自序
回顧すれば著者が義太夫節に趣味を持ち初めたのは齢二十二、笈を負うて上京し、神田の下宿屋の一室で、しきりに権利義務の研究に頭を悩まして居た明治二十四年の比よりの事にして、当時の東都の義太夫界は、夫の「八丁泣かせ」の綽名を取つた初代綾之助の全盛時代で、若竹[本郷]立花[神田連雀町]小川[神田]等の各席に綾之助の招牌が懸るとなると、若い−客気な書生連中は狂喜して押し懸け、詰め寄せ、連夜の満員、為めに八町四方の附近各席は、心細いほどお客の頭数が減じたとまで云はれたほどの人気を作つて居たのであつた。
綾之助の全盛は、彼が男装せる若衆髷の少女時代より、文金島田の妙齢時代に渉り、可なりに長く続いたのであるが、此の全盛闊歩の綾之助に対し、新に大阪より上ぼり、女に稀な堅実な語り口を以て、堂々正面より対抗競争を始めたのは竹本小清である。小清の外には小政あり、素行あり、加之、大阪名古屋あたりの女義中、続々上京して初上り初お目見えの看板を上げるあり、中にも熊梅、小土佐、土佐玉等はなか/\の人気を博したものにして、此外東京出の若手の人気者としては、越子あり、住之助あり、孰れも大小多少の贔屓連−彼等の一顰一笑を無上の光栄として、俥の後押しまでして其の尻を逐ひ廻はす所謂堂摺連−擁護党を有し、各々対峙して人気を作興して居たのであツて、当時著者も、折折小川亭や若竹などに出かけては、綾之助も聴き、小清も聴き、越子、住之助、小土佐等も聴き、併せて莫迦/\しい堂摺連の堂摺振りも見て、而して徐々義太夫趣味に親み初めたのでありし。
言ふまでもなく明治以前の江戸の義太夫節は洵に憫れなものにして、維新当時までは、外神田に薩摩座あり、久松町に結城座あり、[結城座は明治十年頃に退転したやうに聞くのであるが、薩摩座の没落したのは孰時比であつたか判然しない。]細々ながらも操り芝居の興行をも試み居たりしが如しと雛も、都人の多くは「義太夫節など無粋極まるもの−隠居翁媼の余閑潰しに聴くべきもの」として之を遇し、殆ど顧眄だも与へざるくらゐの有様なりし。されど明治も十年と経ち、二十年と過ぎ、往時の江戸的気分は変じて明治的気分となり、東京ツ児的気風となり、其の趣味、其の好尚、まさにやうやく一変せんとするの時に際し、偶々青年客気の書生連の歓呼喝釆に迎へられて流行し出した娘義太夫が、端なくも斯の趣味鼓吹の動機となり、誘引となり、明治の二十八年には神田の表神保町に、新声館なる操り芝居の定小屋まで創建さるゝほどの変調的機運に向つて来たのであつた。
新声館一座の顔振は、綾瀬太夫を頭領として播磨太夫あり、織太夫あり、津賀太夫、駒太夫,識太夫、新呂太夫[即今の呂太夫]あり、三絃には豊吉あり、紋左衛門あり、大造あり、團八、廣兵衞、新兵衞、寛三郎あり、其の伎其の芸、孰れも押しも押されもせぬ立派の顔振なりしと雖も、当時の人気の目標は、芸では無くて容姿であつた。聴くのでなくて見るのであつた。 露骨に云へぱ男でなくて女であつたのである。されば操り芝居は創立されたりと雖も、一座の人気は一向に寄らず、幾もなくして閉座し、閉座後の一座は別れて各寄席に出演して居たのであるが、無論其の人気も馨しくはなかつたのである。
当時著者は幾回か新声館に一座の浄瑠璃を聴いた。綾瀬太夫には敬服して了つた。女太夫の甲走つた−せゝこましい節廻しばかりを渇仰して居た著者も、播磨太夫ののんびりとした美調妙音に接するに至つて、思はず嘆美の声を放つたのである。織太夫も良し、識太夫も良かつた。殊に識太夫の巧緻な語り方には、あの小音、あの悪声を以て、能くも斯くまで語れるものだと、同情的感嘆を禁じ得なかつたのでありし。
此時よりして著者の義太夫趣味はやうやく其の根柢を下ろし始めたのであツた。爾来各席をめぐつては、綾瀬太夫の『宗玄庵室』も聴いた。『嬢景清、日向島』も聴いた。播磨太夫の『博多小女郎』も聴いた。『大文字屋』も聴いた。而して回一回と了解も深うなれば、著眼点も得要領的となり、幾もなくして茲に大々的義太夫節崇拝者の一人が出来上る事となつたのである。
雖然、今にして惟みれば、当時の趣味と云ふも、崇拝と云ふも、実は一種の盲信的な−直覚的な−至極幼稚なものにして、義太夫節なるものゝ起源も知らなければ沿革も知らず、語られて居る正本が誰の手に成つたものか−語るに就ての苦心がどんなものか−研究の要点が那の辺に存するか−彼も此も一切御存じなしにして、さしたる理由もなければ、深い了解とてもなかつたのでありし。
然るに明治の三十年頃なりしと思ふ、一日神田の書肆を猟つて居ると、偶然にも『声曲類纂』一部を発見した。読んで見るに如何にも面白い、浄瑠璃節の始原より、木偶三絃の来歴−太夫の列伝−古き芝居の面影など、凡ゆる著書、雑記、随筆の類に至るまで、斯道に関するものとし云へぱ悉く摘録類纂し、原本の古書類までも転写されて在り、斯道研究の資料としては、洵に便利にして趣味多き好著であつたので、著者は此時恰もゆくりなき探険の途次、千古密鎖の一大宝庫にでも探し当てたやうな歓びと満足とを以て、驚喜したのであつた。[後にして思へば『声曲類纂』たる、夙に声曲愛好家の熟知の書にして、大阪辺の書肆には、随所に之を発見することを得る程のもので、別段珍書とか秘本とか称するほどのものではなかつたのである。]
爾来著者の義太夫研究慾は、非常な速度と熱度とを以て進んだのである。上野の図書館に通うては、先づ『声曲類纂』に引用されて居る各書の原本を通読して見て、又新たなる感興に耽けるのであつた。浄瑠璃−操り芝居−近松研究に関する新しい著述類は、猟りに猟つて渉読して見たのであつたが、這は又洵に寥々にして、僅に[塚越停春楼主人著]『近松門左衛門』 [高野辰之氏著]『浄瑠璃並に操略史』 [小中村清矩氏著]『歌舞音楽略史』 [寺山星川氏著]『浄瑠璃史』 [大槻如電氏著]『俗曲の由来』位のものにして、之れには少からざる失望と不満足とを感ぜざるを得なかつたのでありし。
されど斯くして著者の研究も次第に秩序的となり、温故的となり、理論的となり来るに従うて、又新たなる別種の研究慾が湧いて来たのである。浄瑠璃元来声曲である。既に声曲であり、語るべきものでありとすれば、今一歩実地に蹈み込んで見て、親しく稽古もし、語つても見ねば、真個斯道の真諦に悟入し、妙味を噛み分くると云ふことは、出来ないのではあるまいか………と云ふ一種の感じに捉へらるゝに至つたのであつた。
一日芝の烏森を通りかゝると、しきりにデン/\の音が聞える。表札には竹本井筒太夫とあり、稽古屋らしい。そゝり立つやうに動いて来る新しい研究慾に吸ひ附けられて立ち止まった著者は−幾回か躊躇の末−勇を鼓して門をくゞり、稽古志願の意を通ずると、訳もなく承引された。而して早速 『三日太平記』の松下住家………これがそもそも著者が斯道に足を蹈み込んだ初めにして、実に明治三十一年の秋の比であつたと記臆する。
井筒太夫は曾て文楽座に在り、越路太夫の弟子にして越磨太夫と称したのだと聞いた。[無論左したる腕前の太夫では勿ツたのである。]中途不平を起して廃業したが、三十一年上京、当時素人となつて居た和玉[此の人は芝の鱗−日本橋の和玉とまで並び称せられ東京素義界にては東西の大関と立てられた程の人である。]の先名を継いで井筒と称し、看板も上げて見たれど思はしからざるより、退いて稽古所を開くと云ふことになつたのださうで、稽古所を創むるに付いて入門して力を添へたのは、先頃死んだ杉贋阿彌氏[当時毎日新聞の劇評欄を担任して居た。]及贋阿彌氏の同人条野氏[採菊氏の息だと聞いた、当時やまと新聞に在りし。]外一人で、著者が入門したのは、稽古所創始後まだ二箇月とも経たぬ頃であつた。
弟子の顔振が右の通りであり、師匠は兎に角太夫出なり、殊に贋阿彌氏のやうな、型もの−デン/\ものと来ては、指を折られたほどの劇通家もあると云ふ次第なれば、稽古の振合も、普通常例の遣り方とは大に趣を異にし、兎角理窟が多い。斯々の意味なれば斯う語る−此の意味なればこそ斯うも発音する−イヤ斯う云ふ意味なるべし−ナニそんな意味ぢや無いなどと、研究が始まる。議論が始まる。誰某は斯う語つた−某太夫の語り口は斯うであるなどと、碌々浄瑠璃も語れもせぬ癖に理窟だけは一廉の大家振り、夫は/\ 賑かなことで……爾後稽古所の位置は二三度移転したが、著者は通じて四箇年ばかり稽古した。条野氏は長くは続かなかつたやうだが、贋阿彌氏は二箇年ばかりも続いたやうに思ふ。 此の間に於て著者は、浄瑠璃正本の真価たる、読んでの面白味よりは、語つての興味にして、文の美も−構想の妙も、語り活かされてこそ一層の妙もあり、一段の味も発揮し来るものなることを、較々了悟することが出来だのでありし。 [井筒太夫は其後東京を去り、大連に渡り、稽古所を始めて居たさうであるが、夫れより朝鮮に渡り、元山あたりに放浪の末、病歿したとの事である。]
其後暫く稽古も中絶したが、明治の三十六年であつたと記臆する。著者一日民事に関する先例調査の必要があり、司法省の民刑局に田中氏[氏に著者の古い友人にして局の古参属官なりし。]を訪問すると、机の上に一冊の義太夫五行本が置かれてある。どうしたのかと聞けば、稽古を始めたんだと云ふ。良い師匠があるかと云へぱ、祖太夫[即今の呂太夫]に教はつて居る−どうだ始めたら−宜しい−斯うして又始め出したのである。
祖太夫に就ての稽古の期間は余りに長くはなかつたが熱心に通つた。而して獲る所は多大なりし。祖太夫の伎倆の優れたる、無論井筒などゝは比較にはならないのであるが、稽古の仕方も亦一段と立優つて居つた。浄瑠璃を語る呼吸−発音の工合など、丁寧親切、細かに手を取るやうに教へて呉れる。文句を語り殺すな−文章の意味を語れと云ふことなど、幾多豊富な例証−さま/\な実歴談など打ちまぜて、嚼んで含めるやうに説き明して貰うたのであつた。著者の義太夫研究の今日ある、たしかに此の間に得た幾多啓発的の教訓に負ふ所多いのである。
著者が斯道に関する閲歴は概略以上述ぶる所の如し。無論左したる修練を経たと云ふでもなければ、又左したる研究を積んだと云ふのでもなし。云はゞ幼稚園の鳩ポッポ/\の組で、未だ/\尋常科の一年生とまでも往き兼ぬる未熟者である。今でこそ著者も、偶には衆人稠座の前で、臆面もなく−未熟な−生硬な−浄瑠璃の一節をも語ツて見ることもあるのであるが、過ぎし十有幾年間の役人生活時代には、唯モー官吏の体面と云ふ事ばかりを顧念して、発するよりは黙する方で−語ツて楽むと云ふ事よりは、研究したり、穿鑿したり、書いて見たり、調べて見たり、独り自ら楽んで、感懐を遣ツて居たのでありし。
本書は畢竟著者が過去幾年かの間に独り自ら楽んで試み来ツた研究余録の集成にして、折に触れ、輿に乗じ、きれ/\ながらも一枚二枚と書き溜めて置いた、断片小録の集成である。いよ/\上梓して世に問はんと決心してより、又改めて増補の筆をも加へたのではあるが、無論新奇もなければ独創の見もなし。 唯冗々と解り切つた事を並べ立てゝ見たまでのものにして、上下二巻に分冊したが、上巻には主として浄瑠璃及操芝居の起源興廃の蹟を叙し、下巻には主として浄瑠璃を語ると云ふ事の意義、語り方の理論、声音練習の意義と理論、節の解、稽古の心得等に就いて論じて見た。
本書の上巻に就いて著者は、同じ浄瑠璃の歴史を書くにしても、出来るだけ斯道好者の渇仰点に触れて見たい−どんな太夫−どんな作者−どんな木偶遣ひが出て斯界を左右したか−声の美で喝釆された太夫は誰−情を語つて成功した太夫は誰−新作正本も絶え/\になつた文化以降の斯界−操り芝居としての営業上の盛衰から見た斯界等、苟も斯道好者の渇仰を医すべき廉々に就いては、出来るだけの努力と注意とを払うて、本書をして、多少でも斯道に指を染めたものゝ書いた浄瑠璃史たるの特色を有たせたいと期待したのであつた。
杉山其日庵主人は著者に訓へて云「義太夫節以外の浄瑠璃には皆夫れ/\家元がある。 常盤津爾り、河東節爾り、清元爾り。何を語ツても、皆等しく其の家々の流風に語り化して仕まうのであるが、義太夫節だけは左様には参り難し。東風、西風と、大様語り風には区別ありと雖も、一段/\、其の浄瑠璃の書き下ろされた当時−語り初めた太夫の流風−語り口によツて違ひがある。『太功記』の十段目は麓場とて[初代]麓太夫の語り初めたものなるが故に、十段目を語るとなると、此の太夫の遺風に従はねばならず、『本朝二十四孝』の十種香は、鐘太夫の語り初めたものなるが故に、十種香を語るとなると、亦此の太夫の遺風に従はねばならないのである。 何程上手に語り、どれ程巧者に語ツたところで、『太十』を語ツて麓場らしき気分が出ず、『十種香』を語ツて鐘太夫らしき気分が浮んで来ないとなると、『太十』を語ると云へず、『十種香』を語るとは云へない。『忠、九』は此太夫風と限られ、『爪先風』は駒太夫風と自ら約束あることは誰も知る。されど現下の太夫中、此の意味よりして一々語り物を吟味研究し、夫々区別合点して語り別けて居るものが幾人かある。 孰れも瞽滅法な−各自勝手な語り方をして、得意がツて納まつて居るものばかり、実に嘆すべし。 須らく君の著書には、克く/\此の点を注意すべし」云々 実に至言である。著者も此の意味に於て、出来るだけ本書上巻−興行年表の旁引として、努めて書き下し当時の、各太夫の持場/\の役割りを附記細註し、此種肝要な−興味のある−考量研究の資料に供せんと企てゝは見たりしと雖も、穿鑿不行届の廉々多々にして、折角の示教に背く所多きを遺憾とするのである。厳格なる意味より云へぱ、西風の浄瑠璃を東風に語るのも外連なれば、東風の浄瑠璃を西風に語るのも外連である。麓場を駒太夫風に語るのも外連なれば、此太夫場を麓太夫風に語るのも外連である。毎段夫々、語り初めた太夫の流風を襲いで、各別各箇の趣を持たせて語り活かして往ツてこそ、其処に云ひ知れぬ斯道の妙味が存するのである。 此の意味よりして著者は、更に大に穿鑿研究の歩を進め、他日本書再刻の機もあらぱ、凡ゆる語り物に就いて−書き下ろし当時の太夫−各太夫の語り口と流風を詳説し、斯道好者の参考に資するところあらんと、今よりして予め所企して居るのである。
若夫れ本書の試みにして多少にても斯道好者の推賞に値するものがあり得るとすれば、Xは下巻なるべし。著者は本書の下巻に於て理論的に−解剖的に−将又綜合的に、浄瑠璃語り方に就いての凡ゆる要項を詳論した積りである。 従来此の種の著述としては『浄瑠璃早合点』あり、『浄瑠璃秘曲抄』あり、『音曲両節弁』あり、『章句故実集』等ありと雖も、いづれも古い/\秘伝書やうのものにして、説いて詳しからざれぱ徹底せず。著者は此の点に就いて、出来るだけの注意を集中し−所信を披瀝し、斯道同好者の批判に訴へて居るのである。
思ふに文は節に活き、詞に活き、節も詞も共に語り人に依つて語り活かさるゝものなりとすれば、近松の妙文も、半二、松洛、宗輔、出雲等の傑作も、読んだばかりでは真の美−真の妙は味ひ難し。畢竟語ツて見ての妙味である、真諦である。 現下の素人浄瑠璃の流行せる大阪加島屋一軒にて刷行する稽古本だけにても、一年七万冊に上ぼると云はる。実に空前の盛況にして著者が自ら揣らず此の著を公刊するに至ツたのも、以て斯道の好者に問ひ、相共に研鑽して、斯の楽みを盛んにせんと欲するの意に外ならないのである矣。
大正六年晩秋
大連朶八庵に於て
著者 木芳識