こゝに竹本梶太夫は紀伊国より帰宅して身は庵にあれば、伜鶴太郎幼年七才にて、父梶太夫の帰国を幼な心にあいたてなくうれしがりける。梶太夫も帰国より当時家業も休みゐる事なれば、夫婦連れにて悴の手を引き、市中神仏参詣がてらの物見遊行は凡そ日数一ケ月を暮らせしが、ある時、江戸表より梶太夫を召し抱へ度さとあって、梶太夫の師匠染太夫の方へ、この頃江戸さつま座の帳元鬼市といふ者当地へ登りける。されば竹本染太夫は弟子梶太夫をまねき、江戸鬼市より頼みのしだい申さるゝは、「この鬼市といふは我よくぞんじたる者にて、いたって正直者なれば、相談してあしからず。何卒この度は東都へおもむかせたし」と師匠のすゝめもだしがたなく、且つは人間七ころびの数の内、梶太夫が身の出世の時いたれりと直ぐさま梶太夫は我が宅に帰り、女房とも談合におよび、じゅくだんして江戸鬼市に対面とげ、江戸行き相談きまり、給金は来たる正月より五ケ月分高の内、三ツ割一分当時請け取り、後金二分は江戸着品川宿の取引きと極まり、いよ/\東都行き出立と相成る。
然るところ、このたびの江戸行き梶太夫一人にあらず。竹本錦木太夫、並びに茂太夫等も抱へとなり、同道の事なれば出立混雑して延引におよび、極月十六日立ちとなり、梶太夫は長の旅行を祝し、親類弟子中をまねき盃の取りむすびおこたらず。僕には弟子梶戸太夫を召し連れいよ/\当日におよびければ、知縁の諸人もろとも三十石船乗り場まで見立てらp178」れ、我が宅を後にして嶋の内なる師匠染太夫へ立ち寄り、師の盃を頂き暇乞ひして、それより道頓堀はたごや金物屋へ行けば、江戸鬼市とあいさつをはり、それより双方一組となりて河六船三十石に乗りうつれば、その日もやがて夜五ツ時にて、梶太夫は見送りの人々に名残りおしくも暇乞ひやら我が家内の事くれ/\頼み別れければ、船は程なくこぎ出し、しだい/\に登り、淀川筋浪花の地を後になし、かすかに見えし名城さへ頼りなくも見えわかたず。頃は乙月冬空に、夜寒はげしく身にしみわたり、船中みな/\寝臥して息鼾の声陰気にとぢたるさびしさに、いまに寝もせぬ梶太夫が繰り言は、終日かたらふ夫婦愛、長の旅路のうき別れ、悲しまぬ者のあるべきや。ましてや幼なき稚子を置きて出でたる事のはかなさと、にぶき生根に思はずも我が越し方のみを気にかけしが、やう/\取り直したるその故は、日頃師匠の名言に、「妻子かならず愛すべからず。他におもむけば武士の戦場、国家を捨てざれば勝利得る事あたはず」とかねての教訓、いま梶太夫が心魂に徹したり。さても/\愚のいたり、我れ家を出づるとき妻はいま廿五才なれども、心勇ましく子を育てながら夫の留守を守る事の甲斐々々しさ、我れは思はず暫時の憂ひ。さて/\未練未熟なり。大恩師の名言思ひ出して夜の明けし空もあきらか、月しろははや明け烏の東雲に、乗ったる船は城州なる伏見の揚り場にこそ着きにける。
(略)p179」p180」
かくて目出度く両お関所相済めば、早飛脚をもって古里浪花へ急状をさし出せば心も落着き、江戸へも近づく。明くれば師走廿八日とて、心いさみて夜も寝られず。夜中ふと心つきてみれば大雨車軸の如くなれば、なか/\門辺へ出でる事もあたはざれども、あすはいづれ江戸着日なれば大雨見かけ急ぎの旅路、またもや駕籠に打ち乗りて、この日はやう/\p181」八里道、藤沢のたばこやに泊りける。
明くれば乙月廿八日、江戸入り日、天気も直り雪解けなく、藤沢をたって行く先は川崎の街に着き、見ればこの辺ははや江戸前にて、町並みの自身番火の元廻りの鉄棒、提燈、火消し道具の備へ方、いづれ江戸流にて眼ざましく、ふと片側を見れば花持な二階づくり、江戸流蘇芳染の提燈ずらりと釣りならべたる料理屋は客引き仲居が花やかに、相州屋と書附けたり。しかるところこの料理屋に人大勢寄り集まりゐるをよく見れば、江戸操り芝居大薩摩座表方の衆にて、この下り太夫を当所まで出迎ひなりとて待ち合はせゐたりける。かくて梶太夫はじめ同行の者大いに力を得て、双方近づきのため酒くみかはし、あいさつ終れば三人の太夫やがて迎ひの駕籠に移りかはり、川崎を立って程もなく品川宿に着きにける。
曰く、梶太夫は十二ケ年以前に実太夫時代、師匠に付添ひ当所に下り、この品川宿なる女郎屋商売若まつ吉兵衛に厚き世話に相成り、且つ当宿中にてヒイキになりし事、これみな若松の引法なり。則ちくはしき事はこの巻前六の巻、天保二卯八月に見えたり。
実太夫は梶太夫と出世して、この度この品川宿に来たりしかば、駕籠より出て一統をば待たせおき、かの若まつへ案内を乞うて家に入りしところ、当宿度々の類焼にて家作はかはれども、かはらぬは当家の主内宝、店中まで走り出で実太夫が梶太夫と改名して対面におよぶ事、当家主の悦び大かたならず、我が子が二度こゝに帰りし如くもて扱ひ、芝居方の大勢にまで菓子、酒よと馳走を出されしは、梶太夫が身の大慶はこの上もなし。
やがて日も西にかたむけば、名残りをしくも暇乞ひして家を立ち出で、辺り近づきの知縁へもちょっと顔出し済み、それより迎ひの人数列をそろへて江戸の方へいそぎ行く。程なく花の市中におもむきて、東西に立ちよる知縁も大勢連れなれば混雑して、そこ/\に目見えをなし、落着くかたは付添人の案内にて浅草寺の辺りなり。戎長屋とやらいふ仮宅は下り太夫の居所とて、三人の太夫、梶太夫、茂太夫、錦木太夫、皆々一所に落着けば、芝居方おひ/\に入り来たりて目見えをとげて盃事、夜の八ツまで酒盛りの後はおのれ/\に出で帰る。三人の太夫も打ち寛ぎ、こゝと定まる仮住居、寡同士の合ひくらし、世に気さんじとはこの事なり。
花のお江戸の繁昌は、昔も今もかはらねど、変りし事は近頃の御改革にて、どこまでも諸事の倹約きびしくば、たゞ何となきさびしさに浮き立つ気はさらに見えざりける。就中、十二ケ年以前、梶太夫は実太夫にて師匠染太夫に付添ひ当地に住居せしその頃は大繁昌時節、江戸中に浄るり寄場数軒ありて、男太夫女太夫出席して、どこもかも大入客留めとおびたゞしく賑はひしが、近頃はかの御改革により、浄るり寄場は男女とも御差し留め、殊さらに歌舞妓芝居、操り芝居もさかひ町、二丁町に永々あり来たりしところ、御改革ゆゑ江戸の田舎といふ吉原道のかたはら人の行き通ひも稀なる荒田圃なる地面を築き直し、新らたに家作芝居小屋を出来、猿若町と町名号け、歌舞妓芝居は一丁目、二丁目、三丁目と三ケ所、その向う側二ケ所が大薩摩座、肥前座の操りなり。普請でき上りしよりさかひ町の芝居茶屋中ともに引越し、とくに興行仕始めしが、操り芝居は後廻りに普請成就して、このたびが初興行に梶太夫召抱へられ下りし芝居なり。
されば極月廿八日着より二夜あくれば天保十四卯年正月元日となり、儀式の雑煮、にしめは芝居方より送り来たりて、目出度く身の祝ひして越年をぞなしにける。
かくて薩摩座新芝居の事なれば、なにかと諸事とゝのひかねしと見え、初日延引するうち折ふし日数七日の御停止ありてしばらく休日の内、昔なじみの知縁へ土産物もち行くに、毎日歩むその先々は繁華なれば日じつかゝり暮すそのうち、停止もあきて芝居はじまるよし、いよ/\当日におよび下り太夫乗込みとなる。
さてこの乗込みといふは歌舞妓しばゐには古例のある事にて、浄るり操りにもこの当地は下り芸者は乗込みをするとあり。尤とも乗込みといへども本人はかごに不乗、から駕籠にて乗込みをするなり。その故といふは、数のひと群集すれば行列くづれ人騒ぎたつ、そのあひだに見物の駕籠の戸をあけて内をのぞき見たがりけるゆゑ、その時は駕籠を眼のうへへ差上げて、戸をあけさせずして騒ぎのまぎれに駕籠を芝居へ持込めども、いつの時でも駕籠は砕けて散乱なり。かゝるが故に、このたびも駕籠を三挺、浅草寺雷門前待合にて人数をあつめ、いよ/\同勢そろふとはやおびたゞしき見物となる。そも/\当地の芝居はさかひ町にありて、近頃このさるわか町へ引越しとなりて、にはかに繁地となりし上、芝居乗込みといふ事はこの度がはじめなれば、この見事を見んとて人の山をなしにける。
されば乗込みの時うつると、乗込みに付添ひの諸人は芝居p183」表方中、茶屋中。台提燈、箱提燈、弓張提燈およそ百張ばかり、これにおうじる付添ひなれば、賑はしき事これに不過、大混雑にまぎれ難なく駕籠を芝居へもちこみ舞台の上へすゑ直せば、太夫はもとより芝居の裏より這入りゐて、かのかごより出たる体をして舞台へ押し直る。いづれ皆々浅裃、梶太夫の付添ひは古参政子事竹本中太夫、天喜茂太夫は当地だけ豊竹麓太夫と呼ぶ。付添ひは古参鶴沢市太郎、錦木太夫の付添ひには房事竹本伊勢太夫、そのほか座ならび惣一統操り頭兵吉の兄吉田千四、吉田冠二、西川伊三郎、当人弁者、長口上さわやかにのぶる。後文句に、
「何とぞ麓より峠へ登り、御ヒイキの梶をえて、古里へ帰る錦の袖までも、すみからすみ迄づらりと御ヒイキの程をひとへに願ひあげ奉ります」
かくの口上大当りして、やがて見物へ目見え浄るり『太功記十』麓太夫勤めをはり、後は楽屋にて梶太夫『二代鑑』のけいこはおこたりなく、あすより初日、打ち続きて興行。則ち外題左の番附通り。
番付省略(近3上:471)p186」
されば芝居興行なり行き、大いに入り組みし訳合ひ有れどおくへ廻し、当時の次第より書き綴るに、まづこの外題はかくべつ久しくもうたざるにやがてげだい替りとなるにつき、段々の訳あれば、奥の文にてわかるべし。
時に後げだいは『彦山』にて、これも初日出たるがずゐぶんひゃうばんよけれども、右にいふ入り組みし事につけても、やう/\廿日ばかりの興行にて、またもや外題がはりとなりて、芝居道具こしらへ万端につきしばらく休日となるは、梶太夫はじめ一座の者いづれ替り後げだいのけいこに取りかゝりける。
さて後文句にてもわかるといふしだいは、この猿若町は後年におよびては繁昌の程はしらねども、当時のところ、何が人も通はぬ隅田舎の新地にて人寄りあしく、御改革まへ迄は江戸のまんなかなるさかひ町に芝居があればこそ、東西南北より寄りこぞりて見物が来たれども、芝居猿若町へひけてより見物をしやうと思ふ人、西辺芝、金杉、品川の人々は、二夜泊りでなくば猿若町へはいかれぬ遠方となれば、しぜんと見物はとぼしく、ほんの近廻りだけの見物ゆゑ芝居不入りも殊さら、ましてこの度のしばゐは大金の出たる事なれば、金方が不入りをくやむももっともしごくにて、外題を替へなば見物が来もやせんとの思ひ入れにての外題がへなり。
その上に芝居方に悪人ありて、梶太夫が身の難儀といふは、そも/\梶太夫が当地へ下りしは当芝居の帳元鬼市掛合ひにてやくそく、給金の三ツ割一分を大坂にて請け取り、後金は江戸着しだい品川取引きの約定なり。則ち大坂にて師匠染太夫の請け合ひなれば、いさゝかの小金にて当地へ下りしかば、きっと請け取るべき約束のところ、後金おひ/\に延引におよびしゆゑ、当地へ下りてより度々さいそくすれども今に埒あかず。
こゝに梶太夫が難儀といふは、懐払底芸者の身分、手取り三ツ割一分の金なればいまに大坂宅へ登し金をせず、大坂宅には登り金いまやおそしと待ちかねて、たび/\催促状を送りけれども、梶太夫も仕様なく金を登さねば、大坂女房はいまはたへかね、妻子とも通し駕籠にてこの東都へ罷り越すとある急状梶太夫がもとへ到来する。然るに梶太夫当所にゐて後金催促たび/\にくたびれはてて、いよ/\不渡りとあれば当所を逃げ帰らうとて心得あれども、万が一いまにも金子渡らば逃げ帰るにもおよばず、されども大坂にて家内の者、金子を待ちかね宅を立ち出でしもはかられず、金も手渡しせしうへ、ひとまづ家内も当所へ下りて知らぬ吾妻を見るもいp187」っきゃう、しかし妻子が大坂の宅を立ち出づるとも、火急に出でたる事もあるまじ。我もまた逃げ帰るより、金を取り入れる調義がかんえうと思ひ直して日々に催促をぞなしにけるが、帳元鬼市もいまは梶太夫に合はす顔なしと、あるとき芝居において金方の手代忠治といふ者と木戸役どもとの大喧嘩をはじめ、打ち叩きの大騒動となる。その委細は、金方より鬼市へ渡し金は百八十両、鬼市当地へ帰国して三百両以上四百八十両の出金なるに、今もって下りの太夫よりは日々の金さいそく、芝居大工道具、廻りの金まで不渡りありて毎日暮れあけ、度々にいきづまりしかば金方大いに立腹して、手代忠治こらへかねての人けんくゎなり。
さても/\いたはしきは素人の金方ゆゑ、芝居がゝりの悪党ばらに金銀を出し馬鹿の如くにしられし事、げに世のなかに悪者もあるがうちに、芝居がゝり程の悪党もあるまじ。金方をたすけ、芝居が長久すればその身/\も幾久し、みなみな家業になるべきに、たま/\金方ありて芝居が始まると盗みばかりに心をかけ、金方をそこのふゆゑ芝居つゞかず、その身も年中休み/\くるしがりて日を送る事の阿呆らしさ、金方の不仕合はせ、梶太夫が身のさいなんにて、金催促おこたりなきうち、仲人とて梶太夫がもとへ入り来たるは芝居茶屋亀彦、並びに大豊、並びに福山のばば、並びに鳶頭の翁そば、いつれみな芝居がゝりの者なり。ちょっと見るから、いか様にも気味の悪い人物の仲人にて金日延べを頼まれ、またぞろ一両日をまって楽屋入りをすれども、これもまたもや約束ちがひ、いよ/\暇を取る約定のところ、また出勤して日を待ちてまた間違ひとなれば、仲人四人の顔もなければ、日を置きて顔をかへ、芝居座元ならびに仕切場の者三人連れ、酒肴持参して日のべを頼みけれども梶太夫承引せず、酒肴を突き返し断りをのべ、さきにはひりし四人の仲人を呼び出せば、またぞろ入り来たりてまた日のべとなる。これいよ/\手切れの約束にて日をまち、これも間違ひとなればいよ/\約束通り手切れの咄をすれば、四人の仲人、鬼市と同じ穴の悪党にて、梶太夫へ悪言には、「仲人は氏神とたとへしものを知らないか、仲人に這入るもおめエがたの為サ、この芝居に金方より出たる大金、かはいさうに鬼市の取り込みとばかりになったれば、事と品によれば御公儀事になる時は、お前方もいづれ掛かり合ひだから芝居は不出来、いつまでも当地に引き留められ、そのあげくには無給金で出勤をせねばならぬ辞宜あれば、仲人の引きとらぬうちにゑいかげんにいぢばったがよからう。よく思案をするがいい。何いらざる仲人にp188」ヘエりて、はき物はちびれる、着物の裾はきれる、上方才六の為にトンダ骨折り、もはやこれ切りに何事も頼まず、上方へけいられるならけえって見な」と悪口たら/\、あたり眼に帰りける。
後に梶太夫はいよ/\憤どほりしが、仲人の方より、「何事もこの上は頼まぬ」とて別れたればこれ幸ひの別れとはいへども、今は二月廿日にて、去年の暮より鬼市になやまされ、仲人には悪言をうけ、上方家内には渇命させ、我が身は江戸といへども浅草の隅、田舎に押し込められ、久しく一度笑ふた事もなう腹立て通し、なんとこゝにゐらるゝべし。いまさらいさゝかの小金渡りて、そのかね上方へ登し、妻子をこゝに呼びむかへたりとも、またひとつのうれひといふは、当時御改革にて当地に浄るりの寄場なければ、浄るり太夫のため何の用にたらず。なほ行く五月には珍らしき日光御社参とあれば、ぜひ/\御停止来たりて市中門並み薪はたかれず、炭火にてその日の煮焼きをするくらゐのきびしき御触れなれば、鳴物を用ひる芸者、太夫はこの当地に長逗留は無益、一時も早ばや帰国のほかなしと一心を定めける。
さて芝居出勤の約束は百五十日を何程と極め、いま二月廿日なれば日数五十日相済む。これ日数は三ツ割一分なり。金子は惣高のうち三ッ割一分手取りあればこれにて出入り勘定なし、いま立ち帰るとも先方よりいひ分はあるまじきなれども、芝居方なか/\すなほに別かるゝ悪党ばらにあらねば、これより立ち帰るともひそかに逃げのくがかんえうならんと心得、則ちこのとき外題替り休みなれば、戎長屋の仮宅にて我が所持の荷物、人をやとひて、ひそかに梶戸太夫召連れ立ちのきける。
然るところ梶太夫が知縁といへば、当所本町石町辺におほくあれば、それ/\に暇乞ひに歩み行きて、その日暫くは本町の新道、師匠の門人竹本程太夫に対面し、「我等如此にて立ち別れ帰るべし。なにとぞ我れ出立いたしなば、一日おくれてこの書面芝居掛かりの者へ渡してたべと鬼市、冠二、並びに四人の仲人への書面を手渡し、それより程太夫の二階にて夜通し荷物をしたゝめ、この荷物はヒイキの旦那先をたのみ飛脚にて出し下さる約束に頼み、梶太夫梶戸太夫は手がるき持ち荷かばりにして身がるにこしらへ、二月廿八日早天に江戸表を立ちにける。
されば江戸の悪党どもにあくまで馬鹿になりし程の梶太夫の弱者なれども、この如く心定めしところは魂すわり、たとへ後より追手かゝらばかゝれ、この身に金談の出入りはなし、何はゞからず広道を上方さして歩みけるに、名にしおふ花のお江戸におもむきながら、またいつしかこの繁昌を見る事やら心残りもあるべきに、悪党どもが為に浮き難儀をうけたれば、国恩さへも思はずして、後を見返る心もなき、勿体なきとこそ弁まへはわきまへても、賎しき凡夫のはかなくも、やがて品川宿にこそ着きにける。
そもこの宿の若まつ吉兵衛は梶太夫が恩人にて、去冬の下りに立ち寄りて、それより我が身のなり行きにて帰国のわけをも咄したく、やう/\辿りて主吉兵衛にも対面とげ、委細の咄落ちもなく、詳らかにいひければ、主も家内も恟くりしながらも残念にも思はるれど、是非もなき次第とかんじいり、なほ旅用意に心を付け、お関所の切手まで添へられ、厚き見立てをなしにける。
梶太夫は大いに力を得て、名残りは不尽ねど一時も遅れては追手の来たらんもはかられぬ身の上なれば、暇乞ひもそこそこにして品川を立ち出づる。折よく天気もよく、心も不残ず、勇む足は馬よりはやく、後よりの追手はおそれねども、たゞ気にかゝるは浪花家内の者。さきだって書面もって知らせあれば、もしや上方を出立して道中迄も駈け出して、東海道を一筋にでも来たりなば我が身と出で合ふ事もあるべきが、もしもや木曽街道へ出でなば、我れとは道違ひて家内の者は江戸着せば、梶太夫当地にありと思ひ、梶太夫がいままで仮宅せし戎長屋へ尋ね行くは必定たり。もとより梶太夫は跡白浪に逃げ帰ったれば、その妻子と江戸の悪党が聞かば直ぐさま人質となる。それのみならず、我が身は浪花の宅へ帰り見れば、我が住む家は空き家となりあれば、またもやその足にて江戸へ引っかへし、妻子の擒を助けんとあの地に行けば我が身もともに飛んで火に入る夏の虫、ともに悪党どもの手に渡り、いやながらにも芝居に使はるゝか、但し御公辺となる事のうゐさの案じられ、何とぞ神仏のお助けにて家内の者が浪花の宅を立ち出でぬうちに我が身が大坂へ着せずんばなるまじと、心矢猛に急ぎ足。あしは道中、気は浪花。(以下略)
第二十二の巻
竹本梶太夫東に下る事、この度にて三度目なるが、我が師匠染太夫江戸住居久しく致され、三都一の太夫と呼ばれし人の弟子梶太夫なるがゆゑ、師の蔭の光をうけて梶太夫評判よく、江戸着の上は芝居へ出勤にあらず、座敷、寄席ばかりの出勤約束にてまかり下るなり。則ち世話人は江戸喜三郎といふものにて、やがて約束日におよびて梶太夫を迎ひに来たれば、いよ/\東下りと定まりければ、梶太夫が馴染みの輩は名残りを惜しむ。
なかにも新町廓にはなほさらとて、しばしの名残りに浄るり一段聞きたしとあれば、梶太夫の連中竜光といふ人大いに世話をして、新町東口高尾の茶屋泉清において、名残り座敷の催し相調ひ、三味線は豊沢団平にて、『吃又平』を語りけり。浄るり終りし後、盃ざへ大はづみ、茶亭はもとより芸子、女郎、たいこ持まで名残りを惜しまれ、今は目出度く打ち仕舞ひ、十月廿日はいよ/\出立日にて、八軒家今井船に打ち乗るに、連中、親類、弟子共まで船場まで見立てける。
さてまた梶太夫が江戸にての三味線弾きは鶴沢寛治に極りしが、当人自用に付き、旅立ちは別々に別れける。僕に連れる弟子は尾上太夫、並びに喜三郎同道すれば三人連れなるが、こゝにさる方より頼まれ、江戸へ帰り度しといふ人、兼吉といふ者を同道に頼まれ、四人連れと相成りて、皆々打ち連れ久太郎町の宅を跡にみて出で行きける。
しかしこの船は昼船なれば、夜四ツ時に伏見へ到着し、小道具屋に泊り、明くれば草津藤屋泊り、それより坂の下京屋泊り、桑名銭屋泊り、当所より七里の渡し、その日夕方宮の宿紀伊国屋泊り、それより赤坂田葉粉屋泊り。こゝにて少し咄あり。浪花にて召連れに頼まれたる兼吉といふは廿才ばかりのものにて、江戸ッ子なれば如才なく、梶太夫の弟子の如く、介抱朝夕おこたりなければ、梶太夫も我が手人と思ひ、道中のまかなひを本人に少しもさせねば、兼p259」吉はいよく梶太夫を尊敬して、「師匠々々」といへば、梶太夫も兼吉を「兼吉々々」と呼びにけり。
さてこゝにをかしきは、この田葉粉屋に、所見なれぬ美しき女ありて、梶太夫組この宿屋へ入るやいなや、この女を見ていよ/\礼身をして隅目を付け、座敷に通り、その女を呼びて取り付くしほに別肴を銚へ、女に酒の酌をさせけるが、喜三郎はもとより道中師の事なれば、当家に幾度も泊りてこの女とも馴染みなれば、今宵はこの女をしめる心ざしあり。また梶太夫はじめ弐人の者も、銘々思惑ありて気をあせりゐたりける。梶太夫はなほさらの思ひなれば、同行がじゃまになれば、二人の弟子をとほざけんが為、二人の者に「今宵は女郎買ひを致せ」といひて、壱人前に金弐朱づゝ遣はせば、弐人のものどもは、「有難し」と金をいたゞき、何の気も付かずして梶太夫の傍を離れず、酒落たふりにて二人とも彼の女をくどきゐる。梶太夫は弐人の者がわきへもゆかねば、とんと思ふやうにいかず、そのまゝ横になりて寝たふりをすれば、何思ひけん、かの女はツヽと立ちて裏へ行くを、考へ見れば風呂へ入りに行きたる様子なり。弐人の者もやがて立って行く故になほも考へみれば、女はいよ/\風呂へ入りて、大いに長入りして風呂場より出ず。さて二人の者は、女が風呂より出づるを待って、風呂場の戸口に立ってゐるやうすなり。始終の様子を梶太夫が委しく知れども、さながらに二人の者が風呂の戸口にゐるを、我れもその場へ行かれねば、小便に事を寄せ、廊下づたひに風呂場のそばまで立ち行きける。喜三郎も、いはねど同じ心と見えて、さいぜんよりこゝに来て、雪隠にはひりてかんがへしが、かの女の風呂余りの長入りにて待つ久しく、せついんより出ると四人一度に顔見合せしが、銘々見て見ぬふりにて、あとを見かへりもせず別々に我が居間々々へ入りけるが、なんぼう冬の夜長ぢゃとて、昼の道にくたびれてゐながらに、つまらぬ事に夜をふかす浮気者。さてしもかの女はそれより先に風呂より出で、間夫か客人か知らねども、とくに連れ立ち出会ひの様子。四人者はあほうのかたち。されども二人の弟子は出かしたり、師匠に弐朱づゝをもらうて女郎買。喜三郎は体ばかり大きくても知恵なさに、心当てちがひ。つまらぬ者は梶太夫、二人弟子に弐朱づゝ遣はしながら、何の役に立たざれば、ゑらひあほうなりとやう/\に心付き、今はあきらめ寝間に入りまくら、やう/\臥して明くる日は、浜松帯屋泊り。
翌日は一里の渡し、荒井のお関所、日坂に泊る。この夜大雨風にて、街道の並木松、かたはしから倒れる程の事なれば、p260」行き先の大井川々留めと聞きしより、日坂宿を立つも、ゆるやかに四方を見ながら登山をするに、この峠より富士山を一目に見る。傍に子育ての観音、夜泣き石、敵討の由来、いづれも名所々々見物して、はやくも金谷宿の松屋に泊りしところ、なにが大井川の川留めにて客人おびたゞしく、座敷々々はふさがりあれば仕様なく、梶太夫は納戸の八畳の間をかりて、こゝに落ち付きけるに、時刻はまだ早ければ酒肴を取り寄せ、うさをはらすその内に、くたびれし身はおのづから、はやそろ/\眠気さし、酒肴はそのまゝ傍に直し置くも、夜中の眼覚めに呑みなほさんと、横にころりと臥入れば、座敷座敷もしづまりて、家内も休めば夜中の鐘、ポンとひゞきし折からに、梶太夫が寝間は納戸の八畳、襖一重は当家主の居間とみえ、亭主と内儀の声ひそやか。
梶太夫はたゞ一人、何やな夜覚めしてねもやらず、隣の夫婦が咄す声が耳に入り、寝間の内にてさっしみるに、主は四十才位にして健やかなる江戸ッ子、内儀は廿八九才、江戸丸髷にあらひ髪のしっかり者と覚えたり。その様子をうかゞふに、亭主は今宵の客用を仕舞ひて、帳合そろばんパチ/\、内儀はしまひ風呂にはひりて、化粧もすみ、下女にいひ付け寝間をとらせ、箱火鉢に鍋をかけて、何やらうまい香プンプン、
内「旦那エ、おかんが丁度ようございます」
主「いゝかね。サア/\おらもしまった。ハヽアンこいつアいゝね、ねぎをまっといれていゝ」
内「さうかね、それぢゃア板場ヘチョイといってとって参りましょ」
主「モウいゝぢゃねいか、手前もくたびれていらア、マアしづかにしねな、コレサどうもうめエぜ、手前ちのこしらへたもなアなんでもうめエ、これを喰はずばあるべからずといったぢゃ、ゆうべお侍なぞア、精分だといってひどく喰ふとサ」
内「これでございますかね、宿の棒端に行燈をかけて売っていますのは」
主「さうさ、だいいちあったまる事がまことに奇妙サ。これを喰ってあったまってそれから/\」
内「アヽいたいヨ、早くお仕舞ひなよ」
主「早くしまって、手前どうする気だ」
内「ナニいはずとも知れたもんだはナ」
主「アヽいたいね」
亭主はなまゑひにて、ふら/\と小楊枝をつかうている。p261」内儀が男の帯をとく様子。男は帯をとかれてねるやうす。内儀はその間に手水場へ行きて、また戻る。
内「たいそう手間がとれたね」
主「おしゃれでないよ」
と何かと咄の声、一時ばかりポシャ/\/\/\。小声なればわからねども、お内儀の泣き声きこえぬやうになったり、また大きくきこえたり、梶太夫はたゞひとり、何分にも襖越しとはいひながら、あまり心よからず。わすれた宵の酒肴、これを呑まぬといふ事はあるべからず。炭火もあらねば冷燗にてひとりぐび/\呑んではゐながら、ツイ隣の声が気にかかり、また耳をすまして聞くところ、男女ともに大息せはしく、とう/\無言となりければ、梶太夫は大あくび、「モウたいがいなら夜が明けてもよかりさうなものぢゃ」
駿河のは絵にも誘の艶はしく
船は帆かけて露に湿れつる
かくて梶太夫は金谷宿を立ちて、ゑじり大竹屋泊り。明くれば三島さがみや泊り。昔よりいふ、旅は道連れ世は情とやら、ながの道中四人連れ、冬の気のさむ空に、朝の暗がり提燈にあかりを付けて宿を立っても、日短かにて心せき、大みちをすれば足痛み、付添ふ者はなほさらなれば、憂さをはらしのはやり歌、鼻歌うたふも色ばかり。
この頃のはやり歌は、江戸よりはやり始めて、今三都おしなべてうたふ根元は、江戸の市中に惣豆をあきなふ者のいひ草に、
チョット/\/\チョト聞きな、帰命頂礼案楽さん、四文のお豆をチョトかっぷりナ、買うて重宝アヽうま
このはやりごと最中、このごろ江戸瀬戸物町嶋屋といふ飛脚屋の番頭さんが、店のでっちのお尻をせしが、そのでっちが腹に子をはらみしとあって、江戸中大ひゃうばんをなしけるが、こゝにてかの右にいふ豆売りがこの嶋屋の事をかへ歌にいひけるは、
チョット/\/\チョト聞きナ、帰命頂礼あなかしこ、嶋屋の番頭さんがチョトかっぷりナ、菊座重宝アヽよいナ
このかへ歌、東はもとより京大坂にても大いにはやり、今道中にてゑらうたひ。馬方、船頭、雲助も昔とちがひ、今の世はたゞ色咄のみ銘々しゃれる。
楽しみは色と喰ふ事、道中にもまづ始まりは大津宿のはしり餅から乳母が餅、焼蛤に栗の彩餅、うなぎのかばやき荒井p262」の名物、茶所は日坂、蕨餅、しぐれの貝や雨の餅、わしゃおじゃれに手を引かれ、宿入り泊りがたのしみと、けふは三島が泊りにて、あすは箱根を打ちこせば、やがてお江戸にちかければ、ヤレ/\嬉しやヤレしんど。
既にこの日も夕暮れに、三島の宿さがみやに着きけるが、この家におかねとて十七八のよい娘、御膳のきうじに来たりしより、不図うつり気ののろけ者、別肴でゑらしゃに前後も知らず酔ひつぶれ、いつのまに酒を仕舞ふたやら、飯を喰ふたやらくはぬやら、夜の夜中に眼をさまし、酒もいまださめやらねば、うつく心に気が付いて、あたりを見れども誰もゐず、梶太夫が寝間にひとつ寝に女壱人寝臥しける。
ヤレコリャドッコイ、これはさて、島田の女が蒲団を顔に、チョトかっぷりナ、長のひとり寝案楽さん
女は宵のおかねなり。天道我れをあはれみて、授けたまはる有難しと、肌にさはればポヤ/\と、手を握ればしめかへされ、夢中になってそれからはどうしたやら、酒も肴も宵の内から取り寄せあれば、女と二人差し向ひ、寝所なりの酒事はまことに旅はういものなり。折から遠寺の鐘の音の、耳にひゞきてふと心付き、傍を見れば誰も居らず、「ハヽアン、夢であったそうな」。
程なく夜も明けて、行く先は小田原か大磯泊りなるところ、まことにこの頃は泊り/\でいろ/\色事のひどいめに合ふ事ゆゑに、今夜は箱根に泊りて湯治して体をきよめんと、早くも湯もとの福住に到着する。かくてこの湯どころは、箱根七湯のうちに芦の湯といふなり。その余の六湯のわけ、または当山の由来は十三ケ年以前、梶太夫は実太夫時節の記録にくはしくあらはせたればこれを略し、さらば梶太夫は久しぶりの芦の湯なりと悦び、幾度ともなく湯に入り、夜ぢう楽しみ夜をあかし、朝の五ツに湯本を出立し、駕籠の内にて湯くたびれを休め、快よく行くところ、この日は雨ふり出し行く道のはかどらず、兼吉はいつも通り道を先に歩み、宿を取りに行く。
さて駕籠の者は冬の雨に帰り急きすれば、梶太夫はこまりながら仕方なく、とあるところにて駕籠去なし、かれこれ手間取るうちに日を暮らし、提燈にあかりを付けんと思へども野原なれば人家もなく、心ほそ/\くらがりを歩み行くところ、物すごき狐原ありて、かたはらを見れば南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経の石塚あるゆゑに、よく/\かんがへみるにさてはこゝはお仕置場所と思へば気味あしく、胴ぶるひする折から、狐一疋飛び出づるに、「ソリャコソ物よ」といふうp263」ちに、狐は森かげへはしり込む。梶太夫、尾上太夫も肝をつぶし、狐のはひりしあとを見て、ふるひ/\歩み行く。またもや薄原のかげに、大の男壱人ありてはひつくばひ、我々をうかゞふ様子に見えければ、梶太夫はまたびっくりし、さては追剥なるやと気は顛倒し、跡をも見ずしてはしり/\てやう/\に、火あかりのさす一軒家を見付け、梶太夫は大息継ぎて、むしゃうに戸をたゝき、家にはひればひとりの老人、地炉に火をたきあたりゐる。梶太夫は挨拶して、今越し方の咄をすれば、老人こたへていふは「この辺には里犬たくさんとあれば、それは狐にあらず、かの犬にちがひなし。また大の男と見えしは、追剥ではあるまじ。小便か大便でもしてゐたりしならん。東海道繁華のところ、ことに今やう/\夕暮すぎの頃に、なんの盗人が出るものぞ。さて/\きつい驚きやうなり」と笑はれて、梶太夫はやう/\心落ち付き、「今この冬空なればこそ、肝が菜種にならなんだ」とはやしゃれ言葉まぜりに礼をのべ、提燈にあかりをもらひて、その家を出で行く。
道筋しばらくあって、またもや後より「オイ/\」と呼ぶ人あれば、今度は三度目のびっくり、大事ならん、これこそは追剥盗人なりと一目散に逃げはしる。後より呼ぶ人はなほも追ひくる様子、次第に間近くなれば、はやかなはじ、こゝぞ絶対絶命と覚悟をきはめよく/\見ればさにあらず、我が同道をしたる喜三郎にて、当人がいふを聞けば、「足は疲れてあとになり、提燈はなし、雨にうたれ、まことに難儀をして、何かとはなしにあかりを目当てに、誰とも知らずに追っかけ来たり、おどろかせしはわるかりし。我が難儀を推量し給へ」とさも恨めしげにかたりける。
これを聞いて互ひに落ち付き、地獄で仏に会ふたるこゝち、こゝより連れ立ちあゆみながら、梶太夫はさいぜんよりの狐の咄より、三度の驚き咄を道草に、たどり/\て程もなく、藤沢宿の田葉粉屋にこそ着きにける。
かくて宿取りの兼吉は、昼のうちにこの家に付き、雨にもあはず、提燈もいらず、とくに風呂へはひり、飯も済みて休みゐる。不仕合はせは梶太夫、尾上太夫、喜三郎、様々の苦労かんなん、わけて梶太夫は駕籠かきに迄気まゝをいはれて道中からあるかされ、雨にうたれ、度々こはいめに合ふたる事ぼやきちらせども、これも道草咄の種と笑ひつゝ、もはや旅籠屋に泊るも今宵限り、あすは目出度くお江戸入り、喜びの酒盛りいつよりも、さいつさゝれつ夜をふかしぬる。
明くれば弘化四未霜月四日、大森宿が昼中飯は山本といふp264」江戸一の茶漬久しぶり。品川宿の繁昌は、今にかはらぬさわぎ声、江戸三味せんの高調子、アノ面白き酒落は何やつ、山下の掛茶屋は幾軒の数しれぬ茶を汲む娘の、前海の生きたるまゝの魚類をば、自慢の料理屋長谷川にとくよりひかへ待ち合はすは、これ誰なれば梶太夫を出迎ふ江戸ッ子高松徳蔵はじめとして、五厘取り垣野屋長三郎、そのほか大勢に名乗り合ひ、酒くみかはし程もなく、当所を立って金杉の宮川といふ水茶屋にて小休み。日も暮れて、こゝよりあかりを入れて駕籠に乗るも、かの乗込みといふやうなるものと見えて、弓張提燈なぞ沢山に、大勢してどや/\わや/\市中に入り、新橋から京橋、日本橋より江戸橋打ちすぎ、葺屋町高松亭の隠居所にこそ着きにけり。
そも/\竹本梶太夫門弟尾上太夫、兼吉を召連れ、宰料喜三郎ともに道中つゝがなく、出迎ふ人に伴はれて、十月五日に江戸葺屋町寄場高松亭の隠居所へ落ち着く。
さて当家主の徳蔵は母親ありて、ひとりの妹おまつはさる大家の番頭が世話をして娘の家督に、このたび浄瑠璃寄場普請成就し、屋号高松亭としてあらたに席開きとあって、梶太夫、寛治を呼びくだし召抱へしなり。かくて寛治もきのふここに落ち着きゐたりて、梶太夫と対面とげ、この夜よりこの家の二階座敷を両人の居所と定め、旅宿となりにける。
こゝに高松徳蔵は、梶太夫の席にて口語りの太夫につかはん為に、大坂より素人の浄るりかたりを三人とくより呼び寄せありて、高松の席に逗留してゐれば、この素人の三人を、梶太夫の門人に加へくれ度きよしを梶太夫に頼みける。梶太夫はこれを承知の上、かの三人に太夫号を譲り、梶尾太夫、梶代太夫、梶当太夫と号けければ、梶太夫が弟子は四人となる。
これより興行は他人まぜずして、我が門人ばかりにて興行となる。則ち初席は高松亭夜席にて、近辺々々辻看板を差し出し、神無月十日初日とあって、夕方より見物を取り込みゐるところへ、こゝに当所猿若町芝居の頭取吉田運二、同芝居表方の勘助といふ者、高松の席へ来たりて、何かと妬みがましくいひけるを聞くに、「近頃、肥後大掾ならびに京都の入太夫、呂角軒、越路太夫など下りて、寄場へ出勤をいたしたれども、かれらの太夫にはかまはねども、梶太夫、寛治は高名の事なれば、芝居へ出勤なきうちは、寄場へ出る事相成るまじ」とさも苦々しくいひけるに、この時は初日の事なれば、おひ/\見物おしかけて、およそ百六七拾人の客人二階にありて、浄るりの始まりを待ちにける。
徳蔵は両人にむかひいひけるは、「なるほど、もっともとはいへども、それは昔の事にて、近年は寄場中申し合はせにて、寄席浄るりを興行のせつは、客人壱人前に銭四文を取りのけて芝居座元へ納め、また客人弐人前の銭を取りのけて操り方へ納め、このわきまへによって寄場興行する事は、芝居掛りの衆中はよく承知のはずなり。則ちこの金高年分に、四百両は怠りなく寄場中より納めあれば、芝居方より差し障りは無きはずなり」と事をわけていひけれども、相手聞き入れず、「年分の四百両は座元へみな納まり、我々は僅かの調賦なければ、その日の暮らし方にこまりをれば、芝居をしてもらはねば立ちゆかれず。何分梶太夫寛治を貰ひたし」とて、何をいふやら酒に酔ひてやかましく、寄場の表の間にあふのけに大の字に寝込みける。
その時、表には見物おひ/\入り来たりて、この体を見て皆恐れをなし、後へ帰るやら、二階にゐる客人も下の喧嘩をおひ/\、聞くに付け、浄るりははじまらずたゞわや/\とつぶやくゆゑに、席主もたまらず尾上太夫に初口をかたらせしが、喧嘩はます/\大きくなれば、見物いよ/\立腹して、ざわ/\と銘々下へおり立って既に見物は帰りける。
席亭はたまらず、もはやこれ迄なりと表にかけ出し、手ばしこく看板、行燈を家内へ引き込んで、それより席主気強くなり、負けず劣らず高声に罵り、いよ/\大喧嘩となり、かかる折から町内の席ひいきの若者中駆けつけ、相手方の運二、勘助を打つやら踏むやら、手に当る物、火鉢なぞを投げるやら大騒動と相成る。そのうちに誰が知らせしやら、猿若町芝居木戸の者弐三十人馳け来たりて、銘々鳶口をもって席の表を大半打ち壊しける。かゝるさわぎに、火消鳶仲間は組八ケ所、小網町役三ケ所、以上八ケ所の鳶仲間、人数およそ三百p266」人飛び来たりて、大勢はひかへゐて、頭だちし者ばかり廿人ばかり、仲人なりとて飛込み押しへだてしづめるに、大混雑なれば夜も明けはなれ、喧嘩の名物東のならひ、並々の出入なれば仲直りに五十日は日数かゝれども、興行事の事なりと仲人のヒイキによって、当日より五日目に済み口となる。席亭よりは金子拾五両扱ひ、芝居方よりは看板を引き込ませしあやまり一札を差し出し、双方火急に仲直りし、盃の場所は堺町新道の料理屋万久亭にて、さっぱり相済みける。
なほ仲直りの次第もあれどもこれを略し、いよ/\霜月十五日初日と極り、梶太夫はじめ一統、安心をぞなしにけり。
高松亭夜席始まり
『信仰記』碁立 尾上房治郎
『妹背山』杉酒屋 梶代当造
『白石噺』七 梶当房治郎
『大功記』十 梶尾当造
『吃又平』梶寛治
江戸寄場浄るり日数は、当り不当りにかゝはらず日数十五を一席と定め、いづれ初日は朔日か十五日なり。切ばかりの語り物。前語りは略す。
○初日 『吃又平』
〇二日目 『伊賀越』沼津
〇三〃 『二代鑑』
〇四〃 『志度寺』
〇五〃 『日向島』
〇六〃 『双蝶々』八
〇七〃 『廿四孝』三
〇八〃 『ひらかな』三
〇九〃 『五人伐』
〇十〃 『あこぎ』
〇十一〃 『伊賀越』八
〇十二〃 『合邦』
〇十三〃 『躄』十一
〇十四〃 『うす雪』腹
〇十五〃 『忠臣蔵』九
右外題にて高松席を打ち終り、目出度く千秋楽相済み、それより外席はやはり右外題にて少しづゝ差しかへ、江戸中の席を昼夜と打ち廻りけるが、当地寄場といへば、重畳およそ三百六拾軒ありしところ、細席は御趣意の時節につぶれて、当時残りある席は百六拾軒ばかりありといへども、畳数おほくしきて、よき人のはひる上席は江戸中に拾軒あるなしにて、p267」これに洩れたる席はいひなし、出方の芸者はいづれ上席ばかりへ出たく思へば、近頃悪席中一統打ち寄り、上席悪席平等に日数十五日づゝ興行致しくれたき申し合ひにて、府中仲間をこしらへある事なれば、出方の芸者を五厘取り仲間の者が上席ばかりへは出ださず、悪席へも連れ歩くゆゑ、芸者も余儀なく悪席と知って出勤する事、甚だうたてき事どもなり。されども、一年中数多の席を打ち廻る事ゆゑに、上席へはおのづから出安く、先に出勤して、また間もなう出勤すればとて、いつとても大入をするゆゑに、上席へは一年に三度も出勤するなり。悪席へは義理にからみて、たま/\出勤して見てもやっぱり見物不入なれば、いつまでも悪席なり。
しかしながら、繁華の江戸なればこそ、悪席にても始終興行あるは、昔は女義太夫大いに流行をせしゆゑ、寄場席おほかりしなり。当時女太夫は御法度なれば、まづお江戸の名物新内、常盤津、講釈、昔咄、茶番狂言、影絵、写し絵、あるひは素人景物浄るり、または下廻りの太夫をあつめて人形入り浄るり、これらは当地の端々にて興行あり。同じ端にも両国あるひは下谷、山下、芝の切通しなぞといふところに寄場あり。これらは土場席といひて極く安き芸者の出る席にて、今の世にも義太夫女は御法度を、化名をつけてはたらく者もあり、さるがゆゑに百六十軒の寄場、それ/\に休まぬはこれ則ち繁華のお江戸なり。
梶太夫も当所高松亭初席として、江戸中の寄場、昼夜打ち廻る事、未の霜月より冬分は打ち終り、明くる申年正月初席より一年中出勤の場所を左にあらはす。尤も語り物はあまりくだくしければ略して、なほも家業のほかなる神祇釈教恋無常の類はあらましながらこの奥にあらはし綴るも梶太夫が楽しみ、見ぐるしきところは見る人ゆるしたまはりかし。
堺町新道 高松亭 未霜月
久保町 松村 〃
銀座四 大丸新道 極月
小田原岸 鶴本 〃
かはらけ町 万寿亭 〃
馬喰町 初音 〃
堺町 弐度目高松亭 申正月
浅草 馬道源助 〃
両国 長左衛門 〃
しんば 君川 〃p268」
久保町 二度目松村 二月
牛込 わら新 〃
銀座四 二度目大丸新道 〃
麹町 万長 三月
堺町 三度目高松亭 〃
竜岡町 鈴岡 〃
すきや町 山本 〃
小網町 川一 四月
深川 一の鳥居 〃
するが町 稲本 〃
木挽町 江戸一 〃
東両国 こり場 〃
霊岸島 大亀 〃
弾正ばし 大辰 五月
四谷押原 末広 〃
芝明神 若竹 〃
外神田 若松 〃
同玄坂 栄助 六月
馬喰町 二度目初音 〃
外神田 ふじ本 〃
京ばし 金沢亭 〃
かはらけ町 二度目万寿亭 七月
かやは町薬師 宮松 〃
堺町 四度目高松亭 〃
久保町 三度目松村 八月
東両国 二度目こり場 〃
麹町 二度目万長 〃
小網町 二度目川一 〃
木挽町 二度目江戸一 九月
霊岸島 二度目大亀 〃
四谷押原 二度目末広 〃
外神田 二度目ふじ本 〃
霊岸島 二度目鈴岡 〃
湯島天神 寿亭 〃
銀座四 三度目大丸新道 十月
十月のかゝりに打ち終る事、まことに訳合ひのある事にて、巻奥にてわかるべし。尤も右寄場出勤は四十五度、当所名残りまでの出席なり。
これよりの文段は後へ戻りての咄なれば、この本見る人推量し給ふべし。p269」
こゝに梶太夫の三味を弾きて、鶴沢寛治あづまに来たる発端は、江戸表に播磨大掾の門人に、杣太夫事土佐太夫といふ者ありしが、土佐太夫、寛治は昔よりふかき馴染なりしが、土佐太夫は当時江戸住宅をして、寄場廻りをすれども、我が相方にすべき三味弾き払底なれば、上方にゐる馴染の寛治をよびむかへて、我が相三味弾きにいたしたくかねて念願あれば、浪花の寛治へ度々書状を送りけるところ、寛治はこのたび梶太夫の三味線弾きに頼まれ江戸着すれば、当時は梶太夫の三味を弾けども、後にいたりなば土佐太夫を弾くといふ心あれば、このよしを世話人五厘喜三郎に頼みしところ、大腹中の喜三郎ゆゑ、「何さま然るべきはからふべし」と請け合ふによって、寛治は大いに喜びけるもほかならず、土佐太夫と組み合へば、席の上り高七三に割合ひ、土佐太夫に三分の割をあてがひ、我れは七分の割を取って稼ぎたき欲心なるゆゑ、まづは冬分のところは梶太夫をぜひなく弾けども、春になれば土佐太夫の三味線を弾くをたのしみて、当時梶太夫と出勤をして、寄場もまづ/\大入にて、冬分打続けける。
然るところ、梶太夫は寛治と上方にゐる時より三味線を弾き合はせみるに、寛治は評判の物忘れにて、弾き合はせし事どもをとかくにわすれ、梶太夫は毎日がへの事ゆゑに、大いにこまりけれども、なにぶん寛治は日本の大立物なれば、梶太夫も程よく附合ひける。
されば冬空も程なくすぎ行けば、世話人の喜三郎も寛治にたのまれし事あれぽ、ぜひとも梶太夫寛治引き分け、寛治と土佐太夫一組として、梶太夫には江戸の大立物野沢語助をくくり付け一組とすれば、出方二組となるを家督にして、世話人相方堀長にいひ合ひ、うち/\野沢語助に咄をする。こゝに江戸の語助は昔より名人の太夫ばかりを弾きてすこぶる名人にて、そのむかし梶太夫が師匠五代目熊治郎染太夫の三味を長らく弾きて後、染太夫上坂の後は組み合ふ太夫なしとて、内福といひ、田地、地面をもって今は遊びくらし、いかなる太夫が頼みくるとも、安からぬはたらきはせぬと意地張りゐたりしが、梶太夫は染太夫の弟子にて、実太夫時代よりの馴染も深し、または染太夫の面影なれば、いま梶太夫を弾かばとて、世間のそしりもあるまじく、かつは今生の弾き納めとp270」して、新場のヒイキ旦那方へ相談のうへ、梶太夫を弾くといふ返答によって一統悦び、早速組み合はす支度調ひ、金方江戸屋清次郎はさる料理屋にて、語助、梶太夫顔合せの盃のついでに、梶太夫、寛治和談のさかづき日柄をえらび、ある日に金方はじめ世話人たち、梶太夫語助を伴ひ、彦左衛門豊田屋といふ料理屋へ行きて、土佐太夫寛治も呼びよせ、大いにちそうをして、組み合はせさかづき、別れる盃とゞこほりなく相済み、後は双方打ちとけ咄の大酒宴、夜のふけるも知らざりしが、頃は立冬すゑつかた、空吹く風は荒れぶきて、江戸の名物ヂャ/\/\三ツ鐘は遠くあらず、当家も隣家も大さわぎ、出火に馴れたる江戸ッ子は、金方の清治郎、喜三郎、堀長は駈け出だす。
あとは梶太夫寛治上方者なれば、訳もわからず逃げ出し、梶太夫火元を聞けば葺屋町岸なりと聞きしより、旅宿の近所なれば、人群集して宿へは帰られず、まづは風上の堀長の方へたどりゆく。それより出火の様子を聞けば、この出火は当地に珍らしくしづかなる出火にして早くもしづまり、旅宿は「ちょっとさわぎしばかり」と聞けば、梶太夫も宿へ帰る。語助、梶太夫も初春より席始まる。梶太夫、寛治和談もととのひ、寛治、土佐太夫も寄場始まり、以後双方むつまじかりけり。p271」
第二十三の巻
この一綴りは浄瑠璃家業の者がながめて益あれども、他見は通じがたく、この書を読む人これはのぞきてもよし。そも/\当地の人柄を見聞するに、何国とてもかはらぬは市中上分はなか/\人柄なればおのづから付合ひやすく、されば中分以下はおしなべてかりそめにも印半纒を常として、とかく気性あら/\しく、誰を見ても浪花でいふ博奕師とか顔役の如くなり。尤も印半纒を着すは当地の流とか申すなり。さて芝居かゝりの衆中に、直ぐなる者はあるまじと思ひけるが梶太夫の邪眼か。芝居者のくせとして、上方より下りたての芸人とあれば弱身へ付け込み、欲顔にとかく難題無体を吹きかけ、やゝともすれば喧嘩を仕掛けるが常の如し。しかしながら下りの太夫も当地に馴染めば、芝居方の悪党ばらの無体を請けつけぬ様にはなる物にて、梶太夫が師匠五代目染太夫は、先年当地に九ケ年ばかり居馴染めば、芝居悪党の気を打ち抜き、金銭をもって芝居方の顔を立てるがゆゑに、いかなる悪党ばらも染太夫には閉口なり。染太夫正身の江戸ッ子同然に人に立てられ、その身十分に暮しけるなり。
さて梶太夫もこのたび当地へ下る事三度目なり。当地の風気はよく見来たりをれば、今はなか/\悪党ばらが無体は請けつけねども、何といふもまたもや今下りたての事なれば、やっぱり上方才六にとりおこなはれ、やゝともすれば突きころばすが芝居方の流儀とかや。則ち、ある日江戸太夫仲間因講参会とあって、前日に廻文きたりけるゆゑ、梶太夫も新門人四五人ぜひとも加入させねばならず、早速当日の参会に立ち寄るべき心底なるが、この日に限り大雷、大雨風に恐れ、雨の晴れ間を見合うてもいよ/\大雨となれば、家を出かねるうち刻限うつり、参会の席より使者を以って大悪言を申し来たれば、梶太夫も当地の風気心得ゐれば、雨風ゆゑ四ツ手駕籠に打ち乗り出で行くその風ぞくは、着物は結城の洗だく者、帯も直留め江戸小倉、伊勢つぼ屋のたばこ入れに百卅弐文のきせるを差し込み、鼻紙入れなぞは懐中せず、肌にはふたよ廻りの胴巻に用意金拾両をかくし持つは、金銭にてひけを取らざる用意、かつは先に無体を申し出れば逃げ帰るといp272」ふ身がるのこしらへなり。
さて参会の席は堺町百席といふ料理屋にて、程なくその家に行くより、駕篤より出ると玄関に通り様子を見るに、浪花因講とは大いにさうゐして、正座にいかつがましく押直りゐるは、猿若町あやつり座の名代結城孫三郎はじめとして、公用役治助、座元九兵衛、頭取吉田運二、木戸頭若松喜三郎、そのほか表方木戸の者弐拾人ばかり、いづれも顔役めかし皮羽織をちゃくし、どれもこれも月代をそる事をきらひの衆達と見えて、頭は世上でいふ五分月代といふ物にて、一癖ある面構へなるゆゑ、上方者なぞはちょっと見るからおそれをなして、何事もいはずして差しひかへねば相成らず。さればかんじんの因講の太夫、三味弾きは次の座に直り、古老衆はこの時分は竹本大隅太夫、豊竹岡太夫なれば日本の大立者にて、何国にありてもはづかしからぬ仲間の古老顔なるに、一鼻だって物事をいふ古老はなくして、芝居方の者の言葉について、何にもひかへゐる中老達は机にかゝり座をかまへゐれば、やがて梶太夫は仲間入り料を差し出し、鑑札を受けて座敷に通り座をしめる内、芝居方の者より申し出すは、「この度の下り鶴沢寛治は、今において当席へ顔出しをせざる事、甚だきっくわいなり」とさも横柄に悪言をいふも、梶太夫の荒ぎも取る言葉なり。
梶太夫はたゞ事のなきやう、たゞ我が遅参のあいさつのみに謝り入りてゐる事なれば、せり合ひにもならず、心中安堵の思ひをなしにける。それよりどうやらかうやら打ちとけ咄となりて、双方盃の取りかはしとなり、芝居方より改めて申すやう、これ則ち梶太夫へ難題にて、来たる正月初芝居、操り方合力芝居として、上方より下りの太夫は八人あれば八組にわけて、一組二日づゝの合力浄るり、日数十六日の興行なり。銘々出勤は月日籤引きと定め、梶太夫は正月五日と十四日の籤にあたる。これ芝居への奉公、無給金四日なり。さてまた今ひとつの難題は、人形遣を助けの浄るり。尤も人形遣も同出勤にて、人形入り浄るり。仕法は下りの太夫、江戸の太夫合して廿二役となる。壱組十日づゝの興行、これは無給金にはあらねども、惣上り高を割り取りなれば、人形方より勝手に割り付ければ、太夫方へ割りをとらぬも同様なり。梶太夫もいやともいはれぬ、人形の方には、「大隅、岡太夫も同腹にて一統の事なり」といはれて、梶太夫もぜひなく承知して来三月の籤に当りて、またも事のなきうちと、酒宴後の膳にもすわらず、挨拶もそこ/\旅宿へ逃げ帰る。これらの咄はくだ/\しき咄なれども、入郷従郷ざれば災難のp273」来たらん事の悲しみ、芸者の身を悔みたるところの咄なり。梶太夫も三度目の江戸住みなれば、なか/\江戸の悪党ばらにひけはとらざる心得も、旅に踏み出し、くるしみは当地にかぎらず諸国も同じ事、我が生国にさへ芝居かゝりの者に直ぐなる者はあるべからず。まして江戸の芝居かゝり、悪党といふがむべなるかな。人間は仁義礼智心をはづれたるを人外といふ。まことの道を守る者は、神仏大切にして、人のよき事はともに悦び、憂ひあればともに悲しみ、我れに災難のあるときは自業自得とあきらめ、身貧なればその身粉になる迄はたらく、過福なればとて奢りをつゝしみ、人中へ出すぎるは見ぐるし、たとへ門に立つ非人乞食にも、主が立って小銭壱文をあたうるに手間ひまいらず。あるひはなんじうの者には、我が身に害にならぬだけの合力をあたへ、上を敬ひ下をあはれむこそ、これ五常の道なり。それにひきかへ、江戸の悪党は下りの太夫と見れば喧嘩同然に無体をいひかけて、太夫をたゞにはたらかせる工夫ばかりをする事、これらが人を突きころばし、我ればかりたすからうといふ悪党なり。
これは行く冬の事なるが、そも/\江戸猿若町といふは元来堺町、葺屋町ありて、往古より御免の櫓しばゐなるが、天保十三寅年、水野出羽守様御改革の時、両芝居取りはらはれ浅草辺かたわきのたんぼを築地をして、芝居町に出来、猿若町と町名を付け、堺町、葺屋町の歌舞妓あやつりとも当所へ引越しをおほせ付けられ、いまにおいて歌舞妓芝居は繁昌すれども、操りは甚だ不繁昌なるが、弘化三年午年のおふれより、芝居もそこ/\に興行する町席は益々大繁昌する。芝居の方はとにかく人柄あしきがゆゑ、金方もなく、太夫中もいやがりて出勤をせねば、またもや芝居には草をはやす。
かるが故に太夫中はなほ町席寄場へ志せば、金方もおひおひかゞれば、寄場はいよ/\繁昌となるゆゑ、芝居方のものはこれをそねみ、御免の櫓を頭にきて、またしても/\寄場を差しとめやうとする事度々なり。お上様の御理解にて、「寄場浄るり興行すれば、客人壱人前に銭四文づゝ芝居方へ遣はせ、人形遣へは客弐人前の銭をあたへよ」とおほせ付けられしかば、寄場はこれを守れども、芝居方の悪党ばらはその銭を取って置きながら、既に去冬、梶太夫が初席高松亭へあばp274」れ込み、拾五両の金をむさぼり取りし程の悪党、後に聞けば梶太夫の五厘取喜三郎と芝居の者あいたい喧嘩なりときく。まことに重々にくしの喜三郎と思ふ折から、またぞろかく冬極月に思ひがけなう猿若町芝居より梶太夫へ廻文の事。
一、来る正月二日より猿若丁芝居において下り太夫衆中にて操り興行仕候間、則当極月壱日芝居にて顔寄候間、御入来候べく候。以上。
竹本梶太夫様
鶴沢寛治様
竹本長尾太夫様
竹本越路太夫様
鶴沢吉兵衛様
肥後大掾様
豊沢仙五郎様
豊竹小国太夫様
竹沢宗七様
竹本入太夫様
五代染太夫預り門人 竹本越太夫様
長門太夫門人 竹本咲太夫様
播磨門人 竹本妻太夫様
江戸津賀太夫門人曽我太夫事 竹本津賀太夫様
この四人は仲間世話人行司顔
吉田運四
月日
年行司 豊竹富太夫 二代巴門人い太夫事
梶太夫より芝居へ廻文の返答
一、廻文の趣委細拝見仕候。然る所来る正月操り興行に付、拙者儀出勤おふせ付け候へ共、我等儀は金方旦那に召抱られ、寄場へ出勤の約束にて御当地へ罷下り候へば、右奉公終候迄は外出勤相成がたく候間、此度の儀は御断申上奉候。以上。
吉田雲四様豊竹富太夫様 竹本梶太夫
江戸因講より梶太夫への書面
此度猿若丁芝居興行に付、顔寄の儀申遣はせし所、御断におよび御出無、是に付芝居掛り合衆大ひに立腹致し居申候へば、此後いかよふの騒動に相成候共、因講の者少しも存じ不申候。此儀為念申置候。以上。
因講年行司p275」
竹本梶太夫様
梶太夫より因講へ返答
委細承り申候。然れば拙者儀事、其御芝居にて金子御借用申せし覚へも御座なく、元より当方儀は御金方旦那に約束御座候ゆへ、此度御申越しの一条は、御断を申遣はし候所、何角御立服の由、甚不仕義に存じ候。右申通りの訳合に付、拙者不承知ゆへ、御廻文に我等が名前所へ天を掛不申、是則御断の印なれば、其元様の約束返んじたるにあらねば、何をもって騒動に相成共いわれ御座無く候へば、御心倍御無用、御案心下され度候。もし理不尽の騒動におよび候へば、当方よりきっと相さばき申て候。以上。
竹本梶太夫
因講御行司様
右やう申し遣はせし所、日をおきて、ある日芝居方の者、梶太夫が旅宿へ押し掛け入り来たる人々、
操り主結城孫三郎、座本九兵衛、御用廻り治助、頭取吉田運四、木戸頭勘助。
右五人の者どか/\と入りくるゆゑ、梶太夫は疵持つ足、あまりきびしき返答をせしその返報に皆々来たりしならん、さてこそ今が我が身の生死のさかひなりと、心に神仏をいのりながらわるびれずして出で迎ひ、顔を見るに、結城孫三郎と名乗るは今は息子にて近付きにはあらねども、今の結城孫三郎なり。あとの者は座元九兵衛、これの親絹太夫からの馴染、吉田運四は梶太夫その昔、実太夫にて白湯くみの時分に、運四もやう/\小道具役の時よりの馴染の者、また御用廻り治助も、また木戸頭勘助も、それよりはるか後に出たる新参者なり。たがひに顔を見ると、双方同位の輩にて、我れがおれが、おれがわれがの付合ひなれば、取りあへず奥へ通し、昔語りに余念なく、笑ひ/\にて何んの咄も出ざるゆゑ、梶太夫が口を出し、
梶「マア/\それはさておいて、この間お前方から芝居の廻文がきてナ」
運四「ムヽアレか、ありゃかうだはナ、むかしおめえちゃ染さんについてきたときゃ、芝居もてえそうよかったけヱ、それからおめえが四年あとに来て、芝居をしたばかりで、今見なヱ、しばゐへ金を出す人もねヱで、寄場ばかりであるまいか。太夫さんはそれでいゝはナ。人形遣はからきしつまらねp276」えだねヱか。それだから、芝居がしたくても、金方もなけりゃ芝居へ来る太夫もねエといったわけだから、なんでも仕方がねヱ、上方からくる太夫さんを待っていって、がういんで芝居をせなけりゃなるまいぢゃねヱか、何でも春はね、おまへ方の昼夜勤めるじゃまはしねヱがの、昼席と夜席の間で、ひとはしり来てくんねヱな、こりゃおいらへの合力だはね。どうせ見物こないのサ、何んでもいゝから、ちひさなみじかな物をおかたりなせヱナ。かまやしねヱはね。十日かそこらだはね、それもサ、三日か四日でしまってしまうかしれねヱね。マア出るとしてくんねヱナ」
梶「それぢゃとて、そんなに一日に三所も勤まるものか。やっぱりこちらの金方のじゃまになるからお断りだ」治助「ナニそんな事いふもんぢゃねヱはな。今は見なせヱ、だれでも三所も四所も寄席をかけるはね。おめヱ一人そんな事をいっているはつまらねヱ人だ。かまやしねは、なんでもたのむからいゝといってくんねヱナ」
馴染ごかしに人参をだまして売るが如くいひちらせば、梶太夫はもってのほかの仕儀により、何んといひ寄るかたもなく、「何分にも我が金衆へ咄せし上の事」といひ延ばし置いて別れけるが、されば梶太夫も今かく冬当所に越年をすれば、この事心配なれども、はからずして当冬に上坂となってこの一条をのがれしが、これ迄にかはらず当地にゐるならば、また悪党ばらにかゝりて芝居の苦労をするべきに、余儀なき事にて帰坂となりて、芝居の苦をのがれける。
かくて江戸の悪党ばらが喧嘩をしても、太夫を無銭にて使はんとしかけしが、梶太夫は当地へ幾度も来て勝手をよく知れば、この一条に立派なる返答をせしゅゑに、いかなる悪党もまた法をかへて人参だましに梶太夫をだし付けしは、仕様のない悪者どもなり。浪花因講も、あまたの講内にて、江戸表へはじめて下る心ぼそき芸者は、江戸ッ子の生計におち入り、深い所へはまるべし。おそるべし/\。
さりながら、江戸生れの芝居者は悪党でもかまはねども、当地の因講の世話をする太夫に年行司なぞといふ京越太夫、西国妻、浪花咲、丹波津賀、丹後富太夫、この五人の太夫は江戸の者にあらず。みな他国にてありながら、いかに郷に入ればとて江戸ッ子の悪党の加党人をして、因講の印判をかりそめにも廻文に押しあらはす事どもは、太夫の威勢なきゆゑなり。道にふれたる事せずとも、世渡りは出来さうな物なり。近き昔、江戸の宮戸太夫、伏見の津賀太夫、五代目熊治郎染太夫、これらの太夫はなか/\威勢ありて、操り方の指図はp277」うけず。芝居を組立つるとも、太夫座頭よりの指図より芝居となるものなり。しかし当地の因講の年行司を勤める太夫も、郷に入りて郷にしたがふゆゑ怪我災難もなし。
門人中一条の咄とは、梶太夫江戸在中の間、弟子中の忠義不忠義を書きあらはすのみなり。さて前にいふ梶太夫が大坂より当所へ弟子同ぜんにして連れ来たりし兼吉といふは、元来江戸竹川町の者なるが、かれが江戸の親は兼吉をこがれこがれて、大坂へ度々書状を送りしなり。然るところ、大坂の親分堺太郎は梶太夫の江戸行きを聞きつたへ、よき折からとて梶太夫は兼吉を預かりて、江戸者の上、江戸親元へ手渡しもする。親はまことの悦びにて、あつき礼をのべけるが、兼吉はやはり梶太夫のそばにゐて、旦那方よりももらひ物もあれば奉公するよりも暮らしよく、且つは梶太夫の恩義をわすれず、弟子同様に梶太夫の介抱おこたりなく、長くそばを勤めける。こゝに江戸義太夫語りの女、五代染の門人の染助が仲人して、女太夫梶太夫の門人に加へる。これ梶助と名乗らせ長久する。
また阿州に五代染の門人に忠兵衛といふあって、当所へ梶太夫をたづねてくれば、その日より昼夜寄場へ連れ行きて世話をさせる。また五代染の門人なる内匠太夫下りくる。これは一人前の太夫なれば、早速野沢勝七の三味にて、寄場廻りをしてひゃうばんよし。また梶太夫門人たび嘉事園太夫下りくる。これは子供太夫を連れ来たりて、子供組の世話をして寄場廻りをする。また梶太夫が浪花にての内連中其重といふ人、親元を抜け出て梶太夫をたづねくる。これは御客分、大切に世話をやき、寄場へ伴なひ行きて、をり/\口語りなどさせて長く逗留をする。
また梶太夫が門人梶戸太夫下りくる。これはずゐぶん浄るりを利口にかたりて、芝居へ使ふ時は、序切の役を勤めさする太夫なるゆゑ、早速当地の風に衣服を着せるに、当所富沢町古手屋にて羽織まで求めてきせかへ、道中姿を見かはす如くこしらへ、明くる日より梶太夫の中語りに使ひける。さて当人は真実ありて、師匠梶太夫をおもんずる者ゆゑに、後にいたりて梶太夫名をゆづる程の者なれども、とかく酒を好み、大酒をして酒ゆゑ病を引き出し、度々の病気にて席はつとまらず、薬料にさしつかへ、江戸へわづらひに来たるといふもp278」のにて、梶太夫も余程の物入りをする。されども続いて打ち伏す事もなくて、また勤める事もあると、また酒でしくじる。まことに様々の弟子もあるものなり。
しかしまた、その後は梶太夫の門人木尾太夫下りくる。これは声がらよければ、早速梶戸太夫病気かはり役に寄場へ連れ行く。当人は上人間なれども大ずぼら、薬にもならず毒にもならず。
さてまた当地に竹本浪太夫といふ者あり。長らく江戸住居して、このたび上方へ帰国に付き梶太夫へ頼みには、当人は故人浪太夫の弟子なれば、梶太夫を師匠と頼みけれども、梶太夫が思ふは、いま師弟の約束をして、今別れてはせんなき事なれば、いま浪花へ帰るもの、浪花には我れらが師匠染太夫がゐらるれば、染太夫の門人に世話をせん頼み状を遣はせば浪太夫大いに悦び、江戸を立って、のち浪花染太夫の社中となれば、梶太夫とも兄弟となりて、幾ひさしく因みをむすびける。
時に梶太夫が上方より召連れし門人尾上太夫といふもの、あるとき丸の内備前様出火に付き、梶太夫は家業を休み、お屋敷の出火なれば町中のさわぎもなきゆゑに、弟子どもをあつめ酒宴をもよほしけるが、この尾上太夫といふは浪花にて梶太夫の家に久しく馴染みて、常に心ざしよき者ゆゑに梶太夫がたよりにせんと当所へ召連れ来たれば、当人も猶々忠義をつくし、梶太夫の介抱おこたらず、はや当地にても馴染もできて、西東のヒイキ旦那方より過分にもらひ物もあって、着類もおひ/\こしらへ、今は何ふじいうなき身の上なるが、この日休日なりとて、当人の影見えざりしが、この日昼七ツ時ごろに、となりの家まで戻り、「酒に悪ゑひせしゆゑ、しばらくこの家にねさせくれ度し」と、となりの人をたばかり、二階にね伏せし如くかゞみゐる。このとき梶太夫は弟子もろとも酒もり最中にてさう/\しければ、尾上太夫はこのさわぎにまぎらし、隣の二階より屋根越しに梶太夫の旅宿の二階へ戻りて悪事をなしけるは、梶太夫が心好みにて、当時流行の当百銭はお江戸の花にてめづらしく、浪花にはいまだ見えざる物ゆゑ、土産にせんと吹きたての当百を毎日上り銭のうちにて弐ツ三ツ程づゝため置きたるところ、このごろ金五両ぶり三十貫五百文たまりしかば、釘付けの箱入りにして、二階の押入れつゞらに入れ置きしを、かの尾上太夫その当百の箱に眼かけたづさへ出で、行方知れず立ち去りける。梶太夫はそれとも知らず、夕方になれども尾上太夫の顔も見ず、虫がしらすか何んとなく二階の用心を思ひ出し、弟子をもってp279」改めさせば、はたして当百の箱見えざるゆゑ、家内中とも吟味をするに、この盗人尾上太夫と事極まり、それよりしてめいめい手わけにて行く先をたづね行くうちにも、高松亭主徳蔵あるひは五厘の堀長手人を連れて旅支度、本海道と中仙道わかれ/\に追っかけ行きけれども、泊りがけの事なれば早速に返事もわからず、梶太夫ははやあきらめつけ、大坂にはきゃつが判人もあり、丹波の親元へもこれを知らさんと、書状を送るがやう/\心のたよりなり。
かくて尾上太夫は盗み取ったる当百を持ちて、木曽街道へと志せしが、追手の者を行きすごさせんが為、熊谷の駅に足を留めしところ、こゝに鶴沢寛治は江戸にて土佐太夫にも別れ出立して、値安き太夫の三味を弾き、この熊谷にて寄席浄るりの席を打つ初日前のところへ尾上太夫が行きあはせ、寛治とも江戸にてなじみなるゆゑ、つもる咄のそのうちに、尾上は「師匠の上方用に付きまはり登るとも、ざんじの隙はいとはざれば、この席の小用手伝はん」と、いとねんごろの咄に、寛治も無人の事なれば、ともかくもと相談極り、寛治もたばかり、尾上太夫こゝに十日ばかり日をおきて、おのが故郷丹波へ帰り、親までたばかり何知らぬ顔にて暮らしける。さても梶太夫はその冬、入りわけありて浪花に帰りて後、寛治に対面してこのわけを知る。それより本人を請人より詮索とげ、三十貫五百文のかはりに金壱両取りて納めける。不便なるかな尾上太夫、大坂へも出られず、生死もさらに知れざりけり。まことに弟子もあまた有るとはいひながら、皆それ/\に故障のあるものなり。
当時弟子のうちにも、小事あれども罪なき者、このほかに三人あるは、前にいふ梶太夫が当所へ下りし時、我が社中に加へし大坂より下りし三人の素人なり。その時名付けし梶尾、梶代、梶当この三人なり。このうちの梶当といふ名は、梶戸太夫当地へ下りし上は、名に差しつp280」かへになれば、梶当を改名させ当鬼太夫と改める。この三人は今にかはらず梶太夫の席をはたらきて、寄場にても評判よければ、はやそろ/\と身躰をやつす浮気者。高弟梶戸、木屋はなほ洒落て、上美たなりで寄席がよひ、毎日通ふ席の道筋を、眼に立つ姿の梶太夫組五人八人連れだてば、辺りの人の眼にとまり、雁金組の五人男ぢゃと、あだ名を付くと世の風聞に聞えたり。
間口かたり 竹本当鬼太夫
見立 案平兵衛 一名紀州さん
口語り 竹本梶代太夫
見立 極印千右衛門 一名てんぐ
間中かたり 竹本梶尾太夫
見立 ほてい市右衛門 一名もほてい
間中語り 竹本木尾太夫
見立 雷庄九郎
本中かたり 竹本梶戸太夫
見立 雁金文七 一名でぼちん
あだ名を付けるはあまり誉めたる事はいはぬもの、悪口いふがおもだてども、五人男とはうれしけれ。人に知らるゝ身こそ大慶。これにもれたる梶太夫、語助は沙汰p281」もなく、人目うるはしき三味ひきに富造、房治郎、辰治郎、これらは況る色男、あだ名もさぞやありつらん、いまだ世間より噂なく、五人男にさみせられ、道の五人は閉口なり。しかしこれは笑ひ草、見る人のあくび留め、これから先がまじめ事。
さてこの五人の弟子どもは、もとより高松の浄るり席へ飯料を付けてあづけありしが、五人とも皆々さうおうの給金になる事ゆゑに、日々に増長して、もとより師匠の傍にゐざれば、朝は長寝しておそく寝所より起き出ると、みがき楊枝を遣ひながら泉湯にはひり、それより髪月代をして、朝から呑酒屋へはひり、一ぱいひっかけるが毎日昼までの仕業なり。それはよけれども、常に浄るりの稽古せざるゆゑ、師匠の方すゝめても仕様とせぬ野良者なれば、これより先は改革を立て直して、梶太夫の傍へ五人とも引き寄せてちと窮屈をさせん為、皆の者にいひ聞かせ隠居へ引取り梶太夫の傍に置き、いよ/\これよりは業ていをしつけの為、勝手の間に張りおく書付け左の通り。
一、堪忍第一
一、朝精進
一、寝伏迄禁酒
一、泉湯連人無用
一、朝稽古
一、席通ひ別々行
右の条々相守者也
この如くに改革、弟子中かたく守るといへども、いづれそれ/\にかなはぬ自用もあるものにて、その節は互ひに用役をゆづり合ひて師命を相守るこそ神妙の次第なり。
この役五日目かはり
梶戸太夫 神前燈明諸事見廻り
梶尾太夫 かぐ出し入れ井戸水くみ方
木尾太夫 めしたきかぐのあらひふき
当鬼太夫 買物方下廻りさうぢ
梶代太夫 ばんざい方おくさうぢ
定役
梶戸太夫
木尾太夫
梶尾太夫
寄塲行く節火の用心見廻り師匠の駕籠に付そうて行く
定役
梶代太夫
当鬼太夫
寄場にて口をかたり次第宿へ帰りて留守を守るp282」
梶太夫ある時いつも通り席より戻り、寝臥すは夜未の刻にて、我が身は東にありとも浪花にある夢心地にてわかちなく、フト伜の事のみ思ひ出せしが、せがれ鶴太郎は当年拾壱才なるが、親にあまえて、手遊び物をあれを買へのこれを求めくれよといふは常の如くにて、不動の木像を買へとせがみける。梶太夫は思ひもよらざれば、何をいふやらと思ひながら、「然らばその木像は何所にて求めるぞ」と尋ぬれば「それは何所の何某の家へ行けば、木像のかたちは土をつくねし如くにて、金百疋にて受けらるゝなり」といふに、梶太夫は伜のをしへの方へ歩み行き、金百疋を出して木像を受け求めると思へば眼がさめしが、「ハテさて不思儀の夢を見し事なり」と心にかゝり、その日は用事に付きて行く道筋、島村といふ旦那へ立ち寄り、かの夢の咄をせしところ、この家は成田山不動を信仰なれば、「これ奇妙なり。成田山より出る木像はその夢の通り土をつくねし如くにて、金百疋出せば受けらるるなり。さりながら、成田山へはこれより卅六里あれば、火急の事ゆゑ、まづ/\成田山の不動お守は我れら講中なれば取り寄せあり」とて守をゆづりあたへるは、木像のかはり木札なり。この木札の元来は、成田山御山門普請の時、普請方人足壱人に壱枚づゝ腰にさげさすは、普請出入改め札なり。されば山門棟上げの時、折ふし人夫があやまって棟木より下落せしが、このお札腰にさげたる者は一人も怪我をせぬ事、これまったく不動明王の奇特なりとて、神主はこの時よりこの木札を懐中守にする様ちひさくこしらへて、災難除け守とて今にいたりて成田山より出づるなり。
梶太夫はこのお守をはからずうけるも、「不動を信心すべし」と夢に悴をもっていはしめすといふ印には、梶太夫親子とも成田の木像は土をつくねし如くやら、金百疋にて出るやら知るべきはずはなし。これひとへに明王の霊夢なれば、御木像はうけずとも、木札は我がお守とこの時より懐中して、ます/\信心ふかく祭りける。
江戸水道水切のはなし
お江戸はお膝元にて内事も結構なるが、市中呑み水に付きp283」
(略)
第二十四の巻
それ古歌に
豊かさや願ひなき身も神まうで
と。この節、芝の開帳[嘉永1.2.29-]に、貴賎老若わかちなく足をはこばす賑はひに、春の日ながに上天気、梶太夫も休みゐる時なれば、我が弟子どもと五人連れ、歩みゆくは泉岳寺、道は一里半余りにて、やがて芝口にさしかゝれば両側は茶店、料理屋花やかに、野端はつゝじ、げんげ花、山吹の花ざかり、楽しみ見ながら思はずもはや泉岳寺に着きにける。
寺の辺りの出し店は貴賎の求むる土産物、真ちうにてこしらへし花かんざしは由良之助敵討の兜、二ツ巴の前立ちに紫の糸房、あるひは麦藁張りの小箱は義士の人物、あるひは夜討竹の階子、手やり、寺岡平右衛門所持の槌、そうじて義士によりたる土産物、粟の岩おこしを由良おこしなぞと洒落れた菓子売り、水茶屋の行燈にも力休みなぞと面白く、または絵草紙屋、手拭屋にはみな忠臣蔵によそへし絵図ばかり。ほか商売には目もやらず、やがて開帳場にいたり内陣をして拝するに、格別珍らしき宝物もなし。眼に付くは義士夜討の着込み、塩冶の劔道具、判官公切腹の九寸五分、いかにもいづれも正物なり。
さても開帳に付き、あつき人あって、江戸中の芸人、義太夫の太夫を頼み、四十七人の木像を建立あるに、梶太夫もたのまれ、先達って金三百疋を出し置きある木像は、義士のうち岡島八十右衛門(行年三十八才)の木像なり。右木像はこれも当土の悪党ばらの山事と見えて、御公儀様よりお差し留めになりしと聞きしが、開帳場には見あたらねば、やはり山事にてありしとかや。
さてそれより下向には、見世物の掛け小屋五六ケ所興行ありてこれを見物するに、力曲持ち滝川鯉之助とて、浪花の早竹寅吉、または鉄割弥吉に負けまじき芸者にて、一まく見て下向道、この寺は山がゝりの境内にて、東南を見はらす風景に見とれなぐさみ、それよりは高輪掛け造りなる料理屋にて名物あなごにて酒飯をとゝのへ、夜五ツ時に旅宿へ帰りぬる。
さてまた当年山王祭、さつき月御停止にて、延引して秋祭となりければ、お祭この節におよびけると市中の騒ぐ。新場、小田原も出そろふとあって、浄るり寄場は乱逐さわぎなり。なほも両国回向院において、京都嵯峨御釈迦の開帳はじまりけるが[嘉永1.6.25-]、これは市中にての事ゆゑに格別の騒ぎにて、何もかも一時になり、梶太夫の家業はやくたいこくたい。
梶太夫が祖父師匠の内宝おちゑ後家の死去を聞き、大坂にては師匠染太夫の心配、野送りは梶太夫が悴鶴太郎葬式にたちしとあり。当地には梶太夫が恩人の内宝おもとといふ人死去する。梶太夫はその仏に借金もあり、上々葬式をせねばならぬ程の事なり。
岡太夫門人百合太夫は、梶太夫が手人同然にて、内弟子もろともゐたるに死去して、これもほかならぬ世話して遣はす。靱太夫、長の病気の上これも死去、香料を持たせ梶戸太夫遣はす。
[近3下p22嘉永1.10の項]さても憂ひの重なりて、江戸中の寄場御差留めある噂すれば、梶太夫は一向心ならずと思ふうち、またある時、ところp288」の名主衆浄瑠璃寄場の事に付き御公儀へ呼ばれし事あつて、何事の御用ともわからず、帰り道に鍛冶ばし御門へ戻りし道、末広といふ寄場に
長尾太夫出勤せしが、右名主一人かけ抜けて末広へいひけるに、「先に当所浄瑠璃は悪しかるべし」と聞くより、末広は後日のとがめをおそろしければ、直ぐさま行燈看板取り入れける。この噂かの寄席中へはやくも聞え、皆々行燈を引きて、明くる日よりは江戸中に浄瑠璃の寄席は一軒もあらじ。しかし講釈または噺家、写絵は鳴物をやめて、興行は大いにはびこりける。
何ゆゑに浄瑠璃は左程に厳しくと聞き合はせ見るに、操り芝居人形方のさし込みのよしにて、詮方なくも日を送るうちに、聞き合はせみるにいよ/\浄瑠璃はしばらく休みと定まりける。これによって、太夫仲間も火急に田舎へ出る者数多ありて、梶太夫も足利の噺ありしが、仲間中皆々同心にて同一所へ赴きて入込みし太夫あって、その地にて寄席浄瑠璃をせしが、お答めを受け、人形遣ひ何某はしばられて江戸へ追払と聞く。それゆゑ梶太夫田舎行きもならず、今は是非とも帰国せねばならぬやう相成りける。この噂を知合ひの衆が聞きつたへ、見舞に来る人は皆々小声にて愁嘆の噺、たゞ/\歎くとばかりなれば、梶太夫が旅宿は死家と同じ事のやうにて、さも陰気なる次第なり。
さて梶太夫は当地寄場浄瑠璃とまりければ、不思して火急に帰国となるに付き、大勢の弟子どもを召連れて帰る事にもあらず、皆それ/\に馴染みし家もあり、これにたよればその日すぎに困りもせず、そのうちには寄場とてもどちらへなりともはかる事ゆゑに、皆々当地に残りゐる談合に極まり、なかに梶代太夫たゞ一人を召連れる。支度調ひ荷物は飛脚と大廻しへ渡し、知縁はもとより旅宿の主へも暇乞ひ相済み、日柄を選みさらば立たんとするところに、この家の娘のお増、駈け出でて袂にすがり、「マア/\待って下さんせ。いかに約束なればとて、あんまり情ない胴欲な。譬へ嘘にもコレお増、無事に暮らせと空言は、いうても罰も当るまい。そもやお前と馴れ染めは、花の吾妻の夕涼み、結ぶの神の齢亭、アノ小座敷での事忘れてか、嬉しいはたらちめの、なさぬなかのお慈悲しん、打ちあけての恋結び、わしゃ悦んでゐたものを、お前はそれ程つれない」と、かっぱと伏して泣きゐたる。p289」心根不憫と梶太夫、ともにしほれてゐたりしが、様子を聞いて母おみさ、「ヤレその歎き必ず無用」と押し隔て、座に直り、「コレお増、それはどうしたもの、いま別るゝも約束ではないかいなう。もとはといへば去年の冬、そなたの旦那清次郎様、アノ梶殿をば呼び下して、寄場の普請や妾宅の造作諸式におふくの重ね、お店の帳面筆先の、黒まり兼ねておいとしや、押し込めの身となり、あげくには帰参は不叶、つれなう金もなし、故郷とやらへ退かれ、跡はそのまゝ音信不通、気の毒とは思へども、力に及ばぬ事は、縁の切れ目の離れもの、こちらから好んだ事ではなし、いやがる娘を押し付けて、親が頼んで無理やりに、長の年月勤めてくれた孝行娘と、いたいけにあまやかし、あだに暮すそのうちに、いかなる事にや娘の恋慕、恋にやつるゝいぢらしさに、問ひ落すれば梶殿にと、聞いてと胸の突き詰めし、娘の辛苦を助けたさ、ひそかに忍びで梶殿に、この事一向頼めども、お国に立たずとことに亦、いつ別るゝ事ある時は、薄情者と思はれては、我が身も立たず、お二方へはなほすまぬと、かたい程なほ母も惚れ、ハテモ別るゝ事のあればそれ迄と、娘にとくと呑み込ませ、いさぎよう別れるなり。世上の人とはこと違ひ、いやらしい金のねだり事、かつもって致すまじ、江戸の女と母迄も笑はれてくれなよと、いひ聞かせし事忘れたか、母は覚悟を極めてゐる。心をたしなみ潔う、今迄よりはなほ深く、介抱申して立たしましゃ、これはわづかの恥かし品なれども、紫繻子の子達の帯、御子息様へお土産物、御内宝殿へはこれ迄は、母が赦して娘にいたづらさせし、にっくいやつと嘸や嘸、お恨みの理ながら、たゞ旅路の事と思召されて給はれと、くれ/\も伝へて給べかし」といひつゝ涙娘も涙、忍び涙にまた思はずもわっとばかりに泣く涙、歎きと涙は関東の、玉川水の水道切れ、水涌き出づる如くなり。
勝手の方には見立ての人々、弟子どもまで聞き耳立て、しばししほれてゐたりしが、かくては果てじと梶戸太夫、襖押し開け何気なう、双方なだめ出立をいさめすゝめて追立てける。梶太夫は詞なく、母御の気性娘の思はく、気の毒とも不憫とも、いふにいはれぬなみゐるうち、いはぬはいふにいやまさり、涙にいはせて詞なく、大勢に押し立てられ、是非泣く/\も出で立つ姿、見帰りもせぬ心根を、母も娘も見送る思ひ、これぞこの世の憂き別れ、しばしの契りと知られたり。
竹本梶太夫婦坂道中の噺
(下略)