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【 金王丸 ラジオ浄曲漫評 昭和16年7月 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 128号 11ページ
 
ラジオ浄曲漫評 金王丸
 
文楽中継〔七月十三日〕
釣女
太郎冠者 竹本相生太夫
大名   竹本南部太夫
美女   竹本津磨太夫
醜女   竹本伊達太夫
絃   野沢吉五郎
    鶴沢重造
    竹沢団六
    野沢吉季
    鶴沢清友
    野沢勝芳
 歌舞伎の方で、イヤ常盤津の方で、ともかくも名曲になつてゐる釣女を、四五年前に、道八が義太夫に作曲して四つ橋の文楽にかけたもの、その後も幾度か上演されてゐる。今度、新橋演舞場に引越興行とある文楽から、お昼の真ン中にこれを中継放送することになつた。果してどれだけの聴きてがあつたか、筆者は、どうで閑人の、間違ひもなく、四時にスヰツチを入れた。と、東京日々の三周事三宅周太郎氏が、もと謡曲から出て、明治何年に長唄になり、其後何年に黙阿弥が手を入れて歌舞伎の所作事にする、何何年に、死んだ勘五郎が、これを踊つて好評だつたとかいふやうな解説を試み、其中に常盤津の方が頗る名曲である処から作曲者道八もひどく困つたといふやうな事があり、何といふても、これは、ノツケから無台で観る人形の動きに興味の大部分はある筈のもので、中堅どころの熱演もラジオでは甚だ変哲もないものになつてしまつた訳である。初演約四十分、先づ〳〵適材を適所につかつてゐるのであるが、我等が最も気に入らぬものは、狂言詞の何れも拙劣な事である。不器用な俳優共でも近頃は中々巧くなつて来たこの狂言詞、『畏こまつてござる』だの『心得てござる』など、きまり〳〵のアクセントが天でナツチヨランには困つた。そして、それが重苦しくて、軽く行かぬ事は即ち芸がナマな事から来てゐるとしか申されぬ。釣竿の糸を投げる時の『ヱヽイ〳〵』など、特別に大きな声を出して仕草の伴はぬラジオでは殊に、剣撃の気合ひのやうに聴える。
 義太夫語りに少し上手な落語を勉強させる必要がある。津磨太夫の美女の高い処の声は気の毒とも何ともはや……。最後にアナ君は『大どかな笑ひを残して、釣女は静かに幕が下りました』といふ。大どかな笑ひといふのは、苦が笑ひの事でがなござらうテ、アハゝ。
 
大阪女義 〔七月二十二日〕さわり三題
 (1) 政岡忠義  豊竹昇鶴
        絃 鶴沢東重
 (2) 野崎村    竹本雛昇
        絃 豊沢小住
(3) 太十     竹本三蝶
        絃 豊沢仙平
 例のさわり集と来た。それでも時間は一ツ十五分見当にして、相当に語り場をやらせてゐた。第一『御殿』は沖の井八汐両人が、奥へはいつて、栄御前の、取りかへ児と思ひ違へて帰る処から、政岡のクドギ、人目なければ愚に返り、の段切りまで、存外といつては失礼だが、栄御前がよく出来て、政岡はまア〳〵一ト通りといふ処だらう。第二『野崎』は、はじめから、久作のやいと灸の条り、引込んで、お染のさわりまで、これも、さすがに、本当の稽古の出来てゐる人とて何れも結構なものだつた。久作のやゝ若いのは是非もなく、久松がはつきり聴こえたのは、寧ろ豪い、とほめやうか。第三『太十』は、入るや月もる、の光秀の出から、操の鏡まで、よい語り場で力の見せ場は充分であらう。光秀の案外小さいのはどうしたものか、婆は普通の出来栄えで、高い処の声も届き、操のクドキは、これは、取り立てゝ賞める処もなく、ケナス箇所も無かつたやうだ。要するに『さわり集』で、情を語つて聴かせるといふやうな野心は、いづれも無からうし、御時間一つぱいに、三絃に乗つて声を出した、といふ事になるのである。絃は、いづれも錚々たる人達で、賞めるまでの事もない。
 
 東京女義〔七月廿六日〕加賀見山旧錦絵=長局の段
  伊達子改め
     竹本土佐広
   絃 鶴沢綱助
 土佐広といふ名を貰つて、披露会を催ほす準備中に、恩師土佐太夫の急死に遭つた伊達子、十三の歳から可愛がられた師匠の慈愛、一時は茫然として世の中が厭やになつたが、気を取直ほして予定通りに盛んなる改名披露を済まし、好コンビと称される綱助と共に、練磨を重ねた『長局』(故人になつた勝鳳師でこしらへたとある)の放送である。そのお初の心境を語る時、恩師土佐太夫を想ふて胸一つぱいになる感情は、自然に演技の上に現はれて、聴衆の胸をも捉らへるこの一段、披露会で聴いた時よりも、その前の試演の時がよかつたもの、それが僅かに三十分の抜き語りではあつたが、我れ等伊達子フアンを充分謹聴せしめたものであつた。『あとに尾上は胸迫り』から『云ひ付けられてもぢ〳〵と、どうやら済ぬ今日の仕だら、不肖々々に……』のあたり、何んでも無い処を巧まぬ巧さ『主の言ひつけを背きやるか』など、キツパリと可く『何ういふ急な御用やら知れぬ事を、さうもなるまい』など、その心持ちがにじみ出て、かいなでの太夫衆にも言へぬ巧味、取つて返しての『えゝ死なしたり、遅かつた〳〵〳〵〳〵』から半狂乱のお初の熱演、義女の其の名を末の世に、まで、声の調子も可なり好調であつた。どちらかと言へば、やはり尾上よりお初の方が可く、古靱太夫師は別として、文楽の男太夫に、これだけ長局の語れる御仁はあるまい、とはチト御贔屓の賞め過ぎになつたらうか、絃の綱助は東京では初放送の、さすがに綱造師の愛弟子なり、伊達子とは久しい仲よしの弾き手の事、堅くもならず頗る結構な撥捌きを聴かせて呉れた。殊にお初が独り語『今日に限つてこのお使ひ……昨日鶴が岡の喧嘩の様子……』云々の間の難かしいあしらひの三味、何ともいへぬ味を弾いてゐたのは、しつかりした稽古の効と敬服した。
 
文楽新顔〔七月廿八日〕増補生写朝顔話
 =宿屋より大井川まで
     竹本角太夫
   絃 豊沢広助
   琴 豊沢仙三郎
 道行太夫として、かなり有名な角太夫、放送ではお馴染だが、文楽へ返り咲いてからは初放送であり、演じ物は、美声を要する朝顔で、三味線は腕達者を以て聞ゆる広助である。聴くべし聴かざるべからざる品物と思つた所、生憎当夜は、新橋演舞場に於ける文楽引越興行の最終日前売切符を貯へてをり、且つは古靱太夫の「引窓」と放送の刻限が重なり、更に栄三の十字兵衛が見て置きたく、どうしても抜けて聴く気になれなかつた旨を記して、読者及び角太夫、広助両師に謝罪する外はない事になつたのである。