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【 石割松太郎 新時代への文楽座 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
新時代への文楽座
石割松太郎
サンデー毎日 大正十五年十二月十二日 5(54) p.24
◇……焼けた文楽座は、日本のみでない世界に類のない、発達を遂げた芸術的操り芝居の殿堂であつた。その芝居小屋が焼けたといふわけだが、この再築はむつかしい。何故むつかしいかといふと、宮地芝居が、もう現在の劇場建築規則に適用されると、とても存する空地がないからといふのだ、結局由緒の深かつた、御霊神社内の文楽座は亡びるのだ。
◇……御霊文楽が亡んでも操芝居は亡びはすまいといふのが理窟であるがあのせゝこましい路次の奥、御霊の片隅にあつた文楽の空気はなくなるのだ。一例が、大阪名物であつた阿弥陀池のすまんだが、浪花情調の濃い名物だつたがもうない、あんな飲食店は、もう再び大正の今日出来さうにもない。
◇……文楽座がそれと同じだ。文楽座の裏口から入ると、太夫の風呂上りのゆかた姿を往々見かける、狭い楽屋には駕一つおく事が出来ないから、いつも駕は邪魔もの扱ひにして路次にほり出してあつたものだ。
◇……道頓堀の空気とは全く異つたところが、こゝの座の一つの特色だ、ある意味からいふと、文楽座はもう寿命が尽きたのかも知れぬが、このせゝこましい非文化的な建築内の人形浄るりが、丁度その内容に相応したものだといへる。
◇……文楽座の改築は、恐らく松竹でも採算を度外して実行しようが、御霊以外のどこに新築されるか知らないがもう「昔の文楽」は再び見ることは滅多にあるまい。この意味からいふと、新築の文楽座は、新時代の空気の漂つた文楽となつてしまふであらう、太夫なり、三味線なり、人形遣ひは、到底避くべからざる時代の推移の波には今までとても乗つてゐたのであるが、この「文楽座の焼失」といふ事が、一度に異つた世界に人形浄るりを送つてしまふ事になるだらう。この間の覚悟は当事者にハツキリとあつて然るべきだこの意味がハツキリと自覚されて、新時代の文楽座の経営に入らなければ、事実において文楽座は滅亡しその跡を断つに至るだらう。
◇……旧格を重んずる浄るり道においても、現に知らず〳〵に、芸風は推移してゐる。たとへば維新の際の大名人と呼ばれた春太夫の芸が今日そのまゝ伝はつてゐたところで、当時の人気と称賛はどうあらうか、即ち春太夫の弟子である摂津大掾は春太夫から出たのであるが、摂津は摂津の節をあみ出したのだ、当初にありて摂津の浄るりは唄のやうな浄るりだといつて蔑した時代もあつたのだ。
◇……その摂津が時代の好尚にあふ浄るりを語つたから、摂津は名人となつたのだ、丁度義太夫節権輿の当初において、加賀掾の節に慊らなかつて一派を創めたのが竹本義太夫であり、その義太夫に慊らずして豊竹の一派を開いた若太夫も、漸次に推移する時代の好尚の波に乗り移つたのであつたのとほゞ同様である。
◇……最近の事例についていつても、摂津の芸風が爛熟した時に、私は摂津よりも春子太夫の若々しさに憧憬したものであつたが、その春子太夫の当時の節をそのまゝに、ライロホンの音譜に入れて現に残つてゐるが、これを今聞くともう「今の浄るり」ではない。
◇……つい最近十数年の事例がこれだ又土佐太夫が東京時代の浄るりが、今残つてゐるとすれば巧拙は別として節に雲泥の差があらうといふものだ、この知らず〳〵の芸の推移はとりもなほさず、芸に対する時代の好尚の反映である、ところで文楽座の焼失が「御霊の文楽」を滅亡さしたとすると、各自の当事者である太夫なり三味線なり人形なりは、仮に「道頓堀の文楽」--異つた世界から余儀なく今の世界に引ずり出された世界に適応するだけの用意を今から必要とする。
◇……この郷土芸術のために当事者はいふに及ばず、人形浄るりを今日までに育てた大阪の人々は、誤つたる方針に文楽座を導いてはならぬと共に、無自覚でなく、ハツキリと覚悟のもとに人形浄るりをどうするかを考へる必要があると思ふ、文楽座の焼失を聞いて思ひ浮かべる第一はこれだ。
==おはり==