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【 石割松太郎 野沢会の「猿ヶ島」 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
野沢会の「猿ヶ島」
 石割松太郎
 サンデー毎日 昭和三年五月十三日 7(22) p.29
 
 
◇……文楽座の根城が焼けてから、人形芝居の影が薄いことは、大大阪の郷土芸術のために、嘆かはしいことである。が、この文楽座の下積の太夫や、或は三味線を職とする人の集まりやが、それ〴〵文楽座の営業を別にして、一会を設けて斯道の研さに努めてゐる。それにはいろ〳〵あらうが、土佐太夫が主宰してゐる『大序会』今は隠居の身ながら野沢の流れを汲む長老野沢喜左衛門を惣後見とする『野沢会』などが、歴史も古ければ、結束も固い有力なる研究的団体である。この『大序会』のことは、嘗て本誌にその演技を聞いて、私が紹介したことがある
 
◇……が、『野沢会』については、あまり世間にも知られず、極く内輪に『野沢』の姓を冒すものゝみが、相寄り相たすけて、斯道のために真真剣になつて研究を続けてゐる態度は、全く芸術的に、おさらへ気分のないのが嬉しい会合の一つだといへる。そして『野沢』を冒すものゝみの一団であるから、そのこと〴〵くが三味線を職としてゐる、太夫は一人もない、営業的には三味線を持つてゐる人が、太夫にもなり三味線にも廻つての研究は、いよ〳〵その実を挙ぐることが出来ると、常から私は考へてゐたが、この野沢会を聞く機会が今日までなかつた。ところが、四月の廿七日、堀江演舞場で、催された、その第五十七回の会合には、私をして何物をも捨てゝも聞くことを強要さるゝ一つの力強いものがあつた。
 
◇……それは、五十七回野沢会の番組中に、「猿ヶ島敵討」の「有馬義久館の段」と「栗右衛門内の段」との二段があつたからである。「猿ヶ島」の浄るりといつても、今日では或は浄るり党にも耳に熟さない出し物で、人は或は閑却してしまふだらうが、私には、何としても聞きのがすことが出来なかつた。それにはかうした理由がある。
 
◇……人形浄るりが、国宝的の郷土芸術であると同時に、世界的の芸術である--「世界的の芸術であるといふのは、世界に有数なる、唯一なる芸術てある--とは何人も口にするところであるが、一面一向に市人によつて顧みられない「悲境」にある、「悲境」といふのは営業的に悲境で、芸術的には「陵遅[デゼネレート]の時代」にある。だから一面「人形浄るり」興隆の策を樹つるとともに、一面これが発達の歴史を深く探尋する必要がある。が、この二方面何れもが、未だに何人もの手が着けられてゐない。で、私はせめて、最近の約百年、即ち天保五年五代目竹本春太夫が江戸に下つた時から約百年、三代目竹本越路太夫が舞台を引いた大正十一年までの最も文献の少い--或は絶無に近いこの最近世の人形浄るり史をお粗末ながらも調べ上げておくことの必要を感じて取調べにかゝつた。ところで、この浄るり「陵遅時代」に嶄然ぬきんでてゐるのは、三味線の名手豊沢団平であつて、中古以来つぎ〳〵に新作浄るりに指を染めたものは、団平以外には殆どない。で、私は団平の新作について出来るだけの手を尽くして、取調べにかゝると、いろいろなことが判明して来た。例へば「壺阪」が、今までは団平の節付といふことは知られてゐるが、その作は、団平の妻女ちかの作であるとのことであつたが、これは全く俗説で、違つてゐるなどがその一例であるが、それは余談として、団平の節付の内に「猿ケ島敵討物語」といふのがある、私はこの稿本に団平自筆の節付本を手に入れて、研究してゐると恰も野沢会に「猿ヶ島」が出し物になつてゐるのである、私はこの野沢会の来る日を待ちに待つた。こんな関係で、団平研究には、逸してはならない好機会を、野沢会は私に与へてくれた。
 
◇……ところで、野沢会に出た「有馬義久館の段」といふのは二段目に当たるところであるが、この浄るりは「第一号より第十号まで」といふ風に、今日から見ると浄るりには不似合の冊数の付け方になつてゐて、「義久館」は第四号であつて、つまり二番目物である。又同じくこの会に出た「栗右衛門内の段」は第九号で、つまり四段目の切である。申しおくれたが、「猿ヶ島敵討」はその題名の示す如く、又その「かたり」に、「日本一きび団子」といふからに、例の桃太郎の童話を「人格化」したもので、今日の目から見れば、他愛がなさすぎるが、団平苦心の作だけに、この四段目の切などは、さすがに面白い味が出て来る、即ちいはゆる「桃太郎 出現のだん」である。野沢会では、三味線を八造が弾いて太夫は掛合、
 猿松次郎(吉兵衛)栗塚栗右衛門(勝市)女房かち(勝若)忰栗蔵(吉五郎)嫁りつ(勝三郎)しのびの勘八(市之助)桃太郎(吉左)蟹田左門之助(吉弥)
といふ顔ぶれであつた。即ち「義久館」が丁度「廿四孝」の二段目にほうふつとし、四の切の忰栗蔵が鮓屋の権太といふ役柄であつたが、いつも三味線を持つでゐる人の研究的の浄るりを聞いて、その語り口に一種の風格が、そのおの〳〵の三味線における本芸と並行したる浄るりの味のあるのにも興味が深かつた。例へば、敵役に廻つた吉兵衛の予想もしなかつた太い咽喉の大きな声の大努力は、真正面から努力していかうとするこの人の三味線を忍ばしめた。吉弥の蟹田左門之助は、どこまでも功者に器用に語つた。
 
◇……ところで、この「猿ヶ島」の作者は、赤松鳥声といふ人で、団平のうちに食客してゐた人、例の「壷阪」の第一稿も、この赤松の作である確証を得た、これは何れ他の機会に述べるとして、この浄るりは明治廿八年十月十七日初日で、博労町北門の「稲荷座」で初興行。今度の「義久館」を隅栄太夫、七五三太夫、越太夫で語つてゐる。四段目切は、此太夫、大隅太夫で、三味線が作曲者の豊沢団平であつた。序でに記しておくがこの稲荷座の紋下は竹本弥太夫と豊沢団平の二業になつてゐて、人形の吉田駒十郎は、紋下わきの庵に出てゐる。また大隅太夫は番付左肩の庵に出てゐる。三味線連名は、筆始が広作、後の広助で、止めが今の松太郎、中軸に団平が、団平の第一の高弟龍助と源吉、後の三代目団平を左右に従へて筆太にすわつてゐる。そして想出の多いのは今の文楽座の栄三が、桃から生るゝ桃太郎の人形を遣つてゐる。
 
◇……今一つ「猿ヶ島」の浄るりが「近世人形浄るり史」に、特筆すべき一挿話を残してゐる。それはかうである。文楽座を離れて、彦六座が博労町に出現したことは、浄るり衆に大きな刺戟を与へたのであるが、彦六座は間もなく経営難に陥つた、もうどうにも仕ようがない一座が解散といふ運命の岐路に立つたときに、今一努力と、一座は道頓堀の角の芝居に素浄るりに出ながら今一旗と二の矢をつぐ準備にかゝつたのである。それがこの「猿ヶ島」の興行で、いなりの芝居は稲荷座とかんばんをあげたのである。ところで「猿ヶ島」が案外の大入に勢ひを得て、いよ〳〵稲荷座が成立したのであつた。
 
◇……そしてこの「猿ヶ島」の作曲に腐心した団平は、金五円也の作曲料を座元から受取つてゐることが、団平の妻女ちかの日記によつて、私は今度発見し、かつこの興行は、団平は全く物質上に関はるゝところを犠牲にして、一すぢに稲荷座の再興に尽くしたことを、ちか女が記してゐる。--と思ふと、この「猿ヶ島」は、いろ〳〵な意味で、記念すべき浄るりであるとゝもに野沢会のこの度の研究的の出し物にこの浄るりを選んだことにも、深い意義が付せられたことを、つく〴〵と感じたのである。