りし橋之助、歌舞妓の寄せもどんちやんと、あまり騒ぎて被召捕、夫より江戸中鳴がやみ、講釈咄して入がなし、……(天言筆記巻五 新燕石十種1:262)
 
○嘉永元年九月十六日
 市中寄場ニて、歌舞妓狂言大形ニ致、御手入ニて、又〃音曲鳴物御差留にて、噺し講釈計ニなる也。
 抑市中に女浄るりの初り候ハ、享和・文化の頃より始りて、段〃と流行致し候ニ付、一旦御差留ニ相成候処、文化中頃に竹染之助、母養育の為とて願を出し、種浄るり竹染之助九歳と云看板を出し、若衆ニて上下を着し出語也、是女太夫出語り之中興開山也、是より又〃女浄るり流行致して、天保年間に至り益/\流行ニて、其数多く成行候ニ付、中ニは猥りケ間敷義も相聞候ニ付、天保十一酉年十月十五日之御触ニ、町〃素人家ニて寄と唱、見物を集、座料を取、女浄留理太夫、人形と取交渡世致候者有之、右躰之義ハ操芝居ニ限り候故、市中ニて不相成旨、前〃より相触、既ニ去亥年十一月、猶又相触候節、其砌ハ相守り候様ニ相見へ候処、追〃猥ニ相成、女浄るり等出候由相聞候、町役人共迄、甚不時之至りニ候得共、先此度ハ取調之沙汰ニ不及、令宥免候間、向後右渡世決而不相成候間、右家業之者ハ早〃店引払せ可申候、若其儀ニ致し置候ハヾ、吟味之上町役人共迄急度可申付候との御触、南御奉行所遠山左衛門尉様於御白洲被仰渡候、其後も右之如く御触度〃出候得共、当座計少し之間相止メ、直ニ相始メ候ニ付、同十二丑年十一月廿六日之夜、御府内寄場席ニて、浄るり語り居候処を被召捕、御吟味中家主ハ手鎖、席亭・女太夫ハ入牢也、翌日より御呼出し、雪降候処を出候姿、いとあわれなり、其後家主ハ町内預ケ、席亭・女子供ハ縄手鎖ニなり、同十三寅年三月家主叱り、席ハ江戸払、女共ハ咎メ手鎖ニ相成、右之者共、三味線ハ御番所ニて打こぼち焼捨ニ相成候、今度江戸中席御改ニ相成候て、三十年来新キ之分、御取潰しニ相成、三十年以前より有之候古き席計十五軒、被立置候処、此節外の株ハ湯屋・髪結床ニ至る迄大金の出し株も潰れて、揚銭ニならざる中ニ、金も出ざる寄場の株十五軒と極りし故、其節の世の中のたとへに、地獄で仏、十五軒の寄場と出たり、年〃千二百両宛上納金致し、十組諸問屋迄取潰し、上ゲ金差留候中ニ、寄場計御府内ニ十五軒と致し候へば是株也、株を潰す中ニ株を持候事を御役人方も心付候哉、弘化元辰年十二月廿四日、江戸中元之如く勝手次第御免ニ相成、尤神道・講談・軍書講釈・浮世咄し之外ハ相ならず由ニて、寄席出来致し処、たちまち年之内ニ六十軒程、翌巳の春ニ至りてハ都合、寄七百軒も出来致し候由、其節の川柳点に、
  よせ/\といふ内もとの様になり
さて、出来るともできるとも、向へも出来、隣へも出来候得共、肝心の聞に来る御客無之故、大躰の寄ハ立行難く、多くハ仕舞候も有候ニ付、此節出来候席を百日ぜきと申候、同三丙午年ニハ浄るり太夫も三味線なしにて扇拍子ニ致し、そろ/\と出かけ、或ハ手妻・うつし画・八人芸の類ひも、太皷の代りに小桶様のものをたゝき、芸道致し候処、少〃宛手前よりゆるめて、最早御趣意ハ弛ミ候抔と申触し、初之内ハ義太夫も忠孝物語扇子拍子被号、浄るり太夫語り候処、同四丁末年大火事後、普請出来致し候而も、春より夏迄ハ鳴物相慎ミ候処、秋頃より少〃宛鳴物・三味線も音便ニ入候処、冬に至り専らに相成、太夫出語り、歌舞妓芝居も大形ニ致し、嘉永元申年には益/\音曲・浄るり・歌舞妓・操人形、前〃之通り大形ニ致し候ニ付、猿若町人形芝居行立難く、依之市中寄場御手入有之、嘉永元申年九月十六日夜、小舟町二丁目新道は組鳶頭七郎兵衛の寄ニて、昔噺し立茶番と号して、璃鶴・橘之助真ニて、両国垢離場の歌舞妓役者ども、立役・女形共外ニ四人罷出相勤、日限十日之間ニて、九月六日初日てニ相初メ、落咄し大切ニ、右之役者共罷出で、毎夜/\狂言取替致し候ニ付、大入大繁昌にて、十日限の芝居日延致し、今日十一日目、狂言番組お半長右衛門、梅の由兵衛之処、桂川恋のしがらみお半長右衛門道行之段、浄るり座料下足共八十文、子供四十文にて大入ニ候処、今晩道行の段ニて、見物の中より壱人舞台へ欠上り、お半の璃かくが胸ぐらを取候故ニ、初ハ見物人とつたりかと思ひ候処、跡より二三人舞台へ欠上候ニ付、火事なりと思ひ、近所ニて騒ぎ候処、左にあらず、是ハ南の定廻り同心小林藤太郎、手先引連て召捕ニ来りしなり、此間より様子見ニ見物ニ来りしよし、お半を召捕て荒和布橋の番屋へ預ケ置しよし、庸主・役者、一夜仮牢人、三十日手鎖、落着、過科三貫文宛。
  小林の朝比奈ならで藤太郎
  おつとめられて出来ぬ狂言
  桂川懸る騒ぎになつたとは
  お半とられて怪我をしたのか
  しら石と言て居られぬ七郎兵衛
  年こそ寄たれこれ頭なり
  あらめ橋お半わられて預けられ
  ぱつちりと割たかあら女橘之助
    夫よりかくの騒動となる
 是ハ強ちに芝居音曲を六ケ敷申ニも無之、当夏頃より大景物と号して、下駄・足駄・傘・蛇目、醤油樽・炭だわら・反物の類、ちりめん・米俵、其外共ニ大形ニ致し、金目の物は鼻張へ落し、いかさま致して、大入ニ付、名主より度〃差留候得共、不聞入候ニ付、名主より定廻りを頼ミて手入致せしよし、同時ニ浅草聖天横丁松よしへも手入有之、此席ハ噺し家なれ共、いかさまの大景物ニて、座料四十八文ニて見物を取、太い/\とて大入致候。   いかさまを聖天町ハふといやつ
  取つてしめたで跡ハまつよし(藤岡屋日記3:231)(東京市史稿 市街篇42:494に転載)
 
嘉永1.10.3〔附記〕寄場
差上申御請書之事
 一、市中寄渡世之もの共、~道講釋心學軍書講談昔噺四業ニ限、女子之儀は、藝人は勿論、茶汲女其 外女商人等差出儀儀は不相成、都而鳴物を取交候儀は、堅爲致間敷、相背候ものは、嚴重之御咎可 被仰付間.名主共能々申合、不取締之儀無之様可心付旨、去ル辰年[○弘化元年。]十二月被仰渡御座 候處、此程寄場渡世之内、座料之外、大景物と唱、箪笥其外大造之品鬮ニ差出し、或は歌舞伎ニ紛敷 義仕成候もの共有之、夫々御召捕御吟味御座候處、鳴物一ト通之儀は不苦哉ニ心取違仕儀者も有 之由、入御聞候ニ付此上御取調之上、彌以右様心得違之もの有之ニおゐてハ、當人共は勿論、名 主共儀も心付方等閑之段、御崎床難遁次第も可有之候間、申合、支配町々嚴重ニ見廻可心付旨 被仰渡、奉畏候。御請仍如件。
申[○嘉永元年]十月三日組々市中取締掛壱人宛受印
 右は南於御番所、市中御取締掛御立合、仁杉八右衞門殿被仰渡候間、兼而御沙汰有之候通、四業 之外は、都而御差留可被成候。
一、昔咄ニ而も鳴物相用候分。
一、三味線不相用、扇拍子と唱、素浄瑠理之類。
一、八人藝鳴物用ひ候類。
一、影繪鳴物相用ひ候類。
一、俗盲人共其身居宅ニ而淨瑠理浚可仕處、寄場出凌仕候分。
一、手品鳴物相用ひ候類。
右廉々茂不相成候間、其御心得ニ而、嚴重御差留被成、猶已來御心付可被成候。以上。
十月三日[○嘉永元年]組合取締掛
−撰要永久録  (東京市史稿 市街篇42:493)
 
嘉永1.12.24申[○嘉永元年。]十二月廿四日/ 伊賀守殿[○松平忠優]
石賀漣平拝領屋敷 青山五十人町 松平安藝守上地 百坪 小普請組松平美作守支配 村上龍之助え 高四百俵
村上龍之助拝領屋敷 本所林町五丁目横町 七拾弐坪 御代官竹垣三右衛門手附御普請役格 石賀漣平え 高拾五俵壱人半扶持
右願之通、屋敷相對替被仰付候。(東京市稿 市街篇 42:530
 
嘉永3.2.3戌二月三日。  守屋鎗五郎上地
一、 四谷内藤新宿新屋敷百拾八坪餘 御代官鈴木大太郎手附御普請役格 宮部潤八郎
東京市稿 市街篇 42:1020
 
嘉永2.1.23○正月廿三日
板橋駅問屋場、為似札一件
  東叡山元坊中、所化  海玄坊/神田明神下茶屋町  書役 治助/咄しか  歌丸/同  妻/外ニ女芸者二人
 右之者共義、海玄坊元〆ニ而旅芝居を目論見、衣装・鬢・踊道具の類ひ をバ明荷江詰込、東叡山御用之絵符を、かすがい山の合印を付て板橋宿 の問屋、貫目御政所へ持込し所ニ、海玄坊悪者ニて上野の仕くじり故ニ 度々右の絵符ニて権柄ニて通行致し候故ニ、兼て問屋場ニて目かどを付 ねらい居たる処江、今度旅芝居の道具を持込し故ニ吟味ニ相成、言懸り ニて右之荷物を切ほどき候処ニ、中より踊道具出し故ニ、大騒動ニ相成け り、右之起りハ去春中、江戸市中席ニて歌舞妓・人形浄るり太夫大行ニ 致し、大景物抔とていかさまのぶつたくれ致し候故ニ、上より御手入ニ相 成、江戸中席ニて鳴物音曲一切御差留ニて、軍書講釈昔シ咄し計ニて、 其外之芸事一向相ならず、右ニ付諸芸人等、江戸ニて暮し方致シ難き故 ニ、海玄坊、旅芝居を存じ付、中山道を上州辺ニて銭もふ致さんと目論 見、兼て上のゝ勝手ハ宜存候間、東叡山御用ニて出候処ニ、右坊主度々 の事ニ候間、板橋宿問屋役人共を初メ是をにくミ、荷物を切ほぐせしな り、然ル処是を表向ニ致し候得バ、至而六ケ敷候得共、元来上野より出し 坊主故ニ、坊中ニ引も有之、内証ニて軽く相済申候。
  狂言を書て出懸し旅芝居
    かすがひ山をうたれいた橋(藤岡屋日記3:453)
 
嘉永2.2.11庚戌、幕府、府下に令して、婦女の寄場に上り、講説するを禁す、(史料稿本(續泰平年表による)
 
嘉永2.3.25○ 嘉永二己酉年三月廿五日
一 於竹大日如来、并霊宝等
   別当羽州羽黒山玄良坊
 三月廿五日より六十日之間、両国回向院ニ於て開帳、文化十二年七月、 金龍山境内念仏堂ニて開帳より三十五年目の開帳なり。
 但、開帳三月廿五日初日之処、右開帳の場所ニて勧進相撲興行有之候 処、小金御鹿狩、猶又雨天打続きて延引致し、五日取残し候ニ付、相撲 小屋取払難く候ニ付、開帳四月五日初日と相極メ、三月廿八日千住より江 戸者也、道筋ハ千住より浅草通り、観音広小路より下谷通り、御成街道、筋 違御門、内神田通り、今川橋、本町曲り、伝馬町通り、両国橋、回向院着也。
 四月五日開帳初日之処、同月四日ニ紀伊殿逝去ニ付、七日之間鳴物停 止之御触出候故、同月十日御停止明ニ付、同月十一日ニ開帳相始メ申候。
  回向院境内見せ物之分
操人形芝居、伊賀越道中双六・和田合戦。
壱人分百八文、桟敷二百八文、高土間百七十二文、土間百五十六文。
太夫 /豊竹此母太夫/同  岡太夫/同  島太夫/同  麻喜太夫/竹本振[梶?]尾太夫/同  是太夫
三味線 /鶴沢勇造/同 文吾/同 吾七/同 鬼一
人形 西川伊三郎/同 新十郎/同 力造/吉田冠二/同 冠平/同 幸五郎/辰松六三/西川巳之助/久田錦三
其外罷出相勤候。但し人形大当り、大入也。(藤岡屋日記3:473−474)
一 回向院、於竹大日如来開帳中、興行操人形芝居ハ、其後深川六間 堀神明境内江引ル也。(藤岡屋日記3:491)
[上掲人名 近3下p67の興行(嘉永2.12.3より 深川元町於神明社内興行 仮名手本忠臣蔵)と一部一致 ]
 
嘉永2.閏4.27○閨四月廿七日初日にて、
牛込赤城明神操人形芝居
出世大平記二番目お染久松質見世店(=近3下054)
内匠太夫 越太夫 燕子太夫
三絃 才治 勝吉
人形 伊三郎 文四 力造 冠平 新十郎、其外罷出相勤候。
(藤岡屋日記3:491)
 
嘉永2.10.16補達七五七 十月十六日 舞浚素人浄瑠璃會ニ座料を取り、又ハろくと・穴打・どしやけ等致間敷事、并火之元可入念事、
一 舞浚へ素人浄瑠理等、座料を取り哉ニも相聞、左様之義ハ有之間敷事ニ候得共、町〃ニ而心得違之もの無之様可被申諭候[○達二二一〇を見よ、]
(略)
酉十月十六日南組惣年寄印 (大阪市史4下:1883
 
嘉永3.5.22〇五月廿二日
  鳴物御停止中、咄し興行致し、颯と有之候一件
 外神田仲町若松席、是迄休ミ居候処、五月十八日、尾張前大納言殿、 於国許御逝去ニ付、今一日普請止、鳴物ハ廿四日迄七日之間御停止ニ候 処、廿二日夜初日ニて、可上・南馬・小三馬、昔噺し相始め候て、人寄 太鼓をたゝき候ニ付、家主嘉七、是を聞付、肝をつぶし、早速欠付、取 押へ、外の掛行灯も取入候ニ付、外より颯とも無之候処ニ、
 一 右若松席ハ最初藁店ニて、御改正之時取払ニ相成、其後矢師安右 衛門二階へ拵へ、当時瓦屋又次郎持ニて、若者跡ニ申候ハ、名主片岡仁 左衛門悴ニて、放蕩者故ニ養子を致し勘当也、右之者、若松ニ居候と相 成居候処、元来名主の悴故ニ、天上をくゝりて、家業之事ニ候得ば、素 咄しハ苦しからずとて、御停止中、廿二日の夜相始メ候なり。
 一 然ル処、右地面ハ御家人之拝領地ニて、平野屋請負地ニて、平野 屋より一度ニ金子上納致し候ニ付、地主同様平野屋より是を六ケ敷申出し、 若松の席を取潰し候目論見ニ而有之候、是を一ツの訳合有之候、同町藤 本の席ハ平野屋ニて拵へ候席ニ而、自分の二階より席の二階へあゆミを付 置て参り候程之事故、此席江芸人は名人計を出し、講釈ハ燕陵・南龍・ 如水等、昔咄しハ新生・龍馬・龍蝶・柳枝・龍生、其外高名之者計罷出、 又ハ浄るり・義太夫ハ住太夫・勇造・市太郎、五月五日初日ニて兵庫太 夫・市太郎巻頭ニて、組太夫巻軸ニて、大寄之節、十一日民太夫、十二 日住太夫、十三日岡太夫、大入客留也、又今年、市太郎櫓だいこ之節も 客留、燕陵出席之時ハ大入ニ付、足場を懸、二階張出しを致したり、ケ 様ニ引続繁昌致し候へば、差構へも有之間敷候得共、兎角若松を邪魔ニ 致し、何か折を見て取潰し候存念之処故、此度を能き幸と存じ、六ケ敷 申出し、差留候なり。
 右、人寄太皷をたゝき候と云ハ虚言ニ候得共、是迄若松席休ミ居なが らニ、今二日の事ニて、廿四日迄之御停止ニて、廿五日ニハ世間懸構へ なしニて相始メ候処ニ、纔二日之事をかなじミ、素咄しも苦しからずと て、廿二日ニ昔噺し、可上・南馬・小三馬のびらを出し相始メ候処ニ、 人寄之事故ニ、平野屋佐治右衛門より六ケ敷申出し、差留置候なり。
 其可上にて客ハ小三馬 (藤岡屋日記4:129)
 
嘉永4.6.6○六月六日より
猿若町結城坐ニ而、操人形芝居
伊賀越道中双六 大序より八ツ目迄
円覚寺之段 竹本佐賀太夫/口 竹本絹太夫/切 竹本長尾太夫 /鶴沢鬼市
木津地宿屋之段 豊竹八十太夫/ 豊竹綾太夫/豊竹燕子太夫 /鶴沢千吉
沼津之段 竹本春太夫/ 鶴沢仲助
遠眼鏡之段 竹本賀太夫
岡崎之段 口 竹本理太夫/切 竹本長門太夫/ 鶴沢清七
娘景清八嶋日記
花菱屋之段 竹本伊賀太夫/ 鶴沢鬼市
日向島之段 豊竹巴太夫/ 鶴沢文三
中将姫三段目
雪責之段 竹本伊達太夫/ 鶴沢清吉
床頭取 竹本理太夫
人形 吉田文四/吉田冠二/西川伊三郎/吉田国五郎
人形頭取 吉田東九郎
  (藤岡屋日記4:407)
 
嘉永4.7.11達二三〇〇 七月十一日 町〃明地面・寺社境内・所〃請負地・并町家ニおいて、浄瑠理又ハ俄狂言ニ紛敷催致間敷事、且又醫師供方之中、品〃名目を付、於病家金銭乞請候者有之ハ、可訴出事、
  口達
一 近比町〃明地面・寺社境内・并所〃請負地・又町家等おゐても、昔噺・或~道講釋・心學道話・軍書講談 等、相催候趣ニ奉行所江斷出、内實は其義を引違、道具建抔いたし、鳴物を取交、淨瑠理又は ニワカ狂言ニ紛敷催致し、見物人を集、茶代其外名目を付、徳用取候もの不少哉ニ粗相聞、不 埒之至ニ候、右躰如何之催いたし候義不相成は申迄も無之、當地ニワカ狂言之義ハ、哥舞妓ニ 紛敷品ニ付、ニワカ師共身分取締方之義ニ付而も、兼而觸渡置候趣も有之上ハ、其段無違失相 守、右昔噺外三業之外、猥成催いたし候義彌以不相成候、尤右四業相催候度毎、奉行所江斷出 候は勿論之義、右場所江婦人差出候義も是亦不相成候、自然此後も右申渡を相背候もの有之ニ 於ハ、當人并所役人迄も急度可申付候、
一 難波新地續野側并西横堀川流末新築地之義ハ、地所惡敷、作物等生立不宜、或建家等自力ニ及 兼候ニ付、追〃小見セ物小屋等ニ地所貸渡、助成ニ致來候譯ヲ以、右弐ケ所ニ限、前段四業之 外類業相催候義勝手次第、併哥舞妓ニ似寄候義不相成ハ勿論、右四皐相催候節、取締方之義ハ、 外場所同様ニ相心得可申旨も、兼而申渡置候處、是亦奉行所へ斷之品ニ引違、内實哥舞妓ニ似 寄候催抔致し候族も有之哉ニ相聞、以之外之事ニ候條、右申渡之趣自然相背候もの有之ニおゐ てハ、前同夫〃急度可申付候
(次条略) 右之通三郷町中并所〃請負地之者共へも、不洩様可申通候事、
亥七月[○町中家持の承知判形日付は十一日なり] (大阪市史4下:1962
 
嘉永4.7.17
 
當亥(○嘉永四年)七月十三日より同十二月十八日迄 相對替割屋敷ニ成候分繪圖 御作事奉行衆、御普請奉行
下谷和泉橋通東横町勝安兵衛屋敷之内、鳥居彦太郎え相対替割 殘地百五拾坪 勝安兵衛 三百五拾七坪 鳥居彦太郎 (東京市史稿 市街篇43:68)
 
嘉永4.7.25〇八月三日、御着。
天竺毘須羯摩作/ 一 開運摩利支天/ 勝軍不動尊并霊宝等 /  甲斐国天目山執事
右、両国回向院ニて、七月廿六日より開帳之処、御停止中ニ付、延引致し、今日御着、御道筋左之通り。
一 四ツ谷天龍寺より御出立ニて赤坂通り、芝愛宕下、高家武田大膳太夫屋鋪へ御立寄、夫より新橋江出、恵びすや御昼食ニて、京橋通り、日本橋本町曲り、大伝馬町通り、両国回向院へ御着、六日より開帳也。
 (中略)
右開帳ニ付、於回向院境内、操人形芝居興行。(義太夫年表近:未掲載)
聖徳太子守屋大臣七不思儀由来 四天王寺伽藍鑑 全部五冊 太夫竹本大隅太夫
太夫役割
大序 竹本大隅太夫 /御てんの段 豊竹美先太夫 /厩戸の段 竹本鳴見太夫 /口口の段豊竹美先太夫/ 夢の段 中 竹本大和太夫/切 竹本隅登太夫 懸合 竹本登勢太夫 竹本三木太夫/ 大野原草刈段 竹本木尾太夫/古御前のだん 中 豊竹島太夫 切 豊竹伊達太夫/ 槇の木段 口 竹本登勢太夫 切 竹本鳴見太夫/本田善光 中 竹本木尾太夫/在家段 切 竹本大和太夫/ 合邦ヶ辻段 竹本三木太夫/飛騨内匠 口 竹本隅登太夫/住家のだん 中 竹本伊達太夫 切 竹本大隅太夫
播州皿屋敷
青山屋敷の段 中 竹本隅登太夫 切 豊竹島太夫 三糸 花沢伊八
人形役わり
飛騨内匠 弥生前 萩の局 吉田文四
人形役割
青山鉄山 辰松六二/下部有助 辰松安五郎/おきく 下部玉平 西川伊三郎/聖徳太子 紀国の前 山路 守岩 玉照姫 西川久太郎/玉照姫 吉田半次郎/玉より姫 此村兵路 小文治 西川清助
子丁 草刈 女吉田万吉/子丁 西川三平/善助 吉田才造/春人 沖野の村治 おしめ 藤井徳次郎
天部熊王 中富勝海 辰松安五郎 妹子大臣 合郡 秋野之助吉田東九郎 阿賀田三郎 生駒直根 沓太五役早替り 磐石あんぶく 赤衣矢田平 内匠女房 秦川勝 辰松六二/調子丸 守屋大臣 与五郎 吉田冠二/本田善光 内匠娘おかめ ゐり守田益郎 西川伊三郎
一谷嫩軍記三段目
竹本加太夫 竹本紀国太夫
石屋弥陀六 辰松六二/富士の方 西川清助/敦盛卿 吉田才造/源義経 吉田東九郎/梶原平次 藤井銀次郎/軍治 辰松安五郎/相模 吉田文四/熊谷直実 西川伊三郎
三味せん/鶴沢清八/鶴沢清吉/鶴沢栄次郎/同末松/同清作/同入造/同金蔵/同清市/同周太郎/同清三/鶴沢清次郎
座頭取 竹本鳴見太夫/人形細工人 和泉屋五郎兵衛/口上 吉田口造/人形頭取 吉田才造
七月廿五日より於両国回向院境内興行仕候。(藤岡屋日記4:442)
 
嘉永4.8.16○ 八月十六日より    牛込赤城神社境内ニ於て操人形芝居興行
 仮名手本忠臣蔵 大序より十一段目迄
竹本長尾太夫/竹本伊勢太夫/竹本咲太夫/竹本越太夫/竹本喜佐太夫/竹本長門太夫/人形/吉田国五郎/吉田文四/吉田冠二/西川伊三郎
   長唄はやし連中(藤岡屋日記4:455)
 
嘉永4.8.16○ 八月十六日 今宵名月の趣向として三十間堀鳥羽屋清右衛門悴両人深川木場別荘ニ於て淨るりさらひを催しの事
 蔵前の能にもこりず太夫かな
 出語りで鳥羽や竹田が大騒ぎ
一 深川木場下やしき、坐敷六十畳敷也、正面ニ舞台をしつらひ、九 尺の板の間、六尺の分廻しニて、たゝみ置の衝立、金地ニ松竹梅の画、 幕白地の唐木綿、朝顔の模様、大当りの的を付。 浄瑠理番組十段目 初メ七段延続き 出がたりなり、 見台高蒔絵 上下金摺布目外ニ 太夫ハ悴両人、 別家十人計、親類其外入魂之者、客人都而百五十人計見物也。
三弦花沢伊左衛門野沢語助同悴辰三郎外ニ鶴沢弥三郎
 右之内、吉原東屋をも見物ニ呼候処、自慢ニて三弦弾鶴沢弥三郎ヲ連 来り候処ニ、語助・伊左衛門ニ弾立られ、ぺんの音も出ざるよし。
 桑の木のたばこ盆ニ新渡火入、大左河梨子ヲ数多むき出ス也。 七段語り済、中入ニ海苔鮓ニにしめ出ル、跡三段語り也。
源平布引滝三人生酔 太夫ハ二男也/三弦 花沢伊左衛門/三曲 琵琶 野沢語助 胡弓 悴辰三郎/後三段相済、千秋楽也。
 惣客人江馳走、鮑のふくら煮にて本膳を出すなり。/今日の入用、凡五十両も懸り候よし、中〃たばこ盆ニ恐れてたばこもすへざるよし。
 但し、三味線ハ伊左衛門四段弾、語助二段、辰三郎二段、弥三郎二 段弾、都合十段也。
右浄るり番組、七段続き/一 妹背山竹ニすゞめ 三味線 辰三郎/一 一の谷組討之段 同 弥三郎/一 源平布引滝実盛物語 同 伊左衛門/一 梅の由兵衛長吉殺し 同 弥三郎/一 本朝廿四孝三段目切 同 伊左衛門/一 お染久松野崎村の段 太夫 東屋/一 布引滝三人生酔 三味線 弥三郎 同 伊左衛門/中入 後三段/一 朝顔日記宿屋の段 琴 辰三郎/一 盛衰記樋口次郎逆艪の段 三味線 語助/一 伊賀越岡崎の段 行 藤扇 野 語助/千秋楽
 一 右鳥羽屋悴両人共、義太夫の天狗ニて、平常咄し候ハ津賀ハきけ ない、当時ハ長門ニかぎるといふ也。
 明日ハ播磨太夫を呼で別家共ニ聞せやふと云しとなり。 (藤岡屋日記4:455)
 
嘉永4.10.2○十月二日より 牛込赤城明神於境内、操人形芝居興行
四ッ谷怪談 浄るり 長尾太夫/此母太夫/島太夫/夕ぎり伊左衛門吉田屋 清元連中相勤候 (藤岡屋日記4:491)
 
嘉永5.閏2.6 〔附記、一〕寄セ渡世取締
子[嘉永五年。]閏二月六日遠山左衞門尉様[○景元。]御番所え、市中取締被召出、市中寄セ渡世之者、近來相 弛ミ、四業之外、鳴物等取交稼方致候者も有之哉ニ入御聽、嚴重之御沙汰も可有之處、此度之義 は、御吟味之御沙汰ニは不被及候間、此上御取締方可仕旨、於御吟味所、中村次郎八殿被仰渡 候間、左之通御請書差上候。
 差上申御請書之事
一、市中寄セ渡世之儀は、四重之外、鳴物等は難相成旨、去ル寅年被仰渡、一統相守り可被在 は勿論之處、右之内ニは、心得方相弛候も有之哉人御聽、殊ニ此程火之元守方嚴重之沙汰も被 爲在、既ニ風烈之節は、拍子木打継、町役人共も繁々相廻り候様、被仰渡も有之折柄、心弛ミ有 之候而は、火之元之爲メニも不相成義ニ付、右様之砌は、見計ひ爲相仕舞、都而此上取締方仕、 兼而被仰渡之趣心得違無之様被仰渡、奉畏候。依之御請書奉差上候處、仍如件。 子[○嘉永五年。]閏二月六日
   市中取締掛 堀江町名主 熊井理左衞門/長谷川町同 鈴木市郎右衞門/新革屋町同 定次郎
  淺草田町同 五郎左衛門。檜物町同 又右衞門。南傳馬町同 新右衞門。同町同 善右衛門。弓町同 源 太郎。麻布谷町同 太一郎。雉子町同 市左衞門。小石川傳通院前表町平八。元鮫ヶ橋町同 又太郎。 市谷田町同 左内。本所林町同 六右衞門。深川中島町同 久右衞門。上野町同 源八。
右は今六日[嘉永五年閏二月]組々市中取締懸左衞門尉様[○遠山景元。]御番所え被召出、市中御掛中村次郎八殿被仰 渡、前書之御請書差上候間、各様御支配限り、寄セ渡世之者心得違無之様、早々御申付可被成候。
此段御達申候。以上。
閏二月六日[○嘉永五年。]
右之通被仰渡候間、御支配寄セ渡世之者、家主差添ニ而、急速被召呼、得と御示談之上、前文之 趣、家主加判請印御取置、尚拙者共之内新右衞門方え、半紙堅帳之受書一ト通、明日[○嘉永五年閏二月八日。]中可 被遣候。此段御撰申候。以上。
閏二月七日 組合取締掛り
子[○嘉永五年]二月六日市中寄セ渡世之儀被仰渡候後、取締掛一同、銀座弐丁目藤岡と申水茶屋え寄合、左 之通申合候。
申合
一、火之元嚴重守方被仰渡候ニ付、寄セ渡世之者之内ニは、弛ミ候も相見え候ニ付、取締懸嚴り之 心得ニ而、取計方左之通程合見計相達可申候。
一、寄世え罷出候者之内、鈴之助午之助膝栗毛、都而茶番又は大坂茶番抔と唱、狂言様ニ致し候分、 差留可申、且此もの共住所取調候而、其處支配より寄セ席え罷出、狂言様之義致間敷旨可申付。 一、女子藝人は、堅く差留可申候。
一、御曲輪外日本橋通、南北本町通、兩國邊、淺草御門外並木町邊迄、元飯田町、麹町、赤坂、四ツ 谷御門外迄、此邊急速行届候様心付可申、右は市中一時ニ嚴重ニ相成候而は、難澁之者も不哉 付、一ト先狂言ニ類し候而、大行ニ鳴物を用ひ候分を差留候ハゝ、其餘は一統ニ寄セ渡世之者共、銘 々心付可申、其上ニも不用者は、猶又御相談之上、密々御伺、御内慮受、取計候方可然哉。
一、寄せニ而狂言様之義は不致候而も、最初見物を招候爲、しやきりと唱、大行ニ太皷等打、并表 看板大行ニ差出候義は、聞え不宜候間、寄セ渡世之者共、此意味合相辨、質素ニ致候様心付可然候。 一、風烈之拍子木打継之節は、寄セは一統爲相休可申候。
右之通取計候而、一ト先寄セ之様子見留置、尚御相談可仕候。尤此御相談書は、御相掛限ニ而御含 御取計可被成候。以上。
子○嘉永五年閏二月六日
寄セ渡世之者取締方之儀ニ付、先達而御同様御呼出しニ而被仰付候趣、其場所々ニ而可被仰聞 候得共、寄セ之内鳴物等重ニ催し候者共之内、重立候者え、別紙之通申付候書付取置候間、爲御心 得御達申候。此者共より申通候而も不相用寄セ之者有之候得は、御支配御同役え此者共より申立候積 りニ御座候。御惣躰え御通し置可然候。此段御達申候。以上。
子[○嘉永五年]閏二月十五日市中取締掛
町々寄セ之内、色物と唱候もの之内、近頃大行之看板差出、爲客招、しやきりと唱候鳴物用ひ候ニ 付、昔噺等ニ而も、他え聞え不宜候間、鳴物之儀は、大行ニ無之様可致候。
一、茶番又は大坂茶番等之儀、并鈴之助共外音曲噺名代ニ而、狂言ニ類し候分は、一躰廣場等稼候も の共ニ而、席え罷出候類ニは無之候間、已後色物寄セニ而も、此類は堅く催し申間敷旨、私共より同 家業え申通候様可仕候。若不用もの御座候ハゝ、町役人中え可申立候。
右之通、別段私共より色物席一統え取締可仕旨御申含、承知仕候。依之惣代請書差出申候。以上。
嘉永五子年閏二月十三日
   南槇町藤兵衞店千代鶴 コ次郎/ 與作屋敷長左衞門店兼金澤 文吉/ 音羽町新助店黒川 長右衞門  (東京市史稿 市街篇43:423)
 
嘉永5.閏2.12○同[嘉永五閏二月]十二日
富士見御宝蔵番 御留守居、佐野日向守組与力 伊庭想太郎 右被仰付旨、於躑躅間、備前守申渡之、若年寄中侍坐。(藤岡屋日記4:547)
 
嘉永5.3.14同日[(○子三月)十四日]。勝安兵衛御預地
一、 同所[青山百人町] 拾三坪餘 小普請組徳永伊予守支配勝安兵衛
但、同断[年暦相立候ニ付預替。]。  同断[當分御預地]。(東京市史稿 市街篇43:432)
 
嘉永5.7.24○七月廿四日
一 今朝、上野孝恭院様霊前江、
  菊之間
……
小普請組、徳永伊予守支配 勝安兵衛 実子惣領 同 権一郎
……
右願之通、隠居被仰付之、家督無相違被下旨、老中列座、備前守申渡之、若年寄中侍坐。(藤岡屋日記4:599)
 
嘉永5.11−12下谷和泉橋通石川堂之助屋敷内、伊庭想太郎相對替割 ○圖略 切坪殘 百六拾五坪 石川堂之助 弐百七拾五坪 伊庭想太郎 (東京市史稿 市街篇43:566
 
嘉永6.3.21○ 三月廿一日昼頃 猿若町二丁目市村座。相撲取と喧嘩一件之事
一 右喧嘩発端ハ昨廿日市村座芝居江相撲年寄世話役之由候申候而。女二三人連で見物ニ参り候処。右二丁目芝居之儀ハ前々より相撲桟敷とて別ニ取退無之故。 女中之分ハ相断候由之処。相撲ニてハ先達而中村福助方江相撲より送り物等も致し置候処ニ。余りニ達入無之。突候とて立腹致し帰り候前。右喧嘩の発り也。
   右喧嘩之発頭人            相撲取 里見野 /市村座桟敷番  久次
斯て三月廿一日昼前。相撲打中其外ニ而百人程相揃。二丁目へ押懸参り候所ニ。兼而芝居ニても右風聞承り。皆々逃去候故。相手壱人も無之。 見物之客人ハ是を見て驚怖致し騒動ニ及び候ニ付。相撲ハ舞台へ上候見物へ申候ハ。今日芝居へ申分有之参り候間。各々方ハ怪我無之様ニ静ニ御帰り可被下と。 手を取て外へ出し候ニ付。客人ハ逃出しながらも相撲取を誉候よし。芝居者相手ニ出不申故。相撲取も無手持。当人引渡無之内ハ見世看板預り候由申。 一枚持行候ニ付。芝居七口之立番一同。南御番所へ欠込訴致候よし。右ニ付。早速組之者召捕方差向られ候得共。近辺頭取新門之頭。仲人ニ而。 是を願ひ止メ候由。右騒動を聞。釼山も早速欠付。仕切場之番を致し候由。櫓之義ハ御上より預り之品成成とて。幕下を二人番ニ付候よし。
  市村座狂言。仙石騒動なれバ。   収納も吉事   死のふハ凶事     千石が出来て市村大さわぎ これ騒動の種をかき本     千石の場所で市村大あらし 柳にあらで雷の音     嵐吹花の盛をさくら姫             坂 鉄       市むら雨でちらしたかすけ     いつさんにさわらぬ風が葺矢町 桟敷の客がさわぐ評判    右喧嘩ニ付。相撲贔屓之評
相撲取之内ニ世話役とて。東西幕ニ二人ヅヽ四人有之。相撲興行中ハ休日ニハ若者共間違等無之様ニとて。芝居盛り場等見分に出候故。芝居ニも右役桟敷有之候処。 右見分之相撲参り候処ニ。役桟敷へ御客を入置。大入ニ付御客を入候由断候由。是を憤り直ニ帰り候由。右之咄しを致し候ニ付。本中相中相撲立腹致し。大勢参り。 預り置候櫓を持行候とて。用心梯子を懸け。看板を皆々取はづして観音地内へ持込候処。新門之頭出て是を止。看板預り置。近辺頭取手合を頼ミ。仲人ニ入。中直ニ相成掛候よし。
一 説ニ小柳の妻又ハ妾共言。弟子五六人連参り候処。女中之分ハ桟じき代出し呉候様申候ニ付。相撲共立腹致し。先達而中村福助浄留理狂言相勤候節。名倉弥次兵衛世話ニ而小柳仕入致。 相撲中より天幕を遣し候所ニ。其立入も無之。我々を突候とて立腹致し。帰りて相談致し。翌二十一日。芝居へ中通り大勢押懸候よし。
一 又は雷権太夫之妻参り。引舟を買切候処ニ。跡より上客参り候故。桟敷番来候て。跡へ下り呉候様申候故。我等先へ来候故。跡へ下らぬと言。 桟敷番たつて下り候様申ニ付。女房立腹致し。直ニ帰り候節。雷成由申聞候処。桟敷番申候。爰ハ御免の場所故。雷でも何でも不構。銭をたんと出スが御客成と申故。いよいよ立腹致し帰り候由。
  右雷は。平常市村座を贔屓ニ致して申置候ハ。若相撲共来り間違等有之候節ハ。早速知らせ候様申置候ニ付。平常共二丁目ハ気が強く相撲を麁略ニ致し候由。然ル処ニ今度雷の弟子を突候ゆへニ。翌日大勢ニて押懸候よし。
一 右相撲。二丁目へ押懸参り候節。壱丁目芝居三丁目芝居へも相断候上ニて。芝居へ仕懸候よし。
一 右騒動を聞て。釼山武隈雷三人。早駕籠ニて乗来り。大勢の相撲を差止候よし。
   右喧嘩ニ付。芝居贔屓の評
一 三月廿日。小柳常吉。女房弟子共五六人連。芝居見物に参り候処。定式相撲の桟敷ハ二ノ引舟故ニ。是へ入見物致させ候処に。もつと能き場へ入候様申候所。外桟敷大入故ニ残らず売切候由相断。 其上ニておまへ方ハ宜敷が。女中之分は桟敷代貰ひ度由申候ニ付。それなら女ハならぬが男ハ幾人来てもよひかとて帰り。翌廿一日相撲相談之上。凡百人計押懸来り。土間へそこ爰と二三人宛這り。 舞台へ上りて見物之客人ニ向へ。今日芝居ニ言分有之候間。見物之方々怪我無之内に出候由申故。見物ハ残らず出候得共。相手ハ壱人も無之候故。舞台ニて拾人計にてじだんだを踏候故。 廻り仕懸を踏こわし候由。右乱妨之内ニ。桟敷番五人。南御番所へ欠込訴致し候故。右ハ見物人ハ残らず出候跡へ。喧嘩見物之者入替りて大勢来り候得ども。相撲取是にも構わず。 又舞台をこわしも不致。手持不沙汰ニ候間。用心梯子を持来。看板ゆるゆるとはづし。観音奥山へ持はこびけり。
一 右喧嘩ハ昼頃ニ而。船の三曲の幕明前の騒動なれバ。
    三曲を楽しミ居たる甲斐もなく 曲事が出来て曲もなひわけ(藤岡屋日記6(巻三十九)http://tsubotaa.la.coocan.jp/chrono/18530321.htmlによる)
 
嘉永6.6.3是日[○嘉永六年(西暦一八五三年)六月三日。]亞墨利加合衆國水師提督彼理軍艦四隻ヲ以テ浦賀[○相模國。]ニ來リ、通信互市ヲ求ム。九日壬午[○嘉永六年(西暦一八五三年)六月○壬午、三正綜覧。]幕府浦賀奉行井戸弘道[○石見守。]等ヲシテ、栗濱[○相模國。]ニ應接セシメ、明年[○安政元年(西暦一八五四年)。]ヲ期シテ囘答スルコトトス。十三日丙戌[嘉永六年(西暦一八五三年)○丙戌、三正綜覧。]退航ス。[外交志稿。藤岡屋日記。柳營日次記。撰要永久録。](東京市史稿 市街篇46:650)
 
六月三日午の時頃、異国船、伊豆の沖に見えしが、忽然と下田沖に乗入る、未時相模灘を走り、千代が崎を越へ観音崎近く乗入、相州より早注進江戸に来る、……
○五日昼八ツ頃地震、夷人バツテイラニて所々漕行て測量す、乗組は十人水主廿人、磁石[高サ二尺周五寸]を見て、両人並居測量する者、ケタシニの如なる鉄に細き糸を付、夫ニ目をもり投込む、脇に筆者有て浅深を記す事、傍若無人也、又川越侯持場、観音崎の台場の図を写し、其上上陸せんとす、諸役人漸々諭して上陸を免さず、又々江戸近海を漕行測量す、……
○六日……江戸の方ニ走りし蒸気船、本牧を乗越、神奈川沖に至る、……
六月八日、町方御触書、夷国船内海へ乗入候節、様子ニ寄、火消屋敷ニて早半鐘打可申候間、右合図を聞候ハヾ町々火之見櫓ニても出半鐘打候様可致、尤町火消人足共、平日火事ニ出候節之通、消防道具所持致、早々可罷出候、……
○此頃江戸は町々冬月の如く、火の番厳重ニ、町役人共番屋詰切絶ず、鉄棒曳て廻る、此騒ぎニて米価小売百文ニ七合と成、是迄上白の価也、梅干抔も俄に価を倍す、
○十三日、諸家へ御触書出る、一、浦賀表へ渡来の異国船、昨十二日退帆致候ニ付、諸事平日之通相心得候、尤非常之御手当之儀も、各心配之筋無之様可被存候、六月十三日、所々御固の人数も段々引取たりとぞ、(きゝのまにまに 未刊随筆百種6:177)
 
亞船入港ニ就テ江戸大ニ動揺ス
浦賀奉行及ひ諸藩守衛の陣所より亞船一條晝夜を分たす注進汗馬並海陸飛脚の往來尤櫛の齒を挽よりも忙敷海邊に邸ある族ハ老幼婦人其所を具を持運ひ夜となく晝となく車馬の聲四方に喧しく或ハ武器調度之往來東邸西郭の奔走の如し南坊北街經緯織が如しさしもに廣き大都會錐を立べき所なく往還實に混雜たり……嘉永明治年間録巻之弐 十二オ
嘉永6.7.26觸五九七五 七月廿六日 公方様薨御之事[觸五九七五 七月廿六日 公方様薨御之事 體裁觸五四一〇→二一二八に同じ、尚觸五九七九・五九八二・五九八六・及五九九四を見よ]
觸五九七六 同 日 餌指漁師殺生差止之事[○體裁觸三〇二九に同じ、尚達二三六九を見よ]
達二三六五 同 日 御穏便中自身番并町中愼方ケ條之事[○體裁一九七九に同じ(以下略)]
大阪市史4下:2058
(同二十二日より五十日の間(幕府御他界に付、鳴物御停止あり)、鳴物御停止に付、金吾云、幕府とは、十二代将軍家慶のことにして、実は六月二十二日に他界せしを秘し、この日、発表せしなり。[ちくま学芸文庫 定本武江年表]
 
嘉永6.9.12達二三七八 九月十二日 御中陰も相滿候ニ付、自身番を御免被成候得共、木戸火之元等取締方弛不申様可致事[本文體裁達一九八五と大差なし、加ふるに左の附記あり、]
 右之通被仰出候處、未所作ニ致し候もの鳴物御免之御沙汰も無之儀ニ付、旁町〃物騒かしき儀 無之様可致、町〃木戸之義も、此節之通、暮六ッ時限り〆切可申、御組衆廻り方も是迄之通り 有之儀ニ付、其旨相心得、通例自身番其外共御觸面之趣申合、町内末〃迄入念相心得候様可被 相觸候、以上[〇達二三六五及二三七九を見よ]
 九月十二日申中刻  北組惣年寄 (御觸帳)(大阪市史4下:2072
 
嘉永6.9.17觸五九八二 九月十七日 鳴物之儀、所作ニ仕候もの計御免之事[○體裁觸五四一五に同じ、尚觸五九七五を見よ](大阪市史4下:2073
 
嘉永6.12.6觸五九九四 十二月六日 将軍宣下相済候爲御祝儀、公家衆御馳走御能被仰付候事、
 将軍宣下相済候爲御祝儀、去廿五日公家衆御馳走御能被仰付候、最早鳴もの有之候而も不苦主趣 ニ候、此以後鳴物御免之觸者有之間敷候、
右之通従江戸被仰下候條、此旨三郷町中可觸知もの也、
  丑十二月六日   信濃/因幡 (御觸帳)(大阪市史4下:2086
 
安政1.1.11○[安政元年一月]十一日具足御祝……
一、 被召出両番格奥詰 奥儒者 桓之輔惣領 成島甲子太郎
右被仰付旨。於御右筆部屋縁頬。老中列座。伊勢守申渡之。 (温恭院殿御實紀 984)
 
安政2.9.6同年[安政二乙卯年]九月六日 此年前後五六年頻ニ往来スルモノ、今堀・千坂・三郁・竹垣・・・・(杉浦梅潭「経年紀略」目付日記 文久2−元治1 57)
 
安政3.11.6安政三年十一月六日 講武所 第六小隊 指令士 世話心得 竹垣龍太郎(『講武所』1930.3.30 東京市役所 p66)(陸軍歴史巻18 64)
 
安政3.12.24辰(○安政三年)十二月廿四日 鹿倉以伯拜領町屋敷 本所相生町壱丁目百六拾坪 寄合醫師 添田玄春え 添田玄春拜領屋敷 下谷和泉橋通四百六拾四坪之内百弐拾六坪 御番醫師 鹿倉以伯え (東京市史稿 市街篇44:883)
 
安政4.12.22觸六一四二 同 日 市中爲繁榮、諸興行物并茶屋差免之事、
 此度市中爲繁榮、曾根崎新地・堀江・天滿郷等江新規芝居小屋壱ケ所ツヽ、并三郷通用ニ而能舞 臺相撲櫓壱ケ所ッヽ差免候、追而塲所取極、右芝居ニ而藝業之義ハ、操座・淨瑠理・舞大夫・説經 座等之内興行申付候、
 一 元伏見坂町・難波新地壱丁目・立慶町・吉左衛門町・宗右衛門町・御前町・崎吉町・堀江・天満天神社地・ 同所東寺町前・同所御鉄炮同心本屋敷地・同所大鐘寺前・生玉社地、右拾三ケ所是又土地爲繁榮、新 規ニ茶屋渡世差免、元伏見坂町・難波新地壱丁目・立慶町・吉左衛門町江是迄差免有之芝居茶屋之 名目は爲相止候、
 一 當表寺社境内ニ前〃有來候芝居小屋、先達而爲取拂候處、此度生玉・座摩・天満天神社・上難波町 仁コ天皇社・御靈社・玉造稻荷社・堀江和光寺・難波村法善寺・高津社等境内ニ而、全堀込柱縄からみ 小屋ニ而、操座・淨瑠理・説經座等之内興行新規差免候、
右之條〃今般江戸表より御下知を以申渡候、
右之趣三郷町中不洩様可觸知者也[○觸五五九八五六〇二・達二二八九・及二四八九を見よ]
  巳十二月     伊豆/佐渡 (大坂市史4下:2220
 
安政4.12.22達二四九〇 同 日 此度茶屋渡世芝居小屋等差免候ニ付而は、右場所外渡世致間敷事、并難波新地野側西横堀新築地之外ニ而、鳴物入之小見世物致間敷事、
  口達
 市中爲繁榮、此度元伏見坂町外拾弐ヶ所江新規ニ茶屋渡世、并生玉社外八ケ所江芝居小屋等差 免候ニ付而は、兼而相觸置候通り、隠賣女ニ紛敷候義ハ勿論、右差免候場所外ニ而、茶屋ニ似 寄候渡世、且難波新地野側西横堀新築地之外ニ而、軍書講釋昔はなしと唱、鳴物用ひ候小見セ 物等致間敷候、尤去ル亥年差止申付候、堀井仙助と名乗、能狂言ニ似寄候所業之義、彌以不相 成候間、此旨可令承知候、萬一心得違之者有之候ハゝ、嚴重可令沙汰候、
右之通三郷丁中并所〃受角地迄も、不洩様可申通候事、
  巳十二月  (同上)(大阪市史4下:2225
 
安政5.5.7然れども種痘の事尚多くの設備を要し又更に普及の方を 講ぜざる可らざるを以て同僚交友の間に説て種痘所を公設 せんと試み、安政四年八月下谷練塀町の大槻俊齋宅に會合 し此事を議するに到る、會するもの玄朴俊齋を始め戸塚靜 海、竹内玄同、林洞海、箕作阮甫、三宅艮齋外社中四五輩 議熟して~田元誓願寺前川路左衞門尉聖謨の拜領地を借受 けんとし聖謨も亦此擧を賛し進で敷地提供を諾す、茲に於 て連署して御内意伺書を差出し、翌五年正月十五日伺の趣 苦からざる旨老中堀田備中守書付にて仰渡さる、是に於て 江戸に門戸を張る蘭方醫八十餘名醵金して建築に著手し同 年春落成す、玄朴其門人池田多仲を留守居役と定め各醫師 協力して一般衆庶に勸誘し、一方内部は種痘診察鑑定の部 局を分ち、當番を定め四日目毎に種痘日を定め五月七日よ り開所す、世人是をお玉ヶ池種痘所と謂へり。(伊東玄朴伝 91
 
安政6.7  従弟 御小姓組(貼紙)「村松備中支配」(貼紙下)「戸田隼人正組」 私伯父竹垣三右衛門惣領 竹垣竜太郎
小泉家[久太郎]親類遠類書 大田区史 資料編 諸家文書1 262)
 
安政7.1.14一、 吉田猪左衛門悴百五十表、吉田源次郎より養子相談之 儀ニ付、藤忠来談、右源次郎義娘養女竹垣竜太郎妻ニ而、娘十五歳縁女也、姉二人[古山善一郎妻、晴光院様御次]、妻は元御先手水野采女組与力、秋山彦兵衛娘也。(林鶴梁日記6:19)
 
安政7.3.3戯れ諭して曰、凡今の書生議論紛々たれ共、其実あるもの絶てま れなる故、吏人の廉察するニも先ハ聞かぬまねして問ハずとなん。 然るニ僕独りつとめて沈黙セバ却て其疑を受ん、故ニ姑く偽学の 徒と流を同じて荀生の計をセンと欲する也。時ニ専ら交道をひろ むるの意あり。遂に又去て竹垣龍太郎の招ニ応じ其舎に寄客す。 龍太郎旗本の士なれ共、自ら能(く)洋学の非を悔て更ニ師友を 求め喬木ニ遷(る)の志あり。上巳の日(三月三日)龍太ニ誘ハれ 奇雪を墨陀堤ニ賞し倘佯して晩ニ及び舎に帰り始て桜田の義挙を 聞、終夜喜びて寝ねず。早旦諸友に会し相賀して曰く、天下の事 是より始て観るベけん歟。 (中村円太「自笑録」(文久3.2−4)中岡慎太郎全集p441)
 
安政7.閏3.18十八日壬子快霽直營無侍談阿幸氏来一壷芳山□飲夜竹垣氏邸後厰二更失火訪山岡氏[山岡宗右衛門?]頓熄 (硯北日録 559)原文
 
万延1.閏3.18萬延元申年申閏三月十八日
吉田直次郎拜領屋敷 澁谷笄橋百五拾坪 寄合醫師 杉本忠達
杉本忠達拜領屋敷 下谷和泉橋通三百三拾六坪之内百三坪餘 紅葉山火之番 浅井新三郎え
同所之内 弐百三拾弐坪餘
浅井新三郎拜領屋敷 麻布白銀御殿跡百坪  御普請役 浅見幸三郎え
浅見幸三郎拜領屋敷 赤坂藥研堀七拾五坪 小普請組奥田主馬組 吉田直次郎え
東京市史稿 市街篇46:115)
 
万延1.5.2申[○萬延元年]五月二日
大和守殿[○久世廣周。]丹阿彌ヲ以御下ケ、石見守[○中村時萬。]請取。 [御勘定組頭格寺社奉行吟味物調役]小俣稻太郎拜領屋敷 下谷和泉橋通弐百五拾坪 [小十人櫻井藤四郎組]安田益太郎拜領屋敷 同所 五拾坪 [初鹿野河内守組]高橋藤之助拜領屋敷 同所 弐百坪  奥醫師 伊東玄朴え (東京市史稿 市街篇46:141)
 
万延1.7.10 好事魔多し、玄朴を始とし當時の名醫が熱誠に依て成立せし種痘所は開所僅に半歳餘にして祝融の襲ふ處となる、安政五年十二月[11月※]十五日火下谷新屋敷より起り北風劇しく炎熖~田川を越え種痘所は遂に烏有に歸したり、應急の策として種痘所の事業は玄朴の家と下谷煉塀町の大槻俊齋方を以て是に宛て種痘施行の事は一日も休止せざるを得たり。然れども種痘所再建の事は須臾も苟且に附す可からず同志相會し附近に適當の地を相し、大御番内田主殿頭組白井謙太郎屋敷地二百四十坪同所小普請組初鹿野河内守組山本嘉兵衞屋敷の内百七十坪を以て種痘所敷地とし、再び建築に着手し萬延元年落成同七月十日より市民一般に種痘す可き旨諭達なりたり。伊東玄朴(伊東玄朴伝:95[※[安政五年]十一月大/十五日 丙戌五更後風威猛烈錬塀街裡火發炎〃漲空親知来救家什盡藏于庫遣家族於雪江家火至隔隣而熄至〃幸〃蓋本日之災及夜而滅南接京橋西及御溝東至馬喰街(硯北日録:498)]
 
下谷和泉橋通種痘所之儀、先達而家業之者共申合取建候處、此度相願、右種痘所に於て、同業之者共集會致し、牛痘之種痘致候旨、世上望之者共、勝手次第罷越、療治請候様可致候。
右之趣町中え可觸知もの也/右之通町奉行え相達候間向々え可被相觸候/七月
右之通大目付御目付え相達候事/七月十日/右件頭取信濃守相渡候に付記置張出候/萬延元年庚申七月十日/當直 伊東玄朴(伊東玄朴伝:97
 
[附記、二] 種痘
下谷和泉橋通り種痘所の儀、先達而家業之もの共申合取建候處、此度相願、右種痘所おゐて、同業 のもの共集會致、牛痘之種痘致候間、世上望之もの共は、勝手次第罷越、療治請候様可致候。
七月[○万延元年]
右之通御書付出候間、此旨町中可相觸候  (東京市史稿 市街篇46:166)
 
万延1.11.28同(申十一月)廿八日石谷因幡守上地
一、 小川町神保小路五百坪 小普請組初鹿河内守支配 山本加兵衛
  但、下谷和泉橋通屋敷差上爲代地渡 (東京市史稿 市街篇46:204)
 
万延1.12.2同日(○十二月二日)。平岡圓四郎上地
一、 麹町六丁目南横町弐百四拾坪 大御番内田主殿頭組 安井鎌次郎
  但、下谷和泉橋通屋敷差上爲代地渡 (東京市史稿 市街篇46:215)
 
万延1.12.14同[○申十二月]十四日。山本加兵衞安井鎌次郎上地
一、 下谷和泉橋通七百弐拾八坪 種痘所 (東京市史稿 市街篇46:215)
 
万延1.12.10申[○萬延元年]十二月十日。大沼又三郎[小普請組柴田能登守組:枕山の甥:鷲津宣光の叔父(唱義聞見録:86オ)]拜領屋敷
下谷和泉橋通御徒町百五拾坪餘 御普請元〆進退御普請役格 宮部潤八郎え(東京市史稿 市街篇46:220)
 
文久1.1.26〔附記、六〕操座出稼
 猿若町壱丁目 操座 吉右衞門  同町弐丁目  同櫓主 孫三郎/座元 九兵衛
 此もの共芝居之儀、天保度猿若町え引移相成候以來、不繁昌ニ而、興行難ニ取續、休座致居候内、芝 居小屋及大破ニ付取崩、願之上社境内ニおゐて興行相催候處、是又場所片寄、同様不繁昌ニ而潰 れ及ひ候。以來ハ右座方ニ携候もの共、多人數渡世ニ離れ、米價諸色とも高直之折柄、一同及難義 段相聞候ニ付此度出格之御仁惠を以、御城下を離、市中相応之場所ニおゐて出稼興行差免間、難有 可存。右ニ付而は此上在方等へ罷出興行致儀は勿論、市中寄場ニおいて操相催候義は、決而難相 成間、其旨を存、萬一紛敷及所業候もの有之候ハゝ、早々訴出候様相心得、聊も不取締之義無 之様可致。
但、場所其外之義は、調之上追而可及沙汰。
右之通被仰渡奉畏候。爲後日仍如件。
文久元酉年十一月廿六日
五人組  宗三郎/五人組 久助
  猿若町壱丁目操座吉右衞門煩ニ付代 惣七/同 彦七/同町弐丁目同孫三郎煩ニ付代 金藏/座元九兵衞煩ニ付代 勘助 /同 平八
右之通南御白洲ニおゐて被仰渡候。寄場ニ操相催候儀難相成旨、御文言も有之候間、爲御心 得御達申候。以上。
十一月廿六日[○文久元年]
濱源兵衞/村田平右衞門/村松源六 −撰要永久録  (東京市史稿 市街篇46:487)
 
文久1.10.28〔附記、八〕種痘所改稱
 種痘所之儀、以來 西洋醫學所 右之通相唱候事。 右之通被仰出候段、從町御奉行所被仰渡候間、組々不洩様可申継候。 文久元酉年十月廿八日 右樽藤左衞門殿ニ而被申渡候間、年番通達。−撰要永久録   (東京市史稿 市街篇46:465)
 
文久2.3.3西洋醫學所の儀兼而相達置候趣も有之候間、蘭科奥醫師申合時々見廻り可申候得共遂に修行人も相増候間、取締等之儀相心得候様可被致候林洞海儀も手傳候様申候間、諸事大槻俊齋申談可被取斗候事/伊東長春院え(文久二年三月三日)
伊東玄朴伝:100) 
文久2.6.8圖[○略] 下谷和泉橋通 西洋醫學所圍込地坪數百九拾六坪餘。
東 西洋醫學所。 西 道。 南 道。 北 西洋醫學所。 東 十五間四尺餘。 西 十五間餘。 南 十弐間。 北十三間弐尺餘。
下谷和泉橋通忠内鐵五郎屋敷、西洋醫學所圍込ニ被仰付候ニ付、右地所被成御渡之、四方間數、 繪圖面定杭之通、相違無之請取申候。爲後日仍如件。 文久二戌年六月八日  西洋醫學所俗事取扱出役 月岡勝次郎 御普請方下奉行 清水藤助殿/御普請方改役勤方助 神谷祐藏殿/ 御普請方假役 神谷兵左衞門殿  出役、御普請方同心肝煎役岩崎一作。同同心高須謙藏。吉野信之助。地割棟梁世話役上野彌太夫。地割棟梁平野定次郎。 (東京市史稿 市街篇46:675、684)
 
文久2.8 [正月十五日、老中安藤信行が水戸浪士平山兵介に 坂下門外で襲撃されて負傷するという、文久二年も 物騒な幕開けであった。 圭助は、相変わらず伊庭道場で剣術の稽古に余念 がなかったが、ある日村木から一人の旗本を紹介さ れた。関東代官・竹垣三右衛門の子息の竹垣龍太郎 である。年齢は、三十一、二歳であろうか、いかにも 育ちの良さそうな、さらっとした感じの人物である。(長谷川つとむ 東京帝大医学部総理池田謙齋伝 44)]
 
私の蘭學に志したのは、丁度私が江戸に出て四五年目のことでたしか安政戌歳[文久2]であ つたと思ふ。其頃竹垣三右衛門と云ふ關東代官を勤めて居た人の息子に、竹垣龍太郎 といふ旗下があつたが、此人が當時「グランマチカ」位は讀めたので、私にも洋學をやつ て見てはどうかと、頻りに勸めたがそも/\じや。前にも話した通り、私は當時攘夷仲 間に入て居たので、若い者のことだから常に其感化を受けたのは無論じや。そこで當 時友達などから、どうしても外人と爭ふには、我を知ると共に、亦彼を知らねばならぬ。 彼を知らずして戰ふとも勝つことはむづかしい。併し今の滔々たる蘭學者の輩は、西 洋の事情に通ずると、忽ち彼に膽を奪はれて、却て西洋崇拝家になつてしまうから駄 目だ故に足下の如き青年が、洋學をやつて彼の事情を窮め、後年機に臨で爲す處なく ては叶はぬなどゝまあいはゞ半分をだてられて居たので、私もいよ/\洋學をやる 決心をしたのじや。
所で一番初めの「エー、ビー、シー、」の手ほどきは、前に話した竹垣氏を煩はしたのだつた が私が此人の宅に居て、右の手ほどきをやつて貰つて居る内、恰もよし緒方洪庵先生 が醫學所の頭取になつて、大阪から來られて、丁度竹垣のすぐ隣住むで居られたも のだから[文久2.閏8]早速龍太郎さんの世話で、先生にョみ込んで貰た最も當時龍太郎さんは先 生の所へいつて、自分の所に居る書生に蘭學をやりたいと云ふものがあつて、今迄自 分が少しばかり教へて居るのじやが、どうか貴公の所へ置いてやつて下されぬかと 私を緒方の家へ置くつもりでたのんだのであつたが、緒方先生のいふには、私は大阪 の方では書生を内に置いたが、こちらへ來てよりは、そういふ書生は、皆醫學所へ入れ ることにして居るから、彼所へ入れたらどうですとのことで、それならばと醫學所へ 入れて貰つ次第じや。然し洋學を初めたのは、右に述べたやうに我を知り彼を知る 主義であつたのじやから、此醫學所にはいつたからとて、別に醫者に志したわけじや なかつた。唯此時分醫者でなしに、洋學の塾でも開いてゐたものと云へば、甚だ寥々た るもので、當時私の聞いたのは福沢諭吉と村田藏六の二人ばかりであつた。所が此兩 人共緒方の門人で、緒方は其大先生であつたから、私は此人に就くべしとしたのじや .右の村田藏六は御承知の如く維新の際、大村益次郎と改名した人で、九段の上の銅像 の主人公といへば、誰れも知らぬものはあるまい。
醫學所に就ては少し話して置くことがある。抑も緒方先生が、まだこゝの頭取に成ら れぬ以前には、大槻俊齋が頭取であつて、一番最初に顧問のやうに成つて居たのが伊 藤玄朴であつた。所で此時分の醫界の有様はどうかと云ふと例の幕府の奥醫者が非 常に幅をきかして居たもので、當時江戸で蘭學をやつて居つた西洋家などは、此奥醫 者から手ひどくイヂメつけられて困つたといふことじや。甚だしきに至つては、西洋 醫者は外科の外は、禁制だなどゝいふ勢で、最も法令で表面に禁制もせなかつたけれ ど、事實上そんな風に壓制したものじやそうな。これは私の養父がいつも話して居た (池田謙斎:囘顧録 p3−)
 
文久2.8.19八月十九日 晴暑強シ 晩曇 小雨降 風吹
一 朝七ツ過金川[神奈川]出立。九ツ時品川ニて晝飯。八ツ時廣尾屋敷に着。
(中略)
一 今日長春院登城之歸り持來ル御用召書附
緒方洪庵
右明十六日四時/ 御城へ罷出在之候事/ 閏八月十五日、
十六日
一 當番林洞海
一 御用召ニ付、五時より登城。拍扣候處、九ツ時比林洞海へ御祐筆より左之書附、出雲守殿御 渡之積り、御用多ニ付、其心得ニて受取り可申旨也。
   緒方洪庵
 下谷和泉橋通鳥居織部同所正木助女郎屋敷此度爲差上醫學所圍込ニ相成右地所 之内ニて頭取相勤候内拝借地被仰付候間伊東長春院林洞海中談地所請取候様可 被致候尤家作は自分ニて被取建追而家作之儀は相對ニて讓渡之積可被心得候
 
一 九ツ半比小笠原甲斐守より左之書附被渡
御醫師之義其家に規則相立候儀尤ニは候へ共向後漢科之家にても蘭科相學ヒ蘭 科迚も漢科相學候儀不苦旨去酉年相達候趣も有之候へ共追々西洋醫術御採用相 成既 ニ 御匙にも被 仰付候儀ニ付漢方而已心懸候御醫師も彌西洋療法をも相學抜群御用立候様相互 に可被心懸候事
一 御作事奉行へ達し書差之通
醫學漸續鳥居織部正木助実郎屋敷此度醫學所へ圍込ニ相成右地所之内緒方洪庵 江拝借被仰付候間坪数相應相渡殘地は醫學所御用地ニ可被致候尤御作事奉行江 可談旨出雲守殿被仰渡候依之御達申候  以上/ 閏八月、/奥御醫師 / 伊東長春院/林洞海 (勤仕向日記 緒方洪庵伝371−)
 
文久2.9.13醫學所引移届所左之通認メ、頭取大和守に差出ス。
奥御醫師 緒方洪庵
私儀先達而より伊東長春院宅に同居仕罷在候處手狭ニ付當分之内醫學所内ニ假住居支度旨奉願候處願之通被 仰付候ニ付昨十二日右醫學所に引移り申候依之御届申上候 九月十三日(勤仕向日記 緒方洪庵伝 416)
 
文久2.12.21文久二戌年同(○十二月)廿一日。[前項] 鳥居織部正木助次郎上地並行留道緒方洪菴拝借地共
一、 下谷和泉橋通五百七十九坪餘。 西洋醫學所(○朱)圍込地。 (東京市史稿 市街篇46:895)
文久2.12.24圖[○略] 下谷和泉橋通 西洋醫學所圍込地坪數五百七拾九坪餘。
東 御代官竹垣三右衛門、御賄方河島重五郎、道 西 御普請方同心吉野信之助、西洋醫學所 南 道。 北 御納戸中村泰次郎。 東 十七間五尺、六間餘、弐十壱間。 西 四十四間五尺餘。 南 十六間三尺。 北拾壱間弐尺餘。
下谷和泉橋通鳥居織部正木助次郎上地五百六拾四坪餘、行留道拾五坪餘、 此度醫學所圍込地ニ被仰 出、右地所之内緒方洪庵頭取相勤候内、拝借地被仰付候場所共都合五百七拾九坪、御渡之、四 方間數、御繪圖之面、御定杭之通、相違無御座請取申候。爲後日仍如件。 文久二戌年十二月弐拾四日  西洋醫學所俗事取扱出役 貝島嘉左衞門 御普請方下奉行 清水藤助殿/御普請方改役勤方助 山縣豐三郎殿/ 御普請方假役 神谷兵左衞門殿 御作事奉行佐々木信濃守渡之。外御用ニ付出席無之。  御普請方同心肝煎役市野正右衞門。同同心關口三平。野口吉十郎。地割棟梁世話役上野彌太夫。地割棟梁並吾孫子丈助。 前書御繪圖之通、屋敷境目立合候處、御改之通相違無御座候。爲後日仍如件。  上下持格御普請方同心 吉野信之助/ 御賄方河島重五郎病氣ニ付名代悴 河島重吉/ 御納戸中村泰次郎内 三井源右衞門/ 御代官竹垣三右衞門内 杉本金三郎 東京市史稿 市街篇46:887
 
文久3.4.24四月廿四日 講武所奉行支配取締役 講武所調方出役  平岡与右衛門/鈴木猪三郎/竹垣龍太郎
右被仰付旨、於御右筆部屋椽頬、老中列坐、豊前守申渡之、若年寄中侍坐。(藤岡屋日記11:63)

   講武所奉行支配取締役
文久二戌年五月初而被仰付、席之儀兩御番之上、高五百石以下之者江爲御手當十人扶持被下之。
竹垣龍太郎
文久三亥四月二十四日御小性組本多日向守組同斷出役ヨリ
  御代官三右衛門悴。
同年八月十三日講武所頭取 (講武所177)
 
文久3.6.22文久三亥年六月二十二日御目付ヨリ再役御先手次席御足高只今迄之通被下同年十月三日御目付江歸役被 仰付 竹垣龍太郎 陸軍歴史巻19 61
 
文久3.8.9文久三年八月九日。癸未。晴。是ノ日家ニ在リ。申牌前、参政田沼玄蕃頭簡ヲ投ジテ余ヲ其ノ邸ニ召ス。病ヲ以テ同僚小林榮太ニ託シ命ヲ請ハシム。玄審頭余ノ免職屏居ヲ傳命ス。監察高力直三・岩田半太臨席スルト云フ。余、内廷ニ奉仕スルコト十年、一朝ニシテ廢黜セラル。豈眷〃ノ情無カラン哉。又才駑ニシテ學ノ腐ナルヲ念ヒ、投閑置散ハ乃チ之ヲ分トス。宜シグ聖思ノ厚大ヲ感〃謝〃スベシ。[ここまで 前田愛:成島柳北121より引用] 小南竹垣羽倉伊澤等來吊三渓□卿不知而來、吊且賀者鯨池秋水及楠叔也大賀而去者六湟子也 原文(成島柳北 投閑日記 硯北日録649)(前田愛は『「小南鉉」は先輩の奥儒者小林栄太郎のことである』(成島柳北29)とするが、次の引用参照のこと)
 
一 御槍術御相手ニハ奥詰小南弦次郎罷出御小姓御小納戸之内ニ掛リ之者有之御相手申上候事
一 御劔術ハ柳生但馬守折々罷出御相手申上候御側向ニモ御相手掛之者有之御相手等仕候事
一 抱術モ御好被遊御角場ニテ度々御稽古被遊候御中リ者格別御覧御相手仕候御側向之者中々及ヒ不申候事
一 御學問御好被遊毎朝奥儒者小林榮太郎成島甲子太郎代ル/\罷出御素讀被遊御跡ニテ折々講釋被仰付 御聽聞被遊候御晝後御用閑之節并夜分者四時此迄和漢之通俗書物類御自身御讀被遊又ハ御側向之者へ御讀セ 御聞被遊且古今名將名臣等之事業等 御聞被遊若年之御小姓ヘハ分テ學問御進メ被遊候御覺ヘ殊ニ御宜一度入 御聽ニ候事ハ少シモ御失念不被遊人々驚入候事ニ御座候 (南紀徳川史 第三冊:280 昭徳公第五 御小姓頭取野村丹後守筆記)
 
[尚 成島と小南は姻戚 和鼎の娘が小南市郎兵衛撻考の妻(寛政重修諸家譜 第7輯:557)] [成嶋家先祖書にはこゝに又成嶋東岳が天保三年壬辰閏十一月二日其の妹の嫁いだ小南市郎兵衛の事に連累して五十日の間謹慎を命ぜられたことを記載してゐる。但し是亦其理由を明にしてゐない。然るにわたくしは偶然之を温古新聞記と云ふ無名氏の舊記について知ることを得た。(成島柳北の日誌 永井荷風全集16:277)](藤岡屋日記1:487− 、佐藤雅美 小南市郎兵衛の不覚 参照)
 
文久3.8.13  講武所頭取
文久元酉十二月十日講武所頭取向後御役名被成下、塲所高七百俵、席之儀は二丸御留守居席次(講武所162)
 
竹垣龍五郎(龍太郎)
文久三亥八月十三日武講所取締役ヨリ。
御廣敷御用人三右衛門悴。
元治元子九月四日御役御免。(講武所166)
 
文久3.8.17圖○略
市谷加賀屋鋪 奥醫師緒方洪菴屋鋪坪數弐百坪。 東道。 西 馬場 津田雄五郎。 大的稽古塲拝借地。 南道。 北 御使番服部中。 東西 弐十弐間壱尺。 南北 九間餘。 市谷加賀屋敷明地之内弐百坪、今度緒方洪菴屋敷拝領仕候ニ付、被成御渡之、四方間數、御繪圖之 面、御定杭之通、相違無御座奉請取候。爲後日仍如件。 文久三年亥年八月廿三日 奥醫師緒方洪菴内 吉田喜助 印 御普請方下奉行出役 宮路一平殿 御普請方改役勤方 山縣豊三郎殿 御普請方 森左太夫殿 東京市史稿 市街篇47:64
 
元治1.9.4○九月四日 講武所頭取 竹垣龍太郎
右御役御免之旨、於同席、同人申渡之、侍座同前。(藤岡屋日記12:145)
 
元治1.9.17同年[元治元]九月十七日 舊友竹垣龍太郎病死(杉浦梅潭「経年紀略」目付日記 文久2−元治1 72)
 
明治12.1.10○大坂よりの來状に藝人の一世一代名殘とて一景氣つけるハ珍らしからねど當地ハ一世一代で目をつく様なり先便に報ぜし巴太夫の角の芝居にてする一世一代をはじめ稻荷の芝居も焼後不入勝なりしを今度淨瑠璃太夫連が人形常芝居にすると一座無給金にて勤むるうち先年江戸にても評判よかりし長尾太夫が七十餘歳にて一世一代をやり塲代も安價[ねやす]ゆゑ初日より爪もたヽぬ大入なり又中にも可笑ハ千日前にて前にも興行したる雀ちう/\太夫(雀山雀[やまがら]の藝)も一世一代の看板を出し小鳥の諸藝をする最中一人の巡査が見物のうしろより立出其方達は貴重なる人間の身を以て雀山雀などに養ハるヽハ餘りに氣力のなきことと叱りつけらるヽ時見物も吃驚し何と挨拶するやらんと思へバ叮嚀に兩手をつき實にお説諭[さとし]の趣きに改心致しました本年[ことし]より正路[しやうろ]の商業につきますといへバ確[しか]と左様なら差許すぞと奥へ引込までハ眞の巡査とばかり思ハせる是が一世一代の口上がハりとハ妙に考へたもので有ます斯一世一代が流行ゆゑ尾上多見藏も歸坂したら屹と一世一代の狂言をすることならん云〃とありました(東京繪入新聞 第十七十一號p3 明治12.1.10)
 
 

その他の店名・人名
松若(鴻池善右衛門の事なり) 九代目 鴻池幸実
大坂今橋二丁目鴻池屋善右衛門と云ふは、近世日本第一の豪富にして、本姓山中氏なり。そ の門葉二百余戸皆鴻池を家号とし、またその中の大なるは諸大名に金銀を貸し、小戸の者は本 家に隷す。他に家産ある者、二百余戸の中に二人あるのみ。今の善右衛門を別号を松若と云ひ、 しやうじやくと音〔ず〕なり。松若より五、六世の祖に善右衛門、号を雅好と云ふあり。その人 好んで髷を大にす。時人これを学ぶ。(近世風俗志2:69 岩波文庫)
 
十代 善右衛門幸實 文化三丙寅年出生 嘉永四辛亥年六月廿日歿 享年四十六
幸澄長男前業ヲ襲フ 法號 實嚴宗献禪定門 (宮本又次 コ川時代大阪商工先覺者列傳 上方35:35)[次項参照]
 
九代目鴻池善右衛門 幸実 (鴻池幸実) 今橋鴻池本邸表屋門(今橋本邸表屋門)(豪商鴻池図録:12,74)
 
蔵王(三臓圓吉野五運なり) 歌國が十年努力の結晶たる『攝陽奇観』が、『許多脚色帖』と共に、大坂島之内鰻谷人参三臓圓本鋪吉野五運氏方に秘藏されてから、もう壱百餘年の歳月を経てゐます。歌國并に三代目中村歌右衛門の庇護者が、吉野家五代目の庸齋翁であつたことは、既に記して置きましたが,暦を繰つて見ますと、文政十年丁亥二月十九日、我が歌國が永久の眠りについた時は、庸齋翁、尚いまだ三十歳にして、吉野家四代目の寛齋翁は、まだ五十九歳で存命中でございました。……今日吉野家に秘藏されてゐる歌國の『攝陽奇観』は、無論、庸齋翁の庇援をうけたには、相違ありません。しかし、歌國が『攝陽奇観』の編集を思ひたつたのは、庸齋翁が未だ二十歳前後のことで、歌國と庸齋翁との間には、年齢に於て二十餘歳の差がございます。この點から見て、四代目寛齋翁が黒幕にあつて、人知れず援助されたものとも考へられます。聞く所に依りますと、庸齋翁には本宅附近に別宅があり、そこに歌國が始終出入して、『攝陽奇観』の稿をつゞけ、『許多脚色帖』を蒐集編成したものとも傳へられてゐますが、この二種の貴重なる文献は、かくして寛齋庸齋二代の庇護によつて大成されたものと見るが妥當と考へられます。……庸齋翁の趣味は、茶道の『寂』で、みづからは千家表流の奥義を極め、この道では、當時鴻池九代目炉雪翁−今の鴻池男爵の祖父に當る方−とは殊に深い交誼でありましたが、その庸齋翁は嘉永四年(我が二五一一西暦一八五一)六月十八日、五十四歳で歿し、その翌々日−六月廿日−には、鴻池の炉雪翁また四十六歳で亡き人の數に入つたのでした。茶道の交り深かつた二人が、三日隔てず歿したことが、何かの因縁の如く思はれますに、庸齋翁が常に師事してゐた小竹篠崎先生がやはり此年五月八日に七十一歳で亡くなってゐます。(攝陽奇観2 濱松歌國傳 補遺その一 3)
 
人参三臓圓人参三臓圓)   五機内産物図会 三臓圓五畿内産物図会
東平野町五丁目なる吉野五運氏の邸は園池の雅趣を以て名あり、もと約壱千壱百坪の廣さを有せし が、市電開通の爲め其の大部分を買収せられて區域を縮少せしは惜むべし。此の附近は徳川時代にあり ては老松の盤舞せる郊外にして、富豪の別邸所在地たりしといへば、同邸の如きも此の類なるべし。園 池は縮少したるも尚高低相交り、奇石を按排し、樹竹巧に點綴せられて閑雅の風致を添へ、茶亭其の 間に散在せり。而して此の園池茶亭は總て千家表流に則り、茶亭の寂照亭は如心齋・縮遠亭及び帶雪庵 はそつ啄齋・乍庵は吸江齋の指圖に依りて成れりといふ。寂照亭の額は海門禪師の筆にして、帶雪庵の 額は篠崎小竹の筆なり。乍庵には別に額を掲げず、吸江齋の筆に成れる乍庵の二字を其の柱に刻せり。 柱は長柄橋の埋木なりといへる珍木なるを以て、「ながら」の邦訓に依りて乍庵の名を命ぜるなり。蓋し 同庵は都下に其の比稀なる茶亭なるべし。園側に曲塀あり、其の壁に収めて保存せる古瓦は、方圓長短 其の形を異にし、各種の花卉紋章又は文字を焼込めるものあり。文字は不明なるものあるも、其の認 めらるゝものには三村宮・元興寺・法起寺・法隆寺・興n宦E東大寺・西御塔・大安寺塔、長谷寺・ 真言院・寶藏戒壇院・天lウ年五造[君看羽顔色不語似無憂]・瓦作者山崎等あり、 數寄に依り同家祖先の蒐集せしものなるべし。而して前記の乍庵には諸名士の記文ありて同家に所藏 せらる、今其の二三を摘記せん。(大阪府全志 巻之二:481)
 
ろ十
 笹瀬連 ろ十 (ろ十 文政6.11 Kabuki heroes on the Osaka stage 1780-1830 292)
 
 ろ十 東前頭 東前頭(浪花素人浄瑠璃名寄大数望)
ところで、番付(弘化4)において「東西時代世話」の部で「上上吉」にランキングされた川竹組の「ろ十」は、浮世絵にも描かれた有名な歌舞伎の贔屓と同名である。「川竹」とは先述したように、道頓堀の芝居町を中心とする組連であるから、この「ろ十」は手打式を仕切るなどの活躍をみせた、歌舞伎の贔屓連中と同一人物であろう。(神田由築 大坂の芸能と都市民衆 身分的周縁の比較史:452)
 
手うち連笹瀬 船場の好人笹屋小兵衞瀬戸物屋伝兵衞ヒイキ手うち連といふ一群をかたらひ両人魁首と相成り笹屋瀬戸物屋の頭字を用ひて笹瀬と号く……往古の手打連は黒き金巾木綿の着附に帯は白絖いさゝか金糸の縫箔を交へし頭巾は緋の毛羽ニ笹瀬 大手などゝ切付して甚麁なる物なりしかど ( 歌舞妓芝居贔屓手打 笹瀬連開発 摂陽奇観3:199 参照)
笹瀬連手打(笹瀬連中手打ちのてい 上方37:13)
 
倉田庄助 深川かたくり橋 倉田庄助様 (弥太夫日記 第一 近世文芸の研究資料編 263)
此たび四月中ごろ 付倉田庄助様方にて 花上野志渡寺 長子太夫/新関取のたん 賀太夫/三勝半七酒屋のたん 理太夫 (弥太夫日記 第一 179) 
がたくり橋
蓬莱橋里俗ガタクリ橋(花咲一男:雜俳川柳江戸岡塲所圖繪)
 
上州屋清兵衛 二〇 竹木炭薪問屋 川邊捌番組 小網町弐丁目 吉兵衛地借 上州屋清兵衛 (新修日本橋区史上783)[か?]
 
學加屋(そうかや) 両國藥研町 会席即席 御料理 草加屋弥助 (江戸名物酒飯手引草 嘉永元年)
草加屋安兵衛 (江戸買物獨案内 文政七年) 草加屋安兵衛 (狂歌会席料理名寄双六)
 
吉原角海老屋 京町一丁目 海老屋吉助・海老屋吉蔵
京町一丁目 海老屋文化13海老屋吉助※1
文政6海老屋吉助※2
弘化3海老屋吉蔵※3
嘉永3海老屋吉蔵※4
嘉永5海老屋吉蔵※5
嘉永7海老屋吉助※6
※1 ○ [文化十三年]五月三目、タ七ツ時新吉原京町壱丁目海老屋吉助方奥二階より出火致し、廓中残らず焼失也。(藤岡屋日記1:185)
※3 ○ 弘化三秋新宅細見呼出し之分御職遊女名寄狂歌 栗原常喜述
    ……
    海老屋吉蔵抱 鴨緑
  あいなれし君が姿ニ愛敬は霞に匂ふ梅柳かな
    ……
    右同断を  須藤睦秀詠
    ……
   角海老屋吉蔵内
  大井とハ誰が呼とめしことの葉ぞ花も実もある君がよそおひ 大井
  吉原も誰も艶をあらそひてミな全盛の花の君たち 艶
  日の本ニ二ツとあらぬ吉原は色の世界のこゝが大廓 大廓
  見る人ハ真の心うごかして恋の色ニは染のすけかな 染之助
  人毎ニうかれて来たる吉原の廓の花と遊ぶ胡蝶かな 胡蝶
     ……  (藤岡屋日記3:84)
※4 ○[嘉永三年] 二月廿八日
 北町御奉行井戸対馬守腰、今日新吉原町御巡見ニ付、其節、中の町茶 屋江出居候遊女名前、左之通。
  大門より右側ニ出候分
    ……
    同[京]町一丁目。 海老屋吉蔵抱
  同町 尾張屋太郎兵衛方   胡蝶
    同人抱
  同町 湊屋清兵衛方   大廓
    ……(藤岡屋日記4:89)
 
吉原細見
※2※5※6
吉原細見 文政6 海老屋吉助吉原細見 嘉永5 海老屋吉蔵吉原細見 嘉永7 海老屋吉助
文政6年春嘉永5年春(嘉永7年7月)
 
香蝶楼国貞 新吉原京町一丁目角海老屋内  鴨緑 大井  大廓 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 
国芳 新吉原京町一丁目角海老屋惣二階之図 京町一丁目角海老屋惣二階之図
 
 
太田屋徳九郎 入札問屋 (東京材木仲買史参照)
 太田徳九郎店舗 太田屋 材木問屋で大地主である太田屋徳九郎氏の店舗と住宅は島崎町の一劃を占めていた。広い店の奥の間からは、荷主を相手に囲碁や将棋の音が洩れ響いて、大店のゆるやかな情が漲っていた。太田屋の入札は良材の供給者として、角屋仲間に評判がよかった。(吉田好彰監修 木場の歴史 口絵)
 
雜賀屋善右衛門 角屋同盟 安政5年角屋同盟月行司
 雑賀屋善右衛門印 (雜賀屋治郎兵衛・善右衛門印鑑(東京材木仲買史309))
 能役者は芝居を見る事を禁じられありしと芝居役者には能の見物を許さざりしと聞く夫故に市川團十郎が我家の十八番勸進帳の爲參考に能の安宅を拜見なしたく多年の宿望を氣の毒に思ひ木場の材木問屋雑賀や[善右衛門かどうか不明]の主人自宅に立派なる能舞臺ありし故能役者(寶生太夫?)招き安宅を演じさせ密に團十郎に内見させし事ありしと(江戸の夕榮 88
 
良材屋木場藏 三タナ鹿嶋 木バ萬和 わぐらてノ字 木バ雜治 やぶの内遠徳 中木バ太田屋 おなじく宝田屋 おなじく遠太 雜善 栖原 信庄 万又 小川屋 木内 遠三 穂坂 角店 信金 信宇 枡屋 金屋 樫木屋 信和 、雜清 丸与 雜仙 (流行一覧歳盛記 慶應元年 江戸明治流行細見記167)
 慶応元年頃江戸諸商店   材木問屋  鹿島、萬和、ての字、雜治、遠コ、太田屋、寶田屋、遠太、雜善、栖原、信庄、萬又、小川屋、木内、遠三、穂坂、角店、信金、信宇、桝屋、金屋、樫木屋、信和、、雑清、丸與、雜仙 (江戸の夕榮 51 同書慶應元年頃江戸諸商店の項 上記歳盛記による 酒問屋:新川屋酒藏 呉服太物問屋:太物屋呉服郎 紙問屋:大高屋段四郎 西洋織物問屋:横濱屋五郎地 同器具器物問屋:異物屋道九郎 茶問屋:花香屋黄之助 小間物問屋:小間物屋尾呂七 材木問屋:良材屋木場藏 香具屋:香具屋小間吉)
 
 嘉永から幕末に至る角屋の様子を《木場材木入札売買沿革》はつぎの如く記 している。 新に入札問屋と角屋同盟との間に入札売買契約が成立した。それは嘉永四年 の春のことであった。この材木問屋と角屋同盟との間に取扱われる材木の産地 は、紀州・尾州・土州・遠州・参州・騨州其地[他]、その材種の主たるものは、 檜・杉・松・樅・栂・欅・椹・ヒメコ松等である。そして当時は椹丸太の外は、丸太材は皆無であった。
 嘉永年間成立した入札問屋と角屋同盟の人名は
  入札問屋 太田屋徳九郎 [他11名 略]  
  角屋同盟[同名とも]  雜賀屋千蔵 雜賀屋治郎兵衛 雜賀屋善右衛門 [他 15名 略]
 物品集散の主なるものは、新宮・尾州・遠州材等で、其最多数を占めていたのは新宮材であった。売買の形式は入札と値組の二種で、其物品陳列等は現今とは大いにその趣を異にし、尺以上尺四以下は、筏組とし、尺五以上の大材は、六七本位を束ねたる儘で陳列されたのである。その他、落し筏・桟取入札等も行なわれた。当時紀州新宮藩からは材木御仕入方中谷久左衛門氏が、江戸材木販売監督として出府し、この入札売買法を讃美し、各宮材受問屋を集めて、新宮材の販売は入札を主とすることに定めたことなどが一層この入札を隆盛ならしめたのであった。そして入札開札の場所は、当時其名声の高かった深川八幡境内の二軒茶屋松本で執行された。如何に当時の取引が寛裕であったかがうかがわれる。入札代金仕払期限は、六十日以上、七十五日以内とし、毎月十四目、三十日を以て仕払日と定めていた。当時角屋同盟間の在荷高は、各々一万尺〆以上に達し、これに問屋在荷を加えると優に四五十万尺〆の多きに達していたのは、一つは武家建築が盛んであったためでもあるが、火災時代の江戸民衆の需要の盛んであった一面がうかがわれる。(東京材木仲買史315−)
 
名倉彌次兵衛(知重) 嘉永3.2.4沒
米沢丁二丁メ 正骨 名倉彌次兵衛(医家明鑑(嘉永5年刊)) 
書[家] 忍齋 字千金名龍渓 號 拙誠堂 大坂町 名倉弥次兵衛 江戸現在廣益諸家人名録二編 同翻刻
 
名倉弥次兵衛系図(名倉弓雄 江戸の骨つぎ23)
 
 われ、弟子鴻蔵を連れて名倉へゆく。最う遅いゆゑ療治場も引け、奥にて手柄山・小柳・鰐石(角力)などの関取衆と酒が始まりゐる。旦那「どうした」といふ。われ「スッポン突きに落ちました」と いふ。旦那首を探り見て「イヤこいつはとんだ事をした。万吉万吉とお弟子を呼び「鶴がとんだ怪我をしたが手をつけずに浅黄を塗ってやってくれ」と万吉われを連れていって、浅黄の薬を塗り、ほかに二包み薬をくれ「翌日一日たってお出。これは酢で解いてぬりなさい」とどうもせずにこれだけで帰宅す。来る時はさのみ痛みもなかりしが帰ってからちょっと首を曲げてもヅキ/\痛み、ロをきいても疵所へ響き、その儘横になったきり、物もろく/\いへず、鴻蔵傍にていろ/\世話をしてくれたが、十日目には是ほどな怪我も大きに快くなりしゆゑ、礼がてら三階へ遊びにゆく。皆々「よく早く癒った。遉が名倉さんだ」と誉める。(中村仲蔵 手前味噌208)
 仲蔵が怪我をした日、知重と盃を交わしていた手柄山、小柳、鰐石は、そのとき(天保十四年)の 正月の番付で見ると、鰐石改め劔山[つるぎざん]谷右衛門が東の大関、小柳常吉が前頭二枚目。手柄山とはそのとき東の関脇……つまり鰐石の次の地位にいる湖東山文右衛門の前名である。湖東山もかつては大関であり、小柳ものち大闘を張る。かなり豪華な客であったわけだ。(江戸の骨つぎ 63)
   手紙には当時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉弥次兵衛と申候而、此節高名の骨接医師、大に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人参候故、早朝参候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行医の待合の光景も亦古今同趣である。次で寿阿弥が名倉の家に於て邂逅した人々の名が挙げてある。「岸本𣑊園、牛込の東更なども怪我にて参候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅、其節御噂も申出候。」(森鴎外 寿阿弥の手紙)
 
劒山谷右衛門 ▲劒山谷右衛門 剣山[つるぎやま]は、その生涯に於て前半不知火と頡頏し、後半秀 の山とこう翔す、彼は横綱免許を得ざりしと雖ども、決してこの二人に下らざり しなり、彼は越中富山の産、年寄二十山の門人なり、阿武松の教育を受け、鰐 石文藏の名は初めて文政十年十一月の番附面に、序の二段下より十一枚目に現 はれぬ、彼の昇進は頗る速し、次場所の文政十一年三月には、十八枚を飛んで 三段目の尻より三枚目に上り、同十月には、二十七枚を飛んで三段目筆頭とな り、翌文政十二年二月には、九枚飛んで二段目上より二十一枚目となり、同十 月には五枚上り、同十三年二月には二枚上り、十月には又少しく上りて九枚目 となり、天保二年二月まで其地位に居据る、同年十月は一枚を進み、翌天保三 年十一月には更に三枚を上り、翌四年二月には、又進んで二段目上より四枚目 の處に上る、この塲所に、不知火のK雲は、漸く西の方二段目八枚目の地位を 占む、故に劔山は、其初め昇進極めて早かりしも、次第に遅重となり、遂に不 知火に一鞭を輸せしなり、鰐石の劔山、同年十月には進んで二枚目となり、同 五年正月には幕尻に入幕 す、彼この位置にあるも の二塲所、六年の正月は 進んで前頭五枚目となり、 その十月には又進んで同 じく三枚目となり、翌七 年二月には同じく筆頭に 進み、同年十一月遂に小 結の榮位に上る、この塲 所に對敵の不知火は、尚K雲と稱して二段目筆頭となり、秀の山の天津風は、 同じく其三枚目に止れり、されども鰐石小結にあるもの多年、小柳の手柄山、 及び平遺志、K岩等大關關脇の地歩を占めて讓らず、彼その下に屈しつゝある間 に、K雲は濃錦里となり、遂に一躍大關に上り、天保十一年横綱免許となり、 天津風の立~亦關脇に進む、然して彼の大關となりしは、天保十三年の春塲所 にして、爾後嘉永五年まで大關の地位を落さず、寧ろ横綱の不知火、秀の山に 比し持久力があるを示し、その引退は秀の山引退後四塲所を經たる後なりし、こ れ實に劔山の名譽といふべし。 彼の實力は如何といふに、其勝敗の數よりいへば、不知火に負越二、預り二、 無勝負一にして、秀の山とは勝敗共に三、引分四回なり、要するに彼等二人と は、兄たり難く弟たり難き關係を終始持續せり、又彼の出身は稻妻の晩年に當 りしを以て、稻妻には勝味多く、四回の手合中、勝一、引分三なり、これに反 し、猪王山に四たび敗れ、荒熊に二たび、一力に二たび天津風に二たび敗れ、 柏戸とは負二、勝一、引分一といふ關係を有せしは、彼の老境に入りし後、こ の新進の敵に會せしを以てなり、先代梅ヶ谷の大達に敗れ、小錦の梅の谷に敗 れしといふも、一には新進の鋭氣を以て老境の力士に對せばなり、これ必ずし も強弱の辨とは爲し難し。
剣山谷右衛門 (相撲大鑑p236−剣山谷右衛門
 
嘉永五年 ○ 角觝人剣山谷右衛門、五十三歳。十六年続て東の大関を勤む。(定本 武江年表 下:43 ちくま学芸文庫)
   
小柳常吉 ▲小柳常吉 小柳常吉は上總國高根の産なり、初め緑松といふ、阿武松緑之助の門人にして、天保七年二月の番附に、二段目九枚目に緑松常吉の名見ゆ、 (前塲所の番附に緑松慶次郎の名あり同人には)彼同八年正月には二枚進みて七 枚目となり、同年十月、大關小柳長吉手柄山と改名せしを以て、彼は師の前名 を承けて小柳常吉と稱し、一 枚上りて六枚目となる、同十 年冬塲所に二段目筆頭に進み、 同十一年には入幕して幕尻に 据り、十二年春西の方へ席を 移せしが、十三年復東に返り、 弘化二年冬小結に上り、嘉永 三年に關脇に上りて、同五年 大關の榮位に進む、後安政 初年に引退せり。 小柳常吉は極めて鋭氣ある力士の如し、天保十五年の春塲所に、十日の相撲中 唯一日塲に上り、然も横綱不知火を倒せし如き、無比の大快事あり、但し不知 火、秀の山に對して勝味少く、不知火とは勝二、負四にして、秀の山には一回 勝ちしのみ、負八、引分五なり、其他鏡岩と勝一、負二、引分一、荒馬と勝三 負一、引分五、猪王山と勝二、負二、階ヶ嶽と勝四、負四、荒熊と勝一、負二、 引分一、六ッヶ峯の鏡川[さかひがは]と勝二、負二、引分一、K岩と勝一、負二、引分四、 一力と負二、引分二、象鼻と勝一、負二、室川と引分三 有したるが如し。
小柳常吉相撲大鑑p245−)小柳常吉(国貞 三枚続の内)
 
鏡岩濱之助
鏡岩浜之助
 
鰐石鏡岩小柳
天保5.10東前頭5 
天保6.10東前頭3 
天保7.2東前頭2 
天保7.11小結 
天保8.10前頭1 
天保9.1東小結東前頭6 
天保9.10小結東前頭3 
天保10.3小結東前頭2 
天保11.10東小結東前頭1東前頭3
天保12.1西関脇東小結西前頭2
天保13.2東大関東前頭1東前頭2
天保14.1劔山に改名東小結東前頭2
天保15.1東大関東小結東前頭1
弘化2.10東大関東関脇東小結
嘉永3.2東大関西関脇東関脇
嘉永3.11東大関西大関東関脇
嘉永5.2東大関西大関東関脇
嘉永5.11 西大関東大関
江戸時代之角力 相撲起顕)
天保14年長月相撲番付天保十四年正月番付) 弘化4年11月相撲番付(弘化四年十一月番付 相撲起顕九輯)  相撲起顕十輯(嘉永二年二月十一月番付)
 

江戸の寄席名資料
 
明くる申年正月初席より一年中出勤の場所
  一、梶太夫出席始終
堺町新道 高松亭 /久保町 松村 /銀座四 大丸新道 /小田原岸 鶴本 /かはらけ町 万寿亭 /馬喰町 初音 /浅草 馬道源助 /両国 長左衛門 /しんば 君川 /牛込 わら新 /麹町 万長 /竜岡町(霊岸島) 鈴岡 /すきや町 山本/小網町 川一 /深川 一の鳥居 /するが町 稲本 /木挽町 江戸一 /東両国 こり場 /霊岸島 大亀 /弾正ばし 大辰 /四谷押原 末広 /芝明神 若竹 /外神田 若松 /同玄坂 栄助 /外神田 ふじ本 /京ばし 金沢亭 /かやは町薬師 宮松 /湯島天神 寿亭(染太夫一代記) 
 
す木や[数寄屋]町 山本 /芝源助丁 今井 /杉丁 千代松 /音羽丁 黒川 /神田かし丁 源太郎 /長谷川丁 鶴本 /かはらけ[土器]町 萬寿 /れいかん嶋 大亀 /京ばし 金沢 /日本ばし さの[松] /ふな丁 山本 /久保町 松村 /よし丁 釜金 /一の井 拾二軒 /油津町 高松 /つきし 寒橋 /紺屋町 寿 /木挽丁 むさしの /こんにゃく嶋 川はた /竹川町 藤助 /瀬戸物丁 なる嶋 /金沢 宮金 /麻布 西高 /深川三角 古山 /鎌倉かし 龍かん[閑] /青山 萬喜 /かうし町 万長 /両国 頭庵 /両国 橘屋 /深川 中町 /上野 吹ぬけ /上野廣小路 三光亭 /[麹町]十三町目 すし腹[忍原] /かやは町 薬師 /小網町 大市 /木挽町 江戸一 (弥太夫日記 嘉永四亥四月東行 202)
 
江戸細選記 寄席江戸細選記 寄席江戸細撰記[早大本:江戸明治流行細見記(太平文庫27)に云うC本]
桐畑 一ツ木 万長 平川 赤四ツ谷麹次郎/ わら新 原丁 八わた 牛市が谷小日蔵/ ○下浅席寄家 あら木? 竹丁 天神社内 ゆ嶋や本郷郎/ 吹ぬき 三橋亭 上野屋廣次郎/ 観音地内 馬道? さるわか丁 河竹屋外七/ 太平記 こりば 林や 橘や? 鈴木 長左衛門 兩ごく屋□次/ 青柳 清川 小泉 宮松 大ろじ 山本 人形傳馬やてふ/ 染川 山のゑ 小柳 藤本 大よし 北川 内外神田屋よ勢/ 石原 三ツ目 龜戸 本所屋席蔵/ あい川 松川 千代つる 中橋屋近次郎/ 佐の松 平まつ 千代竹 金さハ 京橋屋席蔵/ 武蔵の 宮本 金福亭 南八屋つきじ/ 石川 しけ松 山本 内山丁 尾張屋数寄松/ 三ツ角 つるせ 大根 あさ田 □□□八丁屋堀次郎/ 川ばた 大龜 永代 靈がん屋しま/ 岩長? 鳥居? 中村 水ば □はし 深川屋よ勢/ 松村 八かん丁 大こく亭 幸屋久保八/ 芝口三柴井丁 金すき 芝通屋寄二郎/ 万寿亭 春日 飯倉屋三田七/ 梅□亭 伊勢本 平川屋天十郎/ ○席亭寄家 [一欄読めず]/ 津賀田 宝來亭? 福本 本町屋へん/ 倉田 君川 宮松 四日市 日本橋橋蔵(江戸細撰記 嘉永6年 )
 
○落語席家 きやうばし常磐てう 佐の松/日本ばし せと物丁 い世本/かんだ りうかんばし りうかん/そとかんだ わらたな ふぢ本/にほんばし よろづてう 一力亭/日本ばし 木原だな 木原亭/江戸ばし 四日いち 土手蔵/かやばてう 宮ま津/いまがハばし 山のゑ/あさくさ ひろかうじ ひろ本/淺草ミなミ馬道 西の宮/下谷池のはた 吹ぬけ/大傳馬町 赤岩横丁 清川/おはりてう 石かハ/ かうじまち 四丁目 萬長/あかさか一ツ木 一ツ木亭/芝 土葢まち 萬寿亭/ おなじく 神明まへ 松もと/ふかかハ さんかく 古山亭/四谷 おしばらよこ丁 おし原/音羽 目白亭/下谷 金杉 竹の内/ れいがんじま 川ばた/すきやがし 山もと/下谷ひろかうじ 三橋亭/三田 春日 春日亭/ほんがう四丁目 あらき/○軍談定席家/あさくさ 御門うち 太平記場/ぎんざ いち よこてう 㐂代竹/矢大臣門内 經堂弁天山 定席/きやうばし だいこがし 都川/下谷ひろかうじ 本牧亭/ おなじく 池のはた 松山亭/今川ばし 染川/ かんだ 小柳丁 小柳亭/よしてう 中川/ ゑどばし 四日いち 定席/ 中ばし うめ立地 松川/(流行一覧歳盛記 慶應元年 江戸明治流行細見記201 良材屋木場藏の項参照)
  寄席
 寄席は各所にあり講釋の定席あり落語及び色物と稱へ音曲八人藝足藝手品寫繪 男及女義太夫新内節、手踊、芝居話と種々あり寄席の重なるものは、(中入に茶と菓子を 賣りに來る同時に前座の役コとして鬮を賣に來る)
京ばしときはてう左の松、日本ばし瀬戸物町い世本、~田龍閑橋りう閑、 外神田わらたな藤本、日本ばし萬町一力亭、日本ばし木原店木原亭、 江戸ばし四日市土手藏、かやば町宮ま津、今川ばし山のゑ、四谷おし原よこ町おし原、 音羽目白亭、下谷金杉竹の内、れいがんじま川はた、すきやがし山本、 下谷廣小路三橋亭、三田春日春日亭、本郷四丁目あらき、浅草廣小路ひろ本、 同南馬道西の宮、下谷池はた吹抜、大傳馬町赤岩横丁清川、おはりちやう石川 麹町四丁目萬長、赤坂一つ木一ツ木亭、芝土葢まち萬壽亭、同じく~明前松本、 深川三かく古山亭
  軍談定席 (講釈場にては鬮を賣りに來らず)
浅草御門うち太平記場、銀座一よこ町喜代竹、矢大臣門内經堂辨天山定席、 京ばし大根がし都川、下谷廣小路本牧亭、同じく池はた松山亭、今川橋染川、 ~田小柳町小柳亭、よし町中川、江戸ばし四日市定席、中ばし埋立松川
 軍談晝席には、短冊形の盆の内に菓子を入れて客の間々に出して置き客の自由に取るに任す 一個八文ヅヽなるに誰ひとり代價をごまかす者なく講釋釈場の道コを守るの美擧とす。(江戸の夕榮 107 [寄席名、記載順は前項『歳盛記』と同一])
 
新株屋世勢 伊世本 吹ふき 万長 石川 宮松 大川亭 武蔵野 林屋 松岡 山二 こりば わら新 押原 川端 川よし 松本 一ツ木 万寿 富吉 日の出 竹の内 荒木 藤本 武熊 山の恵 金沢 西の宮 高橋 青柳 榎本 廣本
軍談屋せき 太平記 染川 本牧 繁松 切通 淺草門 三社前 東両国 筋違 翁社 青柳 三ツ木 喜代竹 松川 黒江 富松 荒川 塩一 隼町 橘町 谷川 小柳 交代 翁亭 土橋 福山 初音 (歳盛記 明治元年 江戸明治流行細見288−289)
 

嘉平次の笑い
もちろん、長門の観察は外れなかった。そして江戸では予想以上の人気を集め、それは修業に役立つとともに大きな成果を挙げ得た。尤も、旦那芸出身とはいえ、彼自身天分はあった上に、修業には人一倍の労苦を厭わなかった。彼は『三日太平記』の「松下嘉平次住家の段」で大当りをとったが、それには一方ならぬ苦心があった。すなわち、この一段では嘉平次の笑いが皮肉至難、特にこの時代までは「笑い」を重大視すること現在とは比較にならなかった。しかも、嘉平次の笑いは横に寝ていて笑う。「うたたねながら高笑で、ウムハハウムハハ………」と力一杯大きく笑うのだ。そこで彼はこの笑いに苦心したが、その地理から天王寺の五重の塔に目をつけた。彼は自分でその塔の中へは入って、塔の外に人を立たせておいた。そして初めは二重の塔の辺で寝て、このウムハハを長く笑った。そこで外にいる人に、外へ聞えるかと聞く。聞えると分ると今度は三重の塔の上に上る。そして寝てまたウムハハと笑う。聞えるかと外へ聞く。聞えるとわかると今度は四重の塔の上に寝る。そしてここでも寝て笑う。が、遙かに下から聞えるとの返事で、今度はゆか遂に五重の塔の上に寝て笑う。それでも下へ聞えるのを知ってなおその上に、そこで何日か練習して、初めて床の上でそのままに語ったといわれている。この苦心が功を奏してか、この一段とこの至難な嘉平次の「笑い」は、彼の長所を出した得意芸として、近年の文楽の古老たちも私に度々これをいっていたのであった。(三宅周太郎 第四章 人形浄瑠璃 p170-171 明治文化史9音樂演藝篇)

ヲクリ返し
「ヲクリ」も「三重」もともに太夫の節章というばかりでなく、三味線の旋律型の名称でもある。 そして、基本的には同一の旋律を前場、後場で二回繰り返すので、後の場面で奏するときは、古来、返シといい慣わしていたらしい。近年には使わなくなって、忘れられているが、古来から近い近代まで、『闇の礫』『摂陽奇観』や、宮戸太夫の『浄瑠璃発端』、五世弥太夫の『音曲節名・糸章調』などに「ヲクリ返シ」「三重返シ」という名称が散見できる。そこでこれは復活してもいいのではないかと考えられるのである。(井野辺潔 文楽のテキストを読む日本の音楽と文楽p239)
 


 
小泉家親類遠類書
安政六年(一八五九)七月
『安政六己未年七月廿七日[]仰付候ニ付支配宛壱冊組頭宛壱冊取扱分支配宛ニ而壱冊都合三冊但し壱冊ツヽ袋入本紙美濃紙』親類書/遠類書/諸願無之書『控』/三代御咎無書付/拝借金有無書付/印鑑
小泉久太郎
 出シ金三本立菖蒲
高六百弐石五斗 本国甲斐 生国武蔵 実子惣領 小泉久太郎 酉歳四十三
拜領居屋鋪田安飯町中坂上 拝領屋鋪糀町六町目横町
温恭院様御代私父小泉次太夫儀小普請組小笠原順三郎支配之節安政六己未年六月病気ニ付隠居奉願候処同年七月廿七日願之通隠居被 仰付家督無相違私江被下置候旨於菊之間御老中御列座脇坂中務大輔殿被仰渡如父時小普請組小笠原順三郎支配江入同年九月廿一日御太刀馬代ヲ以継目之御礼申上初鹿野河内守支配之節文久元辛酉年六月十四日学問所通□異人調方出役被 仰付同年八月十四日両御番之内江御番入被 仰付候間於菊之間縁頬御老中御列座松平豊前守殿被仰渡御書院番組戸田隼人正組罷成同年八月十九日学問所出役是迄之通可相勤旨水野和泉守殿以御書付被仰渡候段戸田隼人正申添ル
親類書 父方
一 祖父 養父 私曾祖父 小泉節山死 俗名 半平
     実父 私曾祖父 犬塚忠太夫死 三男 俗名 官兵衛 小泉泰富死
(略)
一 祖母 無御座候

一 父 養父 私祖父小泉泰富死 俗名官兵衛
    実父 私祖父岸本十輔死 次男 小泉次太夫
文恭院様御代私祖父泰富儀小普請組近藤左京支配之節実子惣領新三郎病死仕三男三八郎儀病身ニ付惣領不奉願次太夫儀養子仕度段奉願候処文化十二乙亥年九月廿一日願之通松平伊豆守殿以御書付被仰渡候段近藤左京申渡同年十一月続者無御座候得共私儀養子仕度奉願候処同十三丙子年三月十日願之通養子被 仰付候旨酒井若狭守殿以御書付被仰渡候段近藤左京申渡其後養父泰富病気ニ付同年六月隠居奉願候処同年八月十日願之通隠居被 仰付家督無相違被下置候旨於菊之間御老中御列座酒井若狭守殿被仰渡如養父時小普請組近藤左京支配江入其後段々支配相替中山信濃守支配之節天保四癸巳年九月十日御番入被仰付候旨於菊之間御縁頬御老中御列座水野出羽守殿被仰渡御小姓組森川下総守組江入同六乙未年六月八日高力丹波守組ニ罷成同七丙申年九月十七日来酉年 御移替後不相替 御本丸江御奉公可相勤旨御老中御列座松平和泉守殿被仰渡候段丹波守申渡同八丁酉年四月朔日逸見甲斐守組ニ罷成同二日 御移替被為済是迄之通御本丸相勤罷在同九戊戌年二月晦日於吹上御庭大的 上覧被 仰付無滞相済時服拝領仕候同十二辛丑年八月晦日遠山安芸守組ニ罷成同十四癸卯年二月廿四日大久保彦八郎組ニ罷成同十五甲辰年十二月三日土岐下野守組罷成嘉永二己酉年三月十八日於小金原御鹿狩之節為御小屋請取罷越歩行勢子相勤同年同月廿四日於土岐豊前守宅御獲之兎被下置候旨豊前守申渡有之拝領仕候同四辛亥年四月八日溝口讃岐守組罷成同六癸丑年七月廿二日 公方様薨御ニ付 右大将様御事 上 様与奉称弥以精勤相励可申旨同月廿四於菊之間御老中御列座阿部伊勢守殿被仰渡候段溝口讃岐守申渡同年九月十日御代替御礼申上十一月廿三日 公方様与可奉称旨酒井右京亮殿御書付ヲ以被仰渡候段讃岐守申渡有之同七甲寅年正月廿二日土屋佐渡守組ニ罷成同人組之節同年二月異国船渡来之節浜御庭江為御警衛相詰骨折之段達 御聴太儀被 思召候旨組之者ニ茂骨折相勤一段之事ニ候右之趣組中江可申聞候段阿部伊勢守殿御書付ヲ以被仰渡候旨佐渡守申渡其後安政二乙卯年五月十九日吹上於御物見前馬揃 上覧之節相勤同所 御庭於広芝 御目見被仰付御酒膳頂戴仕同三丙辰年三月十五日酒井対馬守組之節安政五戊午年六月十九日病気ニ付願之通小普請入被 仰付小普請組小笠原順三郎支配江入同六己未年六月隠居奉願候処同年七月廿七目願之通隠居被 仰付候旨御老中御列座脇坂中務大輔殿被仰渡候
      私曽祖父岸本武太夫死三男
一 継母 元御先手小笠原十左衛門組与力之節 小田切十兵衛死娘
一 妻  元御書院番土岐豊前守組之節 秋山伊左衛門娘
後一 妹 御薬園預り 私父小泉次太夫娘 芥川小野寺妻
  
前一 実子惣領(御目見末仕候) 小泉万之輔

一伯父 御代官 私祖父岸本十輔死三男 竹垣三右衛門
一伯父 小普請組松浦弾正支配 右同人死四男 鈴木督五郎

一伯母 壱人 右同人死娘 伯父竹垣三右衛門手前罷在候
 実者伯母ニ御座候得共私伯父竹垣三右衛門養女ニ罷成候ニ付従弟女続罷成候

一伯母 御書院番高木伊勢支配 右同人死娘 岡田左太郎妻
右同断


一 従弟 御小姓組(貼紙)「村松備中支配」(貼紙下)「戸田隼人正組」 私伯父竹垣三右衛門惣領 竹垣竜太郎
一 従弟女 御小納戸 右同人娘 河尻帯刀妻
一従弟女 表御右筆 右同人娘 宮重一之助妻

一従弟 小普請組小笠原順三郎支配/御勘定出役 私伯父岸本辰之丞死惣領 岸本金八郎

                           
(貼紙)「初鹿野河内守支配」                    養父青木市兵衛私続無御座候
一従弟 (貼紙)「大御番建部内匠頭組」(貼紙下)「小普請組戸田民部支配」 右同人死次男 青木菊三郎
一従弟女 弐人  右同人死娘 兄金八郎手前罷在候

 縁者
一男 元御書院番土岐豊前守組之節 秋山伊左衛門
一姑  家女
一小舅 秋山三四郎
一小姑 奥医師 私舅秋山伊左衛門死娘 杉枝仙貞妻
一姪 御小姓組戸川近江守組 私小舅 秋山源三郎死養子 秋山三四郎妻
  実者小姑ニ御座候得共私小舅秋山源三郎死養女ニ罷成候ニ付姪続罷成候
右之外親類縁者無御座候以上
文久元辛酉年八月 小泉久太郎書判
 両御頭宛

遠類書
父方          小泉久太郎
   
一従弟違 小普請組土岐信濃守支配之節奉願隠居仕候 私大叔母聟高木勘太郎死 惣領 高木得水 俗名五兵衛

      
一従弟違女 大御番津田越前守組 私従弟違高木得水娘 高木虎次郎妻

一又従弟 大御番津田越前守組 養父私従弟違高木得水 実父 高木虎次郎

一又従弟 百人組高井兵部少輔組与力/御作事方出役 私従弟違望月東左衛門伜 望月良平
 右之外遠類無御座候以上
安政六己未年九月小泉久太郎(花押)
小笠原順三郎殿

 覚
一 私儀諸願申上候儀無御座候
一 祖父父私迄遠慮逼塞閉門等其外御咎之儀無御座候
一 金拾両
 右者私父小泉次太夫儀御小姓組土屋佐渡守組之節安政二卯年十月地震ニ付被仰出拝借
金同年十二月十七日書面之通拝借仕候尤返納之儀者巳年より去申年迄年々上納仕候
右之外諸拝借仕置候儀無御座候
右之通御座候以上
申閏三月 小泉久太郎

小泉家先祖書
(元祖〜十代目 略) 一十代目 高六百二石五斗武蔵国上野国 生国 武蔵 正長惣領 始久太郎 小泉兵庫正修  歳
母 大御番小笠原若狭守組与頭相勤申候 石川与次右衛門政徳女
文政八乙酉年三月廿八日不縁ニ付私父小泉次太夫正長離縁仕候ニ付通路不仕候
温恭院様御代私父次太夫正長小普請組小笠原順三郎支配之節安政六己未年六月病気ニ 付隠居奉願候処同年七月廿七日願之通隠居被 仰付家督無相違被下置候旨於菊 之間御老中御列座脇坂中務太輔殿被仰渡如父時小普請組小笠原順三郎支配罷成同 年九月廿一日御太刀馬代献上仕継目之御礼申上初鹿野河内守支配之節 怡徳院様御代文久元辛酉年六月十四日学問所調方出役内藤紀伊守殿御書付ヲ以被仰渡 同年八月十四日両御番之内江御番入被 仰付候旨於菊之間御縁頬御老中御列座松 平豊前守殿被仰渡御書院番戸田隼人正組罷成同月十九日学問所調方出役是迄之通 可相勤旨水野和泉守殿御書付ヲ以被仰渡候段戸田隼人正申渡同三癸亥年八月十三 日八木但馬守組罷成元治元甲子年十一月朔日二丸御留守居於御座之間被仰付 即日於御右筆部屋縁頬二丸御留守居過人別手組頭取取締並被 仰付候旨御老中御 列座本多美濃守殿被仰渡御足高九拾七俵余被下置七百石高ニ被成下候同年十二月 十六日於芙蓉之間布衣被 仰付候旨御老中御列座本多美濃守殿被仰渡慶応二丙寅 年六月六日於芙蓉之間小十人頭被 仰付即日於御右筆部屋縁頬小十人頭過人別手 組頭取取締被 仰付候旨御老中御列座井上河内守殿被仰渡御足高三百俵被下置 都合千石高ニ被成下候同月八日於大坂表御用有之候間別手組出役弐百人召連早々 上坂可致旨水野和泉守殿被仰渡御用中出役之者都而支配同様可相心得旨田沼玄蕃 頭殿被仰渡候間御用柄之儀相伺候処於大坂表可相伺旨被仰渡候ニ付六月十九日江 戸表出立七月三日大坂表江着仕翌四日御用柄相伺候処 御進発御供被 仰付市中 御取締向相心得且昼夜巡邏等可為致旨被仰渡相勤罷在候処七月十六日芸州表江支 配別手組出役五拾人召連出張可致候様遠山信濃守殿被仰渡同月廿一日一同大坂表 出帆為致候同廿五日猶又同所江出役之者五拾人被差遣候間早々出張可致候様信濃 守殿被仰渡尤水野出羽守殿同所江御越ニ付船中御附添罷越候様被仰渡候同月廿七 日大坂於 御城 御目見被 仰付長防御所置之儀蒙 上意同廿九日支配向五十人 召連大坂表出帆八月十一日芸州広嶋表江着仕候前芸着仕候五十人之者ハ七月廿七 日八月二日宮内村両度之戦争江出陣奮発苦戦勇勤罷在候者功之勝劣取調出羽守殿 江差出申候其後紀伊中納言殿御附属被 仰付候同月廿日 公方様薨御被 遊候段水野出羽守殿於御旅館被仰渡候兼而被 仰出候通 一橋中納言 殿御相続被 遊同日より 上 様ト奉称弥以精勤相励可申段被仰渡候同月廿一日紀伊殿御遭有之戦地之儀ニ付蒙 上意御菓子御酒等頂戴仕日々御旅館江相詰候処石州敵地之模様探素御用被 仰付 候付支配向之者四人九月五日芸州表出立為致同月十六日帰着仕候同所探素之廉々 大目付永井主水正江申達候其後暫時兵事御見合之儀被 仰出候ニ付而者芸州口石 州口出張之向者一同引揚候様九月十九日於京地被 仰出候趣ヲ以御目付松平伊勢 守長田六左衛門より相達候ニ付十月三日同所引揚同月十六日大坂表江着揃相成候同 十八日為 御用伺坂地出立翌十九日上京仕 御用柄相伺候処私義者暫時致滞京支 配向之者ハ一ト先帰府可致旨本多能登守殿被仰渡同廿日御旅館江可罷出旨御同 人被仰渡同日罷出候処 御目見被 仰付永々之出張太儀之旨蒙 上意候其後十月 晦日帰府被仰付候ニ付十一月朔日京地出立同月十六日江戸表江着仕候
(小泉家親類遠類書・小泉家先祖書 大田区史 資料編 諸家文書1 262)
 

岡本韋庵資料
 先生字ハ子博。初メ文平ト称シ、後監輔ト改ム。韋庵ト号ス。天保十年十月阿波国美馬郡三谷村ニ生ル。父周平、医ヲ業トス。先生幼ニシテ英悟、弱冠笈ヲ負ヒテ遊学シ、其進歩ノ速カナル常ニ師友ヲ驚セリ。安政三年京坂地方ニ遊ピ、又清水谷中将ノ家ニ在リテ子弟ヲ教授ス。而シテ先生懐慨国事ヲ憂ヒ、殊ニ外夷ノ跋扈ヲ憤ル。遂ニ江戸ニ赴キ、講武所出役竹垣龍太郎(成蹊ト号ス)ノ家ニ寓シ、内外ノ事情ヲ探ル。龍太郎亦懐慨ノ士ニシテ小普請役羽倉鋼三郎(林鶴梁ノ二男)等ト友トシ善シ。先生共ニ時事ヲ談ジ、痛憤大息セザルナシ。偶々北蝦夷図説ヲ 得テ之ヲ細読シ、又人ニ問ヒテ其地ノ現況ヲ知リ、謂へラク、露人皇国ノ属地ヲ蚕食ス。事急 ナリ。断然身ヲ擲テ之ニ従ハザル可ラズト。
 文久三年四月、龍太郎、鋼三郎餞スル所ノ金五両ト、箱館奉行支配組頭平山謙二郎ニ宛テタル添書トヲ懐ニシ、親然途ニ上リ、新潟ニ出テ船ニ乗リ、六月箱館ニ渡リ、暫ク謙二郎ノ家ニ寓シ、蝦夷地ノ情況ヲ調査ス。時ニ先生年二十五。・・・(岡本監輔先生伝 河野常吉謹記 明治37.11.23より北海タイムス連載 犀川会資料:263)
 
文久癸亥東京に在り。一たび蝦夷に遊び、其事情を探らんと欲す。林鶴梁の二子羽倉鋼三郎[養父:羽倉簡堂]・竹垣龍太郎、共に其志を感じて之を助成す(二人皆既に没せり)。
五月、箱館に至り、調役平山成斎(謙二郎と称す)に依り、六月、遂に北蝦夷に赴き、将に柯太全嶋を一周せんと欲す。 (雑説・佐田白茅「岡本監輔小伝附録荒井直盈」『名誉新誌』第五号)(有馬卓也 岡本韋庵関係資料(一)徳島大学国語国文学 18 33、2005)
 
文久元年(二十歳)江戸に出て杉原晋斎[心齋 平助 昌平黌儒官 本郷御弓町]の家に寓す。北蝦夷は即ちサガレン島たるを知り、速に往て北門の鎖鑰を厳にせんと欲す。成島柳北等の家に寓して北方の急務を論ず。横浜に来り将軍に返翰を迫り居る外船を焼払はんとする友人に其非計を説きて之を止む。文久三年函館に到り組頭平山省斎に寓し進んで樺太シルトタンナイ迄到る。年表・『韋庵岡本監輔氏年表』『阿波国史談会誌』第四号(阿波国史談会)(明治四十四年二月)(有馬卓也 岡本韋庵関係資料(一)徳島大学国語国文学18 26)
 
文久元年十一月、[岡本韋庵]江戸に遊び、幕府の儒官杉原晋斎、成島柳北等の家に寄寓す。偶ま散策の途次、御成街道の古書肆に於て、間宮倫宗が著す所の『北蝦夷図説』を見、之を贖ひ帰りて、北蝦夷は即ち外人の所謂サガレン島なるを知り、探検の念益す急なり。(岸上質軒「岡本韋庵」(樺太最近探索者)『太陽18』)(有馬卓也 岡本韋庵関係資料(一)徳島大学国語国文学18 29)
 
文久元年江戸に出て幕府の儒官杉原晋斎の許に起居したのであるが当年の手記に曰く。 『折に触れて薩哈連島の事を談じたることもありしかど、一概に蝦夷の事のみ風説する者ありて要領を得ず、文久元年季秋の頃に江戸に出でて儒官杉原晋齋の許に食客たりし折しも、下谷御成街道を過ぎて書林の架上に『北蝦夷図説』と題せる一書あるを見て手に取り開き展れば、土人其他の図等奇異なるもの多く、中にサガレンと書きたるを見て前後を細看し、北蝦夷は即ちサガレン島なるを知り、三渓が説の未だ確かならざるを悟り、終に之を購求し塾に帰りて細読して之を他人にも質問などし、…』(雑説・「岡本監輔(対露・様太探検)」葛生能久『東亜先覚志士記伝(下)』(黒龍会出版部)(昭和十一)有馬卓也 岡本韋庵関係資料(四)徳島大学国語国文学26:10)
 

 
諸向地面取調書 (国立公文書館デジタルアーカイブ) 諸向地面取調書人名索引
    番号は下谷和泉橋通屋敷地図参照
青山金左衛門42小普請大嶋丹波守支配并組下谷和泉橋通205坪
伊熊貞三郎50小普請組諏訪若狭守支配并組下谷和泉橋通134坪杉本忠温より貸
石川堂之助08御小姓組松平美作守組下谷和泉橋通165坪
伊庭想太郎 富士見御宝蔵番野田忠治郎組下谷和泉橋通271坪
今井八太郎16田安中納言殿附 勘定奉行下谷弐丁町187坪
大沼又三郎 小笠原弥八郎組下谷和泉橋通御徒町150坪
大原門兵衛57御小姓組秋山越前(水野山城守組)下谷和泉橋通256坪
落合十三郎60御馬医村松町96坪下谷御徒町可児孫十郎地面借地
小俣稲太郎04寺社奉行吟味取調役下谷和泉橋通り250坪内松平肥前守医師伊東元朴貸屋
勝 権一郎19大御番建部内匠頭組本所亀沢町210坪
加藤宜次郎01寄合下谷和泉橋通長者町1000坪
河島重五郎13御賄方下谷弐丁町袋町100坪
河尻式部少輔21御持弓頭下谷和泉橋通350坪
久須美佐渡守 大坂町奉行小川町稲荷小路1035坪
小南鉉次郎 奥詰裏二番町253坪
佐々木信濃守24大坂町奉行下谷和泉橋通440坪
杉原平助 御儒者本郷御弓町500坪
杉本忠達50寄合御医師下谷和泉橋通り333坪
添田一郎次25小普請小笠原弥八郎支配并組下谷和泉橋通250坪
添田玄春43寄合御医師奥詰御醫師下谷和泉橋通り464坪内山谷勾当貸□
染木佐太郎58小普請組諏訪若狭守支配并組下谷和泉橋通265坪
高柳小三郎22小普請小笠原弥八郎支配并組下谷和泉橋通東横町300坪
忠内鉄五郎11小普請組諏訪若狭守組 支配勘定出役下谷和泉橋通御徒町180坪
戸田嘉十郎23御納戸頭下谷御徒町665坪
鳥居彦太郎18御小納戸下谷和泉橋通り東横町357坪
中根長十郎72刑部卿殿附用人下谷練塀小路470坪
成島甲子太郎45奥儒者下谷和泉橋通700坪
野々山鉦蔵 御小納戸本所伊予橋通り300坪
羽倉外記41小普請小笠原順三郎支配下谷681坪
平野雄三郎52小普請小笠原順三郎支配下谷和泉橋通220坪
福田八郎右衛門29西丸御裏御門番之頭下谷和泉橋通 藤堂泉守通用門前279坪
星野善太郎 富士見御宝蔵番藤沼源左衛門組青山権田原
正木助次郎12小普請大嶋丹波守支配并組下谷二丁町183坪
森田金吾51御膳所御台所頭并支配下谷和泉橋通220坪
水野福次郎02御小姓組徳永伊予守組下谷長者町549坪
安井甚右衛門17小普請小笠原順三郎支配下谷和泉橋通東横町270坪余
山岡仁右衛門31小普請大嶋丹波守支配下谷和泉橋通250坪内12坪御能役者長命八重右衛門
山崎宗安 奥御醫師四谷鮫橋永井左門上地150坪
山本嘉兵衛10小普請小笠原順三郎支配下谷和泉橋通460坪

補 武鑑
菊地新三郎05御徒組頭十一番組下谷いづミばし通安政3
落合十三郎60御馬医下谷いつミはし通安政3
北角十郎兵衛21御奥御右筆御かち丁元治1
成瀬藤右衛門30富士見御宝藏番之頭 藤岡屋日記4 嘉永5.12.20
依田甚一郎14御小十人組頭四番組下谷二長丁安政5
※杉本仲達:柳北の従兄。「杉本忠温は徳川十一世の時の侍医宗春院法印の孫なり、年十二三の頃より余医学館に於て之を知る、学を好み淡泊にして求る所なく、又多く古代の典籍を諳するを以て維新後刀圭の余暇旁書估を為し、珍編秘籍を捜索して大に桂玉の費を補へり、老羸を以て死す、年五十九歳」(栗本鋤雲「知人多逝」前田愛 成島柳北 引用)
 

 
○ 天保三辰年六月朔日
  一通り尋之上揚屋江遣ス 西丸御小性組 曾我伊予守組 羽太求馬 辰六十三
一通り尋之上揚屋江遣ス 求馬拝領 羽太半蔵 四十二
一通り尋之上同道人江預返ス  同人三男 羽太鬼八郎 二十三
同断 同人娘 ふさ 三十四
一通り尋之上揚屋へ遣ス 大御番格奥詰 小南市郎兵衛 四十二
同断 羽太求馬家来 渡辺権之進 四十六
右今般於評定処、石谷備後守・筒井伊賀守・御目付堀小四郎立会、求馬江ハ備後守申渡之、外五人之者ヘハ伊賀守申渡之。
○同年七月十四日 日光准后御方より執当を以松平和泉守殿江御差図御書付
羽田求馬義、御吟味之筋有之、先達而中揚坐敷江被差遣、并右一件ニ付同人妻、悴、娘、家来共、且小普請組高井左京支配井上錬之助姉くは義、追〃被召出、且又揚坐敷・揚屋等被仰付、当時御吟味中之由、准后之宮御方被聴召、右は御裁許之上如何様成御仕置被仰付候義も被為計、論銘々不埒不調法之段ハ難被為捨置義有之候得共、万一家督断絶ニも及び候而は多輩親族并前後不相弁幼稚之者共一同路頭ニ相迷ひ候段、何共不便之義、且同人家督之義、祖□為聴召候処、先祖以来田原氏蒙御恩沢忠勤格別之筋目ニも候処、当求馬代ニ至り一時之不埒ニ付、家断絶ニ及候而は如何計か歎ケ敷義ニ被思召候、依之右様之義毎度被仰入候ハ甚ダ御斟酌ニ思召、且御政事筋之義何共難被仰入候義ニ候得共、御法中ニハ御用捨ニも難相成、無拠被仰立候間、何分ニも御憐愍を以家苗相立候様格別之御寛宥免之御裁断有之候横被成度被思召候、此段宜敷御計ひ之義被仰入被為頼入度御使を以被仰入候。 日光准后宮御使 龍王院
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同年閏十一月二日 右一件落着
     西丸御小佐組 曾我豊後守組 羽太求馬 六十三
 其方義、当二月七日稲荷祭之夜、娘ふさ、小南市郎兵衛と臥居候処を三男鬼八郎見咎候由、家来渡辺権之進承り、市郎兵衛方江手強く及懸合、或は同人方江ふさを連参り預ケ置、又ハ同人身持之趣、悴半蔵より其方妻とみへ申聞候由とみより承り、兼〃心底難見届、尼ニ致候様申付候処、則剃髪為致、右髪を半蔵より市郎兵衛方江差遣候節、不都合之返事を以差送り候迚、権之進憤り、成島邦之丞方江中口同様之願書写差出候ニ付、同人并野村図書、金田故十郎取扱、内済相整候始末、其方江は不申聞候共、薄〃ニも及承候ハヾ厳敷差留、可懸合筋は其方より可申談候処、権之進強情者故承引致間敷と存、其儘ニ致置之儀、主人之名義も難立、既ニ如何之風聞有之、頭より慥ニ申渡候節ニ至り、とみより権之進江相尋、内済金弐拾四両請取候儀承り、不相済候ニ付為差戻候とハ乍申、畢竟家来に披見掠候始末未熟之至り、其上家中不取締ニ而、悴共身持不宣をも其分ニ差置候段、不埒之至り、依之御番被召放、小普請入閉門被仰付もの也。
     同人娘 ふさ 三十四
 其方義、先達身持不埒之義親類共之不興を請罷在候ハヾ急度可相慎候処、当二月七日稲荷祭り之夜、酒ニ給酔居、小南市郎兵衛へ密通申懸候迚得心致し候事ハ不違候共猥ケ間敷始末ニ及、弟鬼八郎ニ被見咎、渡辺権之進へ被尋ニ而右躰可申聞候処、厳敷相尋候迚、密通徴候段相答候故、同人義市郎兵衛江手強く懸合候次第ニ及、剰権之進ニ被連、市郎兵衛方江差付相越候始末、女子之行状ニ有之間数義、畢竟其方不身持より事起り親兄弟共迄御詮議受候次第ニ相成候段、御旗本之娘の身分ニ不似合之義、不埒之至り、依之押込被仰付者也。
     同人惣領 羽太半蔵 四十二
 其方義、当二月七日稲荷祭り之夜、ふさ、小南市郎兵衛と臥居候を鬼八郎見咎候由、女子共噂致候を承り居候処、同十一日市郎兵衛より急ニ呼ニ参り相越候処、家来渡辺権之進参居、市郎兵衛、ふさと密通致し候事、六ケ敷申懸迷惑致候由ニ付、権之進をば差帰し、猶又市郎兵衛右躰之覚無之候得共、酒興之上心得違之義も有之候ハヾ、求馬へ相談之上権之進を申宥呉候様頼之趣、子細無之義と存候上ハ、権之進ハ家来之義急度申付方も有之可申候処、強情者故迚も利害請間敷と存、其儘ニ致置候、其上同人義ふさを市郎兵衛方へ連来り預置、迷惑致候ニ付引取呉候様野村図書申聞、則引取参り候途中ニ而行違、ふさは小沢勘兵衛取計ひ送り帰し候、其節も権之進不聞受候迚、横地清次郎宅ニ而其方請取、其儘預置、翌日呼返し候上、ふさ不身持之段母とみへ申聞候処、両親共立腹致し尼ニ成候様申付、ふさを剃髪為致、権之進ニ被逃候迚右髪を市郎兵衛妻方へ差遣候段、事を好師匠江対し不実成致方、右故同人妻方より不都合之返事を以差返し候を、権之進憤り、成島邦之丞方江申懸、同様之願書写差出候次第ニ至り、剰同人并野村図書・金田故十郎江取扱、ふさ手当金弐拾四両請取内済相整、権之進記申右一札江奥印致相渡、又求馬義、頭より慎申渡候節ニ至りて不相済義と心付、為差戻候とは乍申、卑劣成致方、殊ニ漁猟を好ミ弟鬼八郎倶〃不束成躰ニ而網を打候段、旁以御旗本之悴ニ不似合義、不届之至ニ付、依之改易被仰付者也。      羽太求馬妻 とみ 六十三
 其方儀、当二月七日稲荷祭り夜、娘ふさ、小南市郎兵衛と臥居り候を鬼八郎見咎メ候由ニ而女子共噂致、右一条家来渡辺権之進より市郎兵衛方へ懸合候処、同人挨拶振不宜候を憤り、ふさを横地清次郎方へ預ケ置、又ハ呼戻候上、ふさ不身持之義其方へ申聞、兼〃心底見届難く求馬江も申聞せ尼ニ致し候様申付、剃髪為致候処、半蔵義右髪を市郎兵衛方へ差遣し、不都合之返事を以差戻し候迚、権之進憤り、成嶋邦之丞方へ申懸ケ同様之願書を写、差出候ニ付、同人并野村図書・金田故十郎取扱、内済相整候始末、薄〃承及候ニ付、求馬倶〃厳敷差留可申処無其義、既ニ如何之風聞有之、頭より求馬慎之申渡候節ニ至り、権之進江相尋、内済金請取候趣承り、不相済義と致金子為差戻候とハ乍申、不束成致し方、其上悴共平日身持不宣をも乍存其儀ニ致置候段、旁不埒ニ付押込申付之。
     大御番格奥詰 小南市郎兵衛 四十一(七)
 其方義、鎗術師範致し奥向御奉公をも相勤候身分ニ而、当二月二日門人羽太求馬方江稲荷祭ニ被招参り、如何敷躰ニ而雑人相交太皷囃子致し、其上酒ニ給酔、求馬娘ふさニ三味線を為弾、踊騒ぎ、剰ふさ義、巨燵ニ臥り居、外に人等居合候迚酒興之紛レ同人江戯レ巨燵江這入り蜜通申懸ケ、事は不遂候共猥かわしき及始末、羽太鬼八郎ニ披見咎候上は求馬家来渡辺権之進罷越早〃難題申懸ケ候共懸合之致方も可有之処、毎度不当成及返答候より、同人義ふさを駕籠ニ乗連参預ケ置、又は同人を剃髪為致、右髪を半蔵より其方妻方江差越候節も不束なる挨拶為致候故、権之進猶以憤り、成嶋邦之丞方江申懸同様之願書写差出候始末ニ至り、然上ハ早速吟味ニも可相願処、元来其方之不慎より事起り、表立候而は不相済義ニ付、穏便ニ相済し度存、邦之丞并野村図書・金田故十郎江取扱相願、ふさ縁付之手当金弐拾四両差出し、同人若懐妊之節ハ金三両差出候対談ニ而書付取替、内済相整候段、勤柄身分不似合成不行不埒之至ニ候、依之御奉公被召放、小普請人差扣被仰付もの也。
     小普請組、高力丹波守支配 野村図書 三十六
 其方義、伯母聟小南市郎兵衛義、羽太求馬方稲荷祭ニ相越、酒興之紛レ同人娘ふさニ戯レ候義は有之候得共、密通ハ不致処、求馬家来渡辺権之進罷越、品〃難題申懸、外聞ニも拘り迷惑致し候間、穏便ニ取扱呉候様伯母倶〃相頼候ニ付、断も難申種〃取扱候得共、権之進得心不致、其後ふさを市郎兵衛方へ連参り預置、又ハ羽太半蔵義ふさを剃髪為致、右髪を市郎兵衛妻方へ送越候節も懸合等致し、剰権之進義、成嶋邦之丞方へ申懸同様之願書写持参候由ニ而、同人存付を以金田故十郎江為取扱、ふさ縁付之手当金弐十四両市郎兵衛より被出、内済相整候節右金子権之丞江相渡候義共、元来不正之義ニ付吟味願致候様、市郎兵衛江心付可申処、無其義、親類之者不束之始末、外聞を厭候とハ乍申、倶〃取扱候段不行届義不時之至ニ候、依之差扣被仰付もの也。
     右 小南市郎兵衛妻 ます 三十八
 其方義、夫小南市郎兵衛義、羽太求馬娘ふさと密通致し候由ニ而、求馬家来渡辺権之進罷越、市郎兵衛と彼是申争候を承り、権之進を宥メ、羽太半蔵を相願、権之進を帰し帰り貰、猶又酒興之上心得違も有之候ハヾ求馬江相詫権之進をも宥呉候様、市郎兵衛倶〃半蔵江相願、其後も権之進罷越市郎兵衛と申争候ニ付、野村図書へ取扱之義被願置候処、又候権之進義ふさを連参り預置立帰候ニ付、其段図書方へ申遣し候処、留守ニ付当惑之砌、小沢勘兵衛参り合候間、市郎兵衛倶〃相願、勘兵衛利合を以ふさを送り帰し、其後半蔵方よりふさ剃髪申付候由ニ而右髪を状合江入送り越候迚、半蔵取計方も難心得存、権之進同腹と相察、不束成返事相添差戻候故、右権之進義弥憤り、成島邦之丞方江申懸同様之願書写差出候次第ニ至り、同人義金田故十郎等取扱内済致し節之欠合ニて不携候共、右躰不容易義を吟味願可為致心付も無之、彼是不行届之義ニ候、依之叱置もの也。
     右 羽太求馬三男 羽太鬼八郎 二十三
 其方義、当二月七日稲荷祭之夜便用ニ参り候節、灯火無之、巨燵ニ姉ふさ、小南市郎兵衛と臥居りを市郎兵衛とは不存、頭江躓く共密通と見留候義も無候処、無思慮相咎餐候より事起り、家来渡辺権之進義市郎兵衛方へ品〃不届成及懸合、ふさ手当金請取内済相整候始末、薄〃及承候上ハ市郎兵衛と師匠之義不争立様取計方も可有之処、権之進ハ強情者故迚も利害承受中間敷と不存躰ニ致居候段、不実成致し方、殊ニ平生漁猟を好、兄半蔵倶〃不束成躰ニ而投網ヲ打候段、御旗本之悴ニ不似合義、不埒之義ニ候、依之押込被仰付もの也。
     小普請組、高井左京支配 井上錬之助姉 くわ 二十
 其方義、母方祖父羽太求馬方ニ逗留致し居り候処、当二月七日稲荷祭り之夜、叔父半蔵、子供ニ小用可為致ト手燭を捜居候砌、叔父鬼八郎義臥居り候者之頭江躓キ灯を持参候様声を懸ケ、下女行灯を提参候節小南市郎兵衛罷在、叔母ふさと巨燵ニ臥居りを縁側ニ而見請候迄ニ候処、渡辺権之進参、ふさ、市郎兵衛蜜通ニ相違有候間敷、有躰ニ申候様厳敷申聞候迚、両人私語居候をも承り、聢と見留候趣相答候故、ふさ義も無余義相違之答致候次第ニ相成、叔母江対し不実之致方不埒之至りニ候、依之押込被仰付もの也。
     右 羽太求馬家来 渡辺権之進 四十六
 其方義、主人娘ふさ不身持之義有之、両親之不興受候砌詫致し、向後ふさ身分ニ付主人江苦労懸ケ間敷旨取極、ふさ身分引受候処、当二月七日稲荷祭之夜、小南市郎兵衛トふさ義蜜通之沙汰承り、同人と縁組相談中之処、右様之義有之候而は破談ニ可成と残念ニ候得共、聢ト見留候義も無之、かへりを為立合、ふさへ右尋候処密通致候ニ相違なき旨申ニ付、右之趣市郎兵衛江及懸合候処不取合、却而不法之義申聞候ニ付、申懸候処、野村図書取扱候得共、否難分候ニ付、迷惑相懸候ハヾ懸合可埒明ト存、ふさを市郎兵衛屋敷へ連参り差置懸合可致と存付立帰候処、小沢勘兵衛取扱、差戻候ニ付、半蔵請取、横地清次郎方江預ケ置、翌日呼戻し候処、右之趣とみ承り立腹致し、尼ニ致候様半蔵へ申付、剃髪為致候処、蜜通之義ハふさ一人之不身持ニも無之、市郎兵衛不慎故事起候儀之処片落之致し方、殊ニふさを坊主ニ致候而も市郎兵衛義可致様無之と、切り髪江手紙を添、同人妻へ送候様半蔵を申勧メ差遣し候処、不都合成返書差越候間、猶以心外存、表立願出候心底は無之候得共、親類共可取扱ト存候故、市郎兵衛義、求馬奥へ忍入、ふさを強婬致し、又は勘兵衛手荒之取扱有之抔手段取飾願書写、成嶋邦之丞方へ差出候処、金田故十郎取扱を以市郎兵衛方ニ而ふさ縁付之世話有之候積を以、髪生揃候迄之手当其外共金弐十四両請取、書付為取替、若ふさ懐妊之節は金三両受取候対談ニ而内済ニ相成候後、右躰之金子請取置候而者不相済旨ニ而、とみ義早〃差戻候様申付候間、故十郎へ金子差戻候段、私欲ニ拘り候義ハ無之候共、市郎兵衛義は身分柄之義、可及懸合筋は主人江申聞差図可受処、一己之了簡を以万事取計、殊ニ御役人取計筋等不容易儀を取繕認取、及懸合、主人をも蔑ニ致候仕方、主人共不軽御疑を受候次第ニ相成候段、武家方用役相勤候身分ニ而右始末不届ニ付、遠嶋申付之。
     山崎又蔵組、御中間 金田故十郎 二十四
 其方義、成嶋邦之丞門人ニ有之処、当二月廿日、同人方江羽太求馬家来渡辺権之進願書写持参致し、去ル七日稲荷祭之夜、求馬娘ふさを小南市郎兵衛強婬致候ニ付、権之進より内〃及懸合候得共、不当之挨拶ニ付残念ニ存、其筋江可願出処、市郎兵衛頭支配相分兼候間、邦之丞を類役之儀ニ村申出候趣ニ有之、右体之義、表向ニ相成候而者双方共ニ不相成ト其方引受、内分之取計致呉候様邦之丞相頼、師匠ニ而厚世話ニ成、其上市郎兵衛義も懇意之義故気之毒ニ存候迚、吟味願致し候様可申談心付も無之、権之進へ引合内済取扱、邦之丞、市郎兵衛へ申談、ふさ縁付之手当金廿四両、市郎兵衛より差出、証文江調印致し為取替内済相整候処、猶又権之進懸合ニ泥ミ、ふさ懐妊之節は入用金三両、市郎兵衛より可差出旨、以書面権之進へ及懸合候段、不行届之取計不埒ニ付、急度叱り置。右松平和泉守殿依御差図於評定処、大目付初鹿野河内守・町奉行筒井伊賀守・御目付堀小四郎立会、河内守・伊賀守申渡之。
  天保三辰年閏十一月二日
急度叱り 幸八方ニ居候 りよ事 いそ
〃    五郎兵衛後家 まつ事 せつ
右於同断、伊賀守申渡之、立会同人。
同日
 
同日
     小十人頭 小沢勘兵衛 /名代 柳沢八郎右衛門
 其方義、当二月十六日小南市郎兵衛方へ参り候節、羽太求馬家来渡辺権之進義、求馬娘ふさを連参り預ケ置帰候節、家内一同及迷惑ニ、ふさへ申諭て返呉候様被相頼、無余義故同人江利解申聞、送呉候段は師弟之中、殊ニ参り合、難黙止筋ニ候得共、権之進義、ふさ、市郎兵衛蜜通之趣を以、品〃難題を申掛候義委細承り候て、縦令市郎兵衛外分ニ拘候共、不容易事柄ニ付、吟味願ひ出候様可心付候処、無其義段、不行届之義不束之事ニ候。
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尚今般於増山河内守宅、大久保讃岐守立合、河内守申渡之。
小沢勘兵衛義差扣相伺候処、不及其儀候旨被仰出之。
     成嶋邦之丞 /名代 小南十郎兵衛
 其方義、当二月廿日登城留守中、羽太求馬家来渡辺権之進罷越、小南市郎兵衛義ニ付願書写差出候由ニ而、悴桓吉預り置帰宅之上一覧致し候処、市郎兵衛義去ル七日夜、求馬宅奥江忍入、同人娘ふさを強婬致し候間、市郎兵衛江及掛合候処、不当之及挨拶候ニ付、其後ふさを同人方江連参り預置候処、小沢勘兵衛并同人家来共大勢ニ而可切殺旨申、刀脇指振廻し威候抔、不容易義認有之、真偽は不相分候得共、右様之義表立候而は双方為ニ相成間敷ト存、金田故十郎へ取扱相頼、其方義市郎兵衛宅へ相越、故十郎を以権之進江厚及懸合、追〃取扱之上ふさ縁付之手当金廿四両、市郎兵衛より差出し、内済相整候処、其後権之進義、ふさ身分主人引受ニ相なり、権之進義ハ手を放し候由ニ而預置候金子差戻候旨、強而申聞、受取置候段故十郎申聞候ニ付、一旦相渡候金子可取戻筋無之段申聞、同人義も難預置候迚、其方蔵宿四郎左衛門方江右金子預ケ置候由、右躰不容易義申出候は最初より吟味相願候様市郎兵衛江可心付処、無其儀内分ニ而取扱候段不行届之義不束之至ニ候、依之差扣被仰付之。右同日、同人宅ニ於て同人申渡之、御目付大久保讃岐守相越ス。
 
毛をむひて疵を求馬に鬼八郎 小南で居れば尻こんの進(藤岡屋日記1:487)