【 四世 竹本越路大夫 】

(2007.6.10補訂)

 

襲名披露口上  引退披露口上  引退舞台挨拶  参考:山城少掾引退披露口上

 

襲名披露口上[国立劇場]

 

[竹本相生大夫]

・・ご遺族のご了解を得まして、この初開場というおめでたい席にて、四代目竹本越路大夫を襲名いたすことにあいなりましてござります。この大きな名跡は久しくうち絶えておりましたるところ、ここに四十二年ぶりに越路大夫の名が復活をいたしましたことは、遺族をはじめ、三代目門弟の私といたしましてもこの上のよろこびはござりませぬ。なにとぞ、皆々様におかれましても、四代目竹本越路大夫に対し、旧に倍しお引き立てご鞭撻を蒙りまするよう、一重に乞い願いあげたてまつりまする。

これより寛治からご挨拶をさせていただきます。

 

[鶴澤寛治]

 私は三代目師匠にはひとかたならぬご恩に預かりましてござります。なお、私が二代目寛治郎師に入門致しますときに、御世話くださいまして、それより弟子同様かわいがっていただきまして、たびたびお稽古もしていただき、また、芸道の事について、薫陶もいろいろいただきました。芸は古今に稀な名人でございまして、なおまた楽屋内にては思いやりのある大変情け深い人でございました。実に立派な方でございました。この大恩人の師匠の名前がこのたび相続いたされましたことを大変にありがたいことと私は喜んでおります。この上は四代目さんが三代目師匠の芸才をこえられまして、立派な越路大夫になられますことをお願いいたしまして、私のご挨拶をおわらしていただきます。

これより喜左衛門よりご挨拶いたします。

 

[野澤喜左衞門]

 只今、兄弟子鶴沢寛治よりご挨拶申し上げましたが、私は烏滸がましゅうござりますが、越路大夫の名跡の世代を少し述べさせて戴きます。  初代竹本越路太夫は始めは三味線弾きでござりまして、鶴沢勝鳳と名乗りました、鶴沢勝鳳は之が初代でござります。  そのお方のご実子に三味線部でありまして鶴沢市次郎、その次に二代鶴沢勝鳳、その次に姓を改めまして、若干二十五歳でありますが野沢吉兵衞三代目を名乗りました。しかもその当時の大たてものでありました越前の大掾を弾かれました、大偉人でございます。  この人にしたてあげられました二代越路太夫は、はじめこれも三味線弾きでござりました。野沢亀次郎と申しましたが、天性の美声を見込まれまして、この三代目吉兵衞師匠にしたてあげられるのでございます。はじめの名は竹本南部太夫これが初代でござります。、只今席に連なっておりますのは、五代目でございます。その次に越路太夫二代目となられます。この人は明治ずっと義太夫界を風靡いたしまして、のちに師匠の春太夫六代目を継ぎまして、その次には小松の宮殿下から受領いたされまして、摂津の大掾となられます。大偉人でございます。  このお方のお弟子、三代目ははじめ竹本常子太夫、のちに竹本さの太夫、また改めまして六代目文字太夫を継ぎますが、只今席におります文字大夫は九代目でございます。その次に三代目越路太夫となられました。このお方は義太夫の中から生まれ出たような天性持って生まれたええお声でございました。また芸才は勿論のことでございます。この二代つづいて大名人が明治大正にかけて出ましたのでございます。  このたび四代目を継がせていただきますつばめ大夫はまだまだこれから一通りの勉強を要します、もとより芸道は一生をかけての修練を要します。なにとぞ、みなさまのお力によりまして、おしかりもいただき、また暖かいご指導もいただきまして、なにとぞ累代の越路太夫に連なりまするよう、立派に成育いたしますよう、お願いいたしまして、ご挨拶といたします   参考: 二代目鶴澤寛治郎著「野澤のながれ」

桐竹紋十郎よりご挨拶申し上げます。

 

[桐竹紋十郎]

人形部代表しまして、一言ご挨拶お願い上げます。右の豊竹つばめ大夫師このたびみなさまのお許しを受けまして、四代目竹本越路大夫に襲名いたいしましてございます。それで御霊文楽座の思い出でございますが、先代紋十郎師匠と三代目越路師匠がながらく舞台一緒にお勤めなさいました。そいで先へ紋十郎師匠がなくなられまして、あとから三代目さんなくなられまして、またあとから私が、未熟な私に名跡をおこさせていただきまして、また今度四代目がおきた、久方ぶりの顔合わせございます、名前の。芸はお互いにまいやあしまへんけど。そういう思い出がございました。どうぞこれから努力しまして、みなさんにお引き立てを蒙って、私のご挨拶・・

 

[竹本相生大夫]

 四代目越路大夫は幼少の頃より山城少掾の愛弟子でござりまする。師匠引退後主に私がどうこういたしまして今日にいたりましたようなことでございます。本人はご覧の通り体格もでき、芸道も近頃みるものがござりまする。なにとぞなにとぞ師匠同様御引き立てのほどをすみからすみまでずいとひとえに願いあげたてまつります。

 

引退披露口上 [国立文楽劇場]

[豊竹小松大夫]

 高席御免お許しを蒙りまして、ただいまより4代目竹本越路大夫引退披露ご挨拶を申し上げます。まずもちまして、ご来場の皆々さま御機嫌麗しく恐悦至極に存じ奉りまする。したがいまして文楽一座当四月公演を四代目竹本越路大夫引退披露ならびに国立文楽劇場開場五周年記念と銘打ちまして、開演いたしましたるところ、初日より今日千秋楽まで連日にぎにぎしく御来場をたまわりありがたく厚く御礼を申し上げます。

 さて、長らく、御贔屓お引き立てを賜りました四代目竹本越路大夫、誠にお名残惜しゅうはござりまするが、本日をもちましてこの六十有余年の舞台生活を終え、引退を致すことにあいなりましてござりまする。これまでのながながの御贔屓おん引き立てに対しここに改めまして厚く厚く御礼を申し上げます。まずはじめに竹本住大夫よりご挨拶を申し上げます。

 

[竹本住大夫]

 烏滸がましゅうはござりまするが、訥弁ながらご挨拶を申し述べさせていただきます。このたび四代目竹本越路大夫兄さんが引退されますこと、誠におめでたいことと存じまする。さりながら、ここに功成り名遂げての引退とは申せ、一抹の寂しいものがござりまする。 兄さんは大正十三年十二歳にて豊竹古靱太夫師匠に入門、豊竹小松太夫と名乗り、昭和十六年九月三代目豊竹つばめ太夫を襲名、昭和四十一年には、わが義太夫界におきまして尤も権威のある名跡竹本越路太夫の四代目を襲名され、以来その名跡にふさわしい立派な舞台のかずかずを勤められ、昭和四十六年には重要無形文化財保持者としての認定を受けられ、昭和五十九年には日本芸術院会員に推挙され、今回の引退を飾るにふさわしい立派な花道と存じまする。皆々さまにおかせられましても、文楽の番付面から越路大夫の名は消えましても、義太夫節の続く限り永遠に越路大夫の名は残るものと存じまする。どうか、いついつまでもお忘れなく、また跡に残りました大夫一同は全員力を合わせ芸道に精進いたす所存にござりますれば、どうぞこののちともよろしくご指導ご鞭撻お引き立ての程をお願いもうしあげまして、私のご挨拶にかえさせていただきます。

 

[豊竹小松大夫]

続きまして三味線部を代表いたしまして鶴沢燕三よりご挨拶申し上げます。

 

[鶴澤燕三]

 越路大夫さんとは六十六年のおつきあいにございます。生みの親よりも長いおつきあいでございます。ことに先代喜左衞門師匠が相三味線になられる前はよく弾かしていただきました。そのようなことが昨日のように思いだされます。このたび引退されますが、健康に気を付けていただいて、後進の指導をしてくださるようお願いして、簡単ではございますが、ご挨拶に代えさせていただきます。

 

 

[豊竹小松大夫]

続きまして人形部を代表いたしまして、吉田玉男よりご挨拶を申し上げます。

 

[吉田玉男]

 四代目竹本越路大夫のこの引退の花道を、私達人形部一同は惜別の思いで祝福申し上げる次第でございます。四代目は昭和の越路として皆々様にご愛顧いただいてまいりました。が、襲名以来この由緒ある名跡を一段と高揚され、また、文楽の発展に貢献してこられました。が、今日をかぎりにこの文楽劇場の舞台から去られることは、誠に残念なことでござります。越路さん、長い間の舞台でのご活躍、本当にご苦労さまでございました。これからは充分お体をおいといいただき、厳しいご意見番として後進の指導に尽力くださることを期待しております。皆様、こののちともにみなみなさまのかわりなきご支援の程をよろしくよろしくお願い申し上げまして引退ご披露のご挨拶にかえさせていただきます。

 

[豊竹小松大夫]

 ただいまは各部代表より心暖まる送別の言葉をいただき、またお客様には絶大なる拍手を頂戴いたし、越路大夫は勿論門弟一同感激をいたしおる次第でござりまする。この上は越路大夫が引退の後もどうぞこの文楽を旧に倍しての御贔屓おん引き立ての程をひとえに御願いあげたてまつりまする。

 

 

引退舞台挨拶 [国立劇場]

 

[竹本越路大夫]

 皆様、長い間本当にありがとうございました。六十有余年の舞台をただいま終えました。

 平成元年五月二十一日。これは私、終生忘るることの出来ない日になりましてござります。

 本当に長い間の御贔屓、厚く厚く御礼を申し上げます。

 感謝と感激で胸が一杯になりました。

 本当にありがとう。