平成廿二年一月公演(5日・18日(「彦山」のみ)所見)  

第一部

「二人禿」
 日常の苦しさを歌にして解放するというのは子守唄にも見られる。もし、背負われている幼児に言葉が理解されたら、とてもすやすやとは眠っていられないところだ。この詞章も前半は同じである。もちろん、聞く者はそこに哀愁を感じ取るわけであるが、新春を寿ぐ景事として、手拭い撒きへと繋がる出し方の場合には、そんなこととは無縁である。だから、正月気分をどれだけ醸成することが可能であったかということのみが問題となる。さらに、暦が太陽暦になったことで、初春という語も空しくなってしまったから、花の廓という語も象徴的意味しか有してはいない。となれば、床は高い音で賑やかに聞こえればいいので、もっぱら人形を見てその初々しさを新春へと置き換えることができたかということに絞られよう。その意味からは、三輪南都以下の太夫陣に喜一朗団吾他の三味線、清五郎と一輔の人形は無難であったと言えよう。鑑賞ガイドや解説が本気であのように書いているとすれば、それが舞台上に現出するためには何が必要かを示さなければ、文字の乖離的羅列でしかないのである。

『彦山権現誓助剣』
「杉坂墓所」
 凄惨なお菊殺しにして色悪京極内匠の面目躍如たる「須磨浦」が出ないので、ここは単純に、母思いである毛谷村六助の人情に厚く正義感ある強さを印象付けるにとどまる。京極内匠について悩む必要はないから気は楽だ。御簾内はそれにしても重すぎる。ここでこれだけじっくりやったら後はどうしろというのだろう。もっとさっさと運ばなければ。ひょっとして、観客にわかりやすくと考えてのやり方ならそれは大いに間違っているわけで、このあたりが近年の聞いていてツマラナイ浄瑠璃の要因であるのだ。その点を除けば、太夫三味線ともに実力はあるとしてよい。
 奥は千歳・清介だが、マクラの足取りとカワリだけ聞いても、そのすばらしさは瞭然である。独り言から焼香までのしんみり、浪人の登場、背負われた老婆と、描写は見事であった。続いて男二人の語り分け、文七かしらでも険悪な様相の京極内匠に気を配り、詞の攻め方もよく、親への慈悲には是非もない六助の心情を揺り動かすに十分であった。後は六助の強さを印象付けるところだが、人形と相まってなかなか格好の良い魅力的な造形に仕立て上げ、この立端場を見事に勤めたのである。

「毛谷村」
 この端場、まず見聞役の武士を造形するに当たっての意図が明確でない。彼らは、六助が忝なくも殿様からの召し抱えを断るばかりか、勝てば奉公してやるという土民の広言を苦々しく思っていたわけで、それが今回打ち負かされたことは痛快にして歓喜よりほかはないのであり、それゆえにその言葉も見下し愚弄するものとなるわけである。六助の卑下に対して大笑いするのは、当然のことだと納得しているわけでなく、今更思い知ったかと侮蔑の嘲笑に決まっているのである。それに加えて弾正の嫌味こそ、男の眉間に傷付けるという侮辱の印として刻みつけられるわけなのだが、このあたりの文字久は緩いし温いしで、物足りないことこの上なかった。根が純朴な好青年なのだろうけれど、公演記録会で見た小松大夫の端場とは格が違っていたのは残念。しかし、後半の老女の出などは三味線富助の腕とも合わせ、聞かせるまでになっていたのは流石に中堅である。女の造形が意外に面白いとは前から触れているが、実は裏のある婆という造形が今回についてはもう一歩及ばなかった。とはいえ、全体としてまとまっており、面白さには欠けるが平明だという点は、平成の名人の弟子として納得のいく出来であった。芝居から離れて音曲に任せられるかどうか、これが文字久の唯一最大の難所なのである。
 切場は咲大夫と燕三。「大和屋」や「朱雀御所」は亡父譲りの余人無き一段ゆえとして、「菊畑」「正清本城」に今回「毛谷村」を勤めたのであるから、これは正真正銘の櫓下・紋下であり、斯界のリーダーということになる。「風」が語れなければ(二つの意味において)そうは呼べないのであるから、彼こそが戦後無人となったその地位に納まるべきであり、銀襖もその時には金襖にしていただきたい。番付にもそれは反映されるべきで、三味線欄もせめて年に一度は太夫付きではなく序列を示すのがよい。何でも平等というお題目が平明という形となって現在の浄瑠璃を面白くないものにしていることは、これまた二つの意味において糺さなければならないものなのである。さて、マクラ一枚の雰囲気はなかなかに難しい。季節が暮春なら気怠く物憂い雰囲気でよいのだが、ここは山里のまだ浅い春である。納得ずくとはいえ負けた上に、正体不明の婆とのやりとりが済んで残るのは精神的疲労感であり、それが内向して弥三松の母を慕う悲しみと通底して自らの哀切をかき立てるわけであるが、そうなると初春の描出とは満たされない不安定感を表現しなければならないことになる。実に至難であり、このマクラからお園の出のハルフシまでが出来たなら、時代に名を残す太夫なり三味線なりということになるのである。さすがにそこまでにはまだ至らないが、表現が志すところは奈辺にあるかは確かに伝わってきた。お園の出からは見事で、奥へ入ってのクドキは三味線の見事さによってフシ付けの魅力を堪能できたし、斧右衛門は自家薬籠中のもの。そこから段切りまでは六助の力強さに時代物としての貫目が出て堂々の寄り切り横綱相撲で、大当たりと声を飛ばしたくなるほどであった。義太夫節浄瑠璃を聴く楽しみを、この床はきっちりと味わわせてくれるのである。今回の見台は古靱のものであったが(これは後述する最古の文楽映像で古靱が使用していたものかもしれない)、それに違わぬ内実であった。
 人形陣、六助は注目のダブルキャスト。勘十郎が弥三松をあやしながら身をひねって敵を始末するあたりと、簑助師が遣うお園との絡みなど絶妙であったのに対し、玉女は純朴さに加え段切りの怒りが座頭格を感じさせ、両雄各々の個性が発揮された。観客にとっても今回は二度劇場通いをする価値があったというもので、これだけでも人形陣の未来は明るいと言ってよいのである。勘寿、文司、玉也と脇も固まって本公演第一の見物聞き物に仕上がっていた。

『壷坂観音霊験記』
「土佐町」
 綱師が切場(後半)を勤めるので端場が付く。詞章・節付けともに何ということもない場であるが、あえて言えば、貞女お里に対する茶店の嬶や参詣人(と言っても近在の連中が縁日に出掛けるので伊勢参りなどと同一視してはやり取りが納得できない)のくだけた表現ということになろうか。となれば不十分であったとなる。しかし、「くわんのんさま」も全体の流れも評価できるので、以前咲甫で聞いたレベルを基準にするのはまだ早いということなのだろう。

「沢市内」
 鑑賞ガイドが「地歌や御詠歌など音楽性が豊かに散りばめられます」などと妄言を吐くので、義太夫節浄瑠璃は今日のようにストーリーをわかりやすく伝え、観客が局部的に泣き笑いの反応をすればそれでいいという代物に堕してしまっているのである。そもそも、「情を語るもの」という事柄の真意が曲解されている。これについては、後日まとめて考察を加えようと考えているが、そのためにはこの「壺坂」が彦六座において三味線名人豊沢団平が三代大隅太夫のために節付けしたことから捉え直さなければならない。幸いこの点に関しては、初代鶴沢道八がその芸談の中で詳細に語っているので、それを参考にすることができる。
これを斜め読みでもすれば、「情を語る」ことの本筋がどこにあるかくらいはわかるはずである。一例を挙げれば、「お里のサワリは、近頃では前受け許り狙つて、お里の真情が少しも語れてゐないやうです。「節数」は正しく辿らねばなりませんが、その中にお里の肚――夫を思ふ一生懸命の貞節の情が溢れないといけません。それは、ネバつかずサラつと、この結構な足取――「ノリ地」を片時も忘れず、緩急を正しく踏んで行きますと、自然と文章の意味が語れ、又弾けて来る筈になつて居るのです。」という箇所である。この前半の象徴的文面を振りかざす人間は何もわかっていない証拠で、道八はちゃんと「それは」という指示語をもって具体的に書き記している。指示語を見落としているようでは、入試はもちろんのこと、小学生を対象とした学習塾でも合格はできないだろう。少なくとも、この「道八芸談」の「壺阪寺」をさらりとでも読んでいれば、他流を入れるから「音楽性が豊かだ」などという、義太夫節浄瑠璃をまったくわかっていない発言は出るはずがなかったのである。
 さて、呂勢が清治師の指導を受けて臨むのだが、三日目に聞いた時点ではまだ沢市の表現法を今一歩つかみ切れていない感じであった。疱瘡で盲目となったことがこの青年の心に自虐と歪みを生じさせ、それは嫌味とも皮肉とも攻撃ともまた絶望とも諦念ともなるのである。しかも「生まれついたる正直」であればこそ、「この年月の廻り根性」がどうしようもないものとして彼自身を死へと追い詰めるのである。「光陰矢の如しとやら、月日の経つはアヽ早いものな」の言い方に含まれる複雑な心情の描出、「さつぱりと打明けて」とある言葉の端が「どこやら濁る」ということ、「ヲヽ云はいでか」で始まる立腹は「立派に云へど」であり「心の内ぞ切なけれ」と収まる詞章、等々、故津大夫と二世道八の奏演で納得して以来なかなか腑に落ちるものはない。とはいえ、お里の貞心は前述の心得を三味線から先導して満足のいくものであったから、もう一度聞いていれば勉強・研究熱心な呂勢のことゆえ克服していたのであろう。ただ、あまりに上演が頻繁ということもあり、平日に夜の8時を過ぎてまで劇場に残ろうと思うためには、最初の時点で聞く者を引き付けておいてもらいたかった。「毛谷村」のあと帰ってしまったのはそういう理由なのである。

「山」
 綱師に、お里を踊り死にさせまた段切りで万歳となる後半を勤めさせるのはどうかと思ったが、さすがに第一人者であって、道八ではないが足取りと間で浄瑠璃全体の流れをつかんでいるから見事なものであった。詞においても、「眼が開いた…」の笑いなども単純な喜びではない複雑な感情が描出され、聞く者をホロリとさせた。清二郎は相三味線の理想型で、いくらでも弾き倒せるところを女房役に徹して立派なものであった。
 人形は、文雀師と和生の師弟コンビだが、やはり沢市が難しい。もちろん遣えているというレベルは突き抜けての話である。

第二部

『伽羅先代萩』
「竹の間」
 掛合でないとそれなりの格となる立端場であるが、筋立てもあざとく各人の性根を確認するというところ。そうなれば一人一役で自由に出来るから面白いと言えば面白くはなるし、それぞれによく描き出していた(文字栄に関してはさすがに一言あるが)。ただし、この茶番にも見える一段において最も重要であるのは、鶴喜代君の乳母政岡への信頼の厚さと、太守の格を備えたその言動である。そしてそれがさすがに幼く「乳母と離れてゐることは嫌ぢや」と収まるところであろう。これは呂茂が涙を湛えさすほどに見事であった。途中退座がなければ、咲甫の次に来るものを。三味線の宗助は難無し。

「御殿」
 文字大夫から住大夫を襲名して先代燕三と数々の切場を勤めていた頃、たっぷりとねばり強く匂い立つほど思い入れ深く丁寧に語り、これによって住大夫スタイルが確立され、現代日本人から強大な支持を受けることになったのであるが、これは、古靱太夫が山城少掾となって山城風と称される語り口により圧倒的な権威を示したのと同じである。山城が人間国宝第一号認定者であったからには、住師には是非とも文化勲章第一号となっていただきたいものである。なお、個人的に好き嫌いを述べることを許されるならば、圧倒的に古靱時代なのであるけれども。
 さて、その住師はここのところサラサラと枯淡の芸を聞かせるようになり、三味線の錦糸も弾くとなれば妙音に超絶技巧で練り込むことはいくらでも可能なのであるが、さすがに相三味線として流れに主眼が置かれるようになったのことが今回も明瞭に聞き取れた。この「御殿」は一言で表現すれば静謐。そして後半の涙である。ところが、「狆になりたい」で笑いが起こる。これはひもじさを知らない云々ではなく、食欲に忠実な子供の無邪気さと可愛さを笑っているのであるが、観客として文字通り客観的に舞台を見ている、つまりは政岡の心情が収まっていないということである。その原因は飯炊きの間に政岡と同調(シンクロナイズ)せず憐憫の情(シンパシー)を持たなかったからである。「狆になりたい」の詞にハッと胸を突かれ涙を催してこその政岡、この一段の成否はここにかかっているのである。だから堰はついに切れて涙は溢れ、鶴喜代の珠玉の詞に観客も涙を止め得ないのである。なお、静謐が空虚ではなく政岡の思いによって満たされた空間であることについては、以前の劇評で述べたところであり、参照願いたい。

「政岡忠義」
 古靱が山城少掾となり、その重厚な語り口によって神格化され、清六との喧嘩別れも一方的に清六の我慢の無さということになっているが、古靱はもともと自己顕示欲が強く野心家で(もちろん第一人者となるには欠くべからざる資質で、玉男師も同断)、派手好きな太夫である。昭和16年に松竹がPRフィルムを製作したが、古靱・清六に文五郎でまさにこの政岡愁嘆が取り上げられていた。その語りは艶やかで口捌きもよく高揚感もあり、床での行儀は伸び上がり揺さぶりと実に熱が入ったもの。清六の三味線がまた何とも流麗で最上の音を奏でていたのは予想通りであった。そして、この床は浄瑠璃の極楽・至上の快楽を現出したのであった。また、先月早稲田で最古の文楽映像が公開されたが、そのダイジェスト版を見ても、古靱には、史上初めてフィルムに撮影されるという気取りと衒いと、一つ語ってやるぞという山っ気があのニヤリとした表情と大仰な仕草から見て取ることができた。わずか30秒足らずの映像からである。もちろんそれでいいのである。一方の三代清六はもう怖い人芸の人の一言で、撮影も何もまったく意に介さずマクラを弾き始める姿は感動的であった。
 要するに、文楽を芸術化するなというのは、この辺りのことを言うのである。情を語る感動という安直なお題目で音曲性を縛り上げてしまい、「風」に象徴される芸道を極めることを難解だと退けてしまう姿勢のことである。それを、庶民の娯楽だから泣き笑い出来ればあとはウトウトでも可というのは、狂言が能楽と異なり自由と解放性を備えているという、戦後のあのイデオロギーによって洗脳された色眼鏡を通しての妄言と同断であって、まったく的外れのものと言わざるを得ない。古靱にさえケチを付けた雑魚場のおっさんたちは浄瑠璃を聞く耳を持っていたのであり、その耳が聞き分けたものこそ、理論化すれば「風」と呼ばれるものなのであった。大正から昭和にかけての劇評を読めば、情を語る感動などと、耳を塞いでいても書けるような言葉を並べたりはしていないことが一目瞭然である。バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、感動的名演とだけ書いて許される音楽評論はないのに、こっちは筋書きと局部的表現をちょっと説明して、例のお題目を添えれば劇評(感想文にしても程度が低い)として大新聞に掲載されるのだから、もう笑うしかないのである。
 古靱について言えば、山城を襲名するまでがその最盛期であったとは越路・津の二人が明言していることである。あの山城少掾が古靱太夫以上であるとすることこそ芸術化の最たるものであり、その弊は現在の第一人者へまで及んでいる。ただし、そこにはある種のねじれ現象が生じているためでもあるのだが、それについては後日また詳細に述べることとする。
 長々と書いたのは、津駒のこの後半が物足りなかったためである。せっかく彦六座団平直伝としてよい(先代寛治がその三味線の目標を団平を弾くことだと断言している)寛治師の三味線を得ているというのに。政岡愁嘆での解放感の欠如と「同じ名のつく千松の」以下の完全なノリ間へなだれ込めず、小巻の詞に詰めが甘いという具合であった。八汐の悪の表現にも腑に落ちぬ点はあり、これでは切場後半に特有のカタルシスは残念ながら得られなかったのである。(ただし、これも一度聞いた切りなので勉強家努力家の彼が寸評によって改善に努めた可能性は大いにあるのだが。)
 人形陣。紋寿は母性愛がよく伝わり共感も誘ったが、乳母の貫目というのはなかなかに難しく、飯炊きの間はやはり玉男師に尽きるのであった。玉也の八汐は局岩藤ならさもあろうが、千松をなぶり殺しにした素性賤しき銀兵衛が女房にしては憎々しさが上澄み部分のみであった。その千松は、人形の遣い方としては機転が利いているが、毒菓子を食べて悩乱せず菓子折も踏み破らないので、八汐の理屈がまるで通らない。かつて、靱猿でも自分の遣う猿のことばかり考えて大名との関係がおろそかになっていた。どうやら、人形に関しての工夫は積んでいるようだが、詞章を読み込んでいないのであろう。「人形遣いの名人と浄瑠璃詞章」を参照願いたいものである。

「湊町」『寿連理の松』
 面白い。聞いていてどんどん話の中へ引きずり込まれていくというのは、まず第一に足取りの良さである。浄瑠璃義太夫節の流れをきっちりと身につけているから、そこへすっと乗せてもらえるわけである。これを、一語一語分別して流されないようにしようというのは、音曲というものを蔑ろにする以外の何物でもなく、オペラとかではまったくあり得ないことなのである。文楽は歌舞伎の人間が人形になったもの、そういう理解がいつのまにか蔓延っているとしか考えられない。庶民の演劇という言い方ほど、人形浄瑠璃を腐らせるものはない。もっとも、「平成の文楽」というものに関しては未来へと進歩させるのであろうけれど。ともかく、今回はそれぞれのキャラクターが見事に立っていて、クドキも情愛も心に届いたから、久しぶりに客席でニヤニヤしながら聞いていた。詞なら「こちらが力にや一つもならぬ」「清十郎様帰ります父様さらば」に、底に秘められた真情がにじみ出て、しみじみと世話物の良さを実感したのであった。嶋大夫は前公演で大和風を語り、今回は世話物の雄たる此太夫で、ともに故師越路大夫が勤めていたところをそのまま継承した形となったが、それを二公演続けて成功裏に語り尽くしたのだから、ついに名実ともに後継者としての地位を築き上げたことになる。それでも敢えて言うならば、お梅がより純朴であれば完璧であったというところであろうか。三味線は前回から清友になり、ここへきて徳太郎系の伝承をそのまったりとした個性の中で開花させたのは、望外の喜びとするところであり、このコンビのこれからが楽しみになったこともまた収穫であった。ただ、これも二度は足を運ばなかったのだが、演者のためではなく作品自体が原因である。やはりあの段切りを再び確認しようとは思えなかったのだ。
 人形陣。床の力によってそれぞれによく見えたが、それを措いて言うならば、お梅はその出から清十郎とのやり取りまでが、筋を割ってはいけないとはいうものの、底の真意をもう少し何とか出来ればと思われ、清十郎は「清十郎しよんぼりとした立ち姿」のカシラの角度がもう一つでハッとするには到らなかったというところであろうか。

「日高川」
 未見。演目といい演者といいこの起用法では、寒夜に帰宅を思うと最後まで椅子に座っているほどには到らなかったためで、これはもう新聞評他を参照いただくしかない。英・団七そして清十郎他には、4月『妹背山』でしっかりとその技芸を聞き届け見届けさせていただくことで、許しを請うものである。