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【 サンデー毎日 御霊文楽座焼く 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
御霊文楽座焼く
 サンデー毎日 大正十五年十二月十二日 5(54) pp. 22-24
 
あくまで文楽は御霊の地内に……
 松竹社長 白井松次郎
 
 問……このたびは文楽の焼失、大へんな御災難でした。御見舞申上げます。
 答……有がたうございます。世間さまをお騒がせしてまことに何とも申訳がありません。どうぞよろしくお伝へしたさい。
 問……さて、……稍々落ちつかれたところで文楽将来に対する御方針を伺ひたいものです。
 答……今日となれば文楽は一松竹のものとは思つてゐません。だから一旦の火事によつてこれをなくしてしまふなんて考へは毛頭ありません。
 問……再建築されるにしても今の御霊地内では駄目だと思ひますが……それとも道頓堀へでも御移転なさるのではありますまいか。
 答……いへ、私は飽までも今の場所御霊の地内に執着してゐるのです。宮地の興行は駄目だといふうちにも……私は何となくそれが、そんな風に思はれないのです。これは私だけの気持です。要するに何となくさう思ふのです。ですが、先方の御霊神社の意向もあることでせうから、こつちでさう思つてゐるばかりかもしれませんが……まづ、第一に今の場所に再建築が許される目的で進み、それが出来なかつたら第二の場所を考へることになるのです。
 問……だが、昔から大阪では梅田の歌舞伎座、堂島座、北浜の帝国座など北大阪は芝居の鬼門のやうに古老たちが申しますし、文楽もあの場所ではどうもかうもならぬほど興行的にゆき詰つてるやうですから、この際一層思ひ切つて、道頓堀へ引越されて御霊文楽座といふよりもむしろ大きい意味で大阪における文楽座、或は近松とか海音が対立した当時の竹本座豊竹座の大昔に還られた方が、興行的にもよいし、わづか五十年ばかしの歴史しかもたぬ文楽座と御霊の土地にこだはるよりもズーツと大義名分が立つと思ひますが……如何なものでせうか。
 答……私の李叟としては興行的に損をしても、文楽そのものをあゝした雑踏した空気の中に置きたいと思ひません。道頓堀から離れてこそ文楽のほんとうの値うちがあると思ふのです。まつたく文楽は算盤の外にあるのですから、そこをよくお し下さい。それからモウ一つ今の場所に執着のある理由は、こんどのやうな事件で御近所へ大へんな迷惑をかけたそのお詫びのために少しでも文楽をあのまゝにしてやつぱりもと通り土地の繁昌とさせたい。面目一新をするやうな新しい文楽座を中心にその土地が反て焼け太つてもらひたい、かうした心もちもあるのです。焼けたのを好い都合にして場所をよい処へ引越して知らぬ顔では白井松次郎一生あの近所へ足踏みが出来ぬではありませんか。
 問……御尤もです。大へん結構なお考へですが、これは私だけの理想いやむしろ空想かも知れませんが……文楽をこの際モツと社会的に地位を認めさせるために社団法人とか財団法人とかにして松竹そのものが表面に現れず、先年英国のストラスフォードの沙翁記念劇場が焼けた当時に、再建資金を全世界に募集したと同様に、文楽の再建資金を一般に募集する……といふやうなことをフト考へついたのですが、あなたの御高見は如何です。
 答……大へん結構なことですが、どうも出資者が多数ある時にはどうしても出資者自身が営利よりもむしろ趣味が第一となるのですから、多数の出資者がお互の自分の趣味を主張するやうになつてはトテも劇場の経営といふやうなことは成立ちません。A太夫びいきの人なら人形の文五郎も栄三もありません、A太夫一人で文楽がもつてゐるやうに思つてゐるのですからこんな人ばかしではトテも文楽が経営してゆかれるものではありません、近松座が大阪の浄曲愛好者を網羅した趣味的に理想的な株式会社でしたが、これが亡んだのも要するにこの理窟なのでした。私の代になつて御霊の文楽座をこのまゝ亡ぼす……なんていふやうなことは夢にも思つてません……とにかく場所は現状のまゝ再建築にかゝるといふ目的に向つて進みます、然しそれも先方次第ですから……モシ今の場所が許されなかつたらば、その時はその時のこととして第二の方針に出づるつもりです。
 問……どうも後始末中のおいそがしいところを腹蔵のないところをお打あけ下さいまして有難ございましたこれで失礼します、さよなら。
 ◇--問ふ者…高原生--◇
 
 追憶
 南木萍水
 文楽座が焼けた、人情といふものは妙なもので、焼けるとか亡びるとかいふと、愛惜一しほの感が起こる。急に文楽座礼讃の声が高まつた。然し今更に唯一の郷土芸術だ、いや日本の古典芸能としての誇りだなどと、眼の醒めたやうに讃美的高唱するまでもなからう、おつと憎まれ口をたゝくはこれ僭上の沙汰、いや至極御同感々々と追随して、さて余談は捨て置き、何にか書けよとの命令に従ひ、この文楽座が不振久しき松島から脱して、新に御霊境内の上田席を改築し、当時強敵と目したいなり彦六座に対陣して、昔日の豊竹、竹本もかくやあらんとばかりに挑戦の旗を翻した、その当時の番付でも繰拡げて、せめて追憶の念を一層高ようと思ふ。
 昔から操り浄瑠璃の代表的人気者といへば、菅原、忠臣蔵、千本桜と相場がきまつてゐること、今も四十年前も変らなかつたと見えて、この文楽座が再生の旗揚狂言は、右の出し物を順次撰んで上演し、ひたすら人気回復の曙光を齎し得ようとした策戦計画のあとが仄見えるのである。
 時は明治十七年九月廿四日、御霊文楽座の初めて生れた日である。当時の紋下は太夫竹本越路太夫(故摂津大掾)三味線五代目豊沢広助、人形は初代吉田玉造である。なほ女形の名人として桐竹紋十郎の活躍時代である。開場式の出し物は「菅原伝授手習鑑」大序より大切まで、中程の桜丸切腹のだんに次いでご祝儀三番叟を挿んで、越路太夫以下三名が出語りで、開場式気分をみなぎらしてゐる。この時の狂言で越路の語り場は寺子屋の奥、松王首実検の段を受持つてゐる。先代津太夫は筑紫配所のだん、弥太夫は菅相丞名残のだん、呂太夫は時平御殿のだんを語つてゐる。その他南部太夫あり、時太夫あり、それに先年物故した三代目越路太夫が未だ常子太夫といつて、漸く三番叟で四枚目を語つてゐる時代だ、実に多士済々であつた、加ふるに人形には玉造の菅相丞、紋十郎の覚寿、女房千代などが活躍するその場面々々を追想すると、古典情味の幻影が眼のあたりへ浮かび来るやうである。この狂言果して大当りにて四十日間満員であつたと伝へられてゐる。第二回目興行は同年十一月十七日より開場、出し物は「仮名手本忠臣蔵」大序より九段目まで、それに切狂言として「須磨浦源平躑躅」の扇屋と五条橋の段の二場をお景物に添へてゐる。越路太夫は山科のだんを語り、津太夫は塩谷判官切腹のだんを語り、呂太夫は二ツ玉、弥太夫は勘平住家の切を語つてゐる。人形では玉造の大星由良助、紋十郎の戸無瀬、おかるで頗る好評であつたらしい、次ぎは十八年一月三十日より「木下蔭狭間合戦」大序より大切まで。その次ぎは三月六日より「義経千本桜」大序より大詰までを通しにて演じてゐる。その時の常子太夫(越路)は漸く認められて、四段目の北野馬場先の段の口を語つてゐる。伏見いなりの森、静の別れの段を津太夫、嵯峨野庵室の奥を呂太夫、加島村の奥を南部太夫、渡海屋の奥を時太夫、大仏供養の切を弥太夫、椎の木の奥を長尾太夫、そして寿しやを越路太夫が語つてゐる。道行には時太夫外四名かけ合にて、糸は広助、叶、人形は忠信が玉造、静を紋十郎の双璧が何れも出づかひである。そして法眼館と吉野山のだんは玉造、玉助の早替り出使ひで、うんと見物を喜ばした事であつただらうと想像しこの稿を終る。
 
 文楽座史の二挿話
   木谷蓬吟
  文楽座と始めて称へたこと
  文楽座の草分けとでもいふ人は、淡路国仮屋の産で、植村文楽軒と呼んだ素人義太夫である。今の高津四番町高津橋の辺に、小さな浄瑠璃定席をはじめたのは、確には分らぬが多分天明か寛政頃であつたらしい。これが今日の文楽座の前身であるが、たゞしこれは永続せずに倒れた。
 それを再びおこしたのは文楽軒の養子大蔵とて同じく淡路の人、はじめ楽翁と称し後に文楽翁と改めた中々の俊材である。この二世文楽こそ中興の祖として仰ぐべく、斯道の大恩人として忘れてはならぬ勲功者である。
 高津橋の席が中絶して、次ぎに清水町の浜に再建されたのは嘉永二年頃で「清水町の浜芝居」と称してゐた。安政元年には更に博労町稲荷社内東南 に移つた、これが名高いいはゆる「稲荷東の芝居」なるものである。しかしまだ「文楽座とはいはれてゐなかつた。」その初めて文楽座と名乗つて出たのは実に明治四年九月興行の時からである。この時の外題は「鬼一法眼」と「酒屋」、一座は、春、古靱、越、染。団平、新左衛門、吉兵衛。辰蔵、玉造、喜十郎等の顔触れであつた。
 この翌年五年一つには、土地繁栄策として府令により松島へ移転することゝなり、即ち現在八千代座の位置に「松島文楽座」を新築し、更に十七年九月平野町御霊社内に転じ、そして今日に及んだ。
 座名を天下に上げた文楽翁のこと
 前に述べた通り、明治以前から二十年頃にわたつて、全力を注いで斯界のために奮闘した大蔵こと二世文楽翁はまた頗る文才に富み、渾身浄瑠璃趣味に浸り切つた人であつた。従つてその興行方案も主として己が趣味から発足したかの観がある。外題の選択にも、太夫の配役にも、さすがにその当を得て、  せしめるものがある。珍しい浄瑠璃の上演、新作物の多く続出したのもこの人の時代である。
 自分にも又、著  改作、増補を試みたものが少くはない。未発表であるが「勝鬨源氏白旗」といふ十二段続きの長篇が存してゐるといふことである。その他一幕物の新作改作の二三を上げると、伊賀越の「伏見北国屋」菅原の「配所」大江山の「頼光館碁立」相馬錦絵の「伊賀寿太郎館」日本竹取物語の「竹取翁閑居」伊勢音頭の「増補油屋」忠臣蔵の「本蔵蟄居」などがある。以上のうち、最後の「本蔵蟄居」を覗く外の悉皆は、総て五世竹本弥太夫(俗称堀江の大師匠)が新節章を付し、そしてこと〴〵く文楽座の舞台で自ら語つたものである。文楽翁と弥太夫とは、その新作歓迎の意図を同じうし、共に文を語り芸を論じ、意気相投合したものであつた。文楽翁歿去に前後して弥太夫また、永久に文楽座を引退するに至つたのは、その間興味深い秘史が包まれてゐるのである。文楽座が焼亡して、更に文楽座の名声が大に知れ渡つた今日、明治前後にかけてその一大基礎を堅めてくれた二世文楽翁の功績を、今更ながら感銘せずにはゐられない。
 
 義太夫と細棹 ……焼けた文楽から……
  高安吸江
 文楽が焼けた。人はその再興の至難を説いてゐる。私はたゞ何となしに先年中座で上演せられた「二ツの櫓」を憶ひ出した。しかしそれは競争場裡から駆逐された弱者の悲哀であるがこれは唯一ツとり残されたものゝ自然的壊滅、私の心はたとへやうのないさびしさと悲しみにとぢられてしまつた。
 生れてからまだ火災にあつたことのなかつた私の幸福は、今日はじめて裏ぎられた。よしそれが私の生れた地でもなく、また現在住んでゐた所でもないが、私の最も愛してゐた母がその八十余年の生涯を終へた、忘れられない記念の家が、今日私の眼の前で焼けた。そしてそれはわが大阪--のみならずわが日本がもつ唯一の古典的芸術の殿堂ともいふべき文楽座が焼けた、その飛火のためであつた。文楽と私が懐しい母の家が同じ火で燃えた。私は渦まく黒煙の中の炎々とたちのぼる火焔を眺めながら、すぐに三四十年来しば〳〵母に伴はれて見物した文楽の隆盛期を想起したのである。名人越路(摂津大掾)津(先代)呂は広助、吉兵衛(何れも先代)玉造、紋十郎等と共に綾、染、文(今の津)若手としてのさの(越路)叶(清六)猿糸(友次郎)吉 (吉兵衛)などを□へて、稲荷の彦六にゐたこれも同じく名人の団平、弥(先代)大隅を中心に新進の伊達春子を加へた一大敵国に対抗して陣容堂々互に鎬をけづつて相争つたときの美観は、古い言草ながら、真に百花らんまんとして一時に咲き乱れたやうであつたが、その彦六の三巨頭まづ逝いて、近松座は廃せられ春子は病で、伊達が文楽に去つて以来一党散々、全く跡なきに至つた。更に文楽も又それに似た運命の下に漸々崩壊して、今僅に津、道八、文五郎その他により辛うじて命脈を保つてゐた悲境の上に、また又その孤城を烏有に帰せしめたのである。
 先月私は土堤下のゑち吉で、繁太夫の橋尽くしを聴いた。場所は八件や、曲はおなじみの紙治であるにも拘らず、三十余年前よく耳にした、あの腹の底まで浸み込むやうな、重厚で柔艶なものでなく、何となく上つ調子のよそ〳〵しい分子を含んでゐたのは必ずしも棹が細く、撥がやゝ薄手になつた為ばかりではあるまい。私はたゞ亡びゆくものゝ悲□としてその美を感じたに過ぎなかつたのである。義太夫三味線の棹細くなり行く傾きがあるとは、先年越路から聞いた話であるが、その点のみで繁太夫と一つに考へるのは妥当でないとしても少くともそれに近い□を近頃の文楽に得たと、告白せなければならないと私は悲しむのである。
 文楽は焼けた。それは爛熟期にあつたすべてのものが必ず行くべき道を暗示してゐるやうである。しかし明治の全盛が、徳川末における衰微期の試練を経た結果なることを思へば、来るべきものは真の滅亡でなく、焼野に萌え出る若草の、生気を養ふべき潜勢期であるかも知れない。否必ずその然るべきを信じて私はこゝに現存諸大家の覚醒と奮励とを切に望んでおく。(十一月廿九日記)
 
 新時代への文楽座
  石割松太郎