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【木谷蓬吟 五世竹本彌太夫 藝の生涯】

(2016.07.02)
提供者:ね太郎
 
藝の生涯 (木谷蓬吟 五世竹本彌太夫 藝の六十年(1934.10.10) より 第一編)
 
 【藝の六十年】はしがき
 
 第一編 藝の生涯
 一 子供淨瑠璃時代
 彌太夫生る−−名人と職業−−復興の新機運−−小熊太夫八歳から興行−−長門太夫へ弟子入−−稽古塲二階に泣く−−子供淨瑠璃の盛況−−江戸興行の騒動−−長子太夫と改名−−長門太夫の俄息子−−瓢簞定紋奇談−−道頓堀の初舞臺−−子供首振り操芝居−−首振からチンコ芝居−−子供淨瑠璃史と小熊
 
 二 修行時代
 苦心の朱章本三百冊−−最初の代役出語り−−大番附位置の懸隔−−ヘ訓獅子の子落し−−他流試合と猛練習−−八宗兼學語り散らす−−寒稽古(竹本彌太夫談)−−三大恩師と死別−−惡聲家の秘訣−−沼津の平作−−大恩師長門太夫逝く−−−かたみの痰拭き−−師四世彌太夫の死−−五世彌太夫を襲ぐ
 
 三 文樂座時代
 文樂座の初出座−−酒屋の代役−−文樂座の松島移轉−−漸く逆境へ−−髷斬り物語−−同情者古靱の退座−−變態史實淨瑠璃の流行−−稻荷祭餘興芝居−−無料の大歌舞伎−−春越路の師弟戰−−夢に恩師に拜顔す−−忠四の口傳−−文樂精~の低下−−特色漸く認めらる−−三人櫓下の紛爭−−重造の貞女ぶり−−彦六座の旗上げ−−三段目切語りとなる−−道明寺と判内−−玉三の人情味−−恩師先輩に酬ふ−−逆井村に柿の木−−文樂座引退の眞相
 
 四 稻荷座時代
 稽古三千人−−追善新作二編−−住、長登の死−−廣助との論諍−−九年ぶりの再起−−稻荷座初興行の盛況−−皮肉な吃又−−帶屋の繁太夫節−−又も起る櫓下紛議−−河庄か逆櫓か−−團平舞臺に倒る−−文樂の毒手に−−復興成つて引退す−−復活の明樂座時代
 
 五 引退から終焉
 稽古の生涯−−直系門人表−−越路、大隅の稽古−−相生、長子、俳優達−−竹彌連と瓢會−−女義太夫と藝妓−−稽古人の弊を諷す−−門人心得書−−右團治と團平−−女義太夫因會の成立−−三味線紛訌−−細棹事件、大隅文樂入−−因社後見としての彼−−日露戰新作淨瑠璃−−重患、火災、死−−十月三十日遂に瞑目−−歿去當時の位置−−終焉前後の事−−竹本彌太夫死す−−死の前後−−彌太夫の家族−−彌太夫の葬儀−−彌太夫葬儀の状況
 
 はしがき
 五世竹本彌太夫は、名人三世竹本長門太夫の愛弟子で、幼名を小熊太夫。後に、めつたに許されなかつた師の長の字を與へられて、長子太夫と改め、更に同門の高弟彌太夫の第五世を襲いだ。
 天保八年四月四日、大阪西區幸町に生れ、成年の後、北堀江上通二丁目に住み、俗に『堀江の大師匠』又は『木谷の彌太夫』とも呼ばれてゐた。明治三十九年十月三十日、泉州濱寺公園内の茶店(療養の爲めの借宅)で、行年七十歳を以て歿去した。
 明治初期の文樂座繁榮時代には、常に越路太夫(後の攝津大掾)と對峙し、越路の女性的な濃艶華麗な樂風に對して、彌太夫は男性的で、性格描寫人情語りの特殊な藝風を以て立つてゐた。越路は艶と色氣に富んだ美音で鳴らしたが、彌は頗る地味で小音且つ惡聲であつたから、世間一般の人氣に至つては到底比較にならなかつた。越路の盛名は廣く普く全國に喧傳されたが、彌太夫の藝味は主として京阪の地に、潔癖な鑑賞家の間に於て、狹く深く認められたに過ぎなかつた。
 三味線の巨匠豐沢團平は、當時の二人を對照して−−越路も彌太夫も文樂座には無くてはならぬ名花だ、然かし同じ花でも、越路は八重櫻で彌太夫は山櫻だ−−と評してゐる。越路は晩年宮家から攝津大掾の大名を賜り、元祖義太夫も及ばぬ光榮に輝き、引退後は須磨の別業に悠々風月を友とし、きらびやかな八重櫻に似た生涯を全ふした。これに比べて彌太夫は、一生を市塵の中に修藝一圖と戰ひ、臨終の直前まで朱章本を放さず、さゝやかな茶店の借座敷で淋しく散つて行つた、讓られた師匠長門太夫の名さへ『まだ/\修行が足らぬ』と固辭して襲がず、平凡な一彌太夫として瞑目した。いかにも山蔭に咲く一重櫻の淡い姿に似てゐる。
 彌太夫は七歳から斯の道に入り、七十歳の臨終まで六十余年の長々しい淨瑠璃生活を續けて來たが、然かし其間、文樂座とか稻荷座とかの本劇塲にかゝつた期間は比較的短かつた。文樂座へは明治四年から十九年までの十六年間、稻荷座へは二十七年から三十一年までの五年間、合せて二十一年間の舞台生活に過ぎない−−その他の四十余年は寧ろ彼が本來の使命と信じた硏究修業と後進養成に沒頭した−−而かも最後の舞台引退から指を折ると三十六年、歿年から數へても二十八年を經過した今日である。余程の年輩の人でないと彌太夫の藝格は扨措き其名さへ記憶に無いのは當然かも知れぬ。まして彼の文樂座出勤の頃は恰も全盛越路の四字に、玉石共に塗りつぶされた時代であつたから、一層その名の傳はらなかつた所以であらう。
 それにしても歿後三十年の今日に、尚ほ且つ第二編示す如く、舊知六十余氏から縷々情誼を盡くした追懷談を寄與されたことは、何といふ光榮であらう。實を云ふと、斯んなに知遇の玉稿が集らうとは思ひもかけぬ事であつた、地下の靈もどんなに嬉しがつて居ることか、子としての私に取つては更に此上もない悦びであることは申すまでもない。
 彌太夫の藝品、性格、逸話等に就ては、別項諸氏のお話によつて、色とり/\に描き盡くされて居り、今更蛇足を加へるでも無いから、私は專らその藝生活の一般に就て叙べることとした。
 それで、彼が自ら書き殘した十一歳から七十歳までの六十年間の日記と、數部の備忘錄と、新聞雜誌の記錄や、古老の直話や、直接父から聽いた談などを根拠として、淨瑠璃道修行の道中記を綴つて見た。誤謬もあらう、杜撰の誹りも多からうが、それは大方の示ヘを俟つて修正したいと思ふてゐる。
 
 第一編 藝の生涯
 
 一 子供淨瑠璃時代
 
 彌太夫生る 今から九十八年前の天保八年二月には、例の大鹽平八郎の亂が起つて、大阪の町は鼎の沸くやうな大騒動、平八郎は三月二十六日自刃して平定を告げたが、その九日目に當る四月四日に、大阪幸町の地に産聲を上げたのが、彌太夫であつた。
 幼名は熊吉、後に傳治郎と稱した。父は井筒屋文吉(母はミノ)と云ひ、加賀金澤藩士族の果でその祖先は、天正年間に創建された大阪藏屋敷の始めと傳へられる前田候の加賀藩藏屋敷(現在西道頓堀住友倉庫の地)役人として來阪、いつか町人となり此地に根を卸したものらしく、文吉は明治維新に際し井筒屋を改め藩主の姓を記念して前田姓を名乘り、幸町の顔利きとして道具屋株、湯屋株、髪結仲間の株持ちであつた。そして本業としては專ら湯屋を營んでゐた。後の彌太夫こと熊吉は明治初年今の北堀江上通二丁目貸座敷業木谷家に養はれてから、木谷傳治郎と呼んだ。湯屋からお茶屋へ、そして太夫と云ふのであるから、どちらにしても水商賣に縁が深い。
 
 名人と職業 商賣ついでに、斯界に名を知られた一流大家の出身を洗ふて見るのも一興だらう先づ近代の巨匠三世長門太夫は、道頓堀宗右衛門町の更紗染屋に生れ後に河堀口の一流料亭の主人と収つた。美聲で全身入墨の綱太夫は江戸左官職の悴で、五世春太夫は堺の庖丁鍛治から大阪靈符の湯屋の三助までやつてゐた。その門下の攝津大掾は大工の養子から仕上げ、人形遣ひの名手吉田玉造は大工道具商の家から、三世野澤吉兵衛は魚屋から、五世吉兵衛は讃岐漁師の息子、九世染太夫は同國農家に生れ、田舎角力となり三轉して太夫となつた。四世彌太夫は阿波の馬方から、呂太夫は大阪ハラ/\藥の旦那から、先代津太夫は京の小禽屋から、先代大隅太夫は高津の鍛治職、越路太夫は堺の八百屋、春子太夫は屋根職、六世彌太夫は手拭職から轉身した。
 と云ふ風に、此等名家の面々が、歌舞伎その他の藝界に見るやうな門閥繼承の型を破つて、あらゆる庶民級の職業者を網羅したかの觀があるのは、さすがに民衆藝術義太夫國の自由溌溂な面目が現れて面白い。
 
 復興の新機運 彌太夫の生れた天保八年の其當時は、社會的に觀ても明治維新の大變動を前に控へ多事多端の秋であり、日本の國運もどん底から立ち直らうとする時代であつたから、その大勢は淨瑠璃界にも反映して種々の意味を持つ活動が頻りと起つた。
 天保八年には、説ヘ讃語座なるインチキ軍が現れて文樂征伐を叫び、櫓を接して挑戰した騒動があり。九年には文樂座の花形長門太夫が一黨を組み連袂退座し、座弊廓清の烽火を揚げた出來事があり。善惡共に事故の多い、但し活氣に充ちた時代であり。偉材長門太夫を中心に名匠のたまごが數知れず孵化しやうと勢ひ立ち、宝曆以來の頽勢を挽回して斯界復興の機運大に昂らんとする時であつた。
 試に、當代淨瑠璃國の陣形を一瞥すると、稻荷境内文樂軒芝居の本陣には、重太夫住太夫勢見太夫長門太夫、三味線仙左衛門勝右衛門宗六伊八、人形金四辰五郎辰造門藏等々の錚々があり、御靈社内の芝居には、綱太夫三光齊、寛治勇三咲治、兵佶文三國五郎が一敵國を作つてゐる。また座摩境内の芝居には若太夫司太夫土佐太夫、傳吉辨吉、千四三吾の一座が頑張り。堀江市の側芝居には組太夫筆太夫若太夫、名八仲造、國八新吾冠四があり。道頓堀竹田の芝居には、靱太夫組太夫、文三、兵吉東三など。高津境内稽古塲には、越太夫内匠太夫錦太夫、名八、新吾東十郎の一團が控へてゐた。
 以上、ざつと數へて六座の淨瑠璃が、市内の南部に割拠して競演し、孰れも相當の興行成績を上げてゐたとある盛觀。そして山田案山子の新作物や改作物を續々上演し、八犬傳の幕なし、二日續きの新興行法を試みたり、人形の三役五役七役の早替り、七變化九變化の奇抜な趣向、長唄はやし振事の試みなど、種々様々の新工夫が此頃盛んに行はれたものである。
 
 小熊太夫八歳から興行 この氣勢に煽られてか、大阪市内到る處に素人淨瑠璃の團体が流行して來た。彌太夫の父の文吉も御多分に洩れぬ天狗黨の旗頭であつたところから、彼は幼少から常に父に連れられて稽古塲へ日參した。こうした環境が遂に彼をして太夫として本床に立たしめるに至つたのも、謂はば當然の運命であつた。
 彼が七八歳の頃には、既に父の語り物を自然と覺へ込み、素人會の露拂ひなどに屢顔を出したものらしい。所藏の一枚刷番附を見ると、弘化元年『瀧町於熊次郎方興行仕候』と前書きして、素淨瑠璃の連名中に……八歳竹本小熊太夫……と大書されてゐる。彼の幼名熊吉から採つて小熊太夫と名乘らせたものらしいが、八歳の時既に斯うした興行的の舞台に上つてゐるのを見ると、夙く六七歳頃から稽古を始めて居たものと推測される。
 
 長門太夫へ弟子入 十歳の時(弘化三年)始めて當時の大立者三世竹本長門太夫の門下に加はることが出來た。長門太夫の家は天王寺の東方數丁俗に河堀口(今の市電河堀~社前停留所附近)の當時杜若と名松とで名高く幕府の巡見所に當てられた若松屋といふ料亭であつた。
 小熊太夫は、日々幸町の自宅から十町余りの道を、せつせと通ふて稽古を勵んだ。長門太夫は大の歡喜天信仰家で、毎朝未明に庭内の高櫓に登り天下茶屋聖天山の歡喜天を遙拜するのが例であつたから、小熊太夫はそれまでに駈け付けて、師匠の部屋掃除をすまさねばならなかつた。
 それで夜の明けぬうちから家を出て、まだ薄暗い曉の道を利用して、師匠から課せられた『泣き』の練習をしながら行つた。ある時、高津の下町を例の通り、アヽヽ、アヽヽと泣きの稽古をして通ると、ある家で職人らしい男の聲がした『ヲイかゝいつもの泣き小僧が通つた、飯にしやうか』まさしく明けの太鼓の代用にされたといふ笑話がある。
 彼は長門太夫の他に、毎日四五人の太夫の許へ駈廻つてお稽古に余念も無かつた、それが此頃の彼の日課の全部であつた。はるかに遠い六十年の修行道へ、これからいよ/\難行苦行の繪巻が展べられて行つた。
 
 稽古塲二階に泣く 長門太夫を始め其他の師匠たちは、何分十歳に足らぬ子供の事とて、可なり勞はつてヘへてゐたが、父の文吉は至つて鼻息の荒い素人天狗だけに、小熊を仕込むのに甚だ嚴格を極めたものだ。冬の寒い夜空に物干台に投り上げて徹夜寒稽古をやらせたり、覺へが惡いと云つては打つたり擲つたり、倉の穴庫(地下の物入れ)へ押籠めて絶食させたことも數知れない程だつた。ある時は商賣のお手の物とて、小熊を引提げて浴塲へ連れ行き、湯槽の中へ眞逆様に頭を突つ込むといふ猛烈な懲戒ぶり、浴客は驚いてマア/\と仲裁する、これが度々のこととて、幾度仲裁したか判らないと、後の彌太夫のフワン當時浴客の一人だつた幸町の材木屋久住といふ人の直話。
 小熊太夫が十三四歳の頃の日記帳を見ると、最後の餘白にこんな歌のやうなものが書かれてあつた。
  しんのやみ見へもはぢをもいとわずして、けいこ塲二かいにひとり泣くらん
 いかに稽古の劇烈であつたかゞ想像されやう、子供心にもよく/\辛かつたに違ひない、こんな幼少の時から、こんな血の出るやうな修行を積んで、漸次一人前の太夫にまで漕ぎつけて行くのであつた。
 
 子供淨瑠璃の盛況 小熊太夫が舞台らしい舞台へかゝつた最初は、十歳の時、人形遣ひの立て者吉田三吾の勸めで兵庫柳原の芝居豐竹ョ太夫の一座に加はつたのがそれで、附け物のお半長右衛門帶屋の段を勤めた。これが意外の好評であつたところから、少年ばかりの一團を作り、子供淨瑠璃と銘打つて小熊太夫が座頭に座り、中國地方を巡業したが、珍しいと云ふので至る所で大當りを得た。
 尼ケ崎の小屋で其第一回興行の時、小熊の爲に土地のヒイキから紅提灯を澤山に贈られた。出番の時に舞台の上へ點燈して釣り下げ大に景氣を付けたが、何も知らぬ小熊は、例の通り口上も済んでフツと頭を上げると、一ぱいの紅提灯の行列、アヽ綺麗だとウツトリ見とれて、いつまでも語り出さない、三味線はあせる見物は呆れる、樂屋からは親の文吉が飛び出して宥めたり叱つたり、ヤツとの事で語らせた。これが又人氣となつて客を呼んだ。
 こんな風に、毎日の稽古は隨分と辛いが、又舞台で語る愉快さは格別と見へ、子供心にもその嬉しさに勵まされて、傍目も觸らず一直線に進んで行つた。
 中國巡業から戾つて、京都萬壽寺の席や大阪清水町濱の席(天保の改革で社寺境内の興行禁止となつた直後この清水町濱の新埋立地は殆ど市内隨一の娯樂街であつた)などで、子供淨瑠璃一座を牽ゐて座長ぶりを發揮した。得意の語り物は、志渡寺、逆櫓、大安寺、吃又、躄の瀧、帶屋、八百屋などの大物ばかり、一座の少年太夫は、弟の豆熊(後に、彌々子と名乘りチヤリ語りの上手)小隅菊壽、九重など、六七歳から十四五歳までの幼年倶樂部。舞台で小用を催して係の者を困らせたり出番を待つうち寝込んでしまうなど、無邪氣の限りを盡くしてゐたが、それでも世間からは中興子供淨瑠璃の開發と稱揚され、末恐ろしい『熊の子』などと、評判の的になつて騒ぎ立てられ、一枚刷の舞台姿繪など出版されるといふ勢ひだつた。
 
 江戸興行の騒動 嘉永四年四月小熊太夫十五歳の春、師匠長門太夫は始めて江戸から迎へられ興行に下つた。一行は理太夫、眞喜太夫、佐賀太夫、三味線鶴澤清七その他の顔ぶれ、中へ少年小熊太夫が特別破格の抜擢で隨行を許された。いかに彼が師匠長門太夫に可愛がられて居たかゞ知れやう。
 この江戸興行につき圖らずも大騒動が持ち上つた。と云ふのは當代隨一の大立者、江戸にも評判高い長門太夫を繞つて、薩摩座、結城座兩劇塲の金主の間に猛烈な爭奪戰が起つたことである。この紛擾は意外に惡化し、其身邊に血の雨を見やうとしたが、長門の豪膽果斷な處置に一切が解消し圓滿な結果を見ることが出來た(詳細は拙著『文樂今昔譚』に書いたから茲には略す)。少年小熊は師匠の大事とばかり寸時も傍を離れず、スワと云はゞ一命を抛つて働く決心であつたと、これは後年彼れ自らの話であつた。
 
 長子太夫と改名 事納まればさすがに江戸つ兒は潔い。長門の人氣はいやが上にも高まつて連日の大入を占めた。この時圖らずも師匠から長の一字を許されて、小熊改め長子太夫と改稱した恐らく小熊の幼年ながら、身命を賭して師を庇ふた、其優しい心持を買ふてくれたものであらう。
 此時の狂言は忠臣藏の通しで、長門は九段目と茶屋塲の由良之助、小熊改め長子太夫は三段目殿中の中と、茶屋塲の力彌で師匠と顔を合はせた、その時の悦びはどんなであつたか、想像に餘りがあらう。
 だいたい長門太夫は多數の門人を持つて居るが、めつたに長の字だけは與へなかつた、それ程自分の藝名を尊重した人が、まだ十五歳の小童に長の一字を與へたのは、まことに破格の特例に屬するもので、當時幕内の話柄とされた。
 尤もこれより先きに、たゞ一人長尾太夫と云ふのがあつた。この人は一廉の名人でもあつたが、もとは天王寺村の長として七千五百石を領した大庄屋であつた、名譽ある家柄を惜氣もなく棄て淨瑠璃界に身を投じた人である。謂はゞ長門の領主様であり、稀な有識者でもあつたから、力を入れて修行を積ませ、遂に此人だけには長の字を許したのであつた。次に許された果報者が少年長子太夫であつたから、斯道の人々から羨しがられたのも無理ではなかつた。(但し後に至つて長字を名乘る者二三あつたがそれは別の意味からであつた)
 
 長門太夫の俄息子 師匠長門は、自分の一座に置いては役付も惡く修行にもならないからと特に他の各席へ出勤させた。それも長門の指圖で當時江戸で有名な竹本咲太夫(前記の忠臣藏興行に四段目切を語った人)と、二枚看板の眞打と云ふ滅法な好條件で諸所の町席へ出演して、大に面目を施した。『師匠の洪恩は戴いても戴き切れぬ』と死ぬまで口癖のやうに言ふて居た彌太夫の心持が、この一事でもよく判る。
 その頃四谷の某席で大寄せの花會が催れ、長門太夫の助演を懇望して來たが、こうした派手ばつた事は大の嫌ひであつた長門は『長子、お前行つて語つて來い』と言はれ、子供の事とて何の考もなく語ることの嬉しさが先に立つて、さて其席へ飛んで行く、木戸も破れるばかりの大景氣『日本一の長門太夫を聞かねば江戸ツ兒の恥だ』と、淨瑠璃が何やら判らぬ連中まで押寄せた人の波。この氣勢に萬一の批難を恐れた催主は、一策を案じ『長門太夫出演の處、急病に付子息長子太夫代役にて勤む』と斷り書を貼り出し、豫防線を張つて警戒し、一方樂屋では、合惣頭の長子太夫を俄に前髪に作り替へるなど大騒ぎで舞台へ出した。何も知らぬ長子太夫、『こゝに土佐の末弟浮世又平重起…』と語り出すと、『長門の息子シツカリョむぜ』と正面から聲がかゝつた、長門の息子と言はれて面喰つたが、餘りの嬉しさに、いかさま長門の御曹子になりすまして、吃又の一段、大熱演でやっでのけた。
 後に大阪へ歸つてからも『長門太夫の俄息子』と二つ名を付けられ笑ひ話の種となり、長子の爲には此上もない名譽の江戸土産となつた。
 
 瓢簞定紋奇談 この一年ばかりの在京中に、新川酒問屋の主人に特別のヒイキを受け、殆ど其家に起臥する有様であつた。主人は生粋の江戸ツ兒氣質で、長子の爲に衣裳から羽織から一切を新調して與へ、大に花を飾つてやつた。但し其紋所が、酒問屋を利かした瓢簞の定紋で、これを總ての物に附けてあつた。彼が歸阪の後も、四季折々の衣類や持物など贈つて來たが、いづれも瓢簞の紋付きであつたところから、いつとは無しにこれが彼の替紋となり、今に木谷家の紋所となつて殘つてゐる。これも懷かしい江戸土産の一つであるが、惜しい事には此恩人の名が逸して判らない遺憾なことである。
 
 道頓堀の初舞臺 嘉永五年、師の一行に遲れて一年ぶりに大阪へ歸つた。九月道頓堀竹田の芝居に長門太夫江戸戾りの記念興行があり、前狂言に蝶花形名歌島台を置き、切狂言には新作『花雲佐倉曙』佐倉宗五郎義民傳を上中下三編に仕組んだのを江戸土産として上演した[義太夫年表近世篇3下p144]。これは彼地の講談種を何人かが脚色したものらしいが、表面の作者は長門太夫こと佐久間松長軒(佐久間は本姓松長軒とは有名な彼の邸内の老松に因む雅號)と、多滿太夫(長門の門人チヤリ語り)こと登與島玉和軒の合作となつて居る。
 一座は長門、富司、理太夫の江戸戾りに、初上りの咲太夫それに湊、三光齊、中太夫の粒揃ひ。長子太夫は改名初出座で、蝶花形の宮島、千疊敷かけ合と、佐倉曙の星田本城の三役を勤めた、これが道頓堀本塲興行の初舞臺であつた。
 この興行、新作物と云ひ長門久々の出演に人氣集中し、道頓堀三十年來の大當りであつたと云はれた。その二十五日目、宗五郎内を勤める長門太夫の見台の前へ、知らぬ間に五分ばかりの小玉銀が載せてあつたのが、更に評判を湧かして愈々非常の大入となり、その爲め特に舞台下手に二階作りの見物席を急設し、滿員に溢れた見物を入れたといふ、前例のない診談が傳へられてゐる。
 
 子供首振り操芝居 翌六年一月二月と引續き若太夫芝居−−八犬傳の洲崎長者と朝顔話の多々羅濱−−を勤めた。いつも朝の暗いうちに役上りとなる青菜太夫が、その三月同劇塲の興行に一躍大立者になりすました。それは中興子供首振操芝居といふ新しい興行が始められ、當代立者役者の御曹子を集め、人形仕立の首振りとし、それに子供太夫子供三味線を配したもので、長子太夫は其座頭として迎へられたのであつた。
 狂言は妹背山三段目山の掛合で、長子太夫(十七歳)は背山の大判事と久我之助を語り、妹山は當組太夫(十七歳)が勤めた、三味線は豐八(十七歳)團八(十六歳)の子供揃ひ。人形仕立の大判事には十三歳の市川qセ郎(後の齋入右團治)定高には十一歳の市川猿之助(梅舎の子)が當てられ、この二人は鬘を普通に被つて勤めたが、久我之助は六歳の實川延太郎(延三郎の子)雛鳥も六歳の三桝源五郎(大五郎の子)腰元はヤツと五歳の淺尾房之助(爲十郎の子)といふ坊ッちやんで、この三人は鬘なしの地頭で出た。この芝居三日より二十三日まで丸二十一日間、グツシリと見物を鮓詰めに詰め込んだ。
 この初日に先立つて、一部から批難の聲が湧き上つた。それは本格の太夫が歌舞伎の舞臺へ出ることは品格を傷つけ太夫の名聲を汚すものだと云ふのであつた。この攻撃の矢面に立つた長子太夫は困り切つた一座の關係者と共に、師匠長門太夫の意見を叩いた。長門曰く、天保二年に藍玉の組太夫が人形吉田千四と共に梅玉歌右衛門に景清を勤めさせ、日向島の段を角芝居で上演した前例がある、勿論役者を人形と見做して物を言はさず、淨瑠璃を語る分には何等差支へはなからうと、事理明白の意見に反對側も一言なく、無事に初日を開けることが出來た。長門太夫が博識であり臨機の果斷に富むことは云ふまでもないが、常に小規に拘泥せず清濁併せ呑む大量と、一面弟子を庇護する人情味に饒かなことは此一例にも見ることが出來る。
 話は横にそれるが、これと同様の出來事が其後繰返へされたことがある。
 明治二十二年頃、角芝居で先代市川右團治が二十四孝の八重垣姫に扮し(勝ョは延三郎、濡衣は巖笑)、豐竹柳適太夫豐澤廣作の床、吉田辰五郎の人形で勤めた際にも、淨瑠璃因會から批難の矢を射たが、彌太夫は長門所説の前例を採て親友右團治の爲に辯明して事なきを得た。次に三十二年頃、伊達太夫が東京歌舞伎座にて同じく二十四孝を演じた時にも、因會の問題にしやうと策動した向きもあつたが、因會々長彌太夫は又も前例を示して異議者を説服したことなどあつた。
 
 首振からチンコ芝居 この興行の大成功に味を占めて、翌安政元年六月、竹田芝居に第二回首振操芝居を出した。兜軍記琴責の狂言に、俳優側では阿古屋が中村政治郎(後にo)岩永が市川米藏(後に壽三郎先代左團次の兄)重忠が片岡島之助、榛澤が中村駒之助といふ配役。長子太夫また聘されて岩永左衛門を語り、重忠を小住太夫、阿古屋を當組太夫が勤めた。三味線曲彈きには例の團平以上の妙手と稱され、雷鳴と競爭して高音を彈き切つたといふ古今の健腕、一名を鬼寛治と恐れられた鶴澤大吾郎の出演で、無類の喝采を博した。
 以上二回の興行的功果を見て、市内各所に續々首振芝居が流行し出した。御靈社裏門の席、北堀江阿彌陀池の席、座摩~社裏門の席など、殊に盛況を見せた。それに連れて所謂腕達者な子供役者の幾人かを作り上げると云ふ副作用も生れて來た、中村米吉(吉右衛門の父歌六)や片岡松之助(紫琴)の擡頭など其一例である。そして此等の首振芝居が後には、人形振や淨瑠璃ぬきの純粹子供歌舞伎と化し、俗にちんこ芝居なる一分野を作り上げ、相當流行の或一時代を上方劇檀に持續したのであつた。
 
 子供淨瑠璃史と小熊 然かし斯うした流行の機運を助長させた原因の一つとしては、その中興と定評のあつた長子太夫等の子供首振芝居の運動を逸することは出來ない。更に溯つてこれを考へると、その又母胎とも云ふ可き子供淨瑠璃の一派を盛行させた小熊太夫等の活躍をも認めねばならぬ事とならう。
 要するに、小熊太夫の子供淨瑠璃、長子太夫の子供首振芝居は、その流行の期間は短かつたとは云へ、『子供淨瑠璃史』の一ぺージに相當重要な役割を勤めたものとして、記錄さる可きものであらう。
 
  二 修行時代
 
 苦心の朱章本三百冊 安政元年三月には道頓堀竹田芝居に、妹背山、合邦、八島日記が出て櫓下長門太夫は山の掛合大判事と合邦内を語り、長子太夫は大序春日社の段を勤めた。
 當時の長子太夫は無論未明から出勤し、自分の役塲を終ると、先輩太夫の語り塲を逐一に聽いて五行本に節付の朱を入れた。又師の口添を得て他の劇塲へも通ひ、特に許しを受けて先輩のを聞かして貰ふた。垂簾内の隅で小さくなつて、小蠟燭の灯をたよりに朱を入れた、或は手摺の蔭に身をかゞめ、抜けつ潜りつ人形の邪魔にならぬやう、遠慮しながら朱章を入れたものである。その多年苦心の結晶になる朱章本は、三百餘冊となつて現に手許に保存されてある。あらゆる名太夫名三味線の譜章が丹念に記入されてゐる、調べて繰れば古名人の聲曲が再現されてくる貴重なレコードである。六十年間書き續けられた其日記と併せ見て、彼が刻苦精勵の一面を窺ひ得る活きた證左となつてゐる。
 
 最初の代役出語り 竹田芝居の四月に近江源氏が出た時、盛綱館は長門太夫、木津守館は八重太夫、四斗兵衛住家は中太夫で、長子太夫は大序鎌倉御殿とョ家館の口塲とであつたが、中太夫が急病で亡くなつた爲め、その代り役として長子太夫と越太夫の二人で切を勤めた。無論これは師匠の心ある指圖であつた事は云ふまでもない、まだ大序語りのピー/\であつた彼が、二段目切の大役を花方の越太夫と二人で語らせて貰ふたのは、まことに過分の光榮であつた。當時の新進は先輩過多のため容易のことでは好役塲にありつけず、特に重い代役に抜擢された時、始めて腕を認めて貰ふことが出來るので、昇進の途は代役の他にないと云はれた程に、この代役は長子の生涯に最も感銘の深いものであつた。それに彼に取つて最初の出語りであつたことも思出の一つとなつてゐた。言ふ迄もないが明治の或時期までは、切塲とか道行景事とか祝儀など特別の塲合でないと、めつたに出語りは無かつたのである。
 いつも後進養成に心を配つた長門太夫が、二十九歳の青年豐澤團平を引抜いて櫓下の合三味線に据ゑたのも。後に美音綱太夫と稱せられた江戸左官職の獄道息子を拾ひ上げて男にしたのも、たしか此當時のことと思ふ。
 
 大番附位置の懸隔 安政二年三月版『三都太夫三味線見競鑑』の大番附を見ると、實に多士済々百華硏美の盛觀を呈してゐる。先づ東の大關座には長門太夫が座り、關脇に駒太夫、小結染太夫、前頭は山城掾、春太夫、津島太夫、組太夫等が顔を揃へてゐる。西の大關には大隅太夫、關脇岡太夫、小結湊太夫、前頭には内匠太夫、咲太夫、富太夫、彌太夫、越太夫、別に三光齊が扣へてゐる。巴太夫が勸進元、八重太夫が差添人、後見には綱太夫と越前大掾とが収つてゐる。
 さて長子太夫はと見ると、東の方の三段目(最下級)の六枚目に、みゝずのやうな細い文字で載せられてゐる、この時彼は十九歳であつた。
 それが三十年を經た明治二十年頃の『三業見立大番附』を見ると、西の大關の高位を占めて居り、因會の顔附表では後見(因會々長)として第一位の席に座るまでに漕ぎつけてゐる。(因會副後見は攝津大掾、次に津太夫大隅太夫等々)惡聲小音、地味で大衆的人氣に乏しかつた彼にして、この成業の効果を擧げ得たのは、全くその生涯を藝道修行の一途に捧げ、無二無三の修養精進に邁進した賜であつたとは云へ、一には其青年時代に於ける恩師長門太夫の限り知れぬ愛撫と嚴正極まる薫育と、更に其優れたる人格の感化による事を特筆して置く。
 
 ヘ訓獅子の子落し この當時のことである、或時長門太夫は長子に對して次のやうな訓誡を與へた。
 いやしくも一人前の太夫とならうとするには、先づ出來るだけ數多く淨瑠璃を聽くことが第一である。どんな人にでも何處か眞似の出來ぬやうな旨いところがあらうから、それを捉へて自分の物にして置けばいつか必ず役立つ時が出て來る。又、名人の藝でも、その聽いた當座は到底自分の力では口眞似もできないと思ふても、いつしか腕さへ上つて來ればこれも自分の物にすることが出來るやうになるものだ。此等の修行を積む近道は八方へ飛んで多くの體驗を味ふに限る、その意味からも、我が一座では先輩も多く從つて役も付かず修行に不利である。お前は年も若いから、よろしく私の懷から出て他流試合で腕を磨き、時代世話大物端塲艶物澁物滑稽物何でも構はず、先輩異流の長所特徴を學び自分の胃袋に詰め込み、後日大成の準備にかゝれ云々
 これが長門の秘藏弟子ヘ育の虎の巻であつたらしい、所謂獅子の子落しの筆法で、愛すればこそいとし兒を千仞の谷底へ投げ放つのである。多くの門人の中にも愛弟子の長子太夫を特に一座から突き放して自由の天地に武者修行の苦難を嘗めしめ、一方その藝才を伸ばさせやうとの試みであつたものと思ふ。それにしても良き師匠は持つ可きものである、この獅子の子落し法が役立つて、他日の彌太夫を大成せしめる事になつた。
 
 他流試合と猛練習 長子太夫は斯くして師の一座から離れ道頓堀を去つて行つた、そして所志の通り藝道の武者修行に各道塲を巡つて歩いた。即ちその足跡は、北新地の席、清水町濱の席、法善寺席、新屋敷席、日本橋席など市内の寄席を始めとして、堺、道明寺、淡の輪、尾崎、深日、加太歌山、淡路、阿波、明石、奈良、丹波、丹後あたりを巡業して、殆ど寧日無き有様であつた。
 ある時は、名人竹本内匠太夫の一座に加はつて其至藝の世話物を飽くまでも習得し、又古靱太夫や筆太夫、浪太夫や土佐太夫等の座に入つて、各師各様の名技を見學し、阿波や淡路の人形座にまでスケとして加入し、特異の語り風にもヘへられるところがあつた。かくして各地各所到るところに大將株と取組んで、あらゆる異つた藝風に親しみ、彼の頭の硏究袋に盛り切れぬばかりの収獲を頂戴することが出來た。そして大阪に歸つた時は、旅の草鞋を解く暇もなく、名人達の門戸を潜つて更に稽古を勵むと同時に、旅藝の垢を落すことにも心懸けた。當時澁い物では第一位に推された袋安こと六世内匠太夫や、長門直傳その衣鉢を傳へた高弟湊太夫や、例の三味線の大立者鬼寛治や同じく故實に精通した網干屋燕翁等の巨匠に就て、ミツチリと修行を積んだ。彼の藝力の蘊蓄は、恐らくこの數年間の難行時代に胚胎したものであらう。
 
 八宗兼學語り散らす 本塲の大阪で習得した語り物は、各地の旅へ出て思ふ存分練習的に語り馴らした、草紙にされた地方聽客こそ迷惑であつたに違ひないが、あらゆる大物澁物艶物を八宗兼學に語り散らした。無論大阪の本塲では出せない未成品でありナマな物ではあつたが、若い元氣のありだけを傾けて盲滅法に力演した、そして聲を破り喉を潰し、脱線調子外れも敢て問題でなかつたらしい。『たゞ今日の床さへ力一ぱいに語ればよい、明日は聲がどうならうと、腹が何とならうとそんな事は考へない、毎日たゞ懸命に見臺と相撲を取つてゐた』當時の心構へを彼は正直に告白して居た。
 試に當時の番附から其語り物を拾ふて見ると−−二代鑑秋津島切腹、寺子屋、大安寺、双蝶々橋本、引窓、伊賀越沼津、岡崎、三勝半七酒屋、八百屋、逆櫓、お染久松野崎、質店、めし椀、白木屋、志渡寺、幡隨内、天王寺村兵助内、岩井風呂、吃又、大經師内、忠四、いざり瀧、宗五郎牢屋、阿漕平次内−−等何でも彼でも大物ばかりを臆面もなく語つてゐる。これも永年子供淨瑠璃の統領として語り捲くつた、馬車馬時代の延長とも見られるが、兎に角彼の爲には實力養成の此上もない修養となつたに違ひない。
 この修行時代の前後を語る一の逸話が、大阪毎日紙上(明治三十九年二月四日)に、『寒稽古』と題して載つてゐる。一には安政頃の大阪風習を知る資料にもと、左に轉載することにした。
 
 寒稽古−竹本彌太夫談 寒稽古は今でこそ餘りやらないやうですが、ツィ先年まではアノ長堀の材木市を立る人が、夜明け前に河岸の材木の上に立つて、寒い川風に面をさらしながら大聲で市振りの稽古をしたものです。昔は物干の板の間へ座布團を敷き、吹きぱらしの寒い所で夜明け前からやらせたものです。
 私がこの寒稽古をしましたのは十二三歳の頃ですが、豐澤廣助の父の茂太夫は廣助を寒中に二階の椽端に坐らせ、小桶に水を入れて傍に置き、三味線を彈く左右の手先きを何遍となく其冷水につけ、殆ど無感覺になつたのを手拭でよく拭ひ、そして三味線を彈かせてゐた。これを見て來た父親は、早速私に寒稽古を命じました、朝五時頃から火の氣のない二階にほり上げられ、雨戸は明け放しで何なりと一段づつ語らされるのです。イヤその辛い事骨身も碎けるやうでした。當時子供から太夫になる者が稀でしたから、淨瑠璃語りの寒稽古は、まづ無いと云つてもよかつた、三味線の方は大抵これをやつたものです。
 併し太夫より素人の方に却て寒稽古する人が多かつたのです、私が二十歳位の頃、夜十一時過ぎから家を出て、程遠からぬ赤手拭稻荷の邊へ寒稽古に行きました、今とは違ひ全く畑の中で周圍は廣い野原でしたから、氣兼ねなしに畔道に立つて笑ひの稽古をやりました。下腹に力を入れ、體を備へ、ウムフ、ハアハと大笑ひを始めると、はるか向ふでも、ウムフ、ハアハと云ふ聲です、尤も月はなし誰が居るか判りません、多分反響かと思ひながら、今度はハア−ハヽヽと泣き落しの練習をやると、又向ふで同じ泣落しをやるのです。赤手拭と云へば有名な狐の巣窟、さてはコン/\様の惡戯かと思ふと、身躰がブル/\顫ひ出しました。けれど血氣壮んな頃ゆゑ若し狐であつたら、忠信を語る時の參考になると慾が出たので勇氣も出來ました。近寄つて行くと向ふも寄つて來る、星明りに顔を見ると狐ではなく、堀江の素人語りの名人眞若といふ紀の佐席の主人でした。大笑ひとなつて翌夜から誘ひ合せて寒稽古に出かけましたが、それと聞いて加入者が増し七八人の仲間が出來ました。
 寒稽古の功能は、太夫には大した功驗もないかも知れませんが、三味線彈の方では床の上で寒中手を空しうして待つことが多い、その間の寒さを堪へるには寒稽古をした人はたしかなものです………(轉載記事終)
 
 三大恩師と死別 長子太夫の斯うした死に身の修行時代中、安政から明治元年に亘るわづか數年の間に於て、杖柱とョんだ恩師三人にまで死別の不幸に遭遇した。それは六世内匠太夫、三世長門太夫、四世彌太夫の各師であった。
 安政三年十月十二日には六世竹本内匠太夫が此世を去つて行つた。まづ内匠太夫と長子太夫との關係から叙べる。
 内匠太夫は、もと五世染太夫こと越前大掾の門下で、後に三世長門太夫の預り弟子となつた。惡聲ではあつたが、世話物の巧妙さだけは長門も及ぶまいとの定評があつた。當時長門の大名の下に匿れて世間的には知られてゐなかつたが、特に伊賀越沼津の如きは古今に類を見ぬ至藝と云はれ、後世彌太夫の得意物の一つとなつたのも、全く内匠太夫から傳來の賜に外ならぬのである。
 元來彌太夫の藝の素質としては、音量豐富な師長門の藝風を享けるよりも、寧ろ非音な内匠の藝格に學ぶ所が深甚であつたと想はれる、彼が後に專ら世話語りとして認められるに至つた所以も茲に在つたのではあるまいか。
 長子太夫は、既に十五六歳の頃から特別に内匠太夫に就て、劇しい入念の稽古を受けて來た。と云ふのも彼はもと/\子供時代には相當聲量もあつたが、年頃になつて聲變りが甚しく、思ふやうに語れなくなったところから、惡聲の名人内匠太夫を目指して其極意を學ばうとしたのであつた。そして極力努め、工夫を凝らして修行をしたが、惡聲小音の悲しさ、同じ年配の美音家に比べていつも一歩を讓らねばならなかつた。ある時は殆ど氣力も抜け果て失望落膽の餘り、藝界から脱れ去らうかと心惑ひ、ひそかに、内匠太夫に衷情を訴へたことがあつた。内匠は岐路に迷ふ若輩長子の爲めに、眞心籠めての訓誡を與へた、それは惡聲家の秘訣とも云ふべき、次の如き名言であつた。
 
 惡聲家の秘訣 内匠は云ふた……今暫くだ頑張りなさい、お前は惡聲だが然かしまだ見どころがある。惡聲の者はどんなに節を聞かそうとしても駄目だから、詞に情を活かして語るより他に工夫はない。言葉に情を寫すといふことは例へば、道理ぢや/\/\と三つ位重ねて泣く塲合、最初の『道理ぢや』には既に悲しい心持を含ませ、後の詞にも又切ないと云ふ思ひ入れで語ると、最後のワツと泣く聲が自然に悲しげに聞こへるものだ。我々のやうな腹の薄い聲のない者は、決していつも同じやうに語れるものではない、咽喉の工合の良い時は三つも續けられるが、聲を痛めた時は二つよりやれない時もある、これを强いて三つ續けやうとすると、きつと破綻を來すものだ、つまりは、二つ泣くも三つ泣くも同じ事だから、無理に聲を使はないで、悲しさを口先きだけでなく心の底から悲しいといふ心持で語れば、きつと情が現れるに違ひない。お前方は只泣きのところで悲しがらせやうなど思ふから宜しくない、淨瑠璃の文句といふものは泣くなら泣けるやうに、その前文から仕込みが出來てゐるものだ、それに前文を何の氣なしに棒讀して、泣く所へ來て俄に泣いてもそれでは情の滲んで出る筈はないから、決して悲しくなるものではない。前文から既に其心構へでやつてさへ居れば、終りの泣きが一つであらうが二つであらうが、自然と悲しみの情が湧いて出る。
 
 沼津の平作 泣きの話のついでに、伊賀越の沼津で、平作がお米に情けないことしてくれたと云ふところは、三つ續けて泣くことになつてゐるが、これも同じ調子で泣くやうでは味がない、初めの泣きは盗みするとは何といふ不心得かと叱責する氣持で泣き、次は日頃そんな横着な人間ではなかつたのにと、親の慾目で少しく考へて泣き、三度目にはいよ/\盗みを働いたか、エヽ情けないと眞劍に泣く、同じ泣くにも斯うして三様に心持を活かして泣くと、自然と情が溢れ出て感銘を與へることが出來、藝も光る。
 又初段のこあげで平作が重兵衛に駕を勸めるくだり『旦那モシお泊りまで參りませうカイ』以下の詞も、普通何の氣なしに棒讀してゐるがそれでは藝と云はれない、あれは松の根などにかゞんでゐた雲介の老爺が、ヤツトコセと立ち上つて來て、歩きながら云ふのである、その詞のうちに以上の動作が浮んで聞こえねばならぬ筈だ。と斯う云ふ風に何かにつけて考へもし工夫を凝らすと、その塲/\の情趣といふものが現れてくる、それで淨瑠璃も面白く聞かれる。美聲で巧く振り廻すだけでは、節は操れても情味が現れて來ない、だから惡聲でも腹薄でも悲觀は無用、情を描き現す工夫を積めば、きつと一方の名人となれるのだ。お前は年も若いし、わしに較べればまだ/\聲のある方ではないか、シツカリ勉强せよ、惡聲には惡聲の味があることを世間の金魚喰ひに知らせてやれ……
 長子太夫は翻然と非を悟つた。名人と云はれる人は、こんなに奥の奥まで考へ、工夫を盡くして語つて居られるのかと、初めて自分の淺慮なこと、まだ/\本當の修行道に入つてゐないことに目が覺めた。今後いよ/\言葉と情との硏究に沒頭し、一人前の太夫にならねば死んでも死に切れないと、心の底から力强い自奮の魂が蘇み返り、生涯を斯の道の修行者として倒れるといふ決心が固まつた。この内匠太夫の訓誡があつたればこそ、惡聲家の彼は安堵して藝生涯を全ふすることが出來たのである。彼が常に大恩人として敬慕したのも此故であつたと思ふ。『惡聲には惡聲の味がある』と喝破した内匠の一言は、名人播磨の謂ふ『聲無くして人を呼ぶ』とある金言と共通して、惡聲家の好標語と云つてよい。
 
 大恩師長門太夫逝く 内匠太夫の物故に次いで、唯一の大恩師と仰ぐ三世長門太夫とも、また別れねばならぬ時が來た。
 元治元年八月の稻荷文樂芝居は、前が白石噺、中が極彩色娘扇、切が皿屋敷で、長門太夫は娘扇の天王寺村兵助内を語つて、大入を續けてゐたが、九月二十八日のこと、オクリまで語つて急に顔色變り、無言のまゝ床を下りたので、すぐ背後に居た弟子筑前太夫が代つて勤めた。兼て持病の脚氣が心臓を冒した爲めだといふが、樂屋は忽ち大騒ぎとなり、急を聞いて長子太夫は馳せ付けたが幸ひ大した重態でもないとの醫師の診斷に、やゝ安堵して引取つたが、ちやうど此夜名優嵐吉三郎が俄に病革つて死んだと聞き、不吉な豫感に胸を痛めてゐた。それに此夏、長門が自宅での即興『八朔や切子のあかり哀れなり』の句なども想ひ出されて、一層不安の念を募らせたが、遂に十月十八日の朝、突然師匠危篤の急報があり、驚いて飛んで行つたが、翌十九日朝八時に行年六十五歳を一期として、この稀世の巨匠は歸らぬ旅に立つて了つた。
 葬儀は二十一日正午河堀口の邸を出て、天王寺西門から長町筋(日本橋筋)へ、千日燒塲で荼毘に付した。葬列の重な人々には、高弟湊太夫を筆頭に咲太夫、彌太夫(四世)、筑前太夫、久太夫、長枝太夫、佐賀太夫、長子太夫、住太夫、佐渡太夫、鳴戸太夫外十餘名の門人衆。因會の古老染太夫、山城掾その他の太夫。三味線では團平、勝右衛門、新左衛門、廣作等。其他人形遣ひ、俳優、諸藝人、作者、風流人、學者、役人、出入の諸職、恩惠を受けた乞食どもまで、各種の階級を網羅し、沿道また群集の垣をなしたとある。いかにも彼の優れた人格が棺を蔽ふて後、更に光輝の顯著なことが證せられた。因に長門太夫の墓は天王寺の南、松井寺(大道一丁目)に、生前の報恩碑は天王寺境内西南の瑠璃殿前にあり、孰れも長門直筆の鮮かな墨痕さへ偲ぶことが出來る。
 さきに恩師内匠を失ひ、今は直屬の大師匠、慈父の恩を亨けた長門太夫に別れた彼は、悲しみと落膽の底に陥ちて、目も當てられぬほど銷沈したといふ。
 
 かたみの痰拭き 彼は十歳で入門、十五歳で長の字を許され、二十八歳の此時まで影にも日向にも愛撫された師の恩は彼の一生を通して夢寝にも忘れ得なかつた。それは絶へず人にも語り編者でさへ幾回聞かされたことか。毎年、盆、命日、春秋二季の彼岸には、松井寺と天王寺の師の墓へのお詣りは決して缺かさなかつた。編者が或時、長門の床本を何の氣なしに疊へ置いたのを見て『もつたいない事をしてはいかん』とひどく叱られたことを覺へてゐる。
 先年、庫中の父の文庫を整理すると、其中に恭しく澁紙で三重包みにした品物を見付けた。開けて見ると、鬱金色の手拭のやうなお粗末な木綿裂れで、それが何の汚れかカチ/\になつて黒光りに光つてゐる。見るさへ非衛生的な薄穢い品である、それをいかにも大事げに藏してあるのに兼て疑問を抱いてゐたところ、ふと、備忘錄を調べて行くうち、圖らずも此の古裂れの正體が判明した。
 それは、長門太夫が痰を拭いた手拭であつた、カチ/\の汚點は痰や鼻汁の痕であつた。長門が床で用ひた痰拭きを捨てたのを、ソツと拾ひ取つて大事に保存したものである。師の舞臺で使ふた品、師のイキのかゝつた痰拭き、師恩を感謝する心と、師の至藝にあやかり何とかして名人の域に達したいとの願ひから、日夜この痰拭きに向つて祈願を籠めて居たらしい事實が判つた。
 彼は斯くまでも師を懷ひ、その至藝を心から崇敬し、自己の唯一藝~と信仰したものであつた。鰯の頭も信心からといふ諺がある、彼は師の痰拭きに絶對の信仰と祈念を捧げてひたすら藝の上達を誓願したのである。此の汚い痰拭きも、誠の一字で禮拜すると綾羅錦繍とも輝くのであつた。
 今や其師を亡くしたのである。その辭世『合はす手の上に消ゆるや袖の雪』の一句は同時に長子太夫の心情をも謳つてゐた。
 
 師四世彌太夫の死 師に別れた長子は、同門の先輩四世彌太夫の預り弟子となつた。しかし長門の門下には引續き不幸が起つた、翌くる慶應二年二月には、賣出しの花形で鳴らした同門の兄弟子筑前太夫が病死し。三年八月には又も同門の端塲語りの上手長枝太夫が歿した(碁は五段、双六は日本一とある異り種)。明くれば維新の新政時代、明治元年の春は來たが、その三月には又々悲しい事が降つて湧いた。
 三月十九日の夕六時、新に師とョんで程もない四世彌太夫も、大師匠の跡を追ふてか、五十六歳のまだ老いたといふでもないに、惜い命を散らして了ふた。當時の住宅は南堀江に在つたが、もとは阿波小松島の生れで、馬方を渡世としたから俗に馬方彌太夫の渾名がある。天稟の大音で、語り出しが牛のうめくやうだと云はれた、二段目物殊に端塲語りとして不思議の名手で、千本櫻の椎の木を勤めた時など、垂簾うちで語りながら切塲の鮓屋を語つた長門太夫をたぢ/\させた、『どうやら俺の鮓は牛の奴に喰はれたやうぢや』と戯れながら歎賞したと云ふことである。
 
 五世彌太夫を襲ぐ この歿年の十二月に、長子太夫は師匠四代目の墓を下寺町遊行寺に建立し、供養を營み、次で五世彌太夫を襲名した。この時三十二歳であつた。
 内匠、長門、彌太夫の三師と、わづか數年のうちに死別し、同門の先輩も相次いで歿し、明治三年には咲太夫も死し、殘るは高弟湊太夫と實太夫(後に四世長登太夫)等ばかりであつた。
 長門系の凋落は、殆ど彼を孤立の立塲に置く事となり、やがて雨と降る他山の石の洗禮に打たれ、逆境に叩きのめされ乍らも恩師の訓誡を忘れず、獅子の兒の本性違へず、一歩は一歩と嶮崖を踏み締めつゝ登つて行た。
 
  三 文樂座時代
 
 文樂座の初出座 明治元年末五世彌太夫を襲いだ彼は、三年春、北堀江木谷家に入り前田姓を木谷姓に改めた。
 晝は稽古に二三の師匠の許に通ひ、夜は諸所に催さるゝ淨瑠璃會を聽き歩き、時に講釋塲をのぞき好きな芝居見物などに日を送り、又は彌鶴、瓢簞亭の雅名で三題話、繪直し、狂句、冠付けなどに親んでゐたのが此頃の日課であつた。
 暫く閑散の境界にあつて將來を熟慮した彼は、愈々本來の目的に向つて進出の決心を固め、明治四年八月、始めて稻荷東芝居(東區博勞町文樂軒の芝居)へ出勤することになつた。その時の狂言伊賀越に、般若坂の奥を語つた、これが文樂座に於ける三十五歳の初役であつた。
 當時越路太夫は既に慶應元年から入座し、明治三年九月には切塲語りに進み、この興行には圓覺寺の段と切狂言兜軍記琴責掛合の重忠とを勤めてゐる。彌太夫はそれに比し七年遲く入座したが、實に微々たる役塲しか附かなかつた。翌九月には、前が鬼一法眼、切が女舞衣酒屋が出て、鬼一の掛合詮議塲の瀬尾十郎と酒屋の中とが彼の役塲であつた。
 
 酒屋の代役 初日が出て其二日目のこと、切を語る古靱太夫が急病の爲め休座し、俄に其代役を仰せつけられた。實に意外な天の賜と悦んだが、又恐ろしくも思ひながら一生懸命力演した結果、他とは異つた酒屋、と云ふので一部皮肉家の激賞を受け、千秋樂まで滞りなく好評を續けた。
 酒屋に就て思ひ出した一話がある、ズツと後年のこと、中村歌六(吉右衛門の父)が彌太夫に酒屋の稽古を付けて貰ふのを傍で聞いたが、無論宗岸と半兵衛の意氣合、詞の活殺を學んで居たのである、『宗岸は情その儘の人、半兵衛は情に衣を被せてゐる人、而かもどちらも大變な子煩悩の慈父』と云ふやうな意味のことを説き、宗岸の長いセリフは世話物の肉とも云へる、この文章の情が語り活かされたら立派な世話語りだ、と云ふやうな話も耳にした。その時歌六は親しい中とて『ついでにおそののサワリをお添物に』と無遠慮な注文を出すと、彼は微笑しながら『今頃は半七さん』と、アノ惡い聲でやり出す。それが全く情味本位の語り方で、聲を器用に轉ばすでもなければ、節を面白く振り廻すでもない、淡々として寸分の當て氣もない、一般に聞く美聲家の半七さんとは、また趣の異つたものであつた。これが綱太夫風(酒屋の名人)に私淑したものかどうか知らぬが、葢し此の代役當時に於ける、苦心工夫の面影が偲ばれるのであつた。
 これは餘事であるが、文樂軒興行の芝居が『文樂座』と公然固定の座名になつたのは、この九月興行からである(番附面による)ことを附記して置く。
 その十一月には、彦山、合邦、嫗山姥が出て、彼の持塲は彦山須磨の浦の中となつてゐたが、切を語る古靱太夫が尚ほ前興行から引續き病中の爲め、初日から彌太夫が、中、切と語り續けることになつた。入座以來日も淺いに、酒屋と云ひ須磨の浦と云ひ大役を代らせられたのであるから、彼の悦びは譬へるにもの無く、こゝぞと計り全力を盡くして熱演した。幸ひに上乘との好評を受け、漸次その實力を認められるに至つた。これも一つは古靱太夫の情味ある計らひであつた、よく昔の先輩は病中にも役を引受け、初日になつても尚ほ出座不可能の塲合は、見込のある後進者に其役塲を代らしめ、暗に激勵したものである、座主もこれを黙認して陰に成績鑑査を試みたものらしい。かくあつてこそ後進養成の實績も擧げられるのであり、後進また其恩義に感激して奮起せざるを得なかつたのである。
 それにしても、いつ何時でも代り役に應じ得られるやう日常の心懸けが先づ以て大切である。この應急の用意なくば折角寳の山に入りながら、好機を逸することゝならう。彌太夫がその少年時代から、既にあらゆる大役を習得し、各名人に就て嚴しい稽古を享けた辛苦が、こうした塲合に役立つた所以であらう。
 
 文樂座の松島移轉 翌くる明治五年には、文樂座の松島移轉が行はれた。當時の松島は大阪の最西端に當る寂莫な地區であつたが、こゝに市内の小遊里を整理合同して一遊廓を新設し、更に土地繁榮策として大阪府は道頓堀三榮の芝居と文樂座とを、此地に移轉するやう勸誘した。文樂座は其意に從ひ、松島千代崎橋の西に地をトして新築し、四年冬に工事落成を見た。
 この移轉に就ては、座員の多數は、遠島流しなど稱し大に反對の意を表したが、重鎭の春太夫や吉田玉造等は極力府の意見を體して活動し、遂に移轉實行を見るに至つた。それかあらぬか爾後春太夫等一系は、特に官邊のお覺え目出度く、格別の便宜と待遇を受けたから、自然座の内外に亘つて著るしく其勢力を伸張するに至つたといふ事である。
 新築最初の興行は五年正月、繪本太功記の通しと、御祝儀三番叟を上塲、尼ケ崎は春太夫、杉の森は越太夫、妙心寺は古靱太夫、彌太夫は鐵扇と大コ寺の中とを勤めた。この興行を機として櫓下湊太夫は引退し、春太夫これに代ることゝなつた。長門直系の最古老であつた湊太夫も遂に文樂を去るに至り、櫓下の地位は新に春太夫の有に歸した、と同時に吉田玉造また櫓下に入つた。文樂座人形遣ひの櫓下入りはこれを以て嚆矢とする。當時兎角の批評もあつたが、何分官邊に根を張つた春、玉造の優勢には敵す可くもなかつたらしい。而かも春太夫の勢力は、即ち高弟越路の勢力であつて、越路が他日逸早く櫓下の地位に登るべき趨勢は、既に此頃から芽ざしてゐたのであつた。
 
 漸く逆境へ 湊去りし文樂座には、長門系の古老としては唯實太夫が殘留するのみとなつた。此人は長門の甥に當り、人格あり文才ある風流人であり、斯界の故實考證家として尊敬され、畢生の大著『淨瑠璃大系圖』は二十二巻の大部に亘り、淨瑠璃史上無比の光彩を放つてゐるが、然かし其藝力に至つてはむしろ第二流に屬してゐたから、今や文樂座の實權は確實に春太夫系の手に歸しつゝある情勢であつた。この雰囲氣に孤立する彌太夫は、環境の不利と或種の重壓とを感じつゝ、忍苦の修行道に參じつゝあつた、見臺を小刀で傷けられ座蒲團を燒かれたのも此頃の事であつた。
 引續き文樂座出勤の外に、法善寺席、新町砂塲席、淀屋橋席へ、靱太夫、梶太夫、長尾太夫等の各一座に加入して出演した。
 
 髷斬り物語 五年十一月九日には舊曆廃止太陽曆に改定、十二月三日を以て明治六年一月一日とする旨發表され、更に散髪勵行のお觸れがあつた。散髪令は既に四年に出たが、尚ほ舊來のチョン髷に名殘を惜む國粋黨が中々に多かつた。彌太夫また其錚々たる一人であつた。文樂座でも、古靱、越路、豐、路、梶代等でさへ、勇敢に散髪の文明頭と改めたに拘はらず、彌太夫のみが尚ほ天保銭のチョン髷頭で床に上つてゐた。十一月九日いよ/\太陽曆改定の新時代が來たといふのを機會に、三根太夫梶太夫の兩人が座員代表の使者となり、最後の散髪斷行を逼つて來た。進退谷まつた彼は、止むを得ず使者の面前でチヨン髷を切つた、これが文樂座最後の髷斬りといふ藝題のやうな笑話であつた。
 遊廓廃止、藝妓外出禁止、茶屋行燈取拂ひなどのデマから、到頭娼妓解放令が實施され、吉田玉造隨一のヒイキであつた新町一の大くつわ、扇屋三郎兵衛(中村鴈治郎祖父)一家沈落の序幕が開いたのも此頃の事であつた。
 
 同情者古靱の退座 明治六年續いて文樂座出勤。その他奈良へ、むら越路等一座にて。淀屋橋席、南堀江幸橋席、難波席、九之助橋席及び道頓堀若太夫芝居等へも出た。この頃の合三味線は鶴澤コ太郎となつてゐる。
 四月には、當座先輩中彌太夫唯一の同情者であつた古靱太夫が、不滿の爲め突如退座した。それは對越路太夫問題の爲めであつた、古靱は越路より年長古參であり、太夫の地位も高かつたが、越路は藝の進運に棹し人氣も寧ろ古靱以上であつたから、文樂座は興行政策上、屢々二人を競爭せしめた。古靱東京より久々にて歸阪、文樂に加はつたは三年八月、それ以後再々越路との競爭を餘儀なくされた。或は加賀見山の長局に、越路のお初、古靱の尾上にて競ひをかけ。信仰記に、碁立を古靱に、爪先鼠を越路に。兜軍記琴責に、重忠を越路、岩永を古靱に配し。又春太夫病氣休座の代役、桂川の帶屋を二人毎日交替にて勤めさせる等、その競演に見物の吸収を謀つてゐた。しかも越路に對する文樂座の待遇は日に厚く、役塲も轉倒の傾向を見せて來たので、古靱は大に不滿を感じつゝある矢先。六年四月興行に、先代萩の御殿を越路に、古靱は附け物の戀女房子別れを當てられたに憤慨し、これを最後の床として斷然退座を決行した。かくして春−越路系以外の立者は次第に淘汰されて行った。
 
 變態史實淨瑠璃の流行 その他此年には特筆すべき一つの事象が見へた。明治維新の大變革以來、時代思潮にも變化を生み、西洋崇拜の思想に對し反動的に起つたのが歷史的懷古趣味であつた。これが當然劇界にも反映して、實錄へ實錄へと、歷史の穿鑿史實かぶれの傾向が、古典の殿堂文樂座にまで波及した。これ一つは時代を看るに敏感な興行主植村文樂翁(大助)の好策戰でもあつた。
 即ち、明治五年十一月には、三日太平記を改題して『出世太平記』とし、武智を明智、久吉を秀吉、眞柴を羽柴と變へて史實ぶりの新しさを見せた。これは正に彼の活歷の開山市川團十郎の初演(明治六年五月上演の浪花眞田軍記)より一歩先きへの發表であつた。
 翌六年正月、文樂座の舊地博勞町稻荷社内の芝居(五年冬類燒、その新築の舞臺開き)では、忠臣藏の惣掛合を上演し、鹽谷判官を淺野内匠頭、早野勘平を萱野三平、大星由良之助を大石内藏之助、寺岡平右衛門を寺阪吉右衛門、高野師直を吉良上野之介と、實錄の名に改めて上演した。彌太夫の持役も梶川與三兵衛(加古川本藏)、大野軍右衛門(斧九太夫)原惣右衛門(原卿右衛門)と變つてゐるが、さすがの穿整家たちも、おかる、となせ、定九良、判内等の史實名には手を措いたらしく、其儘になつてゐた。
 單に藝題名や人名を修正したばかりの、斯うした變態的な活歷熱は、十六七年頃までも行はれ、種々の滑稽な話材を殘してゐる。その一例は、八陣守護城の北條時政を史實のコ川家康に、お通を淀君に、加藤朝清を清正に直したはよいが、琵琶湖の段を浪花入江と改めた爲め『水碧に砂明かなる兩岸の苔』では、淀川が苦笑する前に、識者の失笑を招かずには措かなかつた。
 
 稻荷祭餘興芝居 明治七年の春が來た、ちやうど越路太夫一行が九州地方巡業の不在中であつたが、誰れの發意か、稻荷祭の余興劇を再興しやうぢやないか、と云ふ事に衆議一決した。恐らく淋しくなつた散髪頭に、戀しい髷を載せて見たい一念からかも知れない。さきに文久元年正月には、稻荷文樂の芝居で稻荷祭の餘興芝居と銘打つて、染太夫や廣助玉造等が實演をやつてゐる。翌二年二月にも、同芝居で、住太夫咲太夫團平玉造才治なども大々的に演じてゐる。京都でも山城掾が一座を率いて、四條の南と北との兩座で再度まで催してゐる。此等先例による餘興劇の復興といふのである。
 年が年中、床の上で座り芝居も能ではあるまい、宜しく舞臺に立つて、口だけでなく手足でも淨瑠璃が語れると云ふ大抱負を披瀝しやうとあつて、三月二十六日、春日和の一日を松島文樂座で實行された。狂言は、五鴈金安治川橋、加賀見山鶴ケ岡、桂川六角堂と帶屋、松島草紙廓の賑だんまり、妹背山御殿の以上六塲と極り、重なる配役は、娘お半(春太夫)長右衛門(染太夫)義平(重太夫)半齋(住太夫)丁稚長吉(彌太夫)の興味滿點の顔揃ひ、この帶屋を中心として、その他團平の尾上、松花のお初、勝七のお三輪など、人氣の的になつてゐた。太夫のセリフはさすが俳優以上の旨味があつたと宣傳されたが、動くとなると忽ち幻滅の悲哀を見せ、この點人形遣ひに百歩を讓つた。松島草紙は塲所柄に當て込んだ『だんまり』塲で、春、重、染、住、彌、浪の太夫連から、團平、寛治、松花、勝七の各三味線彈き、玉造、玉治、玉助、辰造の人形遣ひ等、一粒選りの名人總出は唯一の呼び物になつてゐた。
 中に最も珍喝采を博した一幅對は、住太夫の花魁と彌太夫の山賊霧太郎とであつた。盲人の住太夫が派手やかな花魁姿で、杖をついて登塲したが、度を失ふて客席に落ち込んだ、それを花園姫に扮した玉造が引張り上げ、横脇に抱へて樂屋へ引揚げた珍光景は、滿塲の大喝釆を喚んだ。この塲の彌太夫は山賊霧太郎後に松島傳吉の役を持つたが、性來下戸の彼は樂屋でヒイキ客に酒を强ひられ、苦しさにウト/\と眠るうち、舞臺ではだんまり塲の幕が開いて彌太夫の出番になつた。樂屋係に叩き起されて、其儘舞臺へ飛び出したはよいが、かづらを忘れ散髪頭で現れたので、ドツと云ふ哄笑、次いで喝采、これを大當りと呑込んで愈々乘り氣になり、盛んに眼玉をむいたから『堀江の狸』と半疊が飛んだ。(彌太夫や新聞記者通人等の間に狸連といふ雅會が堀江にあつた)この時の彌太夫の差出し持ちには、特に俄師の大棟梁尾半と正玉とをョんだといふ豪勢さであつた。
 
 無料の大歌舞伎 翌八年三月、この大當りの吉例に乘つて第二回稻荷祭の芝居が催された。狂言は、傾城曾我廓の賑で曾我の對面塲、姫競双葉繪草紙の漁師浪七内、新薄雪物語の清水寺、二十四孝の勘介住家と十種香の五幕大物揃ひ。役割は小栗判官(玉造)横藏(廣助)政元(寛治)浪七(組太夫)勝ョ(コ太郎)勘助の母(氏太夫)妻平(梶太夫)信玄(住太夫)風間八郎(彌七)胴八(玉助)太郎(重太夫)等であつた。
 越路太夫は八重垣姫で美しいところを見せ、床の淨瑠璃は鶴澤勝七、三味線盲人住太夫が勤めた。狐火の手の込んだ三味線に住太夫大弱り、太夫の勝七が聞きづらがつて又しても小聲でヘへる、その度び面喰ふて目を白黒させる住太夫、それが可笑しいと笑ふ見物、舞臺の八重垣姫までが笑ひこけるといふ滑稽を見せた。この芝居で彌太夫は、廿四孝下駄塲の景勝で澁い貫目を匂はせ、薄雪の澁川藤馬で十八番のチヤリ味を見せた……つもりで得意だつた。いかにも天下泰平、のんびりした文樂風景であつた。
 但し此餘興劇、たゞの一日限り、而かも衣裳背景も本格で、稽古も多見藏延若翫雀など一流俳優を煩はし、總て大がかりの贅澤さ、莫大の失費を要したに拘はらず、全部無料で各ヒイキ客に開放したのであつた。この一日の招待劇は、まさにヒイキの客衆と一座の出方と興行主との相互的親和策であり、やがてそれが文樂繁昌の基因ともなつた。謂はば一石幾鳥かの妙案であつて、いかにも文樂翁らしい行き方だつた。
 
 春越路の師弟戰 文樂座六月興行が終ると、櫓下春太夫は一門を連れ團平と共に脱退した騒ぎがあつた。この原因は、給金問題につき文樂との間に紛議を生じ−−これは自分個人よりも門人達に同情しての行動だと云はれる−−遂に交渉破れ退座となつた所以である。爾來大江橋の席、堀江芝居等にて興行し、文樂座に拮抗して氣勢を揚げた。十一月には七世染太夫の退座あり、同じく越太夫も脱退して春太夫一座に馳せ參じたから、文樂座は大恐慌を來し。その對策として當時九州巡業中の越路太夫を呼び戾し、巨額の前貸あるを楯に其出座を餘儀なくせしめ、八年一月菅原の狂言を立て、越路の寺子屋を以て大に春太夫一座に對抗せしめた。春太夫等は角芝居で、上村源之亟一座の人形と合併して、團平節附けの新物『大和錦朝日旗揚』を以て戰ふたが、この勝星は越路の手に占められ春は敗北の憂目に遭ふた。こゝに當然持上つた問題は、師に敵對行動を執つたかの如き越路のコ義に就て、同門間に物議を惹起したことである。然し事情止むを得ざる眞相も知れ、且つ團平の調停によつて平穏に歸した。
 
 夢に恩師に拜顔す この間彌太夫は文樂座に勤續、六月には源平布引瀧の義賢館と、千兩幟掛合鐵ヶ嶽を語つたが、二段目切塲を付けられたは、ヤツと此時が始めで進級甚だ緩漫であつた。時に年三十九歳。
 九年六月三十日の彌太夫の日記を見ると、『この夜夢に紀州の山奥にて、師匠長門太夫様に、拜顔、稽古して貰ふと見る』と書かれてある。此當時、特に師匠戀しく感じたことでもあつたか、この短い一文のうちに、いかにも懷かしげな情愛が籠められてゐるではないか。
 十年正月、金門五三桐に此村館の切半と、求女住家の中とを持つたが、この求女住家は増補物にて彌太夫自作の章付で語つた。前記した一時不平の爲め退座した春太夫團平の一行は、文樂との和解成つて三月から復座することゝなり。五月には例の活歷の忠臣藏の通しを上塲した、この興行に、圖らずも彌太夫が其技倆を見せた代役で出世物語の一つがある。
 
 忠四の口傳 その本役は殿中掛合の内匠頭(梶太夫の吉良上野、組太夫の能登守)と、天野屋の段とであつた。櫓下春太夫は四段目内匠頭館を語る筈、急病にて初日から出勤不能となり、その代役が彌太夫へと廻つて來たから小躍りして悦んだ。豫て手心のある役塲ながら、大事を踏み念の爲めに、長門直傳忠四の名人、當時休座中の湊太夫にヘへを受けることにした。
 湊太夫は『お前には語れるか』との第一問を發した、『ハイやれます』と答へて、從來數回となく語つて相當自信のあるところを、語つて聞かすと、『ソリヤいつたい何を語つてゐるのぢや、まるで成つて居らん、切腹した判官はピチ/\達者だし、肝心由良之助の言葉に泣くところがないし、そんな心得で忠四のやうな難役が勤まると思ふか』と散々に叱り付けられた。
 『第一判官の詞ぢや、アレでは腹を切つて居る人には聞こへない。下腹にウンと力を籠めながら、呼吸が亂れてゐるといふ氣持が其詞に現れねばいけない、これは其一例だが『九寸五分』も九スン五ブと普通に言ふては氣持が出ないから、九寸五ボといふ風に五ボを早めて輕ふ、吐くやうに云ふと、いかにも切腹の人のやうに聞こえる……』など、一々懇ろに説いて聞かせる。
 『由良之助の地合には−−無念の涙ハラ/\/\と泣く條はありますが、詞には別に泣くところが見當りませんが』と問ひ反へすと、『そんな事ぢやからあかん、お前方は泣くとか涙とかいふ文句が無ければ、別段泣かなくてもよいと思ふからダメぢや、先づ四段目を語らうとするには、一番に全體の文の意味なり精~を本當に會得し、役々の魂のあるところを呑み込んでかゝらねばならぬ。たとへ文章には泣く所が書いてないにもせよ、自然筋なり心持の運びから、情で泣かねばならぬところがある筈ぢや、由良之助にしても、主君の無念の死に逢ふて悲しからぬ筈はないが、上使の手前もあり、御臺所や諸士を勵ます爲め、ワザと涙を抑へて泣かないのぢや。手近い例は、我々の家に死人があつた塲合にも、棺に入れる迄は何かと混雜にまぎれ泣く暇もないが、イザ出棺、門火と云ふ時になる、棺が家を出て行く、モウ再び其人は歸つて來ない、この瞬間、俄に悲しくなり抑へた涙が一時に込み上げて來る、こゝが即ち自然と泣かねばならぬところぢや。由良之助の塲合で云ふなら−−亡君の御骸を御菩提所光明寺へ早々送り奉れ−−こゝぢや、主君の骸が屋敷を出てモウ永久に歸つて來られない、由良之助の身になつて見ると、即ちこゝが情の悲しみぢや、文にはないが言葉に此悲しみの情が出ねばならぬ、由良之助の詞の、泣く急所とはこゝの事ぢや』
 斯うした秘訣を打明けられて、愈々斯の道の考へれば考へるほど六つかしく奥深く、從つて益々勉强甲斐のあることをヘへられた。彼は雀躍して連日連夜湊太夫に就て十二分の指導を受けた、そして全生命を床にかけて力演した。この忠四、名人春太夫の代役として、過分の好評を受け無難に演了することが出來た。後には彼の得意物の一つに數へられるに至つたが、これも偏に先輩名人の懇篤な薫陶により藝の領域を耕された恩惠に外なかつた。彌太夫には絶へず、斯うした背後の指導者や鞭撻者のあつたことは、此上もない幸福であつた。
 その恩師湊太夫も、この年六月二十四日、七十八歳の高齢で永逝した。その一ヶ月を經た七月二十五日には、文樂座の櫓下、越路の師春太夫も七十歳を定命として永い眠りに就いた。
 
 文樂精~の低下 春太夫の死に因る文樂座櫓下の相續問題に付ては、内部に暗雲漂ひ事態容易ならぬものがあつた。文樂座としては、興行政策上から見ても、當然人氣第一の越路太夫を推したかつたが、力强い内部多數の批難を察し、姑く待機する事となり、藝こそ次位なれ古老にして格式ありコ望のある竹本實太夫(三世長門太夫の甥、後に四世長登太夫)を櫓下に直すことに決し、やがて内部の低氣壓は解消された。
 本來文樂座の盛名、高く今日に及んだは、一に三世長門太夫が三十九年の長きに亘つて、天下一品の至藝を專ら文樂の床にのみ聽かせたに原因するものと云つてよい。この長門の恩澤は文樂翁自らも既知の事實であつたから、その縁者であり後繼者たる實太夫を推擧せざるを得なかつた所以であらう。
 然かし實際上の勢力は、依然春太夫直流の越路太夫の手に握られ、その大衆迎合の華やかな演技ぶりは、其絶大の人氣に連れ斯界に一の流行を釀し、長門等建設の所謂文樂精~なるものが往々低下しやうとするを患ひ、盲人住太夫、未來の櫓下と囑望された梶太夫(越前大掾の子で後に八世染太夫、惜い哉早世した)先代湊太夫等が、文樂翁に對し勸告するところがあつたと云ふ。(越路の壮年期は見臺に伸び上り、扇を種々使ひ、時には身振りなど混へ、相當舞臺行儀に遺憾はあつたが、後年には極めて品位ある典型的な語り風と變つた)
 
 特色漸く認めらる 彌太夫は、九年七月文樂座のおさん茂兵衛大經師内を振出しに、白木屋、帶屋、矢口渡頓兵衛住家など、屢附け物を語るやうになつた。十一年三月には、花川戸幡隨長兵衛内を勤めたが、この時から三味線鶴澤重造に替つた。その十一月は伊賀越の通しに、新増補物伏見船宿北國屋重兵衛切腹の段を語つた。
 この北國屋の一段は、彌太夫と文樂翁との増補合作に彌太夫自作の章譜、團平校閲である。此塲には、重兵衛、靜馬、瀬川、孫八、林左衛門など、多くの人物が入り亂れて登塲し、其語り分けを至難とされる皮肉物であるが、この難塲を鮮やかに面白く語り活かしたところから、聽衆ばかりか樂屋内部に評判高く、世話語り詞語りとしての實力を確認せしめるやうになつた。
 十二年三月には、楠昔噺の砧拍子俗にどんぶりこの段を勤め、輕妙洒脱な爺媼の情愛、落武者その他の滑稽味に、チヤリ語りとしての一面をも稱讃され、從來埋もれて居た此一塲が復活され『彌太夫のどんぶりこ』なる折紙が付けられ、素義界にも流行するに至つた。
 十三年五月の菅原では、佐太村櫻丸切腹と柘榴天~掛合の菅亟相を語つた。この頃、山田案山子作『詠開秋七草』(彌太夫は聚樂御殿妖怪競の段勤む)や、同じ作者の『傾城小倉色紙』(隼人閑居の段を勤む)など、珍しい新作物が續演された。十四年一月には、大江山にョ光館碁立の段三人笑ひを語つた。これは彌太夫の増補作並に作章にかゝり、渡邊綱、卜部秀武、碓井貞光の三豪傑の大笑ひを笑ひ分けて喝采を博した。同九月には、大内裏相馬綿繪、文樂翁補作、彌太夫作章團平校閲の、伊賀壽太郎館の段を勤む。十五年も毎興行に出演、十一月の伊賀越通しに、大廣間と新關所の役を當てられた時、從來決して役の不滿を口にしなかつた彌太夫も、近來の役附け甚だ面白からず日常不快を感じてゐた折柄とて、せめて圓覺寺をと申出たが容れられず、遂に此興行休座する事となつた。かゝる事實は、彼が生涯の舞臺生活に於て、實に唯一の非常事件であつた。
 次興行より引續き出演。翌十六年正月の信長記に、芥子畑と天下茶屋の中を勤めたが、これが完全に切塲の重太夫をさらつて行つたことは、樂屋雀の囀りに殘つてゐる。
 
 三人櫓下の紛爭 この一月興行に實太夫は、其師長門の大名を襲ぎ四世長門太夫を名乘つたが、四月に至り俄に櫓下を退く可く餘儀なくされた。そして其後任には果然越路太夫が代つて座つた。これは文樂翁が豫定の計畫を行ふた迄であつたが、これが爲め住太夫は不平の意思を發表して退座を決行した。團平は、越路櫓下となれば我れ亦當然同列に入るべき筈と櫓下入を主張したが、文樂翁及び人形吉田玉造の抗議に遇ひ、怒つて休座するに至つた。茲に及んで文樂當局は困惑し、到頭團平の希望を容れる事とし、漸く其出座を見たが、一方玉造はこれを耳にし、更に憤慨して舞臺に顔を見せず、爲に二段目の口にて一と先づ幕を卸したと云ふ如き不都合を生じた。斯くて百方熟議の結果は、越路、團平、玉造と、三人同時に櫓下に並ぶことに由つて、ヤツと興行が續けられるに至つた。
 この紛擾最中に、豐竹時太夫は合三味線に不平を抱き、他に代役を立て無斷休座するといふ不埒なる出來事もあり。従來公平嚴正を以て世に鳴つた文樂殿堂の礎も、群雄の權勢爭ひに左右されて動搖し、文樂精~も漸次弛緩の情勢を見せた。これは畢竟晩年の文樂翁が、ともすれば情實一方に傾き、公正を失した措置から内部に龜裂を生じ、各自放縱の横道に奔つたのではなからうか……とは、當時の消息通から聞いた一面觀である。
 
 重造の貞女ぶり 紛爭後、三人櫓下の番附が現れたのは、同年六月興行(彦山、伊勢物語、日本振袖始大蛇退治)からであつた。彌太夫は彦山の瓢簞棚の役であつたが、從來の合三味線鶴澤重造が病氣(リウマチス)の爲め此時限り休座した。重造は評判の孝行者で、曾て大阪府知事からも表彰された人である。亭主役の小音な彌太夫が、端塲など勤める塲合に、切語りより低い三味線の調子は愼まねばならぬといふ不文律があるところから、彼はわざ/\細い糸を注文して作らせ、さも高調子のやうに聞かせたといふ、亭主思ひの美談もある、彌太夫の爲には此上もない貞節な女房さんであつた。
 九月興行には、歌舞伎の敵討浦朝霧を改作した『播磨潟浦の朝霧』の新物が出て、網干奥殿を勤めた。この時から重造に代つて豐澤大助(一世大助養子)が合三味線となつた。十七年五月には、八民平七等合作の日本歌竹取物語(近松の嵯峨天皇甘露雨の改作)があり、文樂翁増補の竹取翁閑居の塲を語る。こんな風に變つた珍しい狂言が續々上演されてゐた。
 此の年五月のこと、大和高市郡求念院の依囑で善光寺に關する淨瑠璃を新作し、六月八、九の兩日、大阪阿波座正n宸ノて發表上演した。藝題は『善光寺靈驗記』二幕、本田善光住家の段を彌太夫(三味線重造)、大門藤屋より善光寺の段を住太夫(勝七)が語つて、信者の群集を歡喜させた。
 
 彦六座の旗上げ 茲に文樂脱走の不平黨や非文樂派の一團が糾合して、博勞町稻荷社内に『彦六座』の新しい櫓を上げたが十七年二月である。一座の盟主は灘酒問屋の出で、素人義太夫の灘安(後に二世豐竹柳適太夫)と云ひ、座員には重太夫、一世柳適太夫、組太夫、春子太夫(後の大隅)、三味線廣助、新左衛門、勝七、廣作、人形才治、東十郎等で、後には文樂を去つた住太夫、團平も加はつて、立派に文樂座の一大敵國としての陣容を整へて來たので、文樂では恐慌を來した上に、六月には夙に名人の評判高かつた染太夫が、四十一歳の若さで他界した事は、重ね/\の打撃であつた。
 
 三段目切語りとなる 六月興行には二十四孝が出て、越路は例に依て十種香を語つたが、彌太夫は三段目勘助内の段を勤めた。これが彼の三段目切を語つた最初であつた。こゝに漸く越路太夫と鴈行の位置を占めることになつた。惡聲小音、一般の迎ふる所に適せず、殊に長門系統の凋落期に際會し、文樂入座以來常に不利の地に置かれ、且つ又一部の重壓を被りながらも、撓まず屈せずひたすら自己藝道の向上に精進した、其酬はれが今日茲に達したのであつた。
 而かも此時の語り塲が、勘助住家と云ふ三段目物中の大物であり、特に聲量を要する難塲であつたが、硏究と工夫の結晶は勘助の『面魂』の一句にも現はれ『アノ小音でアノ力强さは』と稱せられ、お種のクドキは『アノ惡聲でアノ情味は』と評判された。時に年四十八歳であつた。
 新鋭彦六座に對抗すべく、文樂座は交通不利の松島を去つて、その本據を大阪の中心地平野町御靈社内に移し、九月二十四日木の香新たな新築劇塲の蓋を開けた。美本装釘の繪番附の發行、豐竹呂太夫の初出座など、宣傳策戰怠りなく、狂言も菅原を立て、御祝儀三番叟を加へ、越路の寺子屋、時太夫の櫻丸切腹、津太夫の配所、呂太夫の時平館、彌太夫は道明寺亟相別れを語つた。
 
 道明寺と判内 この興行に、素人淨瑠璃の名手瓢樂子から、左の讃文が彌太夫の樂屋へ舞ひ込んだ。
  樹は古いほど香の高し梅の花と、今や此座に君なくば、誰れか聖人のお別れに、涙ハラ/\とこぼれ口、筑紫に近き長門政太夫も、あの世から聞きに北野や道明寺、飛梅ならで飛切の、上々吉なる評判は、ヤレコチの彌太夫さん/\/\/\(瓢樂翁)
 初日は木戸を鎖して客を斷つたほどの人氣、道明寺好評の聲が高かつたので、彌太夫は當夜天滿天~社へ御禮の爲め參拜した。
 同じ十一月、忠臣藏に勘平切腹と茶屋塲掛合の判内とが持役であつた。總稽古の日に、當時隠居の文樂翁がこの勘平切腹を聽いて、千崎彌五郎の意氣込に驚歎し『まるで活人のやうだ、ナル程あれでないと勘平も腹は切られまい』と云つたそうである。
 茶屋塲の掛合で、彌太夫の判内の謎がけが又大變な受けで、九太夫(浪太夫)が出す問題を、どんな難題でも即座に解いて滿塲を笑殺した。時には見物から、謎の問ひを持ち出すことさへあつた。これが面白いとて、樂屋内も總動員で床の後、垂簾の内、手摺の蔭へ聞きに集るといふ騒ぎであつた。九太夫が駕籠抜けして其跡へ普通は石を入れ置き、判内が駕籠の垂れを上げて覗き『コリヤどうぢや九太夫は松浦佐用姫をやらるゝわ』と云ふのが定式であるが、人形遣ひの連中も面白がつて、彌太夫を一つ困らせてやれと云ふので、駕籠の中へ石の代りに、毎日變つた品を入れて置く(火鉢、下駄、帽子、時計等々の雜品、判内が簾を上げて其品を見ると、即座に『九太夫は何々して何々になられたそうな』と當意即妙の口合や洒落を飛ばして皆の頤を解いた。
 何分にも見物から樂屋内までが面白がつて調子を上げたので、茶屋塲の時間が延びて三時間かゝつた日もあつたと云ふが、樂屋も客も一向不平の聲を聞かなかつたとのこと。舞臺でハメを外してふざけるのは無論宜しくないが、これは寧ろ舞臺と見物とが一つになつて、樂しく遊んだ朗らかな戯塲風景として眺めたい。そこにのんびりとした時代色さへ窺はれて羨しいやうな氣さへする。
 
 玉三の人情味 彌太夫の藝生涯に於て特記す可き『玉三』の興行が來た。
 明治十九年正月は玉藻前の通し狂言と決定したが、越路太夫一門は去秋の東京興行以來尚ほ彼地に止り歸阪しない爲め、いつも越路の持塲として定評のある三段目道春館が、意外にも彌太夫に振り當てられた。美音本位とされてゐる玉三なる艶物を、惡聲非音家に語らすとは何と云ふ皮肉な惡戯か、この破格の役割で客を呼ばうといふ興行主の腹かも知れぬが、彼にしては全く畑違ひの役塲であり、殊に從來越路得意の語り物であるだけに、一層當惑して再三固辭したが、どうしても許されない、それに合三味線の大助は去冬病歿したから、今後は豐澤廣助(松葉屋)を配することに極つた。廣助は團平に匹敵する名手であり、此好配偶を得た彌太夫は遂に決心して玉三を引受ける事とした。
 當然彼の玉三は、その本領たる金藤次に力點を置き、慈父の痛烈な愛情を描くことに努力し、桂姫初花御臺その他、いづれも人情味の發露を目標として硏鑽と工夫を積み、越路のそれとは又別様の持味を發揮したから、豫想外の人氣を湧かした。日本繪入新聞は絶讃の評を掲げ、文樂翁からは特に稱揚の辭が寄せられ、京都祇園新地からは眞紅の情緒的な金繍入の簾べりなど寄贈された。彼れ自身も派手な江戸どき模様の肩衣など着用に及び、地味な彼の舞臺姿に、此時ばかりは思ひ切つて華やかな風景が添加された。
 聽衆一般の評言は、今までの艶物の型を破つて專ら人情味を語り活かしたこと、金藤次の親の情が殊によく現れて居たことなどを上げて、この玉三の特色とした。
 この時、金藤次を遣ふ吉田玉造が、總稽古にこれを聽き、従來は半白頭の中老として語つてゐた金藤次を、ズブの老け役として扱ふた彌太夫の演出に感じ、親の情味を活かすには、いかにも純老け役の方が能く利き、使ふにも此方が使い易いと、初日から金藤次の頭を、半白ではなく全白髪に改めて遣ふたとの傳聞がある。(別項竹本津太夫氏談にもある)
 
 恩師先輩に酬ふ この興行の時であつたが、先年櫓下を越路に讓つた實太夫改め四世長登太夫は、引續き出演のところ、漸々其役塲を低下され不遇の地位にあつた。例へば越路の二十四孝十種香に、その前端塲を當てられ、前興行の加賀見山にも二段目饗應の輕い一役に過ぎなかつた、彌太夫は常に同情して此時にも自分持役(切に伊勢音頭油屋の段)の外に、進んで長登の端塲を勤め其役塲を大きく見せて慰さめて居た。
 それに今度の玉藻前である、長登太夫の持塲は早朝の輕い役、二段目の口の太公望魚釣の段であつた。いかに老境の人とは云へ、藝は次位であつたとは云へ、この役塲は餘りにも氣の毒であつた。殊に文樂座をして今日あらしめた大恩人三世長門太夫の繼承者ではないか、兎に角櫓下まで勤めた功勞の太夫ではないか、藝界稀に見る人格者、古實考證家として斯界無比の大著述(淨瑠璃大系圖二十二巻)さへ出した篤學者ではないか、これを遇するに相當な溫情は當然ある可き筈であつた。當面の長登が憤慨したのも無理ではない、實際文樂翁隠居後の文樂座には、遺憾な事が尠くはなかつたのであつた。
 長登太夫は遂に退座を決心し、この興行休演を申込んだ。それと知つた彌太夫は百方勸説して出座を諾せしめ、自分は玉三といふ大役を抱へ、越路不在の文樂を預る責任輕からぬ身であつたが、恩師長門に繋がる縁の、四世長登に奉仕す可く、魚釣の段を掛合に改めて、長登の太公望をシテに自分はワキの文王を買ふて出た。そしてまだ薄暗い早曉の役塲を勤めたから、却て世間の同情を得たものか、この興行、朝早くから見物の足を吸収したと云はれてゐる。
 
 逆井村に柿の木 この興行終ると、豫て狹隘を感じてゐた文樂座の擴張改築の工事にかゝり、其間松島の舊地で興行することになり(翌二十年一月には改築の御靈社内の芝居へ還つた)、二月は松島文樂座で開演、彌太夫は信長記の通し狂言に、文樂翁の注文によつて天下茶屋是齋内を勤めたが、これ亦世間の反響があり、日本繪入新聞の如きは珍しくも細評を載せて激賞した。次いで三月は五天竺の一つ家、五月には朝鮮征伐昔物語の匹良哈陣所など語つたが、その十一月興行には『白石噺逆井村』を勤め、これを最終の舞臺として、斷然文樂座から引退した。
 是より先き九月中旬、彌太夫は豫め退座の旨を文樂座に申込んだが、座主からは再三の使者を以て、又長登太夫や廣助を介し、或はヒイキ筋や知友等を動かしての勸告もあつたが、彼は『老母死亡の爲め家業多忙となつたから』との理由を以て婉曲に拒絶し、到頭意の如く身を引いてしまうた。
 この最後の床の逆井村は、一世一代の心構へで力演したものらしく、古老の愛好家が口を揃へて絶讃する如く、涙の洪水で毎日の塲内を湛へたなど評されたほどで、彌太夫傑作の一つであつた。常にめつたに他人の藝を賞めたことのない松葉屋(廣助)も、三味線を彈きながら感心したらしく、或日樂屋で傍人に『今までにこんな逆井村を聽いた事がない、今後もめつたにあるまい』と賞歎し若手の人たちに、よく聞いて朱を入れて置けと勸めたそうである。それかあらぬか、床や舞臺の此處彼處に見學朱入れの太夫三味線彈が澤山に集り寄つた。御所柿頭や澁柿頭、樽柿頭の面々がウヨ/\と群つたのを見て、『逆井村に柿の木が生へた』と、こんな警句が飛んだといふ。
 
 文樂座引退の眞相 彌太夫が文樂退座の理由に就ては、種々の浮説が行はれ相當斯界を騒がしたものであつた。而かも常に不遇にあつた長登太夫も此興行に先立つて愈々引退を決行し、かくて三世長門系も全然文樂座には後を斷つ事となり、斷然越路萬能の時代となつた事實から、彌太夫の進退に就ても種々の臆説が生れ、家事多忙の爲とは表面の理由に過ぎず、實は越路や文樂座の壓迫に由るものであるなど沙汰するに至つた。別項諸氏の談話中にも二三この問題に付て論議されてゐるが、殆ど無理由の理由を以て引退した彼の心事は、その眞相は、果してどうであつたか。
 彼の日記や記錄を漁つても、母死亡家業多忙の爲めとの文字しか見當らなかつた。しかし彼が他日再起して稻荷座に據つた事實に見ても、この理由の理由とならぬことが立證されやう。されば浮説の如く、越路、文樂の壓迫に因ると云ふか、これも遽かに信じ難く、既に名實共に第一位にあつた越路にしては、殆どその壓迫の必要もなかつたし、文樂にしても艶物の越路に對比して世話語りの特色を持つ彼を、無下に排斥す可き筈はなかつたと考へられる。それも彼が往時の被壓迫時代ならばイザ知らず、既に文樂座に重要な位置を占め、謂はゞ得意の境遇に在る彼が、何が故に此の擧に出たか、寡言な彼は其知己にさへ、家族にさへ其眞意を洩らして居ないから、一向に其理由が判明しない。
 たゞ私の臆測が許されるならば、彼が引退の眞意としては、專ら恩師長門太夫に對する義理の一念止み難きものがあつた故ではあるまいか。言ひ換へれば、恩師の後繼四世長登太夫が文樂の爲めに詰腹を切らせられ、殆ど高壓的引退を强ひられた實際を目撃しては堪へられず、自ら進んでこれに殉じたのではあるまいか、恐らく是れが眞因であつたと信じてゐる。
 そも/\彌太夫が、斯道に入つた最初から慈父以上の薫陶を受けた三世長門の大恩は、夢寝にも彼の忘れ得ない所であつた。それは師の痰拭きを人知れず大切に保存してゐたこと、或は夢にまで師の面影をなつかしんだことなどに見ても其心持を察する事が出來る。その恩師の後繼者四世長登を、無造作にも櫓下から追ひ放ち、役塲を落して自決を逼る如き、文樂當局の忘恩非道の態度を目撃しては激情抑へ切れず、名も位置も一切を抛つて一途長登の爲め、とよりも寧ろ恩師長門太夫の名譽に對して、屈辱の堪え難さに斷然退座を決行したものと信じる。
 但し引退の原因は、思ふに是ればかりでも無かつたらしい。當時文樂座の藝風が其發足の精~であつた長門風の健實味を失ひ、本道を外れて輕佻浮華に流れ、ケレン前受けを狙ふて婦女子の歡心を迎へる惡傾向を見て、快しとしなかつたことも、確にその動機の一つだつたと考へる。
 要するに彼は、恩師の名譽の爲めに、また先輩に對する義憤の爲めに、更に藝術的良心の衝動から、敢て此の擧に出たものだと想察する。それは彼の性格と其後の行動が一切を證してゐた。
 
  四 稻荷座時代
 
 稽古三千人 彌太夫藝生涯の前半を描いた文樂座時代の幕は、彼の退座によつて切つて落されたが、その後半の舞臺はまだ/\千秋樂には到らなかつた。
 引退後の彌太夫はと見ると、專ら後進者に對し、本質的の薫陶と人材養成に盡し、藝の本道を汎く正しくヘへ傳へる事に其の畢生を捧げるものゝやうに見受けられた。
 北堀江の本宅と、北濱の稽古塲とに詰切つて日夜稽古に餘念もなかつた。ヘへを乞ふた人々は、文樂座その他の太夫三味線彈き、素人義太夫の人達、女義太夫、各遊廓の義太夫藝妓、其他諸國からの稽古人等で。全然門戸を開放して誰れ彼れの差別なくヘ授した。勿論素人義太夫の他は、總て無報酬とし、藝の爲め道の爲め犠牲的の奉仕に努めたから、集り學ぶ人常に堂に滿ち、その數前後三千人を超へたと云はれてゐる。この稽古時代の詳細は記述の都合により、彼が稻荷座引退後の情勢と共に次項に改めて併錄する事とし、茲には先づ明治二十七年の稻荷座創立までの間に於ける、彌太夫關與の雜項を順次に叙べ、次いで稻荷座創立の本題に入らうと思ふ。
 
 追善新作二編 彌太夫引退の翌二十年一月には、御靈社内の改築成り文樂座は舊地に復歸したが、二月に入り隠居植村文樂翁が、名興行主としての盛名を遺して歿去した。二十一年二月には花形俳優實川延三郎が、若年の惜い命を散らした、兼て親しくした彼は直に筆を執つて『形見草冥途乘込』を新作し、義太夫藝妓等に語らせヒイキ連の袖を絞らせた。
 これより先き、十八年九月には一代の豪商五代友原*と名優實川延若とが相前後して鬼籍に入つたが、五代友厚とは彼が大阪商法會議所會頭であり、彌太夫は淨瑠璃三業組合の取締役であつた關係上(當時淨瑠璃三業は商法會議所の管下に屬してゐた)常に眷顧を受けて居り、又延若とは夙に昵懇の間であつたから、追悼の意を表して『五代友厚實川延若、商法俳優司名魂』と題し、冥途閻魔の廳で對面するといふ悲喜劇新作を執筆し、新町高島座にて發表公演したが、忽ち評判となり各所の會合宴席又は寄席等にて上演され、相當後年まで流行したものであつた。
 
 住、長登の死 明治二十二年一月二十二日、彦六座櫓下竹本住太夫(四世)が六十一歳で逝た。盲人ながら無比の强識、美音家で鳴らした、文樂座を出て彦六座に入り櫓下となつた名人。三世長門の直系である關係から、その遺言に由り、門人越太夫(後の五世住太夫)、新靱太夫、田喜太夫、谷太夫(後の九世染太夫)、此太夫、信太夫の六名は改めて彌太夫の門に入り、預り弟子として師弟の盃を代はした。
 翌二十三年三月には、文樂座主植村大助(文樂翁實子、第三世)病歿、その子泰藏第四世を繼ぎ大助未亡人ハル子(通稱エイ)が之を助ける事となつた。
 同年十月二十二日、四世長登太夫が七十七歳の高齢で世を辭した。彌太夫が長登に殉じて文樂座を去つたことは前に述べた、今この唯一人である長門系の先輩に死別れて、寂寥更に深いものがあつた。但し『長門太夫』の巨名は、既に曩に長登太夫から讓り受けたから、當然その五世を承ぐべき順序であつたが、彼は師名を汚すことを恐れて、遂に終世襲名に及ばなかつた。
 同年十一月彦六座に、大阪落城後日譚六條川原の段の新作が、門人竹本越太夫によつて發表された。大阪毎日新聞社木内愛溪氏の作を、彌太夫新に節章を付し提供上演させたのであつた。
 二十四年三月、文樂座忠臣藏の總稽古に、三味線野澤吉兵衛越路太夫と言ひ爭ひ、爲に初日の遲延した珍事があつた。六月には元祖竹本義太夫の末孫何某より助力を乞はれ、因會主催義太夫百八十回忌淨瑠璃會を開く。二十五年四年には吉兵衛等の弄花事件があつて世評に上つた。
 
 廣助との論諍 同年十二月二十五日は例により因社總會が備一亭に開かれた。この席上圖らずも彌太夫廣助の論諍が生れた。それは、三味線彈の櫓下は團平廣助二名のところ、新に鶴澤清七、同才治、同勝七、同重造、豐澤廣作、野澤吉兵衛の六名を有資格者と認め追加せんことを、三味線仲間から提議したのが問題となり、太夫側は之を否認し反對を唱へたので、議論百出混亂を極めたが、因社副後見豐澤廣助(後見の團平は當時不在)は獨斷で此案を採用しやうとした。一方、後見彌太夫は副後見越路太夫と協議の上、否定不採用を發表した。廣助色を作して『太夫側より反對の申込ありたりと云ふが、その太夫等は孰れも三味線彈より稽古を受けるほどの者であるに、何が故に故障を言ひ張るか、本來太夫と三味線彈とは夫婦同様のものならずや、されば太夫と同數の櫓下を作るに異論なき筈なり』と力説して止まない。後見彌太夫答へて『元來櫓下は元祖義太夫以來專ら太夫に限られ、後代に至り三味線、人形など加はつたものである、要するに古くより斯道に大功ある最上級者を以て當てるのであつて團平氏は勿論貴下も然り、又新候補者中にも清七氏は格別功勞厚き人ゆゑ、これ亦異論はなけれど他の諸氏に至つては尚早であると信ずる』と櫓下の本質を説いて否認説を徹底せしめ、更に詞を續けた『尚ほ今の言に、太夫へは常に三味線彈がヘへてやると申されしが、それは團平氏や貴下のことにて、なればこそ太夫たちも尊敬して櫓下に推したのである、一般三味線彈の諸君をば團平氏と同様に見らるゝは、餘りに太夫中を見下したる僭越の言と思ふが如何、また太夫三味線彈は夫婦同様の中と申されし通り、太夫は夫にして三味線彈は女房である、女房なれば少しは夫の言ふ事も聽いて貰ひたいものである』と、末は戯談に紛らして巧く緩和させたが、非を正すに一歩も讓らず堂々と所見を吐いた。溫厚寡言の彌太夫にも斯うした一面のあつた事を見逭してはならぬだらう。
 この結果、廣助も輕く折れて歡談のうちに此提案は下げられた。當時因會の規律正しく、命令の行はれたこと、而かも寛嚴その度を得て結局平和を忘れなかつたことなど、以て知るべしである。
 此席上決定した明治二十六年度因會の幹部席次を附記して置く。
    太夫之部
 (後見) 竹本彌太夫  (副後見) 竹本越路太夫
 (太夫) 竹本内匠太夫 竹本津太夫 竹本八十太夫 豐竹時太夫 豐竹若太夫
    三味線之部
 (後見) 豐澤團平  (副後見) 豐澤廣助
 (三味線) 鶴澤清七
 以上は彼が因會後見として、直接間接關係した事項中、興味的な二三話題を摘記したに過ぎなかつた。
 
 九年ぶりの再起 二十六年九月二十五日、稻荷社内の彦六座は僅々七日間の興行で閉鎖し、その儘遂に沒落の悲運を見せた。明治十七年創立以來文樂座の一敵國として存在を認められて來たが、櫓下住太夫の死、劇塲の火難、柳適太夫の死等不事相次ぎ盛運も漸く傾き、この九月興行の如き登塲の太夫不足し、銀主十八太夫の逃走するなど、みじめな大詰を見せたのであつた。
 彦六座の居城を明け渡した浪人組の錚々には彌太夫の門下が多かつた。越太夫、新靱太夫、此太夫等々である。彼等は機會あれば師の彌太夫を頭首と仰ぎ、一座建設の願望を抱いてゐたが、翌二十七年春に至り、博勞町花里なる人彦六座を買収し、稻荷座の新稱によつて更生を企て、一座の統師として彌太夫を起さんとし、上記門人たちと謀つて勸誘に努力した。これを洩れ聞いた文樂座では、猶豫もなく舊縁を辿つて復座勸告の使者數回に及んだ。一方では又特に豐澤團平が、協力新座を興し斯道の爲め盡くすべきことを力説し誠意を傾けて勸説した。
 彌太夫は熟慮に熟慮を重さねた結果、遂に稻荷座出演を決心するに至つた。それは恩師長門が本來の主張であつた−−二座對抗主義の實現によつて斯道の健全な發達が遂げられる−−と云ふ、この主張の必要を常に痛感して居た矢先と云ひ、殊に直接の動機としては、門人その他多數三業者の修行道塲設置の緊要なこと、彼等の生活不安を緩和すること、等々の考慮から、到頭老軀を上げて出盧に及んだ譯である。彼は多年の休聲と云ひ惡聲非音の舞臺藝に不適當なことに、特に心を痛めてゐたに違ひない、にも拘はらず勇を鼓して對文樂戰の第一線に立つたのは、止むに止まれぬ義太夫精~の發露とでも云へよう。
 時に五十八歳、文樂退座以來九年ぶりの出演である。
 
 稻荷座初興行の盛況 明治二十七年三月二十六日、稻荷座初興行の蓋が博勞町稻荷社内に開かれた。彌太夫は推されて櫓下の首位に就き、團平は三味線の櫓下に、大隅太夫は客座庵附欄外に座つた。その他の座員は、太夫。越(後の住)、新靱、伊達(今の土佐)、春子、長子(後の六世彌)、源、七五三、菅、生島等。三味線。廣作(後の絃阿彌)、松太郎、龍助、源吉(後の三世團平)、友松(今の道八)、吉彌(後の六世吉兵衛)、仙昇(後の廣作)等。人形。清十郎、玉松(後の三世玉造)、玉米、三吾、門造、榮三等。以上の顔揃ひ、これを文樂座に比して、寧ろ勝るとも決して遜色のない一座であつた。尚ほ彼の合三味線は稀に見る溫潤の名手豐澤龍助であつた。
 この時の狂言、前は菅原の通しに、新靱の道明寺、越の佐太村、大隅の寺子屋、彌太夫は切狂言お染久松新版歌祭文油屋めし椀の段と、寿式三番叟の翁(千歳は大隅、三番叟は越)とを勤めたが、久々の出塲に異常の人氣を集め、連日滿員の盛況を呈した。市川右團治(齋入)からは大幕、片岡我童(先代仁左衛門)からは縮緬大幕、同我當(今の仁左衛門)からは大旗が寄贈され、堂島その他各方面のヒイキからは米炭積物旗幟の類立ち並び、東は三休橋筋より西は西横堀河岸まで續いたと云ふ景氣であつた。
 初興行のお目見得狂言、お染久松の『めし椀』は珍しい藝題で、多くの人物が現れ語り分けの六つかしい皮肉物、滑稽味の中に饒かな人情を盛り入れた眞世話物である。彌太夫の藝格にカツキリ嵌つて非常な稱讃を受けた。大阪の俳人楳里翁から、小判を盛つた飯椀の畫に、翁の面を描き添へ(出し物に因む)あたりに盛りの菜の花を配した一幅に、左の讃文を書いて贈られた。
 今茲に彌太夫師匠は、稻荷座の舞臺開きに、歌祭文のめし椀と壽き祝ふ翁の語り物は絶妙感服、その油屋の塲に因みて賀す
   野も山も人氣よき菜の花盛り 楳里
 
 皮肉な吃又 第二次の興行は五月、三信記、八百屋献立、志渡寺が出て彌太夫は八百屋を受持つた。此時二代目近松門左衛門なる人の代人岡野某と云ふが、八百屋の淨瑠璃は近松の作である、其無斷上演は版權侵害なれば興行中止せよとの嚴談があつた。ところが此の八百屋の段は近松の作でもなく、又版權の効力などあらう筈がないと判り、結局問題にならなかつたが、一時は可なり騒いだものらしい。六月には忠臣藏で勘平切腹と茶屋塲の由良之助。七月は岩井風呂。九月は四谷怪談伊右衛門住家。十月はお駒才三の白木屋。十一月には反魂香吃又平を語つた。
 この又平の吃りに就ては、長門太夫から湊太夫へ口傳の秘訣に、初代傳法屋染太夫の秘傳書を參考にして、一方ならぬ練習を積んだものだと云はれてゐる。或太夫は吃の演出に苦心し、本物の吃をモデルに語つたら何が何やら判らなかつたと云ふ一話を持つて、某氏が彌太夫に吃の秘訣を問ふた時、『聞く人には吃に思へて、文句は誰れにも判るやうに語ればよい、ズブの寫實は床の藝とはうらはらになる』と答へ『それよりも不具の繪師の心持、一風變つた情の動き方を語り活かしたいが、私にはまだ/\です』と語つたそうである。彼は又、元祖義太夫初演以來の口傳と謂はれる、又平女房の詞『わらわ諸共』の訛りなども忠實に語り傳へてゐたと、古老の通人が話してゐた。
 この吃又の評判が反響したか、翌年一月には道頓堀で、鴈治郎と我當(仁左衛門)の兩花形が、吃又の競爭興行を演じ滿都の大人氣となつた。而かも鴈治郎は逸早くも彌太夫の許へ通ひ熱心に硏究した、我當また馳せ參じて同じく口傳を學んだといふ内幕物語が殘つてゐる。
 
 帶屋の繁太夫節 二十八年一月興行は、増補義士傳の彌作鎌腹を語つた、切は兜軍記琴責に榛澤六郎のスケ役(伊達の阿古屋、大隅の重忠、七五三の岩永)。二月には珍しいおさん茂兵衛大經師を勤め。三月は戀女房の沓掛村。四月は桂川の帶屋であつた。
 この塲の女房お絹の口説は繁太夫節のサワりになつてゐるが、天網島の河庄や重井筒のそれよりも極めて濃厚に驅使されてゐる。それを惡聲の彌太夫が語るのである、自分の聲勝手から、節よりも情を語つたが、却て哀愁その物のやうな繁太夫情緒が現れて、澁物好みの數奇者の耳を悦ばしたが、又一般的ではなかつた事も確かである。
 この時一つの失敗談があつた。長右衛門が述懷の最後『不孝に不孝のふくりんかける此身は何たる大惡人』のくだりで、どうしたはずみか不意に見臺が碎けたから驚いた、ソツと鏡板を持ち上げた儘で、お半の出を語り續けた、こんな失策は珍しいことであつた。
 五月には伊勢音頭油屋十人斬、六月には夏祭三婦内を語つた。これは前記した嘉永期の世話語りの名人六世内匠太夫直傳の、サツパリとした氣の利いた浴衣物である。十月に入つて新作物『猿ヶ島敵討物語』が出た、彌太夫持塲の三段目五臺山魔風賊崛の段は、自ら節章を工夫して語つた。十一月には嘗て文樂座で語つた増補改作の伊賀越伏見北國屋の段を勤めて、此年を終つた。
 翌二十九年一月は、狹間合戰の壬生村を勤めた、石川五右衛門髭剃の間の輕妙、親治左衛門の世話味など好評であつた。二月には花川戸幡隨院長兵衛内と妹背山掛合の大判事。三月には五天竺の一つ家。四月は大江山の松太大内。五月は義士傳の赤垣出立。六月は菅原の櫻丸切腹を勤めた。
 
 又も起る櫓下紛議 是より先、日清戰役が起つた時、稻荷座々主花里某は株式界に失敗し、財政窮迫の結果興行不可能となり、六月限り暫時休業といふことになつた。
 一座は不意に驚き、善後策を凝議したが、結局、座員一同の歎願に由り、彌太夫、團平、大隅太夫の三頭目は當分無報酬にて勤め、維持繼續に力を盡くし興行を續けることになつた。十月に及んで數名の有志者が一團となり株式會社を組織し、大阪文藝株式會社の名で十一月から興行を續けるやうになり、座員も漸く愁眉を開いた。
 この興行に際し、又もや櫓下に關する一つの紛議が生れた。それは新に一座に加入した組太夫から、自分も彌、大隅に並んで櫓下に入り、三人櫓下の新制度を設けられたいとの提議であつた。やがて因社重役會を開き審議したが、最古參の八世内匠太夫は、若手養成の意味で年長者彌太夫は櫓下を辭退し、改めて彌、大隅、組の三人を連記し打手替へとの突飛な動議を出した。但し此案、實は文樂座某太夫の策動で内匠太夫を操つたことが暴露し、自然消滅に歸し、一喜劇となつて幕を閉ぢた。由來『櫓下』の看板を巡つて幾多の悲喜劇が行はれたものであつた。
 
 河庄か逆櫓か かくて組織變更の稻荷座は、大阪文藝株式會社なる奇名稱の下に十一月興行が始められ、忠臣藏、三番叟、桂川帶屋を上塲。櫓下は彌太夫、大隅太夫と組太夫は庵に名を連ね、彌太夫は判官切腹と茶屋塲掛合の亭主を持ち、大隅は山科と茶屋塲の由良之助、組は帶屋と茶屋塲の平右衛門とであつた。
 十二月興行に、文樂座では越路太夫の紙治の河庄が上演されると耳にした新座主は、それにかぶせて彌太夫にも河庄を語らせ競爭興行に見物を集中しやうと圖つたが、彌太夫は固辭して應じなかつた。そこで敵本主義の陋策を弄して彌太夫に盛衰記の逆櫓を注文した、小音の彼は此大物に避易して河庄を採るであらうと、然かし此皮算用は外れて彌太夫は言下にこれを承諾した。逆櫓は彼が子供淨瑠璃時代からの得意物で、腕に覺えのある事を新座主は知らなかつたのであつた。
 この後段、逆櫓のくだりに船頭等の掛け聲『シヽヤツシツシ』の中へ、『コリヤセイ』の語を加へ一層調子をはづませ勢を付け、而かも實は息休めの、一石二鳥の妙案を工夫して演じたが、後にこれが一つの型となつて傳へられてゐる。かくて十二月興行は彌太夫の逆櫓と決し、紙治河庄は組太夫に振り向けられ、越路對組太夫の競演となつた。
 翌三十年一月は彦山の毛谷村。三月は得意の沼津。四月は妹背山の芝六内と鱶七上使。五月には双蝶々の八幡引窓を語つた、この興行に門人越太夫は五世住太夫を襲名(同時に同門文樂座出勤の谷太夫は九世染太夫を繼ぐ)橋本の段を受持つたが、この襲名披露の役塲時間早き爲め、彌太夫は氣の毒に思ひ自分役塲と前後振替へて前に語り、彼を後にして花を持たせてやつた。六月には近年滅多に出ない襤褸錦の大安寺堤の段に春藤兄弟の情愛を語り。九月にはお好みにより再度の八百屋を出した。十月は吃又。十一月には皮肉で淋しい難曲、新薄雪の兵衛館、俗に薄腹と稱する三人笑ひに得意の技を見せた。
 
 團平舞臺に倒る 翌三十一年正月には廿四孝勘助住家。二月には菅原道明寺亟相別れ。三月には忠臣藏判官切腹と大序掛合足利直義、茶屋塲掛合平右衛門の三役。四月には桂川帶屋を勤めた此興行の初日、志渡寺(大隅太夫)を彈いてゐた團平が舞臺で倒れ、程なく逝去したといふ珍事が起つた。團平は稀世の名人であることは云ふまでもない、その臨終の實際を彌太夫の日記から抄錄する−−志渡寺の初日、常よりも手厚く彈き、終りの所『アレ/\金比羅大權現』にて左手もつれ其儘にて三味線下に置き、苦痛の状、直ぐ龍助友松床へ上り、友松抱へて入り、龍助床に其まゝ代りて勤む、團平部屋二階ゆゑ、先ず彌太夫の部屋に入れ介抱、深澤醫師來り入院させよとて、同病院(長堀橋北詰西)へ担架にて安堂寺町まで來りし時、絶息、故に清水町の自宅へ送る−−と書いてある。
 彌太夫に取つては、團平は恩師長門太夫の合三味線であつた因縁もあり、師の歿後も何かと屢指導を得た恩人であり、その至藝には尊敬措かなかつた事であるから、恰も恩師を失ふたほどに愁傷を極めてゐた。たゞ其最後の休息所を自分の樂屋に當てられたことが、偶然とは云へせめてもの報恩になつたのは嬉しかつたと、彼の日記に附記してゐる。
 五月興行の八陣には、浪花入江の掛合鞠川玄蕃と、佐倉曙の宗五郎住家を勤めた。同渡し塲は新靱太夫三味線豐澤小團二の役塲であつたが、こゝへ彌太夫は『團平最期の口寄せ』の新作を挿み追bフ供養に代へたが、團平ビイキの大歡迎を受けた。六月には義士傳彌作鎌腹を勤め、順調に興行を續けてゐたが、その廿四日に至り突然興行中止、劇塲解散の凶報が言ひ渡された。餘りの急變に一座の驚きは眞に言語に絶した。
 
 文樂の毒手に これには斯うした裏面があつた。稻荷座興行主の文藝株式會社々長某が、商敵文樂座の巧妙な策略に乘せられてか、極秘のうちに獨斷にて劇塲を賣り渡した故だと云はれてゐる文樂側では兼て稻荷座の發展を快しとせず、殊に近年興行成績も下り坂となつたところから、この暗撃的の非常手段に出たものだとの風評であつた。
 こんな風で稻荷座は、敵の毒手に寝首を斷たれ無慘の死を遂げたのであつた。その生みの親であつた彌太夫の悲歎失望はどれ程であつたか、にも拘はらず彼は涙を呑んで八方に馳せ、心ある舊株主を勸説して同情を求めた結果、漸く北堀江明樂座(彌太夫宅の前にあつた劇塲)を定劇塲として再起の旗を上げるまでに運んだ。此間の消息は左記大阪朝日新聞(三十一年十一月)に『稻荷座の再興と題して語られてゐた。
 稻荷の文藝株式會社は解散の薄運を迎へて櫓は其反對者なる文樂座の手に落ち、今は座摩稻荷と並び稱されたる小供芝居復活を見るに至りぬ、されども茲に技藝の巧拙を闘はして一生の命を床手摺にかけたりし太夫三味線人形遣ひは、解散と共に忽ち活路を失ひ、思ひ/\に地方に出稼ぎなし居れども、言はゞ家なし同然の有様にて、あたら名人有望の人々を田舎の土に捨てるは無念なりと、俠骨稜々たる彌太夫は諸肌脱ぎにて舊株主を説き廻り、其賛成を得ていよ/\堀江の明樂座を人形座とし、取敢へず當る五日より開塲する事となりぬ云々
 
 復興成つて引退す 明樂座に於ける再起興行は、三十一年十一月十日初日、伊賀越と白石噺揚屋を上塲、一座は大隅太夫(岡崎)組太夫(政右衛門邸)住太夫(沼津)長子太夫(新關)此太夫(圓覺寺)春子太夫(新吉原揚屋)角太夫生島太夫等。三味線、廣助、龍助、源吉、小團二、友松、新左衛門、仙昇、濱右衛門。人形、清十郎、玉米、門造、蓑助(今の文五郎)、兵三等を集めて居た。そして彌太夫自身は、この復興を機會に退座し、一座の後見として技藝上の監督に任じた。興行毎に總稽古に立會ひ、大序より大詰まで逐一に聞き、修正注意を與へて功果の完全を期し、或は各持役の稽古を付けるなど、多大の犠牲を拂ふて一座の爲めに盡力した。
 爾來五ヶ年に亘り、强敵文樂に對抗し、時に消長もあつたが善く戰ひ能く努めてゐた。
 以下、彌太夫退座後の、所謂明樂座時代の概況を記して、本項を終る事とする。
 
 復活の明樂座時代 三十四年十月の兜軍記琴責では、西川伊三郎が先祖傳來と稱する六尺有餘もある阿古屋の大人形を遣ふて見せたり。三十五年三月には、青森聯隊の雪中行軍凍死事件の際物を新作し『雪中行軍山淵大隊悲劇の段』を上塲、此太夫小隅太夫彌生太夫掛合、入念の寫實的背景、現代語の使用など大に新しぶりを見せ、大當り大人氣であつたが。三十六年一月興行を最後として、又々瓦解を見るに至つた。
 越へて二年、三十八年九月、この一派更に結束を固めて北堀江市の側堀江座に背水の陣を布き大奮闘を開始した。これより先、一座の頭首大隅太夫は文樂座に奔り攝津大掾の門下に參じた爲め、殘された座員は春子、伊達、長子、雛など、新進精鋭の若手ばかり、溌溂たる新興氣分を漲らせて奮戰すること實に六年、四十四年五月に至つて近松座の創立となり、その後大正二年まで繼續興行を見たが、經營不如意となり、大隅の客死、伊達の文樂入りなど相次いで起り、一座の結合にも龜裂を生じ、春子太夫等最後の一戰まで力闘したが遂に及ばず、同三年五月を以て永久の休座となつて了つた。
 彌太夫は、明樂座より堀江座時代初期に至るまで、即ち彼の死の直前(明治三十九年十月)まで直接に間接に、此一座の爲め献身的應援と不斷の指導に懸命であつた。その二座對立發展策も破れ今は全く文樂座の獨占となり、磨かる可き他山の石もなく舷々相摩すべき何物の刺撃もないことになつた。
 
  五 引退から終焉
 
 稽古の生涯 彌太夫が曩に文樂座を引いた明治十九年十一月から、稻荷座創立再び床に上つた同二十七年三月までの約八年間と、同三十一年六月稻荷座引退後、同三十九年十月の歿去までの約八年間と、前後合せて十六年の間を假に引退時代と名付け(但し其舞臺上の生涯は文樂座稻荷座を通算して約二十一年間となる)、この期間に於ける彌太夫の日常生活はどんなであつたか、謂はゞ舞臺以外の彼の全貌を一瞥して見やうと思ふ。
 然かしそれは極めて簡明であつて、只『稽古』の二字に盡きてゐると思ふ。即ち門人の稽古、後進者の稽古、あらゆる階級の修行者への稽古と、その養成薫育とを唯一の使命と心得てゐたらしい。そして自分自身にあつても朝暮稽古に寸分の暇もなかつた、それは古名人の演技の硏究、古曲章譜の吟味から改作改章新作々章にまで精進するなど、自他共に稽古三昧に沒頭したのが、即ち彼の生活の全部であつた。
 私の小學校通學當時の記憶を辿ると、早朝洗面の時には、きつと彼の居間から低い三味線の音色が洩れてくるのを覺へてゐる、それが殆ど毎日の事であつた。後年になつて氣付いたが、これは先輩名人の語り風や三味線の譜を調べ、一々朱章を訂して記錄に仕上げてゐるのであつた。
 斯くて稽古に雲集した者は、前後三千人を超へたことは、第四『稻荷座時代』の冒頭に述べたが、この數字は一見誇張のやうであるが、實際、堀江、北濱の兩稽古塲に於ける盛觀を目撃した者は直に合點された事と思ふ。それには又理由があつた。櫓下の太夫ともあらう者が、無報酬(素人義太夫を除いて)で門戸を開放し、その至藝をヘ授するといふこと。而かも其稽古ぶりは彌太夫獨特のもので、一々其聲柄に應じ、其實力に考へ、その人相應に語り得るやう各個別々のヘ授法を用ひ、各人の個性特質を活かしたといふ事である。
 斯うした噂が地方に傳はり、中國、四國、九州等より、田舎師匠などワザ/\來阪滞在してヘを受け、時には彼の家に寄寓して家事を手傳ひながら稽古ダネを學んで歸國する者もあり、從て絶へず二三の食客弟子が居た。又、太夫志願の地方青年などには、修行の難澁を説くも斷念せず、玄關に居すわる等、押附け弟子の取扱ひには彼も大に悩まされたやうであつた。
 
 直系門人表 彌太夫のヘへを受けた者は如上多數に上つてゐるが、その直系門人は明治三十年(死の九年前)調査に由ると、九十一名が計上される、即ち左の人達である。
彌儀太夫彌代太夫彌生太夫君太夫
彌々子太夫彌尾太夫長子太夫(二世)彌光太夫
彌太子(女)禰重春(女)彌太吉(女)小彌太(女)
彌津太夫彌佐太夫彌太松(女)彌太梅(女)
彌太廣(女)彌惠太夫彌賀太夫彌島太夫
彌壽太夫琴太夫彌名太夫當久太夫
長太夫彌國太夫彌野太夫長子太夫(三世)
品太夫廣太夫彌太豐(女)菊太夫
彌關太夫彌重子太夫彌qセ夫彌千代太夫
彌勝太夫彌咲太夫彌筑太夫住太夫
新靱太夫田喜太夫染入夫此太夫
錦糸信太夫三木太夫住尾太夫
久太夫千代太夫傳(女)小傳(女)
不龍軒由良太夫假名太夫彌後太夫
彌太兼(女)瑠璃太夫彌玉(女)彌菊(女)
和田太夫彌登太夫御所太夫菊太夫
照太夫彌昇彌駒太夫小彌儀(女)
小松太夫雲龍大夫彌翁太夫彌珏太夫
彌太廣(女) 都(女) 梅松(女) 三(女)
禰太照(女)彌納太夫彌常太夫彌調(女)
彌光(女)彌龍(女)彌之助(女)彌六(女)
彌市(女)彌代太夫彌生太夫琴太夫
雛太夫君太夫三根太夫
以上
 前記中、住、染、長子こと六世彌、新靱、此、雛など一流の人々を始めとして、その他劇塲出勤毎に其役塲の稽古を受けた。門人以外では、津、土佐(當時伊達)、駒、角。故人では春子、相生、長尾、香A綾、調太夫などがある。此他當時の太夫三味線彈の大部分は、多少ともに彼のヘへを受けぬ者は殆どなかつたらしい。
 殊に稀に出る古狂言など、切塲は兎も角、端塲、序等の輕い役塲は殆ど知る人が無かつたから、かゝる塲合は必ず彼の手を煩はしたものである。その輕い役、輕い太夫にも親切丁重にヘへ導いたことは、別項諸氏の談話によつても察知されるのである。
 
 越路、大隅の稽古 今の津太夫氏を始め直接稽古を受けた人々に關しては、別項諸氏の直話にも明かであるから略叙するが、茲に餘り知られてゐない越路太夫と大隅太夫の二巨頭がソツと稽古を受けたといふ幕内話を洩らして見やう。
 越路太夫は、まださの太夫と云つた明治二十六年十二月興行の時、長尾太夫の代役八犬傳伴作住家を勤めたが、この時初めて彌太夫の門を潜つてヘを受けた。その後は屢ひそかに稽古を乞ふた、彌太夫もその熱心に感じ蘊蓄を傾けてヘへるところがあつた。攝津大掾の門下でありながら曲風聲調の異つた越路は、寧ろ彌太夫の藝格に學ぶところが多かつた。彼の薄い腹を巧みに練達し得たのも其れから穫た賜であつたと思へる、又一時彼の藝風が師匠(攝津大掾)には似ず、却て彌太夫畑の如き世評を受けたのも故ある哉であつた。
 大隅太夫と云へば、人も知る自尊心極めて强く天下無敵を公言する程の人柄とて、他人の技藝に決して頭を下げたことは無かつた。
 これは三十三年十月十七日のこと、西區西長堀岸松館での或祝宴の席上で、珍らしい顔觸れの太夫達で、菅原道明寺の掛合があつた。配役は津太夫の菅亟相、組太夫の宿彌六郎、染太夫の輝國、新靱太夫の土師兵衛と云ふ是れこそ天下一品の粒揃ひに、彌太夫は伯母覺壽を語つた。覺壽の出來に付ては別項諸氏の談話にも屢噂された通りであるが、たま/\これを聽いた大隅太夫は、覺壽の情味に惹き付けられ涙をポロ/\とこぼし『エライ事やりをる』と吐息ついた、とは傍で目撃した人々の今尚ほ言ひはやす話材である。
 その翌月、大隅太夫は改めて彌太夫の宅を訪ひ、熱心に道明寺の稽古を受けた、續いて沼津を聞き、更に三十八年一月興行、菅原の佐太村櫻丸切腹の持役を二日續けてミツシリと稽古に通ふた。名人大隅の隠れた修行談の一つでもあつた。
 
 相生、長子、俳優達 東京の相生太夫が文樂座に勤めた時、東京風の藝が土地の水に合はなかつたか、兎角評判が上らなかつたのを心痛し、明烏の山名屋の役に當つた時、文樂翁に智慧を借りると、堀江へ行て聽け、と指圖された。明烏の稽古を惡聲の彌太夫に聞けとは方角違ひと思ひながら、さて彌太夫の許へ稽古に通ふたところ、髪結お辰の意見を中心に、浦里口説の意氣、責めのくだり、遣手亭主の人物など、情味本位にヘへ込まれて血の出るやうな練習を積んだ。果して好評湧くが如く、相生太夫の存在を認めしめ人氣是れより揚つたといふ事である。
 門人では、後に六世を襲いだ長子太夫は、稽古が嫌ひで顔を出さぬのを、無理やりに呼び寄せては稽古を付けてやり。酒や其他の失策の爲め二十幾回か所謂勘當の處分を命じながら、又しても宥してやつてはヘへてやると云ふ熱心さ、『弟子より師匠が一生懸命だ』など蔭口叩く不心得者さへあつたが、これほど彼の稽古には誠意と熱とが籠つてゐた。
 されば彌太夫の藝格を、最も能く有効に吸収した者は、越路太夫か六世彌太夫か、住太夫、新靱太夫、春子太夫にも大小ともに其呼吸が流れ込んでゐたらしい。現代では、津太夫氏、駒太夫氏等にもより/\其面影が偲ばれるやうである。
 俳優で親しい交際のあつたのは、中村宗十郎、實川延若、同延三郎、市川右團治(齋入)、中村時藏(歌六)、片岡仁左衛門(先代)等であつたが、其うち稽古を受けたのは、延三郎、右團治、時藏、仁左衛門等であつた。いづれも明治初年から三十四五年頃までのことであつた。現存の俳優では、片岡仁左衛門氏の我當時代に、中座の堀川猿廻し(廿六年十二月)が出た時、始めて與二郎の稽古を受けた。其後吃の又平上演の時もヘへを乞ふた。この興行は中村鴈治郎氏との競爭であつたが鴈治郎氏も亦此時始めて吃の硏究に彌太夫を訪ふたことは既記した通りである。
 
 竹彌連と瓢會 素人義太夫衆の稽古に至つては殊に一段の盛況を極めた。彌太夫床を退き道塲を開放すると聞くや、其一流の藝格を習得しやうと潮の如く門に集つた。大阪知名の素人は殆どこゝに網羅されたと云つてもよかつた。
 明治十九年文樂座引退後には、『竹彌連』を組織し、稽古塲を堀江本宅と北濱の出張所とに設けたが、その後稻荷座に出勤するに及び一旦中止し、更に同座引退後は、竹彌連の更生を志し、名も瓢會と改め名實共に大阪隨一の權威ある素人義太夫會を作り上げた(瓢會名稱の起りは第一項に述べた)。會員には定評ある第一流の名手が集つてゐた。即ち
 (以下いろは順)一寶、一舛、一秀軒、一俵、一聲、半笑、北水、米昇、米雀、十三、糖昇、柳平、鱗鳳、かつら、かなめ、閑多、楚雀、壽、高麗五、紅雀、三木、木調、義調、喜園、松山、松壽、松重、清水、松柳等、等。
 以上孰れも名だたる人ばかりであつたが、今は總て故人となられた。現存の人々には、登笑、十玉、千倉、雷鬼、狗若、魚勢、三七十、松柳(二世)、松山、眞若、壽笑、清司の諸氏が健在されてゐるが、殆ど既に休聲されてゐる。
 中にも、閑多の忠四、三木の天王寺村、柳平の沼津、一寶の道明寺、鱗鳳の赤垣出立、一俵の彌作鎌腹、紅雀の楠どんぶりこ等は、明治時代素人淨瑠璃の代表的逸品と推奨されたものであるが、皆彌太夫畑の作物であつたのである。
 數多い素義大會のうちでも、瓢會の大會と云へば、いつも重要視されたが、それ程に演技その他に就て、模範的な印象を與へたものである。或時は伊賀越の道中双六と乘掛合羽から撰んで、通して立て。或は忠臣藏の裏筋物(忠臣講釋、二度目清書、義士書添、祇園曙等)から珍らしい塲面を撰んで立てるなど、藝題にも配役にも、又演出にも種々變つた目新しい趣向が凝らされてゐたから開會毎に評判となつた。老後の彌太夫は心から此ひさご會に愛着を持ち、比處に彼の藝生活の慰安所を求めてゐたやに想はれた。
 
 女義太夫と藝妓 女義太夫や義太夫藝妓、所謂女流の義太夫と云ふものに就ては、多少の疑問を持つてゐたらしく、女の弟子は樂しみが少ない、と述懷したことも聞いたが、一つは其聲柄の相違を難としたものか。それにしても一層の苦心を拂つてヘ導したやうであつた。次叙の如く女因會更生の爲めにも、自ら肝入役となり卒先して斡旋に努めるなど、道の爲めには敢て犬馬の勞を吝まなかつた。門人の如きも偏へに辭退してゐたが、それでもいつとはなしに二十餘名に達するに至つた。就中、彌調、小彌儀、都、彌太廣など、門人外では末虎、呂昇などの名ある人々が數へられた。
 住地の關係から、堀江遊廓の義太夫藝の爲めにも稽古を付けた。廓の事務所に出張して乳臭い子供藝妓にまでヘへたこともあつた。堀江の義太夫藝妓が各廓の第一位に置かれてゐるのは、傳統的關係でもあらうが、彌太夫の努力にも負ふ所が少くはなかつた。お傳、小傳など太夫勝りの太棹藝妓など出してゐる。
 彼の稽古塲には、稽古人出席簿を備へ、出席缺席は師匠自身で記帳した。缺席連日に亘ると、師匠の方から事情を照會するといふ熱心さ眞劍さであつた。その他稽古に關する種々の話柄は、別項諸氏談話中に委細を盡くして叙べられてゐる。
 
 稽古人の弊を諷す 明治二十一年十二月の淨瑠璃三業因會の宴席で、たま/\路太夫から某師の稽古の甚だ不親切であることを指摘した時、彌太夫は斯んな雜談を試みたと聞いてゐる……
 芝居開塲中に、よく他人の藝を聞き覺へて置く心がけがない爲め、知らぬ役付きの塲合には狼狽して、臨機應變に其れを知つた人に就て稽古する、今度は三味線彈の何某方へ、次は太夫の誰れの所と云ふ様に、その時折の風次第で彼方此方稽古に廻ると云ふ風で、習ふ人に誠意なく、隨てヘへる人に熱も張合もなく、通り一遍のお座なり稽古を付けるに過ぎない、これでは良い物が出來る筈はない。總じて今の若い人たちは、稽古といふものを極めて簡単に粗略ぞんざいに扱ふ弊風がある、昔は名人方にヘへを受けることは容易には出來なかつたもので、故吉兵衛氏鬼一の二の切を咲太夫師に習ひに行つたが、十一日目にヤツと奥へ通された、咲太夫師は物々しく虎の革の上に座して云ふやう。此塲は故播磨大掾師から心魂を碎いて傳授された貴重な一段であると、長講された後、愼重に稽古を始められたと云ふ程で、昔の稽古はこれほどに骨が折れた。今は餘りに先輩の稽古を受けることを輕々しく甘く見るのではあるまいか、師匠の不熱心を云ふ前に、自分の誠意を反省して見る必要があるまいか……
 これは輕忽な後進の、稽古に對する不心得を諷した頂門の一針であつた。
 
 門人心得書 左記は本項に直接の關係はないが、彼の門下に示した日常の心得書であるから、附記して置く。
 一、三業仲間規則並因社申合せ背くまじき事
 一、他國へ興行出稼ぎの節には必ず通知仕候事
 一、古門弟の言葉隨分用心可相守候事古門弟も新弟子を愛し互に懇親盡くすべき事
 一、大酒色道相愼み賭博等は決して致すまじく候事
 一、何れの演劇塲及寄席等へ出勤致候節は無懈怠大切に相勤め候事
 一、他人の淨瑠璃を誹り自身高慢致すべからず候事
 一、別して無筋の事に喧嘩口論致すまじく候事
 以上絮説したところは、彌太夫が引退時代を通じ最も重要な地位を占める稽古生活の概略であるが、次には此期間に起つた淨瑠璃界の出來事と、彼との交渉に付て其片影を窺ふ事とする。
 
 右團治と團平 明治二十二年の頃、道頓堀角芝居で市川右團治が、豐竹柳適太夫三味線豐澤廣作の床、吉田辰五郎の手摺で、廿四孝の八重垣姫に扮し(勝ョは延三郎、濡衣は巖笑)、首振人形仕立で演じたことがあつた。此時因社の一部では例の面目問題を持ち出したが、彌太夫は過去幾多の例を引いて之を抑へた。又右團治の懇請によつて桐竹紋十郎を自宅に聘し、人形振の練習に便宜を與へたことも再三であつた。
 ある時右團治が名人團平に會ひたいと、彌太夫に紹介を求めたが、團平は一種の見識を持し容易に俳優たちとは交らないことを知つてゐた彌太夫は、思案の結果、右團治が頗る親孝心の人である事を説いたところ、團平は、そんなお人なら會ひませうと快諾し、堀江の彼の宅で初對面の一齣を開けたといふ劇的な逸話もあつた。
 
 女義太夫因會の成立 女義太夫の結社である女因社の生れたのは、古く明治二年であつたがその後有名無實の状態にあつたを、三十一年十月、當時賣出しの呂昇が照玉、長廣(今の旭嬢)、末虎、名瑠吉、小巴、東猿、光市、鶴淺等の主腦者と謀つて、女義太夫因社の再興を企て、先づ因社後見彌太夫の助力を請ふた。彌太夫は悦んで其成立に一方ならぬ援助を與へた。かくて三十二年十一月二日、女義太夫の幹部は堀江彌太夫の宅に集合し、宿弊の改善、相互の親睦、藝道の精進など誓約を固め規定を作り、こゝに女因社の結合が確立され、加盟者六十一名に上つた。かくて女義太夫の斯界に於ける位置、勢力が、社會的に正しく認められるやうになつた。
 
 三味線紛訌 三十四年九月、文樂座出勤の三味線鶴澤叶が、東京にて素人を彈き劇塲にて公演した事が、因社規約違反とあつて紛議を起し、除名問題が提出されたが、事を好まぬ彌太夫等は百方斡旋の結果、今後を戒め無事落着となつた。これは叶より彌太夫宛の禮状中にも其消息が洩らされてゐる。
 同年十二月、同じく東京にて、曩に越路太夫を罵つた野澤吉兵衛が、又もや大隅太夫一座を新聞紙上で惡評し、因社の一問題となつた事件があつた。越路は自身の合三味線である關係もあり、吉兵衛を説き大隅と共に因社後見彌太夫を訪ひ、新聞記事の誇大誤聞を辯明した。彌太夫これを諒とし因社に釋明して穏便に解決せしめた。
 
 細棹事件、大隅文樂入 叶と云ひ吉浜衛と云ひ三味線の厄難に次いで、細三味線事件なるものが起り、明樂座對文樂座の正面衝突が生れやうとした。三十六年一月、明樂座で興行した新物大江山の戾り橋に、細三味線を使用した事が文樂座三味線仲間の~經に觸れ、いやしくも義太夫三味線を以て立つ者が、歌三味線の力を借りて人氣を得やうとは卑劣である、我々の恥辱であるとの抗議が持ち上つた。平素競爭心理に逐はれつゝある兩座の感情が、偶この事件によつて爆發しやうとしたのである。もと/\細棹使用は豫め因社後見彌太夫の内意を得て實行したものである。彌太夫の意見としては、三味線彈が太鼓や笛を用ふるとは異り、細三味線程度のものなれば、演技の功果を擧げ得る手段として用ひる分には大して批難をするにも當るまい、との極めて廣義な解釈から許したのであると云ふ内情が判明し、文樂側も諒として手を引いた。
 同年五月には、大隅太夫が明樂座一派の門人等を見捨て文樂座に加入し、越路太夫(攝津)門人として口上書きが發表されたのを見て、明樂座側の激昂一方ならず、無節操、不人情との攻撃の聲高く、過激な直接行動詮まで生れたを、彌太夫等の慰謝によって事無きを得た。
 
 因社後見としての彼 以上述べ來つた如く、因社後見としての彼は、清濁併せ呑み、機に臨んでは常に寛大な同情に立脚し、杓子定規に囚はれず自由な見解から總てを判斷したやうである。それが爲め頑固保守の一黨からは時に批難の聲を聽かぬでもなかつたらしい。
 
 日露戰新作淨瑠璃 三十七年の日露役に、第一同族順閉塞隊で名譽の戰死を遂げた、大阪府出身の最初の犠牲者、海軍水兵梅原健三の事蹟を仕組んで、當時大阪朝日新聞在社柳江村松恒一郎氏が『薫梅忠義魁』梅原留主宅の一段を新作し彌太夫に與へた。彼は悦んで多少の加筆と、新節章を付して公表した先づ瓢會の一流連に試演させたが、世を擧げての戰時氣分に投合し、各所に迎へられて上演の數を知らず、これを語る者續出し、爲めに五行本の版行を見るに至り、益々非常の勢で流行した。
 翌三十八年四月、彌太夫は飄會の諸氏と共に、河内四條畷の北に當る梅原水兵の郷里へ、遺族慰問に出向け、追bフ爲め新淨瑠璃梅原留主宅の一段を總掛合にて力演し、滿塲を感泣せしめ大喝采を博した。(詳細は別項諸氏談話中にある)
 この年七月、六世組太夫東京にて病死したが、その遺言により、門弟の君太夫、雛太夫の二人は彌太夫の預り弟子となつて入門した。
 この他、超願寺の元祖義太夫碑の再建修築(二十六年)、近松巣林子記念碑建立(二十八年)、生玉淨瑠璃~社再建(三十二年)等に就ても、因社の役柄から見て當然の事とは云へ、尠からぬ力を盡くした。
    ◇
 
 重患、火災、死 曠古の大業であつた日露戰役も終り、編者生涯の一記錄であつた二年間の戰塵生活から、凱旋したのは三十八年十二月末、この時久々で拜した父の顔に著るしい衰へが見へたのに驚かされた。聞けば此秋頃から連りに頭痛、腰痛、下痢などがあつたとのことである。
 翌三十九年の春過ぎる頃からの日記を見ると、『氣分惡るし』『せき劇しく出る』『臍下氣持ちわるく痛む』などの文字が隨所に見へ出して來た。それでも毎日の稽古は續けられてゐた。八月に至り醫師の勤めによつて稽古を打切り靜養する事となり。十月一日、府下濱寺公園内の茶亭小松園を借り受け出療する事となつた。この日の日誌の一節
 十月一日
 堀江の宅を出で濱寺に行く、正之助(編者のこと)先きへ參り掃除させ、別座敷ちやんと取り美くしく片付けあり、四時過ぎに庭を歩行す……
 この一文が編者の事を書かれた其の最後のものであつた。
 十月十七日(~嘗祭)朝七時、北堀江本宅の筋向ひ明樂座より出火、疾風の爲め忽ち類燒の厄に遭ひ、土藏一棟を殘して全家悉く灰となつた。
 十八日、秘してあつた此凶事を、何人が重患の彌太夫に洩したか、それと聞いて病勢頓に惡化した模様であつた。
 十九日、彼の日誌は此日を以て終つてゐる−−十一歳から筆を起して七十歳の此の日まで六十年間書き續けて來たが−−
 
 十月三十日遂に瞑目 斯くて十月三十日午後六時、病俄に革り、彌太夫は枕頭に、妻キタと子女七人に取圍まれながら、晏然として永い眠りの旅に立つた。
 葬儀は十一月二日午前十一時、本宅の燒跡、燒殘りの土藏前バラックから出棺、雨中を岩崎墓地(今の港區岩崎町瓦斯會社の南西横の地に當る、明治四十一年六月廃止)に送つた。
 墓は、菩提寺眞言宗生玉青蓮寺(天王寺區生玉町、竹本座主にして作者の竹田出雲一家六十餘人の墓、女形俳優中山南枝の墓もある)と、天王寺逢坂の一心寺(墓域の南東方、凹路を隔て茶臼山を背にして立つ)にも、門人等建立の墓碑がある。
 
 歿去當時の位置 歿去當時に於ける彌太夫の、淨瑠璃界の位置を知る便宜上、此の年因社發表の太夫顔附表を左に示す
  後見(會長)竹本彌太夫
  同(副會長)竹本攝津大掾
  副後見 竹本津太夫、竹本對馬太夫
  太夫 竹本大隅太夫、竹本住太夫、豐竹呂太夫、竹本染太夫、豐竹八重太夫
  古老 豐竹新靱太夫、竹本むら太夫、竹本七五三太夫、豐竹假名太夫、豐竹此太夫、竹本越路太夫、竹本長子太夫
  中老 以下省略
 
 終焉前後の事 彌太夫が臨終前後の記錄、及び其葬儀の状況に付ては、左記大阪朝日新聞記事を以て之に代へる。
 竹本彌太夫死す 淨瑠璃界の耆宿として將た古今の名人として斯界に重きを置かれたる竹本彌太夫こと木谷傳治郎は、本年初夏より腎臓炎に罹り爾來濱寺小松園にて療養中なりしが、藥石功を奏せず遂に昨三十日午後六時を以て永眠せり、享年七十歳、噫惜い哉。遺骸は直に陸路を吊臺によりて運搬せられ、遺族の人々之に附添ひて昨夜十一時頃堀江本宅類燒後(十月十七日の火事にて)の假宅なる、堀江座西隣の家へ安着し、在阪の門人染太夫を第一着として住太夫、新靱、長子、以下の人々、親族故舊、諸藝人、義太夫藝妓等、先を爭ふて驅けつけ通夜の伽をなしたる者少からず
 死の前後 彌太夫の發病は本年六月廿八日にして、此の夜十一時自宅にて素人連の稽古を終り稽古塲より座敷に歸りて、宿痾の腎臓病が起りし様なりとて不快の體なるを、妻おキタ(六十年)が『そんなゲンの惡い事言ひなはんな』と勵まして臥床に就かしめたるが。その後一時快復の状態となりたるより、藝道に熱心の人とて造次も淨瑠璃の事を忘れず、本箱の本を引ぬいては朱を入れ本社の村松柳江氏の新作、梅原健三住家の段の節附を改め、又は新淨瑠璃の松菊齋よりョまれたる同人新作の『高崎中尉』に節附を加へなどし、半ば成就せんとしたるに、附添の人々は病の障りにならん事を恐れて件の本を匿したりと。
 十月一日より前記濱寺小松園の座敷を借り受け出養生をなし、妻おキタ及び男女七人の子等、交る/\附添て介抱に丹誠を盡したれど、病勢漸次に重きを加へ遂に昨夕永眠するには至れり。數日前彌太夫は妻に向ひ『最早や今度は助かるまいが年來好きな藝に身を委ね、子供等もそれ/\發達して渡世の道をも覺へたれば、今死んでも更に心殘りはない』と云へり。又堀江の本宅類燒したる際にも、家は燒けても子供等は成人して居るし、ちつとも心配する事はないと云ひしかど、内心幾分か憂患の色見えてこれが爲めにも病勢募りしならんと云へり。
 彌太夫の家族 妻おキタとの間に六男一女あり、長男は芝川照吉とて芝川又右衛門氏の一門として養はれ、次は長女木谷トヨにて木谷樓の主たり、次の二男正之助は豫備二等主計にて日露戰役に出征し目下家にあり、三男は西岡喜三郎とて銀行員、四男は安次郎とて現今工科大學に在り、五男熊吉は一年志願兵にて第四師團に入營中、六男義七郎は目下中學校に通學す。彌太夫常に子女に對し、私は藝人ながらも相應に人に知られるやうに成つたから、お前達も精々勉强して夫々の天賦を守り、世に知られるやうな人間になつてくれいとて訓諭怠らず、子女も亦其の器凡ならず揃ひも揃ふて人の褒めものとなり居れり。(以上明治卅八年十月卅一日大阪朝日新聞所載)
 彌太夫の葬儀 葬式は十一月二日午前十時、堀江本宅燒跡を出棺、佛式にて菩提寺生玉の青蓮寺のみに託し他寺はョまず、成る可く質素にすべしとの遺言もあれば、供花放鳥旗提燈供養車等一切謝絶せり。堀江座西隣の假宅は一昨夜來訪客絶へず、昨朝よりは殊に雜沓し屋内立錐の餘地を見ず、出入の職人などは雨中屋外に佇立み居たり。(同上十一月二日所載)
 彌太夫葬儀の状況 昨二日午前十一時間西區北堀江明樂座前燒跡假宅出棺、棺前は定紋の高張數十對、幸町淡熊寄贈の大蠟燭、因講の提燈と旗、棺は六尺十六名にて舁ぎ、後列の會葬者は、軍人、名譽職、力士、新舊俳優、劇塲座主、寄席主、料亭、各遊廓藝妓等一千數百名の多きに及び、殊に文樂、堀江一座の太夫、三味線、人形の三業は殆ど總出にて、攝津大掾等の顔も見へたり、雨中なれども道筋には見物人垣を築き、順路岩崎墓地へ送葬せり。(同上十一月三日所載)
 
 

第二編以下の目次
第二編 人物と藝格
一、彌太夫の人と藝と六十一氏
1先師の追懷村松柳江 氏
2山櫻と逆櫓江上脩次郎 氏
3稻荷座での思出高安月郊 氏
4彌太夫と中村宗十郎食滿南北 氏
5自分の見た恩師の眞価宇野源三郎 氏
6髄を語る彌太夫高安吸江 氏
7師匠丈けは日本一岡田翠雨 氏
8八百屋の婆を三度まで岡島眞藏 氏
9おぼえ書高原慶三 氏
10揚屋の惣六と來たら長谷川貞信 氏
11舞臺の外の彌太夫山本郭外 氏
12逸話ほこりたゝき山本吉兵衛 氏
13二十餘年の思出中井浩水 氏
14助六と辨慶木村旦水 氏
15淡い記憶から行友李風 氏
16人物の面目を躍如と薄田泣菫 氏
17聞いた話下村海南 氏
18初役『信夫』の頃片岡我童 氏
19吃又のコツ中村鴈治郎 氏
20追孝の美事に感じて加藤亨 氏
1三人笑ひ竹本津太夫 氏
2忘れられぬ嬉しさ豐竹駒太夫 氏
3掛合のイキのうまさ竹本土佐太夫 氏
4溫厚と嚴正竹本角太夫 氏
5逆櫓に驚く豐竹古靱太夫 氏
6どんな端塲でも竹本源太夫 氏
7五代友厚實川延若の淨瑠璃豐竹假名太夫 氏
8生きてゐる平作吉田榮三 氏
9驚き入つた『つらだましひ』野澤吉兵衛 氏
10耳に殘る逆井村鶴澤友次郎 氏
11不思議な『二人の子供』野澤吉彌 氏
12ツメ人形にも魂豐澤新左衛門 氏
13チヤリの酒屋鶴澤綱造 氏
14お稽古は平等に豐澤廣助 氏
15藝の虫豐澤松太郎 氏
16用意と心掛け豐澤雷助 氏
17彌太夫風九曲解剖
(岡崎、橋本、道明寺、大文字屋、鎌腹、
紙治茶屋、岩井風呂、腰越状、どんぶりこ)
鶴澤叶 氏
1提灯と彌太夫式ヘ育三木無勢 氏
2お稽古の廻れ右河合雷鬼 氏
3謙讓の人森下蟻洞 氏
4座蒲團抱いて寝てお稽古福田糖昇 氏
5日露戰爭『梅原』の新作土井三七十 氏
6人格と藝術吉川閑少 氏
7眞世話も大時代も小西威京 氏
8稽古人勤惰簿の事吉田十玉 氏
9ひさご會の盛況川端狗若 氏
10お稽古ぶりを偲ぶ平岡千倉 氏
11師匠生き寫し布井かなめ 氏
12三味線助けの章本石井松柳 氏
13斯道の名寶森清司 氏
14ピリ/\と障子へ聲が日下伊兵衛 氏
15名人藝の印象種谷喜兵衛 氏
16旦那衆藝横溝小八 氏
17光るお稽古臺oZみつ 女
18恩師の面影竹本末虎 女
19『女房ョむ』の意氣竹本彌調 女
20『忠四』の思出竹本都 女
21きびしいお稽古竹本彌太廣 女
22旅先へまで御奨勵竹本小彌儀 女
23三時間かゝつた茶屋塲樋口悦 女
24かたみの『めし椀』竹内キミ 女
二、彌太夫私見
三、自作淨瑠璃其他
第三編 彌太夫興行年表
後記−家族の事ども