FILE 12 附2

【 豊竹山城少掾引退披露公演プログラム抜粋 】

 1959.2 新橋演舞場
(2007.6.10補訂)
 
ご挨拶 大谷竹次郎
 
 早春、寒さ猶酷びしいにも拘りませず皆様におかれましては益々御健勝にて、何よりとお慶びを申し上げます。
 文楽人形浄瑠璃は昨年以来八ケ月ぶり久々の引越興行で御座います。殊に今回の上京は二つの大きな意義を持って居ります。
 翻って白井と私が、天明年間より永年に亘り経営して来られました植村文楽軒より人形浄瑠璃を譲り受けましたのは明治四十二年のことで、丁度今年で五十周年に相当いたします。
 それからの五十年間、摂津大掾・三世越路大夫から津・古靭・土佐の三巨頭時代更に山城少掾と幾多の黄金時代を送り迎えましたが、又一方筆舌に尽せぬ苦難にも度々遭遇いたしました。 然し幸いにも文楽愛好家の皆様の御高庇により、三年前には人形浄瑠璃発祥の地道頓堀に文楽座の新築移転を実現し、本年は華々しく五十周年を迎えることが出来、その記念公演を正月には大阪で、本月は御当地で開催し得ました次第でありまして 深く感謝いたしますと共に此の機会に更に躍進への第一歩を踏み出すべく一同心を新たに致し居ることに御座います。
 尚もう一つは櫓下豊竹山城少掾が既に新聞放送等で御高承の通り旧臘引退を声名いたしましたが、その引退披露を併せて執り行うことになった次第であります。
 山城少掾は明治・大正・昭和三代にわたり文楽座の床に坐り続けて七十年、「山城風」ともいうべき独自の語り口で一世を風靡し、秩父宮家より掾位を受領、芸術院会員に列せられ、重要無形文化財保持者に指定されるなど芸術家として最高の栄誉を一身に聚めて参ったもので文楽の至宝と申すべく、その引退は誠に惜しまれるのでありますが、病には勝てず且つは後身に道を拓くためであって、文字通り功成り名遂げての円満引退でありまして洵に慶祝に堪えない次第で御座います。
 引退披露の狂言は山城少掾極め付けの「二月堂」「合邦」「新口村」で絶体聴きのがせないものであることは今更私から喋々申し上げるまでも御座いません。その他は文楽が誇る名作名狂言を、御目見得、二の替り、御名残興行と三度替りの狂言建てで因会三和会合同にて格調の高いユニークな舞台を御清鑑に供えることになって居ります。
 何卒この記念すべき大舞台を御高覧いただきまして、我が国固有の伝統芸術「文楽」に対しお一人でも多くの御支持を御願申し上げます。
 
独自の芸術境 本間久雄
 
 私は、この程、茶谷半次郎氏著『山城少掾聞書』と題するものを読んで 一すぢに、その生涯を芸道に捧げた山城少掾の人となりに深く動かされた。
 山城少掾の語りぶりは、彼れ自身、「三味線とも離れてつく。声も無理な声をつかはない」と云ってゐる通り、どこまでも自然であり、坦々としてゐる。無論、大向をうならせようとするハッタリらしいところなどは、みじんもないのである。しかし、坦々と見えるその底には、彼れの語りつゝある作品そのものゝ世界を正しく表現しようとする彼れの芸術家的情熱が烈しく渦を巻いてゐるのである。彼れの芸は、云はゞ、いぶし銀のやうを、くすんだ、しかし底光りのする貴いものである。
 山城少掾ほど、「正本」といふものを大切にする人はないであらう。彼れは云ふ。「私は浄瑠璃は、節でなく、詞だと思ってゐます」と。詞を尊重することは白を尊重することであり、白を尊重することは、登場人物の性格を尊重することである。彼れは先づ丹念に、人物の性格を研究し、そしてすっかり作中の人物になり切って了ひ、作中人物と共に泣き、共に悲しみ、共に笑ひ、共に喜んでゐるのである。だからこそ、彼れの語るところを、ぢっと聴いてゐると、その一語一句、吾々の肺腑を突いて来るのである。
 今度は、彼れの東京におけるお名残興行であるといふ。私は惜別の念を抱きながら、心ゆくばかり、彼れの語りぶりに耳を傾けたいと思ってゐる。浄瑠璃といふ古典芸術を豊かに味ひ、正しく理解するために。そして又、永く後の世の語り草のために。
                      (筆者は早稲田大学名誉教授文学博士)
 
口上  [ 参考 1月文楽座公演引退披露口上]
 
 明治大正昭和の二代にわたり文楽の舞台を勤めた豊竹山城少掾がこの度引退致す事になりました
  八才より八十余才の今日迄 七十有余年芸道一筋に生きた日々芸道は一生が修業を地で行った人で 洵に苦しい生涯であったと思います 然し有名な摂津大掾の七十八を越す八十一才迄の舞台記録を作り 斯道最高位の紋下となり 日本芸術院会員に列し
  秩父宮家より掾位をいただき 重要無形文化財に指定せられ功なり名遂げての引退で まことに御目出度い事で 名手を失う事は寂しい事で御座いますが 心から御祝詞を申上げる次第で御座います
                 大谷竹次郎
 
 益々御機嫌麓しく大慶に存じ上げます 永らく御ひいきをいたゞきました私、前々より健康勝れずこの度引退を決意いたしました 七十有余年の舞台生活を去る事まことに心寂しく存じますが 後進に道をゆづり斯道発展を期する次第で御座います
顧りみますれば何一つこれと申す事も出来ませんでしたが文楽の一転機にある今日 私無き後もよろしく文楽の発展の為御支援の程御願い申上げます
                 豊竹山城少掾
 
 この度恩師豊竹山城少掾が引退いたす事に相成りました 永年指導をうけました 師匠が舞台を去られます事 肉身の惜別以上の寂しさを感じております いつまでも/\舞台に出ていたゞきたいのですが 然し師匠の健康を考えまする時今が引退の好時期と存じております
 就きましては今回、御当地で引退披露公演を催さしていたぎく事になりました。
 師匠の舞台の最後を立派に飾らせていたざさます様意義ある引退披露公演に絶大なる御後援を賜り度く御願いを申上げます
             豊竹山城少掾門弟 一同
               
 
引退する山城少掾こののちの希望 三宅周太郎
 
 昭和二十七年十月だった。私は文化財とNHKの「音のライブラリー」の依頼で、豊竹山城少掾(やましろのしょうじよう)の得意の「絵本太功記の十段目」と、「双蝶々」(ふたつちようちょう)の「引窓」とをロク音するために、彼が当時住んでいた京都の家を訪問した。するとそこへ綱大夫と弥七とが、その時に未公開だが、苦心してふしづけをした近松の「女殺油地獄」の「豊島屋」(としまや)を、山城に聞いてもらうためにやってきた。私も聞きたいのでさきにそれを語らせたが、山城はぢっと聞いていた。そして与兵衛がお吉を殺す中心になると、山城は三味線について手でひざをたたいていた。
 それがすむと「さびしいがいいものやな」といった。綱大夫はひたいの汗をふきなkがらにっこり笑った。私はこれを見て師弟が、ともに芸道に協力するたのしさを感じたのである。
 そのあとで私の用談になると、 山城は立って押入れから、古いよごれた昔の番附をとりだした。そして「引窓」をはじめて文楽座で語った故人の大夫をしらべていた。それからこんな番附は、みんな焼いたが、戦災のない京都にいる結果、このころは縁日の古本店で、よくこんな古い番附のほりだしものをするといってよろこんでいた。
 山城は十一才で二世竹本津大夫に入門、津葉芽大夫となって文楽座に出、明治四十二年に二世古靭大夫、終戦の翌々年山城少掾となって七十年の舞台生活をした。その間の功は簡単に語りつくせない。が、一方、前記の番附、文献を集めた功は非凡だ。戦災で焼失しても、このころは再び相当それらを集めたと聞く。同時にさきの綱大夫の近松物を聞いて、それとなく協力し、指導しているのを見るにつけ、功成り名をとげた彼には、この引退ののちは、人形浄るりのために、文献の研究蒐集と、後進の育成、指導に力をつくしてほしいのを望む。老いても彼のような過去の文化財のいいものを、見聞してきた名人は、この一九五九年には絶対に二人とはないからである。
 
深く頭をたれる 安藤鶴夫
 いつか、アメリカ流の満年令で数えたら、山城少掾はとんでもないといって、かたくなに昔乍らの数えどしで自分の歳を数えた。
 その時「折角、この歳まで歳を取ってきたのに、少くいうなんて勿体ない」といった。
 明治十八年、八つの時に東京の政子大夫というひとに手ほどきを受けて以来の年数を、そこで山城流の数え年で、一生懸命に一年一年を指でおさえて繰っていったら、今年で七十五年になった。山城少掾が義太夫節というものを習いはじめてからなんと七十五年になるのだ。
 山城少掾から私はさま/\なことを教わった。いちばん有難いと思うことは、当時マルキシズムなどというものが流行して、それを信奉しない学生などというものはてんで人間扱いを受けないという時代にあって、私は古靭大夫といっていた山城の芸に心酔して、学生時代に芸の有難さというものを骨の髄まで知らされたことである。シペリウスの音楽を聞くことと、クレールやデュヴィヴィエなどのフランスの映画をみることと、古靭大夫の浄瑠璃を聞くこととに、少しも不思議を感じなかった。これはどんなに義太夫節というものが立派であっても、どこかに屹度ひっかゝるものがあるであろうのに、古靭大夫というひとの芸が、凡そそんなものを感じさせなかったのである。御本人はそれをいわれるのを余り好まないようだが、山城少掾の芸は常にみず/\しく、常に新しい古典であった。それがいつでも、私を感動させたのである。
 三階席に駈け上る貧しい演劇青年の私に、もしも青春というものがあったならば、私の最も輝やかしいその青春時代を、山城少掾は六代目・菊五郎、七代目・可楽と共にほんとうに美しく、たのしく、きびしく、ゆたかにいろどってくれたまことに有難いひとである。
 深い感動を以て、御礼を申します。
 山城さん、有難うございました。(34・1)
 
豊竹山城少掾芸の歩み七十年
          大 西 重 孝 編
明治十一年(一才) 十二月十五日、東京浅草馬道で筆銀と呼ばれた筆職、金杉銀蔵の長男に生る。本名金杉弥太郎。父は生粋の江戸っ子であるが、母ゑいは大阪生れ、芸事好きの家庭で育った。
明治十四年(四才) 片岡我童(後の十世仁左衛門)の弟子となり、片岡銀杏と名乗り舞台に立つ。
明治十八年(八才) 竹本政子大夫に義太夫節の手解きをうけ、後に鶴澤清道の稽古に通う。猿若町で文楽の引越興行を聞いて感激、役者を止めることを決意。
明治二十年(一〇才) 一月、五世竹本津賀大夫に入門、竹本小津賀大夫と名乗り、翌年末まで寄席に出演。
明治二十二年(一二才) 六月、父と共に大阪に来り、二世竹本津大夫に入門、竹本津葉芽大夫と名乗る。十月、御霊文楽座の「鬼一法眼三略巻」大序に初めて名を列ねる。
明治二十三年(一三才) 十一月「苅萱桑門筑紫いえづと」の「高野山」で綾大夫の苅萱に対し石童丸を勤める。子供大夫の床は文楽軒芝居の開場以来初めにて評判。
明治二十六年(一六才) 三月、三世竹本大隅大夫、二世豊澤団平一座の太夫元だった神戸播半の養子となりその巡業に参加。没落した彦六座再興の計画が養父の死で挫折。
明治二十七年(一七才) 三月、稲荷座開場。大隅大夫らについて参加、九月限り退座。
明治二十八年(一八才) 四月、金杉家に復籍文楽座へ復帰する。
明治三十一年(二一才) 四月一日、二世団平没。十一月、鶴澤叶(後の三世清六)大隅大夫の相三味線となる。
明治三十四年(二四才) 九月、師匠津大夫の「伊勢音頭」の「油屋」に対し初めて「中」を語る。三味線は四世鶴澤綱造。
明治三十八年(二八才) 十月、大隅大夫、清六一座に加入、北海道地方巡業。
明治四十年(三〇才) 一月より東京各席に出演。この間浄瑠璃の大通杉山其日庵の許に出入し、永く芸の啓発をうける端を開く。十一月、文楽座に帰参。
明治四十二年(三二才) 四月、文楽座の経営植村家から松竹合名会社に移り第一回興行津葉芽大夫から二世豊竹古靭大夫を襲名、摂津大掾の「先代萩」の「御殿」に対し中(竹の間)を語る。三味線三世野澤勝平。六月から大隅大夫を弾いた三世清六を相三味線に迎え、その厳しい薫陶をうける。
明治四十五年(三五才) 四月、「妹背山」の「山の段」に久我之助初役。大判事は三世越路大夫、雛鳥三世南部大夫、定高摂津大掾、三味線六世吉兵衛、六世広助という大顔揃い。五月「忠臣蔵」の「殿中」を語って序切語りとなる。七月二十三日、七世綱大夫(元の二世津大夫)没。
大正二年(三六才) 六月、附物「壷坂」を初役で語る。七月三十日、三世大隅大夫没。
大正三年(三七才) 五月「先代萩」の「植生村」を語って二段目語りとなる。九月「流しの枝」初役。
犬正四年(三八才) 二月、三世越路大夫文楽座櫓下となる。同月「饅頭娘」四月「柳」六月「引窓」十月「扇ヶ谷」初役。
大正五年(二九才) 四月「野崎村」初役。十月「狭間合戦」の「壬生村」を語って三段目語りとなる。十月「又助住家」初役。
大正六年(四〇才) 「葛の葉」初役。十月九日、摂津大掾没。
大正八年(四二才) 二月「大功記」の「尼ケ崎」越路大夫の代役を三日間勤める。三月「袖萩祭文」初役。
大正十年(四四才) 一月「堀川」二月「渡海屋」五月「二月堂」十月「河庄」初役。
大正十一年(四五才) 一月「本下」初役。一月十九日、三世清六没。四月、二世豊澤新左衛門相三味線となる。六月「沼津」十月「博多小女郎浪枕」の「柳町」初役。
大正十二年(四六才) 一月「大功記」の「尼ケ崎」初役、立狂言の切場を語る。十月、徳太郎改め四世鶴澤清六相三味線となり「勘平腹切」初役。
大正十三年(四七才) 一月「道明寺」初役。三月十八日、三世越路大夫没。五月、三世竹本津大夫文楽座櫓下となる。九月「長局」十月「綿繰馬」十一月「沓掛村」初役。
大正十四年(四八才) 一月「勘助物語」二月「寺子屋」五月「毛谷村」十一月「合邦」初役。
大正十五年(四九才) 一月「陣屋」二月「鰻谷」十一月「炬燵」初役。十一月二十九日文楽座出火全焼する。
昭和二年(五〇才) 一月から文楽道頓堀弁天座で仮宅興行。
昭和三年 (五一才) 二月「岡崎」六月「一力」の由良助初役。
昭和五年(五三才) 一月、四ツ橋元近松座を改築して文楽座竣工記念興行、「鬼界ヶ島」を復活上演。これより津・土佐・古靭の三巨頭時代始る。十月「春日村」初役。
昭和六年(五四才) 三月「川連館」五月「弁慶上使」十月「酒屋」初役。
昭和七年(五五才) 一月「新口村」初役。
昭和八年(五六才)二月「質店」四月「鮓屋」五月「飯原館」六月「宮守酒」十月「妹背山」の定高初役。
昭和十年(五八才) 一月「道明寺」「桜丸切腹」「寺子屋」を津・土佐・古靭で競演。「直江屋敷」を復活。
昭和十一年(五九才) 六月「獅子ヶ城」九月「扇屋熊谷」初役。
昭和十二年(六〇才) 八月より文楽座ニュース館となり、文楽一座は北陽演舞場、新町演舞場に出演。
昭和十三年(六一才) 五月より四ツ橋文楽座に帰演。十月「道春館」初役。
昭和十五年(六三才) 三月「喜内住家」四月「金殿」十一月「重の井子別れ」初役。
昭和十六年(六四才) 四月二日、六世土佐大夫没。六月「吉原揚屋」初役。七月七日、三世津大夫没。
昭和十七年(六五才) 一月、文楽座櫓下となり、披露狂言「陣屋」九月「伊勢音頭」十月「十郎兵衛住家」初役。
昭和十九年(六七才)一月「御殿」初役。三月高級劇場閉鎖から文楽座除外さる。三月、芸術院賞をうけ、四月、受賞記念に「獅子ケ城」。八月「兵助内」初役。
昭和二十年(六八才)二月「陣屋」を語ったのを最後として、三月十四日、文楽座空襲の際全焼。七月、朝日会館で復興公演、「堀川」を語る。十二月まで続く。
昭和二十一年(六九才) 二月、四ツ橋文楽座復興、その記念公演に「堀川」を語る。十月。芸術院会員となる。
昭和二十二年(七〇才) 三月、御殿場秩父宮邸で山城少掾藤原重房の掾位を受領し「道明寺」を演奏。五月、受領披露に「陣屋」。六月十四日文楽座に行幸「重の井子別れ」を御前演奏。
昭和二十三年(七一才) 五月、文楽座に労働組合結成され、松竹との交渉不調となり、十月限り公演の見通したゝず。十二月、文楽座因会発会、文楽一座二派に分れる。
昭和二十四年(七二才) 一月公演。組合問題で纏らず。三月、山城少掾、文五郎芸術院会員となった記念興行「千本桜」通しに「鮓屋」を語る。同月三十一日、芸能関係芸術院会員として宮中に招かれる。
昭和二十五年 (七三才) 一月、因会派単独で文楽座公演なる。「酒屋」、「新口村」の孫右衛門を語り、相三味線竹澤弥七に代る。三月二日、行幸記念「重の井」の総稽古後高血圧のため休演、以後静養する。
昭和二十六年(七四才) 一月、病気回復「長局」の尾上で出演、お初は綱大夫。
昭和二十七年(七五才) 一月、清二郎改め鶴澤藤蔵を相三味線に迎える。
昭和三十年(七八才)二月重要無形文化財保持者に指定。三月、東京歌舞伎座における国家指定芸能特別鑑賞会に「草履打」の岩藤を語る。尾上は綱大夫。四月、「長町女腹切」の「伽羅屋」を語る。十一月、四ツ橋文楽座訣別興行、「喜内住家」を語る。
昭和三十一年(七九才) 一月、道頓堀文楽座竣工記念興行「十種香」、「三番叟」の翁を語る。二月、途中より病気休演。十一月、病気回復、「一力」の由良肋。
昭和三十二年(八〇才) 五月「博多小女郎」の「心清町」の惣左衛門を語る。九月、文楽合同公演なる。「三番叟」の翁。
昭和三十三年 (八一才) 十一月「一力」の由良肋にて大阪市民文化祭芸術賞をうく。十二月四日、引退声明。
昭和三十四年 (八二才) 一月、大阪文楽座、二月、新橋演舞場にて引退披露公演を行う。
 

引退声明文
 私は明治二十二年、十二の年に法善寺の師匠として令名高かった二世竹本津大夫師を頼って東京から来阪、同年十月御霊文楽座の〈鬼一法眼三略巻〉の大序に竹本津葉芽大夫として名をつらねさせていただきました。早いもので来年は以来丸七十年になるのでございます、当時はわが師津大夫や摂津大掾、三世越路大夫等々の名人相次ぎ、浄界百年の歴史にも数少い黄金時代でございまして、この時に修業期をおくり得ました私は、真にしあわせ者と申さねばなりません。しかも菲才の身をもちまして長く櫓下に名をとどめ掾号を受領し、芸術院会員にもえらばれましたること、身にあまる次第にございます。とは申せ、七十年に及ぶ床の生涯には、苦しいこと、悲しいことも多々ございました。中でも十年前の因会、三和会の分裂さわぎは私のもっとも痛恨事としてまいったのでございますが、このことさえも昨年九月の合同公演以来、毎興行床や手すりを共にいたしまして、今や九分九厘解決と申せる域に達しました。
 ふたたび申します、私は幸せ者でございます。ところが、ここ数年来、とかく病いがちにて充分に櫓下としての責を果し得ませず、しばしば引退のことを思って参ったのでございますが、あたかもよし、明年は松竹の白井、大谷さんがこの文楽座人形浄るりを植村家より譲り受けられましてから丸五十年に相成り、当る初春にはその記念興行が行われます由、二度と参らぬ絶好の機会と引退を決意しました次第でございます。この決意は今回がはじめてでなく過去数回にわたって大谷会長までお願いに及んだのでございまして、その都度、慰留されて参りましたが、今回は私の決意も固く、会長もねんごろなお慰めの言葉とともに、遂に御了承下さいました。ここに私七十年坐り続けました床を降り、以後は後進修業の手助けに微力を致すことにございます。その間全国にわたりまして何万何十万と知れぬごひいき様方の御愛顧御声援をこうむって参りました。ただただ感涙にむせぶのみでございます。
 最後に三度申します。私は幸せ者でございました。
                                 豊竹山城少掾
 昭和三十三年十二月四日  (『綱大夫四季』による)

山城少掾引退披露口上(1959.1文楽座)  参考:越路大夫引退披露口上
前列上手から 綱つばめ相生喜左衛門若難波掾山城清八藤蔵紋十郎弥七雛土佐津
後列 松島綱子十九織の南部和佐長子古住織部弘津の子小松伊達路
 
東西、東西、
 
[竹本津大夫]
 高席御免お許しの蒙りまして、只今より豊竹山城少掾引退ご披露ご挨拶を申し上げたてまつりまする。ご来場のいずれも様方、ますますご機嫌麗しく、昭和三十四年の新春をめでたくお迎え遊ばされ、恐悦至極に存じ奉りまする。したがいまして、当文楽座初春興行を因会・三和会合同にて開演いたしましたるところ、初日より連日、かく満場にご来場なしくだされ、ありがたく厚く御礼を申し上げ奉りまする。
 さて長らくご贔屓を賜りましたる、豊竹山城少掾に最近健康すぐれませず、引退の時期を考え居りましてござりまするが、本年は植村文楽軒より松竹会社の手に移りまして、ちょうど五十年の記念すべき年に当たりまするので、是を期に引退を決意いたしましたる次第にござりまする。
 豊竹山城少掾は、明治十一年東京浅草に生まれ、明治二十二年十二歳の時大阪(おおざか)へ参りまして、二代目竹本津太夫、俗に法善寺の師匠と申しましたる方に入門、津葉芽太夫と名乗り、大序(だいじょう)に名を連ね、御霊文楽座におきまして初舞台を勤めまして、明治四十二年三十二歳の時に二代目豊竹古靱太夫を襲名、爾来明治、大正、昭和の三代に亘りまして、皆々様方のお力添えをもって、七十有余年の舞台を勤め、今日に到りましてござりまする。
 
[豊竹つばめ大夫]
 昭和十七年には文楽座の櫓下となり、二十一年には芸術院会員、二十二年には秩父宮家より山城少掾藤原の重房の掾位を受領いたしましてござりまする。なお同年の六月十四日、四つ橋文楽座におきまして、天皇陛下の行幸を忝のうし、天覧の光栄に浴しました次第にござりまする。
 なお、三十年には第一回無形文化財保持者といたしまして、国家の認定を受け、その独自の芸風は後世長く伝えられることと存知まする。この立派なる師匠により、われわれ今日ありまするには一重に恩師の薫陶のたまものと常に感謝をいたしておる次第にござりまする。
 
[竹本綱大夫]
 えー、山城少掾の引退は功成り名遂げての引退と存じまするが、八歳の時より、八十余歳の今日まで、舞台生活、実に七十有年、その間、厳しい厳しい修行時代を経まして、長年の苦闘が実を結び、義太夫界におきましては最高の栄誉を勝ち得たのでござりまするが、一方、家庭におきましては、はなはだ恵まれざる悲しい不幸の数々、この悲しみにもよく耐え忍びまして、ただ芸道一筋に今日まで生きて参りました山城少掾にござりまする。お名残惜しくも当興行をもちまして、この舞台を去りますことは、誠に、感慨無量のものがござりまする。なお、私どもにとりましては、肉親の惜別以上の寂しいきわみにござりまする。
 この大きな柱を失いまするわれわれ、向後は先輩[・・・・ ]各ご贔屓様がたのご意向、ご厚意にお力添えに縋り、ますます芸道に精進つかまつりますればなにとぞ、この日本固有の古典芸術文楽人形浄瑠璃のますます発展隆盛と相なりまするよう、いついつまでも、御見捨てなく幾久しくお贔屓お引き立て御後援の程を門弟一同謹んで一重に乞い願いあげたてまつりまする。[柝][拍手]
 
[豊竹若大夫]
 えー申しあげるまでもなく本興行は斯界の長老豊竹山城少掾師匠の引退を記念いたしましたる大公演にござりますれば、なにとぞ千秋楽の当日までお贔屓おん引き立ての程を一重に乞い願いあげたてまつります。[拍手][
 
[アナウンサー]
客席には去る人を惜しむ涙さえみられる口上の舞台でございました。山城の少掾を中央にずらりとしたいました山城の少掾ゆかりの人々。送る者送られる者胸中の感慨もひとしおとおもわれます。ただこの中に文楽を支えるもう一本の柱、病気休演の難波掾吉田文五郎の姿の見えなかったのはちょっとさみしくもありますし、文五郎さん自身もさぞ残念なことと・・・(浄曲窟の音源による)

提供者:ね太郎