吉田玉男
「人形遣いは、義太夫節の詞章、曲節をよく知っていなければなりません。大夫が何を語り、三味線の節づけがどうなり、それが何を表現 しようとしているか、それを知って、人形を遣わないと、人形だけが浮きあがってしまいます。」
「大夫、三味線の語りの間、その効果も頭に叩きこんでおかないといけません。折角、三味線が効果的な節を弾いていてくれているのに、 その中途で出ては、舞台全体が死んでしまいます。」
「栄三さん(二代目)が病気で休演されたため、替わって袖萩も持ちました。急な代役で、しかも初役、左や足の経験すらありませんでした けれど、若いじぶんにお君をやったことがあり、改めて院本を読んで舞台にのぞみました。」
提供者:伊吾さん(1999.02.04)
補訂:勘定場
吉田栄三(初代)
三月(1930年3月文楽座)に『妹背山』の「吉野川」が出て、私は二度目の大判事を遣ひました。初役は、弁天座時代で、その時から、 従来、大判事が桜の枝を持つて出たのを止めて、素手で出ました。これは、端場の「花渡し」の中の文句に、「得心すれば栄える花、背く においては忽ちに、丸が威勢の嵐に当て、真此通りと欄にはつしと打折落花微塵」とあり、花を持つて出る訳がない、と思つたから改めた ので、この時もその通り遣つてゐましたところ、ある日、久我之助を語つて居られた古靱さんが部屋へ見え「私の知人が『以前の大判事 は、花を持つて出たのに、今度は素手で出て居るのはどういふ訳か』とたづねて居られましたが」と言ふて来られましたので、私は「いつた い、アノ端場の『花渡し』といふ場の名前は、書卸しの時から付いたるもんだすか」、と質問しますと、古靱さんは、「いや、アノ場のほんとう の名は、『貞香館』で、『花渡し』といふのは、ずつと後に誰かゞ勝手に付けたものらしいのです」と言はれますから、私は、「花渡し」の中の 文句の事を申し、花を持つて出る訳がないと説明しますと、古靱さんは、「成程々々」とよく納得して下さいました。そして、切場での、「栄 華を咲かす此の一枝」では「待合せ」を拵へて、側に咲いて居る桜の木の枝を一つ折つて使ひました。
提供者:伊吾さん(1999.02.05)