【染太夫一代記 江戸関連記事抜粋】

(2016.07.02)
提供者:ね太郎
 
 
染太夫一代記 江戸関連記事抜粋
(青蛙選書41)
 
第一の巻 実太夫の師匠染太夫江戸へかゝへられ旅宿伊勢半に逗留の事
第二の巻 師染太夫妻をむかふ事(文政十一年子十二月十二日) 師染一子源治郎誕生の事 並びに江戸大出火の事 並びに師染類焼の事並びに師染赤坂へ引越しの事(文政十二年正月〜四月) 竹本実太夫高の常吉喧嘩の事 並びに実太夫師匠に勘気かうむる事(同年十一月五日)
第四の巻 江戸表義太夫男女ともお差止めの事(天保二卯年十月廿四日) 竹本実太夫日光参詣の事(天保二年十一月朔日)
第六の巻 <竹本実太夫日光下向して師の家に着の事(天保二辛卯十二月五日) 竹本実太夫浪花へ帰国出立の事 品川座敷の事並びに寄浄瑠璃興行の事附タリ実太夫茶屋遊興の事 竹本実太夫品川本宿川熊において惣連中より景物を差出し当所お名残り浄瑠璃興行の事
第十五の巻 社地人形芝居御差留め興行場所三都芝居に極まる事(同年七月十五日)
第十七の巻  竹本梶太夫二度目東下り道中の事(天保十三寅極月十六日) 梶太夫江戸浅草辺りに住み、芝居出勤の咄 梶太夫江戸出立、帰国の事(天保十四卯三月九日)
第二十二の巻 竹本梶太夫三度目江戸行きの事(弘化四丁未十月廿日立) 並びに新町大茶屋いづ清において江戸出立会の事 並びに道中の咄  竹本梶太夫江戸堺町高松亭の隠居所に落ち着く事(弘化四丁未十月五日)並びに浪花の素人三人を梶太夫の門人に加へる事  猿若町芝居方、高松亭喧嘩の事  梶太夫が三味線弾き寛治と別れ、野沢語助になる事
第二十三の巻 江戸太夫三味線弾き仲間因講参会の事 (弘化四丁未十二月廿五日)  江戸芝居方より梶太夫へまた/\無体の事。浪花因講の心得になる事  梶太夫門人中一条の咄  不動明王霊夢の事
第二十四の巻 梶太夫芝泉岳寺開帳参詣の事(嘉永元年)  梶太夫憂ひの噺  梶太夫江戸表出立の事
 
第一の巻
(略)
 実太夫の師匠染太夫江戸へかゝへられ旅宿伊勢半に逗留の事
 
文政十丁亥三月二日二日、師弟ぶなんに東都に着し、芝居仕打 のさしづにて、伊勢屋宇右衛門といふ泊り宿屋へおちつき、 当分はこの泊り家よりして芝居へ出勤するなり。
 さてまたこの芝居は当春正月興行のつもりなりしが、去冬 二丁町の出火に、この芝居類焼におよび、普請延引してやう やう三月興行となる。則ち芝居葺屋町肥前座にて、座頭竹本 津賀太夫、『小田館』の通しなり。師匠染太夫は附物に『関 取二代鑑』を勤められ、ことの外ひゃうばんよく、弟子実太 夫このたび当所へ下り立ちの事なれば役場わたらず。無役に てたゞ師のかいはうばかりがその身の役なりける。
さても師染は芝居役場を毎日つとめ、ぜひとも目見得をせ ねばならぬさき/\あり、または都めづらしければ、ヒイキ の旦那衆によばれ名所々々、遊所、遊山、遊船、ならびに芝 居かはり芸題、あるひは恋無情、師の事我が事かきまぜてこ れに写すといへども、この書前後慶長のころより実太夫後年 改名、ふたゝび出世におよぶまでおよそ百七八拾年の記録ゆ ゑ、たど/\し事は取りのけてあらましを書きつたふのみ。 されば芝居場数も出そろひ、師染ぶたいにも馴れも付きひ ゃうばんよく、心おちつき目見得に行く方は第一このたびの 金方にて塩瀬新次郎様、ならびに小池孫市さま、ならびに芝p31」 居近所茶屋衆中、そここゝへあいさつに行きたるが、中にも 塩瀬さまにては過分の金子、衣服をいたゞき、なほ大幟二さ を下さるやくそくをして帰りしが、さっそく翌日にかの幟芝 居の表にたって、大いに賑はひと相成る。それよりまた小網 町釜屋伝兵衛様といふ人、芝居を見物いたされしより、御ヒ イキになり、隣町峰竜亭へ師弟連れられ酒宴のところへ、角 力高砂、竜門両関を召しよせられ、当人とも近付きになり、 または日をおきて右釜伝様連れにて浅草参り、あるひは両国 花火見物ならびに同所青柳亭行き、向島行き、江戸一のうな ぎや行き、上野行き、廿六夜待船にてゆく。その後にいたり て、大雪に向島よりして深川遊女町百風呂にあそび居つゞけ、 亀井戸天神遊所へかけ廻り、後に両国筋万といふ料理屋、四 日三夜の酒宴催しにていっかうに寝る事あたはず。大丈夫の 師匠に付添ひまはる弟子実太夫も大根ぢゃと近付き人これを いふ。
 また日おきて石町新屋紅鱗亭行き、両国鶴岡、深川弁天遊 所、内神田唐人料理、王子参り、堀の内参りにいたるまで、 わづかの月日におちもなく、師匠も弟子もはや江戸ッ子一粒 より、芝居は先達て『二代鑑』大入をして日数五十四日打ち つゞき、それよりかはる芸題にはまたも附物『吃の又平』並 びに『忠臣蔵』にては九冊目、寺岡平右衛門、『双蝶々引窓』。 秋の頃にいたりて『日蓮記』、染師の『勘作住家』ことのほ か大当り。年もあくれば初春に『薄雪』の中のまき、『出世 太功記』、後が『躄』には九十九の館に玉つばき。『妹背山』 では向床が弥太夫事若太夫、本床師染、加役に『万歳』。『酒 呑童子』の綱の館。
 これまでのところ長らく相勤む肥前座をいとまをとって、 文政十二年己丑年の二の替り、堺町の土佐座芝居へ出勤とな る。初芸題には『伊賀越沼津』。かはり芸題『梅川』飛脚屋。 それよりして糀町平川天神社内芝居において『妹背山』大判 事、切に『二代鑑』。これより芝神明社内芝居にて、『廿四 孝』三段目。かはり芸題『忠臣蔵』九冊目。それより品川高 輪如来寺芝居へかはり『千本桜』。このときは弟子実太夫、 追々はったつして序切に三段目の中『木の実』が役場なり。 それよりしだいに年も経て天保三壬辰二のかはりはまた堺 町土佐座芝居へ戻り、芸題は『八陣』、師の役八冊目本城の 段、実太夫役は序切に八冊目の中。かはりて『廿四孝』、師 の役三段目、実役は『化物屋しき』。それより木挽町芝居へ うつり『伊達くらべ』、実役は埴生村の中、師染は附物『吃 の又平』。p32」
 これより奥を書きならべては限りあらねば略して、それよ り当地寄場、座しき浄るりにさしかゝるは、まづ始まりに芝 神明前金杉席、それより糀町万長、そのほか年々出勤に廻り し家数はあきらかに覚えあれども、これこそまことにくどく どしきゆゑこれを略して、恋と無常に取りかゝるは、師染は これまで石町の泊り家に旅宿してゐられたるところ、御ヒイ キ伊勢屋忠右衛門様といふ大家ありしが、大旦那この隠居所 にゐられしが今はまた木場の別所にうつられ、この隠居所に は留守居もをらず、家を〆切りありて、師染大いにヒイキと なり(田所町伊勢忠の家)、この家を預かり引き移りたるが、 なか/\大きなる家にして、間数もあり、坪の内ひろく草木 しげり、けっかうといふ家はこれなり。
 さてこまるは弟子実太夫なり。大きなる家に朝夕あけたて する雨戸の数廿四枚あり。これに応じてことのほかに多用の なかに、この家より師弟芝居出勤する事ゆゑ、日毎のはきさ うぢも怠らず、飯たきが始まりにて毎夜酒宴のこしらへ、三 助がはりの使ひばん、もとより師の芝居へ住み込まるゝはな し談じ合ひ、あるひは衣服のぬひ仕事、仕立屋への取り渡し、 ふんどしのせんたくやら、あるときにはお座しきに召されて 出で行かれる時、荷物のこしらへよりしてその供につれられ たるが、あまりに多用のなか無人ゆゑ、何人にても居候者が ほししと思ふところ、大坂より師の弟子やら、または懇切の 下廻りの太夫、師をたづね来たりて居候をする者も居合す事 あれども、しんぼうをしかねて立ち去りける。実太夫は今は 多用たりとも苦労にならず、心いさみて心いっぱい身をはた らかせ、夜々酒宴を仕舞ひて師もねいらるれば、それよりわ が手帳に日記を書きしるしける。昼になれば師の傍をはなれ ず、出るにも入るにも付添ひゐれば、あたり近所の人々がこ の師弟が門をあゆむを見るたび/\、「それ/\弁慶々々」 ともいひ、または片仮名のトの字ともいひなしける。そのわ けは師の着丈四尺二三寸、弟子は着丈三尺四五寸にて、雪隠 へゆかるゝまではなれぬゆゑ、トかくの如くに諸人これをい ひなしける。
 それはさておき、お座しきの先々略して軒数ばかりをいふ 時は、まづ始まりが神田荒木金治郎様、当旦那は御綿御用達 にて、師染を召して常々浄るりのけいこをいたされ、『金閣 寺』並びに『太平記』玉椿なぞ語られ、師を大いに御ヒイキ 下されて、折々大金を恵みに預かるなり。さてそれよりは鉄 砲洲浜中様ざしき、新吉原玉屋、同所平泉屋、同所扇屋、田 所町西村、松前様御殿、京橋木村、木挽町天満屋、八丁堀嶋p33」 旦那、水戸御前、一ツ橋様御前、品川若松、四谷組屋舗、小 谷作内様、各々お座しきは一度にあらず。なほまた遊所の方 方は別して毎年冬にいたりて戎講たび/\によばれゆく事な り。塩瀬様なぞは度々のその内も神田明神様御祭礼につきお 座しきありし時、上廻りの太夫、三味引のこらず召し寄せら れ、銘々芸道は本式はならず、銘々一芸しゃれた事ばかりに て、酒宴が第一なり。
 このとき当地に西村幸助といふ浄るりの真金太郎ありしが、 『日高川』を語りけるが、三味線は壱挺にてはこたへぬと申 すゆゑに三味引語助、重太郎、勝造、吉左衛門、勝助、右五 人一時にかたまりて西幸に『日高川』をかたらせ、三味を引 きたてて、三味を引く。をはりに五人の三味線五挺一時に掻 にて三味線の革をやぶりて、五人の三味引がいふに、「西幸 さんの声にはかなはぬ」というてあきれた顔をすれば西幸は いよ/\頭に乗りて、この時よりなほ/\金太郎の位が高う なりしと聞く。
 こゝにまた師染、上方にても御ヒイキ旦那衆あれこれあり しそのなかに、大坂近郡灘の作酒屋松倉様といふ人あり。こ の旦那は先々四代目石屋橋染太夫をもヒイキにて、打ちつゞ きて当時五代目染まであつく御ヒイキを致されし御人なり。 さればこのたび当あづまの新川酒問屋に仕切寄に下られしな り。旅宿は右の新川の播磨屋といふ酒問屋にて、染太夫に面 談いたしたきよしにて、師染の住む芝居を見物にいらせられ 葺屋町中菊といふ茶屋へ染並びに野沢語助もろとも招きにあ づかり大いにちそうになりけるが、この旦那浄るりはよくか たられ、師染太夫の三味線にて語りあるかれける。
 この座しきの先々をあらましいへば、先づ始まりのざしき 新川千代倉並びにかやば町鴻池宗兵衛、新堀中尾屋にて竹本 志賀太夫のさらへ会、右いづれも語り物は『吃の又平』なり このとき当地芝居出勤の富太夫事古野太夫、後に住太夫と改 名をせし太夫、このたび大坂へ帰るにつき、御当地名残りの 会、白銀町井関にて催しあるにつけ、やはり『吃又』をかた りにゆく。それよりかやば町鴻池太郎兵衛、鳴戸太夫のさら へ会にては『長柄』をやはり染の三味線にてかたる。この間 だいぶの日数なりければ、はや出立となりて楽屋新道熊野屋 にて出立ふれまひをいたされ、明くる日は、いよ/\出立な れば、師染旦那を見立て品川高輪の料理屋にて酒宴してわか れるなり。このとき師弟とも過分の礼物を納受して立ち帰る。 さてまた前文にあらはせし大坂出立の時、師の染が実子を 離別をせしおつるに預け置き、わかれし実子松之助の事ばかp34」 りを案じられしが、この子松之助病死せしとしらせの書面到 来せしかば、師はこれを見るより大いにちからをおとされ、 人眼に見せぬ落涙はそばで見る眼もいとほしし。
 さてそれには引きかへ、こゝにまた本町の辺に何がしとい ふ女あり。媚かたち美しく、いと艶しき女なりしが、ふとあ るとき師染に心をかけしにや、さる料理屋へ染をまねきて酒 をも呑みかはしけるが、染はその後女の身の上を世人に聞き ければ、この女は師が当時預かりて住居をする座しきの本主 伊勢屋忠右衛門様のかこひ女と聞きしより、さすがの染もお どろきて、いまさら後悔先にたゝずとてその身をたしなみゐ たりけるが、まことに悪事千里とて、いつの程にか旦那の耳 に入りしにや、ある日伊勢忠より至急に人をもって、外事は いはずして店立てを申し渡されて、師はたゞ口あんごりとし て、何分先方より外事をいはねば利口らしき返答もならず 「いさいかしこまった」と答へて、すぐさま家の取りかたづ けを実太夫に打ちまかせ、その身はこゝを退かれ、後の始末 は実太夫しんぱいすれども旅の空、余けいの荷物もあらざれ ば一時の間に住みなれしかの家を明け渡し、一両日はさまよ ひしが、この間名残り会をもよほせし古野太夫、上方へのぼ る用事も済みて上坂のこしらへなれども、今迄住居をせし売 家を買ふ人とぼしくて出立延引と聞きしより、これくっきゃ うの空き家にて、さっそく応待にかゝり談合極りたれば金子 の取引きも相済みて、すぐさま家のさうぢをして、文政十年 亥八月廿五日に本石町四丁目新道の家に引きうつりける。p35」
 
第二の巻
 
 師染太夫妻をむかふ事(文政十一年子十二月十二日)
 
 東都はきようはつめいにて、女の音曲は当国にかぎるとあ り、師染は田所町伊勢屋の隠居にありし時よりして、諸々の 娘たちに義太夫をおしへきたりしが、石町新道へうつりてよ ります/\けいこの娘達さかんなるが、なかにも仲喜といふ 女弟子、年壮二三才にして事のほか芸道をよくおぼえ、たゞ 物の数をいはぬ人柄なりしが、こゝにこれも日毎にけいこに いらせある荒木金次郎さま、曲名旦斎といふ旦那この女弟子 仲喜を仲人して、師染の妻にむかへられ、婚礼も相調ひ、仲 喜の呼び名を取りかへ、田穂屋の因縁を差し加へ、名をお稲 とよばし、則ち当人の両親は隣町堀留二丁目錺屋茂兵衛殿夫 婦とも一家のちなみをむすび長き栄えと知られけれ。
 
 師染一子源治郎誕生の事(文政十二年丑正月廿四日)
並びに江戸大出火の事(同年二月廿一日)
並びに師染類焼の事並びに師染赤坂へ引越しの事(同年四月八日)
 
 かくて染太夫婦をむかへ、女房お稲ともむつましくして、 月を経ておいね懐胎して男子をまうけ、荒木旦那名付けして この子を源治郎とあらため祖父祖母のよろこび大方ならず、 夫婦慈しみそだてける。
 この頃は師染は堺町の芝居へ勤められて、『梅川忠兵衛』 の新町の段を語りゐられ、前滞るりは『ひらがな』大序より 三段目までなり。則ち三段目は当地の津賀太夫、二段目切が 下り佐賀太夫事中太夫なり。この太夫は先ン岡島屋の中太夫 の直弟子にして、大坂にては政子太夫といへり。
 さてまた二段目の中、先陣もんだふのところ、太夫三人の 掛け合にてありしが、芝居末になりてかけ合のところ、かは り役に相成りて、梶原源太の役中太夫、このかはり役美咲太p36」 夫、こし元千鳥むら太夫(後に綱太夫と改まる人なり)のか はり役菅太夫、梶原平治染太夫のかはり役実太夫。
 この時の大火なり。文政十二丑三月廿一日、右『ひらか な』の掛け合の時なれば朝四ツ時なり、実太夫はいま役場掛 け合の平治を語りゐるさい中、出火しらせの半鐘の音さわ ざわしけれども、見物もさわがねば床へしらせもなく、心に かゝれども役大切に語りゐる折しも、次第に出火大きくなり しかば、見物も立ちかゝる。拍子木ならし芝居打ち出すがい なや実太夫は床よりとんで出で、火元の様子をたづぬるに、 焼け出しは外神田よりとありければ、この芝居より道のり二 十丁もある事なれば芝居には気づかひあらじ、火元より師の 家へは十四五丁、これとてもさのみおどろく程の事あらねど も、師の家いまは無人なれば、ちょっともはやう宅へ帰らん と思ひ、部屋の仕舞ひもそこ/\にしてたゞいっさんにかけ 出し、空を見れば墨色の悪雲なり。風は北風にて師の家は風 下なれば気はやたけ、汗水ながして師の家にはしりつく。
 曰く、当地は世人の知る火ばやきところなれば、実太夫は 常々心得て、出火の用心にはかしこくこしらへ、いま住む家 の表の八畳の天井は常に人の見る時はたゞ丸竹の天井と見え、 出火あるとき荷物を片づけるときの要害にして、すはその時 にいたると片方の綱を手ばやく引けば天井ばた/\と下へ落 ちる。天井と見たる竹は一本々々わかれて荷物の荷ひ竹なり。 竹が落ちるとその中に荷物をゆはへるに細引、またはいろは 付けにしたる名所書き帳面まで一時に天井ともに下へおちる なり。これをもって出火の要害とする事、常には丸竹の天井 と見て、寄る人これを見てふしぎに思ひ、「これは何の為な り」と人これをきく時はこたへていふ、「これは火急の火事 にかやう/\」と咄にいひければ、世人こたへて「これはき めうなり。上方者は用心ぶかい」とわらふ人もあり、かんし んする人もありける。このとき師染も常には苦い顔しても、 この要害には片頬に笑をふくまれける。
 さればこの出火にこの要害大いに間に合ひて、師染は出火 ときくより実太夫は芝居より戻らねども、この出火に北風つ よければ取りあへず荷をかたづけるに、かねて実太夫がこし らへおきし要害の綱を引きて天井をおとせば、ともに落ちく る細引をおっ取って、自ら手ごろの荷物をこしらへゐらるゝ ところへ実太夫ははせ帰り、直ぐさま荷物に取りかゝるその 内に、はげしき風に飛び火して、火は早くも近所へ廻りくれ ば、内宝お稲殿は子源治郎をいだき、堀留の親のかたへ逃げ 行かるゝ。p37」
 そのうちに見舞に来たりし人々へ、荷物をそれ/\に渡す といへども、火急の事ゆゑ、たくらみ置きしいろは付けの札 むえき 印も帳面も無役になれども、天井の丸竹は大いに間に合ひし なり。まづ荷物は大方に取りのけたりと思ふ折しも、はや四 五軒となりへ火は廻り、手伝ふ人々たゞの一人ものこりなく 逃げ帰りければ、跡に実太夫壱人りきみたち、これよりは我 れ一人にて二階に残りし小間物、畳まで、これをも助けおき たしと思ひ、お役人衆にしかられ廻り、二階の格子たゝきや ぶり、畳はもとよりあたる物を幸ひ大道へはふり出し、それ よりその身も大道へ飛んで出で、壱間手車に荷を取りのけ、 それよりたくわん柄樽二三挺ばかり出だし、簀子下の常下駄 まで火のなかにわけ入りて出ししまひ、心も残りなくこの場 を逃げのき、取り出せし荷物は本町の河岸ばたにあつめ置き、 番人を頼みて師匠夫婦のありかをたづね行けども、堀留のお 稲殿親子の家も焼失、居所しれず。
 何はしかれど空き店を見つけ住所を極めんと思ひ家をさが せども、大火なれば空き店があらばこそ、その上に火はいま にまっさい中にて逃げ場へ火がまはりくれば、本町の川岸に も荷はおかれず、呉服橋御門の内は大丈夫と我れ一に持ち込 むゆゑ、またも手伝ふ人を頼みこのところへ荷物を置き直す うち、はや日も暮れてこの夜はこゝにての夜通しには戸障子 を屋根として寝臥さんと思へども、まだ如月の中旬にていと どさむさはまさりける。さればこの出火大火となり、そもそ も外神田より焼け出だし、南は品川の辺りまで、東は両国内 と外、西はお城のお堀まで、焼け失せしは凡そ南北は三里の 余、東西一里といふ火にて古今まれの大火といふ。
 すでにその夜も明けぬれど、火はいまにしづまらねども、 焼け跡はしづかゆゑ、諸方の善人のともがらよりお粥の施行、 米銭のほどこしあり。御公儀様よりはお救ひ小家諸々の御見 附々々々に建てられたり。
 さて実太夫、三四日はこの丸の内に諸方より施行を請けて ゐたれども、いつまでも荷物を片づけるところもあらざれば いかゞせんと思ふところに、このとき深川に師匠の女弟子お かねといふ女あり、この方に師匠夫婦世話になりてゐらるゝ よしを聞き、大いに安心をいたせしなり。
 なほまたこのおかね、隣家に空き店ありておかねの親喜八 がこの家を引合ひ、当分その方へ来たれとあつき世話になり、 小船をかりて荷物をつみ、さう/\深川の小舟入といふとこ ろへ立ち越え、みな/\喜八の世話に相なり住居をせしが、 何がさびしきところに手のひらほどの家なれば、ぎゃうさんp38」 なる荷物をときほどく事もならねば、大いにふじいうをして たゞ/\世の中のしづまるを見合はして三四十日はくらせど も、大焼けにて芝居焼失、寄場も大方焼け失せて、焼け残り し寄場といへばこの辺なれども、このところは末町のこまか きところゆゑ、寄場はあれども浄るりをかけてせんない事ゆ ゑはたらく事もならず、まだしも山の手ならば大場所ゆゑ、 寄場をかけても引合ひに相なるゆゑ、ともあれ談合せんと直 ぐさま立ち越し相談せしところ、寄場の亭主大いによろこび 談合極まりしが、先方にも心配をして申さるゝは、深川から 三里もあるところを毎日通ふ事あたはざれば、山の手にて店 を求めさせたしとあって、この人の世話にて赤坂御門外の空 き店をかり請け、至急に深川のおかね両親にかのいちぶしじ ゅうを通じ、それよりして小舟にて深川より赤坂の家へ荷物 をつみ、同年丑の年四月十八日に山の手赤坂壱丁目寄合町の 家へ引き移るなり。それより追々家にゐくろめて、一ツ木の 寄場にて浄るりを始めしが、大火のあげく事めづらしくとて ことのほか大入はんじゃうをなし、世はいよ/\しづかなり。
 
 竹本実太夫高の常吉喧嘩の事(文政十二年七月十八日)
 並びに実太夫師匠に勘気かうむる事(同年十一月五日)
 
 東都は大繁華の土地なれど、とかくに火事の騒ぎが定石に て、当地になじまぬ他国者は風がふけばまた出火か、もしや 焼けては来はせぬかと、寒さの時分は夜もねられず、はたし て半鐘の音ばかりで今夜は五ケ所、昨夕には六七ケ所の出火 の数、そのたび/\に肝をけし、胸轟ろかすは田舎者、当地 に生れし江戸ッ子は東西わかぬ折からして半鐘の音が添乳す る、出火のない夜はさびしがり、夜がねられぬが当地の風。
 かくて師匠染太夫はこの山の手に住みなれて、頃は菊月の はじめつかた、空ものどかな頃なれば、内宝お稲、子源治郎、 供人連れて親里へほやうがてらの見舞ゆき、泊りがけに出ら れたり。
 こゝにまたこの頃、家の居候は実太夫はじめ三人あり。壱 人は内宝の供をして出でたれば、あとは実太夫と高の常吉と いふ者なり。
 時にこの辺りの遊所町といふはまづ赤坂の梅貴女子、三田 の△、四ツ谷新宿なぞといふ女郎場所ありて、師をヒイキのp39」 旦那衆は折々遊所へ遊びにゆかるゝにつき、実太夫もお供を して通ひし事は度々なれば、なじみ重なり実太夫も今はかの 旦那衆よりあつうなり、ツイ己惚れの通ひ路も四ツ手籠のは うり込み、師の眼を抜いてのあそび事、はじめは半時一時が ついお泊りの朝戻り、師匠はしらじと思ふが馬鹿。
 こゝに一人の居候、名は高常といふ者は女郎買ひより賽の 廻り、丁半ちょぼいちかるた事、何所へはひるか戻りには、 じゅばんばかりに風かたち、人はよけれどしみたれた、はだ かぐらしもうたてけり。主の師匠もこの頃は酒宴の門の数多 く、先からさきの呑みぐらし、今宵もまた留守なりと鍵を預 かる身はなほさらに、大事々々と実太夫、師への仕へは堅け れど、心の外のほうらつは、後にぞ思ひ知りたりける。
 さればある日の事なるが、師匠夫婦留守の折からに、実太 夫はれいのちょんの間して、立ち帰りては何事もなかりしが、 師匠もこの頃、華々しくはひるところのありと見え、何所か らともいはずして、衣服どれ/\の着がへを持ち来たれと使 ひの者が来たるゆゑ、鍵を預かる実太夫、たんすの引出しあ けんとせしが、錠前はきれて鍵は役にたゝず、ふしぎにこれ を思ひあける引出しはあきがらなり。びっくり仰天しながら 見れば高常が家には居合はさず。さてはきゃつが合ひ鍵をし てたんすの衣類を持ち出せしなり、たしかに博奕場にさうゐ あらじと気は狂乱になり飛び出し、高常の行く先はつねに心 得ゐる事なれば、一目散にその場所へかけつけて当人をたづ ねあたり、引っとらまへて恨みのかず/\取りまぜて詮議は すれども、高常も一文なしになりをはり、気抜けの如くたわ いもあらざれば、掴みついたりとも打ったりとも間に合ふ事 あらじと心に観念して、実太夫が着たる着物は縞ちりめんの 上下、緋縮緬のじゅばん、羽織は上田弁慶縞、銀金物打ちの たばこ入まではふり出し、裸体になって高常への頼みには、 「いま先から師匠のつかひにて着かへの衣服を取りに戻され たるゆゑ、このしなを渡さねば我等が身の上は生きるか死ぬ かなり。いま汝が持ち出せし衣類なにとぞ戻してたべ、今の ところにては師匠の召さるゝだけあれば事すめば、とく/\ この着類を火急に持ち行き、これをかはりに先方へ渡し、師 匠の衣類を早々持ち帰り、今のところの間に合はせくれた し」と我が着る物を渡しければ、高常は気の毒さうな顔をし て打ちうなづき、実太夫をこゝに待たせおき、いそがはしさ うにかけり行く。
 しばらくあって実太夫、やゝ時うつるに高常は戻りもせず、 よもやまたアノ品物をもって逃げるほどの悪者にてもあるまp40」 じきと思へば心もたまらねば、かけ出さんにも丸はだか、行 先とても知らざれば、胸は早鐘、気は狂乱、はや日も暮るれ ば、今さらに師の衣類を持ち帰りたりとも間にあはねば、か へす/\も高常に出し抜かれたる二度の無念、師匠へのいひ わけたちがたく、髪もさかだち身をふるひ、やゝ黙念とばか りして、こぶしを握り男泣き。やゝあって思案を極はめ、い つまでこゝに待ちゐたりとて今宵はとても戻るまじ、ひとま づこゝを立ち去りて、時分をかんがへ思ひがけなく引っとら へ、取り戻さんとやう/\に気を落ちつけ、ともあれこの風 体では往来ならず、幸ひとくに日も暮れたれば人顔見えぬを 幸ひに、やう/\に町家へ出で、心安き古手屋へたどり寄り、 持ち合はす金あれば値安き古着を買ひ求め、やう/\こゝに て着物をきて阿呆らしくまた立ち出でしが、どういふ顔さげ 師匠の宅へ帰られやうと、たゞぶら/\と夢ごゝち、なほさ ら今宵はねるところもなく、せん方つきてこれまでの馴染の 遊所に一夜をあかし、夜のあくるを待ちかねて、けふは絶対 絶命と心はきっと定むれども、無手ではもしや仕損ぜんと江 戸の町をかけ廻り、やう/\見つけて六、七寸の小合口を買 ひもとめて懐中し、出で行くさきの博奕場は人も知ったる屋 舗の部屋。
 その日も既に暮れすぎにて、部屋へ入り込み折もよく高の 常吉に出合ひて、我が身のせつなさ物語り、どうぞ仕様のあ る事ならば衣服を戻してくれよかしと、仏を頼む如くにて、 泣いつくどいつさとすれば、かの高の常吉は入墨のしたる体 にて、この時に身持の地金を出し、二度と師匠の家へは戻ら ぬ心と見え、人もなげなる野太いいひ方すれば、短気の実太 夫たまりかね、こゝぞ生死のさかひなりと、隠し持ちし懐劒 ぬきもって高常の眉間正面たゞ一討ちに斬りつけしが、やう やうに浅疵一ケ所なれども血は辺りにほとばしる。いま一討 ちと立ち寄れども、先もしれもの、実太夫が腕くび取り、刄 物を取らんとひしめけども、こなたも今が一生懸命、持った る懐劒はなさばこそ、双方あらそふその折から、お屋舗の事 なれば武士衆が大ぜい走りより、この様子を見るやいな、有 無いはせず実太夫を取って伏せ、刃物うばひ取り高手小手に 縛りつけ、あたりの小間へ押し込めたり。
 実太夫は黙然と縛られながら心には、残念なるはきゃつが 浅疵なり、討ちもらしてもこの身の咎はのがれがたし、それ はもとより覚悟は極はめしこの身、たゞ案じるは師匠の事、 さぞやこのこと知りたまはば、にくしと我れをさげしまれん、 ともあれ弟子の仕出し事、師匠にかゝりてもったいなや、御p41」 難儀をさっしゃらうとこれのみ案じるばかりなり。
 かくてその夜も更けぬれば、はや明け方の頃になり、役人 なりと名乗り入りくる武士ありて実太夫にいひきかす事、喧 嘩の次第ちくいちわかり、「ともあれその方はかゝるお屋舗 をさわがせし咎一方ならず、直ぐさま牢舎におよぶところな れども、知音の者の願ひによりかの者へ預け他参をとめる、 やがて裁断あるべし」と、知音の者に引き渡し役人は入りけ れば、さればこの知音とはたれならんと顔を見れば、美野屋 権八とて赤坂の顔役なり。この人といふは駕籠屋商売にて、 師匠の家の出入りの者ゆゑかくまで骨を折られたり。
 さてそれより二人連れにて屋舗を出で、道すがらの咄には、 さても大変出来たり、悔んでかへらぬ事ながら、かういふ事 ならこの事を我等にかうと咄せば大変にはせまいもの、染先 生もこの事聞きて大いに心配やら立腹やら、何分我れに頼む とある、然るに今お屋舗にて当人を預かりしが、我等が家は 気づまりゆゑよき居所をこしらへおきたれば、諸事我等にま かされと、咄の内に早や赤坂へ帰りきて、我等権八が預けお く家はこゝなりと連れ立ちはひるこの家は、
 曰く、この家は師の女弟子にて小初といふ者の家なりと、 実太夫とは傍輩なかの事なるゆゑ押してこの家へあづけらる るは権八のはからひなり。小初いまは廿才を越し、一人の母 親をやしなひ、その身は義太夫のけいこ屋して、女連中に打 ちまぜり江戸中の寄場へ行くが世の営み、ほそき煙をたてゐ たる。
 かくて美野屋権八は小初の宅にて母親にもこのていたらく をひたすら頼みければ、小初親子しさいを聞き、実太夫は兄 弟子の事なり、師匠のおもはく、権八の頼みにてさっそく請 引き預かりて、その日よりして実太夫をあつく世話をぞなし にける。
 かくて実太夫は小初親子の懇情にて日をおくり、明け暮れ 師の機げんはいかゞなりと蔭ながら窺ふところ、ほのかにき けば師染君、実太夫の一条につきます/\憤りつよかりと聞 きて苦しみいやまさり、心悩みて日を暮らす。こゝに赤坂の 師染も弟子の乱暴きくよりも心を痛め、とやかうと案じに胸 を苦しめつ、このたび高常の持ち逃げもかればかりの仕業に あらじ、実太夫の遊所通ひなか/\ちひさき事ならず、黄金 のちりばむふしぎに思ふ折からに、鍵を預けし実太夫、己れ も自用に衣類をば我がまゝにいたしつらん、ひっきゃうこの たび高常が不時よりあらはれたる事なりと、一途に実太夫を うたがひゐられたり。p42」
 さてまた美野屋権八はかのお屋舗へ出で、屋舗を騒がせし 事の詑び願ひに幾たびも出づれども、役人衆はききいれられ ず。幾度もさがりて権八思案をして、この喧嘩は元来部屋に ての事なれば、部屋の者へあつかひ金をするならば、済まざ る事もあるまじと心づきたるその日より、我が思ふばかりの 黄金を持ち、実太夫のあやまり一札もろとも懐中して、お屋 舗へ押して出で行き、部屋者へそれ/\にあつかひ金をして、 高の常吉にも疵養生の料を遣はしければ、権八の思ふ途をは づさず、これにてお屋舗表は何事なう相済みて、高の常吉の 身のうへは後にてのさばきと権八の所存なりしが、高の常吉 はいつの間にか逐電して有所しれずになりける。
 曰く、一ト継ぎはよほど入り込みし大変なれば、喧嘩のは じまりよりこれまで日数五十日におよぶなり。
 既に日数も行き暮れて、染太夫の心もすこしはやはらぎし とありて、ある日の事に実太夫は権八にともなはれ、久々に て師匠のかたへ召し寄せられ出で行けば、師染は実太夫に打 ち向ひ、不孝の段々いち/\語り、この日よりして永々勘当 を申しつくるとありければ、実太夫は「左様ありとは差し心 得て参りしなり。この期におよびお詑び申すはかへって不孝 なり、時節を待って追って願ひ奉る、お見すて下されまじ」 と立ちあがり、家内一統へあいさつをして立ち別れ、小初の かたのおれそれあいさつも権八に頼みおき、師匠の側をはな れ出で行く思ひ、今帰りてはいつかまた師にまみえる事あら じと思へば、いんぐわな我が身ぞと泣く/\出づる。うしろ 髪引かるゝ心を取り直し、すご/\家を出でて行く。p43」
 
第四の巻
 
 江戸表義太夫男女ともお差止めの事(天保二卯年十月廿四日)
 
 お江戸の花といふは三都にひゞきし義太夫語りの太夫も、 あづまにゐつきの女義太夫も、同じ一様の位ぢゃと江戸の諸 人がたゞ一道に心得たり。当時浄るり寄場へ専ら出勤する太 夫は、津賀太夫、染太夫、富太夫その余沢山あり。女義太夫 は芝のおでん、巴丈、染の助その余あまたあり。
 さて染太夫が寄場にて客人三百人を呼べば、女太夫も客人 三百人よびける。これによって寄場の賑はひすさまじく、な がらく繁昌なるところ、市中の客人のなかにも女太夫に凝り かたまり、ヒイキがあまりて客人が女太夫の家に寝泊りして、 明くればそのまゝ女太夫につき添ひ寄場へ通ひあるく事まゝ ありて、それがゆゑに女太夫の家へ客人が我れも/\と押し 込んで女の内は奥にも客人、表の間も客人、二階座敷にもと 宿屋の如くなり。されば客人に武家方も多くありて、主人の 用事を欠いてしくじる人々あまたありける。これ皆女太夫の 猥らよりおこりし事と、お上様へきこえ、ある日にはかに女 太夫をお召出しになり、不埒の段々お咎めにおよび、宿下げ になるもあり、そのまゝ牢舎もあり、大いにきびしくなって、 男太夫女太夫とも市中寄場お差止めとなりにける。
 さても男太夫は、女太夫のそばぞへにて、寄場なければ皆 皆遊びくらしゐたりける。さる事にて実太夫もあそびゐて、 万吉、園太夫二人をかゝへ、ほそき煙をも立てかねて、いか がはせんと思ふ折から、万吉がいひけるは、「この間にお座 敷をしがてら、日光山へ参詣致し度し」と、この事すゝめけ れば、実太夫もその気なきにもあらざれば、この一儀師匠染 太夫へ願ひしところ、当人大いに嘲笑ひ、いま商売お差止め になりたりとて、田舎あるきをして太夫仲間にさみせられん より、やはり当地に留まり、家内を引き連れ我が家へ来てゐ るべしと師匠の恵みおもければ、まづさし控へ家内へこの咄 をするに、万吉園太夫は日光参詣かねてよりの心願にて、早 くも旅用意も出来たる心底もだしがたく、かくして実太夫は 師匠へたって願ひしところ、さいどの願ひにやう/\参詣か なひ、然らば吉日をえらみ出立致すべしとありけり。かくし ていよ/\日光参詣ときまりける。p51」
 
 竹本実太夫日光参詣の事(天保二年十一月朔日)
 
 さてそれより実太夫は大工町の我が仮宅を家主へ明け渡し、 雑物は師匠の方または親類請けの堀野屋長右衛門へ預け置き て、諸方旦那方へ暇乞ひして、師匠染太夫にては門出の盃を 下され、内宝はじめ家内へもあいさつをはり、それより旅用 意の両掛けを弟子園太夫に荷はせ、目出度く師匠の家を出立 致しける。
 さてもその日は追々時刻おくれ早や夕七ツ時、せめて千住 宿までなりともと思へども、夜に入りて行くにもあらねば、 今宵は当所のはたごやに泊るも一興と、それより馬喰町壱丁 目の宿屋、かり豆屋茂右衛門へつか/\とはひりしところ、 泊り屋の男立ち出でて実太夫三人を見て、御当地のお客様は お断り申しますというて、いっかうに泊めてくれねば大いに こまりて、実太夫がいひけるは、「成るほど御尤もなれども、 我々は日光山へ参詣の者にて、今日日柄よろしきによって出 立致したれども、時刻おくれやう/\たゞ今になりし事ゆゑ、 なにとぞ一夜おとめ下されかし」と段々入りわけを語りて、 やう/\このかり豆屋に泊りしところ、宿屋の様子をためし 見るために、旅籠代過分に出すといへどもよけいのあたひを とらず、定まりの値段弐百四十八文にて何のふぜいなく大い にふつがふなり。三都にて宿屋は京都大坂に極まりけるとあ り。
 さてもその夜も暮れ、明くれば早々馬喰町をたって二里あ ゆみ、千住宿に着きしところ、野沢庄兵衛といふ者にはたと 行き合ひ、立ちながらの咄に実太夫いひけるは、いま江戸中 の寄場お差止めになり、長らく休みゐる事ゆゑに、この間に 座敷をしがてら日光山へ参詣に出で来たりしといひければ、 この庄兵衛は実太夫に恩儀ある者にて、「今はこのところに 住居をしてゐるゆゑに、然らば我等がお世話をして、この宿 にてお座敷をこしらへてまゐらせん」と、いとねんごろに世 話をして、まづ/\こなたへと我旦那先太黒屋豊次郎とい ふ方へ三人を連れ行き、この夜当家とまた同宿鮒屋久四郎と に二座敷出来、大黒屋にては『桂川』の帯屋の段、『忠臣蔵 四冊目』、鮒屋にては『菅原天拝山』、『御所桜二段目』を語 りしところ、当所の旦那打ち寄りゐて、浄るりの評判よろし きとあって、当所に留まりゐれば座敷は追々こしらへるゆゑp52」 逗留を致せとすゝめられしが、実太夫もきのふやう/\江戸 を出立して当所までは二里のあゆみなれば、向うへ心をせか れ、またの折にと礼をのべ逗留の事を断りしかば、連中もち からを落し、然らばこれより日光道中筋、宿々の旦那顔また は顔役衆へ頼み状をそへんといとねんごろに先々への書面を そへられける。なほ座敷料は二席に金三両弐分納受するにつ き、さるにても昨夕は江戸の馬喰町の泊り屋で大尽顔をして ゐたれども、懐は大きに払底にて心ぼそき折から、江戸より 二里あゆみてかくのていなれば、これよりの道々にては大分 の事になるべきと、心いさむも井の中の蛙だけ。
(下略)
第六の巻
 
 竹本実太夫日光下向して師の家に着の事(天保二辛卯十二月五日)
 
 さる程に実太夫が師匠染太夫の住所は、先にいふ日本橋小 松町なり。師もこれまで当所にて其地此地に住居致されしか ども、とにかくに火事ばやき土地なれば、度々類焼して変宅 せらるゝなかにも、杉の森新道にてはおびたゞしく普請を好 まれ、はづかしからぬ家にてありしが、去冬十二月にまたも や焼け出され、それよりはこの小松町に借家を致されけるが、 実太夫も同様に類焼に逢ひ当時鉄砲町に借り住居をせしが、 これも先にいふ通り御当地浄瑠璃寄場お差止めになりしにつ き、実太夫は家を片づけ日光参詣をせし事なれば、このたび 日光より帰国にも実太夫の家とてはあらざりける。
 かくて実太夫の三人組、天保二年辛卯極月五日の夕方に小 松町なる師の宅に立ち帰る。師匠夫婦はじめ弟子中とも対面 し、こゝに落ち着き、それよりして日光道中の咄をすれば皆 皆腹を抱へて打ち笑ひ、師匠夫婦も満足なりとの機嫌に縋り、 この夜より実太夫二人を連れての居喰人、実に大様なる暮し なり。
 既に今年も弟月と打ち過ぎて、頓て目出度く初春は何国も かはらぬ蓬莱と、祝ひ祝する辰のとし。さても正月の上旬よ り堺町土佐座において操りくはへし大芝居『八陣守護城』な り。三段目は染太夫役場、三中は実太夫役場なり。この芝居 大当りにして桃月になり、替り外題『本朝廿四孝』。三段目 は師匠染太夫、同じく三中は実太夫にて、これも大入をして うち仕舞、さつき月には木挽町の芝居へかはり、この芝居は 『伊達競』にて、江戸大立者津賀太夫加はり、三段目埴生村 を語る。この中語り実太夫なり。師の染太夫附物に『吃の又 平』を勤められて、この芝居も長らく続きありけるが、やが て夏の景色に赴きければ、しげき暑さに余儀もなく、栄えし 芝居はうち仕舞、秋を待つ間のなか休み、暫く身をもくつろ げる。
 されば実太夫は師のかたに万吉園太夫ともに居喰人してゐ たりし折なるが、実太夫は大坂に兄と姉との兄弟あり。 兄はいづみ屋平右衛門とて大坂長堀住友の流れのすゑの者 なるが、寿五十路に近かりしが、ふと病気に取り合ひ、おひp71」 おひ長病となりて最早いづれは冥途へ出立なりと心細かりし に、弟実太夫に逢ひ見をしたきとあって、ひとまづ上方へ登 りくれたきよしにて書面を出されける。あるとき実太夫のか たへかの手紙到着せしところ、実太夫早速披見するに右のて いなれば、大いに驚き、とにもかくにもかはりなき兄上の事 なれば一時も早々駆けつけんと思へども、我が師匠も国を捨 て親類を捨てこの東都へ来たられし事、これはいはずと知れ し事なれば、大恩の師を捨て当地離るゝいはれあらざれば、 このこと暫く打ち捨てありしところ、師匠染太夫毎夜々々寝 酒を呑まるゝせつ、実太夫を酒の相手にせらるゝこと常に変 らねば、ある夜実太夫はいつもの如く師匠の酒の酌をして我 れも盃を戴き、浮世咄のそのうちに師のいはるゝは、「我れ 久しくこの江戸に住居するも、あまり長かりければ来春には ぜひとも上方へ登り、大坂の芝居をも出勤致したく、かく長 長と当地にゐては芸道の為に悪しし、なんじも同じ事なれば 我等が上坂のせつよりは半年ばかり先へ登り、然るべき住家 を大坂堀江にてみつけ当地へ知らすべし。さあらぬ時は我等 上坂の砌、住家定かなければ差当りて迷惑すべし、かゝるが 故にこの儀を申しつくべし」と。おもき上意に実太夫、こゝ ぞ願ひの折なりと師に向ひていひけるは、「我が兄平右衛門と 申す者、上方にてこのたび病気に取り逢ひ、弟の私に頻りに 対面致したきよしの書面到着仕り候へども打ち捨て置き申し 候、併し私にはたゞ今親とても御座なく、当時親同然の兄、 若しや世をさられなぞせられては、本意なき事とぞんじ候」 と咄をすれば、染太夫もこの事を聞き、尤もなる事と思され て実太夫にいひけるは、「たゞ今その方に申し遣はし候とほ り、我等もぜひとも来春帰国をすれば、その方は急ぎ支度し て上方へ登り、兄の先途も見届けしうへ、我等が用事も達せ よ」と心をも込めし一言に実太夫大いに悦び、「仰せに随ひ お暇たまはるべし。しかしながら私、師の御蔭にて当所に知 る人多く御座候へば、贔屓の方々へ暇乞ひ致し度く候。いづ れ出立とても火急の事にまゐりまうさず候。何さまたゞいま より支度ごめん下さるべし」と急ぎ調度にとりかゝりける。 さても実太夫は師の御恵み須弥山よりも高く、このたび上 坂につき荷物をとゝのふ事、世帯道具の小間ものあらかじめ 夜具類に至るまで長持にて廻船に出だし、着類夏冬ともに七 十弐品、それに応じて帯類提物等は飛脚荷物に出せり。これ 記録に改めて記すもはづるべけれども、そは世のなか一通り 諸人の事なり。
 この実太夫は幼名美吉郎とて太夫の道をも得しらぬ者なりp72」 しが、六ケ年以前師の供をしてこの東都に来たるその時は、 着物といへば夏冬ともやう/\五ツしなに足る不足にて来た りしに、かくまで諸事の品を拵へ、その身は芝居にて浄るり 語りとまで立身するも、ひとへに師匠のお恵み深かりし事の 嬉しさ余りて恥かしさを顧りみず、我が身懺悔のため記録に のこして子孫に伝ふものとか。
 さはさりながら実太夫は己が身は類ひなき仕合せすれど師 匠へ孝の印なく、何をがな師匠へ恩賞のかたちを出立に残さ んと、たゞひとすぢに心をはげみ、こゝに一ツの智略をめぐ らしける。さればこの事は師匠の身にとっては瑕瑾の咄なれ ども、記録なれば書き記す。染太夫この東都においては、借 財事といふはほかにはあらざりしが、御贔屓の旦那先二軒に 証文ありし借財、両家にて百両ばかりありければ、師は明け 暮れこの事を苦にせらるゝといへども、はした金にあらざれ ば借財その儘におこたりある事なり。こゝにおいて実太夫は 上方行きにつき諸方の知るべ/\へ暇乞に行く事なれば、師 の借財ある旦那衆には別してあつき礼をのべ、いとまごひす る咄のなかに、「私事このたび帰国致すにつき、師匠旦那に ての借財これのみ心にかけられ候へば、なにとぞ御当家借用 金、師のかたへ徳政なし下さらば師匠は一志の苦患をのぞか れ、拙者とても孝行と相成り候へば、なにとぞ師弟をお助け 賜はれかし、生々世々の御情」と顔押し拭ひて頼みしところ、 先方にはこの金の事常にせいらくはいたされねども、証文も ある事なればいかゞ相成る事なりと金の冥利に申し出しては ゐたれども「今その方師匠の心を休めん為、徳政をたのまる る事神妙なり。然らばその功に免じてこの金子無財にして証 文進上いたすべし」とあって、早速師の認められたる証文に 熨斗をつけて、実太夫これを戴きしときの嬉しさは何に譬へ ん方もなく、そのうへ実太夫も出立のせんべつに黄金過分に 戴き、名残りをおしみ引き別れける。かくて今一軒の借財あ る旦那にても如斯くに証文をもらひ、わけてこの旦那にては 実太夫二十両ばかりの品物を余計に貰ひける。されば実太夫 は師の宅へ帰り、まっかう/\の咄をしてかの証文を渡しけ れば、師匠も満足し、これにて実太夫、師の恩を謝しゝ事こ れも我が力にあらず、師あって弟子その功を達するものなら ん。
 さてこの両家ばかりにあらず、暇乞ひに廻る先々は皆師匠 引法にて、いづれの方にても一々餞別の酒盛りとなること故、 一日にやう/\壱弐軒にて日を暮せし故その日数久しくかゝ り、辰年六月より支度にとりかゝり、八月三日いよ/\出立p73」 とこそはなりにける。
 
 竹本実太夫浪花へ帰国出立の事
 
こゝに実太夫日光参詣同道したる二人の者あり。弟子園太 夫は実太夫の旦那先、八丁堀川口茂左衛門様へ居喰人に頼み 遣はす。万吉は実太夫帰坂同道の約束にて、当人も旅支度調 ていよ/\出立定日に赴きければ、師の染太夫酒肴をとゝの へ、実太夫万吉に盃を下され、名残りの酒宴に朋友衆も打ち 交り、さらに名残りは果てざれば、師匠夫婦も両人をいさぎ よく立たせんと立派には申されども、さすが長のなじみの事 なれば、その身も深く歎かせ給ふ。されば座並につらなりし 朋友袖太夫、八ツ太夫、弟子園太夫三人小踊り勇み立ち、 「何日までこゝにゐるとても、名残りのつきる事あらじ、我 等三人は品川まで見立て申さん」とはやその座を立ち上れば、 実太夫万吉はたゞ気抜けの如く立ち上り、師匠へ暇乞ひも泣 きくづほれやう/\出づる師の門口、足は向うへ気はあとへ、 三人打ち寄り介抱し、やがて小松町を離れ日本橋通りへ出で、 歩む道筋実太夫を勇めるため浮世ばなしのしゃれ詞そやし立 つれど実太夫さらに浮きたる気色なく、たゞ両側の家続きを 見て、この家もなじみの家、こゝの内も名残りかと思ひ忘れ ず。行く足はかどらねども夕方に品川の若松吉兵衛といふ旦 那の内へ着きにける。
 さても当家の旦那吉兵衛内室もろとも立ち出でて我が子の 如くもてはやし、別れのさかづき酒盛りはまたも五人が長座 となり、八ツ太夫、園太夫、師のかたへ返し、残りの袖太夫 もろとも実太夫万吉この夜はこゝに泊りける。
 
 品川座敷の事並びに寄浄瑠璃興行の事附タリ実太夫茶屋遊興の事
 
 かくて実太夫は常々この品川にておびたゞしく贔屓になる。 実太夫が暇乞ひに来たること惣連中打ち寄って、長の別れの 事なれば名残りに一段語るべしとて、明くる夜こゝにて座敷 催すなり。
 さて当家の旦那連中みな/\義太夫をよく語り、我れも我 れもと寄り合ひて実太夫の語るにて壱段づゝ語らるゝ事、そ の日昼間浄るり始まりしが大勢の連中ゆゑ語らぬ人多かりけp74」 る。その座の詰に至りて実太夫の語り物、『昔八丈白木屋』、 切に『秋津島』なり。この夜は更けて語り終りけれども、語 らぬ連中多かりしにつき又も明くる夜一会あり。同連中打ち 寄り前語りをして、実太夫この夜の語り物『薄雪かじや』に 『合邦』なり。
 さても連中大勢にてなか/\二夜に語りきれず、また明く る夜同宿和国屋旦那にて座敷する。実太夫は『新口村』に 『阿漕』、いづれも連中前語りして、この夜もすぎてまた明く る日に連中の旦那方は浄るり語り好きとみえ、実太夫の旅立 ち延引するも構はばこそ、これより毎夜浄るりを催さんとい ふもあり、いっその事に当宿にて席浄るりをすれば、連中銘 銘毎夜替はる/\に浄るりを語れば連中もよし、実太夫も寄 場の上り銭を丸取りにしてこれもよし、とてもの事に連中よ り見物へ景物を出し遣はせば大入にてこれもよしと定まりて、 その景物の品物は箪笥、夜具、瀬戸物類、両三日をおいて品 川本宿川熊といふ席にて初日を出しける。毎夜語り物左の通 り。
 
 竹本実太夫品川本宿川熊において惣連中より景物を差出し当所お名残り浄瑠璃興行の事
 
八月十六日
『ひらかな』二段目 万亀 『新口村のだん』 実
『太功記』七段目 若松 『吃又平名筆』 同
十七日 北
『先代萩』六ッ目 錦糸 『伊賀越』七ツ目 同
『阿漕浦』平治内 和光 『伊賀越』八ツ目 同
十八日 南
『国性爺』楼門 是立 『伊達競』とうふや 同
『菅原』天拝山 万亀 『躄り』十一冊 同
十九日
『妹背山』三段日 南 錦糸 『うすゆき』かじや 同
『賢女鑑』十段目 北 若松 『昔八丈』白木屋 同
廿日 南
『鳴戸』順礼 綿糸 『廿四孝』化物やしき 同
『講釈』七段目 和光 『伊賀越』沼津 同
廿一日 南
『なる戸』順礼切 錦糸 『伊達競』埴生村 同
『劔本地』もくさや 和光 『伊達競』土ばし 同
廿二日 南
『妹背山』三ノ口 若松 『信仰記』碁立 同p75」
『忠臣蔵』四ツ目 是立 『桂川』帯屋 同
廿三日 南
『壇浦』琴責 錦糸 『八陣』四冊目 同
『鰻谷』八郎兵衛内 和光 『同』八冊目 同
廿四目 北
『菅原』四段目 是立 『千本桜』木之実 同
『膝栗毛』並木段 万亀 『二代鑑』秋津島内 同
廿五日
『白石噺』五ッ目 北 若松 『白石』四ッ目 同
『同』七ツ目 南 和光 『阿漕浦』平治内 同
廿六日 北
『忠臣蔵』五段目 万亀 『廿四孝』捨子 同
『亀山』金谷庵 若松 『花上野』志渡寺 同
廿七日南
『妹背山』四段目 錦糸 『三代記』米あらひ 同
『花襷』八冊目 和光 『合邦辻』下の巻 同
廿八日 北
『布引』三段目 万亀 『二度目』山科 同
『忠臣蔵』六ツ目 是立 『廿四孝』三段目 同
廿九日 南
『先代萩』六ツ目切 錦糸 『加賀見山』六ツ目 同
『加賀見山』七ッ目 和光 『忠臣蔵』四ツ目 同
千秋万歳楽叶
 既に初日も目出度く相済みて、連中打ち寄りて席場にて大 酒盛りと相成る。
 さてそのあとにて連中もろとも本宿にて女郎買ひとこそな れる。連中みな/\壱人づゝ女郎をもとめ、実太夫は岩本内 花扇を買ひ、万吉は武蔵屋の桜子を抱いてその夜は臥す。明 くる夜も実太夫万吉寄場へ赴きしところ、浄るりの打ち出す をまたず昨夕の女郎花扇、桜子より小女郎遣はし、無体に両 人を岩本へ連れ帰る。実太夫、万吉はかの女郎におぼれ遊ぶ こと毎夜なり。あげくには女郎より岩本の店中へ惣花をやる こと花艶やり。(この惣花といふは祝儀の事にて、客人女郎 に二夜なじみになれば、三度目には客人より茶屋の店中へ祝 儀を遣はすがこの地の風なり)。さてそれより店中よりは染 手拭を諸方へ出す。その染模様は花扇の定紋、実太夫の定紋。 万吉の方もかくの如く手拭に染めつけありて諸事仰山に相成 りける。(もっともこの染手拭はなじみかさなれば女郎より 出すものなり)。
 さてその後には二人の女郎とも客人ほかに取らずして毎夜pp76」 川熊の席へ詰めかけ、実太夫万吉を連れ帰る。
 かくてこのたびの席も日数七日の極にてありしが、日にま し大入をして客どめの日もあれば、席亭は日延べを連中へ頼 みしかば、連中もこの大入をみてなか/\打ち仕舞ふ心はな し。実太夫万吉はかゝる女郎に打ちこんで何事もうはのそら なれば、三日の日のべ四日の日延べ、以上十四日興行してや う/\千秋楽と相成りて、実太夫万吉も目を覚まし、いらざ る事に多くの黄金を遣ひはたせし事のうたてさよ。しかしこ のこと若松旦那は知る事なし。席も仕舞へば若松旦那心配し て、またも連中を呼び集め、出立の祝ひの本膳寄り来る人を 馳走の数は百人前に近かりしとある。さても実太夫万吉は親 もおよばぬ出立の祝ひにあづかり、名残りおしくも諸方の礼 を仕舞ひ若松屋の家を立ちにける。
 
(下略)
 
第十五の巻
 五代目熊治郎事染太夫京都より下坂に付き、美吉郎事梶太夫我が宅に請待の事(天保十三壬寅六月二日)
  (略)
 
 竹本染太夫大坂嶋の内周防町新宅出来の事(天保十三壬寅六月六日) 並びに竹本梶太夫師匠所持江戸登り荷物預り、道中に難に合ふ事
  (略)
 
 社地人形芝居御差留め興行場所三都芝居に極まる事(同[天保十三壬寅]年七月十五日)
 
 そも/\御上様より民を見給ふ時は、およそわんぱく者の悴を持ち給ふが如く、手々市中の者どもの為を以って、御触れ渡しあるといへども、これを用ひる者どもあらずして、諸商売人高利を貧り、おのればかりよき事をしやうとする者ばかり、諸色を高売りして、目先は利徳取ると思へども、市中の者めい/\その心なれば、おのが諸色を買ひ求むるとき、やはり高直なれば、買ふも売るも高直なり。さあれば元々のわけ合ひにて、世上諸色おのづから高物となり、かゝるが故にお上様にこれらを憐み給ひ、商売下直に商ひ致すべきとて、度々の御触れ渡しなれども、市中の者どもいっかな/\聞き入れず、我れとおのれが手に高う買うて高う売り、余けいの苦労ばかりして、引き合はぬその時は、かりそめにも御時節あしくとばかり思ふにこそおろかなり。お上様には市中繁栄を祈らせ給へども、万民心得ちがひして、諸色高物を商ふ。そのうちにも陽気向きの商売を格別にお咎めなさるゝ。なほも芝居方歌舞妓役者なぞ大金を貧り、奢りにちゃうじ、増長の御咎め、並びに操芝居人形早替り、歌舞妓役者もろとも、加役余内の増し金を取る事お聞きに達し、浄瑠璃語り太夫までもろともに、御公儀様より諸芝居お召しとこそなりぬ。
 この時、江戸七代目の団十郎、並びに大坂富十郎おごりにちゃうじ、おとがめ、二人ながらおはらひとなる。天保十三壬寅年七月廿五日、西御番所御前に於て、芝居取締方おほせ渡さる。同地方お役所にて、それ/\印形仰せつけらる。p155」
 
 芝居取締方申渡書写し
 
  道頓堀其外諸芝居哥舞妓役者共道頓堀其外諸芝居寄舞妓役者共、取締方之儀、元禄年中より追々申渡置候所、近来相弛み、別而風儀悪敷、一般に高給を貪、右に付身分をも不顧、不相応之奢に長じ候趣相聞、不埒の至りに付、取締方の儀、当五月厳重申渡置候所、銘々給金の外、加役余内抔と唱、其外品々名目を付、増金を望、断請候へば、病気等申立、興行差支させ候に付、無拠増金等相渡候故、追々増長いたし、立もの座頭抔と唱候者壱人に付、年分格別の高給受取候者も有之、畢竟右等の場合より奢侈及超過候儀と相聞候間、以来一同弥々身分相慎、途中往来候せつ、暑寒共編笠相用、総而素人へ立交候儀は不相成候、且給金の儀は立者座頭と唱候もの、壱ケ年五百両を限り、其余の者共は右に准し、夫々割合相立、都度町役人申付は勿論、芝居興行元、或は座本等よりの申談を違背致間敷候。尤江戸京も同様申渡有之筈にて、三都の外遠国城下町在等へ罷越、狂言致候儀に付ては、兼而申渡有之通、弥以不相成。其段国々江茂御触有之候間、其旨を存、湯治神仏参詣抔と号、猥に他国江参候儀は致間敷候。其外取締方の儀は当五月相融通、堅相守可申候。若此上聊にても申渡の趣相背候ば、厳重に咎可申付候間、心得違無之様可致候。但し一同住所の儀、古来より道頓堀に限り有之候に付、以来唯今迄通相心得、市中所々に立別住居致間敷候。
 
  操芝居浄瑠理語人形遣
 大坂操座之儀、狂言興行相休候芝居におゐて、其節限り操座名前差出し、興行致来、兼而操に差極候芝居無之上は、規定之儀も狂言座に准可申筋にて、既浄瑠璃語人形遣等之類取締方之儀当五月厳重申渡置候、然所近来花美之衣類上下に着用いたし、早替り抔と唱、人形遣之働を見せ、追々給分せり上げ、又其道具仕掛等に諸入用多相掛候故、不引合にて操座興行間遠に相成候趣に相聞候右は一己之利徳名聞に拘、渡世之衰微を不顧段、心得違之至に付、総而狂言座取締方申渡候趣に准、浄瑠理語人形遣給金等相当に引下げ、狂言座と場所糴合不申様致、先操に休座之芝居へ代る/\罷出興行致、出語出遣は通例の上下着用致候儀は、格別花美の衣裳等向後可相止候但し人形遣は哥舞妓役者同様道頓堀に限不致住居候。p156」
 
   道頓堀其外諸芝居
     名代
     座本
     芝居主
     櫓主
 道頓堀其外諸芝居取締方之儀、永禄年中以来追々申渡置候得共、近来相弛み、哥舞妓役者共給金之外加役余内抔と唱、其外品々名目を付、増金等相渡、或道具仕掛等に諸入用相掛、右故芝居上り高より給金高多、興行の差支相成り候趣相聞、畢竟役者共身分不相応之奢に長じ、右躰過分之給金受取候段不埒に候得共、興行元座本等にても、古来よりの規矩を崩、互に給金糴上候段、是又不束之事に候。向後立者座頭と唱候者、壱ケ年給金五百両に取極、其余之者共は右に准じ割合相渡、以後給金増は勿論、手を込候道具仕掛等致間敷候。もっ共大坂表諸芝居之儀、狂言座操座勝手次第、右芝居において興行致来候儀に付、役者共抱込之日数も三十日宛、或は浜芝居と唱候分は二十日、又は十五日宛之極にて、壱ケ年極と申儀無之由に付、役者共過不及無之様に、其時に興行芝居へ割合相抱、壱ケ所に居附不申様致し、夫々糴合抱合候儀は不相成候。且近来大入並に平日共桟舗代等引上候由相聞、右は不繁昌を招候儀に付、向後桟舗代敷物等に至迄、古来より取極有之直段より一切引上不申、狂言仕込等猥成儀無之様致し、其外取締方之儀は当五月相触候通相心得可申候。但操座興之節も右に准じ、給金等も相当に引下可申候。尤前条之通り役者其外之者取締方申渡候上は、夫々給金波方遅滞無之様致遣、興行元座本権威を以押付候取計致間敷候。
 
  道頓堀其外諸芝居に付茶屋共
 此度諸芝居取締方儀厳重相立候間、以来興行相続可申、然る上は銘渡世向実意に営、食物料理等直高之品不差出、桟敷代敷物代等に至迄、古来より取極之通相改候而直増等不致、見物物入薄様可心掛、左候得者自ら芝居繁昌致し、渡世永続も可致筋に付、心得違無之様可致。旦役者共等、見物へ為引合、或酒宴等之相手に差出候段相聞に於は、吟味之上、茶屋商売為差止、厳重之各可申付候間、兼而其旨可存候。
 
 右町々年寄共 p157」
 
 右之通取締方申渡候間、得其意、先年より追々申渡当五月町触之次第も連失無之様堅相心得、役者共今般之申渡を背候歟、興行元座本等如何之取計も有之者早々可申立、若等閑に致置におゐては、其方共迄可為落度間、精精取締方行届候様厚世話可致候。
 
    大芝居
 上桟舗  壱軒 三十壱匁
 下〃   〃  弐十九匁
 土場四人詰 〃 
    上 壱貫五百文
    中 壱貫三百文
    下 壱貫百文
 
 但表通読込壱人前四十八文
 
    小芝居
 一ト切 壱人前
   上場 廿四文
   下場 十弐文
 
 但表通読込壱人前十文
  天保十三寅七月
 右は前々より定直段之旨惣年寄書付差出候事。
 
  竹本梶太夫寅年中芝居出勤略言 並びに梶太夫義太夫浄瑠璃を昔物語と号け、所々町席出勤の事 並びに梶太夫他国諸芝居出勤の事
 
 社地芝居お差留めより浄瑠璃興行は素浄瑠璃まで遠慮となり、芝居は道頓堀歌舞妓芝居の空く所/\にて人形芝居興行するといへども、道頓堀五軒の歌舞伎芝居の門並みに交はり人形操興行したりとも、陽気歌舞妓役者に花をとられ、人形操はいつしか見物大入する事あたはず、つひには操は一ト芝居か二芝居にて打ち止、太夫人形遣は休居とばかり。なほ人形遣は細き煙もたゝず、飢に疲れ、つひには死去するもあり、生き残りたるは家業をやめて外商売に取りかゝるもあり、浄るり語る太夫は仕様なければさま/\心労をなしける。曰く、太夫仲間に竹本播磨太夫といふ者あり。元来鶴沢儀鳳とて、竹本播磨大掾の三味線をひき、大坂座摩宮境内小屋において興行せしが、博学多才の諸にて、己が弾く三味をきらひ、業を太夫の道に交はり、竹本播磨太夫と号け、おのれp158」と弾語りしてひゃうばんを取り、そののち東都へ下り、かくの如くにて出勤の折、この年代に三都とも社地において操り差留めとなり、世間さびしきそのうち、江戸両国橋詰席小屋の表に差出し口上看板。
 
 忠孝昔物語 播磨
  当ル何日ヨリ出席
 
 右様の看板席亭に出したれば、市中諸人これを見て正物わからず不思議を立てしが、お江戸繁地にて、初日出れば見物はこの正物を見るに、高座にかまへるは黒羽二重の着附け、茶宇のはかまに扇子壱本を持ったるばかり、よく/\見れば竹本播磨太夫にて、音曲なり。義太夫浄瑠璃を御上様へおそれ、床本なし、見台なし、三味なし、扇子を拍子にして口三味線を差し加へ、これまで通りの浄るりを語る事、さも上品に講談の如く細かに語り聞かすれば、諸人めづらししとて、我れも/\押し重なり、大入大繁昌せし事、お江戸中はいふにおよばず、浪花都までとゞろきける。
忠孝昔物語番付 (忠孝昔物語)
 かくて江戸播磨太夫の仕法を聞き伝へ、大坂博労稲荷境内文楽空き小屋興行人、浄るりを昔物語と号けて御公儀様へ奉願れば、昔噺同格にて御免となり、このとき梶太夫は弟子四五人加へ、一座として文楽空き小屋にて浄るり始め、細々しく家業となり、京都なぞには諸々所々、社地寺内影絵と号け、小人形加へこは/\ながら差し出し、三何時お咎めのあらんも知れざるあぶしき心労は大方ならず、前々通りに余国城下在々の興行は差し留められ、御赦免とあるは、大坂にては道頓堀芝居なれども、歌舞妓役者を取りなやみをせし道頓堀の勘定場、並びに手代、表方にいたる者、平日にたゞ諸事を押しつけ、我まんつよくおのが勝手ばかりをして人並みをまもらず、芸者とあらば弱身に付け込む、甚だ人柄よろしからねば、浄るり太夫なぞとは付合ひ釣りあはねば、おのづから道頓堀の芝居へはとかくに立ちよらず、太夫どもはよんどころなくさまよひ苦しみくらす月日みじかからず。これ則ち梶太夫のみにあらず。世上追々人気あしく、この節の御触渡しには、市中一統絹物一尺の布も用ひる事ならず、金壱朱は弐百八拾文の取引き、後には壱朱金両替に取引きをきらひければ、壱朱を持ち合はす者はことのほか心配して、今にも通用ならぬ時は詮ない事とて、銘々大坂中の両替へ持ちあるきける。このとき梶太夫も壱朱金少々持ち合はせ、筋道を聞き合p159」はせ、安治川辺の両替にてやう/\銭と取りかへ帰る。それより二ケ月をたちて、御触渡しに町人ども並びに借家人ども、表住みの者、裏家住みの者ども、着類三段にわかりて少々御免となる。且つ市中泉湯、先達てお取払ひのところ、このたび男女別湯にして御免となれば、大坂ぢう湯屋に大金を入れて、沢山に出来ける。
 さてまた博労町の稲荷境内北の歌舞妓小屋役者ども、またもや不時につき、小屋いよ/\お取払ひとなる。平野町御霊宮、当年六月と十月、両度出火に類焼する。なほこのごろ如何なる不順にや度々大雨ふり続き、京通ひの三十石船、淀川筋の所々にて難船におよび、あまたの人死すこと多しければ、京通ひの人々おそろしがり、三十石に乗る人さらにあらばこそ、かくて淀川筋は勿論、三十石船かゝりの者の衰微なれば、難船ありしその場所々々において、名ある名僧をまねき、施餓鬼供養する事、大坂ぢう御免の勧化を以って弔ひける。そのうちにも東堀久宝寺橋下難船なぞは、さもむごたらしき船のかへり様にて、老若子供の死骸川岸に山の如く積み重ねしありさま眼もあてられず、この施餓鬼なぞはことのほか名高く、陽気商売色里役者中より大金の手伝ひをして供養をせしむる。これ等の事はいたって珍事なれば、梶太夫が記録に残しける。
 それはさておき、梶太夫美吉郎一巻、天保十三壬寅年より、浄るり語り梶太夫はじめ、それより幾年となく浪人の痩顔をはり、世の中に交り、太夫仲間の者、寿命短き諸はつひには家業のあかりをも得見ずして死に失せる。寿命あるうちにも梶太夫はかゝる浅ましき浮世渡世のそのうちに、芸道はおひおひ出世して、後年におよび師匠の名跡を請けつぎ、染太夫と立身して、日本浄瑠璃鑑に三役と登り詰めし事、まったく師の蔭、信心の徳なり。さりながら、社地芝居お差留めより拾六ケ年相たちて安政四丁巳年極月に、御公儀様より浄るり太夫並びに人形ども召し寄せられ、市中繁栄のため、社地にて浄るり座本芝居御免仰せ渡されける。これが故、太夫一統梶太夫天へも登るありがたさ、祝の色をぞなしにける。曰く、この文段はこの時代より十六ケ年後年の咄なり。今いふ咄にあらねども、たゞ/\十六ケ年ぶりにて社地芝居御免なりしをいひたきばかりの文段なれば、これよりはまた十六年後へ戻りて、もとの天保十三年寅年の記録にさしかゝるとおぼさるべし。
 一国平均のありがたさ、浄るり太夫の家業場所は道頓堀にかぎりあれども、社地小屋お差留めより、浄るり噂も世上一p160」統しばらくよどまりあれば、太夫仲間の者手をむなしくして、たゞ徒にあそびゐしが、かゝる御時節にも興行をくはだてる者もありて、梶太夫は当六月、中の芝居において素浄るり始め、これに召抱へられる事、当春師匠とも/\京都より帰宅して、やう/\二度目の出勤にて、丸あそびも同様、痩浪人の浅ましさに、米櫃の底をふるひ、難行苦行のそのうちにもまだしも天満天神の芝居は往昔より御免櫓芝居とありて、操興行につき、梶太夫は中の芝居両方掛持ちに勤むるところ、両芝居とも見物さうおうに入りくるといへども、いづれも歌舞妓を主に取りなやみする櫓の手代ども、酢の蒟蒻のと名目を付け、金銭の引道多くかゝれば跡芝居続きかね、それより北の新地芝居も櫓ありて、素浄るり跡興行には人形差し加へしばらく続きありしが、この節、大坂中に江戸表の寄場をかたどり、町中にて素浄るりを昔物語と号け流行して、梶太夫も東西廻り出勤のそのうちにも、長堀心斎橋浜北詰東角にて江戸寄場の如くこしらへ、素浄るり始まる。
 なほ、天満堀川の川上ごもく山百景楼にても浄るり始まり、梶太夫はかの心斎橋と掛持ちの次第、茶船屋形を毎日かり切り、梶の字を付けたる紅提燈を船の廻りに釣りさげ、さもはでやかなるこしらへして、船を天満堀川へ廻しおき、昼の程はごもく山の百景楼を勤め、夕方よりかの船に乗りうつり、大川を東堀へ廻り、長堀心斎橋に到着し、夜席を勤むる事、勢ひ盛んの梶太夫、その頃は水無月にて、暑さはいつもよりもきびしき折から、毎日に夕方になれば夕すゞみの心持ちになり、新町、南地、幸町の色達我れ一にヒイキをして、百景楼を打ち出すと、ヒイキ諸もろともこの船に打ち乗り、心斎橋の席へ通ふこといさましくも賑やかなり。
 この席長らく続きし跡は阿弥陀池寺内小屋にて、鶴沢才治(竹本重太夫の悴清五郎なり。のち政太夫)座頭にて、『あこや琴責』曲弾き、あるひは『千両幟』櫓太鼓三味曲弾き、太夫の頭は梶太夫、つぎ佐賀太夫(亀太夫の事、政吉、のち中太夫)、つぎ越太夫(嘉兵衛、てんぐ岩おこしの弟なり)。櫓太鼓弾きはじめしは鶴沢竜虎との事。これはほんの形ばかりにて、才治は古今の弾き手。尤も若年なれども、曲の工夫をめぐらせばまことの上手なりとて、後年におよびても、櫓の曲弾きはいづれも鶴沢才治の写しなり。この席大入せしが、こゝに梶太夫といへる者はいたってむくつけ我慢なるが、才治が曲弾きするは高座正面に直り太夫は両側の方に直るを、梶太夫これを無残あほうらしく思ひとり、三味弾きの下座につく太夫はなしと初日を勤め、後はその身引き取り帰るこそp161」片意地なり。
 さてそれより西横ぼり御池橋東詰小屋へもしばらく出勤、これらはみな当年水無月卯月の頃にて、くだらぬ長文外題なぞは略を以ってあらましを語る。それより卯月の末、竹田の芝居始まる。これは御免櫓芝居にて、梶太夫が師匠竹本染太夫座頭として、長門太夫、大隅太夫差し加へ、梶太夫同座にて、外題『忠臣蔵』九ツ目染太夫、扇ケ谷に七ツ目平右衛門梶太夫。跡芝居には梶太夫『二代鑑』。このとき見物大入をすれども、道頓堀は先にいふ通り、とにかく続きかね、一統解きほどけ、菊月に西の宮芝居興行、『廿四孝』の立にて、三段目梶太夫、四段目春太夫(氏太夫弟子さの太夫事)、二段目は咲太夫(重太夫弟子琴太夫事)。この芝居は古今の大入をして、神無月は京都道場芝居『安達原』の立、三段目三代目巴太夫(徳太夫より咲太夫事)、四段目一ツ家を梶太夫出勤して大いに繁栄、長らく興行して目出度く帰宅。霜月よりは堺芝居、それより紀州川上行きとなるは次の巻を見給ふべし。p162」
 
第十七の巻
 
  (天保十三寅極月十六日)
 
 (略)
 こゝに竹本梶太夫は紀伊国より帰宅して身は庵にあれば、伜鶴太郎幼年七才にて、父梶太夫の帰国を幼な心にあいたてなくうれしがりける。梶太夫も帰国より当時家業も休みゐる事なれば、夫婦連れにて悴の手を引き、市中神仏参詣がてらの物見遊行は凡そ日数一ケ月を暮らせしが、ある時、江戸表より梶太夫を召し抱へ度さとあって、梶太夫の師匠染太夫の方へ、この頃江戸さつま座の帳元鬼市といふ者当地へ登りける。されば竹本染太夫は弟子梶太夫をまねき、江戸鬼市より頼みのしだい申さるゝは、「この鬼市といふは我よくぞんじたる者にて、いたって正直者なれば、相談してあしからず。何卒この度は東都へおもむかせたし」と師匠のすゝめもだしがたなく、且つは人間七ころびの数の内、梶太夫が身の出世の時いたれりと直ぐさま梶太夫は我が宅に帰り、女房とも談合におよび、じゅくだんして江戸鬼市に対面とげ、江戸行き相談きまり、給金は来たる正月より五ケ月分高の内、三ツ割一分当時請け取り、後金二分は江戸着品川宿の取引きと極まり、いよ/\東都行き出立と相成る。
 然るところ、このたびの江戸行き梶太夫一人にあらず。竹本錦木太夫、並びに茂太夫等も抱へとなり、同道の事なれば出立混雑して延引におよび、極月十六日立ちとなり、梶太夫は長の旅行を祝し、親類弟子中をまねき盃の取りむすびおこたらず。僕には弟子梶戸太夫を召し連れいよ/\当日におよびければ、知縁の諸人もろとも三十石船乗り場まで見立てらp178」れ、我が宅を後にして嶋の内なる師匠染太夫へ立ち寄り、師の盃を頂き暇乞ひして、それより道頓堀はたごや金物屋へ行けば、江戸鬼市とあいさつをはり、それより双方一組となりて河六船三十石に乗りうつれば、その日もやがて夜五ツ時にて、梶太夫は見送りの人々に名残りおしくも暇乞ひやら我が家内の事くれ/\頼み別れければ、船は程なくこぎ出し、しだい/\に登り、淀川筋浪花の地を後になし、かすかに見えし名城さへ頼りなくも見えわかたず。頃は乙月冬空に、夜寒はげしく身にしみわたり、船中みな/\寝臥して息鼾の声陰気にとぢたるさびしさに、いまに寝もせぬ梶太夫が繰り言は、終日かたらふ夫婦愛、長の旅路のうき別れ、悲しまぬ者のあるべきや。ましてや幼なき稚子を置きて出でたる事のはかなさと、にぶき生根に思はずも我が越し方のみを気にかけしが、やう/\取り直したるその故は、日頃師匠の名言に、「妻子かならず愛すべからず。他におもむけば武士の戦場、国家を捨てざれば勝利得る事あたはず」とかねての教訓、いま梶太夫が心魂に徹したり。さても/\愚のいたり、我れ家を出づるとき妻はいま廿五才なれども、心勇ましく子を育てながら夫の留守を守る事の甲斐々々しさ、我れは思はず暫時の憂ひ。さて/\未練未熟なり。大恩師の名言思ひ出して夜の明けし空もあきらか、月しろははや明け烏の東雲に、乗ったる船は城州なる伏見の揚り場にこそ着きにける。
(略)p179」p180」
 かくて目出度く両お関所相済めば、早飛脚をもって古里浪花へ急状をさし出せば心も落着き、江戸へも近づく。明くれば師走廿八日とて、心いさみて夜も寝られず。夜中ふと心つきてみれば大雨車軸の如くなれば、なか/\門辺へ出でる事もあたはざれども、あすはいづれ江戸着日なれば大雨見かけ急ぎの旅路、またもや駕籠に打ち乗りて、この日はやう/\p181」八里道、藤沢のたばこやに泊りける。
 明くれば乙月廿八日、江戸入り日、天気も直り雪解けなく、藤沢をたって行く先は川崎の街に着き、見ればこの辺ははや江戸前にて、町並みの自身番火の元廻りの鉄棒、提燈、火消し道具の備へ方、いづれ江戸流にて眼ざましく、ふと片側を見れば花持な二階づくり、江戸流蘇芳染の提燈ずらりと釣りならべたる料理屋は客引き仲居が花やかに、相州屋と書附けたり。しかるところこの料理屋に人大勢寄り集まりゐるをよく見れば、江戸操り芝居大薩摩座表方の衆にて、この下り太夫を当所まで出迎ひなりとて待ち合はせゐたりける。かくて梶太夫はじめ同行の者大いに力を得て、双方近づきのため酒くみかはし、あいさつ終れば三人の太夫やがて迎ひの駕籠に移りかはり、川崎を立って程もなく品川宿に着きにける。
 曰く、梶太夫は十二ケ年以前に実太夫時代、師匠に付添ひ当所に下り、この品川宿なる女郎屋商売若まつ吉兵衛に厚き世話に相成り、且つ当宿中にてヒイキになりし事、これみな若松の引法なり。則ちくはしき事はこの巻前六の巻、天保二卯八月に見えたり。
 実太夫は梶太夫と出世して、この度この品川宿に来たりしかば、駕籠より出て一統をば待たせおき、かの若まつへ案内を乞うて家に入りしところ、当宿度々の類焼にて家作はかはれども、かはらぬは当家の主内宝、店中まで走り出で実太夫が梶太夫と改名して対面におよぶ事、当家主の悦び大かたならず、我が子が二度こゝに帰りし如くもて扱ひ、芝居方の大勢にまで菓子、酒よと馳走を出されしは、梶太夫が身の大慶はこの上もなし。
やがて日も西にかたむけば、名残りをしくも暇乞ひして家を立ち出で、辺り近づきの知縁へもちょっと顔出し済み、それより迎ひの人数列をそろへて江戸の方へいそぎ行く。程なく花の市中におもむきて、東西に立ちよる知縁も大勢連れなれば混雑して、そこ/\に目見えをなし、落着くかたは付添人の案内にて浅草寺の辺りなり。戎長屋とやらいふ仮宅は下り太夫の居所とて、三人の太夫、梶太夫、茂太夫、錦木太夫、皆々一所に落着けば、芝居方おひ/\に入り来たりて目見えをとげて盃事、夜の八ツまで酒盛りの後はおのれ/\に出で帰る。三人の太夫も打ち寛ぎ、こゝと定まる仮住居、寡同士の合ひくらし、世に気さんじとはこの事なり。
 
 
 花のお江戸の繁昌は、昔も今もかはらねど、変りし事は近頃の御改革にて、どこまでも諸事の倹約きびしくば、たゞ何となきさびしさに浮き立つ気はさらに見えざりける。就中、十二ケ年以前、梶太夫は実太夫にて師匠染太夫に付添ひ当地に住居せしその頃は大繁昌時節、江戸中に浄るり寄場数軒ありて、男太夫女太夫出席して、どこもかも大入客留めとおびたゞしく賑はひしが、近頃はかの御改革により、浄るり寄場は男女とも御差し留め、殊さらに歌舞妓芝居、操り芝居もさかひ町、二丁町に永々あり来たりしところ、御改革ゆゑ江戸の田舎といふ吉原道のかたはら人の行き通ひも稀なる荒田圃なる地面を築き直し、新らたに家作芝居小屋を出来、猿若町と町名号け、歌舞妓芝居は一丁目、二丁目、三丁目と三ケ所、その向う側二ケ所が大薩摩座、肥前座の操りなり。普請でき上りしよりさかひ町の芝居茶屋中ともに引越し、とくに興行仕始めしが、操り芝居は後廻りに普請成就して、このたびが初興行に梶太夫召抱へられ下りし芝居なり。
 されば極月廿八日着より二夜あくれば天保十四卯年正月元日となり、儀式の雑煮、にしめは芝居方より送り来たりて、目出度く身の祝ひして越年をぞなしにける。
 かくて薩摩座新芝居の事なれば、なにかと諸事とゝのひかねしと見え、初日延引するうち折ふし日数七日の御停止ありてしばらく休日の内、昔なじみの知縁へ土産物もち行くに、毎日歩むその先々は繁華なれば日じつかゝり暮すそのうち、停止もあきて芝居はじまるよし、いよ/\当日におよび下り太夫乗込みとなる。
 さてこの乗込みといふは歌舞妓しばゐには古例のある事にて、浄るり操りにもこの当地は下り芸者は乗込みをするとあり。尤とも乗込みといへども本人はかごに不乗、から駕籠にて乗込みをするなり。その故といふは、数のひと群集すれば行列くづれ人騒ぎたつ、そのあひだに見物の駕籠の戸をあけて内をのぞき見たがりけるゆゑ、その時は駕籠を眼のうへへ差上げて、戸をあけさせずして騒ぎのまぎれに駕籠を芝居へ持込めども、いつの時でも駕籠は砕けて散乱なり。かゝるが故に、このたびも駕籠を三挺、浅草寺雷門前待合にて人数をあつめ、いよ/\同勢そろふとはやおびたゞしき見物となる。そも/\当地の芝居はさかひ町にありて、近頃このさるわか町へ引越しとなりて、にはかに繁地となりし上、芝居乗込みといふ事はこの度がはじめなれば、この見事を見んとて人の山をなしにける。
 されば乗込みの時うつると、乗込みに付添ひの諸人は芝居p183」表方中、茶屋中。台提燈、箱提燈、弓張提燈およそ百張ばかり、これにおうじる付添ひなれば、賑はしき事これに不過、大混雑にまぎれ難なく駕籠を芝居へもちこみ舞台の上へすゑ直せば、太夫はもとより芝居の裏より這入りゐて、かのかごより出たる体をして舞台へ押し直る。いづれ皆々浅裃、梶太夫の付添ひは古参政子事竹本中太夫、天喜茂太夫は当地だけ豊竹麓太夫と呼ぶ。付添ひは古参鶴沢市太郎、錦木太夫の付添ひには房事竹本伊勢太夫、そのほか座ならび惣一統操り頭兵吉の兄吉田千四、吉田冠二、西川伊三郎、当人弁者、長口上さわやかにのぶる。後文句に、
 「何とぞ麓より峠へ登り、御ヒイキの梶をえて、古里へ帰る錦の袖までも、すみからすみ迄づらりと御ヒイキの程をひとへに願ひあげ奉ります」
 かくの口上大当りして、やがて見物へ目見え浄るり『太功記十』麓太夫勤めをはり、後は楽屋にて梶太夫『二代鑑』のけいこはおこたりなく、あすより初日、打ち続きて興行。則ち外題左の番附通り。
番付省略(近3上:471)p186」
 されば芝居興行なり行き、大いに入り組みし訳合ひ有れどおくへ廻し、当時の次第より書き綴るに、まづこの外題はかくべつ久しくもうたざるにやがてげだい替りとなるにつき、段々の訳あれば、奥の文にてわかるべし。
 時に後げだいは『彦山』にて、これも初日出たるがずゐぶんひゃうばんよけれども、右にいふ入り組みし事につけても、やう/\廿日ばかりの興行にて、またもや外題がはりとなりて、芝居道具こしらへ万端につきしばらく休日となるは、梶太夫はじめ一座の者いづれ替り後げだいのけいこに取りかゝりける。
 さて後文句にてもわかるといふしだいは、この猿若町は後年におよびては繁昌の程はしらねども、当時のところ、何が人も通はぬ隅田舎の新地にて人寄りあしく、御改革まへ迄は江戸のまんなかなるさかひ町に芝居があればこそ、東西南北より寄りこぞりて見物が来たれども、芝居猿若町へひけてより見物をしやうと思ふ人、西辺芝、金杉、品川の人々は、二夜泊りでなくば猿若町へはいかれぬ遠方となれば、しぜんと見物はとぼしく、ほんの近廻りだけの見物ゆゑ芝居不入りも殊さら、ましてこの度のしばゐは大金の出たる事なれば、金方が不入りをくやむももっともしごくにて、外題を替へなば見物が来もやせんとの思ひ入れにての外題がへなり。
 その上に芝居方に悪人ありて、梶太夫が身の難儀といふは、そも/\梶太夫が当地へ下りしは当芝居の帳元鬼市掛合ひにてやくそく、給金の三ツ割一分を大坂にて請け取り、後金は江戸着しだい品川取引きの約定なり。則ち大坂にて師匠染太夫の請け合ひなれば、いさゝかの小金にて当地へ下りしかば、きっと請け取るべき約束のところ、後金おひ/\に延引におよびしゆゑ、当地へ下りてより度々さいそくすれども今に埒あかず。
 こゝに梶太夫が難儀といふは、懐払底芸者の身分、手取り三ツ割一分の金なればいまに大坂宅へ登し金をせず、大坂宅には登り金いまやおそしと待ちかねて、たび/\催促状を送りけれども、梶太夫も仕様なく金を登さねば、大坂女房はいまはたへかね、妻子とも通し駕籠にてこの東都へ罷り越すとある急状梶太夫がもとへ到来する。然るに梶太夫当所にゐて後金催促たび/\にくたびれはてて、いよ/\不渡りとあれば当所を逃げ帰らうとて心得あれども、万が一いまにも金子渡らば逃げ帰るにもおよばず、されども大坂にて家内の者、金子を待ちかね宅を立ち出でしもはかられず、金も手渡しせしうへ、ひとまづ家内も当所へ下りて知らぬ吾妻を見るもいp187」っきゃう、しかし妻子が大坂の宅を立ち出づるとも、火急に出でたる事もあるまじ。我もまた逃げ帰るより、金を取り入れる調義がかんえうと思ひ直して日々に催促をぞなしにけるが、帳元鬼市もいまは梶太夫に合はす顔なしと、あるとき芝居において金方の手代忠治といふ者と木戸役どもとの大喧嘩をはじめ、打ち叩きの大騒動となる。その委細は、金方より鬼市へ渡し金は百八十両、鬼市当地へ帰国して三百両以上四百八十両の出金なるに、今もって下りの太夫よりは日々の金さいそく、芝居大工道具、廻りの金まで不渡りありて毎日暮れあけ、度々にいきづまりしかば金方大いに立腹して、手代忠治こらへかねての人けんくゎなり。
 さても/\いたはしきは素人の金方ゆゑ、芝居がゝりの悪党ばらに金銀を出し馬鹿の如くにしられし事、げに世のなかに悪者もあるがうちに、芝居がゝり程の悪党もあるまじ。金方をたすけ、芝居が長久すればその身/\も幾久し、みなみな家業になるべきに、たま/\金方ありて芝居が始まると盗みばかりに心をかけ、金方をそこのふゆゑ芝居つゞかず、その身も年中休み/\くるしがりて日を送る事の阿呆らしさ、金方の不仕合はせ、梶太夫が身のさいなんにて、金催促おこたりなきうち、仲人とて梶太夫がもとへ入り来たるは芝居茶屋亀彦、並びに大豊、並びに福山のばば、並びに鳶頭の翁そば、いつれみな芝居がゝりの者なり。ちょっと見るから、いか様にも気味の悪い人物の仲人にて金日延べを頼まれ、またぞろ一両日をまって楽屋入りをすれども、これもまたもや約束ちがひ、いよ/\暇を取る約定のところ、また出勤して日を待ちてまた間違ひとなれば、仲人四人の顔もなければ、日を置きて顔をかへ、芝居座元ならびに仕切場の者三人連れ、酒肴持参して日のべを頼みけれども梶太夫承引せず、酒肴を突き返し断りをのべ、さきにはひりし四人の仲人を呼び出せば、またぞろ入り来たりてまた日のべとなる。これいよ/\手切れの約束にて日をまち、これも間違ひとなればいよ/\約束通り手切れの咄をすれば、四人の仲人、鬼市と同じ穴の悪党にて、梶太夫へ悪言には、「仲人は氏神とたとへしものを知らないか、仲人に這入るもおめエがたの為サ、この芝居に金方より出たる大金、かはいさうに鬼市の取り込みとばかりになったれば、事と品によれば御公儀事になる時は、お前方もいづれ掛かり合ひだから芝居は不出来、いつまでも当地に引き留められ、そのあげくには無給金で出勤をせねばならぬ辞宜あれば、仲人の引きとらぬうちにゑいかげんにいぢばったがよからう。よく思案をするがいい。何いらざる仲人にp188」ヘエりて、はき物はちびれる、着物の裾はきれる、上方才六の為にトンダ骨折り、もはやこれ切りに何事も頼まず、上方へけいられるならけえって見な」と悪口たら/\、あたり眼に帰りける。
 後に梶太夫はいよ/\憤どほりしが、仲人の方より、「何事もこの上は頼まぬ」とて別れたればこれ幸ひの別れとはいへども、今は二月廿日にて、去年の暮より鬼市になやまされ、仲人には悪言をうけ、上方家内には渇命させ、我が身は江戸といへども浅草の隅、田舎に押し込められ、久しく一度笑ふた事もなう腹立て通し、なんとこゝにゐらるゝべし。いまさらいさゝかの小金渡りて、そのかね上方へ登し、妻子をこゝに呼びむかへたりとも、またひとつのうれひといふは、当時御改革にて当地に浄るりの寄場なければ、浄るり太夫のため何の用にたらず。なほ行く五月には珍らしき日光御社参とあれば、ぜひ/\御停止来たりて市中門並み薪はたかれず、炭火にてその日の煮焼きをするくらゐのきびしき御触れなれば、鳴物を用ひる芸者、太夫はこの当地に長逗留は無益、一時も早ばや帰国のほかなしと一心を定めける。
 さて芝居出勤の約束は百五十日を何程と極め、いま二月廿日なれば日数五十日相済む。これ日数は三ツ割一分なり。金子は惣高のうち三ッ割一分手取りあればこれにて出入り勘定なし、いま立ち帰るとも先方よりいひ分はあるまじきなれども、芝居方なか/\すなほに別かるゝ悪党ばらにあらねば、これより立ち帰るともひそかに逃げのくがかんえうならんと心得、則ちこのとき外題替り休みなれば、戎長屋の仮宅にて我が所持の荷物、人をやとひて、ひそかに梶戸太夫召連れ立ちのきける。
 然るところ梶太夫が知縁といへば、当所本町石町辺におほくあれば、それ/\に暇乞ひに歩み行きて、その日暫くは本町の新道、師匠の門人竹本程太夫に対面し、「我等如此にて立ち別れ帰るべし。なにとぞ我れ出立いたしなば、一日おくれてこの書面芝居掛かりの者へ渡してたべと鬼市、冠二、並びに四人の仲人への書面を手渡し、それより程太夫の二階にて夜通し荷物をしたゝめ、この荷物はヒイキの旦那先をたのみ飛脚にて出し下さる約束に頼み、梶太夫梶戸太夫は手がるき持ち荷かばりにして身がるにこしらへ、二月廿八日早天に江戸表を立ちにける。
 
 
 されば江戸の悪党どもにあくまで馬鹿になりし程の梶太夫の弱者なれども、この如く心定めしところは魂すわり、たとへ後より追手かゝらばかゝれ、この身に金談の出入りはなし、何はゞからず広道を上方さして歩みけるに、名にしおふ花のお江戸におもむきながら、またいつしかこの繁昌を見る事やら心残りもあるべきに、悪党どもが為に浮き難儀をうけたれば、国恩さへも思はずして、後を見返る心もなき、勿体なきとこそ弁まへはわきまへても、賎しき凡夫のはかなくも、やがて品川宿にこそ着きにける。
 そもこの宿の若まつ吉兵衛は梶太夫が恩人にて、去冬の下りに立ち寄りて、それより我が身のなり行きにて帰国のわけをも咄したく、やう/\辿りて主吉兵衛にも対面とげ、委細の咄落ちもなく、詳らかにいひければ、主も家内も恟くりしながらも残念にも思はるれど、是非もなき次第とかんじいり、なほ旅用意に心を付け、お関所の切手まで添へられ、厚き見立てをなしにける。
 梶太夫は大いに力を得て、名残りは不尽ねど一時も遅れては追手の来たらんもはかられぬ身の上なれば、暇乞ひもそこそこにして品川を立ち出づる。折よく天気もよく、心も不残ず、勇む足は馬よりはやく、後よりの追手はおそれねども、たゞ気にかゝるは浪花家内の者。さきだって書面もって知らせあれば、もしや上方を出立して道中迄も駈け出して、東海道を一筋にでも来たりなば我が身と出で合ふ事もあるべきが、もしもや木曽街道へ出でなば、我れとは道違ひて家内の者は江戸着せば、梶太夫当地にありと思ひ、梶太夫がいままで仮宅せし戎長屋へ尋ね行くは必定たり。もとより梶太夫は跡白浪に逃げ帰ったれば、その妻子と江戸の悪党が聞かば直ぐさま人質となる。それのみならず、我が身は浪花の宅へ帰り見れば、我が住む家は空き家となりあれば、またもやその足にて江戸へ引っかへし、妻子の擒を助けんとあの地に行けば我が身もともに飛んで火に入る夏の虫、ともに悪党どもの手に渡り、いやながらにも芝居に使はるゝか、但し御公辺となる事のうゐさの案じられ、何とぞ神仏のお助けにて家内の者が浪花の宅を立ち出でぬうちに我が身が大坂へ着せずんばなるまじと、心矢猛に急ぎ足。あしは道中、気は浪花。(以下略)
 
 
 
第二十二の巻
 
 
 竹本梶太夫東に下る事、この度にて三度目なるが、我が師匠染太夫江戸住居久しく致され、三都一の太夫と呼ばれし人の弟子梶太夫なるがゆゑ、師の蔭の光をうけて梶太夫評判よく、江戸着の上は芝居へ出勤にあらず、座敷、寄席ばかりの出勤約束にてまかり下るなり。則ち世話人は江戸喜三郎といふものにて、やがて約束日におよびて梶太夫を迎ひに来たれば、いよ/\東下りと定まりければ、梶太夫が馴染みの輩は名残りを惜しむ。
 なかにも新町廓にはなほさらとて、しばしの名残りに浄るり一段聞きたしとあれば、梶太夫の連中竜光といふ人大いに世話をして、新町東口高尾の茶屋泉清において、名残り座敷の催し相調ひ、三味線は豊沢団平にて、『吃又平』を語りけり。浄るり終りし後、盃ざへ大はづみ、茶亭はもとより芸子、女郎、たいこ持まで名残りを惜しまれ、今は目出度く打ち仕舞ひ、十月廿日はいよ/\出立日にて、八軒家今井船に打ち乗るに、連中、親類、弟子共まで船場まで見立てける。
 さてまた梶太夫が江戸にての三味線弾きは鶴沢寛治に極りしが、当人自用に付き、旅立ちは別々に別れける。僕に連れる弟子は尾上太夫、並びに喜三郎同道すれば三人連れなるが、こゝにさる方より頼まれ、江戸へ帰り度しといふ人、兼吉といふ者を同道に頼まれ、四人連れと相成りて、皆々打ち連れ久太郎町の宅を跡にみて出で行きける。
 しかしこの船は昼船なれば、夜四ツ時に伏見へ到着し、小道具屋に泊り、明くれば草津藤屋泊り、それより坂の下京屋泊り、桑名銭屋泊り、当所より七里の渡し、その日夕方宮の宿紀伊国屋泊り、それより赤坂田葉粉屋泊り。こゝにて少し咄あり。浪花にて召連れに頼まれたる兼吉といふは廿才ばかりのものにて、江戸ッ子なれば如才なく、梶太夫の弟子の如く、介抱朝夕おこたりなければ、梶太夫も我が手人と思ひ、道中のまかなひを本人に少しもさせねば、兼p259」吉はいよく梶太夫を尊敬して、「師匠々々」といへば、梶太夫も兼吉を「兼吉々々」と呼びにけり。
 さてこゝにをかしきは、この田葉粉屋に、所見なれぬ美しき女ありて、梶太夫組この宿屋へ入るやいなや、この女を見ていよ/\礼身をして隅目を付け、座敷に通り、その女を呼びて取り付くしほに別肴を銚へ、女に酒の酌をさせけるが、喜三郎はもとより道中師の事なれば、当家に幾度も泊りてこの女とも馴染みなれば、今宵はこの女をしめる心ざしあり。また梶太夫はじめ弐人の者も、銘々思惑ありて気をあせりゐたりける。梶太夫はなほさらの思ひなれば、同行がじゃまになれば、二人の弟子をとほざけんが為、二人の者に「今宵は女郎買ひを致せ」といひて、壱人前に金弐朱づゝ遣はせば、弐人のものどもは、「有難し」と金をいたゞき、何の気も付かずして梶太夫の傍を離れず、酒落たふりにて二人とも彼の女をくどきゐる。梶太夫は弐人の者がわきへもゆかねば、とんと思ふやうにいかず、そのまゝ横になりて寝たふりをすれば、何思ひけん、かの女はツヽと立ちて裏へ行くを、考へ見れば風呂へ入りに行きたる様子なり。弐人の者もやがて立って行く故になほも考へみれば、女はいよ/\風呂へ入りて、大いに長入りして風呂場より出ず。さて二人の者は、女が風呂より出づるを待って、風呂場の戸口に立ってゐるやうすなり。始終の様子を梶太夫が委しく知れども、さながらに二人の者が風呂の戸口にゐるを、我れもその場へ行かれねば、小便に事を寄せ、廊下づたひに風呂場のそばまで立ち行きける。喜三郎も、いはねど同じ心と見えて、さいぜんよりこゝに来て、雪隠にはひりてかんがへしが、かの女の風呂余りの長入りにて待つ久しく、せついんより出ると四人一度に顔見合せしが、銘々見て見ぬふりにて、あとを見かへりもせず別々に我が居間々々へ入りけるが、なんぼう冬の夜長ぢゃとて、昼の道にくたびれてゐながらに、つまらぬ事に夜をふかす浮気者。さてしもかの女はそれより先に風呂より出で、間夫か客人か知らねども、とくに連れ立ち出会ひの様子。四人者はあほうのかたち。されども二人の弟子は出かしたり、師匠に弐朱づゝをもらうて女郎買。喜三郎は体ばかり大きくても知恵なさに、心当てちがひ。つまらぬ者は梶太夫、二人弟子に弐朱づゝ遣はしながら、何の役に立たざれば、ゑらひあほうなりとやう/\に心付き、今はあきらめ寝間に入りまくら、やう/\臥して明くる日は、浜松帯屋泊り。
 翌日は一里の渡し、荒井のお関所、日坂に泊る。この夜大雨風にて、街道の並木松、かたはしから倒れる程の事なれば、p260」行き先の大井川々留めと聞きしより、日坂宿を立つも、ゆるやかに四方を見ながら登山をするに、この峠より富士山を一目に見る。傍に子育ての観音、夜泣き石、敵討の由来、いづれも名所々々見物して、はやくも金谷宿の松屋に泊りしところ、なにが大井川の川留めにて客人おびたゞしく、座敷々々はふさがりあれば仕様なく、梶太夫は納戸の八畳の間をかりて、こゝに落ち付きけるに、時刻はまだ早ければ酒肴を取り寄せ、うさをはらすその内に、くたびれし身はおのづから、はやそろ/\眠気さし、酒肴はそのまゝ傍に直し置くも、夜中の眼覚めに呑みなほさんと、横にころりと臥入れば、座敷座敷もしづまりて、家内も休めば夜中の鐘、ポンとひゞきし折からに、梶太夫が寝間は納戸の八畳、襖一重は当家主の居間とみえ、亭主と内儀の声ひそやか。
 梶太夫はたゞ一人、何やな夜覚めしてねもやらず、隣の夫婦が咄す声が耳に入り、寝間の内にてさっしみるに、主は四十才位にして健やかなる江戸ッ子、内儀は廿八九才、江戸丸髷にあらひ髪のしっかり者と覚えたり。その様子をうかゞふに、亭主は今宵の客用を仕舞ひて、帳合そろばんパチ/\、内儀はしまひ風呂にはひりて、化粧もすみ、下女にいひ付け寝間をとらせ、箱火鉢に鍋をかけて、何やらうまい香プンプン、
 内「旦那エ、おかんが丁度ようございます」
 主「いゝかね。サア/\おらもしまった。ハヽアンこいつアいゝね、ねぎをまっといれていゝ」
 内「さうかね、それぢゃア板場ヘチョイといってとって参りましょ」
 主「モウいゝぢゃねいか、手前もくたびれていらア、マアしづかにしねな、コレサどうもうめエぜ、手前ちのこしらへたもなアなんでもうめエ、これを喰はずばあるべからずといったぢゃ、ゆうべお侍なぞア、精分だといってひどく喰ふとサ」
 内「これでございますかね、宿の棒端に行燈をかけて売っていますのは」
 主「さうさ、だいいちあったまる事がまことに奇妙サ。これを喰ってあったまってそれから/\」
 内「アヽいたいヨ、早くお仕舞ひなよ」
 主「早くしまって、手前どうする気だ」
 内「ナニいはずとも知れたもんだはナ」
 主「アヽいたいね」
 亭主はなまゑひにて、ふら/\と小楊枝をつかうている。p261」内儀が男の帯をとく様子。男は帯をとかれてねるやうす。内儀はその間に手水場へ行きて、また戻る。
 内「たいそう手間がとれたね」
 主「おしゃれでないよ」
 と何かと咄の声、一時ばかりポシャ/\/\/\。小声なればわからねども、お内儀の泣き声きこえぬやうになったり、また大きくきこえたり、梶太夫はたゞひとり、何分にも襖越しとはいひながら、あまり心よからず。わすれた宵の酒肴、これを呑まぬといふ事はあるべからず。炭火もあらねば冷燗にてひとりぐび/\呑んではゐながら、ツイ隣の声が気にかかり、また耳をすまして聞くところ、男女ともに大息せはしく、とう/\無言となりければ、梶太夫は大あくび、「モウたいがいなら夜が明けてもよかりさうなものぢゃ」
 駿河のは絵にも誘の艶はしく
  船は帆かけて露に湿れつる
 かくて梶太夫は金谷宿を立ちて、ゑじり大竹屋泊り。明くれば三島さがみや泊り。昔よりいふ、旅は道連れ世は情とやら、ながの道中四人連れ、冬の気のさむ空に、朝の暗がり提燈にあかりを付けて宿を立っても、日短かにて心せき、大みちをすれば足痛み、付添ふ者はなほさらなれば、憂さをはらしのはやり歌、鼻歌うたふも色ばかり。
 この頃のはやり歌は、江戸よりはやり始めて、今三都おしなべてうたふ根元は、江戸の市中に惣豆をあきなふ者のいひ草に、
  チョット/\/\チョト聞きな、帰命頂礼案楽さん、四文のお豆をチョトかっぷりナ、買うて重宝アヽうま
 このはやりごと最中、このごろ江戸瀬戸物町嶋屋といふ飛脚屋の番頭さんが、店のでっちのお尻をせしが、そのでっちが腹に子をはらみしとあって、江戸中大ひゃうばんをなしけるが、こゝにてかの右にいふ豆売りがこの嶋屋の事をかへ歌にいひけるは、
 チョット/\/\チョト聞きナ、帰命頂礼あなかしこ、嶋屋の番頭さんがチョトかっぷりナ、菊座重宝アヽよいナ
 このかへ歌、東はもとより京大坂にても大いにはやり、今道中にてゑらうたひ。馬方、船頭、雲助も昔とちがひ、今の世はたゞ色咄のみ銘々しゃれる。
 楽しみは色と喰ふ事、道中にもまづ始まりは大津宿のはしり餅から乳母が餅、焼蛤に栗の彩餅、うなぎのかばやき荒井p262」の名物、茶所は日坂、蕨餅、しぐれの貝や雨の餅、わしゃおじゃれに手を引かれ、宿入り泊りがたのしみと、けふは三島が泊りにて、あすは箱根を打ちこせば、やがてお江戸にちかければ、ヤレ/\嬉しやヤレしんど。
 既にこの日も夕暮れに、三島の宿さがみやに着きけるが、この家におかねとて十七八のよい娘、御膳のきうじに来たりしより、不図うつり気ののろけ者、別肴でゑらしゃに前後も知らず酔ひつぶれ、いつのまに酒を仕舞ふたやら、飯を喰ふたやらくはぬやら、夜の夜中に眼をさまし、酒もいまださめやらねば、うつく心に気が付いて、あたりを見れども誰もゐず、梶太夫が寝間にひとつ寝に女壱人寝臥しける。
  ヤレコリャドッコイ、これはさて、島田の女が蒲団を顔に、チョトかっぷりナ、長のひとり寝案楽さん
 女は宵のおかねなり。天道我れをあはれみて、授けたまはる有難しと、肌にさはればポヤ/\と、手を握ればしめかへされ、夢中になってそれからはどうしたやら、酒も肴も宵の内から取り寄せあれば、女と二人差し向ひ、寝所なりの酒事はまことに旅はういものなり。折から遠寺の鐘の音の、耳にひゞきてふと心付き、傍を見れば誰も居らず、「ハヽアン、夢であったそうな」。
 程なく夜も明けて、行く先は小田原か大磯泊りなるところ、まことにこの頃は泊り/\でいろ/\色事のひどいめに合ふ事ゆゑに、今夜は箱根に泊りて湯治して体をきよめんと、早くも湯もとの福住に到着する。かくてこの湯どころは、箱根七湯のうちに芦の湯といふなり。その余の六湯のわけ、または当山の由来は十三ケ年以前、梶太夫は実太夫時節の記録にくはしくあらはせたればこれを略し、さらば梶太夫は久しぶりの芦の湯なりと悦び、幾度ともなく湯に入り、夜ぢう楽しみ夜をあかし、朝の五ツに湯本を出立し、駕籠の内にて湯くたびれを休め、快よく行くところ、この日は雨ふり出し行く道のはかどらず、兼吉はいつも通り道を先に歩み、宿を取りに行く。
 さて駕籠の者は冬の雨に帰り急きすれば、梶太夫はこまりながら仕方なく、とあるところにて駕籠去なし、かれこれ手間取るうちに日を暮らし、提燈にあかりを付けんと思へども野原なれば人家もなく、心ほそ/\くらがりを歩み行くところ、物すごき狐原ありて、かたはらを見れば南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経の石塚あるゆゑに、よく/\かんがへみるにさてはこゝはお仕置場所と思へば気味あしく、胴ぶるひする折から、狐一疋飛び出づるに、「ソリャコソ物よ」といふうp263」ちに、狐は森かげへはしり込む。梶太夫、尾上太夫も肝をつぶし、狐のはひりしあとを見て、ふるひ/\歩み行く。またもや薄原のかげに、大の男壱人ありてはひつくばひ、我々をうかゞふ様子に見えければ、梶太夫はまたびっくりし、さては追剥なるやと気は顛倒し、跡をも見ずしてはしり/\てやう/\に、火あかりのさす一軒家を見付け、梶太夫は大息継ぎて、むしゃうに戸をたゝき、家にはひればひとりの老人、地炉に火をたきあたりゐる。梶太夫は挨拶して、今越し方の咄をすれば、老人こたへていふは「この辺には里犬たくさんとあれば、それは狐にあらず、かの犬にちがひなし。また大の男と見えしは、追剥ではあるまじ。小便か大便でもしてゐたりしならん。東海道繁華のところ、ことに今やう/\夕暮すぎの頃に、なんの盗人が出るものぞ。さて/\きつい驚きやうなり」と笑はれて、梶太夫はやう/\心落ち付き、「今この冬空なればこそ、肝が菜種にならなんだ」とはやしゃれ言葉まぜりに礼をのべ、提燈にあかりをもらひて、その家を出で行く。
 道筋しばらくあって、またもや後より「オイ/\」と呼ぶ人あれば、今度は三度目のびっくり、大事ならん、これこそは追剥盗人なりと一目散に逃げはしる。後より呼ぶ人はなほも追ひくる様子、次第に間近くなれば、はやかなはじ、こゝぞ絶対絶命と覚悟をきはめよく/\見ればさにあらず、我が同道をしたる喜三郎にて、当人がいふを聞けば、「足は疲れてあとになり、提燈はなし、雨にうたれ、まことに難儀をして、何かとはなしにあかりを目当てに、誰とも知らずに追っかけ来たり、おどろかせしはわるかりし。我が難儀を推量し給へ」とさも恨めしげにかたりける。
 これを聞いて互ひに落ち付き、地獄で仏に会ふたるこゝち、こゝより連れ立ちあゆみながら、梶太夫はさいぜんよりの狐の咄より、三度の驚き咄を道草に、たどり/\て程もなく、藤沢宿の田葉粉屋にこそ着きにける。
 かくて宿取りの兼吉は、昼のうちにこの家に付き、雨にもあはず、提燈もいらず、とくに風呂へはひり、飯も済みて休みゐる。不仕合はせは梶太夫、尾上太夫、喜三郎、様々の苦労かんなん、わけて梶太夫は駕籠かきに迄気まゝをいはれて道中からあるかされ、雨にうたれ、度々こはいめに合ふたる事ぼやきちらせども、これも道草咄の種と笑ひつゝ、もはや旅籠屋に泊るも今宵限り、あすは目出度くお江戸入り、喜びの酒盛りいつよりも、さいつさゝれつ夜をふかしぬる。
 明くれば弘化四未霜月四日、大森宿が昼中飯は山本といふp264」江戸一の茶漬久しぶり。品川宿の繁昌は、今にかはらぬさわぎ声、江戸三味せんの高調子、アノ面白き酒落は何やつ、山下の掛茶屋は幾軒の数しれぬ茶を汲む娘の、前海の生きたるまゝの魚類をば、自慢の料理屋長谷川にとくよりひかへ待ち合はすは、これ誰なれば梶太夫を出迎ふ江戸ッ子高松徳蔵はじめとして、五厘取り垣野屋長三郎、そのほか大勢に名乗り合ひ、酒くみかはし程もなく、当所を立って金杉の宮川といふ水茶屋にて小休み。日も暮れて、こゝよりあかりを入れて駕籠に乗るも、かの乗込みといふやうなるものと見えて、弓張提燈なぞ沢山に、大勢してどや/\わや/\市中に入り、新橋から京橋、日本橋より江戸橋打ちすぎ、葺屋町高松亭の隠居所にこそ着きにけり。
 
 
 そも/\竹本梶太夫門弟尾上太夫、兼吉を召連れ、宰料喜三郎ともに道中つゝがなく、出迎ふ人に伴はれて、十月五日に江戸葺屋町寄場高松亭の隠居所へ落ち着く。
 さて当家主の徳蔵は母親ありて、ひとりの妹おまつはさる大家の番頭が世話をして娘の家督に、このたび浄瑠璃寄場普請成就し、屋号高松亭としてあらたに席開きとあって、梶太夫、寛治を呼びくだし召抱へしなり。かくて寛治もきのふここに落ち着きゐたりて、梶太夫と対面とげ、この夜よりこの家の二階座敷を両人の居所と定め、旅宿となりにける。
 こゝに高松徳蔵は、梶太夫の席にて口語りの太夫につかはん為に、大坂より素人の浄るりかたりを三人とくより呼び寄せありて、高松の席に逗留してゐれば、この素人の三人を、梶太夫の門人に加へくれ度きよしを梶太夫に頼みける。梶太夫はこれを承知の上、かの三人に太夫号を譲り、梶尾太夫、梶代太夫、梶当太夫と号けければ、梶太夫が弟子は四人となる。
 
 
 これより興行は他人まぜずして、我が門人ばかりにて興行となる。則ち初席は高松亭夜席にて、近辺々々辻看板を差し出し、神無月十日初日とあって、夕方より見物を取り込みゐるところへ、こゝに当所猿若町芝居の頭取吉田運二、同芝居表方の勘助といふ者、高松の席へ来たりて、何かと妬みがましくいひけるを聞くに、「近頃、肥後大掾ならびに京都の入太夫、呂角軒、越路太夫など下りて、寄場へ出勤をいたしたれども、かれらの太夫にはかまはねども、梶太夫、寛治は高名の事なれば、芝居へ出勤なきうちは、寄場へ出る事相成るまじ」とさも苦々しくいひけるに、この時は初日の事なれば、おひ/\見物おしかけて、およそ百六七拾人の客人二階にありて、浄るりの始まりを待ちにける。
 徳蔵は両人にむかひいひけるは、「なるほど、もっともとはいへども、それは昔の事にて、近年は寄場中申し合はせにて、寄席浄るりを興行のせつは、客人壱人前に銭四文を取りのけて芝居座元へ納め、また客人弐人前の銭を取りのけて操り方へ納め、このわきまへによって寄場興行する事は、芝居掛りの衆中はよく承知のはずなり。則ちこの金高年分に、四百両は怠りなく寄場中より納めあれば、芝居方より差し障りは無きはずなり」と事をわけていひけれども、相手聞き入れず、「年分の四百両は座元へみな納まり、我々は僅かの調賦なければ、その日の暮らし方にこまりをれば、芝居をしてもらはねば立ちゆかれず。何分梶太夫寛治を貰ひたし」とて、何をいふやら酒に酔ひてやかましく、寄場の表の間にあふのけに大の字に寝込みける。
 その時、表には見物おひ/\入り来たりて、この体を見て皆恐れをなし、後へ帰るやら、二階にゐる客人も下の喧嘩をおひ/\、聞くに付け、浄るりははじまらずたゞわや/\とつぶやくゆゑに、席主もたまらず尾上太夫に初口をかたらせしが、喧嘩はます/\大きくなれば、見物いよ/\立腹して、ざわ/\と銘々下へおり立って既に見物は帰りける。
 席亭はたまらず、もはやこれ迄なりと表にかけ出し、手ばしこく看板、行燈を家内へ引き込んで、それより席主気強くなり、負けず劣らず高声に罵り、いよ/\大喧嘩となり、かかる折から町内の席ひいきの若者中駆けつけ、相手方の運二、勘助を打つやら踏むやら、手に当る物、火鉢なぞを投げるやら大騒動と相成る。そのうちに誰が知らせしやら、猿若町芝居木戸の者弐三十人馳け来たりて、銘々鳶口をもって席の表を大半打ち壊しける。かゝるさわぎに、火消鳶仲間は組八ケ所、小網町役三ケ所、以上八ケ所の鳶仲間、人数およそ三百p266」人飛び来たりて、大勢はひかへゐて、頭だちし者ばかり廿人ばかり、仲人なりとて飛込み押しへだてしづめるに、大混雑なれば夜も明けはなれ、喧嘩の名物東のならひ、並々の出入なれば仲直りに五十日は日数かゝれども、興行事の事なりと仲人のヒイキによって、当日より五日目に済み口となる。席亭よりは金子拾五両扱ひ、芝居方よりは看板を引き込ませしあやまり一札を差し出し、双方火急に仲直りし、盃の場所は堺町新道の料理屋万久亭にて、さっぱり相済みける。
 なほ仲直りの次第もあれどもこれを略し、いよ/\霜月十五日初日と極り、梶太夫はじめ一統、安心をぞなしにけり。
  高松亭夜席始まり
  『信仰記』碁立 尾上房治郎
  『妹背山』杉酒屋 梶代当造
  『白石噺』七 梶当房治郎
  『大功記』十 梶尾当造
  『吃又平』梶寛治
 江戸寄場浄るり日数は、当り不当りにかゝはらず日数十五を一席と定め、いづれ初日は朔日か十五日なり。切ばかりの語り物。前語りは略す。
  ○初日  『吃又平』
  〇二日目 『伊賀越』沼津
  〇三〃  『二代鑑』
  〇四〃  『志度寺』
  〇五〃  『日向島』
  〇六〃  『双蝶々』八
  〇七〃  『廿四孝』三
  〇八〃  『ひらかな』三
  〇九〃  『五人伐』
  〇十〃  『あこぎ』
  〇十一〃 『伊賀越』八
  〇十二〃 『合邦』
  〇十三〃 『躄』十一
  〇十四〃 『うす雪』腹
  〇十五〃 『忠臣蔵』九
 右外題にて高松席を打ち終り、目出度く千秋楽相済み、それより外席はやはり右外題にて少しづゝ差しかへ、江戸中の席を昼夜と打ち廻りけるが、当地寄場といへば、重畳およそ三百六拾軒ありしところ、細席は御趣意の時節につぶれて、当時残りある席は百六拾軒ばかりありといへども、畳数おほくしきて、よき人のはひる上席は江戸中に拾軒あるなしにて、p267」これに洩れたる席はいひなし、出方の芸者はいづれ上席ばかりへ出たく思へば、近頃悪席中一統打ち寄り、上席悪席平等に日数十五日づゝ興行致しくれたき申し合ひにて、府中仲間をこしらへある事なれば、出方の芸者を五厘取り仲間の者が上席ばかりへは出ださず、悪席へも連れ歩くゆゑ、芸者も余儀なく悪席と知って出勤する事、甚だうたてき事どもなり。されども、一年中数多の席を打ち廻る事ゆゑに、上席へはおのづから出安く、先に出勤して、また間もなう出勤すればとて、いつとても大入をするゆゑに、上席へは一年に三度も出勤するなり。悪席へは義理にからみて、たま/\出勤して見てもやっぱり見物不入なれば、いつまでも悪席なり。
 しかしながら、繁華の江戸なればこそ、悪席にても始終興行あるは、昔は女義太夫大いに流行をせしゆゑ、寄場席おほかりしなり。当時女太夫は御法度なれば、まづお江戸の名物新内、常盤津、講釈、昔咄、茶番狂言、影絵、写し絵、あるひは素人景物浄るり、または下廻りの太夫をあつめて人形入り浄るり、これらは当地の端々にて興行あり。同じ端にも両国あるひは下谷、山下、芝の切通しなぞといふところに寄場あり。これらは土場席といひて極く安き芸者の出る席にて、今の世にも義太夫女は御法度を、化名をつけてはたらく者もあり、さるがゆゑに百六十軒の寄場、それ/\に休まぬはこれ則ち繁華のお江戸なり。
 梶太夫も当所高松亭初席として、江戸中の寄場、昼夜打ち廻る事、未の霜月より冬分は打ち終り、明くる申年正月初席より一年中出勤の場所を左にあらはす。尤も語り物はあまりくだくしければ略して、なほも家業のほかなる神祇釈教恋無常の類はあらましながらこの奥にあらはし綴るも梶太夫が楽しみ、見ぐるしきところは見る人ゆるしたまはりかし。
 堺町新道  高松亭  未霜月
 久保町   松村   〃
 銀座四   大丸新道  極月
 小田原岸  鶴本    〃
 かはらけ町 万寿亭   〃
 馬喰町   初音    〃
 堺町    弐度目高松亭 申正月
 浅草    馬道源助   〃
 両国    長左衛門   〃
 しんば   君川    〃p268」
 久保町   二度目松村  二月
 牛込    わら新    〃
 銀座四   二度目大丸新道 〃
 麹町    万長     三月
 堺町    三度目高松亭 〃
 竜岡町   鈴岡     〃
 すきや町  山本     〃
 小網町   川一     四月
 深川    一の鳥居   〃
 するが町  稲本     〃
 木挽町   江戸一    〃
 東両国   こり場    〃
 霊岸島   大亀     〃
 弾正ばし  大辰     五月
 四谷押原  末広     〃
 芝明神   若竹     〃
 外神田   若松     〃
 同玄坂   栄助     六月
 馬喰町   二度目初音  〃
 外神田   ふじ本    〃
 京ばし   金沢亭    〃
 かはらけ町 二度目万寿亭 七月
 かやは町薬師 宮松    〃
 堺町    四度目高松亭 〃
 久保町   三度目松村  八月
 東両国   二度目こり場 〃
 麹町    二度目万長  〃
 小網町   二度目川一  〃
 木挽町   二度目江戸一 九月
 霊岸島   二度目大亀  〃
 四谷押原  二度目末広  〃
 外神田   二度目ふじ本 〃
 霊岸島   二度目鈴岡  〃
 湯島天神  寿亭      〃
 銀座四   三度目大丸新道 十月
 十月のかゝりに打ち終る事、まことに訳合ひのある事にて、巻奥にてわかるべし。尤も右寄場出勤は四十五度、当所名残りまでの出席なり。
 これよりの文段は後へ戻りての咄なれば、この本見る人推量し給ふべし。p269」
 
 
 こゝに梶太夫の三味を弾きて、鶴沢寛治あづまに来たる発端は、江戸表に播磨大掾の門人に、杣太夫事土佐太夫といふ者ありしが、土佐太夫、寛治は昔よりふかき馴染なりしが、土佐太夫は当時江戸住宅をして、寄場廻りをすれども、我が相方にすべき三味弾き払底なれば、上方にゐる馴染の寛治をよびむかへて、我が相三味弾きにいたしたくかねて念願あれば、浪花の寛治へ度々書状を送りけるところ、寛治はこのたび梶太夫の三味線弾きに頼まれ江戸着すれば、当時は梶太夫の三味を弾けども、後にいたりなば土佐太夫を弾くといふ心あれば、このよしを世話人五厘喜三郎に頼みしところ、大腹中の喜三郎ゆゑ、「何さま然るべきはからふべし」と請け合ふによって、寛治は大いに喜びけるもほかならず、土佐太夫と組み合へば、席の上り高七三に割合ひ、土佐太夫に三分の割をあてがひ、我れは七分の割を取って稼ぎたき欲心なるゆゑ、まづは冬分のところは梶太夫をぜひなく弾けども、春になれば土佐太夫の三味線を弾くをたのしみて、当時梶太夫と出勤をして、寄場もまづ/\大入にて、冬分打続けける。
 然るところ、梶太夫は寛治と上方にゐる時より三味線を弾き合はせみるに、寛治は評判の物忘れにて、弾き合はせし事どもをとかくにわすれ、梶太夫は毎日がへの事ゆゑに、大いにこまりけれども、なにぶん寛治は日本の大立物なれば、梶太夫も程よく附合ひける。
 されば冬空も程なくすぎ行けば、世話人の喜三郎も寛治にたのまれし事あれぽ、ぜひとも梶太夫寛治引き分け、寛治と土佐太夫一組として、梶太夫には江戸の大立物野沢語助をくくり付け一組とすれば、出方二組となるを家督にして、世話人相方堀長にいひ合ひ、うち/\野沢語助に咄をする。こゝに江戸の語助は昔より名人の太夫ばかりを弾きてすこぶる名人にて、そのむかし梶太夫が師匠五代目熊治郎染太夫の三味を長らく弾きて後、染太夫上坂の後は組み合ふ太夫なしとて、内福といひ、田地、地面をもって今は遊びくらし、いかなる太夫が頼みくるとも、安からぬはたらきはせぬと意地張りゐたりしが、梶太夫は染太夫の弟子にて、実太夫時代よりの馴染も深し、または染太夫の面影なれば、いま梶太夫を弾かばとて、世間のそしりもあるまじく、かつは今生の弾き納めとp270」して、新場のヒイキ旦那方へ相談のうへ、梶太夫を弾くといふ返答によって一統悦び、早速組み合はす支度調ひ、金方江戸屋清次郎はさる料理屋にて、語助、梶太夫顔合せの盃のついでに、梶太夫、寛治和談のさかづき日柄をえらび、ある日に金方はじめ世話人たち、梶太夫語助を伴ひ、彦左衛門豊田屋といふ料理屋へ行きて、土佐太夫寛治も呼びよせ、大いにちそうをして、組み合はせさかづき、別れる盃とゞこほりなく相済み、後は双方打ちとけ咄の大酒宴、夜のふけるも知らざりしが、頃は立冬すゑつかた、空吹く風は荒れぶきて、江戸の名物ヂャ/\/\三ツ鐘は遠くあらず、当家も隣家も大さわぎ、出火に馴れたる江戸ッ子は、金方の清治郎、喜三郎、堀長は駈け出だす。
 あとは梶太夫寛治上方者なれば、訳もわからず逃げ出し、梶太夫火元を聞けば葺屋町岸なりと聞きしより、旅宿の近所なれば、人群集して宿へは帰られず、まづは風上の堀長の方へたどりゆく。それより出火の様子を聞けば、この出火は当地に珍らしくしづかなる出火にして早くもしづまり、旅宿は「ちょっとさわぎしばかり」と聞けば、梶太夫も宿へ帰る。語助、梶太夫も初春より席始まる。梶太夫、寛治和談もととのひ、寛治、土佐太夫も寄場始まり、以後双方むつまじかりけり。p271」
 
 第二十三の巻
 
 この一綴りは浄瑠璃家業の者がながめて益あれども、他見は通じがたく、この書を読む人これはのぞきてもよし。そも/\当地の人柄を見聞するに、何国とてもかはらぬは市中上分はなか/\人柄なればおのづから付合ひやすく、されば中分以下はおしなべてかりそめにも印半纒を常として、とかく気性あら/\しく、誰を見ても浪花でいふ博奕師とか顔役の如くなり。尤も印半纒を着すは当地の流とか申すなり。さて芝居かゝりの衆中に、直ぐなる者はあるまじと思ひけるが梶太夫の邪眼か。芝居者のくせとして、上方より下りたての芸人とあれば弱身へ付け込み、欲顔にとかく難題無体を吹きかけ、やゝともすれば喧嘩を仕掛けるが常の如し。しかしながら下りの太夫も当地に馴染めば、芝居方の悪党ばらの無体を請けつけぬ様にはなる物にて、梶太夫が師匠五代目染太夫は、先年当地に九ケ年ばかり居馴染めば、芝居悪党の気を打ち抜き、金銭をもって芝居方の顔を立てるがゆゑに、いかなる悪党ばらも染太夫には閉口なり。染太夫正身の江戸ッ子同然に人に立てられ、その身十分に暮しけるなり。
 さて梶太夫もこのたび当地へ下る事三度目なり。当地の風気はよく見来たりをれば、今はなか/\悪党ばらが無体は請けつけねども、何といふもまたもや今下りたての事なれば、やっぱり上方才六にとりおこなはれ、やゝともすれば突きころばすが芝居方の流儀とかや。則ち、ある日江戸太夫仲間因講参会とあって、前日に廻文きたりけるゆゑ、梶太夫も新門人四五人ぜひとも加入させねばならず、早速当日の参会に立ち寄るべき心底なるが、この日に限り大雷、大雨風に恐れ、雨の晴れ間を見合うてもいよ/\大雨となれば、家を出かねるうち刻限うつり、参会の席より使者を以って大悪言を申し来たれば、梶太夫も当地の風気心得ゐれば、雨風ゆゑ四ツ手駕籠に打ち乗り出で行くその風ぞくは、着物は結城の洗だく者、帯も直留め江戸小倉、伊勢つぼ屋のたばこ入れに百卅弐文のきせるを差し込み、鼻紙入れなぞは懐中せず、肌にはふたよ廻りの胴巻に用意金拾両をかくし持つは、金銭にてひけを取らざる用意、かつは先に無体を申し出れば逃げ帰るといp272」ふ身がるのこしらへなり。
 さて参会の席は堺町百席といふ料理屋にて、程なくその家に行くより、駕篤より出ると玄関に通り様子を見るに、浪花因講とは大いにさうゐして、正座にいかつがましく押直りゐるは、猿若町あやつり座の名代結城孫三郎はじめとして、公用役治助、座元九兵衛、頭取吉田運二、木戸頭若松喜三郎、そのほか表方木戸の者弐拾人ばかり、いづれも顔役めかし皮羽織をちゃくし、どれもこれも月代をそる事をきらひの衆達と見えて、頭は世上でいふ五分月代といふ物にて、一癖ある面構へなるゆゑ、上方者なぞはちょっと見るからおそれをなして、何事もいはずして差しひかへねば相成らず。さればかんじんの因講の太夫、三味弾きは次の座に直り、古老衆はこの時分は竹本大隅太夫、豊竹岡太夫なれば日本の大立者にて、何国にありてもはづかしからぬ仲間の古老顔なるに、一鼻だって物事をいふ古老はなくして、芝居方の者の言葉について、何にもひかへゐる中老達は机にかゝり座をかまへゐれば、やがて梶太夫は仲間入り料を差し出し、鑑札を受けて座敷に通り座をしめる内、芝居方の者より申し出すは、「この度の下り鶴沢寛治は、今において当席へ顔出しをせざる事、甚だきっくわいなり」とさも横柄に悪言をいふも、梶太夫の荒ぎも取る言葉なり。
 梶太夫はたゞ事のなきやう、たゞ我が遅参のあいさつのみに謝り入りてゐる事なれば、せり合ひにもならず、心中安堵の思ひをなしにける。それよりどうやらかうやら打ちとけ咄となりて、双方盃の取りかはしとなり、芝居方より改めて申すやう、これ則ち梶太夫へ難題にて、来たる正月初芝居、操り方合力芝居として、上方より下りの太夫は八人あれば八組にわけて、一組二日づゝの合力浄るり、日数十六日の興行なり。銘々出勤は月日籤引きと定め、梶太夫は正月五日と十四日の籤にあたる。これ芝居への奉公、無給金四日なり。さてまた今ひとつの難題は、人形遣を助けの浄るり。尤も人形遣も同出勤にて、人形入り浄るり。仕法は下りの太夫、江戸の太夫合して廿二役となる。壱組十日づゝの興行、これは無給金にはあらねども、惣上り高を割り取りなれば、人形方より勝手に割り付ければ、太夫方へ割りをとらぬも同様なり。梶太夫もいやともいはれぬ、人形の方には、「大隅、岡太夫も同腹にて一統の事なり」といはれて、梶太夫もぜひなく承知して来三月の籤に当りて、またも事のなきうちと、酒宴後の膳にもすわらず、挨拶もそこ/\旅宿へ逃げ帰る。これらの咄はくだ/\しき咄なれども、入郷従郷ざれば災難のp273」来たらん事の悲しみ、芸者の身を悔みたるところの咄なり。梶太夫も三度目の江戸住みなれば、なか/\江戸の悪党ばらにひけはとらざる心得も、旅に踏み出し、くるしみは当地にかぎらず諸国も同じ事、我が生国にさへ芝居かゝりの者に直ぐなる者はあるべからず。まして江戸の芝居かゝり、悪党といふがむべなるかな。人間は仁義礼智心をはづれたるを人外といふ。まことの道を守る者は、神仏大切にして、人のよき事はともに悦び、憂ひあればともに悲しみ、我れに災難のあるときは自業自得とあきらめ、身貧なればその身粉になる迄はたらく、過福なればとて奢りをつゝしみ、人中へ出すぎるは見ぐるし、たとへ門に立つ非人乞食にも、主が立って小銭壱文をあたうるに手間ひまいらず。あるひはなんじうの者には、我が身に害にならぬだけの合力をあたへ、上を敬ひ下をあはれむこそ、これ五常の道なり。それにひきかへ、江戸の悪党は下りの太夫と見れば喧嘩同然に無体をいひかけて、太夫をたゞにはたらかせる工夫ばかりをする事、これらが人を突きころばし、我ればかりたすからうといふ悪党なり。
 
 
 これは行く冬の事なるが、そも/\江戸猿若町といふは元来堺町、葺屋町ありて、往古より御免の櫓しばゐなるが、天保十三寅年、水野出羽守様御改革の時、両芝居取りはらはれ浅草辺かたわきのたんぼを築地をして、芝居町に出来、猿若町と町名を付け、堺町、葺屋町の歌舞妓あやつりとも当所へ引越しをおほせ付けられ、いまにおいて歌舞妓芝居は繁昌すれども、操りは甚だ不繁昌なるが、弘化三年午年のおふれより、芝居もそこ/\に興行する町席は益々大繁昌する。芝居の方はとにかく人柄あしきがゆゑ、金方もなく、太夫中もいやがりて出勤をせねば、またもや芝居には草をはやす。
 かるが故に太夫中はなほ町席寄場へ志せば、金方もおひおひかゞれば、寄場はいよ/\繁昌となるゆゑ、芝居方のものはこれをそねみ、御免の櫓を頭にきて、またしても/\寄場を差しとめやうとする事度々なり。お上様の御理解にて、「寄場浄るり興行すれば、客人壱人前に銭四文づゝ芝居方へ遣はせ、人形遣へは客弐人前の銭をあたへよ」とおほせ付けられしかば、寄場はこれを守れども、芝居方の悪党ばらはその銭を取って置きながら、既に去冬、梶太夫が初席高松亭へあばp274」れ込み、拾五両の金をむさぼり取りし程の悪党、後に聞けば梶太夫の五厘取喜三郎と芝居の者あいたい喧嘩なりときく。まことに重々にくしの喜三郎と思ふ折から、またぞろかく冬極月に思ひがけなう猿若町芝居より梶太夫へ廻文の事。
 
  廻文[嘉永2 近3下041]
 一、来る正月二日より猿若丁芝居において下り太夫衆中にて操り興行仕候間、則当極月壱日芝居にて顔寄候間、御入来候べく候。以上。
  竹本梶太夫様
  鶴沢寛治様
  竹本長尾太夫様
  竹本越路太夫様
  鶴沢吉兵衛様
  肥後大掾様
  豊沢仙五郎様
  豊竹小国太夫様
  竹沢宗七様
  竹本入太夫様
  五代染太夫預り門人 竹本越太夫様
  長門太夫門人 竹本咲太夫様
  播磨門人 竹本妻太夫様 
  江戸津賀太夫門人曽我太夫事 竹本津賀太夫様
    この四人は仲間世話人行司顔
 
    吉田運四
 月日
   年行司 豊竹富太夫 二代巴門人い太夫事
 
 梶太夫より芝居へ廻文の返答
 一、廻文の趣委細拝見仕候。然る所来る正月操り興行に付、拙者儀出勤おふせ付け候へ共、我等儀は金方旦那に召抱られ、寄場へ出勤の約束にて御当地へ罷下り候へば、右奉公終候迄は外出勤相成がたく候間、此度の儀は御断申上奉候。以上。
  吉田雲四様豊竹富太夫様 竹本梶太夫
 
 江戸因講より梶太夫への書面
 此度猿若丁芝居興行に付、顔寄の儀申遣はせし所、御断におよび御出無、是に付芝居掛り合衆大ひに立腹致し居申候へば、此後いかよふの騒動に相成候共、因講の者少しも存じ不申候。此儀為念申置候。以上。
     因講年行司p275」
 竹本梶太夫様
 
  梶太夫より因講へ返答
 委細承り申候。然れば拙者儀事、其御芝居にて金子御借用申せし覚へも御座なく、元より当方儀は御金方旦那に約束御座候ゆへ、此度御申越しの一条は、御断を申遣はし候所、何角御立服の由、甚不仕義に存じ候。右申通りの訳合に付、拙者不承知ゆへ、御廻文に我等が名前所へ天を掛不申、是則御断の印なれば、其元様の約束返んじたるにあらねば、何をもって騒動に相成共いわれ御座無く候へば、御心倍御無用、御案心下され度候。もし理不尽の騒動におよび候へば、当方よりきっと相さばき申て候。以上。
  竹本梶太夫
 因講御行司様
 
 右やう申し遣はせし所、日をおきて、ある日芝居方の者、梶太夫が旅宿へ押し掛け入り来たる人々、
 操り主結城孫三郎、座本九兵衛、御用廻り治助、頭取吉田運四、木戸頭勘助。
 右五人の者どか/\と入りくるゆゑ、梶太夫は疵持つ足、あまりきびしき返答をせしその返報に皆々来たりしならん、さてこそ今が我が身の生死のさかひなりと、心に神仏をいのりながらわるびれずして出で迎ひ、顔を見るに、結城孫三郎と名乗るは今は息子にて近付きにはあらねども、今の結城孫三郎なり。あとの者は座元九兵衛、これの親絹太夫からの馴染、吉田運四は梶太夫その昔、実太夫にて白湯くみの時分に、運四もやう/\小道具役の時よりの馴染の者、また御用廻り治助も、また木戸頭勘助も、それよりはるか後に出たる新参者なり。たがひに顔を見ると、双方同位の輩にて、我れがおれが、おれがわれがの付合ひなれば、取りあへず奥へ通し、昔語りに余念なく、笑ひ/\にて何んの咄も出ざるゆゑ、梶太夫が口を出し、
 梶「マア/\それはさておいて、この間お前方から芝居の廻文がきてナ」
 運四「ムヽアレか、ありゃかうだはナ、むかしおめえちゃ染さんについてきたときゃ、芝居もてえそうよかったけヱ、それからおめえが四年あとに来て、芝居をしたばかりで、今見なヱ、しばゐへ金を出す人もねヱで、寄場ばかりであるまいか。太夫さんはそれでいゝはナ。人形遣はからきしつまらねp276」えだねヱか。それだから、芝居がしたくても、金方もなけりゃ芝居へ来る太夫もねエといったわけだから、なんでも仕方がねヱ、上方からくる太夫さんを待っていって、がういんで芝居をせなけりゃなるまいぢゃねヱか、何でも春はね、おまへ方の昼夜勤めるじゃまはしねヱがの、昼席と夜席の間で、ひとはしり来てくんねヱな、こりゃおいらへの合力だはね。どうせ見物こないのサ、何んでもいゝから、ちひさなみじかな物をおかたりなせヱナ。かまやしねヱはね。十日かそこらだはね、それもサ、三日か四日でしまってしまうかしれねヱね。マア出るとしてくんねヱナ」
 梶「それぢゃとて、そんなに一日に三所も勤まるものか。やっぱりこちらの金方のじゃまになるからお断りだ」治助「ナニそんな事いふもんぢゃねヱはな。今は見なせヱ、だれでも三所も四所も寄席をかけるはね。おめヱ一人そんな事をいっているはつまらねヱ人だ。かまやしねは、なんでもたのむからいゝといってくんねヱナ」
 馴染ごかしに人参をだまして売るが如くいひちらせば、梶太夫はもってのほかの仕儀により、何んといひ寄るかたもなく、「何分にも我が金衆へ咄せし上の事」といひ延ばし置いて別れけるが、されば梶太夫も今かく冬当所に越年をすれば、この事心配なれども、はからずして当冬に上坂となってこの一条をのがれしが、これ迄にかはらず当地にゐるならば、また悪党ばらにかゝりて芝居の苦労をするべきに、余儀なき事にて帰坂となりて、芝居の苦をのがれける。
 かくて江戸の悪党ばらが喧嘩をしても、太夫を無銭にて使はんとしかけしが、梶太夫は当地へ幾度も来て勝手をよく知れば、この一条に立派なる返答をせしゅゑに、いかなる悪党もまた法をかへて人参だましに梶太夫をだし付けしは、仕様のない悪者どもなり。浪花因講も、あまたの講内にて、江戸表へはじめて下る心ぼそき芸者は、江戸ッ子の生計におち入り、深い所へはまるべし。おそるべし/\。
 さりながら、江戸生れの芝居者は悪党でもかまはねども、当地の因講の世話をする太夫に年行司なぞといふ京越太夫、西国妻、浪花咲、丹波津賀、丹後富太夫、この五人の太夫は江戸の者にあらず。みな他国にてありながら、いかに郷に入ればとて江戸ッ子の悪党の加党人をして、因講の印判をかりそめにも廻文に押しあらはす事どもは、太夫の威勢なきゆゑなり。道にふれたる事せずとも、世渡りは出来さうな物なり。近き昔、江戸の宮戸太夫、伏見の津賀太夫、五代目熊治郎染太夫、これらの太夫はなか/\威勢ありて、操り方の指図はp277」うけず。芝居を組立つるとも、太夫座頭よりの指図より芝居となるものなり。しかし当地の因講の年行司を勤める太夫も、郷に入りて郷にしたがふゆゑ怪我災難もなし。
 
 
 門人中一条の咄とは、梶太夫江戸在中の間、弟子中の忠義不忠義を書きあらはすのみなり。さて前にいふ梶太夫が大坂より当所へ弟子同ぜんにして連れ来たりし兼吉といふは、元来江戸竹川町の者なるが、かれが江戸の親は兼吉をこがれこがれて、大坂へ度々書状を送りしなり。然るところ、大坂の親分堺太郎は梶太夫の江戸行きを聞きつたへ、よき折からとて梶太夫は兼吉を預かりて、江戸者の上、江戸親元へ手渡しもする。親はまことの悦びにて、あつき礼をのべけるが、兼吉はやはり梶太夫のそばにゐて、旦那方よりももらひ物もあれば奉公するよりも暮らしよく、且つは梶太夫の恩義をわすれず、弟子同様に梶太夫の介抱おこたりなく、長くそばを勤めける。こゝに江戸義太夫語りの女、五代染の門人の染助が仲人して、女太夫梶太夫の門人に加へる。これ梶助と名乗らせ長久する。
 また阿州に五代染の門人に忠兵衛といふあって、当所へ梶太夫をたづねてくれば、その日より昼夜寄場へ連れ行きて世話をさせる。また五代染の門人なる内匠太夫下りくる。これは一人前の太夫なれば、早速野沢勝七の三味にて、寄場廻りをしてひゃうばんよし。また梶太夫門人たび嘉事園太夫下りくる。これは子供太夫を連れ来たりて、子供組の世話をして寄場廻りをする。また梶太夫が浪花にての内連中其重といふ人、親元を抜け出て梶太夫をたづねくる。これは御客分、大切に世話をやき、寄場へ伴なひ行きて、をり/\口語りなどさせて長く逗留をする。
 また梶太夫が門人梶戸太夫下りくる。これはずゐぶん浄るりを利口にかたりて、芝居へ使ふ時は、序切の役を勤めさする太夫なるゆゑ、早速当地の風に衣服を着せるに、当所富沢町古手屋にて羽織まで求めてきせかへ、道中姿を見かはす如くこしらへ、明くる日より梶太夫の中語りに使ひける。さて当人は真実ありて、師匠梶太夫をおもんずる者ゆゑに、後にいたりて梶太夫名をゆづる程の者なれども、とかく酒を好み、大酒をして酒ゆゑ病を引き出し、度々の病気にて席はつとまらず、薬料にさしつかへ、江戸へわづらひに来たるといふもp278」のにて、梶太夫も余程の物入りをする。されども続いて打ち伏す事もなくて、また勤める事もあると、また酒でしくじる。まことに様々の弟子もあるものなり。
 しかしまた、その後は梶太夫の門人木尾太夫下りくる。これは声がらよければ、早速梶戸太夫病気かはり役に寄場へ連れ行く。当人は上人間なれども大ずぼら、薬にもならず毒にもならず。
 さてまた当地に竹本浪太夫といふ者あり。長らく江戸住居して、このたび上方へ帰国に付き梶太夫へ頼みには、当人は故人浪太夫の弟子なれば、梶太夫を師匠と頼みけれども、梶太夫が思ふは、いま師弟の約束をして、今別れてはせんなき事なれば、いま浪花へ帰るもの、浪花には我れらが師匠染太夫がゐらるれば、染太夫の門人に世話をせん頼み状を遣はせば浪太夫大いに悦び、江戸を立って、のち浪花染太夫の社中となれば、梶太夫とも兄弟となりて、幾ひさしく因みをむすびける。
 時に梶太夫が上方より召連れし門人尾上太夫といふもの、あるとき丸の内備前様出火に付き、梶太夫は家業を休み、お屋敷の出火なれば町中のさわぎもなきゆゑに、弟子どもをあつめ酒宴をもよほしけるが、この尾上太夫といふは浪花にて梶太夫の家に久しく馴染みて、常に心ざしよき者ゆゑに梶太夫がたよりにせんと当所へ召連れ来たれば、当人も猶々忠義をつくし、梶太夫の介抱おこたらず、はや当地にても馴染もできて、西東のヒイキ旦那方より過分にもらひ物もあって、着類もおひ/\こしらへ、今は何ふじいうなき身の上なるが、この日休日なりとて、当人の影見えざりしが、この日昼七ツ時ごろに、となりの家まで戻り、「酒に悪ゑひせしゆゑ、しばらくこの家にねさせくれ度し」と、となりの人をたばかり、二階にね伏せし如くかゞみゐる。このとき梶太夫は弟子もろとも酒もり最中にてさう/\しければ、尾上太夫はこのさわぎにまぎらし、隣の二階より屋根越しに梶太夫の旅宿の二階へ戻りて悪事をなしけるは、梶太夫が心好みにて、当時流行の当百銭はお江戸の花にてめづらしく、浪花にはいまだ見えざる物ゆゑ、土産にせんと吹きたての当百を毎日上り銭のうちにて弐ツ三ツ程づゝため置きたるところ、このごろ金五両ぶり三十貫五百文たまりしかば、釘付けの箱入りにして、二階の押入れつゞらに入れ置きしを、かの尾上太夫その当百の箱に眼かけたづさへ出で、行方知れず立ち去りける。梶太夫はそれとも知らず、夕方になれども尾上太夫の顔も見ず、虫がしらすか何んとなく二階の用心を思ひ出し、弟子をもってp279」改めさせば、はたして当百の箱見えざるゆゑ、家内中とも吟味をするに、この盗人尾上太夫と事極まり、それよりしてめいめい手わけにて行く先をたづね行くうちにも、高松亭主徳蔵あるひは五厘の堀長手人を連れて旅支度、本海道と中仙道わかれ/\に追っかけ行きけれども、泊りがけの事なれば早速に返事もわからず、梶太夫ははやあきらめつけ、大坂にはきゃつが判人もあり、丹波の親元へもこれを知らさんと、書状を送るがやう/\心のたよりなり。
 かくて尾上太夫は盗み取ったる当百を持ちて、木曽街道へと志せしが、追手の者を行きすごさせんが為、熊谷の駅に足を留めしところ、こゝに鶴沢寛治は江戸にて土佐太夫にも別れ出立して、値安き太夫の三味を弾き、この熊谷にて寄席浄るりの席を打つ初日前のところへ尾上太夫が行きあはせ、寛治とも江戸にてなじみなるゆゑ、つもる咄のそのうちに、尾上は「師匠の上方用に付きまはり登るとも、ざんじの隙はいとはざれば、この席の小用手伝はん」と、いとねんごろの咄に、寛治も無人の事なれば、ともかくもと相談極り、寛治もたばかり、尾上太夫こゝに十日ばかり日をおきて、おのが故郷丹波へ帰り、親までたばかり何知らぬ顔にて暮らしける。さても梶太夫はその冬、入りわけありて浪花に帰りて後、寛治に対面してこのわけを知る。それより本人を請人より詮索とげ、三十貫五百文のかはりに金壱両取りて納めける。不便なるかな尾上太夫、大坂へも出られず、生死もさらに知れざりけり。まことに弟子もあまた有るとはいひながら、皆それ/\に故障のあるものなり。
 当時弟子のうちにも、小事あれども罪なき者、このほかに三人あるは、前にいふ梶太夫が当所へ下りし時、我が社中に加へし大坂より下りし三人の素人なり。その時名付けし梶尾、梶代、梶当この三人なり。このうちの梶当といふ名は、梶戸太夫当地へ下りし上は、名に差しつp280」かへになれば、梶当を改名させ当鬼太夫と改める。この三人は今にかはらず梶太夫の席をはたらきて、寄場にても評判よければ、はやそろ/\と身躰をやつす浮気者。高弟梶戸、木屋はなほ洒落て、上美たなりで寄席がよひ、毎日通ふ席の道筋を、眼に立つ姿の梶太夫組五人八人連れだてば、辺りの人の眼にとまり、雁金組の五人男ぢゃと、あだ名を付くと世の風聞に聞えたり。
 
 間口かたり 竹本当鬼太夫
  見立 案平兵衛 一名紀州さん
 口語り 竹本梶代太夫
  見立 極印千右衛門 一名てんぐ
 間中かたり 竹本梶尾太夫
  見立 ほてい市右衛門 一名もほてい
 間中語り 竹本木尾太夫
  見立 雷庄九郎
 本中かたり 竹本梶戸太夫
  見立 雁金文七 一名でぼちん
 
 あだ名を付けるはあまり誉めたる事はいはぬもの、悪口いふがおもだてども、五人男とはうれしけれ。人に知らるゝ身こそ大慶。これにもれたる梶太夫、語助は沙汰p281」もなく、人目うるはしき三味ひきに富造、房治郎、辰治郎、これらは況る色男、あだ名もさぞやありつらん、いまだ世間より噂なく、五人男にさみせられ、道の五人は閉口なり。しかしこれは笑ひ草、見る人のあくび留め、これから先がまじめ事。
 さてこの五人の弟子どもは、もとより高松の浄るり席へ飯料を付けてあづけありしが、五人とも皆々さうおうの給金になる事ゆゑに、日々に増長して、もとより師匠の傍にゐざれば、朝は長寝しておそく寝所より起き出ると、みがき楊枝を遣ひながら泉湯にはひり、それより髪月代をして、朝から呑酒屋へはひり、一ぱいひっかけるが毎日昼までの仕業なり。それはよけれども、常に浄るりの稽古せざるゆゑ、師匠の方すゝめても仕様とせぬ野良者なれば、これより先は改革を立て直して、梶太夫の傍へ五人とも引き寄せてちと窮屈をさせん為、皆の者にいひ聞かせ隠居へ引取り梶太夫の傍に置き、いよ/\これよりは業ていをしつけの為、勝手の間に張りおく書付け左の通り。
 
 一、堪忍第一
 一、朝精進
 一、寝伏迄禁酒
 一、泉湯連人無用
 一、朝稽古
 一、席通ひ別々行
   右の条々相守者也
 
 この如くに改革、弟子中かたく守るといへども、いづれそれ/\にかなはぬ自用もあるものにて、その節は互ひに用役をゆづり合ひて師命を相守るこそ神妙の次第なり。
 
  この役五日目かはり
  梶戸太夫 神前燈明諸事見廻り
  梶尾太夫 かぐ出し入れ井戸水くみ方
  木尾太夫 めしたきかぐのあらひふき
  当鬼太夫 買物方下廻りさうぢ
  梶代太夫 ばんざい方おくさうぢ
 定役
  梶戸太夫
  木尾太夫 
  梶尾太夫
    寄塲行く節火の用心見廻り師匠の駕籠に付そうて行く
 定役
  梶代太夫 
  当鬼太夫
     寄場にて口をかたり次第宿へ帰りて留守を守るp282」
 
 
 梶太夫ある時いつも通り席より戻り、寝臥すは夜未の刻にて、我が身は東にありとも浪花にある夢心地にてわかちなく、フト伜の事のみ思ひ出せしが、せがれ鶴太郎は当年拾壱才なるが、親にあまえて、手遊び物をあれを買へのこれを求めくれよといふは常の如くにて、不動の木像を買へとせがみける。梶太夫は思ひもよらざれば、何をいふやらと思ひながら、「然らばその木像は何所にて求めるぞ」と尋ぬれば「それは何所の何某の家へ行けば、木像のかたちは土をつくねし如くにて、金百疋にて受けらるゝなり」といふに、梶太夫は伜のをしへの方へ歩み行き、金百疋を出して木像を受け求めると思へば眼がさめしが、「ハテさて不思儀の夢を見し事なり」と心にかゝり、その日は用事に付きて行く道筋、島村といふ旦那へ立ち寄り、かの夢の咄をせしところ、この家は成田山不動を信仰なれば、「これ奇妙なり。成田山より出る木像はその夢の通り土をつくねし如くにて、金百疋出せば受けらるるなり。さりながら、成田山へはこれより卅六里あれば、火急の事ゆゑ、まづ/\成田山の不動お守は我れら講中なれば取り寄せあり」とて守をゆづりあたへるは、木像のかはり木札なり。この木札の元来は、成田山御山門普請の時、普請方人足壱人に壱枚づゝ腰にさげさすは、普請出入改め札なり。されば山門棟上げの時、折ふし人夫があやまって棟木より下落せしが、このお札腰にさげたる者は一人も怪我をせぬ事、これまったく不動明王の奇特なりとて、神主はこの時よりこの木札を懐中守にする様ちひさくこしらへて、災難除け守とて今にいたりて成田山より出づるなり。
 梶太夫はこのお守をはからずうけるも、「不動を信心すべし」と夢に悴をもっていはしめすといふ印には、梶太夫親子とも成田の木像は土をつくねし如くやら、金百疋にて出るやら知るべきはずはなし。これひとへに明王の霊夢なれば、御木像はうけずとも、木札は我がお守とこの時より懐中して、ます/\信心ふかく祭りける。
 
 江戸水道水切のはなし
 お江戸はお膝元にて内事も結構なるが、市中呑み水に付きp283」
  (略)
 
第二十四の巻
 
 
 それ古歌に
  豊かさや願ひなき身も神まうで
と。この節、芝の開帳[嘉永1.2.29-]に、貴賎老若わかちなく足をはこばす賑はひに、春の日ながに上天気、梶太夫も休みゐる時なれば、我が弟子どもと五人連れ、歩みゆくは泉岳寺、道は一里半余りにて、やがて芝口にさしかゝれば両側は茶店、料理屋花やかに、野端はつゝじ、げんげ花、山吹の花ざかり、楽しみ見ながら思はずもはや泉岳寺に着きにける。
 寺の辺りの出し店は貴賎の求むる土産物、真ちうにてこしらへし花かんざしは由良之助敵討の兜、二ツ巴の前立ちに紫の糸房、あるひは麦藁張りの小箱は義士の人物、あるひは夜討竹の階子、手やり、寺岡平右衛門所持の槌、そうじて義士によりたる土産物、粟の岩おこしを由良おこしなぞと洒落れた菓子売り、水茶屋の行燈にも力休みなぞと面白く、または絵草紙屋、手拭屋にはみな忠臣蔵によそへし絵図ばかり。ほか商売には目もやらず、やがて開帳場にいたり内陣をして拝するに、格別珍らしき宝物もなし。眼に付くは義士夜討の着込み、塩冶の劔道具、判官公切腹の九寸五分、いかにもいづれも正物なり。
 さても開帳に付き、あつき人あって、江戸中の芸人、義太夫の太夫を頼み、四十七人の木像を建立あるに、梶太夫もたのまれ、先達って金三百疋を出し置きある木像は、義士のうち岡島八十右衛門(行年三十八才)の木像なり。右木像はこれも当土の悪党ばらの山事と見えて、御公儀様よりお差し留めになりしと聞きしが、開帳場には見あたらねば、やはり山事にてありしとかや。
 さてそれより下向には、見世物の掛け小屋五六ケ所興行ありてこれを見物するに、力曲持ち滝川鯉之助とて、浪花の早竹寅吉、または鉄割弥吉に負けまじき芸者にて、一まく見て下向道、この寺は山がゝりの境内にて、東南を見はらす風景に見とれなぐさみ、それよりは高輪掛け造りなる料理屋にて名物あなごにて酒飯をとゝのへ、夜五ツ時に旅宿へ帰りぬる。
 さてまた当年山王祭、さつき月御停止にて、延引して秋祭となりければ、お祭この節におよびけると市中の騒ぐ。新場、小田原も出そろふとあって、浄るり寄場は乱逐さわぎなり。なほも両国回向院において、京都嵯峨御釈迦の開帳はじまりけるが[嘉永1.6.25-]、これは市中にての事ゆゑに格別の騒ぎにて、何もかも一時になり、梶太夫の家業はやくたいこくたい。
 
 
 梶太夫が祖父師匠の内宝おちゑ後家の死去を聞き、大坂にては師匠染太夫の心配、野送りは梶太夫が悴鶴太郎葬式にたちしとあり。当地には梶太夫が恩人の内宝おもとといふ人死去する。梶太夫はその仏に借金もあり、上々葬式をせねばならぬ程の事なり。
 岡太夫門人百合太夫は、梶太夫が手人同然にて、内弟子もろともゐたるに死去して、これもほかならぬ世話して遣はす。靱太夫、長の病気の上これも死去、香料を持たせ梶戸太夫遣はす。
 [近3下p22嘉永1.10の項]さても憂ひの重なりて、江戸中の寄場御差留めある噂すれば、梶太夫は一向心ならずと思ふうち、またある時、ところp288」の名主衆浄瑠璃寄場の事に付き御公儀へ呼ばれし事あつて、何事の御用ともわからず、帰り道に鍛冶ばし御門へ戻りし道、末広といふ寄場に長尾太夫出勤せしが、右名主一人かけ抜けて末広へいひけるに、「先に当所浄瑠璃は悪しかるべし」と聞くより、末広は後日のとがめをおそろしければ、直ぐさま行燈看板取り入れける。この噂かの寄席中へはやくも聞え、皆々行燈を引きて、明くる日よりは江戸中に浄瑠璃の寄席は一軒もあらじ。しかし講釈または噺家、写絵は鳴物をやめて、興行は大いにはびこりける。
 何ゆゑに浄瑠璃は左程に厳しくと聞き合はせ見るに、操り芝居人形方のさし込みのよしにて、詮方なくも日を送るうちに、聞き合はせみるにいよ/\浄瑠璃はしばらく休みと定まりける。これによって、太夫仲間も火急に田舎へ出る者数多ありて、梶太夫も足利の噺ありしが、仲間中皆々同心にて同一所へ赴きて入込みし太夫あって、その地にて寄席浄瑠璃をせしが、お答めを受け、人形遣ひ何某はしばられて江戸へ追払と聞く。それゆゑ梶太夫田舎行きもならず、今は是非とも帰国せねばならぬやう相成りける。この噂を知合ひの衆が聞きつたへ、見舞に来る人は皆々小声にて愁嘆の噺、たゞ/\歎くとばかりなれば、梶太夫が旅宿は死家と同じ事のやうにて、さも陰気なる次第なり。
 
 
 さて梶太夫は当地寄場浄瑠璃とまりければ、不思して火急に帰国となるに付き、大勢の弟子どもを召連れて帰る事にもあらず、皆それ/\に馴染みし家もあり、これにたよればその日すぎに困りもせず、そのうちには寄場とてもどちらへなりともはかる事ゆゑに、皆々当地に残りゐる談合に極まり、なかに梶代太夫たゞ一人を召連れる。支度調ひ荷物は飛脚と大廻しへ渡し、知縁はもとより旅宿の主へも暇乞ひ相済み、日柄を選みさらば立たんとするところに、この家の娘のお増、駈け出でて袂にすがり、「マア/\待って下さんせ。いかに約束なればとて、あんまり情ない胴欲な。譬へ嘘にもコレお増、無事に暮らせと空言は、いうても罰も当るまい。そもやお前と馴れ染めは、花の吾妻の夕涼み、結ぶの神の齢亭、アノ小座敷での事忘れてか、嬉しいはたらちめの、なさぬなかのお慈悲しん、打ちあけての恋結び、わしゃ悦んでゐたものを、お前はそれ程つれない」と、かっぱと伏して泣きゐたる。p289」心根不憫と梶太夫、ともにしほれてゐたりしが、様子を聞いて母おみさ、「ヤレその歎き必ず無用」と押し隔て、座に直り、「コレお増、それはどうしたもの、いま別るゝも約束ではないかいなう。もとはといへば去年の冬、そなたの旦那清次郎様、アノ梶殿をば呼び下して、寄場の普請や妾宅の造作諸式におふくの重ね、お店の帳面筆先の、黒まり兼ねておいとしや、押し込めの身となり、あげくには帰参は不叶、つれなう金もなし、故郷とやらへ退かれ、跡はそのまゝ音信不通、気の毒とは思へども、力に及ばぬ事は、縁の切れ目の離れもの、こちらから好んだ事ではなし、いやがる娘を押し付けて、親が頼んで無理やりに、長の年月勤めてくれた孝行娘と、いたいけにあまやかし、あだに暮すそのうちに、いかなる事にや娘の恋慕、恋にやつるゝいぢらしさに、問ひ落すれば梶殿にと、聞いてと胸の突き詰めし、娘の辛苦を助けたさ、ひそかに忍びで梶殿に、この事一向頼めども、お国に立たずとことに亦、いつ別るゝ事ある時は、薄情者と思はれては、我が身も立たず、お二方へはなほすまぬと、かたい程なほ母も惚れ、ハテモ別るゝ事のあればそれ迄と、娘にとくと呑み込ませ、いさぎよう別れるなり。世上の人とはこと違ひ、いやらしい金のねだり事、かつもって致すまじ、江戸の女と母迄も笑はれてくれなよと、いひ聞かせし事忘れたか、母は覚悟を極めてゐる。心をたしなみ潔う、今迄よりはなほ深く、介抱申して立たしましゃ、これはわづかの恥かし品なれども、紫繻子の子達の帯、御子息様へお土産物、御内宝殿へはこれ迄は、母が赦して娘にいたづらさせし、にっくいやつと嘸や嘸、お恨みの理ながら、たゞ旅路の事と思召されて給はれと、くれ/\も伝へて給べかし」といひつゝ涙娘も涙、忍び涙にまた思はずもわっとばかりに泣く涙、歎きと涙は関東の、玉川水の水道切れ、水涌き出づる如くなり。
 勝手の方には見立ての人々、弟子どもまで聞き耳立て、しばししほれてゐたりしが、かくては果てじと梶戸太夫、襖押し開け何気なう、双方なだめ出立をいさめすゝめて追立てける。梶太夫は詞なく、母御の気性娘の思はく、気の毒とも不憫とも、いふにいはれぬなみゐるうち、いはぬはいふにいやまさり、涙にいはせて詞なく、大勢に押し立てられ、是非泣く/\も出で立つ姿、見帰りもせぬ心根を、母も娘も見送る思ひ、これぞこの世の憂き別れ、しばしの契りと知られたり。
 
 竹本梶太夫婦坂道中の噺
(下略)